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2007年4月 7日 (土)

世間の目―なぜ渡る世間は「鬼ばかり」なのか

■ 書籍情報

世間の目―なぜ渡る世間は「鬼ばかり」なのか   【世間の目―なぜ渡る世間は「鬼ばかり」なのか】(#807)

  佐藤 直樹
  価格: ¥1470 (税込)
  光文社(2004/4/23)

 本書は、「わが国の『世間』の構造や本質について、これまであまり考えてこなかったようなことを、日頃の思考をいったん判断停止してマジメに考えてみようという本」です。著者は、歴史学者の阿部謹也氏の言葉として、「世間」はわが国に伝統的にあり、今もあるのに対し、「社会」は明治時代に西欧から輸入された言葉であり、「それまでにはなかったし、いまもない」と述べています。
 第1章「私が『世間』にこだわるわけ」では、「西欧の学問がよってたつ基盤(社会)と、わが国の学問がよってたつ基盤(『世間』)がまったく違うのではないか」という問題点を提起するとともに、著者自身が結婚と離婚をめぐって、「ほんとうは自分はさまざまな人間関係の網の目のなかに埋め込まれていて、自分が決定できることなんてないのではないか」と痛感したこと、ヨーロッパの不気味な「静けさ」という風景印象を体験したこと、を世間学にのめりこむきっかけとして述べています。そして、阿部氏の「世間とは個人個人を結ぶ関係の環であり、会則や定款はないが、個人個人を強固な絆で結び付けている。しかし、個人が自分からすすんで世間をつくるわけではない。なんとなく、自分の位置がそこにあるものとして生きている」という定義を紹介するとともに、「私たち日本人が集団になったときに発生する力学」という自身による定義を加えています。
 第2章「世間学の基礎知識」では、「世間」を構成する原理として、
・贈与・互酬の関係:もらったことに対しては何か「お返し」を必ずしなければ「世間」への義理が立たないと考える強迫観念。
・身分の重要性:目上・目下、先輩・後輩などの身分による序列が非常に重要視される。
・個人の不在:「世間」の中に個人は存在しない。
・呪術的性格:「世間」にある民間信仰や迷信・俗信の類を知っていないと生きてゆけない。
という特徴を解説しています。そして、「こんなに大規模な形で、しかもこれらの特徴・性格・原理を、同時にすべてにわたって合わせもつ人間関係の集団は、日本の『世間』しかない」と述べています。
 第3章「医療と『世間』」では、脳死移植の基準として、「移植術を受ける機会は、公平に与えられるよう配慮されなければならない」と法に定められているにもかかわらず、厚生労働省が「本人の意思を尊重する」を拡大解釈して「親族への臓器提供」を認めてしまった例を紹介しています。
 第4章「学校と『世間』」では、「海外にいる日本人は、必ずといっていいほど、日本人同士で現地の世間を作る」という瀬田川昌裕氏の言葉を引用し、ニュージーランドの日本人向けフリースクールで起きた集団暴行事件や「山形マット巻きいじめ死事件」、九州大医学部が元オウム信者を「(1)かつてオウム真理教に入信していたこと、(2)その幹部として活動していたこと、(3)医学部は人の命を扱うので、こういう人物に教育を受けさせるのは適切でない」という理由で入学許可を取り消したこと等を論じています。
 第5章「職場と『世間』」では、2000年4月に当時の小渕首相が倒れた例を挙げ、「わが国は、首相ですら過労死するフシギの国である」と述べ、時事通信社の記者が、年次有給休暇を使って連続一ヵ月の夏休みをとったために懲戒処分を受けた事件や、伊万里市役所の係長がヒマラヤ登山のための申請した休暇が、「他の職員にしめしがつかない」ことを理由に認められず退職した事件、広島の高校で起きた民間人校長が自殺した事件(その前に2人の教頭が過労で倒れ、本人も医師の診断を元に休みたいと申し入れたのに認められなかった)等が論じられています。
この他本書では、2001年6月に大阪で起きた池田小学校事件や、2003年に起きた長崎児童誘拐殺害事件の際に当時の鴻池大臣が述べた「親なんか市中引き回しの上、打ち首にすればいい」という発言、マスコミが明石家さんまを呼び捨てにしてウサマ・ビンラディンに「氏」がつく理由等について、とりとめもなく論じています。
 本書は、前半は「世間」学の概説書、後半は「世間」をめぐるエッセイという感じの一冊でした。


■ 個人的な視点から

 本書の第8章では、報道機関が「容疑者」の呼称を使用する際の指針として、朝日新聞の「容疑者の呼称についての指針」(2001年11月24日朝刊)を引用しています。それは、
▼捜査機関が任意で調べている場合、匿名にするか、実名でも肩書きや敬称をつける
▼逮捕もしくは指名手配された段階で、原則として実名の後に「容疑者」をつける。呼び捨てにはしない
▼起訴を報じる記事でも、初出の指名に「容疑者」を使う
▼同じ記事の中で2回目以降は、肩書き呼称を併用することもある
▼起訴後、判決確定までは、原則として初出の氏名の後に「被告」をつける。無罪判決の時は、裁判記事では被告をつけるが、社会面記事直では「さん」づけでもよい
とするものですが、著者は、わが国では「容疑者」が侮蔑的な呼称であり、「無罪推定の法理」が「世間」では働かないことを述べています。
 おもしろいのは、タレントが「容疑者」になった場合で、有名な「稲垣吾郎メンバー」という苦し紛れの報道も紹介されています。


■ どんな人にオススメ?

・世間の目が気になる人。


■ 関連しそうな本

 佐藤 直樹 『「世間」の現象学』
 阿部 謹也 『学問と「世間」』
 阿部 謹也 『日本人の歴史意識―「世間」という視角から』
 阿部 謹也 『「世間」とは何か』
 パオロ・マッツァリーノ 『反社会学講座』 2006年03月11日


■ 百夜百音

Get the Knack【Get the Knack】 Knack オリジナル盤発売: 1979

 「一発屋」の代名詞とも言える人ですが、今聴いてもいい曲です。結局、流行や技術以上に、曲が素晴らしい、というのが何を置いても一番強いんだということを教えてくれます。

『80's ALIVE』80's ALIVE

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