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2008年1月

2008年1月31日 (木)

捕鯨問題の歴史社会学―近現代日本におけるクジラと人間

■ 書籍情報

捕鯨問題の歴史社会学―近現代日本におけるクジラと人間   【捕鯨問題の歴史社会学―近現代日本におけるクジラと人間】(#1106)

  渡邊 洋之
  価格: ¥2940 (税込)
  東信堂(2006/09)

 本書は、捕鯨問題に関して、「クジラと人間のかかわりの歴史を明らかにしていく」ものであり、「一人一人の前に一つ一つの出来事とその解釈を示すことで、集合化された立場から脱し、これからのかかわりについてとのみ考えていくことを、呼びかけるもの」です。
 序章「本書の課題」では、捕鯨問題が、「特定の野生生物を利用することにあまりに傾斜したために、その生息数の減少のみならず、生態系をも破壊してしまったことで生じた問題である」として、「捕鯨問題は、一つの環境問題としてとらえるべきものであろう」と述べ、「本書ではこの捕鯨問題について、歴史社会学的視点から考察を加える」ものであると述べています。
 そして、日本における議論の「一つの到達点」として、秋道智彌と森田勝昭を取り上げ、「欧米を中心としたある種クジラを擬人化した形での反捕鯨論だけでなく、捕鯨モラトリアム成立以降の日本においてとりわけ流布された、鯨肉食を『日本人』独自の『伝統』とするような、国家・民族主義的な捕鯨擁護論を否定している」と紹介しています。
 著者は、本書において、「クジラと人間のかかわりの歴史についてあきらかにする」としたうえで、「とりわけ、近現代におけるクジラと人間のかかわりについて、取り上げていく」理由として、
(1)今日の捕鯨問題を考えるうえでは、人間の諸活動が大規模化・効率化していく近現代という時期においてのクジラと人間のかかわりについて、あきらかにする必要がある。
(2)近現代におけるクジラと人間の関わりについての先行研究がそれほど豊富にあるとはいえず、ゆえに考察を行なっていくにあたっては、基本的な事柄をまずは明らかにしていかなければならない。
の2点を挙げています。
 第1章「近代日本捕鯨業における技術導入と労働者」では、「近代の日本捕鯨業における技術の導入過程をあきらかにする」作業において、「実際の技術導入の担い手となった捕鯨会社の労働者の構成といった、ミクロな部分に特に注目したい」としています。
 まず、近代の日本捕鯨業の展開過程を、
・第1期(~1896年):網捕り式捕鯨の衰退とアメリカ式捕鯨の導入の試みの時期
・第2期(1897~1908年):ノルウェー式捕鯨が導入される時期
・第3期(1909~1933年):東洋捕鯨株式会社による捕鯨業独占の時期
・第4期(1934~1941年):母船式捕鯨の開始と大資本による捕鯨会社の系列化の時期
・第5期(1942~1945年):母船式捕鯨の中止と統制会社による捕鯨の時期
の5期に分けています。
 そして、網捕り式捕鯨の組織が、「地域の共同体に組み込まれたものであるとともに、当時の社会構造を反映した世襲制・身分制により、労働者がピラミッド型に固定・配置されたものであった」と述べています。
 また、1906年に、東洋漁業が、「網捕り式捕鯨が行なわれていた高知や和歌山だけではなく、それが行われていなかった現在の千葉県銚子や宮城県鮎川といった、日本国内の各地にも事業場を設立して」いったことを紹介しています。
 さらに、ノルウェー指揮捕鯨の技術の導入が、「最終的にはノルウェーで造られた捕鯨具・捕鯨船を用いるという形をとり、またその技術の担い手である砲手も、ノルウェー人を直接雇用するという形をとった」と述べるとともに、「ノルウェー式捕鯨の捕獲活動の技術は、網捕り式捕鯨の経営者が導入したわけではなかったこと、また、『羽刺』が直接捕鯨砲を用いるようになったわけでもなかったことも、あきらかになった」と述べています。
 著者は、「近代の日本の捕鯨会社による捕鯨は、『日本人』のみによってなされたものではなかった」とともに、「『日本人』のみが有していた技術によってなされたものでもなかった」と述べ、「近代の日本の捕鯨会社による捕鯨は、『日本』といったかたちで――寄せ集めではなく全体性を有する有機体であるかのようなものの一つとして、あるいは『西洋』に対するある集団化された存在として――カテゴリー化し得ない」と述べ、「近代日本の捕鯨業は、当時の日本の拡張主義的な方向性を背景として、国籍というもので分けられた様々な人々の混成と様々な技術の混成により、、これまでの捕鯨とはまったく別なものとして形作られていくという過程の中にあった」と解説し、「日本の捕鯨業の活動を『捕鯨文化』と表象し、それを日本の『伝統文化』とすることの正当性は、確保されていないと考えられる」と述べています。
 第2章「経験の交錯としての暴動」では、「新たに捕鯨業が展開されるようになった地域で生活していた人々、とりわけその地で漁業を営んでいた人々はクジラを捕るという行為を目の当たりにして、何を考え、どのように対応したのであろうか」を探るとしています。
 そして、事業場が公害の発生源となって、漁民が被害を受けていたこと、また、「人々とともにイワシを捕るという日々繰り返される行いの中から形成されてきた、クジラをイワシ漁に恩恵をもたらす神とする生活常識があった」こと等をあきらかにしています。
 第3章「クジラ類の天然記念物指定をめぐって」では、「クジラ類に関わる保護をめぐる制度の歴史について、明らかにしていく」としています。
 そして、天然記念物に指定してのスナメリの保護に関して、
(1)本州沿岸がスナメリの分布北限に当たり、ゆえにそれが学問的に見て重要である。
(2)この地の漁民が「スナメリ網代」と呼べるような漁法を行なっており、ゆえにスナメリを保護することが「漁業上肝要なこと」である。
の2つの理由を挙げています。
 第4章「近代日本における鯨肉食の普及過程」では、「近代日本において鯨肉食がどのようにして、そしてどの程度広まっていたのかを、あきらかにしよう」としています。
 そして、「捕鯨問題」を語る文脈において、「しばしば『日本人は昔からクジラを食べてきた』という言説が繰り返し流布されている」ことについて、「最近の研究においては、このような語りに含まれる問題性といったものがあらわにされている」として、森田勝昭が、「確かに鯨肉食は歴史的には古いが、全国的かつ日常的に日本の人々がクジラを口にするようになったのは第二次大戦後であること、また、鯨食を『日本民族』というきわめて曖昧で、高度の政治的な言葉に結びつけることの危険性を指摘しておかなければならない」と述べていることを紹介しています。
 また、沿岸部において流れ鯨や寄り鯨の肉を食することや、長崎・佐賀・福岡、高知、和歌山など、網捕り式捕鯨が行なわれていた地域とその周辺でも、鯨肉は確実に食されていたであろうが、「それはあくまでも局地的な現象にすぎなかったのではないか」と述べ、19世紀末までは、鯨肉を食する地域は、九州北部がもっとも多く、それが関西地方を経て東へ移動するほど、漸次減少していったと述べています。そして、1909年に、東洋捕鯨が誕生したことによって、「捕鯨業は一つの大きな産業」となり、「クジラから生み出されるものの、より多くの販路を作り出そうとすることになった」と述べています。
 著者は、「鯨肉食は、ノルウェー式捕鯨導入以降ひとつの大きな産業となった捕鯨業によって積極的に普及された結果、近代という時期において多少なりとも全国に広まっていったのではないかと推測できる」と述べています。
 さらに、1941年に伊豆川淺吉が行ったアンケート調査を取り上げ、
・1941年の段階で、近畿・中部地方においても8割前後の集落が、鯨肉を食するようになっていたこと。
・府県によっては鯨肉を食べる集落の割合が極端に低いところがあること。
・赤肉の普及は、鯨肉を食べる集落においても6割程度であり、白肉は「縁起物」として非日常的に食されていた部分があると考えられること。
・クジラを「福の神」としているがゆえに、捕鯨や芸肉食を行わない集落も存在していたこと。
等をあきらかにし、「利用しないというものも含め、地域それぞれにおいて異なった利用の仕方、異なった『食べられ方』がなされていた」と述べています。そして、「全国的かつ日常的にクジラを食するようになったのは、第二次世界大戦後であった」と考えられるとともに、「鯨肉食は『日本民族』の伝統的食文化であるなどとする言説は、説得的でないことも確認できる」と述べています。
 第5章「『乱獲の論理』を探る」では、「実際に捕鯨を行なう側が考えていたこと」である「乱獲の論理」を探るとしています。
 そして、東洋捕鯨社長・岡十郎の「永久無尽説」を取り上げ、「日本の近代捕鯨は、このような論理を内包して始まった」と述べるとともに、戦後、日本水産取締役であった宮田大が、『毎日新聞』に、「近ごろクジラはだんだん少なくなって捕らえにくくなったという説もあるが、クジラが捕らえられないように逃げるのが上手になったからなかなか捕らえられないことも否定できない」と投稿していることを紹介しています。
 終章「捕鯨問題における『文化』表象の政治性について」では、「日本においては、クジラ(クジラ目の生き物)と人間の間に複数のかかわりがあった」と述べ、「日本におけるクジラと人間のかかわりについては、捕鯨というかたちでのかかわりを、網捕り式捕鯨確立(17世紀)以降今日に至るまで、『日本人』が『伝統』的に行なっているという考え方が流布されているが、かかわりの歴史を慎重に検討してみると、実際はそうではないということが明らかになった」とし、「クジラと『日本人』とのかかわりを、捕鯨や鯨肉食のみに限定させることはできない」と述べています。
 そして、「複数あったクジラと『日本人』とのかかわりが、近代以降、捕鯨業が『国策』として位置づけられ、一つの大きな産業として成立したことで、捕鯨と鯨肉食というかたちでのかかわりに単一化されていった」とともに、「敗戦後には、一定の規模での鯨肉食が日常化することで、その単一化されたかかわりも『日本人』の日常となっていく」と述べています。
 本書は、とかく感情的になりやすく、ナショナリズムを刺激しやすい「捕鯨」という問題について、情報の少なさを補い、政治的な意図によって流布されている言説には表れてこない、日本人とクジラの関わり方の歴史を教えてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 捕鯨を巡っては過激な環境保護団体の襲撃を受けて注目を集めてしまい、なんだか「賞金首」のような扱いになってしまっていることが危惧されます。どうしても、現に捕鯨に携わって生業にしている人がいる限り、捕鯨のあり方も政治的なテーマとしてばかり論じられてしまうのは残念なことです。


■ どんな人にオススメ?

・自分の先祖もクジラの竜田揚げを食べていたと信じて疑わない人。


■ 関連しそうな本

  『鯨類生態学読本』
 小松 正之 『クジラと日本人―食べてこそ共存できる人間と海の関係』
 小松 正之, 日本水産学会 『よくわかるクジラ論争―捕鯨の未来をひらく』
 大隅 清治 『クジラと日本人』
 星川 淳 『日本はなぜ世界で一番クジラを殺すのか』
 丹野 大 『反捕鯨?―日本人に鯨を捕るなという人々』


■ 百夜百マンガ

虹色仮面【虹色仮面 】

 作品とは全然関係ないのですが、「きどりっこ」というグループが「虹色仮面」という曲を歌ってました。現在は「おしりかじりむし」です。

2008年1月30日 (水)

小泉官邸秘録

■ 書籍情報

小泉官邸秘録   【小泉官邸秘録】(#1105)

  飯島 勲
  価格: ¥1890 (税込)
  日本経済新聞社(2006/12)

 本書は、日本の「政治の手法、行政の手法を、調整型の政治からトップダウン型の政治へ大きく舵を切り、官邸のこれまでの性格を大きく変えた」小泉総理の首席秘書官であった著者が語った5年5ヶ月、1980日の「備忘録」です。
 第1章「政権の形を作る」では、小泉内閣の基本哲学が、「日本を変え、日本の政治を変える」ということであり、終始一貫同じことを言っているので「ある意味分かりやすい」と述べています。
 著者は、小泉総理が、「保守政治家だからこそできるラディカルな改革というものもある」として、その政治姿勢のキーワードとして、
(1)明確なリーダーシップ
(2)明快な目標設定
の2点を挙げています。
 そして、総理側近の官邸スタッフの強化については、
(1)連絡室参事官(通称「特命チーム」)の設置:官僚として出身官庁の政策を熟知し、かつ、霞が関の官僚の組織・行動様式を十分知った上で、その能力と知識を最大限動員して総理のために身を挺して霞が関と対峙することができる人材。
(2)総理大臣補佐官:合計5名の民間人、官僚OB、政治家を補佐官に任用して特命事項を担ってもらった。
の2点を挙げています。
 また、メディア戦略に関しては、「メディアの操縦の仕方がうまいとかいう向きもあるが、メディアの特性、役割に応じてトップダウンの政策を国民にいかに理解してもらうか」を考え、論説委員や編集委員との懇談会や、雑誌編集者との懇談、スポーツ紙の内閣記者会への加盟の働きかけなどを行なったと述べています。
 第2章「『官邸主導』の始動」では、ハンセン病訴訟問題に関して、熊本地裁判決に対して「控訴すべき」との役所の理屈を退けて、「政府声明を出し判決の法律的問題点を明らかにした上で控訴を断念する」「訴訟への参加不参加を問わず全国の全ての患者・元患者を対象とした保障措置・名誉回復措置を講じる。そのために特別に立法措置を講じる」という判断を下した経緯が述べられています。
 また、構造改革に対する「抵抗勢力」であった「官僚組織」に対しては、「トップを押さえ、優秀な人材を引き抜き、実力のある行動派を官邸や内閣官房に揃えるなど、言ってみれば『組織ごと強力勢力として使いこなす』ための仕掛けを次々と用意」することで、「簡単にいえば『小泉のいうことを聞く』ようになっていった」と述べ、最大にして最強の抵抗勢力は身内である自民党それ自体であったと述べています。
 さらに、小泉改革最初の試金石は道路公団改革であり、「それができなければ小泉改革全体を実現することなどできないと覚悟していた」として、「明快な目標を設定し、総理の明快なリーダーシップで改革を先導していく、そして特命担当大臣や総理補佐官、官邸チームの活用、このような場面が小泉内閣では他の政策についても幾度となく見られることとなる」と述べています。
 ワイドショーでも大きく取り上げられた田中眞紀子外相問題については、福田官房長官自身からの電話にも耳を貸さず電話を切ってしまうという事態に至って、「誰かが悪者になるしかない。誰も外務大臣に総理の真意を理解させることができないのであれば、主席総理秘書官である私が直接お話申し上げるしかない」と「腹を決めた」ことを語っています。そして、深夜の外務大臣更迭劇となった2002年1月29日を、2005年の郵政解散の時と並ぶ、「小泉内閣の一番長い日」であったと語っています。
 第3章「危機管理体制の強化」では、2002年9月11日の同時多発テロの発生で、官邸に隣接する危機管理センターには各省庁幹部や与党幹部までが駆けつけてごった返し、「人類がこれまで経験したことのなかった邪悪なテロリズムに直面し、皆が上ずっていた。情報が錯綜し、怒鳴りあいのやりとりもそこここで発生した」ため、「見かねた総理が、『焦らず確実に!』と大声でたしなめる場面もあった」と語っています。
 第4章「北朝鮮外交への取り組み」では、総理が金正日総書記との直接会談を選択した真意について、金王朝とも言われる「金正日総書記の独裁国家」である北朝鮮を相手に、「民主的で透明性の高い国家同士の話し合いのルールは通用しない。いくら事務的な外交交渉を積み上げても、最後にひっくり返ることなどはざら」であり、わが国としても、「金体制の崩壊といったコストの高い選択肢は採りえない」ので、「このような条件の下では、首脳同士の直接対話以外に手はない。どのようなレベルであれ代理交渉は意味がない」という判断であったと述べています。
 第5章「道路公団の民営化」では、2005年の道路公団の橋梁工事をめぐる談合事件に関して、「小泉本人の政治歴の中で、役所関係団体や土建業界から政治資金を受けたことはほとんどない」と述べ、そういった背景があるからこそ、「司法当局も毅然として悪に切り込み、思い切って膿を出すことができた」と語っています。
 第6章「テロとの戦い――イラクへの自衛隊派遣」では、著者が中東情勢について、「中東の国々というのは言葉は悪いが『不労所得』で生きている国家群であり、指導者の役割というのはその富を国民に分配すること」であると捉えたことが述べられています。
 第8章「年金改革」では、「世界のどの国を見ても、年金改革や医療改革が政権運営の大きな鍵を握っている」と述べたうえで、「小泉総理でなければ、景気対策や格差社会の是正の声に打ち消され、いまだに改革がなされていなかったかもしれない」と述べています。
 第11章「郵政民営化シフト」では、第二回改造内閣の発足を、「改革推進内閣」と位置づけ、郵政民営化については、時期も含め明確な指示を出したことや、竹中大臣が経済財政諮問会議で「郵政民営化の検討に当たってのポイント(5つの基本原則)」として、
(1)活性化原則
(2)整合性原則
(3)利便性原則
(4)資源活用原則
(5)配慮原則
の5つの原則を打ち出したことが述べられています。
 そして、郵政民営化の大きな論点として、
(1)分社会の形
(2)民営化時点における組織形態
(3)地域分割をどのように考えるか
(4)推進体制、監視組織
の4点を挙げています。
 第12章「民営化法案を巡る攻防」では、「郵政民営化を積極的に進めるはずの政府側の人間」である総務省幹部が、「消極的」というより「郵政民営化反対ととられてもおかしくない」ペーパーを持って自民党を回って説明しているということが明らかになり、一旦はチャンスを与え、「私どもは小泉総理に仕えているので総理の方針に則って職務を行なう」旨を確認したにもかかわらず、「そのような形にはなっていない状況が判明」したため、2人の幹部を更迭したと述べています。
 また、総理が、法案の国会提出に当たって、「私は、鎧も兜もしていないんでね、捨て身でしか当たる方法がないんですよ」と語っていたことが述べられています。
 第13章「参議院での否決――郵政解散」では、「参議院で与党側から18人の反対が出れば否決される」という事情を考慮した著者が、「極秘に解散を想定した選挙の準備作業をスタート」し、反対票を投じた議員の選挙区に、「全て郵政民営化賛成の候補者を立てなければならない」として作業を始めたことが述べられています。
 第14章「衆議院選挙の勝利――郵政民営化法案成立」では、「公募もできればしたい」が、「郵政民営化反対の旗印を大きく掲げている造反議員のいる選挙区には、しかるべき経歴の持主やインパクトのあるわかりやすい候補者を立てなければならない」というジレンマに苦しみ、現職市町村長や官僚に当たったことや、出口調査のあまりの好調さに、「もし比例名簿に載っている者が全員当選して、さらにもう1議席来たらどうなる?」という不安が現実のものとなったことが述べられています。
 第15章「改革に終わりはない――更なる改革へ」では、「国から地方へ」の改革において、3兆円の補助金削減の案を、「地方の自立のためにも、まず地方に改革案を考えさせよう。それを俺は受け止める」と小泉総理が判断したことを述べています。
 本書は、後の歴史家によって評価が定まるであろう21世紀初頭の5年5ヶ月について、一番身近にいた当事者の口から語られた一冊です。


■ 個人的な視点から

 今日、とあるシンポジウムで、国の出先機関(支分部局)の偉い人が、「これまで国から地方に税源を移譲してそれぞれに工夫させるという風潮があって三位一体改革が進んだが、これを見直し、これからは国が直接地域の事業にタッチする」という旨の発言をされているのを聞いて、なるほど小泉政権後に「格差是正」の旗印の元に、「ネオ・ニューセントラリゼーション」が始まったのかと感じました。
 分権と集権は、常にこういった振り子の中で揺れ動いているものなのかもしれません。


■ どんな人にオススメ?

・小泉改革の当事者の側からの評価を聴いてみたい人。


■ 関連しそうな本

 竹中 平蔵 『構造改革の真実 竹中平蔵大臣日誌』 2007年11月05日
 上村 敏之, 田中 宏樹 (編著) 『「小泉改革」とは何だったのか―政策イノベーションへの次なる指針』 2006年11月02日
 竹中 治堅 『首相支配-日本政治の変貌』 2006年12月26日
 読売新聞政治部 『自民党を壊した男小泉政権1500日の真実』 2006年03月14日
 清水 真人 『官邸主導―小泉純一郎の革命』 2007年03月19日
 御厨 貴 『ニヒリズムの宰相小泉純一郎論』 2007年03月08日


■ 百夜百マンガ

悪1013【悪1013 】

 タイトルは、「あくとういちみ」と読みます。こんなような設定の漫画は他にも結構あるような気がするのですが思い出せません。

2008年1月29日 (火)

子どもをナメるな―賢い消費者をつくる教育

■ 書籍情報

子どもをナメるな―賢い消費者をつくる教育   【子どもをナメるな―賢い消費者をつくる教育】(#1104)

  中島 隆信
  価格: ¥735 (税込)
  筑摩書房(2007/12)

 本書は、『学問のすヽめ』に掲げられた「賢人」をコンセプトに、「福沢のいう『賢人』教育の意義を現代的視点からとらえなおし、今の迷走する教育システムについて」、改善案を示すことを目的としたものです。著者は、「現代社会にとって相応しい『賢人』教育は、主体的に消費活動が出来る個人の育成により重きを置くべき」であると述べています。
 第1章「義務教育の役割」では、「ゆとり教育」の考え方を食生活に当てはめた「ゆとり食生活」という架空の政策を想定し、「食と教育の比較からおわかりのように、問題の根幹は教育に関する消費者の明確なニーズが存在しないという点に尽きる」と述べています。
 そして、「義務教育にかんしては、これまで消費というよりは投資、私的財というよりは公共財としての側面が強調されてきた」ため、「それゆえに子ども自身の学習する楽しさというもう一つの側面がなおざりにされてきた」のではないかと指摘したうえで、「問題なのは、勉強を『仕事』や『大人』といった子どもにとって身近でないものに結び付けてしまう」ことであり、学習意欲を向上させるには、「勉強がすぐにでも役立つということを教える」必要があり、そのキーワードは「消費者になるための教育」であると述べています。
 また、「賢い消費者になるには勉強が必要である」としながらも、大人にとって、「これから新たな勉強をして生活の質を変えるのは面倒なこと」であるため、「わざわざ自分だけがコストをかけて社会のために勉強しようとまでは思わない」ことを指摘し、「義務教育において、自立した賢い消費者を育てていくことが何よりも必要である」と述べています。
 第2章「子どもをナメるな!」では、経済学の守備範囲が「カネ勘定を主体とする市場経済だけに限らない」ため、「社会経験のない子供にも経済学の考え方が十分に理解できる」と述べています。
 そして、「子どもに経済学を教えるのは、金儲けの仕方を教えたり、経済用語を覚えさせたりすることが目的なのでは」なく、理科の勉強が子供の自然現象への関心を喚起し自然界を見るための目を養うのと同じように、「経済学は、子どもが社会現象に興味を持ち、それを自分なりに分析する力を身につけるのを助けてくれる」ものであり、「世の中の『見方』と『考え方』についての基礎教育に他ならない」と述べています。
 また、子どもが合理性を持つ「経済人」と仮定すると、「厳しい教育は全く期待はずれの逆効果になる可能性」が高く、勉強の不利をしたり、不正を隠すようになり、「ゴマカシをするインセンティブを与えてしまう」と述べ、「子どもをうそつきにしたくなかったら厳しい教育をすべきではない」として、
(1)子どもの話をしっかりと聴いてあげること。
(2)子どもが自分から正直に話したら決して叱らないこと。
の2つの処方箋が経済学から導かれると述べています。
 さらに、道徳教育に関して、エスカレーターで右側に立ったり、割り込み乗車をする人をほとんど見かけないのは、「通勤客のモラルが高いため」ではなく、「ルールを守ることが自らの得になるからである」と述べ、一方で、都会人が冷たい理由は、「都会で暮らすのに人間味はそれほど必要ない」殻であると述べた上で、「モラルや人間性などというものは環境によって左右されるのであって、学校で道徳教育をしたからといって改善されるわけではない」と述べています。また、日本で親が尊敬されなくなった原因として、「低下した子どものモラルではなく、少子化によって親の立場が弱くなったため」であると述べています。
 著者は、「賢い消費者になるために教えるべきこと」として、
(1)この世の中に100%安全などありえないということ。
(2)こうした危険な状態と共存するための智恵。
の2点を挙げています。
 第3章「すべての学科は『役に立つ』」では、「なぜこの科目を勉強するんですか?」と子どもに聞かれたときにこそ「教師の真価が問われる」として、「この質問に的確な答えを見出せないままできたことが現在の教育現場の荒廃を招いている」と述べています。
 まず、数学に関しては、「数学は論理的思考のために役に立つ」という人がいるが、「むしろ因果関係は逆ではないか」として、「論理的思考能力を有している学生にとって数学はきわめて有効な表現ツールとして活用できる」と解説しています。
 また、「戦争でもっとも悲惨な目に遭う」のは「紛れもなく消費者である」として、「賢い消費者を育てるための義務教育としては、こうした事態を招かないようにするために社会化を勉強するということが教育方針になって然るべきである」と述べています。
 さらに、吉田茂がマッカーサーに、「統計がまともに取れるくらいなら、あなたの国とあんな無謀な戦争はやらなかったでしょう」と答えたことばを紹介し、統計教育の重要性を主張しています。
 学生の理科離れに関しては、「将来の職業と結び付けてその必要性を議論してしまうこと」に最大の理由があると述べ、理科は、「科学の進歩によって高慢になりがちな人間の頭を冷やすために勉強するのである」として、「科学が進歩した現代社会を生きる子どもたちには、こうした発想に立つ授業が必要である」と述べています。
 さらに、「今後の世の中の大きな変化を見据えたとき家庭科教育で考慮すべき」ポイントとして、
(1)価値観の押し付けをしない。
(2)家族という組織を維持するためには、各メンバーに自らの利益を多少減らしても家族全体のために貢献する気持ちが必要である。
(3)子どもの人権教育。
の3点を挙げています。
 第4章「これからの社会、これからの教育」では、「個人化へ向けて大きく舵を切った時代」において、「もっとも必要とされるのは、個人を尊重する教育」であるとして、「個人主義(individualism)とは他人との関わりを立つ孤立主義(isolationism)でもないし、自分勝手な行動を取る自己中心的な利己主義(egoism)でもない。すべての人間が互いの存在を尊重することである」と述べています。
 また、「恋愛は人間として生きていくうえで極めて重要な地位を占める体験であるにもかかわらず、その方法について正式に習うことはない」ことを指摘し、「こうした知識は恋愛が現実味を帯びる高校生や大学生以前の義務教育課程で教えておくべきである」として、
・恋愛が人生にとって何物にも代えがたい貴重な経験であること。
・相手を傷つけない正しい恋愛感情の定義
の2点を挙げています。
 さらに、障害者自立支援法に関して、「自立とは、『好きなことを』『好きなときに』『好きな人と』できるということ」であるとして、「これが簡単そうに見えて実に難しいことなのである」と述べ、「障害者は働くのが難しいから自立できないのではない。小さい頃から自立できないような環境で育ってきたからなのである」と述べています。
 著者は、「今の日本にとって何より必要なのは国民の自立である」として、「義務教育のミッションは国民がこうした行動を普通に取れるように子どもを育てることである」と述べ、「親、教師、学校、さらに社会の役割とは、子どもが自ら進んで自立した人間に向けての勉強に励むよう適切なインセンティブを与えること」であると主張しています。
 本書は、子どもをテーマに取り上げながら、自分自身のことを振り返る機会を与えてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 先週、とある勉強会で著者の中島先生にお会いする機会がありました。テーマが障害者の問題を取り上げたものだったので結構真面目な内容だったのですが、個人的には、過去の『~の経済学』シリーズが大好きだったのでかなりミーハー的に参加してしまい、サインもいただいてしまいました。

サイン

■ どんな人にオススメ?

・賢い消費者になりたい人。


■ 関連しそうな本

 中島 隆信 『障害者の経済学』 2007年04月29日
 中島 隆信 『お寺の経済学』 2006年03月21日
 中島 隆信 『大相撲の経済学』
 中島 隆信 『オバサンの経済学』 2008年01月23日
 中島 隆信 『これも経済学だ!』 2007年07月17日
 ゲーリー・S. ベッカー, リチャード・A. ポズナー (著), 鞍谷 雅敏, 遠藤 幸彦 (翻訳) 『ベッカー教授、ポズナー判事のブログで学ぶ経済学』 2007年02月05日


■ 百夜百マンガ

幕張【幕張 】

 モデルになった幕張三校は東西北はあっても南はなかったということで幕張南になったようですが、作者は三校のうちのどこの出身だったのでしょうか。

2008年1月28日 (月)

自治体をどう変えるか

■ 書籍情報

自治体をどう変えるか   【自治体をどう変えるか】(#1103)

  佐々木 信夫
  価格: ¥777 (税込)
  筑摩書房(2006/10)

 本書は、「20世紀の事業官庁としての自治体を、これからどのようにして政策官庁としての自治体に変えるのか」という「自治体のあり方」を論じたものです。
 第1章「変化する行政環境」では、「これからは国の指導で地方自治を営むのではなく、自前で政策をつくり、地域をつくっていく時代」であり、「国は地方を補完するのが本来の役割である」と解説しています。
 また、日本の行政の改革潮流として、
(1)分権化:2001年に地方分権一括法が施行され、国と地方を上下・主従の関係に固定してきた機関委任事務制度が全廃され、対等協力の関係に置きかえられた。
(2)民間化:簡素で効率的な小さな政府づくりを実現するための公共分野への市場原理の導入。
の2点について解説しています。
 さらに、「改めて『公共』のあり方が問われている」として、国、地方ともに、その背景には「NPM (New Public Managemet 新しい公共経営)」という改革潮流の動きがあり、「同時に地方分権に伴う中央地方関係の変化、厳しい財政状況下での財政再建をねらう<公>の見直しといった、複合的な要因がある」と述べています。
 第2章「地方分権――国と地方の攻防」では、「2000年に始まる地方分権への歩みを止めてはならない。自治体は『政策官庁』に脱皮する、住民と協働し『自己決定・自己責任』のまちづくりに励むことが大切となった。21世紀は、自治体が本格的な『地域の政府』になる時代である」と述べています。
 そして、地域の格差拡大の議論に関して、
(1)「格差」は政府の責任か
(2)「地方交付税」制度をどうしたらよいか・・・財政再建か地方固有の財源か
(3)ナショナル・ミニマムのあり方
(4)交付税の持つ財政格差の調整機能をどう見るか・・・簡素化するか拡充するか
(5)国土政策の転換を図るべきかどうか・・・国土の均衡から個性化へ
の5つの論点を提示しています。
 また、地方においても、「市町村が先駆的な性差句を打ち出す場合、国より県庁が最大の抵抗勢力」である場合を挙げ、「県庁は補完性の原理を踏まえた発想法に切り替えるべき」であると述べています。
 第3章「政策官庁としての自治体」では、「この10年、わが国では地方分権を進めることが常識化してきた」理由として、
<集権のメリット>
(1)統一性
(2)公平性
(3)国の指導力の発揮
よりも、
<分権のメリット>
(1)多様性
(2)迅速性
(3)総合性の発揮
に相対的な価値を認める動きを挙げています。
 そして、これまでのわが国の中央地方関係の問題点として、
(1)国・地方が上下・主従関係にあったこと
(2)知事、市町村長が二重の役割を負わされてきたこと
(3)国と地方の行政責任が不明確であったこと
(4)自治体が狭い裁量権しか持ち得なかったこと
(5)縦割り行政の弊害が大きかったこと
の5点を挙げたうえで、2000年4月の地方分権一括法の施行によって、
(1)機関委任事務制度の全廃
(2)地方への関与の縮小・廃止
(3)自治立法権の拡大
(4)国と地方の新たな係争処理機関の設置
(5)地方税財源の充実
の5点が変化したことを解説しています。
 また、これからの自治体が政策スタイルを、「あと追い、需要対応型の政策運営ではなく、予防型、代替型の政策対応によって行財政需要を削減・抑制する方向へ政策スタイルを転換すべきである」として、
(1)「規制政策」又は「予防政策」
(2)「助成政策」又は「民活政策」
(3)「負担政策」又は「減量政策」
の3つの方策を挙げています。
 第4章「自治体の制作活動」では、「これまでの地方公共団体には、地域の政治機能(政治体)と事務事業の執行機能(事業体)はあったが、自ら政策を創出する政策機能(政策体)はなかった」と述べています。
 そして、問題解決の政策手段として、
(1)権力的な手段
(2)経済的誘因の提供
(3)情報の提供
(4)物理的制御
(5)サービスやモノの直接供給
の5つに類型を挙げています。
 また、「責任」の概念を、「帝王(本人)と彼が処理を委任したその任事者(代理人)との関係から生まれたもの」であり、
(1)任務的責任:代理人が本人に対し、任務を全うしなければならない責任を負う。
(2)応答的責任:本人の指示に従い、任務を遂行する責任。
(3)弁明的責任:本人の問責に応えて、釈明、弁明に務め疑問の解消を行わなければならない。
(4)制裁的責任:どう釈明しても本人が納得しなければ、代理人は本人からの制裁を覚悟しなければならない。
の4つの局面からなると解説しています。
 第5章「議会をどう変えるか」では、日本の地方自治が、「首長と議員をともに有権者の直接選挙で選ぶ『二元代表制』を制度の根幹に据えている」と述べ、この制度が、「首長に執行機関の役割を、議会に議決機関の役割を期待し、双方の機関が原則独立の関係にある制度(大統領制)である」と解説しています。
 また、議会改革の方向性として、
(1)立法・政策能力の向上
(2)議会の自立性の確立
(3)議会スタッフの充実
(4)監視評価機能の強化
(5)開かれた議会づくり
の5点を挙げています。
 第6章「急がれる公務員改革」では、「公務員制度改革を考える際、ひとつキーになるのが自治体官僚制についてである」として、「自治体官僚制」という表現を用いる理由として、
(1)自治体組織は官僚制であるという認識が職員にも住民にも極めて薄かった点を問題にしたい。
(2)これからの「真の官僚制」「真の官僚」が必要ではないかと主張したい。
の2点を挙げています。
 そして、「一部の公務員は公権力の行使者かもしれないが、多くの公務員は公共ビジネスの実践者である」として、公務員を「公共ビジネスマン」ととらえることを提案しています。
 また、人材育成の核心は、「知識人間(グライダー能力に偏った人材)ではなく、いかにして知恵人間(飛行機能力の開花した人材)を育てるかである」と述べています。
 第7章「深刻化する財政危機」では、日本の地方財政の問題点として、
(1)国と地方の歳入と歳出の構造的なズレの解消
(2)歳出の自治を阻む使い勝手の悪い補助金制度の存在
(3)歳入の自治権が実質的に欠落している
(4)国と地方が一体化し、行政全体の膨張体質が財政膨張を促す仕組みにある
の4点を挙げています。
 そして、交付税をめぐって、「削減論」では、「ナショナルミニマムは足りたし、景気対策の裏負担として交付税を使う時代ではなくなった。だから国、地方の財政健全化のために、交付税総額を縮小すべきだ」と主張するのに対し、地方側の考え方として、「交付税の役割を財政格差の是正に絞ったうえで、地方が自主管理するドイツ型の水平調整方式の『地方共有税』に変えることが、今後の方向」であると述べています。
 また、補助金の問題点として、
(1)小学の補助金でも地方の歳出構造に大きな影響を与える。
(2)補助金の申請から交付までの手続が煩雑であり、決定までに時間とコストがかかる。
(3)補助事業は国の縦割り行政が関与し、種々の非効率、ムダを発生させる。
の3点を挙げ、日本の補助金制度の思想の根底に、「国は地方に仕事を義務づけ細部にまで関与することが、自治体ひいては住民のために望ましいと考え、その見返りに財源を保証してきた」という「パターナリズム(父親的温情主義)」の存在を指摘しています。
 第8章「市町村の将来――合併後」では、平成大合併の特徴として、
・町村の急減
・新たな名称が増えたこと
の2点を挙げ、居住者の割合が、「市」域88%、「町」域11%、「村」域1%となり、「いまや『村』に住むというのは100人に1人にすぎない」ため、「村に希少性の価値が出てきた」として、「いつか村がブランドになる日が来るかもしれない」と述べています。
 また、わが国が市町村合併にこだわる「秘密」が「住民自治の歴史を持たずに始まった明治以降の地方自治の性格と関係があろう」として、「自治体に国の公共サービスを実施する受け皿との位置付けを与え、効率性を確保するため国の意思で規模拡大を求めてきた点にあるのではないか」と指摘しています。
 さらに、平成大合併の意義として、
(1)自治体の自治能力を高める機会
(2)新しいまちづくりのチャンス
(3)最大の行革チャンス
の3点を挙げています。
 第9章「府県の将来――道州制」では、道州制を、「東北とか九州といった広域圏を『州』とし、その県内の府県を合併し、国の出先機関と合わせて、新しい州政府をつくろうというもの。公選の州議会、州知事を置き、内政の中心を各州政府に移そうという壮大な『分権国家』構想である」と述べています。
 そして、「基礎自治体の再編(平成の大合併)が進む中で、府県機能が空洞化し、府県制度自体の見直しが必要となっている」ことを指摘し、現在では、政令市、中核市、特例市などの例外的な都市制度が適用される自治体の府県に占める人口割合が、県内人口の半数以上に達していると述べています。
 また、地方制度調査会の答申における道州制のポイントとして、
(1)地方公共団体として都道府県に代えて道州を置き、市町村との二層制とする。
(2)東北、関西、九州などブロック広域権を単位に、9から13の道州につくり替える。
(3)道州への移行は全国同時が原則。ただし、国との協議によって先行も可能とする。
(4)都道府県の事務は大幅に市町村へ移し、国の事務はできる限り道州へ移す。
(5)事務の移譲に伴ない、国から道州へ税財源も移す。
(6)地域の偏りが少ない税目を充実し、分権型の税体系を目指す。
(7)道州の執行機関として長を置き、長は直接公選とする。ただし、多選は禁止する。
(8)議決機関として議会を置き、議員は直接公選とする。
の8点を挙げています。そして、道州制を導入すべきとする理由として、
(1)日本を分権国家に導いていくこと。
(2)広域化時代へ対応すること。
(3)行財政を効率化し、小さな政府をつくること。
の3点を挙げています。
 さらに、道州制の形態として、これまでの論争を踏まえ、
(1)国の大臣に相当する官選知事をおき、自治権の小さな「地方庁」とする。
(2)憲法改正をせず、府県に代えて、広域自治体としての「道州」とする。
(3)憲法を改正し、連邦制を前提に独立した地方政府を「道州」とする。
の3つの選択肢を掲げています。
 終章「国のかたち――分権国家」では、わが国の分権改革が、分権・分離型国家を志向しているのか、分権・融合型国家を志向しているのか、はっきりしないとして、「めざす分権国家像が国論として統一されないまま、なし崩し的に分権化が進んでいるように見える」と指摘しています。
 そして、「これからの改革は、公共の責務はもっとも市民に身近な政府で実施される基礎自治体重視を基本とし、それを県や国が補完する『補完性の原理』を明確にして進めるべきである」と述べ、「地方分権は、日本に真の民主主義を実現する改革であることを忘れてはならない」と主張しています。
 本書は、21世紀初頭の地方自治を概観するための視座を与えてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 著者の佐々木先生には、昨秋、ある懇談会でご一緒しましたが、著書がそうであるように、理路整然とお話をされるダンディな先生でした。
 こういう人が職員でいるのだから、都庁というのが人材豊富であることに驚きを感じます。


■ どんな人にオススメ?

・21世紀の自治体の姿を考えたい人。


■ 関連しそうな本

 佐々木 信夫 『市町村合併』 2006年03月27日
 佐々木 信夫 『都庁―もうひとつの政府』
 青山 やすし 『石原都政副知事ノート』 2005年07月01日
 白川 一郎 『自治体破産―再生の鍵は何か』 2006年10月30日
 吉富 有治 『大阪破産』 2006年10月20日
 吉村 弘 『最適都市規模と市町村合併』 2006年03月29日


■ 百夜百マンガ

中華一番!【中華一番! 】

 ミスター味っ子路線と言うか、料理漫画はいまや他のどのジャンルにも引けをとらない無法地帯になってしまったような気がします。

2008年1月27日 (日)

若者はなぜ3年で辞めるのか? 年功序列が奪う日本の未来

■ 書籍情報

若者はなぜ3年で辞めるのか? 年功序列が奪う日本の未来   【若者はなぜ3年で辞めるのか? 年功序列が奪う日本の未来】(#1102)

  城 繁幸
  価格: ¥735 (税込)
  光文社(2006/9/15)

 本書は、多くの若者が口にする「閉塞感の正体」を指し示すことで、「自分が人生地図の中でどの位置にいるのか」を理解することを助けることを目的としたものです。
 第1章「若者はなぜ3年で辞めるのか?」では、日本全体を包み込んできた「昭和的価値観」にとって何より重要なものが、「本人の能力やそれによる収入ではなく、『あるシステムに乗っかっているかどうか』」であると述べています。
 そして、「昭和的価値観の中では勝者と言っても差し支えない」正社員としての地位を確保した若者たちの中に、「わずか数年で途中下車してしまう人間が急増している」として、「大卒入社3年以内で36.5%」に達することを指摘しています。
 著者は、企業の人事担当者が若者を語った話の中に、"わがまま""忍耐不足"という単語が頻繁に登場していることを指摘し、「このニ語こそ、若者たちが企業から途中下車する理由を説明するキーワードになりそうだ」と述べています。そして、90年代末の就職氷河期に、学生の姿勢に変化が表れ、「明確なキャリアプランを持ち、そのために努力し、厳選採用に対応して正社員としての地位を獲得できるグループ」が、「就職までのプロセスにおいて、あまりにも『仕事に対する意識』が高くなりすぎている」ため、「彼らが入社後、希望していた業務と実際に割り振られた業務にギャップがあった場合、強烈なフラストレーションを抱え込むことになる」と解説しています。一方で、企業の人事部が、「入口で厳しく要求する能力など、半分くらいの若者、いや、ひょっとすると大半の若者には、生涯発揮する機会すらないのではないか」と指摘しています。
 そして、年功序列のシステムが崩壊し、「半数以上の人間は"働き損"で終わること」になり、「彼が受け取るのはポストではなく、やり場のない徒労感でしかない」ことが、「若者が会社を途中下車する最大の理由」であると述べています。
 第2章「やる気を失った30代社員たち」では、就職氷河期を経験した世代からは「温室育ち」と揶揄されるバブル世代を、「もっとも貧乏くじを引いた存在」であると述べ、「バブル世代ほど、年功序列というレールを深く信頼しきっていた世代はおそらく他にないだろう」と指摘しています。
 そして、30代でのメンタルトラブル発症率の高さの原因として、「モチベーションの消失」を挙げ、「企業の中でレールに乗って順調に先に進めるか、それとも完全にキャリアパスが止まってしまうのか」が自分ではっきり分かる年齢が、「大方の企業において30代」であることが、「企業内で30代が壊れていく最大の理由だろう」と述べています。
 第3章「若者にツケを回す国」では、バブル崩壊後、人件費抑制のために採用を抑えた企業にとって、「いままでよりずっと安い賃金で、ずっと下っ端のままこき使える存在」が、「1990年代、長引く不況の中で、企業側の強い圧力により新しく作り出されて」いったとして、「派遣社員と呼ばれる新しい形態の労働者集団」を解説しています。
 そして、「若者を切り捨てたのは、なにも年老いた欲深い経営者だけではない」として、「労働組合も、まだ組合費を払っていない将来の組合員には冷酷そのものだ」と述べ、
「若い人間は必要だ」(経営者)
「でも、リストラや賃下げは絶対に認められない」(労働組合)
という両者の声の妥協の産物が、「派遣や請負などの非正規労働者の増加」であると指摘しています。
 第4章「年功序列の光と影」では、就職先を決めないまま大学を卒業してしまった「既卒」扱いの若者たちが、「ほとんどの企業で『既卒者は門前払いされる』ことになる」として、東京大学法学部を卒業し、司法試験浪人をしていた若者の例を挙げています。そして、「企業が年功序列に固執する限り、彼らが正社員になれる可能性は今後も低いだろう」と述べています。
 著者は、「年功序列制度の本質」を、「ねずみ講」であると指摘し、「『若いうちは我慢して働け』と言う上司は、いわば若者をそそのかして人生を出資させているようなものだ」と述べています。
 第5章「日本人はなぜ年功序列を好むのか?」では、豊臣秀吉が作った制度であり、「ある大名が、自分の許可なく勝手に過信を辞めた人間を"奉公構い"扱いと宣言したとする。すると、どんなに有能であっても、他家は決して彼を採用できない仕組み」である「奉公構い」という制度を紹介し、現代でも、同業の大手企業同士が「現役社員については、お互いに中途採用しない」ことを取り決めていた例を挙げ、「やたら熱心に結婚を勧める」「早くマイホームを買えと言う」ことも理由は同じで、「足につける重しという意味では、奉公構いと変わらない」と解説しています。
 そして、企業がそこまでして従業員を囲い込むメリットとして、労働の量そのものを挙げ、数年前、日本の年間総実労働時間がアメリカを下回ったという調査に、
(1)パートタイマーもカウントされている。
(2)年俸制や裁量労働制といった、時給という概念のない新しい勤務形態が増えている。
(3)この統計自体が、給与支払い実績を元に作成されており、サービス残業分はカウントされていない。
という留意点があることを指摘し、「平均的な日本人は、今でも欧米人の1.5倍程度は働いている計算になる」と述べています。
 第6章「『働く理由』を取り戻す」では、「日本型教育システムにおける優秀層の人間ほど、逆に自らの動機が希薄なように思えることがある」として、「むしろ、彼らは動機を失うことで、その地位を手にしたのかもしれない」と述べています。
 そして、国内最大手の生命保険会社を1年で辞め、政治家に転身した若者、ソニーを退職しベンチャー企業を起こした若者、フリーター生活からライターになり友人たちと編集プロダクションを立ち上げた若者、の3人の例を紹介し、「一見すると彼らの行動基準はてんでんばらばら」だが、「常に自分の動機と真剣に向き合っていることがよくわかる」、「彼らが義務を負っているのは、他の何者でもない、自分自身の内なる動機に対してだ」と述べています。
 著者は、本書を、「これほど希望に満ちた明るい書はない」と述べ、「本書を読んで胸が躍る代わりに、不安にさいなまれたという人」は、「例の昭和的価値観」を捨てなければならない、と述べ、「それさえ捨てることが出来れば、実はわれわれには、先人たちにはない、ある貴重な宝物があることに気づく」として、「自分で道を決める自由」を挙げています。
 本書は、若者が直面している人生に対する閉塞感の原因をわかりやすく解説した一冊です。


■ 個人的な視点から

 著者は元々、大企業における成果主義の実態を世の中に明らかにした告発本で有名になっただけに、労働組合などから講師に招かれることが多いようなのですが、著者自身は、成果主義自体には反対ではなく、成果主義が徹底されていないことに対して告発したつもりがあったようで、思惑をはずしてしまった労働組合関係者はずいぶん戸惑ったのではないかと思います。


■ どんな人にオススメ?

・入社3年以内の若者と学生。


■ 関連しそうな本

 城 繁幸 『内側から見た富士通「成果主義」の崩壊』 
 城 繁幸 『日本型「成果主義」の可能性』 2005年12月08日
 高橋 伸夫 『虚妄の成果主義―日本型年功制復活のススメ』 2005年3月30日
 高橋 伸夫 『〈育てる経営〉の戦略―ポスト成果主義への道』 2005年06月16日
 本田 由紀 『若者と仕事―「学校経由の就職」を超えて』 2006年03月02日
 玄田 有史 『仕事のなかの曖昧な不安―揺れる若年の現在』 2005年07月20日


■ 百夜百音

TOKIO【TOKIO】 沢田研二 オリジナル盤発売: 1979

 よくよく見るとタケちゃんマンの衣装だということをはじめて知りました。ナハナハ。タイマーズのゼリーとは別人のようです。

『MIS CAST』MIS CAST

2008年1月26日 (土)

ブランドは広告でつくれない 広告vsPR

■ 書籍情報

ブランドは広告でつくれない 広告vsPR   【ブランドは広告でつくれない 広告vsPR】(#1101)

  アル・ライズ, ローラ・ライズ, 共同PR株式会社
  価格: ¥1890 (税込)
  翔泳社(2003/2/13)

 本書は、「広告志向のマーケティングからパブリック・リレーションズ志向のマーケティングへのめざましい変化」の時代における、広告とPRの役割の違いを明確に論じた一冊です。
 著者は、「広告には信頼性(クレディビリティ)が欠如している」ため、「広告によって新しいブランドを市場に出すことはできない」と述べ、「広告の目的はブランドを構築することではなく、防衛すること」にあり、「広告はパブリシティがつくったブランドを維持できるだけ」であると解説しています。
 第1章「広告とセールスマン」では、「あらゆる広告にとっての弱みはクレディビリティ――信頼性だ」として、「人々は広告のことを、企業が自己の利益のために金をかけて発信する一方的なメッセージ、と見ている」と述べています。
 第2章「広告とアート」では、「広告制作者たちが、消費者がブランドをどのように受け入れるかよりも、作品が後々まで評価されるかということにより多くの関心を払っている」ことを指摘するとともに、第3章「広告とクリエイティビティ」で、「効果的な広告であろうとするなら、いわゆるクリエイティビティは必要ない。必要なのはクレディビリティ=信頼性なのだ」と述べています。そして、第4章「広告と広告賞」で、広告代理店が、「独自の消費者調査よりも、広告賞へのエントリーに多くの費用をかけている」ことを指摘し、「多くの広告スローガンは耳に心地よい響きを持つ。記憶にも残る」が、「消費者にブランド購入の動機づけはできていない」と指摘し、「釣張りなしで釣りをするようなものなのだ」と述べています。
 第5章「広告とブランド認知度」では、広告によって、無名から有名になることは「困難をきわめる」理由として、
(1)広告自体が信頼されていないこと。
(2)聞いたこともないブランドは信頼されないこと
の2点を挙げ、「PRはこの2つの問題を解決する」として、
・メッセージは、メディアという偏見のないところから発信されているからクレディビリティがある。
・メディアは聞いたことのないことを教えてくれるものと考えられている。
の2点を挙げています。
 第6章「広告と売り上げ」では、「パブリシティやPRは、消費者の知覚認識を扱う上で、広告よりも効果的な手法だといえる」と述べ、「広告の失敗のいくつかは、広告の自信過剰に起因する」ものであると指摘しています。
 第8章「広告と信頼性」では、広告効果の減少の「根本的な問題」として、「広告における信頼性」を挙げ、「どんなに作品がクリエイティブであっても、どんなに媒体選択が適切であっても、広告は信頼性の欠如という壁にぶちあたる」と指摘しています。
 第10章「第三者の力」では、「何が最良かを判断する場合、多くの人は他人が何を最良かとしているのかを知ろうとする」として、結論を導く情報源として、メディアと口コミを挙げています。
 第11章「PRで新ブランドを構築する」では、マイクロソフトが大量のパブリシティでブランド企業になったとして、「ブランド構築に関する限り、広告は時代遅れになってしまったのだ。いまやブランドを構築するのはマスコミが発信する情報だ。その情報が多く、さらに好意的であれば、それだけブランドは強固になる」と述べています。
 第14章「ブランドを世に送り出す」では、「PRが小さなことから始めるのに対し、広告は必然的にビッグ・バン構想に基づかざるを得ない」と述べ、PRでは、「通常、弱小メディアから始め、徐々に主要メディアを対象とした大掛かりな企画に展開させていく」と解説しています。そして、「メディアの人間ほど、メディアをよく読み、よく見る」として、「パブリシティによる販促戦略の核となるのは、こうしたマスコミ内の相関関係や個々のメディアの特徴を知っておくことである」と述べています。
 第21章「PRがブランド構築、広告が維持」では、「クリエイティビティが必要なのはPRの領域であり、広告ではない。広告を使用する場合、その役割は、パブリシティが植え付けられたブランドイメージをさらに強化することにある」と述べています。
 第23章「全機能を稼動させる」では、「ブランドは人を介して広がる。風邪と同じである」として、「その最初の動きを作り出し、それを拡大していくために、パブリシティやPR活動が必要なのだ」と述べ、「広告はブランド構築するものではない。広告は新しい考えを消費者のマインドに送り込むものでもない。広告は既成の認識に働きかけてその認識をさらに強固なものにしたり、結びつけたりするもの」であると解説しています。
 そして、「ある分野で世界に君臨する強力なブランドを構築する」ために必要なものは、「ただ次の2点のみ」、すなわち「我慢と強さ」であると述べています。
 本書は、広告とPRの得意分野と限界を教えてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 本書は、広告業界をこき下ろすような表現も多く、業界の人にとってはカチンと来るものになるのではないかと思いますが、著者は決してPRを広告より優れたものとして単純に褒め称えているわけではなく、ことブランド構築に関しては、広告による物量戦略よりも、パブリシティによる展開がすぐれているという役割分担の話をしているのではないかと思います。


■ どんな人にオススメ?

・広告のあまりの多さに驚愕している人。


■ 関連しそうな本

 デイヴィッド・オグルヴィ (著), 山内 あゆ子 (翻訳) 『ある広告人の告白』 2007年01月02日
 矢島 尚 『好かれる方法 戦略的PRの発想』 2006年10月25日
 ジャック・セゲラ (著), 小田切 慎平, 菊地 有子 (翻訳) 『広告に恋した男』 2007年09月20日
 山田 登世子 『ブランドの条件』 2007年06月11日
 白井 美由里 『このブランドに、いくらまで払うのか―「価格の力」と消費者心理』
 高橋 克典 『ブランドビジネス―成功と失敗を分けたもの』


■ 百夜百音

ゴールデン☆ベスト 石川セリ シングルス・アンド・モア【ゴールデン☆ベスト 石川セリ シングルス・アンド・モア】 石川セリ オリジナル盤発売: 2003

 井上陽水が石川セリの前で30分で作ったという「ダンスはうまく踊れない」は、いつの間にかスタンダード的な位置づけの曲になってしまいました。

2008年1月25日 (金)

爆発するソーシャルメディア セカンドライフからモバゲータウンまで グーグルを超えるウェブの新潮流

■ 書籍情報

爆発するソーシャルメディア セカンドライフからモバゲータウンまで グーグルを超えるウェブの新潮流   【爆発するソーシャルメディア セカンドライフからモバゲータウンまで グーグルを超えるウェブの新潮流】(#1100)

  湯川 鶴章
  価格: ¥735 (税込)
  ソフトバンク クリエイティブ(2007/3/16)

 本書は、「意見、洞察、経験、見解を互いに交換するためのツールやプラットホーム」と定義される「ソーシャルメディア」の時代の到来が何を生み出しつつあるのかを論じた一冊です。
 ソーシャルメディアは、「ユーザーが作るコンテンツによって成立するメディア」である「CGM(コンシューマー・ジェネレーテッド・メディア=消費者生成メディア)」と同義語であると述べられ、「これらのサービスに共通しているのは、ユーザーが自発的に発信したり投稿したりする『表現』という側面」であり、「そうした『表現』に、他のユーザーがアクセスしたり投票したりすることで、ユーザー同士の『つながり』が発生する。そしてその『つながり』と通じて情報が伝播することになる」と述べています。
 第1章「進化するソーシャルメディア」では、ソーシャルメディアの代表格であるSNSについて、元々は、「人脈作りのサイトとしてスタート」したものであり、日本のミクシィのほか、マイスペースやフレンドスターなどについて概略を紹介した上で、このような「コミュニティビジネスは先手必勝」であると考えられる理由として、「一般的に、コミュニケーションの手段というものは電話と同じで、ユーザー数が増えれば増えるほど、そのサービスの利便性が増す」という「メカトーフの法則」あるいは「ネットワークの外部性」と呼ばれる効果を挙げています。
 また、「SNSの進化の次の大きなステップは、間違いなくモバイルの方向」であり、「日本においてはモバイル展開なしに成功はあり得ない」として、モバイルへの進化は、
(1)パソコンの世界とはまったく違うユーザー層を確保できること
(2)カメラやGPSや電子マネー機能等のオフラインの世界との融合
の2つの大きな意味を持つと述べています。
 第2章「『動画共有』はソーシャルメディアのインフラになるか?」では、「ウェブを通じて誰でも無料で動画を公開・共有できるように」し、「作者(動画の提供者)とユーザー、またはユーザー同士がコミュニティを形成できるような仕組み用意している」サービスを提供しているユーチューブの功績について、「膨大な海賊版映像のアーカイブを作り上げたこと」ととらえるのは「大きな誤解」であり、「もともとはあくまでユーザーが(他人の著作権を侵さない)自分のオリジナル動画を自由に公開するためのツール」であり、「ユーザーが発信する情報が時に大きな話題を呼び、既存メディアでも取り上げられるようなケースは着実に増えてきている」と述べています。
 また、ニコニコ動画など、「動画ファイル自体を加工するのではなく、動画や音声など、本来テキスト情報がないところにタグを付けて」いく「ディープタギング」が「映像ビジネスをウェブで展開するうえで欠かせない要素になっていくだろう」と述べ、「もはや動画やただ共有するだけでなく、ユーザーが自由にカスタマイズできるようになりつつある」と述べています。
 第3章「セカンドライフという衝撃」では、セカンドライフ内におけるIBMの事業展開や、「セカンドライフの中でもっとも有名な個人」であり、「わずか10ドルの元手を32ヶ月で100万ドルにした」ことで知られる「アンシェ・チャン」が手がける不動産事業、さらには、セカンドライフ内に存在するマフィアである「バレンチノ一家」などを取り上げたうえで、「今から50年後ぐらいには、人々はみな現実社会と仮想社会の両方の人生をもち、その間を行き来する時代になる」というデジタルハリウッドの杉山校長の予測を紹介しています。
 第4章「爆発するクリエイティビティ」では、「自分を表現したい、クリエイティビティを発揮したいという欲求は、『承認欲求』や『自己実現の欲求』の一つの形ではなかろうか」と述べ、「ソーシャルメディア爆発の根底にはクリエイティビティの爆発があり、クリエイティビティが爆発しているのは、表現ニーズの高まりと表現ツールの登場が同時に起こっているからだ」と解説しています。
 そして、「自分の自己実現欲求を満たすために金銭的な見返りなしに智力を使ったクリエイティブな政策をする人は増えるだろうし、人から尊敬を集め他人に影響力を行使するために智力を使ったクリエイティブな作品を作る人も増えるだろう」と述べています。
 また、今後、「どのようなメディアが登場しようとも、その基本になるのは人々のクリエイティビティであり、そのクリエイティビティを共有すること、ということだけは間違いなさそうだ」と述べています。
 第5章「グーグル vs ソーシャルメディア」では、フロリダ州にあるジャーナリスト向けの非営利教育機関、ポインター研究所出身のロビン・スローン氏とマット・トンプソン氏が制作した「EPIC2014」というショートムービーを取り上げ、その内容は、「グーグルがアマゾン・どっと・コムと合併して巨大ネットメディアに成長し、ニューヨークタイムズなどの既存メディアを傍流に追いやるという大胆な未来予測」であり、「当時米国のメディア業界関係者に衝撃を与えた」と述べています。
 そして、このショートムービーが、ジョージ・オーウェルの『1984年』の主人公の名前である「ウィンストン・スミス」の運転免許証を登場させていることを挙げ、「このショートムービー波長管理社会の恐怖を隠れたテーマにしている」と述べています。
 著者は、「クリエイティビティが爆発するソーシャルメディアとグーグルの争いの結果は、もうすでに見えている。爆発するクリエイティビティの圧勝である。そのことを知っているグーグルは、戦おうともしていない」と述べています。
 本書は、新しい時代のメディアのあり方に連なる道を示してくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 映画やテレビのような、時間軸の設定権が制作者側にあるメディアに触れる時間がどんどん減り、ビデオやネットなどのように、受ける側が時間軸を設定できるメディアに触れる機会がどんどん増えているような気がします。ちょうど、作者の設定した時間の流れに身を委ねる小説を読む時間が減っているような感じでしょうか。


■ どんな人にオススメ?

・メディアのあり方の進む方向を見極めたい人。


■ 関連しそうな本

 早稲田大学IT戦略研究所, 根来 龍之 『mixiと第二世代ネット革命―無料モデルの新潮流』 2007年03月31日
 原田 和英 『巨大人脈SNSのチカラ』 2007年09月01日
 国際社会経済研究所, 青木 日照, 湯川 鶴章 (著) 『ネットは新聞を殺すのか-変貌するマスメディア』
 増田 直紀, 今野 紀雄 『「複雑ネットワーク」とは何か―複雑な関係を読み解く新しいアプローチ』 2006年04月18日
 アルバート・ラズロ・バラバシ (著), 青木 薫 (翻訳) 『新ネットワーク思考―世界のしくみを読み解く』 2005年10月24日
 スティーヴン・ストロガッツ (著), 蔵本由紀, 長尾力 (翻訳) 『SYNC』 2006年04月10日


■ 百夜百マンガ

海底人類アンチョビー【海底人類アンチョビー 】

 この作品が発表された平成初期の頃でさえ、元ネタの海のトリトンをリアルタイムで知っている人は相当少なかったのではないかと思いますが、マニアは恐ろしいものです。

2008年1月24日 (木)

社会的責任のマーケティング―「事業の成功」と「CSR」を両立する

■ 書籍情報

社会的責任のマーケティング―「事業の成功」と「CSR」を両立する   【社会的責任のマーケティング―「事業の成功」と「CSR」を両立する】(#1099)

  フィリップ・コトラー, ナンシー・リー (著), 早稲田大学大学院恩藏研究室 (翻訳)
  価格: ¥3570 (税込)
  東洋経済新報社(2007/08)

 本書は、企業に対して多く寄せられる「社会的コーズ(主張)への支援」を求めた提言や要望への対応に追われている企業の経営層、管理者、担当スタッフが円滑に意思決定を行うための手引書としてまとめられたものです。
 第1章「よきことを行なう」では、「企業の社会的責任(CSR : Corporate Social Responsibility)」を、「企業が自主的に、自らの事業活動を通して、または自らの資源を提供することで、地域社会をよりよいものにするために深く関与していくこと」と定義するとともに、「企業の社会的取り組み」を、「社会的コーズへの取り組みを支援し、社会的責任を果たすために企業が行う主要な活動」と定義しています。
 また、企業が社会的コーズに取り組むことの潜在的ベネフィットとして、
・売り上げや市場シェアの増加
・ブランド・ポジショニングの強化
・企業イメージや評判の向上
・従業員にとっての魅力度や労働意欲の向上と離職率の低下
・コストの削減
・投資家や金融アナリストに対するアピール力の強化
等を挙げています。
 第2章「企業の社会的取り組み――6つの戦略オプション」では、社会的責任に関連する、もっとも主要な取り組みとして、
(1)コーズ・プロモーション
(2)コーズ・リレーテッド・マーケティング
(3)ソーシャル・マーケティング
(4)コーポレート・フィランソロピー
(5)地域ボランティア
(6)社会的責任に基づく事業の実践
の6点を挙げています。
 第3章「コーズ・プロモーション―社会的な主張に対して意識と関心を高めること」では、コーズ・プロモーションを、企業が、「資金、物資、その他のさまざまな企業資源を寄付することにより、自らの社会的コーズ(主張)に対する意識や関心を高め、この主張のための資金調達、人々の参加、ボランティアの人材募集を支援する」と定義しています。
 そして、企業のコーズ・プロモーションがフォーカスを当てるコミュニケーション対象として、
・意識と関心を高める
・よりくわしく知るよう呼びかける
・時間を提供するよう呼びかける
・寄附金を募る
・金銭以外の寄付をするよう呼びかける
・イベントに参加するよう呼びかける
等を挙げています。
 第4章「コーズ・リレーテッド・マーケティング―製品の売上げを通してされる社会貢献」では、コーズ・リレーテッド・マーケティング・キャンペーンを、「企業が製品の売り上げから得られた利益を何らかの組織に寄付すること」と定義しています。
 そして、一般的なものとして、
・個々の製品の売り上げに応じて一定額の寄付を行なう
・すべての申込や口座開設に応じて一定額の寄付を行なう
・製品の売り上げや取引における一部を慈善団体へ寄付する
・時には公表せずに、売り上げの一部を慈善団体へ寄付する
・製品と関連した事柄に結びつけ、消費者に寄付させる
・製品の売り上げにおける純利益の一部を寄付する
・特定製品や複数の製品で寄付を行なう
・特定の期間、あるいは無期限で寄付を行なう
・売上げに対して寄附金の上限が句を設定する
等を挙げています。
 また、コーズ・リレーテッド・マーケティングの取組みがもっとも成功する場合として、「企業がコーズや慈善活動との間に刺激的で、理想としては長期的な関係を構築し、さらにこの取り組みが製品に統合的に反映される状況」を挙げ、例として、「ある救命胴衣メーカーが何年もの間、子どもの水難防止への社会的取り組みに、地域の小児病院とパートナーになっているシナリオ」について検討しています。
 第5章「ソーシャル・マーケティング―行動改革キャンペーンの支援」では、ソーシャル・マーケティングを、「公衆衛生・治安・環境・公共福祉の改善を求めて、企業が行動改革キャンペーンを企画、あるいは実行するための支援手段のこと」と定義しています。
 そして、企業にとっての潜在的なベネフィットとして、「ブランド・ポジショニングを括弧たるものとし、ブランド選好を創造し、取引を構築し、販売量を増加させるといったマーケティングの目標や目的と一致している」と述べ、「時には本物の社会的インパクトを生み出すなど、マーケティングの成果を越えたベネフィットが得られることもある」と解説しています。
 また、戦略的にソーシャル・マーケティング計画を企画するためのステップとして、
(1)状況分析を実施せよ
(2)ターゲットとする人々を選択せよ
(3)行動目的(望ましい行動)を行動改革の目標を設定せよ
(4)行動改革に対する障壁やモチベーションについて決定せよ
(5)製品・価格・チャネル・プロモーション戦略といったマーケティング・ミックスを策定せよ
(6)評価とモニターのための計画を立案せよ
(7)予算を決定し、資金提供スポンサーを見つけよ
(8)実行プランを完遂せよ
の8点を挙げています。
 第6章「コーポレート・フィランソロピー―コーズに対する直接的な寄付活動」では、コーポレート・フィランソロピーを、「企業が慈善団体やコーズに対して行う直接的な寄付行為であり、多くの場合、現金、製品、サービスなどの寄付という形で実施される」と定義しています。
 そして、この取り組みに大きな強みとして、「企業の名声と評判の向上、労働力の獲得と維持、地域における社会的課題に対する影響力、当該企業が従事している社会的取り組みの効果の増大」を挙げています。
 第7章「地域ボランティア―従業員は自らの時間と能力を提供している」では、地域ボランティアを、「従業員、取引先企業、フランチャイズ企業が、地域のコミュニティ組織やコーズを支援するために自らの時間を進んで提供することに対し、企業が支援・推奨するという取り組みである」と定義しています。
 そして、ボランティアへの取り組みにおける成功の鍵として、「親しみ(familiar)」を挙げています。
 第8章「社会的責任に基づく事業の実践―コーズを支援するための自主的な事業活動と投資」では、社会的責任に基づく事業を、「環境保護やよりよい地域社会の実現といった社会的コーズ(主張)の支援を目的とする自主的な事業活動や投資のこと」と定義しています。
 また、「企業が社会的責任に基づく事業にいざ取り組むとなると、動機が疑問視されたり、活動に厳しい評価がなされたり、結果が細かく調べられたりする」という専門家の警告を紹介し、「企業のマネジャーは、疑いや批判を受ける前に取り組むこと、社会的ニーズだけでなくビジネス・ニーズとも適合したい課題を選ぶこと、長期的にコミットメントすること、従業員の熱烈な支持を得ること、約束を達成するための体制づくりをすること、オープンで、正直で、直接的なコミュニケーションを行なうこと、などにより人々からの疑いや批判を減らすよう全力で努力しなければならない」と述べています。
 第9章「25のベストプラクティス―企業とコーズに対して最もよきことを行うために」では、25のベストプラクティスを取り上げたうえで、これらのインタビューの中での「もっとも重要であると思われるアドバイス」として、「社会的取組みに対する全社的ガイドラインを含む公式資料を作るべき」であることを挙げています。
 第10章「企業から資金援助や支援を獲得するための10の提案―マーケティング・アプローチを用いる」では、企業経営者たちに、
・企業が社会貢献活動に求めているベネフィットとは何か
・表立っては言わない関心事とは
・社会支援に取り組みたいと思わせる状況とは
・複数の社会的取り組みの中から支援すべきものをどのように選ぶのか
・申し出をどのように評価するのか
・パートナーに何を望み、何を期待しているのか
などの点を質問した結果、返ってきた答えをベースに10の提案を示しています。
 本書は、企業の社会的責任を、いかに事業の成功に結びつけるかを考えるヒントを与えてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 「CSR」というと企業が慈善事業に寄付をする、というような認識をされることが多いように思われますが、本書を読むと、企業が営利の事業活動を通じて、社会にいかに貢献できるか、社会を変えることができるのかが伝わるのではないかと思います。


■ どんな人にオススメ?

・CSRとは企業に金をせびることだと思っている人。


■ 関連しそうな本

 フィリップ コトラー/ナンシー リー (著), スカイライトコンサルティング (翻訳) 『社会が変わるマーケティング――民間企業の知恵を公共サービスに活かす』
 フィリップ コトラー, エデュアルド L. ロベルト (著), 井関利明(監訳) 『ソーシャル・マーケティング』 2005年02月14日
 谷本 寛治, 田尾 雅夫 (編著) 『NPOと事業』 2005年01月28日
 上山 信一 『「政策連携」の時代―地域・自治体・NPOのパートナーシップ』 2005年03月28日
 沢 昭裕, 経済産業研究所『公を担う主体としての民』研究グループ (編集) 『民意民力―公を担う主体としてのNPO/NGO』 2005年05月18日
 D. ヘントン, K. ウォレシュ, J. メルビル (著), 加藤 敏春 (翻訳) 『市民起業家―新しい経済コミュニティの構築』 2005年03月15日


■ 百夜百マンガ

新約「巨人の星」花形【新約「巨人の星」花形 】

 あの「国民的漫画」のリメイク作品です。とは言え、ライバルを主人公にしているので、リメイクというよりサブストーリーとか外伝の類ではないかと思います。
 個人的にはぜひ、「左門」も作って欲しいものです。

2008年1月23日 (水)

オバサンの経済学

■ 書籍情報

オバサンの経済学   【オバサンの経済学】(#1098)

  中島 隆信
  価格: ¥1575 (税込)
  東洋経済新報社(2007/04)

 本書は、「オバサンになることも女性の合理的な選択の結果であり、それについて周りがとやかく言う必要はないのではないか、また、オバサンがこの世に存在する以上、何か世の中の役に立っているのではないか」という思いから書かれたものです。
 著者は、「オバサン」を、「女性らしさの維持の放棄」と定義したうえで、「オバサンの経済学」の目的を、「なぜ女性がオバサン化することを決断するのかを明らかにしたうえで、それが女性の自由な選択に基づくものなのか、あるいは何らかの社会の歪みを反映したものなのかを解明することである」と述べています。
 第1章「オバサン誕生のメカニズム」では、「経済学的な視点に基づき、女性がオバサンになるかならないかは女性自身の決断によるものと考える」と述べ、女性らしさを長期間維持することのコストとメリットの観点から、「女性がオバサン化するメカニズム」を解明しています。
 そして、近代以降に定着した家庭内分業が、「行政による制度上の後押しもあって女性のオバサン化を促進してきた」と述べ、「現代では、そうした制度の歪みが女性の晩婚化という形で表れてきている」と解説しています。
 第2章「オバサンの働き方」では、オバサンが活躍している仕事として、
(1)家政婦
(2)土木作業者
(3)清掃員
(4)マンション・アパート等管理人
(5)飲食店主
(6)会社役員
(7)小売店主
(8)理容師
(9)浴場従事者
(10)集金人
などを挙げた上で、「これらの仕事でオバサンが多数を占める」理由として、
(1)家事労働などオバサンの持っている能力が職場で重宝されている。
(2)育児能力
(3)女性らしさを放棄している
などの点を挙げています。
 一方で、オバサンが少ない職業として、
(1)歯科衛生士
(2)電子計算機等オペレータ
(3)デザイナー
(4)キーパンチャー
(5)記者、編集者
(6)臨床・衛生検査技師
(7)保健師
(8)医師
(9)養護学校教員
(10)幼稚園教員
の10点を挙げ、こうした職業でオバサン世代が少ない理由として、
(1)女性にとって結婚後の職場復帰が難しい。
(2)これらの専門職では、家事や育児とはとても両立できないほど多忙を極める。
(3)これらの専門職にある女性は結婚するチャンスに恵まれている。
などの点を挙げています。
 また、「労働力としてのオバサンは社会にとってきわめて便利な存在である」として、
(1)オバサンは極めて安価な労働力資源となっている。
(2)家事と子育ての経験があり、ある程度の就労体験を持つオバサンの人的資本の便利さ。
などを挙げています。
 第3章「経済人としてのオバサン」では、「既婚の無業女性がオバサン年齢に達したときの生活時間の変化」として、「育児が2時間丸々減少し、そのかわりにテレビ視聴・雑誌購読などが1時間以上、趣味・娯楽が20分程度増加している」ことに着目し、「この大きな変化こそがオバサンの生活者としての行動を解明する鍵になる」と述べています。
 そして、「オバサンの時間コストは一般的に低い」と考え、「時間をかけて市場調査する余裕が生まれる」ために価格に敏感になると述べています。
 また、「経済活動における摩擦的なコスト(取引コスト)をもたらす要因」となる「他人の目に対する羞恥心」がないオバサンは、「経済学が想定する最も単純な合理的経済人そのものである」と述べています。
 著者は、「オバサンほど自らの欲求の充足のために合理的に行動している人たちはいない」と述べたうえで、「オバサンは特別な存在ではない」として、「われわれは状況次第で誰でもオバサン化する可能性があることを知っておかなければならない」と指摘しています。
 第4章「お母さん、オバサン、おばあさん」では、「『お母さん』→『オバサン』→『おばあさん』という流れ」を想定し、「この変化の過程で女性の合理的行動にどのような変化が見出されるか」について検討しています。
 そして、「一卵性母娘」のような「子育てが終了していないお母さん」は、「女性らしさを維持するインセンティブが高いため、いつまでもオバサンにはならない」と述べ、「オバサンになった女性は精神的な子育ての終了を宣言しているのである」と述べています。
 第5章「オバサンとオジサン」では、「女性はオバサンになることを選択することによって中性化し、性的な特徴が表に出なくなっていく」一方で、「男性の場合は、オジサンになると外見上のたくましさ、格好よさ、そして清潔感などが失われていくにもかかわらず、相変わらずホルモンは分泌され続けるため、性的な機能だけが目立つようになる」と述べ、オジサンを、「若さを失った後も性を捨てることの出来ない存在として生き続けなければならない男性」と定義しています。
 そして、オジサンが「イヤらしい性を素敵な性に転換すること」によって「オジサマ」になるという選択肢を示しながらも、
(1)見た目の身体的特徴が第一条件
(2)オジサマという評判を勝ち取り、それを維持するにはコストがかかる
などの難しさがあることを指摘しています。
 また、近年登場した「ちょい不良(ワル)オヤジ」という選択肢について、「女性に気に入られるような男らしさを徹底的に追求」するという、「オジサンのマイナスイメージを払拭したい中年男性にとって極めて巧妙な戦略」であると述べています。
 さらに、熟年離婚の増加について、「突如として日本の中高年夫婦の仲が悪くなったため」ではなく、「単に離婚のコストが下がった結果に過ぎない」と指摘しています。
 第6章「オバサンに未来はあるか」では、働く女性の増加や専業主婦のモチベーションの低下などを挙げ、「女性にとってオバサンになることのコストが上昇したこと、すなわち女性らしさを維持するメリットが相対的に高まったことを意味している」と述べ、その結果、「オバサンの空洞化を生む」と指摘し、「これからの女性は一人の人間としての生きがいを追求していく存在になるだろう」と述べています。
 そして、「家庭内で子育てや介護などを引き受ける専業主婦の社会的な役割が大きい」としたうえで、「そうあることを女性が積極的に選択したわけでなく、『家庭内差別』の状態におかれ他に選択肢がなかったためだとするならば、その見返りが生きがいのないオバサンという現実はあまりにむなしい」と述べ、「現在問題になっているのは、人生の選択肢が制度的に狭められているために、結婚や出産を後悔する女性や、将来の不自由さを予測してこれらの選択を避ける若い女性が増えてきていることである」と指摘しています。
 また、「女性にとって人生の選び直しは極めて難しい」ことを指摘し、「選び直しの出来ない市場は活性化しない」として、「選び直しのコストを下げれば、夫婦の仲は現在よりも強固になる」と述べ、その理由として、
(1)夫婦の緊張感を高め、相手に気に入ってもらおうという言動として表れる。
(2)緊張感のコストを節約するため、信頼関係の構築に努める。
の2点を挙げ、「大切なことは、夫婦が自らの意思において積極的に良好な関係を保とうとすることである」と述べています。
 本書は、男女問わず「明日はわが身」の可能性がある「オバサン化」のメカニズムを解説した一冊です。


■ 個人的な視点から

 本書でも筋金入りの「志願兵オバサン」として取り上げられている「大阪のオバサン」は、関ジャニの「∞SAKAおばちゃんROCK」でも散々歌われていますが、確かに「オレオレ詐欺」にはひっかからなそうな感じがします。


■ どんな人にオススメ?

・「オバサン」誕生のメカニズムを理解したい人。


■ 関連しそうな本

 中島 隆信 『お寺の経済学』 2006年03月21日
 中島 隆信 『大相撲の経済学』
 中島 隆信 『障害者の経済学』 2007年04月29日
 中島 隆信 『これも経済学だ!』 2007年07月17日
 ゲーリー・S. ベッカー, リチャード・A. ポズナー (著), 鞍谷 雅敏, 遠藤 幸彦 (翻訳) 『ベッカー教授、ポズナー判事のブログで学ぶ経済学』 2007年02月05日
 大竹 文雄 『経済学的思考のセンス―お金がない人を助けるには』 2006年09月04日


■ 百夜百マンガ

ありゃ馬こりゃ馬【ありゃ馬こりゃ馬 】

 現役騎手が原作についたリアリティあふれる作品になっちゃった作品。路線変更と言うか「化けた」作品といえるでしょうか。

2008年1月22日 (火)

あなたのTシャツはどこから来たのか?―誰も書かなかったグローバリゼーションの真実

■ 書籍情報

あなたのTシャツはどこから来たのか?―誰も書かなかったグローバリゼーションの真実   【あなたのTシャツはどこから来たのか?―誰も書かなかったグローバリゼーションの真実】(#1097)

  ピエトラ リボリ (著), 雨宮 寛, 今井 章子 (翻訳)
  価格: ¥2100 (税込)
  東洋経済新報社(2006/12)

 本書は、Tシャツの「一生を追って三つの大陸を股にかけた何千キロにも及ぶ旅」の記録であり、「綿Tシャツの誕生に関わった人々と政治と市場経済の物語であり、グローバル化の物語」です。
 著者は、1999年2月、ジョージタウン大学で、シアトルで行なわれWTO総会を前にして、一人の女性が群集に向かって演説している姿を目にします。「あなたのTシャツは誰が作ったものですか。食べ物も飲み物も与えられずミシンにつながれたベトナムの子供でしょうか。時給18セントしかもらえず、1日に2度しかトイレに行かせてもらえないインドの若い女性でしょうか。皆さん知っていますか。彼女は12人部屋で生活しているのです。ベッドは共寝、食事にはお粥しかもらえません。残業手当も受け取れずに、週に90時間働かされます。発言する権利もなければ、労働組合をつくる権利もありません。彼女は貧乏なだけでなく、不潔で病気が蔓延する環境で暮らしているのです。すべてはナイキの利益のために。」
 この演説を聴いた著者は、自分のTシャツが誰によって作られているのかに関心を持ち、調査を始めます。著者は、「わたしの予想に反して、市場というものはこの物語で大きな役割を持つことはなかった。むしろ、物語を織り成しているのは、複雑に絡み合いながら競争市場というものを編み込んでいる『歴史』や『政治』なのだ」と述べるとともに、「グローバル化の推進派と反対派とが、人々の境遇の改善において知らず知らずのうちに『共謀者』となっている」ことを指摘し、経済学者のカール・ポランニーが提唱した「二重運動論」を紹介しています。
 第1章「テキサス州ラボック ラインシュ綿農園」では、「世界一コットンな街」ラボックを取り上げ、「私が着ているTシャツ」が、この周辺で生まれた可能性が高いと述べ、「世界市場において、およそ優位性というものは常に一時的なものでしかないということは、歴史が証明している」にもかかわらず、「綿の世界市場においてだけは、米国が200年以上にわたってあらゆる意味で圧倒的な覇者であり続けており、他国、とりわけ貧しい国々には、追いつける可能性すらないに等しい」ことを指摘しています。
 そして、「綿産業の米国支配を補助金だけで説明することはできない。補助金は、米国生産者に不動とも言うべき地位を保証してきた非常に大きな枠組みの、ほんの一例にすぎないのだ」として、「米国では綿の生産と販売に伴なう重大な競争リスクを緩和するための公共政策が200年以上にわたって発達し、生産者を守ってきた」と述べています。
 第2章「米国綿の歴史――勝利の鍵は労働市場の回避」では、奴隷制度が、「生産者を市場の脅威から隔離するべく発展した公共政策の第一号だった」ことを指摘しています。また、他国との比較において、「財産権、報奨制度、今日で言うところのガバナンスの問題など、工場方式による綿生産を維持するために欠かせない諸制度が、米国において果たした役割は大きい」と述べています。
 第3章「ラインシュ農園ふたたび――『怖いのは補助金だけじゃない』」では、「米国の生産者が、綿の生産工程においていかに巧みに商品価値を作り出したかについては目をみはるものがある」として、10トンの原綿の塊から、Tシャツになる2.5トン弱を除いた「ゴミにしか見えない」ものからの再使用、再資源化、再梱包の方法について解説しています。
 そして、「綿の世界市場における米国支配の影には、労働市場の抑制という『知恵』があった」と述べ、連邦政府の巨額の綿補助金に加え、「体系化された工場生産方式」や、「識字率、財産権、商業基盤、科学的進歩などの環境」が米国綿生産者の強みの源泉であることを解説しています。
 第4章「綿、中国へ上陸」では、米国の綿生産者の覇権が200年間守り続けられているのに対し、「繊維や衣料品産業での首位は、底辺へ向かう競争が苛烈なため、すぐに入れ替わってしまう」と述べ、「中国による繊維・衣料品産業の支配」が、「米国の綿生産者の覇権とは大きく様子が異なる」と指摘しています。
 第5章「底辺へ向かう長い競争」では、綿産業の覇権が、英国から米国、日本、そして「さらに安くて従順な労働力をもった新たな地域であるアジアの新興工業国・地域(香港、韓国、台湾)、さらには中国へと入れ替わっていった様子が解説されています。
 そして、「どの地域でも、綿織物産業の成長は他に選択肢のない多数の貧困層が支えた。いずれの場合も、『理想的な』労働力とされたのは丈夫で従順で文句を言わない人々だった。必要とされたのは独創性や知性ではなく、退屈な繰り返し作業に耐える体力と精神力だったのである」と解説しています。
 第6章「女工今昔物語――農場から搾取工場へ、そして……」では、中国の昔の女工たちにとって、「工場労働は心身ともに疲れ果てる農作業から抜け出し、経済的な豊かさを求めるための一歩となったばかりではない。自立と自己決断を初めて体験でき、どんなにわずかであっても給料をもらうことでさまざまな選択ができるようになった。ある者にとっては退屈さから、ある者にとっては強制的な結婚や横暴な父親から逃れる道だった。またある者にとっては、自分で自分の着るものを選べるようになる手立てだった」と伸べています。
 また、「皮肉なことに、若い女性を拘束するために綿々と続けられてきた慣習は、それが息のつまるような労働慣行であれ、門限であれ、あるいは鍵のかけられた寮、トイレの時間制限、生産ノルマ、強制的な教会通い、工場を取り囲む高い塀であれ、みな彼女たちを経済的自由と自立へ導く仕組みの一部でもあった」と述べています。
 さらに、『底辺への競争を阻止せよ!」との呼びかけが、「反グローバル化運動のスローガンの中でもっともおぞましく、馬鹿げている。まさにその競争によって豊かになった先進国の活動家が、その阻止を叫ぶのだからなおさらだ。彼ら活動家はいったい誰を農村に縛り付けておきたいのか、と尋ねたくなる」と指摘しています。そして、「より広い視野に立てば、グローバル資本家と反グローバリゼーションの活動家は敵同士ではない。図らずも、彼らは人々の生活環境をともに改善してきた協力者なのだ」と述べています。
 第7章「怒号の合従――政治が貿易を支配する理由」では、全米製造業貿易行動連合(AMTAC)の事務局長、オージー・タンティーロを取り上げ、「Tシャツ貿易においては、他業種で繰り広げられている『より速く』『より良く』『より安く』を目指す激しい市場競争は(今のところは)起こっておらず、むしろ競争は政治の世界で繰り広げられている」と指摘し、「価格を下へ下へと追い込んでいく市場の力は強大なものに違いないが、その市場に抵抗して価格を上へ押し上げようとする政治力も同じように強い」と述べています。
 また、「当初に意図に反して、政治は産業への介入によって『底辺への競争』を鈍化させるどころか、むしろ加速させる役割を果たしてしまった」と述べ、特定国からの輸入を制限する規制によって、米国の繊維産業を守るのではなく、その国の競合相手の米国市場進出に道を開くこととなったことを、「輸入品を防ぐための堤防の穴を一つ塞ぐことで、別の穴からの流入を増強してしまう」と述べています。
 第8章「保護貿易政策の意外な結末」では、「政治が衣料品貿易市場を支配してしまうこと」で、「本当に雇用が確保されてきたとはいいがない」と述べ、「雇用維持という保護主義体制の目標がほとんど達成されなかったにもかかわらず、米国民は私たちの予想に反して保護主義体制に相当同情的」であると述べています。
 そして、「米国の保護貿易体制は雇用維持の目標を果たせなかったばかりか、業界団体による『頭文字軍団』がTシャツの全製造過程においてコストを積み上げたために、国内業界の競争力の低下という予期せぬ結果を招いてしまった」として、「頭文字軍団は、自身が自分の最大の敵になってしまっている」ことを指摘しています。
 また、米国の繊維製品を輸入品から守るための経済的コストについて、「莫大な金額である」との数々の試算を紹介し、90年代半ばの時点で、「一人分の雇用を維持するための保護コストは、年間8万8千ドルであった」と試算したほか、2002年には、一人分の雇用確保のために約17万4825ドルのコストが費やされている、等の試算を紹介しています。
 さらに、衣料品産業が、「市場競争に対応することよりも、むしろ貿易障壁に適応することによって国際化してきた」と述べています。
 著者は、歴史の例として、1700年に、英国議会が、「毛織物団体が長年希望していた『最適な消費者層』をようやく保証した」として、
「いかなる死体も、羊毛のみから作られたシャツ、シュミーズ、布……を身にまとって埋葬されなければならない」
との法律が成立したこと、1722年12月25日には、「毛織物職工たちは戦いに勝った」として、「あらゆる種類の綿布を着用すること、または家具に使用することが禁止された」法律を紹介し、「何世代にもわたって英国人に暑くてむず痒くて高価な衣服を強要した」と述べ、「まもなく、綿布を国内製造するための見事なアイデアが次々と生まれてきた」として、「生産能力の高い綿織機、多軸紡績機、工場、そしてついには産業革命」を挙げています。
 第9章「四〇年の暫定的保護の終焉」では、「多国間繊維取極(MFA)」の効果について、「米国が、繊維製品の数量割り当てを導入し、それをさらに拡大し、複雑にしたことで、競争力のある主要輸出国の米国参入を阻止しただけでなく、MFAがなかったら米国に物を売ることもなかったはずの多くの発展途上国に、カネになる米国市場を細かく切り分けそのパイの一切れを保証する効果があった」と解説しています。そして、「MFAの賛成派と反対派の両方が口を揃えるのは、MFAは米国産業を守ることには失敗したかもしれないが、多くの弱小国への経済援助としては明らかに成功だった」ことを紹介しています。
 また、2002年にWTOが定める割当枠撤廃の第三段階が実施されたことで、「最貧国の一部は恐ろしい未来を垣間見ることとなった」として、中国が2001年にWTOに加入したことで、「一部の品目においてはじめて何の制限もなしに衣料品輸出が出来るようになった」と述べ、「人々は堤防に穴が開けられた後の水の噴出には慣れていたが、その水が中国から来ることについては、誰もまだ覚悟ができていなかった」と述べています。
 第10章「中古Tシャツの行方――日本、タンザニア、そしてボロ切れ工場」では、「Tシャツの一生の中で、本当の意味でのマーケット市場に出会うのは、実はこの最終段階においてのみだ」と述べ、「この古着業者だけが、政府やロビイストからも目を向けられることすらなく、完全な自助努力で勝負している」と解説しています。
 また、専門家が、「世界の最貧国が、貧困に加えて、アメリカのボロキレをポンポン投げ込むゴミ捨てかごの役割を担わされるとは、何たる侮辱的なことか」と述べていることに費えt、古着業者にとって、アフリカは「ゴミ捨て場」でも「取り残されたお荷物バスケットケース」でもなく、「得意先」であり、「多くの競合相手がアフリカ人消費者のニーズに応えようと必死でいる」と述べています。
 さらに、「Tシャツの一生の最終段階では、多国籍企業から離れたところで力関係が逆転し、小規模であることが有利に働くグローバルビジネスが存在している」と述べています。
 「結論」では、「Tシャツ製造をめぐる規制は、自由市場の猛威に立ち向かい、労働法や商慣行を書き換えてきた何世代にもわたる活動家たちの努力の結果」であると述べるとともに、ジョージタウン大学で演説していた女子学生には、「いつの時代にも市場と貿易によって若い女性たちが搾取工場に縛り付けられたが、彼女たちはむしろ自由になった」こと、「農民は農村にいることこそ一番と決め付ける前に、もう一度よく考えたほうがいい」と語りたいと述べています。
 本書は、Tシャツを通して、グローバリゼーションを理解する「目」を与えてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 日本でも繊維産業の女工の悲惨さは『女工哀史』として伝えられてきましたが、『日本の下層社会』にも紹介されているように、女工たちが低賃金労働とひきかえに自由をつかんだ様子がわかります。その是非を一方的に判断するのは難しいのではないかと思いました。


■ どんな人にオススメ?

・グローバリゼーションの一面を見てみたい人。


■ 関連しそうな本

 ジョセフ・E. スティグリッツ (著), 楡井 浩一 (翻訳) 『世界に格差をバラ撒いたグローバリズムを正す』 2007年08月03日
 ジェレミー シーブルック (著), 渡辺 景子 (翻訳) 『世界の貧困―1日1ドルで暮らす人びと』 2007年08月15日
 シルヴァン・ダルニル, マチュー・ルルー (著), 永田 千奈 (翻訳) 『未来を変える80人 僕らが出会った社会起業家』 2007年03月28日
 渡邊 奈々 『チェンジメーカー 社会起業家が世の中を変える』 2005年08月11日
 C.K.プラハラード 『ネクスト・マーケット 「貧困層」を「顧客」に変える次世代ビジネス戦略』 2006年07月28日
 ジェフリー サックス (著), 鈴木 主税, 野中 邦子 (翻訳) 『貧困の終焉―2025年までに世界を変える』 2007年06月20日


■ 百夜百マンガ

百年の祭り【百年の祭り 】

 人間ドラマを書かせたらピカイチだった作者だけに、政治とか宗教とかのシリアスなテーマにはピッタリでした。

2008年1月21日 (月)

ブックガイド〈心の科学〉を読む

■ 書籍情報

ブックガイド〈心の科学〉を読む   【ブックガイド〈心の科学〉を読む】(#1096)

  岩波書店編集部
  価格: ¥1260 (税込)
  岩波書店(2005/5/13)

 本書は、哲学や生物学、作家など各界で活躍する10人の読み手が、「心の科学」を読むためのお勧めの本を紹介しているものです。
 第1章「<心>とは何か」(黒崎政男)では、アリストテレスの『心とは何か(デ・アニマ)』を取り上げ、「この書物がミステリアスでしかもファンタジックなのは、アリストテレスが、魂が不死で永遠不滅であるかどうかを書いた決定的な箇所が破れていて、本人が何と書いたかわからず、しかも、この書物はアラビヤ経由で、ヨーロッパに中世中期に逆導入されたものであるということ」であると語っています。
 第2章「『動物の心』+『ことば』+『ヒトの心』そしてぼくの心は?」(岡ノ谷一夫)では、「動物の心的体験について知りたいと思っていた」著者が、ドナルド・R・グリフィンの『動物に心があるか――心的体験の進化的連続性』に出会ったことで、「他種動物に心的体験を仮定するということは、何も別にそれら動物の骨格構造、神経系、抗体をわれわれのそれと比較することに比べて擬人的ではない」という言明が、「自分の目指す方向性を明るく照らし、勇気づけてくれた」と語っています。
 第3章「思い続けることの不思議」(瀬名秀明)では、「<心の科学>についての多くの本が、デカルトの心身二元論に言及している」ことを挙げ、「いったいデカルトとはどんな人物で、実際のところ何を書いたのだろう」と本を手に取った著者が、たちまち「彼の考え方や生き方の魅力に惹かれてしまった」と語っています。
 そして、デカルトの『方法序説』が、「心と体についての優れた考察であると同時に、人間がよく生きるためのいまなお輝きを失わないアドバイス集なのだ」と述べ、「おそらく今世紀には、デカルトの残したこのふたつが、<心の科学>として交わるのだと私は思う」と語っています。
 また、もともとエンターテイメント小説を中心に読んでいた著者が、「十代の頃から難しい本をたくさん読んできた人に会う」と、「少し羨ましい気持ちになる」と語った上で、「だが焦ろうとは思わない。読みたいと思った瞬間こそが、多分もっともよい読書時期だからだ」と述べています。
 第4章「意識の迷宮」(信原幸弘)では、心の科学や哲学で「クオリア」と呼ばれる「意識への現われ」について頭を悩ませていた著者が、ダニエル・C・デネットの『解明される意識』に出会い、「デネットは、わたしが頭を悩ませていたクオリアが実は存在しない」と主張し、「われわれがクオリアとして理解しているものは、混乱と矛盾に満ちており、そのような理解に当てはまるものは何もない」と主張していることに衝撃を受けたと語っています。
 また、V・S・ラマチャンドランとサンドラ・ブレイクスリーの『脳のなかの幽霊』を取り上げ、手足を切断された人たちが、「その手足がまだあるかのように感じる」(幻肢)症状について、「われわれの脳はどうも夢見る脳らしい。それを覚ますのが外界からの刺激だ」と述べています。
 第5章「『心を読む』心の科学」では、バロン=コーエンの代表的著作である『自閉症とマインド・ブライトネス』を挙げ、生物の適応能力の観点からの心を理解する心の仕組みとして、
(1)意図検出器:「自分で動く物」が目標や願望を持っているかどうかを判断するしくみ。
(2)視線方向検出器:眼または眼状刺激の存在を検出する心のしくみ
(3)共有注意の機構:他の人の視線を追っていったり、指差しをして人の注意を引いたり、物を他の人に示したりするような、自己、他者、他の物(者)の三者の間で成り立つ心のしくみ。
(4)心の理論の機構:他の人の心の状態についての知識に基づいて行動するための心のしくみ。
の4点を挙げています。
 第6章「臨床神経心理学者が読む<心の科学>」(山鳥重)では、イスラエル・ローゼンフィールドの『記憶とは何か――記憶中枢の謎を追う』を取り上げ、「過去の出来事の貯蔵庫など、脳のどこにもない。脳には現在しかないし、過去の出来事の追想と思われるものも、実は現在の脳の働きそのものである。記憶と見えるものは現在の脳がただ今作り出しているものである。記憶は現在ただ今、絶え間なく展開し続けている脳による過去の概括である。つまり、記憶は創造(invention、原題の題名)である。われわれはなんとなく過去の記憶がどこかに『しまってある』と思いがちだが、そんなことはない。あるのは現在であり、現在ただ今の個体と環境の相互関係(文脈)だけである。脳は文脈をとらえるが、モノを個別にとらえたりはしない。大切なのは脈絡であり、脈絡の重なりであって、この脈絡には行為も組み込まれている。刺激(環境脈絡)―脳の神経ネットワーク―運動という脈絡が、環境を範疇化し、範疇化の重なりが意味や記憶を作り出すというのである。記憶と見えるものも、脳が今、現在の文脈に応じて、今、現在作り出している働きにほかならないという」と解説しています。
 第7章「ことばから見た心」では、言葉が、「心の構造や機能の解明を目指す認知科学にとって非常に重要な意味合い」を持つ理由として、
(1)ことばはヒトに固有である。
(2)ことばはヒトに均一的である。
(3)ことばの表現形には一定の変異が許容されている。
の3点を挙げたうえで、「認知科学にとってことばが重要であるもう一つの理由」として、「生得的な基盤がことばに固有なものであるのかどうか」という「領域固有性の問題」を挙げています。
 第10章「地面や空気から『心』について考えることもできる」では、「心の科学」を実践することの困難の理由として、
(1)長い間、心はもっぱら宗教や哲学の対象だったという歴史的な事情
(2)『心』は誰にでもあるので、皆それを自己流で考えて語り、『内省』に由来する理論が歯止めなく心の科学に参入した。
の2点を挙げ、「心の科学が最初から抱えてしまった二つの困難が克服されずにいる限り『危機』はこれからも何度も訪れるはずなのである」と述べています。
 本書は、心を科学の目で見たい人にとってガイドラインを与えてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 「心の科学」と一口に言ってもいろいろな分野に及ぶので、どういう方向の本を読むかによって内容はぜんぜん違うのですが、本書のようなブックガイドは袋小路に行き詰ってしまうことをとどまらせてくれるのではないかと思います。


■ どんな人にオススメ?

・人間の心を科学の目で見てみたい人。


■ 関連しそうな本

 マイケル・トマセロ (著), 大堀 壽夫, 中澤 恒子, 西村 義樹, 本多 啓 (翻訳) 『心とことばの起源を探る』
 ジェフ・ホーキンス, サンドラ・ブレイクスリー (著), 伊藤 文英 (翻訳) 『考える脳 考えるコンピューター』 2005年12月17日
 スティーヴ・グランド 『アンドロイドの脳 人工知能ロボット"ルーシー"を誕生させるまでの簡単な20のステップ』 2006年01月28日
 オリヴァー サックス (著), 吉田 利子 (翻訳) 『火星の人類学者―脳神経科医と7人の奇妙な患者』 2006年03月26日
 V.S. ラマチャンドラン, サンドラ ブレイクスリー (著), 山下 篤子 (翻訳) 『脳のなかの幽霊』 2006年09月03日
 トール ノーレットランダーシュ (著), 柴田 裕之 (翻訳) 『ユーザーイリュージョン―意識という幻想』 2006年06月18日


■ 百夜百マンガ

愛と誠【愛と誠 】

 鰯水じゃなくて岩清水の名せりふである「君のためなら死ねる」は元々は二葉亭四迷の訳文がネタ元のようです。

2008年1月20日 (日)

お世継ぎのつくりかた―大奥から長屋まで 江戸の性と統治システム

■ 書籍情報

お世継ぎのつくりかた―大奥から長屋まで 江戸の性と統治システム   【お世継ぎのつくりかた―大奥から長屋まで 江戸の性と統治システム】(#1095)

  鈴木 理生
  価格: ¥1785 (税込)
  筑摩書房(2006/09)

 本書は、「ある時期の物持ち・金持ちたちが、その状況の維持・継続、つまり今日の言葉でいう経営を任せられる人材を得ることを目的に、両性の営みによる子造り、または養子を探したことを意味する」言葉として、<お世継ぎのつくりかた>をタイトルに掲げ、主には、今から400年前に、「原始的な子造り行為と養子を制度化した政権」として、徳川家康が樹立した「公儀」と自称する武家政権を取り上げたものです。著者は、この「公儀」体制を永続させた原則として、
(1)男子の名義による相続。
(2)その男子の母親の出身や身分は問わない。
(3)このことは徳川家に限らず総ての武家に適用する。
(4)徳川家はじめ、武家の主君と家臣との間の順位は、「封」の経営を委任された者の、いわゆる禄高=石高=知行高といった経済的な指標による格付けよりも、徳川家との<血筋の濃淡>によるランク付けといった方法が優先された。
の4つの原則を挙げています。なかでも(4)については、「徳川家との嫁婿の縁組が実現すると、大名クラスの場合は徳川家から松平の姓を与えられて徳川家と同族となり、将軍の名の一字も与えられた」として、「このような縁組効果は、譜代・外様などの区別を、事実上解消させる効果をもたらした」として、「約三百年の間に将軍家を中心に主な大名家は、建前としてはすべて同族・親戚になっていたほど、嫁婿の縁組は完璧に、かつ複雑に絡み合っていた」と述べています。
 また、武家の場合に男子優先だった理由として、「当時の武力行使手段は女性より男性のほうが適していた」からとした上で、「武家以外の『農工商』の世界では、古代から続いて、女性を『お世継ぎ』にする手法が主流を占めていた」と述べています。そして、「この日本ではつい最近まで『お世継ぎ』が女性に限られた構造の社会と、男性に限られた社会が平和共存的に並立していた」として、「社会の構造と表現したが、むしろ性の違いを反映した二つの民俗を持つ世間が実在していたと、いいなおしたほうがより正確であるかもしれない」と述べています。この例として、著者が携わった「古老の語る明治百年」という座談会において、「古老たちの子ども時代の回想」を聞こうとしたところ、「並み居る老舗・大店の御当主や大旦那、一代の名人たちの全部が、婿養子だった」というエピソードを紹介し、「老舗・大店の旦那方の多くは、幼少時には都心には住んではいず、多くは『つて』を頼って上京したものがほとんど」であり、「小僧・丁稚から手代・番頭に至る過程で、その店内の評価とともに同業者の主筋からの評価にもパスして、主家への婿入りを果たしたというのが共通の経歴」で、さらに「同業組合の組合員である他家の当主たちの、満場一致の同意も必要であった」として、「いうならば現在の東証一部上場企業に当たるような商家の婚礼は、同業組合の議決が必要であり、当事者の私事ではなくて、組合の公事であり、婿は公職だったのである」と解説しています。そして、この座談会に出席した「家付きの奥様(おかみさま)」が、「子供の頃の話を聞きたければ、夫婦で呼ばなければ聞けませんよ」と主催者と司会者に声をかけたと述べています。このように、東京の筋目の通った商家の多くは伊勢・近江資本の「江戸店(えどだな)」(江戸支店)であり、「総ての資本と財産は『腹を痛めた娘から娘へ』、女性=母からその娘へと相続されていった」として、「多くの場合、正嫡の男子は廃嫡されて、一生食うに困らず相当の放蕩もできるだけの財産を与えられて隠棲する」のが通り相場であり、「嫡出男子が店を継承しているという一事だけで、金融機関からの信用が格段に薄くなったのが商売の場の原則であった」と解説しています。
 さらに、徳川家康が「裾貧乏」と評され、「好色と子だくさんで知られる」ことについて、「そうした行為は当時の武家社会には共通的な目的意識の中心であった」と述べ、「自分の命と引替に獲得した『封』を守り、維持するためには、絶対の信頼が期待されるわが子を、一人でも多く生産することが必要であった時代だったから」と述べ、「家康公で代表される戦国武将たちにとって、経営者として頼れる部下は、わが血を引くものだけという、悲痛な境遇が組織維持の根底にあった」と解説しています。
 第1章「メカニズム」では、「今から半世紀前までは日本語での『メカ』が通用した」として、「当時は家業を繁昌させた上で『妾を囲うこと』は男の甲斐性であり、むしろ賞賛されることであり、一人では足りずに何軒も妾宅を持つのもまた男の甲斐性だった」と述べています。そして、妾宅の必要性として、「特に商家の場合は当主といえば婿養子が常識であり、家付きの妻に頭が上がらないことと、使用人の手前という『家内の目』があることもわずらわしいことであった」と述べる一方で、「武家の場合は『蓄妾』=妻妾同居が原則であった」と解説しています。
 また、「女の腹は借り物」という言葉には、「それなりの歴史がある」として、「江戸時代の支配階級であった武家ではその階層を問わず一夫一妻多妾制」であり、「世襲で給与を得るための『封」や『株』を持つ者は、その『封』=『株』の実体としての『家』の継続を第一の目的とした」ため、「全武家社会の当主はどのような階級・階層の女性でも構わず、その『腹を借りて』男子を産ませて、それを後継者として公認してもらわなければならなかった」と述べ、「運良く男子が生まれても成長するまでの高い死亡率のリスクを防ぐために、最低3人位は男児の誕生を必要とした」と解説しています。
 第2章「武家の相続人」では、「有力者の子女は、その家を存続させるための手段=人質としての資源である我が子を多く持つ必要があった」と述べています。
 また、「幕臣が将軍の妾を見立てて献上して、うまく男子を得た場合には、当事者の親族はもちろんその縁に連なる広い範囲に、立身・加増・栄進が見られた」と述べ、その特殊な例として、幕末の紀伊家の付け家老の当主だった水野忠央の例を挙げ、「神祖家康に近い血脈を受け継いだことを誇る、異能にして経済力抜群の大名でも、必要に応じて実妹を3人も大奥に送り込んでいた」と述べています。
 第3章「血統のアウトソーシング」では、「借り腹」の対句的な言葉として、「徳川将軍家がしかるべき家柄の女性を『養女』にした上で、改めて配下の大名に娶わせて、婚姻関係を結んでいること」を指す「貸し腹」ということがを紹介しています。
 また、江戸時代の常識として、「出産の際に胎児が被ってきた胞衣には、必ずその父親の紋所と同じ模様がついているものと信じられていた」と述べ、「多数の男と関係ある女の生んだ子への戯語」である「紋散らし」という言葉を紹介し、「江戸時代ではなく昭和戦前まではこのような女性が『おばさん』と呼ばれながら、町内の相互扶助で食べていけた」と述べ、「その町内の『身に覚え』のある連中全員が仲良く支払った」として、「かつての江戸・東京には本当の意味での『ご近所の底力』があったのである」と述べています。そして、「現代都市の中で『人間同士の温かみ』などを追及する向きは『下町人情』の薄紙一枚下には、異性の共有が隠れた都市制度として強固な根を張っていた時代もあったことを、事実として知っておく必要がありそうである」と述べています。
 第4章「適材適所の家業繁昌」では、家康が、「経済行為を統括する機能、いいかえると貨幣発行権の確立、つまり現在の資本主義諸国における中央銀行、わが国での日本銀行に相当する金座の経営者には、意図的に自分の血筋のものを宛てている」として、「室町幕府以来の足利将軍家出入りの金属鑑定及び彫刻家であり、京都の有力町衆であった後藤家に、家康と血縁のある庄三郎を入れて、京の有力町衆の名跡を借りて実現させた」ものであると述べています。
 また家康が、「その領土が増えるにしたがって、意識的に新領土で『有力』な女性たちを妾にしている」ことについて、「本人の意識では子孫増加と占領地平定手段を兼ねる行為だったろう」と解説しています。
 さらに、妾の「兄上」が登用された話として、「長崎奉行として手腕を振るったことが広く国際的にも記録されている長谷川左兵衛藤広」の例を挙げ、「実際は逆で、家康はこの有能な人材を掌握するために、その妹を妾に据えて、藤広を準一族としての扱いで活躍させた」と述べ、「こういう見方による話も徳川企業体の経営者である家康の、多角的な人材利用の一面を物語るものなのである」と解説しています。
 第6章「借り腹のツケ」では、天保改革の立役者だった阿部正弘について、「公儀の行政と大奥との関係の正常化に手腕を発揮したことで知られる」と述べています。
 また、「女人」だけで構成された大奥では、法華宗の信者が多かった理由について、日本での「仏教における女性観」では、「女性は最悪の悪人」だとされていた時期があったが、日蓮の女性観が「女性は女性のままで救われる」というものであったことの影響を挙げています。
 第7章「お世継ぎの行方」では、徳川が「士農工商」という、「本来は各自の生業=社会的分業の区別だったものを、『士』が『農工商』を支配するという『階級化』に置きかえた」ことについて、「それは戦国乱世の時代に大きく破壊された男女の関係を、古来からの女性本意(母系本位)の姿に戻す方向のものともいえた」として、「それは、これまで見てきたような統治者階級としての『士』の家における『奥』とその主管者の『台所』という構成を、主に大名階層を中心に復活させることにもなった」と解説しています。
 本書は、明治以後の「結婚」観や「家庭」観に縛られた私たちに、それ以前に存在した「家」のあり方を伝えてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 本書を読むと、商家は今でも婿をとっているような印象を受けますが、昔と違って奉公人がいるわけでもなく、今では普通に長男が外からお嫁さんをもらっている例が多いのかもしれません。


■ どんな人にオススメ?

・「日本の古き伝統」が意外に浅いことに気づきたい人。


■ 関連しそうな本

 鈴木 理生 『江戸はこうして造られた―幻の百年を復原する』
 鈴木 理生 『大江戸の正体』
 鈴木 理生 『江戸の町は骨だらけ』
 中江 克己 『「大奥の謎」を解く』
 関口 すみ子 『大江戸の姫さま』
 鈴木 理生 『江戸の橋』


■ 百夜百音

カロゴンズのテーマ【カロゴンズのテーマ】 カロゴンズ オリジナル盤発売: 1998

 「カロゴンズ」というネーミングだけでなく、テーマソングも秀逸でした。でも篠原ともえのキャラの出し方としては通り一遍と言うか凡庸な印象を受けてしまいました。karogons

『Ki/oon Decade』Ki/oon Decade

2008年1月19日 (土)

主語を抹殺した男/評伝三上章

■ 書籍情報

主語を抹殺した男/評伝三上章   【主語を抹殺した男/評伝三上章】(#1094)

  金谷 武洋
  価格: ¥1785 (税込)
  講談社(2006/12/8)

 本書は、「日本語本来の発想に根ざさない『第二英文法』としての日本語文法のもっとも最たる例」である「主語」という概念を「日本語文法から抹殺/廃止することを一生かけて主張した」三上章(1903-71)の評伝です。
 第1章「三上文法と出会う」では、カナダ東部ケベックのラヴェル大学の大学院生であった著者が、新設された日本語講座の講師を急遽引き受けることになり、学生からの素朴な疑問という「氷山」にさらされたことをきっかけに、三上文法とであったことが述べられています。著者が最初にぶつかった氷山は、「ジュ・テームを日本語どう言うか」というもので、「私はあなたを愛しています」とは日本人はまず絶対に言わないが、「なぜ言わないかを同説明したらいいのかわからない。それまで教えていた日本の学校文法では、正しいのだ」というジレンマにぶち当たります。そして、著者が次にぶつかった氷山は、「日本語がわかります」というもので、「私は日本語がわかります」の主語が省略されている、という説明では、「先生、この文の主語はどれですか」という問いに答えられなくなってしまいます。著者は、この日本語教師デビューをきっかけに、「日本語を教えることの底知れぬ楽しさを知った」と同時に、「当たり前と思っていた自分の母語が文法的にうまく説明できないという由々しき状況に驚愕した」と述べています。
 著者の疑問を氷解させてくれたのは、日本の友人が送ってくれた三上章の『象は鼻が長い』という一冊であり、「『は』が表すのは主語でなくて『主題』(トピック)だ」という主張であり、もう一つの代表的助詞「が」が表す「名詞+が」は主語ではなく、「それはたんなる主格補語であり、したがって文の不可欠要素ではない」という三上の主張であったと解説しています。そして、「日本語が代名詞を省略しているのではなく、英仏語が(文にならないから)代名詞をいちいち付加しているのだ。橋本文法の主語論がいかに英文法の発想に立つものか」という三上の主張に「心から同意するよりなかった」と語っています。
 著者は数年後に再び日本語を教えるチャンスにめぐり合い、迷わず三上文法を授業に取り入れ、学生たちに「どういう点で日本語は違っているのか」を説明する際に、
(1)動詞活用がない:「どうしてわれわれの母語では主語が不可欠なのか」を学生自身に考えさせる。
(2)盆栽とクリスマス・ツリー:日本語の動詞文を多くても二段構えの「盆栽型」だとしたら、英仏語は背の高い「クリスマス・ツリー型」と言える。
(3)主題をしめす助詞の「は」:「は」は、「文からある語を取り出してきて旗のように聞き手にしめすスーパー助詞」である。
(4)虫の視点と神の視点:英語がSVO構文を多用するのは、話者の視点が神様のように上空にあり、地上の出来事を見下ろしているからであるのに対し、日本語では話者は地上に身を置いて空を見上げている。
の4点を挙げていることを解説しています。
 そして、「三上の著作を読み、三上文法を学び、そしてそれを日本語教室に応用していく過程で、私の関心は、時として三上文法から三上章という人物そのものにも及ぶことがあった」と述べ、「三上文法の素晴らしさを世に知らせるのは私の使命である」と考え、「主語三部作」を上梓するとともに、本書において、「いよいよ、三上章その人の生涯に迫る運びとなった」と語っています。
 第2章「幼年~学生時代」では、中学時代には数学の試験が「容易な問題ばかりで解答する気がせぬと、用紙に○を書いて早々に提出し、その足で図書館へ行って読書に耽った」ことや、和算の紹介者として「国際的に戦前の日本人科学史家でもっとも著名な人」であった叔父で数学者の三上義夫の勧めで東京大学工学部建築科に入学したことなどが述べられています。
 また、三上が「帝大の象徴である角帽を好まず、麦藁のカンカン帽をかぶって歩いていた」というエピソードから、「三上が人生の早い時期に自分の名前の漢字表記を変えた謎」である、「三上が『彰』から『章』にしたのは『飾り』を取り除くためではなかったろうか」と述べています。
 第3章「知的逍遥時代」では、東大卒業後、台湾総督府に技官として「宮仕え」をした三上が、2年であっさり仕事を辞めてしまったことについて、「『自分の居場所ではない』と思ったら長居せずにあっさり姿を消してしまう三上の性向」を指摘しています。
 また、「主語否定論」で言い尽くせる三上文法の原点」が、台湾から朝鮮へと渡る時期に芽生え、「いっぽうで処女論文が入選して発表され、それと並行して三上文法の芽生えがあったこの1930年に、若き三上章は文法研究家としての出発点に立ったのだ」と解説しています。
 さらに、三上が叔父の勧めで建築を勉強し、きな臭い北朝鮮から南朝鮮行きを恩師に勧められたことを挙げ、「三上に期待をかけた人物が三上の『栄進を思って強くすすめた』転地が、結局裏目に出るのはこのときだけではなかった」として、3回目として最晩年のアメリカ行きを挙げています。
 そして、帰国後の浪人時代に『技芸は難く』という芸術批評を自費出版した翌年、九州帝国大学心理学教授の佐久間鼎博士が書いた『日本語の特質』を読んだことで、「直ちに自分の知的生活の中心に日本語文法をおく決意」をし、1941年12月7日に三上が「まだ見知らぬ著者に弟子入りを請うて手紙を認めた」と述べています。
 第4章「街の語学者」では、「三上が名前を変えるとき、そこには何かのメッセージがあるに違いない」として、最初の論文「批評は何処へ行く?」でのペンネーム「早川鮎之助」が、「尼子武士の気概への憧憬、および知的逍遥期に相応しく転地を重ねる自分の姿を『早い川の鮎』に託したもの」と読んだ上で、芸術評論『技芸は難く』の筆名「加茂一政」については、「茂」は妹の「茂子」であり、「加茂」とは、「自分の暮らしに『茂子を加え』る」のであり、「一政」は「一つにおさまる」と読めばいいと解説しています。
 また、「学者として孤独で薄幸だった」といわれる三上だが、学者としては、「国語学界から黙殺された」ことはそのとおりだが、「学者の生命には時間という要素が重要だ。学者は死ぬ。しかしその理論は、もし優れたものなら、時を越えて残ることは歴史が証明してきた」と述べています。
 さらに、1943年から52年までの9年間のスランプがあったことについて、活路を開いてくれたのが、「早くから三上の諸論文に注目し、熱心に応援してくれた」金田一晴彦であったと述べています。
 そして、「今でこそ、とくに日本語教育界ですぐれた文法家と見なされるようになった」三上が、「生前は偏見と差別で苦労が絶え」ず、国語学界は「一介の高校数学教師の奇説」として「まともに相手にしなかった」と述べ、三上自身は「自分自身では変説の可能性を留保」し、「納得できる反論に出会ったら、いつでも肯定論へくらがえするという用意」もあったが、「ついにそういう反論に出会わなかった」と書き残していることを紹介しています。
 また、「就職に役立つ」からと、57歳で博士号を取得し、言われてうれしいはずの『博士』と、その反対の『呼ばわり』を組み合わせた「博士呼ばわり」という「傑作な表現」が生まれたと紹介しています。この他、三上が用いた「日曜文法家」という造語に、「学者の真の価値は肩書きではない」という信念が伺えると述べています。
 しかし、1963年の暮れに、三上は、「神経が立った」状態となり、躁鬱症と診断され、精神科に入院することになったことについて、「『のれんに腕押し』をつづけているうちに、さすがの強靭な精神も孤立感、無力感を強めていったのである。それも無理はない」と述べています。著者は、晩年に向かう三上を、「自分の羽で着物を織り、しだいに痩せていく一羽の鶴であった」と述べています。
 第5章「晩年」では、1965年に、新設された大谷女子大学の国語学の教授として招聘されたが、「教授の立場を思うまま利用するために必要な精神と身体の自由と柔軟さが、すでに採用の時点で三上には失われてしまっていた」と述べています。
 そして、1970年、人生の最晩年において、ハーヴァード大学から招聘を受け、単身ボストンに向かうも、愛用の睡眠薬を忘れ、ボストンに着いたときにはすっかり「神経が立った」状態となり、わずか3週間で帰国の途に着いたことが語られています。
 著者は、翌1971年、患い死の床にあった三上を、「直接の死因は肺癌である。しかし、それとは別の精神的な死因がある。三上は『待ちくたびれて』憔悴しきって死んだのだ」と述べ、「自分の文法を批判し、そのことで質的に高めてくれる相手を、三上というこの侍は待ち続けた」が、「とうとう三上という小次郎の前に武蔵は一人も現れなかった」と述べています。
 そして、「三上は死んでも、時代と国境を越える価値を持っているその文法と思想は、われわれを『玉の緒』のように中継してさらに未来にまでつながっていくだろう」と語っています。
 本書は、普段気にせず使っている日本語の真の姿を見つめようとした「真の学者」の生涯を綴った一冊です。


■ 個人的な視点から

 普段使っている日本語について、主語とか述語とかは意識していませんが、日本語は主語を入れなくても成り立ってしまうからか、仕事で文章を書いていると、「主語は誰か」と聞かれることがあります。ここは一つ三上文法を学んで、「日本語に主語は必要ない」と反論してみたいのですが、この場合の「主語」とは、5W1Hの話で、責任関係を明確にしろ、という意味だったりします。


■ どんな人にオススメ?

・主語のない日本語を使っている人。


■ 関連しそうな本

 三上 章 『象は鼻が長い―日本文法入門』
 庵 功雄 『『象は鼻が長い』入門―日本語学の父三上章』
 三上 章 『現代語法新説―三上章著作集』
 三上 章 『日本語の論理 新装版―ハとガ』
 金谷 武洋 『日本語に主語はいらない―百年の誤謬を正す』
 金谷 武洋 『日本語文法の謎を解く―「ある」日本語と「する」英語』


■ 百夜百音

蕾【蕾】 コブクロ オリジナル盤発売: 2007

 カラオケの定番の曲なので誰かが歌ったりします。しかも勝手にハモる人が出てきたりもする曲です。「コブクロ」と聞いて最初は焼鳥の「子宮」の方をイメージしてしまうのでインパクトはあるんじゃないかと思います。

『ALL SINGLES BEST』ALL SINGLES BEST

2008年1月18日 (金)

政党が操る選挙報道

■ 書籍情報

政党が操る選挙報道   【政党が操る選挙報道】(#1093)

  鈴木 哲夫
  価格: ¥735 (税込)
  集英社(2007/06)

 本書は、2005年の衆院選を中心に、自民党「チーム世耕」の「コミュニケーション戦略(コミ戦)」について、「テレビ側の中枢にいる制作者や放送記者などテレビの当事者たちの証言をできる限り拾うこと」で、「テレビメディアが政治のプロパガンダに使われてしまう、その本質的な問題点や本音をあぶりだすこと」を目指したものです。
 第1章「日本政治に初めて本格的"コミ戦"誕生!」では、2005年9月11日の衆議院総選挙において自民党の大勝利を導いた立役者として、小泉自身とともに、「解散直後から投開票のその日まで、連日会議で情報の危機管理に当たった」、自民党の職員を中心に広告代理店と座長の世耕弘成参議院議員による「自民党コミュニケーション戦略本部」を挙げ、「このチームは、日本の政治史に新たな分野を築いた。永田町の歴史の中で、初めて本格的で組織的な情報戦、つまりコミュニケーション戦略を実施したのだ」と述べています。
 そして、NTTの広報部で社長に寄り添い、コミュニケーションを担当してきた世耕が、政治の世界に入った2000年ごろから、コミュニケーション戦略不在に驚き、「官邸や政党に、情報を組織的にコントロール・管理する仕組み、組織を作りたい――、でなければ国益を損ない、国民とも良好なコミュニケーションがとれない」という強い思いから、組織づくりに着手しようと考えていたことを紹介しています。
 しかし、「常に政権与党でトップだった」自民党は、「圧倒的なシェアを誇る商品(議員)と、現場には異常に強い営業部隊(講演会や地方組織)を持っている企業のようなもの」であり、「宣伝なんかに頭を使わなくても、うちの商品は売れるから大丈夫」という意識があったため、「広報やPRといったことを真剣に考えてこなかった」と述べています。
 そして、2004年4月の統一補欠選挙において、自民党議員の選挙違反による辞職のために補欠選挙となった埼玉8区を、世耕のコミ戦の「格好の実験の場」に位置づけ、候補者の公募から徹底的なデータの分析、党改革検証・推進委員会主導による選挙応援演説のスケジュール管理や外資系広告代理店の参画など、後の衆院総選挙におけるコミ戦の活動の原型を思う存分試したことが述べられています。
 この後、2004年9月に党改革実行本部の事務局次長に就任した世耕が、広報改革として、
(1)縦割りの広報組織を一元化して機能させること
(2)議員以外で広報の専門家をスポークスマンとして置くこと
(3)PRコンサルタント会社を入れること
の3点を提言したことが述べられ、(3)に関しては「緻密でかつユニーク」な提案をしてプラップジャパン社が採用されたことが解説されています。
 2005年8月の衆議院の解散時には、世耕の動きは早く、広報責任者を引き受けるには権限が必要、ということで「広報本部長代理」と「幹事長補佐」という急ごしらえの肩書きを得て、解散2日後にはコミ戦が立ち上がったことについて、メンバーの特徴として、党職員を主力にしたこと等を挙げています。
 さらに、2005年の総選挙でテレビが選挙に与えた影響について、
・テレビの視聴時間が長い人ほど自民党支持の割合が高いこと
・メディアの選挙報道の影響を受けたと答えた人が半数を超え、そのなかでもテレビを挙げた人が半数を超えたこと
・メディアが特定の政党や選挙区ばかりを取り上げていた印象を持ったと答えた人が50%だったこと
などの世論調査結果を取り上げ、「テレビが今回の選挙に与えた影響は大きく、結果責任を負うことからは逃れられない」と述べ、当のテレビ側が、「自覚は総じて希薄」であったと指摘し、
・小泉と自民執行部が繰り出す話題性のある候補に振り回されたこと
・ワイドショーの格好のネタに飛びついてしまったこと
・テレビの弱点である"キャッチフレーズ"を衝かれてしまったこと
などを挙げ、「まさにテレビ配線である」と述べています。
 著者は、「今回コミ戦が仕掛けた裏側の事実をつかむたびに背筋が寒くなる思い」をしたとして、「自民党という政権与党の為政者が、一定の意図をもって、また時には悪意すらもって、コミュニケーション戦略を仕掛けてきたときに、世論は誤った方向に誘導される危険性が生じる」にもかかわらず、「コミ戦の存在する十分に認識せず、戦略の多くに作為も感じずに易々と乗ってしまったテレビメディア」を断じています。
 また、今回のコミ戦の本質を、「いかに攻めるかではなく、いかに問題のある事態を予測、把握し、防ぐかという危機管理」であると指摘しています。
 第2章「コミ戦の起点は政治改革とともに」では、「取材体験からの結論」として、「政治側がテレビメディアを使い始めた」起点が1993年にあると述べ、「自民党のコミ戦のはしり、原型」として、
・自民党内に設置されていた政治改革推進本部
・超党派の比較政治制度研究会(CP研)
・自民党の若手議員の会
の3つの組織を挙げています。
 そして、改革派議員のテレビ攻勢に対して、反転攻勢を仕掛けた守旧派は出演慣れしておらず、宮澤首相が、田原総一郎の勢いに押されて、「政治改革をやります」と公言してしまい、その後、政治改革関連法案を見送ったために公約違反と批判され総選挙で大敗し、自民党の政権からの脱落にまで追い込まれたことが述べられています。
 また、テレビと政治が密接になった要素として、細川護煕の登場を挙げ、「とにかく型破りな新しさを、外見から政治家としての活動に至るまで備えていた」として、テレビ側から見て「いわゆる絵になる」存在であったと述べています。
 第3章「コミ戦は日本の政治に根づくか」では、「戦略的にコミ戦を展開したのは民主党の方がひと足早かった」として、2002年には、民間のPRコンサルタント会社として、外資系のフライシュマン・ヒラード・ジャパン社を加えて、2003年の総選挙、2004年の参議院議員選挙と「相次ぐ国政選挙でメディアをうまく活用し、選挙戦で党のイメージアップや争点作りなどを演出」たt結果、「自民党に肉薄または地域によっては自民党に勝利を収めていた」と述べ、2005年の総選挙で、「自民党が遅ればせながらようやく本腰を入れた」ものであると解説しています。
 しかし、2005年の総選挙では、「民主党は最初から最後までテレビメディアに食い込めず、コミ戦は模索・迷走しながら選挙で敗れてしまうことになる」と述べ、その敗因として、当初、「郵政より年金」と言っていたのに郵政問題に対する関心が高まるなかで、「民主党は郵政の民営化には賛成だが今回の法案には反対だ」と主張し始め、国民に「民主党がブレている」との印象を与えてしまったことを挙げています。
 著者は、民主党と自民党のコミ戦を比較し、主役の小泉によるところが大きいとしながらも、本質的な差として、「危機管理」を挙げ、「自民党は、膨大なデータで、おそらくこのままいくとマイナスになりそうな部分、傷口が広がりそうな部分を細かくチェックして手を打った」ことを指摘しています。
 第4章「テレビメディア敗戦」では、2006年8月の小泉の靖国参拝に関して、テレビメディアが自民党のコミ戦にまんまと乗せられてしまったことなどを解説した上で、2005年の総選挙において、「世耕らが組織的に何をやるのか、コミ戦という概念に対しても、テレビメディア側はまったく無防備だったし、マークすらしていなかった」と解説しています。
 著者は、「今後テレビメディアは、権力のコミ戦とどう向き合うべきか。そして、政治報道をどう変えていくべきか」という樋に対する結論として、
・政治報道を、少しでも、いわゆるネガティブ報道に変えていくこと
・政治家の言葉を常に疑う、常に立ち止まる……という記者のマインド
の2点を挙げ、「コミ戦の手口も、政治家の意図も、テレビメディア自身が飛びついてしまう弱点もすべて総括された今、テレビメディアは攻勢に転じなければならない」と述べています。
 本書は、政治とメディアのあり方を軸に、有権者と政治のあり方を考えるきっかけを与えてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 2005年の総選挙における「チーム世耕」の活躍を描いた本は、本人の手によるものを含めていくつもでていますが、自民党に「乗せられた」「してやられた」という立場になるテレビ側の人間による素直な分析は貴重なものではないかと思います。
 初回は大勝利を収めた自民党「コミ戦」ですが、手口が明らかになった以上、今年か来年には必ずある総選挙では、民主党やマスコミがどういう対抗策をとるのかが見ものです。


■ どんな人にオススメ?

・テレビの人間にとっての2005年総選挙を知りたい人。


■ 関連しそうな本

 世耕 弘成 『プロフェッショナル広報戦略』 2006年09月22日
 世耕 弘成 『自民党改造プロジェクト650日』 2006年12月19日
 矢島 尚 『PR会社の時代―メディア活用のプロフェッショナル』 2006年11月13日
 高瀬 淳一 『武器としての「言葉政治」―不利益分配時代の政治手法』 2006年08月10日
 G.E. ラング, K.ラング(著), 荒木 功, 小笠原 博毅, 黒田 勇, 大石 裕, 神松 一三 (翻訳) 『政治とテレビ』 2007年04月04日
 星 浩, 逢坂 巌 『テレビ政治―国会報道からTVタックルまで』 2007年04月12日


■ 百夜百マンガ

日本一の男の魂【日本一の男の魂 】

 「世界一」ではなく、あくまで「日本一」という中途半端なところが、完全な変わり者ではなく、ちょっと極端な男たちの「魂」を表しているのではないかと思います。

2008年1月17日 (木)

石油で読み解く「完敗の太平洋戦争」

■ 書籍情報

石油で読み解く「完敗の太平洋戦争」   【石油で読み解く「完敗の太平洋戦争」】(#1092)

  岩間 敏
  価格: ¥756 (税込)
  朝日新聞社(2007/7/13)

 本書は、米国の「石油禁輸」によって、「日本が世界で最初の『石油危機』に直面したこと」が、太平洋戦争開戦の契機になったことについて、
・なぜ、米国は日本に「石油禁輸」を行なったのか
・日本はこの「石油禁輸」にどのような対応をしたのか
・日本は本当に石油が足りなかったのか
・海軍は戦争に反対であったのか
・南方の石油は日本に輸送されたのか
・「自存自衛の体制」は確立されたのか
・人造石油は役に立ったのか
・戦争終盤の国内産業はどうであったのか
等の観点から、その経過を追ったものです。
 第1章「迫りくる戦争と石油」では、木炭自動車の走行実験や経済性、代替液体燃料としてのアルコール製造工場の建設などを紹介した上で、「政府の石油消費の統制システムは、昭和12年7月の日華事変の勃発から昭和16年12月の太平洋戦争の開始までの期間にほぼ完成した」と述べています。
 また、昭和44年に遼寧省で発見された遼河油田について、「歴史に『イフ』は無いといわれているが、戦前に遼河油田が発見されていれば、『太平洋戦争への道』は大きく変わっていたのは疑いがない」と述べています。
 第2章「開戦―南方占領―資源確保」では、開戦前に行なわれた各種の日本の経済持久力の分析を取り上げています。
 日本陸軍が昭和15年に立ち上げた「戦争経済研究班」が、昭和16年7月に取りまとめた「英米合作経済抗戦力調査」について、杉山元陸軍参謀総長が、「調査は完璧であるが内容は国策に反する」として、報告書の焼却を指示し、「その後の戦略策定に、この研究成果が用いられることはなかった」と述べられています。
 また、昭和16年4月に開所した「総力戦研究所」には、中央官庁、陸海軍、民間から平均年齢33歳の研究生36名が集められ、「対米戦争を模擬演習の手法を使って分析」し、最大の焦点として、「南方からの戦略物資の輸送路の確保」が注目され、「民需要船舶(除軍徴用)の最低維持量約300万トンが、戦争3年間で120万トンまで減じる」との結果から、「戦争はわが国力の許すところならず」との結論に達し、昭和16年8月下旬に近衛文麿総理、東條陸相らの前で発表されたことが述べられています。
 さらに、陸軍経理将校であった新庄健吉が、昭和16年3月に米国の国力調査を命じられ、「公開情報の収集・分析」という手法によって、日米国力格差の分析を行ったことが述べられ、その結論は、「日米工業力の差は重工業1対20、化学工業1対3、この差を縮めるのは不可能」というものであり、この報告内容はワシントン駐在の岩畔豪雄陸軍大佐に託され、近衛総理、豊田外務大臣、陸海軍首脳部、参謀本部戦争指導班などに説明して回ったが、海軍からは、「対米戦準備の最中に、このよう数値を発表することは士気に影響が出る」との反論があり、岩畔大佐はこの報告直後、前線に転出となり、「東條陸相の懲罰人事との噂もあった」ことが紹介されています。
 昭和16年11月5日の御前会議では、「企画院の石油需給見通し」として、「石油需給の差し引きがプラス」であり、「戦争を行なっても石油は枯渇しない」との説明があったが、「これらの数値は、詳細な検討の結果、算出されたものではなかった」と述べられています。そして、この会議に先立つ10月29日の大本営政府連絡会議の席上では、船舶輸送力に関して、「企画院は船舶の消耗量を年間80~100万トンと推測して、これを埋める新造船量を年間60万トンとした」ことについて、「この造船数値では消耗量を埋めることにはならないが、企画院の報告では、『この新造船量の確保により民需要船舶量300万トンの確保は可能なり』と説明している」として、「小学生でもわかる計算矛盾が堂々と主張された」と指摘しています。
 また、南方油田を巡る陸軍と海軍の確執に関しては、「陸軍と海軍は投入部隊の実勢に合わせ油田施設を分割して占領」下ことについて、「戦争の進展とともに海軍の石油消費量は増大して、石油の不足が深刻になり、陸軍が占領している油田の積出港に開戦へ向かう海軍のタンカーが入港しても、直ちに石油が補給されない事態が発生していた。『陸軍の石油は陸軍のものであって、海軍と陸軍は別々に戦争をしていた』ことを示す現象が、南方の石油供給地でも起こっていた」と述べています。
 第3章「南方補給路の寸断」では、企画院の想定による戦争3年目の南方石油の還送量450万キロリットルを輸送するために、38万トンのタンカーが必要になるため、「既存の貨物船、鉱石船のタンカーへの改造と簡易工法による戦時標準型タンカーの建造が行なわれた」が、「米国は潜水艦、航空機、機雷を用いて集中的に攻撃を行なった」結果、戦争終結時に稼動していた外洋航海が可能なタンカーは三菱汽船の「さんぢえご丸」ただ1隻であり、「戦争中のタンカーの建造が114万トン、喪失が147万トンと、造られた量より海没した量が上回る状態であった」と述べています。日本のタンカーは、防備のためのソナーや対空火器を持たず、「雷撃や空爆を受けると、積荷が燃焼物であるために簡単に炎上や爆発をして沈没した」と解説され、このような状況が生じたのは、「日本の陸海軍には基本的に補給や護衛という概念がなく、海軍内では戦闘中心主義が支配していたため」であると解説されています。
 そして、「増大する船舶の被害、鉄鋼の不足」に対する「究極の対策」として、「半潜水式のコンクリート製曳航石油バージ」が建造されたが、運行する船会社の現場からは「タンカーに曳航させた場合の無舵バージの操船の困難さ、航行速力の低下、潜水艦に雷撃される危険性の増大」などを理由に使用拒否の動きが出て、結局、「瀬戸内海の各港に係留されて漁船、機帆船の燃料タンクとして使用されることが多かった」と解説されています。このコンクリート製バージの現物は、広島県呉市の音戸漁港で防波堤として使用され、広島県呉市の安浦漁港にはコンクリート製の貨物船が防波堤として使用されていることが紹介されています。
 第4章「戦略の破綻」では、逼迫した昭和19年3月、ベルリンから「ドイツでは松の木から航空機燃料を生産している」との情報が入り、海軍が調査の結果、「松根油からガソリンの生産は可能で、国内資源の松林からの生産見込み量は、約100万キロリットル」との報告が行なわれ、昭和20年3月に「松根油等拡充増産対策措置要綱」が閣議決定され、「200本の松の根で航空機が1時間飛ぶことが出来る」とのスローガンが掲げられたことが紹介されています。しかし、「松の根を乾留して得られる松根油から軽質油への改質や航空ガソリンを製造する技術は確立されておらず、できた油を自動車に使用すると、エンジンの焼き付けなどの問題が発生」し、「とでも、航空機に使用出来る品質ではなかった」と述べられ、『米国戦略爆撃調査団石油報告』では、「こうした計画が戦争に及ぼした唯一の現実的な影響は、日本が労働力と装置の不足している最中、その双方を奪い取ったことである」と分析していることを紹介し、昭和20年代には「松の木を掘り起こした後遺症」として、「台風、豪雨のときに各地の山地で土石流が発生して、大きな被害」を被ったことが述べられています。
 また、開戦前から日本が期待していた石油代替燃料であった「人造石油」については、「石油需要の半分は人造石油で補う」という意欲的な生産計画が立てられたものの、実際の計画達成率は平均して11%に過ぎなかったことと挙げた上で、その理由として、
(1)先端技術国ドイツからの装置等の輸入が欧州大戦の勃発によって困難になった
(2)国産特殊鋼などの品質が低く、石炭液化に必要な資機材の製造ができなかった。
(3)戦時体制の進展によって、その他の関連し器材の供給が不足した。
の3点を挙げ、「1の人造石油を生産するために2のエネルギー」が投入され、「人造石油は足を引っ張った」と述べています。
 著者は、「長年にわたって『艦隊決戦』を掲げ、その作戦の研磨に務めてきた日本海軍は、地味で根気の要る補給路を維持する作戦へ主力を割くことに無関心」であり、「日本を海上から封鎖して国内資源を枯渇させ工業生産力を崩壊させる」という米国の戦略への理解が薄く、「補給路の確保が、戦争の勝敗を決める最大の要因であること」への認識が少なかったと指摘しています。
 第5章「払底する石油供給」では、駆逐艦に給油された重油に満州産の大豆油が混合されていたため、航行時に大豆の臭いがしたことや、戦災最末期の昭和20年7月の日本の石油在庫量は、「企画院による石油需給見通し」が予測した戦争3年目の消費量1か月分にあたる48万キロリットルに過ぎず、「昭和20年11月~12月には、日本の残存産業は石油の完全な枯渇によって、停止状態になることが見込まれていた」ことなどが述べられています。
 第6章「教訓を現在へ」では、太平洋戦争開始前の日本が、「石油の備蓄、石油会社の再編、満州での石油探鉱、海外開発の権益確保、人造石油の開発、高性能ガソリンの製造技術の導入、米国に変わる石油輸出国(蘭印)との交渉など、現在も活用されうる可能な限りの対応」を試みたが、「原油の上流部門(権益、埋蔵量、生産)を保有しない脆弱性はいかんともすることが出来なかった」と解説しています。
 本書は、現在でも戦争の最大の原因である石油をめぐる争いという観点から太平洋戦争を概観した分かりやすい一冊です。


■ 個人的な視点から

 本書で紹介されているコンクリート戦については、ネット上で探してみると、軍事ヲタな人のサイトで紹介されています。漁港まで軍事色が強いとは、さすがは軍都「呉」といったところでしょうか。
 
○坪井漁港(広島/音戸) コンクリート船
http://www.asahi-net.or.jp/~ku3n-kym/heiki9/tuboi/tuboi.html
○水の守り神コンクリート船「武智丸」
http://www.hint.or.jp/~yasuura/seinennbu/taketi.htm


■ どんな人にオススメ?

・国家レベルの「わかっちゃいるけどやめられない」の仕組みを理解したい人。


■ 関連しそうな本

 猪瀬 直樹 『日本人はなぜ戦争をしたか―昭和16年夏の敗戦』 2006年01月01日
 山本 七平 『「空気」の研究』 2006年12月21日
 冷泉 彰彦 『「関係の空気」 「場の空気」』 2006年12月15日
 半藤 一利 『日本のいちばん長い夏』
 猪瀬 直樹 『空気と戦争』
 小林 英夫 『日中戦争 殲滅戦から消耗戦へ』


■ 百夜百マンガ

探偵学園Q【探偵学園Q 】

 「二匹目の泥鰌」という言葉がこれほど似合う作品もありませんが、ミステリー漫画というジャンルを追求する意味では原作者がやりたいことをやっている作品のようです。

2008年1月16日 (水)

「あたりまえ」を疑う社会学 質的調査のセンス

■ 書籍情報

「あたりまえ」を疑う社会学 質的調査のセンス   【「あたりまえ」を疑う社会学 質的調査のセンス】(#1091)

  好井 裕明
  価格: ¥777 (税込)
  光文社(2006/2/16)

 本書は、「他者と自分とのつながり、関係のありようを読み解いていく営み」である社会学について、「量的にせよ質的にせよ、世の中を調べようとするときには、その根底に、日常を生きている人間が何をどのように調べようかと発想し、様々な違いを生きている人間を調べるという営みがある」として、「調べる私も含めた他者が普段から暮らしている日常への"まなざし"が基本にある」と述べ、「"まなざし"をどこへどのように向けるのかについては、調査する技法、方法、装置などの議論だけでは、とうてい説明できない」ものであり、「<ひと>が生きていることへ向かう"まなざし"。それが何なのかを考え、問い直し、自分なりの"まなざし"を創造するような感覚」を、「『世の中を質的に調べるセンス』『リサーチ・センス』とでも言える何かだろうか」と述べているものです。
 第1章「数字でどこまで語れるか」では、「わきおこる情緒など、いわゆる質的な部分を詳細に調べようとするとき、アンケート調査や質問紙調査という方法では限界がある」として、「私は、人びとが自らの活きてきた経験を語る言葉や、その場で思わずあふれ出る情緒、あるいは抑制された感情、私に向かう語りの力と出会いたいと思う」と述べています。
 第2章「はいりこむ」では、社会学者がフィールドワークで取り上げてきたテーマについて、「共通して感じること」は、「彼ら研究するものが、固有の文化を生きる人々、問題に立ち向かい運動する人々、自らの<ひととなり>に及んでくる社会からの圧力に対処する人々など、固有で具体的な現実を生きる人々と出会い、その現実にできるだけ『はいりこもう』とする姿勢であり実践である」と述べています。
 そして、著者が「面白いなぁと感じる実践」の例として、『暴走族のエスノグラフィー』等の例を挙げ、「どのような現実であれ、『はいりこむ』営みは、確実に『はいりこむ』本人を変貌させる。しかし、それは単なる副産物ではない。変貌する自らの姿を承認し見つめること、どのように変貌したのかを読み解くこともまた、社会学者が世の中を調べることの重要な部分なのである」と述べています。
 第3章「あるものになる」では、「知りたいと思う生活や文化を生きる人々と、何らかの形で、一定の期間ともに暮らす。これは人類学におけるフィールドワークの方法である」として、鵜飼正樹氏の『大衆演劇への旅』を取り上げ、鵜飼氏が、「市川ひと丸劇団という大衆演劇の劇団に入団し、1年2ヶ月の間、劇団員とともに旅暮らしをした記録」を紹介しています。
 著者は、「私たちは、暮らしの場で様々な役柄を演じ続けているが、何の疑いもなく適切にここの役柄になりきっているわけではない。むしろ役柄と自分の存在との距離や隙間が常に気になっているのではないだろうか」として、「この『なりきろうとし続ける』営みこそ、そして役柄と自分の存在の間にある距離や隙間こそ、社会学が世の中を調べる上で読み解くべき、基本的、かつ核心的な対象なのである」と述べています。
 第4章「聞き取る」では、「世の中の歴史、構造、問題、差別などを調べようとするとき、社会学者は、当該の現実を生きている人々と出会い、彼らの語りを『聞き取ろう』とする」と述べ、「『聞き取る』という営みが持つ、決定的に重要な点」として、「話を聞き取ろうとする人は、自分が想像しきれないような、あるいは想像を超えてしまっているような経験をもつ他者と具体的に面と向き合うということである」と述べ、「『聞き取る』という営みの確信は、相手と私が語り合い、お互いをまなざすという濃密な時間をどのように生きるのか」ということであると語っています。
 そして、「聞き取る」という営みの醍醐味について、「相手の<声>と直接出会えること」とともに、その営みの中で、「相手の語りや"語りのちから"から、様々に影響を受け、聞き手の具体的な問題への関心、理論枠、仮説、より基本的な社会理解、世界観などが変動していく」ことを、「心地よく感じ、『調べる』という営みに組み込んでいくこと」を挙げています。
 第5章「語りだす」では、「識字という力」「ゲイスタディーズ」「自分史を語ること、書くこと」の3点について、「人が自ら語りだす営みに注目する意味」を論じています。
 そして、「様々な状況のもと、人々は自らが生きている世界を少しでも変えていこうとして、語りだす。世の中を調べようとする社会学者は、語りだす力を、できるだけ敏感に感じ取り、自らの分析や解読に利用する必要がある」と述べ、「語りだす力の"源"とでもいえる何かに向かって想像力を膨らませ、語った人、そして、語りの背後にある現実を調べようとする営み」が、「語りだす力と向き合うセンスであり実践の一端なのである」と述べています。
 第6章「『あたりまえ』を疑う」では、「現代の社会学には、私たちの暮らしの大半をおおっている『あたりまえ』の世界を解きほぐして、そのなかにどのような問題があるのかを明らかにしていこうとする営み」として、「エスノメソドロジー(ethnomethodology)」を挙げ、「人種、民族など、さまざまな違いをもつ人々が他の人々とともに生きている現実があり、その現実を"適切"に暮らすことができるように普段から私たちが用いるさまざまな『方法』のことだ」と解説しています。
 そして、「エスノメソドロジー的なセンスで『あたりまえ』を疑う」重要なテーマとして、「普段から私たちが行ない、それに囚われているカテゴリー化という営み」を挙げ、「家族でのやりとり、友人との会話、テレビなどのメディアからあふれ出る無数の言葉」等には、「"恣意的な決め付け"を要請する『支配的な文化』で生きている、圧倒的な量のカテゴリーが満ちている」と指摘しています。
 第7章「『普通であること』に居直らない」では、「『普通であること』がいかに微細に、しかも執拗な形でしっかりと日常を覆い、私たちをとらえているのかを読み解くこと」の重要性を述べ、「私たちが普段、何気なく使ってしまう『普通であること』」が、「私たちに対して微細ではあるがはっきりとした権力を行使していく」ことを指摘しています。
 本書は、つい「統計を使う人たち」という印象を持ちがちな社会学について、あまり知られていない一面を見せてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 本書で取り上げられている「南條まさき」こと鵜飼正樹氏は、京都文教大で助教授を務める傍らで、年に数回芝居に出演しているそうです。潜入もののルポは多数ありますが、調査後もいい関係を築いている例は少ないのではないかと思います。
 
「京都文教大・鵜飼さん、26日 初"座長"リサイタル」
http://osaka.yomiuri.co.jp/edu_news/ed60325d.htm


■ どんな人にオススメ?

・社会学がいかに人と向き合っているかを知りたい人。


■ 関連しそうな本

 ギデオン・クンダ (著), 金井 壽宏 (監修), 樫村 志保 (翻訳) 『洗脳するマネジメント~企業文化を操作せよ』 2005年12月30日
 佐藤 郁哉 『組織と経営について知るための実践フィールドワーク入門』 2005年11月25日
 M. チクセントミハイ (著), 今村 浩明 (翻訳) 『楽しみの社会学』 2005年02月08日
 佐藤 郁哉 『暴走族のエスノグラフィー―モードの叛乱と文化の呪縛』 2006年05月19日
 パオロ・マッツァリーノ 『反社会学講座』 2006年03月11日
 加藤 秀俊 『取材学―探求の技法』 2005年10月16日


■ 百夜百マンガ

クイーンエメラルダス大宇宙の魔女【クイーンエメラルダス大宇宙の魔女 】

 大海原への憧れをそのまま宇宙に置き換えたような松本ロマンが全開の作品です。そう言えばなんで宇宙「海」賊なんでしょうか。それにしても松本零士のヒロインの後継者はいないような気がします。

2008年1月15日 (火)

脱格差社会と雇用法制―法と経済学で考える

■ 書籍情報

脱格差社会と雇用法制―法と経済学で考える   【脱格差社会と雇用法制―法と経済学で考える】(#1090)

  福井 秀夫, 大竹 文雄
  価格: ¥3150 (税込)
  日本評論社(2006/12)

 本書は、「格差社会問題と雇用法制との関わりを中心に、『法と経済学』によって、通念の裏にある真実を多角的に抉り出そう」と試みたものです。そして、本書の主張の基本は、「法や判例が当事者の合意した意思に基づく契約の効力を共生的に破ることについては慎重であるべきだ」というものであると述べられています。
 序章「効率化原則と既得権保護原則」では、「解雇規制が必要か否かに関しては、経済学者と法学者との間で意見が鋭く対立している」として、多くの経済学者が、
・解雇規制は、資源配分を非効率化する。
・企業に雇用を躊躇させ、失業を増加させ、失業者と有業者の間の格差を拡大させる。
・生産性の代理変数としての学歴に依存した採用を行なうため、学歴による不平等が拡大する。
等の点を指摘し、一方、法律学者は、「解雇規制はすでに雇われている人の既得権を守るという意義があり、これが社会連帯の象徴である」としていると解説しています。そして、基本的な政策評価基準として、「経済学では『効率化原則』を、法学では『既得権保護原則』を採用すること」がおおく、「この政策評価基準の違いが上記の政策評価の違いの根源である」と述べています。
 第1章「解雇規制が助長する格差社会」では、「なぜ本当の才能が正当に評価されず、学歴以外の評価や事後のやり直しがうまく行かないのか。不平等が温存されるの」という問題について、「その大きな要因は労働史上に於ける法と判例による解雇規制である」と論じています。
 著者は、「解雇規制は日本社会に由々しき歪みを構造的にもたらしている」として、
(1)学歴取得に対する人的資本投資は過度に行われる反面、その後では特許などの知的財産や科学技術・経営の革新を生み出すための投資インセンティブが抑制され、創意と工夫で社会の発展を牽引する気風が希薄化する。
(2)低生産性分野の産業が過剰人員を抱え込み、円滑な産業構造転換が困難になる。
(3)学歴貴族・既得権を持つ中高年層が若者・非正規雇用者の就業機会を奪い、社会階層の流動化を阻害して格差を助長する
の3点を主張しています。
 そして、「正しい雇用政策とは、適切な情報の非対称対策を講じることである」として、「業務内容、給与・労働時間・昇進等の処遇、人的資本投資に対する労使の負担基準などに関する客観的な細目を雇用契約書など(労働協約・就業規則を含む)に記載させるための法的仕組みを整備し、労使双方にやり直しを与え、さらに当事者の合意を最大限尊重することこそ重要」であると主張しています。
 第2章「不完備契約理論に基づく解雇規制法理正当化の問題点」では、経済学の世界で急速に発展しつつある、「契約を完全に書き上げることのできない世界を分析対象とする不完備契約理論(imcomplete contract theory)」を用いて、「解雇規制法理の経済学的正当化を試みる、近年の日本における『法と経済学』の主要な研究に関する筆者なりの展望を与えることを目的とする」としています。
 第3章「労働紛争の解決手続への一視点」では、労働関係紛争でも多く実施される「足して2で割る」タイプの紛争解決より、「むしろある意味で『白黒を付ける』タイプの判断の方が望ましい場合が多いことを法と経済学の手法を用いて論じようとするもの」であるとしています。そして、アメリカ合衆国の労働仲裁等で活用されている「最終提案仲裁(FOA: Final Offer Arbitration)」の手法を導入することの可否を検討」するとしています。
 第4章「解雇規制がもたらす社会の歪み」では、「借家法制と比較検討しながら雇用法制について経済分析を行った上で、法政策への提案を試みる」としています。
 第5章「労働市場における不確実性と情報の非対称」では、「解雇規制の有無やその詳細なルールが経済活動に与える影響を考察するための準備段階として、まず解雇が行なわれる原因は何かという根本的な問題について考え」たうえで、「解雇規制のメリットとデメリットについて、特に解雇規制があると企業の行動がどのようの変化するのかについて考えていく」としています。
 そして、「解雇規制がある場合に、使用者が採用段階でどのように対応するのか」について、現実に利用されていると思われる手法として、
(1)統計的差別:企業側が外見や経歴から判断できる情報を用いて雇用する労働者を選ぶ
(2)スクリーニング:企業側が労働者に対して複数の異なる賃金契約のメニューを提示し、そこから選ばせることでその労働者の能力を知ろうとする
(3)シグナリング:自分が有能であることを示すために求職者側が資格を取得しアピールしようとする
(4)経験者の引き抜き
の4点を挙げています。
 第6章「公務員の身分保障に関する控え目な疑問」では、「法定の事由がない限り免職その他の不利益な処分を受けない」という公務員の身分保障がいかに正当化されるかについて考察しています。そして、「勤務実績」、「[官]職に必要な適格性」が問題となっている事案も、「度重なる職務命令違反とか同僚・上司・関係者への罵詈誹謗をとらえて処分が成されたもので、資質・人柄の類が問題にされている」のであり、「言葉の通常の意味で能力が不足しているとして分限処分とりわけ免職処分を受けた例は、まず見当たらない」と指摘しています。
 また、身分保障が、「公務員が労働基本権を制限されていることの代償であるという説明」については、実定法のありようからは、「説明することは難しい」として、
(1)公務員の労働基本権の制限は、争議権否定の一点では共通しているものの、その他の点では、全面否定から団体協約締結権の附与まで、職種によってかなりの濃淡があるのに、身分保障のあり方は、それに対応した強弱がつけられておらず、全職種を通じて一律である。
(2)1947年に制定された当初の国家公務員法には、争議行為禁止規定は含まれていなかったのに、同時に身分保障の規定も設けられていた。
の2点を指摘し、「以上の事実は、実定法が、身分保障を労働基本権制限と関連づけていないことを物語るものといえよう」と述べています。
 さらに、法学系の多くの概説書・論文の類が、公務員の身分保障が、
(1)公務の政治的中立性の確保
(2)政治による行政への介入の排除
(3)猟官制を廃した成績主義の維持
と説明していることについて、「なお多くの疑問が残されている」として、
(1)公務あるいは行政の政治的中立性という言葉の意義が明確に定義されたことは、筆者の知る限り存在しない。そもそも公務員の行動が内容的に政治的中立性を持つことはありえない。
(2)同様のことは政治的影響力の排除という説明にも当てはまる。
(3)猟官制の排除が論理的必然的に成績主義をもたらすわけではない。
等の点を挙げています。
 著者は、身分保障制度の将来について、
(1)中央省庁の幹部職員に関する限り、その適用の余地がないことは明らかである。
(2)政治色の薄い、より技術的、専門的あるいは定型的な業務に従事する公務員についても、成績主義を徹底する限りは、当該官職に必要とされる資質・能力において優れた人材が民間にいる場合、その民間人を採用すべきである。
(3)結局のところ身分保障制度は廃止すべしという結論に至るが、その実施は中央省庁の幹部職員が優先されなければならない。
と述べています。
 第7章「解雇規制は雇用機会を減らし格差を拡大させる」では、「経済学的に考えてみると、皮肉なことに解雇規制の強化は、目的とは逆に不安定雇用や失業を増やす原因になってしまう」と述べ、「解雇規制が雇用にどのような影響を与えるか、を実証的な研究を紹介して、解雇規制に関する経済学的な結論が成り立っている可能性が高いことを明らかにする」としています。
 そして、ラテンアメリカ諸国、インドの州別パネルデータ、アメリカの州別パネルデータなどとともに、日本の都道府県別の整理解雇に関するデータを分析し、「海外の実証研究と同様に日本においても、厳しい解雇規制はすべての労働者に対して均一な影響を与えず、若年男性及び高齢男性労働者の就業率を下げることがわかった。また、20代後半と40・50第の女性については、失業率を増加させるよりも労働参加を妨げる効果のほうが大きい」として、「労働規制は弱者が多いアウトサイダーの雇用機会を奪う可能性が高く、特に規制改革の際には、慎重に議論を進めて規制の程度を決定する必要がある」と述べています。
 第8章「解雇判例・就業規則不利益変更判例の実態等と労働契約法のあり方」では、「主として法律実務家の観点から、整理解雇規制について、素案の内容を中心に、また、必要な限度で報告書の内容も検討し、あわせて、解雇権濫用法理と裏腹の関係にあるといわれている就業規則の不利益変更法理についても、素案の内容を検討する」としています。
 そして、整理解雇が解雇権の濫用になるか否かについて、「いわゆる4要件説と4要素説の対立がある」として、
・4要件説:人員削減の必要性、解雇回避努力、人選の合理性、及び手続の相当性の4つの事項は、整理解雇が解雇権濫用とならないための要件であり、1つでも欠けると、整理解雇は無効となるとする。
・4要素説:それら4つの事項は整理解雇の有効性を判断する4つの要素にすぎないと理解して、これを含む諸要素を総合考慮して解雇権の濫用か否かを判断すべきであるとする。
の2説を挙げ、「素案は、4要素説の立場に立っていると理解することができる」と述べています。
 第9章「『労働契約法』と労働時間法制の規制改革」では、働き方の多様化が進み、個別的労働紛争が増加することから、「画一的な労働基準法では対応できない状況が生じている」として、「予め労使間での合意に基づく特別の契約がない場合に、個別労働契約の規範となる透明なルールを定めることが、労使双方にとって紛争を未然に防止するために有効となっている」として、2004年に「今後の労働契約法制の在り方に関する研究会」が設置され、2005年にその「中間報告」が公表、2006年に厚生労働省から「労働契約法制及び労働時間法制に係る検討の視点」が提出されたことについて、
(1)具体的な規制の必要性をめぐる主として法学者と経済学者との意見の対立の背後にある、労働市場における暗黙の前提の違いを明示的に示す。
(2)採用から解雇に至る労働契約に関するここの問題について、「検討の視点」などで示された主要な論点を紹介し、それらについて上記の観点から検討する。
(3)労働契約法制と一体的に議論される労働時間法制のあり方についても考える。
という「法と経済学」の観点から検討することを目的としています。
 本書は、判例を積み重ねていて、過去の判例を勉強することに力点が置かれがちな雇用に関する分野について、そもそも論で考えるきっかけを与えてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 本書は、「法と経済学で考える」という副題にあるとおり、「考える」というスタンスにあるためか、ややラジカルな印象を与えますが、実際の議論の俎上に、法と経済学の考え方が上るようになったことは進歩なのではないかと思います。


■ どんな人にオススメ?

・法律学と経済学のギャップを見に行きたい人。


■ 関連しそうな本

 猪木 武徳, 大竹 文雄 『雇用政策の経済分析』 2006年03月01日
 大竹 文雄 『経済学的思考のセンス―お金がない人を助けるには』 2006年09月04日
 八代 尚宏 『日本的雇用慣行の経済学―労働市場の流動化と日本経済』 2005年03月23日
 玄田 有史, 中田 喜文 (編集) 『リストラと転職のメカニズム―労働移動の経済学』 2006年04月27日
 本田 由紀 『女性の就業と親子関係―母親たちの階層戦略』 2006年05月23日
 白波瀬 佐和子 『少子高齢社会のみえない格差―ジェンダー・世代・階層のゆくえ』 2006年03月10日


■ 百夜百マンガ

ともだちなんにんなくすかな【ともだちなんにんなくすかな 】

 ムコ探しに至る過程を描いた作品。なにがすごいかというと実際に結婚に至っている点でしょうか。これに比べれば食事代をジャンケンで払うなんてたいしたことないような気がしてしまいます。

2008年1月14日 (月)

「まずい!!」学―組織はこうしてウソをつく

■ 書籍情報

「まずい!!」学―組織はこうしてウソをつく   【「まずい!!」学―組織はこうしてウソをつく】(#1089)

  樋口 晴彦
  価格: ¥777 (税込)
  祥伝社(2007/07)

 本書は、同じ著者の『組織行動の「まずい!!」学』の続編であり、前著出版後にも目立った、「重要な情報を隠蔽したり、意図的にミスリードしたりすることで、事件をことさらに矮小化し、自らの責任を回避しようとする悪質なケース」について、「この風潮に対して警鐘を鳴らすために、そのような事例をなるべく選んで取り上げ、タイトルにも『組織はこうしてウソをつく』という挑発的な文言を用いることにした」と述べています。
 第1章「リスクから目を背ける人々」では、パロマ湯沸器事故を取り上げ、パロマ社の対策の特徴として、
(1)修理業者向けの措置が多いこと
(2)LPガス事業者への対策は実施されているのに、都市ガス事業者に対する取組みが見当たらないこと
(3)事故が発覚するたびに泥縄式に対応した上に、それほど出費を必要としない要請活動が中心だったこと
の3点を挙げています。
 また、パロマ社の記者会見が、「頑なに自社の責任を否定」するなど、「拙劣」であった理由として、同社の「国際性」を挙げ、「売り上げの約8割が米国など海外で達成されている」ため、「訴訟社会の米国で商売を行なっていくためには、自社の誤りを簡単に認めてはならない」と、今回のケースも「米国流の発想で対応してしまった」ことと、連結売上高2400億円、社員数約1万人という大企業にもかかわらず、典型的な同族会社であるという「閉鎖性」を指摘しています。
 そして、パロマや不二家など、「高度成長期に勃興した同族会社において、危機管理の失敗が相次いでいる」ことについて、「その多くが三代目経営者の元で発生している」という「三代目の危機」の発生メカニズムを解説しています。
 さらに「発掘!あるある大辞典II」の番組捏造事件について、法律上の制作者である関西テレビが、東京所在の日本テレワークに対して「全面的に依存せざるを得なく」なっており、「完全パッケージ方式」をとり、「どの制作会社に再委託するか、予算をどのように配分するかといった番組管理の基本的な部分まで、日本テレワーク側が握ることになった」と述べています。
 そして、「あるあるII」の製作現場が、
・貴族階級:電波行政によって手厚く既得権益を保護されたテレビ局
・ブルジョワ階級:テレビ局と密接な関係を保持しつつ実務をコントロールする元請け制作会社
・貧民階級:厳しく搾取される孫受け制作会社
という三層ピラミッド型の「一種の階層社会を形成」していたと指摘しています。
 第2章「虚構の輪舞曲」では、著者が、「あれほどの数の失敗事例をどうやって研究したのですか」と質問されることについて、「各種記事や書籍、調査報告書など、公開されている情報をひたすら集めて分析した」と述べています。
 また、太平洋戦争末期の沖縄戦において、住民の集団自決事件が日本軍の「集団自決命令」によって行なわれたと広く紹介されていることについて、「この『集団自決命令』なるものは存在しなかった」と述べ、昭和27年の戦傷病者戦没者遺族等援護法が一般住民を対象外としており、「一般住民であっても群命令で行動していた者については、『戦闘参加者』として軍属に準ずる扱い」としていたため、関係者が、「困窮した住民たちを救うための方便として、『集団自決命令』など存在しないことを知りながら、それを利用した」と解説し、その裏づけとして、琉球政府で援護業務に従事していた関係者の証言を紹介し、沖縄県の資料編集所も、「昭和61年の時点で『集団自決命令』が虚構であったことを認めるに至った」と述べています。
 第3章「ジョーカーはそこにある」では、平成18年に社会保険庁で国民年金保険料に関する大規模な不祥事が発覚したことについて、「あんな役所はさっさと潰して、民間化したほうがいいですよ」と話しかけられることが多いことについて、「今回の不祥事が起きたのは、社会保険庁の『民間化』が進んだせいですよ」と答えていると述べ、「遅れず、休まず、働かず」が代名詞であるはずの公務員が違法行為を犯してまで実績向上に血道を上げた理由として、「社会保険庁に成果主義を導入したこと」が関係していると述べ、新しい人事評価制度の下で、「最も重視されていた指標が、国民年金保険料の納付率だった」と解説しています。
 また、「外国人留学生は犯罪にはしりやすい」というイメージが流布していることについて、「外国人留学生よりも、もっと恐ろしい連中が街灯を闊歩している」として、千人当たりの検挙人員で、留学生の倍にあたる16.85人に達し、「罪種別に見ても、少年は、ほとんどのカテゴリーで留学生と同レベル、あるいは大きく上回っている」と述べ、「数字だけを見れば、少年のほうが外国人留学生よりもよほど質が悪い。これを逆に言えば、一般にイメージされているほど、留学生の犯罪がひどいわけではない」と解説しています。
 さらに、不法滞在の留学生が急増した理由として、「留学生受入れ10万人計画」の政府目標をクリアするために、入国管理局が在留資格を簡単に与えてしまい、大学の側も、「経営困難に陥った一部の地方大学が、欠員を穴埋めする目的で留学生を大量に受け入れた」として、酒田短期大学のケースを紹介しています。
 第4章「リスクと共生するために」では、みずほ銀行のシステム障害のケースを取り上げ、首脳陣にはCIO(Chief Information Officer)の必要性すら認識されておらず、マスコミの指摘で急遽任命した役員にはシステム開発の経験もなく、開業直前の時点で一部のプログラムの完成度が低いことが明白であり、この時点では、システム切り替えを延期するという「最後の手段」が残されていたにもかかわらず、第一勧業銀行出身のCIOが「最後の追い込みで何とかなるという希望的観測にすがり、そのままゴーサインを出してしまった」ため、1ヶ月以上もシステム障害の影響が続き、金銭換算だけでも18億円、それ以上に「信用」というグループ全体の財産を失ったと述べています。
 そして、システム開発において、失敗する担当者の典型例として、
(1)値切り屋型:開発費をとにかく安くしろと圧力をかける。
(2)お任せ型:上流工程での打ち合わせの際に、ITのことは分からないからと相手の言いなりになる。
(3)殿様型:開発業者に高圧的な態度を取る。
(4)優柔不断型:方針を明確に決めることができない
の4つのタイプを挙げています。
 また、バブル期以降、「若い人にやかましく指導する人が少なくなった」と述べ、このような「やかまし屋」を、「十分な技能や経験を蓄積したベテランであり、その職人気質な性格から不適切な仕事ぶりを看過することができず、自分の部下は勿論のこと、同僚、さらに上司に対しても、その問題点を厳しく指摘し、解決策を教示せずにはいられない人物」と定義し、トヨタ方式の本質を、「単に現場の問題点を解決するだけでなく、その過程を通じて問題点の発見を常に念頭に置く人材を育てることにある」として、「まさに、組織全体が『やかまし屋』となった」と述べています。
 本書は、多かれ少なかれ、誰しも思い当たる組織の失敗について、豊富な事例を元に解説してくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 本書の中で、三代目危機説として、「売家と唐様で書く三代目」を地で行っているような企業の例が紹介されていますが、単なる同族経営の問題だけではなく、その企業の主力製品なりビジネスの寿命という面も大きいのではないかと思いました。それを克服できないところに三代目の問題があるといえばそれまでですが。


■ どんな人にオススメ?

・組織が腐る実例を目にしたい人。


■ 関連しそうな本

 樋口 晴彦 『組織行動の「まずい!!」学―どうして失敗が繰り返されるのか』 2008年01月13日
 畑村 洋太郎 『失敗学のすすめ』
 中尾 政之 『失敗百選 41の原因から未来の失敗を予測する』
 畑村 洋太郎 『組織を強くする技術の伝え方』
 畑村 洋太郎 『失敗を生かす仕事術』
 岡本 浩一, 今野 裕之 『組織健全化のための社会心理学―違反・事故・不祥事を防ぐ社会技術』 2007年01月24日


■ 百夜百音

ジンギスカン【ジンギスカン】 ジンギスカン オリジナル盤発売: 1979

 モスクワオリンピックといえば、当時の子どもたちにとっては「こぐまのミーシャ」の印象が残っていますが、そういえば日本は参加しなかったんですよね。

『もすかう』もすかう

2008年1月13日 (日)

組織行動の「まずい!!」学―どうして失敗が繰り返されるのか

■ 書籍情報

組織行動の「まずい!!」学―どうして失敗が繰り返されるのか   【組織行動の「まずい!!」学―どうして失敗が繰り返されるのか】(#1088)

  樋口 晴彦
  価格: ¥777 (税込)
  祥伝社(2006/06)

 本書は、近年着実に普及しつつある「失敗学」の中で、「文科系の世界」、特に「マネジメントの分野に着目して、組織行動に関係する様々な失敗事例に分析を加え、リスク管理上の教訓事項を抽出したもの」です。
 第1章「人はなぜ、ミスを犯すのか」では、チェルノブイリ原発事故の例を挙げ、「もともと実験計画そのものが安全規則に違反していた上に、危険な捜査をするようにオペレータを追い込んだ周囲の状況が、この自己の重要な背景要因となっている」として、まさしく「職場環境によって引き起こされたヒューマン・エラー」であると述べています。
 そして、三菱重工の豪華客船「ダイヤモンド・プリンセス」火災事故について、「新市場開拓のために重ねた無理が現場レベルに蓄積され、最終的に爆発した」物であると述べ、「『組織の三菱』といわれる三菱グループの代表的企業でさえも、現場管理に失敗してしまったことを、他山の石として重く受け止めるべきだ」と述べています。
 また、西郷隆盛が、「茫洋」「至誠」というイメージで語られているが、実際には算術に明るく、幕末には幕府側を挑発するためのテロ行為をやらせていることを指摘し、「西郷を論じる方々のほとんどは、日本人が一般的に好んでいるリーダー像に西郷を無理やり当て嵌めようとしているだけだ」と述べています。
 第2章「危機意識の不在」では、「災害は忘れた頃にやってくる」という寺田寅彦の警句が、「災害」以外にも「自己」や「失敗」にも置き換えが可能であると述べ、「リスク・マネジャーにとっては、危機感を着実に麻痺させていく『忘却』と戦うことが、最初の、そして永遠の課題である」と述べています。」
 そして、平成11年のJOC臨界事故の例を挙げ、事故の起きた作業が、
(1)質量制限の劣化
(2)安全審査を受けていない製造工程の出現
(3)形状制限の劣化
(4)形状制限のさらなる劣化
(5)質量制限の崩壊
(6)形状制限の崩壊
の6回にわたる違法な工程変更によって、本来の作業手順から大きく逸脱したものであるが、「注目すべき点は、第2を除く他の工程変更は、すべて『作業の効率化』のために行なわれた業務改善活動であったこと」を指摘し、「安全の軽視は『原因』ではなく、あくまで業務改善を追及した『結果』にすぎない」と述べています。
 著者は、この他、関西電力美浜原発事故などの例を挙げ、「アウトソーシングしたからといって、そのリスクまで一緒に外注先に押し付けることはできない」という「当然の事実」が認識されているかどうかが問題であると述べています。
 第3章「行き過ぎた効率化」では、日本では、「縁の下の力持ち」的な業務が軽視されがちであることを、旧日本陸軍で「輜重輸卒(しちょうゆそつ)が兵隊ならば、蝶々蜻蛉(とんぼ)も鳥のうち」と補給部隊を嘲っていた例を挙げて解説し、「現代の日本企業において、非常に重要な職務であるにもかかわらず、この『輜重輸卒』なみに扱われているのが安全管理部門である」と述べています。
 また、日本企業の成果主義の導入について、「成果主義の導入が性急に進められた結果、組織内で深刻な適合不全が発生しているケースがあまりにも多い」として、「目標押し付け症」や「目標下方設定症」等の症状を紹介し、これに関連したエピソードとして、次々と世界記録を更新していた某国の英雄的重量挙げ選手が、「実力をわざと小出しにして、世界記録を少しずつ更新することにより、様々な表彰や恩典を長期にわたって獲得していた」というエピソードを紹介しています。
 さらに、平成6年4月の中華航空機墜落事故の例を挙げて、「自動化をどんどん進めていった場合でも、人間と機械との接点は必ず残る。このインターフェイスの部分が、システムという鎖の中で一番脆弱なリングになるのだ」と述べています。
 第4章「緊急時への備え」では、シミュレーションについて、「緊急事態への対応能力を向上させ、危機管理マニュアルの細部を検討する絶好の機会である」ので、「具体性を欠いたシミュレーションなどは、関係者の単なる自己満足にすぎない」と述べています。そして、セレモニーに堕してしまいがちな形式的なシミュレーション観を改め、「シミュレーションの中での失敗、すれ違い、誤謬などなどのトラブルは、危機管理体制を充実するための契機であり、教訓」であり、「失敗が起きないシミュレーションは悪いシミュレーション」と考えるべきだと述べています。
 また、戦前の日本陸軍や海軍の情報の扱いの失敗の例を挙げ、「情報の不足はあくまでも『結果』に過ぎず、その『原因』のうちの相当な部分は、情報を求める側に在る」と述べています。
 第5章「リスク管理の要諦」では、コンコルド計画が、開発の中途段階の試算で、「今すぐ開発を中止して違約金を支払う方が、このまま開発を続けた場合よりも損失額が軽微で済むという結論が出た」にもかかわらずストップがかけられなかった理由として、「もったいない」の心理が根底に見え隠れすると述べ、この問題こそ、「すでに費消されてしまって今さら回収する方途がない資金」である「サンク・コスト」の問題であると指摘し、「元々人間には、自分の行なったことに『意味』を付与したがるという特性がある」と述べています。
 また、60年前の開発以来、いまだに100カ国以上の軍隊や警察で使用され、累計製造数は約1億挺と推定されるAK47突撃銃(カラシニコフ銃)が重宝される理由として、「構造が単純である上に、銃のいたるところに余分な隙間があること」、つまり、「シンプルでアバウトな造りだからこそ、信頼性が高い」と述べ、組織やシステムについても、「組織が大きくなればなるほど、そしてシステムが複雑になればなるほど、瑣末な障害が全体に対して重大な悪影響を及ぼす可能性が高くなる」と述べています。
 さらに、「組織内で共有されている価値観・信念・慣習など、構成員の行動に影響を与える様々な様相を総括」した「組織文化」について、「オフィシャル名規則やマニュアルと同様に、あるいはそれ以上に、組織の構成員の活動を事実上規律する働きがある」と述べ、一方で、「自然発生的な組織文化はどうしてもルーズなものになりがち」であり、「そのような組織文化は、本来の組織目的と無縁であるだけでなく、組織さらには社会のルールにも背反し、むしろ組織にとって有害となる可能性もある」として、雪印事件や東京女子医大病院手術ミス隠蔽事件等の例を解説しています。
 本書は、ベストセラーになっただけに、読みやすく、うなずける内容が詰まった一冊です。


■ 個人的な視点から

 「失敗学」も面白いですが、技術的な失敗の話よりも、本書のような組織の失敗の話のほうが自分の身にぐっと来ます。


■ どんな人にオススメ?

・組織の中で「まずい!」と思った経験のある人。


■ 関連しそうな本

 樋口 晴彦 『「まずい!!」学―組織はこうしてウソをつく』
 堀井 秀之 『安全安心のための社会技術』 2007年07月29日
 岡本 浩一, 今野 裕之 『組織健全化のための社会心理学―違反・事故・不祥事を防ぐ社会技術』 2007年01月24日
 ジェームズ R・チャイルズ (著), 高橋 健次 (翻訳) 『最悪の事故が起こるまで人は何をしていたのか』
 畑村 洋太郎 『失敗学のすすめ』
 畑村 洋太郎 『失敗学実践講義 だから失敗は繰り返される』


■ 百夜百音

ポテン・ヒッツ~シングル・コレクション【ポテン・ヒッツ~シングル・コレクション】 スチャダラパー オリジナル盤発売: 1994

 「ゲームボーイ」というのも商品名でしたが、この当時は、まだスチャダラのメンバーも「ボーイズ」を名乗ってしまうことが社会的に許されていたのでしょうか。

2008年1月12日 (土)

コミュニティ 安全と自由の戦場

■ 書籍情報

コミュニティ 安全と自由の戦場   【コミュニティ 安全と自由の戦場】(#1087)

  ジグムント バウマン (著), 奥井 智之 (翻訳)
  価格: ¥2730 (税込)
  筑摩書房(2008/1/8)

 本書は、「きわめて多義的な概念」であるコミュニティの「現代社会における態様をあますところなく描き出し」たものです。
 序章「ようこそ、とらえどころのないコミュニティへ」では、「コミュニティ」という言葉がよいものと感じられる理由として、「人柄や言動が信頼でき、友好的で、自分に好意を寄せてくれる人々の間で暮らすことを願わない人がいるであろうか」と述べ、「コミュニティ」は、「残念ながら目下手元にはないが、私たちがそこに住みたいと心から願い、また取り戻すことを望むような世界を現している」と述べています。
 そして、「コミュニティの一員である」という特権には、「自由という通貨」で支払うべき対価があるとして、「コミュニティを失うことは、安心を失うことを意味」し、「コミュニティを得ること」は、「即座に自由を失うことを意味する」と述べています。
 第1章「タンタロスの苦悩」では、「コミュニティ」は、「『自然』で『暗黙』であるような理解の共有を意味する」ものであり、「理解が自意識過剰となり、また声高で騒々しいものになったとたん、コミュニティは存続できなくなる」と述べています。
 そして、「アイデンティティ」が「人々の中を引いたり情熱を生んだりするのは、コミュニティの代用品であるからである」と述べ、「『アイデンティティ』は際立っていること、つまりは異なること、そしてその差異が独自性を形づくっていることを意味する」ため、「アイデンティティ構築を目指す者たちは、個人的に経験する恐怖や不安を一緒に掛けることができるペグ〔くぎ〕を探し出し、その後は、自分と同じく恐怖や不安を感じる人々とともに、悪魔払いの儀式を行なうようにし向けられる」と述べ、「ペグ・コミュニティ」について解説しています。
 著者は、「安心の増進は常に自由の犠牲を求めるし、自由は安心を犠牲にすることによってしか拡張されない」と述べ、「自由のない安心は、奴隷制に等しい」が、「安心のない自由は、見捨てられ途方に暮れることに等しい」と述べています。
 第2章「引き抜いて、植え付ける」では、「大転換の時代は、関与 engagement の時代であった」と述べ、「被支配者は支配者に依存していたが、支配者もまた同じく被支配者に依存していた」と述べています。
 そして、近代資本主義につきまとう二つの傾向として、
(1)過去のコミュニティの「自然な理解」を、人工的にデザインされ、強制的に賦課され、監視されたルーティンによって置き換えようとする、首尾一貫した取り組み
(2)新しい権力構造の枠組みのなかで、無から abnihilo 「コミュニティ感情」を復興もしくは創造しようとする、はるかに一貫性のない取り組み
の2点を挙げ、「どちらが相対的に強く、また目立つかは、時を経て変化した」と述べています。
 第3章「撤退の時代――大転換第二段」では、「『大いなる関与 engagement』の時代の後には、『大いなる撤退 disengagement』の時代が到来した」と述べ、「高速、高加速の時代、不関与の時代、『弾力性(フレキシビリティ)』、『人員削減(ダウンサイジング)』、『外部委託(アウトソーシング)』の時代」であると解説しています。
 そして、かつては、「鋼鉄製の檻の中でごく普通の人生が書き綴られて」おり、「その檻の中でも断然強固なものといえば、生計の確保に関わる社会的な枠組みであった」として、「仕事は人生の基軸であって、その周りで人生のすべての要素が回転し、それに沿って人生のすべての活動が構想された」のに対し、「今日までに、この基軸は修復不可能なまでに壊されてしまった」と述べています。
 著者は、「かつては固くしっかりと埋め込まれた位置づけ(オリエンテーション)の基点が、個々の人間の寿命よりも永続性を持ち、確実で、信頼できる社会的環境を提示してくれたのであるが、そのような基点の多くはなくなった」と述べています。
 第4章「成功者の離脱」では、「親の世代の集団的・連帯的な闘争を個人的に利用して、大恐慌を切り抜けて成功を収めた子どもの世代」が、「豊かな郊外住宅地に住み、『自分たちの背後の跳ね橋を吊り上げておくことにした』」というリチャード・ローティの言葉を紹介しています。この「離脱した成功者」が、「十分な財産や名声を得たとたん、通常の都会生活の『わずらわしい親密さ』から距離を置くために、自らそのなかに住居を買い求める集合住宅地」である、「厳重に見張られ、電気的に監視されている『ゲーテッド・コミュニティ』」について、「コミュニティ」とは名前だけであり、「居住者が法外な金を払ってまでも手に入れようとするのは、侵入者を気にすることなく、平穏に生活する権利である」と述べています。
 著者は、「このコスモポリタン的な実業ならびに文化産業界のグローバル・エリートが生活の大半を送る『防御区域』は、繰り返し言うならば、コミュニティのない領域である」と述べ、「『成功者の離脱』は、まずもって、コミュニティからの闘争である」と断じています。
 第5章「コミュナリズムの二つの源泉」では、「成功者がコミュニティ的な義務の窮屈なネットワークから手にできるものはほとんどなく、このネットワークに捕まることで失うものは、すべてである」と述べ、コミュニティという概念に不可欠なものとして、「どれほど有能であるか、重要であるかとは関わりなく、メンバーの間で利益を均等に分かち合う」という「友愛的な義務」であるとして、「この特徴こそが、『コミュナリズム〔共同体主義〕』を『弱者の哲学』にする」と述べています。
 そして、「ペグ・コミュニティ」と表現することができ、「中心に位置するものが何であれ、参加者の間に生まれる絆が一時的なものであるのみならず、表面的でいい加減な性質」を持つ「美的コミュニティ」と、そのほとんどあらゆる点において対立物に当たる、「長期の関与、譲ることのできない権利と揺るぎない義務から組み立てられる必要」がある「倫理的なコミュニティ」の2つを挙げ、「2つのまったく異なる型のコミュニティは、目下流行中の『コミュナリズムの言説』において、あまりにもしばしば一まとめにされ、混同されている」と指摘しています。
 第6章「承認を受ける権利、再配分を受ける権利」では、「個体的 solid」な状態の近代が、「先験的に a priori『究極の状態』を想定してた」のに対し、「液状的な近代 liquid modernity」は、変化の力を解き放ったため、「液状的段階」の政治的戦略家や文化的スポークスマンは、「試行錯誤の末にたどり着くべき到達点としての社会的公正のモデル」を放棄し、変わりに「人権」の規則・基準・尺度を指示していると述べています。
 そして、「近代的な生活の2つの側面」である、
(1)人生の至高の目的が快楽あるいは幸福であると宣言し、獲得できる快楽や幸福の総量が途切れることなく絶えず増え続けることを、社会と権力の名において保証する、と約束したこと。
(2)伝統的社会からの離脱。
の2点が、「周囲の人びととの比較と言うよりも、昨日の状態との対比によって評価された」という「人類史の大半を通じて機能してきた」法則の規制力を、「完全に削ぐのに大きな役割を果たした」と述べています。
 著者は、社会的環境の変化の「最も影響力を孕んだ側面の一つ」として、「再配分の問題から『承認の問題』を解き放ってしまったこと」であると述べ、「今日では、承認の要求は、配分をめぐる公正さに何ら関わりなく表明される傾向がある」と指摘しています。
 第7章「多文化主義へ」では、「エスニック・マイノリティ」について、「エスニック・マイノリティをコミュニティとして再生産させるような選択は、選択の自由よりも、むしろ強制の産物である」と述べ、「人びとは、自らの意志などおかまいなしに、『エスニック・マイノリティ』を割り当てられ」、「囲い込みは、それに関わる『強力な集団』によって管理され、そうした管理があることで永続的なものになる」と述べています。
 そして、「近代的な国家建設の段階からポスト国民国家の局面への移行」に関して、実際の国家建設には、「ナショナリストとしての顔とリベラリストとしての顔」という2つの顔があり、コミュニティの運命にとっては、「新興の国民国家のナショナリストの顔とリベラリストの顔のどちらを選んだところでほとんど違いはなかった。ナショナリズムとリベラリズムは、戦略の好みに違いはあったかもしれないが、同じ目的を持っていた」として、国家建設プロジェクトが、民族的コミュニティに開いて見せた前途は、「同化するか、消滅するか」という選択であり、「前者は差異の全滅を意味し、後者は、異質な者の全滅を意味していたが、いずれにしても、コミュニティの存続の可能性は残されてはいなかった」と述べています。
 著者は、「差異 difference へのこの新たな無関心 indifference」が、「文化的多元主義」の承認として理論化されたと述べ、「この理論によって形成され、支持される政策こそが、『多文化主義 multiculturalism』」であり、「表向きは、広く門戸を開く寛容という前提、コミュニティが自己主張する権利への配慮、コミュニティが選んだ(もしくは引き継いだ)アイデンティティの公的な承認が、多文化主義を導いている」が、「本質的には保守的な力」として働き、「その影響によって、公的には認められそうもない不平等が、『文化的差異』――大切に育み、守るべきもの――に作り替えられてしまう」ことを指摘しています。
 そして、「文化主義的」な世界観が、「不平等がこの世界観自体の大きな根拠だということ」を語らずに済ませていることを指摘し、「不平等が生み出す分裂を、選択の自由が必然的に持たざるを得ない側面」として表現することは、「その自作自演の犯行における主要な要素の一つだ」と述べています。
 第8章「はきだめ――ゲットー――」では、かつて人びとが、「自分が属していて、保護を当てにできる(そして願わくば、実際に得られる)と信じるに足る場所を想定していたが、その全体の中で『社会』がしめていた場所に、ぽっかり穴が開いている」と述べ、かつて「社会」という語が意味していたような国家は失われ、「情容赦なく個別化され、民営化される世界にあって、安全の確保も、人間生活のあらゆる側面と同じく、『自分の手でする』ほかない仕事となる」と述べています。
 そして、「安全なコミュニティ」(安全としてのコミュニティ)に向けての長い行軍の視界」に、「自発的ゲットー voluntary ghetto」なる「奇怪な変種(ミュータント)」がぼんやり現れると述べています。
 また、「ゲットー化〔貧しい人々をゲットーに隔離すること〕は、廃棄物処理メカニズムの有機的な一部」であると述べ、貧しい人々は、「もはや『生産者の予備軍』として用済み」になり、代わりに、「欠陥をもった、それゆえに役立たずの消費者とされる」と解説するとともに、「ゲットー化は、貧困が犯罪に転嫁するのと対応して起こり、それを補完するものである」として、「ゲットーと刑務所とは、『望ましくない連中を完全に縛りつけておく』、つまりは、閉じ込め、動けなくする戦略の2つの型である」と述べ、「監獄は壁のあるゲットーであり、ゲットーは壁のない監獄である」ともいえるとしています。
 第9章「多文化の共生か、人間性の共有か」では、「近代知識人の現代的化身たる知識層が、『多文化主義』の呪文を唱えるとき」には、「申し訳ない。今の窮地からあなた方を救い出すことはできません」と言っていると述べ、現代の知識層には、「人間は本来どのような境遇にあるのが望ましいのかということについて、何ら語るべきことが」なく、彼らが「多文化主義」、かの「イデオロギーの終焉というイデオロギー」に逃げ込もうとするのは、このためとするラッセル・ジャコービィの言葉を紹介しています。
 そして、今日の知識層が経験してきた、「イデオロギーの終焉というイデオロギー」の目を見張る疾走をもっともらしく説明するものとして、
(1)権力や支配の新しい戦略としての、撤退 disengagement
(2)規範による統制に今日代わるものとしての、過剰 excess
の2点を挙げています。
 著者は、「多文化主義者の『イデオロギーの終焉というイデオロギー』は、せいぜいがところ撤退を通じての権力、過剰を通じての規制という2つの影響力の下で人びとがおかれた状況のうわべを飾る、知的虚飾として解釈すべきものである」と提案しています。
 終章「ケーキも食べればなくなる」では、「私たちはコミュニティがないと、安心して暮らすことができない。安心は、幸福な生活を送るのになくてはならないものである。しかし、私たちが現に住んでいる世界では、ますます提供が難しく、保証をためらうものとなっている」と述べています。
 そして、「コミュニティが、真に重要な戦場において、今日の原子化した社会の病理と真っ向から対決しようとするならば、思い起こすべき課題」として、
(1)権利上(でジュール)の個人の運命を事実上(デファクト)の個人の能力に作り替えるのに必要な資源の平等化
(2)個人的な無力や不幸に対する集団的な保証の構築
の2点を挙げています。
 著者は、「もしコミュニティが、諸個人が構成する世界で存在しようとするならば、それは分かち合いと相互の配慮で織り上げられたコミュニティでしかありえない(し、またそうでなければならない)。それは、人を人たら占める平等な権利や、そのような権利の上で人々が平等に行動しうることについて、関心や責任を有するコミュニティである」と述べています。
 本書は、普段、明確に意識することなく多用している「コミュニティ」の意味について、深く思考するための「潜水具」を与えてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 「コミュニティ」という言葉は、いろいろな場で多用されており、特に行政の計画などの中では気楽にたくさん使われている印象があります。そして、無条件にさも良いものであるかのように、そして、求めれば手に入るものかのように使われていますが、それが対価を、しかも自由という対価を必要とするもので、容易には手に入らないものである、ということをきちんと考えていなかったのではないでしょうか。


■ どんな人にオススメ?

・「コミュニティ」は求めれば手に入るものだと思っている人。


■ 関連しそうな本

 ジークムント バウマン (著), 森田 典正 (翻訳) 『リキッド・モダニティ―液状化する社会』
 ジグムント・バウマン (著), 伊藤 茂 (翻訳) 『アイデンティティ』
 ジグムント バウマン (著), 中道 寿一 (翻訳) 『政治の発見』
 ジェラード・デランティ (著), 山之内 靖, 伊藤 茂 (翻訳) 『コミュニティ グローバル化と社会理論の変容』 2007年07月24日
 ロバート・D. パットナム 『孤独なボウリング―米国コミュニティの崩壊と再生』 2006年08月28日
 ウェイン ベーカー (著), 中島 豊 (翻訳) 『ソーシャル・キャピタル―人と組織の間にある「見えざる資産」を活用する』 2007年06月27日


■ 百夜百音

P.S.あなたへ・・・【P.S.あなたへ・・・】 あみん オリジナル盤発売: 1983

 代表曲「待つわ」を含むデビューアルバム。イントロからいかにもポプコン出身っぽいヤマハ色たっぷりなアレンジのように感じてしまったのは、同じ編曲者の「ひとり上手」(中嶋みゆき)を連想してしまったからでしょうか。サビではひかえめにレゲエテイストです。
 引退後の加藤晴子が、昔歌手だったことを子供に秘密にしていた、というエピソードはなんだかドラマや漫画みたいでおもしろいです。「流星課長」のマリリン伝次郎みたいな。

2008年1月11日 (金)

県庁を変えた「ひとり1改革運動」―みんなで改革・大きな成果

■ 書籍情報

県庁を変えた「ひとり1改革運動」―みんなで改革・大きな成果   【県庁を変えた「ひとり1改革運動」―みんなで改革・大きな成果】(#1086)

  静岡県, 静岡総合研究機構
  価格: ¥2520 (税込)
  時事通信出版局(2007/10)

 本書は、「新しい行政マネジメントの手法(ニュー・パブリック・マネジメント:NPMと呼称)を他県に先駆けて構築して、10数年にわたり推進してきた」静岡県の行政改革に「魂を入れている」、「全員参加の改革運動、『ひとり1改革運動』」で提案された優秀事例を紹介しているものです。
 第1章「『ひとり1改革運動』と静岡県の新公共経営(NPM)」では、「ひとり1改革運動」が、「職員一人ひとりが身近な業務を見直して、改革改善の行う運動」であり、そのスローガンは、
・「速く」(Speed):仕事を処理する工夫をします。
・「ムダなく」(Cost):作業量や書類などを少なくします。
・「いい仕事」(Quality):県民の視点に立った質の高い仕事をします。
の3点であること、平成10年度の運動開始から平成18年度までの累計では75,789件の取組みがあり、平成16~18年度の3年間の累計では全国1位であることなどを紹介しています。
 そして、運動の秘訣として、
(1)楽しむ
(2)手間をかけない
(3)仕事を楽にする
(4)マネ・パクリ大歓迎
(5)褒める
(6)後押しする
の6点を挙げています。
 また、「改革のヒント」として、「弓桁の6ヶ条」として、当時企業局西遠事務所湖西出張所長だった弓桁氏がまとめた、
(1)改革することは面白い
(2)感じて見つける改革
(3)自分の立場で発想しよう
(4)県民の立場で考えよう
(5)もっと気楽に考えよう
(6)アイデアは真面目と不真面目の間にある
の6ヶ条を紹介しています。
 さらに、「ひとり1改革運動」が成果を挙げている要因として、静岡県では1980年代前半にも「QCA (Quality Control of the Administration)」という呼び名で、QC手法を現場に導入する運動をした経験があり、その反省から、
(1)パソコンを使って提案の手間を最小化した
(2)他の部署や職員のマネ・パクリを推奨した
(3)自分の仕事を楽にする改革・改善に焦点を当てている
(4)表彰と発表機会を設けて取り組みへのインセンティブを高めている
(5)毎年重点テーマや表彰項目を変え、新味を出すことに努めている
の5点を挙げています。
 第2章「『ひとり1改革運動」の取り組み事例」では、過去9年間に表彰された約200件の事例の中から代表的な63件の事例を紹介しています。これらは、
(1)顧客志向(利用者の立場から考える)
(2)新しい発想(前例に捉われない斬新なアイデア)
(3)情報発信(工夫して伝える)
(4)協働(セクションを越えた連携を考える)
(5)合理化(やめる・へらす・かえる)
という考案者の発想の視点による5つのカテゴリーで分類されています。そして、「ひとり1改革運動」が、「野球にたとえれば、一発ホームランを狙うのではなく、シングルヒットからコツコツと得点を狙うようなアプローチ」であると解説しています。
 まず、「顧客志向」の発想による事例としては、浜松財務事務所納税第2課が、滞納の原因を分析したところ、「平日に銀行に行くことができない若年単身者や日本語が分からない外国人に滞納が多いこと」が判明したことから、
・夜間納税相談窓口を月末に定期開設
・ポルトガル語と英語のチラシを作成
等の取り組みを行なった結果、平成16年10月末の夜間窓口開設から平成19年6月までに、298件、1,433万円が納付され、自動車税の滞納額も、平成17年度、18年度と減少を続けていることが紹介されています。
 次に、「新しい発想」の事例としては、大井川橋を渡ってすぐの交差点で右折車を原因とする渋滞が起こっていたことに対し、通常の対策である右折レーンの設置では、橋の拡幅工事が必要となり、多くの工事費と工事機関が必要となるため、「右折車両をいったん左折させ、回転広場で方向転換させる」という試みを実施し、橋梁工事では15億円かかるところを、4,600万で実現、1日でもっとも混む時間帯の通過時間を14分58秒から7分30秒に短縮させたことが紹介されています。
 「情報発信」では、東海地震等の大規模災害時の災害情報の発信にあたり、静岡県のインターネット用の設備は静岡県内に設置されていて、災害時に使用できなくなる恐れがあり、県外に設置する場合には多額の費用がかかるため、ヤフーと協定を結び、全国に分散して設備を利用した情報発信を可能にしたことが紹介されています。しかも、利用料はヤフーの好意により無料となっているため、新たに設備を設置した場合にかかる1億2,000万円の初期費用と、年間2,000万円の設備維持費を節減できたと述べています。
 また、農業振興のための情報を報道機関に積極的に提供した結果、どれだけの広報効果があったかを広告料に換算し、職員全員に周知を図ったことが紹介されています。
 さらに、話題になった「振り込め詐欺」防止のための大阪弁の女性3人の「それ詐欺やで」のCMでは、放送を開始した平成16年12月の県内の被害件数が8件と初めて1ケタ台に減少し、マスコミでも大きく取り上げられたため、CM料金に換算すると1億円以上の露出があったことを紹介しています。
「オレオレ詐欺の防止」CM
http://bb.pref.shizuoka.jp/player/player.asp?con_id=137&play_flg=bb
 「協働」の事例では、肥えた土が必要な茶園区画整理工事現場から出た硬い土と、硬く締め固まる土が必要な林道整備工事現場で発生した肥えた赤土を相互に利用することで、発生土の処理費用など2,300万円の事業費の縮減に成功したことが紹介されています。
 「合理化」の事例では、「本庁の電話回線に単独事務所の開戦を追加する契約に変更すること」でNTTの大型割引サービスである「ワリマックス」を受けられるようにした事例や、県立大学で外部資金研究費を管理するに当たって、振込み手続をインターネットバンキングで行なうことで振込手数料を年間66万円節約した事例を紹介しています。
 本書は、1件1件は地味な取組みが、継続され積み重なることで、派手さはなくても大きな成果を挙げることができることを教えてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 「お役所仕事」と揶揄される県庁や市役所の職場でも、小さな改善を毎年積み重ねて毎年毎年前に進んでいます。そうした姿をこういった形で一冊の本にまとめることは、紹介された人たちにとってものすごく励みになったのではないかと思います。


■ どんな人にオススメ?

・お役所仕事はいつまでも進歩がないと思う人。


■ 関連しそうな本

 福山 嗣朗 『NPM実務の考え方・進め方―効率的・効果的な政策形成・実施・評価改善』 2007年09月21日
 大住莊四郎 『ニュ-・パブリック・マネジメント  理念・ビジョン・戦略』 2005年01月23日
 大住 荘四郎 『パブリック・マネジメント―戦略行政への理論と実践』 2005年05月06日
 石井 幸孝, 上山 信一 『自治体DNA革命―日本型組織を超えて』 
 若松 茂美, 織山 和久, 上山 信一 『変革のマネジメント―明るい「リストラ」を考える』 2005年08月10日
 南 学, 上山 信一 『横浜市改革エンジン フル稼動 中田市政の戦略と発想』 2005年04月13日


■ 百夜百マンガ

キャッツ・アイ【キャッツ・アイ 】

 泪・瞳・愛の三姉妹で幅広い好みに対応するヒロイン設定のやり方は、数が増えまくったモー娘。だったり、いつの間にかセーラームーンみたいになっていたプリキュアだったりと様々なバリエーションを持っています。

2008年1月10日 (木)

仕事とセックスのあいだ

■ 書籍情報

仕事とセックスのあいだ   【仕事とセックスのあいだ】(#1085)

  玄田 有史, 斎藤 珠里
  価格: ¥735 (税込)
  朝日新聞社出版局(2007/01)

 本書は、日本社会のなかに、「セックスレスをもたらす要因を、仕事もしくは働き方の中に探し」たものです。著者は、「本気で少子化問題に取り組むなら、今よりもっと恋人やパートナーとのセックスに積極的になれるような環境が実現しない限り、子どもが増えることはまずないだろう」と述べています。
 第1章「セックスレスの実態」では、「既婚就業者のうち、セックスレスの状態にある割合は、45.2%に達している」として、「まさに日本では、2組にほぼ1組がセックスレスになっている」と述べています。
 また、確かな要因として、パートナーとの間の「子どもの数」を挙げ、「子どもを1人持ってセックスレスに突入するカップルと、子どもが増えるに連れてますますセックスを楽しむカップルへの二局化傾向が、まさに1人目を分岐点に起こっている」と指摘しています。
 第2章「世界一セクシーな国の女性労働者」では、「出産期に当たる25~44歳のフランスの女性労働率」が、2000年時点で79.5%に達していることを挙げ、「今やフランス女性にとっては、仕事か出産か、等という選択はナンセンス。2つの要素は妨げあう関係ではなく、むしろ人生設計の要として手に手を取り合っている」と述べています。
 また、「35時間をオーバーして働かせた場合には罰金が科せられる」という、2000年に施行された35時間労働のメリットについて、パリでは、男性の帰宅時間が、
・午後8時以降:26%強
・午後6時ごろ:17%
・午後7時ごろ:17%
・午後5時ごろ:12%程度
と、「7時前に帰宅できる男性を合わせると全体の5割を占めている」のに対し、東京では、「午後8時以降の帰宅」という男性が60%を超えていることを挙げ、「セックスは、男女のコミュニケーションの延長線上にあるもんと考えると、長時間労働で夫婦の会話はゼロに等しく、見るのは相手の寝顔だけなどという日本の夫婦のセックスレスはむしろ無理からぬこと」と指摘しています。
 第3章「仕事とセックスレス」では、本書の仮説として、「個人の意思や力を超えて、社会の中にある何か強い力が、個人をセックスから遠ざけている。その何かは、就業者の日常時間の相当部分を占める『労働』そのものにあるのではないだろうか」と述べています。そして、「労働時間の長さだけでなく、働き方の中身そのものに注目しようと考え方を改めて検証を続けた結果、いくつかの思いがけない事実に出会うことになった」としています。
 まず、「妻の就業形態別に見たセックスレスの割合」について、「女性が働くことをやめて家庭に専念するべきだという意見を持つ人もいる」が、「女性の働く形態によってセックスレスへのなりやすさに違いがあるといった傾向は、一切確認できなかった」だけではなく、「妻もほどほどに働いたほうが、セックスレスになりにくいことを示唆する、別の興味深い関係」として、「女性にたずねたパートナーとの収入者とセックスレスの関係」を挙げ、「夫婦で収入差がかなり大きいことも、セックスレスになりやすくする背景となっている」と述べ、「女性が専業主婦であるよりも、ほどほど働いて収入を得ているほうが、夫に収入を稼がなければといった過剰なプレッシャーをかけずにすむ。生活や時間に余裕が生まれる結果としてセックスレスになりにくいのかもしれない」と述べています。
 また、「仕事上の挫折経験が、セックスレスになる確率に与える純粋な影響」として、「20代から50代の女性全般と、さらには20代、30台といった比較的若い年齢の男性について、仕事上での挫折経験を持っている人ほど、セックスレスになりやすくなっている」と指摘しています。
 さらに、職場の雰囲気とセックスレスの関係について、「職場の雰囲気が悪く、働くのがつまらないと思えば、仕事以外の別の事柄に喜びを求めるのではないかと、考えたくもなる」が、「事実はそれとは正反対」で、「職場が辛い人は、セックスにも消極的になっている」ことを指摘し、「日常的な高揚感の有無は、仕事や職場のアリ様とも深く関わっているのかもしれない」と述べています。
 配偶者以外とのセックス、つまり「不倫」については、最初の特徴として、「30代で不倫をしている場合が9.2%と最も高くなっている」という年齢との関係を挙げた上で、さらに顕著なものとして、「所得との関係」を挙げ、「既婚者のうち、年収の高い人ほど、パートナー以外とセックスをしていることが多い」ことを指摘し、「不倫は文化というよりは、むしろ経済状況によって左右されているというほうが正しいのかもしれない」と述べています。そして、「1週間の労働時間が長い人ほど、不倫をしている人は多い。特に週労働時間が60時間を越えると、不倫中の割合は急増している」ことを指摘し、「そんなに労働時間が長く多忙で、いつ不倫をするのだろうかという気がしないでもない」が、「働く時間が長く、帰宅時間が遅いのが隠れ蓑となって、不倫を続けているということもあるのではないだろうか」と述べています。
 第4章「ヒト・フェロモンと職場の関係」では、「職場に気になる異性がいれば、仕事にやる気がでますか」という項目について、「やる気がでる」と答えた割合が高かったのは女性、なかでも20代と40代が突出していたことを挙げ、「女性の場合は、職場で異性を意識すると『認められたい』『役に立ちたい』という感情が働くこと」が多く、「『認めて欲しい』と思う男性の年齢は自分より年上であることが重要」であるため、「社会に入ったばかりの20代女性は、まわりがすべて対象者」であるが、30代は出産や子育てと重なり、「育児と仕事の両立で手一杯。異性どころではない」こと、そして、40代になると子育てが一段落するが、50代の女性の場合は、「認められたい」と思える対象者である年上男性そのものが激減していることなどを解説しています。
 一方、男性30代と男性20代では、「気になる異性がいると集中力を欠く」という割合が多いことについて、「若い男性にとっては、気になる異性は平常心を脅かす危険な存在ともいえる」と述べています。
 第5章「セックスレスの再検証」では、「同じ事実が複数のデータによって再現できること」が「研究の掟」であるとして、本書が主に用いている『アエラ』のインターネットを通じて行われたモニター調査のほかに、「日本版General Social Surveys (JGSS)」による検証の再現を行なっています。
 第6章「負け犬とワーク・ライフ・バランス」では、エッセイ『負け犬の遠吠え』で「負け犬」と定義された「未婚、子ナシ、30代以上の女性」について取り上げています。
 そして、『一般に男性の方が仕事人間になりやすいので、失業や左遷といった仕事上の精神的ショックが男性の性機能を低下させるのではないかと想像できるが、『アエラ』の調査結果ではむしろ女性の方が心理的な影響を受けやすく、セックスに対しても消極的になる傾向が強い」ことを指摘しています。
 第7章「変わりゆく職場で」では、本書の分析からわかったこととして、「セックスレスの問題は、すべてが個人の自由な選択の結果だとは言い切れないということ」を挙げ、「どうやら私たちの働き方、そして職場や仕事のあり方というものが、私たちの根っこの深い部分で、個人の性生活に無意識のうちに大きな影響を及ぼしている。失業など仕事をする上での過去の苦しかった体験があったり、日常的な職場の雰囲気に不満を感じていたり、経済的に苦しかったりする個人ほど、セックスレスになる可能性が高くなっていることが、複数の統計調査から明らかになった」と述べています。
 本書は、仕事という社会生活と、セックスという私生活とが、完全に分けられるものではなく、個人の深いところで強く結びついたものであることを示してくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 少子化対策というと、いかにして育児をしやすい環境を創るか、というところに力点が置かれますが、その前段である、いかに子どもを作りやすい環境を創るか、というところも重要であることを本書は示唆しています。
 一方で、そういうプライベートなところに政府が踏み込んでくることに抵抗のある人が多いのも確かではないかと思います。


■ どんな人にオススメ?

・仕事とプライベートはまったく別だ、と思っている人。


■ 関連しそうな本

 玄田 有史 『働く過剰 大人のための若者読本』 2006年06月26日
 小室 淑恵 『新しい人事戦略 ワークライフバランス―考え方と導入法―』 2007年08月22日
 大沢 真知子 『ワークライフバランス社会へ―個人が主役の働き方』 2006年07月24日
 佐藤 博樹, 佐藤 厚 (編集) 『仕事の社会学―変貌する働き方』 2005年12月01日
 橘木 俊詔 『現代女性の労働・結婚・子育て―少子化時代の女性活用政策』 2006年08月18日
 パク ジョアン・スックチャ 『会社人間が会社をつぶす―ワーク・ライフ・バランスの提案』 2006年10月13日


■ 百夜百マンガ

One piece【One piece 】

 自分の世代では「海賊」といえば「宇宙海賊」だったり「宝島」だったりとしたのですが、今の子どもたちにとっては海賊といえばこの作品なんでしょうか。

2008年1月 9日 (水)

「あっ、忘れてた」はなぜ起こる―心理学と脳科学からせまる

■ 書籍情報

「あっ、忘れてた」はなぜ起こる―心理学と脳科学からせまる   【「あっ、忘れてた」はなぜ起こる―心理学と脳科学からせまる】(#1084)

  梅田 聡
  価格: ¥1260 (税込)
  岩波書店(2007/07)

 本書は、「しまった、すっかり忘れてた!」という経験について、その原因については「考えてもよく分からない」という、「記憶や意識の不思議な側面について、心理学や脳科学の立場から深く考えて」見ることを目的としたものです。
 第1章「いろいろなうっかりミス」では、まず、本書が取り上げる「あっ、忘れてた!」という経験を、「記憶として蓄えられている情報を思い出す債の失敗、すなわち想起の失敗」であると位置づけ、このタイプのエラーで対象とされる、「これからやろうとしている行為の記憶」が、専門的には「展望記憶」と呼ばれていることを解説しています。
 次に、「やろうと思った行為を実行し始めてからのエラー」、すなわち「し間違い」について、一般に「アクションスリップ」と呼ばれると解説しています。
 この他、3つ目のタイプとして、「過去の出来事に関する情報」が思い出せないエラーと、「過去に覚えた情報」、すなわち「知識になった情報」が思い出せないエラーである「ど忘れ」について解説しています。
 第2章「『し忘れ』とは何か」では、記憶には、
・記銘:必要な情報を覚えること(符号化)
・保持:その情報を頭に蓄えておくこと(貯蔵)
・想起:必要なときにその情報を思い出すこと(検索)
という3つの段階があり、このうち、タイミングが必要とされるのは、最後の「想起」段階であると解説しています。
 また、著者の調査では、「し忘れ」に関しては、「壮年者群より若年者群のほうが多かった」ことを挙げ、他の展望記憶の年齢差に注目した研究でも、「し忘れは若者に多い」という結果がいくつも報告されている理由について、「スキル化された記憶」という言葉を挙げ、展望記憶の能力は、他者とのコミュニケーションにおいて必要不可欠であるため、社会生活の中で「タイミングよく思い出すスキル」が獲得されると述べ、壮年者が、「今度あったときには、きちんとお礼をしなければ」ということを即座に思い出せる「あいさつの記憶スキル」にすぐれているという例を挙げています。
 第3章「『し忘れ』を実験的に再現する」では、「し忘れ」のメカニズムを実験的に調べようとすると意外に難しい理由として、「日常場面においてそういった失敗が起こったとしても、それは人が複数の作業を同時に進めている状況で多く観察されるために、各作業に対して向けられている注意の程度などが不明であるという点」を挙げ、「どんなときに記憶の失敗が起こるのか、その原因を特定することが非常に難しい」こと、また、「もう一つの理由として、『入力内容が特定できない』という点」を挙げています。
 そして、1990年に認知心理学者のアインシュタインとマックダニエルが考案した「並列型課題」という方法を、「展望記憶を調べる典型的な課題として広く用いられている」として紹介しています。そして、この課題が、「われわれが日常的に経験する『し忘れ』や『あっ、忘れてた!』というような現象を、本当に再現しているのかという批判」があることを紹介しています。
 また、「『やろう』としていたことを実行するために必要とされるもっとも基礎的な能力」である、「『やろう』という意図そのものを覚えておく能力」について、「意図再任の能力」と名づけています。そして、次に必要となるプロセスとして、
(1)存在想起:想起しなければならないときに、「何かやらなければいけないことがある」ということをタイミングよく思い出すこと。
(2)内容想起:実際にやらなければいけないことを何かを思い出すこと。
の2点を挙げています。
 第4章「『し忘れ』を生み出す脳」では、本書が取り上げている記憶をはじめ、言語、学習、注意、情動、問題解決などの高次認知機能の研究には、
(1)神経心理学:脳損傷や精神神経疾患を対象とした臨床的な支店による学問分野であり、脳における各部位がどのような認知処理を担っているのかを知る上で、必要不可欠なアプローチ
(2)脳機能画像法:いずれかの脳画像技術を用いて、実際に活動している脳の働きを調べる方法
の2つのアプローチがあると述べています。
 そして、日常的な「し忘れ」は誰にでも起こることであるが、「それが単なる行為のし忘れではなく、意図そのものを忘れてしまったことが原因で起きているのであれば、それは病的な「し忘れ」の危険信号である可能性が高くなる」と述べています。
 また、「人があることを意識する前から、脳ではそれを予測するような活動が見られる」ことがすでに明らかにされているとして、「ある意図を自発的にタイミングよく想起するためには、それを可能にする脳活動が事前に行われていると考えるのが妥当である」と述べています。
 さらに、記憶障害に対するリハビリテーションの方法として、
(1)環境調整法:記憶障害をもつ人にとって負担となるような生活環境自体を改善する
(2)外的記憶補助法・外的方略法:手帳やメモなどの補助を用いる
(3)手がかり漸減法:その人の記憶可能範囲を考慮し、訓練によってその範囲を徐々に広げていく
(4)誤りなし学習法:誤りが起きない程度のレベルの学習を適度な頻度で行なうことで、訓練を受けるものの動機付けの低下を防ぐ
の4つの方法を紹介しています。
 第5章「『し忘れ』を防ぐ」では、加齢に伴なう日常的な記憶力低下を補う上で大切な点として、
(1)正確なセルフモニタリング(自らの記憶を少し上の次元(メタレベル)から客観的に理解すること)
(2)記憶に対する正確な自己効力感を持つこと
の2点を挙げています。
 また、し忘れ防止のヒントとして、「予定が発生したら、なるべく具体的にそれを実行する時刻を定めておく」ことで、「実際にその時刻に近づいたときに、無意識的な存在想起のメカニズムが働き、補助的に作用する可能性が高まる」と解説しています。
 さらに、「同じ情報を覚える場合でも、将来にそれを行なうことを意図した場合のほうが、後で思い出されやすい」という「意図優位性効果」についての知識を持っておくことも、し忘れ防止に有効であると述べています。
 本書は、意識していないからこそ、研究が難しい「し忘れ」についての理解の手がかりを与えてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 この本を読みながら、風呂に入ろうと思ってお湯を張っていたのですが、うっかり栓をするのを忘れてしまっていました。これは、本書でいえば「タイプB」のエラー、すなわち「し間違い」に当たるわけですね。


■ どんな人にオススメ?

・どうして忘れてしまうのかを知りたい人。


■ 関連しそうな本

 井上 和臣 『認知療法の世界へようこそ―うつ・不安をめぐるドクトルKの冒険』 http://tinyurl.com/2f2ppu
 中尾 政之 『失敗は予測できる』 
 けいはんな社会的知能発生学研究会 (著), 瀬名 秀明, 浅田 稔, 銅谷 賢治, 谷 淳, 茂木 健一郎, 開 一夫, 中島 秀之, 石黒 浩, 國吉 康夫, 柴田 智広 『知能の謎 認知発達ロボティクスの挑戦』 2006年04月09日
 ベンジャミン・リベット (著), 下條 信輔 (翻訳) 『マインド・タイム 脳と意識の時間』 2006年11月11日
 ジェフ・ホーキンス, サンドラ・ブレイクスリー (著), 伊藤 文英 (翻訳) 『考える脳 考えるコンピューター』 2005年12月17日
 ニコラス ハンフリー (著), 垂水 雄二 (翻訳) 『喪失と獲得―進化心理学から見た心と体』 2006年4月15日


■ 百夜百マンガ

逆境ナイン【逆境ナイン 】

 「逆境とは、すべてが思いどおりにいかない不運な境遇のことをいう!!」
 ちょっと前に実写で映画化されたおかげで再発されました。初期の頃の勢いと、中堅マンガ家としての話のうまさがちょうど良くミックスされた感じの作品です。

2008年1月 8日 (火)

医療崩壊―「立ち去り型サボタージュ」とは何か

■ 書籍情報

医療崩壊―「立ち去り型サボタージュ」とは何か   【医療崩壊―「立ち去り型サボタージュ」とは何か】(#1083)

  小松 秀樹
  価格: ¥1680 (税込)
  朝日新聞社(2006/05)

 本書は、「研究でも評論でもない。第三者的意見ではなく、現場の医師としての立場の意見」として、「危険な状況にある日本の医療を分析し、崩壊させないための対策を提案」しているものです。
 著者は、日本の医療機関がさらされている「医療費抑制と安全要求」という2つの強い圧力について、「相矛盾する圧力のために、労働環境が悪化し、医師が病院から離れ始めた」と訴えています。
 第1章「何が『問題』なのか」では、「医療とはどういうものか」について、か「患者と医師の間で考え方に大きな齟齬がある」として、「患者は医師が万能であり病気はすぐ発見され、たちどころに治療できると思っている」のに対し、「意志は医療には限界があるばかりか、危険なものであることを知っている。また、多忙な業務の中で、優先順位をつけて行動せざるをえない」ため、「この齟齬が社会問題にまでなっている」と指摘しています。
 そして、医療は不確実なものであり、「人間の生命の複雑性、有限性、各個人の多様性、医学の限界に由来する。医療行為は政体に対する侵襲を伴ない、基本的に危険である」と述べています。
 また、患者側の弁護士として活躍してきた加藤良夫弁護士が、「医療事故被害者の願い」として、
(1)原状回復
(2)真相究明
(3)反省謝罪
(4)再発防止
(5)損害賠償
の5項目を挙げていることについて、「これは医師の問題ではなく、互いが自己の主張を尽くすという民事裁判制度の原因がある」と指摘しています。
 さらに、医事紛争の患者側当事者のパターンとして、
(1)本当の医療事故被害者
(2)クレーマー・過度安心希求型
(3)自己中心型
(4)金目当て型
の4パターンを挙げています。
 第2章「警察介入の問題」では、「現在、医療過誤の担当官庁は厚労省ではなく、実質的に警察庁になっている」と述べ、「医療を正面から取り締まるには警察は明らかに能力不足である。専門知識がなさ過ぎる。また、その司ではない。医療を暴力で取り締まると、当然医療側に影響が出てくる」と指摘し、「医療現場は死や傷害が日常的に起こっている」のであり、「医療を取り締まるのが正しいかどうか考えずに、とにかく、警察に訴えのあったものについては、現行法に則ってできるだけ犯罪を立証するのが警察の役目とするのも危険である」と述べています。
 第3章「社会の安全と法律」では、千葉県にある「医事紛争研究会」という有志の研究会を紹介した上で、「一般的な法律家の考え方に対する違和感」を覚えるとともに、「今まで理解できなかった裁判官の判断の由来が、ストンと腑に落ちた」として、「法曹人は彼らが自覚しているより、はるかに強く、結果違法説に支配されていた」と指摘しています。
 第4章「事件から学ぶこと」では、慈恵医大青戸病院事件を取り上げ、「警察とメディアが一体となって人格攻撃を行なった代表的事件」であると紹介した上で、事件の最大の原因が、「新しい医療技術をやみくもに取り入れようとする慈恵医大自体の強い願望であり、さらに、その願望の制禦ができていないことである」と指摘しています。
 第5章「安全とコスト」では、「費用という現実そのものを無視した議論で責任を負わされることに、医療従事者は絶望している」と述べています。
 そして、「個人開業医の収入は多く、病院勤務医の収入は少ない。労働時間は逆である。社会が構造的に病院医療を攻撃しはじめると、病院から医師が離れるのは当然である」と述べています。
 また、医療への攻撃が強まるなか、「自分の責任を限りなく小さくしようとする開業医がいるのも事実である」と指摘し、「日本医師会は、開業医の役割を大きくし、引き受けるべき責任を大きくすることをもっと主張するべきではなかろうか」と主張しています。
 第6章「イギリス医療の崩壊」では、イギリスの医師が大量に海外に移住している現状を指摘し、イギリス医療の崩壊の理由として、
(1)医療費抑制政策
(2)NHSの組織の巨大化、官僚化
(3)NHSの制度改革に職員が改革疲れをしている
(4)医療従事者の士気の低下(もっとも重要なポイント)
の4点を挙げています。
 第7章「立ち去り型サボタージュ」では、「勤務医が、厳しい労働条件の中で、じっと我慢して患者のために頑張ることを放棄し始めた」と述べ、この現象を「立ち去り型サボタージュ」と名づけ、「社会からの攻撃に対する医師の消極的対抗手段」といえなくもないと述べています。
 第8章「大学・大学院・医局の問題」では、大学そのものの特性が医療に与える影響として、
(1)教授会支配
(2)研究至上主義
の2点を挙げています。
 また、医局制度について、「医局は自然発生的運命共同体であり、対外的には人事システムとして意味を持つ」と述べ、その問題点として、
(1)その内部の規律が、現代社会で正しいとされる考え方と一致しない
(2)他の医局と交流がないこと
の2点を指摘しています。
 第9章「厚生労働省の問題」では、厚生労働省の行動原理が、「リスクはあってはならないこととして、実行不可能な非現実的規則で医療機関をしばっている」と指摘したうえで、「官僚にすべてのことができるわけではない。適切な手続を踏んだ判断が、後から見て遅かったり、早すぎたり、方向がずれていたりすることはないわけではない。官僚が無謬であり続けることは不可能である」と述べ、「官僚にもそれなりの免責がなければ、行政が適切に動かないことは間違いない」にもかかわらず、厚生労働省の官僚が、「メディアの攻撃をいいことに、自分の判断とイニシアチブを放棄して、責任回避に走りすぎている」と指摘しています。
 第10章「医療の崩壊を防ぐために」では、「日本の医療の崩壊を防ぐためには、医療事故・紛争に関して現状を改革し、医療への過剰な攻撃を抑制する必要がる」として、
(1)医療事故の防止
(2)紛争の処理・解決
(3)適切な社会思想の醸成
の3点を対策として挙げています。
 なかでも(3)に関しては、「とりわけ重要なものは死生観である。私は日本人の死生観がおかしくなっていると思っている。誰にも避けられない死を、意識の彼方に追いやらずに、正面から認識する必要がある。生老病死が人生に不可避のものであることを常に意識する必要がある」と述べています。
 本書は、相次ぐ病院の診療科目閉鎖問題に対して、理解の足がかりをつけさせてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 本書を読んで感じたのは、病院の医療、特に高度医療に関しては、典型的な「共有地の悲劇」の情況を呈しているということです。元々、高度医療が公共財としての性質を持っているからこそ、公立病院で扱われることが多いのですが、公共財の供給方法としては他に考えられる方法はないのでしょうか。


■ どんな人にオススメ?

・医師がなぜ病院を辞めるのかを知りたい人。


■ 関連しそうな本

 伊関 友伸 『まちの病院がなくなる!?―地域医療の崩壊と再生』 2007年12月12日
 兪 炳匡 『「改革」のための医療経済学』 2006年12月05日
 小松 秀樹 『医療の限界』
 小松 秀樹 『慈恵医大青戸病院事件―医療の構造と実践的倫理』
 真野 俊樹 『入門 医療経済学―「いのち」と効率の両立を求めて』
 西村 周三, 田中 滋, 遠藤 久夫 『医療経済学の基礎理論と論点 講座 医療経済・政策学』


■ 百夜百マンガ

キリコ【キリコ 】

 独特な緊張感のある絵が特徴的な作品です。特に目が怖い。テンションが上がってくるとどんどん目が怖くなるのが引き込まれます。

2008年1月 7日 (月)

外注される戦争―民間軍事会社の正体

■ 書籍情報

外注される戦争―民間軍事会社の正体   【外注される戦争―民間軍事会社の正体】(#1082)

  菅原 出
  価格: ¥1680 (税込)
  草思社(2007/3/24)

 本書は、イラク戦争等で大いに注目された、「民間軍事会社(プライベート・ミリタリー・カンパミー=PMC)」について、その実態とPMCが注目を浴びるようになってきた経緯を解説しているものです。
 イラクやアフガニスタンなどの紛争地域で、政府職員の護衛や施設の警備などの治安維持任務についている、「彼らの多くは軍隊のエリート舞台や情報機関の出身者であり、その業務の内容も、危険地帯で要人を警護したり、政府の施設を警備したり、警察や軍隊を訓練したり、地雷や不発弾を処理したり、テロリストの収容施設で容疑者を尋問するといった、通常は国家の警察や軍隊が担うような」特殊な任務についていると述べたうえで、「米軍はもはや『PMCなしに活動することは不可能』とまで言われている」として、「もはや後戻りのできない、不可逆的な動き」であると述べています。
 第1章「襲撃された日本人」では、2005年5月に英国のPMC[ハート・セキュリティ」社のコンサルタントとして、イラクで物資輸送車両の警備を行っていた日本人、齋藤昭彦さんが、武装勢力に拘束された事件を取り上げています。
 第2章「戦場の仕事人たち」では、PMCが冷戦後に急発展した原因として、「冷戦の終結により世界中の軍隊が縮小化の方向へ進み、1990年代だけで世界中の軍隊で6百万人もの職が失われた」結果、「軍事的技能を身につけた膨大な個人が民間市場に流れ、安全ビジネス関連の企業に吸収されたり、元軍人たちによる新たな会社設立の動きにも拍車がかかった」ことを挙げています。
 そして、PMCの草分けである、ベトナム戦争におけるヴィネル社について、「冷戦時代のPMCのビジネスは、『政府が公然とできないことを民間企業が肩代わりをする』という、政府の外交・安全保障政策の延長線的な性格が強かった」として、「政治的に敏感な軍事支援や訓練など、政府が自国の軍隊を使えないときの最後の手段としてPMCが使われるという政治的側面が存在した」と解説しています。
 また、現代のPMCの定番サービスの一つとして、「誘拐人質解放交渉サービス」を挙げ、1986年にフィリピンで起きた三井物産マニラ支店の若王子支店長誘拐事件で活躍したコントロール・リスクス社を取り上げています。
 第3章「イラク戦争を支えたシステム」では、イラク戦争に関して、PMCバブルが発生した結果、「『ぽっと出』の一発屋PMCが数多く現われ、混乱の最中に大きな契約を獲得してしまうようなことが起き」、低レベル・低モラルのサービスが提供されてしまい、「このようなPMCの存在は、占領統治全体にも悪影響を与え、イラク国民の占領軍に対する反感を増大させることにつながったといわれている」と述べています。
 また、「武装した民間人」「軍服を着用していない戦闘員」であるPMCはジュネーブ条約上の取り扱いが微妙な位置にあり、「武器を持って戦ってしまうと、彼らはジュネーブ条約という重要な戦時国際法の定義に該当しない存在となってしまう恐れがある」と述べています。
 第4章「働く側の本音」では、PMCで働く請負人たちの多くが、「アメリカにおいてはレンジャー部隊、グリーンベレー、デルタフォースやシールズなどの特殊部隊に所属し、イギリスでは特殊空挺部隊(SAS)、特殊舟艇部隊(SBS)、海軍特殊部隊やSO14(ロンドン警視庁の王室関係者警備担当)など、軍や警察の中でも特殊訓練を受けた超エリート部隊の出身者」であることについて、通常の軍隊では個々の軍人は「全体を構成する歯車の一つ」にすぎないのに対し、特殊部隊は、「さまざまな状況に柔軟に対応するために、独自で判断し行動することが求められており、そのように訓練されている」ことを挙げています。
 一方で、民間市場における特殊部隊人気の影響で、欧米の特殊部隊が深刻な人材不足に陥っているとして、「若くて経験の少ない退院が指導的な地位に昇格するという事態も起きている」と指摘しています。
 そして、「請負人」たちの報酬が、警察顧問の仕事で、年間12万ドル(約1440万円)と、「非常に魅力的な金額」であるとした上で、「派遣される地域の危険度、業務の内容、請負人それぞれの計健也そのプロジェクトでの役割によって報酬は大きく異なってくる」と述べ、メディアからの高額批判に対しては、「文字通り命がけの仕事であることや、彼らが通常3ヵ月働いて1ヶ月休むというパターンで働いていることから考えると、べらぼうに報酬が高いとは決していえないだろう」と述べています。
 また、「イラクでもっとも危険な仕事の一つといわれるトラック輸送を請け負う『トラック野郎』たち」の言葉として、「イラクでの一番の思い出は使命感であり、一緒に与えられた使命のために働いた仲間たちだ。われわれは本当にこの使命感のために固い絆で結ばれた}と語っていることを紹介しています。
 さらに、イラクにおいて、フィリピンなどの発展途上国から、「事実上の人身売買を行なう悪徳業者」によって、「いっさいの保障なしで危険な任務につかされるという悲しい現実も存在する」と指摘しています。
 第5章「暗躍する企業戦士たち」では、「空前のPMCバブル」の中での、「PMC間の熾烈で過剰な競争が、本来最優先されなければならない『安全管理』を二の次にしてしまい、その結果悲惨な事故を招く例が後を絶たない」として、2004年にファルージャで起きたブラックウォーター社社員惨殺事件の例を挙げ、「本来契約の中に入っていた2台の防護車両もなく、6名のチームが4名に減らされており、脅威レベルを調べるための事前のリスク評価調査もなく、事前のルート調査やその他の関連情報も土地勘もなく、チームとしての結束や仲間意識もないまま、イラクでもっとも危険な場所ファルージャに派遣されたのである。無謀というほかない」と述べ、「起こるべくして起こった人災だった」と指摘しています。
 また、イラク戦争前の「フセインの大量破壊兵器の脅威」を過剰に宣伝したのが、PR会社や「戦争広告代理店」と呼ばれる広い意味のPMCであり、「生物、化学そして核兵器をフセインの命令で密かに地下の井戸に埋め、個人の別荘に隠し、病院の地下に隠した」という科学者アル・ハイデリの証言が「すべて作り話だった」と指摘しています。
 第6章「テロと戦う影の同盟者」では、「軍の民間活用よりも情報機関のほうが数歩先に進んでいる」といわれるCIA等の情報機関の民間活用について取り上げています。
 また、「安全保障政策」のカバーする範囲が、「伝統的な国防から、テロと戦いや平和維持活動、難民救済問題や市民社会の建設促進へと拡大していった」ため、「多国籍企業、圧力団体、NGOや市民運動などが、安全保障政策の実施に関与するようになり、国際的な規範やルールづくりに貢献する機会が増えていった」延長線上にPMCを位置づけることができると述べています。
 第7章「対テロ・セキュリティ訓練」では、著者自身が参加した、イギリスのPMCが提供しているジャーナリスト向けセキュリティ訓練のレポートが収められ、「イギリスやアメリカでは、メディア関係者やNGO、外務省職員や対外援助に関わる省庁の職員、さらに石油開発会社の従業員など、危険地域で仕事に従事する人は官民を問わずこのようなセキュリティ訓練を受けるのが普通になっている」と述べ、「それに日聞け、日本人の安全対策、危機管理に対する意識は、驚くほど低いといわざるをえない」と指摘しています。
 本書は、冷戦の終結後、大きく変化した戦争のあり方を伝えてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 日本の自衛隊はイラクでPMCを使っていたのでしょうか。また、自衛隊出身者が自分でPMCを作ってしまう、ということも考えられなくはないかもしれません。なんだか「傭兵」のイメージから「天下り」のイメージになってしまいますが。


■ どんな人にオススメ?

・21世紀の戦争の形を目にしたい人。


■ 関連しそうな本

 松本 利秋 『戦争民営化―10兆円ビジネスの全貌』
 本山 美彦 『民営化される戦争―21世紀の民族紛争と企業』
 P.W. シンガー (著), 山崎 淳 (翻訳) 『戦争請負会社』
 ロバート・ヤング ペルトン (著), 角 敦子 (翻訳) 『ドキュメント 現代の傭兵たち』
 高木 徹 『ドキュメント 戦争広告代理店―情報操作とボスニア紛争』 2006年11月27日
 アンヌ・モレリ (著), 永田 千奈 (翻訳) 『戦争プロパガンダ 10の法則』 2007年11月01日


■ 百夜百マンガ

Monster【Monster 】

 この作者の作品は、大人向けシリアス路線と青年誌向けのライト路線との2つの流れがあるのですが、こちらは暗くて怖いほうです。

2008年1月 6日 (日)

ジャパンクールと江戸文化

■ 書籍情報

ジャパンクールと江戸文化   【ジャパンクールと江戸文化】(#1081)

  奥野 卓司
  価格: ¥2310 (税込)
  岩波書店(2007/06)

 本書は、「歌舞伎、人形浄瑠璃(文楽)、落し噺(落語)など、江戸時代からの『伝統芸能・文化』の、現代社会における変容、デジタル化を先取りするそのような人々の顔を思い浮かべながら、彼らのことを解きたいという思い」でかかれたものです。そして、「現代社会に似たありさまが江戸時代中・後期の世相、風俗にいかに見られたかを考察し、その様相を今日と比較することによって、今日の社会における江戸現象の文化的意味と、それらがデジタル化され、新たなジャパンクールとして世界に発信されていく近未来を見通したい」と述べています。
 第1章「ジャパンクールからみえる江戸文化」では、「かねてより欧米では、お茶、お華、能に並んで、歌舞伎、文楽が、日本の文化として、一部の知識人や芸術家の間で高く評価されている」が、「今日のジャパンクール旋風では、マンガ、アニメ、Jポップなど、現代のポピュラーカルチャーが先行して、そこから歌舞伎や文楽、和服、日本食などの再流行につながったため、両者の間に過去・現在、高級・低級というへだてがなく、同じ次元でモザイク上に並んで人気を集めている」と述べています。
 また、江戸人が、「かけそき」生き方をしており、上方では「恥じらい」や「はんなり」が良き価値として庶民生活の中に定着していたため、「見えない柔らかな世間のブレーキとして、極端に走らず、それぞれの暮らしをほどほどに楽しむという価値観が、(儒教によってではなく)自然なものとして町民の生活に根づいていた」と述べています。
 第2章「コミュニティを再生する江戸文化」では、「こんぴら歌舞伎」(香川県琴平町)、「曳山子ども歌舞伎」(石川県小松市)、「祇園祭」(京都市山鉾町)等の事例を紹介した上で、「『伝統』の発明が近代化とともに始まる」というホブズボウムの説を紹介しています。
 そして、江戸文化が、「江戸時代には町民のものであり、町民自身によって絶えず創り出されてきた」として、「こうした『伝統の発明』の精神こそが、実は日本人がジャパンクールを生み出す基底にある、伝統的な精神といえるはず」と指摘しています。
 第3章「ジャパンクールとしての江戸文化」では、江戸時代の日本が、「西洋や中国とも、民衆レベルではむしろ活発に交流していた」と述べ、「『鎖国』というのは、江戸時代がいかに封建的であったかを協調したいがために、後から一部の歴史学者がつくりあげた『お話』にすぎない」と指摘しています。
 また、「誰も高い入場料を払って球場まで試合を見に来なくなる」という理由から、プロ野球のテレビ放送に消極的だったパリーグの球団が、凋落した例を挙げ、「歌舞伎の場合も、今、デジタル化に積極的に取り組まなければ、近い将来、結果的にリアルな場での観客も失っていく。逆にデジタル・メディアをうまく使えば、グローバルに新たなファンを増やし、メディアを通じてだけではなく、リアルな劇場に彼らを誘うことにつながっていく」と述べています。
 第4章「『数寄者』というオタクのネットワーク」では、今日のジャパンクールの担い手とされる「オタク」が、「現代日本の秋葉原に突然出現したわけではなく、江戸時代から江戸や上方に数寄者、傾き者としてそんざいしていた」と述べています。
 そして、上方の「家元」制度について、「しばしば批判されるような独占的世襲制による収奪構造とばかり」とは言えず、「諸芸を広め、そのメンバーをネットワークに組み込んで、その芸を次世代に伝達していくという文化装置系としての積極的な意味」を認め、「これと同様の現象はジャパンクールの他の領域でもみられる」として、Jポップにおける、プロ─セミプロ─副業ミュージシャン─ストリートミュージシャン─カラオケに至る現象を、「カラオケナイゼーション」と名付けた高田公理の説を紹介し、この仕組みが、「伝統文化」をコアとして新たなジャパンクールを創出するために、学ぶべき点が多いと述べています。
 第4章「江戸文化の『モエ』の構造では、江戸時代の「柔術」を、近代スポーツとして再生させた嘉納治五郎が、「当時の日本人に受け入れやすい『柔道』という言葉を発明した」例を挙げ、「日本の『○○道』は、すべて明治になってからの社会的発明であり、近代化の所産である」という井上俊の議論を紹介した上で、「江戸時代の庶民の世界は(『サムライゼーション』ではなく)『チョーミナイゼーション』していたと言える」と指摘し、「近代の産業国家が生み出すモノの大量生産が、人々の生活の質を向上させるという意味をなくしてしまった今日では、近未来に向かって私たちが立ち返るべきなのは、近代の『武士道』ではなく、江戸時代からの日本の町民の志向『チョーミナイゼーション』であろう」と述べています。
 また、江戸の男伊達の理想像とされている『助六由縁江戸桜』の主人公の助六について、「喧嘩好きだがついつい人助けに走る暴れん坊」を意味し、「町民が憧れる人間像ではあるが、町民自身が、そうはなりきれない、江戸時代の社会規範のぎりぎりのラインでのいきざまを見せて楽しませてくれる人物像」であり、「これが、歌舞伎の原点である『傾き者』であろう」と述べています。
 さらに、「モエ」という美意識が、「日本文化の中に突然現れたわけではなく、かつてのワビ、サビ、イキ、スイという日本的美意識の流れから続くもの」であると指摘し、「『モエ』こそが、今日のジャパンクールの大きな魅力の一つなのであろう」と述べています。
 第5章「きょうと・大坂・名古屋のコンテンツ戦略」では、「しょうゆだけでなく、伏見や灘の酒、塩から雪駄までも、良いものは何でも上方から江戸に運ばれてきた」ため、「良いものは江戸に『下る』が、つまらない(地廻りの)ものは『下らない』とされた」というエピソードを紹介しています。
 また、大坂について、阪急電鉄を創設した小林一三、松下電器の創立者の松下幸之助、(今日の)サントリーを創業した鳥井信治郎等の例を挙げ、「単にモノを売るのではなく、まず関西で新たなポピュラーカルチャーを創造し、日本全国にその新文化を発信することで、新文化の影響の元に、結果的に人々の生活、感覚、行動を変容させ、その新たな生活様式の元で必要とされている新商品や新サービスを売るという手法」こそが、「社会貢献とビジネスが矛盾なく融合した、上方の先人たちの伝統を受け継ぐ、大阪発だからこそのビジネスモデル」であると述べています。
 さらに、名古屋について、「江戸時代も今も、名古屋は、上方・関西で生まれた文化を江戸・東京に伝え、全国発信させるためのハブになっている」と述べています。
 第6章「江戸という近未来」では、江戸時代の生活が、
(1)暗黒説:士農工商の身分制度が貫徹され、農民、町民は武士階級によって抑圧、搾取されて、全く自由がなかった。
(2)天国説:およそ300年の平和が続き、その平和の元で町民が生き生きと自由に暮らしており、むしろ主従制度に縛られた下級武士の方が辛い生活を強いられていた。
の2つの極端な説があることについて、「従来の教科書のようなマクロな歴史観から見れば、江戸時代は身分制が堅固で幕府による支配が貫徹し、世界にもまれな管理状況にあった」という見方と、「個々の町民の生活のディテールについて論じれば、江戸時代の町民たちは歌舞伎、浮世絵を楽しみ、長屋で楽しく暮らしており、この国では、すでに江戸時代に大衆社会状況が生まれていた」という両義性を指摘しています。
 著者は、「ジャパンクールとして欧米で高い評価を受けているアニメやマンガ、ゲーム、Jポップとともに、江戸文化の流れを受け継ぐ歌舞伎、文楽、落語、浮世絵こそ、世界のどこにもない、日本の文化コンテンツであり、それらをデジタル化して発信すれば、世界中の人々をもっと楽しませることができ、私たちの文化をもっと知ってもらえるようになるに違いない」と述べています。
 本書は、江戸の町民の暮らしと文化の目線から、昨今の日本の大衆文化を描いた一冊です。


■ 個人的な視点から

 江戸元禄と現代を比較する話はたまに見かけますが、その手の話はいつの時代でも使えそうな話なので何となく眉唾で聞いている部分があります。むしろ、江戸から現在まで引きずっているさまざまな文化的な底流部分のようなものが共通しているからこそ、いつの時代も江戸との比較ができるのではないかと思います。


■ どんな人にオススメ?

・「オタク」→「萌え」→「メイド」→「アキバ」→「神田」→「江戸っ子」とつながる人。


■ 関連しそうな本

 中村 伊知哉, 小野打 恵 『日本のポップパワー―世界を変えるコンテンツの実像』 2006年11月29日
 杉山 知之 『クール・ジャパン 世界が買いたがる日本』 2007年08月19日
 堀淵 清治 『萌えるアメリカ 米国人はいかにしてMANGAを読むようになったか』 2007年04月15日
 ジョセフ・S・ナイ (著), 山岡 洋一 (翻訳) 『ソフト・パワー 21世紀国際政治を制する見えざる力』 2007年04月27日
 フレデリック・L. ショット (著), 樋口 あやこ (翻訳) 『ニッポンマンガ論―日本マンガにはまったアメリカ人の熱血マンガ論』 2006年04月29日
 浜野 保樹 『模倣される日本―映画、アニメから料理、ファッションまで』 2007年11月11日


■ 百夜百音

「石川ひとみ」SINGLESコンプリート【「石川ひとみ」SINGLESコンプリート】 石川ひとみ オリジナル盤発売: 2007

 すっかり「一発屋」の代名詞になってしまった上、タイトルのせいで「ストーカーの歌?」といわれてしまいそうな曲なのですが、歌詞をよく聞けばわかるとおり、家の前で待ち構えていたりはしないのでご安心ください。

2008年1月 5日 (土)

どうして色は見えるのか―色彩の科学と色覚

■ 書籍情報

どうして色は見えるのか―色彩の科学と色覚   【どうして色は見えるのか―色彩の科学と色覚】(#1080)

  池田 光男, 芦沢 昌子
  価格: ¥2625 (税込)
  平凡社(1992/02)

 本書は、「自分で読んで楽しい、よくわかる、しかも色の専門的知識が得られ、さらに色をやってみようという意欲が湧くというような本を書いてみたい」という思いから書かれたものです。
 第1章「色の活用」では、柿の産地で取り入れ時に赤い手袋を使っていることを挙げ、「色の絶対判断というのは大変難しい。色を正確に覚えておくことも私たちは苦手である。何の見本もなしに適切な柿の色を判定するのはきわめて困難な作業である」が、「色の比較判断は簡単であり、目の得意とするところ」、「色見本の手袋を提供するだけで作業は楽になる」と述べています。
 また、「色残像」が起きる仕組みについて、「私たちの目には『赤か緑を見る組織』と『黄か青を見る組織』、それに『白か黒を見る組織』の3つの組織があって、それらの働き具合によっていろいろな色を見ている。それで今、赤の色をじっと見つめていると、3つの組織のうちの『赤か緑を見る組織』が赤を見るのに疲れてきて感度にアンバランスが生じ、元々は白いものを見てもそこに緑を見てしまう」と解説しています。そして、医師が着る手術着が、薄い青緑、空色であることについて、手術でつきものである血の残像を消去するためであると解説しています。また、肉屋の壁を黄色に塗ったところ売り上げが減少した理由として、黄色の残像の青が赤い肉の上に重なると紫色になり腐った肉の色に見えてしまったことを解説しています。
 第2章「色の見え方十箇条」では、色の属性が、「色相、彩度、明度」の3つであり、「色の占める空間は三次元空間」であるため、「色の見え方は三方性である」と述べています。そして、三次元の色空間に色差を導入したマンセル表色系においては、
・色相(hue)
・彩度(value)
・明度(chroma)
の3方向について、「どのような色でもいわゆるHVCのマンセル記号がつけられる」と述べています
 第3章「色を見る仕組み」では、「外の景色が見えるためにはそれを可能にする複雑で精緻な仕組みが目に備わっているはず」と述べた上で、目が、「いちばん先端の角膜から大脳視覚領に至るまでの大変大きな組織である」として、「外の景色を見るための第一の仕事は結像作業であり、それを担当しているのが眼球光学系」であると解説しています。そして、「物体の一点から出た光が網膜上の一点に集められるためには、角膜の曲率の大きさとその屈折率とそして角膜から網膜までの距離すなわち眼軸の長さとが、ちょうどうまい具合にバランスがとれていなければならない」として、「結像する点がどうしても網膜より前方に来てしまうのが近視、後方にいってしまうのが遠視」であり、人間が年をとり、水晶体が堅くなって弾力性を失ってくると、「近くのものを見ようとして水晶体を膨らませようとしても十分に膨らまないという事態」、すなわち老眼が生じると解説しています。
 また、視神経の流れに関して、「眼底の右半分からの視神経は両目ともに右側の大脳へ集められ」、「左半分からの視神経は左側の大脳へ集められている」ことについて、「大脳右半弓は外の世界の左半分を睨み、左半弓は右半分を睨んでいる」と解説しています。
 本書は、普段、お世話になっている「目」の仕組みをやさしく解説してくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 自分の見えている形は他の人にとっても同じなのか、同じような色に見えているのか、という疑問というか不安のようなものは子供の頃に誰もが抱くものではないかと思います。そして、その疑問がきちんと解決された人というのは少なく、たいていの人にとっては、折り合いがついているので満足してしまったのではないかと思います。


■ どんな人にオススメ?

・色が見えるのが当たり前だと思っている人。


■ 関連しそうな本

 内川 恵二 『色覚のメカニズム―色を見る仕組み』
 大田 登 『色彩工学』
 オリヴァー サックス (著), 吉田 利子 (翻訳) 『火星の人類学者―脳神経科医と7人の奇妙な患者』 2006年03月26日
 ベンジャミン・リベット (著), 下條 信輔 (翻訳) 『マインド・タイム 脳と意識の時間』 2006年11月11日
 アンドリュー ニューバーグ, ヴィンス ローズ, ユージーン ダギリ (著), 茂木 健一郎 (翻訳) 『脳はいかにして"神"を見るか―宗教体験のブレイン・サイエンス』 2006年07月01日
 V.S. ラマチャンドラン, サンドラ ブレイクスリー (著), 山下 篤子 (翻訳) 『脳のなかの幽霊』 2006年09月03日


■ 百夜百音

四街道NATURE【四街道NATURE】 四街道NATURE オリジナル盤発売: 1995

 スチャダラパーの古いアルバムを聞いてたら、ライブテイクで参加してました。四街道といえば熱い政治の町です。

2008年1月 4日 (金)

江戸の町役人

■ 書籍情報

江戸の町役人   【江戸の町役人】(#1079)

  吉原 健一郎
  価格: ¥1785 (税込)
  吉川弘文館(2007/02)

 本書は、「江戸のまちまちの支配組織が確立されてくる享保改革前後に重点」を置いて、「江戸の町々の変化に伴う町役人の町支配に焦点」を当てたものです。
 第1章「町役人とは」では、「町役人」を、「一般に町名主を筆頭に、家主の月行事(がちぎょうじ)のことを指している。もちろん名主の手代や町々の町代(のちの書役)も町役人であり、これらの役人を、自身番屋の番人や家主の五人組が補佐する関係にあった」と述べた上で、「惣町支配の町年寄をも広義の町役人の範囲と考えている」が、「町奉行の与力・同心などは『町方役人』であり、本書の対象外である」と述べています。
 また、裏店に住む人々の職業が多様であったことについて、「いろいろな職業が江戸で必要とされたことにもよるが、同時にめんどうな奉公などを嫌った人たちが、裏店の貧しくとも気楽な生活を好んだという点も、えどでは欠落人が多かったことから推測される」と述べています。
 第2章「江戸の成立」では、「日比谷」の地名が、「隅田川から芝へかけて生産された『浅草海苔』のひびにちなんだ」といわれていると解説しています。
 そして、江戸が、「全国の総城下町としての性格上、一般の城下町に比べてより大規模な集住体制が確立された。特に職人については、関西方面を中心として多数の職人集団が誘致され居住地が与えられた」と述べ、神田・京橋地区に多種多様の職人町が形成され、紺屋町、鉄砲町、鍋町など、「職種をそのまま町名とした」町も多いと解説しています。
 また、「町に関わる人足役」であり、「国役と同じように屋敷持の町人の間口の広さによって負担された役」である「公役」について、「のちの江戸の町を見ると、国役を負担する町と公役を負担する町とが明確に区別されている」が、「公役の町がどのように発生したかについては定説がない」とした上で、問題点として、
(1)公役を負担する町は「沽券地」となっている町である。
(2)本来城下町の町が、すべて国役を負担する町であったかどうか。
の2点を挙げています。
 第3章「大江戸の町々」では、明暦の大火後、町奉行の支配地が、従来の674町から933町に拡大し、このことが、「惣町を支配する町年寄の業務に影響を与えずにはおかない」として、町触の伝達方法に関して、江戸の町に出される触が、
・「惣触」:老中から出されるもので、全国に出された広域的なもの、ないし老中へ伺いのうえだされたもの
・「町触」:厳密には町奉行が自己の権限で町中に発したもの
の2つに分けられ、「町触の伝達方法が町年寄から事務的に行われるように変化した理由」として、
(1)明暦の大火後の町奉行支配地の拡大の中で、法令徹底方法の合理化が進められた。
(2)町の支配機構が整備されたこと
の2点を挙げています。
 そして、「強制移転の都市である江戸では、都市計画などのために、上は大名屋敷から下は一般の町々に至るまで移動が繰り返された」として、「町地を管理する町奉行書の役人が、町地にかかわる土地受け渡しに立合うとともに、惣町を支配する町年寄もこれに参加することが義務づけられていた」と解説しています。
 また、町年寄の業務として、
(1)惣町支配の町年寄が町奉行の元でいかに統制するかという課題の元で行ってきた地面の受渡しや人口把握
(2)商人・職人の統制
(3)調査・調停の事務
の3点を挙げています。
 さらに、名主の職務として、
(1)御触・申渡の伝達
(2)人別改(今日の戸籍調査)
(3)火の元の取締まり
(4)訴訟事件の和解
(5)家屋敷の買受け・譲渡、その他証文の案紙を検閲すること
の5点を挙げています。
 第4章「享保改革と町運営」では、「町々で生ずる多様な業務を処理するための機構」として、
・家主によって組織された五人組
・その中から選出された月行事
・専業事務担当者としての町代・書役
等を挙げ、「これら下級の町役人と町年寄・名主など上級町役人との関連を検討する必要もある」と述べています。
 そして、元禄期の町法が、「町礼を基本にして作られていた。家屋の売買、家督の相続、家主の交代、屋敷書入証文など名主・五人組の保証にかかわる契約、これらの確認と広めが町の共同体としての基本的関係であった。町共同体の結束を利用したものである」と解説し、「幕府が町触などで取り締まっても、容易にまもられることはなかったと考えられる」と述べています。
 第5章「町年寄と町名主」では、町名主が、「身分としては町人であったが、他の特権町人とともに町人の最上位にあり、服制や帯刀などに武士と同等の権威を与えられていた」が、「17世紀の後半には、これらの特権も段階的に禁止され、武士と町人の身分的差別が明確にされる」とのべ、「このことは、将軍権力の確立に伴う文治政治への以降と関連し、幕政機構の官僚化の進行と結びついている」と解説しています。
 また、名主が屋敷を所持しなくてはならない理由として、「支配町々に資産を有するという理由だけでなく、名主宅が役宅として諸事務を処理する必要があるからである」と述べ、「とくに名主宅の表には玄関があり、ここで簡易なもめ事の調停や裁定をなさねばならなかった」ため、「町人たちは名主のことを『げんか』とよんでいたといわれる」と述べています。
 第6章「江戸の変質」では、下層民衆の社会問題として日雇人足の問題について、「肉体労働を提供する人足は、江戸のような大都市には多数存在しうる条件があり、その受給問題は幕府にとって都市下層社会統制の重要な課題のひとつであった」と述べ、宝永5年(1708)に、「町々の家主が日雇人を把握し、名主が人別帳を作成して座から札を渡す体制が作られた」と解説しています。
 また、名主の行状悪化の背景として、「文化文政の時代から、名主の相続に関し見立て名主や養子相続など表向きをつくろい、実際には株と同じように名主役を譲渡する風潮があらわれてきたこと」を挙げています。
 本書は、落語などでよく耳にする江戸の町人の暮らしについて、リアリティを与えてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 江戸の役人というと時代劇の影響か、町奉行の与力とか同心とかの治安維持系の人たちが浮かぶのですが、当然行政系の役人もいたわけで、そういった人たちの仕事振りはなかなか目にする機会が少ないような気がします。落語に出てくる大家さん止まりでしょうか。


■ どんな人にオススメ?

・江戸の町の行政マンの姿を見てみたい人。


■ 関連しそうな本

 速水 融 『歴史人口学で見た日本』 2007年12月26日
 田中 圭一 『百姓の江戸時代』 2007年09月16日
 田中 彰 『幕末維新の社会と思想』 2007年08月13日
 高橋 敏 『博徒の幕末維新』 2007年10月18日
 谷川 彰英 『東京・江戸 地名の由来を歩く』 2007年12月29日
 岡崎 哲二 『江戸の市場経済―歴史制度分析からみた株仲間』 2006年01月19日


■ 百夜百マンガ

らんぽう【らんぽう 】

 チャンピオン黄金期を飾った作品。アニメ化もされましたが、ギャグマンガはアニメにしたときにはすでに古くなっている、という鮮度が落ちるスピードの速さを感じさせました。

2008年1月 3日 (木)

日本軍政下のアジア―「大東亜共栄圏」と軍票

■ 書籍情報

日本軍政下のアジア―「大東亜共栄圏」と軍票【日本軍政下のアジア―「大東亜共栄圏」と軍票】(#1078)

  小林 英夫
  価格: ¥777 (税込)
  岩波書店(1993/11)

 本書は、戦時中に日本軍がアジア諸国で発行した「軍票」に関する調査を中心に、「戦争の被害の実態を追跡すると同時に、そうしたものを生み出した歴史的背景、歴史的経緯そして戦後処理の過程を描き出そうと試みたもの」です。日中戦争と太平洋戦争において、発行された軍票は、「それまでとは比較にならない大規模なもの」であり、「太平洋戦争末期、事実上の軍票である南方開発金庫兼を含む軍票発行高は、220億円弱という天文学的数字にのぼる。まさに軍票が氾濫した戦争だった」と述べています。さらに、負け戦となったアジア太平洋戦争では、「戦争終結前後にこれを回収して一般通貨と交換」するという処理がきちんと行われず、「香港においては未処理のまま、いまにいたっている」ことを指摘し、民衆の戦争被害でもっとも悲惨な生命の侵害と同時に、「戦争遂行のために必要な物資を占領地域の民衆から収奪したこと、そのため広範な民衆が塗炭の苦しみをなめさせられたことを忘れてはならない。その物資収奪のカラクリの中心に位置するのが軍票であった」と述べています。
 著者は、「日本が占領地域において展開した軍事支配政策とはどのようなものであり、その実態はどうであったのか」について、「その観点からアジア太平洋戦争の過程を検討し、戦後責任につながる問題点を考えたい」と述べています。
 第1章「中国戦線の物資争奪戦」では、日本軍が、「徴発」、すなわち、「中国人からものを強制的にとりたてて、軍隊を維持していた」と述べ、「輜重輸卒(しちょうゆそつ)(輸送兵)が兵隊ならば、チョウチョ、トンボも鳥のうち」と歌われたほど、「日本軍の中での補給部門の位置と役割は低」く、「決戦を重視し、戦闘行動のみを中心に据えた思想である」と解説しています。
 そして、1931年の満州事変の翌年に成立した傀儡政権である「満州国」においては、「世界貨幣史上、未だ嘗て見ざる好成績」と記されるほどの大成功を収め、その理由の一つとして、「相手とした銀行が奉天軍閥の弱小資本だったこと」を指摘するとともに、「華北占領地では国民政府の通貨=法幣が相手」であり、「日本の脆弱な金融力では歯が立たない、英米をバックとした浙江財閥の機関銀行の発行したもの」であったと述べています。
 また、日本軍が、軍票を流通させるため、「さまざまな価値維持工作を展開」し、カネの面では、「乙資金」と称されるものを手始めに、さまざまな名称の価値維持資金が設定され、モノの面では、39年8月に設立された中支那軍票交換用物資配給組合という強力な配給紀行を組織して、「日本から華中占領地に輸入される物資を統制し、最小の物資で最大の軍票を回収し、もってモノの面から軍票の価値維持を行い、軍票の流通領域の拡大をしよう」としたことを解説しています。そして、これらの軍票工作が成功しなかった理由として、軍票の使用・交換可能な場所が、「点と線」と呼ばれた日本軍の戦力圏に限定されていたことを指摘するとともに、「裏づけの乏しい通貨であったことはもちろんだが、何よりも、侵略者たる日本軍に抵抗する民衆の力であったことを忘れてはならない」と述べています。
 第2章「南方軍政とはどのようなものだったのか」では、占領地期の拡大に伴ない、多数の軍政要員が東南アジアに派遣され、その出身が、「各章より出向した役人、企業や商社の派遣員、また銀行員など、その経歴はさまざま」であったと述べ、初期の軍政は「優雅」で「平穏」な光景がありえたが、その背後の軍事占領地の矛盾が直ちに露呈することになったと述べています。
 また、日本の占領政策を、「イギリスを先頭とする欧米諸国がつくりだしてきた『東南アジア域内交易圏』を改変・再編成して、『大東亜共栄圏』をつくりだそうとする試み」であったと述べています。
 さらに、南方占領地において、「開戦と同時に、日本郡は現地通貨表示の軍票を携帯して、アジア各地に侵攻」し、「占領作戦終了後直ちに軍票を現地通過と等価で流通させることを宣言」したと述べ、日中戦争では、戦争勃発4ヵ月後から円表示軍票が使用され始めたことと比較し、この違いを生み出した根本的原因として、日中戦争が、「通貨戦が物資争奪戦として戦闘の重要な構成要素となり、日中双方の勝敗の帰趨に決定的な位置を占めていた」ため、「日本軍は円表示の軍票の流通の拡大と国民政府の発行する法幣との闘争に全力を傾注することを余儀なくされた」のに対し、東南アジアの場合には、「現地政権の一掃と軍政の施行が前提となっており、『戦地使用通貨の大理想は、戦地既存通貨制度をそのまま軍の手に生捕にし、之により完全無欠にも金も者も現地自活の途を講ずる」ものであり、「軍票は作戦初期、軍において支払手段なき時期における応急通貨たる」役割を演ずることが予定されていたためであると述べています。
 第3章「『大東亜共栄圏』の実像」では、アメリカ海軍の潜水部隊による海上輸送路の破壊のための極度の船舶不足が生じ、「東南アジアからの物資が日本に来なくなり、日本からの物資が東南アジアに供給されないという状況」が生み出されるとともに、「大東亜共栄圏」内部の経済を混乱させ、「日本軍は東南アジア域内交易圏を破壊した上に、輸送路の維持に成功しなかったから、各地で滞貨を増加させることになった」と解説しています。
 また、1943年1月に発券機能が認められた南方開発金庫が発行する南方開発金庫券について、「バナナノート」や「ミッキーマウス・マネー」と呼ばれ、「おもちゃのお金と見なされていた」ことを紹介しています。
 さらに、日本が東南アジアの国の支持を得るために使った最後の「切り札」である独立について、「経済的従属とひきかえに政治的独立を許容した"新植民地主義"とはとてもいえず、軍事的必要からくる"みせかけの独立"以外のなにものでもなかった」と指摘しています。
 第4章「戦後処理をめぐって」では、日本が東南アジア諸国と個別折衝の上で支払った賠償が、「供与は無条件ではなく、それぞれの国と締結された協定の付属書に掲げた事業計画を実現するために実施された」ものであり、日本から支払われる賠償は、「工業化プロジェクトに必要な資本財を主体にしていた」ことが特徴であり、「賠償が国家の復興と経済建設に充当され、戦争中に損害を受けた被害者の補償に向かわなかったこと」を指摘しています。
 本書は、軍票を通じて、民衆の経済の面から見た戦争の姿を伝えてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 東南アジアから、旧日本軍が隠した金塊がどこかに埋まっている、という埋蔵金の話題が数年位ごとに聞こえてきますが、その背景にあるのは、大量の軍票を強制してあれだけ収奪した日本軍が逃げたのだから持ち出せないほどの財宝があるに違いない、という発想なのではないかと思います。実際にはあったとしても戦後のどさくさのうちに、誰かの手に行ってしまったのではないかと思いますが。


■ どんな人にオススメ?

・経済的悲劇としての戦争を伝えたい人。


■ 関連しそうな本

 小林 英夫 『「日本株式会社」を創った男―宮崎正義の生涯』 2006年01月02日
 小林 英夫 『満鉄―「知の集団」の誕生と死』
 小林 英夫, 米倉 誠一郎, 岡崎 哲二, NHK取材班 (著) 『「日本株式会社」の昭和史―官僚支配の構造』
 小林 英夫 『満鉄調査部―「元祖シンクタンク」の誕生と崩壊』 2007年10月22日
 吉田 裕 『日本の軍隊―兵士たちの近代史』
 松本 健一 『日本の失敗―「第二の開国」と「大東亜戦争」』


■ 百夜百マンガ

アンダーカレント【アンダーカレント 】

 現代版「時間ですよ!」を狙ったお風呂屋が舞台の大人のラブコメ・・・・・・ではありません。漫画『アクション』にでも掲載されてそうな冷めた絵が光ります。

2008年1月 2日 (水)

自立と協働によるまちづくり読本―自治「再」発見

■ 書籍情報

自立と協働によるまちづくり読本―自治「再」発見   【自立と協働によるまちづくり読本―自治「再」発見】(#1077)

  大森 弥, 北沢 猛, 辻 琢也, 卯月 盛夫, 小田切 徳美 (著), 地域活性化センター (編集)
  価格: ¥2000 (税込)
  ぎょうせい(2004/03)

 本書は、財団法人地域活性化センターが平成元年に創設した「全国地域リーダー養成塾」の講師が、「地域づくりに関するさまざまな分野の理論及び実践について分かりやすく」解説したものです。
 第1章「分権時代の首長像をさぐる」(大森彌)では、「当選した人がふさわしいかどうかは分からない」として、「およそ政治家を志そうとする人物は、一般に、『虚実が入り混じり、不確実と争いの尽きない政治の世界で、気力と体力にあふれ、資金力と演技力を元手にして、ときに恥じもなく外聞などかなぐり捨てて権力を追求する』といったタイプ」であり、「その自己顕示、再審査、厚顔ぶり、行動力において、とても並みの人間には及びがつかない」と述べ、そうした人が「権力の座」につくのであるから、「任期を設けて、不適任なら落選させるのもそのためである」と解説しています。
 また、物にたとえるならば、公選首長は、いわば「消耗品」であるのに対し、職員はいわば「備品」といってよいと述べ、首長が、「選挙のときに約束した公約を実現していけば、その存在価値は減っていくから」であると解説しています。
 さらに、わが国の市町村が、「医療・公共事業を含め、先進諸国には見られないほど広範囲で、多くの事務事業を処理している」ため、「首長は、その姿勢や意欲や力量によって、こうした事務事業の展開に対して、相当の影響を及ぼすことができることになる」ことを指摘しています。
 第2章「少子高齢社会における地域づくりと市町村経営」(辻琢也・四方田亨二)では、21世紀前半において日本が、「『3人に1人が高齢者となる』人類未踏の超高齢社会となり、『2人に1人が高齢者となる』市町村が決して珍しくなくなることは必至である」として、「聴講社会の到来を前提に、そこにおける地域づくりと市町村経営を必要以上に悲観・楽観することなく、冷静に分析しなければならない段階となっていると述べています。
 そして、事例研究の対象として、山口県東和町を取り上げ、その理由として、
(1)「高齢化率日本一のまち」でありながら、5千人を超える人口規模を維持していること
(2)インフラの改善に努めてきた条件不利地ということ
(3)伸び悩む一次産業を抱える条件不利地にあって、地域づくりの百貨店といえるほど、役場を中心に官民一体となってさまざまな地域づくりに懸命に尽力してきたこと
の3点を挙げています。
 また、2000年度における東和町の住民1人あたりの地方交付税や補助金等の総移転額が約76万円であり、「日本におけるすべての町村が東和町と同じ高齢化水準となった場合、現在の財政優遇状況を維持するため必要な移転額は、『2,680万人×76万円=約20兆円」となり、2000年度の地方交付税総額(約17兆円)を大きく超える水準となる」と指摘しています。
 第3章「住民参画で職員・住民を鍛える」(卯月盛夫)では、現在日本の「まちづくり」が、「ある限定した地域に暮らす住民のあらゆる生活を対象に、自治的コミュニティの形成と居住環境の改善を同時に実現しようとする住民と自治体の共同活動」と理解されていると述べています。
 また、「市民と自治体の運動の継続的な発展を望みながらも、それをさらに飛躍させるための制度改革」として、
・原理原則の明確化と法的整備――国の課題
・住民参加と住民提案の受け皿整備と支援――市町村の課題
・市民への各種支援と世論形成――中間セクターの課題
の3つに分けて提言しています。
 さらに、「従来、『公共』と『行政』は同一の概念であり、行政が提供するサービスの範囲を『公共』ととらえていた」が、「新しい公共」(ニュー・パブリック)として、「公共の概念を行政サービスの範囲に限定せず、市民セクターなどが提供する社会サービスを含めて広くとらえようとする考え方」が登場したと解説しています。
 第4章「持続可能な地域をデザインする」(北沢猛)では、「目前に迫る『縮減の時代』を前向きにとらえ、地域の魅力を高め、豊かな生活を造り出していく道筋を明らかにする」ためには、「私たち一人一人が楽しく暮らせる環境」として、自分たちに合った、
(1)ゆたかな自然や町並みという空間
(2)ゆったり過ごせる時間
(3)気の合った仲間などの人と人との交流
のをどう自分達の手に取り戻すかが鍵となる、と述べています。
 また、「欧米での持続可能な開発に関する議論」から、
(1)環境保全と成長管理
(2)社会的文脈と共同体再生
(3)高効率経済と地域資源
の3つの原則が見えてくる、と述べています。
 佐和に、「コミュニティ・デザインの伝統的な概念を再評価した」、アメリカで提唱された新しい都市・地域づくりの概念であり、実践的な手法である「ニューアーバニズム」(New Urbanism)に関して、その基本原則である「コンパクトシティ」という理念について、
(1)歩いていける範囲内に生活に必要な多様な活動拠点がある。
(2)公共輸送システムを中心に考えられた空間計画である。
(3)多様な用途の複合がコミュニティ空間をつくっている。
の3つの理念と、計画の主要な課題として、
(1)人間的尺度
(2)交通負荷
(3)開発制御
(4)地域特性
(5)市場原理
の5つの分野を挙げています。
 第5章「自立した農山漁村地域をつくる」(小田切徳美)では、合えて農山漁村地域を取り上げ、「そこにおける地域づくりを推進する際のポイントとその条件、そして政策課題等」を論じる理由として、
(1)農山漁村地域が、日本の国土に占める割合はもちろん、そこに住む人口のシェアもいまだに少なくない→日本の国土構造は、これだけ都市化が進んでいても、農山村に比較的多くの人口を抱え込んでいることを特徴としている。
(2)こうした地域における活動が、大都市や中小都市を含めた地域づくり一般に対して先発的ないしは典型的に提起する課題も見られる。
の2点を挙げています。
 そして、現代の山村の問題状況を、「『人』『土地』『ムラ』の3つの空洞化」と表現し、それぞれについて、
・人の空洞化:人の流出はやや沈静化したものの、人口構成の高齢化が進んだために、新しく生まれる子供の数が少なく、そして高齢者の死亡により地域内人口が、徐々に、しかし確実に縮小していく。
・土地の空洞化:高度経済成長期の激しい社会現象以降も地元に残って、農林地を管理し続けてきた親世代がリタイヤ期に入り、いよいよ農林地の管理主体不足が顕在化した。
・ムラの空洞化:特に壮年人口が小さな集落では高齢化の進行が著しく、これらが「人の空洞化」によるものであることが確認でき、集落の寄合回数が著しく少なくなっている。
と解説しています。
 著者は、「農山漁村地域への政策的対応は、『3つの空洞化』への対処療法のみでは完結しない」と述べ、そのような「外来型開発路線」がもたらす問題が各地で顕在化したことで、さまざまな立場からの批判が提起されると指摘しています。
 そして、「内発的発展原則の農山漁村地域における具体化のチャレンジ」の例として、鳥取県智頭町における「ゼロ分のイチ運動」を取り上げ、この運動において、それに乗り出す集落(進行協議会)は、
(1)住民自治の柱
(2)地域経営の柱
(3)交流・情報の柱
の「3つの柱」を建てることが求められていると述べています。
 本書は、日本の地域づくりの第一人者の講義を(数年遅れとは言え)まとめて体験できるという点で、入り口としては非常にお得な一冊です。


■ 個人的な視点から

 本書の性質は、一連のシリーズものの講座を開催した成果物として、講師陣に講義をベースにしたテキストを書いてもらった、という位置づけのようですが、講師によって、紙になって出版されるものに対する取り組みの仕方に違いがみられて面白く感じます。
 パターンとしては、
(1)講義録をベースにして、修正を加えたもの。
(2)講義資料をベースにして、話したこと(話したいこと)を加えて講義(意図)を再現したもの
(3)論文的構成に組みなおしたもの。
の3パターンあるのではないかと思います。下に行くほど著者の手間が増えますが、が、読む人にとって、どれが価値を持つかは人それぞれで、論文や著書がたくさんある講師は生の講義に近いものを読んでみたいという人が多いと思いますし、普段は学術論文がメインで一般書をあまり出していない人であれば、こういう形でエッセンスをまとめてくれるのはありがたいものです。書く側も、自ずとそういったことを意識しているのではないかと思いますが。


■ どんな人にオススメ?

・いろいろな人のまちづくり観をまとめて読んでみたい人。


■ 関連しそうな本

 田村 明 『まちづくりの実践』 2005年7月29日
 田村 明 『都市ヨコハマをつくる―実践的まちづくり手法』 2005年07月27日
 埼玉新聞社 (編集) 『生き生きまちづくり 埼玉県志木市の挑戦』 2005年04月17日
 大森 弥 『分権時代の首長と議会―優勝劣敗の代表機関』
 北沢 猛, アメリカンアーバンデザイン研究会 『都市のデザインマネジメント―アメリカの都市を再編する新しい公共体』
 小田切 徳美 『日本農業の中山間地帯問題』


■ 百夜百マンガ

夜の歌【夜の歌 】

 元アシスタントが独立後大ヒット作を書き、TVアニメ化や映画化をするのに、本人の作品はアニメ化されないというジンクスを持つ作者ですが、さらに師匠も通好みはしますが、TVでアニメ化されそうにありません。

2008年1月 1日 (火)

一本道とネットワーク―地図の文化史・方法叙説(ことはじめ)

■ 書籍情報

一本道とネットワーク―地図の文化史・方法叙説(ことはじめ)   【一本道とネットワーク―地図の文化史・方法叙説(ことはじめ)】(#1076)

  堀 淳一
  価格: ¥3990 (税込)
  作品社(1997/09)

 本書は、「進歩主義的地図氏の否定に立ち、すべての地図を丸ごと見ることによって地図の文化史を作ること」を最終目標に、その対象を「一本道地図とネットワーク地図」に限定した上で、「それらがそれぞれの時代・地域の歴史・風土・文化・社会・思想的背景の中で、どういう意味をもち、どういう役割を果たしてきた」のかを考えるものです。著者は、本書を執筆した動機として、
(1)進歩主義的地図史観は誤りである
(2)地図だけを見ても地図は分からない
の2点を挙げています。ここで、「一本道地図」とは、「ある一本の道筋を旅するときに、どういう風景、風物、見所、目標物、その他旅行者にとって必要なものや興味を引くものが次々に現れるかを示す地図、言い換えれば、いろいろなものの線的な順序を示す地図」であり、「ネットワーク地図」とは、「道路網、鉄道網、航空路網その他の、さまざまな種類のネットワークを表現する地図」であると解説しています。また、本書で使う新しい言葉として、
・規矩地図:縮尺と包囲が図上に整然と、規則正しく与えられている地図
・位相地図:縮尺と包囲がでたらめに勝手に、ぐにゃぐにゃに変わる地図
の2つの言葉について解説し、「位相地図は決して『歪んだ奇妙な地図』なのでも、『地図らしくない、格の劣った地図』でも」なく、「ある対象を表現するには規矩地図のほうが適切だが、別の対象を表現するのには位相地図のほうが適切、という表現したい対象による(いいかえればそれぞれの地図の目的による)役割分担がある、というだけのことで、二つの間に優劣はない」と述べています。
 第1章「方向をもつ一本道地図」では、13世紀半ば頃にマニュー・パリスという人が作った、ロンドンからエルサレム(実際にはイタリア半島のプリア)までの聖地巡礼のための道中図を取り上げています。そして、当時は、「教会・修道院が今でいえば大学も研究所も出版社も図書館も、また農業などの研究・実験機関も兼ねていた」ため、「本屋地図は、そこに最大級の貴重品、いわば財宝に近いものとして、大切に保管・安置されていた」ものであったと述べ、「パリスの『一本道地図』は、聖職者を始めとする知識人・教養人が参考のためあるいは教養に資するためにわざわざ出向いていって鄭重に『拝見』するためにつくられた、修道院の貴重な備品であって、ガイドマップとしてつくられてものではなかった。そして一方、実際に旅行する人々はそういうものをほとんど必要としなかった」と述べています。
 また、「現代地図」と「古地図」が別々の研究対象とされていることについて、「現代地図と古地図との間に画然とした違いなぞあるわけがありません。両者は切れ目なくつながっているものであって、二つの間にキッパリと線を引こうとするのも、何年までの地図を古地図という、と定義しようとしたりするのも、絵と地図を截然と区別しようとするのと同じく無意味であり、徒労でしかない」と述べ、両者が、「それぞれの目的に沿った地面に対するイメージ(描像・概念)の表現である」という本質にいささかの変わりもないと指摘しています。
 さらに、現代に一本道地図が生まれにくい理由として、「交通路が発達しておらず、また、治安が一般によくなかったためにルートの選択肢が欠しかった昔と違って、交通路網が密でありまた特殊な地域を除けば治安の問題が比較的ない現代では、たとえ目的地が決まっている場合でも、そこへ行く経路の選択肢が無数にありますから、特定の一筋道に身を縛られることは通常はありません」と述べています。
 著者は、「一遍上人絵伝」を取り上げ、「日本の中世は意外に流動性の大きい、さまざまな人々が盛んに旅していた時代だったわけで、それが『絵伝』にもよく表れている、といえましょう。そしてこれも、江戸時代、さらに現代にまで引き継がれる、日本文化の特徴的様相の一つなのです」と述べています。
 第2章「方向をもたない一本道地図」では、17世紀につくられた「オウグルビーの道路地図帳」について、
・ロンドンから14都市への「直通幹線」
・ロンドンから分岐点を経て18都市に通じる「直通支線」
・主要地方都市間の「横断幹線」
の計84ルートが収められ、その最大の特徴は、「一つ一つのルートがそれぞれ幅6.3センチの縦に細長い帯の中に押し込められて、縦長の絵巻風に描かれていること」を挙げています。著者は、この道路地図帳を実際に使ったのは、もっぱら商人と貴族・ジェントリだったのではないかと推測しています。
 また、作・遠近(おちこち)道印、絵・菱川師宣による「東海道分間絵図」を取り上げ、オウグルビーの道路地図との共通点として、
・刊行時期がほとんど同じ
・実測に基づいたものである
・細長い帯状の画面に一本道を収めたものである
・方位の変化が方位盤で示されている
・ポケット版が出てロングセラーになった
等の点を挙げています。一方で相違点として、菱川師宣による「自在な手法、細部に固執するクソリアリズムでないほんとうの意味でのリアリズムは、まさに『一遍絵伝』に典型的に見られたような日本の絵巻物の電灯に乗っている」が、オウグルビーの道路地図は、「はるかに堅くかつビジネスライク」であり「類型化・画一化の傾向が強い」ことを指摘しています。
 さらに、「東海道分間絵図」やオウグルビーの地図のような実測に基づいた規矩地図は一本道地図としては例外的であり、道中図と普通呼ばれる江戸時代の一本道道路地図や川や海の一本道地図も、「そのほとんどは完全な位相地図」であると述べ、「それは欠点でないどころか、その多くはそれゆえにこそ美しくすぐれた地図になっている」と述べています。そして、葛飾北斎の「東海道名所一覧」を取り上げ、「一本道を細長い帯の中ででなくて一眼で見られる画面に収めるために、極度にぐにゃぐにゃとまるで人間の小腸のように曲がりくねらせてある上に隙間を巧みに埋めて連続した地表に見せているので、一見一本道地図とは見えない」と述べ、「こういうすぐれた、規矩にとらわれない自由奔放な地図文化が江戸時代にはあったことに改めて感嘆するとともに、明治以来の日本の地図文化の貧困――日本人が旅の途上で遠藤の風物をゆっくり楽しむゆとりを失い、ヨーロッパ人に代わって向目的突進人種に成り下がってしまったこと?――を嘆かずにはいられない」と語っています。
 第3章「水路・海路・空路の地図」では、「阿武隈川舟運図」を取り上げ、「モノづくりや情報づくり、そしてそれらをあわただしく消費させたり消費したりすることに追いまくられる現代よりも、はるかに美しいもの楽しいことをゆっくりたっぷりと味わうゆとりが、今よりもずっと多くの人々にあった」と述べ、「今ならば誰もあえて美しくつくろうなどと思わない実務目的の地図(中略)も美しくつくらせたり、うつくしくできたものが提出されると御満悦だったりしたのだ」と述べています。
 また、飛行機の乗客または乗客の世話をする旅行エージェントのための「航空路線図」と、操縦士その他、飛行機を飛ばす側に人々が使う「航空路図」とを比較しています。
 第4章「ネットワーク地図」では、伊万里焼の「日本図皿」などに描かれた「非常に稚拙な日本図」について、「このような、おのおのの国(現代の国家ではなく、日本国内のクニ)をどれも似たり寄ったりの不定形の餅(というか団子というか)の形で表し、それらをペタペタとくっつけていっただけの日本地図」を「行基図」と呼ぶことを解説し、「このタイプの素朴極まりない日本図が、日本では9世紀頃から江戸時代初期までの長い間、ほとんど唯一の日本全図だった」と述べています。この行基図という名は、「僧行基がこの地図をつくったという伝説的に基づくものですが、これは晩年の彼の大僧正としての盛名と、種々の土木・建設事業にあずかった彼の事績がつくったお話にすぎない」ものであり、「律令政府保管の地図が書き写されて民間に流れていったものがもとになっている、というのが本当のところ」ではないかと述べています。
 また、時刻表などが大量に売られ、隠れたベストセラーになっている国は日本の他にはなく、多くの国では、「旅行者は駅の案内所で目的地を告げ、係員に乗るべき電車、バスをその都度教えてもらうのが常で、ほとんどの人は自分で地図を見、時刻表を繰って旅程を立てる、などということはしない」と述べ、「多くの人がそれを各自いそいそと実行できる」日本は、「昔から旅の好きな人が多く、江戸時代にすでに道中行程記とか道中細見記とか分間絵図などという一本道ないしネットワーク地図が花盛りだった国に、それは特有の現象らしい」と述べています。
 さらに、著者がかつての道路公団から地図づくりのアドバイスを依頼された際に示したポイントとして、
(1)目的を明確に設定する。
(2)最重要なものを、思い切って目立つように表現する。
(3)規矩にとらわれず適切なデフォルメを施すべき
(4)同じ種類のものは原則として同系統の色で表現する(例えば同じ「道路」であるのに高速道路は青、国道は赤、県道は緑、などというような迷彩的カラーデザインは避ける)
(5)道路はできるだけ色(白も入る)の帯で表現し、ククリ(両側の線)を使わない
(6)平野はみどりで山地は茶、というような固定観念にとらわれずに、地図が読みやすくかつ目的にかなったものになるようカラーデザインを自由に考える
の6点を挙げています。
 本書は、地図といえば、縮尺や正確さにとらわれがちな現代人に、地図の本質的な機能を気づかせてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 地図というとどうしても正確な縮尺などにこだわってしまいがちですが、空間が人にどのように認知されているかということも、同じように重要なはずです。その意味で、『バカ日本地図』の試みは痛快でした。


■ どんな人にオススメ?

・地図には正確さこそが重要だと思っている人。


■ 関連しそうな本

 ジョン・ノーブル ウィルフォード (著), 鈴木 主税 (翻訳) 『地図を作った人びと―古代から観測衛星最前線にいたる地図製作の歴史』 2007年01月01日
 マーク モンモニア (著), 渡辺 潤 (翻訳) 『地図は嘘つきである』 2007年1月7日
 今尾 恵介 『地図を楽しむなるほど事典』 2007年02月25日
 佐藤 甚次郎 『公図 読図の基礎』 2007年06月18日
 スティーヴン・ストロガッツ (著), 蔵本由紀, 長尾力 (翻訳) 『SYNC』 2006年04月10日
 一刀 『バカ日本地図―全国のバカが考えた脳内列島MAP』


■ 百夜百音

昭和コミックソング大行進~笑いのギフトパック~【昭和コミックソング大行進~笑いのギフトパック~】 オムニバス オリジナル盤発売: 2003

 「きたかチョーさんまってたドン」のチョーさんはいつの間にか政治家になってしまっていました。もともと行政関係者ということもあるのですが。

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