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2007年7月

2007年7月31日 (火)

「裏日本」はいかにつくられたか

■ 書籍情報

「裏日本」はいかにつくられたか   【「裏日本」はいかにつくられたか】(#922)

  阿部 恒久
  価格: ¥3360 (税込)
  日本経済評論社(1997/10)

 本書は、70年代以降使用が忌避されるようになった、「経済的・社会的・文化的に遅れた地域を意味」する「裏日本」という言葉の、「形成期に焦点をあて、その時期、実態、社会的要因について考察」したものです。著者は、「裏日本」が、「近代化における典型的な地域格差」として登場したものであり、国税を資本として展開した「殖産興業政策(後に民間に払い下げられる官営向上、鉄道などの社会資本を含む)および特定産業の保護育成策を中心とする経済政策、官僚要請を基本とした高等教育機関の整備、師団や裁判所などの国家機関の設置」などの「経済的・社会的な基盤整備のあり方が近代日本における新たな地域格差の形成の大きな要因ではないのだろうか」と指摘し、「近代化の初めにおいて作られた地域格差は、容易に解消されるどころか、累積・拡大されていくのであり、形成期の持つ意味は大きい」と述べています。
 第1章「『裏日本』観念の成立」では、「裏日本」「表日本」の語が、「自然地理の一つである地勢論の中の地質構造論に関し、1888年まず『裏面』『表面』として用いられ始め、それがさらに矢津昌永により95年『裏日本』『表日本』と称されるようになった」と述べています。
 さらに、1900年ごろからは、「人文地理上の概念として、すなわち地域格差を意味するものとして用いられる」ようになり、その背景として、「その頃に日本海側と太平洋側の経済的社会的発展の格差の顕在化が認められ」ると述べています。
 第2章「明治中期の人口移動と『裏日本』の形成」では、日本海側地域の「裏日本」化が、「いつごろから始まり、どのように進行していくのかという問題を、人びとの居住の変化=人口移動の状況を通して考察」しています。
 そして、日本における人口移動に関して、1872年から1897年までは、「人口増加が全国平均的に行われたが、97年から東京・神奈川・大阪・京都・兵庫・福岡・長崎およびその隣県など3府9県地方で増加が顕著になること、他方、1903-08年の間に富山・福井・滋賀・鳥取4県で現住人口が減るなどの顕著な格差化の進行」が指摘されていることを紹介しています。
 また、関東地方に関して、1884年以降の現住人口において、「東京・神奈川・群馬・栃木の4府県は、全国平均を大きく上回る増加率で推移」する「人口流入地域となっている」のに対し、千葉県だけは、「1884年以降の現住人口が全国平均値をやや下回る増加率で推移」し、71年以降の旧国別本籍人口は、上総・安房(とくに安房)が「全国平均値をかなり下回る増加率」であることから、「千葉県は関東地方で唯一の人口流出型地域」であったことが指摘されています。
 さらに、中部地方に関して、東海・東山地方(ただし岐阜県を除く)は人口流出型から人口流入型へ推移しつつあるのに対して、日本海側の北陸地方は明確に人口流出型を呈している」と述べて今視。
 著者は、1897年までの人口移動の状況について、
(1)大局的には今日の概念における東日本の北海道・東北・関東・中部地方において激しく、近畿以西の西日本において緩慢であった。
(2)人口の伸び方に大きな変化があったのは、1885年前後(松方デフレ)と90年前後(恐慌・米価高騰)の時期である。
(3)最大の人口流出地域は北陸4県であり、北陸地方全体が人口の停滞・流出地帯となる1890年前後に「裏日本」化が始まったと考えられる。
などの点を指摘しています。
 第3章「産業育成と地域格差の形成」では、「裏日本」化の政治的要因として、「政治的要因として、薩長を中心とする西南雄藩出身者が明治専制政府の要路を独占しており、日本海側地域の利害を国家的意思決定に反映させることが難しい政治システムの下に長く置かれたこと」を挙げるとともに、「経済的要因としては明治前期の産業育成策の問題がある」として、「上から」の資本主義化を急速に推し進める中で、「近世までに培われた近畿・巻頭など比較的生産力が高い地域に依拠して」行った結果、「著しい地域格差を生むとしたら、その政策は民衆の利益にかなうものとは言いがたい」と述べています。
 そして、工部省によって管掌された官営諸工場が、「おおむね東京を中心とし、横浜・横須賀、大阪・神戸、さらに長崎を結ぶ線上に配置」されていたことを指摘し、殖産興業政策の第二段階で、内務省所管の下に西洋技術の移植を主眼に設置された模範施設の多くが、「東京・千葉・群馬の関東地方に分布しており、そこから除外された新潟権を含む東北地方に対しては起業基金を財源とした殖産興業政策が行われたが、はなはだ不十分なものであった」と述べています。
 また、明治期における新潟県下の産業基盤整備に関しては、
(1)道路問題:首都と最短で結ぶ清水越新道
(2)鉄道問題:県下中央を通新潟港に至る線路敷設問題
(3)港湾問題:新潟築港問題とそれに密接に絡む信濃川治水問題
の3点について論じています。
 このうち(1)については、「開墾自体が不十分に行われた結果、近代的陸上交通路としてほとんど役に立たなかった」として、「日本海側の外国に向かって開かれた貿易拠点として新潟県を位置づけるための基盤整備を明治政府が実質行わなかったことを意味する」と指摘七得ます。
 また、(2)に関しては、当初、東西両京を結ぶ幹線鉄道に中山道ルートを予定していた政府が、1886年に工費・時間と開通後の運転費を理由に東海道ルートに変更した結果、日本海側の鉄道の登場が大幅に遅れたことを解説しています。
 著者は、「当時の技術水準や、それを補うべき外国人技師雇用の財政的困難性などの限界を考慮しても、太平洋側に厚く日本海側にきわめて薄い国家資本・財政の投資であったことは明瞭である。最初の産業育成策におけるこのような結果は、以降における産業発展を著しく規定する」と指摘しています。
 第4章「日清戦後の官立高等教育機関増設問題」では、「公教育体系の頂点に位置し文化的権威の象徴であった官立高等教育機関がその治に存在するか否かは、地域格差の形成に予想以上の影響を与えている」と述べ、「官立高等教育機関がないことは若い頭脳の他府県への流出をもたらし、その地域の文化的後進性を加速していく。それが近代社会の形成途上にある長生き乾燥した状況が続けば、地域格差は明瞭な形となって現れ、近代日本の文化構造のひずみとなり、その修正は不可能に近くなる」と指摘しています。
 著者は、「日清戦後における官立高等教育機関の増設状況」について、「南海道を除く太平洋側に多く日本海側にきわめて少ない」ことを指摘し、「個々には種々複雑な要因が加味されたとしても、何らかの政策意図が貫徹しなければ、こうはならない」と述べ、この増設ラインが、「日本鉄道線(民営)・東海道線(官営)・山陽鉄道線(民営)、さらに海を渡って九州鉄道線(民営)でつながっていること(それに接続すべき鹿児島線は官設として建設中であった)、長州、薩摩という二大藩閥の拠点を通っていることだけは、明確である」と述べています。そして、この結果が、「藩閥勢力の政治力がまだ強かったことに第一の原因がある」とした上で、「ちょうどこの時期に成立してきた日本海側=『裏日本』の観念が官立高等教育機関の太平洋側への集中的設置に影響してはいないだろうか」と指摘しています。
 第5章「『裏日本』新潟の諸相」では、「1890年からほぼ1900年に至る『裏日本』形成期の新潟県の様相」をみることとし、新潟県を「『裏日本』の象徴的地域」として取り上げています。
 そして、新潟県産業が、「米国生産中心の性格を持続」する中で、その社会が、「地主王国」と呼ばれる特質を持ったとして、「明治維新後、新政府に没収された幕府・朝敵藩の領地が少なくなかったこともあるが、維新を境に武士の世は農民身分の出自を持つ大地主の世に替わった」と述べ、その特徴として、
(1)全国一の巨大地主・大地主地帯であった。
(2)零細農民の比率が高かった
の2点を挙げています。著者は、新潟県が、「巨大地主・大地主の零細農民に対する支配が基底的社会関係」であり、「小作農に規制しつつ地域社会関係の頂点に立った大地主」が、「自らは企業勃興期以降次第に小作料を有価証券類への投資に振り向け利益の拡大を図る傾向を強めたが、地域社会の発展的改革に対しては保守的な姿勢を強く持った」ことを指摘し、「新潟県の『裏日本』化の一表象として地主王国および保守主義が成立した」と述べています。
 また、「全国平均値を大きく下回る女子の就学率の低さ」が、「貧困な農家が多いことに加えて、中等程度の生活をしている農家においても女児に教育は要らないとする考えが強く、女児に家事の手伝い、子守をさせて就学させないのが多いこと、さらに教員や村当局の女子教育に対する無理解などが背景にあった」ことを述べています。一方、大地主たちは、「自らの子弟は東京などに遊学させながら県下の教育を発展させることにははなはだ消極的」であり、「その結果が県下高等教育の立ち遅れを招いたことは明らかである」として、「裏日本」の一表象としての高等教育機関の未整備が、藩閥的利害のほか、「県下大地主層の消極的姿勢が招いた結果でもあった」と指摘しています。
 さらに、新潟が、「娼妓国」として伝えられ、当時の統計では、新潟県は全国7位の娼妓数であり、「新潟県全体を『娼妓国』としてみることは妥当でないが、新潟県を代表する、いわば顔である新潟市」の状況が、「新潟県全体が『娼妓国』であるかのようなイメージを1890年前後につくりあげていった」と推測するとともに、この頃の新潟県が、「日本帝国中娼妓輸出国の首魁とまで呼び囃された」との指摘を紹介し、1900年末の東京府下娼妓の生国府県別で東京に次ぐ2位の地位を占め、「新潟県出身者で他府県の遊郭に身を沈めるものが相対的に多かったことは十分推察される」と述べています。
 第6章「山陰地方の『裏日本』化」では、1900年前後の帝国議会議員の地域格差に関する言説を取り上げるとともに、当時の新交通である鉄道問題の推移を追っています。
 そして、山陰地方の「裏日本」化を考える上で、「鉄道・海運問題は避けて通れない重要な問題領域である」と述べ、鉄道敷設問題が、「きわめて複雑な経緯をたどり展開した」ことを解説しています。
 著者は、山陰地方が、元来「交通不便な地」であり、「東京はもとより大阪・京都からも相当離れている」ことを挙げた上で、「応分の税負担を行っているにもかかわらず、社会資本を含む国家的施策の乏しさも明白であり、山陰地方は明治国家によって『裏日本』化された言ってよい」と指摘しています。
 「まとめと展望」では、「『裏日本』の形成が松方デフレ期の1884年から91年にかけて始まり、日清戦後の1900年頃にはっきりした形として現れ、人々に『裏日本』という差別的観念を植え付けつつ確立したこと、『裏日本』形成の基本的要因が明治政府の近代化政策にあること、また『裏日本』化する地域の側では地主層の保守性も要因であったこと」を述べています。
 本書は、地域間の格差拡大が指摘される現代において、そのルーツの一つを示してくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 本書の端々には、明治政府の国家政策に対する強い怒りが感じられ、ときにはやや強引に感じられる箇所もありますが、大学卒業までを新潟で過ごした著者ならではの強い思いがあるからこそ、本書が読み物として面白いものになっているのではないかと思います。
 最近の「ふるさと納税」をめぐる議論(選挙が終わったので立ち消えになるかもしれませんが)でも、福井県知事を中心に、「裏日本」諸県からも強く主張されていますが、その遠因として、明治政府による太平洋側への集中的な投資があることがわかります。


■ どんな人にオススメ?

・「裏日本」という言葉を知らない人。


■ 関連しそうな本

 大石 嘉一郎 『近代日本地方自治の歩み』 2007年06月12日
 勝田 政治 『内務省と明治国家形成』 2007年02月16日
 渡辺 隆喜 『明治国家形成と地方自治』 2007年03月26日
 高久 嶺之介 『近代日本の地域社会と名望家』 2007年06月15日
 竹前 栄治, 中村 隆英, 天川 晃 『GHQ日本占領史 (13)地方自治改革』 2007年01月19日
 山田 昌弘 『希望格差社会―「負け組」の絶望感が日本を引き裂く』 2006年01月11日


■ 百夜百マンガ

考える犬【考える犬 】

 「バイク」「男の生き様」など、人間ドラマが中心の作者にしては、少しひねった犬を主人公にした人間観察ドラマです。「動物の視点からの人間観察」って『吾輩は猫である』の犬版ってこと?

2007年7月30日 (月)

官のシステム

■ 書籍情報

官のシステム   【官のシステム】(#921)

  大森 彌
  価格: ¥2730 (税込)
  東京大学出版会(2006/09)

 本書は、「政策過程における行政の『政(まつりごと)的側面』の研究ではなく、『政(まつりごと)的側面』を内包する行政活動がどのような組織と人事の仕組みの中で行われているかを明らかにしようとするもの」であり、「なによりも官のシステムの『粘性』」、すなわち、「官のシステムが変化に抵抗する粘着力」を描こうとしています。
 第1章「持続した官のシステム」では、明治維新後に形成された官のシステムが、「戦後改革を巧妙に潜り抜け、今日に至るまで連綿として続いている」と述べ、「変化を迫られても、変わるまいと抵抗する」理由や意図が、「従来なじみのなかった組織・人事制度が外部からの強い力で移植されようとした時」に端的に表れるとして、「敗戦日本の官吏制度改革のためにGHQが導入を強要した『職階制』」の例を取り上げています。「職階制」は、「アメリカ合衆国において、1892年にシカゴ市ではじめて採用され、連邦政府では『1923年分類法』の成立によって実施されるようになった」もので、職階制の実施によって、「国会公務員の官職は、○級統計職とか、○級建築職、○級法律職というように、省庁の別なく、職種と職級で分類され、それに応じた給与が与えられ、ある官職への採用、昇任のためには、その試験に合格して、その官職を担う適格性を実証しなくてはならない」ものであったと解説されています。
 しかし、「危機に瀕した官のシステムは生き残ろうと」し、GHQによる間接統治のもとで、「ほとんどの官僚は温存され、敗戦後の各省庁の行政実務を担」い、「現に省庁に配置されている職員は日々の仕事をしなければならないし、職員の補充・配置・昇任の人事を行い、給与などの処遇の必要もあった」ため、「この現実の必要性と新たな制度へ向かおうとする改革の動きとが軋む中で、旧システムの温存が図られること」として、各省の人事担当者(=高文官僚)たちが、「この現実への対応の中で、職階制導入への抵抗を執拗に続け」たことが解説されています。
 また、「自治官僚を務め公務員制度の研究者としても知られた鹿児島重治」が、職階制未実施の「直接の理由」として、「その制度当初から人事当局と職員の労働組合が強く反対したため」であり、人事当局は、「職階制による職務の分類が複雑で、それによって任命権が拘束されることを危惧し」、労働団体側は「職階制の階層的な格付けのために身分制が復活すること懸念した」ほかに、「根本的な理由」として、「詳細な職務記述書(Job description)に基づく職務分類(Positin classification)によって仕事をすることがわが国の職場の実態には一般的には妥当しなかった」ことを指摘し、職階制が、(1)集団主義的職務執行体制、(2)各職員の職務の弾力性、(3)労使の一体性、の3つの理由から「わが国の職場の風土に適合しない制度」であると解説していることを紹介しています。
 著者は、「スーパー・パワーとしてのGHQ」が、「良かれと考え、アメリカ型の職階制を、改革(治療)方策として、それまでの日本の人事管理システムに『移植』した」が、「日本の官システムは、これを異物=非自己の侵入として認知し、自己の全体性を守るために、移植された制度(臓器)を機能不全に追い込み、いつでも排除できる状態にしてしまった」と解説しています。
 第2章「変わらぬ大部屋主義の職場組織」では、「一課一部屋で複数職員が席を並べて仕事をする大部屋の職場」に、「わが国の行政組織の特色が映し出されている」と述べ、「明らかに職階制の『初めに職務ありき』とは異質の『初めに職員ありき』の組織の作り方と結びついている」と述べています。
 そして、「わが国の職場組織が欧米のそれと基本的に異なることを発見」したのが、海外勤務に出た国の役人であったとして、「人事院に入り人事院公務員研修助長を歴任した田代空」が、1974年から5年間在ローマの国連食糧農業機関(FAO)に勤務した経験や、「旧自治省に入り自治大学校長を歴任した久世公尭」が、1968年に米国ロサンゼルス・カウンティを視察した報告などを紹介しています。
 著者は、「組織は、仕事と人をどのように結びつけるか、その原理と様式によって理解することができる」として、
(1)初めに職務ありき
(2)初めに職員ありき
の2通りの組織の作り方を解説しています。
 そして、「大部屋主義」を、
(1)公式の(事務分掌規程上の)所掌事務は、局、課、係という単位組織に与え、
(2)しかもその規程は概括列挙的であり、
(3)職員は、そのような局、課、係に所属し、
(4)しかも物理空間的には一所(ひとつところ、同じ部屋)で執務するような組織形態
の4点により定義するとともに、その特色として、
(1)一所の執務空間
(2)仕事振りの相互評価
(3)人間関係の重視
(4)概括列挙の所掌事務規定
(5)曖昧な職員定数
(6)よき人柄が望まれる所属長
の6点を挙げています。
 第3章「規格化された組織とその管理」では、国家公務員の活動には、「広く国民の福祉や安全・安心にかかわる政策の運用を行っているため、その濫用が起きないように法制度という『鉄格子』がはめられていて自由度はかなり限定されている」と述べ、「鉄格子」といわれる所以は、「公務という活動の内容や方法の決定および活動資源の調達における自立性に制約を加えられているからである」としています。
 そして、2001年の中央省庁再編の特色について、
(1)内閣府を内閣府設置法で創設し、それを国家行政組織法の外に置いたこと
(2)それまでとても実現は難しいと考えられていた省庁間の合併を断行したこと
(3)政策の企画・立案機能と実施機能を組織的に分離するという考え方から独立行政法人性を導入し国の行政機関の「切り落とし」を行ったこと
の3点を挙げています。
 また、府省の組織について、「大臣を頂点にして、副大臣(大臣政務官)→事務次官→官房長・局長→局次長・部長→課長→係長→係員というピラミッドを構成している」ほか、「事務次官レベルから課長・課長補佐レベルに至るまで、これに相当するスタッフ的な「職」が配置されている」として、
・次官級:省名審議官
・局長級:制作統括官
・局次長級:官房審議官
・課長級:参事官
・課長補佐級:企画間
などの例を挙げ、「なぜこうした職が置かれるようになったか」に関して、昭和15年以降、どの省も、「戦争で相当損耗があるだろう」と見込んで、幹部候補生を「倍の人数とった」が、彼らが「戦争に行っても死なない」で、「戦争中は比較的ラクなところにおったとはいえるが、インパール、ニューギニアに行ってもシベリアに抑留されても損耗せずに帰って来る。内地に残った連中の損耗率と戦地へ行った損耗率と同じくらい。大体一割くらいしか減らなかった」ため、「仕方がないんで、部長、次長、参事官、審議官というヘンなものをつくった」のではないか、そのために「上のやつは長居できなくなって、公団、公社をつくらなければならん、というところまできた」という証言を紹介し、「こうした職が本当に必要であったと言うよりも、処遇のためであったことをうかがわせる」と述べています。
 著者は、「不詳組織の内部構造は規格化されている。これにより組織単位や職名のレベル・価値が横並びで評価でき、その共有によって府省・所管課間の会議や協議等の際に、職員の相互確認が容易になっている」上、「内閣府や総務省・財務省・人事院などによる組織・定員管理上の総量規制と一律扱いを可能にし、特に削減・縮小型管理における審査・査定業務の負担を軽減させている」と述べています。
 第4章「定員削減のメカニズム」では、「組織規制とともに官のシステムにはめられている鉄格子」である、各省庁の定数の削減について解説しています。
 そして、定員の「純減」を理解するには、「わが国で取られてきた独自の定員の総量管理方式に目を向ける必要がある」と述べ、その手法が、「行政需要の減りつつある部門の欠員が生じた場合にこれを補充しない、そしてその欠員分を中央に留保して、これを必要な部門に充て(拡充定員に振り向ける)、これによって全体としての定員数の増加を抑えるやり方」であり、「各省庁を通じた国家公務員の総数に上限を決めてしまうもの」であることを解説しています。
 著者は、定員の総量規制方式の問題として、
(1)総定員法によって各府省の定員は縛られているが、その外に特殊法人や公益法人の削減には総定員法は効かない。
(2)年次ごとに閣議で各省庁の削減数が決定されるが、省庁によっては削減目標数まで退職者数が達しないという事態が生まれ、定員削減の実績が年々低下する傾向を示している。
(3)各省庁に割り当てられた削減率を達成する任務は主として各省庁の官房部門が行っているが、各章内閣組織に格差をつけて削減を断行することは極めて困難な現状にあり、その結果、削減の割り当ては一律に行い、増員要求の内部審査の段階で需要に応じた増員配慮を行うのが一般的な実際である。
の3点を指摘しています。
 そして、この方式が、「仕事量と適性必要人員の関係について客観的な測定と評価による審査に必ずしも基づいておらず、その意味で合理的根拠が乏しい」ことを指摘しています。
 第5章「日本国所管課の活動」では、日本国政府が、「一つではなく、『合省国』といってよいが、所管事項について言えば、本府省各課が、事実上、日本国政府そのものであるといってよい」と述べています。
 そして、キャリア官僚の育成について、多くの場合、「局内の総務課や企画課といった局内の取りまとめの課に配属」され、コピー取りやワープロ打ちなどの単純作業の中で、「役所の仕組み、仕事のやり方を体で学んでいく」、「徒弟制度的」であると述べています。その後、2~3年で企画法令係長などの係長に昇任し、「その所管課の立場から各種の協議・照会に対して意見の有無を回答することや、小規模な政省令や国事の案作り、通達・通知事項の文書化、自治体や出先機関(地方支分部局)からの問い合わせに対する回答作り」などを通じて、「官報に一行の政省令改正や告示を掲載するためには、あらゆる角度からの検討がなされなければならない」ことを学ぶことが解説されています。
 また、法律案の作成作業を行うPT(プロジェクト・チーム)は、「タコ部屋」と呼ばれる作業部屋にこもり、現場監督をする総括課長補佐クラスのキャリア法令企画官が、
(1)概要説明資料(ポンチ絵)の作成
(2)立法実例の検索
(3)案文
(4)官房・法制局用資料の作成
(5)審査立会い
の5点セットの「作成・印刷・タイプ打ちといった立法作業全体を担当補佐の下の実行部隊として」行うという「法令作成の修行」を行うことを解説しています。
 さらに、国会答弁作りのルールとノウハウとして、
(1)決して言質をとられず、責任の所在が明らかにできないようにする。
(2)できるだけ現状維持の状態を保てるような内容にする。
(3)聞いている誰もが不満を言わないような文章にする。
(4)突っ込んでくるような質問に対しては、はぐらかしていないようで、実際には上手にはぐらかすような文体とする。
の4点を挙げ、「重箱の隅を突っついてくるような質問が多い中で、このような要求を満たすのは至難の技だ。時間とエネルギーがかかるのも無理はない」と紹介しています。
 第6章「分権改革と省庁の対応」では、1995年5月の地方分権推進法の制定を、「わが国憲政史上にも稀な政治的決定であった」と述べ、「中央省庁の官僚がこの国会の意思に従わないわけには行かない」のは、「法律の威力を彼ら自身が誰よりもよく知っているからである」と述べています。
 そして、1996年11月20日に、第一次勧告を前に、分権委の委員長らが、自民党行政改革推進本部に説明に訪れたときに、「機関委任事務の廃止はわかった、各省が納得しているならそれでいい。党は何も言わない」と言ったが、「市町村への事務権限の移譲を独立のテーマとして取り上げ勧告を作成すること、市町村合併を積極的に促進すること、首長の多選を制限すること、これが党の総意である」という注文がついたことを紹介し、「機関委任事務の廃止」が、「『政治』を排除して成り立っていたこの事務の本質」のために、「さしたる関心事ではなかった」と述べています。そのため、「論より実利」に敏感な政治家にとっては、「重大なインタレスト」ではなく、官僚から見れば、「廃止に納得できない、うるさい先生(有力政治家)がうしろにいて、とてももたない」という防戦を張ることができなかったと解説しています。
 一方で、難航した問題として、
(1)公共事業の分権改革:固い既得権益構造の中心に「日本が公共事業大国である限り分権改革に対抗し続ける最強の官グループ」である技官集団がいた。
(2)税源の移譲:大蔵官僚は、「地方税財政の充実・強化」は、税源移譲への布石であるとして、「強化」を「確保」に直させた。
の2点を挙げています。
 また、第一次分権改革で手をかけられなかった税源移譲については、分権委の後継と見られた「地方分権改革推進会議」に期待がかかったが、委員の間で、財政再建か分権改革かで内紛を起こし、「税源移譲推進の主役は経済財政諮問会議と総理から異例の要請を受けた地方六団体に移ること」になり、「三位一体の改革」という言葉が出てきたことが解説されています。
 さらに、三位一体改革の背景にある「霞が関事情」として、
・財務省:税源移譲に反対
・総務省(旧自治省系):財政再建のための地方交付税削減に反対
・個別省庁:国庫補助負担金の廃止・縮減に反対
の「三すくみ状態」があったため、「それぞれに『苦い薬を呑ませる』必要」があったことが解説されています。
 著者は、今後の課題として、「消費税の地方移譲など、さらなる税源移譲に向かって、温存されている国庫補助負担金の廃止を実現していくこと」であるとし、そのための「折衝は厳しさを増す」のは、その廃止が、「日本国所管課の組織と定員の縮減に向けてじわじわと効いていくから」であると述べています。
 終章「官のシステムのゆくえ」では、「官のシステムの核心」は人事システムにあり、「人事システムの改革によって官のシステムを変革する以外に、各府省の個別行政も一般行政も、その閉塞状況から脱却できない」と主張しています。
 そして、国家公務員のキャリアパスとして、稲継裕昭による「二重の駒型」昇進モデルを紹介しています。
 また、国家公務員法改正において、労働基本権問題が重要である理由として、「単にILOの勧告の実現にかかわるだけではなく」、「キャリアシステム廃止と新たな人事評価システムの導入」が「アジェンダとして具体性を帯びていく」ことで、「休眠中の国交法第78条を覚醒させる可能性が出てくる」ことを指摘し、分限免職の規定について言及しています。
 著者は、「官僚制に対する実効的な民主的統制は言うほど簡単ではない」理由として、「現代民主制は有能で忠実な官僚集団を必要としている」ことを挙げ、「時代と社会の変化の中で、何が日本国の官僚の果たすべき役割なのか、どういう点でどのような能力を発揮すべきなのかが改めて問われなければならない」と指摘しています。
 本書は、システムとしての官僚制度について、客観的な見地から解説している良書です。


■ 個人的な視点から

 なんとなく、新聞や週刊誌などで目にする官僚のスキャンダルの記事をもとに、頭の中で「官僚像」を描いてしまいがちですが、実際に接してみると個々人は非常に常識人でびっくりするんじゃないかと思います。
 問題は、個々人を超えたシステムの問題であることを教えてくれます。


■ どんな人にオススメ?

・「官僚」に会ったことがない人。


■ 関連しそうな本

 川手 摂 『戦後日本の公務員制度史 「キャリア」システムの成立と展開』 2005年12月29日
 早川 征一郎 『国家公務員の昇進・キャリア形成』 2006年04月20日
 曽我 謙悟 『ゲームとしての官僚制』 2006年02月24日
 稲継 裕昭 『日本の官僚人事システム』 2005年02月10日
 稲継 裕昭 『人事・給与と地方自治』 2005年12月09日
 天川 晃 『GHQ日本占領史 (12) 公務員制度の改革』 2007年01月18日


■ 百夜百マンガ

華族な人々【華族な人々 】

 学習院は華族の子弟教育のために作られたそうです。鷹の爪団総統の「わしの先祖は殿様だったんじゃあ」という魂の叫びが蘇ります。

2007年7月29日 (日)

安全安心のための社会技術

■ 書籍情報

安全安心のための社会技術   【安全安心のための社会技術】(#920)

  堀井 秀之
  価格: ¥3360 (税込)
  東京大学出版会(2006/01)

 本書は、「安全安心を達成するためには、安全のためにこれまで構築してきた工学的な枠組みだけでは不十分」であり、「安心を取り扱う心理学的なアプローチはもちろん、それを包含したもう少し大きな、そして新しい枠組みが必要」という問題意識に基づき、「科学技術の成果と社会制度をうまく組み合わせることによって生み出される問題解決策」である「社会技術」に関して書かれたものです。
 第1章「安全安心のための社会技術」では、社会問題の解決を困難にしている要因として、
(1)問題の複雑化
(2)著しい科学技術の進歩に伴う問題の高度化
(3)価値の多様化
の3点を挙げています。
 そして、その解決策を開発するためのアプローチとして、
(1)問題の全体像把握
(2)分野を越えた知の活用
(3)問題解決志向の知識連携
の3点を上げ、「そのような問題認識と解決のアプローチに基づいて開発された解決策」を「社会技術」であり、「社会問題を解決し、社会を円滑に運営するための『技術』である」と定義しています。
 第2章「社会技術の開発・実装事例I」では、「医療安全達成の診療ナビゲーションシステム」に関して、「医療の質の向上」に関する研究の歴史が浅く、「基本的に医療スタッフの知識や技術の向上は個々人の問題として位置づけられてきた」ため、「病院における個々の診療の質に直接寄与する可能性がある技術に、病院(組織)として関与するという情報システムは、費用対効果が直接見えにくい」ため普及してこなかったことが解説されています。
 また、「地震被害の可視化技術の開発」に関して、「個人個人を対象とした地震防災」が、研究開発の必要性が高く、自身の危険性に対する関心を高めることがまず必要である」と述べています。
 「オントロジーに基づく知識の社会共有支援」に関して、AIや知識工学の文脈において用いられる「オントロジー」について、「社会技術的文脈」で用いられるオントロジーを、
(1)リンクによって相互に関係付けられた概念の構造である。
(2)ある特定のコミュニティにおいて広く受け入れられている。
(3)関心の対象となる全ての概念を適切な詳しさで網羅している。
(4)ある特定の専門領域に関係する。
の4つの性質を持つものと定義しています。
 「緊急時対応のマルチエージェントシミュレーション」に関しては、危機対応におけるソフトウェア面でのシステム設計を行うため必要となるものとして、
(1)様々な災害や事故によって生じる被害状況や緊急事態をできる限り網羅的に想定
(2)その中で周辺住民がどのような行動をとるのかその傾向を理解、予測
(3)危機対応を行う関係諸機関が、迅速な情報収集・伝達と適切な対応・連携を行えるように規則、手順、役割分担などの具体的な仕組みを整備
(4)適切なシナリオに基づく訓練を行って運用方法を習得
(5)訓練で得られた反省点を適宜防災体制の改善へ反映させる
の5点を挙げています。
 第3章「社会技術の設計方法」では、現代日本の安全法の特色として、
(1)権限の大きさに比べて行政コストを抑制したシステムを形成してきたが、その有効性が問われている。
(2)縦割りが持続していること。
の2点を挙げた上で、「様々な分野における類似の課題を横断的に捉えるとともに、行政、学会など第三者機関、保険など産業界をつなぐような場において実験を積み上げていくプロセスを構築する必要がある」と述べています。
 第4章「社会技術の開発・実装事例II」では、「知識の流動化・再分化・主観化が進んでいる」一方で、「社会技術基盤は社会全域にまたがる分野横断的なものであることが求められる」情勢の下で、知識創造と伝承のプロセスを有効に作動させるための装置として、「会話という人間にとって最も自然なコミュニケーション様式を基調とする会話型知識プロセスという方式を導入し、それを実現するための技術的枠組み」について述べています。
 その例として、地震防災の場合に、「地域コミュニティの構成員が協力して、コミュニティに特化した知識創造と伝承のプロセスを作り上げることによって、コミュニティで共有された文脈の中にコミュニティ構成員の相互の信用が付与されたコミュニティ独自の防災知識体系が想像されるようになることが期待される」と述べています。
 本書は、「社会技術」という観点から安全安心の問題に光を当てた一冊です。


■ 個人的な視点から

 主観的な問題と思われがちな「安全・安心」という問題が、かなり技術的な問題であることが本書を読むとわかります。それも「社会技術」という聞きなれない技術であることを理解する、という意味でも本書の価値があるのではないかと思います。


■ どんな人にオススメ?

・水と安全はただだと思っている人。


■ 関連しそうな本

 岡本 浩一, 今野 裕之 『組織健全化のための社会心理学―違反・事故・不祥事を防ぐ社会技術』 2007年01月24日
 岡本 浩一, 石川 正純, 足立 にれか 『会議の科学―健全な決裁のための社会技術』
 岡本 浩一, 鎌田 晶子, 堀 洋元, 下村 英雄 『職業的使命感のマネジメント―ノブレス・オブリジェの社会技術』
 岡本 浩一, 鎌田 晶子 『属人思考の心理学―組織風土改善の社会技術』
 岡本 浩一, 本多‐ハワード 素子, 王 晋民 『内部告発のマネジメント―コンプライアンスの社会技術』
 樋口 晴彦 『組織行動の「まずい!!」学―どうして失敗が繰り返されるのか』


■ 百夜百音

FIRST FINALE【FIRST FINALE】 オメガトライブ オリジナル盤発売: 1985

『FIRST FINALE CONCERT』FIRST FINALE CONCERT

2007年7月28日 (土)

謎のマンガ家・酒井七馬伝―「新宝島」伝説の光と影

■ 書籍情報

謎のマンガ家・酒井七馬伝―「新宝島」伝説の光と影   【謎のマンガ家・酒井七馬伝―「新宝島」伝説の光と影】(#919)

  中野 晴行
  価格: ¥1995 (税込)
  筑摩書房(2007/02)

 本書は、1947年に出版された「日本の戦後マンガ史を語る上でエポック・メイキングな作品」である『新寶島』(作画:手塚治虫)の原作・構成を担当した、「当時関西マンガ界のベテラン」であった酒井七馬の評伝です。酒井七馬の名前は、「マンガ史からも欠落しつつある」だけではなく、「不遇な晩年を送り、最後は餓死した」と信じられ、通説では、「手塚は『新寶島』の奥付に自分の名前がないことに憤慨して酒井と決別。その後、手塚がめきめきと売り出したのに対して、酒井は作品も売れず、やがて紙芝居に転向。晩年は食べるものもなく、コーラで飢えをしのぎ、裸電球を布団に引き込んで暖をとり、とうとう最後には餓死した」とされていることが紹介されています。しかし、著者は、七馬が、「大阪日赤病院で姪や関西の漫画家たちに看取られながら死んだこと、葬儀は大阪・天王寺の一心寺で行われ、京都にある酒井家の菩提寺に納骨されたこと」などを確認し、「こんなにも事実と違う話が巷間流布されて、誰も信じて疑わなかった、という部分に酒井の存在の希薄さを感じてしまう」と述べています。
 第1部「生い立ち・マンガ・アニメ・終戦」では、1905(明治38)年4月26日に大阪市南区で生まれた酒井弥之助が、大正12年に雑誌『大阪パック』に入社し、マンガ家生活の出発点となったこと、家族ぐるみで交際のあった銀幕の大スター、大河内伝次郎の紹介で日活京都漫画部に入社し、アニメーターとして草創期のアニメ作成に携わった後、再びマンガ家の道に入り、戦地への慰問袋用マンガ単行本を描き、日本マンガ奉公会関西支部の代表として活動したほか、日本映画科学研究所で戦争プロパガンダアニメの作成に携わったことなどが紹介されています。
 第2部「焼け跡・『まんがマン』・『新寶島』・赤本ブーム」では、敗戦後の七馬が、「進駐軍のキャンプや接収されたホテルを回って、GI達の似顔絵を描く」ようになったことで俄然忙しくなり、キャンプ回りでアメリカマンガに触れ、「いつかアメリカマンガのようなものを描いてみたい」という思いを強くしていったことが語られています。
 1946年7月8日には、大阪大学医学専門部に通う学生だった手塚治虫と会い、すっかり話し込んでしまったことが紹介されています。そして、手塚が、全集版『新宝島』の「『新宝島』改訂のいきさつ」の中で、250ページの下書きを七馬に190ページに削られたため、筋の構成に無理が生じた上、「文体がむずかしい」という理由で、「相談なくセリフを変えられ」たり、「色々な字や絵を書き加えられ」たと語っていることを紹介しています。一方で、「酒井七馬サイドの見解」としては、1969年の『ジュンマンガ』に西上ハルオが書いた「「新宝島」研究」から、「酒井七馬先生が、各場面のコマ割(プロット)までを考え、手塚治虫氏にバトンタッチし、できあがったものに、表紙・口絵を酒井七馬先生がつけ、まとまったのである。だから、「新宝島」にかんしては酒井七馬先生が生みの親ということになる」と語っていることを紹介しています。
 著者は、七馬自身も200ページ近い長編マンガを描いた経験がなかったため、「アニメーションの経験からあらすじを立てて絵コンテをつくることはできる」、「初めはペン入れまで自分ひとりでやるつもりだったろう」が、「そこに手塚治虫という若い才能が現れた」ため、「アニメーションの分業の要領でマンガ単行本ができる、と考えたのではないか」と述べ、スチーブンソンの「宝島」をベースに、ターザンやロビンソン・クルーソーを「ごった煮」的に詰め込むという手法が、「戦前の短編アニメーションにはよく見られるもので珍しいものではない」と解説しています。そして、なぜ「宝島」か、という問題については、手塚がデビュー前に描いたとされる『オヤヂの宝島』を七馬に見せていて、七馬がこの作品をベースにして『新寶島』のあらすじを立てたのではないか、と推測しています。
 また、七馬の没後、姪の元に届いた手塚治虫の母からの手紙の中で、「『デッサン一つ習ったことのない息子』にとって『新寶島』の合作がよい勉強となり、何度も七馬の指導を仰いだことに感謝」しており、「再販又再販この感激は生涯忘れることができない」と語っていることを紹介し、「『新寶島』の原稿はある程度まとまったところで七馬の元に届けられ、その都度にダメ出しがあり、手塚は描き直したものをまた届けていたと考えられる」と述べています。
 著者は、マンガ史における『新寶島』の役割を、「手塚は七馬と出合うことで手塚たりえた、どでも言おうか。アニメーターであり、アメリカ風のバタ臭いタッチに憧れた酒井七馬が目指した新時代のマンガを、若き手塚治虫の手で具現化したのが『新寶島』であり、その後、手塚はよりドラマ性を追及するようになり、七間は絵にこだわっていく。ふたりの方向性が偶然ひとつになった奇跡とも言える合作だったといえるだろう」と評しています。
 さらに、『新寶島』が部数40万部を伝えられていることについて、「描き版でそれだけすることは無理」とする証言を紹介し、「売れたことは間違いないだろう。ロングセラーになったことも間違いない累計ではもう少し下駄を履かせることができるかもしれない」としながらも、累計4万部までと試算しています。
 第3部「紙芝居・絵物語・テレビアニメ」では、赤本マンガブームの終焉後、多くの赤本マンガ家が新聞マンガや東京の雑誌に移ったの対し、七馬が「左久良五郎」のペンネームで「三邑会」で紙芝居を描く道を選んだ理由について、「画家たちの気持や考えを尊重」する経営者の考え方に惹かれたからではないか、と推測しています。
 その後、七馬は一旦、『大阪日日新聞』の連載を5年間続けた後、再び紙芝居の世界に戻っています。しかし、「高度成長によって不安定な紙芝居演者を辞めて、より高給で安定した仕事に移る人が増えた」ため、街頭紙芝居は斜陽となっていくことが語られています。
 1963(昭和38)年に、国産初の長編テレビアニメシリーズである『鉄腕アトム』の放送が始まると、「実際に絵を動かしてみたい」という思いが募り、「自分の手でプロダクションを作りたい」というものに変っていったことが紹介されています。そして、1966年からは、絵コンテ担当として『オバケのQ太郎』の製作スタッフに加わり、「脚本とオリジナルのマンガから、登場人物たちをどう動かし、どう見せるのかをカット割にする」という「お手のもの」の仕事に携わったことが紹介されています。
 1969(昭和44)年の正月には、肺結核を患った七馬は、ほとんど動けず、友人からの食べ物の差し入れにも手をつけることができず、好物のコーラだけを飲んでいた状態で病院に担ぎ込まれ、親族や大阪のマンガ界の人間が見舞いに来るなか、大阪日赤病院で亡くなったことが語られています。
 著者は、入院できるだけのお金を持っていた七馬が手遅れになるまで病院に入ろうとしなかった理由を、「ゆるやかな自殺であったように思われてならない」と述べ、「自分がマンガにおいても、アニメにおいても、もはや過去の人であることに気づいてしまった」ことで、「生きることそのものを諦めるしかなくなっていたのではないか」と語り、七馬の戒名が「慈照院諦観信士」であることについて、「これほど七馬にふさわしい戒名はない」と述べています。
 本書は、日本マンガ史において、巨大な手塚治虫の影に消えかけていた才能を紹介した貴重な一冊です。


■ 個人的な視点から

 本書を読んで『新寶島』を読みたくなったのはもちろん、『鉄仮面』など当時の書き下ろし単行本を読んでみたくなりました。
 考えてみれば、小説では書き下ろしの単行本がいまだによく出ていることですし、日本のマンガシステムで失われた、書き下ろし長編単行本も読んでみたいものです。


■ どんな人にオススメ?

・手塚治虫は昔から天才だったと信じている人。


■ 関連しそうな本

 手塚 治虫 『ぼくはマンガ家―手塚治虫自伝』 2005年05月28日
 大塚 英志, ササキバラ ゴウ 『教養としての〈まんが・アニメ〉』
 中野 晴行 『マンガ産業論』
 夏目 房之介, 宮本 大人, 鈴賀 れに, 瓜生 吉則, ヤマダトモコ 『マンガの居場所』
 フレデリック・L. ショット (著), 樋口 あやこ (翻訳) 『ニッポンマンガ論―日本マンガにはまったアメリカ人の熱血マンガ論』 2006年04月29日
 杉山 知之 『クール・ジャパン 世界が買いたがる日本』


■ 百夜百音

冷麺で恋をして【冷麺で恋をして】 小滝詠一 オリジナル盤発売: 2001

 昔、盛岡駅前のパチンコ屋の上の冷麺屋で食べた冷麺がおいしかったです。恋をするかどうかは定かではありません。

『A LONG VACATION 20th Anniversary Edition』A LONG VACATION 20th Anniversary Edition

2007年7月27日 (金)

社内ブログ革命 営業・販売・開発を変えるコミュニケーション術

■ 書籍情報

社内ブログ革命 営業・販売・開発を変えるコミュニケーション術   【社内ブログ革命 営業・販売・開発を変えるコミュニケーション術】(#918)

  シックス・アパート株式会社(編集)
  価格: ¥1575 (税込)
  日経BP社(2007/1/18)

 本書は、「これまで成功を収めた企業の事例を交えながら、どうすれば社内ブログでコミュにケーションを活性化できるのか、新製品の開発や売上の向上に生かすことができるのかを明らかにする」ことを目的としたものです。
 第1章「なぜ社内ブログでコミュニケーションが変わるのか」では、「タバコ部屋」など、「上司や部下や、部署の異なる人同士が、仕事に関係のない話題も含めて、ざっくばらんに雑談」できた場が消えつつあるなか、「失われてしまったムダなコミュニケーションを取り戻すこと」を、「企業にとって急務」であるとした上で、「そのためにいかに社内ブログが活用できるか」と述べています。
 また、社内ブログが、「必要最低限の機能で小規模に立ち上げた場合、わずか数十万円の予算」で済み、運用コストも抑えられることを解説しています。
 さらに、社内ブログをうまく使うことで、「会社の上下をつなぐコミュニケーション・ツールとして利用」できると述べています。
 第2章「成果を上げる12のテクニック」では、社内ブログ導入で成果を上げるためのテクニックとして、
【誰が書くか】
(1)カリスマ社員と新人
(2)社内アルファブロガーをつくる
(3)社長ブログはこう書け
【どう書くか/どう書かせるか】
(4)完成度50%でもアウトプットする
(5)インセンティブよりモチベーション
(6)個性を殺さない
(7)自由に意見を言わせるムードづくり
【運営の工夫】
(8)勉強会を開く
(9)情報漏洩に対する意識を浸透させる
(10)社内ルールを取り決める
【機能の活用】
(11)コメントやトラックバックを活用する
(12)社内ポータルとRSSの活用
の12点を挙げています。
 また、社内ルールの例として、大手SIのアイ・ティ・フロンティアの、
・就業規則にのっとって常識の範囲で利用する
・雇用時の守秘義務を遵守する
・匿名ではなく実名で行う
・書き込む内容に対しては原則として自己責任とする
・全社員が閲覧可能なことを考慮し、投稿内容に注意する
・文書、画像などの引用を含め、他からの情報は、著作権・特許などを考慮し取り扱いに注意する
・誹謗中傷を行わない
・けんかをふっかけられても乗らない
・社内の他blogを参考にし、後悔後の反響を考慮する
・自由闊達なコミュニケーションを妨げない
などのガイドラインを紹介しています。
 第3章「業種別に見る社内ブログ活用」では、社内ブログの利用の形として、
・日報:現場からの報告を通じて情報を吸い上げる。
・申し送り:現場の社員やスタッフの間で連絡事項を共有
・底上げ:優秀な社員ノウハウを共有してスキルアップ
・たばこ部屋:雑談を通じてさまざまな情報をやりとり
・自己アピール:社員が経歴や得意分野などの情報を発信
・対話:お客さんとのコミュニケーションを活性化
・ミーティング管理:プロジェクト単位で情報を共有
の7点を挙げています。
 そして、スタッフ・ブログを活用する上で、時給制のアルバイトスタッフが、「ブログを閲覧・投稿する時間を業務時間とみなすか」という問題について、「投稿記事数やコメント数などによって特別手当を与える」など、「制度としてインセンティブを与えるような仕組みがあった方が、勤務時間外に投稿するモチベーションが上がる」のではないかと述べています。
 また、ミーティング管理ツールとして、グループウェアやドキュメント共有ツールとの代替としてのブログの活用などが紹介されています。
 第4章「担当者に聞く成功の秘訣」では、「社内ブログで成果を上げた企業で、どのような人がブログを企画し運営したのか、どのようなことを考えていたのか」を紹介しています。
 ユニクロの事例では、それまで本格的に扱っていなかった「スカート」の販売や、新聞の折込チラシに関して、店舗スタッフからの意見を聞くことで、成果を上げている例が紹介されています。
 また、日本オラクルの事例では、社内ブログが成功している理由として、
・社員一人一人に自由にブログを書かせている。
・社内ブログ・ポータルや、社内ソーシャル・ブックマークで、全体を見渡せる工夫をしている。
・過去の資産はそのままにして、無理にブログにのせ変えることはしない。
・必要に応じて社内検索ツールで情報を探せるようにしている。
の4点を挙げています。
 マクロミルの事例では、「広報部門が社内に対して『社内広報』を行うため」、「マクロミルの経営陣や社員がメディアに登場したり、マクロミルの手がけた調査結果や社員が記事になったり、業界関連のニュースがあるとき」に、「最低限社員に知ってほしい情報」を掲載するブログの例を紹介しています。
 本書は、企業におけるブログというツールの活用方法を教えてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 ブログのシステムの会社の本なので、もちろんある程度割り引いて読む必要はありますが、社内ブログが必要とされる現状の分析自体は大変価値があるものだと思います。
 オフサイトミーティングが必要とされることと根っこは同じと考えていいでしょう。


■ どんな人にオススメ?

・車内のコミュニケーションが不十分だと感じる人。


■ 関連しそうな本

 柴田 昌治 『なぜ会社は変われないのか―危機突破の風土改革ドラマ』
 ジョン・P. コッター (著), 梅津 祐良 (翻訳) 『企業変革力』 2005年02月19日
 中尾 英司 『あきらめの壁をぶち破った人々―日本発チェンジマネジメントの実際』
 ドン コーエン (著), ローレンス プルサック (著), 沢崎 冬日 (翻訳) 『人と人の「つながり」に投資する企業―ソーシャル・キャピタルが信頼を育む』 2005年12月19日
 エティエンヌ・ウェンガー, リチャード・マクダーモット, ウィリアム・M・スナイダー, 櫻井 祐子 (翻訳), 野中 郁次郎(解説), 野村 恭彦 (監修) 『コミュニティ・オブ・プラクティス―ナレッジ社会の新たな知識形態の実践』 2005年08月25日
 チャールズ オライリー , ジェフリー フェファー (著), 広田 里子, 有賀 裕子 (翻訳), 長谷川 喜一郎 『隠れた人材価値―高業績を続ける組織の秘密』 2005年02月03日


■ 百夜百マンガ

ニライカナイ【ニライカナイ 】

 読んでいると手が黒くなるほどのスクリーントーンの大量使用と、やっぱりジャンプっぽい格闘戦が特徴です。

2007年7月26日 (木)

インターネット公売のすべて―徴収率アップの決め手!

■ 書籍情報

インターネット公売のすべて―徴収率アップの決め手!   【インターネット公売のすべて―徴収率アップの決め手!】(#917)

  堀 博晴
  価格: ¥1200 (税込)
  ぎょうせい(2006/10)

 本書は、ヤフーオークションを使ったインターネット公売を全国で始めて実現させ、ついには自身もヤフーに転職してしまった東京都職員であった著者が語る、インターネット公売の誕生秘話です。
 著者は、37年間都庁に務めた後、「最高例記録」の57歳でヤフーに転職し、「全国の地方自治体を回り、インターネット公売の普及に努めること」を仕事にしています。
 著者は、インターネット公売の効果として、「差し押さえた財産が高く売れることだけ」ではなく、「自治体が滞納者に対して毅然とした態度を取ることが住民に浸透し、自ずと徴収率も向上」し、「捜索・差押え・インターネット公売と実績を重ねていく過程で、公務員の間に、税の公平性を確保する、税収を上げ、予算を大事に使うことで納税者の期待に応えるといった意識が高まって」行くことを上げています。
 序章「インターネット公売を始める前に」では、2007年からの税源移譲によって、住民税の所得割税率が全国平均約7.3%から10%にフラット化されることで、「低所得者層の負担」が確実に増加し、「滞納事案が増える」と指摘し、「財源の確保には徴収率向上しか打つ手は」ない、と述べています。著者は、「地方分権の考え方のもとでは、本当の意味での地方の自立が問われます。自立に必要なものはお金です。要するに、これからの自治体にとって最も重要な問題の一つは、地方税の滞納処分をいかに効率的・効果的に進めていくか」と主張しています。
 そして、徴収率向上のためには、「差押しかない」として、著者自身の主税局での経験を紹介しながら、「差押えはぜんぜん難しくありません。必要なものは、やる気と熱意と常識的な判断力」であり、「差押えの件数と徴収率は間違いなく連動」する、と述べています。著者は、都税事務所で、白色の「催告書」と赤色の「最終催告書」を、「白赤白赤白赤」と交互に出し続けているのを見て、「現場には滞納整理に伴なう困難を避ける空気が蔓延していた」ことを感じ取ります。だから、「徴収率が上がらないのは当然」だったのです。著者はまず、法律に規定のない「催告書」を止め、「滞納が発生したら、すぐ最終催告書を出し、それでも払わなければ、差押予告を出す」ように改めています。そして、東京都が管理体制をドラスティックに変えたことで、「徴収率がV字回復」し、96年当時約4,700人いた主税局の職員数は、2005年3月には約3,800人にまで減る一方で、純滞納繰越額は500億円台にまで圧縮されたことが述べられています。
 また、2004年8月には、インターネット公売を初めて実施し、その効果は「単に公売を変えただけ」ではなく、
(1)アナウンス効果
(2)納税交渉の段階からインターネット公売が視野
の2点の効果があることが述べられています。
 第1章「インターネット公売って何?」では、「徴収職員が動産の差押えに踏み切れない二大理由」として、
・押さえても公売で売れない
・押さえても保管場所がない
の2点を挙げ、「せっかく押さえたものが売却されないと、徴収職員の間に、差押えの直接的な効果に対する疑問」がわき、「どうせ効果がないなら押さえない、抑えないから滞納が減らないという袋小路に迷い込んでしまう」と述べています。
 そして、著者がヤフオクに気づいたきっかけとして、2003年の11月に、職員と「もっと高く売れる方法はないもんかなあ」と話をし、「うちの両親、ヤフオクに凝っているんですよね」という一言から、「よし、ヤフーに電話しろ」と即決し、「ネットオークションで公売をやりたい、ついてはヤフーのシステムを利用できないか」と持ちかけた経緯が語られています。一方、ヤフー側でも、「オークションのシステムをヤフオクの外に出し、インターネットを通じて顧客に提供する」ASP(アプリケーション・サービス・プロバイダ)の事業化を検討してきていて、パートナーを探していたという経緯が解説されています。主税局の上司のゴーサインを得た著者は、インターネット公売という前例のない取り組みに当たって、「主税局の内外合わせて、十数部署との調整」という「お役所仕事の真髄」を、「いやと言うほど味わった」と語っています。中には、「インターネットという言葉は規則に使わないでくれ」という文書課からの注文にアタマを抱え、「入札期日に入札および改札を行うもの」という「期日入札」という言葉を編み出したことなどが語られています。
 また、記者会見で、「提携先は、なぜ楽天ではなくヤフーに決まったんですか?」と質問され、「ネットオークションの最大手はやフーでしょ。公売の目的は差し押さえた品物を高価有利に売ることです。そのために、入札者が一番多く見込めるところと提携する。相手はヤフーしかないでしょう」と応えたことが紹介されています。
 そして、2004年7月15日に、第1回インターネット公売の参加申し込み受付を開始し、締切日には、2,966人が参加、「最高価申込価格(落札額)」の合計は、見積価格の合計の約4倍に当たる1,657万2,832円で、「インターネットってすごい」と心底思った、と感想を語っています。
 第2章「押さえないと始まらない 絶対簡単!捜索から差押えまで」では、著者が主税局時代に培った差押えのノウハウが惜しげもなく語られています。これは、全国の徴収職員の中には、実際に差押えを行った経験を持っていない者さえおり、経験の少ない動産の差押えの件数が増えてもらわないことには、その先のインターネット公売には結びつかないからです。
 そのため、徴収職員なら当然知っているはずの、財産調査についても、
(1)権限のない任意調査
(2)国税徴収法第141条に属する任意調査
(3)強制捜査
の3つに大きく分類されることなどから解説しています。
 そして、「徴収職員の中には捜索を恐がる人」がいることにちうて、「確かに他人の家に上がり、家財を調べるのですから、難しいのではとか、失敗したらどうしようとひるむ気持ち」はわかるが、「慣れてしまえば、捜索は決して難しくありません」、「聴衆職員は捜索を恐がらない姿勢が大事です」と語っています。
 また、捜索時に、「素行の荒い滞納者が抵抗したり、その配下の者が立ちふさがったりすること」があり、「だから捜索は恐いと感じる人がいる」が、「絶対に捜索には入れる方法」として、「公務執行妨害だ!」と大きな声で言うこと、という方法があり、「3年以下の懲役または禁固」という厳しい罰則があるため、「どんなヤクザでもさっと引きます」と解説しています。
 著者は、インターネット公売が、「換価価値の見方を大きく変え」、「これからの捜索はやはり、差押禁止財産以外は『なんでも持ってくる』姿勢が重要」であると語っています。
 第3章「公売参加で税収アップ インターネット公売を徹底解説」では、インターネット公売のメリットとして、
(1)広く公売情報を周知できる
(2)入札者の便宜を図り、多数の入札者を確保できる
(3)入札者同士が入札が句を競い合うことで、より高価での落札が期待できる
の3点を挙げ、「従来の期日入札」では、「『周知』と言っても、公売公告を役所の掲示板に貼るだけ」であり、「一体どれだけの人が掲示板を見ていたのか大いに疑問」であると述べています。
 また、「公売保証金」の取り扱いについて、「もっとも調整に苦労」したものであり、「敵は役所の内部にいる」という最大の関門であると述べ、
・オフ納付:銀行振り込みなどによって執行機関に直接納付してもらう
・オン納付:クレジットカードを利用して公売保証金を取り扱う
の2種類について解説しています。
 さらに、公売システムを利用した出品をするための作業として、
(1)ガイドラインの決定
(2)ヤフーのページに掲載する内容の決定
(3)Yahoo!オークションが使用可能な環境の整備(自治体にあるパソコンのアクセス制限の解除)
(4)自治体のホームページ作成
(5)インターネット公売専用電話の設置
(6)入札者用パソコンの設置
の6点を挙げています。
 落札の傾向としては、自動車が「一貫してよく売れる」とされ、「車は元々中古品流通が盛んなためか、いつも非常に人気」があると述べています。
 著者は、インターネット公売の経済効果として、「死んでいた物」が生き返ることを上げ、不動産や美術品など、一般のルートでは出回らないような物件が公売によって別の人の手に渡ることを挙げています。
 第4章「よみがえれ!自治体」では、著者が、「ネット公売の伝道師」として全国を行脚した結果、インターネット公売の実施自治体数が2006年7月現在62、契約自治体数は106にまで拡大したことを紹介するとともに、長野県山ノ内町、大阪府富田林市、長崎市、長野県旧町田市、北海道赤平市などから寄せられた便り等を紹介しています。
 終章「私はなぜコームインを辞めたか」では、著者が主税局以前に、災害対策部にいたときに、総合防災訓練に「日光猿軍団」を呼んで防災教室を開催し、広報担当として「うちに来ないか」と誘いを受けたことや、ヤフーでの面接で、応募理由として、「インターネット公売を東京都だけの道具にしておくのはもったいない」と応えたことや、時間を間違えて面接に遅刻したこと等が述べられています。
 本書は、インターネット公売に関心がある自治体関係者はもちろん、税金の大切さについて考えたい人にもお奨めの一冊です。


■ 個人的な視点から

 本書は、インターネット公売のノウハウ本としてももちろん重要なものですが、それ以上に、ヤフオクを公売に使ってしまったり、日光猿軍団を防災訓練に呼んでしまったりした、型破りな公務員の姿を伝えてくれる一冊になっています。


■ どんな人にオススメ?

・インターネットで何が変るかを考えている人。


■ 関連しそうな本

 神野 直彦 『三位一体改革と地方税財政―到達点と今後の課題』 2007年04月16日
 カール・S. シャウプ (著), 柴田 弘文, 柴田 愛子 (翻訳) 『シャウプの証言―シャウプ税制使節団の教訓』 2007年02月13日
 石 弘光 『税の負担はどうなるか』 2007年07月20日
 白川 一郎 『自治体破産―再生の鍵は何か』 2006年10月30日
 吉富 有治 『大阪破産』 2006年10月20日


■ 百夜百マンガ

闘翔ボーイ【闘翔ボーイ 】

 19歳でデビューした人でしたが、30代半ばにして、すっかり、昔の絵のマンガの人になってしまいました。
 「その時代に主流の絵を描くことができる若者」をデビューさせてしまうことによって起こった悲劇といえなくもありません。

2007年7月25日 (水)

戦略の実学 際立つ個人・際立つ企業

■ 書籍情報

戦略の実学 際立つ個人・際立つ企業   【戦略の実学 際立つ個人・際立つ企業】(#916)

  谷口 和弘
  価格: ¥1680 (税込)
  NTT出版(2006/12/15)

 本書は、経営学の代表的に一分野である戦略経営論について、慶應義塾大学商学部の「環境と戦略」「経営学」「商学概論」の講義をもとに、「理論と現実の相互作用を強調」した、「実学としての戦略経営論」を展開したものです。
 著者は、「戦略経営」を、「外部環境と内部資源が適合するような戦略と組織をつくること」である意と述べ、「その基本要素は、ビジョンの提示、戦略策定、そして組織デザインである」と述べています。そして、戦略とビジョンについて、「戦略は、個人や企業が将来的に『どうなりたいか』や『どうありたいか』といった理想像――ビジョン――を反映する。そして、ビジョンは、個人や企業に進むべき方向性と実現すべき目標を与える」と述べています。
 また、本書のタイトルである「実学」については、「実学とは、現実を学ぶこと」であり、「理論の力を借りて、現実の背後にあるメカニズムを明らかにすること。そして、新しい知識を創造して、理論と現実の発展に貢献すること」が、「実学の本当の意味」であると述べています。そして、経営学が、「現実の企業や組織の仕組みを対象」にしたものであるため、「理論を構築する学者と、実際に企業を経営する経営者との間の情報交換」、すなわち、「理論と現実の相互作用が重要な意味をもつ」と述べる一方で、「理論は、現実の世界において現象が生じる仕組――メカニズム――を説明するための枠組み、あるいは概念の体系である」と述べ、「簡単に言えば、理論は、メガネのようなものである。人々に、見えにくいものを見えるようにしてくれるメガネ」であると解説しています。
 第1章「個人にも戦略を」では、戦略を、「『異の力(高い評価や高い利潤)』を得るための意思決定や方法である」と述べ、「戦略を理解するためのキーワードは、『まとまり』と『際立ち』である」と解説しています。
 そして、「戦略力というのは、ビジョンに基づいて戦略を策定し、それを実行する組織をデザインするために、思考し行動する強い力のことである。もっと簡単にいえば、際立つことによって、異の力をえるという『力の力』である」と解説しています。
 第2章「21世紀企業の経営」では、「経営学は、応用ミクロ経済学である。要は、企業の性質を解明すえるために、経済学――より正確にいえば、ミクロ経済学――の論理を応用した学問」だと述べた上で、一橋大学の伊藤秀史教授の「企業経営(マネジメント)――戦略、組織、人事、会計、マーケティング、そしてファイナンスなどの機能――といった研究対象の観点から定義される」という経営学の定義を紹介しています。
 そして、ロナルド・コースによる企業の存在理由・役割について、「企業とは、すなわち経営者の権限にもとづいて資源配分が行われるメカニズム(権限メカニズム)」という定義を紹介したうえで、「企業の存在理由が取り引き費用節約である」という企業の役割を紹介しています。
 また、企業経営について、「価値創造をつうじて利潤を獲得して利潤を獲得し、組織としての存続を可能にするために、さまざまな人々が行うさまざまなアクティビティのあいだにまとまりを生み出すというコーディネーション、および環境変化の中で古いものを破壊する一方で新しいものを創造するというイノベーションを実現することである。そのためには、企業家精神の発揚が不可欠である」と解説しています。
 第3章「戦略経営の方法論」では、市場における競争が、「企業のあいだでレントを減らして均等化するという同の力」をもつと解説しています。
 また、一部の経済学者が、経営学を見下して、「経済学は、緻密な分析を行っているが、経営学は、分析のない事実の羅列にすぎない」「経済学は、洗練されて成熟した科学なのだが、経営学は、……」「経済学は、社会科学の女王だが、経営学は……」という態度を取ることについて、「経済学が社会科学の領域で規範的な役割を果たすとしても、経済学者は、さまざまな方法論を知らない限り、自分と違う方法論にもとづいた研究を評価することはできない。判断には、幅広い知識が必要なのである。そして、経済学者は、必ずしもすべてを知りつくしたナンバー・ワンとはかぎらない」と述べています。そして、「経済学者が市場を理解しようとしてきたのと同様に、あるいはそれ以上の努力を企業や組織の理解に振り向けてきた」経営学者の代表例として、「1978年にノーベル経済学賞を受賞したハーバート・サイモン」を挙げています。
 第4章「ポジショニング論と資源ベース論」では、ポジショニングについて、「ある産業で競争する際、他社に比べて有利な位置取りをすること」であり、「産業とは、相互に代替できる製品を作っている企業のグループである」と解説しています。
 そして、ポーターが、「産業における競争のあり方ひいてはその収益性を決定する5つの競争要因(ファイブ・フォース)」について、
(1)新規参入の脅威
(2)業者間の敵対関係
(3)代替製品・サービスの脅威
(4)買い手の交渉力
(5)売り手の交渉力
の5つを挙げていることを紹介しています。
 また、企業が、「産業において既存企業や新規参入企業による攻撃に備えながら、買い手、売り手、そして代替品による脅威に対して、強いポジションを確立」するための競争戦略として、
(1)コスト・リーダーシップ戦略
(2)差別化戦略
(3)集中戦略
の3つの基本戦略を提示していることを解説しています。
 一方で、資源ベース論については、同じ戦略グループに属している企業のあいだの業績格差、競争優位の問題を説明する上で、「企業の内部資源を強調する資源ベース論が注目されるようになった」と述べ、その代表的論者のジェイ・バーニーが、資源ベース論が、
(1)経営者の特異性
(2)レント(超過利潤)の多様性
(3)資源の集合体としての企業
に関する研究に影響を受けている、と述べていることを紹介しています。
 第5章「ゲーム理論とブルー・オーシャン戦略論」では、「ゲーム」を、「意思決定を行う個人や企業や互いに行動を予想し、自分が得る効用や利益が大きくなるように行動を選択するという相互依存の状況を描いた数理モデル」であると解説しています。そして、ゲーム理論が、「少数の企業からなる戦略的相互作用の世界を分析し、過去の競争行動を説明するのに適している」が、「実際の戦略経営の世界は、さらに複雑で急速な変化にさらされている」ため、「ゲーム理論を用いたからと言って、競合他社の将来的な行動を正確に予測できるわけではない」と述べています。
 また、「ブルー・オーシャン戦略論」については、INSEADのキムとモボルニュによる、「競争のない市場を創造することによって、競争を無意味化してしまう」ものであり、従来の戦略経営論の常識を覆したものであると述べています。そして、「競争が厳しい市場」である「レッド・オーシャン」から逃れて、「競争のない未知の市場」である「ブルー・オーシャン」を創り出すカギは、「バリュー・イノベーション」、すなわち、「低コストと差別化を同時に実現すること――トレードオン――によって、顧客と自社の価値を高められるように全体的なアクティビティを組織化すること」であると解説しています。
 本書は、巻末に「パートII」として、「実際に理論を活用すること」を目指したケースとして、「浜崎あゆみ」「中村邦夫」「グーグル」「ヴィロン」の4つの「際立つ」ケースを収録しています。著者は、「誰もが知っている理論を学習しただけでは、異の力を得られない学習した知識を参考に外部の環境変化を理解し、内部の資源やケイパビリティを利用して、新しい何かの実現に向けて行動せねばならない。つまり、行動によって際立つのである。戦略力を見せつけるのだ」と力説しています。
 本書は、「際立ちたい」と思っている個人・企業にとってヒントを与えてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 本書は、大学の講義ノートがベースになっているせいなのか、著者の趣味の問題なのか、「荒川静香」や「浜崎あゆみ」などの「季節もの」が多数登場します。
 「CMネタはすぐ風化するぞ」という鳥坂センパイの警句がありますが、本書の賞味期限が短くなるかもしれないと思うと、少し残念な気がします。


■ どんな人にオススメ?

・実学としての経営学を身につけたい人。


■ 関連しそうな本

 青木 昌彦 (著), 滝沢 弘和, 谷口 和弘 (翻訳) 『比較制度分析に向けて』
 リチャード ラングロワ , ポール ロバートソン (著),谷口 和弘 (翻訳) 『企業制度の理論―ケイパビリティ・取引費用・組織境界』
 デビッド J.コリス, シンシア A.モンゴメリー (著), 根来 龍之, 蛭田 啓, 久保 亮一 (翻訳) 『資源ベースの経営戦略論』 2006年02月07日
 別冊宝島編集部(編) 『わかりたいあなたのための経営学・入門』 2005年01月26日
 伊藤 秀史, 小佐野 広 『インセンティブ設計の経済学―契約理論の応用分析』 2005年02月26日
 小佐野 広 『コーポレートガバナンスの経済学―金融契約理論からみた企業論』 2005年02月23日


■ 百夜百マンガ

キスより簡単【キスより簡単 】

 青年誌で人気の漫画家でしたが、だんだんメッセージ性が強くなっていったというか、政治活動家みたいな人になるにつれて、「説教臭い」と思う人が増えたんじゃないかと思います。

2007年7月24日 (火)

コミュニティ グローバル化と社会理論の変容

■ 書籍情報

コミュニティ グローバル化と社会理論の変容   【コミュニティ グローバル化と社会理論の変容】(#915)

  ジェラード・デランティ (著), 山之内 靖, 伊藤 茂 (翻訳)
  価格: ¥2520 (税込)
  NTT出版(2006/3/28)

 本書は、「コミュニティという概念に今日的な解釈を施すことを目的」としたもので、著者はその出発点として、「社会・文化・政治の各領域で大変動が起こった結果、コミュニティが今や転換期にあるという認識」を置いています。そして、コミュニティに関する、「社会的・文化的・政治的・テクノロジー的争点」に関する広範な立場として、
(1)コミュニティ研究に特有のアプローチであり、コミュニタリアンの市総荷も反映されている見解
(2)文化社会学と文化人類学に特徴的なもの
(3)ポストモダン政治とラディカル・デモクラシーにヒントを得た、政治意識と集合行為という観点からコミュニティを捉えるもの
(4)コミュニティがコスモポリタン化され、新たな、近接性や距離関係の中で構成されるグローバル・コミュニケーションや、トランスナショナルな運動、インターネットを巡って、ごく最近登場したもの
の4点を示したうえで、本書のアプローチが、「これまでさまざまな思想潮流によって用いられてきた方法に即してコミュニティを解釈すること」にあると述べています。
 第1章「理念としてのコミュニティ」では、「ギリシア思想とキリスト教思想がその頂点において接合することにより、根本的に矛盾する2つのコミュニティ観が姿を現すこととなった」として、「ローカルであるがゆえに個別的なコミュニティという観点」と、「究極的な普遍性を持ったコミュニティという観点」が登場し、「この矛盾は決して解決されることなく、今日まで持ち越されている」と述べています。
 また、19世紀に登場した規範的な理想としてのコミュニティ概念として、
(1)回復不能なものとしてのコミュニティという言説:保守的傾向の強いモダニティ批判
(2)回復可能なものとしてのコミュニティという言説:近代保守主義の主要な言説
(3)今後達成されるものとしてのコミュニティという言説:共産主義や社会主義、無政府主義の言説
の「3つの言説に要約」しています。
 第2章「コミュニティと社会」では、「コミュニティに関する3つの主要な議論を批判的に検討する」として、
(1)伝統としてのコミュニティ概念(テンニース)
(2)道徳的コミュニティ(デュルケム)
(3)象徴的コミュニティ(ターナー、コーエン)
の3点を挙げ、包括的な結論として、「コミュニティは、現実の制度的取り決めというよりもむしろ、流動性の高いコムニタスの一表現――象徴的であると同時に対話的な帰属の一様式――であり、変化しやすく、近代的でラディカルな社会関係、さらには伝統的な社会関係を支える能力を持ったもの」と述べています。
 著者は、「コミュニティは大半の近代的社会関係において、その重要な基盤となってきたと言えよう。コミュニティは、民主主義、市民文化、さらにはラディカル性の重要な側面であり、したがって、前近代の伝統という観点だけで定義することはできない」と述べています。
 第3章「都市コミュニティ」では、「政治的コミュニティや文化的コミュニティとは対照的なローカル・コミュニティに焦点を当て」、「都市はいっそうゲゼルシャフトを基礎にしつつあるとはいえ、それでもなお、コミュニティの重要な容器である」と述べています。
 第4章「政治的コミュニティ」では、「市民的共和主義の大半」を、「コミュニティの喪失をめぐる『ネオ・トクヴィリアン』的言説である」として、「市民的なコミュニタリズムのもっとも有名な提唱者であるロバート・パットナムにとって、現代のアメリカ社会は、彼のいわゆる『社会関係資本(ソーシャル・キャピタル)』の現象をその指標とする、コミュニティ的価値の衰退を特徴としている」と述べ、パットナムが、「コミュニティについて重要な事柄は、抗争(コンフリクト)を克服する能力ではなく、信頼(トラスト)や関与(コミットメント)や統合(ソリダリティ)といった価値、すなわち、民主主義を活性化するような諸価値を高める能力である。社会的責任は何よりもまず市民社会の肩にかかっているのであって、国家の肩にかかっているのではない。というのも、国家は市民社会において意見が一つにまとまっている場合においてのみ、機能するに過ぎないからである」と論じていると紹介し、近代イタリアについての研究においては、「問題なのは制度ではなく、文化的伝統、とりわけ市民社会を強化するそれである」と考え、「よりよい国家や公共制度を生み出すのは市民社会であって、その逆ではない」と指摘していることを紹介しています。
 著者は、こうした「市民的共和主義者」の議論を、「民主主義が社会関係資本に基づいていると主張する点で、『ネオ・トクヴィリアニズム』とも名づけられよう」と述べ、パットナムの立場が、「強力な市民社会こそが民主主義の盛んな強力な国家を生み出すと想定する点で、非常に保守的である」と指摘しています。
 そして、「市民的共和主義のコミュニタリアニズムは、コミュニティを定義する原理として社会的関係資本を強調しており、その社会関係資本は、さらに、民主主義を機能させる基礎になると考えている。全体として、コミュニタリアニズムというこの特殊な潮流においては、社会関係資本の概念はその道徳的性格を協調するものとなっており、今日の状況は、社会関係資本の衰退という観点から考察される」と述べています。
 著者は、コミュニタリアニズムの主なテーマとして、
・社会的平等から文化的差異へのシフト
・民主主義とシティズンシップの基礎としての社会関係資本
・共通の価値、連帯、愛着としてのコミュニティという定義
・道徳的個人主義とは対照的な、集団的絆の社会的存在論
・集団ごとに分化したシティズンシップ概念
・社会的権利に対立するものとしての文化的権利の強調
などの点を挙げ、以上から、
(1)コミュニタリアニズムは一般に、脱伝統的なコミュニティ概念を反映したものである。
(2)それは脱伝統的な側面を持っているが、その多元化の能力は限定されている。
の2つの結論にたどり着くとしています。
 第5章「コミュニティと差異」では、主な多文化主義モデルとして、
(1)単文化主義
(2)共和主義的多文化主義
(3)柱状化(pillarizarion)
(4)リベラル多文化主義
(5)コミュニタリアン多文化主義
(6)リベラル・コミュニタリアン多文化主義
(7)インターカルチャリズム
(8)ラディカル多文化主義
(9)批判的多文化主義
(10)トランスナショナル多文化主義
の10点を挙げています。
 著者は、西欧の多文化主義を、
(1)多様性は原則として文化的アイデンティティの水準によって基礎づけられている
(2)こうした多様性は主として、支配的な国民社会とは全く切り離された、比較的同質的な移民集団のエスニックな諸価値によって形成される
という前提に基づいていると述べています。
 第6章「異議申し立てのコミュニティ」では、「ハーバマス、トゥレーヌ、バウマンの社会理論」が、「コミュニティという発想そのものへの不信を特徴としている」として、これら三者による批判を検討し、「その中にリベラルでもコミュニタリアンでもない別個の視点が見られることを確認する」としています。
 そして、三者の研究に見られるコミュニティへの批判的アプローチが、「私たちにコミュニティを完全に放棄するよう促しているとも言える」とした上で、「コミュニティにまつわる問題の大半は、それへの対話的なアプローチをとることで解決できる」、「コミュニケーション・コミュニティという発想を理論化するとすれば、複合的な帰属の世界に寄与するコミュニティであり、また、その中での統合が既存の道徳性や合意よりもコミュインケ-ションによって達成されるコミュニティだと言えるだろう」と述べています。
 著者は、本章の議論を、「社会と個人の関係が変化した結果、コミュニティに向かう空間が出現しつつあるとするものである」と要約しています。
 第7章「ポストモダン・コミュニティ」では、ポストモダンのコミュニティ論について、「伝統的でもなければモダンでもなく、自らの再帰性、創造性、自己の限界に対する認識によって支えられている。ポストモダンのコミュニティ概念は、自己と他者の関係の流動性を強調し、閉鎖的ではなく、解放的なコミュニティ観へと導く」と述べています。
 第8章「コスモポリタン・コミュニティ」では、「多くの都市部の社会運動がグローバリゼーションによって大いに活性化(エンパワー)されたこと」の一側面として、「グローカリゼーション」を挙げ、「私たちはグローバル・ヴィレッジにではなく、グローバルに生産され、ローカルに配分された、注文建築の郊外住宅に住んでいる 」というカステルの言葉を紹介しています。
 また、トランスナショナル・コミュニティについて、「グローバルな文脈で作動するが、地域性(ローカリティ)を基礎にするコミュニティの企てである」と述べ、「さまざまなタイプの移民によっており、ディアスポラ的で、その構成の面では混成的(ハイブリッド)である」と述べています。
 著者は、「トランスナショナル・コミュニティは、コスモポリタン・コミュニティの代表例と言えよう。単一の世界コミュニティ(世界共同体)の構想を拒絶し、地域性のユートピアを求めるトランスナショナル・コミュニティは、グローバル秩序の中に自らの再生の可能性を見出している」と述べ、「その意味でトランスナショナル・コミュニティは、多くの脱伝統的コミュニティとの間で、対話的(コミュニカティヴ)な形式という基本線を共有している」と解説しています。
 第9章「ヴァーチャル・コミュニティ」では、ハワード・ラインゴールド、マニュエル・カステル、クレイグ・キャルホーンの3人を取り上げ、「情報通信技術のもたらすインパクトをさらに評価するための基礎を提供するために、この3人について批判的に検討」しています。
 そして、この3つのアプローチの中で、「キャルホーンのものが最も信頼が置けそうである」と述べ、「コミュニティを帰属の社会的関係という観点から理論化しなければならないとする」キャルホーンの議論を、「ヴァーチャル・コミュニティの基礎付けの点で重要である」と述べています。
 また、ヴァーチャル・コミュニティに肯定的な見方として、
(1)人々を活性化(エンパワー)するという立場
(2)他のコミュニケーション形態よりも民主的だとする考え
(3)新たなアイデンティティに関してより実験的で革新的であり、伝統的なコミュニティでは達成できない新しい経験を生み出すことができるという考え
の3点を挙げた上で、批判的な立場として、
(1)権力の空白の中に存在するのではなく、実際には国家と市場による新たな監視の一部でありうるとするリベラル風の批判
(2)空間の新たな商品化を示しているとする見解
(3)規範がなく、民主主義を推し進めるとする論議を疑問視する人々に共通する批判的立場
の3つを挙げています。
 さらに、ギリシア語の「サイバー」が、「船を『操縦』する際の『舵取り』という言葉に由来している」ことについて、この言葉が、「個人が時間と空間の制約を超え、グローバルなコミュニティのネットワークの間を航行する今日の移動する時代について、適切な比喩となっている」と述べています。
 「まとめ」では、「個々人は社会的な力によってのみコミュニティの中に位置づけられるのではなく」、「自らをコミュニティの中に位置づけるのである」と述べています。
 著者は、コミュニティを、「最初に考えたよりも柔軟性に富んでいる。私たちは、伝統的な価値に基づくものであり、場所に規定された小規模な単位だとする、伝統的なコミュニティ概念から出発して、モダニティの時代の対話的な力の一表現としてのコミュニティという見方へ移動していき、グローバル世界の一環としてのコミュニティという解釈にたどり着いた。社会の原子化と国民社会の侵食が進む中でコミュニティは解き放たれ、グローバルなコミュニケーションという形で新たな生命を与えられるに至った」と述べています。
 本書は、とかく「田舎」、「しがらみ」という言葉を連想させやすい「コミュニティ」について、新しい視点を与えてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 日本で「コミュニティ」という言葉を使う場合には、なんとなく農村共同体的なものをイメージして使い場合が多いような気がします。実際にはネット上を含めて、さまざまな形の「コミュニティ」があるのですが、そういったものの見方を整理するにはよい一冊です。


■ どんな人にオススメ?

・「コミュニティ」という言葉をきちんと理解したい人。


■ 関連しそうな本

 ロバート・D. パットナム (著), 河田 潤一 (翻訳) 『哲学する民主主義―伝統と改革の市民的構造』 2005年03月03日
 ロバート・D. パットナム 『孤独なボウリング―米国コミュニティの崩壊と再生』 2006年08月28日
 ウェイン ベーカー (著), 中島 豊 (翻訳) 『ソーシャル・キャピタル―人と組織の間にある「見えざる資産」を活用する』 2007年06月27日
 D. ヘントン, K. ウォレシュ, J. メルビル (著), 加藤 敏春 (翻訳) 『市民起業家―新しい経済コミュニティの構築』 2005年03月15日
 金子 郁容, 渋谷 恭子, 鈴木 寛 『コミュニティ・スクール構想』 2006年04月06日
 金子 郁容, 松岡 正剛, 下河辺 淳 『ボランタリー経済の誕生―自発する経済とコミュニティ』 2005年08月29日


■ 百夜百マンガ

力王【力王 】

 ハード格闘路線&近未来もの、というと『北斗の拳』みたいですが、20年以上も格闘ものを書き続ける継続力に脱帽です。

2007年7月23日 (月)

転ばぬ先の経済学

■ 書籍情報

転ばぬ先の経済学   【転ばぬ先の経済学】(#914)

  デイヴィッド・R. ヘンダーソン; チャールズ・L. フーパー (著), 高橋 由紀子 (翻訳)
  価格: ¥1890 (税込)
  オープンナレッジ(2006/11/23)

 本書は、「きちんと考えればいい結果につながる」ということをテーマとしたものです。著者は、「少しの時間をとって明確な思考をすれば、結果的に大きな違いが生まれる。ビジネスにおいても日々の暮らしにおいても、きちんと考えれば問題点が明確になり、自身を持って決断できる。いい結果を出そうとすると、主義や倫理に反する行為に走りがちだが、明確に考えれば、そういうことも避けられる」と述べています。本書では、経済学、意思決定科学、一般常識の3分野からツールを紹介しています。
 第1章「考えればものごとはうまくいく」では、著者の友人が、1948年、17歳のときに、自分の小型ボートに、当時価格が急騰していた鉛の竜骨が使われていることに気づき、鉛の竜骨を鉄製の竜骨に付け替えることを、次々に船を買い換えながら鉛を売り続け、ひと夏でおよそ2万ドル、2005年の価値で約16万ドルの利益を上げたことを紹介し、この「鞘取り」の機会を活用したことで、彼が鉛の供給に協力したことを指摘し、「ある資源を、価値の低い用途からより高い用途にシフトさせる」という効率の改善が鞘取りの本質であると述べています。
 第2章「明確に考える」では、「区別はアナリストにとって大変強力なツールである。区別することによって、何層もの覆いをはがして問題の本質を掴むことができる。このツールを使えば、激しく対立していて解決に手間取りそうな問題にも、うまく取り組める。区別は、明確な思考を助け、時間と手間を節約してくれる優れた方法である」と述べています。
 第3章「価値を考える」では、「何かをしなかったことによってこうむる損失」である「機会コスト」について、ホテル内の薬屋では高いからといって、街のドラッグストアに風邪薬を買いに行こうとしたパーティの時刻に遅れたノーベル賞経済学者の逸話を紹介しています。
 また、「意思決定をする人の大敵」である、「サンクコスト」について、
(1)「ヒーズ・デッド・ジム(死んだよ、ジム)サンクコスト」:これまでに投入したエネルギーや費用を考えて、放棄するべきものを放棄できない。
(2)サンクコストなのに、それがまだ生きているかのように思い込むこと。
の2種類を上げています。
 そして、サンクコスト、意思決定分析、マージンを考える、の3つの考え方が「すべて関連していて、同じ視点を利用している」と解説しています。
 さらに、フォードのピントという自動車が追突された時にボルトがガソリンタンクに突き刺さり火を噴く可能性があったことを、フォードが知っていて、「たった11ドルのゴムのカバー」で修理可能なものであったことについて、「イグノラント・カーズ・インターナショナル(国際無知自動車)」と「インフィニット・モーターズ(無制限モーターズ)」という2つの架空の自動車会社の例を挙げ、「一人の人間の命に無限の価値を与えるために危険にさらすには、人の命はあまりに尊い。命の価値を合理的に考えなければ、別の命を危険にさらすことになる」と指摘しています。
 そして、スタンフォード大学のロナルド・ハワード教授が発明した、「100万分の1の致死率にかかるコスト」「ミクロモート」という概念を紹介しています。
 第4章「何が変わったのかと訊ねる」では、「問題を理解するためには、何がそれを引き起こしたのかを知らなければならない。以前問題がなかったのに今はあるなら、何かが変わったはずだ。問題解決の第一歩はその何かを知ることである」と述べています。
 第5章「自分が何を欲しているのかを知る」では、「どんな返品も受け付ける」を心がけているノードストロームの店員が、販売していないタイヤの返品を受け付けた有名な逸話を紹介した上で、ある製薬会社の新薬の販売予測を依頼された著者が、「年間2億ドルという会社の期待に反し、およそ1700万ドル」という売上予測を出したことを紹介し、「顧客の理不尽な期待にへつらうなら、そんがいをこうむるのは我が社の評判である。また、そんなことをすれば、相手が理不尽であろうがなかろうが、顧客に対して勝ちあるサービスを提供できない」と述べています。
 また、「どれくらいの量と考察と分析が適正であるかを知るためには、まず目的を明らかにする必要がある」と述べています。
 第6章「どんな人にも偏見はある」では、著者の8歳の息子が庭で遊んでいるときに、アメリカライオンの姿を見かけた著者が震え上がった経験を紹介し、「1980年以来、人がアメリカライオンに襲われたケースは、カリフォルニア州全体で13回」であり、3人が命を落としている一方で、カリフォルニアでは毎年、犬に襲われた怪我が平均10万件起きていることを挙げ、「母数の多さを計算に入れても、犬が人を襲う重大事件の確率はライオンの120倍で、犬の方が危険である。アメリカライオンは恐ろしい凶暴なイメージを持っているが、襲撃の数を見ると、それほどやたらに人を襲うわけではない」と述べています。
 第8章「何が重要かを知る」では、アメリカの会計検査官が、ホスピスケアを受けている患者が、「規定の6ヶ月をはるかに超えて生きる人」がいることを「不正」とみなし、「<メディケア不正行為捜査>などというたいそうな看板を掲げた、連邦政府サービスという会社が、受益者たちに対し、政府に対する詐欺行為の疑いで捜査すると警告した」事を紹介しています。
 第8章「よりよい選択肢を創り出す」では、ビジネスにおける交渉テクニックとして、「Position(立場)ではなく、Interest(利害関心)について交渉せよ」という言葉を紹介し、
・Interest(利害関心):自分が望むこと――目標、好み、ゴール
・Position(立場):その利害関心が達成できるような選択肢
のような交渉を心がけることで、「自分が何を望んでいるのか(利害関心)を先に考え、それをどう獲得するか(立場)を次に考えるようになる」と解説しています。
 著者は、末期癌で2週間後の妻の出産まで命が持たない父親が子供と会えるように、医者に、早産させてほしいと頼み、父親は、そのようにして誕生した娘を、たった一度だけ腕に抱いて、その3日後に息を引き取った、というエピソードを紹介しています。
 第9章「意識的に最良の選択肢を選ぶ」では、「一般的にいって、オプションは、物事がうまくいっているときには将来の機会を保証し、うまく行かなかったときには避難経路になる」と述べています。
 また、意思決定分析を、「不確定で時にリスクを伴なう状況における意思決定を分析すること」であるとして、『ダーティ・ハリー』で、残弾があるかどうかわからない銃をハリーに突きつけられた悪漢が、目の前の銃を拾うべきか降伏すべきかの決断に迫られるシーンを紹介しています。
 第10章「リスクは成長の一部」では、リスクを減らす工夫として、
(1)支払い時期を遅らせる
(2)失敗するものならできるだけ早いうちに失敗するように計画する
(3)リスクを他者と共有する
の3つの方法を紹介しています。
 第11章「不均衡を利用する」では、エベレスト登山と近所の山のハイキングの例を挙げ、「ある問題に投入される努力の量は、問題の重要性と釣り合っていなければならない」と述べています。
 また、「80/20の法則」とも呼ばれる「パレートの法則」について、インプットの20%が、アウトプットの80%の原因となる、というものであることを解説した上で、「非線形現象」について、「ファクター16」と名づけ、「20%のグループに属する個々は、残り80%のグループの個々よりも16倍重要である」と解説しています。
 第12章「情報の価値を知る」では、「情報の最大の価値は、それが意思決定を左右するときに発揮される」と述べた上で、「意思決定分析のために使っていいのは、その決断の価値のおよそ1パーセント」であるという「1パーセントルール」について解説しています。
 第14章「鞘取り(裁定取引)を考える」では、ミルトン・フリードマンが、「黒人女性を秘書に雇った話を好んでする」ことを紹介し、「黒人女性は求人市場において、人々の偏見のために、同様の能力を持つ白人女性よりも給料が低く見積もられているということ」に気づき、「黒人女性を雇えば、同じ給料でより高い価値を得ることができる。求人市場のアンバランスを効果的に利用し、価格の安い資源(黒人女性)をより高い価値の使用(よりよい仕事)にまわした」ことは、「鞘取りの本質である」と述べています。
 第15章「正しい行動をする」では、「倫理的でない人の究極の課題」として、「彼らはある特定の状況では得をするかもしれないが、それを続けていれば機会は狭まっていく。信用してくれる人がどんどん減っていく。自分で行動を制約しなければ、周囲がその人の行動を制約するのである」と述べています。
 本書は、イメージされるような数学や金儲けではない、経済学の本質的な理解を助けてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 本書は、意思決定に関する部分を中心においているため、読んだ人の中には、「これのどこが経済学なのか?」と思う人もいるかもしれません。
 経済学は必ずしも、数式が出てくるものばかりではありません。むしろ数式を使わないからこそ、市場の持つ機能の中核である「鞘取り」や「リスク」の概念を理解しやすいのかもしれません。


■ どんな人にオススメ?

・経済学は数式を使うものだと思っている人。


■ 関連しそうな本

 中島 隆信 『これも経済学だ!』 2007年07月17日
 ゲーリー・S. ベッカー, リチャード・A. ポズナー (著), 鞍谷 雅敏, 遠藤 幸彦 (翻訳) 『ベッカー教授、ポズナー判事のブログで学ぶ経済学』 2007年02月05日
 大竹 文雄 『経済学的思考のセンス―お金がない人を助けるには』 2006年09月04日
 ゲーリー・S. ベッカー, ギティ・N. ベッカー (著), 鞍谷 雅敏, 岡田 滋行 (翻訳) 『ベッカー教授の経済学ではこう考える―教育・結婚から税金・通貨問題まで』
 佐藤 雅彦, 竹中 平蔵 『経済ってそういうことだったのか会議』 2005年06月26日
  『』


■ 百夜百マンガ

遠藤浩輝短編集【遠藤浩輝短編集 】

 演劇の世界では、「音効」の道具としてポータブルサンプラーを使っているらしい、ということを初めて知ったのがこの作品でした。
 フジテレビの深夜番組の「音効さん」って覚えてますか?

2007年7月22日 (日)

代表的日本人

■ 書籍情報

代表的日本人   【代表的日本人】(#913)

  内村 鑑三 (著), 鈴木 範久 (翻訳)
  価格: ¥630 (税込)
  岩波書店〔新版〕版 (1995/07)

 本書は、1895年に公刊された『日本及び日本人(Japan and the Japanese)』をもとに再版されたものです。著者は、「キリスト教国の人々から『異教徒』と呼ばれている日本人の中」に、「キリスト教徒よりも、むしろ優っている人物のいることを見出し」たもので、西郷隆盛、上杉鷹山、二宮尊徳、中江藤樹、日蓮上人の5人を取り上げています。
 第1章「西郷隆盛」では、西郷が、若い頃から陽明学に惹かれ、陽明学が、「崇高な良心を教え、恵み深くありながら、厳しい『天』の方を説く点」で、「同じアジアに起源を有する最も聖なる宗教と、きわめて似たところ」があると述べています。
 そして、西郷が、影響を受けた人物として、薩摩藩種である薩摩斉彬と、「大和魂のかたまり」であった水戸藩の藤田東湖を挙げています。
 また、維新革命における役割として、「木戸や三条を欠いたとしても」革命は実現を見たであろうが、「西郷なくして革命が可能であったかとなると疑問」であると評しています。
 さらに、西郷が「文明」を、「正義の広く行われることである、豪壮な邸宅、衣服の華美、外観の壮麗ではない」と定義していることを紹介しています。
 著者は、西郷が「東京一の繁華街」に所有していた土地を売却し、自らの年金収入の大部分を、「ことごとく鹿児島で始めた学校の維持のために用い」、
「わが家の法、人知るや否や
 児孫のために、美田を買わず」
という漢詩を残し、「妻子のために何も遺」さなかったが、「謀反人として死んだにもかかわらず、国家が遺族の面倒を」みたことが述べられています。
 また、西郷の人生観を要約した言葉として、「敬天愛人」を挙げ、西郷が、「『天』は全能であり、不変であり、きわめて慈悲深い存在であり、『天』のほうは、誰もの守るべき、堅固にしてきわめて恵み豊かなものとして理解していたことはその言動により十分知ることが」できると述べています。
 第2章「上杉鷹山」では、鷹山が藩主になったときに、「上杉家は、15万石の大名でありながら、昔のままの100万石の家臣を抱え、当時の慣習やしきたりをことごとく踏襲していた」ため、「藩の維持が難しく、負債は何百万両にのぼり」、「税とその厳しい取立てにより住民は土地を追われて減り、貧困が全領を覆った」と述べています。
 また、鷹山の「能力に応じた人の配置」という考えが、「封建政治の世襲的な成果に反するもの」だが、「能力のある人物には、乏しい藩庫から惜しみなく手当を支給し」、その人間を、
(1)郡村頭取と郡奉行
(2)「親孝行のこと、寡婦や孤児への慈悲、婚礼のこと、着物の作法、食物と食事の作法、葬式のこと、家の修理のことなど」の慣習や儀式を人々に教える、一種の巡回説教師のような役
(3)警察の役
の「3つの異なる地位に分けて、民の上に配し」たことが述べられています。
 さらに、鷹山の産業改革には、
(1)領内に荒地を残さないこと
(2)民の中に怠け者を許さないこと
の2通りがあったことを紹介しています。
 第3章「二宮尊徳」では、16歳のときに親をなくした尊徳が、「古人の学問に対して『目明き見えず』、すなわち字の読めない人間にはなりたくないとの思い」が起こり、孔子の『大学』を入手し、仕事を終えた深夜に勉強に励んだところ、「自分には何の役にも立たず、若者自身にも実際に役立つとは思われない勉強のために、貴重な灯油を使うとはなにごとか」と叱られ、翌春には、自ら開墾した土地にアブラナを蒔き、袋一杯の菜種を収穫したことが紹介されています。
 そして、小田原藩主から、荒廃した村の再生を命ぜられた尊徳が、
「金銭を下付したり、税を免除する方法では、この困窮を救えないでしょう。まことに救済する秘訣は、彼らに与える金銭的援助をことごとく断ち切ることです。かような援助は、貪欲と怠け癖を引き起こし、しばしば人々の間に争いを起こすもとです。荒地は荒地自身の持つ資力によって開発されなければならず、貧困は自力で立ち直らせなくてはなりません。~仁愛、勤勉、自助――これらの徳を徹底して励行してこそ、村に希望が見られるのです」
と、「道徳力を経済改革の要素として重視する」再建案を報告していたことを称賛しています。
 第4章「中江藤樹」では、「理想的な学校教師(センセイ)として尊敬する一人の生涯」として紹介しています。
 そして、「現代の私どもは、『感化』を他に及ぼそうとして、太鼓を叩き、ラッパを鳴らし、新聞広告を用いるなどの大騒ぎをしますが、真の感化とはなんであるか、この人物に学ぶがよろしいでしょう」と述べています。
 第5章「日蓮上人」では、1222年に、「安房の国の東端、岬に近い小湊村の漁師の家」に生まれた日蓮が、仏教の基本的知識の習得に没頭する中で、「仏教に無数の教派の存在する問題」に直面し、「海水は同じ味を持っている。仏陀の教えに二つの道がありうるはずがない。この宗派の分裂はどのように説明されるのか。いずれの宗派が、私の従うべき仏陀の道であるのか」と悩んだことが述べられています。
 そして、仏教の経典の中で、「最後に語られた経典が仏陀の全生涯の教えのエッセンスを含んでいる」と考え、「法華経」に着目したことが述べられています。
 さらに、日本宗教史上名高い「竜の口の法難」について、死刑執行人の元に送られ、
首切り役人が、最後の太刀をあびせんとして刀を振り上げた途端」に、日蓮が経文を唱えると、「刀の刃は三つに分かれて壊れ、刀を持つ男の手はしびれて、二の太刀を下すことがかなわなかった」直後に、鎌倉からの赦免状を持った使者が到着した、と描写しています。
 本書は、現在でも広く知られている、19世紀までの「代表的」な日本人の姿を、明治の目線で語ってくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 執筆当時の著者は、急激な日本の西欧化の中で、自らのアイデンティティを求め、本書の執筆にたどり着いたそうです。
 本書が直ちにそのまま、現在の状況に当てはまるものでもありませんが、日本人としての自らのアイデンティティを見つめる上では、重要な示唆を与えてくれる一冊ではないでしょうか。


■ どんな人にオススメ?

・日本の人。


■ 関連しそうな本

 宮本 常一 『忘れられた日本人』 2006年06月25日
 イザベラ バード (著), 高梨 健吉 (翻訳) 『日本奥地紀行』 2006年08月06日
 宮本 常一 『イザベラ・バードの『日本奥地紀行』を読む』
 ハーバート・G. ポンティング 『英国人写真家の見た明治日本―この世の楽園・日本』 2006年08月13日
 ルース ベネディクト (著), 長谷川 松治 (翻訳) 『菊と刀―日本文化の型』
 猪瀬 直樹 『日本人はなぜ戦争をしたか―昭和16年夏の敗戦』 2006年01月01日


■ 百夜百音

ブリトラ【ブリトラ】 ブリーフ&トランクス オリジナル盤発売: 1998

 初めから受け狙いでグループを維持し続けるというのは難しいんでしょうか。そういえばいつの間にか解散してました。

『ブリトラゴールデンベスト』ブリトラゴールデンベスト

2007年7月21日 (土)

農業は人類の原罪である

■ 書籍情報

農業は人類の原罪である   【農業は人類の原罪である】(#912)

  コリン・タッジ (著), 竹内 久美子 (翻訳)
  価格: ¥893 (税込)
  新潮社(2002/10/17)

 本書は、「キリスト教が非常に問題にする、人間の『原罪』が、実は農業を始めたこと」ではないかということを暗示しているものです。
 著者は、「農耕はおよそ1万年前に中東で始まった」とされ、それとともに「新石器革命」が起こり、都市が登場した、という伝統的な見方に異議を唱え、「人間は少なくとも4万年前(旧石器時代後期)の昔から『原農耕民』と呼んで差し支えないくらいにまで環境を制御していた」と論じることで、「他の多くの未解決の問題が楽にしかるべき位置に収まる」ことを主張しています。そして、「まず新石器革命の時期にはすでに農耕は昔からの確立された技術になっていた」こと、「旧石器時代後期に人々が動物を大量に殺したのは、その頃の人間が『原農耕民』だったと考えればとてもうまく説明できる」という仮説を提示しています。
 第1章「農業の持ついくつもの側面」では、「できるだけ多くの食物が利用できるよう、環境に手を出し操作することを追及する」ことに「農業の本質」があるとして、
(1)園芸:食べられる食物を意図的に育てる。
(2)耕作:手始めに土地を全体的に砕き、生えている植物を取り除き、白紙の状態から始める。
(3)牧畜:家畜の群れに生えている牧草を、好きなように食べさせる。
の3種類の活動が、展開されることとなったと述べています。
 また、「聖書に書かれていることの多くは農業に関わって」いることであり、「聖書が書かれた時代には、農耕はおそらく、牧畜に比べてはるかに『暴力的』なものとみなされていたのだろう。農耕の方がはるかに大きく直接的な影響を与えるからだ」と述べ、「農耕は伝統的な暮らし方を脅かし、『神が与え賜うた』土地を壊すという強引な部分もあるため、冒?に近いものだった」と述べています。
 さらに、「作物の保護と積極的ではない作付けというごく単純な営み」こそが、「農業の重大な要素」であるとノベルとともに、オーストラリアのアボリジニが行っていたとされる「火の棒農業(Firestick farming)」について解説しています。
 第2章「ネアンデルタール人の最期と更新性の大量殺戮」では、「片手間に農業を行う動物は、ただ狩猟だけを行う動物に比べて、はるかに効率的な、そして結局のところはひどく環境を破壊する狩猟者になり得る」と述べています。
 また、「原農業を行っていたクロマニヨン人と、自然のままに狩猟を行っていたネアンデルタール人」の2つの異なる集団の衝突を、「どの時代にも繰り返される永遠のテーマ」であるとして、「七人の侍」における、ならず者たちと農民の衝突になぞらえています。
 第3章「新石器革命」では、「新石器革命でみられた痕跡」が、「農業の始まりを意味」したものではなく、「ある特定の場所での長期にわたる大規模な農業の始まりを意味している」として、「当時の農業はもはや都市を発展させ、文明化を促すほどの力を持った行いだったのだ」と述べています。
 そして、農業が、「自然の制約を打ち破る、はっきりとした目的のもとに環境を操作する」ものであり、「環境に手を加えれば加えただけ、多くの食物を作り出すことができ」、「一生懸命働けば働くほど、手に入る食物の量も増す」ので、「怠けるなど、とんでもないこと」であると述べています。そして、食べ物の量の増加によって人口増加により拍車がかかるという「らせん状の悪循環」が、「農業人口が多くなればそれだけ人口も増加し、となればますます農業の必要性に迫られ」、「労力をかければそれだけの見返りがあるので、これらの過程はいよいよもって加速されていく」と解説しています。
 また、「最初に農業に専念した中東の集団」が、「非常に扱いやすい作物」である小麦と、「それを育てる肥えた土地」という「宝物を発見する才能に恵まれていた」と述べています。
 さらに、考古学的な記録から、「耕作農業の時代には、ずいぶん早い時期からそれまでの狩猟時代の人間には見られなかった病気や外傷があった」として、「収穫した穀物を粉にひくために、サドルカーン(回転式ではなく、意思を前後させてすりつぶす方式のひき臼)を使っていた」ために、「爪先や膝が曲がっていて関節炎を起こしており、腰が変形している」という特徴を指摘しています。
 そして、「中東にいた集団が耕作農業を始めるようになったのは、それがよりよいものだったからとか楽だったから」という理由ではなく、「農業をすればするほど人口が増えるから、ますます農業をする必要に迫られたこと」や、「海面が上がり、狩猟に適した土地が失われたこと」、「小麦と大麦が存在し、それらが育つ土地もあった」ことにより、「そうせざるをえなかった」からであると述べ、彼らが、農業を「ひどく嫌っていたとすら考えられる」として、「全人類を農業に専念させること、とくに耕作農業に専念するよう運命づけることは、まさしく呪いなのである」と述べています。
 「結論」では、「新石器革命は農業の始まりを示しているのではない。それが示すのは、片手間に行う、狩猟・採集のおまけのような農業が、環境の変化と必要性に迫られてノルマとしての農業へ変化したということである」と述べ、それ以来の、人口の指数関数的な増加が、「この先どれくらい続くのだろうか」と疑問を投げかけています。
 本書は、人類にとっての「農業」の意味を考えさせてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 今まで習ってきた歴史の教科書では、原始的な暮らしをしていた、狩猟・採集の生活から、「進化」した生活こそが農業であったという感じで習ってきましたが、農業に手を染めてしまったからこそ、あっという間に現代の暮らしまで来てしまったということなのかもしれません。
 そう考えると、LOHASな生活を求めて、田舎暮らしをしたい、とか土と触れ合う生活がしたい、とかいう人は、決して自然や生態系に対しての負荷を減らしたい、というのではなく、自分が快適に生き残りたいから、という究極のジコチューなのかもしれません。


■ どんな人にオススメ?

・農業は「地球に優しい」、「自然なライフスタイル」とか思っちゃってたりする人。


■ 関連しそうな本

 ジャレド ダイアモンド 『銃・病原菌・鉄〈上巻〉―1万3000年にわたる人類史の謎』 2006年09月12日
 ジャレド ダイアモンド 『銃・病原菌・鉄〈下巻〉―1万3000年にわたる人類史の謎』 2006年09月13日
 リチャード・ドーキンス (著), 垂水 雄二 (翻訳) 『祖先の物語 ~ドーキンスの生命史~ 上』 2007年06月30日
 リチャード・G. クライン 『5万年前に人類に何が起きたか?―意識のビッグバン』 2006年10月21日
 ジャレド ダイアモンド 『人間はどこまでチンパンジーか?―人類進化の栄光と翳り』 2006年09月29日
 ジュリアン ジェインズ (著), 柴田 裕之 (翻訳) 『神々の沈黙―意識の誕生と文明の興亡』 2006年06月04日


■ 百夜百音

たらこ・たらこ・たらこ たっぷりたらこボックス【たらこ・たらこ・たらこ たっぷりたらこボックス】 キグルミ オリジナル盤発売: 2006

 ゲルニカの人がこんなところで頑張っている姿を見るのはうれしい限りなんですが、youtubeを通じて世界中で受けてたみたいです。

『改造への躍動』改造への躍動

2007年7月20日 (金)

税の負担はどうなるか

■ 書籍情報

税の負担はどうなるか   【税の負担はどうなるか】(#911)

  石 弘光
  価格: ¥735 (税込)
  中央公論新社(2004/03)

 本書は、「少子・高齢社会に向けて税負担増は避けられないとし、それに向け具体的な税制改革のシナリオを描いたもの」です。
 第1章「税負担増は不可避か」では、国の2003年度予算で、「一般会計は歳出81.8兆円であるのに対し税収が41.8兆円で、その税収比率が51.1%と半分をわずかに上回る程度の過ぎない」数字であったことを挙げ、「歴史的にみて、世界の先進国中で税収比率がこれまで最低を記録したのは、1985年度のイタリアの53.3%で、今回日本のケースがこれを更新した」と述べ、日本が、このような異常に低い税収依存体質になってしまった理由として、
(1)バブル崩壊後の長引く低成長、景気停滞
(2)景気対策のために連年のように採用されてきた制度減税による影響
の2点を挙げています。
 そして、財政破綻の状況になったときの処理策として、
(1)公債を中央銀行引き受けに紙幣を増発して、猛烈なインフレにすること。
(2)徹底した歳出削減と増税を伴なう財政構造改革により、毎年公債を減額し、その残高を縮減する
の2つを挙げ、「後者の方が常識的にはるかにベターな方法と考えられている」と解説しています。
 著者は、「問題の所在は明らか」であるとして、「わが国はこれから膨大な国・地方の借金を抱える中で少子・高齢社会を迎える」ため、「何らかの手段で財源を調達せねば」ならず、「来るべき将来に条件つきであるが税負担増は不可避といえよう」と述べています。
 そして、「税についての対話集会」で数多くの参加者と意見を交わした体験を踏まえ、
(1)多数の国民から納得してもらえる税制改革のプランを提示する
(2)政府は歳出削減、行財政改革の達成すべき目標を明確にする
(3)仮に増税を伴なう税制改革ならマクロの景気動向との関連を明確化する
の3点を提案しています。
 第2章「いま何故、税制改革か」では、税制の抜本改革が必要な理由として、
(1)われわれの持つ現行税制は、急速に変化する経済社会に対応しきれず、各分野でミスマッチを生じ、いうなれば制度疲労、機能不全を起こしている。
(2)必要な税収確保のためという税制本来の機能が著しく低下している。
の2点を挙げています。
 そして、「税制改革を進行するためには、課税上何らかの基準、あるいは租税原則を必要としている」として、政府税調が伝統的に、「公正・中立・簡素」という3つの原則を掲げてきていることを解説しています。
 第3章「税・社会保障負担のあり方」では、日本の特徴として、「国民の受益水準は潜在的な国民負担率を反映し欧州並みの高水準であるのに比べ、国民の負担水準はアメリカ並みの低水準となっている」ことを指摘しています。
 第5章「空洞化した所得税」では、戦後、基幹税としての地位を維持してきた所得税について、「今日その内容を詳細に見ると欠陥が多く、基幹税としての地位を著しく低下させてきたといわざるを得ない」と指摘し、その最大の問題として、「近年所得税の税収が減少の一途をたどっていること」を挙げ、その原因として、
(1)デフレ・不況による名目所得伸び悩みを受けての税収減
(2)相次ぐ減税措置の影響
の2点を指摘しています。
 また、所得控除見直しに関する問題点として、
(1)配偶者控除ならびに配偶者特別控除の存廃
(2)住宅ローン控除
の2点について論じています。
 第6章「高まる消費税への期待」では、消費税負担が、「逆進的な税負担」として、「一般に社会的公平の観点から批判されることが多い」ことについて、逆進性克服の手段として、
(1)税制全体でこの逆進的な税負担を是正する(所得税や資産税の累進税率をより強化する)
(2)歳出面で低所得層に対する社会福祉サービスを増額する
(3)消費税負担を低所得層に限って所得税から還付する直接的な緩和策
(4)日常的な生活必需品とりわけ食料品に軽減税率やゼロ税率を適用したり、非課税にする
の4点を挙げています。
 本書は、目を背けがちな将来の税負担について、ストレートに論じている一冊です。


■ 個人的な視点から

 税金の話は、正しいことを書いたからと言っても受け入れられるとは限らないから難しいのではないかと思います。やっぱり現実問題として実際にごっそり払わなければならないとなると反発があります。


■ どんな人にオススメ?

・税金は「とられるもの」だと思っている人。


■ 関連しそうな本

 カール・S. シャウプ (著), 柴田 弘文, 柴田 愛子 (翻訳) 『シャウプの証言―シャウプ税制使節団の教訓』 2007年02月13日
 持田 信樹 『地方分権と財政調整制度―改革の国際的潮流』 2007年03月14日
 白川 一郎 『自治体破産―再生の鍵は何か』 2006年10月30日
 吉富 有治 『大阪破産』 2006年10月20日
 肥沼 位昌 『図解 よくわかる自治体財政のしくみ』
 松本 武洋 『自治体連続破綻の時代』 2007年01月04日


■ 百夜百マンガ

モデナの剣【モデナの剣 】

 「サーキットの狼」でも、「フェラーリ・ディーノ・レーシング・スペシャル」という原形をとどめないマシンが登場しましたが、こちらのディーノは普通です。

2007年7月19日 (木)

競争の社会的構造―構造的空隙の理論

■ 書籍情報

競争の社会的構造―構造的空隙の理論   【競争の社会的構造―構造的空隙の理論】(#910)

  ロナルド・S. バート (著), 安田 雪 (翻訳)
  価格: ¥4830 (税込)
  新曜社(2006/10)

 本書は、「インフォーマルな関係のネットワークが強調すると、どのようにして競争上の優位性が生み出されるか」について述べたもので、著者は、「競争行為やその結果の大半は、競争の場の社会的構造における、『空隙』を、プレイヤーがうまく利用できるかどうかという点から理解できる」と論じています。
 そして、構造的空隙に特有の性質として、
(1)関係の問題であり、プレイヤーの属性ではない。
(2)競争は創発する関係であり、観察される関係ではない。
(3)競争は過程であり、単なる結果ではない。
(4)不完全競争は、自由の問題であり、権力だけの問題ではない。
の4点を挙げ、「これらが合わさって、構造的空隙理論の特徴となる」と述べています。
 第1章「競争の社会的構造」では、1人のプレイヤーが競争の場に持ち込む資本として、
(1)経済的資本
(2)人的資本
(3)社会的資本
の3点を挙げ、経済的、人的資本が社会的資本と異なる点として、
(1)単人格の属性ではなく、集団によって共同的な関係において所有されている。
(2)市場の生産方程式における、投資条件ではなく収益率に関係する。
の2点を挙げています。
 そして、社会的資本の問題に至る道のりとして、
(1)特定の資源を持つ人々へのアクセスとしてネットワークを記述することで、彼らの資源とあなたの資源の間に相関を生み出す。
(2)社会的構造自体を資本として記述する。
の2つについて論じた上で、「問題の核心は、ある構造がいかにこういう利益を拡大するかを記述できるように、競争の場においてネットワークがもたらす利益を描くことである」として、
・情報:アクセス、タイミング、照会の3つの形態で発生し、これらの利益を提供するよう最適な形で構造化されたネットワークを持つプレイヤーは、その投資に対してより高い収益率を享受する。
・統制:情報利益を生み出す構造的空隙は、関係を交渉する上で特定のプレイヤーに優位を与える、統制利益をも生み出す。
という2種類の利益について解説しています。そして、前者に関して、「バラバラのネットワーク」が、「より多くの情報利益を提供する」と述べ、この、「重複しないコンタクトの間の分離(seperation)」を「構造的空隙」と名づけています。さらに、「構造的空隙の数は、ネットワークのサイズとともに増加」し、「空隙が情報利益を与える鍵となる」として、「最適化されたネットワーク」のデザインの原則として、
(1)効率性:1つのコンタクトあたりの構造的空隙を生み出す数を最大化するために、ネットワーク中の重複しないコンタクトの数を最大化する。
(2)有効性:一次的コンタクトを保持する資源に集中するために、二次的コンタクトから一次的コンタクトを識別する。
の2点について論じています。そして、「ネットワークの利益は複数の手段により強化される」として、
・総体が大きいことによる利益:より多くのコンタクトが含まれている。
・多様性は利益の質を強化し、重複しないコンタクトは多様な情報源に接することを可能にする。
と述べています。
 著者は、「情報利益を生み出す構造的空隙は、あるプレイヤーに関係を調整するに当たっての優位性をもたらし、統制利益を生み出す」として、統制利益を構造的空隙から引き出す人々、すなわち「漁夫の利を得る者」のとりうる、
(1)同じ関係で競争しあうとき、人は互いに対立させられうる。
(2)同じ人が異なる関係から相反する要求をされるとき、非とは互いに対立させられうる。
の2つの第三者戦略について述べています。
 また、「構造的自律性」について、「自分の側には構造的空隙がなく、かつ、他者の側には構造的空隙が豊富な関係を持つプレイヤーは、構造的に自律している」と述べています。
 第2章「議論を定式化する」では、実証研究のために構造的自律性を定義するための定式化を行っています。
 そして、プレイヤーの関係の投資と拘束の特性が、「関係ごとに比べると、プレイヤーにとってどこに機会が多く、どこに機会が少ないかを示している」と述べ、「関係にわたってみられるこれらの特徴のパターン」を、「プレイヤーを特定し、研究し、その企業家的機会を比較しうる」、「空隙シグネチャー」と呼んでいます。さらに、「空隙シグネチャーの両端は、企業家的行為のための機会をプレイヤーが最も多く、またはもっとも少なく持っている場所を特定する」として、
(1)機会:空隙シグネチャーの領域が大きい
(2)拘束:空隙シグネチャーにおいて高く狭い領域。
(3)スリーパー:プレイヤーの現在の行為の中でほとんど注意が払われないが、必ずしもずっと無視されるわけではない。
の3種類の関係を示しています。
 著者は、構造的自律性モデルを作り出す過程で論証された論点として、
(1)空隙の統制利益を橋渡しする関係とは、排他的アクセスの紐帯である。
(2)構造的自律性は拘束の非線形の関数であり、当初において構造的空隙のない、低い拘束度のレベルでもっとも急激に減少する。
(3)競争の場の周りの境界は、場外にいるプレイヤーにとっての問題である。
の3点を挙げています。
 また、「プレイヤーのネットワークの活動電位」を、
(1)有効なサイズ:ネットワークにおける重複しないコンタクトの数
(2)構造的自律性:母集団にいる他者と比較して構造的空隙に対して拘束されていないアクセスをプレイヤーが持つ程度を測る間隔尺度
(3)空隙シグネチャー:ネットワークにおけるそれぞれの関係の機会と拘束の分布を要約して示す。
の3つの方法で要約しています。
 第3章「利益への転換」では、ここでの分析が、「市場戦略において顧客層を識別したり、それぞれの顧客層における潜在的な購買者に対する競争圧を解明したり、製品の利益を生む潜在力を理解するという、より実質的な課題と同じように、競争を研究する社会科学の課題にとっても有用である」と述べています。
 そして、「供給者と顧客の間の構造的空隙の欠如」が、
(1)需要者と供給者の市場間の構造的空隙の欠如は、製造者を拘束する。
(2)供給者―顧客市場における構造的空隙の欠如は、製造者を拘束する。
の「2つのしかたで交渉に影響し、それらは相互の強化しあう」と述べ、「製品ネットワークにおける構造的空隙の分布が製造者に交渉優位性をもたらすとき、製造者は、明らかにより高い利益率を得るべく、有利な価格で交渉すると期待できる」と述べています。
 また、「取引における拘束度のレベルは、明らかに生産者の利益率を減らす」として、「拘束度のレベルに加えて、取引全般におけるその分布によって利益率がいかに影響されるか」を示しています。
 著者は、「構造的空隙の分布が、供給者と顧客と取引を交渉するに当たり製造者に優位性を与えるとき、彼らは自分にとって望ましい価格交渉の成功を期待しうる」として、「77のアメリカの製品市場20年間にわたって当てはまる」3つの論点として、
(1)構造的空隙の議論への一般的な証拠として、利益率は製造者の間の構造的空隙によって削られ、供給者と顧客の間の構造的空隙により増加する。
(2)利益率を予測する最終的な構造的自律性のモデルにおいて空隙の効果は非線形であり、乗法的である。
(3)たいていの製造者にとって取引の大半は、ほんの一握りの重要な取引に集中している。
の3点を挙げています。
 第4章「昇進」では、「構造的空隙に富むネットワークを持つ管理職は昇進が早く、同僚よりも若い年代でその地位に達する」ことなど、「特定の種類の個人がいかにして企業内で昇進するかを理解すること、企業内のある種の個人にとっての昇進に対する障壁を発見すること、個人または企業のリーダーとしての能力を査定すること、目標とする個人または組織の中でリーダーの能力を強化するための計画を発達させることといったより実践的な作業と同じく、競争と職業達成を研究する社会科学的作業に対して役立つ」と述べています。
 そして、管理職についての研究をする中で、「一番重要な実績は、革新的で企業内で波及効果を持つ、注目度の高いプロジェクトに参加すること」であり、「そのようなプロジェクトにうまく参加すると、個人的にも報われ、昇進への足がかりともなる」だけでなく、「その人が、将来そのようなプロジェクトに参加するための可能性を保持すること」が、さらに重要であると解説しています。
 また、空隙の効果について、「2つの社会的な領域が遭遇し、ある種の人々が異なった種類の人々に遭遇する場所」である「社会的境界」で働く管理職に「もっとも顕著である」として、「社会的境界で生活する個々人は、社会的に同質的な環境にいる個々人よりも、企業家的機知を使って生きている。境界において、管理職は他の種類の人々――境界をまたぐ人々――との関係を維持する境界を越える関係は、管理職の期待と境界の向こう側にいる世界の期待との間の継続的な交渉を伴なう」と述べ、「社会的境界にいる管理職がより強いネットワーク効果を示すのは驚くにあたらない」と解説しています。
 さらに、「最近の昇進、および内部者の昇進について調整を加えた昇進速度の推定値」の表とグラフから、
(1)昇進速度に対する空隙の効果の明白な証拠がある。
(2)内部者は、彼らの昇進傾向ではなく、昇進とネットワークとの関連性が顕著である内部者が他の管理職よりも早く、または遅く昇進する傾向は有意ではない。彼らのネットワークの構造的空隙の量が早く昇進する機会に対して影響を与えないという意味で、彼らは異なっている。
(3)構造的空隙に富むネットワークを持つ最近昇進した管理職は、次の地位に早く昇進すると期待できるが、空隙がほとんどないネットワークを持つ最近昇進した管理職は、現在の地位に長期間とどまると推定できる。
の3つの論点を示しています。
 そして、「母集団の低い地位から早く昇進した管理職は、上層部に到達したとき、相対的に若い」ため、「社会的境界にいる管理職に対して早期昇進の空隙の効果がより強く表れるのは驚くことではない」として、
(1)早期昇進への空隙の効果は、昇進速度のように、ネットワークが社会的境界に広がる管理職(周縁工場にいる管理職、女性、現場管理職、最近雇用された管理職)に一層強い。
(2)女性は明らかに特別なケースであり、拘束度が女性の早期昇進と強い正の相関を持ち、これは、女性に対する支援の重要性から生まれる。
(3)拘束度と早期昇進との相関は、会レベルの管理職の有意ではない正の相関から、最高位の管理職の極端に強い負の相関までの値をとる。最高位ランクでは、データは早期昇進と拘束度のほぼ完全な負の関連を表す線形に分布する。
の3つの論点を示し、結論として、「拘束度はすべての地位において昇進を遅らせる。しかし、その効果は、彼らの昇進の経歴全体に蓄積され、拘束された管理職が会社の階層を上がれたとして、そのときにはより年をとっている」、「社内で昇進し、母集団の中で一層高い地位に到達するためには、管理職は、直接の課題を超えた他企業の競争相手の主導権や、その企業の世界的市場を形成する外的要因を取り込むような行為の準拠枠に変更しなければならない」と解説しています。
 著者は、管理職からの現実的な質問である、「わたしはどんな種類のネットワークを築いていくべきなんでしょうか」という問いに対し、
(1)管理職の選択肢が何かを知ること。
(2)どの選択肢が推奨されるか。
の2つの答えを示し、「ある種のネットワークは、ある種の管理職の早期昇進にとって、その原因たりえている。管理職にとって一番重要なメッセージとは、会社での現在の地位にとって最良に機能するネットワークを構築すること」であると述べています。
 著者は、「管理職がコンタクトのネットワーク構造により昇進する速度」の分析の結果として、
(1)構造的空隙に富むネットワークを持つ管理職はより早く昇進し、より早く現在の地位に到達する傾向がある。
(2)空隙の効果は社会的境界で働く管理職に対して最も著しい。
(3)より重要な境界は、会社の上層部のリーダーと、それ以外の人々の間の政治的境界である。
(4)政治的境界の裏側では、競争はより個人的思考に左右される。
(5)管理職のネットワーク間に示された差異は、昇進に対して明らかな意味合いを持つが、管理職間に、特定のネットワークを他のネットワークよりも持つという傾向の差異は見られない。
の5つの論点が明らかになったとしています。
 第5章「プレイヤーと構造の二面性」では、「構造的空隙の因果の要因」が、
(1)空隙は不可視な非重複性の関係であり、存在しないことによってのみ知りうる関係である。
(2)空隙はわれわれが見るプレイヤーをつなげない。それらは、プレイヤーの不可視な部分をつなげる。
の「二重の意味で不可視である」と述べています。
 そして、分析者が、「結果と属性の間の見かけの相関を断ち切り、結果を引き起こす背後の社会構造要因に達する」という「属性決定論からの脱出」によって、「構造的空隙の定義と空隙仮説の因果の過程において、構造的空隙の議論を分析水準のミクロとマクロに強力に架橋する」としています。
 第6章「関与と生存」では、「高い収益率を生み出す構造的空隙の情報と統制利益が、多様な手段で高い収益率を得ようと試みるようプレイヤーを解放する」という考えを中心に論じています。
 そして、「組織生態学と構造的空隙の議論は、その分析単位に基本的な共通点がある」として、分析単位が「構造的に同値な生産者のまとまり」であり、前者では「ポピュレーション・ニッチ」、後者では「市場役割」と呼ばれ、「構造的空隙の議論においては、資源はプレイヤー間の関係を理解する鍵であり、資源の種類は環境の中で同じように位置づけられる重複するプレイヤーのクラスターによって規定される」と述べています。
 さらに、組織生態学が、「競争から生じる異なる成長条件から競争を推定する」のに対し、構造的空隙の分析は、「競争を生み出すネットワーク条件から競争を推定」し、このことを明確にすることが、
(1)構造的空隙の分析では、資源区画が前もって規定されており厳密性が高い理由を説明する。
(2)分析において市場の境界の使用法は異なるが、そのことは境界それ自体とは独立である。
の2つの理由から重要であると述べています。
 また、組織生態学が、「1つの市場集団内の生存率に影響する要因について多様な洞察をもたらす」として、「新規参入の不利益は、淘汰の過程についての組織生態学の議論に適合すること」、および「初期の分析における強力な実証的証拠」という2つの理由を挙げています。
 著者は、「構造的空隙が、市場内がさまざまに異質的である率や安定的である率にどのように関わり、それを、市場競争を理解するための現代社会学の重要な貢献である2つの理論を統合するためにどのように使えるかを示した」として、「より高い収益率をもたらす構造的空隙の情報と統制利益は、プレイヤーをしてそのより高い収益率を得るための多様な方法に挑戦させる」という考えを述べています。
 第7章「戦略的埋め込みと制度的残基」では、分業についての経済学的理解と社会学的理解に関して、「われわれが交換を行う社会的、情動的組織を記述するために発展してきた」アプローチとして、
(1)交換を行うに当たり、それに内在する摩擦に注目しており、社会的、情動的組織が摩擦を減らすために交換相手を統合する方法を説明する。
(2)一度取引が行なわれると、その遂行が次の遂行への塑型となるという事実に注目している。
の2つのアプローチを挙げ、「プレイヤーが、それがなければ拘束された関係を持つ行為を促進するために構築する、社会的、情動的組織に関わ」る、「2つのアプローチとそれらの密接なつながり」について述べています。
 そして、「第三者戦略」が持っている、
(1)構造的空隙の情報と統制利益の発達に関係した、「重複したコンタクトを互いに対立するように仕向ける」、「重複しないコンタクトを互いに対立するように仕向ける」という2つの第三者戦略がある。
(2)企業家的機会の報酬を見出すプレイヤーは、おそらく拘束によって失われた機会の潜在的利益を見出す吉を持っており、構造的空隙が存在しないところでは、空隙を作り出せるか、またはそれらがないという拘束を無効にできる。
という2つの側面について述べています。
 また、「組織」について、「市場の拘束を規定する購買と販売がそれを管理するために生み出された企業関係とは大いに異なる」ために、「いっそう魅力的」であると述べた上で、「単純かつ基本的な生産問題への解答」として「公式組織」を挙げ、「企業家の組織はある市場にいる組織から供給を得て、ある市場にいる組織に製品を販売する。企業家はどのように取引を行うかについての選択肢を持つ」と述べ、開かれた市場で売買を行うか、組織を垂直統合するか、という選択肢の選択について、「企業家にとって基本的な問題である」と述べています。
 また、コースが、彼の議論を、
(1)なぜ、誰も開かれた市場ではなく、企業内の市場で売買を行うのか。
(2)企業内に取引の優位性があるならば、なぜすべての取引が1つの大企業の中で行われないのか。
という、基本的な問題について2種類の異なる言い回しを用いて組み立てていることを紹介した上で、(1)について、「企業の権限は影響力、安定性、プライバシーを提供する」ものであると、「企業の紐帯の優位性」を挙げています。
 さらに、コースによる、「企業は、その中でのさらなる取引を組織化するコストが、同じ取引を開かれた市場での交換によって行うコストと等しくなるまで拡大する傾向がある」という言葉を紹介し、「取引限界で均衡したコストは、その市場に適応した均衡した企業を規定する」という推論を、「組織の基本的問題の研究にとって、魅力的なほど簡潔な研究枠組みである」と述べ、この推論と構造的空隙の議論との「強力な相補性」が、
(1)2つの議論のより強力な統合:拘束を、どの取引が企業に持ち込まれうるかを規定する市場コストについての公式な定義かつ実証的指標として見る。
(2)2つの議論のより弱い統合:議論を分離したまま、拘束を、詳細な取引コスト分析にふさわしい場となりそうな市場関係に注目するための枠組みの道具として使う。
の2つの方法の「どちらかによっても発展させうる」と述べています。
 そして、「なぜ単一の大企業がないのか」という(2)の問いに関しては、構造的空隙の分析から、
(1)所有は義務を伴なう。市場との大規模な売買は時として、依存ではなく機会となる。すなわち、市場内の構造的空隙を利用するための価格メカニズムを用いる機会、取引価格の設定において第三者として現れる機会となるが、企業の多角化は、この企業家的機会を壊してしまう。
(2)多角化は製造者をして、すでに直面している以上に厳しい市場の拘束にさらす。
の2つの考察を示しています。
 また、企業ではなく、個人に関しては、結婚を、「2つの分離した、既存の、拘束の高いネットワークの頂点にある関係」であるとして、夫と妻が、「外部のネットワーク構成者の代表として結婚」し、彼らが、「夫婦役割の交渉においては、それぞれのネットワークにおけるほど発言権を持た」ず、「結婚生活外の友人の適切な関心に沿うような、性別に典型的な演技をするようになる」と述べています。
 著者は、構造的空隙の戦略仮説を、「プレイヤーが撤退、拡大、埋め込みの誘因をどこで持つかについての言明である」と述べ、その本質を、「拘束関係には戦略的活動への誘因があり、機会関係はそれを抑制する」ものであり、この2種類の関係が、「プレイヤーのネットワークの空隙シグネチャーという点から規定され」ると解説しています。
 そして、拘束されたプレーヤーが組織である場合には、「構造的空隙の議論は企業の理論の改訂版」であり、「企業は、拘束された市場取引を契約、または権限関係に埋め込む経営者の社会的残基である。公式組織は、企業家に求められる生産についての問題に対する解である」と述べています。
 また、「構造的空隙の拘束度係数」を、「競争的価格決定のルールのもと固有の供給者または顧客市場と取引を行う製造者にとってのコストの、実証的に証明された指標である。拘束度が高くなるほど、競争的価格決定を企業的権限と交換するという誘因が大きくなる」と述べ、拘束が、「コストと両方の概念枠組みにおける、コストと依存についての重要な側面を捉え、利益マージンと妥当な関連を持つ。拘束が取引コストと資源依存の何を測るのであれ、それは製造者の投資に対する収益率を下げるという特性を持つ。拘束は、製造者を取引交渉において不利な位置に置くような経済の社会的構造に、取引がどの程度位置づけられているかを規定し、測定する」ものであると解説しています。
 本書は、「構造的空隙」という観点から、社会を、そして市場と企業とを捉えなおす新しい視座を与えてくれる有用な一冊です。


■ 個人的な視点から

 「訳者あとがき」の中で、著者が、フライドポテトや目玉焼きやトーストなど何にでもケチャップをかける息子から、「なんでもケチャップをかけた方が、余計においしくなるんだもん」と言われたことを例に、「ネットワーク分析もこれと同じだ。どんな研究でもネットワーク分析を加えると、より優れたものになる」と、2006年4月の国際ネットワーク分析学会で冒頭に述べていることが紹介されています。
 本書の後半で展開されているような、企業の理論とネットワーク分析は、まだまだ掘れば宝が埋まっていそうな分野のように思われます。特に、本書で取り上げられている、コースやウィリアムソンなどの古典の先にある、「契約の経済学」と呼ばれる分野におけるインセンティブ構造の定式化に、ネットワーク分析という「ケチャップ」をかけたら相当美味しくなりそうな気がします。
 なお、本書は、訳者が、「原著をお読みになった方も、おそらく、著者独特の文体や論理展開の流れを把握するのに苦労なさったのではないかと思う。本書を難解にしているのは、大胆な比喩、意図的な論理の迂回である」とあとがきで述べているように、非常に読みにくいものになっています。


■ どんな人にオススメ?

・ネットワーク分析という「ケチャップ」を味わいたい人。


■ 関連しそうな本

 安田 雪 『実践ネットワーク分析―関係を解く理論と技法』 2005年10月04日
 安田 雪 『ネットワーク分析―何が行為を決定するか』 2005年10月13日
 ダンカン ワッツ (著), Duncan J. Watts (原著), 栗原 聡, 福田 健介, 佐藤 進也 (翻訳) 『スモールワールド―ネットワークの構造とダイナミクス』 2006年03月22日
 アルバート・ラズロ・バラバシ (著), 青木 薫 (翻訳) 『新ネットワーク思考―世界のしくみを読み解く』 2005年10月24日
 ロナルド・H. コース (著), 宮沢 健一, 藤垣 芳文, 後藤 晃 (翻訳) 『企業・市場・法』 2005年04月29日
 オリヴァー・E.ウィリアムソン 『市場と企業組織』 2005年04月19日


■ 百夜百マンガ

きょうはなにするの、ペネロペ【きょうはなにするの、ペネロペ 】

 ディズニーにおける「グーフィーとプルート」問題にも同じことが言えるんですが、動物を擬人化した作品におけるペットや家畜の扱いって難しいですね。

2007年7月18日 (水)

鉄道忌避伝説の謎―汽車が来た町、来なかった町

■ 書籍情報

鉄道忌避伝説の謎―汽車が来た町、来なかった町   【鉄道忌避伝説の謎―汽車が来た町、来なかった町】(#909)

  青木 栄一
  価格: ¥1785 (税込)
  吉川弘文館(2006/11)

 本書は、
「明治の人々は鉄道が通ると宿場がさびれるといって鉄道通過に反対したり、駅をわざと街から遠ざけたりした」
「江戸時代に栄えていたわれわれの町に鉄道が通過していないのは、先祖たちが鉄道通過に反対したからである」
などの「鉄道忌避伝説」に関して、なかば常識化している「伝説」に疑問を持ち、「論理的な再検討」を行っているものです。
 第1章「鉄道史研究の発達と鉄道忌避伝説」では、鉄道忌避伝説について、「多くの具体的な研究が積み重ねられ、その実態はかなり明らかにされて、鉄道氏研究者の間ではその虚像であることがよく知られてきた」が、「鉄道史の専門研究者でない人がこういう論文を読む機会はまずない」ため、「ジャーナリズムの世界の人々の書いたもの、地方紙研究者の執筆したものには、まだまだ鉄道忌避伝説は固く信じられている」と指摘しています。
 また、諸外国における鉄道反対運動の事例として、イギリスの鉄道に対する反対運動には、
(1)個人的な反対
(2)地方共同体(地方自治体)による反対
(3)競争発生上の反対
の3つのカテゴリーがあることを紹介しています。
 第2章「鉄道忌避伝説の検証」では、伝説を検証する視点として、
(1)鉄道忌避の実在を証明する基本資料が存在するか。
(2)鉄道忌避があったとされる時期において、日本全体の鉄道政策や鉄道建設の傾向はどのような状態であったか。
(3)鉄道のルートは地形との関連で合理的に選択されているか。
の3つの視点を挙げています。
 そして、「鉄道が谷に沿って走る場合、それよりも高い位置の河岸段丘や台地に都市が載っている例」は多いとして、千葉県佐倉や三重県伊賀上野などの例を紹介した上で、「できるだけゆるやかな勾配で線路を建設するにはどこを通ればよいの、を明治期の土木技術者の立場になって考えることが大切である」と述べ、「鉄道のルート計画は、官設鉄道であれ、私設鉄道であれ、鉄道側から見て、技術的、経済的な制約の中でとりうる最良と考えられるものが選択される」、「さまざまな技術的、経済的な条件を十分に考慮した上で、いったん決定された鉄道のルートは、沿線住民の局地的な反対運動くらいでは絶対に変更されるものではない」と指摘しています。
 具体的には、1888年(明治21)に開業した、東海道線大府(愛知県)―浜松(静岡県)間において、「豊橋(愛知県)以西の区間では在来の東海道のルートとは並行せず、全く異なるルートを選定した」ことに関して、「日本で最も広く知られている鉄道忌避伝説」が岡崎をはじめとする東海道筋の宿場町などに生まれた例を取り上げ、近年の地方紙研究において、「鉄道建設の過程にかかわる多くの文書が発見、公表され」ており、それらの資料を検証するとともに、当時の土木技術者の立場から、「東海道線の建設に当たって、豊橋以西の区間では、旧東海道に並行するルートが選ばれなかったのは、豊川流域を矢作川流域との間の分水嶺を越えるルートの急勾配区間を避けたからであることは疑いない」と指摘しています。
 著者は、「従来まことしやかに伝えられてきた東海道線建設時の鉄道忌避伝説は本格的な研究の進展とともに、しだいに否定されるようになった」と述べています。
 また、江戸川の有力な河岸町であった流山で、「現在のJR常磐線が建設されたときに、鉄道通過に反対したために、鉄道は少し下流の松戸を通ることになった」という話が伝えられていることに関して、当初の建設計画では流山の地名が何度も出てくることから、「明らかに流山を通ることが決められて」いたが、「新線の距離をできるだけ短くして建設費を少しでも削減したい」会社の意向から、「同時進行していた隅田川支線を利用」し、「この線を新しい土浦線の一部として利用し、南千住付近から水戸方面に分岐するルートを採択する」ことで、「まだ都市化していない水田地帯を地上線で建設できるので建設費が増えること」はなく、このルートであれば、「千住(北千住)から水戸街道に沿うルートが最短ルートとなり、流山経由の可能性はこの段階で消えたと見てよいだろう」と述べています。
 著者は、「土浦線のルートは会社と政府とのやりとりの間で決定されたのであって、流山その他の地域の反対運動があって、動かされたのではない」と指摘しています。
 さらに、都市と駅の関係に関して、世界の都市の駅配置の共通点として、「その駅が初めて開業した時点では町外れに位置していた」ことを挙げ、「すでに建築物が密集して建てられた市街地に鉄道を通すためには、地価の高い土地を買収し、既存の建物を壊してから鉄道の建設にかからねばならない」ので、「これはきわめて当たり前のこと」であると述べています。
 そして、「旧市街地と都市駅が離れている現象を見て、これを鉄道忌避と結びつけること」がある例として、「古くから成田街道や東金街道の宿場町として栄えた船橋」や、現実には隣村と駅の争奪合戦のため町外れに駅を置かざるを得なくなった房総鉄道茂原駅の鉄道忌避伝説を紹介しています。
 第3章「実際にあった鉄道反対運動」では、「日本の鉄道創業時において鉄道忌避がはっきりとした形で表れるのは、実は民衆・住民側からではなく、政府内部、つまり官側からのさまざまな形での反対の主張であった」ことや、明治20年代以後、民側からの意見が出てくるようになったのも、「農業水利や高知整理、洪水対策にかかわるもので、現代から見てもかなり合理的で、正当な理由に基づく要求であった」ことが述べられています。
 そして、「水運の存在を理由に鉄道の建設を拒否する動き」として、千葉県の例を取り上げ、1887年に出された、武総鉄道(東京本所―千葉―佐倉―成田―佐原間)と総州鉄道(東京本所―千葉―佐倉―八日市場―銚子間)の2つの私鉄計画の出願に対し、当時の千葉県知事が、水運を理由に「はっきりと両鉄道の意義を否定」したことが紹介されています。当時千葉県は、水運の効率化のために、利根川と江戸川の間の「台地を掘削して両河川を短絡する利根運河の開削を計画していた」ことが解説されています。
 また、鉄道が、水田地域では築堤を造成して建設されるため、この築堤が従来の水利条件を変えてしまうことや、「上流域で洪水が起こった場合に、築堤がダムとなって、線路の上流側に洪水が滞水してしまう」ことに対して、農民が反応したことが解説されています。
 さらに、唯一「きちんと文献の上で確認できる反対運動」として、三重県津から山田(現伊勢市)に至る参宮鉄道において、「従来伊勢神宮への参詣者によって生活してきたのに、鉄道が開通することによって生業を奪われる。免状を与えるのは転業の時間的余裕を見て5年間だけ待ってほしい」との請願が出されたことを紹介した上で、内務省による実態調査の結果、免許状は与えられ、さらに、「沿線地域社会の有力者間の反目」があった可能性に言及しています。
 第4章「鉄道忌避伝説定着の過程」では、「鉄道忌避伝説が日本中に『普及』、拡大する過程には、地方紙研究の在り方とその変化が深く関連しているように思われる」と述べ、「地方史研究がアカデミズムの世界で認知されるようになるのは第二次世界大戦後」のことであり、それ以前の研究環境では、「歴史学や地理学の基本的な指導や訓練、とくに資料吟味の厳密性を描いたままの調査が行われた傾向も否定できな」いと指摘しています。そして、第二次世界大戦後、「地域社会の中でなんとなく言い伝えられていた鉄道忌避伝説」が、はっきりとした活字記録として残るようになったことが述べられています。
 また、流山の鉄道忌避について最初にふれた著作として、1964年の『松戸市史』などを挙げ、「昭和戦前期ないし戦後の早い時期に流山町民の間で信じられていた鉄道忌避伝説が独り歩きして、ここでついに肉付けされるにいたった」と述べています。
 さらに、小・中学校で使われた副読本において、言い伝えだった鉄道忌避伝説が、教科書という性格からか「はっきりと断定する文章」になってしまっており、はっきりと小・中学校の現場で教えられたことで、鉄道忌避伝説が、多くの人々に『常識』となって拡がったと述べています。
 著者は、「地元の人々の間で言い伝えられているものが、たまたま地方史家や地理研究者の耳に入り、この人々によって著書や論文の形に書かれると、言い伝えはたちまち全国に『歴史的事実』として広まり、さらなる再生産の原材料にされる」と述べ、その実例として、『銚子市史』を挙げ、「鉄道忌避伝説について、自治体が編纂した公的な地方史誌の類で、この記述ほど饒舌で、話に尾ひれをつけて脚色されたものは珍しい」と指摘しています。
 そして、「日頃は学問的な両親にかけて、精緻な分析や丹念な考証を心がけている、真面目な歴史学・地理学の研究者、あるいは教育関係者でも、こと鉄道のこととなると、失礼ながら、慎重な姿勢はどこかへ捨て、いとも簡単に、気軽に書き飛ばしているのではないかという疑問を私は常に感じるのである」と指摘しています。
 著者は、1950年代以降の全国的な地方史誌の編纂ブームの中で、「江戸時代に繁栄し、古い歴史を有する街の中で幹線鉄道のルートから遠く離れたところでは、なぜ鉄道がわが町を通らなかったか、その理由が模索されるようになった」、「経済的に繁栄していたわが町に鉄道が通らず、経済的にははるかに低いレベルにあった地域に早くから鉄道が通っていたのはなぜか。そのためにわが町は衰微した。この解答として考えられたのが特定の地域で細々と伝承されてきた鉄道忌避伝説ではなかったか」と指摘しています。
 本書は、地域の歴史を見る目に慎重さを与えてくれるとともに、歴史を見る目が、いかに現代のバイアスから離れられないかを教えてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 本書でも取り上げられている流山の鉄道忌避伝説については、「水運で栄えていた流山の業者たちの反対で松戸を通るルートが選ばれた」というものが伝えられ、後に水運とともに町が衰退し始めると、危機感を持った流山の産業界が出資して流山電鉄を設立した、と言われています。
 この話を初めて聞いたのは、サンプラザ中野のオールナイトニッポンでした。1986年3月15日に流山電鉄救済ライブを行っているそうなので、当時中学生だったようです。


■ どんな人にオススメ?

・明治の人々は先見の明がなかったと思っている人。


■ 関連しそうな本

 秋庭 俊 『帝都東京・隠された地下網の秘密』 2006年10月4日
 今尾 恵介 『消えた駅名―駅名改称の裏に隠された謎と秘密』 
 今尾 恵介 『住所と地名の大研究』 2006年07月06日
 勝田 政治 『内務省と明治国家形成』 2007年02月16日
 渡辺 隆喜 『明治国家形成と地方自治』 2007年03月26日
 高久 嶺之介 『近代日本の地域社会と名望家』 2007年06月15日


■ 百夜百マンガ

星雲児【星雲児 】

 池上作品では珍しいSFもの、と言うよりも、宇宙を題材にした池上もの、という感じでしょうか。線は似てないのですが、なんとなく、星野之宣を思い出しました。

2007年7月17日 (火)

これも経済学だ!

■ 書籍情報

これも経済学だ!   【これも経済学だ!】(#908)

  中島 隆信
  価格: ¥756 (税込)
  筑摩書房(2006/08)

 本書は、「経済学が社会科学としてきわめて守備範囲が広く、汎用性の高い学問であることを読者に方々に納得していただき、こうした経済学へのマイナス・イメージを払拭すること」を目的としたものです。著者は、「経済学こそ社会の中の『なぜ?』を見出し、探求する学問なのである」、社会現象の背後に存在する人間を突き動かす「動機の部分を突き詰めることによって、『なぜ?』にたいする真の答えを見出そうとする」と述べています。
 第1章「経済学的思考のススメ」では、首都圏を走る通勤車両にグリーン車両が連結されていることについて、「座っていかれるのだから高いのは当たり前だ」と考えることは、「因果関係が逆転している」という決定的な誤りであり、「座っていかれるから高いのではなく、高いから座っていかれるのである」、「グリーン車は券を買って乗った人が快適なすき具合だと思えるところまで料金を高くする必要があるのだ」、「通勤電車でグリーン車を利用する人は、通勤時間を有効に使いたいと考えている」人、すなわち、「機会費用が高い人ほどグリーン車へのニーズは高いと見るべきである」と述べています。
 また、結婚式や披露宴の目的を、経済学的には、「離婚のコストを高めること」、あるいは、「後戻りできなくするため」だと解説し、このように「自らを『背水の陣』の状態におくことをコミットメントという」と述べています。
 第2章「伝統文化、その生き残りの秘密」では、大相撲が、年功的評価システムを取り入れている理由として、「力士独特の生活習慣によって形成される人的資本の特殊性」を挙げ、十両以上の関取が、朝10時以降に土俵に降り、部屋では付け人と呼ばれる部下が身の回りの世話を一切してくれるという殿様のような扱いを受けていて、「いきなり社会人一年生として上司の命令に従うことなどできるわけがない」ことや、一日二食の食生活と激しい稽古によって作り上げた、「筋肉質でありながら腹がせり出した力士特有の体型」が、「相撲以外の世界ではほとんど通用しない」こと、「関取になるため、勉強などせず、ひたすら稽古に励んできた」ため、「多くは中卒の学歴しか持っていない」ことなどを挙げ、「これでは現役引退後社会に出たとき、就ける仕事にも制約があるだろう」と述べています。そして、引退したばかりの平年寄が「ジャンパー姿に髷を載せた不自然な出で立ち」で場内警備に当たっていることについて、「そんな彼らの給与は年間で1000万円近くもある。日本一、いや世界一待遇のいい警備員だろう」と述べています。
 また、90年代の若貴バブルが、「相撲協会に重い負の遺産を残した」として、「多くのにわか相撲ファンが国技館や巡業に押し寄せたことで、それまで地道に大相撲を応援していた人々がてを引いてしまった」ことを、「少数の馴染み客に支えられていたレストランにガイドブック片手の観光客が大挙して訪れるようになったことと同じである」と解説しています。
 第3章「宗教も経済活動だ」では、檀家制度が、「世の中にさほど変化が見られない安定した状況においてうまく機能する仕組み」であるが、明治以後、お寺と檀家が、「仏教信仰というよりもむしろ先祖代々の墓を媒介として強固なつながりを維持してきた」ため、家から出た次男や三男が、別に自分の墓を持つようになると、「寺檀関係が単なる墓だけのつながりに過ぎない」であった場合、「都会へ出て行った次男は何の宗教にも属さない信仰市場への新規参入者」となってしまい、「これが新興宗教の狙い目となった。仏教寺院は檀家制度のもとで長年にわたって太平の世を謳歌したため、進行を広め信者を獲得するという宗教が本来磨きをかけておかなければならない技術を失っていた」ため、「猛烈な信者獲得攻勢をかけた創価学会などに市場を席巻される結果を招いた」と解説しています。
 また、「もし、檀家制度がなくなるとお寺はどうなるのだろうか」という問いに対して、「一つのモデルケース」として、檀家制度が存在しなかった沖縄のお寺の例を挙げています。
 第4章「世の中に『弱者』はいない」では、「誰でも生きていく以上は生活の糧を得なければならない」、「そうなると仕事にうまく適応できず、ビジネス界で負け続ける人たちが出てくる」として、「結局、弱者であるかどうかは、カネにつながる人的資源を持ち合わせているかいないかという点に帰着してしまう」と述べています。
 そして、「時代とともに弱者は変化していくため、ある時期に特定のグループに所属する人たちを弱者と認定しても、将来そうでなくなることがある」ことに着目し、「誰が弱者でなくなったのか外部からは見分けがつきにくい」ため、「弱者を認定するのは容易だが、取り消すのは大変なのである」と述べています。
 また、平成18年に某ビジネスホテルが、「身体障害者用の駐車スペースや専用客室など条例で定められているルールを遵守しなかったということで物議を醸した」事例を取り上げ、「より建設的な議論という点からいえば、なぜこうしたごまかしが発生するのかを考えるべき」であるとして、障害者用客室の稼働率が低いのは、インフラが整備されていないために身体障害者が頻繁に外出しないからであり、そうした問題を放置しておきながら、「営利企業である民間のホテルのモラルハザードに対してメディアが一斉に非難の矛先を向ける意味がどれだけあるのだろうか」と指摘し、「日本の社会において弱者は単なるモラルの判断材料に過ぎないのである。私たちが高齢者や障害者などの弱者を見かけたり、あったりしたときに身構えるのは、そのときにとる態度によって自分の道徳性が判定されていると思うからだ」と述べています。
 著者は、「経済力をもたない人たちをひとまとめにして『弱者』という身分を与える時代はもはや終わりを告げた。『弱者』である以前に、誰もが一人ひとりの人間なのである。その認識なしにはいつまでたっても個人の尊厳に根ざした社会は到来しないと考えるべきだろう」と述べています。
 第5章「経済学は懐の深い学問」では、経済学に対する批判として、「人間の欲望の追求を支援している」、「経済学者は何かというと『市場に任せよ』『個人の選択の自由を増やせ』と繰り返すが、そんなことをしていたら人心は荒れ果て、殺伐とした世の中になる」というものがあることについて、「市場経済は人間の欲望を助長することが目的なのではない。希少性のある資源を人間の欲望の暴走から守ることが本来の役割なのである」と解説しています。
 そして、経済学が、「どのような人間の行動もありのままに受け入れてくれる」、「懐の深い学問」であるとして、「経済学的な思考方法を身につけることは人間の自由な行動を尊重することでもある。多くの人たちがこの点に理解を示すようになれば、今後も私たちの選択の自由は守られ続けるだろう」と述べています。


■ 個人的な視点から

 本書は、著者がこれまで出版してきた、『大相撲の経済学』、『お寺の経済学』、『障害者の経済学』などからエッセンスを引っ張り出してきたような構成になっています。
 これらのテーマは、著者のゼミの年間テーマ研究を元にしているようなのですが、こういうゼミだったらさぞかし楽しかろうと思います。


■ どんな人にオススメ?

・経済学は数学を使う面倒な学問だと思っている人。


■ 関連しそうな本

 中島 隆信 『大相撲の経済学』
 中島 隆信 『お寺の経済学』 2006年03月21日
 中島 隆信 『障害者の経済学』 2007年04月29日
 中島 隆信 『オバサンの経済学』
 ゲーリー・S. ベッカー, リチャード・A. ポズナー (著), 鞍谷 雅敏, 遠藤 幸彦 (翻訳) 『ベッカー教授、ポズナー判事のブログで学ぶ経済学』 2007年02月05日
 大竹 文雄 『経済学的思考のセンス―お金がない人を助けるには』 2006年09月04日


■ 百夜百マンガ

健太やります!【健太やります! 】

 正統派の少年誌向けスポーツマンガで安心して読めますが、安心しすぎると読み飛ばしてしまうかもしれません。
 のっぺりと地面に張り付いた野球やサッカーに比べて、高さのある動きをするバレーやバスケの方が、マンガとしてはダイナミックなものになるのかもしれない可能性を秘めています。

2007年7月16日 (月)

数学をつくった人びと〈1〉

■ 書籍情報

数学をつくった人びと〈1〉   【数学をつくった人びと〈1〉】(#907)

  E.T. ベル (著), 田中 勇, 銀林 浩 (翻訳)
  価格: ¥861 (税込)
  早川書房(2003/09)

 本書は、「一般読者や、現代数学を作り出した人間とは、どんな人間なのかを知りたいと思う人々」を対象に、「今日の数学の広大な領域を支配しているいくつかの主流をなす考え方へ[読者を]導くこと、しかもそれらの考え方を作り出した人々の生涯を語ることを通じて導くこと」を目的としたものです。
 著者は、取り上げる人物の選択基準として、
(1)現代数学に対してもつその人物の業績の重要性
(2)その生涯と性格の人間的魅力
の2つの基準を置いたと述べています。
 第2章「古代のからだに近代のこころ」では、「ずっと昔、私たちのための道を開いてくれた天才たちの偉大で簡明な指導的観念を、いくつか心に留めておく方がよい」として、ツェノン、エウドクソス、アルキメデスの3人のギリシア人の生涯と業績とを取り上げています。著者は、ツェノンとエウドクソスとを、「今日栄えている有力な相反する二派の数学思想、すなわち破壊的批判と建設的批判の二派を代表している」と述べるとともに、「古代最大の知性」であるアルキメデスについては、「骨の髄まで近代的である」と述べ、「歴史上≪もっとも偉大な≫数学者3人だけを挙げよといわれるならば、そのリストには必ずアルキメデスの名が入ることだろう」と述べています。
 第3章「貴族・軍人・数学者」では、「私がほしいのは平穏と休息だけだ」という「数学を新しい水路に導き、科学史の進路を変えた人」であるルネ・デカルトの言葉を紹介しています。
 まあt、デカルトの遺骨が、死後17年経ってフランスに持ち帰られたときの、ヤコービの言葉として、「偉人を生前に所有するよりも、その灰を所有する方がしばしば都合がよい」という言葉を紹介しています。
 著者は、「直接には、デカルト自身によって、間接には次の世紀が行った正反対の逆転によって、数理科学の対象の概念全体に革命が起こった。デカルトは自分の成し遂げたことの意義を完全に理解していた」というジャック・アダマールの言葉を引用しています。
 第4章「アマチュアの王者」では、ピエール・フェルマの障害について、「静かで勤勉で、波立ちもなかったが、その中からたくさんのものが生み出された」と述べ、「フェルマは全生涯を静かに暮らし、無用の論争は避け、しかもパスカルにおけるジルベルトのごとく、少年時代の天才ぶりを構成のために記録してくれるような愛する姉妹がなかったので、学生時代の経歴については不思議なほど残ってはいない」と紹介しています。
 また、フェルマの最大の労作として、「いわゆる≪数論≫または≪高等算術≫であり、ガウスがそれで満足に思った非衒学的な名称を使えば、算術である」と述べ、「一見無益とも思える研究の副産物は、物理的宇宙と直接に接触している他の数学分野に適用することのできる多くの有力な方法を開拓し、これらの≪無益な≫研究を企てた者に豊かに報いてくれている」と解説しています。
 さらに、フェルマの≪最終定理≫に関して、「大数学者ガウスが、フェルマを疑っている」ことについて、「ブドウを取りそこなったキツネは、それを酸っぱいという」と述べ、「フェルマは第一級の数学者、非難の余地がない正直な人物、そして史上無類の数論学者であった」と評しています。
 第5章「人間の偉大と悲惨」では、「紙に対するいわゆる賭け事をもてあそぶ時と、メレの騎士の問題を解いてやった場合のように、大切なことをしているときとの区別を、必ずしもはっきり見分けなかったこと」が「パスカルの最大の弱点であった」と述べています。
 第6章「海辺にて」では、ニュートンが、「科学と数学において、先輩から受け継いだもののほか」に、「当時の時代精神からさらに2つの贈り物」として、「神学への熱情と、錬金術へのおさえがたい渇望とをうけついだ」と述べています。
 また、ニュートンがハレーに「うまくなだめすかされて」、「天文学、力学上の発見を本に書いて出版することに同意」し、『自然哲学の数学的原理』を出版する際には、「健康には少しも注意を払わず、自分が食物と睡眠を要求する肉体を持っていることを忘れたかのように、その傑作の著述に没頭した」ことが述べられています。
 第7章「万能の人」では、「何でも屋に名人なし」という諺の「きわだった例外」として、ゴットフリート・ヴェルヘルム・ライプニッツを挙げ、彼が数学以外に、「法律学、宗教、政治、歴史、文学、論理学、形而上学、支弁哲学」などに貢献し、「そのうちのひとつだけでも、彼の名声を後世に伝えるのに十分であると思われる。≪普遍的天才≫とは何の誇張もなく、彼に与えられる形容詞である」と評しています。
 そして、数学におけるライプニッツの多面性を、「数学的推理を物理的世界の現象に適用するという単一目的に向かって突進したニュートンと、よい対照をなしている」と述べています。
 著者は、ライプニッツが、「ひとつの生涯でなく、複数の障害を送ったともいえよう。外交官・歴史化・哲学者・数学者として、彼はその各分野において普通人の生涯を満たすほどの仕事を成し遂げた」と述べています。
 第8章「氏か育ちか」では、「育ちではなく生まれが天才出現の決定的要因であるが、人為的か偶然かの助力がなければ天才も滅んでしまう」という考えに対し、「数学の歴史は、この興味ある問題の研究のために豊富な資料を提供している」として、「3代のうち8人の数学者を生み、そのうち数人は群をぬいた」数学一家ベルヌーイ家を取り上げています。
 そして、青年時代のダニエル・ベルヌーイが、旅行中に出会った人物に、「私はダニエル・ベルヌーイです」と「控えめに自己紹介」したところ、相手は皮肉のつもりで「私はアイザック・ニュートンです」と応じ、「ダニエルはこれを、一生を通じて受けたもっとも誠意ある贈り物」だと喜んだ、というエピソードを紹介しています。
 第9章「解析学の権化」では、「人が呼吸するように、またワシが風に身を任せるように、傍目には何の苦労もなく計算をした」と評される、「史上もっとも多産な数学者、当時≪解析学の権化≫と呼ばれた」レオナルド・オイラーを取り上げています。
 そして、「特殊なタイプの問題を解くために、一般的な≪算法≫を案出する数学者」である「アルゴリスト」として、「オイラーに肩を並べるもの」はない、と述べています。
 第10章「誇り高きピラミッド」では、ナポレオン・ボナパルトが、「数学世界にそびえる誇り高きピラミッドだ」と評したジョセフ=ルイ・ラグランジュを取り上げています。
 ラグランジュは、最初から「解析学者であって幾何学者ではなかった」と述べられ、「数学研究ではほとんど必然的となった専門家の最初の著しい例である」と紹介されています。
 そして、「数学を支配するラグランジュの方程式は、あらゆる科学のうちで、無から有をつくりだす技術のもっとも精妙な実例である」という言葉を紹介した上で、「最大限に単純案原理こそ、詳細に検討してみると、個別的かつ特殊的に見える種々様々な最大量の問題を、統一できるのである」と述べています。
 また、ラグランジュが、「第一級の数学者であることに加えて、口を閉じていなければならない時と場所を心得ている、まれな才能を備えた、思慮深い穏やかな人物であった」と評しています。
 さらに、ラグランジュが、フランス大革命によってその無感動を打ち砕かれ、「もう一度生き返って、数学に清新な興味を注ぐようになった」と述べ、ラグランジュの全研究生活が、「実際には王侯の保護のもとに送られたのではある」が、決して王党派にはくみしてはいらず、また、「革命家の側に同情するもの」でもなく、「両党派から容赦なく切り崩される文明の中道にはっきりと、また断固として立っていた」と述べています。
 第11章「農民から俗物へ」では、「高貴な職業は必然的に高貴な性格をつくる、という教育学上の迷信を裏切る、もっともきわだった実例」として、公爵ピエール=シモン・ド・ラプラースを取り上げ、「苦笑を禁じえないような色々の弱点――肩書き崇拝、政治上の変節、たえず人々の尊敬の的になっていたいという欲望――にもかかわらず、ラプラースの性格の中には、真の偉大さの要素がある」と評しています。
 そして、ラプラースが、「ニュートンの引力の法則を微細にわたって全太陽系に適用するというその生涯の大事業に身を投じ」る一方で、「同輩のものでも、先輩のものでも、利用できるものはなんでも手当たりしだい遠慮会釈なく盗んだ」ことについて、「こんなにまで、狭量になる必要はなかったのである。太陽系の力学に対する彼自身の巨大な貢献は、彼が無視した人々の研究を容易に圧倒し去るものであったのだから」と述べています。
 また、18世紀フランスの数学的科学者であるラグランジュとラプラースの2人が、「興味ある対照的な型をなし、その対象は数学の発展とともに著しくなってきた。ラプラースは数理物理学者の領域に入り、ラグランジュは純粋数学者の種族に属する」と述べています。
 第12章「皇帝の友」では、ガスパール・モンジュとジョセフ・フーリエの経歴を「不思議に似ているので、一緒に述べた方がいいだろう」と述べ、モンジュが「画法幾何学」を発明し、フーリエが「熱伝導に関する古典的研究から、数理物理学の近代化を行った」ことを紹介しています。
 また、モンジュとナポレオンの友情について、「ナポレオンが最大の権勢を振るっていたときにおいてすら、彼にたてをつき、おそれず真実を語ったのは、フランス広しといえども、モンジュ一人だけだったろう」と述べています。
 さらに、ナポレオンが、「最期の夢」といわれているアメリカ征服よりも、「もっと高い、信じがたいほどに高度な夢」を持っていたとして、ナポレオンが、「修道僧になりたいと切望」し、「科学だけが自分を満足させることができる。自分は第二の、そしてもっともっと偉大なアレグザンダー・フォン・フンボルトになりたい」、「自分は、この新しい生涯の中で、わしにふさわしい研究や発見を残したいものだ」とモンジュに告白していることを紹介しています。
 本書は、数学者の知られていない素顔を多くの人に知らせてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 数学者というと、イメージされるのは象牙の塔の奥深くで書物と格闘する浮世離れした人物、という感じではないかと思いますが、大学教授ばかり出ないばかりか、それぞれに波乱万丈の人生を送ったことがわかります。


■ どんな人にオススメ?

・数学は太古の昔から無味乾燥だと思っている人。


■ 関連しそうな本

 シルヴィア ナサー (著), 塩川 優 (翻訳) 『ビューティフル・マインド 天才数学者の絶望と奇跡』 2006年11月20日
 E・T・ベル (著), 河野 繁雄 (翻訳) 『数学は科学の女王にして奴隷』 2006年09月18日
 チャールズ サイフェ (著), 林 大 (翻訳) 『異端の数ゼロ―数学・物理学が恐れるもっとも危険な概念』 2005年11月20日
 グレゴリー・J・チャイティン (著), 黒川 利明 (翻訳) 『セクシーな数学-ゲーデルから芸術・科学まで-』 2005年11月03日
 サイモン シン 『フェルマーの最終定理―ピュタゴラスに始まり、ワイルズが証明するまで』 2006年09月02日
 ロビン・ウィルソン 『四色問題』 2006年07月18日


■ 百夜百音

Surfer King【Surfer King】 フジファブリック オリジナル盤発売: 2007

 いつの間にかすっかりサビになると「サーファー気取りアメリカの」と絶叫している娘たちの将来が心配です。

『アラカルト』アラカルト

2007年7月15日 (日)

レナードの朝

■ 書籍情報

レナードの朝   【レナードの朝】(#906)

  オリヴァー サックス (著), 春日井 晶子 (翻訳)
  価格: ¥1029 (税込)
  早川書房(2000/04)

 本書は、「特異な症状を来たした患者たちの人生と、彼らが見せた反応」と、「そこから医学と科学が何を学ぶべきか」を主題としたものです。「患者たちは今から50年以上も前に大流行した眠り病(嗜眠性脳炎)の数少ない生存者であり、彼らの反応は、画期的な『目覚め』の新薬レポジヒドロキシフェニルアラニン(L-DOPA)によってもたらされた」ものであると述べられています。
 「嗜眠性脳炎(眠り病)について」では、1916年から17年にかけて、ウィーンやその他と都市で突然表れた「新しい」病気が、それから3年で世界中を席巻し、その症状が、「同じ症状をみせる患者が二人といないほど多様なばかりか、あまりにも奇妙だった」ため、「当初は、あたかも何千もの新しい病気が突然あふれ出たかのように思われた」と述べられています。著者は、「患者を荒廃へと引きずりこむ嗜眠性脳炎」が、「多くの患者の場合、一つの機能だけは無傷のまま残る」こと、すなわち、「知性、想像力、判断力、ユーモアといった『より高次の機能』」が残ることに注目し、「患者たちは、いってみれば、ユニークな脳機能の崩壊を表現する独特の存在」であると述べています。
 「マウント・カーメル病院の生活」では、L-DOPA登場以前の患者たちの願い、すなわち、「病気の治癒、そして人生を取り戻すこと」、「失われた時間を取り戻し、人生を謳歌していた若い日の自分に戻ること」という「2つの奇跡が起こるのを願い続けずにはいられ」なかったことが述べられています。
 「L-DOPAの開発」では、L-DOPAが、「奇跡の薬」であったこと、開発した医師自身が、「私たちの時代の……本当に奇跡的な薬」と呼んでいて、「L-DOPAの効果についての報告がなされると、薬を投与する立場の医師とそれを服用する患者の双方が熱狂に包まれた」ことが述べられています。
 「症例1 フランシス・D」では、L-DOPAの投薬によって目覚め、「副作用」が出たために、薬を突然投与されなくなった彼女が、「私はまっすぐ垂直に離陸して、L-DOPAに乗ってどんどん高く、信じられないくらいの高さまで登りました。上空何百万マイルもの、この世のてっぺんにいるような気分だったんです……。そうしていると、わたしを押し上げていた力がなくなってしまい、墜落しました。真っ逆さまに地面に落ちただけではなく、地の底に向かって突き刺さり、今度は地中何百万マイルまで潜っていったんです」と語っていることを紹介しています。
 「症例2 マグダ・B」では、L-DOPAを投与された彼女が、日記に鉛筆で、「最後に字を書いてから20年ぶり。自分の名前をどう書くのかさえほとんど忘れていた」と記したことが紹介されています。そして、健康状態も全般によかった彼女が、「ある日突然、自分は死ぬと感じた」ため、娘たちに電話をかけ、「今日会いに来てちょうだい。明日はないんだから……。そうじゃなくて、気分はとてもいいのよ……。悪いことは何もないの。でも、今夜眠ったら死ぬことがわかっているのよ」と話し、病棟を回って、皆と握手し、「さようなら」と言った後、「ベッドに入り、その夜のうちに亡くなった」ことが述べられています。
 「症例3 ローズ・R」では、43年ぶりに「目覚め」た彼女について、「43年後の今も、彼女はまだ1926年に『いる』のだろうか? 1926年が彼女の『現在』なのだろうか?」と述べ、「まるでL-DOPAが彼女を数日間だけ『妨害から解放』して、彼女には理解することも耐えることもできない時間差を突きつけたようだった」と述べています。
 「症例5 ヘスター・Y」では、「20年以上もの間全く動くことも感情を表に出すこともできなかった彼女は、今や水面に浮き上がり、深い水の中から放たれたコルクのように勢いよく空中に飛び出した。そして、長年彼女を捕らえて離さなかった鎖を引きちぎったのだ。そんな彼女を見て私が思い浮かべたのは、牢獄から解き放たれた囚人や、学校がひけた子供、冬眠後の春の目覚め、眠りから覚めた眠りの森の美女だった」と述べています。そして、「病気の重さ、長さ、その奇妙さ、L-DOPAへの不自然な反応、そして何年にもわたって過ごしている陰鬱な病院――数知れない障害にもかかわらず、へスターは、4年前には考えることすらできなかった方法で、確かに目覚め、現実に戻ってきたのである」と述べています。
 「症例18 ジョージ・W」では、彼が、「すべてが順調なときは完璧なのですが、自分が綱渡りをしているか、自分の針の上でまっすぐバランスをとる画鋲になったような気分です」と語っていることについて、「多くの患者が、そうしたイメージを使って、安定した状態が減っていき、ちょっとしたことで興奮する傾向が強まっていく、不安定な状態を説明している」と述べています。
 「症例20 レナード・L」では、L-DOPAを投与する以前の彼が、「檻に入れられて、何もかも取り上げられたよう。リルケの『豹』のように」と自らを語り、「ここは人間の動物園だ」と表現していることを紹介しています。そして、L-DOPA投与後、「30年間無縁だった肉体的な運動、活力、幸福感を味わうようになった。することなすことすべてが彼を喜ばせた。レナードはまるで悪夢や重い病気から回復し、あるいは墓場や牢獄から解放されて、突然自分の周りのすべてのものの存在と美しさに陶然としている人のようだった」と紹介しています。しかし、彼は「数多くの『目覚め』と特定の興奮を経験」し、「それはとくに請求さや突進、反復行動、衝動脅迫、連想作用として表れた。非常に早口で話すようになり、言葉や文章を何度も繰り返す(同語反復症)ようになった。常に違うものに視線を奪われ続け、しかも自分の意思でそらすことができなくなった。あえいだり拍手をしたりする衝動に駆られ、一度そのどちらかが始まると自分で止めることはできず、ますます激しさを増しながら同じ動きを続け、最後には硬直するか凍り付いてしまう」などの症状が現れるようになったことが述べられています。症状はさらに悪化し、「その貪欲な性的欲求を問題視した病院」によって「処罰部屋」へと移された彼は、「拷問、死、性器切断といった妄想に取り付かれ」、「病室は『たくさんの蛇』の巣だとか、彼の腹の中に『縄』があって自分を縛り上げようとしているとか、病室の外に絞首台の用意が整っていて、自分の『原罪』によって当然受けなければならない刑の執行がすぐにも行われるなどというもの」であったことが紹介されています。L-DOPAの投与をストップし、「冷静さ」と穏やかさを取り戻した彼は、「最初はL-DOPAが世界で最も素晴らしい薬に思えました。そして、僕にそんな生命の水を与えてくれた先生を誉めたたえました。それから、何もかもが悪い方へ向かいだすと、あの薬は世界で最悪のもの、飲んだ人を地獄へ引きずりこむ毒薬ではないと思いました。それで、先生を呪ったんです。僕は混乱していました。恐れと希望、憎しみと愛という感情の間で……。今では、すべてを受け入れることができます。あの体験は素晴らしく、恐ろしく、劇的で、笑えるものでした。そして最後には寂しく、それだけが残ったんです。自分だけのときが一番いい――もう薬はいりません。この3年間で、色々なことを学びました。これまでずっと自分の周りに築いていた壁を突き破ることができました。僕はこれからも自分自身でい続けます。だから先生はL-DOPAをしまっておいてください」と語っています。
 「展望」では、「患者にL-DOPAを投与するに当たり、最初に目にする」のが、
・目覚め:病気からの浮上
であり、その後、
・試練:いくつもの問題
が生じ、最後に、
・順応:ある種の「理解」に到達するかあるいは自分が抱える問題との間のバランスがとれるようになる
という、「目覚め―試練―順応」という状況の連続から、「L-DOPAの結果について最高の議論を戦わせることができる」と述べています。
 「目覚め」では、「パーキンソン症候群の患者のほとんどすべてが、L-DOPAを投与すると何らかの形で『目覚める』」とした上で、「一般に――常にではないが――目覚めに要する時間は症状の重い患者の方が早く、おそらく『内側に向けて爆発した』(あるいは『ブラックホール』に吸い込まれた)パーキンソン症状とカタトニーを併発したヘスター・Yのような患者は、一瞬にして目覚めるといってよいだろう」と述べ、「さらに、脳炎後遺症の患者は一般にL-DOPAに対して一層敏感であり、ほんのわずかな投与量、つまり『通常の』パーキンソン病患者に要するよりもはるかに少量で目覚める」としています。
 そして、「目覚めによって、患者の意識に、そして自己や世の中との関係のあらゆるところに変化が生じることになる」、「患者はそれまで感じていた病気の存在と世界の不在とを忘れ、病気がなくなり世界が自分の周りに存在すると感じるようになる」と述べています。
 「試練」では、「L-DOPAを投与したどの患者にも、ある期間は一点の曇りもない素晴らしい健康がよみがえる。だが、遅かれ早かれ、どのような形であれ、ほとんどの患者に問題が起こる。何か月間、何年間も良好な反応を続けた後で、軽い問題が起こる患者もいれば、何日間かは――一生の長さに比べればほんの一瞬――良好だが、すぐに思い苦痛の中に沈んでしまう患者もいる」と述べています。
 そして、「より深く充実した『目覚め』の概念」として、「L-DOPAの『副作用』とは、その人に備わっているかもしれない性質や内なる存在の潜在的能力のすべてを、表舞台に引き出すことがと見なすべき」であると述べています。
 「順応」では、「この本で取り上げた患者の何人か」は、「とうとう病気との間に『満足の行く』折り合いをつけることができず、L-DOPAの投与を完全にやめるか、あるいは悲惨な生活を受け容れるかのどちらかの選択しかなかった」が、「本書に登場する他の患者、そしてL-DOPAを投与された大多数の『通常の』パーキンソン病患者」が、「おおむね満足のいく折り合いをつけることができるようになった」と述べ、こうした患者が、「L-DOPAの効果がしだいに減っていき、長い時間をかけてある種の安定期に到達した」点で共通しているが、「この安定期には長所と短所の両方」があり、「ほぼ安定して満足のいく機能は得られても、完全な『目覚め』あるいは『副作用』の劇的さは失われている」と述べています。
 本書は、L-DOPAという「奇跡の薬」を通じて、人間の内面、病気とは何かについて考えさせてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 映画見ない人なので知りませんでしたが、20年位前に映画化されているようです。当時、映画見て泣いた人に原作をお奨めできるかどうかはわかりませんが、他の一連のサックス作品の端緒となる作品だけあって、いい作品です。


■ どんな人にオススメ?

・生きていることが「つまらない」と思える人。


■ 関連しそうな本

 オリヴァー サックス (著), 吉田 利子 (翻訳) 『火星の人類学者―脳神経科医と7人の奇妙な患者』 2006年03月26日
 オリバー サックス 『妻を帽子とまちがえた男』 2006年10月15日
 スーザン シャラー 『言葉のない世界に生きた男』 2007年03月24日
 V.S. ラマチャンドラン, サンドラ ブレイクスリー (著), 山下 篤子 (翻訳) 『脳のなかの幽霊』 2006年09月03日
 アリス・W・フラハティ 『書きたがる脳 言語と創造性の科学』 2006年09月23日
 ロバート・デ・ニーロ 『レナードの朝』


■ 百夜百音

しあわせって何だっけ【しあわせって何だっけ】 明石家さんま オリジナル盤発売: 1989

 ポン酢醤油はキッコーマン、ということで千葉に縁が深いかどうかはわかりませんが……。

2007年7月14日 (土)

世界を数式で想像できれば―アインシュタインが憧れた人々

■ 書籍情報

世界を数式で想像できれば―アインシュタインが憧れた人々   【世界を数式で想像できれば―アインシュタインが憧れた人々】(#905)

  ロビン アリアンロッド (著), 松浦 俊輔 (翻訳)
  価格: ¥2520 (税込)
  青土社(2006/04)

 本書は、「物理的世界を読み解こうとする、昔からの人々の探求を述べた」ものであり、「ジェームズ・クラーク・マクスウェルという、今日の物理学の基本形(パラダイム)を、電磁気の理論(電波の存在を予測した理論)によって生み出した人物の業績を中心」にしたものです。著者は、マクスウェルを、「言語と実在の間のあいまいな関係を、意識的に取り入れた最初の物理学者であり、言語が実在であることを、実にありありと認めた最初の人物だった」と述べています。
 そして、オーストラリアの作家デーヴィッド・マルーフの小説、『思い出のバビロン』に登場する、13歳からアボリジニに育てられ、英語をなくしてしまったジェミーを取り上げ、「ジェミーがその母語を失ったことで、奇妙な、新しい思考が開けた」ことを例に、「思考は、現実の表し方だけでなく、その知覚にも内在しているらしい」と述べ、「物理学は、物理的世界を、その最も根本的な水準で描く科学で、数学は、たいていの物理学者が世界を名指し、想像するために用いる言語だ」と述べています。しかし、「ジェミーの言語を話さず、したがってその考えていることを考えられない植民者には、ジェミーの世界が理解できなかったのと同じで、わたしたちの宇宙の大部分は、数理物理学者ではない人々にとっては不可解なままだ」と述べています。
 第1章「その気はなかった革命家」では、「数学の言語には、かくれた物理学的な秘密を明らかにする、畏怖すべき力がある」として、「19世紀半ばのマクスウェルのマクスウェルの成果に続き、数学が物理学的現実を発見するという新たな役割を引き受けるようになったとき、哲学革命、科学革命が始まり、その精巧さに、今なお多くの物理学者が感心している」と述べた上で、「マクスウェル本人は、革命騒ぎなどにはあきれたことだろう」、としながらも、「その革命的な伝統を、そうとは知らず築いていたわけではない。物理学者は、すべて、物理的世界をできるだけ客観的に調べることを目指していたが、中でもマクスウェルは、自然についての真理を発見することに、並外れて強く打ち込んでいた」と述べています。
 そして、マクスウェルが、「自分はただ数学のためだけの数学には関心がないこと」を悟り、「それを身の周りに見られる自然現象に応用する方法」を知りたかったこと、そのためには、「まず、物理学という、自然世界を記述する科学をもっと勉強しなければならなかった。そうして初めて、自分の生まれつきの数学に関する理解力を、大好きな自然と結び付けられるようになると考えたことが述べられています。
 第3章「物理学とは」では、物理学が、「それが調べる物理過程で言えば、『単純』あるいは『基本的』と考えられる」が、「この単純さこそが、物理学の予測力の鍵を握っている」のであり、「単純さがあればこそ、『もっと高度なことに関するもの[学問分野]よりも、よりよく理解し、完璧に表現する」ことができるようになる」と述べられています。
 そして、ガリレオの仕事が、「物理学の言語として、数学が擡頭してくる始まりでもあった」として、ガリレオ自身が、「『自然という書物』は数学の言語で書かれていると思っており、現代のたいていの実験物理学者と同様(わずかながらいたガリレオ以前の人々とも同様)、自分の実験による観測結果と仮設を、定量的に表そうとした」と述べています。
 第4章「物理学の言語」では、「ニュートンをこれほど重要にしているのは、ニュートンの理論物理学での成果だ」とした上で、「たいていの人にとって、理論物理学といえば、アインシュタインこそそのきわみにあるが、そのアインシュアチンも、ニュートンとマクスウェルという二人のヒーローの恩恵を受けていて、アインシュタインの書斎の壁には二人の肖像がかかっていた」と述べています。
 第5章「ニュートンが世界をとらえたわけ」では、ニュートンの方程式が、「自然の出来事を正確に記述するだけよりはるかに大きなことをもたらした」として、ニュートンが、「ケプラーの楕円軌道を取り上げて、それを、そもそも惑星が動く理由についての数学理論にまとめた。ニュートンの大成果は、そこにあった」と述べています。
 そして、ニュートンの重力理論が、1687年に『自然哲学の数学原理(フィロソフィエ・ナツラリス・プリンキピア・マテマティカ)』という大著で発表され、この本は、「科学史上で最も重要な本」であり、「それは、これが世界を初めて、筋の通った、幅の広い科学理論に乗せたからだ」と述べています。
 第7章「駆け出しの物理学者」では、「マクスウェルの有名な数学のそそっかしさ」について紹介し、マクスウェルが、「精密さ、正確さが結局は決め手になるが、数学の本当の腕は、算数の計算ではなく、言語や想像力に関わるものだということ」を分かっていて、「数学とは、新しい劇的なことを考えるための言語で、単に正確な帳簿をつけるためだけのものではない」ことが述べられています。
 第8章「電磁気論争」では、実験の天才、ファデラーを取り上げ、ファデラーが、「電磁誘導を発見したとき、それを数学的な記号で記述することもせず、電流が誘導される知覚の電線と磁石がどう相互作用するか、自分の頭の中でイメージを築き上げ」、「主流で行われている説明が正しくないことを確信した」ことが述べられています。
 第9章「言語としての数学」では、ガリレオやニュートンが、「物理学の言語として数学を用いたとき、二人はそれを道具として――物理学の奴隷として――用いた」のに対し、マクスウェルの研究では、数学は「科学の女王」となり、「マクスウェルの物理学は、数学が自立した言語だという事実にかかっている」ことが解説されています。
 そして、マクスウェルが、場をめぐる論争について決着をつけた際に決定的だったのが、「数学が、単なる記述用の、日常の言葉が目に見えたり思い浮かんだりすることを記述するために使われるのと同じような言語なのではなく、その言語構造は、隠れた、しばしば想像もつかなかった物理的構造を反映しているらしいという思想」を、「直感的に取り入れたということ」であったと述べています。
 著者は、「数学に、それよりも複雑な自然の過程が表現できるのは、言語には、数や単純な算術に基づく文法以上のことがあるからにほかならない」と述べたうえで、マクスウェルにとっては、「いちばん自然に入ってきた数学の言語は、幾何学だった」として、マクスウェルの「プラトン的」傾向が、「この点にも明らかだ」と述べています。
 また、ファデラーが、「自分が持っている数学の知識が初歩的な幾何学だけだったことを嘆いたが、その幾何学の考え方を使って、物理的な世界のいくつかの面を、まったく新しい見方で思い浮かべた」とした上で、「マクスウェルの幾何学によって、場の概念は、場の様子に関する物理的予測を行い、確かめられるだけの細かさで表せるようになった」と述べています。
 第10章「魔法のように――幾何と代数の統合」では、「『解析』幾何学、あるいは『代数的に表された』幾何学が現代理論物理学にとって根本的なのは、日常の物理的な制約を超える想像力を用いる力があるからだ」と述べた上で、「記号表現の超越的な力が明らかになるのは、頭の中で空間の三次元を時間と組み合わせるとき」であると述べてます。
 第11章「マクスウェルの数学的言語」では、それまで、ニュートンの方法を用いて、「すべての粒子は決定論的に扱われていた」のに対し、マクスウェルが物理的実在に確率を用いることで、「パラダイムを変える」ことを行ったことが述べられています。
 著者は、マクスウェルが求めていたものを、「電気、磁気、電磁気力について知られていたことはすべて4本の簡潔で美しい方程式に表すことができ」ることであると述べ、マクスウェルが「この方程式を使って、電波の存在の予測や、光が電磁気的なものであることを予測」したと述べています。
 第12章「マクスウェルの虹」では、方程式の意味するところに勇気付けられたマクスウェルが、「他ならぬ光(放射熱も、他にあるならその放射も含めて)電磁的なものだとすべき根拠は十分ある」、すなわち、「光の波で波打っているのは、電気と磁気の力の強さで、それが組み合わさって他ならぬ光を生み出す」という「過激な飛躍」をしたことについて、マクスウェルが、「自分が物理学で最も厄介な問題2つについて、その秘密を明らかにしたと思った」ことが述べられています。
 第13章「数学の言語で世界を想像する――物理学の革命」では、マクスウェルの理論が、「物理的で文化的な光景の認識を一変させ」たが、「マクスウェルがその電磁気理論を世界に向けて出したとき、それをすんなり受け入れられる人は、ほとんどいなかった」理由の一つとして、「あまりに数学的だったから」というものをあげています。
 そして、「マクスウェルの最終的な目標」が、「前提が十分に確かめられていて、他の物理的予測は、その確かめられている前提を記述する数学の構造だけから得られる理論を作ること」であったと述べています。
 また、アインシュタインが、「マクスウェルを支持する第二世代に属し」、「マクスウェルの新しい方法論が真っ当であることを明らかにし、今では物理学者が、場や電気や磁気の強度の波や、四次元の時空といった数学的な考え方にすっかりなじみ、自分でそれを正しく思い浮かべられないとしても、それを信じるようになるのを助けた」と述べています。
 本書は、現在ではすっかり当たり前になってしまった、世界の見方に対する革命を起こした物理学者を描いた一冊です。


■ 個人的な視点から

 数学が苦手な人間としては、物理学者が「数学の目」を通して見ている世界の姿をぜひ見てみたいとは思いますが、道は相当険しそうです。
 ただし、そんなマクスウェル自身が、数学的には「そそっかしさ」を抱えていた人物であり、「精密さ、正確さが結局は決め手になるが、数学の本当の腕は、算数の計算ではなく、言語や想像力に関わるものだということ」であることはわずかでも希望を持たせてくれます。


■ どんな人にオススメ?

・「物理学者の目」を手に入れたい人。


■ 関連しそうな本

 ジョン・L. カスティ (著), 寺嶋 英志 (翻訳) 『プリンストン高等研究所物語』 2007年02月18日
 ピーター バーク (著), 井山 弘幸, 城戸 淳 (翻訳) 『知識の社会史―知と情報はいかにして商品化したか』 2006年12月31日
 マーセル ダネージ (著), 寺嶋 英志 (翻訳) 『世界でもっとも美しい10の数学パズル』 2007年01月08日
 キース・J. レイドラー (著), 寺嶋 英志 (翻訳) 『エネルギーの発見』 2007年03月04日
 トール ノーレットランダーシュ (著), 柴田 裕之 (翻訳) 『ユーザーイリュージョン―意識という幻想』 2006年06月18日
 ジョン・D・ バロウ (著), 松浦 俊輔 (翻訳) 『科学にわからないことがある理由―不可能の起源』 2007年06月24日


■ 百夜百音

F-1 GRAND PRIX【F-1 GRAND PRIX】 T-SQUARE オリジナル盤発売: 2001

 この人たちがいないと日本のF-1は成り立たないとまで言われています。それにしても、EWIの音は最初は新鮮でしたが、やっぱり今になると多少しょぼく感じますね。

『ザ・スクェア シングル・コレクション』ザ・スクェア シングル・コレクション

2007年7月13日 (金)

ウェブが創る新しい郷土 ~地域情報化のすすめ

■ 書籍情報

ウェブが創る新しい郷土 ~地域情報化のすすめ   【ウェブが創る新しい郷土 ~地域情報化のすすめ】(#904)

  丸田 一
  価格: ¥735 (税込)
  講談社(2007/1/19)

 本書は、「来るべき情報社会における地域の新しい役割」を示す、「局所的な熱狂『地域情報化』」の事例を紹介し、「地域」が、「新種のメディアを活用し、旧藩に匹敵するような『主体』になること」を考え、個人の観点からは、「地域」が、「これまで同様『郷土』であり、自らのアイデンティティを支える重要な役割を果たす」ことを示したものです。
 第1章「地域という幻想」では、全国の地方として、地域の「中心」がなくなってしまったことに関して、「日本を代表する都市プランナー」である簑原敬の、「今のままの推移が続けば、長い間かけて築いてきた日本の地方の中心市街地、街はなくなるだろう。だが、街がなくなることが本当に問題なのか」と発言していることを紹介し、「空洞化問題を手がけてきた都市プランナーの立場からすれば完全な敗北宣言である」と述べています。
 そして、「地域に根付いていたはずの消費活動と商活動」が、「Web空間(インターネット空間)に大きく移行しつつある」として、「モータリゼーションが大型店の郊外進出を後押ししたように、インフォマタイゼーション(informatization:情報化)が消費行動を根本から変化させ、ネット販売の成長を後押ししている」と述べ、「大型店の規制だけでは、もはや中心市街地の再生は期待できないだろう。インターネットの浸透に伴って激変する消費行動や商活動をふまえ、地域と商活動の関係をもう一度根本から考え直す必要がある」としています。
 また、お金の流れの観点から地域の置かれた状況を分析し、「上位都市がより多く消費できる仕組み」として、
(1)地域内の所得循環:地域内で発生した所得が家計消費支出となって地域内で消費される。
(2)全国的な所得循環:大企業の工場で発生した膨大な利潤は、地域採用の雇用者の賃金や地方税として支払った後、そっくり東京の本社に移転する。これが東京の膨大な第三次産業を支える。
(3)財政再配分機構:多くの地域で所得が不足しているので、公的セクターが財政措置で補填する。
の3つの所得のルートを示しています。
 さらに、地方分権改革の基本理念である「地域のことは地域で決める」という理念が、
(1)地方自治体は本当の意味で「地域」を代表していない。
(2)実体なき地域は、住民の生活を支える「場」にすぎず、社会的な「主体」ではない。
の二重の意味で間違っていると述べています。
 第2章「地域情報化とは何か」では、「地域情報化」を、「情報化による地域づくり」というよりも「情報化という地域づくり」であると述べています。
 そして、地域情報化を「地域×情報化」という2つの言葉に分解し、 「地域の人々が主体となって情報化を進める『地域での情報化』と捉えるのが正解である」と述べています。
 また、地域情報化が、「地域プラットフォームや地域メディアなど、、人を集める場をデザイン(設計)する」と述べ、従来の都市計画との対比から、「一般に『計画』は『設計』に比べて包括的であり、説明的であり、またグローバル(大局的)な読みのもとに行われる。一方『設計』は、実践的ソリューションであり、影響を及ぼす範囲は限定的でローカル(局所的)である」と述べ、「設計と計画の最も重要な違い」として、「『創発(emergence)』を受け入れるか否か」を挙げ、「『計画』は創発を受け入れてこなかった」と述べています。
 第3章「対話の共同体」では、
・シニアSOHO普及サロン・三鷹
・富山インターネット市民塾
・鳳雛塾(佐賀)
の3つの事例を紹介しています。
 第4章「想像の共同体」では、
・佐渡のお笑い島計画
・PAC(パブリック・アクセス・チャンネル)と住民ディレクター活動
などの事例を紹介したほか、「地域SNS」の事例として、
・ごろっとやっちろ(八代市)
などの事例を挙げ、「地域SNSは、地域社会を再編する可能性を持つ。SNSは、Web上に準実名空間を生み出し、信頼性の高い秩序ある安定的なコミュニティを形成できる。これらのコミュニティは巧みにゾーニングされていて、都市空間に存在してきたゲイテッドコミュニティと同様、伝統的な地域社会に足を引っ張られることなく、新しい発想や感性に基づく活動を受け入れて柔軟な社会秩序を形成するのである」と述べています。
 第5章「Web2.0以降の地域」では、「地域は否定され、実体を失ってしまった。しかし現在、子どもの安全と、2007年問題で地域が再び要請されている。『子ども』の育成場所と、『高齢者』の居場所、人生の始めと終わりのどちらにも地域は欠かせないという当たり前の事実が、ここでも明らかになった。これからも地域は郷土(パトリ)として生き続ける」と述べています。
 本書は、「地域情報化」について、コンパクトにまとめた一冊であり、これまで「まちづくり」に関心のあった人にとっては、地域情報化のガイドブックとして機能する一冊ではないかと思います。


■ 個人的な視点から

 タイトルには、新書として「ウェブ2.0」の二匹目の泥鰌を狙ったのか、「ウェブ」という言葉が入ってますが、内容的には素直に「地域情報化のすすめ」の方が適切だったんじゃないかと思います。新書なので仕方ないことですが、流行言葉を使うと一緒に陳腐化してしまうのが難点です。


■ どんな人にオススメ?

・地域情報化について関心がある人。


■ 関連しそうな本

 金子 郁容, 藤沢市市民電子会議室運営委員会 『eデモクラシーへの挑戦―藤沢市市民電子会議室の歩み』 2005年10月21日
 D. ヘントン, K. ウォレシュ, J. メルビル (著), 加藤 敏春 (翻訳) 『市民起業家―新しい経済コミュニティの構築』 2005年03月15日
 D.ヘントン (著), J.メルビル (著), K.ウォレシュ (著), 小門 裕幸 (翻訳), 榎並 利博, 今井 路子 『社会変革する地域市民―スチュワードシップとリージョナル・ガバナンス』 2005年10月03日
 エリック・スティーブン レイモンド (著), 山形 浩生 (翻訳) 『伽藍とバザール―オープンソース・ソフトLinuxマニフェスト』 2005年10月22日
 ローレンス レッシグ (著), 山形 浩生 (翻訳), 柏木 亮二 (翻訳) 『CODE―インターネットの合法・違法・プライバシー』 2005年2月1日
 川上 善郎 (編集), 高木 修 『情報行動の社会心理学―送受する人間のこころと行動』 2005年11月19日


■ 百夜百マンガ

純ブライド【純ブライド 】

 四畳半フォークテイストあふれる作品でしたが、主人公が持っているのは白いギターではなくデッサンの狂ったストラトでした。

2007年7月12日 (木)

セイヴィング キャピタリズム

■ 書籍情報

セイヴィング キャピタリズム   【セイヴィング キャピタリズム】(#903)

  ラグラム ラジャン, ルイジ ジンガレス (著), 堀内 昭義, 有岡 律子, アブレウ 聖子, 関村 正悟 (翻訳)
  価格: ¥3675 (税込)
  慶應義塾大学出版会(2006/01)

 本書は、「自由放任の資本主義はいまだに最良の、あるいは最も欠陥の少ない経済制度だろうか。改革は必要だろうか。また、その改革は体制の手直し程度のものでよいだろうか、それとも根底的な変更が必要だろうか。現在、人々は自由市場に幻滅しているが、この幻滅は株価低迷が解消されても続くのだろうか。たとえこの幻滅が一時的なものであるとしても、資本主義は21世紀にどのような形態で生き残るのだろうか」という問いかけに対し、「市場経済の変動の直後にもたらされる結果に着目するのではなく、それが自由企業体制に及ぼす、深く永続的な効果に着目」し、「金融市場に焦点をあわせることによって、資本主義体制の理想的形態における長所を弱点を明らかにすると同時に、歴史的に実現した資本主義体制の長所と弱点を明らかに」しているものです。
 そして、「競争的で自由な市場がなぜ有用か」を説明するために、
(1)金融市場が存在しない国からの例:バングラディシュの「グラミーン・バンク」
(2)金融市場が最も普及している国からの例:アメリカの「サーチ・ファンド」
の2つの具体例を挙げ、この両者ともに、「金融によって補完すれば、十分に役立つ技術を備えている点」で類似していると述べています。
 著者は、本書の中心的なポイントが、「市場と政治の間の根本的な軋轢」にあると述べています。
 第1章「金融は金持ちだけに利益をもたらすのか」では、自由市場の政治的基礎を固めるために、「市場がもたらす真の利益とその限界との両方を認識する必要がある。自由市場システムは、政治的に非常に脆弱なため、多くの国々でとられている資本主義の形態は、理想とはほど遠い。それは、腐敗した自由市場システムであり、強力な利害関係者によって自然で健全な競争が阻害されている。自由な市場を利害関係者の攻撃から守るには、人々の豊かな生活がどれほど自由市場に依存しているかを、そして近年の歴史で多く見られる資本主義の模倣が、自由市場という理念を真に体現するものでないことを示さねばならない」と述べています。
 そして、金融インフラストラクチャーを欠く経済では、金融機能が制限される理由として、
(1)どんな投資活動も不確実性が内在するため、最も正直な借り手でさえも、約束どおりに返済できるとは限らない。
(2)約束の評価が厄介なこと。
(3)最も高い道徳心を持つものでさえ、お金を借りると機会主義的な行動に走りがちなこと。
の3点を挙げています。
 著者は、「金融の利用可能性は、近代の経済活動の生命線である」として、「金融の利用可能性が小さいほど、貸手の権力が強く」なり、「真の経済的な自由を停滞させ、抑制し、そして破壊する」力となってしまうと述べ、「適切な金融インフラストラクチャーが整備されてさえいれば、金融業者は担保とコネによる横暴を乗り越え、貧しい人々でさえも資金を借りられるようになるだろう」と述べています。
 第2章「シャイロックの変身」では、社会主義経済の失敗に関して、「正しい答えは、経済的な権力を集中させるのではなくて、むしろ逆に、それを十分に拡散させることなのである。そして、権力の分散を達成する唯一の方法が、金融の利用可能性の拡大である」と述べています。
 そして、金融の利用可能性拡大を阻害する要因として、不確実性とリスクの他に、
(1)貸手が持つ借手の情報が限られている点。
(2)借手は貸手の望むと押しには行動しないと貸手が予想する点。
の2点について解説しています。
 また、「乗っ取り市場」について、「病んだ企業の非効率な部分を利潤を生む部分へ再生する仕組みを提供する」と述べ、「死んだ企業を葬り、資源の窃盗を予防するような、いわゆる警察や請負人のような役割を金融業者が果たしているといえる」とともに、「より創造的な助産婦の役割を果たしていることも忘れてはならない」と述べています。
 著者は、金融の利用可能性を拡大する、大規模なインフラストラクチャーとして、「複雑な金融問題を解くアカデミックな研究者、創造的なリスク配分方法を見つける投資銀行の行員、信用の履歴を広く人々へ知らせる信用格付会社、複雑な金融契約の実施に通じた、経験を積んだ裁判所など」、広い範囲に及んで必要であると述べています。
 第3章「金融革命と個人の経済的自由」では、プライベート・エクイティ・マーケットが生んだハゲタカ・ファンドについて、「奇妙な名前だが、いい得て妙である」として、「ハゲタカが死体を処理し、環境を清潔に保つのと同様に、ハゲタカ・ファンドは企業の腐った肉、すなわち破産寸前の会社を発見し、それを買収し、そして余分な腐肉を削ぎ落とし、持ち続ける価値があるものを整理して、それらをきれいにする手伝いをする。そうすることによって、これらの企業が投資家の資金を浪費するのを防ぐのである」と解説しています。
 著者は、「これまでに起きた変化をうまくまとめた統計」として、1929年には、アメリカの所得番付上位0.01%の所得の70%が資本所有によるものだったのに対し、1998年には賃金および起業家の所得が、アメリカの所得番付上位0.01%の所得の80%を占めるようになり、資本による所得はわずか20%となったことを紹介し、「働かなくてもよい金持ちの地位を働く金持ちたちが占めるようになった」、「私たちの社会は、単なる金持ちの貴族制ではなく、有能な金持ちの貴族制に移行しつつある」と述べ、「金融革命は資本ではなく、人間を経済活動の中心にすえることになる」と主張しています。
 第4章「金融の闇の面」では、トラブルが起きたときに、金融機関が非金融企業より早く破綻しがちである理由として、「現代の金融機関は事業機関より迅速に価値を生成したり破壊したりできる」ため、「正しく用いられれば」、「非常に高い収益をもたらす」反面、「無能な、あるいは無節操な経営者の手にかかると、一瞬のうちにバランスシートに穴があけられる。その穴の大きさたるや、事業会社の無能な経営者が何年かかってもあけられないほど大きい」と述べています。
 また、バブルがすぐには繰り返されないだろうと信ずる理由として、バブルが、「注意深く投資する経験や知識がない投資家集団が、新しく登場することによってしばしば膨らんでいく」として、1920年代のアメリカの株式市場が、第一次大戦中に自由国債への投資で成功した投資家によって火をつけられたこと、インターネット関連株取引のかなりの割合が、「いわゆるデー・トレーダー」によってなされたことを挙げています。
 さらに、ブームととその崩壊の実質コストを評価すべきとして、バブルが「明らかに再分配効果を持つ」とともに、「ミス・プライシングが企業の実物投資の決定(例えば、プラントや機械類、そして知的生産への投資)に影響するならば、バブルは実際の資源配分に提供する可能性がある」と述べています。
 著者は、「国にとって金融発展からの便益が平均してコストを上回るかどうか」という問題に関して、ウィストン・チャーチルの言葉として、「競争的で、活気にあふれ、取引関係に依存しない(アームス・レングスな)金融市場を備えた高度に発展した金融部門は、最悪ではあるが、過去に試みられた金融制度のどれよりもましなものといえるだろうか」という言葉を紹介しています。
 第5章「金融発展のボトムライン」では、金融発展が、「資源とアイデアの結びつきを促し、リスクを分散し、資金のコストを削減するという意味」で、優れているといえるか、という問題について、「一つの国の金融部門の発展がその国の経済成長率を引上げることを示せるならば、金融が人類の生活上権を改善する能力を持っていると断言できるはずである」と述べています。
 そして、統計的に、「高度に発展した金融部門と強力な経済が併存するのは確か」であるが、「単純相関(2つの出来事が同時に起こること)と因果関係(ある出来事が他の出来事を引き起こすこと)の違いを慎重に区別」する必要があるとして、「列車が接近するにつれて、鳥は鉄道の線路から飛び去る。鳥の飛翔と列車の接近は相関した事柄だが、前者が後者を引き起こすわけではない」という例を挙げています。
 また、ブラジルとメキシコを事例として取り上げ、「ブラジルでは、取引関係に依存しない(アームス・レングス)市場と、そしてしばらくの間は銀行も、積極的に企業に資金を供給した。これに対して、メキシコでは集中度の高い銀行システムが存在し、それが自分たちの気に入った者に資金を供給した」と述べ、「両国の金融部門の発展の違いが、どのようにそれぞれの国の繊維産業へ影響したかという点」を論じています。
 さらに、独力で財産を築き上げた億万長者の人口比率を各国で比較し、「独力で財産を築き上げた億万長者の度数と、株式市場の規模との間には非常に強い正の相関がある」と述べています。
 第6章「政府をどう手なずけるか」では、「金融が経済発展に役立つものならば、どうして、金融はもっと発達していないの」か、というといに対し、「権力を行使したり、影響力を振るう人々が金融の発展を望まなかったから』などの理由を挙げています。
 そして、「資本主義の制度が機能するための必須条件」として、「市民各人の私有財産が尊重されなければならないこと」を挙げ、「財産の安全を保証する上で決定的な条件は、一国の政府が自国民の財産を尊重するという約束(コミットメント)である」と述べたうえで、「何故所有権の尊重がまさにイングランドで発生し、イングランドの後追いとなった他の国々ではなぜ所有権の確立に時間がかかったのか」を考察しています。
 著者は、「私的所有権を尊重する政府が出現するまで」の3つの重要な段階として、
(1)大貴族の強制力が低下し、むき出しの物理的力がもはや経済的結果を決定しないこと、そして所有が少数者の非効率な特権を意味しないことになった。
(2)ジェントリーという中間階級が出現し、階級として経済力を持つとともに、自分の所有地を効率的に耕作することができた。
(3)協調行動を調停するための制度として議会が存在した。
の3段階を挙げています。
 第7章「金融の発展に対する障害」では、「金融システムのインフラを創るにあたって中央の権威が担える役割が存在し、かつ、常にそうであるとは限らないが、しばしばその役割を果たす最も適した機関」として、政府を挙げ、「灌漑が必要な下り勾配の農地」に水路を通す喩えによって、自由主義者(libertarian)、介入主義者の理屈を解説しています。
 そして、自由市場が、「金融の利用可能性が不公平であることに依存するビジネスの方法を破壊する傾向を持っている」ため、既得権者が損失を被る可能性があるため、「既得権者が集団として、金融の発展を妨げることに利益があることを意味する」と述べています。
 第8章「どのようなときに金融は発展するのか」では、政治の変化が金融発展の推進力となった例として、19世紀後半のフランスのクレディ・モビリエ銀行の興亡を解説し、「新興の金融機関が新しい金融や産業の仕組みを考案することによって、おそらくは直接的な政治介入よりもはるかに大きく、金融と産業の既得権層を動揺させることを示している」と述べています。
 また、アメリカにおいて、銀行の支店開設を禁止する法律を例に、銀行の利益が、「住民に対する偽装された税」であり、民間銀行の所有者が、営業の独占を通じて利益を稼ぎ、その相当部分を税や配当の形で州政府に移転したことを解説し、この地域独占が、1970年代初期のATM(現金自動支払い機)のネットワークという技術革新によって、「銀行業務を遠距離からでも遂行可能にし、地域独占の基盤を崩し、独占を維持することの価値を低下させた」と述べています。
 さらに、「外部から強制された金融の発展」の例として、日本の社債市場を取り上げています。日本の銀行は、1933年に、大蔵省の音頭によって社債発行を決める「起債会」を形成し、この起債会が、「十分な担保なしに社債を発行してはならない」という有担保原則を定め、銀行のみが相当の手数料を見返りに、担保の受託管理者になりうるとした」ことが解説されています。しかし、1970年代には、成長を遂げた日本企業はコスト削減のため、「日本政府のコントロールの埒外にあるオフショア市場であるユーロ市場」に向かい、「日本の銀行は、日増しに重要性を失う国内社債市場の妨害者としての役割を演じる能力を放棄する代わりに、ユーロ市場における引受業務を獲得した方が得策だという考えに立ち至」り、1980年代行は、「銀行は国内の無担保社債発行的確条件を緩和することに賛成する代わりに、海外市場での日本企業の社債発行の主幹事になることができるという取引に同意した」ことが述べられています。
 第9章「戦間期の大反動」では、「開放された経済に依存して市場が国内の既得権者の力を制約するとしても、門戸開放政策が政治的に見てどの程度安定しているかを問わなければならない」として、「多くの国で経済を閉鎖せよという圧力が働き始める場合」に、「他の国が閉鎖政策をとれば、開放経済を支持する関係者たちは経済的に弱体化し、政治的な力を失うであろう」と述べています。
 そして、第一次大戦までは、「金本位制はかなりうまく機能した」が、第一次大戦がもたらした、
(1)戦時生産を調整する必要のためにヨーロッパ大陸全体に生産を極端に中央集権化する戦時体制がもたらされた。
(2)労働者階級が自分達の力をはっきりと自覚するようになった。組織化され覚醒した労働者は、もはや、マクロ経済の不均衡を調整するコストを何の疑問もなく引き受けようとはしなくなった。
の2つの帰結が特に重要であったと述べています。
 また、不況問題に対する政府の対応が、
(1)金本位制を放棄すること。
(2)海外、国内の要因によって触発される競争を抑制すること。
(3)政府が高邁な観点から資源を配分し、市場に代わる役割を演じるような共同管理的な経済へ戻ること。
の3つの共通したテーマを持っていると述べています。
 事例としては、日本で、「大恐慌をきっかけにして、財閥系の大銀行」が、「19世紀末以来望んでいた銀行部門の統合へ突き進む機会を捉えた」ことが解説されています。そして、「大銀行と政府の結託が、かつては競争的であった日本の銀行システムを、集中化した『メイン』バンク・システムへと変容させ」、さらに、1931年に「原則としてすべての社債を担保つきで発行すること」を取り決めることで、「企業が資金調達において取引先銀行に依存する程度を高めた」ことが解説されています。
 著者は、経済的不況が、「政府の支援を求める人々の数を増やし、その結果、それらの人々に対応する政治的圧力を高める。この圧力は既得権者にとって、自分達の卑しい利益を覆い隠す高貴な外套になる」と述べたうえで、「特に注目に値するのは、これらの国で既得権者たちが獲得した特権は、その特権を与えた政府よりも長生きしたという点である」と指摘しています。
 第10章「なぜ市場は抑圧されたのか」では、「大恐慌を巡る出来事と、それによる市場の後退に関するこれまでの説明」が、
(1)人々による市場への反感が金融発展を後退させたこと。
(2)市場への人々の姿勢の変化が、市場と競争に反対する私的利益の復活を隠蔽するための隠れ蓑として便利であったということ。
の2つの点を明らかにしていると述べ、「こうした事態は再び生じるだろうか」について論じています。
 そして、「第二次世界大戦後に生まれた統制された競争のシステム」を、「リレーションシップ資本主義」と名づけ、リレーションシップ・システムにおいては、「一般的には、大企業であれ、組合加入の労働者や農民、あるいは老齢者であれ、既得権者たちが、意欲のある企業家予備軍、外国企業、身組織労働者、移住民、あるいは青少年など部外者の犠牲の下に利益を得た」と述べています。
 著者は、リレーションシップ資本主義が、戦後世界の多くの地域で出現した理由として、
(1)人々の市場に対する幻滅と、戦争が人々に植え付けた力強い政府への信仰とが組み合わさったこと。
(2)既得権者たちが反動の波に便乗して、彼らの生き残りを保証するシステムを狡猾にも構築したこと。
の2点を挙げています。
 第11章「リレーションシップ資本主義の衰退と崩壊」では、終戦直後の成長が覆い隠したリレーションシップ資本主義が抱える深刻な問題点として、
(1)リレーションシップ・システムは劇的な革新を推進できなかった。
(2)市場機能が抑制されているためシステムが生み出した独占利潤を配分するための明確な方法が存在しなかった。
(3)死期を迎えた産業を効果的に破壊し、勃興しつつある産業へ必要な資源を移転させることができなかった。
の3点を挙げています。
 そして、リレーションシップ・システムが市場を基盤とするシステムと異なっている重要な点として、「透明性」と「利用可能性」の2点を挙げています。
 また、低成長の経済において、リレーションシップ資本主義は、「報酬をどのように配分すべきかという困難な問題に直面」し、「システム内部に軋轢が生じた」とともに、ブレトンウッズ体制の崩壊という外からの新しい挑戦によって、変化を強いられることになったことが解説されています。
 著者は、「市場には欠陥もあるから、市場に反対する同盟が結成され力を獲得する可能性もある」として、「心配なのは、競争が長期にわたって消滅することもあり得るということである。私たちは市場を防御する防波堤を注意深くきずかなければならない」と述べています。
 第12章「今後の課題」では、本書に示された著者の考えが、「多くの点でシカゴ大学における長い伝統に依拠している」とした上で、「資本主義、より正確には、今日、自由企業体制と呼ばれるシステムが、その理想的な形態においては、資源と報酬を配分する最良の仕組みであると考えている」と述べ、「しかし多くの国で経験されている資本主義の形態は、その理想型から遠く隔たっている。それらは資本主義の腐敗した形態であり、既得権を持つ者が競争の自然で健全な役割を妨害している」と主張しています。
 そして、「資本主義の政治的な意味での最大の敵は、資本主義に悪罵を吐きかける扇動的な労働組合運動家ではない。最大の敵は、言葉では常に競争的な市場の長所を称揚しているにもかかわらず、機会あるごとにそれを抑圧しようとするピンストライプのスーツを着用した経営者たちなのだ」と指摘しています。
 また、「市場は2つの異なるグループから脅威を受ける」として、
(1)すでに確立している自分達の地位を保持したいと望み、したがっていかなる競争の可能性も抑圧するインセンティブを持つ既得権者
(2)競争に敗れ、自分達の災厄の原因となったゲームのルールが変ればありがたいと思っている人々
の2つのグループを挙げ、「自由市場が長期に存続できるか否かは、これらのグループのぞれぞれが市場にこうして動くインセンティブを弱め、たとえそのように彼らが動いたとしても、その成功のチャンスを狭めることができるかどうかにかかっている」と述べています。
 さらに、中国とインドなどの新興国からの競争と、技術革新による通信費用の低下によって、「ほとんどの人が雇用されている決まりきった仕事については、競争が激しくなっている」と述べ、「鉄鋼のような『交易財』産業の労働者は数十年間に渡って競争にさらされてきたし、それに適応してきたが、『非交易財』のサービス部門においても多くの労働者が競争に直面するようになった。これは、以前には経験されたことがない事態である」と指摘しています。
 第13章「資本家から資本主義を救う」では、本書の主要な論点が、「人類が知っているおそらくはもっとも有用な経済制度である自由市場が、脆弱な政治的基盤に立脚しているということ」であると述べ、「市場参加者が自由に、しかも信頼感を持って取引することを可能にするインフラストラクチャーを構築し、維持する政府のまさに見える手なしには、市場は繁栄できないのである」と指摘しています。
 そして、著者の提案として、
(1)圧倒的な力を持たず、競争力を持ちうる既得権者たちは市場の力を抑制しようと企てる可能性は低いであろう。→生産的資産の支配権を少数者の手に集中しないこと、そして資産の支配権を持つ者は、その資産を確かに有効に使用できる者となるようにすること。
(2)競争は敗者を生み出すであろう。→困窮者が仕事の完全な喪失から再起するのを支援するセーフティネットが不可欠であること。
(3)開放経済の下では、国内の政治的な権謀術数の余地を制限できること。
(4)市場から多くの利益を得られること、そして一見、無害に見える藩競争的政策が高くつくことを人々にもっとよく理解させるべきであること。
の4点を挙げています。
 また、「既得権者が法制度の制定に及ぼす影響力を減殺するもっとも有効な方法は、国内市場を国際競争へ開放すること」であり、「特に金融市場を開放することは重要である」と述べ、「これは私たちが歴史分析から引き出した主な教訓であり、経済開放に対する反対が高まりつつある今日、この教訓の重要性は決して強調されすぎることはない」と述べています。
 著者は、本書によって、「関係する人々のインセンティブと自由市場に反する政策に影響を及ぼす彼らの能力に働きかける統一されたアプローチを提供した」として、「効率的ではあるが、過度の集中していない生産的資産の所有を実現し、労働者に変化に対応できる柔軟性を植え付け、極端な困難が生じた場合に役立つセーフティネットを提供し、規制手段が過度に抑圧的になることを予防する外部との競争を促す政策を提案した」と述べています。
 本書は、自由市場を考える上で、歴史上、資本家を初めとする既得権者たちが、いかに競争を押さえ込もうとしてきたかを教えてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 本書のタイトルを見ると、資本主義を擁護する、という内容なのかと見えますが、本書の元々のタイトルは、『Saving Capitalism from the Capitalists』、つまり、「資本家から資本主義を守る」というものです。
 日本人の感覚だと、資本主義か社会主義か、という軸でものを考えがちですが、本書の論旨から言えば、思想の左右を問わず、既得権者が自由市場を機能させないようにする、ということでしょうか。
 そういえば、あと10年もすると、中国の学生がマルクス経済学を学ぼうと思ったら、日本に留学しなければならなくなるかもしれないそうです。


■ どんな人にオススメ?

・自由市場を嫌う人がどういう人かを知りたい人。


■ 関連しそうな本

 Oliver Hart 『Firms, Contracts, and Financial Structures』
 Andrei Shleifer, Robert W. Vishny 『The Grabbing Hand: Government Pathologies and Their Cures』
 アビナッシュ・K. ディキシット (著), 北村 行伸 (翻訳) 『経済政策の政治経済学―取引費用政治学アプローチ』 2005年02月06日
 Jean-Jacques Laffont 『Incentives and Political Economy』
 曽我 謙悟 『ゲームとしての官僚制』 2006年02月24日
 柳川 範之 『契約と組織の経済学』 2005年02月22日


■ 百夜百マンガ

ムツゴロウが征く【ムツゴロウが征く 】

 ムツゴロウこと畑正憲先生の自伝マンガです。コロコロコミックで読んでました。そういえば、東京にやってきた動物王国の経営は大丈夫なんでしょうか。

2007年7月11日 (水)

下流喰い―消費者金融の実態

■ 書籍情報

下流喰い―消費者金融の実態   【下流喰い―消費者金融の実態】(#902)

  須田 慎一郎
  価格: ¥735 (税込)
  筑摩書房(2006/09)

 本書は、住宅ローン除いても73兆円の信用供与額をもつ消費者信用産業に関して、「いま消費者金融の現場で何が起こり、どんな問題が浮上しているのか」、「武富士やアイフルを初めとする大手で、なぜこれほどまでに不祥事が続き、そうしたさまざまな問題点が表面化しながらも、利用者が全国的に増え続けている」のか、「近年になって猛威を振るうようになったヤミ金業者とは、一体何者か」など、「現今の消費者金融を巡る現状や問題点、対処法について」、筆者独自の取材を交えながら検証を行っているものです。
 第1章「サラ金一人勝ち」では、アイフルが推奨している不動産担保ローンを、「明らかな過剰融資のうえ、最初からその担保自体を収奪せんがための大掛かりな仕掛けと言っても過言ではない」と述べ、「チワワを使ったテレビ・コマーシャルのソフトなイメージとは裏腹に」、アイフルがかつて「サラ金三悪」と言われた、
(1)高金利
(2)過剰融資
(3)過酷な取立て
を、「いまなお正しく踏襲するリーディング・カンパニーとして、消費者団体、市民グループなどから蛇蝎のごとく忌み嫌われてきた」と述べています。
 また「利息制限法」と「出資法」の隙間問題である、「出資法の上限金利で貸し付けても違反に問われることのなかった、通称『グレーゾーン金利帯』(年29.2パーセント、日歩8銭まで)の存在根拠になってきた」ことについて解説し、06年1月の貸し金業者に対する裁判で、最高裁が、「利息制限法と出資法の上限金利が食い違うことにより生じていた『グレーゾーン金利帯』そのものを、ついに事実上、認めないと宣言した」ことを述べています。
 一方で消費者金融側が、
「借りたものは返すのが当たり前だろがっ」
「借りるときは、"お願いですから、貸してください"と頭を下げるくせに、返すときになって金利が高いだのなんだの言いやがって!」
という、「時代劇に登場する高利貸しが口にするお決まりのセリフ」が"本音"であり、「いくら理論武装しようとも、彼らの本音は、『借りたものは返すのが人の道』というところに集約される」と述べています。
 第2章「悪魔的ビジネスモデル」では、「この数年、メガバンクの消費者金融分野への進出ぶりは目を瞠るものがあった」として、その中でも、三菱UFJフィナンシャル・グループ(MUFJ)と、三井住友フィナンシャルグループ(三井住友FG)の2行であると述べています。
 そして、「ごく大づかみ」と前置きした上で、三井住友FGでは、「リスクの最も高い客はプロミスへ、次に高い客がアットローン、最も低い客が三井住友FGへ――という三階層の振り分けが可能に」なったことが解説されています。
 また、消費者金融の従来の顧客イメージが、「主に中年男性」で、「収入はあまり多くない、フツーのサラリーマン。家庭を持っていれば、それに越したことはない」、というものであったのに対し、「今や消費者金融大手の主たる顧客層は、実態として『低収入の若年男性』の方にシフトしてしまっている」ことを解説しています。
 さらに、消費者金融業会の成長率にも翳りが見えてきたことから、「あらたなビジネスモデル」として、大手各社が、
(1)顧客のマーケット層をより若年層にシフトしてゆく
(2)貸付ロットを大きくする
(3)事業者融資への展開
の3点の路線変更を行ってきたことを解説しています。
 第3章「多重債務者350万人時代」では、新宿・歌舞伎町の裏社会で行われている、歌舞伎町で新手のサラ金である通称「レディース・ローン」会社を経営する暴力団のフロンと組織が主催すると言われる「おんな市」への侵入ルポが収められています。
 第4章「下流喰いの深淵」では、「貸金業登録の有無が、ヤミ金かそうでないかを見分ける指標になる」時代は、当の昔に過ぎ去ったとして、「知事登録をしている業者の中にも、今やヤミ金業者はたくさん紛れこんで」いて、東京都の場合、「登録して3年以内の業者を『都(1)(トイチ)業者』と呼び、全国で摘発されるヤミ金の半分近くがそのトイチ業者とされている」ことが述べられています。
 そして、「金貸しにオフィスを貸そうとする大家はさほど多くはない」ため、「そうした際にオフィス物件と都への届出事務などをワンパッケージにして営業する司法書士が、当然、引く手あまたとなる」ため、彼らが持ってくる物件の一つが、上野の有名なヤミ金ビルであると述べています。
 また、ヤミ金の主な経営資源として、
(1)タネ銭(もしくは金主)
(2)携帯電話
(3)銀行口座
の3点を挙げ、「ヤミ金と『オレオレ詐欺』『架空請求詐欺』『振り込め詐欺』などが、すべてイコールの関係にあることが一目瞭然」だと述べています。
 そして、奄美大島出身者で固められ、取立ての厳しさから「島グループ」と呼ばれて恐れられていたヤミ金グループを取り上げ、「誤解を恐れずに言えば、離島出身の若者という、これも一種の弱者が多重債務者という社会的弱者を喰う――いわば『下流喰い』とでも言うべき構図が、そこに現出していた」と述べています。
 第5章「庶民金融の虚実」では、「信用金庫業界に小原あり」と呼ばれた城南信用金庫の故・小原鐵五郎元会長の金言として、
「貸すも親切、貸さぬも親切」
「銀行は晴れた日に傘を貸し、雨が降ったら取り上げる」
という言葉を紹介しています。
 第6章「何が必要なのか」では、「マスメディアにとって大口の広告スポンサーである消費者金融が、一種のタブーと化しつつある現状」について、著者自身の体験談として、夕刊紙上で銀行系の某消費者金融ブランドに関して、「メガバンクともあろう存在が、そもそもサラ金と組むとはいかがなものか」という持論を展開したところ、大手広告代理店が、「いきなり編集部を素通りして、夕刊紙の親会社である某新聞社の広告出稿を全面ストップすると圧力をかけてきた」ことを語っています。
 本書は、メディアではヤミ金などの事件になったものでしか登場しない、消費者金融の深刻な現状を解説してくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 本書のタイトルに「下流」とあるので、借りる側の方に焦点が置かれたものを期待していたのですが、どちらかというと消費者金融の業界事情などの方に力点が置かれ、「下流」の生活実態や、なぜ借りてしまうのか、という部分の記述は少なめに感じました。


■ どんな人にオススメ?

・消費者金融業界事情に関心がある人。


■ 関連しそうな本

 山田 昌弘 『希望格差社会―「負け組」の絶望感が日本を引き裂く』 2006年01月11日
 樋口 美雄, 財務省財務総合政策研究所 『日本の所得格差と社会階層』 2006年02月01日
 苅谷 剛彦 『階層化日本と教育危機―不平等再生産から意欲格差社会(インセンティブ・ディバイド)へ』 2006年02月14日
 佐藤 俊樹 『不平等社会日本―さよなら総中流』 2005年03月22日
 橘木 俊詔, 斎藤 貴男, 苅谷 剛彦, 佐藤 俊樹 『封印される不平等』 2006年02月10日
 橘木 俊詔, 森 剛志 『日本のお金持ち研究』 2006年06月13日


■ 百夜百マンガ

砂漠の野球部【砂漠の野球部 】

 スポ根ものは昔は少年誌の花形でしたが、ギャグの世界でも定番という座は外さないのかもしれません。

2007年7月10日 (火)

シャドーワーク―知識創造を促す組織戦略

■ 書籍情報

シャドーワーク―知識創造を促す組織戦略   【シャドーワーク―知識創造を促す組織戦略】(#901)

  一條 和生, 徳岡 晃一郎
  価格: ¥2,520 (税込)
  東洋経済新報社(2007/02)

 本書は、「公式の組織で規定された権限、役割分担、業務プロセス、意思決定プロセスなどには乗ってこない、個人が自分の自主的な意思と裁量で創造的に編み出す仕事やそのために勉強、準備活動など全般を指」す、"目に見えない世界"のワークスタイルである「シャドーワーク」について、「質の高いシャドーワークこそが組織をクリエイティブに動かし続け、また社員自身も生き生きと活躍できるベーストなる」ことを解説しているものです。
 第1章「シャドーワークがイノベーションを起こす」では、「仕事に対する内発的なコミットメント度が高く、自分が関わっている役割や責任領域に対して問題意識や志が高い人ほど、先が見えるし、『自分ならこうする』といった形で到達すべきゴールやその道筋での段取りや、解決すべきハードルのイメージがつかめている」ため、「シャドーワーク」、すなわち「与えられた課題に対して達成意欲が強い人は、上司の指示を待ったり、事前に相談したり、または許可を受けるようなことをせずに、自発的な非正規の行動を起こすことが多くなる」と述べています。
 そして、「これからの企業マネジメントでは、組織の中で、シャドーワークを含む多様なワークスタイルや行動をどのように効率的に誘発していくかが、大変大きなポイントになってくる」として、企業活動において、「これまでは、把握しやすい"目に見える世界"のみを対象としたマネジメントが行われてきた」が、「新しいビジネス環境においては、目に見えるかたちにしくみを置き換えることが難しくなる」ため、「企業の現場では、"目に見えない世界"への依存度が大きくなり、"目に見えない世界"を強く意識した活動が増えてくる」ことを、「当然のなりゆき」であると述べています。その上で、"目に見えない世界"の役割の重要性が増している理由として、
(1)以前にも増して、個人の価値想像力をよりダイレクトに企業業績に反映しやすくなっている。
(2)あらかじめ決められている世紀の仕事の手順や段取りだけでは、目標を達成したり、正しい意思決定を行ったりすることがなかなか難しく、個々人の裁量や工夫で切り開いていかなくてはならないケースが増えてきている。
の2点を挙げています。
 著者らは、この、"目に見える世界"を"目に見えない世界"の双方を取り扱うマネジメントを、「DMM(Dynamic Management Mix)」と名づけ、その実現のために避けて通れない課題の一つに、シャドーワークを位置づけています。
 また、DMMを明らかにするため、多くのビジネスパーソンに「これからの時代に求められるワークスタイルとは何か?」を質問し、その結果から、
(1)社外パートナーシップ行動(社外の関係者との共創行動や知の創造)
(2)社内コラボレーション行動(社内の関連部署との協働行動や知の創造)
の2点が、これから重要になる点であることを明らかにし、この2つの行動を軸に、
・プロデューサー型(両者とも高い)
・御用聞き型(両者とも低い)
・社内調整型
・社外嗜好型
の4つのワークスタイルに類型化し、「これからの主要はプロデューサー型」であると述べています。
 そして、「プロデューサー型のワークスタイルの真骨頂は、時には組織の規定の手続やルール、あるいは公式の組織の枠組みや責任権限を越えて活動を行ったり(あえて無視する場合さえある)、業務に直接関係のない社内・社外の幅広い人々との人間関係を構築して知識や情報を収集したりと、組織の枠やルールにこだわらない自発的なアクションがきわめて多いというところにある」と述べています。
 さらに、シャドーワークのフェーズを、
(1)オフのシャドーワーク:現在の業務や課題とは、直接関係しないで行われる自発的な情報収集・準備行動
(2)インプットのシャドーワーク:現在の業務に関連して行われる自発的な探索・仮説検証行動
(3)ブレークスルーのシャドーワーク:現在の課題を達成するための自発的な課題解決行動
の3段階に分けて分析し、この3つのシャドーワークを通じて実現を目指しているものが、「自分なりの新しい価値を生み出したいという強い動機の実現」であり、このようなプロデューサー型社員に共通する点として、
・成果を出そうとする強い意志
・組織を動かすコミュニケーション
の2点に集約できるとしています。
 第2章「シャドーワークがもたらした成功事例」では、
・リコー:ビジネスブログ
・シマノ:技術系社員の海外派遣プログラム
・コーセー:常識破りの商品開発
・バンダイ:自己実現のための会社の私物化
・グーグル:シャドーワークを意識させない文化
・アサヒビール:自己客観化
・構造計画研究所
・スターバックス コーヒー ジャパン
などの事例を紹介しています。
 この中で、バンダイに関して、「人事異動や地位と権限が自己実現の道具としてとらえられている」として、「バンダイでは、自分がやりたい仕事を行うために部署の異動を申し出たり、自分の部門のプロジェクトを動かしたりするのに必要な他部署の人材を指名する、こうしたことが日常頻繁に行われている」と述べ、「バンダイにはシャドーワークが満ちている。しかも、本業とシャドーワークの区別がつかないほど混沌としている。シャドーワークが日のあたるメインの仕事になっていることさえある」と紹介されています。
 さらに、グーグルに関して、「有名なスリーエムの『15%ルール』と同様、『20%は業務以外のことをする』という社内ルール」があり、「『してもよい』ではなく『する』という言葉のニュアンスの違いに注目」しています。
 アサヒビールに関しては、「シャドーワークを実践するための気づきをうながすような仕掛け」として、「自己を客観認識させる機会」を設けるとして、
・社内:キャリアワークショップ研修
・社外:異業種交流会「次世代リーダー育成セッション」
の2つの仕掛けがあることが紹介されています。
 第3章「シャドーワークを阻む壁」では、シャドーワークを阻む有形、無形の壁として、
(1)上司のカベ:マイクロマネジメント
(2)組織のカベ:官僚主義、縦割り主義
(3)文化のカベ:前例踏襲型でチャレンジ回避型の風土
(4)バカのカベ:理屈先行で、体を動かしてしか知りえない真実を知ろうとしない行動パターンの人の限界
(5)技術のカベ:企業内のルールだけでなく、労働基準法や情報セキュリティなど、より広い世界の現状も壁になる
(6)人事のカベ:人事がシャドーワークを取締ってしまう場合が多い
の「シャドーワークの6つのカベ」を挙げています。
 第5章「シャドーワークを埋め込む」では、シャドーワークの行き着き先にある姿が、「グローバル化したマーケットで堂々と世界を相手に渡り合うことのできるリーダーが組織の中に満ちた組織であり、変革を成し遂げた企業」であるとして、「シャドーワークは、グローバル化し、フラット化した世界という舞台でこそ真価を発揮する、真の企業競争力に直結するといっても過言ではない」と主張しています。
 本書は、マネジメントしようとすればするほど本来は必要となる"目に見えない世界"の大切さを気づかせてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 本書の「あとがき」によれば、本書自体が、「変りつつある日本人のワークスタイルに関する研究」を正規の仕事外の活動で行った「シャドーワーク」そのものだそうです。
 残念ながら、各章ごとに、まとまりや論理展開の明確さに差があるように感じられてしまいましたが、そういう部分を含めて、臨場感の伝わってくる仕上がりになっています。


■ どんな人にオススメ?

・「目に見えない世界」の仕事を見てみたい人。


■ 関連しそうな本

 エティエンヌ・ウェンガー, リチャード・マクダーモット, ウィリアム・M・スナイダー, 櫻井 祐子 (翻訳), 野中 郁次郎(解説), 野村 恭彦 (監修) 『コミュニティ・オブ・プラクティス―ナレッジ社会の新たな知識形態の実践』 2005年08月25日
 ドン コーエン (著), ローレンス プルサック (著), 沢崎 冬日 (翻訳) 『人と人の「つながり」に投資する企業―ソーシャル・キャピタルが信頼を育む』 2005年12月19日
 野中 郁次郎 『知識創造の経営―日本企業のエピステモロジー』 2005年03月02日
 野中 郁次郎, 竹内 弘高 (著), 梅本 勝博 (翻訳) 『知識創造企業』
 野中 郁次郎, 紺野 登 『知識経営のすすめ―ナレッジマネジメントとその時代』
 チャールズ オライリー , ジェフリー フェファー (著), 広田 里子, 有賀 裕子 (翻訳), 長谷川 喜一郎 『隠れた人材価値―高業績を続ける組織の秘密』 2005年02月03日


■ 百夜百マンガ

GENOMES(ジェノムズ)【GENOMES(ジェノムズ) 】

 「アフタヌーン」の四季賞出身の大型新人として期待されて登場しましたが、結局フィールドを他誌に移してしまったみたいです。もったいない。

2007年7月 9日 (月)

ゲーム理論の愉しみ方 得するための生き残り戦術

■ 書籍情報

ゲーム理論の愉しみ方 得するための生き残り戦術   【ゲーム理論の愉しみ方 得するための生き残り戦術】(#900)

  D・B・バラシュ (著), 桃井 緑美子 (翻訳)
  価格: ¥2310 (税込)
  河出書房新社(2005/12/10)

 本書は、「ゲームが私たちの生活にいかに浸透し、人間にとってゲーム理論がどのように有用な道具なのかを分かりやすく解」いたものです。
 第1章「誰もがゲームをしている」では「巨大なセコイアや興奮したクジャクやヘラジカから、切れた電話や対立候補を中傷する政治ポスター、そして軍縮のジレンマまで、このような状況をつなぐ共通の糸がある」として、「これらすべての場合において、二人のプレーヤーには目的、すなわち手に入れたい利得があり、それを達成するための行動の選択肢がある」、「何を選択するのも自由だが、望みどおりの利得をただ手を伸ばして得られる自由はない。いずれの場合も、結果は相手がどうするかによるのだ」と述べ、「このような状況を扱う数学の一分野」である「ゲーム理論」について解説しています。
 また、マキアヴェリの言葉を引用した上で、「マキアヴェリは『身も蓋もない進言』をしているようで、じつはそこにゲーム理論の基本原理が表されている」として、「すなわちそれは、自己の利益のみならず他社の関心と行動をも考慮し、こちらの行動に他者がどのように反応しそうかについても考えるべきだ、ということ」であると述べています。
 さらに、一部で誤解されているように、「ゲーム理論は冷徹で計算高い人、道徳観念に欠ける人、道義心のない人が利用するものと思い込んではいけない。利得には道徳的価値が反映されていないとする根拠はないし、目的は勝つことだと決め付ける必要もない」としながらも、「ゲーム理論が不快感を催させるのは、モデルそのものよりも、個人の動機を浮き彫りにして客観視することに原因があるのだろう」と述べています。
 著者は、「ゲーム理論は、ナショナル・パブリック・ラジオNPR)か電子レンジのようなものと考えればいいだろう。なくてもすむが、あれば役に立つ」と述べています。
 第2章「利得表をマスターする」では、バレエを鑑賞したい妻と、ボクシングを観戦したい夫との間の「男と女の戦い」に関して、これを始めて記述したルースとライファの言葉として、
「したがってこのような情況では、まず自分の意向を明かし、考えを変える気はないと相手に思わせるのが有利である。これはよくある戦略だ。『私はこうしようと思っている。後はあなたが決断して、したいようになさい』。第二の人物が自分の利益を考えて行動すれば、おのずと第一の人物にも有利になるのである」
という言葉を紹介しています。
 第3章「囚人のジレンマと協調関係」では、「勝利を目指して全力を尽くしたのに、かえって失敗の憂き目に否応なく遭わされることがある。最良の結果を出そうと頑張っても、同じことを目指して同じように努力しているものに阻まれて、結局どちらにも不満が残ってしまう。力をあわせて利益を分かち合う方法を考えていれば、どちらももっと多くを手にできたはずなのに……」という「囚人のジレンマ」について、「ゲーム理論の中で、私たちをこれほど夢中にさせ、なおかつこれほど不愉快な気分にさせるゲームはない」と解説しています。
 そして、「ほぼ完璧な囚人のジレンマが繰り広げられた」例として、ウォーターゲート事件の取調べの例を挙げ、関係者の利得を分析しています。
 また、囚人のジレンマからの解決法の一つとして、「囚人のジレンマ・ゲームが何回繰り返されたところで、ジレンマからは脱出できないが、ゲームがいつ終わるかわからなければ、後ろ向き帰納法の論理は成り立たない」ことを挙げ、さらに、「人間は理論で推測できるほど厳密に論理的ではない」ため、「数々のシミュレーションでは、大半の人が利己的な『合理性』を放棄するという結果がたびたび示されている。むしろ、相互の利益のために協調しようとするのである」と述べています。
 さらに、政治学者のロバート・アクセルロッドが開催したコンピュータプログラムによるトーナメントにおいて、「最初は協調し、それ以降は対戦相手が直前にとった行動を同じ行動をとる」という「お返し」が優勝したことを紹介し、「お返し」が成功した秘訣として、「成功は、上品さ、報復を忘れないこと、寛容さ、単純明快さのおかげだ」というアクセルロッドの言葉を紹介しています。
 この他、アクセルロッドの『つきあい方の科学』でも紹介されている、第一次大戦時の塹壕戦における協調関係などについて解説しています。
 また、「穏やかならぬ、しかし重要な発見」として、「囚人のジレンマ・ゲームの実験をすると、プレーヤーは自分の利得を増やすことよりも、相手の利得を減らすことに関心を示す」ことを紹介しています。
 第4章「社会的ジレンマ」では、著者が大学で持っているゼミについて、「少人数でためになる」ことが理由になって、受講を希望する学生がたくさんいる、「定員をあと一人増やして自分だけ入れてほしいというのが本心なのだ」という状況を、「これが社会的ジレンマである」と解説しています。
 そして、「重要なのは、社会的ジレンマにも基本形の囚人のジレンマのパラドクスがそのまま当てはまる点」であると述べています。
 また、社会的ジレンマの解決策として、「社会の特質は市民に社会契約を守らせ、社会的ジレンマの甘い誘惑から目をそらさせることにあり、そのために用いられる手段」として、ホッブスの「統制や制約」を挙げています。
 さらに、フリーライダー(ただ乗り)問題に関して、「海岸近くに危険な岩がある。船の航行にも危ないし、商売や日常生活にも差し障る。灯台があれば安心だが、建設には多額の資金を要し、それだけの財力は誰にもない。社会全体の利益にはなっても、誰も費用を負担したがらない灯台建設に金を出す人がいるだろうか」という「灯台問題」を解説しています。
 そして、環境問題に関する国際会議で、「東西両陣営からの参加者が、かなわぬことながら互いに相手の体制のやり方に望みをかけた」、「西欧諸国の環境保護論者は国家による管理が環境保護計画のモデルになると考え、ソ連圏の環境問題専門家は私有財産を認めれば良識的な環境保護が実現するだろうと、理想的だが報われない期待を抱いた」という話を紹介しています。
 第5章「チキンゲーム」では、ナッシュ均衡について、「相手が何をしても、両プレーヤーとも自分の策を後悔しないとき」であると述べ、この「何をしても」というところが重要であると解説しています。
 第6章「動物たちはゲームの達人」では、「タカ、ハト、仕返し屋」の三者による3×3ゲームについて、「この条件下では、安定した均衡状態、すなわち専門用語でいう『進化的に安定な戦略(ESS)』は仕返し屋になる」ことを、「仕返し屋は仕返し屋と対戦したときに有利だからだ。両者がハトとして振舞うので、致命的なまでに激しさを増していくタカ対タカの戦いを避けられるから」であると解説しています。
 第7章「聖なる愚か者」では、「人間の意思決定における誤りや非合理性を研究する心理学者」が、「その『頑健性』、すなわちその頻度の高さに大きな衝撃を受けている」として、こうしたパターンが非常に頑健であるため、「リスク回避」「フレーミング効果」「プロスペクト理論」などのさまざまな一般法則を生んでいると述べています。
 著者は、「ゲーム理論は知恵に富み、もどかしく、楽しく、恐ろしく、不愉快で、挑みがいがあり、ときに的はずれでもある。理性にも同じことがいえるのではないだろうか」と述べています。
 本書は、ゲーム理論の入門書と言うよりも、ゲーム理論を題材にしたポピュラー・サイエンスの本として楽しく読める一冊です。


■ 個人的な視点から

 一般向けのゲーム理論の本は、経済学か経営学の人が書くことが多いのですが、本書の著者は、ゲーム理論の著者としては珍しい心理学者です。「動物行動学、社会生物学、進化心理学など、関心と興味の範囲は多岐にわたる。」と紹介されていますが、それにしても恐いのはマガモです。


■ どんな人にオススメ?

・「人生はゲームだ」と思う人。


■ 関連しそうな本

 ウィリアム パウンドストーン 『囚人のジレンマ―フォン・ノイマンとゲームの理論』 2006年09月11日
 アビナッシュ ディキシット (著), バリー ネイルバフ (著), 菅野 隆 (翻訳), 嶋津 祐一 (翻訳) 『戦略的思考とは何か―エール大学式「ゲーム理論」の発想法』 2005年01月31日
 R. アクセルロッド (著), 松田 裕之 (翻訳) 『つきあい方の科学―バクテリアから国際関係まで』 2005年12月20日
 リチャード・ドーキンス (著), 日高 敏隆, 岸 由二, 羽田 節子, 垂水 雄二 (翻訳) 『利己的な遺伝子』 2006年09月26日
 ロバート・アクセルロッド (著), 寺野 隆雄 (翻訳) 『対立と協調の科学-エージェント・ベース・モデルによる複雑系の解明』 2005年11月15日
 梶井 厚志, 松井 彰彦 『ミクロ経済学 戦略的アプローチ』 2005年04月04日


■ 百夜百マンガ

駅前の歩き方【駅前の歩き方 】

 紹介されていた桜海老の天麩羅そばがおいしそうだったので、静岡に行ったときに食べてしまいました。海外含めて、旅先での楽しみは、土地の名物を食べることより、「常食」食べることなんじゃないかと思います。

2007年7月 8日 (日)

歌うネアンデルタール―音楽と言語から見るヒトの進化

■ 書籍情報

歌うネアンデルタール―音楽と言語から見るヒトの進化   【歌うネアンデルタール―音楽と言語から見るヒトの進化】(#899)

  スティーヴン ミズン (著), 熊谷 淳子 (翻訳)
  価格: ¥2310 (税込)
  早川書房(2006/06)

 本書は、「最も不思議で驚嘆すべき、かつもっとも軽んじられている人間の特質」である、「人間がこれほどまでに音楽を作り、音楽に耳を傾けずにいられない理由について、持論を展開」しているものです。
 第1章「音楽の謎」では、「音楽の起源は言語の起源を同程度の関心を寄せられてしかるべき」ものとした上で、「近年の活発な研究に関わらず、言語の進化についての理解はわずかしか進んでいない」理由として、「ひとるには化石や考古学的な証拠をなおざりにしているからであり、一つには音楽をなおざりにしているからである」と指摘しています。
 第2章「チーズケーキ以上?」では、言語と音楽について、「まず議論の余地のない類似点を挙げた後、言語の三大特徴――シンボル、文法、情報伝達――が音楽にも見られるかどうかを検討」しています。
 そして、言語と音楽が、
・話し言葉や歌のような音声での表現
・手話や踊りのような身振りでの表現
・どちらも書きとめることができる
という3つの表現様式を共有していることを解説しています。さらに、「言語も音楽も階層構造をもち、音要素(単語や楽音)が組み合わさってフレーズ(句や音句)になり、それがさらに組み合わさって言語事象や音楽事象になる」という「組み合わせシステム」であり、「再帰性のある規則に依存し、有限の要素群から無限の表出ができる」点を指摘しています。また、「どちらのコミュニケーション体系にも身振りや体の動きがある」ことを挙げ、両者が、「"認知の基本要素"を共有している可能性がある」ことを指摘しています。
 一方で、両者の違いとして、言語は、「シンボルからなり、文法規則によって完全な意味を与えられて情報を伝達する」「構成的」なものであるのに対し、「音楽のフレーズや、身振り、身体言語は全体的」である点を挙げています。
 第3章「言語なき音楽」では、失語症の症例を挙げ、「音楽と言語との神経系における関係を検討するのに理想的な資料となる」と述べ、「もし音楽が言語から派生した、あるいは逆に、言語が音楽から派生したのなら、当然、言語をなくする自動的に音楽機能もなくすことになる」と述べています。
 第4章「音楽なき言語」では、逆に、「音楽機能を失いながら言語機能を保っている人たちや、音楽機能が全く発達しなかった人たち」の症状、すなわち「失音楽症」の例を紹介しています。そして、フランスの作曲家ラヴェルが、「作曲した曲を譜面に起こす能力を完全に奪い去った脳の変性によって」晩年を蝕まれ、友人に、「オペラが頭の中にあって、聞こえてもいるのだが、一生譜面には書き起こせないだろう」と語っていることを紹介しています。
 第5章「音楽と言語のモジュール性」では、イザベル・ペレツによる「脳内での音楽モジュールの構造」を示し、「音楽システムの認知障害は、単独または複数のモジュールの異常によっても、単独または複数の情報経路の阻害によっても生じる可能性がある」と述べています。
 第6章「乳幼児への話しかけ、歌いかけ」では、「乳幼児への発話(IDS)」では、"メロディがメッセージである"こと、つまり、韻律だけで話者の意図をくみ取れること」を実験によって示しています。
 第7章「音楽は癒しの魔法」では、
(1)感情とその表出は人類の生活と思考の中心にある。
(2)音楽は感情を表出するだけでなく、自己や他者に感情を起こさせる。
の2点を挙げ、「これは、音楽能力がどう進化したかに重要な意味を持つ。偶然の遺伝子変異によって音楽能力が強化された過去の個体群が繁殖において優位に立った可能性を示すからだ」と述べています。
 著者は、「音楽は自分の感情を表現したり他者の感情や行動を操作したりするのに利用できる」と述べ、「自分の感じていることをを他社に伝えるずっと強力な手段、言語」があるため、「おそらく現代人のすべての社会では、娯楽以外の目的で音楽をこのように用いることはまれ」であるが、「過去には、私たちの祖先がさまざまな複雑な感情を持ち、時に他者の行動に影響を及ぼす必要がありながら、言語を欠いていた時代があっただろう」と述べています。
 第8章「うなり声、咆哮、身振り」では、「野生の霊長類のコミュニケーション体系」の中に、「言語と音楽のルーツが見つかるはずだ」と述べています。
 そして、「ベルベットモンキー、ゲラダヒヒ、テナガザル、チンパンジー、ボノボ、ゴリラのコミュニケーションの要点」の観察から、共通の特徴として、
(1)どの発生もどの身振りも人間の単語には相当しない。つまり「全体的」である。
(2)サルや類人猿は、自分と同じ知識や意図を他者が持っているとは限らないことが分からず、その発生や身振りは、指示的ではなく操作的で、こちらが望む行動を他者にとらせようとする。
(3)アフリカ類人猿のコミュニケーション体系は、発生だけでなく身振りも使うという意味で多様的であり、類人猿は多様式のコミュニケーションを用いる唯一の非ヒト霊長類と思われる。
(4)ゲラダヒヒとテナガザルのコミュニケーション体系の重要な特徴として、リズムやメロディを盛んに利用し、歌の同期やターン交換をする点で音楽的であることが挙げられる。
の4点を挙げています。
 第9章「サバンナに響く歌」では、「現代人と同じ霊長目ヒト科に分類される生物」である「ホミニド」が、180万年前まで、「解剖学上も行動面でも非常に『類人猿的』」であり、「ホミニドの音声・身振り表出は、単語の組合せではなく完結したメッセージだったという意味で全体的なままだったし、他者に世界の物事を伝えるためではなく他者の行動を操作するために用いられたと考えられる」としながらも、私見として、「身振りと音楽的な発生の量が増えたこと」を挙げ、「初期ホミニドのコミュニケーション体系」を、「Hmmmmm」(全体的(Holistic)、多様式的(multi-modal)、操作的(manipulative)、音楽的(musical))と名づけています。
 第10章「リズムに乗る」では、ホモ・エルガステル(原人)の原型言語を、「全体的な発話からなっていた可能性が高い」というアリソン・レイの主張を紹介したうえで、「発話の多様式的側面と音楽的側面が、二足歩行の進化によって大幅に促進された」と述べています。
 そして、「私たちの祖先が二足歩行性のヒトに進化するとき、生得的な音楽能力も進化しただろう」と述べ、「リズム維持の認知機構の選択によって二足歩行が進歩し、それによって新たな身体活動が可能になり、それを効果的に行うためにリズム維持が必要になる」と解説しています。
 著者は、「初期人類が社会的相互作用の一つとして使っただろう感情のこもった音楽的な『Hmmmmm』音声」に、「身振り、ミメシス、踊りふうの動き」を加えたものが、「高度に進化した『Hmmmmm』コミュニケーション」であると述べています。
 第12章「セックスのための歌」では、「時間と労力をかけて高度に対称的な石器をつくるのは、作り手にとってハンディキャップだったに違いないし、それを作れることは、母親が自分の子に受け継がせたいと望みそうな心身の能力の表れだったろう」とする、著者が進化生物学者のマレク・コーンが提唱した「セクシーなハンドアックス仮説」を紹介しています。
 第14章「共同で音楽を作る」では、ロバート・アクセルロッドによる「繰り返し囚人のジレンマ」の実験を紹介し、「音楽作りは安上がりで手軽なやりとりの一形態で、協力の意思を示すことができるため、食物分配や共同での狩りなど、十分な利益が得られる場合は将来の協力を促す可能性がある」と述べています。
 第15章「恋するネアンデルタール」では、ネアンデルタールの考古学的記録の特徴として、
(1)小さく親密な共同体で生活していた。
(2)象徴的人工物の欠如。
(3)極度に固定した文化の継続。
の3点を挙げ、これらが、「言語でなく高次の『Hmmmmm』の有力な証拠となる」と述べています。
 第16章「言語の起源」では、20万年前以降に、構成的言語が全体的なフレーズから分節化という進化を遂げたのかを説明するものとして、
(1)社会生活:人々が専門化した経済的役割や社会的地位を採用し始め、他の共同体との公益や交換を始め、「よそ者と話す」ことが社会生活の重要な側面として広がった。
(2)人類の生態:遺伝子変異によって全体的発話の中の文節音を検出する新しい能力が備わった。
の2つの可能性を挙げています。
 また、「アフリカで少なくとも25万年におよんだ連続する道具作りの伝統の真ん中に、考古学者が言語を使う現代人と結びつける種類の新しい行動の痕跡が散発的に見られる」ことに地うて、「『Hmmmmm』中心のコミュニケーション体系から構成言語への移行には何万年もかかった可能性が高い」と述べています。
 さらに、「新しい行動の多くが人類の永続的なレパートリーになった」のは5万年前を過ぎてからであることについては、「ホモ・サピエンスが完全に構成的な言語でコミュニケーションするようになった後、人口の閾値を越えたためと説明される」と述べています。
 そして、著者の前著である『心の先史時代』の論旨として、主要な「知能」には、
(1)自分が属する複雑な社会でやっていくための社会的知能。
(2)動植物、天候、季節など、狩猟採集生活に欠かせない自然界のさまざまなことを理解するための博物的知能。
(3)人工物の取り扱いや、特に石器の製作を可能にする技術的知能。
の3つがある上、ホモ・サピエンスには、新たな特徴として、「個々の知能の考え方や知識の蓄えを一つにまとめ、特化した心では不可能な新しい種類の思考を生み出す能力」である「認知的流動性」が加わり、この能力は、言語の結果、すなわち、「口にしたり想起したりした発話が、概念と情報を分離した一つの知能から別の知能へ流す導管の役割を果たした」結果であると主張しています。
 著者は、「分節化によって『Hmmmmm』から構成的言語が生まれ、それが人の思考の性質を変化させ、私たちの種を全世界拡散に至る道につかせ、ついには、200万年以上前に最初のホモ属の種が現れて以来続いてきた狩猟と最終の生活を終わらせた」と述べています。
 第17章「解けても消えない謎」では、音楽が、「言語が進化した後の『Hmmmmm』の残骸から生まれ」、「言語がそれほど効果的でない感情の表出と集団同一性の確立のためだけのコミュニケーション体系になった」と述べ、「むしろ、情報の伝達や操作をする必要性から解放された『Hmmmmm』は、この役割に特化し、私たちが現在、音楽と呼ぶコミュニケーション体系に自由に進化できるようになった」と解説しています。
 そして、音楽が、「Hmmmmm」の特徴を多く残し、「感情への影響力や全体的性質など、明らかなものもあるし、少し考えないと分からないものもある」と述べています。
 著者は、「私が提唱した進化史は、音楽と言語がなぜ一方でこれほど告示しているのか、そしてなぜ他方でこれほど異なっているのかを説明できる」と述べ、「とにかく音楽を聴いてもらいたい。聴きながら、自らの進化の過去に思いを馳せよう。自分の遺伝子が世代から世代へと受け継がれてきたこと、その途切れることのない系統をたどって、私たちが共有する祖先の初期ホミニドまで行き着けることを考えてみよう。この進化の遺産が、あなたを音楽好きにしたのだ」と呼びかけています。
 本書は、自分がなぜ音楽を聴くと楽しくなるのかを知りたい人にぜひお奨めしたい一冊です。


■ 個人的な視点から

 本書のタイトルには「ネアンデルタール」と書かれているのに、本書の表紙の写真は「歌を歌う(ように見える)ゴリラ」であることに気づいたときはちょっと違和感がありましたが、リアルなネアンデルタールの写真(CG)だったりしたら、手にとるのをためらわれるかもしれません。ましてや、複数のネアンデルタール人の合唱団だったらと考えると。ましてや、ドリフのように少年少女合唱団の衣装を着たネアンデルタール人だと想像すると、やはりゴリラでよかったような気がします。


■ どんな人にオススメ?

・「No Music, No Life」と思っている人。


■ 関連しそうな本

 トール ノーレットランダーシュ (著), 柴田 裕之 (翻訳) 『ユーザーイリュージョン―意識という幻想』 2006年06月18日
 ジュリアン ジェインズ (著), 柴田 裕之 (翻訳) 『神々の沈黙―意識の誕生と文明の興亡』 2006年06月04日
 ブライアン サイクス (著), 大野 晶子 (翻訳) 『イヴの七人の娘たち』 2006年06月24日
 ニコラス ハンフリー (著), 垂水 雄二 (翻訳) 『喪失と獲得―進化心理学から見た心と体』 2006年4月15日
 ジャレド ダイアモンド 『人間はどこまでチンパンジーか?―人類進化の栄光と翳り』 2006年09月29日
 リチャード・G. クライン 『5万年前に人類に何が起きたか?―意識のビッグバン』 2006年10月21日


■ 百夜百音

Perfume~Complete Best~【Perfume~Complete Best~】 Perfume オリジナル盤発売: 2007

 アイドルグループだからということで好き勝手に音作っていて楽しそうです。NHKの温暖化対策の公共広告にも出ています。こういうのが受け容れられてしまうなんて恐ろしい世の中です。


『ファン・サーヴィス』ファン・サーヴィス

2007年7月 7日 (土)

図解 アメリカ発明史―ふしぎで楽しい特許の歴史

■ 書籍情報

図解 アメリカ発明史―ふしぎで楽しい特許の歴史   【図解 アメリカ発明史―ふしぎで楽しい特許の歴史】(#898)

  スティーヴン・ヴァン ダルケン (著), 松浦 俊輔 (翻訳)
  価格: ¥2730 (税込)
  青土社(2006/10)

 本書は、「特許という巨大で活気に満ちた世界と、その特許がアメリカの夢(アメリカン・ドリーム)を生み出す助けになった様を見ていく」ものです。
 第1章「ねんねんおころり、おころりよ」では、バービー人形とGIジョーが取り上げられ、バービー人形のキャラクターが元々、「ドイツの新聞『ビルト=ツァイトゥング』紙に登場したリリーというマンガの登場人物」であり、1955年にこのキャラクターにもとづいた人形が発売されたが、ドイツではあまり売れなかったものを、マッテル社を創設したルース・ハンドラーが外見に関する著作権を買い取り、1959年にアメリカ玩具博覧会で発表し、「この業界のバイヤーからは懐疑的な目を向けられたが、間もなく大衆はもっと欲しいと大騒ぎになった」ことが述べられています。なお、ルースの娘の名が「バーバラ」で、ルースの弟が「ケン」でしたが、本人たちには必ずしも歓迎されず、バーバラは「バービー人形でいるのにはうんざりです」と語り、ケンは「私は本当にバービーが好きではありません――あれはふしだらです」と語っていることが紹介されています。
 第2章「遊びせんとや……」では、空飛ぶ円盤フリスビーについて、その由来が、1920年に、「イェール大学のある学生が、コネチカット州ブリッジポートのフリスビー製パン社のパイ用ブリキ容器を投げて遊んだこと」まで遡ることが述べられています。そして、なぜ「回転する円盤型の翼」があのように飛ぶのかについて、
(1)大気
(2)最初に投げたときの力
(3)回転
(4)中空の側を下に向けて回転させること
の4点が必要になると述べています。
 第3章「スポーツのある暮らし」では、野球のグラブを始めて使ったのが、1875年にセントルイスのチャールズ・ウェイトであると考えられており、「初めてベージュのグラブを着けて守備につくと、ファンは(さらには味方の選手まで)意気地なしといった」ことが述べられています。しかし、その少し後に、有名で尊敬もされていたアルバート・スポルディングが黒い山羊の皮のグラブ(今のミットというよりは、ゴルフ用のグラブに近かった)を着け始めたときから、「グラブを着けるという考えは、他の選手にも取り入れられた」ことが述べられています。
 また、ジェームズ・ネースミスというカナダ人が、マサチューセッツ州スプリングフィールドのYMCA職業訓練校で働いていたときに、「フットボールのシーズンが終わり、野球のシーズンが始まるまでの冬の間に、学生が屋内でできるスポーツをやらせてくれないか」と頼まれ、フットボール、サッカー、ラクロスを屋内でやらせてみたが、「それぞれ手足の骨が折れ、窓ガラスが割れ、道具が壊れた」ことが述べられています。そして、ネースミスは、「固い床の上ではプレーヤーどうしの接触が問題になるので、接触しないようにしなければならない。接触はタックルによるもので、走るからタックルも行われるのだから、走らないようにする。ボールは蹴るよりは投げる方が穏やかで、とくに上に投げれば緩くなるから、高い箱に投げ込むようにしよう」と考えたことから、床から3メートル少しのところに桃を入れるかご(バスケット)が釘で留められ、当初はサッカーボールが用いられたことが解説されています。
 第4章「ザッツ・エンタテインメント」では、1931年、ウォルト・ディズニーがウィルフレッド・ジャクソンとウィリアム・ギャリティとともに、「映像と同期する方法と装置」を出願し、その特許書類の中には、ピアノを弾いているミッキーマウスが登場していることが紹介されています。
 第5章「お家がいちばん」では、「家庭用の簡単お掃除道具の最たるもの」として、1980年にオレゴン州ニューバーグのフランシス・ベートソンによって出願された「自動清掃建造物」を取り上げ、「維持管理のしやすさを特徴とする」この建物が、「なぜ生活の半分を家の掃除で無駄に過ごさなければならないのか」という疑問に端を発したもので、天井に撒水装置が吊るされ、床面には部屋を乾かすための「ベースボード装置」があり、各部屋には1メートル当たり4ミリほどの排水のための傾きがあることが解説されています。ただし、問題点として、「お金、小切手帳などの紙類が残っていてだめになってしまわないように、それらを片付けておくこと、電気機器がショートしないようにしておくこと、水道代や防水にかかる費用に慣れなければならないところ」が挙げられています。発明者であるベートソンの自宅は、「大事なものはガラスの下におかれ、特殊加工をした家具を置いている。絨毯は埃を集めるだけだと考えて使わず、洗面台や流し(食器や台所用品類の保管領域も)は、自動的に清掃されるように設計されている。衣類も、戸棚に吊られている間に洗浄される」というものであることが紹介されています。
 第6章「おいしいものを食べたい」では、「有名な話」として、「コカコーラの成分は特許にはなっておらず、したがって、今なお企業秘密である」ことや、「おなじみのくびれた瓶」が、1915年の同社の弁護士による「人が暗闇で手探りしても、すぐにコカコーラの瓶だと分かるような瓶」を採用してはどうかという意見が由来であることが紹介されていますが、暗闇の中でコカコーラを飲む、というシチュエーションがよく分かりません。
 第8章「自動車天国」では、今や有名になったセグウェイ人間運搬装置が、「元はジンジャーという名で申請されたが、これは支援者が誰もが都市生活に革命を起こすと保証する、謎の事業である、アップル社のマッキントッシュ以来の大げさなハイテク構想だと呼ばれたこともある」ことが紹介されています。
 第11章「ペーパーレスへ向かう書類づくり」では、電話自動応答装置の最初の実用モデルが、日本の橋本和芙によるもので、「かけてきた人にメッセージを提供し、かけた人が残したメッセージを録音する」というもので、「橋本の成果は、オフィス環境関連で重要な日本初の発明で最初のものだろうし、その後、日本の発明は確かな影響を残している」と述べ、「1976年から2002年にかけての、分類358(ファックス装置)と399(コピー機)における3万5000件のアメリカの特許のうち、58パーセントは日本の企業によるものだった」ことが述べられています。
 第12章「真実、正義、アメリカ流」では、銀行強盗を防ぐために、「ガス弾が2発(散弾銃の弾のようなものが提案されている)、クリップでしかるべきところに留められ、水銀の傾斜により、乾電池で動く装置のスイッチが入り、札束が強盗に持ち上げられると、ガス弾の電動式キャップが動くことになる」という発明が紹介されています。
 本書は、発明を通じたアメリカンドリームの巨大さの片鱗を見せてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 本書で紹介されている「チョコレートで覆ったアイスクリーム」である「アイスクリーム・バー」について、アイオワ州に住むクリスチャン・ネルソンが、8歳の子が、「お小遣いをチョコレートバーにしようかアイスクリームにしようかと迷っていた」ことから思いついたもので、その権利の半分を取得したラッセル・ストヴァーが資金を出したことについて紹介しています。
 ストーヴァーは、自分で「アイスクリーム、ユースクリーム、ウィー・オール・スクリーム・フォー・アイスクリーム」(僕も叫ぶ、君も叫ぶ、みんな叫ぶ、アイスクリームが欲しい)という曲を作ったことが紹介されていますが、ということは、榊原郁恵の「夏のお嬢さん」はこの曲のパクリということでしょうか。


■ どんな人にオススメ?

・アメリカンドリームの具体的な姿を見てみたい人。


■ 関連しそうな本

 福井 健策 『著作権とは何か―文化と創造のゆくえ』 2006年06月10日
 豊田 きいち 『著作権と編集者・出版者』 2006年5月4日
 ケンブリュー マクロード (著), 田畑 暁生 (翻訳) 『表現の自由vs知的財産権―著作権が自由を殺す?』 2006年04月23日
 ローレンス レッシグ 『クリエイティブ・コモンズ―デジタル時代の知的財産権』


■ 百夜百音

郁恵自身-25th Anniversary Edition-【郁恵自身-25th Anniversary Edition-】 榊原郁恵 オリジナル盤発売: 2001

 チューチューチュチュで知られる曲ですが、「アイスクリーム、ユースクリーム」のところで、楳図かずおの「まことちゃん」が「ギャー!!」と恐い顔で叫ぶところが浮かんでしまうのは間違っているでしょうか?

『榊原郁恵ベスト』榊原郁恵ベスト

2007年7月 6日 (金)

入門 経済物理学―暴落はなぜ起こるのか?

■ 書籍情報

入門 経済物理学―暴落はなぜ起こるのか?   【入門 経済物理学―暴落はなぜ起こるのか?】(#897)

  ディディエ ソネット (著), 森谷 博之 (翻訳)
  価格: ¥2940 (税込)
  PHP研究所(2004/02)

 本書は、「複雑系や臨界現象といった近代科学の高度な概念を用いて、金融市場の暴落をどのように解釈できるかを物語風に語ったもの」です。
 第1章「金融市場の暴落とは何か、なぜ、何時、どのようにして起きるのか」では、本書において、「暴落が基本的に市場の内政的な原因で起こり、外性的な刺激は単なる引き金に過ぎないという考え方を掘り下げ」、「結論として、暴落の原因は自己組織化のプロセスにより市場全体で徐々に形成されていくので、通常考えられるよりずっと捉えがたい」ものであり、「真の暴落の原因はシステミックな不安定性にある」ことを示すものであると述べています。
 そして、本書で用いるアプローチが、「数学、物理学、工学、社会科学などそれぞれの分野の知見や手法を組合せ、さまざまなスケールで出現し得る普遍的な構造を確認し分類することで特異現象の解析方法を構築し、これを金融『危機』の予測に用いるというもの」であると述べています。
 著者は、「本書では、暴落が発生する時代や内容は大きく違っても、共通する背景や構造が潜んでいることを示したい」として、「21世紀の現代人が17世紀の人々(もしくは、その他すべての時代に生きる人々)と基本的には変らない感情的、理性的特性を持っているに違いないと考えることに端を発している」と述べ、「本書がこれから暴こうとする『普遍』構造は、投資家の相互作用に特徴的な『法則性』の結果として創発される確かな特性として理解できることであろう」と述べています。
 第3章「金融市場の暴落は通常の分布から外れたはずれ値」では、本章で行った検証が、「金融業会やランダムな市場に関して論理的な帰無仮説を作成する学問の世界で標準的に用いられているモデルの1つが、大規模な暴落を十分に説明することはできないという事実を提示している」にすぎず、「大規模な暴落には、異なるメカニズムが働いている。この結果は、メディアと大衆が原因で暴落が起きるとされる特別な状況が存在することを証明している」と述べています。
 第4章「正のフィードバック」では、経済学が、「過去のものとなった確実性から離れ、不完全瀬、限定合理性、行動および心理学などはるかに面白い研究の可能性を秘める方向へ向かっている。アカデミックな経済学の基礎を形成してきた数学モデルは、一般均衡から全てが最上となる、多数の均衡を作り上げる多元均衡、そして全てが均衡とはならない不均衡モデルに移行している。結果として導かれた概念は、経済および株式市場が自己組織化システムであるということである」と述べています。
 また、「暴落は、局所的模倣システムが臨界点を通り抜ける場合に、最も起こりやすいと考えられる」と述べ、「直感的にいえば、臨界現象での自己相似性とは、なぜ局所的模倣が大域的な強調へスケールを超えて連鎖するかである」と解説しています。
 第5章「金融バブルと市場暴落のモデル化」では、「株式市場の価格が暴落のリスクによって動かされ、そのハザード率によって数量化されるモデルを構築した」として、「ここでは模倣と群衆行動が暴落のハザード率の原動力である。模倣の強さが臨海地に接近すると、暴落のハザード率は特有のベキ乗則的ふるまいを伴って発散する。これは暴落を予想する最初の予言的な前兆のパターンとなり市場価格で特定のベキ乗則の加速を引き起こす」と述べています。
 そして、「本章で説明したリスク主導のモデルと価格主導のモデル」が、「合理的とレーダーとノイズとレーダーの2つのタイプのトレーダーからなる系について既述している」として、「ノイズとレーダーの特別な場合の模倣と同調は、暴落を引き起こすとレーダー間の大域的な強調を引き起こすだろう。合理的トレーダーは、暴落のリスクとバブルの価格ダイナミクスの間を直接結合する」と述べています。
 第6章「階層、複雑なフラクタル次元および対数周期性」では、「階層構造の下で組織された市場参加者の間に存在する模倣を原因とする協調行動をモデル化し、そのモデルが『対数周期性』を伴なった臨界現象をどのように示すかを最初に説明する」と述べた上で、「その後、この考えを少し定式化し、このようなパターンの記述を本質的で簡潔に引き出すためには『くりこみ群』と呼ばれる素晴らしいテクニックが臨界現象の多重スケール自己相似性の存在をどのように利用したかを示す」と述べています。
 そして、「非線形な動力学モデルの価格力学の特性」として、
・「慣性」は、将来にその実を結ぶだろう今日の投資判断が、過去の解析に基づいているという事実に起因する。
・「慣性」とともに非線形のトレンドへの追随は市場価格とファンダメンタル価格のずれの振幅に有限時間の特異点を作り出す。
・「慣性」とともに非線形なファンダメンタル価格に基づく投資は市場価格とファンダメンタル価格の間のずれの大きさに依存する非線形な振動を作り出す。
の3点を挙げています。
 第7章「主要な暴落の解剖:普遍的な指数と対数周期性」では、「一種の臨界点として暴落を捉えることに何らかの価値がある場合、私たちは暴落後の協調行動の存在を示す特徴を識別することができるに違いない」として、「暴落の後の関連する量(価格、ボラティリティ、インプライドボラティリティ)についても対数周期振動および臨界指数の存在を立証できるはずである」と述べています。
 そして、「バブルと暴落は投棄から生まれる」という本書のテーマを繰り返し、「投棄の対象はブームによって異なり、硬貨、チューリップ、選ばれた企業、輸入商品、地方銀行、外国の鉱山、建設幼稚、農地・公有地、鉄道株、道、銀、金、不動産、デリバティブ、ヘッジファンド、新産業などである」と述べています。
 著者は、本章において、「株式市場の大きな暴落が、磁気、溶解およびそれに類する現象に関連する統計物理学の研究者の間で研究されたいわゆる臨界点と類似していることを示した」と述べ、「市場は捉えにくい自己組織化と強調というやり方により暴落を予想し、それゆえ、株式市場の価格に観測できる前兆の『証拠』を公開している」、「いい換えれば、これは、市場価格が差し迫った暴落についての情報を含むことを暗示する」と解説しています。
 そして、「これ以前に暴落を説明するために提案されたモデルのほとんどは、非常に短い時間スケールで価格の急落を説明できる仕組みを熟考していた」が、「ここでは対照的に、暴落の根本的な原因はそれ以前の数年間の市場価格の累進的に加速する上昇に求められるべきであると主張」しています。
 第8章「進行成長市場におけるバブル・危機・暴落」では、「多くの進行成長市場について分析し、第7章で述べた主要な金融市場についての所権を経験的な根拠に基づいて拡大」しています。
 著者は、「市場は完全に自由でなくてはならないという純粋な自由市場主義者の信念が常に最善の解決方法になるとは限らない」として、彼らが、
(1)根本的な方法で市場を不安愛知にする戦略を展開する投資家の傾向
(2)国家間の不均衡の非即時的調整
の2つの大きな問題を見過ごしていると指摘しています。
 第10章「2050年 成長の時代の終わり?」では、「私たちの手法を一般化して、金融だけでなく、経済や人口に関する時系列を、信頼できるデータが入手可能な最も長い時間スケールにわたり解析」するとしています。
 著者は、「株式市場の解析を広げて、世界人口・地球環境・世界経済の問題で考え」る必要は、「長い時間スケールで見れば株式市場の将来、特に暴落・暴騰の発生は、市場が『生息している』世界の他のたくさんの要因とは切っても切れない関係にあるからである」と述べたうえで、「経済成長の一部は金融市場にそっくりになり始めている」、「起きうることは全て示唆され、バブルやパニックの可能性もその1つである」と述べています。
 そして、「投機的な、自己実現的なバブルやクラッシュは決して過去の事例ではなく、今後の経済や人間の活動のますます大きな部分を占めることになるだろう。この本で述べた幾つかの現象とその背後にあるいくつかのメカニズムは、人間の活動のより多くの現象と関係してくることになるだろう。これらの現象の源泉を理解し、かすかだが重大な兆候に立ち向かっていこう!」と締めくくっています。
 本書は、物理学の手法を用いていますが、一般になじみのある現象である市場を対象にしているので、物理学に特に関心のない人にとっても、また、物理学に関心のある人にとっても興味深く読める一冊です。


■ 個人的な視点から

 「物理学」と「株式市場」とは、学問分野、というか大学受験の区分では、「理系」と「文系」とに区分されますが、本書は象徴的な例としても、近年のクロスオーバーな状況を考えると、この区分は意味が薄れているだけでなく、ある程度以上高度になった場面では弊害を生んでいるんじゃないかと思います。


■ どんな人にオススメ?

・「市場」は文系が扱う分野だと思っている人。


■ 関連しそうな本

 ペリー・メーリング (著), 今野 浩, 村井 章子 (翻訳) 『金融工学者フィッシャー・ブラック』 2006年12月27日
 ロス・M・ミラー (著), 川越 敏司 (監訳), 望月 衛 (翻訳) 『実験経済学入門~完璧な金融市場への挑戦』 2007年01月17日
 多田 洋介 『行動経済学入門』 2006年08月31日
 A. シュレイファー 『金融バブルの経済学―行動ファイナンス入門』
 エマニュエル ダーマン (著), 森谷 博之, 長坂 陽子, 船見 侑生 (翻訳) 『物理学者、ウォール街を往く。―クオンツへの転進』 2007年03月05日
 マーク・ブキャナン (著), 阪本 芳久 (翻訳) 『複雑な世界、単純な法則 ネットワーク科学の最前線』 2005年12月21日


■ 百夜百マンガ

少年よラケットを抱け【少年よラケットを抱け 】

 いかに巨匠といえども、さすがに現代の少年誌に登場するには限界を感じさせてしまう作品でした。「チャーシューメン」も違和感放ってましたし。

2007年7月 5日 (木)

廃藩置県―近代統一国家への苦悶

■ 書籍情報

>廃藩置県―近代統一国家への苦悶   【廃藩置県―近代統一国家への苦悶】(#896)

  松尾 正人
  価格: ¥720 (税込)
  中央公論社(1986/06)

 本書は、「廃藩置県にいたるまでの新政府とその周囲の変化を丹念に」追い、「廃藩クーデターをめぐる政府首脳の動き、および廃藩置県後に見られた各藩の反応について」描いたものです。
 第1章「新政権の成立」では、慶応4年(1868)閏4月21日に、新政府が、政体所を頒布し、「三職八局制にかわる新たな太政官制」を定め、地方制度は、「府・藩・県の三治」とした、「府藩県三治制」をとり、「それまでの裁判所や諸藩・旧代官などの仮管理にかえて、直轄地や府や県を設置」したことが解説されています。この時期の藩は、「府県と並ぶ地方機関と位置づけられ」、「五か条誓文を基軸においた藩政改革」を行うことが求められ、明治元年10月28日には、「藩治職制」が布告され、「ばらばらな各藩の職制の統一・体系化」が図られたことが解説されています。
 第2章「版籍奉還の実施」では、明治2年(1869)6月17日に「版籍奉還の奉請が勅許」され、「総計274藩に対しては、藩主をそれぞれ知藩事に任じている」ことが解説されています。その直後には、諸藩に「諸務変革11か条」が達せられ、11月までに「その改革の成果を提出するように命じた」ことが述べられています。
 第3章「集権化への歩み」では、「財政・外交両分野に強い力を持つ大隈のもとには、いわゆる開明派と称される若手の官僚が藩の壁を超えて結集した」として、伊藤博文や井上馨らの名が挙げられ、当時築地にあった大隈の屋敷は「豪傑の集まる梁山泊に擬され」、伊藤・井上らは「築地連」と呼ばれたことが述べられています。
 この時期の地方政策としては、集権的な統制を強めた「府県奉職規則」や「県官人員並常備金規則」などが布告されたことが解説されています。
 第4章「藩体制の動揺」では、明治3年には、「諸藩の中には藩体制の維持が困難となり、自ら廃藩を願い出るものも見られ」、「版籍奉還後、政府の進める府藩県三治一致政策の徹底化とあいまって、藩そのものの解体が顕著となった」と解説されています。
 政府は、3年9月には、「中・大藩に対しても、その残存する封建遣制をさまざまに規制しようと」して、「諸藩に対し、郡県制の基本理念に照応するような方向への改革を強く指示した」と述べられています。
 明治3年11月27日には、第1回国法会議が開催され、「日本の政体を君主政治にすることが決議」されるとともに、「行政・立法・司法の三権の役割」については、「フランス・ロシア・イギリス・アメリカ・オランダの議院制度が比較・検討」されていることが解説されています。この会議では、地方制度の在り方も検討され、「概して府県と藩の存在を既定のこととし、藩や県の飛地を廃してそれを本庁の地域にまとめるように提起。地方制度の名称については、州・郡・村とすることを掲げ」、「それまでの藩の権限を全く否定したのではなく、藩の名称を州に変える程度の改革」であると解説されています。
 第5章「藩力の結集」では、「同時期の政府にとって、鹿児島藩の不満を解消し、その藩力を吸収することが、集権化を進める上での最も困難で重大な課題となった」と解説しています。
 第6章「波乱の政局」では、明治4年2月に、「鹿児島・山口・高知三藩に対し、兵を徴して親兵として、兵部省に属させる」「親兵設置」について、「『尾大の弊』となっていた藩力を政府の側に取り込み、同時に三藩の余剰兵員を吸収して給養する」ものであったと解説しています。
 第7章「廃藩置県の断行」では、明治4年7月に、「中堅官僚層から『書生論』と称された廃藩置県を断行すべしとする突き上げ」が生じたことについて、その直接のきっかけを、山県有朋の屋敷における「野村靖と鳥尾小弥太の会話」を発端とするもので、2人が、「『天下の体勢』を論じているうちに、どうしても是ではいかぬ、封建を廃し、郡県の知を布かなければならぬ」という結論に至り、井上馨の屋敷を訪ねた二人が、「今日の話は聞いて呉れなければ頸を頂戴か差違へる歟の決心である」との「あまりの剣幕」で「国家の大事である」と井上に迫り、それに対して井上が笑顔で、「藩を廃して県を置くといふ議論だらう」と言い当てた故事が紹介されています。
 明治4年7月14日には、天皇が「今度藩を廃して県を置くことになったので、天下の大勢を察して勅意をくみ、翼賛すべし」との勅語を発したことが解説されています。
 第8章「廃藩置県の反響」では、「廃藩置県の断行は、維新の変革と開化がゆるやかであった地方の城下町では、まさに青天の霹靂であった」として、教師として滞在していたアメリカ人のグリフィスが見た福井の様子が紹介されています。グリフィスは、役人たちの「大方は顔が青ざめ、興奮していた」と描写し、彼らの中には「大股で玄関へ出て刀を帯に差し、下駄をはき、ゆるやかにたれた着物と絹羽織の裾を後ろへばたばたさせて急いで出て行く者がいた。その様子は全く芝居じみていて、日本の書物にある絵によく似てい」たと紹介されています。
 著者は、「藩から県への移行と旧藩知事の状況の結果、福井の町は大きく変わっていく」として、「福井は、32万石の城下町からただの内陸の一つの町にかわろうとしていた。城の外壁が倒され、堀の一部が埋められている。鎧兜、弓矢、槍、馬具などの古い封建時代の装備はすべて二束三文で売られた。旧藩知事の屋敷も取り壊され、残ったものが売却されている。福井には新たに福井県が設置され、県庁も開かれたが、かつての親藩城下町の面影は急速に変貌していった」と述べています。
 第9章「府県制の成立」では、「廃藩置県の断行は、特に危惧された騒乱を引き起こすような事態には至らず、その後、政府改革が再び主要な課題となった」として、明治4年7月29日の太政官職制について解説されています。
 そして、廃藩置県の結果として、「それまで政府直轄地に設置されていた府県とあわせて、3府302県が成立」し、「解職された旧藩知事は在京を命じられ新たな県の事務は、大参事以下の旧藩職員に引き続いて委任された」ことが解説されています。
 しかし、政府が、「旧藩勢力に対して」、「府県庁の人事ばかりでなく、その後の地方統治に当たってさまざまな顧慮と妥協を余儀なくされた」ことが解説されています。
 本書は、歴史の教科書では、1トピックとして年号を覚えるだけになってしまっている「廃藩置県」を取り巻く大きな歴史の流れを解説してくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 現在でも道州制が議論されていますが、廃藩置県の議論においても、本書で紹介されている「野村靖と鳥尾小弥太の会話」がその発端の一つとして紹介されているのが面白いです。もちろん、廃藩置県の議論は、多くの人間によって議論されていたものではあるのですが、それを進めたのが、2人の「書生論」とおバカな行動力であることに歴史の面白みを感じます。


■ どんな人にオススメ?

・「県」の誕生の瞬間を見たい人。


■ 関連しそうな本

 勝田 政治 『内務省と明治国家形成』 2007年02月16日
 大石 嘉一郎 『近代日本地方自治の歩み』 2007年06月12日
 渡辺 隆喜 『明治国家形成と地方自治』 2007年03月26日
 岡田 彰 『現代日本官僚制の成立―戦後占領期における行政制度の再編成』 2007年02月26日
 小森 治夫 『府県制と道州制』 2007年04月19日
 落合 弘樹 『秩禄処分―明治維新と武士のリストラ』 2005年05月19日


■ 百夜百マンガ

スーパーライダー【スーパーライダー 】

 小学生の頃、連載の途中から読んで、テンションの高さとストーリーの展開についていけませんでしたが、とりあえず恐かった気がします。それに比べて『火の玉ボーイ』はポップでした。

2007年7月 4日 (水)

女性校長の登用とキャリアに関する研究―戦前期から1980年代までの公立小学校を対象として

■ 書籍情報

女性校長の登用とキャリアに関する研究―戦前期から1980年代までの公立小学校を対象として   【女性校長の登用とキャリアに関する研究―戦前期から1980年代までの公立小学校を対象として】(#895)

  高野 良子
  価格: ¥8400 (税込)
  風間書房(2006/09)

 本書は、「戦前・戦後の女性公立小学校長の草創期から漸次的に女性校長数の拡大が進む1980年代までを4つに時期区分し、戦前、戦後の女性校長第一号と皇族の女性校長の登用とキャリア形成を中心に、資(史)料および聞き取り調査にもとづき、<教育ジェンダー>というフィルターを通して、女性校長の量的拡大家庭を歴史的に照射することを意図したもの」です。著者は、「2005(平成17)年度の女性公立小学校長の割合は18.2%に達しているが、各都府県に置ける戦前および戦後『初の女性公立小学校長』はいつ、どのようにして誕生したのであろうか。『管理職』という男性の聖域に足を踏み入れた先達はどのようなキャリアを辿り、パイオニアとしての役割をどう受容したのであろうか。また、後続の女性校長たちはキャリアをどのように形成したのであろうか」と、「女性教師ひいては女性の社会的地位に新分野を拓いた女性公立小学校長の登用とキャリア形成過程に焦点を」当てています。
 第1章「戦前期の女性校長の登用とキャリア」では、千葉県の女性校長第一号である、1902(明治35)年に27歳という年齢で校長に抜擢された「秋葉屋寿」を取り上げています。秋葉屋寿は、「当時、地方の学校では師範出身の女性教師は珍しかった上に、若くて美人だったので村では大評判になった」こと、初任時代の屋寿が、週末に印旛から実家のある市原まで颯爽と馬に乗って帰ってくる姿を見かけられていること、赴任した学校に、私財を投げ打ってで黒板やオルガンなどの教育器材を整備したことが紹介されています。
 そして、「全国初の女性小学校長は誰であったかを特定することは難しい作業である」が、「戦前期には少なくても14人の女性校長が全国に先駆者として存在していたこと」を明らかにしています。
 また、大正期移行の女性校長の登用は、全国的な女性教師数の増加を受ける形で女教員の組織化が進んだことと連動する形で進行したことが述べられています。
 第2章「戦後第I期女性校長第一号の登用とキャリア」では、「戦後女性公立小学校長第一号として登用された40都府県における女性校長68人に焦点化し、資(史)料および聞き取り調査にもとづき、<教育ジェンダー>というフィルターを通して女性校長第一号の任用状況と校長役割受容過程を歴史的に照射」しています。
 そして、戦後初の女性校長が、「GHQの占領政策の基本方針における一連の教育の民主化政策に導かれて、地方軍政部教育課の手により小学校を中心に各都府県1~2人が登用されていった」と述べ、第一号が、「少数の優秀な師範卒女性教師の中からさらに選抜されたエリートと言ってよい」としています。
 そして、使命感に燃えて赴任した第一号にとって、「校長としての日々は必ずしも平穏」ではなく、「この町は品川きってのドル箱ですよ、そこへ女をよこすなんて町を侮辱するのも甚だしい」という言葉を浴びせられたり、「県会議員の地元に夫人校長をおいていては、県会議員のコケンにかかわる。次の選挙の票が減る」という理由で降格させられたりした例が紹介されています。
 また、女性第一号校長たちが、「校長退任後も県や地域の教育リーダーや女性リーダーとなって地位の上昇を果たした者も少なくなかった」理由として、「校長経験が評価され、あるいは経験が買われたためであろう。各県の女性校長第一号は、パイオニアとしての使命感に燃え校長役割を受容し、役割を遂行することにより女性としての地位を向上させていった者が少なくなかったと言えよう」と述べています。
 さらに、戦後女性校長第一号たちが、「教頭経験がないまま地方軍政部教育局主導による『一本釣り人事』により任用されたのであるが、県によっては軍政部に配属されていた女性の教育担当者らによって学校経営が物心両面から支えられていた」として、「新潟・兵庫・千葉県におけるメーヤー、コレッティ、ホイットマンら女性の教育担当者の果たした功績は大きかった」と述べています。
 著者は、女性校長登用の歴史において、戦後第I期は、「マッカーサー・プレゼント」期と捉えられると述べ、戦後初の女性校長たちが、「『管理職は男性のもの』という固定的なジェンダー観念のベールを剥いだ、つまり教育の場におけるジェンダー革命の扉を開けた先達であった」と位置づけています。
 第3章「第II期女性校長の登用とキャリア」では、女性校長の数が右肩下がりに転じ、第二号・第三号が後続しなかったこの時期について、全国婦人校長会会長・退職女性校長会会長を務めた波頭夕子が、「同士よ弱らないで」と「誠実は奇跡を呼ぶ」とともに歩む女性校長に呼びかけた言葉が、2つの女性校長会の合言葉となり、現在においても、「現職女性校長を励まし続けている」ことが述べられています。
 著者は、第II期を、「占領政策あるいは民主化政策という後ろ盾を失うとともに、昭和20年代末からの逆コースの渦中」にあり、「この第II期は女性校長の新規登用はほとんどなく女性校長数は減少し、まさに『バックラッシュ』とも言える逆戻り期あるいは揺り戻し期として位置付く『女性校長冬の時代』と言ってよい」と述べています。
 第4章「第III期女性校長の登用とキャリア」では、1964年度から千教組婦人部長であった木村俊子が、女性登用の陣頭指揮を取る中で、ある支部書記長から「男の40歳代がひしめいているのに割り込むな」と叱られたが、「割り込む努力をしなければ婦人の昇進はむつかしかった」と語っていることを紹介しています。
 そして、「女性教師率の上昇が、女性管理職数の増加に効果的に作用した」として、「女性が小学校教育を男性とともに担っているという現実」が、「無理なく管理職に女性参入をもたらした」とともに、東京都(1966年)、千葉県(1968年)において、「女性管理職の登用を積極的に進める人事方針」が打ち出されたことで、「途絶えていた女性校長を復活させるとともに、数の増加にも大きく寄与した」と述べています。
 第5章「まとめ・結論と課題」では、女性校長第一号となった者の多くが、「女性の道を開いていく」という「パイオニアとしての使命感にもえ校長役割を受容した点」を明らかにしたことが述べられています。
 本書は、女性校長に焦点を当て、教育の世界におけるジェンダーを論じた一冊です。


■ 個人的な視点から

 本書に登場する戦前の女性校長、中でも、千葉県の第一号女性校長の「秋葉屋寿」氏のエピソードは、まるで映画や小説のようです。馬に乗って颯爽と赴任地に向かい、私財を使って黒板やオルガンを整える、27歳の師範学校卒の美人校長、ってやっぱり絵になりますね。


■ どんな人にオススメ?

・教育の場におけるジェンダーを考えたい人。


■ 関連しそうな本

 佐野 陽子, 志野 澄人, 嶋根 政充 (編著) 『ジェンダー・マネジメント―21世紀型男女共創企業に向けて』 2005年12月06日
 ロザベス・モス カンター (著), 高井 葉子 (翻訳) 『企業のなかの男と女―女性が増えれば職場が変わる』 2005年10月11日
 脇坂 明, 冨田 安信 (編集) 『大卒女性の働き方―女性が仕事をつづけるとき、やめるとき』 2006年05月02日
 赤岡 功, 長坂 寛, 渡辺 峻, 筒井 清子, 山岡 煕子 『男女共同参画と女性労働―新しい働き方の実現をめざして』 2005年09月08日
 大沢 真理 『男女共同参画社会をつくる』 2007年3月6日
 伊藤 公雄 『「男女共同参画」が問いかけるもの―現代日本社会とジェンダー・ポリティクス』 2007年05月19日


■ 百夜百マンガ

CYBERブルー【CYBERブルー 】

 やたらに「ファックユー」を連発する主人公もいただけませんでしたが、気合の入り方が明後日に向かってしまったSF大作にはなかなか子供たちはついてこないものです。

2007年7月 3日 (火)

サステナブル・コミュニティ・ネットワーク

■ 書籍情報

サステナブル・コミュニティ・ネットワーク   【サステナブル・コミュニティ・ネットワーク】(#894)

  大江 比呂子
  価格: ¥2310 (税込)
  日本地域社会研究所(2007/4)

 本書は、「地域崩壊の救済あるいは脱却、個々人の豊かな生活確保、地域コミュニティでの安全・安心・確実な生活確保のために、問題解決に役立つとされるソーシャルキャピタル論の本質を明らかにし、その理論の今日的有効性と問題点を整理することを目指」したものです。著者の研究スタンスは、「地域社会に存在する既存の社会インフラの潜在的機能に着目」したもので、ここでいう「社会インフラ」とは、「商店、コンビに、郵便局、銀行、市役所といった、地域社会における地域住民の日常生活にとって密接なサービスを提供する施設」であるとされています。
 そして、「ソーシャルキャピタルの本質を社会ネットワークの価値と位置付け、その活用を図ることの意義と有効性を確認する」とともに、「ネットワークモデルのパタンから、特に、情報伝播力に優れ、効率的で有効性が高いとされるスモールワールド型モデルに着目し、これを、実社会における人と人とのコミュニケーションに当てはめた場合の論点を整理」するとしています。
 第2章「ソーシャルキャピタルとは何か コミュニティ再生への特効薬か」では、ソーシャルキャピタルの類型として、Putnamによる、
(1)結束型:組織の内部における人と人との同質的な結びつき。
(2)橋渡し型:異なる組織間における異質な人や組織を結びつけるネットワーク。
の2つの類型を示しています。
 また、「企業活動は、社会的コンテクストに埋め込まれ、企業は自社が埋め込まれた社会的、専門的かつ交換のネットワークの中で他の組織化された主体者たちと関係を結ぶ」とする「埋め込み」アプローチについて、「個人や組織間での社会的ネットワークが持っている関係と構造の特性が、ネットワーク構成員間の信頼関係の発展・減退に影響するが、その影響は、(1)その関係の強さである紐帯強度、(2)構造特性からもたらされる情報や資源の流通構造の形態特性、の2局面を通じて派生すると論じる」ものであると解説しています。
 著者は、「ソーシャルキャピタル論とは社会ネットワーク論にほかならず、その研究に当たっては、社会ネットワーク分析の視点が有効性を発揮することを確認するとともに、複数の論点の抽出を行ってきた」と述べ、その代表的な論点を、
(1)ネットワークは弱い紐帯がいいのか、強い紐帯がいいのか。
(2)ネットワークは閉鎖型がいいのか、開放型がいいのか。
(3)重要なのは、埋め込まれた資源か、ネットワークの位置か。
(4)そもそもソーシャルキャピタルの機能は何か。いかに補足するのか。
の4点に集約しています。
 第3章「女性キャリア群のヒューマンネットワーク分析」では、「女性キャリア群の同質的・非公式なヒューマンネットワーク」を研究対象として取り上げ、「インターネット上及びそこから派生した対面方式のフォーラム活動の双方に参加した経験を持つサンプルを対象」にアンケートを行っています。
 そして、ネットワーク構成員が、「自らは自立しており、他人に依存したり、助けを借りることは潔しとしないながらも、似たもの同士=同質的なメンバーで凝集することを好んでいる傾向がうかがえるのと同時に、ネットワークから何らかの情報を獲得しうるとする機能とその価値を認識しており、特に経験者や人生の先輩格から得られる新規情報を貴重なものと位置づけている」ことについて、「現時点では持ち合わせていない情報へのアクセスを可能とするネットワークの『道具的』リターンの典型的パタンともいえよう」と述べています。
 著者は、「今回分析対象とした回答者群において、社会ネットワークの橋渡し機能の友好性について、彼女たちがこれを認知し、評価し、積極的に活用する明確な意志を持っていることが明らかとなったことは、社会ネットワークの機能に大いに期待することができ、これを活用していくべきとの示唆を与えてくれるもの」ではないかと述べています。
 第4章「地域社会における社会インフラの潜在的機能」では、「社会インフラの潜在的機能を地域社会の活性化問題に照らして考察した後、地域住民を対象に実施したアンケート調査結果から、住民は、スモールワールド型の情報流通の実態において、特に、社会インフラの本来業務面にとどまらない、外延的・付随的な情報交流上のconnectorとしてのカタリスト(触媒)機能を発揮している点を認知し、また評価しているとの仮説」を検証しています。
 そして、「わが国のコミュニティにおいて住民生活に密着したサービスを提供している8つの社会インフラ」として、商店、コンビニ、病院・診療所、郵便局、銀行・出張所・信金等、市役所・区役所・町役場、交番、消防署・分団署に対する利用者の評価視点を分析することを通じ、「それら社会インフラが果たしうる潜在的情報流通促進機能」について論じ、それにあたって、「各インフラの本来業務にとどまらない外延的機能が、人々の相互間の情報流通や信頼感の情勢、ひいては自己実現や自己確認に役立ち、ネットワークを通じた情報入手において社会インフラが発揮しているこれら潜在的機能は、ネットワークメンバーに明確に評価されているとの仮説」を立てています。
 その結果、「特に、郵便局について考えてみる」として、郵便局が、「郵便事業、為替・貯金事業、そして簡易保険事業という郵政三事業を担う社会インフラ=サービス拠点と位置づけられる」と述べ、「実際の地域住民は、そうした本来業務面の評価を包含する形で、『親近感』と『信頼度』に加え、当該拠点における顧客間、あるいは郵便局の局長以下の職員(カウンターにいる職員たちを含め)との関係性において、何らかのコミュニケーションがなされ、また、そのことを評価し、認識しているといえそうである」と述べています。
 著者は、「社会ネットワークにおける情報流通上のハブ機能を発揮し、人々の相互関係や信頼感の醸成において重要なカタリスト的機能を発揮しうる既存の社会インフラについては、効率化や経費節減といった政策的命題の下、地域社会の構造改革の一環として、その統廃合が当然のように論じられている」現状に対し疑問を呈しています。
 第5章「わが国コミュニティにおける社会ネットワーク」では、「コミュニティネットワークにおけるノードとしてのハードの社会インフラが、ソフトとしてのネットワークの結びつき、すなわち、社会ネットワークの活性化と機能向上に寄与しうるとの仮説」のもと、「ネットワークの結合(bonding)と橋渡し(bridging)の両面に渡るネットワーク機能を強化・向上する上での社会インフラの潜在的機能面」について、「米国ハーバード大学が開発したベンチマークサーベイの枠組みである『SCCB調査』の体系」を採用したアンケートによる検証を行っています。
 そして、「これまでコミュニティガバナンスを巡る議論においては、ほとんど考察の対象とされてい来なかった、地域における主要なアクターとしての既存の社会インフラ施設(郵便局、商店、役所、金融機関等)が、社会ネットワークにおけるノードとして、住民間の相互作用、関係的コミットメントや関係的信頼の醸成を促進し、また強化し、それぞれが持つ本来業務に付随する外延的機能として、相互作用の『場』としての潜在性を秘めていること、また、地域住民は、実際これを認知し、期待してもいる」との仮説が「ほぼ実証できた」と述べています。
 さらに、「ソーシャルキャピタル醸成上の機能発揮に照らしてコミュニケーション様式の一つである手紙の意義を再認識し、捉えなおすことは、時代の要請であるようにも考えられる」と述べています。
 著者は、社会的インフラが持ち合わせる政策的な意義が増加するなか、「こうした一定のアクター自体の再評価を精力的に行うことは、今日、経済的効率化の見地から推進されている規制緩和やネットワーク縮減といった課題に直面するとき、社会ネットワークの活用と信頼醸成における重要な視点を、われわれに提起してくれるとも考えられる」と述べています。
 第6章「社会ネットワークの活用と地域の活性化」では、「弱者の社会ネットワークからの疎外、すなわち金融排除、問題に代表される社会排除問題への対処や地域活性化という視軸から、それへの政策的対抗策におけるネットワーク活用の実態と効果に関する定性的分析」を行っています。
 そして、英国において、地域が荒廃した結果、「金融サービスからの疎外」(financial excusion)という状況が現出し、こうした状況に対処するため、積極的な政府の施策展開や民間金融機関の関与が展開されてきたことを紹介しています。
 また、バングラディシュにおいて、「貧者の銀行」として1983年に創設された「グラミン銀行」に関して、そのマイクロファイナンスをソーシャルキャピタルの2類型に照らし、「『結束型』結節におけるアクター間の凝集性と固定性をベースに、そこでの各社の能力に関する評判情報の流通を通じ、能力に対する期待を高めつつ、関係者の行動の監視装置としてネットワーク自体が機能することで、構成員全体の行動への計算可能性が高まる効果を活用したシステムと位置づけることができる」と解説しています。
 第7章「社会ネットワークにおけるコミュニティ再生の可能性」では、本書が、「輻輳し錯綜するソーシャルキャピタルの議論を理論的に整理し、その本質を、社会ネットワークと位置付け、それが、地域社会の安定化、活性化を果たす上で、重要かつ有効な機能を発揮することの検証」を試みたものであることを解説しています。
 そして、「地域住民に信頼され、利用されてきた社会ネットワークのアクターとしての郵便局にしかできないような固有のマーケティング行為が、実は、地域秩序の形成・保全にも大きく後見してきたことを再認識する機会としたい」と述べ、「郵便局の『場』としての機能と、主に、集配職員の存在や公共空間としての郵便局サービスの『準公共財』としての機能面に着目すべき」とする辻本の論説を紹介しています。
 著者は、郵便局を、「その本来の業務以外に、社会的・地域的に非常に重要な役割を担う、国民共有の重要かつ稀有な資産である」と述べ、「社会ネットワークにおけるキーアクターとして、また関係者間の相互交流を促進し、信頼醸成上のカタリスト機能を発揮する機能をも射程に捉えるならば、その存在意義と、これに対する地域住民の支持を受け、今後、民営化による市場競争にさらされる中にあっても、当該地域への進化地創造・付加という作業を通じ、果敢に生成発展していく道を模索するべきであろう」と述べています。
 本書は、ソーシャルキャピタルについて、社会ネットワーク論の観点からの整理が有用な一冊です。


■ 個人的な視点から

 著者は、郵便局長の経験もある郵政キャリア官僚で、出版当時は、郵政総合研究所プロジェクト研究部長という肩書きをお持ちです。そのため、本書の事例の多くが郵便局を扱ったものであったらい、郵便局ネットワークの維持を後押しするような内容のものとなっています。
 農林水産省が、「農業の多面的機能」、「水産業の多面的機能」ということを前面に出してきていますが、これに倣えば、「郵便局の多面的機能」ということになるのでしょうか。
 本書の研究自体が、著者のこれまでの研究実績、すなわち郵政官僚として積み重ねた研究と経験に裏打ちされているものであり、スポンサーの意向が反映されたものになることは仕方ないですが、あまりにも郵便局の重要性ばかりをヨイショしすぎた牽強付会とも取れる展開は、せっかくネットワーク理論でコミュニティを分析するという面白いアプローチの魅力を削いでしまっているのではないかと思います。


■ どんな人にオススメ?

・地域における社会ネットワークの役割を考えたい人。
・郵便局を守りたい人。


■ 関連しそうな本

 西口 敏宏 『遠距離交際と近所づきあい 成功する組織ネットワーク戦略』 2007年07月02日
 ダンカン ワッツ (著), 辻 竜平, 友知 政樹 (翻訳) 『スモールワールド・ネットワーク―世界を知るための新科学的思考法』 2005年09月28日
 ダンカン ワッツ (著), Duncan J. Watts (原著), 栗原 聡, 福田 健介, 佐藤 進也 (翻訳) 『スモールワールド―ネットワークの構造とダイナミクス』 2006年03月22日
 ウェイン ベーカー (著), 中島 豊 (翻訳) 『ソーシャル・キャピタル―人と組織の間にある「見えざる資産」を活用する』 2007年06月27日
 ロバート・D. パットナム (著), 河田 潤一 (翻訳) 『哲学する民主主義―伝統と改革の市民的構造』 2005年03月03日
 ロバート・D. パットナム 『孤独なボウリング―米国コミュニティの崩壊と再生』 2006年08月28日


■ 百夜百マンガ

はなしっぱなし【はなしっぱなし 】

 この人の描く森は恐い。そこには何か戻って来れなくなる世界を感じさせます。
 そういえば、今日は遠野の市長さんにお会いしました。

2007年7月 2日 (月)

遠距離交際と近所づきあい 成功する組織ネットワーク戦略

■ 書籍情報

遠距離交際と近所づきあい 成功する組織ネットワーク戦略   【遠距離交際と近所づきあい 成功する組織ネットワーク戦略】(#893)

  西口 敏宏
  価格: ¥2940 (税込)
  NTT出版(2007/1/25)

 本書は、「最新のネットワーク理論を用いて、企業のサプライチェーン、地域を核とする経済ネットワーク、さらに、政府調達を中心とした政府の改革を含むさまざまな社会経済現象を、新しい視点から解明すること」を目的としたものです。
 第1章「スモールワールド」では、中国の最貧地域の港町であった浙江省の温州人が、「ただ生き延びるため」に頻繁に外に出て、欧州を中心に海外に40万人のネットワークを築き上げ、反映を謳歌していることを紹介し、「どの結節点にもピンポイントで中枢を特定することのできない、分散したトポロジー(topology, 結節点同士の繋がり方の構造)を持つ『ネットセントリック(netcentric)』」な「温州『外出人』ネットワークは、歴史の偶発性のなかで創発し、人々の想像力をかき立てたのである」と述べています。
 そして、「温州現象をよく説明する理論」として、「米国で今評判の、グラフセオリー(万物の関係を点と線で表す数学理論)を用いた、ダンカン・ワッツの『スモール・ワールド』・ネットワーク」を紹介し、規則的に点同士が接続されたネットワークの一部をランダムにつなぎ直すことで、「一部のランダム接続による『遠距離交(long-destance relations, 筆者の用語)』によって、通常流れにくい情報が、直接結びついた点の間に一挙に流れる。しかも、その近隣の諸点にも遠くの情報が伝わる『近接効果(neighboehood effects, 筆者の用語)』が生じ、ネットワーク全体が著しく活性化する」という「全体経路の短縮」について解説しています。
 また、「大切なのは人や組織との繋がり方とリワイヤリングである」という本章の知見として、
(1)トポロジーの重要性
(2)トポロジーの可変性
(3)ロバスト(robust, 頑健)なトポロジーの典型としての、スモールワールド・ネットワーク
(4)このモデルの幅広い応用性
(5)人の認知限界と資源の制約を超える反映の秘訣は、ネットワークのスモールワールド化にあるという教訓
の5点を挙げ、「汎用性のあるヒントとなり、失われた十数年を経た日本経済の再生にも役立とう。そして、あなたの人生行路を構造的に理解することによって身近な生活圏を変えるばかりでなく、企業や国家の戦略策定や再編にも有用な概念的ツールを与えるに違いない」と述べています。
 著者は、「反映や成功は、運や個別の能力をはるかに超えて、構造的要因によってもたらされる部分が大きいのである」と述べています。
 第2章「ネットセントリック時代の幕開け」では、1998年に米海軍のセブロウスキー中将が打ち出した「ネットセントリック戦争(netcentric warfare)」について、「環境のランダムな変化に対して、結節点(ノード、node)間での、リアルタイム(共時)の情報共有とリワイヤリング(rewirinf, 情報伝達経路のつなぎ直し)を通して、たえず適応していく戦争様式」であると解説しています。この「ネットセントリック戦略」のアプローチと、スモールワールド・ネットワーク・モデルの知見から、「あるネットワークが、有効に機能するためには、その結節転換のつながりの全体経路を定義づける、トポロジー(結節点同士の繋がり方の構造)が重要だ」という帰結がえられると述べています。
 著者は、「今、我々は、意思決定や活動の『中心』が特定の一転ではなくネットワークそのものにあるとする、『ネットセントリック』時代の幕開けを迎えている。本来、パワーが分散し、中心部がないのがネットワークであるはずなのに、分散構造が中心そのものだとする、一見矛盾するこの考え方」が、「現代の戦争様式ばかりでなく、企業や国家の戦略再編の鍵を握ると考えられている」と解説しています。
 第3章「サプライチェーンのトポロジーを変えよ」では、自動車生産のサプライチェーンを例に、「数多くの企業が関わる複雑なオペレーションのマネジメント」を、「スモールワールド・ネットワーク論を用いて、トポロジカル(結節点同士のつながり型の構造的)」に分析し、そのポイントとして、
(1)日常的に、中央発の細かい指示なしに、いかにシステム全体を効率よく運営するか。
(2)火災事故などの緊急事態に対しても、いかに臨機応変に対応して、システム全体のロバストネル(頑健さ)を保つか。
の2点を挙げています。
 そして、サプライヤーの視点からサプライヤー・ネットワークを見ることで、「従来に、日本では、トップ企業1社の観点から描いた『ピラミッド構造』の実を示すことが多かったが、各サプライヤーが取引する全カスタマーを視野に入れて全体像を描きなおしてみる」と、「高い峰々を構成する、複数のトップ企業と複雑につながる『アルプス構造』」を持っていることが分かると述べています。
 また、自動車のサプライチェーンにおいて、「そのすべての工程、すべての要因、あらゆる部署と組織が、さまざまなレベルにおいて、『サプライヤー・カスタマー(供給者・顧客)関係』で、ロシア人形マトリョーシカのように『入れ子状に(nested)」連鎖している」と述べ、このようなメカニズムを「トヨティズムの本質」と捉え、「自己相似的(self-similar)な『フラクタル連鎖デザイン(fractal link design)』と呼ぶ」と述べています。そして、このフラクタル連鎖の効能として、
(1)成員に、互いの仕事の「関係性を理解」させる。
(2)2つの対極的なものの見方を理解し、その対立点や矛盾を克服する能力を持った成員が増えると、組織における問題解決のスピードが早まる。
(3)フラクタル連鎖で結ばれた全体のシステムは、「打てば響く」ような、「免疫システム」として機能する。
(4)市場の淘汰の圧力を組織内に「引き込み」、「擬似市場」的な機能を組織内に浸透させる。
(5)人の「認知限界の克服」と、システムの「複雑さの縮減」に貢献する。
(6)「カイゼン」活動を通じた、組織の「後生的進化」を促進する。
の6点を挙げています。
 第4章「奇跡を生み出すネットワーク・パワー」では、1997年2月1日に起こったアイシン精機刈谷第一工場における火災によって、アイシン精機が生産し、トヨタ生産のほぼすべての車に装着されていたPバルブの生産がストップした事故の例を取り上げ、「緊急時にも、ネットワークを有効に再生し、機能させるためには、平時からの、企業グループ全体の問題解決への取り組みと、絶え間ない業務の改善によって、潜在能力が関係車間に共有され、蓄積していることが必要である」ことを解説しています。
 そして、「自主権を通じて」、「力量と影響力のあるサプライヤー同士が日頃から専門領域を超えた『遠距離交際』をしており、スモールワールド(小世界)・ネットワークを形成していた」ために、火災事故によるシステム全体への動揺に対し、「わずかな労力で比較的容易に数本のリワイヤリングを行うことができ、そうでないシステムに比べて、はるかに安いコストで、必要な機会を探り当て、緊急に技術情報を入手して問題解決し、また、同じ知識を多くの協力者に普及させることができた」と解説しています。
 著者は、「日常業務の相互作用から、深くサプライヤーの間に、『ネットセントリック(netcentric)』(ネットワーク全般に中心があるかのよう)に浸透している生産哲学と慣行、そして、それを支える分散したトポロジーにおいて共有され、各サプライヤーに蓄積された潜在能力は、緊急時において全く遜色ないどころか、まさにそこにおいてこそ、全面的に発現し、グループ全体の問題解決能力をさらに強固にするのを助ける」と述べています。
 第5章「遠距離交際と近所づきあいのネットワーク」では、「近年世界的な注目を浴びている『ケンブリッジ現象(Cambridge Phenomenon)』に焦点を当て、そこにおける新しい協業形態を詳しく検討することによって、成功の背後にある傾向を分析し、わが国の中小企業、地域経済、さらに日本経済の再活性化へのヘヒントを探る」としています。
 そして、「ネットワーク参加から派生する企業価値の源泉を理解するため」、
(1)近所づきあいのネットワーク・レント
(2)遠距離交際のネットワーク・レント
の2つの異なる「レント(rent, 利得)」をモデル化し、ネットワークに参加してレントを得ているとする各主体が、具体的な効果として挙げた、
(1)社会的埋め込み(social embeddedness)
(2)情報共有と学習(information sharing and leaning)
(3)中央の公式調整(central and formal cordinarion)
(4)評判(reputation)
という4種類の効果について解説しています。
 第6章「スモールワールド組織と活性化」では、「近年、多くの企業で見られる部門横断型プロジェクトチーム」を、「スモールワールドの典型」であるとして、「科学技術の著しい進展と複雑さの増大により、『共時的』、すなわち時間を共有しながら並存している状態と、『継時的』、つまり、過去、現在、未来という、時間のタテ軸の継続性を考慮した状態、の2つの次元で、曖昧さと不可知性が増している」が、「部門横断型プロジェクトチームによるスモールワールド化は、そのような問題を克服する助けとなる」と述べています。
 第7章「スマート・プラクティス政府の時代」では、スマート・プラクティス政府の発想法が、従来の政府観と根本的に異なる点として、
(1)「要求プッシュからニーズ・プル」へ、「統制から触媒へ」が基本である。
(2)理念、制度、手法の多くは、民間から取り入れている。
(3)民主国家において、スマート・プラクティス政府化の流れは不可逆的であり、一国の盛衰と国民の幸福は、その速さと深さに左右される。
の3点が上げられています。
 そして、こうした点は、特に英米圏や北欧で発達してきたニュー・パブリック・マネジメントが主張する改革の力点と一致し、「カスタマーである国民の自由な発意と企業家精神を支えるというミッション(国家の使命)を達成するために、インセンティブ(誘因)をうまく織り込んだ政策を進める、『触媒政府』としての役割が大切なのである」と述べています。
 第8章「目に見えないシステムを改善する」では、「その守秘的な性格から、このような改革にはなじまないと思われてきた防衛調達でさえ、もはや聖域ではなくなった」として、「英国政府が1998年に公式に開始した、『スマート・プロキュアメント・イニシアティブ(smart procurement initiative, SPI、賢明な調達方針)』」の例を挙げています。
 著者は、英防衛調達改革の証拠が、「単に民間の優れた刊行の政府事業への応用といった次元を越えて、より一般的な」含意を含んでいるとして、
(1)ニーズに応じた「サービスの束」を獲得するには、官も民もなく、単純化していえば、「ニーズ・プル」に基づく賢い対応と、「組織プッシュ」に基づくまずい対応がある、ということである。
(2)こうした進化が、カスタマー概念を、ものから抽象的な「関係性の束」に昇華させることによって、著しく促進されることがわかった。
(3)このカスタマー概念の解放は、20世紀の社会システム論における認識の転換と、無関係ではないことが示唆された。
(4)その多くがサプライヤー・カスタマー関係の連鎖である組織間関係においては、伝統的な階層構造に変わって、組織間の浸透性を高める別種のインターフェースが有効なことが示唆された。
の4点を挙げています。
 第9章「よりよい政府を求めて」では、「防衛調達過払い事件」の根本原因として、
(1)防衛庁内部の縦割り組織間のトポロジーのまずさ。
(2)カスタマー(防衛庁)側において、防衛装備品の開発から納入、維持、廃棄に至るプロセスを一貫して責任を持って管理する組織も制度も制度も、いっさいなかった。
(3)カスタマー(防衛庁)とサプライヤー(契約企業)間の関係のまずさと、それに起因する、著しい情報の非対称性。
(4)特殊な専門技術分野では、日本中、あるいは、ひょっとすると世界中で1社しか特定の部品やソフトウェアを供給できない状況が、防衛調達では起こり売るため、カスタマーとサプライヤーの希少性による、1対1の人質関係、つまりロック・イン現象が存在する。
の4点を上げています。
 著者は、防衛庁がなすべき施策として、「問題解決に当たって、うわべの現象面だけの対処料ではなく、根本原因にまでさかのぼって問題を根治せよ、その次元で問題の真の原因を根本から摘み取ってしまえば、もう二度と同じ問題は起こらない」とする「源流方式」の導入を主張しています。
 第10章「改革は始まった」では、「米国、英国、フランスの例を参考にしながら、防衛庁が真剣に考慮すべき具体的なポイント」を解説しています。
 そして、「トヨタに代表されるような民間の主査制度を徹底的に学び、また、米加英仏独スウェーデンの統合プロジェクトチーム制度を参考としつつ、それらの有効な転用方法を考えることが必須」であると述べています。
 また、「官庁特有の制約を超えて、防衛庁の良識は幹部たち」が、「長年にわたり調達改革への取り組みを辛抱強く続け、庁内の意見調整に努めていた」ことを紹介し、「こうした彼らの動きが、それまで改革意識が乏しかった各組織の末端にまでその必要性の認識を浸透させるきっかけとなり、庁内コンセンサス形成の土壌となった」と述べ、「各部署に散った良識派の人数は少なくても、彼らが行うリワイヤリングがもたらす『近接効果』によって、そうでなければずっと遮断されていたであろう変革を促すクリティカルな情報がそれぞれちょっきんの部署に伝わり、心理的に、改革を受け入れる準備が整いつつあったのではないか」と想定しています。
 第11章「ネットワーク思考が未来を開く」では、「本書が論じた以上のような新しい『ネットワーク思考』は、確実にあなたの将来を切り開くのに役立つであろう。どこにも意志決定や活動の中心をピンポイントで特定することのできない『ネットセントリック』な時代が、今、我々の目の前に到来している」と述べています。
 そして、「2つの大切な問題」として、
(1)社会ネットワークをうまく駆動するために不可欠な 「信頼」はどこからくるのか。
(2)個人や組織のチャンスを拡大し、繁栄をもたらすネットワークのリワイヤリングのしやすさ、あるいは難しさは、どこからくるのか。
の2点を挙げています。
 著者は、「我々の目指すのは、もはや、意思も感情も方向性もないノード同士をコンピューター上で結びつけて得られる単純なグラフや数式ではない。そういった座学の知見は、ある意味で、すでに出尽くしている感がある」と述べた上で、「人の認知限界を超えた複雑な『社会ネットワーク』を成功裏に運営する秘訣は、『近所づきあい』を自己相似的なフラクタル連鎖でつなぐ一方で、適度にランダムなリワイヤリングによって『遠距離交際』をそこに織り込み、システム全体を『スモールワールド』化して、両者の良いとこ取りをすることである。そして、これを支えるのが、信頼関係の土台となるソーシャル・キャピタルであり、構造的なリワイヤリングのしやすさなのである」と述べています。
 本書は、サプライヤー・カスタマー関係という産業組織論の古典的なテーマ、地に足を着けた研究をベースに、 「最新」のネットワーク理論を用いた再解釈を加えた良書ではないかと思います。


■ 個人的な視点から

 本書のもったいないところは、タイトルからは何の本か分からない点です。確かに「遠距離交際」と「近所づきあい」というコンセプトは面白いと思うのですが、こうやってタイトルとして並べられると、普通の社会学の類の本だと思ってしまいます。実際に社会学のコーナー(分類361.3)に分類されてしまってますし。優れた組織論の本として、経営学(分類336あたり)のコーナーに並ぶようなタイトルになっていれば、もっと読む人も増えるんじゃないかと思います。


■ どんな人にオススメ?

・繁栄している組織の理由を知りたい人。


■ 関連しそうな本

 ダンカン ワッツ (著), 辻 竜平, 友知 政樹 (翻訳) 『スモールワールド・ネットワーク―世界を知るための新科学的思考法』 2005年09月28日
 ダンカン ワッツ (著), Duncan J. Watts (原著), 栗原 聡, 福田 健介, 佐藤 進也 (翻訳) 『スモールワールド―ネットワークの構造とダイナミクス』 2006年03月22日
 ウェイン ベーカー (著), 中島 豊 (翻訳) 『ソーシャル・キャピタル―人と組織の間にある「見えざる資産」を活用する』 2007年06月27日
 ドン コーエン (著), ローレンス プルサック (著), 沢崎 冬日 (翻訳) 『人と人の「つながり」に投資する企業―ソーシャル・キャピタルが信頼を育む』 2005年12月19日
 増田 直紀, 今野 紀雄 『複雑ネットワークの科学』 2005年11月18日
 アルバート・ラズロ・バラバシ (著), 青木 薫 (翻訳) 『新ネットワーク思考―世界のしくみを読み解く』 2005年10月24日


■ 百夜百マンガ

プレイボール【プレイボール 】

 テレビアニメにもなった「キャプテン」の続編。現在のジャンプの続編ブームと比べて、当時、完成された世界観を持つ作品の続編を作るということに、いかに真摯に取り組んでいたかがわかる作品です。

2007年7月 1日 (日)

祖先の物語 ~ドーキンスの生命史~ 下

■ 書籍情報

祖先の物語 ~ドーキンスの生命史~ 下   【祖先の物語 ~ドーキンスの生命史~ 下】(#892)

  リチャード・ドーキンス (著), 垂水 雄二 (翻訳)
  価格: ¥3360 (税込)
  小学館(2006/8/31)

 本書は、『利己的な遺伝子』の著者として知られる進化生物学者による、生物の進化の歴史書の上下巻ものの下巻です。
 「ランデヴー19 シーラカンス」では、「恐竜より前に絶滅したと考えられていた」シーラカンスが、1938年に南アフリカのトロール漁船の獲物の中に生きたシーラカンスが見つかり、その船長が「イースト・ロンドン博物館の情熱的な若い学芸員」だったマージョリー・コートネシ・ラティマーと懇意だったことからこの「生きた化石」が発見されたことが述べられています。彼女からそのスケッチを送られた南アフリカの魚類学者J.L.B.スミス博士は、「恐竜が通りを歩いているの見たとしても、これほどは驚かなかっただろう」と仰天したことが紹介されています。
 「ランデヴー21 条鱗類」では、歴史的制約の一例として、「ジェットエンジン効果」について、「もしジェットエンジンを、製図版の上で一から設計してゆく代わりに、プロペラエンジンから、一段階ずつ、ネジ一つずつ、リベット一つずつ置き換えていかなければならなかったとしたら、それがどんなに不完全なものになったかを想像してみてほしい」と述べ、エイ類が、「そうなるように製図版の上で設計されたかのような平らな魚で、腹を下にして両側に左右対称に伸びる幅広い『翼』をもっている」のに対し、カレイやヒラメなどの硬骨魚類の平らな魚が、体の一方の側のどちらかを下にしたため、「下側の目は上に持ってこないと見えないので、そのため頭骨全体の形は歪むことになる」、「いかなる製図版の基準からしても、彼らは明らかに不完全である。彼らの持つ不完全さは設計されたものではなく、まさしく進化してきたものにこそ、予測できる類のものなのである」と述べています。
 「ランデヴー22 ヤツメウナギとメクラウナギ」では、このランデヴー22が、「ここから初めて、すべての脊椎動物が一つの巡礼団としてまとまる」という「重要な里程標である」とした上で、脊椎動物と無脊椎動物という伝統的な区分が、「便利な区分として、この区別は常に実践的に有用だった」が、「厳密な分岐論的視点からすれば、脊椎動物/無脊椎動物の区別は奇妙なもので、古代ユダヤ人が人類を自分たちと「非ユダヤ人」(文字通りユダヤ人以外のすべての人間)に分類したのとほとんど同じくらい不自然である」と述べています。
 「ランデヴー26 旧口動物」では、このランデヴーを、「これまでで最大のもので、一回のランデヴーというよりはむしろ巡礼者たちの巨大な再結集である」と述べ、「旧口動物は、最大の種数を誇る門を含めて、新口動物よりもはるかに多数の門を持っている」と解説しています。
 また、「品種(race)」という明確に定義されていない言葉に関して、「人類が(比較的)最近になってアフリカから世界中に向けて離散したことによって、私たちに、まれに見るほど多様な生息環境、機構、および生活様式がもたらされることになった」ため、「異なった生活条件が強力な淘汰圧を及ぼし、特に、皮膚のように、太陽の光と寒さの矢面に立つ、外から見える部分に淘汰がかかったということは充分に考えられる」と述べ、「理論的には、これで、私たちの内部の類似性を覆い隠す外見の目に見える変異を完全に説明できる」としながらも、「変異にたやすく気づかせ、自分の同類を他のものから区別させるそうした遺伝子の、不釣合いに大きな変異を説明するような特別な理由」として、「私たちの婚姻の決断が文化的影響に非常に強く影響され、また私たちの文化が、時には宗教が、とりわけ配偶者の選択において部外者を差別するように後押しするので、私たちの祖先が部外者よりも内部の人間を優先することに役立ったそうした外的な差異は、私たちの間の真の遺伝的差異と全く桁外れなところまで増幅させられてきたのだ」と推測しています。著者は、「人類文化」が、「過去において、私たちの遺伝的性質に非常に奇妙なことを行ってきた」、すなわち、「遺伝子の全体を考慮に入れるならば、私たちは極めて均質な種であるにもかかわらず、瑣末であるがよく目につく外面的な特徴(識別の素材)においては驚くほど変異に富んでいるのである」と述べ、「この識別は、単に配偶者選択だけに適用されるのではなく、敵や外国人嫌いの犠牲者の選択、あるいは宗教的偏見にも適用されるだろう」と解説しています。
 さらに、「もし現代の動物学が、何か本格的な起源神話に近いものを認めるとすれば、それはカンブリア紀の大爆発である」と述べ、「カンブリア紀以降、多細胞生物の多少とも私たち自身の前兆である可能性の高いおびただしい動物たちが存在するようになった。大爆発という比喩的表現をうながすのは、カンブリア期の初めに多細胞生物の化石が表れた、そのあまりの突然さである」と述べています。
 著者は、「一般に、時間を過去にさかのぼり、化石の供給が先細りになるにつれて、私たちはほとんど完全な推測の領域に入る」としながらも、「澄江(チェンジャン)やその他の同様な地層からの目のくらむような化石群は、補正可能な地点の範囲を、動物界のこれまで立ち入ることができなかった領域まで拡張してくれるかもしれない」と将来の研究への期待を表明しています。
 「ランデヴー29 有櫛動物」では、有櫛動物を、「あらゆる動物巡礼者なかで最も美しいものの一つである」と述べ、「『櫛』とは毛のように突き出た繊毛の列であり、それを波打たせることで、表面的に似ているクラゲ類が筋肉の脈動でやっていることの代わりをさせて、この繊細な生き物を推進させる」と解説しています。
 「ランデヴー31 カイメン類」では、「時々、カイメンが植物ではなく動物であることを教わって、驚く人がいる」として、「植物と同じように、彼らは動かない。何と、彼らは体のどこも動かさないのだ。植物もカイメンも筋肉を持たない」、「カイメンは体の中をたえず水が流れていくようにし、そこから食物の粒子をこし取ることによって生きている」と解説しています。
 「ランデヴー34 菌類」では、「菌類は合流してくる巡礼団の中で、非常に大きく重要なもので、総計150万種と推定されるうち、これまで6万90000種が記載されている」と述べています。
 また、「感動的とさえ言える共生的な協力の離れ業として、担子菌類および(これもまた独立に進化した)子嚢菌類は、藻類またはシアノバクテリアと連合して地衣類をつくりだす。この驚くべき連合体は、それぞれのパートナーが単独でできるよりはるかに大きなことを成し遂げることができる」と述べた上で、「地衣類がとりわけ私を魅了するのは、その表現系(<ビーバーの物語>を参照)がまるで菌類に似ていないということである(実は藻類にも似ていない)。彼らは、二組の遺伝子産物の共同作業によって作り出された、非常に特殊な種類の『延長された表現系』を構成しているのである。私の生命観においては、そのような共同作業は、一個体の生物『自身』の遺伝子同士の共同作業と原理的に異なるものではない。私たちはみな、遺伝子(自らの表現系を織り上げるために協力し合う遺伝子たち)の共生的なコロニーなのである」と著者の生命観を表明しています。
 「ランデヴー36 植物」では、「植物は、ほとんどすべての食物連鎖において、その基部に、まさしく不可欠な基礎として位置している」と述べた上で、「地球上にこれまで生息したことのある生物の中で、ずば抜けて大きいのが植物であり、世界の生物体量(バイオマス)の圧倒的なパーセントが植物体に閉じ込められている」と述べています。
 「歴史的大ランデヴー」では、「激変をもたらすような出来事、生命の歴史において、ほぼ間違いなくもっとも決定的と思われる出来事」として、「本物の前向きの(時代を下る)歴史において、現実に起こった文字通りの歴史的なランデヴーである」、「(核をもつ)真核細胞の起源」を挙げ、「真核細胞は、この地球上の大きな体を持つ複雑なすべての生物のミクロの基礎をなすハイテク・ミニチュア機械である」と解説しています。
 そして、「かつて自由生活をしていた最近を私たちの生命の中に取り組んだ」「生化学的トリック」について、「最も重要な二つは光合成と酸化的代謝である」と述べ、『光合成は、太陽の力を利用して有機化合物を合成し、その副産物として大気に酸素を供給する。酸化的代謝は酸素(究極的には植物に由来する)を使って有機化合物をゆっくりと燃焼させ、元々太陽から北エネルギーを移転させる」と解説し、「ある意味で、今でも最近しかそれはできないのだ。変化したのは、彼らが今や、その生化学的な技巧を、真核細胞と呼ばれる特定の目的のために作られた工場の中で実践しているということだけである」と述べています。
 「ランデヴー39 真正細菌」では、根粒菌(リゾビウム)に典型的な、「糸のような螺旋プロペラ」である「鞭毛」が、「細胞膜を貫通する穴の中で自由にしかも無限に回転を続ける車軸(シャフト)に取り付けられている。これは本物の車軸であり、自由に回転するハブである。それは筋肉と同じ生化学的原理を用いる小さな分子モーターによって駆動されている」と解説しています。
 「カンタベリー」では、「生命の起源は、真の遺伝の起源であった」と述べた上で、「私が最初の遺伝子というのは、最初のDNA分子を意味するわけではない。最初の遺伝子がDNAでできていたかどうかは誰にも分かっておらず、私はそうでなかったほうに賭けたい」と述べた上で、「最初の遺伝子という言葉で私が意味しているのは、最初の自己複製子である。自己複製子とは、自分自身のコピーの系譜を作っていくような実体、例えば分子である」と解説しています。
 著者は、「自己複製の優先性と、何らかの先行者の後にDNAがとってかわった可能性がきわめて高い」と主張しています。
 「主人の帰還」では、「少なくとも私たちがこの地球上で知っている生物は、眼を進化させるためのほとんど異常なほどの熱意を持っているように思える」と述べた上で、「もし宇宙の他の惑星に生命が存在するなら、私たちが地球上で知っているのと同じ多様な光学原理にもとづく眼があるだろうというほうに賭けてよいだろう。眼をつくる方法はそれほどたくさんあるわけではなく、わたしたちの知っている生物がそのすべてを発見したということは十分にありえるのだ」と述べています。
 著者は、「本書は人間の視点からかかれているのだが、出発点にいる100万種のどれについても、類似の別の本を書くことができるという事実をよく考えてほしい。この地球上の生命は驚嘆すべきものというだけでなく、その感覚が慣れによって鈍磨してしまってはいないすべての人にとって、深い満足を与えるものでもある、私たちが自らの進化的な創生を理解する脳の力を進化させたというまさにその事実が、驚嘆を倍増させ、満足感を形成する」と述べています。
 本書は、理科の教科書で知識としては知っている「進化」の意味を、驚異的な事実とともに分かりやすく教えてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 本書は、日本に住む私たちが読むと、ちょっと分厚くて小難しいけど読めないことはない普通の科学書、という感じですが、本書が書かれた意味は、本書の随所に登場する「創造論」批判、そしてその象徴としてのブッシュ批判に現れているような、特にアメリカで広く蔓延っている創造論に対する危機感があるんじゃないかと思われます。


■ どんな人にオススメ?

・「創造論」に胡散臭さを感じている人。


■ 関連しそうな本

 リチャード・ドーキンス (著), 垂水 雄二 (翻訳) 『祖先の物語 ~ドーキンスの生命史~ 上』 2007年06月30日
 リチャード・ドーキンス (著), 日高 敏隆, 岸 由二, 羽田 節子, 垂水 雄二 (翻訳) 『利己的な遺伝子』 2006年09月26日
 R. アクセルロッド (著), 松田 裕之 (翻訳) 『つきあい方の科学―バクテリアから国際関係まで』 2005年12月20日
 ロバート・アクセルロッド (著), 寺野 隆雄 (翻訳) 『対立と協調の科学-エージェント・ベース・モデルによる複雑系の解明』 2005年11月15日
 キム・ステルレルニー (著), 狩野 秀之 (翻訳) 『ドーキンス VS グールド』 2007年02月10日
 スティーヴン・ジェイ グールド 『ワンダフル・ライフ―バージェス頁岩と生物進化の物語』 2007年03月03日


■ 百夜百音

クロス・マイ・ハート【クロス・マイ・ハート】 Eighth Wonder オリジナル盤発売: 1988

 80年代の「一発屋」の典型的なパターンとも言えますが、プロモを含めて当時の日本の「バンドブーム」のお手本になっていたんじゃないかと思います。

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