2016年8月 3日 (水)

カメラ?カメラ!カメラ?!―計算をはじめた未来のカメラたち

■ 書籍情報

カメラ?カメラ!カメラ?!―計算をはじめた未来のカメラたち   【カメラ?カメラ!カメラ?!―計算をはじめた未来のカメラたち】(#2558)

  児玉 和也 (著), 財部 恵子 (著), 国立情報学研究所 (監修)
  価格: ¥821 (税込)
  丸善出版(2016/4/1)

 本書は、「コンピュータを駆使した画像処理技術によって、あたかも撮影現場に戻って撮影し直すように、撮影後に視点や焦点を自由に変えることができるカメラ」である「撮影現場に戻るカメラ」について解説したものです。
 第1章「ピンホールの魔術からレンズの科学へ」では、「ピンホール現象を解析し、カメラ・オブスキュラを初めて考案したのは、10~11世紀のアラビアの学者イブン・アル・ハイサム(アルハーゼン)」であり、「目を傷めずに太陽を観測できることから、おもに天文学者たちが日食の観測装置として使うように」なったと述べています。
 そして、フェルメールの作品に、レンズ付きカメラ・オブスキュラを使ったと思われる特徴があるとして、
(1)レンズを通して見たときに生じる微妙な歪みが描かれていること。
(2)キャンバス全体を包み込むようなやわらかな光の表現においても、反射、拡散する無数の光の粒を描き、人や物の輪郭がぼやけて溶けていくようなレンズ特有の現象が描かれていること。
の2点を挙げ、「おそらくフェルメールは、私たちが見ているはずの世界をレンズという科学を通して再発見し、忠実に芸術として再現しようとしたのでは」ないかと述べています。
 第2章「カメラの誕生と進歩」では、基本的な画像処理技術として、
(1)画素ごとの処理、暗すぎる画像を明るくしたり、明るすぎる画像を暗くしたりといった技術が含まれる。
(2)隣り合う画素同士の処理、ぼけをきれいにしたり、解像度を上げたりする技術。
(3)画像データを小さく圧縮する技術。
の3点を挙げています。
 第3章「計算をはじめた未来のカメラたち」では、「撮影現場に戻ってもう一度撮影し直すような作業を、『画像処理』としてできないだろうか。もし実現できれば、これまでにない『未来のカメラ』の技術につながるのではないか」と開発の動機を説明しています。
 そして、「光を効率よく利用して、イメージセンサの実質的な感度アップために役立つ」技術として、「口径が数~数百マイクロメートルの超小型レンズが格子状に並んだもので、これをイメージセンサ上にピッタリ配列すると、本体のレンズとは別に1画素ごとに小さなレンズをかぶせた格好となり、感光部にほぼすべての光が集まるようになる」、「マイクロレンズアレイ」について解説しています。
 また、レンズが担ってきた、「イメージセンサ(あるいはレンズ)を前や後ろに動かすことで、好みの場所に焦点を合わせる」機能を、「コンピュータによる計算で実現してしまおう」とする「ライトフィールドカメラ」について、「カメラに入り込む光がどのように屈折するかはレンズごとに決まって」いることから、「あとはイメージセンサを前後にどのくらい動かすかさえ与えてやれば、マイクロレンズアレイでまるごと記録しておいた光がどのような像を結ぶはずなのか、すべて計算でシミュレーションすること」ができると述べ、「焦点合わせをさまざまない変えた画像を、いくらでも仮想的につくることができる」と述べています。
 著者は、「実用化に向けてはまだこれからの技術ですが、今後、さまざま案可能性が開けていく」と述べています。
 第4章「ピンホールカメラから遠く離れて」では、「ライトフィールドカメラにしても、3次元ぼけ処理の手法にしても、いったん複数のピンホール画像を集合としてまとめて考えている」ことから、「ピンホールカメラとはもはや比較にならないほど進歩し、遠くはなれてしまった感のあるカメラが、技術が発展したいま、再びピンホールを積極的に活用している。遠く離れれば離れるほど、カメラの原点に戻ってきている」と述べています。
 本書は、カメラの先祖と未来をピンホールで繋いだ一冊です。


■ 個人的な視点から

 印象的だったのは、最新のカメラを突き詰めていった結果、結局はピンホールカメラに戻っていることです。
 ドラえもんのひみつ道具で、届いている光を選択することで直接見えないところの映像も撮影できるカメラというのがあったような気がしますが、撮り直しができるカメラはちょっと似ている気がしました。


■ どんな人にオススメ?

・このままでいたいと僕は思ってた人。


2016年8月 2日 (火)

マンモスのつくりかた: 絶滅生物がクローンでよみがえる

■ 書籍情報

マンモスのつくりかた: 絶滅生物がクローンでよみがえる   【マンモスのつくりかた: 絶滅生物がクローンでよみがえる】(#2557)

  ベス シャピロ (著), 宇丹 貴代実 (翻訳)
  価格: ¥2,376 (税込)
  筑摩書房(2016/1/25)

 本書は、「絶滅種の復活に向けた科学者たちの取り組みと関連技術の進歩について紹介するとともに、そもそもなぜ絶滅種を復活させるべきなのか、復活させるにあたってどんな障壁があり、どんな問題を考慮しなくてはならないのか」を述べているものです。
 プロローグでは、「本書の狙いは、脱絶滅の道路地図(ロードマップ)を提供すること」であり、「まずは、どんな種または、どんな特質をよみがえらせるべきか判断基準を論じ、次に、DNA配列から命ある生物体へと到達する回りくどく迷いやすい道に立ち寄って、最後に、想像した生物を一度野生環境に放ったときいかに個体群を管理するかを議論」するとしています。
 第1章「絶滅を反転させる」では、「人々が絶滅を恐れる理由」として、
(1)私たちは機会が失われることを恐れる。
(2)私たちは変化を恐れる。
(3)私たちは失敗を恐れる。
の3点を挙げています。
 そして、「本書は、脱絶滅に関して“科学”と“空想科学”を切り離すことをめざす。今日何ができて何ができないのか、両者の溝はどうやって埋められるのか、といった内容を述べるつもりだ」としています。
 第2章「種を選択する」では、「人間は脱絶滅という考えに多かれ少なかれ懸念を抱く」が、「候補としてふさわしい種を挙げるよう強制されると、ほぼ全員が人間の手によって絶滅した種を選ぶ」と述べた上で、「ある絶滅種を復活させるか否かについては、感情よりも知識にもとづいて決断を下すことがきわめて重要だ」と述べています。
 そして、「よみがえらせる切実な理由は、対象の種そのものか、対象の種が現在の環境で果たしそうな役割に関わってくるだろう」として、「例えば、ある種がとくに重要な生態的地位(ニッチ)を占めていたなら、それが失われた結果、生態系が混乱して不安定になった可能性が高い」と述べています。
 また、「生態学上、マンモスをよみがえらせる切実な理由はいくつか考えられ」るとした上で、「ほかの主よりも脱絶滅の技術的な障害が少なそうなのも事実だ」として、
(1)寒冷地に住んでいたおかげで、保存状態のよい骨を数多く集めてDNAの分析に利用できる。
(2)現存する最近縁種はアジアゾウで、およそ500万~800万年前に枝分かれしたことから、赤ちゃんマンモスにとって無理のない代理母はゾウになるだろう。
(3)復活したマンモスの行き場も存在する。
の3点を挙げています。
 第3章「保存状態のよい標本を見つける」では、「古代DNAは、現在の生物多様性をもたらした進化の過程について学ぶ強力な手段となる」と述べています。
 第4章「クローンを作製する」では、「シベリアの凍土から回収されたミイラの一部は、保存が完璧で、無傷の組織や毛髪に加え、CTスキャンや解剖ではっきりと確認できる臓器までも持っている。ところが、奇妙にも、保存状態が最高のミイラですら、含まれるDNAは、骨に保存されていたDNAに比べてたいてい状態が悪い」として、「死体が捕食者に漁られて肉を食べ尽くされた場合、肉のない骨はたちまち永久凍土に埋まって凍ってしまうが、ミイラは遥かに長い間温かい状態にある。ミイラがゆっくり凍る間に、腸管や周辺環境にいる細菌があちこちの組織にコロニーを作り、内部から死体を腐敗させ、同時にDNAを破壊する」と述べています。
 第5章「交配で戻す」では、「マンモスのクローン作製は実現しそうにない」とした上で、「家畜化された牛の野生の祖先」に当たるオーロックスについて、「イエウシはオーロックスの子孫なので、野生のオーロックスに存在していた遺伝的多様性の大半が、今なお現存種のイエウシに存在するものと思われる」が、「オーロックスを再作製するためには、現存のコブウシヤコブなしの畜牛に見られるオーロックス的な特性をすべて集め、一つの新しい系統にまとめなくてはならない」と述べています。
 そして、「より“原始的”な品種」から始めて、「オーロックスの身体的、行動的特性を獲得できる選択的後輩プログラムを開発し、新たなイエウシの品種を生み出していく」過程は、「戻し交配」と呼ばれるとして、「かつて存在し、願わくば現存種の個体の遺伝子プールにまだ残っていて欲しい形質を交配で取り戻すことだ」と述べています。
 また、「ヘモグロビン遺伝子のマンモス版を持つ現在のゾウはまず見つからない」ことから、「マンモスのヘモグロビンを作れるゾウを創造するには、マンモス版遺伝子をゼロから作製し、ゾウの細胞に挿入する必要がある。わたしたちはいま、これを行えるのだ」と述べています。
 第6章「ゲノムを復元する」では、「ゲノムは2つの要素からなる」として、
(1)真性染色質で、遺伝子を含む。
(2)反復性が高くて凝縮された“異質染色質”と呼ばれる部分。
の2点を挙げ、「異質染色質は人間のゲノムのおよそ20パーセントを占め、高い反復性のせいで、人間のゲノムの中では――いや、どんなゲノムにおいても――きわめて解読が難しい。どうやた遺伝子の発現を規制する役割を担っており、細胞分裂の最中に染色体の分離を指示して、さまざまな染色体が核のどこに位置すべきか決めているものと思われる」と述べています。
 そして、「ゾウのゲノムを少しずつマンモスのゲノムに変えていく」計画について、
(1)保存状態のよいマンモスの遺体化石を幾つか集めて、DNAを抽出し、ゲノムを組み立てる。そのゲノム配列をアジアゾウのゲノム配列と比較して、マンモスとアジアゾウの相違のうち重要な部分を突き止める。
(2)変えたいと望むゲノム領域に相当するマンモスのDNAの鎖を合成する。
(3)ゾウのゲノムのなかで変えたいと望む部分を正確に突き止めて捕捉するのを仕事とする道具(分子バサミ)をこしらえる。
(4)マンモスのDNAの合成鎖と分子バサミをゾウの細胞の核に届ける。分子バサミがゾウのゲノムのうち編集すべき箇所を突き止め、補足して、DNAの鎖を半分に切断し、DNAの修復プログラムによって、増版のゲノムにマンモス版のゲノムを貼り付ける。
(5)この細胞画像の遺伝子ではなくマンモスの遺伝子を発現させているか否かを確認する実験を設計し、切り貼りの成否を評価する。
(6)切り貼り作業のすべてが成功した細胞を核移植に用いて、選択的に編集されたゲノムを持つ生物体を創造する。
の6点を挙げています。
 第7章「ゲノムの一部を復元する」では、脱絶滅の目的として、「種の復活ではなく生態系の復活こそ脱絶滅の真価だといえる。私達はどんな形の生命をよみがえらせるかではなく、どんな生態学的な交流を復活させたいかという観点で脱絶滅を考えるべきか」と述べています。
 第8章「さあ、クローンを作製しよう」では、「生殖細胞の移植は間違いなく画期的な技術で、保全生物学において様々な用途が考えられる」が、「脱絶滅の目的で生殖細胞を用いるには難点がいくつか存在する」として、
(1)始原生殖細胞は単数体であるため、精子か卵子のいずれかにしかならない。
(2)最終的に生殖器官に到達する始原生殖細胞は、挿入した始原生殖細胞だけではない。
(3)これまで行われた実験では、挿入した始原生殖細胞が成長して次世代になる効率が良くなかった。
の3点を挙げています。
 第9章「数を増やす」では、「現存する生物体のゲノムに過去の適応を復元する手法」によって、「脱絶滅は、種の多様性の保全と野生または半野生の生息環境の管理における強力な新しいツールとなるだろう」と述べています。
 本書は、失われた生態系の復活をめざした一冊です。


■ 個人的な視点から

 マンモスの復活と聞くと多くの人は、琥珀の中の蚊から遺伝子を取り出す『ジュラシック・パーク』メソッドを思い浮かべるわけですが、DNAはそう簡単には手に入らないようです。


■ どんな人にオススメ?

・マンモスに会いたい人。


2016年8月 1日 (月)

「地方創生と消滅」の社会学: 日本のコミュニティのゆくえ

■ 書籍情報

「地方創生と消滅」の社会学: 日本のコミュニティのゆくえ   【「地方創生と消滅」の社会学: 日本のコミュニティのゆくえ】(#2556)

  金子 勇
  価格: ¥3,240 (税込)
  ミネルヴァ書房(2016/1/15)

 本書は、「北海道での過疎地域研究を基盤として、日本各地の事例から得られた『創生』に向けての知見を総合的に提唱する」ものです。
 第1章「地方日本の消滅論と地方創生問題」では、「『地方消滅』をめぐる論戦は2015年になっても活発に行われているのだが、全体社会の人口減少胴体に対して、消滅を克服した地方集落の単一事例を対置するという構図が濃厚であり、日本全体に応用可能な汎用性が得られていない」と指摘し、「増田批判者が好む農業限定の地方創生論は、社会的逆機能として多様性の機会を奪っていると言ってよい。活用可能な地域社会資源を農業分野に限定することは地方創生論を閉塞させ、むしろ増田『地方消滅』の批判者の思惑とは反対に、創生のための多様性の機会を奪うことになる」と述べています。
 第3章「サステナビリティ論による地方創生研究」では、パーソンズによれば、「すべての社会システムは次のAGILによって特徴づけられている」として、
・A(Adaptation):適応
・G(goal attainment):目標達成という利害関心のなかで環境を取り扱うこと
・I(integration):統合
・L(latent pattern and tension management):社会基盤の安定と社会的緊張の処理
の4点を挙げています。
 そして、「コミュニティ論の分野では、2つの死ゅ浮き的問題が発生する。それは、個人はいかにしてコミュニティと結び付けられ、コミュニティはいかにして社会と結び付けられるか、と表現できる」と述べています。
 第4章「コミュニティのDL理論と内発的発展」では、「社会システムにはコンフリクト、リスク、不調和、緊張などによる間接的影響と直接的影響が混在する。コミュニティの社会システム論でもそれは同じであり、過疎地域に関しての私の原体験は北海道後志地方であるが、かつての調査を思い起こし、調査ノートを参照しながら、社会システム論的な発想で地方創生への道筋を辿ってみたのが本書である」と述べています。
 第5章「地方創生と労働者の福祉活動」では、過疎地集落において、
(1)高齢者の小家族化
(2)商店街の空洞化
(3)産み育てる医療の崩壊
(4)バス路線など公共交通機能の縮小
(5)義務教育施設の統廃合
(6)交番の廃止
(7)郵便局の閉鎖
(8)ガソリンスタンドの廃止
などが、「順不同ながらかなり並行的に進む傾向にある」と述べています。
 本書は、各地の事例を元に、地方創生の可能性を探った一冊です。


■ 個人的な視点から

 「地方創生」という言葉自体は新しいかもしれませんが、地方の時代とか地域活性化とかもうかれこれ何十年も同じことを繰り返してはコンサルの皆さんの養分となり続けてきたわけです。


■ どんな人にオススメ?

・これからは地方の時代だと思う人。


2016年7月31日 (日)

砂糖の歴史

■ 書籍情報

砂糖の歴史   【砂糖の歴史】(#2555)

  アンドルー・F. スミス (著), 手嶋 由美子 (翻訳)
  価格: ¥2,160 (税込)
  原書房(2016/1/22)

 本書は、「砂糖の起源から、大航海時代後の新世界での大規模な製糖、砂糖を取り巻く今日の状況に至るまで、ダイナミックな砂糖の歴史」をたどったものです。
 序章「サトウキビ」では、「人間の舌の上面には1万もの味蕾[味覚を感じる器官]があり、そのすべてに甘味を感じ取る特別な働きがある」として、「甘いモノを食べると、味蕾は神経伝達物質を出し、それが脳内の快楽中枢を刺激する。それに反応した脳が内在性カンナビノイド[脳内に存在するマリファナ類似物質]をつくりだし、食欲が増す」と述べています。
 そして、「蔗糖はほとんどの植物に含まれるが、それを最も濃縮された形で含んでいるのが、丈が高くて竹によく似た、イネ科のサトウキビ(学名 Sccharum)である」と述べています。
 第1章「砂糖の起源」では、「サトウキビから甘い汁を絞り出し、砂糖の結晶へと変えるプロセスは複雑」であり、「約2500年前の東インドで始まった」と考えられていると述べ、「精製糖の利点を数え上げればきりがない。粒状、あるいは粉状にする他、結晶化させたり、溶かしたり、糸状にしたり、引き伸ばしたり、煮詰めたり、成形したりと、さまざまに加工できる」としています。
 そして、「砂糖の栽培や加工・調理の方法が飛躍的な進歩を遂げたのは中東だった」が、「11世紀末に始まる十字軍遠征によって、ヨーロッパの人々はイスラム教徒からクレタ島やシチリア島などの地中海沿岸の土地を奪還すると同時に、サトウキビの栽培法や製糖法を吸収していった」と述べています。
 第2章「新世界の砂糖づくり」では、「ポルトガルのサトウキビ栽培者は、きわめて重大な技術改良をいくつも考案し、広めたとされている」として、「ローラーあるいはシリンダーを縦に3つ重ね、その間でサトウキビを粉砕する新しい構造の圧搾機を取り入れた」他、「サトウキビの汁を過飽和状態[溶液中に限界量以上の物質が溶けている状態]まで煮詰める大釜」を複数備えたシステムをつくり出したと述べています。
 そして、「ヨーロッパの人々は砂糖の栽培と加工、そして製糖の仕事を切り離した」理由として、
(1)多額の資本を要する、最終的な精製をする現地工場を、植民地の栽培地域に作る必要がなくなった。
(2)熱帯地域から船で砂糖を運ぶのには時間を要し、母国へ帰る途中で傷まないようにするのは難しかった。
(3)ヨーロッパの年で製糖の仕上げをすることによって、精製業者は植民地のみならず、母国にも利益をもたらすことができた。
の3点を挙げています。
 また、「十分な奴隷労働の供給、輸入される砂糖に関税を課す合衆国政府の政策に支えられ、1820年台にはアメリカのサトウキビ栽培は脅威的に発展した」と述べています。
 さらに、「19世紀後半の真空釜、遠心分離器、蒸気動力を使った製糖所などの技術の発展によって多少は改善されたものの、政党には依然として多くの労働者が必要だった。奴隷解放後、自由になった奴隷たちは砂糖プランテーションで働くことを嫌がったため、労働力の需要を満たすために、政党業者はインドや中国から契約労働者を調達するようになる。何十万もの契約労働者が砂糖栽培地域に押し寄せ、その多くは契約期間満了後もそこに留まった」と述べています。
 著者は、「コロンブスが初めてカリブ海に航海した1492年から4世紀のあいだに、製糖業は大きく変化した。生産の中心は地中海や大西洋の島々から南北アメリカへと移り、プランテーションの労働力の基盤は奴隷から契約労働者へと変化した。おもに人の手によって行われていたサトウキビの収穫や粉砕、加工は、機械や科学が生み出した最新の技術を使った工業システムへと変わり、生産の舞台は小規模なプランテーションや製糖所から、多国籍企業を中心とした製糖工場へと移った。こうした進歩のすべてが、世界中で砂糖価格の急落と消費の急増を引き起こすことになったのである」と述べています。
 第4章「砂糖の用途」では、「精製糖を使って富や権力を見せつける方法はエジプトの裕福な家庭で頂点に達した」とした上で、「砂糖は贅沢の象徴、そして富の証で在り続けた。フランス国王でポーランドの王でもあったアンリ3世がベネチアを1574年に訪れた際、王に敬意を評して催された宴会の主役は砂糖だった。ナプキン、テーブルクロス、皿、そしてナイフやフォークなどのカトラリー――テーブルの上のあらゆるもの――が砂糖でつくられた」と述べています。
 第5章「菓子とキャンディ」では、「中世には、食後の消化剤としても砂糖が使われた。食事が終わって料理がすべて下げられると、砂糖で甘味をつけ、スパイスを加えたワインが果物と一緒に出された。これはデザート(『テーブルを片付ける』という意味のフランス語 desserviに由来する)と呼ばれるようになった」と述べています。
 そして、「お菓子やキャンディの多くは祭日、特にクリスマスやハヌカー[ユダヤ教のお祭り]、イースター、ハロウィーン、バレンタインデーなどと結びついている」理由として、「砂糖がまだ珍しくて高価だった時代、低所得者層がお菓子を食べられるのは、こうした特別な日に限られていたためだろう」と述べています。
 第6章「砂糖天国アメリカ」では、「イギリスのビスケットのレシピは、イギリス人入植者とともにアメリカに伝わったが、アメリカにはオランダ人が入植した地域もあり、小さなケーキを意味するオランダ語の「クオキエ」が、甘いビスケットを指す『クッキー』という言葉になった」と述べています。
 そして、「フィラデルフィアにある、政府機関や大企業が出資する独立非営利研究施設のモネル化学感覚研究所」では、「大人に比べて子供たちは特に甘い食品を好むという結論」を出し、「その後この施設で行われた実験から、甘みへの嗜好は子どもの生態の基本要素であることがわかり、子供向けの食べ物や飲みものに加える砂糖の至福ポイントが正確につかめるようになった」として、「これらの研究により、食品会社は売上を伸ばすために製品に加えるべき砂糖の量を把握できるようになった」と述べています。
 第7章「砂糖がもたらしたもの」では、「砂糖の摂取による健康への影響についての懸念は、過去4世紀にわたって取り沙汰されてきた」として、「最初おもに心配されたのは、佐藤の摂取と虫歯との関係」であり、「医療従事者も砂糖の摂取について、特に低血糖症(血液中の糖のレベルが低いこと)に対する影響を懸念していた」と述べています。
 第8章「砂糖の未来」では、「反砂糖の動きにもかかわらず、蔗糖はいまでも世界でもっとも重要な食べ物の一つである」として、「世界で摂取される総カロリーの約8パーセントは砂糖に由来すると推定されている」とした上で、「砂糖はこれからも人間にとって大切な食材であり続けるだろう」として、「節度を守りさえすれば、甘い食物と飲物は、今後もずっと私たちの生活に欠かせない大切な存在であり続けるであろう」と述べています。
 本書は、いまでは当たり前になった砂糖をめぐる歴史を辿ったものです。


■ 個人的な視点から

 古来人類にとって贅沢の象徴で在り続けた砂糖ですが、価格が暴落した現在となっては貧しい人たちを肥え太らせるジャンクフードと化してしまったことが残念でなりません。


■ どんな人にオススメ?

・砂糖が好きな人。


2016年7月30日 (土)

基礎から学ぶ認知心理学 -- 人間の認識の不思議

■ 書籍情報

基礎から学ぶ認知心理学 -- 人間の認識の不思議   【基礎から学ぶ認知心理学 -- 人間の認識の不思議】(#2554)

  服部 雅史, 小島 治幸, 北神 慎司
  価格: ¥1,944 (税込)
  有斐閣(2015/9/19)

 本書は、「人間がものごとを認識するしくみを科学的に明らかにする学問」である「認知心理学」の入門書です。
 第1章「『誤り』から見る認知心理学」では、「直感的な思考や印象形成は、すばやく効率的に実行されるが、同時に、それが誤った信念につながる危険性ももっている」として、「私たちの頭の中には、たくさんの知識が蓄えられて」おり、「この知識の総体(集まり)」を「スキーマ(schema)」といい、「適切なスキーマが活性化すると、理解や記憶は大きく促進する。一方、適切なスキーマが活性化しない場合や、別の不適切なスキーマが活性化する場合は、理解や記憶が悪くなる」と述べています。
 そして、「一旦知識を持ってしまうと、知識を持っていない状態(他者や過去の自分)を想像することが予想以上に困難」になる「知識の呪縛」(curse of knowledge)の例として、「自分の行動や外見が他人に気づかれている程度を、実際異常に過大に評価する傾向」である「スポットライト効果」や、「『こうなることは最初からわかっていた』という思いを生む」傾向にある「後知恵バイアス」などを挙げています。
 第2章「感じる」では、「匂いの感覚(嗅覚)は記憶と結びつきやすいことが知られている」として、フランスの作家プルーストが「紅茶にマドレーヌを浸した時、その香りから子供の頃の記憶が蘇った」という逸話から「プルースト効果(Proust phenomenon)」と呼ばれていると述べています。
 第3章「捉える」では、「私たちが振り分けることができる注意の総量(注意資源 attentional resourse)には限りがあり」、「それを分割して使うと効率や精度が下がる」と述べています。
 そして、「私たちが対象を見て、それが何であるのかを捉え、あるいは対象を探し見つけ出すためには、対象の属性(特徴)を分析抽出する処理と、注意による対象の絞込処理が必要である」と述べています。
 第4章「覚える」では、「短期記憶の容量は、正確には、覚えられる数字の桁数や単語の数そのものを意味するのではなく、チャンク(chunk)と呼ばれる単位を意味する」とした上で、「短期記憶は、一度にどれだけの情報が覚えられるかという情報の保持という機能を重視した概念」だが、「その後の研究において、短期記憶は、情報の保持だけでなく、学習や推論などの認知活動において、情報がいかに操作されるかという処理(prcessing)機能、あるいは、制御(control)機能をもつということが明らかになってきた」と述べています。
 そして、「情報の保持だけでなく、処理という機能を重視」した「ワーキングメモリ」という概念について、「ワーキングメモリの中でも中心的な役割を担う中央実行系(central excutive)のもとに、3種類の従属システムとして、視空間スケッチパッド(visuo-spatial sketchpad)、エピソードバッファ(episodic buffer)、音韻ループ(phonological loop)が存在すると仮定している」と述べています。
 第5章「忘れる」では、「知っているという内的な感覚を既知感(feeling of Knowing: FOK)と呼ぶが、人の名前に限らず、物の名前、一般的知識(クイズの答え)などは、既知感が高いにもかかわらず、なかなか答えが出てこず、もどかしい状態になることは、喉まで出かかっている(tip of the tongue:TOT)現象と呼ばれる」と述べています。
 第6章「わかる」では、「スキーマは、私たちの認知的な枠組み(例えば、視覚であれば、ものの見方)を形成する役割を担う。つまり、過去の経験が抽象化され、一般化される形で、私たちの知覚や記憶、原語や推論など様々な認知に影響を及ぼす」と述べています。
 そして、「認知についての認知」である「メタ認知(metacognition)」について、
(1)メタ認知的知識:人間の認知特性、課題、方略についての知識
(2)メタ認知的活動:モニタリングとコントロール
に大別されると述べています。
 第7章「考える」では、「認知心理学が行ってきたことは、ゲシュタルト学派による(重要ながら曖昧な)概念を情報処理のことばによって再解釈・最定式化することであった」と述べています。
 そして、「私たちは、何かを正しいと思うと、その考えをさらに強めるための心の仕組みをもっている」として、「自分の仮説に合う事例ばかりを探し、自分の仮説に合わない事例を探そうとしない傾向」である「確証バイアス(confirmation bias)」について解説しています。
 また、「何が誤りかは自動的に決まるわけではない。誤りを同定するためには正しさを決める必要がある」として、その基準である「規範(norm)」について、
(1)規範的合理性(normative retionality):論理や数学などの規範に一致していること
(2)適応的合理性(adaptive rationality):変化する環境のなかで適切に振る舞うこと
の2点を挙げています。
 第8章「決める」では、「自分の所有物を高く評価」する「保有効果(endowment effect)」について、「強い損失回避(loss aversion)の傾向を明らかにしている」と述べ、また、「現状維持バイアス(status quo bias)」の一因ともなるとしています。
 そして、「ものごとの起こりやすさを判断する時、人は想起しやすさを手がかりにする」傾向である「利用可能性ヒューリスティック(availability heuristic)」について解説した上で、「自己の行為は他人の行為より思い出しやすい」という「自己中心バイアス(egocentric bias)」についても「利用可能性によって説明することができる」としています。
 また、「私たちは、できるだけ簡単で、できるだけ役に立つ方法(ヒューリスティック)を使うが、その宿命として、場合によっては間違える」として、「使う手がかりによって誤る」ことについて、「代表性ヒューリスティック(representatibyness heristic)」を解説しています。
 さらに、「課題をどのような枠組みで捉えるか」によってバイアスが生じることについて、「フレーミング効果(framing effect)」として解説しています。
 そして、「後悔を左右する人格的要因」として、対極的な意思決定者像として、
(1)マキシマイザー:効用を最大化しようとし、最高のものを手にしないと十分な満足が得られない。
(2)サティスファイサー:ある程度のレベルで満足し、それ以上のものを求めようとしない。その結果、後悔することが少ない。
の2点を挙げています。
 第9章「気づかない」では、「資格情報の受容と『見える』という感覚との間の乖離については、脳損傷の事例からヒントが得られる」として、「盲視(blind sight)」の症状を示す人は、「目の前に差し出された対象が何であるか応えることができがない、あたかも『見えている』日のように振る舞う」ことについて、「このような患者は、大脳新皮質の視覚処理を行う領域(後頭葉の視覚野と呼ばれている領域)に障害があることが知られている。眼球網膜に映った視覚情報は後頭葉の視覚野へ伝えられ、対象が何でどこにあるのかが認識される」と述べています。
 そして、「私たちが手を動かす時には、普通、手を動かそうと意図してから手を動かす」が、リベットらは、「被験者が手を動かそうとした時(意図したとき=意志をもったとき)、その瞬間の数百ミリ秒前に脳が活動することを示した」ことについて、「その後の研究により、それは運動準備電位と呼ばれる類のもので、いまでは意志に先行する活動電位であるとは考えられていないが、この実験は意志(will)や意識(consciousness)の研究に大きな衝撃を与えた」と述べています。
 また、「近年の多くの理論形は、心が2つの過程からなると考えている」として、
(1)直感的ですばやく、認知資源が少なくてすむが、柔軟性のない無意識的過程
(2)理性的で遅く、認知資源が必要となるが、柔軟性の高い意識的過程
の2点を挙げ、「このような考え方は、二重過程理論(dual process theory)と総称されて」いると述べています。
 第10章「認知心理学の歩み」では、「脳に対する関心の高まりと知識の蓄積は、脳の計算モデルの進展も促した」として、「脳の神経細胞網を模した並列分散処理(parallel distributed processing: PDP)モデルによって、柔軟なパターン認識や、英語の動詞の過去形の学習、スキーマに基づく連想などが可能になること」が示されたと述べています。
 そして、「認知心理学は、現在も変化し続けている。近接領域の研究成果やアプローチを取り込むことによって、また、新しい技術を取り入れることによって、アプローチは多様化し、研究テーマは広がりと深まりを増している。さらに、研究成果は、現実世界に応用され、人々の生活を改善するのに役立っている。基礎研究が充実すればするほど、応用研究の幅が広がる。したがって、こうした動きは今後も進展し、衰えることはないであろう」と述べています。
 本書は、認知心理学の基礎と歩みをカバーした入門書です。


■ 個人的な視点から

 「心理学」というと昔の人達はやれフロイトだユングだといったオカルトっぽい印象を持っていたり、パブロフの犬がよだれを垂らしたりという印象を持っているようなのですが、認知心理学となるとすっかり脳科学の一分野かのようであります。


■ どんな人にオススメ?

・人間の心の仕組みを知りたい人。


2016年7月29日 (金)

〈オトコの育児〉の社会学:家族をめぐる喜びととまどい

■ 書籍情報

〈オトコの育児〉の社会学:家族をめぐる喜びととまどい   【〈オトコの育児〉の社会学:家族をめぐる喜びととまどい】(#2553)

  工藤保則, 西川知亨, 山田 容 (編集)
  価格: ¥2,592 (税込)
  ミネルヴァ書房(2016/5/30)

 本書は、「必要なのは、子育て場面で顕在化する夫婦間の溝にオトコが『気づき』『行動』すること」だとして、「オトコの子育ては、『協力』にとどまらない子育てのあり方と、より伸びやかな夫婦のかたちを創出していくだろう」ことを意図して企画されたものです。
 序章「生活の一部としての〈オトコの育児〉」では、「父親になる(なっていく)<というのは社会学の言葉を使うと、『父親の社会化』である」として、「父親は父親の役割をはたすことによって父になっていく。父親の本当の出番は子どもが大きくなってからと考える人もいるようだが、社会化のエージェントの一員としての父親と考えるなら、小さな子供にとっても父親は重要な他者にほかならない。そして父親自身にとっても子どもは重要な他者である」と述べています。
 そして、本書で採用する視点として、
(1)子どもとの遊びを中心としたイイトコどりの「オトコの育児」ではなく、「子どもの世話」や「家事」も含めた「生活」の一部としての「オトコの育児」をとらえる、という視点
(2)父親の方も子どもとの生活を通して社会化がされていく、つまり父親になっていく、という視点
の2点を挙げています。
 第1章「近代家族とライフコース」では「最大公約数として語られる近代家族の特質」として、
(1)家内領域と公共領域の分離
(2)愛情で結ばれた家族関係
(3)子ども中心主義
(4)性別役割分業
の4点を挙げています。
 第2章「社会規範と社会化」では、「しつけ」の基本について、
(1)早寝早起きや歯磨き、排便などの習慣、見知らぬ人にも挨拶をする習慣などの「しつけ」は、子ども自身が、その所属集団と文化のなかで健康かつ安全に暮らすために行うという点。
(2)他者に迷惑をかけたり不快な思いをさせたりしないということ。
の2点を挙げ、以上の2つの基本を踏まえるならば、父親と母親のうちどちらが『しつけ』を担うかということは問題ではなくなる」と述べています。
 そして、「母親同様、子育てによって父親が人間的に成長する」として、「育児や『しつけ』は、自分の価値観の表出であり、それを子どもとともに考え直すことで、自分も成長する」のであり、「子育ては、父親の人間としての発達支援という大きな意味を持っている」と述べています。
 第3章「性別役割分業とケア労働」では、男性の育児について、「同性からの評価を犠牲にしつつ、異性(配偶者)からの感謝に支えられながら、育児の喜びを享受するのである。それは、異性からの支援があるという点で『オンナの育児』のように『孤独』なものとなることは少ないが、同性から見放される可能性が高いという点で、『オンナの育児』とは異なる、『オトコの育児』特有の困難も抱えている」と述べています。
 第4章「夫婦のコミュニケーションとレスパイト」では、「離婚の多くが平均的な第1子の誕生期から育児に手間のかかる乳幼児期に重なること」について、「愛情低下だけでなく、裁判所に審判や調停を求める離婚申立も女性からの方が多いこと、結婚の満足度もまた妻のほうが低いことから、この時期のストレスは妻(母親)の側により強いことがわかる」と述べています。
 そして、「夫婦関係は、同じものはなにひとつといっていいほどなかったふたりが還元できない『私たち』になっていく過程であり、『さわれないもの』『わからないもの』の存在は関係を深めるものにも、遠くするものにもなるのだろう」と述べています。
 第5章「あそびと身体」では、「父親にとってみても、子どもと遊ぶ時間を設けることで『父親』としての自我が形成されると同時に、子どもという他者の態度を取得することで、子どもの目線に立って振る舞いができるようになる。世間を代表する確固とした理想的な父親がいて、子どもをしつけるのではなく、父親も子どもとの相互作用のなかで形成されていくのであり、そこには緩やかな関係性というか間のようなものがあるように思う」と述べています。
 第6章「メディアと文化資本」では、幼児の一日の生活時間について、「じつに自由時間の半分近くを幼児はテレビに費やしている」とともに、「おとなにとってのビデオ鑑賞が、好きな人だけが鑑賞する趣味である一方で、幼児にとってのそれが、好き嫌いに関係なく接触する日常の経験になっている」と指摘しています。
 そして、「アニメや特撮のキャラクターは、幼い子どもたちの想像力を形づくり、媒介する上で、ひときわ『重要な他者』であるといえよう」として、「子どもたちの生活世界は、映像メディアを中心としたテレビ的な想像力に、すっぽりとおおわれている」と述べています。
 また、「文化資本の概念で重要なのは、それが『相続』という比喩で捉えられている」として、「経済資本が親から子へと相続されるように、文化資本もまた、親の持つ資本が子へ継承されやすい」と述べています。
 第10章「少子化と育児不安」では、育児メディアの変遷と再生産戦略の変化について、
(1)垂直的育児知識の伝達から読者参加型の水平的知識の共有へ
(2)母親向け育児メディアから父親向け教育メディアへ
(3)育児に協力する父親像から積極的に育児に関与する「父親の主体化」へ
の3点を挙げています。
 第12章「子育て支援とネットワーク」では、「社会は子育てを家庭に委ね、父親は母親に任せるが、母親は最後の砦とされてしまい逃げることができない現実が生まれている。これに対し、自立した女性像や男女共同参画の理念を教育されてきた世代の女性が、結婚後に直面する負担を他律的に強いられる状況に疑問を持つのは当然であるが、かといって母親が自律的に振る舞うことは容易ではない。そこには現実的制約に加えて、規範の存在があると考えられる」と述べています。
 そして、「児童虐待対応の現場から感じることは、私的な関係のネットワークが弱い家族のもろさであり、いかなる家族も子育てには多くの支援が必要であるという現実である。同時に支援がもたらす家族への負荷も感じ取れることがある」と述べています。
 終章「〈オトコの育児〉のゆくえ」では、「〈オトコの育児〉の問題を改善していくためには、家族や親族関係以外にも、さまざまな社会資源が重要となる」が、「社会資源は一般的に不足気味であるし、人や家族によってこれらの資源にアクセスできる程度には差がある。社会資源へアクセスできる人とできない人の格差の存在を改善していくことは必須であるし、育児支援の様々な選択肢を共有し、社会のなかで組織化していくこともまた重要である」と述べています。
 本書は、〈オトコの育児〉を切り口として、育児と家族を取り巻く問題を読み解いた一冊です。


■ 個人的な視点から

 本書は、よくある企画先行の寄せ集め的な側面もあるのですが、こういう問題は一人の著者からまるまる一冊ご高説を賜るよりも、多くの著者が自分の体験と思想を持ち寄ってああだこうだ言っている方が読んでいて楽しいです。


■ どんな人にオススメ?

・オトコの育児を模索している人。


2016年7月28日 (木)

問いからはじめる教育学

■ 書籍情報

問いからはじめる教育学   【問いからはじめる教育学】(#2552)

  勝野 正章, 庄井 良信
  価格: ¥1,944 (税込)
  有斐閣(2015/2/25)

 本書は、「人が成長・発達し、変化していく過程やその意味を個人に即して詳らかにしようとすることもあれば、その子の育ちを遊び仲間やクラスメートなどの集団の中に位置づけてみたり、さらに視野を広げて経済や政治との考えてみることもできる、とてもエキサイティングな学問」である「教育学」の入門書です。
 第1章「よい教育ってどんな教育?」では、「教育学では、暗黙のうちに疑うことなく身体化してしまっている自分の知識を問い直しながら再構築すること」を、「学びほぐし」(un-learning)と「学び直し」(re-learning)と呼ぶとして、「このプロセスを他社と共有することを通して、私たちの経験は深く省察」され、「教育的思慮深さ」が磨かれると述べています。
 そして、「教育という営みの原点には、人間の命のケアと育みがあり、そこに文化・教養へのいざないという景気が胚胎している」とした上で、「教育は、一人ひとりの命のケアと育みにかかわる営みであると同時に、ある文化を持った社会やコミュニティの存続や発展にかかわる営み」でもあると述べ、「ある社会・文化状況のなかで、そこにある姿とそこであるべき姿との『間』を問わざるをえないのが教育学」であることから「教育学には、いつも価値をめぐるポリティクスが埋め込まれて」いるとしています。
 第2章「教育を社会の視点から考えてみよう」では、「教育の社会的機能に注目した代表人物」として、フランスの社会学者デュルケームを挙げ、「デュルケームにとって教育とは、まず何よりも社会の必要に応えるものであり、将来、生活することが予定されている社会環境に子どもを順応させることを目的とするもの」だったとして、「このような教育の社会的機能を、一般に、社会化(socialization)」と呼ぶとしています。
 第3章「子どもという存在/人間という存在」では、「子ども時代という概念は、近代以降に創造された世代概念だという見方」もできるとして、「このような社会環境が生まれることによって、子ども時代に、子どもらしく生きるということに積極的な価値が見出され、その育ちの時期に相応しいケアと発達援助とは何か、という教育学的な問いが生まれるようになった」と述べています。
 そして、日常用語としての「育ち」について、
(1)成長(growth):内発的で生物学的な変化。連続的で量的な変化を意味する。
(2)発達(development):外発的で社会・文化に媒介された変化。非連続的で質的な変化を意味する。
の2点を包摂する言葉であると述べています。
 また、ヴィゴツキーの「発達の最近接領域(zone of proximal development:ZDP)」について、「人間の成熟した機能だけでなく、成熟しつつある機能に、つまり、すでに育っている部分だけでなく、いま、まさに育とうとしている部分にこそ着目すべき」だとしていると述べています。
 第4章「教え方は試行錯誤されてきた」では、コメニウスによる、「教師が教えたいことをしっかりともち、子どもが、楽しく、手応えを持って学べるような教育方法」につちえ、「合文化の原則」の最も基本的な様式だとする一方、「子どもの自然(本性)を理解し、そのかけがえのない人生に寄り添い、新たな文化の想像を希求する教育方法の原則」を「合自然の原則」というとしています。
 そして、「デューイが子どもの生活経験に根ざしたカリキュラムの構築を追求」し、クルプスカヤが「生活と教育の結合」という原則にたった「総合技術教育」を探求したのも、「社会に参入・参加しつつ成長する『生活者としての子ども』を教育することを大切にしようとしたから」だと述べています。
 第5章「教育を受ける権利」では、「教育を受ける権利は、人種、心情、性別、社会的身分、経済的地位、門地(家柄)、障がいなど、いかなる理由であっても差別されては」ならないとする「教育の機会均等の原則」について述べた上で、1994年にスペインで開催されたユネスコの「特別ニーズ教育世界会議」で採択された「サラマンカ宣言」について、「心身の障がいに限定するのではなく、社会、経済、文化、言語などの面でハンディキャップを負っている子どもたちが教育から排除されることを許さず、それぞれの特別な教育的ニーズに答えていくべきことが、インクルーシブ(包摂的)教育の実現という理念として」唱えられたとしています。
 第6章「子どもの学びを支える仕組み」では、「多くの国々ではかつて複線型学校体系となって」おり、「戦前の日本でも、旧制高等学校や大学まで進学する子どもだけが小学校から旧制中学校へ進学し、それ以外の子どもにとってはせいぜい高等小学校が最終学校というように、下級学校と上級学校の接続は部分的かつ閉鎖的なもの」である上、「性による差別もあり、女子には高等教育を受ける道が閉ざされて」いたと述べています。
 そして、「学校が評価により、保護者や地域住民に対して、教育活動について説明するだけでなく、保護者や地域住民が直接的に学校の運営や教育活動に参加する仕組みも整えられて」北として、「2000年度から保護者や地域住民が学校評議員となり、校長の求めに応じて学校運営に関する意見を述べることができるように」なった他、「2004年度からは、地域運営学校(コミュニティ・スクール)に指定された学校に保護者や地域住民から構成される学校運営協議会が置かれ、この学校運営協議会に学校運営の方針や教職員人事についての一定の権限が与えられて」いると述べています。
 第7章「子どもたちのための学校ってどんな学校?」では、「日本の学校は、戦後教育改革によって、道徳や価値観を一方的に教え込む教化(インドクトリネーション)ではなく、『人格の完成』」が目的とされたと述べてます。
 そして、「高校や大学など上級学校への進学率が短期間に上昇した」理由として、「学校が人材の社会的配分装置としての役割を果たしていたことと関係して」いるとして、学校の修了証書が、「その所有者が保持している能力の種類や程度を証明するもの」であるだけでなく、「所有者を様々な職業や社会的地位に振り分ける役割を果たして」いると述べています。
 第10章「どんなふうに子どもに接したらよいのか?」では、「1960年代の高度成長の時代になると、日本の多くの学校教育の現場は、激しい能力主義(メリトクラシー)が支配する競争社会へと変貌」し、「子どもの学びにおける他者との競争的環境がさらに助長され、自分という存在に自信をもって学べる子どもが、ますます少なくなって」いき、「学校の部活動や地域のスポーツ活動などでも、勝利至上主義による能力主義の風潮が強まり」、「急速な都市化が進むなかで、かつてはおおらかに見守り、支えあってきた家庭や地域の教育力も低下し続け」た結果、「学業成績の良い悪いにかかわらず、学校で何をやろうとしても自信がもてない子どもや、自尊感情を深く傷つけられ、著しい不安や緊張を強いられる子どもが急増」したと述べています。
 そして、「自己指導能力の形成」について、
・自己存在感を与えること
・共感的人間関係を育成すること
・自己決定の場を与え自己の可能性の開発を援助すること
などが例示され、「社会的自立の心棒となる『自己指導能力』は、社会参加の主人公(主権者)になるために必要ないくつかの要素によって構成されて」いるとして、「子どもが困ったり、不安になったりしたときに、自分には『心の浮き輪』や『帰るおひざ』(信頼できる他者)があると感じられること」である「安心と安全」の感覚を土台に、「自分が自分らしくあっても大丈夫だと実感できる自己感覚としての自己肯定感」が育ち、「自分の経験を振り返り、自分の言葉でじっくり考えられる『自己省察』の力や、自分の心と体に相談して決められる『自己決定』の力」が育つとしています。
 第12章「学校を卒業したら学ばなくてもよいのか?」では、「人間はどう学習しているのか、何をどう教えるのがよいかに関する体系的知識や科学」である「ペダゴジー」(pedagogy)について、「特に大人の学習に関する科学をアンドラゴジー(andragogy)」と呼ぶと述べています。
 本書は、誰もが必ず経験してきた「教育」を支えている学術的背景について知ることができる一冊です。


■ 個人的な視点から

 誰もが教育を受けていながら、その教育がどのような考えに基づいているのかは意外と知らいないものです。「◯◯教育法」みたいない突飛な思想やバズワードは耳にすることが多いですが、教育学を体系的に理解しておくことは、自分や家族の教育を考える上で重要なことです。


■ どんな人にオススメ?

・教育を受けたことがある人。


2016年7月27日 (水)

私たちはどのように働かされるのか

■ 書籍情報

私たちはどのように働かされるのか   【私たちはどのように働かされるのか】(#2551)

  伊原亮司
  価格: ¥2,376 (税込)
  こぶし書房(2015/2/28)

 本書は、「就職や働き方に関する言説の『混乱状態』に惑わされず、雇用や労働の実態に即して〈働くこと〉を考え直す」ことを目的としたものです。
 第1章「経営書・自己啓発本をつい読みたくなる人たちへ」では、「多くの日本人に愛読されてきたドラッカーの著書の中で、望ましい『働かせ方』に関する議論を紹介し、それらを日本社会の雇用状況と職場環境に照らし合わせて検証する」としています。
 そして、「彼の理論の根底にある社会観・人間観を明らかにし、マネジメントについての定義を確認した上で、それらから導き出される望ましい『働かせ方』を順序立てて示」すとして、
(1)「自由社会」とマネジメントの必要性:ドラッカーの理論の根底にある思想は、「ファシズム全体主義」に対する嫌悪と「自由社会」の擁護である。
(2)マネジメントとは:経済的資源を組織化し、経済の成長を達成して、「人類の福祉」と「社会正義」を守る、強力な原動力である。
(3)経営組織と「働かせ方」:マネジメントの必要性を認識し、マネジメントなしには健全な組織運営は不可能であると理解し、マネジメントは「プロフェッショナルな仕事」でなければならないと強調する一方、組織構造は「分権型」が望ましいと考えた。
(4)技術的な要請:「分権化」、柔軟な作業組織、質の高い労働は、オートメーションによる要請でもある。
の4点を挙げています。 
 そして、ドラッカーが「日本企業の労働者管理と労働観光を高く評価した」として、
(1)日本人の「合意」(コンセンサス)に基づく意思決定
(2)雇用の「保障」と「柔軟性」の両立
(3)「継続的訓練」と「人材育成」
の3点を挙げています。
 著者は、「ドラッカーは、日本の労働者管理を理想的な『働かせ方』として高く評価した。日本企業の現場は権限を移譲され、チーム単位で運営され、労働者の技能を高めていると理解した」が、「同じ『現場労働者』の中にも、格差、分業、棲み分け、差別が存在し、皆が同じように質の高い仕事に従事しているわけではない。さらには、現場と管理部門との間には力関係が存在し、現場の『自律的運営』には大きな限定が付く」と指摘しています。
 また、「ドラッカーの言説及びその読まれ方の変遷をたどると、ドラッカーの理論には変わらぬ魅力があることがわかる。理論の根底には、人間の『多面性』への理解がある。利益一辺倒の経済人モデルには基づかない、『人間中心』の経営学である。そこに多くの日本人を長きにわたって魅了してきた最大の理由があるのではないだろうか」と述べています。
 第2章「職場における『いじめ』」では、「働く者たちは、市場原理という『客観的なルール』にもとづいて競争し、『結果』を出し、勝ち残るようにと煽られている。しかし、働く場では他者との協働がなくなったわけではない。にもかかわらず、個人ベースの結果を強く求められると、労働者たちは『自分の足を引っ張る』同僚に敵意が募る。どこの職場でも労働負荷が高まり、労働者は余裕を失っている。そこかしこで個人間の対立が先鋭化し、『ハラスメント』が起きやすい状態になっているのである」と述べています。
 第3章「労働と『うつ病』」では、「階層が低いほど、労働条件が悪いほど、男性よりも女性のほうが、働くことに関してストレスと感じている」としつつも、「経営合理化があらゆる層に広がっており、単純に、ピラミッド構造の『上』から『下』に行くに従いメンタルヘルスが悪化しているわけではない。また、ストレス要因は多様化しており、階層や職種によってストレス要因が異なる点にも留意が必要」だと述べています。
 第4章「労働と『死』」では、「労働にまつわる死は、歴史の中で変化してきた」として、「物理的に劣悪な労働環境による死傷、組織内の激しい競争塗装後監視の下での働き過ぎによる脳・心臓疾患と突然死、雇用に不安定さと労働の過剰及び過少に耐えられない人たちの精神疾患と自殺である」と述べています。
 そして、「日本企業は、『日本的経営』論の擁護者が想定するような、文字通りに助けあう『生活共同体』ではなかった。職場はあくまで経営側主導で作られたものであり、だからこそ、構成員どうしの監視や牽制を生む場になっていたのである。また、組織の『周縁部』に位置する労働者たちは、『共同体』の構成員とは言いかねる、微妙な立ち位置に置かれていた」と指摘しています。
 第5章「『品質』の作り込みの低下」では、「トヨタの現場で一期間従業員として働いた」参与観察の結果について、「管理者は、正規と非正規の労働者の間の壁を取り払い、労働者内の風通しをよくする。この原理を人間関係にだけでなく、職場の物理的環境にも適用している」とした上で、「トヨタは、『視える化』を通して、労働者の持ち場、仕事ぶりや所作、作業結果を他者の眼差しにさらす。『視える化』が徹底された職場では、管理者の眼差しと織り合わさった『同僚の眼差し』を労働者は意識させられる」と述べています。
 そして、「異常処置に関しては、明確な分業が存在する。専門知識を擁する複雑な処置は専門工が行う。ルーティン化した単純な対応は自分の組の管理者や若手のリーダーが行う。期間従業員を含むその他大勢は、機械に触れることすら許されていない」と述べています。
 また、「トヨタの職場では、人間関係や職場フロアが可視化され、他者の眼差しが行き渡り、その辛抱強さが生み出されてきた」が、「そのような監視システムは、あくまで他者の眼差しを気にすることを前提として成り立つシステムであり、そもそも他者の眼差しや評価をあまり気にしない労働者が増えると、職場の相互監視システムは機能しにくくなり、場合によっては破綻する。それまでの教育システムや企業システムで『矯正』される度合いが低く、またトヨタで長く務めるつもりはない非正規労働者が増えると、その傾向が強まる」と指摘しています。
 第6章「『キャリア』ブームに煽られる人たちへ」では、「大規模組織の歯車にならず、学歴・性別・国籍は関係なくなり、年功的な序列に組み入れられる、仕事は会社にいる時間の長さではなく結果で評価されるようになると、将来の働き方を予見する言説が増えた」結果、「実際に、勤め先を変えたり、働く場や時間を自分で決めたり、自ら起業したりして、組織や規則の束縛から逃れた働き方を謳歌する人が出てきた」として、「組織や秩序に囚われない働き方や労働市場の流動化を勧める言説は、若者、中小企業の労働者、女性など、『企業社会』で『周辺』や『底辺』に位置づけられた人たちを惹きつけたのである」が、「雇用規制の緩和により実際に生じたことは、『企業社会』で『周辺部』に位置づけられた人たちの切り捨てであった」と述べ、「厳しい生き残り競争の現実が顕になると、今度は、’自分だけは’市場を生き抜けるようにと『能力』の形成が煽られるようになるのだ」と指摘しています。
 また、教育社会学者の本田由紀による「ハイパー・メリトクラシー」について、「手続き的な公正さという側面が切り捨てられ、場面場面における個々人の実質的・機能的な有用性に即して個々人を遇するという、『業績主義』が本来持っていた意味が全面に押し出される。こうして選抜の手続きという面が後退したことにより、ハイパー・メリトクラシーがその網に捉えようとする『業績』は、個々人の機能的有用性を構成する諸要素の中で、一定の手続きによって切り取られる限定的な一部分だけでなく、人間存在のより全体、ないし深部にまで及ぶものになる。言葉を換えれば、従来のメリトクラシーの『たてまえ』性ないしイデオロギー性が希薄化して、よりあからさまな機能的要請が突出したものがハイパー・メリトクラシーである」と紹介しています。
 そして、「『能力』論を展開する人たちのほとんどは、『人材』の需要側が負うべき負担や責任は問わずに、それらの要望を汲むことを一途に考えている節がある」として、「雇う側は教育コストの削減という主たる目的は隠したまま、その負担を『社会的責任』、『自己責任』という名目で教育機関や家庭に押し付け、個々人には市場での生き残りを煽っては課している点を見落としてはならない。これは、企業による人材育成費の転嫁である」と指摘しています。
 第7章「『社会貢献』に惹かれる『良い人』たちへ」では、「このような厳しい雇用環境の中で、『組織人』でも『自由人』でもなく、『社会』に貢献する仕事を希望し、自ら起業して社会を変えようとする人たち(社会起業家)が現れた」ことについて、「活動支援を受ける側に関して留意すべきは、経済的な貧困を克服しようとするだけではなく、働く場を確保し、社会での『居場所』を取り戻し、社会的に排除された状態から脱することを目的とした活動であるという点だ」と述べています。
 そして、増加の一途をたどってきたNPOが「ここに来て減少傾向にある」理由として、「維持運営の財政的な厳しさ」を挙げ、「営利を第一の目的にしていない組織であるので、『社会貢献』を謳い、崇高な理念を掲げることはたやすい」が、「その多くは、現実問題として財政難に直面している」と述べています。
 第8章「働くということを自分たちのものに取り戻す」では、「いかなる働き方を選ぶにせよ、“適度な労働”を保つためには、働く者たちの間でそして一人ひとりの中で労働の過剰と過少のバラツキをならし、働く場の秩序を自分たちで再構築することが欠かせない」とした上で、「ほとんどの者にとって、職の確保は切実な問題である。働くことは生きることに直結する。創造的に働きたい・生きたいという気持ちも理解できる。しかし、逆説的であるが、生活水準を維持し、職場生活を守るためには、そして仕事の誇りを失わないためにも、職探し(のアドバイス)や目の前の仕事(を促す言葉)に没入する(乗りかかる)だけではいけない。仕事にコミットすると同時に、職場の内と外に労働や活動を規制する足場を持ち、労働者生活を守る方法をいくつか備え、自らを強く緊迫してきた労働倫理を相対化し、半ば強制された労働―消費中心生活を見直すことが欠かせない」と述べています。
 本書は、数多ある労働やキャリアに関する言説を相対化しようとする一冊です。


■ 個人的な視点から

 この20年くらい「雇用流動化」や「キャリアデザイン」という言葉が注目をあびるなかで、多くの働く人たちが、「働くこと」とは何かについて考えてきたのですが、あれって結局何だったのでしょうか。何か変わったのかな、と。
 第5章の参与観察自体は良い取り組みだとは思いますが、取り立てて目新しい成果はなかったということなんですかね。


■ どんな人にオススメ?

・「はたらくこと」について考えたい人。


2016年7月26日 (火)

進化する遺伝子概念

■ 書籍情報

進化する遺伝子概念   【進化する遺伝子概念】(#2550)

  ジャン・ドゥーシュ (著), 佐藤 直樹 (翻訳)
  価格: ¥4,104 (税込)
  みすず書房(2015/9/26)

 本書は、「遺伝子概念の歴史」をテーマとしたもので、「遺伝情報とは何か」について、著者は「メッセージと情報とを区別」し、「メッセージとは、シグナルの集まりと定義されている。つまり一つひとつの文字をシグナルとすれば、それが並んでできた文章がメッセージである。そして情報とは、その文章の意味だ」と述べています。
 第1章「遺伝子概念以前」では、「近代的な意味での繁殖という概念を導入」したビュフォンについて、「動物にも植物にも共通の性質で、自分とよく似た子孫を生み出す能力」としていると述べています。
 そして、「遺伝的」という言葉を、「今日われわれが生物学的」と呼ぶ性質に関して体系的に使ったのは、「モーペルチュイが最初ではないかと私は思っている」と述べ、「彼によって、生物発生から遺伝への第一歩が踏み出されたのである」と述べています。
 また、「19世紀末には、2種類の考え方が併存していた」として、「メンデルにとって、将来人々が遺伝子と呼ぶことになるものは記号symboleでしかないものの、たしかに配偶子の中にある因子facteurを表していると見なされた。ヴァイスマンにとって、遺伝子は染色体に存在する仮想的な粒子particuleであった。この2つの考え方は、2つの異なるアプローチを反映していた」と述べています。
 第2章「遺伝子概念の誕生」では、「それ以前の研究者たちとは異なり、メンデルは、世代から世代へと伝播されるものが形質とは異なる別のものであることを示し、それを因子と呼んだ」として、「この区別がメンデルの最も重要な貢献であり、のちにメンデルの法則と呼ばれることになる分離比よりも重要なのである」と述べた上で、「メンデルの方法とはいかなるもので、それまでの研究者や同時代の研究者の方法とはどのように異なっていた」のかについて、
(1)幾つかの基準を決めてそれにもとづいて実験をしていること。
(2)研究する形質について、「確実で明白な特徴を示さない形質は、違いを判定するのが『多少とも』難しいため」、採用しなかった。
(3)徹底的に定量的で、その研究は大数の法則に則っていた。
(4)最初の交雑結果から、子孫の遺伝的性質(今日の言葉では遺伝子型)についての解釈を得て、その仮説を検証するための新たな実験を行ったこと。
(5)解釈の能力。彼の因子を、花粉や卵細胞といった生殖細胞にあるものとしたが、あらゆる生物は細胞からできているという細胞説は、当時はまだ新しかった。
の5点を挙げています。
 第3章「染色体上の遺伝子」では、「ブリッジズが現在でも使われている命名法を考案したことで、それによりそれぞれの染色体の各部位のバンドを同定し索引をつけることができるようになった」と述べています。
 第4章「分子レベルの遺伝子」では、「分子レベルの遺伝子概念、つまりコード領域DNAという考え方は、それが極めて単純であるという点で、大いに価値がある」が、「生物学においては何事も単純ではなく、この概念は最初から例外や疑問に直面していた」として、「1960年代に遺伝子の分子的概念ができたときから、その輪郭はファジーだったのである」と述べています。
 そして、「タンパク質合成のしくみの構築と解明において最終的に重要となった」のは、「DNA自体と、ヌクレオチド配列からタンパク質への翻訳という事象との間には、介在するものがある」とする「メッセンジャー仮説」だとして、「これにより、フランシス・クリックは分子生物学のセントラル・ドグマを提唱した。遺伝情報の伝達は一方向に行われる。つまりDNAからタンパク質に向かい、タンパク質からDNAへと『遡る』ことはない」と述べています。
 また、1961年にジャコブとモノーが「オペロンモデル」を提出したことについて、「ジャコブとモノーは変異体を解析すること」によって、
(1)構造遺伝子:タンパク質の合成をするための情報を担っているもの
(2)制御遺伝子:構造遺伝子の発言を調節するための情報を担っているもの
という、「機能的に重要な2種類のDNA配列を区別した」として、「遺伝子の発現制御が、それ自体遺伝学的に決定されていることを証明した」と述べ、「オペロンによって、ジャコブとモノーは遺伝学にプログラムという概念を持ち込んだ。この概念は発生遺伝学において大いに利用されることになる。遺伝的プログラムという概念も、それに先立つ遺伝情報という概念も、それらが生まれた時代と関係していることは明らか」だとして、「第二次世界大戦後、サイバネティクスや情報理論が生まれた時代である」と述べています。
 さらに、「最近の30年間を通じて、理論的にもまた技術的にも、生物学のあらゆる分野に分子レベルのアプローチが入りこんだ」として、「分子的なアプローチはきわめて実り多く、数多くの発見をもたらした」一方で、「これまで手工業的だった生物学が、一大産業的なものに変わり、農業・栄養産業や生物医学産業において、バイオテクノロジーが発展した。生物学の基礎的研究は、1930年代の物理学のように、しだいにビッグサイエンス的構造をとり始めた」と述べています。
 第5章「分子レベルの遺伝子概念の今日的危機」では、ヒトゲノムの基準配列を調べると、DNAのうちたった5パーセントだけがコード領域、つまり、遺伝暗号に従ってタンパク質に翻訳されうる領域である。非コード領域の一部はトランスポゾンによって占められているにしても、かなりの部分は遺伝子発現の制御領域である。これらは、1960年代にジャコブとモノーが大腸菌のラクトースオペロンについて明らかにしたオペレーターやプロモーターといった制御遺伝子と同じタイプのシスに働く配列ではあるが、ずっとスケールの大きなものであった」と述べています。
 第6章「あらためて遺伝子と遺伝情報を考える」では、「1960年代に教育を受けた遺伝学者」が、学生たちに伝えてきた「DNAは遺伝の担い手」という表現を、現在では、「批判的な目で見直すときにきている」と述べ、「20世紀中頃から、遺伝子は分子レベルで考えなければならなくなった。この考え方において、遺伝子はコードするDNA、つまり、転写され、遺伝暗号に従ってタンパク質に翻訳されるDNAでなければならなくなった」として、さらに、「遺伝暗号がデジタルコードだということ」について、「DNAに書かれたシグナルには、デジタル的なものばかりでなく、アナログ的なものもあることはすぐに説明した。これらのシグナルはDNAに書き込まれているが、翻訳されない。その場合、重要なことはDNA分子が取りうる形(一過的な形かも知れないが)である。こうしたシグナルは、構造的・幾何学的なもの、つまりアナログ的なものである」と述べています。
 そして、「siRNAによる制御が発見されると、アナログ的、すなわち幾何学的なシグナルが一層重要になった」とした上で、「さらに別の種類のものとして、現代的な意味でのエピジェネティックなシグナルの伝達が存在することにも疑いがない」と述べ、「以上のような理由を考えると、DNAのコード領域だけに限定された遺伝子の分子レベルでの定義は、選択的スプライシングや複数転写開始点などを考慮して範囲を広げたとしても、すでに古臭いものになっている。転写され、タンパク質へと翻訳されるDNA領域が数多くある以上、遺伝子の分子レベルの定義自体が誤りなのではなく、不十分なのである。すなわち、もともと古典遺伝学で遺伝子という言葉に期待されていた構造的・機能的な性質を満たすものではないからである」と述べています。
 また、「情報とメッセージとを区別した上で、生物の形態とは別に遺伝情報があるという考え方を保持することは大切である。情報は細胞が読んで解釈したメッセージであるが、多細胞生物の場合には発生過程にある生物全体がメッセージの解釈をする」として、「遺伝子とは、記号的かつ/またはアナログ的なタイプのメッセージで、クロマチンの核酸やタンパク質に書き込まれており、細胞から細胞へ、また、世代から世代へと伝達され、細胞や個体のもつ性質に基いて解釈されることにより、生物の形をつくり出すことを可能にする情報となるものである」と述べています。
 本書は、遺伝子をめぐって重ねられてきた数々の議論をおさらいした一冊です。


■ 個人的な視点から

 「遺伝」や「遺伝子」については、多くの人が中学や高校の生物の時間に「メンデルの法則」や「DNAの二重らせん構造」などを勉強してきたわけですが、じゃあ遺伝の仕組みはどうなっているのか、をきっちりと理解しようとするとまだまだわかっていないことが多いということがわかります。


■ どんな人にオススメ?

・遺伝とは何かを知りたい人。


2016年7月25日 (月)

法と社会科学をつなぐ

■ 書籍情報

法と社会科学をつなぐ   【法と社会科学をつなぐ】(#2549)

  飯田 高
  価格: ¥2,268 (税込)
  有斐閣(2016/2/18)

 本書は、「社会科学(経済学、社会学、心理学など)における概念を題材として、社会科学と法の世界との接点を探っていく」ことを目的としたものです。
 第1章「個人の意思決定」では、「最適な意思決定を行うためには、総量や平均値ではなく『追加される微小量』に着目し、その際に生ずる追加的な便益(限界便益)と追加的な費用(限界費用)とが等しくなる点を探せばよい」と「限界効果(marginal effect)」について解説し、限界効果の考え方は、
(1)私たちの目を将来に向けさせること
(2)意思決定状況の多様性を私たちに認識させること
によって、「素朴な直感的判断や思い込みを多少なりとも修正してくれる」と述べています。
 そして、「誰かの満足度を犠牲にしない限り、できるだけ人々の満足度を高くする状態のほうが望ましい」とする「パレート効率性(Pareto efficiency)」の基準及び「ある状態から別の状態への移行によって利益を得る人が、移行によって損失を受ける人に補償する」という架空の補償によって「保証してもなお利益が余る場合は、その移行は望ましい」とする「カルドア=ヒックス効率性(Kaldor-Hicks efficiency)」について解説した上で、「法制度は、さまざまな望ましさの基準を持ち出すさまざまな人々の利益によって突き動かされてきた、と言える。効率性はその一つにすぎないが、交換が人間社会の原動力になっているのと並んで、効率性が法制度の推進力となっている」と述べています。
 第2章「複数の個人の意思決定」では、「複数の主体の意思決定が組み合わさって結果が生じる場面では、意思決定が相互依存の関係になっていることが多い」として、「自分にとって最良の意思決定は他者の意思決定に左右され、また、他者にとって最良の意思決定も自分の意思決定に左右される」という状況を「戦略的相互作用(strategic interaction)」が起きている状況だと述べています。
 そして、ルールは当事者間に「共有知識(common knowledge)」を形成する役割を果たし、「戦略的相互依存状況における推論の連鎖に歯止めをかけ、特定の均衡に落ち着かせることになる」として、ルールが、
(1)複数の均衡の中から特定の均衡を導くこともあれば(交通ルールの例)、
(2)均衡が存在しない状況で均衡をつくり出すこともある(野球ルールの例)、
(3)ある均衡から別の均衡へと移行させることもありうる、
と述べています。
 また、多人数バージョンの囚人のジレンマについて、「社会的ジレンマ(social dilenma)または集合行為(collective action)の問題」と呼ぶとした上で、「法制度は、いくつかの方法を使い分けながら社会的ジレンマが起こりうる状況に対処している」として、
(1)他者を益する協力行動を人々が取らざるを得なくなるような、あるいは、自然に協力行動に導かれるような物理的条件をつくり出す。
(2)選択的誘因(すなわちインセンティブ)を与えて協力行動を選択するよう仕向ける。
(3)社会的に有益な行動をより控えめに支援する方法(自由な言論の保証など)。
の3点を挙げています。
 さらに、「客観的には同一の状況であっても、人によって認知の仕方は異なりうる」として、「全く同じ場面を、条件付きの協力をするプレーヤーはスタグハントゲーム、純粋な経済人プレーヤーは囚人のジレンマとして見ているかもしれない」と述べています。
 著者は、「法をはじめとする社会的ルールには幾つかの異なる機能がある」として、
(1)人々に対してインセンティブを付与し、望ましくない均衡から望ましい均衡へと移行させるという機能。
(2)プレーヤー間の信頼ないし相互期待を醸成したり維持したりするという機能。
(3)複数のありうる候補があるときに、とにかくどれか特定にものに決めて均衡を導くという機能。
の3点を挙げています。
 第3章「意思決定から社会現象へ」では、「ある経済主体の活動が、市場での取引を経由することなく(すなわち、当事者間の合意によることなく)他の経済主体の意思決定や効用に影響をあたえること」である「外部性(externality)またはスピルオーバー効果(spillover effect)」というと述べてます。
 そして、「個人の意思決定や行動が『自分を取り巻く他者』に影響されるという事実には、少なくとも2つの重要な含意がある」として、
(1)個人の意思決定や行動は人々のつながり――社会ネットワークの構造――に強く依存しうる、ということ。
(2)個人レベルでの微小な変化が、社会レベルでの大きな変動を生み出す可能性がある、ということ。
の2点を挙げています。
 第4章「ルールを求める心」では、「社会秩序の形成・維持のメカニズム(法を含む)は、複雑かつ多種多様である。そのメカニズムの全体像を理解するためには、少なくとも3つの側面での検討が必要」だとして、
(1)タイムスパンの長い「進化」の側面:社会規範は、利他性・ご修正・公平性への欲求、あるいは規範に逸脱した人を処罰したいという感情を基礎としていることがあり、人間は社会規範を形作るための材料を生得的に持っていると考えられる。
(2)「文化」や「制度」の側面:生得的に持っている材料が同一であっても、具体的にどういう形を取るかは違ってくる。
(3)個人の「認知」ないし「解釈」の側面:ルールは多かれ少なかれ抽象的な表現形態を取る。抽象レベルでの社会規範が同一であったとしても、場面の認知や解釈が違えば、具体てレベルでの規範は変わってくる。
の3点を挙げています。
 そして、「道徳を構成しているのは互酬性だけではなく、単一の原理が道徳が説明し尽くせるわけではない」として、心理学者のジョナサン・ハイトらが提唱している「道徳基盤理論(moral foundations theory)」について、「さまざまな文化圏における道徳的ルール群から、普遍性をもつと言える認知的要素を特定する」という作業の結果、候補として、
(1)〈ケア/危害〉基盤:他者の苦痛を忌避する傾向。
(2)〈公正/欺瞞〉基盤:互酬性(特に正の互酬性)にほぼ相当する。
(3)〈忠誠/背信〉基盤:自分が所属する集団を尊重し、グループのためになる行為を求める傾向。
(4)〈権威/転覆〉基盤:地位・権力や上下関係を重視する傾向。
(5)〈神聖/堕落〉基盤:肉体的・精神的な純血を好み、「汚れ」や「穢れ」を嫌う傾向。
(6)〈自由/抑圧〉基盤:自律的な意思決定を好み、支配されるのを嫌がる傾向。
の6点を挙げ、「ハイトは、これらの道徳基盤を『味覚受容器』にたとえている」と述べています。
 また、「社会的ルールのうち、少なからぬ部分は人間の生得的な認知構造や感情と関係しているといわれる」が、「こうした性質が進化のプロセスを生き残るためには、ある特別な条件が必要である」として、「協力行動を取る傾向のある個体は、協力行動を取りやすい別の個体と交流している限り、多くの利得が得られるので反映することができる」が、「裏切り行動を取る個体が交流に加わってくると、協力行動を取る個体は相手に付け入る隙を与えることになるため、相対的に不利な立場に追いやられる」と述べています。
 さらに、「文明が発達した後の社会的ルールの基礎」にもなっている「心理的傾向がどこかの段階で発生」したとして、
(1)他の人がある行動をとっているから、それに従うのが適切だとする「同調」の傾向
(2)自分が扱われたように他者を扱うという「互酬」の傾向
(3)「処罰」を下したいと思う傾向。ことに第三者の視点から処罰を行う傾向
の3点を挙げています。
 第5章「人間=社会的動物の心理」では、「私たちは、およそ合理的とは言えない意思決定をしばしば行う」が、「興味深い点は、大半の人達に共通する誤り方の傾向――系統的(システマティック)なエラー――がある」として、「こうした認知や判断の偏りのパターン」である「認知バイアス(cognitive bias)」について、主なものとして、
(1)結果バイアス:過去の意思決定の質やプロセスに関する評価が、実際に生じた結果によって左右されてしまう、というバイアス。
(2)確証バイアス:自らの信念や仮説に沿った証拠だけを拾ったり、都合の良い形で情報や状況を解釈したりする、というバイアス。
(3)現状維持バイアス:現在の状態を基準線として設定し、そこからの変化を損失とみなす、というバイアス。
(4)アンカリング:特定の情報や数値(特に、初めに与えられた情報や数値)に過度に気を取られ、そちらに引きずられてしまう傾向。
の4点を挙げています。
 本書は、数ある社会科学の一つとしての「法」と他の分野との関係性を明らかにしようとした一冊です。


■ 個人的な視点から

 こうやって他の社会科学と並べてみると、「法学」という分野は理念や政策を実現するためのツールであって、経済学や社会学と並列にするようなものではないのではないかと思ってしまいます。


■ どんな人にオススメ?

・法律が依って立つ考え方を理解したい人。


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