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2008年6月

2008年6月30日 (月)

日本全国おもしろユニーク博物館・記念館

■ 書籍情報

日本全国おもしろユニーク博物館・記念館   【日本全国おもしろユニーク博物館・記念館】(#1257)

  新人物往来社
  価格: ¥2730 (税込)
  新人物往来社(2006/12)

 本書は、1993年に始まった「ユニーク美術館、博物館シリーズ」の8冊目となるもので、近年続々オープンした、ハイテクを駆使した大型美術館、博物館から「歴史を重ね守られてきた館や少人数で手作りしたような館」まで59館を紹介しているものです。
 青森県の「小川原湖民族博物館。渋沢邸」では、渋沢敬三に秘書兼執事として仕えていた杉本行雄が開いた古牧温泉の小川原湖民族博物館について、東京三田綱町にあった渋沢邸が、戦後、財産税代わりに物納され、平成になって道路拡張工事に伴う取り壊しが決まると、杉本は国に払い下げを要請し、平成4年6月、12億円の費用をかけてこの地に移築したものであると解説しています。
 そして、渋沢つながりでは、埼玉県深谷市のJR深谷駅前に立っていた渋沢栄一の銅像が、現在は「渋沢栄一記念館」に移されたことや、同市血洗島にある「中ノ家(なかんち)」と呼ばれた渋沢栄一の生家(明治28年に再建されたもの)などについて紹介しています。
 さらに、渋沢栄一が人生の大半を過ごした東京都の飛鳥山にある「渋沢資料館 晩香盧 青淵文庫」では、栄一の孫の敬三が収集した漢籍6000冊が収められていた青淵文庫を紹介し、「青淵(せいえん)」という雅号が、「渋沢の生家中ノ家の近くに上の淵と呼ばれる深い淵があり、水が青かったところからつけた」といういわれを紹介しています。
 福島県の「大内宿町並み展示館」では、「江戸時代にタイムスリップした不思議な感覚に包まれる。山間に現れた茅葺き屋根の町並み」が、戊辰戦争時に、東軍・会津藩と西軍(新政府軍)との戦いの場になり、会津軍が宿場を焼き払おうとするのを、名主阿部大五郎が、「死を覚悟して嘆願し、抵抗した」ため、焼き払いにあわずにすんだことなどが解説されています。
 千葉県の「大原幽学記念館」では、「牛渡村一件」と呼ばれる事件をきっかけに、幽学が「失意のうちに死を決意」した悲惨な結果を紹介した上で、「幽学の教えは現在も受け継がれていて、八石性理学会」が、「改心楼の跡地に大原神社を建てる運動」をしたり、「幽学関係の資料の保存などに活躍」していると紹介しています。
 同じ千葉県の「麻雀博物館」では、「世界の各地から収集した3000点を越す牌をはじめ、麻雀に関する貴重な文献」が収められていることなどを紹介しています。
 福井県の「御食国(みつけくに)若狭おばま食文化館」では、「小浜では、祭礼の折には焼鯖と赤飯と蒲鉾が欠かせない」として、「その赤飯を入れる飯桶」は、「その昔、お嫁さんが33歳の厄年を迎えると、実家から贈られることになっていた」という風習を紹介しています。
 静岡県の「浜松市楽器博物館」では、「こんなにアジアの楽器を揃えているだけでも驚きなのに、日本の伝統楽器もちゃんとそろっているし、地価にはヨーロッパの楽器だけでなく、中南米やアフリカ、オセアニアの楽器まで溢れている」として、「まさに世界中の楽器がある」と感嘆しています。さらに、「各コーナーでその楽器の音が聞けたり、演奏風景のビデオが見られたり」というだけではなく、「打楽器や弦楽器が触り放題」の「体験コーナーや体験ルーム」があることを、驚きを込めて紹介しています。
 山口県の「回天記念館」では、人間魚雷「回天」について、「絶望的な戦局の太平洋戦争末期、『天を回らし、戦局を逆転させる』という願いを込めて誕生した特攻兵器である。魚雷に大量の爆薬を搭載し、隊員自らが操縦して敵艦に体当たりする。なんという悲惨な兵器であろう」と紹介しています。そして、昭和18年夏に、二人の青年士官が、「人間魚雷」を研究した際には、「はじめ『必死』を前提とする兵器案は採用できないと却下されたが、翌19年、トラック等が壊滅的な打撃を受け非常体制となった海軍はついに正式兵器とした」という敬意を紹介しています。
 高知県の「高知県立坂本龍馬記念館」では、この館の最大の特徴として、「もともと高地県内の青年組織や、地域起しグループなどが主体となり、募金によって建設資金を集めた。日本国内はもとより、海外からも寄付が集まり、その学は7年間で8億円に達した。最終的には高知市が敷地を提供し、高知県が2億円を助成して、着工に至った」という「館の成り立ち」を挙げ、昭和3年に地元の青年有志によって建てられた、桂浜の龍馬像と「同じ方法を踏襲した」と解説しています。
 本書は、ハコモノ批判も多い中で、全国の個性的な博物館・記念館を、多くの人々の情熱が支えていることを紹介している一冊です。


■ 個人的な視点から

 本書で紹介されている博物館・記念館の中には、公立なんだけど誰が見にくるんだろう、と思うようなニッチかつマニアックな分野をカバーするテーマを選択してしまったものもあれば、本当にニッチな狭いところを、ピンポイントでカバーする個人や好事家たちによって設立されたものまで幅広くあります。ちょっと敷居は高いですが、個人の思い入れのある記念館は、濃い世界を体験できるのではないかと思います。


■ どんな人にオススメ?

・身近にあっても意外に知らない博物館・記念館を知りたい人。


■ 関連しそうな本

 水藤 真 『博物館学を学ぶ―入門からプロフェッショナルへ』 2008年06月20日
 村井 良子, 上山 信一, 三木 美裕, 佐々木 秀彦, 平田 穣, 川嶋-ベルトラン 敦子 『入門ミュージアムの評価と改善―行政評価や来館者調査を戦略的に活かす』 2005年11月17日
 神奈川県博物館協会 『学芸員の仕事』
 太陽レクチャー・ブック編集部 『ミュージアムの仕事』
 高橋 隆博, 森 隆男, 米田 文孝 『博物館学ハンドブック』
 全国大学博物館学講座協議会西日本部会 『新しい博物館学』


■ 百夜百マンガ

CAとお呼びっ!―逆風客室乗務員【CAとお呼びっ!―逆風客室乗務員 】

 観月ありさの主演でドラマ化されていた作品。青年漫画誌に連載された作品ながら少女漫画的なテイストをもっているところは、『おたんこナース』に通じるところがあるでしょうか。でも観月ありさは『ナースのお仕事』でしたね。

2008年6月29日 (日)

ウェブ恋愛

■ 書籍情報

ウェブ恋愛   【ウェブ恋愛】(#1256)

  渋井 哲也
  価格: ¥714 (税込)
  筑摩書房(2006/10)

 本書は、「ウェブを介した恋愛の実際やネット発の純愛ブームの背景」を取材し、「新ツールがもたらした新時代の恋愛間の本質」に迫ったものです。
 プロローグ「本当の恋を探して」では、「ウェブでの繋がりは、そのバーチャルさゆえ距離も年齢も関係ない。そのためウェブ恋愛は、ふたりの距離や年齢といった属性をたやすく越える」として、「リアルな属性よりむしろ気持ちが優先することも特徴といっていい」と述べています。
 また、著者の執筆動機として、「自分のウェブ恋愛の原体験を整理してみたかった」と述べています。
 第1章「ウェブで出会うということ」では、「ウェブでの出会いが本格的になったのは2000年以降」であるとして、「iモードの普及でケータイからのウェブへのアクセスも可能になった」ことに加え、「写メール機能」等の充実により、「出会い系サイトの全盛を迎える」と述べています。
 そして、「ウェブサイトでの出会いとして、最もわかりやすいのはやはり出会い系サイトだ」としたうえで、「ひとくちに出会い系サイトといっても、その内実は多彩だ」と述べ、著者自身のウェブ恋愛の体験として、「私は、恋愛に関して熱しにくい性格のため、後に恋愛対象になっても、なかなか恋愛感情が芽生えないことが多い。私は、出会い掲載とによる恋愛は不得手であることが、経験でわかった」と語っています。
 そして、ウェブでの出会いが、「外見を切り離した、文字によるやりとりがキーだったが、写真付きメールつまり「写メール」の登場で、外見もポイントになってきている」と述べ、「ウェブ上で知り合って、どちらかが『恋愛モード』になっていく過程で、ほとんどの場合に写メールの送信を要求する」が、著者自身の体験として、「じっさいに会ってみて、その幻想が音を立てて崩れていくのを何度も経験した」と述べ、「奇跡の一枚」や、「なかには別人の写メールを送る人もいるくらいだ」と述べています。
 著者は、「出会いのきっかけがウェブであるだけで、恋愛感情は、これまでの恋愛と変わらない。恋愛のツールにウェブやメールが登場したことで、出会いの形が新たに一つ生まれただけということ」だと述べています。
 さらに、「ネットだけのカノジョ」である「ネトカノ」や「ネトカレ」を挙げ、「ウェブ恋愛は、肉体的な接触がなくても成り立つ」と語っています。
 第2章「恋愛日記を綴る心理」では、ウェブ日記のタイプとして、
(1)備忘録型:自分のために覚書を残す。
(2)日誌型:情報を他の人に提供する。
(3)公開日記型:ほかの人に自分という人間を知ってもらう。
(4)狭義の日記型:自分で自分を理解するため。
の4つのタイプを挙げたうえで、「ウェブで恋愛日記を書くと、その恋愛の経緯を見ている読者がおり、恋愛を応援したり、失恋を慰めたりといった反応があるいっぽう、読者の嫉妬を招いたり、いたずらや罵声のレスポンスを受けることもある」として、書き手のキャラクターや、どのレンタルサーバーを借りているか、どのようなコミュニティで話題なるかによっても変わってくると述べています。
 第3章「生きにくさからの解放」では、コミュニケーションの道具としてのウェブが、「キュー(社会的手がかり)が少ない」、「キューレス・メディア」であるとして、「文字中心のコミュニケーション」であり、「表情や身振り手ぶり、視線、態度、匂い、服装など、対面コミュニケーションなら必然であるはずの要素が欠けている。対面コミュニケーションに存在するキューは、想像で埋められる」と解説しています。
 また、「生きづらさを抱えた人たちは、生きることへの希薄さを感じている」として、「希薄さを持ちながら、何らかのアクティング・アウト(行動化)をしている人たち」を「行きづらさ系」と呼び、「家出、援助交際、自傷行為、自殺願望・未遂、依存症などの行動を取りがちである。恋愛に依存する場合も少なくない」と述べ、「行きづらさ系」の若者たちを取材する中で、「多くの場合、恋愛やセックスが、若者たちの自身のなさや承認欲求から現れているのが見てとれた」として、「それは、愛に対する依存症であるかのようだった」と語っています。
 そして、「共依存的な恋愛の場合、自分は自分を十分にコントロールできないけれど、恋愛相手はコントロールをしたいという支配欲求が強まる。生きづらさをかかえて生きることの"希薄感"を埋めようと、相手に過度の愛情を注ぐ」と述べ、こうした人たちが、「恋愛に過度な期待をし、恋愛にふりまわされたり、相手に取り憑いていく状態」を「恋愛依存症」と呼ぶと述べています。
 その上で、「ウェブを通した恋愛者の体験談」が、「時代が変わっても恋愛の本質部分は、大きくは変化していない」と指摘しています。
 エピローグ「ウェブのアドバンテージ」では、「ウェブを通じた匿名の人間関係は、現実の人間関係の希薄さを象徴するもので、ウェブ恋愛もその一つではないか」、「ウェブは文字中心のコミュニケーションであり、人間的ではない」等の指摘に対して回答しています。
 そして、「ウェブは道具であり、ウェブ恋愛も本当の恋を探すための手段のひとつにすぎない。あくまで本当の恋を探すことが目的なのだ」と述べています。
 本書は、ウェブ恋愛というテーマを通じて、ウェブ上を行き交う人間ドラマの一部をキャッチした一冊です。


■ 個人的な視点から

 本書は、単にウェブ上の恋愛を扱っているだけならば、表面的な感じで終わっていたかもしれませんが、著者が追っている「生きづらさ系」の人たちと絡めることで深みが出ている部分もあるのではないかと思います。


■ どんな人にオススメ?

・ウェブの恋愛は何か特殊なのかと思っている人。


■ 関連しそうな本

 室田 尚子 『チャット恋愛学 ネットは人格を変える?』 2008年06月04日
 渋井 哲也 『出会い系サイトと若者たち』
 渋井 哲也 『チャット依存症候群』
 パトリシア ウォレス (著), 川浦 康至, 貝塚 泉 (翻訳) 『インターネットの心理学』 2005年10月15日
 渋井 哲也 『アノニマス―ネットを匿名で漂う人々』


■ 百夜百音

オックス・コンプリート・コレクション【オックス・コンプリート・コレクション】 オックス オリジナル盤発売: 2002

 「ダンシング・セブンティーン」をピチカートがカバーしていたこと自体知りませんでしたが、筒見メロディに対するこだわりは相当なものです。

『京平ディスコナイト~筒美京平リミックス~』京平ディスコナイト~筒美京平リミックス~

2008年6月28日 (土)

集合住宅デモクラシー―新たなコミュニティ・ガバナンスのかたち

■ 書籍情報

集合住宅デモクラシー―新たなコミュニティ・ガバナンスのかたち   【集合住宅デモクラシー―新たなコミュニティ・ガバナンスのかたち】(#1255)

  竹井 隆人
  価格: ¥1995 (税込)
  世界思想社(2005/07)

 本書は、「集合住宅を基点とする政治学研究」の重要性や可能性についてまとめたものです。
 著者は、本書で訴えたい点として、
(1)住宅は人間にとって生活の基盤であり地域政治との接点となるにもかかわらず、これまで政治的思考の対象とならなかったことに対して、住宅の中でもとりわけ集合住宅については、そこに居住する人間同士のかかわりが不可欠な場であることから、政治学の視点から看過すべきでない重要性を有するということ。
(2)究極の地方分権として、集合住宅における住民自治に注目することが、わが国民に巣くう貧弱な政治意識を変革する一助たりうるということ。
(3)政治学研究は一般の方々からは難解と思い込まれ敬遠されがちなことに対して抵抗を試みたい。
の3点を挙げています。
 序論「デモクラシーの模索」では、本書において、「集合住宅と政治がどういった点で結びつき、それを関連づけて思考することがなぜ重要なのか」を解明するとしています。
 そして、本書における「集合住宅」が、「共同住宅の定義とはやや異なる、いわば共同所有及び管理を前提とした多世帯住宅」であると述べ、こうした「集合住宅」には、「民主的政治的システムを伴なった住民自治組織の存在が前提となっている」として、「アメリカではこの住民自治組織が、ある局面では明確に『政府』、とりわけ公的政府と対比する意味での『私的政府(プライベート・ガバメント)』としてとらえられている」と述べています。
 また、「集合住宅における私的政府も多様な統治機関のひとつであることに着目すれば、これまでの既存政府との関わり合いを含めた『マクロ・ポリティクス』にも影響を及ぼしうること」を指摘したいとしています。
 第1章「私的政府によるプライベートピア」では、アメリカの郊外の戸建住宅群を中心として形成される居住区について、「広場、公園、街路はもちろんのこと、時には遊歩道、湖沼、丘陵、テニスコート、プール、ゴルフコース等」にまで及ぶ「コモン」について、「CID(Common Interest Developement)」と称され、「わが国では、このCIDの視覚的あるいは物理的な観点から、ある種の憧憬にも似た、いたずらに礼讃する向きが見受けられる」が、「CID体制()CID regeme)」が、「わが国とは著しく相違する法律や金融の諸制度を含めた社会構造に立脚する」とともに、「その背景にはアメリカにおける政治意識、あるいは民主主義の成熟に負うところも大きい」と指摘しています。
 そして、「CID体制」の前提となる「CIDの権利態様」について、「その集合住宅のうち個人が特定の住宅を所有、利用する一方で、共用領域であるコモンは居住者全員が共同で所有、利用することが原則となる」が、「個別の住宅やコモンを所有、利用するための権利態様」については、
(1)コンドミニアム
(2)PUD
(3)コウオプ
(4)コミュニティ・アパートメント
の4つに類型化できるとしています。
 第2章「プライベートピアの課題」では、プライベートピアが、「田園都市に物理的には相似して、郊外で緑に囲まれた都市として存在するものの、制限約款によって『望ましくない隣人』を排除し、白人の中流以上の階層に限定されたユートピアと成り果ててしまった」ため、「富裕層が社会全体の利益の増進を図り経済的公正さを追及する責任を放棄し、過密都市を置き捨てにした帰結」として批判されていることを紹介しています。
 第4章「保安の探求」では、アメリカで、1980年代以降の犯罪の増加に伴ない、「より簡便に保安(セキュリティ)心理を満たすことが求められた」として、「CIDでももっとも先鋭化した形態、すなわち居住区全体を外壁で囲い込み、いわば要塞化する『ゲーテッド・コミュニティ(gated community)』と呼称される居住区が登場し、見る間に急増していった」と述べ、その数は、全米で約2万箇所、約800万人が居住しているとして、「そのうちの3分の1が富裕層のための高級居住区であり、もう3分の1は退職者向けで、さらに残りの3分の1は中流階層向け」であると述べています。
 著者は、「わが国の戸建住宅団地において『制限』の受容や私的政府の存立を阻んできたのは『当事者意識』の欠如であり、『お上』への依存心でもある」と指摘し、「自分たちで管制(コントロール)することを厭い、他律を好む傾向はわが国の『お上』意識に通じている。居住区という自らの領域内にある街路や公園等を、各個人とは別ものの『お上』の所有物と捉えてしまえば、あとはまったく関わらなくて済むという意識である」と述べています。
 第5章「もう一つの集合住宅」では、「コウオプの利用上の制限において注目すべき」点として、「市場価格で自由に売買できるコンドミニアムに比べると、売買が厳しく制限される点」を指摘し、「富裕層向けの高級コウオプでは人種、社会階層、収入等の同質性と社会的ステイタスとの保持のため、売買の対象者が厳しく制限される」と述べ、「とくに高級コウオプの場合には、居住者は入退居(株式の売買)の際に、理事会による入居審査を経て承認を得ることが必須であり、入居を希望する際は有力者から推薦状をとっておくことが無難とさえいわれている」と解説しています。
 そして、わが国におけるコーポラティブ方式について、「その発端が分譲マンションへのアンチテーゼだったものの、その基調をなす区分所有制という法的構成は否定されずにむしろその亜流として存立してきた」ため、「このようなわが国の代物は、アメリカでの概念からすればコウオプではなく、単なるコンドミニアムとして整理されるのみである」と指摘しています。
 第6章「コミュニティからガバナンスへ」では、「もて囃される傾向にある」、わが国における「サステイナブル・コミュニティ」の紹介の仕方に欠落しているものとして、「この居住区を成立させるソフト面の要素」を挙げ、「サステイナブル・コミュニティはこれまで述べてきたCID(コモンを有する居住区)の明らかに延長線上にある」と述べ、「サステナブル・コミュニティとみなされる集合住宅は、同時にゲーテッド・コミュニティである場合も多い」ことを指摘しています。
 著者は、「かつての職住いったいの村落共同体にも通じる復古的で情念的なコミュニティとは異なり、職住が一体でない人間関係の希薄な都市社会においても通用するコミュニティとは何だろうか」という問題について、パットナムが、「社会関係資本(ソーシャル・キャピタル)」として重視した「規範(ノーム)」を挙げ、「個々人の権利や自由は大切に扱うものの、集団として確保すべき利益に沿うために個々人の自由や権利をどこまで『制限』するか合意するのが現代の自由民主性を前提とする政治なのである」と述べ、「この『制限』について合意するための政治過程には個人の『参加』が求められ、それは個人主義が進展し、人間同士の紐帯が減退してきた現代社会ではますます重要性を増している」と主張しています。
 第7章「集合住宅と『公共性』」では、「集合住宅に『公共性』が備わる可能性があるとするならば、そこでの私的政府の存立は『マクロ・ポリティクス』において退嬰しつつある自由民主制を挽回させる切り札足りうる」と述べています。
 そして、「まずは集合住宅の民主主義的な統治(ガバナンス)をとおして『自立化』が養われることで、より大きな課題(国防、福祉、経済政策など)に対処すべき国家や地方公共団体の集団的意思決定へ参加する市民としての成熟を育む」と述べています。
 結語「集合住宅からデモクラシーを考える」では、わが国で、「その欧米で台頭してきた背景を抜きにして共同体主義(コミュニタリアニズム)や社会関係資本(ソーシャル・キャピタル)など言説を無闇に取り入れんとする向きのあること」を「いささか滑稽にさえ思う」と述べています。
 著者は、「集合住宅における『制限』を前提とした私的政府の成立こそが、都市政治の未来を拓く端緒になると信じている」という言葉で本書を結んでいます。
 本書は、日本では「民主主義」という言葉と直ちに結びついてイメージされにくい「集合住宅」における「民主主義」重要性を指摘した一冊です。


■ 個人的な視点から

 2007年に出版され話題になった『集合住宅と日本人』と基本的なテーマは共通していますが、あとから出たほうが、より読みやすく、整理されたかたちで再編集されたもののように感じます。
 かといって、本書の方が、学術的な掘り下げが深いかと言えば、それほどの学術的な方向に傾斜しているわけでもなく、言ってみれば、『集合住宅と日本人』の習作的な位置づけなのかもしれません。
 しかし、同じテーマについて、同じ著者が書いたものを複数読むことは、著者の主張により近づくことができますので、『集合住宅と日本人』を読んで、もっと深く知りたいと思った人にはお奨めできます。


■ どんな人にオススメ?

・「集合住宅」と「民主主義」が結びつかない人。


■ 関連しそうな本

 竹井 隆人 『集合住宅と日本人―新たな「共同性」を求めて』 2008年06月13日
 エドワード・J. ブレークリー, メーリー・ゲイル スナイダー (著), 竹井 隆人 (翻訳) 『ゲーテッド・コミュニティ―米国の要塞都市』
 エヴァン マッケンジー (著), 竹井 隆人, 梶浦 恒男 (翻訳) 『プライベートピア―集合住宅による私的政府の誕生』
 ジグムント バウマン (著), 奥井 智之 (翻訳) 『コミュニティ 安全と自由の戦場』 2008年01月12日
 山岡 淳一郎 『あなたのマンションが廃墟になる日――建て替えにひそむ危険な落とし穴』 2008年06月02日
  『』


■ 百夜百音

アクマイザー3【アクマイザー3】 水木一郎 オリジナル盤発売: 1975

 「アニキ」の熱唱が冴えるばかりでなく、鬼のようなベースもたまらない曲。当時のテレビのスピーカーではきっとほとんど聞こえなかったんじゃないかと思いますが。

『水木一郎 ベスト・オブ・アニキング-赤の魂-』水木一郎 ベスト・オブ・アニキング-赤の魂-

2008年6月27日 (金)

漁民の世界 「海洋性」で見る日本

■ 書籍情報

漁民の世界 「海洋性」で見る日本   【漁民の世界 「海洋性」で見る日本】(#1254)

  野地 恒有
  価格: ¥1575 (税込)
  講談社(2008/5/9)

 本書は、「日本文化は海を核心とするという特質をとらえた言葉」、あるいは「海を核心として日本をとらえる社会や文化の見方を表す言葉」である「海洋性」について、解説しているものです。著者は、海洋性を、「海辺だけの問題ではなく、内陸を含めた日本列島全体の問題である」と述べています。
 第1章「海洋性とは何か」では、「海や漁業と日本文化の『内面的連関』に対して『海洋性』と言ったのは渋沢が最初であろう」として、自宅で「アチックミューゼアムと称する私設研究所を主宰して、民具を集めたり、民俗調査をおこなって報告書を刊行したりして、多くの研究者を育成した」渋沢栄一の孫、渋沢敬三が、「民俗学や漁業史件急にも大きな功績を残した」と述べています。そして、「『魚類は衆庶の脳裏に深く浸み込んで』おり、『わが国民性と漁業との間に想像以上の内面的連関』があり、それは『日本人の生活と密接不離』である。『極めて日本的のものの一つ』となっている日本文化の『海洋性』という観点から『日本民族と水産』の関係を歴史的に検討しなければならない」と述べています。
 また、「海からの移住者」が、「島が追々と主陸につながってきたように、人と土地の因縁も、常に内の方へばかり伸びていく』のが『習い』なのだ」として、「『内に向って平原の統一』に進む海島民族としての成長の方向は『島国の古今を一貫』している」として、「島の歴史である海島民族の成長は、同時に、島国に本の歴史なのである」と述べています。
 そして、「日本人の多くが海に背を向けた生活を続けて来た。海辺には農村ともいうべき村のほうが多くみられる」が、「その一方で、祭りや祝い事などに海産物を供物や贈答品として用いたり、浄めとして塩や潮を用いる習慣は海辺だけでなく日本全体に広く見られる」として、「われわれの心のうちに『潮の濃さ』を感じ取ることができる」と述べ、「日本文化には海のものを不可欠とする『海洋性』の伝統が見出されるのである」と述べています。
 さらに、「民俗学が生んだ最高のフィールドワーカー」である宮本常一が「話の聞き方を教えられた」と言わしめた相手である桜田勝徳が、西伊豆町仁科でであった盲目の老人から聞き取った話として、「明治時代に仁科から三重県熊野灘方面へ出漁していたとき、出漁先で滞在中のめんどうをみてくれた女性のこと」について、「その女性はヒメと呼ばれた。ヒメとは遊女のことである」と述べ、桜田の調査ノートから、「マグロ延縄漁の船方は出漁先で4ヶ月間、農家の一室を宿として借りて滞在した。船方は宿でヒメと生活した。ヒメになるのは、出漁先の土地に住んでいるふつうの女性だった。自分の家に娘がいないと養女をとってまでもヒメをやらせることもあった。ヒメは世話女房のようで情が深かった。ヒメとの間に子どもができてヒメの家の婿になる者もいた。ヒメは世帯にかかる金以外に金銭を要求することはなかった。帰郷するときにはお礼に少し金を与える程度で、不漁の年などは金はいらないというヒメもいた。それでも船方は残った金をおいて帰っていった」という話を紹介しています。
 著者は、「海洋性の研究とは、内陸にも存在する海に由来し関係する民俗事象を海洋的要素として取り出して、それをならべていくことではない」として、「ボーリングという基礎作業によって出てきた具体的な事例群を通して、海洋性という特徴がどのような仕組みで維持され形成されているか、あるいはどのような社会や文化の形や論理が抽きだせるかを追求しなければならない」と述べています。
 第2章「地先沿岸漁村という世界」では、著者が、「第二次世界大戦前の地先沿岸漁村の伝統的な生活をとらえるため」に、「毎年決められたように、村の近くの海に群れをなしてやってくる回遊魚」である、「寄り魚の漁に携わる人々とその村に注目した」と述べ、「地先沿岸漁村の伝統は、寄り魚漁の中で形成され、寄り魚漁の崩壊の中で再編され変化してきたといえる」と解説しています。
 そして、「魚群がきたとなれば、何をしていても、すぐに村人たちが走り集まり、所定の持ち場につき、漁獲の体制に入った。これが寄り魚漁である。船・網・漁具の提供や管理の仕方、漁労組織や役割分担、命令指揮の伝達方法、漁獲物の分配方法、漁場の利用方法、行事や儀礼などが事細かに決められていた」として、「寄り魚漁のような集団的・組織的な漁業は江戸時代には完成し、その形は1940年代までみられた」と解説しています。
 著者は、寄り魚漁の特徴として、
(1)村の経済を支える漁業であるということ。
(2)漁の運営が村落によって管理されていたということ。
(3)寄り魚漁の祭りが一部の漁業従事者の祭りではなく、村落を単位として行われていた。
の3点を挙げ、「半農半漁というのは、農業と漁業の割合が50パーセント・50パーセントということではなく、農業をしたり漁業をしたり、また他のことをしたりという意味」であり、「半農半漁の生活の社会的な中心となるなりわいが、農業、しかも稲作になるとは限らないのだ」と述べています。
 また、漁村には、「よその土地から幼少年者をもらい受けてきて自分の家の漁師として養成すること」である「もらい子」という慣習があり、「村落で管理されていた共同漁(寄り魚漁)の場合、その構成メンバーは、漁業に労力を出す責任を負っている。共同漁に参加できる一人前の者を確保するために、また、共同の利益配当を受けるために、もらい子がおこなわれた」と解説しています。そして、「地先沿岸漁村は外来者を取り入れることにより維持される側面をもつ。漁村社会には外来者を取り込む柔軟性があるといえる」と述べ、「漁村に足を踏み入れたときに感ずる町のような雰囲気は、この外来者を取り込む柔軟性に由来するものであろう」と解説しています。
 第3章「海を求めた日本人」では、「田植えに海の魚を食べた」理由として、「民俗学では、田植え魚は忌み明けのしるしという柳田国男の解釈がとられ、ほぼ定説化している」と述べたうえで、柳田が、「稲の祭りの中心に山から迎える田の神信仰を位置づけ」、「田植えの祭りで海の魚が用いられるのは、仏教を前提として副次的に形成されたもの」であるとしたのに対し、「民俗学を支える一つの柱を築いた人」である折口信夫が、「稲の祭りの中心に海の信仰を位置づけた」と述べています。
 そして、「海の魚で祝うのは田植えのときだけでなく、年中行事の中でもっとも大切なときである正月や盆にも見られる」として、「折口論の延長でいえば、盆や正月の魚食も、禊ぎをついだしるしと解釈される」と述べています。
 著者は、「正月や祝いに用いられる魚は、まず、海のものであることが大事であり、その種類まで拘束されることはなかったろう」として、「その地域に大量に供給される魚が、そのときのその地域の魚として決まってくる。やがて、その種類の魚でなくては祝ったような気がしなくなるまでになるのである」と解説しています。
 第4章「地先沿岸漁村の交流のかたち」では、「土地の人と旅の人を対比的にあらわした言葉」として、「ハエツキ」(生え付き)と、「キタリド」(来り人)という言葉を取り上げ、「キタリドを、何かをもたらした者として説明のために登場させるのをやめなければならない。ハエツキだけから成る村があり、そこへキタリドが何かを持ってやってきて伝えるという交流のワンパターンなとらえ方を捨て去ろう」と述べ、「ハエツキとキタリドによってどのように生活が成り立っているかという交流のかたちこそ、第一の問題として設定しなければならない」と主張しています。
 第5章「出漁漁民の移住集落という世界」では、「明治時代以降、日本沿岸で漁業活動を通じて行われた移住」として、「長崎県海域から朝鮮半島沿岸における底引き網漁や一本釣り漁の漁民の動き、太平洋沿岸におけるカツオ釣りやマグロ延縄漁の漁民の動き、北海道のニシン漁場における日本各地の漁民の動き、日本海沿岸漁民のイカ釣り漁による下北半島周辺海域への動き、沖縄糸満漁民の追い込み網漁による日本沿岸各地への動き」等を挙げ、「こういった移住地域で行われた許可漁業や自由漁業がどのような形で行われたのか、移住先で展開する漁業(移住漁業)をみていこう」としています。
 そして、「漁撈技術を専一化させることによって年間の生計を立てられるということは、移住漁民が移住先の生活を支えていく漁業の形としては合理的である」とした上で、「専一性は移住地域で形成される漁業の形を示す特徴である」が、「それは同時に、ずっと済み続けていこうとする定住生活を断絶させる移住地域のもろさをあらわしている」として、「専一的に漁業を行うということは、移動を引き起こすことにもなる特徴である」と述べています。
 また、移住漁民が、「移住先に出身地の生活を再現しようとするのではなく、また、現地にとけ込もうとはするが、移住先に同化されるのでもない。移住先の地元の人々との交流を通して、得意技を生かして、そこに自らのポジションを作り上げていく。それが移住先に作られる第二のふるさとにおける彼らの土着的でない、海洋的な姿である」と述べた上で、「定住とはずっとそこに住み続けるという意味だけではない。移住漁民に見られる定住の論理は、ずっと住み続けなければならないという堅固な定住の生き方とは異なる、住み続けて入るがひょっとするといつかは移動するかもしれないという、ゆるやかな定住の生き方である」と述べています。
 終章「日本文化の基層としての『海洋性』」では、「海洋性とは、日本が豊かな海に囲まれ抱かれることによって、そしてそこに住む人々が海を意識することによって、歴史的に後天的に育まれてきた性格である」と述べ、海洋性は、「地域漁業の実態と海産物消費の習俗との相互関係によって作り出され支えられてきた特徴」であり、「海洋性とは海から来るものとのの交流や交換によって維持され活性化されてきた社会や文化の特徴であり、そこから抽きだされた仕組みや論理のことである」と述べています。
 また、「海洋性から抽きだされたゆるやかな定住に共通する特徴」として、「漁撈技術の専一性」を挙げた上で、「日本列島社会は多様である。しかし、それは定住民と漂泊民からなるからではない。定住社会に本源的なゆるやかさが多様なのである。ゆるやかさをもたらす本質的な違いが、定住社会の内実を多元的にしているのである」と述べています。
 本書は、「漁民の世界」というタイトルとは裏腹に、内陸も含めた日本社会がもつ多様性に、「海洋性」というキーワードで切り込んだ一冊です。


■ 個人的な視点から

 実家が海のそばだったので、生活の中に海があるのは自然なことだと思っていましたが、それは海の近くに限らず、海から離れた内陸にあっても、海や塩、魚が重要な意味をもっている、というのは新鮮でした。


■ どんな人にオススメ?

・海を見ると安心する人。


■ 関連しそうな本

 宮本 常一 『忘れられた日本人』 2006年06月25日
 イザベラ バード (著), 高梨 健吉 (翻訳) 『日本奥地紀行』 2006年08月06日
 宮本 常一 『旅の民俗学』 2008年03月02日
 佐野 真一 『旅する巨人―宮本常一と渋沢敬三』
 宮本 常一 『日本の村・海をひらいた人々』


■ 百夜百マンガ

地獄甲子園【地獄甲子園 】

 世の中には色々な地獄がありますが、メジャー誌でこの人の担当編集者っていうのも結構な地獄のような気がします。結構吹っ切れて面白いのかもしれませんが。

2008年6月26日 (木)

新版 霊柩車の誕生

■ 書籍情報

新版 霊柩車の誕生   【新版 霊柩車の誕生】(#1253)

  井上 章一
  価格: ¥1260 (税込)
  朝日新聞社新版 (1990/05)

 本書は、霊柩車について、
(1)霊柩車はいつごろどこで使用されるようになったのか。
(2)どのような経緯と背景のもとに霊柩車が生み出されていったのか。
(3)そのそもなぜあのようなデザインの車がつくりだされたのか。
の3点を解き明かそうとしたものです。
 第1章「キッチュの意匠」では、「日本で霊柩自動車が初めて運転されたのは、大正時代の前半期である」として、大坂では大正4年に、葬儀業者の鈴木勇太郎によって考案されたことなどを解説しています。
 そして、その種類は、現代では、
(1)バス型:バスを改造して霊柩を安置できるようにした車。
(2)寝台型:乗用寝台自動車を遺体輸送用に転用したもの。
(3)宮型:荷台部分が伝統的な和風建築のスタイルで形作られ、屋根には唐破風がかけられている。
の3種類の大別できるとしています。
 また、宮型霊柩車が、「なぜあのような格好をしているのか、どうして神社仏閣を連想させるようなスタイルになっているのか」という点について、「輿(こし)がそのまま自動車に転用されて現在の宮型霊柩車の原型になった、と考えるのが自然なように思われる」と述べ、「一度使用すればそれっきりの道具」であった輿に比べ、「何度も使う」ため、「装飾模様や彫刻類に精をこらすことができた。何年も使用することで、工芸面に贅をつくすことが可能となった」のではないかと述べています。
 著者は、宮型霊柩車が、「文化のエリートたちには嫌われていたが、大衆の目にはこのうえなくすばらしいものとうつった」として、「エリートが反感を示し、大衆が喜ぶ」という「二極構造を持っていた」と解説しています。
 そして、「宮型霊柩車はキッチュの造形である。寄せ集めのデザインである。形態の扱いに自覚的な操作意識はない。いわゆる芸術上のオリジナリティも欠如している」として、「芸術誌叙述の対象になりうるものではない」と述べ、同じくキッチュである「擬洋風建築は高く評価されるのに、宮型霊柩車はなぜ黙殺されるのか」という問題について、
・擬洋風建築がすでに滅んでしまったということ。
・「無名の市井の人々」が支えた意匠を、「一握りのエリート建築家」たちが圧殺してしまったというエリートたちの反省。
等の点を挙げています。
 第2章「明治時代の葬送」では、山本有三の小説『路傍の石』のなかに、「都市の葬送風俗を考えるうえで、大変参考になる場面が出てくる」として、「おともらいのおきよ」という「おともらいかせぎの老婆」を取り上げ、「このころには、葬式にたかるだけで生活ができた」と述べています。
 そして、「葬送にむらがるひとたちの要求をいれ『引きもの』を与えることは、喪主にとってかなりの負担だった」として、「貧民たちがむらがる葬送は、たいへん高くついた」と述べています。
 また、「葬儀屋の変化が、葬列を大きく変えていった」として、「葬儀の一切を請け負うサーヴィス業」が、明治20年ごろに成立したと述べ、「このときを境に、葬儀サーヴィス業の体質が変わった」として、「昔の棺屋は発達して葬儀社とな」り、「葬具類を安く貸し始めたので、今までと同じ費用でより多くの葬具類を借りることができる」になったため、「葬儀を盛にし易く」、「豪華を衒う風」も「盛とな」ったと解説しています。
 さらに、「旧幕時代の大名行列と維新後の葬列の間には、密接なつながりがある」として、葬儀社が「大名行列の奴たちを吸収した」ことで、「大名行列という伝統芸能は、明治以後も生き延びることができた」として、「『奴の行列』という特殊な芸能は、葬列の中に保存された」と解説し、現在でも、「大坂の神社には、祭礼に大名行列をくりだすところがある」として、「葬儀社は、現在に至るまでこの伝統芸能を保存しているということになる」と述べています。
 そして、「肥大した葬列は、『ゴロゴロ』して暮らす人夫たちの生活を支えることができた。また、『煙草屋、八百屋』などの生業をいとなむひとびとも、ここからの収入をあてにすることができた。つまり、葬列の執行者たちは、それだけぶんの雇用賃金を支払っているのである。巨大な消費といわねばならないだろう」と述べています。
 しかし、「大正時代に入れば、葬列のありようは一変する。明治に特徴的な葬送風景は一掃される」と述べています。
 第3章「霊柩車の誕生」では、大正時代になると、「葬列を廃止するケース、あるいは、夜間の密葬にするケースがふえてくる」様子を解説しています。
 そして、人力車、乗合馬車、鉄道馬車などの交通機関が、「時代がさがるにつれて路上に大きく進出するように」なり、「しだいに歩行者を圧迫しだし、路上がたくさん混雑するようになってきた」結果、「葬列などの行列は、道路上では行いにくくなってきた。ものものしい葬列は、混雑しだした路上では迷惑な存在になっていたのである」と述べています。そのうえ、「交通機関の近代化は、葬列行列を寸断させただけではない。徒歩の人々に便利な足をあたえ、葬列そのものを消滅させていった」と述べています。
 また、「まだまだ自動車は高級品」であったこのころ、「霊柩車も最初は上層階級の人々が使い出したのではないか、と想像されがち」だが、「事実はそうではない。霊柩自動車は、基本的には『経費の節約』を目指したものであった。葬列を組んで練り歩くより、自動車の方がはるかに安くついた」と解説しています。
 さらに、「葬列への未練が、かなりあとまで残っていた」として、「葬送は自動車で行う。しかし、旧来の葬列にも未練がある。だから『旧式を新式とを、混合』した葬送をのぞむ。遺体は霊柩自動車で運ぶが、途中はしずしずと葬列のように『徐行』する。そして『旗、提灯、樒(しきみ)、杯」などを配し、葬列風に火葬場までいくというのである。葬列への執着心は明らかである」と述べています。
 また、「明治時代の葬列には、数多くの野道具が連なった」が、自動車の出現によって、その存在が宙に浮いてしまったとして、「こうして宙にただよいだした野道具が、自動車の周りに吸い寄せられたのではないか。持ち場をはなれ浮遊しだした野道具が、自動車の周囲に集まっていったのではないか」と述べ、「宮型霊柩車の意匠は、以上のような経過をたどって形成されたものと思われる」と解説しています。
 本書は、霊柩車を入口に、明治の葬列の姿を現代に伝えてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 なぜだか、霊柩車を見たら親指を隠せ、とか、朝霊柩車を見ると縁起がいい、とかいう話を聞いたことがありますが、こういう迷信の類も、そのルーツである葬列にたどり着いたりできるのでしょうか。調べたら面白そうです。


■ どんな人にオススメ?

・霊柩車の不思議な意匠に惹かれる人。


■ 関連しそうな本

 井上 章一 『愛の空間』 2008年05月06日
 井上 章一 『つくられた桂離宮神話』
 井上 章一 『パンツが見える。―羞恥心の現代史』
 井上 章一 『美人論』
 井上 章一 『関西人の正体』
 松原 岩五郎 『最暗黒の東京』 2006年07月31日


■ 百夜百マンガ

忍たま乱太郎【忍たま乱太郎 】

 そういえば16号沿いに「にんたまラーメン」の看板を見かけますが、この作品とはきっと関係ないのではないかと思います。

2008年6月25日 (水)

入札関連犯罪の理論と実務

■ 書籍情報

入札関連犯罪の理論と実務   【入札関連犯罪の理論と実務】(#1252)

  郷原 信郎
  価格: ¥2310 (税込)
  東京法令出版株式会社(2006/2/17)

 本書は、談合罪に関して、その「解釈をめぐって対立が続いている間に、わが国の公共調達については、恒常的かつ継続的な談合によって受注者が決定される非公式の『談合システム』が次第に定着していき、その一部の行為だけを切り取って処罰することが困難な状況に」なったなかで、
(1)競売入札妨害罪のうち入札に関する犯罪である談合罪及び入札妨害罪についての解釈上の問題を整理、検討すること。
(2)その背景となっている制度的、社会的問題などを分析すること。
(3)操作実務および立証に関する実務上の問題を検討すること。
等を目的としたものです。
 第1編「序論」では、わが国において、「明治22(1889)年に契約制度が法律上確立して以来、一貫して一般競争が原則とされてきたが、現実には、その時々の社会経済情勢に応じて指名競争、随意契約という例外的措置を取りうる範囲が拡大され、公共調達の運用の実態としても、むしろ一般競争の方が例外的といえるような状況が続いていた」が、欧米諸国との経済摩擦の激化や、「ゼネコン汚職事件」の摘発などにより、平成6年1月18日に「公共事業の入札・契約手続きの改善に関する行動計画」が閣議了解され「それまでほとんど指名競争入札方式で行われていたわが国の公共工事の発注は一般競争入札方式採用の方向への大きな変革を迎えることとなった」と解説しています。
 第2編「競売入札妨害罪の構成要件とその解釈」では、「公正なる価格」の解釈について、昭和19年大審院判決から振り返った上で、「『公正なる価格』の意義については、学説上も『競争価格説』と『利潤価格説』とが対立している」と述べ、「最高裁判例が採っている『競争価格説』が通説であるが、『利潤価格説』も有力に主張されている」と解説しています。
 そして、「不正の利益を得る目的」について、「当該談合行為との関係において談合行為者がその利益を獲得しようとすることに社会通念上悪質性が認められるか否かという観点から判断されることとなる」として、
(1)利益の学
(2)利益獲得と当該談合との対価関係の直接性
(3)利益の正確
の3点が、判断基準として考えられると述べ、「『不正の利益を得る目的』が認められるか否かは、上記(1)ないし(3)を総合的に考慮して判断をすべきである」と述べています。
 また、入札妨害罪と談合との関係について、
(1)入札参加舎監で談合が行われず、自由競争で入札が行われる場合に、一部の入札参加者が他の入札参加者の、意思を抑圧し、または錯誤・不知に陥れる形態。
(2)談合を成立させるためには、談合に加わらない入札参加者を威迫して談合に加わるよう強要したり、談合に応じないものが入札に参加できないように、入札指名から排除するようにしたりする行為。
(3)談合が成立していることを前提に落札者に利益を得させるための行為。
の3通りがあると述べています。
 さらに、談合への入札施行者側の関与について、「受注者が業者間の談合によって決定されていることを黙認している場合も多く、それにとどまらず、積極的に談合による受注者の決定を示唆したり、談合による受注に協力するような行為を行なう場合もある」として、「このような発注者側の行為も、入札参加者の談合行為と同様に『公の入札の公正』を害するものである」と述べています。そして、入札施行者側の関与と犯罪の成立について、
(1)談合への直接の関与
(2)特定の者を落札させることについての示唆
(3)談合による受注予定者決定および落札への協力行為
(4)談合による落札者の利益を増加させる行為
の4つの類型の行為について、「入札施行者側にいかなる犯罪が成立するか」を検討しています。
 第3編「公共調達をめぐる談合システムの構造と歴史的経過」では、「談合行為そのものを、『反社会的・反道徳的行為』としての一般的な刑法犯と同様の犯罪行為として取り扱うことの困難性の最大の要因」について、「戦後長らく、公共調達に関する業務に関わるものの多くが、談合行為そのものか、それを前提とする業務に関わりを持ってきた」という実情をあげています。
 そして、いわゆる「大津判決」が、「公共調達をめぐる談合のシステムに、談合罪の解釈という面から法的な『お墨付き』を与え、その後、公共調達をめぐる談合システムをいっそう磐石なものとすることになった」と述べ、捜査機関の側も、「業者間の話し合いによる受注予定者決定という『業界内民主主義』的な談合は、むしろ、過去にあったような談合専業者や暴力団等の介在する談合と比較すれば、犯罪としての悪性の低い談合であり、処罰価値がないとの認識が広がっていった」結果、捜査機関と公共工事受注業者の間に、「談合金の授受を伴なうような談合ではないかぎり、談合罪による摘発は行わない」との「暗黙の了解のようなもの」まで生じたと解説しています。
 しかし、日米構造協議における、アメリカ側の日本の独禁法運用強化の要求を受け、「入札談合は、独禁法の適用対象として極めて大きなウェイトを占めツようになり、「談合に対する批判の高まり、公取委の談合に対する独禁法適用の効果等によって以前のように建設業協会などの場で公然と談合を行うことはできなくなり、親睦団体などの場で秘密裏に談合を行なう形態に変化していったが、そのような親睦団体も、独禁法違反による摘発が相次いだことで解散を余儀なくされた」と解説しています。
 そして、「談合システム」も、「かつてのような業者間における話し合いを中心とする『業界内民主主義』的なものから、発注者と受注者の癒着・腐敗を伴なう『天の声』が他の談合や業者間の利益配分を伴なう形態の談合に移行し、刑事事件としては悪質化の方向に向かっていると思われるにもかかわらず、刑事処罰による談合抑止はほとんど行われてこなかった」ことを指摘しています。
 第4編「競売入札妨害罪の捜査実務上の問題と検討」では、談合罪による摘発件数が極めて少なく、「同罪の捜査が積極的に行われてきたとは言い難かった」理由として、「捜査機関の側に『公正なる価格を害する目的』についての立証が困難であるか、可能であっても大きな負担になるとの認識が捜査機関側にあったこと」を指摘しています。
 そして、従来の検察官の「公正なる価格を害する目的」についての立証が、「確立した判例となっている競争価格説の観点というより、むしろ、利潤価格説に十分に配慮した立証が行われてきたというのが実情であった」と述べています。
 一方で、最近の裁判例における「公正なる価格を害する目的」の認定が、「自由競争が行われた場合の落札価格の推定に主眼がおかれ、それが『適正な利潤』を含むものか否かは、さほど問題にされていない」として、「最高裁判例の『競争価格説』の考え方をいっそう徹底したもの」だと解説しています。
 特別補講「経済事犯の動向と犯罪捜査の実務」では、「一般の犯罪と経済事犯に対する対応の違い」の原因である、「経済事犯の犯罪としての特質」について、
(1)反道徳性・非倫理性が希薄
(2)目的・動機の合理性
(3)記録化の必然性
の3点を挙げています。
 また、贈収賄についての要素として、
(1)賄賂の授受
(2)職務権限との関連性
(3)便宜供与
の3点を挙げています。
 本書は、入札関連犯罪の捜査に関わる人間にとっては、取り締まる側にとっても、取り締まられる側にとっても、わかりやすく解説してくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 もともとは取り締まる方にとっての実用書のはずの本書ですが、立証までのロジックを赤裸々に解説した本書は、取り締まられる側にとっても「実用書」になってしまうのではないかと勘ぐってしまいます。


■ どんな人にオススメ?

・入札に色々と携わっている人。


■ 関連しそうな本

 鬼島 紘一 『「談合業務課」 現場から見た官民癒着』 2006年03月15日
 桑原 耕司 『談合破り!―役人支配と決別、命がけの攻防記』 2007年09月25日
 桑原 耕司 『「良い建築を安く」は実現できる!―建築コストを20%も削減するCM方式』 2006年04月12日
 桑原 耕司 『公共事業を、内側から変えてみた』 2006年02月22日
 DANGOを考える会 『談合がなくなる―生まれ変わる建設産業』 2007年05月22日
 ベンジャミン・フルフォード 『ヤクザ・リセッション さらに失われる10年』 2006年02月18日


■ 百夜百マンガ

黄昏流星群【黄昏流星群 】

 島耕作は社長になってしまいましたが、黄昏るまでにはまだバリバリに活躍するのでしょうか。

2008年6月24日 (火)

なぜ、改革は必ず失敗するのか-自治体の「経営」を診断する

■ 書籍情報

なぜ、改革は必ず失敗するのか-自治体の「経営」を診断する   【なぜ、改革は必ず失敗するのか-自治体の「経営」を診断する】(#1251)

  木下 敏之
  価格: ¥1995 (税込)
  WAVE出版(2008/6/16)

 本書は、前佐賀市長である著者が、「佐賀市役所の改革の一例とともに、その後の地方自治体経営の研究やビジネス経験で見えてきた、今後の自治体経営のあるべき方向」を描いたものです。著者は、本書執筆の動機について、「このままでは次世代に申し訳ない」、「今、自治体経営が大きく方向を変えていけば、多少は幸福な未来になるのではないか。そのために私たちはどうすればいいのだろうか」という気持ちから、書き始めたと語っています。
 第1部「ある自治体『経営者』の挑戦」、第1章「バブルの残滓を除去する」では、1999年に佐賀市長に当選した著者が、「何からはじめるべきか」という優先順位に悩んだ結果、
(1)採算性のない事業の廃止・縮小
(2)市役所の体質改革(人口減少と高齢化の時代に合わせた大幅行革と都市計画等の見直し)
(3)産業振興策と子育て支援、教育の充実
の3つの重点課題に、優先的に取り組むことにしたと述べ、結論として、「1期目の4年間は、(1)に重点を置き、2期目に、(2)と(3)について、最大限の努力をする、という大まかな方針」を立てたと述べています。
 第2章「経営刷新は人事からはじまる」では、給料では大した差がつかない役人は、「自分のポストがどうなるか」を非常に気にするため、「大部分の役人は、ポストでコントロールできる。つまり、人事がすべて」だと述べ、3月16日の就任直後の「4月1日人事を止める」という決断をした狙いについて、
(1)管理職は実力のある人だけに絞りたかったので、能力を見きわめる時間が欲しかった。
(2)人事権が誰にあるのか、それを職員に強烈に見せつけたかった。
の2点を挙げています。
 また、佐賀市役所では、人事評価が行われておらず、市役所内の色々な派閥、グループで人事が動いていた実態にメスを入れ、人事評価の基準を細かく作って評価制度を動かしたこと、そして、「職員の退職後の就職先として市役所が準備していたポストを大幅に削減し、そのポストを市民からの公募に切り替えるということ」をしたことを述べています。
 一方で、最初の助役「人事」をめぐっては、「守旧派にきれいにはめられて」しまったとして、選挙中から相談していた議員に呼ばれて割烹に行くと、「最大会派の保守系の人たちが何人も座っている」という席に座らされてしまった、という苦い経験を語り、「政治家は清濁を併せ飲まねばといわれますが、一度、清濁の『濁』を飲み込んでしまうと、『濁』のパワーに染まってしまうような気がして、これ以後も、どうしてもそのようにできませんでした」と語り、「『濁』を飲みながら軸足を『清』に置き続けるには、まだまだ修行が足りなかった」と述べています。
 第3章「経営効率化のための公共資産売却」では、市長就任後に、「何か象徴的なものを廃止しよう」と考え、「黒塗りの市長専用車・セルシオ」と、「職員が2人にアルバイトが配置され」、「これまで職員や議員が上京した際の休憩や便利な案内係として機能」していた東京事務所を廃止したと述べ、「現実には何も困ることはなかった」としています。
 また、不必要な資産の「民間売却の基本方針」として、
(1)市役所が行う必要のない事業は廃止する。
(2)市役所が行う必要がある事業であっても、極力、民間委託を検討する。
(3)市の職員が行った方がよい事業であっても、徹底した効率化を考える。
(4)困難なテーマであっても効果の大きなものから先に取り組む。
の4点を挙げ、佐賀市営のガス事業を民間に33億円で売却したが、市営バス事業は、著者が落選したために「いまも市営」だと述べています。
 第4章「談合体質と向き合う」では、公共事業の入札において、「ともかく談合を減らす工夫」をしてきたとして、岐阜県の希望社という建設会社と、「CM(コンストラクション・マネジメント)契約」を結び、小学校の改築プロジェクトを行ったと述べ、「入札の結果として落札率の低下にだけ関心を持つことは間違っている」こと、「価格と品質のバランスが重要で、それまでの安ければいいではないか、という認識の間違いに気づかされ」他と述べています。
 そして、「はじめに談合ありきの世界」である建設業の世界の問題以上に、「行政側に『いいものを安く作る』という発想がなかったことが問題」だと指摘しています。
 また、談合防止に手を尽くしていた著者に、「闇の勢力から圧力がかかってきた」経験として、「妻の父が2回襲われた」ことを明かし、「資格を厳しくすればするほど、業者が限られ、いわゆるブラックな勢力は入札に参加できなくなる」ことが、気に入らなかったために、「私ではなく、妻の父を襲った」のではないかと語っています。著者は、「改革を実行すればするほど、特定の人たちから大きな恨みを買うことに」なり、「改革派首長たちは、少なからず、何らかの嫌がらせを受け、家族、親族に迷惑をかけてしまう。それは悲しい事実です」と語っています。
 第5章「実を結んだ経営改革」では、11%の人員削減や談合防止の結果の落札率の低下(98%→91%)などのほか、「情報公開や住民参加も同時に積極的に推進」した結果、「日経行政革新度ランキング」で、2006年には全国10位、九州では1位にランキングされたことについて、「私が行った佐賀市の一連の改革が評価された」と述べています。
 第6章「市街地の活性化と産業振興対策」では、中心市街地が衰えた理由について、「もっとも大きな理由は、日本の都市計画」だとして、「政治的には農村部出身の議員の意見が強」いため、「郊外の開発の抑制」が非常に困難であること、「街中心部に集まっていた公共施設が、郊外に分散して立地してしまったこと」を指摘しています。
 著者は、日本政策投資銀行の藻谷浩介参事役との出会いをきっかけに、「拡散した市街地をもう一回コンパクトにしよう」という対策を打ち、「6000人の人に、町を歩かせよう」という具体的な目標の達成のためには、
・働く人を増やす
・住む人を増やす
・遊びに来る人を増やす
の3点を「同時並行で進めていかなければ」ならないと述べています。
 また、市長時代に、「自分自身にもっとも限界を感じた」こととして、「建設業に代わる産業をどうやって育てればいいのか?」という課題を挙げ、「長期的に日本の人口が減少し、高齢化が進む」なかで、「財政は悪化し、公共事業は減少」するので、「建設業の代わりに、どのような仕事で食べていくのか」が「地域最大の課題」であると述べています。そして、「傑出した産業はなく、今後、これから伸びていくという確信の持てる産業も」ないため、「いくつかの企業を応援してみて、そのうちどれかが成長するかもしれないという『雑木林』作戦をとること」にしたと述べています。さらに、2005年9月に小糸製作所の誘致に成功した決め手として、「市役所側の意思決定の早さが大きな要因だった」として、「企業側の工場進出の意思決定から現実の稼動開始までの期間がますます短くなってきている」なか、「そのスピードから遅れないように、市役所側の意思決定もできるだけ一日以内にするように」したと述べています。
 第7章「乗り越えられなかった壁」では、「県と市の関係では分権はなかなか進まないのが実態」だったとして、「佐賀市の職員は県庁に対しても上下意識を持つ傾向」があったことや、下水処理上建設の際に、ドイツで実用化されている「リンボーシステム」を、「現場を知らない県庁職員」は補助対象事業にすることに了解せず、「いろいろと『難癖』をつけてきた」が、「国の職員は技術論で了解すると、話は早」く、「県庁よりも国のほうが柔軟なことが多い」ことなどを挙げています。
 また、地方の人材不足について、その根底には、「地方の学校教育における、偏差値の高い大学に入学し、一流企業に就職するのが『人生の成功』という考え方がある」と述べ、「優秀な人材を都心に供出するだけで、地元には戻ってこない構造になっている」ことを指摘しています。
 「おわりに」では、2005年10月23日の選挙で著者が敗れた理由について、「行革に反対する社民党が候補を立て、そこに、公共工事が減り、談合もしにくくなった現状に不満な層が乗る。さらに公務員の既得権益保護の立場から、実質応援のため共産党は独自候補を立てない」という枠組みを理由として挙げています。
 そして、「既得権益を次から次にはがしていく」という「改革」の利益は、「特定の層に集まることはなく、薄く広く配分される」ため、「強力な味方」ができるはずがなく、一方で、「徐々に強力な反対票が形成されていくこと」を、「改革というものが本来的にかかえる厳しさ」だと述べています。
 第2部「自治体経営の未来へ」、第1章「夕張市財政破たんの教えるもの」では、夕張の道を自動車で走っていた著者が、「穴の開いた道路の補修のために、アスファルトの代わりに道路の穴に」銀色のビニール袋の土嚢が埋められているのを見て、「市役所が破産するということは、こういうことなのだ。それが身に染みてわかった」と語っています。
 そして、夕張市の人口推移や財政再建計画について解説した上で、「いま、いうことができるのは、財政の厳しいといわれている自治体の経営幹部や住民は、税収や人口の減少以上に、職員やサービスの削減をしなくてはならないということを、夕張の貴重な教訓として受け止めなければならない」と述べています。
 第2章「自治体『再生』はありえない」では、「これから先は、昔に戻す『再生』ではなく、人口構造の変化を前提として、新たにどのような地域を形成していくかを考えた対策を打たなくてはならない」として、「日本の人口構成の今後の変化を考えれば、『再生』という言葉はもはや使わない方がよい」と述べています。
 また、世の中では、「人口減少と少子高齢化」などと、「人口減少」「少子化」「高齢化」という3つの現象を、「ひとまとめにした表現」が多いことを、「問題を見誤らせる危惧を感じ」ると述べ、「これらはそれぞれ別の現象であり、その理由も対策も違う」として、
(1)人口減少はどのように進むのか
(2)働く世代の人口はどのように変化するのか
(3)高齢化はどのように進むのか
(4)少子化はどのように進むのか
という「基礎データを把握するのが、自治体経営を考える上での出発点」となると指摘しています。
 著者は、「市町村ごとに、どのように人口が推移するのかを住民に伝えていくことは自治体運営の基本」であるとして、「自助努力の必要性を理解してもらうためにも、予測をわかりやすく、かつ、何度も住民に伝えていかなければならない」と主張しています。
 第3章「首都圏に埋められた時限爆弾」では、「首都圏ではこれから急速に高齢化が進」むにもかかわらず、「各都道府県の人口一人当たりの老人福祉施設の数を比較する」と、「東京や神奈川等、首都圏の自治体の整備が、ほかの地域と比べどれだけ少ないかがおわかりになるのではない」かと指摘しています。
 第5章「自治体経営のコストカット」では、現在、省エネのベンチャー企業の経営に携わっている著者が、「ノウハウをうかつにしゃべるとすぐにマネされてしまう恐れがある」ことを「役所と違うな」と感じるのに対し、「役所の世界はまったく別」で、「無料でノウハウを提供してもらえるのに、また、他の自治体の優良事例が雑誌などで頻繁に掲載されるのに、まったくマネをしようとは」しないことを指摘し、「自分の自治体の将来を考えると、役所もマネをどんどんするべき」だと述べています。
 第6章「富を生み出す仕組みを作るために」では、1955年からの長期間のジニ係数の推移を見ると、「近年の各都道府県における一人当たりの県民所得の上位を占めるのは三大都市圏にある都府県で、下位県は地方圏にある県ですが、長期的に見ると、所得格差は縮小している」ことを指摘し、「これまで、何十年も地方に所得移転を続け、膨大な量の公共事業を実施してきたにもかかわらず、どうして多くの地方が自立できないのか。建設業以外の産業が育たないのか。その理由を分析しないままに地方に財源を移転し、公共事業を増やしたとしても、現状は何も変わ」らないと述べています。
 そして、地方の「本質的課題」として、「地方の『人材格差』の是正」を挙げ、「この問題に手をつけない限り、決して地方は豊かになることはありません」と述べた上で、
(1)首長・公務員の産業拡大や業務のスピードについての能力不足
(2)若者への教育における差
(3)地方の企業で働く人の人材不足
の3点を指摘しています。
 そして、「資産も名声もある企業経営者の方に、損得抜きで政治の世界に入って来て欲しい」と述べ、「倒産企業の再建で地獄を見た方や、新しい事業を起こして、富を生み出した方など」が、「培った経営者としての能力を、自治体経営に役立てていただきたい」と述べ、「国政で活躍する国会議員は、さまざまな組織の経営や地方自治体の首長を経験した後で立候補すべき」だと主張しています。
 本書は、自治体を「経営する」ということの大変さとやりがいとを、自身の経験を元に分析的に解説した一冊です。


■ 個人的な視点から

 本書の中でもさらりと書いてありますが、ショッキングだったのは、著者の義理のお父さんが「ヒットマン」に狙われたことでしょうか。刃渡り37センチの「鎧通し」にもひるまず、回し蹴りで反撃したという空手の達人ぶりは、映画のシーンのようですが、「改革」の難しさの本質の一つには、既得権の維持を図ろうとする勢力との本当の意味での命がけの対峙があるからではないかと思います。


■ どんな人にオススメ?

・「改革」という言葉がきれいごとだと冷めて見る人。


■ 関連しそうな本

 木下 敏之 『日本を二流IT国家にしないための十四ヵ条―佐賀市「電子自治体」改革一年の取り組みから』 2006年10月18日
 鬼島 紘一 『「談合業務課」 現場から見た官民癒着』 2006年03月15日
 桑原 耕司 『談合破り!―役人支配と決別、命がけの攻防記』 2007年09月25日
 桑原 耕司 『公共事業を、内側から変えてみた』 2006年02月22日
 伊関 友伸 『まちの病院がなくなる!?―地域医療の崩壊と再生』 2007年12月12日
 村上 智彦 『村上スキーム 地域医療再生の方程式』


■ 百夜百マンガ

THE STAR【THE STAR 】

 「演技」を格闘技さながらの命がけの戦いにしてしまった作品。勝新みたいな人も出てきましたが、基本的な構造はジャンプ・トーナメント的なインフレーションする敵との戦いではないかと思います。

2008年6月23日 (月)

続ける力―仕事・勉強で成功する王道

■ 書籍情報

続ける力―仕事・勉強で成功する王道   【続ける力―仕事・勉強で成功する王道】(#1250)

  伊藤 真
  価格: ¥756 (税込)
  幻冬舎(2008/03)

 本書は、司法試験予備校の「カリスマ塾長」として知られる著者による、「続ける力」の「ノウハウを紹介するとともに、最近ともすると軽んじられがちな『続ける力』の大切さ」を訴えているものです。著者は、日々の仕事や勉強でも、「結果そのものよりも、それに対する対処の仕方によって、その価値は変わ」るとして、「続けるかぎり、『負け』はない」と述べています。
 第1章「『続ける』ことはなぜ難しい?」では、「最難関といわれる試験の、合格・不合格を分ける決定的な能力」として、「続ける力」を挙げ、「新しく始めることを、『それをやらないほうが落ち着かない』という状態にまで持っていければ、目標の5割は達成したも同然」だと述べています。
 第2章「『やる気』を続ける技術」では、司法試験は、「地道にコツコツと勉強を続けることができれば、合格に手が届く試験」だとして、
・ゴールからの発想:確信の持てない努力を続ける不安の克服に効果的
・合格後を考える:「ゴール」だと思っていた合格が、たんなる「通過点」にすぎないことが分かる。
・「フェスティナ・レンテ」:ゆっくり急ぐ
の3点を挙げています。
 第4章「勉強・仕事をやり遂げる計画術」では、「毎日やるべきことを書き出す作業」を挙げ、「やることの優先順位をつけると、次に何をしたらいいか迷う時間」がなくなるとともに、「やることの絞込み」ができると述べています。
 また、よく「寝食を忘れて取り組む」ことが、「熱心でよいことのように」言われているが、「人間の脳は寝ている間に、記憶を整理して定着させるという、きわめて重要な働きをしている」として、「睡眠時間を削るのは、あらゆる勉強法の中でも最悪の勉強法」であると述べています。
 第6章「ピンチを切り抜け、事業を続ける」では、著者のライフワークとして、
(1)司法試験の受験指導
(2)日本国憲法の価値を広く伝えていくこと
という2つの「法教育」を、ライフワークとして挙げた上で、1995年に設立した「伊藤塾」の事業を続けていく中で「最大のピンチ」として、「法科大学院構想」を挙げ、教員の手配や校舎の改装等の準備を進め、学生募集も始めていたにもかかわらず、文部科学省の認可が下りず、「それらはすべて無に帰した」とともに、「司法試験そのものの受験生の減少」が追い討ちをかけたと語っています。
 著者は、「法教育を『続ける』ことによって得た『自信』」として、「ひとつのことを信念を持って続けていれば、必ずそれを理解し評価してくれる人が出て」来ると述べ、「自信」と「謙虚さ」と「他人への尊敬」こそが、「27年の継続によって得ることができた大きな財産」だと語っています。
 第7章「『やりたいこと』をやり続ける人生」では、著者が法律家を目指した動機として、大学で憲法を学び、「個人の尊重こそが憲法の中核的な価値であること」「憲法は国家権力に歯止めをかける規範であること」に感動し、「憲法の価値を生活の中で実現する法律家になりたいと思い、べんごしになった」と述べています。
 また、「若い頃からずっと、自分にしかできない仕事をしたいという気持ち」が強くあったと述べ、若い頃には、外資系企業からの就職の誘いもあったが、「迷ったときはいつも、自分がワクワクするほうを選ぶ」ことに決めている、として、「私の講義を受けたり、本を読んだりした受験生たちが、すばらしい法律家になって、日本中で憲法の価値を実現する。それによって、日本がまともな立憲民主主義の国、一人ひとりが個人として尊重される国になる。さらに日本の平和主義が世界に発信され、暴力に頼らない紛争解決によって、世界平和が実現する」という理想があったから、法教育を続けるほうを選んだと語っています。
 さらに、22世紀になって、21世紀を振り返ると、「平和のために様々な分野で活躍した人々」が、「若い頃に『伊藤塾』というところで学んでいる」という共通点があり、「彼ら彼女らの地道な努力が、百年後に世界平和という形で実を結んだ」という姿こそが、「最大の成功」であり、「最高の幸福」だと語っています。
 第8章「『続ける』ことから『力』が生まれる」では、「目先がクルクルと変わる『改革の時代』こそ、『変えてはいけないこと』を意識して守る姿勢が求められ」るとして、「守るべき本質」を見きわめるためには、「利他の視線」こそが必要だと語っています。
 本書は、司法試験に関わらず、地道に日々「続ける」ことをいかにシステマティックにできるかを、長年の受験指導の経験を元に語った一冊です。


■ 個人的な視点から

 本書は、基本的にはノウハウ本の類なのですが、本書の後半には著者ならではの憲法にかける思いが熱く語られています。ノウハウ本としてはおまけみたいなものなのかもしれませんが、実際の受験生にとっては、この後半部分こそが、前半の「続ける力」を支える根っこの部分として伝わり、著者の「大言壮語」に感銘を受けてしまった受験生はどっぷりとはまり、そうでない受験生にも、著者の熱意の源を知ることで「続ける力」の大切さが伝わるのではないかと思います。


■ どんな人にオススメ?

・「続ける」ことに自信がない人。


■ 関連しそうな本

 伊藤 真 『一点集中力』
  『「見てわかる」日本国憲法』
 伊藤 真 『合格のお守り 資格試験のカリスマが教える「夢をかなえる」心の習慣』
 M. チクセントミハイ (著), 今村 浩明 (翻訳) 『フロー体験 喜びの現象学』 2006年05月10日


■ 百夜百マンガ

寺島町奇譚【寺島町奇譚 】

 昔、東京電力のCMで「僕は3丁目の電柱です」っていうのがあったかと思いますが、その絵がこの人だったような気がしてなりません。残念ながら検索したけど裏が取れませんでした。

2008年6月22日 (日)

食育のススメ

■ 書籍情報

食育のススメ   【食育のススメ】(#1249)

  黒岩 比佐子
  価格: ¥893 (税込)
  文藝春秋(2007/12)

 本書は、明治期のベストセラー小説家、村井弦斎の代表作、『食道楽』を取り上げ、この小説に「食育」という言葉が登場することから、"食育"の先駆者としてと村井弦斎とその作品を紹介しているものです。
 「はじめに――明治の大ベストセラー、小説『食道楽』」では、「道楽」という言葉は、仏教用語で、「道を究めて悟りを開き、それを楽しむ」ということが、「本来の『道楽』の意味」だと解説しています。
 そして、村井弦斎を、「同時代の作家たちよりも幅広い人々に愛読され、単行本も何倍も売れていた人気作家だった」と述べています。
 また、弦斎が、小説『食道楽』のなかで、すでに使っていたことについて、「百年以上経って、ようやく弦斎の名前が『食育の先駆者』として脚光を浴びるようになった」と述べています。
 第1章「文明の生活をなさんものは文明の台所を要す」(春の巻)では、『食道楽』が4巻合わせて確実に十万部売れていたことについて、「いまでも、十万部以上売れれば立派なベストセラーですが、明治時代の小説で十万部を超えた本など、数えるほど」しかなく、「『食道楽』があまり爆発的に売れたため、一時は、市場から本のカバー用の紙と綴じ糸が消えてしまい、増刷が間に合わないほどだった」ことや、「お客さんからの注文を受けた本屋の店員たちは、印刷所から増刷された本が報知社に届くのを待ち構えていて、取っ組み合いの喧嘩をして本を奪い合った」というエピソードを紹介しています。
 そして、『食道楽』の主人公、大原満は、「大食が原因で肥満していて、早い話が『デブ』」、その妻、お登和は、「美人で聡明な」女性として描かれ、この小説が、「お登和という一人の理想的な女性によって啓蒙されていく男性の話」として構想されたにちがいないと述べ、「作者の視点が、大原の誤った食生活の改善にある」という意味でも、「この小説は"食育小説"と呼ぶにふさわしい」と述べています。
 まあ、弦斎が、「美食家というより、自分が食べるものにどんな栄養素が含まれていて、身体に対してどんな働きをするのか、ということの方に興味があった」と解説し、弦斎が、すでに百年前に、「わかりやすく、食事のカロリー計算と食餌両方の意味を説いていた」と述べています。
 第2章「家庭料理の研究は夫婦和合の一妙薬」(夏の巻)では、主人公の許婚の「お代」が登場について述べた上で、明治期の結婚について、「離婚が非常に多かった」として、2006年の離婚率が、2.04であるのに対し、明治15年は2.62、明治20年は2.84、明治25年は2.76、明治30年が2.87など、現在大きく上回り、1898年に「明治民法」が施行されてからは離婚率が低下したと解説しています。
 そして、『食道楽』の内容が、「食べ物や料理ばかりでなく、健康や病気の話題まで盛りだくさん」であり、文章が平易であったため、「読み書きの能力が低い読者にとっても非常に読みやすく、分かりやすく書かれて」いたと解説しています。
 また、『食道楽』が、書かれた頃、「初めて食品関係の法律が登場した」が、「それまでは、文字通り"無法状態"」で、
・牛乳に水や米のとぎ汁を混ぜて売る。
・黒砂糖に木炭の粉を混ぜて着色して売る。
・牛肉に馬肉を混ぜて売る。
などの、「驚くべき話が残って」いると述べています。
 第3章「身体の発達も精神の発達も根源は食物にある」(秋の巻)では、現代でも、「結婚相手の女性に対して、『料理上手』であることを一方的に求める男性は多い」が、「結婚前に自ら家庭料理を研究して、妻となる人の身体を大切にしよう、と考える男性がはたしてどれほどいるでしょうか」として、「弦斎の考え方がいかに進歩的だったか」と述べています。
 そして、明治期の人々にとっては、「西洋料理は外で食べるもので、『値段が高い』というイメージが」あったが、お登和は、「それを否定して、赤茄子でも牛肉でも鶏肉でも魚でも何でも、安い材料を使って家庭で美味しく作ることができる」と語っていることを紹介しています。
 また、弦斎が、「教育では智育が大切だ、体育が大切だというものの、そのどちらも根本は何を食べるかということにある。栄養的にバランスがとれていて、衛生的な食物を摂取しなければ、脳も発達しないし、身体も発達しない。だから、それよりも『食育』が大事なのだ」と主張していることを紹介しています。
 第4章「何事にも程と加減を知ることが大事」(冬の巻)では、弦斎が、「20歳のときに、私費でアメリカへ渡って一年ほど過ごし」たが、「アメリカでの生活に適応できず、現在でいう鬱病のような状態になったために、1年で切り上げて帰国した」と述べています。
 「おわりに――『食道楽』以後の村井弦斎 あくなき『食』の探求者として」では、『食道楽』以後に弦斎が様々な実験から体験的に到達した原則として、
・食物の原則
・料理の原則
・食事法の原則
の3つの原則を残していることを解説しています。
 本書は、百年前の「食育」の思想を現代に伝えてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 当時の男の人は、大金持ちのお坊ちゃんだったりすると、「台所」というものを見たことさえなかったりすることも珍しくなかったそうです。
 当時から見ると、『dancyu』なんて論外もいいところだったのでしょうか。だからこそ、ベストセラー作家の個性として際立ったのかもしれません。


■ どんな人にオススメ?

・「食育」とは子どものためのものだと思っている人。


■ 関連しそうな本

 大久保 洋子 『江戸のファーストフード―町人の食卓、将軍の食卓』 2007年11月18日
 原田 信男 『江戸の料理と食生活―ビジュアル日本生活史』
 村井 弦斎 『食道楽 (上)』
 村井 弦斎 『食道楽 (下)』
 熊倉 功夫 『日本料理の歴史』
 家森 幸男 『110歳まで生きられる!脳と心で楽しむ食生活』


■ 百夜百音

雨音はショパンの調べ【雨音はショパンの調べ】 小林麻美 オリジナル盤発売: 2001

 世代的に、この人は「ショパンの調べ」の人、という印象しかなかったのですが、資生堂の「マイ・ピュア・レディ」の人だったんですね。

2008年6月21日 (土)

今は昔のこんなこと

■ 書籍情報

今は昔のこんなこと   【今は昔のこんなこと】(#1248)

  佐藤 愛子
  価格: ¥777 (税込)
  文藝春秋(2007/05)

 本書は、今ではすっかり絶滅してしまった日本の風俗を紹介したエッセイ集です。
 「蚊帳」の項では、「布団はなくても寝られるが、蚊帳がなくては眠れない」者であったと述べ、著者の父親が、「山師に騙されて無一文」になったときに、「蚊帳は質屋の蔵の中」、「蚊取り線香を買う金もない」ので、「卓袱台の脚を削ってそれを燻べて蚊取り線香の代り」にしたが、「そのうち卓袱台の脚がだんだん細くなって」しまったと語っています。
 「アッパッパ」の項では、「木綿の布地を簡単に裁ち切って、寸法も格好も考えずにずん胴の筒状にして、それに小さな袖をつけ、胸元は丸くくくっただけの、その名の通りカンタンに作られた」「簡単服」を取り上げ、「まことにアッパッパこそは日本女性が因襲から開放された第一歩といえるかもしれない」と語っています。
 「居候」の項では、「居候三杯目にはそっと出し」という川柳があるが、著者の家に転がり込んでいた居候には、
「暑いなあ、こういう日はスズキの洗いでイッパやりたい」
などという厚かましい居候がいたと語っています。
 「カンカン帽」の項では、「白いステテコに毛糸の腹巻にカンカン帽姿」で「スーダラ節」を歌う植木等を、「我が国に於けるカンカン帽の最後の姿だったのだろうか?」と語っています。
 「どら息子」の項では、「道楽息子が約まってどら息子になった」と述べ、
「あすこの息子はとにかくどらで」
と「人からいわれるようになるまでには、どらなりの習練、修行――気前のよさ、口説のうまさ、欺しの術、話の面白さ、太っ腹ぶりなどなどの切磋琢磨があったにちがいない」と語っています。
 「夜這い」の項では、いざ忍び込む時には、「すっ裸に頬っかぶり」という姿になる理由として、「万一、親爺に見つかった時、泥棒と間違えられないため」で、
「丸裸でもの盗みに行くやつは東西世界、どこにもいねえ。裸は夜這いのしるしだ。着物着ていれば盗賊のしるしだ」
ということだったと語り、「泥棒は罪になるが夜這いは罪にならない。見つけた親爺も警察には訴えない。なぜならば親爺の方も身にオボエがあるから」だと語っています。
 本書は、いまではすっかり姿を消した、初めのころの「昭和」の暮らしを伝えてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 子供の頃に見た「昭和」と連続性があるからか、どうしても昭和の風俗は、探せばまだその辺にあるものか何かと思いがちですが、「三丁目の夕日」から変わっていないのは東京タワーくらいなもので、いつの間にか今の世の中で探すのは難しくなってしまったのではないかと思います。


■ どんな人にオススメ?

・「昭和」はまだすぐ近くにあると思っている人。


■ 関連しそうな本

 宮本 常一 『忘れられた日本人』 2006年06月25日
 新谷 尚紀 『なぜ日本人は賽銭を投げるのか―民俗信仰を読み解く』 2007年11月08日
 福田 アジオ 『番と衆―日本社会の東と西』 2008年03月07日


■ 百夜百音

BACK TO THE BASIC【BACK TO THE BASIC】 RATS&STAR オリジナル盤発売: 1996

 そう言えば昔は「シャネルズ」でしたが、シャネルからクレームがついたから改名したという話を聞いたことがあります。綴りを変えたりしてたことには気づきませんでした。そもそもシャネル自体を知りませんでしたし。

2008年6月20日 (金)

博物館学を学ぶ―入門からプロフェッショナルへ

■ 書籍情報

博物館学を学ぶ―入門からプロフェッショナルへ   【博物館学を学ぶ―入門からプロフェッショナルへ】(#1247)

  水藤 真
  価格: ¥1995 (税込)
  山川出版社(2007/11)

 本書は、「博物館学の教科書」を意識しつつ、「歴史系博物館を中心に、博物館の本質、機能や役割、業務のないよう、学芸員の仕事などが一通り分かるように」書かれたものです。
 著者は、日本は、博物館が約5000館もある「博物館大国」であるが、「問題は中身である」として、「文化の薫り高い、豊かな生活のできる、そういう社会の一翼を担う博物館の在り方を考えていきたい」と述べています。
 第1章「博物館の定義」では、「博物館は、組織・運営形態を問わず、あらゆる資料を収集・保存・調査研究・周知伝達・展示を行い、調査研究・教育・楽しみに資する公共に開かれた非営利の常設恒久機関である」と定義しています。
 第2章「博物館の本質と種類」では、博物館の展示が、「美術館に並べられる美術品と大きく性格を異にする」として、「並べられた品々が単体で完結性が高く、かつそれぞれが独立したものほど、理解がし易い」が、「ここの品々の理解もさることながら、その相互の関係の理解や展示の構成全体を通じて、内容を理解してもらおうという展示ほど、分かり難いものになる」と述べています。
 また、日本の博物館の分類方法として、
(1)博物館法の手続を経たかどうか:登録博物館・博物館相当施設と博物館類似施設・「その他の博物館」
(2)設置者による分類:国立・公立・私立
(3)扱っている資料や内容による分類(学問分野別の分類):(1)総合博物館、(2)歴史博物館・郷土博物館、(3)美術館、(4)自然系博物館(自然史博物館・理工博物館)、(5)動物園・水族館・植物園・動水植物園
の3つの分類方法を示しています。
 また、わが国の学芸員が、「高いモラルを維持している」理由として、
(1)実際にものに触れることの喜び
(2)学芸員がじつは弱い立場の存在である点
の2点を挙げています。
 第3章「資料と分類」では、博物館が、「多種多様な資料を収集・保存し、調査・研究するところ」であり、「博物館・博物館学の考察は、人類の営みの全貌を明らかにすることに繋がる」として、「これが博物館の最初の目的であり、かつ最終目標である」と述べています。
 そして、様々な分類方法について解説した上で、「「世界にある、ありとあらゆるものの分類・統一化、これも求められている事柄の1つ」だと述べ、「過去数百万年にわたって、人類が生み出したものの系統的な把握が達成されれば、自ずから足りないものも判明するだろう。足りないものが何であるかが分かれば、今後の方向も見えてくる。私たちが目指すあらゆる資料の分類は、このためのものである」として、博物館と博物館学は、「21世紀社会の展望」という「きわめて重要な役割を担っている」と述べています。
 第4章「資料の収集と整理・保管」では、博物館が資料を収集する方法として、
(1)購入:資料の所有者に対価を支払って受け入れる
(2)寄贈:所有者からの博物館への寄付
(3)寄託:一時的に博物館が当該資料を預かること
(4)借用:一時的に資料を借りるもの
(5)交換:実際にはあまり行われていない
(6)採集:動物や植物の採集がごく自然に行われる
(7)発掘:地中に埋まっているものを掘り出して、取得する方法
(8)製作:大きくは複製と製作に二分される
の8点を挙げ、解説しています。
 また、資料生理について、「簡単なようで、案外大変」だと述べ、「「資料の保存・管理は、博物館の根幹の1つである。図書館に図書目録があって、誰でも本を閲覧できるように、博物館も収蔵資料台帳が完備され、資料の閲覧ができるようになれば嬉しい」と述べています。
 第5章「資料の保存・分析・修理・製作」では、資料の保存に影響を与えるものとして、
(1)温度(熱)
(2)湿度(水)
(3)光
(4)生物
(5)空気
(6)天災
(7)人災
の7点を挙げ、「なかでも人為的理由で、ものの取り扱いの不注意によって、資料を破損することは、ぜひとも避けたい」と述べています。
 また、修理技術者の素養として、
(1)技術のみあれば良いという考え方
(2)技術を持つのはもちろん、ものにも通じているべきである
という2つの考え方があり、「在来技術とヨーロッパの技術との間には、この2通りの考え方が交差しているように思う」と述べています。
 第6章「博物館の事業展開」では、1つの展示が達成されるまでに、
(1)展示案の検討
(2)展示資料の検討(何を見せたいのか)
(3)展示案と展示計画の確定
(4)展示の実行
(5)会場の設営
(6)展示の補助
(7)関連事業
(8)広報――展示案内(ポスター・チラシ・ホームページの作成など)
(9)撤収
の内容と工程(スケジュール)があると解説しています。
 また、著者がある大学で、「どこかの博物館の学芸員になったと仮定して資料の借用をお願いする手紙を書いてください」と課題を出したところ、「当博物館の特別展示○○に貴下がご所蔵の○○を貸して下さい。展示は○月○日から○月○日です。それがあるととても良い展示になります。ご返事をお聞かせください」等の文面が過半であり、「かしてもらえるという前提で書いている」と嘆いています。
 さらに、博物館活動の中で、「教育・普及活動は飛躍的に増えている」が、「博物館側のこうした動きの障害」として、
(1)受験戦争に代表される進学競争
(2)博物館みずからが、資料や収蔵庫から市民を遠ざけている側面を内在している
の2点を挙げています。そして、現場の学芸員から、「学芸員は雑芸員である」という自嘲の声があがることについて、「1館当り数人の職員で構成されるわが国の博物館は、紛れもなく零細企業なのである。その分小回りが効き、開拓の可能性が大きい」と語っています。
 第7章「博物館の情報」では、情報技術の活用例などを紹介した上で、「情報の発信源は、あくまでも『資料』なのであり、その資料は、博物館に大切に保存されているのである」と述べています。
 第8章「博物館の維持管理」では、博物館活動に使われる経費について、
(1)人件費(職員の給料、あるバイトの賃金など)――3分の1
(2)博物館の管理費(光熱費、建物や設備の点検・補修など)――3分の1
(3)博物館事業費(資料の購入・補修や燻蒸、調査研究費、展示の維持改善、特別展の開催費、講座・イベントの開催日、報告書や図録の作成費など)――3分の1
の3点を挙げています。
 第9章「これから博物館学を学ぶ人へ」では、「お気に入りの博物館・美術館」として、
(1)足立美術館(島根県安来市)
(2)博物館明治村(愛知県犬山市)
(3)トヨタテクノミュージアム産業技術記念館(愛知県名古屋市西区)
(4)大塚国際美術館(徳島県鳴門市)
(5)名和昆虫博物館(岐阜市大宮町、岐阜公園内)
(6)日本玩具博物館(兵庫県姫路市)
(7)函館市立博物館(北海道函館市青柳町、函館公園内)
の7館を紹介しています。
 本書は、博物館学を学びたい人には、学びたいことが凝縮された一冊です。


■ 個人的な視点から

 「学芸員」といえば専門職中の専門職というイメージですが、「雑芸員」という自嘲が込められた呼び名は実態を結構表しているのではないかと想像されます。


■ どんな人にオススメ?

・博物館を奥深く知りたい人。


■ 関連しそうな本

 村井 良子, 上山 信一, 三木 美裕, 佐々木 秀彦, 平田 穣, 川嶋-ベルトラン 敦子 『入門ミュージアムの評価と改善―行政評価や来館者調査を戦略的に活かす』 2005年11月17日
 神奈川県博物館協会 『学芸員の仕事』
 太陽レクチャー・ブック編集部 『ミュージアムの仕事』
 高橋 隆博, 森 隆男, 米田 文孝 『博物館学ハンドブック』
 全国大学博物館学講座協議会西日本部会 『新しい博物館学』
 リュック ブノワ (著), 水嶋 英治 (翻訳) 『博物館学への招待』


■ 百夜百マンガ

アップルシード【アップルシード 】

 世界に知られた日本のSF漫画/アニメの代表的作品、は『甲殻』のほうですが、国内で作者の名前を知れ渡らせた作品。22世紀の世界といってもドラえもんが生まれた頃としか想像がつきませんが。

2008年6月19日 (木)

ゲーム理論で読み解く現代日本

■ 書籍情報

ゲーム理論で読み解く現代日本   【ゲーム理論で読み解く現代日本】(#1246)

  鈴木 正仁
  価格: ¥2940 (税込)
  ミネルヴァ書房(2007/10)

 本書は、日本社会について、「われわれはどこから来て、どこに行こうとしているのか」を、山岸俊男などのゲーム理論の研究者の知見も用いながら論じているものです。
 第1章「日本の社会はいま」では、「高度成長期の時代の流れを<農村型社会から都市型社会へ>という文脈で捉え、それ以降バブル期までの時代の流れを<都市型社会から高度都市型社会へ>という文脈で、そして現在の流れを<都市型社会から高度都市型社会へ>という文脈で、そしえて現在の流れを<格差型社会へ>と捉えることにする」と述べています。
 また、高度成長期とそれ以降の生活諸領域の変化について、
・職場と学校に共通する「振り落とし競争の前倒し」および「二局化の進行」
・地域と家庭に共通する「集団機能の外注化」
の2つの変化に成立すことができ、これらを「人間関係の原理の変化」として捉えると、
・前者:「協調的競争」の崩壊と「格差」の拡大
・後者:「拘束的依存」の崩壊
という変化が帰結すると論じています。
 第2章「経済はどう変わったか」では、高度成長~安定成長~バブル経済とその崩壊~「失われた十年」~規制緩和・構造改革の進展といった日本経済の流れを追った上で、「『規制緩和』『構造改革』の負の遺産として、経済格差が拡大した」と指摘し、「こうした『結果の不平等』は、世代間で継承される教育格差をつうじて、『機会の不平等』へと転化しつつあるとも考えられる」と述べています。
 第3章「社会構造はどう変わったか」では、日本社会の社会変動によってもたらされたものとして、「各種の生活共同体を構成する人間関係の変容ないし衰退」であり、「職場と学校、地域と家庭」などの「生活の場」において、「それらの共同体が従来果たしてきた社会的・文化的機能が失われ、そこに一種の『空白』が生まれた」と指摘しています。
 また、高度成長期の企業における、「課長昇進まではほぼ同期同時昇進の形がとられ、それ以降だんだん昇進差をつけていくというかたち」の、「昇進競争が時間によって平等から振り落とし競争に転調する」ものであり、「将来、同期の一人がエリートになり、自分が一般組織メンバーにとどまっても、それを『おれたち同期の誉れ』と考える、いわゆる『代表移動』のメカニズムが作動しやすい」点について、竹内洋の「『強調的競争』といってもよいだろう」と述べています。
 そして、「高度成長期以降の新しいかたちの都市化と核家族化によって、地域と家庭いずれの場においても、生活ニーズの充足は、労力交換による相互扶助的なかたちから、金銭による外部委託的なかたちへと大きく転換した」ことで、「集団機能の遂行を軸とする、これまでの拘束と依存の人間関係(支配)が崩れることとなった」と指摘しています。
 著者は、「日本の社会は貧しさの共有による調和の世界を必要としなくなり、豊かさを目指す競争の世界へと大きく転換した」と述べ、「豊かさの達成とともに、従来の『貧しさの文化』は有効性を失って空洞化し、そのあとを新しく『豊かさの文化』ならぬ『文化の空白』が支配するようになった」と指摘しています。
 第5章「新しい流れ?」では、ネットメディアの利用が、
(1)「コクーン(繭つくり)」機能:既存の人間関係の維持・強化
(2)「出会い」機能:新たな人間関係の創出機会の提供
の2つの機能をもたらすとした上で、『出会い」機能に関して、「新たな質の人間関係やネット空間が形成される」として、
・「インティメント・ストレンジャー」
・「パーソナルネットワーク」
の2点を挙げています。
 第6章「社会性のゆくえ」では、「現代における『社会性』の成否や存立をめぐる病巣」に迫るとして、従来の社会学的分析の中心を占めてきた「『社会化』とその不全をめぐる『社会心理学的』アプローチ」であったが、「近年ではそれに加えて『秩序』や『信頼』の分析というかたちで、『合理的選択理論』による『ゲーム論的』なアプローチが、この問題について目覚しい成果をあげている」と述べています。
 そして、「現代の日本社会において、『社会性』をめぐる最大の病理は、社会を形成する能力それじたいの」衰退にあるように思えてならない」と論じています。
 第7章「『信頼』のゆくえ」では、「必要に応じて経済学の領域にまで踏み込んで、『信頼』もしくは『信用』をめぐる現状とその課題を分析してみたい」と述べています。
 そして、「経済領域を中心に現在の日本において『信用の劣化』が進み、それがごく最近まで加速し続けたことを明らかにした」と延べ、「『信頼』を確保して裏切りあいの泥沼から抜け出すための3つの方式」である、
・「人質」方式
・「コミットメント」方式
・「統制」方式
のいずれも、「バブルの崩壊とそれへの不適切な対処のなかで有効に機能しなくなり、むしろ『信頼』ないし『信用』を劣化させる方向へとそのメカニズムを逆回転させた」ことを指摘しています。
 第8章「『安心」のゆくえ」では、犯罪検挙率の低下や来日外国人犯罪の急増などを指摘した上で、山岸の議論として、「集団主義社会における『安心』の確保の議論から始まって、オープン市場型社会への移行にともなって起こる『安心の崩壊』の問題」などを紹介しています。
 そして、「集団内部の裏切りの可能性ないし社会的不確実性を除去する、『集団主義社会』のやり方が有効性を失うことは、同時に、これまで確保されてきた集団内部での『安心』が失われてしまうことを意味する」と指摘しています。
 また、人類が、「社会的ジレンマ」の解決のために、「進化の過程で獲得してきた行動原理」として、「みんなが原理」や「互恵性原理」を挙げ、「品減が進化の過程で遭遇した課題ごとに、その都度それを解決する単純な情報処理に特化した『モジュール(基本単位)』が形成されてきた」と述べ、その一つに、「人間社会に普遍的に存在する『社会的ジレンマ』の解決に特化した、『社会的交換モジュール』の存在が推定される」ことを紹介しています。
 著者は、「『国際化』や『規制緩和』や『構造改革』など、われわれにとって自明とも思える口当たりのよりスローガンの背後に潜む"罠"の存在」を指摘し、「われわれはそうした美辞麗句に酔いしれることなく、それらがもたらしうる様々な可能性に冷静に思いをめぐらせ、慎重にことを運ぶ必要がある」と述べています。
 第9章「『怒り』はどこに」では、「平和国家」と「商人国家」という日本の「二大支柱が、ここにきて揺らぎはじめ」ていると述べ、「平和国家・日本」の問題を、「タカ―ハト・ゲーム」の理論で、「商人国家・日本」の問題を、「コミットメント問題」の解決をめぐる最近のゲーム理論を用いて論じています。
 そして、「『タカ―ハト・ゲーム』および『抑止問題』として表現されうる国際紛争において、その解決の鍵となる『怒り』という感情のはたらきにたいして、外からは『絶対平和主義』が、また内からは『純粋経済主義』がブレーキをかけて、われわれを敗北へ導く」ことを、「『平和国家・日本』と『商人国家・日本』が複合することによって生じた、現代日本の国家経営のアキレス腱」であると述べています。
 本書は、社会評論として読む分にはうなづける点も多い一冊ではないかと思います。


■ 個人的な視点から

 本書は、タイトルを読むと、ゲーム理論の本ではないかと、また、著者の肩書き(滋賀大学経済学部教授)を見ると、経済学の本ではないかと思って手に取る人が多いのではないかと思いますが、基本的には社会学の本というか、新聞の社説とか論説の類が一冊にまとまったもののようなニュアンスで考えておくとイメージがつかめるのではないかと思います。
 著者自身が、「あとがき」で、ゲーム理論については「五十の手習い」と言及していますが、ゲーム理論がメインで出てくるのは、第9章の「タカ―ハト・ゲーム」の部分で、あとの部分は、「現代日本の社会が直面する課題にゲーム理論で切り込む」、というよりも、「ゲーム理論を用いた研究の知見を紹介しながら、日本社会を語る」というスタンスが近いのではないかと思います。
 とりあえず、ゲーム理論そのものに関心がある人は、一度書店で手にとって目次や参考文献リストを確認してから読むかどうかを決めた方がいいのではないかと思います。


■ どんな人にオススメ?

・日本社会に疑問と不安を感じている人。


■ 関連しそうな本

 山岸 俊男 『安心社会から信頼社会へ―日本型システムの行方』
 大浦 宏邦 『人間行動に潜むジレンマ―自分勝手はやめられない?』 2008年05月19日
 鈴木 光男 『社会を展望するゲーム理論―若き研究者へのメッセージ』 2008年03月17日
 R. アクセルロッド (著), 松田 裕之 (翻訳) 『つきあい方の科学―バクテリアから国際関係まで』 2005年12月20日
 リチャード・ドーキンス (著), 日高 敏隆, 岸 由二, 羽田 節子, 垂水 雄二 (翻訳) 『利己的な遺伝子』 2006年09月26日
 鈴木 光男 『ゲーム理論の世界』 2005年08月02日


■ 百夜百マンガ

星のカービィ【星のカービィ 】

 もともとはゲームボーイ用のキャラクターだったのですが、コミック化、アニメ化もされました。それにしても、ゲームの派生漫画が、1992年の連載開始以来、いまだに連載が続いているということ自体が驚きです。

2008年6月18日 (水)

経営の美学―日本企業の新しい型と理を求めて

■ 書籍情報

経営の美学―日本企業の新しい型と理を求めて   【経営の美学―日本企業の新しい型と理を求めて】(#1245)

  野中 郁次郎
  価格: ¥1995 (税込)
  日本経済新聞出版社(2007/11)

 本書は、「日本的な企業経営の経験を踏まえて、新しい時代の優れた企業による価値想像のあり方を日本的な経営美学の書」です。本書の主な主張としては、
・社会や顧客の価値を追及する絶対競争の時代
・絶えざるイノベーションが不可欠
・自らの経営の型を常に確認・精緻化し、市場原理と人間原理を統合・融合させながら永続性を追及する
などを、挙げています。
 序章「価値創造の構造と機軸」では、「価値創造のイメージ」として、
(1)価値創造の現場をリードするのは、従業員であり、パートナー企業であるが、その方向性をリードし、スピードをコントロールするのはあくまで経営者である。
(2)価値想像を持続する企業には、その源泉となる志が明記された企業理念があり、それをリードする経営者には、理念の基礎となった原体験(初期含羞)がある。
(3)日本文化のローカル性を重視することが普遍的価値創造につながる。日本文化には"粋""華""しゃれ"といった世界に発信できる美の文化、また"義""公"など社会に対する価値創造がその底流に一貫して流れている。
(4)価値創造のサイクルを構築し、それを継続していくには、文化的遺伝子(ミーム)が重要となる。
の4点を基本命題として挙げた上で、「価値創造フォーラム」の10年間の活動の中で明らかになった、価値想像の基軸として、
(1)相対から絶対の競争へ
(2)市場原理と人間原理の綜合
(3)環境変化への柔軟かつ機敏な対応
(4)社会に対する価値創造
(5)イノベーションへの情熱
の5点を挙げています。
 第1章「価値想像を語る」では、(株)資生堂名誉会長の福原義春氏が、「自発性を引き出しモチベーションを高めるもの」として、「エンパワーメントと個人の成長欲求」を挙げ、エンパワーメントは、単なる「権限委譲」ではなく、「人にパワーを注入してあげること」が本質であると語っています。
 第2章「相対から絶対の競争へ」では、歌舞伎俳優の坂田藤十郎氏と野中名誉教授との対談の中で、坂田氏が、「曽根崎心中」のお初を千回以上やっているが、「舞台に出ても芝居をしているという気持ちはほとんどなくなって」いて、「お初という人物を、自然に表現している」と述べ、「自然と毎日毎日を新しく感じ」、「初めてやっているみたい」になると語っています。
 また、嶋口教授は、「インタラクティブ・マーケティング(相互交流型マーケティング)」が求められるとして、底では、「売り手サイドからのマーケティングのみならず、買い手サイドからのマーケティングという発想も成り立ち、まさに二つの主体からのマーケティングのぶつかり合いが新しい偶発的価値という問題解決をつくり出していく」と述べ、
(1)売り手のマーケティング:これまで企業のマーケティング行動として我々が慣れ親しんできたフィットネス・パラダイムに基づくマーケティング観。
(2)買い手のマーケティング:「購買もまたマーケティング」という考え方に基づき、「ニーズを売って商品を受け取る」というリバース型マーケティンが行われる。
などについて解説した上で、「売り手のマーケティングと買い手のマーケティングとを同一企業が別々におこなった例」として、ミスミの「マーケット・アウト」の思想を紹介しています。
 著者は、「今日のビジネス世界は、売り手と買い手が平等の立場から、互いの思いをベースにそれぞれ商品サービスとニーズとを投げかけあい、新しい競争価値と問題解決を探りあう世界」であると述べ、「買い手はもはや無知でも受動的な存在でもなく、賢く、能動的に行動する主体として捉えられ」ると述べています。
 第3章「市場原理と人間原理の綜合」では、アリストテレスが生み出した概念であり、英語では、賢慮(Prudendce)、倫理(Ethics)、実践的知恵(Practical wisdom)などと訳される「フロネシス(Phronesis)」日打て、フロネシスのリーダーシップについて、
(1)「グッド」を見分ける力
(2)場作りの能力
(3)状況認識能力
(4)歴史的想像力
(5)政治力
(6)共有
の6つの能力で構成されると解説しています。
 また、三井物産(株)代表取締役社長の槍田松瑩氏が、三井物産創業者の益田孝が、「一人で何でもできるわけではないが、何もかもやったほうがいい」ということばを残し、当時、まだ実力の弱かった三井物産が「あえて総合で事業をつくって」いたと述べ、「そこで働く人も多種多様だったはずで、必然的にそれぞれの『よい仕事』は多様なものと」なったと述べています。その上で、「三井物産の社会的存在意義は『人材を育成する』ことに帰する」と述べ、「人の三井」というフレーズの意味は、「三井物産という会社は、社会・世界にとって有益な仕事を実現することができる人材を育成していく使命を担っている」ことだと語っています。
 第4章「環境変化への柔軟かつ機敏な対応」では、(株)資生堂代表取締役執行役員社長の前田新造氏が、資生堂の成長の原動力が、「先達が作り上げた様々な制度」にあり、その出発点は、「大正12年にスタートさせたチェインストア制度」にあり、昭和2年には「販売会社制度」を、昭和9年には店頭に派遣し直接お客様に美容法や技術を指導する「専門教育を受けたミス・シセイドウ」(後の美容部員、ビューティーコンサルタント)を、昭和12年には「資生堂花椿会」を発足し、愛用者の組織化を進めたことを解説しています。そして、「資生堂で働くすべての人が、大切な資生堂ブランド」であるとして、「企業の成長力の源泉は何といっても『人』」であり、「社員一人一人が最大限に能力を発揮し、その連携を強めていけるよう」に「もう一段踏み込んだ構造改革」を進めると語っています。
 第5章「社会に対する価値創造」では、三井物産戦略研究所所長の寺島実郎氏が、「物事の本質を考え抜く力」である「脳力(のうりき)」について、
(1)歴史軸:歴史の中で自分たちがどこに位置づけられているのか、という思考法
(2)空間軸:世界を見渡して、自分たちの国はどういう特色を持ち、どれだけ恵まれ、どういうパワーバランスの中にいるかという相対化の作業
の「2つの座標軸を持ち、それを鍛えていくことがもっとも重要だ」と述べています。
 第6章「イノベーションへの情熱」では、一橋大学の米倉教授が「ビジネスマンがリーダーを目指すのならば、是非やってほしい」こととして、
(1)仕事の意味を具体的に語れるリーダー
(2)明確な数値目標を具体的に語れるリーダー
(3)組織デザインを具体的に語れるリーダー
(4)部下データベースを持っているリーダー
の4点を挙げています。
 また、ロバート・サットンが、「デ・ジャ・ヴー」の逆の「ヴ・ジャ・デー」、すなわち、「毎日見慣れているものを新しく見る力、当然だと思っていることを、『えっ』と思わせる力」がイノベーションになると述べていることを紹介しています。
 さらに、アスクル(株)代表取締役社長兼CEOの岩田彰一郎氏が、店頭では目立たない、「パッケージを全部取り除いて目立たないセンスのいい消臭剤」がヒット商品になったことや、流通過程で汚れてしまう「真っ白いファイリング」がアスクルではヒットしたことを語っています。
 第8章「価値創造のリーダーシップ」では、前進の「クオリティ・マネジメント(QM)フォーラム」が1981年に創立されて以来、今日の「価値創造フォーラム21」までの四半世紀にわたる活動の中で、「経営の先達や研究者の様々な"哲学・理念・思い"を、そのゆらぎなきリーダーシップの側面に焦点をあて、、価値創造のリーダーシップと合わせて現代に読み解くことを試みた」と述べています。
 本書は、フォーラムという著者の性質上、一貫した読みやすさを求めることは難しいですが、数々の経営者、研究者の「美学」に触れることができる一冊です。


■ 個人的な視点から

 「経営の美学」というタイトルからは、企業の経営者たちが美辞麗句を並べた「祝辞集」みたいなものを想像してしまいますが、本書が追っている「美学」とは、日本企業なりのエクセレントとは何かを論じ合っているような印象を受けます。


■ どんな人にオススメ?

・経営には美学が必要だと思う人。


■ 関連しそうな本

 戸部 良一, 寺本 義也, 鎌田 伸一, 杉之尾 孝生, 村井 友秀, 野中 郁次郎 『失敗の本質―日本軍の組織論的研究』 2005年03月09日
 野中 郁次郎 『知識創造の経営―日本企業のエピステモロジー』 2005年03月02日
 野中 郁次郎, 竹内 弘高 (著), 梅本 勝博 (翻訳) 『知識創造企業』
 野中 郁次郎, 紺野 登 『知識経営のすすめ―ナレッジマネジメントとその時代』
 福原 義春 『会社人間、社会に生きる』 2005年09月02日
 米倉 誠一郎 『経営革命の構造』 2005年09月09日


■ 百夜百マンガ

傷だらけの仁清【傷だらけの仁清 】

 暴力が支配する世界と人情話、という基本的な設定は他の作品と同じですが、それでも退屈させずにしっかり読ませる力はベテランの実力なのではないかと思います。

2008年6月17日 (火)

夢を追い続けた学校司書の四十年―図書館活用教育の可能性にいどむ

■ 書籍情報

夢を追い続けた学校司書の四十年―図書館活用教育の可能性にいどむ   【夢を追い続けた学校司書の四十年―図書館活用教育の可能性にいどむ】(#1244)

  五十嵐 絹子
  価格: ¥1785 (税込)
  国土社(2006/07)

 本書は、学校司書として、山形市立朝陽第一小学校などで「学校図書館」の可能性を切り拓いてきた著者が、「学校図書館の質を高め、それを十二分に活用させることが、子どもの育ちを豊かにし、知性を磨く充実した教育活動を想像することにつながる」という確信を得るまでの40年間の過程を語ったものです。
 著者は、本書を「何の為に書くのか」として、
(1)著者の体験が、学校司書の方や学校図書館に関わる人に励ましや、何かヒントになるものがあるかもしれないこと。
(2)図書館を活用した授業作りを支援する司書教諭がその重要な役割を果たすためにも、学校図書館を整備し機能させることが必要であり、そこには「学校司書」が必要なんだということを、どうしても伝えたい、学校司書の重要性を分かってもらいたいこと。
(3)この仕事を長く続けてくる中で、たくさんの方に支えられ、教え導かれたことへのお返しをしたいこと。
の3点を挙げています。
 第1章「学校司書はどんな仕事をするのか」では、朝陽一小の学校図書館の一日を紹介した上で、日々の利用者数では、「公立図書館の一日の来館者数に匹敵するほど」であると述べ、「それだけからもフルに図書館が活用されている学校では、学校司書が連日一人がこなせる仕事の量を超える仕事があるということ」が分かるが、「学校司書の働きは、まだまだ社会的に認められて」以内と述べています。
 そして、新たに学校に勤めたときに、「何から始め、どんな図書館づくりをするのか」について、
(1)まず初めは、新鮮で明るく小ぎれいな図書館にする。
(2)わかりやすく利用しやすい図書館にする。
(3)新鮮で活気のある図書館にする。
(4)人のぬくもりと暖かさのある図書館にする。
(5)頼りになる図書館にする。
(6)学校中が図書館とつながる読書環境を創る。
(7)教師を惹きつける図書館づくりをする。
(8)組織的な図書館活用教育を校内に構築できるように務める。
(9)地域の人と連携する。
の9つのコツを紹介しています。
 また、図書館の広報活動について、
・子供向けの「図書館便り」:子どもたちの書いた図書商会が紙面の半分を占める。
・保護者向けの図書館情報誌「大人の図書館だより」:保護者への読書啓発が目的
などについて解説した上で、広報活動の狙いを、「図書館活用をどう広げるか、関心を高めるか」にあるとして、「図書館とのいい関係づくりをテーマに、利用者をどう巻き込むかが勝負どころ」であると述べています。
 さらに、朝陽第一小学校の先生方が、「読書や図書館活用の授業を大切な『学び』と気づき、教育活動に積極的に取り込み」、「『読書力』が、調べ学習にとって重要な土台であることを子どもの姿から実感」し、「図書館を活用した授業方法を真剣に研究し、実践を積み上げて」来た結果、「子どもたちの姿に豊かな育ちが具体的に見られ、自ら『学ぶ力』が培われた」と述べた上で、「読みたい本を簡単に見つけ出したり、調べ学習がスムーズに行く」ためには、「学校図書館が『図書館』として機能していなければ」ならないと述べています。
 しかし、「教師中心の職場」である学校では、「ほとんどの学校で図書館そのもの」の「位置づけが低く、予算的にも校内人事も学校運営の重点項目も下のほうに位置づけられて」いたとして、著者が、朝陽第一小学校に赴任した当時、「校内分掌の中に私の名前がどこにも無いという、嘘のような本当のことが」あったと述べています。
 著者は、「学校図書館はまさに『宝庫』」だとして、
・子どもたちの疑問や欲求に応えていける「学びの場」
・たくさんの本と出合い、こころを育てる豊かな「読書の場」
・年齢を超えた子ども同士、担任以外の教職員など様々な人との「交流の場」
・子どもたちが安心して集える、教室以外のもう一つの居場所
・教師にとっても豊かな教材と研修の場
等を挙げ、「学校図書館というこの宝を先生方と共に、子どもたちの『学び』に活かすことで子どもたちの『生きる力』を育てることを確信し、実感して」きたと語っています。
 第2章「なぜ、私が『学校図書館』にも得たのか」では、父親の病気で両親が不在がちの家庭の中で、学校図書館にあったたくさんの本が著者を支えてきたこと、夜間高校2年生のときに、「朝陽第三小学校でPTA雇用の図書館のあるバイト職」を薦められ、高校卒業後、鶴見女子大学で司書(補)の夏期講習と試験を受け、「学校司書への道を歩み始めたこと」等を語っています。
 そして、20代のときに、全国学校図書館協議会の事務局長の佐野友彦氏の講演を聞き、「学校図書館こそ、どの子にも知性を育てることのできる教育資源」であり、「この学校図書館を活かせば、どの子にも豊かな学びを獲得させることができるのではないか」と納得したと語っています。
 著者は、「学校図書館の面白さに取り憑かれて、一途に惚れ込んでしまい、脇目も振らずにただひたすら思い続けてきた」ほど、「学校図書館の仕事は魅力ある仕事」なのだと語っています。
 第3章「全ての子どもに読書の喜びを」では、「中、高校生の極端な活字離れの原因」の一つとして、「小学校時代の不読」があり、「小学校時代日本に親しめなかった子供は、生涯不読者になることは十分考えられ」ると述べ、「少数の不読傾向の子たちを見ると、本を読まないというだけでなく、学習面、生活面、友達関係や家庭的にも様々な課題を抱えている子が多い」ことに気づくと述べています。
 そして、不読児童への働きかけの実践研究として、
(1)全校的な本への関心を強め、読書水準を高める取り組みを担任教師と連携・協力しながら取り組む。
(2)読書量の極端に少ない児童(不読児)をピックアップして、個別に治療、手だてを行う。
(3)保護者にも家庭での読書環境が作られるように働きかける。
の3点に取り組んだことを語っています。
 また、不読傾向の子どもたちに共通していえることとして、
(1)生活全般に、無気力で消極的、無表情な子が多い。
(2)不読だけでなく、学習面や家庭的にも、また、友達関係でも多くの問題を抱えている子が多い。
(3)努力を要する学習などの作業を避ける傾向と、読書嫌いが一致する。
(4)幼児期から読書経験が不足で、本に関心が向かない。
(5)読書力が極端に低く、読みたくても読めない実情がある。
(6)多読の子と比較すると、成績不振の子が圧倒的に多い傾向にある。
の6点を挙げています。
 さらに、本が嫌いだった子が読書するようになった結果の変化について、
・落ち着きがなくちゃかちゃかしていた子がちゃんと話に耳を傾けるようになった。
・無口な子が話せるようになった。
・喋りすぎる子が、穏やかになった。
・遊べなかった子が友達と仲良く遊べるようになった。
・活発すぎる子が落ち着いてきた。
等の声が担任から聞くことができたと述べています。
 第4章「図書館活用で飛躍的に高まった学校教育」では、今では、本やビデオで紹介されるようになった朝陽第一小学校の図書館活用教育が、著者の赴任当時(平成7年)は、「図書館も薄暗くちっぽけ、子供たちの中には読書離れの子も他校に劣らず多かったし、職員の理解も最初から得られたわけでも」なかったと述べています。
 そして、新任式の日の挨拶で、「図書館を素敵な本のレストランにしましょう。本は食べ物と同じです。しっかり栄養になる本、ちょっと辛い本、デザートのような本もあるでしょう? そして、本の紹介はメニューです。よだれの出るようなメニューをつくりましょう。ちょっと心が寂しいとき、本のレストランでくつろいで、美味しい本を読んで満足する、そんな図書館をみんなと一緒に創りましょう」と挨拶したことを紹介しています。
 また、学校を動かし、
・図書館を子どもにとっても教師にとっても「当てにされる」場所にすることで、学校の教育活動全てに活かされる図書館にしたい。
・子どもたちの生活の中に読書を根づかせたい。
を実現するために、「学習資料センター図書館構想、三ヶ年計画」を校長に提出したところ、校長から「"明るい学校づくり事業三カ年計画"の県指定を学校図書館づくりをテーマに受けてきたから、この計画を学校全体の計画に作り直すように」と指示を受け、「新しい計画書が学校全体の推進計画になった」と述べています。
 そして、翌年4月には、図書館の改善、移転の予算が確保でき、「まっさらな白紙から図面を描く」新しい図書館づくりに取り組み、会館後、学習資料センターがフル稼働状態になったことを語っています。
 さらに、「算数の繰り上がり、繰り下がりをこの子は嫌いだから習得しなくてもいいのではないか」という議論がないように、「読書は現代の子どもにとって欠かせない発達課題」であると述べています。
 そして、教師たちが図書館に関心を持つためには何が期待されるかを考え、「授業に役立つ図書をきちんと揃え」、「授業内容と図書館の資料がぴったりあっていれば先生方は自ずと図書館に目を向けるだろう」と考え、「単元別参考図書目録」を作成したところ、「この図書館に足りない本が何か、が明瞭に分かった」として、「単元目録を手がけて一番の成果は、学習に必要な本を充実することができたこと」だと語っています。
 著者は、司書教諭と学校司書の協働の目的とは、「図書館活用教育を全校的に進めるため」であると述べ、「特に、司書教諭は、同僚である教師たちに新しい教育方法を指導するという役割」を担うと述べています。そして、朝陽第一小学校では、「司書教諭は担任を持たず、司書教諭の役割を担い各学級の授業をチームティーチングという形で支援し、図書館活用教育を押し進めること」になったと述べています。
 保護者との連携については、朝陽一小の図書館づくりの3年目に、
・保護者の理解や先生方の関心が今ひとつ足りないこと。
・利用の増大に伴なって図書館業務が膨大になったこと。
などから、「保護者に図書館業務への協力を呼びかけよう」と計画し、「子どもの本を読みあう会(仮名)」の参加を呼びかけ、「土曜休業日に図書館を開放して、本の貸し出しとお話し会をすること」になったところ、「図書館を助けて欲しくて呼びかけたはずの保護者の活動」のはずが、「それをコーディネートをすることになり、さらに目の回るような多忙を生み出す」ことになったと語っています。
 そして、「子どもたちへの読み聞かせボランティアを何のためにやるのか」を突き詰めて考えると、「自分を成熟した大人に育てていく」こと、「社会的自己実現を目指す」ことも大きな目的だと気づかされたと語っています。
 また、発足から1年目に、愛称が「本のたからばこ」に決まったが、「保護者の意識と学校職員の意識の違いが大きかったこと」や、サークル内部で、「一部の強い意見だけで、全員がそれに従うといったことが続くと、それがサークル内の不満や矛盾を深めて」いくという2つの課題に直面したと述べています。
 本書は、読書が教育に果たす役割をまざまざと見せてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 小学校、中学校の頃を思い出すと、一学年50人ちょっとの小規模校だったので、今考えると図書室はそれほど大きくなかったような気がしますが、それでも小学校の図書室には色々な絵本がたくさんあって楽しかった記憶があります。
 しかし、本の貸し出しとかはよく分からなかったこともあって使わなかったような気がします。元々、それほど本好きな子どもでもありませんでした。
 なお、実家のある市にはいまだに図書館がありません。


■ どんな人にオススメ?

・子どもたちには本を読んでほしい人。


■ 関連しそうな本

 五十嵐 絹子 『子どもが本好きになる瞬間(とき)―学校図書館で見つけた元気の出る話』
 山形県鶴岡市立朝暘第一小学校, 高鷲 忠美 『こうすれば子どもが育つ学校が変わる―学校図書館活用教育ハンドブック』
 山形県鶴岡市立朝暘第一小学校 『みつける つかむ つたえあう―図書館を活用した授業の創造』
 山形県鶴岡市立朝暘第一小学校 『図書館へ行こう!図書館クイズ―オリエンテーション・図書委員会資料付 知識と情報の宝庫=図書館活用術』


■ 百夜百マンガ

ウチの場合は【ウチの場合は 】

 絵を見るとたいていの人がゴマちゃんを思い出すと思いますが、由緒正しき加藤芳郎の『まっぴら君』の枠を引き継いだ本格四コマなのかもしれません。

2008年6月16日 (月)

戦争の映画史 恐怖と快楽のフィルム学

■ 書籍情報

戦争の映画史 恐怖と快楽のフィルム学   【戦争の映画史 恐怖と快楽のフィルム学】(#1243)

  藤崎 康
  価格: ¥1260 (税込)
  朝日新聞出版(2008/4/10)

 本書は、「映画はその草創期以来、戦争とどのように関わってきたのか?」という問いに対する一つの解答です。
 著者は、映画が、その誕生以来「戦争とののっぴきならない『共犯関係』を生き始める」と延べ、映画がその出自において、「驚異的な見世物を観客に供する表象メディアだった」ため、「戦争という最もスペクタクル性の強い『事件』にカメラを向けたのは、当然の成り行きだった」と述べています。
 そして、「戦争映画」における「映像の取捨選択(モンタージュ)の問題」を、「映画と戦争が犯した、いま一つの『共犯』を浮上させる」と述べています。
 さらに、「第一次大戦以降に顕著になった、映画と戦争の重大な『共犯関係』」として、「映画の軍事利用」を挙げ、「上空からの<視界>を獲得することで可能になる偵察や戦闘行為」が、「第一次大戦以降、映画および写真の技術的発達と空軍力(エアパワー)の発展との連携によって、急速に"進化"する」と述べ、「映画の技術はそのかなりの部分が、航空撮影による偵察や戦果確認、あるいはそれらの『娯楽映画』への転用・応用というかたちで、軍事技術と一体化して発達した」と指摘しています。
 PART1「映画と戦争」では、第1章「総力戦という戦争機械(システム)」において、「人々の好奇心をそそる出来事を好んで扱った当時の映画にとって、歴史的な大事件である戦争は、自然災害や猟奇犯罪とともに、うってつけのネタであり、戦闘シーンは映画の中の最大の呼び物(アトラクション)となった」と述べています。
 第3章「戦争プロパガンダ映画について(1)」では、「『戦争=プロパガンダ』こそが、第一次大戦の産物であり、また、第二次大戦へと向うなかで欧米列強が、そして日本が、国威発揚、士気の効用、ナショナリズムの鼓舞のために積極的に展開した<思想戦>であった」ことを紹介しています。
 そして、「リベラルな議会制民主主義国家であれ、ファシズム国家であれ、共産主義国家であれ、それらはいずれも本質的には軍事国家である近代国民国家である以上、それらの国々では第一次大戦以来のプロパガンダ映画の製作システムが、よりいっそう周到に確立されていく」とした上で、「第一次大戦は、映画史においても戦争の歴史においても、それ以前とはまったく異なる新たな次元を開く大事件であった」と述べています。
 第4章「戦争プロパガンダ映画について(2)」では、「第一次大戦以降の各国におけるプロパガンダ映画の原型の一つ」として、「19世紀末の再構成された偽ニュース映画」を挙げ、「現実の戦争をネタにしながらそれを徹底的に劇化するという点では、後のプロパガンダ映画を先取りする、いわば『現実の再現』を装ったフィクション映画であった」と述べています。
 また、「国家が要請する『愛国物語』にとっては、士気の低下を招く、不名誉な死者や負傷者の映像は存在してはならない」とした上で、第一次大戦における英首相ロイド・ジョージの言葉である「もし人々が本当に知ったら、戦争は明日にでも止むだろう。しかし、もちろん人々は知らないし、知ることもできない。従軍記者は真実を書かないし、検閲官も真実は通さない。(…)事態の恐ろしさは人間性が耐えられる範囲を超えている」という言葉が、「国家が戦時下に行う情報統制の実情を簡明に伝えている」と述べています。
 第5章「戦争映画を享楽(エンジョイ)する心性」では、草創期の映画が、「観客の好奇心をくすぐるような、ものめずらしい異国の風景、歴史的な大事件、セックスや暴力や奇形(フリーク)の映像などを提供し続けてきた、もっぱらセンセーショナリズムを糧とする娯楽メディアだったのであり、高尚であるどころか、かなり出自のいかがわしい『娯楽』だということになる」と述べています。
 第6章「死の表象」では、「戦争当該国の権力者は国民が厭戦気分や反戦感情を抱かないよう、報道管制をしき、死体映像を国民の目から隠蔽しようとする」と述べ、戦場におけるしたい映像が、「反戦平和を訴えるメッセージ」にも「一方の陣営からの『敵』を糾弾するプロパガンダの素材ともなり得る」と解説しています。
 PART2「戦争映画論」の第1章「スピルバーグ『宇宙戦争』における『戦争』と『9・11』の表象」では、「痛快で奇想天外なSF冒険活劇を『宇宙戦争』に期待した観客が、宇宙人がまるで突然の天変地異のように人間たちに襲い掛かる物語に共振できないまま、後味の悪いラストを迎えたであろうことは想像に難くない」と述べ、そして、『宇宙戦争』を、「父娘の情愛を主題の一つに繰り込んだ、すぐれてスピルバーグ的な『片親家族(ワン・ペアレント・ファミリー)映画』であると同時に、一切の愛国物語、英雄物語の要素を欠いた異形の『厭戦映画』でもある」と述べています。
 そして、『宇宙戦争』が、「けっして国家や軍の指導者、すなわち戦争遂行者の視点に一体化することなく、もっぱらトム・クルーズの位置から見える対象だけをうつす」ことについて、「合衆国大統領自らが戦闘機に乗り込んでエイリアンと戦う『インデペンデンス・デイ』のような、あられもなく愛国心を謳歌する"プロパガンダ・エンタテイメント"からは限りなく遠い映画だ」と述べています。
 また、「『宇宙戦争』に映りこんだ『9・11』の<痕跡>」として、無人の街をさまようトム・クルーズの前に現れる「墜落したボーイング747の大破した機体」を挙げ、「われわれが(最初は衝撃を受け、そののち繰り返し見ることで)見慣れてしまった『9・11』のニュース映像が、いったん遠ざけられ、いわば映画=フィクションの中で<昇華>され、紋切り型(クリシェ)から逃れた『不気味なもの』として生々しくスクリーンに回帰してくる」ため、「この場面を見るわれわれは思わず息をのむ」と述べています。
 本書は、見るものをワクワクさせる戦争映画に込められた意味を分かりやすく解説してくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 戦争と映画は、切っても切り離せないというか、特に日本では、戦争体験のない人にとって、戦争を映画を通じて知ったということが多いのではないかと思います。
 最近でこそ露骨な戦争賛美映画は減りましたが、本書が指摘しているように、「異星人」や「巨大隕石」を敵国に見立てて愛国心を煽るような映画など、現代の「戦争映画」はその手口が巧妙化していますが、暗い劇場で大画面を無言で見詰める「映画館」という空間が、プロパガンダにとって格好の舞台であるという点は、いまだに変わらないようです。


■ どんな人にオススメ?

・「戦争映画」を楽しみにしている人。


■ 関連しそうな本

 柴岡 信一郎 『報道写真と対外宣伝―15年戦争期の写真界』 2007年05月20日
 アンヌ・モレリ (著), 永田 千奈 (翻訳) 『戦争プロパガンダ 10の法則』 2007年11月01日
 高木 徹 『ドキュメント 戦争広告代理店―情報操作とボスニア紛争』 2006年11月27日
 菅原 出 『外注される戦争―民間軍事会社の正体』 2008年01月07日
 原 克 『悪魔の発明と大衆操作―メディア全体主義の誕生』 2008年02月24日
 三野 正洋 『戦争の見せ方―そういうことだったのか!戦争の仕組み』 2008年06月10日


■ 百夜百マンガ

紫電改のタカ【紫電改のタカ 】

 この作品が連載された昭和30年代後半当時の読者は戦後に生まれた子どもたちだったと思いますが、子どもたちが戦争漫画に熱中しているのを、戦争体験のある親の世代はどんな心境で見ていたのでしょうか。子どもの頃、ピストルのおもちゃで遊んでいるのを祖父に危ないからといって止められたことを思い出しました。

2008年6月15日 (日)

人ったらし

■ 書籍情報

人ったらし   【人ったらし】(#1242)

  亀和田 武
  価格: ¥746 (税込)
  文藝春秋(2007/10)

 本書は、「その人がいるだけで、その場の空気がガラリと変わる」、「近くにいれば、気分がリラックスする。言葉を交わせば、まず間違いなく元気になれる」という「特別な能力をもった人」である、「人ったらし」を紹介しているものです。
 第1章「『オネーさん、お水ね』といえる人」では、「人ったらし」の例として、著者の予備校時代の友人のヤマグチ君を挙げ、「20歳前後の連中なんて『オレが、オレが」と自己主張の激しい盛り」であるにもかかわらず、「そんな中で、ひとり超然と『聞き上手』に徹するヤマグチ君に、自然と人が群がったのも当然といえる」と述べ、後にフリーのライターになったヤマグチ君が、香港でも聞き上手振りを発揮したことについて、「あらゆる物事、そして男や女に向けられた好奇心こそが『人ったらし』に欠かせないものなのだ」と述べています。
 また、「『人ったらし』は、水を頼む姿さえサマになる」として、インタビュー相手のミュージシャン、桑田啓祐が、喫茶店で、「店の隅にいた女の子に『オネーさん、お水ね』といったときの声の調子と身のこなし」について、「その場の空気が一瞬で、しかもむりなく自然に変わった」と述べ、「『オネーさん』という言葉を口にして、これだけサマになる人は滅多にいないぞ」と感心したことを述べています。そして、「女の子であれば、美人不美人ということとは関係なしに、どこかチャーミングで可愛げのある子」がいて、「男の子の場合、とりたててハンサムではないんだけど、なんとなく身のこなしが格好いい子がいる」として、「そうした子達の父親の多くがサラリーマンではなく、彼らの多くは店屋の子どもだということがわかった」と述べ、「店屋の子どもというのは、自分の親がどうやってお金を稼いでいるのかを見ているということ」が重要だと指摘しています。
 第2章「『それ、知りません』といえる人」では、正直に「それ、知りません」をいえることは、「ちゃんと人間を見る目がある人だったら、キミは一目置かれることになる」として、「この本は即効性のある本じゃないよ」といいながら、「『それ、知りません』は、きょうからでもキミを『人ったらし』の現役選手にしてくれる、即効性のある殺し文句だ」と述べています。
 第3章「『やっと会えたね』といえる人」では、「作家でミュージシャンである辻仁政が、後に妻となる女優の中山美保に、初対面の場で言ったとされる言葉」である「やっと会えたね」について、「文春新書」編集部が2002年1月号の『メンズEX』に2人の対談を調べ上げ、「ただの噂ではなく、実在する人間の口から発せられた言葉だったのだ」と述べています。
 著者は、「口説き文句は、照れたらオシマイだ。大マジメで、誰も思いつかなかったようなケレン味たっぷりの言葉を相手に投げつける。これができて一人前の『人ったらし』だ」と述べています。
 第4章「『女房には負けますよ、エッヘヘヘ』といえる人』では、アントニオ猪木を取り上げ、「猪木は何といっても笑顔がいい」として、「どこで自分はリラックスしてみせればいいか。そのことを、この種の『人ったらし』は経験的に知っているのだ。緊張を解いて、ほっと一息抜いたら、その隙を突かれて痛い目に遭ったこともある。そんな高い月謝を払って、ようやく体で覚えた経験知なのだ」と述べています。
 そして、「たしかに金銭感覚はメチャクチャかもしれない。性格だってアバウトの極みだ。しかし、こんなペテン師と紙一重の、人の心を陶酔させてやまない、スケールの大きな人間がいるから、世の中は面白い。アントニオ猪木がいない世の中は、いまよりちょっとつまらないものになるような気がした」と述べています。
 また、制服詐欺の典型例である「クヒオ大佐」について、「他人をだますというより、クヒオ大佐になること自体が、彼の中で自己目的化していたのではないか」と述べ、「百人に一人か、千人に一人」か、「自分の『物語』を信じてくれる相手の出現が、クヒオ大佐には何よりうれしかったのだろうと思う」と述べ、「クヒオ大佐は、ドラマの原作者であり脚本家であり、プロデューサーであり、主演でもある」と述べています。そして、著者自身が、四ツ谷のバーで、女優からミュージシャンと間違えられた著者が、「蒲田のキャバレーで生活の糧を稼ぐデビュー前のロック・ミュージシャン」になりきった経験を、「私の中にもクヒオ大佐が眠っていたのが分かった夜だった」と述べています。
 第5章「『オレ、死んじゃうよ』といえる人」では、作家の色川武大について、「色川武大さんの顔には、堅気の人にはない凄みが漂っていた。これまで尋常でない道のりを歩んできた人なんだな、ということが一瞬にして伝わってくる」と述べています。
 また、「その人がいるだけで、その場の空気がガラリと変わる。近くにいるだけで気分がリラックスし、話していれば元気になれる。ときには自信さえも湧いてくる。そんな能力を持った人が『人ったらし』なのだ」として、「吉行淳之介ほど、この『人ったらし』の条件を満たしている人も、そうはいない」と述べています。
 そして、川上宗薫について、吉行淳之介のダンディさの「まったくその逆をいっている。かといって本物のバカというわけでもなさそうだ。たまに、ひょいと肩の力を抜くと、『わりといい感じが出ている』と、きちんと自覚している」と述べています。
 第6章「『なあんか、やばいらしいよ』といえる人」では、芸能レポーターの梨元勝を、「身近にいるマスコミ人をうならせる『人ったらし』のケンカ芸を疲労する人」として紹介し、「正義感だけの単純な人ではない。高度な『人ったらし』的ケンカもできる人だった」と述べています。
 また、評論家の吉本隆明について、「この人は評論家や作家を敵に回したその時々の論争で、相手を容赦なく、こっぴどく叩きのめしてみせた。そのケンカっぷりがあまりにもすさまじく、読んでいる者はまるで繁華街の路上で展開される、凄惨なストリート・ファイトを観戦しているような酔った気分にさせられた」として、「1960年代、吉本隆明が若い読者をひきつけ、熱狂的な信者を獲得していったのは、難解な思想書よりも、もっぱらこうした活字を駆使してのケンカのうまさによるものだ」と解説しています。
 本書は、「人ったらし」になりたい人にも、会ってみたい人にも、少しばかりのヒントを与えてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 本書は、著者自身の出版・芸能界での交遊録になっているという点でも呼んでいて面白いのですが、「人ったらし」というテーマが場当たり的な部分があるというか、とにかく著者が心酔した人は「人ったらし」の中に納まってしまうかのような印象を与えてしまい、掘り下げという点では不十分に感じます。
 しかし、アメリカのビジネス書のように、どっかから引っ張ってきたような間に合わせの「理論」で裏付けられるよりかは、すっきりしているようにも感じます。


■ どんな人にオススメ?

・「人ったらし」に会ってみたい人。


■ 関連しそうな本

 山口 文憲 『読ませる技術』 2006年04月01日
 松本 聡子 『あなたは人にどう見られているか』
 中澤 圭二 『鮨屋の人間力』
 門倉 貴史 『出世はヨイショが9割』


■ 百夜百音

ゴールデン☆ベスト【ゴールデン☆ベスト】 石井明美 オリジナル盤発売: 2007

 「男女7人夏物語」の主題歌がヒットしましたが、地元(と言っても館山ではなく木更津ですが)が舞台になったのは、「男女7人秋物語」の方でした。

2008年6月14日 (土)

キャリアウーマン・ルールズ 仕事にフェロモン戦略は有効か?

■ 書籍情報

キャリアウーマン・ルールズ 仕事にフェロモン戦略は有効か?   【キャリアウーマン・ルールズ 仕事にフェロモン戦略は有効か?】(#1241)

  横江 公美
  価格: ¥1575 (税込)
  ベストセラーズ(2008/1/26)

 本書は、「新しいオンナの時代」を迎え、「すでに進化し第一線で活躍する素敵な女性の生態を分類し、進化のコツを探」るものです。
 第1章「オトコ社会で生き残る」では、「どの国でも、エリート女性は『オンナ』か『オトコ』に分類できる」として、いずれも「仕事の能力は超一級であり、一生懸命仕事をしていることは共通」だが、「アプローチ」の方法、「アピール」「パフォーマンス」など、「自己イメージの作り方が異なっている」と述べています。
 そして、ション所が、「好感度と手柄の配分力をキーワードに、本音ベースのオンナが出世する条件を探っていきたい」としています。
 著者は、「最後まで勝ち残っているオンナ・タイプ」が、
(1)「オンナ」との付き合い方
(2)自分の「フェロモン」
の2つの壁を超えているとして、「外のオンナと自分のオンナ(フェロモン)をうまく操ることが、オンナ・タイプが、生き残れるかどうかのカギ」であると述べています。
 一方、「仕事に関しては『絶対的平等』を目指しがち」なオトコ・タイプについても、
(1)頑張りすぎのコントロール
(2)上司との関係
の超えるべき2つの壁を挙げ、オンナ・タイプに比べると、要領が悪く、「下積みが長くなる」が、「本当に生き残ると強い。管理職としての能力がそれまでの仕事で身についているからだ」と述べています。
 また、「飛びぬけて出世した女性」に共通する点として、
(1)主業務に関する能力
(2)誰からも好かれていること
(3)職階があがればあがるほど、必要となる手柄の配分ができること
の3点を挙げ、「後者の2つが、本書がいうところの『アプローチ力』にあたる」と述べた上で、国際協力機構理事長の緒方貞子紙を「サクセス・ウーマンのシンボル」として紹介しています。一方で、ヒラリー・クリントン氏が、「ファースト・レディから上院議員、大統領候補者へと順調に駒を進めてきたが、その間に組織運営能力を磨く機会はなかった」ことを指摘し、「側近だけではなく、自分のために働く人々に、手柄の配分ができるかどうかが、今後、彼女のキャリアが突き抜けるかどうかのカギである」と述べています。
 さらに、オトコ・タイプの弱点として、
(1)フェロモンを活用することを恥ずかしいと思うほどの高いプライド。
(2)一人だけ仕事をやりすぎてしまったり、正論・原理主義に陥り、他の人たちから浮いてしまうこと。
(3)男性と同じかそれ以上の仕事をする、という姿勢のため、からだを壊してしまうこと。
の3点を挙げています。
 第2章「日本のオンナたち」では、ニュース・キャスターの安藤優子氏を取り上げ、「色気満々の安藤さんが、なぜ主婦層に受けるのか」について、「フェロモンのマイナスをカバーする方法も身につけている」として、「もはや、『わたしを見てほしいの』という甘えた雰囲気を越えて『こういうのが着たいの。見たければ見れば』という雰囲気」であると述べ、「50代になっても第一線で生き残るオンナ・タイプは、もはや、オンナの"敵"から"憧れ"に昇華している」と述べています。
 また、ダイエー副会長の林文子氏について、「社長として渡り歩ける能力、すなわち営業能力に加えて、卓越した好感度と手柄の配分力をもっている」として、「まさに最高峰の『オトコ・タイプ』」だと評価しています。
 さらに、丸川珠代参議院議員について、テレビ朝日のアナウンサー時代は、「ハードな報道姿勢を希望」した「オトコ・タイプ」だったが、「立候補を表明した瞬間から、『オトコ・タイプ』から『オンナ・タイプ』に舵を取った」として、「膝丈の赤のスーツか白のスーツを着込み、自信のなさそうな笑顔と目線。なんともしなやかな色気が漂っていた」と述べています。
 もう一人政界関係では、「総理の椅子に最も近い女性」として名前が挙がる小池百合子議員について、「オンナ・タイプの王道を歩んでいる」と述べ、「小池さんのすごいところは、贔屓されることに甘んじていないこと。ギブ・アンド・テイクを実行する。取り立ててもらえば、取り立ててくれた上司に徹底的に尽くす」、そして「潔い」、「ここぞ、という時には勝負に出る。そして、確実に勝利する。お世話になった相手でも、切るときはすっぱりと切る」と述べ、「潔さと徹底して上司に尽くすことは、オンナ・タイプの特徴である」と解説しています。
 そして、「永田町では、オンナ・タイプ政治家が幅を利かせるが、オトコ・タイプも生息する」として、川口順子氏、森山真弓氏、野田聖子氏、辻本清美氏、土井たか子氏などの名を上げています。
 さらに、経済財政政策担当相の大田弘子氏について、「おじさま受け」のよさは、ピカ一と言われ、そのすごいところとして、
(1)ポストに就いたあとの評判がよく、その後につなげていること。
(2)男性の噂がないこと。
の2点を挙げた上で、「おひとりさまの希望の星」と述べています。
 第3章「海外キャリア女性の素顔」では、ヒラリー・クリントン氏について、「クリントンが大統領になる前のヒラリーは、実力弁護士であるが、いけていないオバサンだった」、「当時の見た目はひどかった」が、「ファースト・レディになってから、日に日に美しくなった」と述べ、さらに、「センスも悪い」としながらも、「上院議員用の黒のパンツ・スーツを脱ぎ捨て、びっくりセンスの洋服を着るようになってから」好感度が上がっていることについて、「働く女性の立場から見ると『肝っ玉母さん・ファッション』であるが、裏を返せば、ワイドショーを見るお母さんたちにとっては、身近なおしゃれと映る」ことを指摘し、「ヒラリー人気の源は、オバサンと呼ばれる年代のお母さんたち」だと述べています。
 この他にも、コンドリーザ・ライス国務長官、CBSのイブニング・ニュース初の女性アンカーであるケーティ・クーリック氏、20年続くトーク・ショー番組を持つ「全米でもっとも影響力のある女性」であるオプラ・ウィンフリー氏などを取り上げた上で、「私が取材したトップをねらうアメリカの若きエリート女性たちは、いずれも媚びることを拒むオトコ・タイプだが、自分のための『セクシーさ』を必須アイテムとしていた」と述べ、「仕事から導かれる女性のセクシーは、女性が憧れるセクシーではあるが、今のところ、日本の男性に『もてる』ためのセクシーとは、異なるような気がする」と述べています。
 第4章「アメリカのキャリア・マナー」では、「アメリカでは、キャリア・ファッションにいくつかの決まり(ファッション・コード)が存在していた」ことに、数年取材していて気がつかなかったと述べた上で、「一言で表現すれば、アメリカのキャリア女性の職場ファッションは、日本に比べるとより機能的である」と述べています。
 そして、そして、ヲール・ストリートに存在する4種類の女性として、
(1)社交界コマンダー:キャリア2、3年で、裕福な家庭出身。人生の目的はなんといっても楽しむことであり、NYライフを満喫する。ボーイフレンドの回転率は速い。
(2)花婿探し:キャリア3年から5年で、NY均衡の裕福な家庭出身。仕事もパーティのホストもうまくこなす。ウォール・ストリートで働く最大の目的は両親が与えてくれた環境と同等かそれ以上の生活を約束してくれる男性を見つけ、結婚すること。
(3)アイビー・お局:キャリア20年から30年、地位も収入も手にしている。生活すべてを仕事に捧げ、ウォール・ストリートでもっとも不幸な種類の女といううれしくない称号をもっている。
(4)全方位型野心家:15年から20年のキャリアを持ち、アイビー・お局以上の地位と収入を持ち、夫と子どももいる。キャリア女性のNY的成功型は、結婚と仕事を両立させる管理職で、社会貢献への意欲がある、というイメージである。
の4種類を紹介しています。
 また、キャリア女性の「パワー・シンボル」として「上質なスーツとハイヒール」、そして「パワーカラーは赤である」と述べています。
 一方で、東海岸と西海岸のビジネス・ファッションのルールの違いについて、「西海岸でスーツを着ているのは弁護士やコンサルタントで、取引の意思決定に関係ない人」と理解され、「西海岸のホテルや会議の席では、スーツ姿ではなく、ネクタイをしていない人がもっとも権力がある人である」と述べています。
 さらに、「キャリア女性のアメリカン・ドリーム」として、「仕事と家庭を両立させ、いずれにもある程度満足して暮らすという女性像」を挙げ、「浮気の心配がなく、キャリア向上の助けになり、家庭に参加する男性が現代版スーパー・ハズバンド」だと述べています。
 第5章「できるオンナたちの新ルール」では、
・Rule 1:キャリアのピークを50代に設定:いままでの、かっこいいキャリア女性のイメージは20代後半から30代後半だった。
・Rule 2:オンナ・フェロモンを上手に使う:好感度が高い万能オンナ・フェロモン
・Rule 3:"愛嬌"を"にこやか"に進化させる:それには、時間と共に醸成される「信頼」と「上品」という要素が必要になる。
・Rule 4:手柄の配分を心がける:男女に関係なく仕事の不満の多くは、「手柄の配分」に関わるものだ。
・Rule 5:オンナ同士の悪口は言わない:オトコたちは赤提灯での「愚痴歴」が長い。愚痴の対処法を知っている。
・Rule 6:"性悪女"をのさばらせない:彼女たちをのさばらせないことは、これからのできる女の新しい任務なのかもしれない。
・Rule 7:オバサン・キャリアも戦略のひとつ:これからは植木等型サラリー・ウーマンが出てくるのかもしれない。
・Rule 8:結婚はしたほうが、お得:いまや、女性もダンナからの内助の功と「外助の功」が必要なのである。エリート女性を解剖するたびに、結婚しなきゃと焦ってくる。
・Rule 9:いい年したオンナのスッピンは罪である
・Rule 10:「身だしなみ」の世界標準を知る:ポジションにあった身だしなみをすることは、できるオンナの条件である。
・Rule 11:オンナを活かして起業する:女性ならではの、ビジネスやマーケットの第一人者になる、というキャリアのつくり方もある。
の11のルールを挙げています。
 本書は、もちろん女性のために書かれた本ですが、男性にとっても多くの教訓を与えてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 著者の横江さんには、6年ほど前に仕事でご講演をお願いする機会があり、その時に初めてお会いしました。当時は、ヴォートジャパン(株)の社長を務められていましたが、その後も、次々に著書を出され、新聞などでコメントされ、日本の枠に収まらない活躍をされています。
 たまにホームパーティを主催されているのですが、本書を読んで、ホームパーティのホストにかける世界標準の気合いの一端を見てしまったような気がします。


■ どんな人にオススメ?

・「キャリアウーマン」というと30歳前後のキツそうなお姉さんをイメージしてしまう人。


■ 関連しそうな本

 横江 公美 『判断力はどうすれば身につくのか―アメリカの有権者教育レポート』 2005年07月13日
 横江 公美 『Eポリティックス』 2005年02月11日
 横江 公美 『第五の権力 アメリカのシンクタンク』 2005年06月13日
 脇坂 明, 冨田 安信 (編集) 『大卒女性の働き方―女性が仕事をつづけるとき、やめるとき』 2006年05月02日
 ロザベス・モス カンター (著), 高井 葉子 (翻訳) 『企業のなかの男と女―女性が増えれば職場が変わる』 2005年10月11日
 篠塚 英子 『女性リーダーのキャリア形成』


■ 百夜百音

TWIN BEST タイムボカン 名曲の夕べ【TWIN BEST タイムボカン 名曲の夕べ】 TVサントラ オリジナル盤発売: 1998

 タイムボカンシリーズといえば、善玉よりも悪玉が本当の主役と言われるだけあって、オープニングよりもエンディングの方が印象に残っているようなきがします。ただし、どれも同じメンバーなのでどの作品かは区別がつきませんが。

2008年6月13日 (金)

集合住宅と日本人―新たな「共同性」を求めて

■ 書籍情報

集合住宅と日本人―新たな「共同性」を求めて   【集合住宅と日本人―新たな「共同性」を求めて】(#1240)

  竹井 隆人
  価格: ¥2940 (税込)
  平凡社(2007/10)

 本書は、「都市に居住する日本人が『共同性』を帯びる可能性を持つものとして、住宅の集合体たる集合住宅を主題とする」ものです。著者は、これまで集合住宅研究が、「建築や都市計画を専門とする工学的アプローチ」であり、集合住宅の「共同性」という課題については、「"コミュニティ"が方法論なきままひたすら唱和されるのが常であった」ことを指摘し、「"まちづくり"の実務(事業企画)の最前線に立ってきた」現場での経験から、「"まちづくり"で求められる『共同性』は"コミュニティ"という麗々しい言葉の連呼で形成されることはまれであり、あるいは、それがたとえ成就しても、たちまち水泡と帰すことも多い」と述べ、「『共同性』における"コミュニティ"という常識から離れ、集合住宅では政治的な『共同性』を追求すべきだとの信念を持つに至った」と述べています。
 序章「日本人と『共同性』」では、フランシス・フクヤマが日本を高信頼社会であるとした論拠である「会社主義」について、その真髄は「社員相互で家族同様の固い結束を求めること」であるとした上で、「中間共同体としての『共同性』を一身に集めてきた『会社主義』が終焉を迎えたいま、『会社』の呪縛から逃れた日本人はどこに『共同性』を求めていくべきなのだろうか」と述べています。
 第1章「個別化する都市住宅」では、「集合住宅」を、「住宅同士の物理的接合、建物内における共同利用施設の物理的存在の如何によらず、『共同性』を持つ複数の住宅の集合体をいう」と定義し、「戸建住宅による住宅群に『共同性』があればそれを対象に含める」と述べています。
 そして、分譲マンションについて、「匿名性を求める住民が多いほか、住民間の交流はえてして地域性を喪失し、気の合った者同士が選択的友人関係に収斂していく一般的傾向がある」と指摘し、「共同性」の形成を図ろうと、「ほかの住民との交流を重視する"コミュニティ"が連呼されてきたが、その成果は乏しいといわざるを得ない」と指摘しています。
 第2章「唱和される"コミュニティ"」では、「都市住宅の個別化」について、「得てして集合住宅なるものが住宅の単なる物理的集合に成り果てている感もある」とした上で、「『共同性』の喪失に対する危機や焦燥、そして『共同性』の回復への希求や思慕は、しばしば用いられる"コミュニティ"という言葉に象徴される」と述べています。
 そして、日本において、"コミュニティ"がという言葉が、「各個人の帰属する地域での最小規模の社会的集団にあるだろう。すなわち、地縁に根ざした近隣社会、地域社会といった基礎的集団を指すと思われる」とした上で、「"コミュニティ"という語は、親和性を強調するあまり、生活上の『共同性』を担保するものでないこと」が多く、「課題解決の手法として機能しないこと」を指摘するとともに、「あくまでも自発的なもの」であったはずの"コミュニティ"を公的機関が政策として掲げること自体の矛盾を指摘し、「国家や行政の方向性を論じるすべての者にとって、"コミュニティ"はとても使い勝手がよく、受けもよい用語」であったと指摘しています。
 また、評論家の山本七平が、指摘した、「日本独特の教義」である「日本教」について、
(1)その教義が体系を含めて明文化されていない。
(2)教義そのものが、その時々の「話し合い」によって醸成される「空気」に従うべきとでもいうもので、括弧たる規範の存在しない無規範であることが原則。
(3)論理がないことから、このように醸成された空気はたやすく絶対と化し、反論は許されない雰囲気ともなる。
等の特徴を挙げ、「先に論じた"コミュニティ"なる語句が、日本人に斯くももてはやされるのは、それが『日本教』と相通ずるからに相違あるまい」と述べています。
 そのため、「相互交流を基調とする"コミュニティ"に疑問を呈しただけ」で、「『そういうことをいう人間がいるからコミュニティが進展しないのだ』と、感情的に非難をあびせてくるコミュニティ原理主義者が少なからずいる」ことを指摘し、「こうした態度こそ、異論を許さない『日本教』に通じる、非寛容の精神に発しているのであり、このような精神は、"コミュニティ"に疑問を投げかけることさえもタブー視する雰囲気をつくることとなる」と指摘し、「"コミュニティ"を絶対視し、祭り上げる姿勢からは、"コミュニティ"に関する研究の発展は生じようがない。これは、まさに原理主義であるといえよう」と述べています。
 さらに、「"コミュニティ"に代表される楽天的に相互交流を望む声などはしょせん精神主義に過ぎぬか、あるいは、居所の流動性によって故郷喪失を憂い、都会で汚れた精神の浄化を望む、都市に住む現代人にとっての身勝手な『愁毒(ノスタルジア)」でしかあるまい」と述べています。
 第3章「"コミュニティ"から"ガバナンス"へ」では、コーポラティブ方式の集合住宅の「共同性」を検証した上で、"コミュニティ"が、「人間同士の素晴らしい触れ合いを生むと同時に、個人の自由を抑圧し嫌悪感を生むリスクもある」ことや、「濃密な人間関係が築かれた」として、「決定的に悪化する流動性をも常にはらむこと」や、「こうした親和性がコーポラティブ方式の特徴であることが広く認識されたことが、都会に居住する現代人には敬遠され、需要低迷の一端をなしたのではないか」と述べた上で、「ムラ社会の"コミュニティ"に回帰するのでなく、都市に見合った『共同性』が求められるべきではないのか」と指摘しています。
 第4章「『政体不在』の"まちづくり"」では、「行政区域より狭い領域で、ひとまとまりの市街地からなる居住区を"まち"と呼ぶものとすれば、その活性化を求める"まちづくり"なる語句が、さながらインフレーションをきたすほどに唱和されている」ことについて、その背景として、「従来までの都市計画に対するアンチテーゼ」を挙げ、「官製の都市計画に反抗し、それを見直そうという思いが底流に潜んでいた」と述べ、「茫漠なイメージでの"まちづくり"ではあるが、その本質は『共同性』にあり、『官治』の対置たる『自治』を重んじることにあるならば、とくにその『自治』における『自主性』なるものは、行政に対してただ要望や苦情をいうことを本則とするのではない。むしろそれが、どうしたら創出されるのか考えるべき」であるとし、「それこそ、住民主体で居住区を統治していくことが、"まち"としての『共同性』を創出する動力源(ダイナモ)となるのではないのか」と述べています。
 そして、19世紀イギリスのエベネザー・ハワードの田園都市構想が、20世紀にアメリカに輸入され、「広大な共用する空間や施設たるコモン(Common)を備えた計画」が、「制限約款と結合してCID(Common Interest Development:コモンを有する居住区)として完成」したとして、その嚆矢となった1928年完成のラドバーン(ニュージャージー州)を挙げ、「いまや、全米におけるCIDの数は約25万で最近時は毎年約1万ずつ増加している」とともに、「その居住者は全米人口の第6分の1に相当する4200万人を超えるとも推計される」と述べています。
 その上で、「わが国で開発された多くの戸建住宅からなる居住区」が、著者の定義した「集合住宅」とは異なり、「単に物理的に集合した別個に独立した住宅群に過ぎない」と述べ、「社会、政治的側面に着目するならば、わが国の郊外住宅団地はアメリカの『プライベートピア』と異なり『私的政府』が存在しないという意味で、相似するものでは決してなく、この実態は戦後の高度成長期にブームとなったニュータウン建設においても踏襲された」と述べています。
 第5章「要塞都市:ゲーテッド・コミュニティ」では、アメリカにおける「CIDでもっとも先鋭化した形態、すなわち居住区全体を外壁で囲い込み、いわば要塞化する『ゲーテッド・コミュニティ(gated community)』と呼称される居住区が登場し、見る間に急増していった」として、「今やアメリカの高級居住区でゲートを設置することは当たり前のこと」になり、「比較的大規模な居住区」では、「中流階層の手の届く価格設定」がなされ、「収入分布の最下層を除けば、あらゆる階層にとって一般化した居住形態となっている」と述べています。
 そして、「ゲーテッド・コミュニティ」を、ブレークリー&スナイダーによる類型化として、
(1)威信(プレステイジ)型:特定の富裕層が居住する、稀少な人にとっての稀少な居住区
(2)ライフスタイル型:平均的アメリカ人をも対象層とした「退職者向け居住区(retirement community)」など。
の2つに分け、前者については、「飛び地」を意味する「アンクレイヴ(enclave)」を初期の典型とし、ここからさらに、
・「上位5分の1の富裕層向け」:「アンクレイヴ」の居住者荘である超富裕層に雇われる人たちの居住区・・・CEOやファンド・マネージャーなど
・「中流階層向け」:実際の居住者は中流階層だが、見た目は「上位5分の1の富裕層向け」と掃除した居住区・・・「似非威信型」
とが派生したと解説しています
 また、わが国でゲーテッド・コミュニティが知られるようになると、「政治学者や社会学者などの一部にはその外部社会に対する閉鎖性をとらえ批判する論調」が現れ、「建築系や都市計画系の工学者も視覚面や物理面から当然のように否定的な目」を向けたが、著者は、「わが国には超高層に代表される分譲マンションという閉鎖的空間が次々とできあがっているのに、こうしたゲーテッド・コミュニティを排撃する論者はそれを看過している向きが多いこと」に、「奇異の念を抱く」と指摘しています。そして、超高層マンションを、「充実したアメニティ施設による『ライフスタイル型』や、外界を睥睨するかのごときステイタスを誇示する『威信型』の要素をも併せ持った、まさに"究極の"ゲーテッド・コミュニティである」と述べています。
 第6章「都市を集合住宅とせよ」では、「古来、都市とは富が集積する場所であり、それは部外者による収奪の的となるため、その周囲には城壁が構築されるのが常であった」として、「都市の期限とは、ゲーテッド・コミュニティの起源そのものといえる」と述べています。
 また、「居住区を管制(コントロール)する私的政府の主体が住民である」と言うときに、「町内会や自治会の姿を重ね合わせる方も多い」が、「この町内会や自治会では力不足」であるとして、「一定の居住区内の全住民を拘束するものでなく、その参加離脱を強制できない限界」を抱えているという「包摂性」の問題を指摘しています。
 そして、著者は、「『集合住宅』における既存の制度を用いて"まち"を拘束しようとする独自の視点をもつ。それにより、ある境界内の"まち"の住民すべてを拘束する『共同性』の形成を目指すもの」であると述べています。
 さらに、「住民運動」について、著者が主張する「『私的政府』による居住区の管制(コントロール)からは相当に乖離している」と述べ、「住民運動に透けて見えるのは、自分たちの住宅を既得権とし、それ以後に建設される住宅のみに規制をかけるべきだという身勝手さ、あるいは、外野からワーワー騒ぐだけで主体とはならない無責任さ」であると指摘しています。その上で、「国立マンション事件」や、著者が生まれ育った京都の町家の保存の事例を取り上げています。
 著者は、「近時に叫ばれる"まちづくり"とは、しばしば『やさしい』『元気の出る』などといった、こちらが気恥ずかしくなるようなフレーズを冠とするスローガンを口にする専門家も横行する」が、「内容の乏しいスローガンの連呼は空疎なのみである」と述べ、対案として、「"まちづくり"は『私的政府』を設置することからはじまる」と対案を示し、「"まちづくり"とは住民主体を本則とし、経済的恩恵に特化せずに純粋に居住区の生活環境の維持向上を図っていくことが不可欠なのであり、そのためには"まち"の構成員たる居住者の総意を汲み取った『制限』を確立させることが求められる」として、「"まち"を『私的政府』のある集合住宅とすることが有効なのである」と主張しています。
 第7章「私的政府における参加と熟議」では、「集団をよりよき方向に導くためには、その集団の構成員が自ら直接的に業務を執行する必要があるわけではない」と述べています。
 そして、「アメリカには、どこの地方自治体にも属さない『未法人化地域(unincorporated area)』も多く存在し、それは全体の7、8割を占めるとも推計されている」として、「地方自治体というのは、住民の要請によって週から憲章(チャーター)を授けられ法人化することではじめて創設される」と述べています。
 著者は、「『私的政府』の効用は、既存の『公的政府』よりも、共同利用する空間や施設への共有の認識を強め、直接民主制によればその為政に対する疑問を反映させる度合いも高められることにある」と述べ、「『自立』を各地方行政における病理にとって、『私的政府』はいわば『究極の地方分権』として救いの一手となるやもしれぬ」と述べています。
 第8章「都市人の理想――『警戒』と『自立』」では、「保安(セキュリティ)を望む居住者の欲求を取り込む」というデベロッパーにとっての至上命題を解決する方法として、「戸建住宅群による居住区であっても私の定義する集合住宅とすること」であるとして、「分譲マンションと同様に建物区分所有法を適用させ、居住区内に共用施設があれば、それを区分所有法上の団地規定により設立される管理組合法人の所有とすることである」と述べ、「戸建住宅群による居住区に集団的な保安を導入するためには、『制限』の受容と、それを『私的政府』が管制する仕組みがまず不可欠」だと述べています。
 そして、『ユダヤ人と日本人』の著者であるイザヤ・ベンダサンlこと山本七平が、日本人を「安全をタダだと思っている」と指摘した点について、
(1)何をせずとも「安全」であることを常態とする意識
(2)「安全」を脅かす異常な事態が生じた場合も、それを誰か自分ではない他者が回復してくれるはずだという「他律」の意識
の「2つの意識が内在される点で重要である」と述べ、「日本人に『警戒』が存在しないことに相違あるまい」と指摘しています。
 また、「犯罪者は声をかけられると警戒し、犯罪を諦めるという理屈」について、
(1)都市であれば、その近隣の居住者すべてと顔見知りになることの非現実性
(2)挨拶を交わす習慣があれば、犯罪者は警戒するはずだという通念に誤謬はないといえるのだろうか。
の2点を挙げ、「『コミュニティがあれば防犯は大丈夫』といわんばかりの主張には首を傾げる必要があろう」と述べています。
 さらに、「わが国にゲーテッド・コミュニティが存在しなかった、より根本の理由」として、「日本という国家そのものが四囲を大海原という天然の要塞で守られた国家単位のゲーテッド・コミュニティであったからではないか」と述べ、「わが国そのものがゲーテッド・コミュニティであったからこそ、『日本教』が成立したといえるのではないか」と述べています。
 著者は、「『個人対個人』の交流を基調とする"コミュニティ"は崇高なものである」が、「それを声高に叫ぶのみでは"コミュンティ"の形成が約束されるわけではなく、『空念仏』の域を出ない」と指摘しています。
 終章「デモクラシーと公共性」では、本書が、「現代社会という一生涯出会うことのない多くの他者と築くべき『共同性』なのである」と述べ、「都市社会とは『見知らぬ他者』とのつながりを前提としている以上ルール(法)を解して『システマティック』に『共同性』を作り上げていくしかない」と述べています。
 本書は、いわゆる「集合住宅」に住んでいない人にとっても、自分の住環境を大いに考えさせてくれる一冊ではないかと思います。


■ 個人的な視点から

 所得によって、済むところに明らかな差別が生じてしまう「ゲーテッド・コミュニティ」は、身分差別で済むところも制限されてきた過去を持つ日本社会では露骨過ぎて抵抗があるのかもしれません。
 そうはいっても、東京23区のうち、お金持ちは何区に住んで、貧しい人は何区に住んでいる、ということが実態として明らかになっている今、建前にしばられるのは損な気がします。
 江戸時代に、町には木戸が付いていましたが、車両と歩行者の分離や環境の観点から、町の入口に現代の木戸を設けるというアイデアは意外と健全なのかもしれません。


■ どんな人にオススメ?

・自分は「集合住宅」に住んでいるのかが不安な人。


■ 関連しそうな本

 竹井 隆人 『集合住宅デモクラシー―新たなコミュニティ・ガバナンスのかたち』
 エドワード・J. ブレークリー, メーリー・ゲイル スナイダー (著), 竹井 隆人 (翻訳) 『ゲーテッド・コミュニティ―米国の要塞都市』
 エヴァン マッケンジー (著), 竹井 隆人, 梶浦 恒男 (翻訳) 『プライベートピア―集合住宅による私的政府の誕生』
 ジグムント バウマン (著), 奥井 智之 (翻訳) 『コミュニティ 安全と自由の戦場』 2008年01月12日
 山岡 淳一郎 『あなたのマンションが廃墟になる日――建て替えにひそむ危険な落とし穴』 2008年06月02日


■ 百夜百マンガ

しおんの王【しおんの王 】

 作品自体は完結してしまったのですが、原作者の「かとりまさる」が棋士の林葉直子だということを知りませんでした。かえって、先入観なく読めたと思いますが、結局事件の動機はなんだったのかよく分からずじまいでした。まあ、風呂敷を上手に広げて最終回まで引っ張ることこそがマンガの楽しみの一つだと思えば文句はありません。広げすぎと思われた風呂敷を見事にたたむと名作になる可能性があります。

2008年6月12日 (木)

奇妙でセクシーな海の生きものたち

■ 書籍情報

奇妙でセクシーな海の生きものたち   【奇妙でセクシーな海の生きものたち】(#1239)

  ユージン・カプラン (著), 土屋 晶子 (翻訳)
  価格: ¥2310 (税込)
  インターシフト(2007/11/15)

 本書は、大学で生物学を教える研究者である著者が、「ホルモン満載の若い男女の心を、講義ではなすテーマにつなぎとめるにはどうしたらいいだろうか」という難問に、「講義でセックスの話を惜しみなくしていく」ことで、「沸き立つホルモンが渦巻いている頭の持ち主たち」の耳を傾けさせる、という「生物学をうまく教える秘訣」を実践した物語をまとめたもので、「海にすむ動物たちのつがい行動や性に関連した習性がテーマ」となっています。
 第2章「マダコ狩り大会」では、「タコこそ百獣の王である」として、「瞬時にからだの色を変えること」ができ、「ジェット推進を発明」し、「形態的にも科学的にもびっくりするような多様性が試されていった進化の歴史を体現」していると述べ、「もし、あなたがライオンにかまれたら、命が助かる確率は、ヒョウモンダコからかまれたときよりも高いに違いない」と述べています。
 第3章「真夜中の怪談話」では、人間の局部を狙ってくる魚カンディルを取り上げ、「その魚が怖いのは、人間の尿道口から侵入し、膀胱の中にまで入り込み、ついにはその人間を殺してしまうところにある」と述べ、どうみても腐肉食動物であるカンディルが人間を狙う理由として、「誘因は尿ではないか」という説が有力だが、「排出される尿の流れがカンディルをよびせるのだろうか」と述べています。
 第5章「ロマンスの現実」では、エビの甲殻に印をつけて、「オス・メスの貞節度」を調べたところ、「彼らは同じ相手と一ヶ月以上つがいになるケースはほとんどない」ことが分かった一方で、クマノミの「気性の荒い小柄なオスと、のっそりした大柄なメス」は、「終生に渡る関係を結ぶ」と述べています。
 第8章「学名が唯一つけられた雄性生殖器」では、19世紀にメスイカの外套腔のなかから発見された、「小刻みに動く奇妙な『物体』」について、「メスだけに寄生するまれな種類の寄生生物」として発表され、新しい属名「ヘクトコトゥルス」がつけられたが、「何年も後になってから、ヘクトコトゥルスと名づけられた生物は、オスイカの先端がちぎれたものだったと判明する」と述べ、「繁殖のさなかの激しい動きで、精包
を渡す役目のオスの交接腕の先が、メスの外套腔のなかで切れて残っていただけの話だった」と解説し、その後も、頭足類の「精子を運ぶ腕の先端部」をヘクトコトゥルスと呼ぶようになったと述べています。
 第10章「オスが『出産』する」では、タツノオトシゴのメスが、「数百個の卵を『オスの腹の育児嚢』に注入」誌、「オスが『出産』の日を迎えるまで、育児嚢は文字通り、子どものゆりかごとなる」と述べています。
 第13章「死と隣り合わせの美味」では、東京のフグ料理店で日本のフグ文化とであった著者が、唇に「ぴりぴりした快い刺激を感じはじめ」、椅子から立ち上がるときには、「指先がしびれているような感じ」がした、という「スリリングな思い出」を語り、「調理人が包丁捌きを間違えていれば、ハッピーエンドにはならなかったかもしれない」と述べています。
 そして、魚毒に関する日本の毒物学者たちの仮説として、海底の海草を食べる植物食の魚が、海草の表面の毒性のある「渦鞭毛虫類」を一緒に食べてしまい、「毒がどんどん蓄積されて」いき、「植物食の魚を手当たり次第に食べていった肉食魚は、シガトキシンの保有者となる場合がある」と解説しています。
 第14章「海のウサギ」ではアメフラシについて、「雌雄同体」であるアメフラシの交接が始まると、その匂いで別のアメフラシが寄ってきて、最初の「オス」として精子を放出したばかりの「オス」の後ろに並び、「ペニスをその『オス』の生殖腔に入れる」という「数珠つなぎ」の状態になることを解説しています。
 第15章「貝紫への情熱」では、第二次世界大戦のガダルカナル島での熾烈な戦いの後、一息ついた若い米兵が、海岸で、「白地に茶色の斑点」が入った「つやつやした美しい円錐状の巻き貝」を見つけ、拾い上げようとしたところ、「貝の口から逆さとげの突いた銛が突き出て、彼の手のひらにぶすりと刺さ」り、若者は数分後、「からだじゅうが震えはじめ、ついに死んだ」というエピソードで、猛毒を持つアンボイナ(Conus geographus)だったと解説しています。
 第16章「大きいほうがいい?」では、「並外れて接着力の強い分泌物で岩にくっついて」いるフジツボが、「近くの『メス』から性的に刺激される成分が海水中をふわふわと漂ってくる」と、「オスのフジツボの蓋がひめやかに開き、柔らかの肉の突出部が現れ」、「性的フェロモンの源の方へとしなやかに進」み、殻の長さよりもまだ遠い、メスの場所までちゃんと届き、「受精は無事成立する」ことを解説し、「フジツボたちのジレンマに対する解決策は、どの動物よりも大きなペニスを持つように進化することだった」と述べています。
 そして、「古くからのやり方を変えないフジツボたちの繁殖システム」が、ネオダーウィニズムを唱える人々からすると、「生息場所を動かない生物のオスがペニスを持つのはサバイバル上、何らかの有利な点があるからだという見方につながっていくだろう」が、空腹の捕食者に食べられてしまうリスクを考えると「これはどうも有利な方法だとは思えない」と述べ、「進化には決まった方向性というものはないのではなかろうか。現在の体の構造や行動は、代わりになるほかの突然変異のセットが起こらなかったから、その結果として存在しているだけなのかもしれない」と述べています。
 第19章「奔放なセックスライフを送るには」では、メスのエビが交尾可能になるには、交尾の前に脱皮していなければならないため、「性行動を行うには、脱皮の時期をコントロールする必要がある」ことを解説した上で、ブラックタイガーの養殖のため、エビが繁殖行動を行うように、片方の眼柄を切除してしまう、という解決策を紹介しています。
 第23章「ヒトデとカキの戦いの真実」では、カキ漁師たちがカキを食い荒らすヒトデを駆除しようとして、ヒトデをナイフで真っ二つに裂き、海に戻したところ、ヒトデたちがそれぞれ再生し、「カキたちはヒトデに食べつくされ、市場への出荷もままならなくなった」と述べています。
 第27章「性的に抑圧されていたビクトリア時代の分類学者」では、「巻き貝のなかにも女神に関わる名前をもらったものがいる」として、「その形状が女性の外性器に良く似ている」タカラガイ科キュプラエア(Cypraea)について、女神「アフロディアゆかりの島であるキプロス(Cyprus)を意味する」と述べ、「アフロディアは多産の神ともされている」と解説しています。
 第31章「タコと見つめ合うとき」では、人間の眼が3タイプの錐状体で赤・緑・青の波長を吸収し、それをもとに3万種類の色調を区別しているのに対し、シャコたちの視物質は、最大で16種類もあり、そのうち12タイプが、「色」を識別する能力のベースとなり、「微妙な色の違いまではっきり捉えることができる」ほか、「紫外線や可視光線の偏光もキャッチできる」ため、「彼らは何百万色もの微妙な色合いの世界を見ていることになる」と解説しています。
 本書は、目立つ邦題ではありますが、きちんと読めるしっかりとした生物学のポピュラー・サイエンスの一冊です。


■ 個人的な視点から

 本書の邦題の「セクシー」は、原題のニュアンスやプロローグの辺りから付けられたものではないかと思いますが、なんとなく、キワモノっぽいというか、さすがに人間がドキドキするようなセクシーさではないことは分かっても、「へんないきもの」のような海の生き物の変わった生態をただ紹介するだけの単調な本のような印象を受けてしまいました。
 とはいえ、人によってツボも違うと思いますのでこういう本のタイトルは難しいと思います。


■ どんな人にオススメ?

・豊かな海の営みの中に飛び込んでみたい人。


■ 関連しそうな本

 デイヴィッド バラシュ, ジュディス リプトン (著), 松田 和也 (翻訳) 『不倫のDNA―ヒトはなぜ浮気をするのか』 2007年08月04日
 リチャード・ドーキンス (著), 日高 敏隆, 岸 由二, 羽田 節子, 垂水 雄二 (翻訳) 『利己的な遺伝子』 2006年09月26日
 マーク・E・エバハート (著), 松浦 俊輔 『ものが壊れるわけ』 2007年12月01日
 ジョン・D・ バロウ (著), 松浦 俊輔 (翻訳) 『科学にわからないことがある理由―不可能の起源』 2007年06月24日
 キース・J. レイドラー (著), 寺嶋 英志 (翻訳) 『エネルギーの発見』 2007年03月04日
 ピーター アトキンス (著), 斉藤 隆央 (翻訳) 『ガリレオの指―現代科学を動かす10大理論』 2006年5月5日


■ 百夜百マンガ

世界の孫【世界の孫 】

 アフタヌーンでは結構エロ出身のマンガ家が活躍(というか半分くらいはそうなのか?)しているので、それ自体は珍しくもないのですが、「ゆらさん」のパパであったことは今日初めて知ってビックリしました。

2008年6月11日 (水)

ローカル・ネットワークの時代 ミニコミと地域と市民運動

■ 書籍情報

ローカル・ネットワークの時代  ミニコミと地域と市民運動   【ローカル・ネットワークの時代 ミニコミと地域と市民運動】(#1238)

  丸山 尚
  価格: ¥1,890 (税込)
  日外アソシエーツ(1997/04)

 本書は、日本で唯一の"ミニコミ資料センター・住民図書館"の館長による、「市民のメディアとしてのミニコミと呼ばれる小さなメディアが、小さいがゆえにどのような役割を果たしてきたか。それらの活動を支える地域は、どんな状況をはらみつつ『場』としての機能を発揮しているか。そして人々の共同の力の結集としての地域活動や市民運動の現状は…」といった問題を論じたものです。
 第1章「阪神大震災とミニコミとボランティア」では、「情報は、最もそれを必要としている人に、必要なときに届けられて意味がある」として、「外部からの情報に頼れなければ、内部の情報を整理し、伝える努力が必要になる」として、阪神大震災における情報活動が始められたことが述べられ、災害発生3日目の1月20日に、避難所の一つである神戸市中央区の市立小野柄小学校の教師が始めた手書きの『避難所新聞』を紹介しています。
 そして、「当事者による情報伝達が中心であった」中で、ピースボートのメンバーが、「情報ボランティアに的を絞った活動をしよう」と動き出し、2トントラックに「リソグラフ」を積んで神戸に行き、長田区新湊川公園を本拠に『デイリーニーズ』を創刊したことが紹介されています。
 また、阪神大震災における支援活動の特徴として、「ミニコミやビラ、チラシなどによる、メディア活動が活発に行われたこと」を挙げ、「それらの記録を収集し、公開、保存をしていこうというボランティア活動もある」としています。
 著者は、阪神大震災を、「いざというとき、少なからぬ数の市民が自らの意思と判断で行動し、それがゆるやかなネットワークをつくり、社会的インパクトを持つ存在として様々な状況に対応する力をもっていることを示した」と述べています。
 第2章「住民運動、市民運動と住民図書館」では、1996年4月に設立20周年を迎えた住民図書館について、資金不足で苦労している内情を紹介しています。
 そして、「市民の活動が活発になれば、活動の意味や役割、現状や目標を人々に伝えるビラ、チラシ、パンフレット、新聞などが発行されるのは当たり前」として、「運動を発展させていくための情報を当事者を中心に伝えていくメディア」を「ミニコミ」と呼ぶと述べ、住民図書館が、「市民の主体的な活動を通して生まれてくるミニコミ、パンフ、ビラ、チラシなどの(1)収集、(2)公開、(3)保存を目的とする資料センターである」と解説しています。
 著者は、住民図書館を存続させたい理由として、「それは私たち市民の、共通の財産だからである」と述べています。
 第3章「1990年代のミニコミ事情」では、ミニコミを、「小さなメディアの総称」であり、「マスコミに比べ、発行部数が少ない。そのため、影響力の範囲が狭い。その代わり、マスコミに出来ないことができる」と述べ、著者が考える望ましいミニコミについて、
(1)意見や情報を持っている普通の人(市民)が、自由にそれを伝えたり交換し合うためのメディア。
(2)自主的に発行され、購読料や広告料を得るのは当然であるが、それによって利益を追求しないメディア。
(3)発行部数や発行回数の多さなどにより、その形、中身とも個性や独自性、あるいは多様性にあふれているメディア。
(4)読者など人とのかかわりにおいては、閉ざされた関係ではなく、つねに開かれた人間関係を保障しているメディア。
(5)市民のメディアとしての特性を大事にし、権力や資本におもねず、少数者(マイノリティー)の立場からの言論・表現活動を重視するメディア。
(6)マスコミの裏側に立つという認識を重視し、異常性の追求ではなく日常の暮らしの中から、社会的課題に取り組むメディア。
の6点を挙げています。
 そして、アメリカでは、「日本のようなマスコミとミニコミという区分けは存在しない」として、「在野の革新的メディアは『オルタナティブ(もう一つの)・メディア』と呼ばれ、それに対する一般のマスコミは『メインストリーム(主流)・メディア』と呼ばれている」と述べ、『Alternative Press Index』という季刊の記事索引書が出版され、オルタナティヴ・プレスの"リーダース・ダイジェスト"ともいえる『アトニ・リーダー』が隔月刊で発行されていることを紹介しています。
 著者は、「ピラミッド型の階層組織を否定し、市民の自発性に根ざし、一人ひとりの思いや欲求に基づいて自由に行動していくためには、何よりも個人の意思が尊重されなければならなかった」として、「このとき重要になるのが、参加者の意思を自由につなぐ情報と、それを伝えるメディアである」と述べています。
 そして、「ネットワークは活動する人々に元気を与え、交流を通して体験を学び、人間が人間らしく生きることのできる社会を作っていくための、大切な手段となっている」と述べています。
 第4章「地域に根ざす活動とミニコミ」では、「地域に根ざす活動を探るとともに、人と人、人と地域を、メディアがどんな情報を載せて飛び交っているかを見ていく」としています。
 そして、「きわめて大ざっぱに、文字と印刷によるローカルメディアの現状を示」すとして、
(1)タウン誌:比較的若い世代をターゲットにした地域の文化、イベント、ショッピングなどの情報誌
(2)オールド・ローカルペーパー:主にタブロイド版新聞で伝統的な地域の情報メディア
(3)ニュー・コミュニティペーパー:80年以降に多く発行されるようになった、市民的視点を重視したローカルメディア
の3つに分類しています。
 また、「日本の市民運動や地域活動、それに連なるミニコミ活動を考えた場合、女性の存在を無視することはできない。それどころか、かなりの部分が女性によって支えられてきたといっても過言ではない」理由として、「女性は生活の拠点である地域と、密接に繋がっている」ことを指摘しています。
 第5章「インターネット時代の市民と情報」では、市民団体によるインターネットの活用を支援するボランティアグループ「ワールドNGOネットワーク(NWNN)」を取り上げ、メンガーの「インターネットこそ市民団体の活用に相応しい。多くの人に、安価に、そして連続的に、しかも"団体の規模などまったく関係なく"、対等に、自分の団体のPRができる」というコメントを紹介し、「インターネットはいわば、巨大な"口コミ"だ」と紹介しています。
 著者は、マルチメディア普及後の在来メディアについて、「当然のことながら現在の印刷メディアはそのまま残る」として、「それぞれのメディアの特徴を発揮しあい、機能の分担が行われて、これまで以上に印刷メディアも発展していくであろう」と述べています。
 本書は、市民活動を支えてきたミニコミの意義と役割を分かりやすく教えてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 最近、ミニコミを目にすることはほとんどないと思ったものの、もともとあまりミニコミに触れる機会はなかった気がします。その代わり、ブログやメルマガを使ったオルタナティブなメディアに触れる機会は徹底的に増えました。
 その意味では、「印刷メディア」が残るかどうかは、単なる技術的なものというか、コピー機やリソグラフが普及してガリバンはなくなってもミニコミは残ったように、オルタナティブなメディアとしての「ミニコミ」は残り続けたような気がします。


■ どんな人にオススメ?

・最近手書きのチラシをみかけなくなったことに気がついた人。


■ 関連しそうな本

 ダン・ギルモア (著), 平 和博 (翻訳) 『ブログ 世界を変える個人メディア』 2006年06月22日 06:00
 金子 郁容 『新版 コミュニティ・ソリューション―ボランタリーな問題解決に向けて』 2005年12月7日
 金子 郁容, VCOM編集チーム 『「つながり」の大研究―電子ネットワーカーたちの阪神淡路大震災』 
 川上 善郎 (編集), 高木 修 『情報行動の社会心理学―送受する人間のこころと行動』 2005年11月19日
 遊橋 裕泰, 河井 孝仁 (編さん) 『ハイブリッド・コミュニティ―情報と社会と関係をケータイする時代に』 2008年02月01日
 岩崎 正洋, 田中 幹也, 河井 孝仁 『コミュニティ』 2005年10月27日


■ 百夜百マンガ

同棲時代【同棲時代 】

 「昭和の絵師」と呼ばれて今でもカリスマ的人気を持つ人ですが、個人的には重くてつらかったです。今の人にとってはそれこそがいいのでしょうが。
 『寄生獣』の作者であるエノキダくんの師匠であるものの、こちらは連載が「白い」ことが多いのも楽しみの一つ。

2008年6月10日 (火)

戦争の見せ方―そういうことだったのか!戦争の仕組み

■ 書籍情報

戦争の見せ方―そういうことだったのか!戦争の仕組み   【戦争の見せ方―そういうことだったのか!戦争の仕組み】(#1237)

  三野 正洋
  価格: ¥1800 (税込)
  ワールドフォトプレス(2007/08)

 本書は、「互いに争う両方の側に、それぞれ言い分が存在する」戦争について、「自己の主張をいかに正当化するか、といった点が最も重要で、戦争の当事者たちはそれに全力を傾ける」という事実を念頭に、「『戦争の見せ方』を冷徹に論じようとする目的」で書かれたものです。
 そして、「戦争、紛争時のみではなく、平時においてさえ、この種の情報、宣伝戦の重要さがわかろう」として、
・パブリシティ
・マスコミュニケーション
の「能力に欠けていたり、また不足したりすれば、すぐさま敵を作り、味方を失う」として、「誕生してから半世紀を経ていないはずの明治政府」が、「信じられないほど見事な力を発揮し、イギリス、アメリカ、ヨーロッパの大部分まで見方に引き入れ」、日露戦争に勝利を収めたが、「残念ながらその後の100年にわたり大日本帝国、そして日本国も、先の二つの事柄を軽視してきた」と指摘しています。
 第1部「国家は戦争をどう伝えたか」では、Case.05「戦争中の対外宣伝」として、太平洋戦争の中頃から、アメリカ軍兵士に向けて放送された「東京ローズ」が、「時には兵士たちの故郷の音楽とともに武器を捨てるように話しかけ、時にはアメリカ海軍が日本艦隊によって大打撃を受けた」と述べ、「アメリカ人と変わらない流暢な英語を話した」ことが紹介されています。また、この「ゼロアワー」と題された放送の女性アナウンサーのうち、その代表である日系二世のアイバ・トグリ(戸栗)・ダキノが、終戦後、アメリカに帰国した後、国家反逆罪で6年服役し、1977年に市民権を回復、2006年に90歳で亡くなったことを紹介した上で、「南の戦場における東京ローズの"人気"は驚くべきもので、上官が兵士たちに聴取を禁止しようとすると反乱が起きるとまで言われた」と述べ、日本政府が意図していた米軍兵士の"嫌戦の機運"は高まらず、「アメリカの兵士たちは、何よりもラジオから流れ出る美しく、甘い声に魅了されただけだった」と述べています。そして、「このような女性を使った本格的な対敵放送を行なったのは、日本のみと考えてよさそう」だと述べています。
 一方、太平洋戦争勃発後わずか2日目から開始されたアメリカの対日宣伝放送は、「遠く離れた地域でも聞くことができる短波を用いたもの」だったが、「日本政府、日本軍は、国内はもとより占領地といえども、軍人、民間人を問わず、敵国の放送を聴くことなど絶対に許さなかった」ため、「当時のVOAを聴いていた日本人としては、対敵情報を集めている一部の軍人だけ」であり、「その数はきわめて少なく、定期的に聴取していたのは、多分100名に達していなかったのではあるまいか」と述べています。
 第2部「戦争報道とその真実」では、Case.11「国家が生贄とした3人の高位の軍人」として、スターリンに妬まれたために残虐な拷問の末に虐殺された「赤軍の中で最も有能な将軍」とまで言われていたトハチェフスキー元帥、真珠湾における大損害の責任を「職務怠慢」として少将に降格され後に退役を余儀なくされたキンメル大将、そして、イギリス首相チャーチルをして「砂漠の狐」と言わしめたドイツ軍のロンメル大将の3人を取り上げています。なかでも、ロンメルについては、人気を博した理由として、
・戦場が砂漠であったため、民間人を巻き込むことが少なく、ある程度"騎士のごとき戦い"が行なわれたこと。
・寡兵(少人数の軍)、よく大敵を倒したこと。
・ヨーロッパには存在しない砂漠という舞台であり、この戦場そのものが人々の興味を集めたこと。
・ロンメル自身が非常に容姿端麗で、典型的なドイツ第三帝国の軍人というイメージそのものであったこと。
などを挙げ、「姿、形と共に、清廉な軍人としてドイツ国民の信頼を得ていた」ことが、「ヒトラー、そして絶大な権力をもっているゲーリングとは根本的に異なっていた」として、「ロンメルこそドイツ国民にとってある種の希望」だったが、爆弾を使ったヒトラー暗殺未遂事件をきっかけに、「家族に危害を加えないことを担保として、自殺を強要」されたと述べています。
 また、Case.16「国家及び自己の宣伝に取り組んだ3人の男」として、
・母国の危機を粉飾のないまま国民に伝えたイギリスの首相W・チャーチル
・ドイツ第三帝国という国家よりもヒトラー総統にすべてを捧げた宣伝相J・ゲッペルス
・何にも増して自分自身の評価を高めるために策を用いたアメリカ陸軍のD・マッカーサー元帥
の3人を取り上げています。そして、第二次世界大戦における指導者の戦争の伝え方として、
・絶叫、獅子吼型:ヒトラー、ムソリーニ、東條
・演説型:チェンバレン、チャーチル、ルーズベルト
の2つのタイプに分け、チャーチルが「国民向けの演説で、その内容と共に文学的な素養を発揮した」と述べています。
 また、「主義、主張、思惑、教義などを伝える」プロパガンダを、ゲッペルスが「組織として確立した」と述べ、「例え嘘であっても、100回も聴かされれば、いつの間にか真実と思い込むようになる」という言葉と共に紹介されています。そして、「彼の目指した道は大きく誤っていたが、その手腕と手法は、まさに現代に通用するもの、いやそれどころか、マスコミ、報道機関がそのまま取り込んでいるものかもしれない」と述べています。
 さらに、マッカーサーについて、「I shall return」を実現してフィリピンに帰還することらか、「写真―大変に質の良いもの―が急激に増えてくる」として、「その表情、制服、ポーズとどれをとっても、信じがたいほど素晴らしい。とても戦争中の写真とは思えず、映画用のスチールといっても決しておかしくはない」と述べ、
・ズボンの裾を濡らし、フィリピンの浜辺に上陸する姿
・コーン・パイプをくわえたまま厚木飛行場に降り立つ姿
・朝鮮戦争の仁川(インチョン)上陸作戦の際、戦場から戦場を見つめる姿
などの写真について、「あまりに決まりすぎている」点を指摘し、彼が、「必ずお気に入りの専属カメラマンを使い、いかに自分がすぐれた軍人であるか、演出させた」からであると述べています。中でも、有名なフィリピン上陸時の写真では、撮影の3日前には「ズボンの裾を濡らすことなくこの地を踏んでいる」ことが「マスコミに向けインパクトに欠けると考えたらしく、3日後に例のカメラマン(複数)を呼び寄せ、幕僚と共に演出したと伝えられている」と述べています。著者は、フィリピン上陸の写真について、撮影地点から離れた場所では、日米軍の激しい戦闘が続き、現地住民を巻き込んだ悲惨なものになっていたにもかかわらず、「幕僚まで引き連れて自分のために演出写真の撮影を行う」軍人は、歴史を振り返ってもマッカーサーただ一人だったのではないかと述べています。
 Case.17「史上最も有名な写真の裏の真実」では、1945年2月23日に硫黄島で撮られた、星条旗を打ち立てるアメリカ兵の写真について、「この一枚こそ、世界で最も多くの人に見られた写真といっても決して過言ではあるまい」と述べた上で、この写真の裏に、「一筋縄では読み取ることの出来ない、国家という怪物の本質が潜んでいる」と述べています。そして、この写真がアメリカの新聞に掲載後、写真を希望する申込が15万件に達したことで、政府はこの写真を利用した戦時国債の一大キャンペーンを開始すると共に、この写真をそのまま使った切手は、1億5000万枚を売上げ、「国家は莫大な収益を得た」と述べています。一方で、写真に写っている6名の海兵隊員の去就について、打ち3名は、1週間以内に硫黄島における戦闘で戦死し、生きて故郷に帰ることの出来た3名は、大統領から勲章を授かり、「アメリカの英雄」として、「常に人目にさらされ、その生活、行動のすべてがマスコミによって報道される」という生活に耐えられず、一人はアルコールに溺れ、一人はストレスから「たびたび小さな事件を起こし、警察の世話になるまでに落ちぶれていく」なか、地元に戻り葬儀店を営み息子さえ「父があの写真に写っている人物」であることに気づかなかったほど謙虚に暮らした一人は、「硫黄島における出来事に関して、完全に口を噤んだままであった」と述べています。
 Case.22「忘れられた雑誌FRONT」では、第二次世界大戦当時に、主流であった商業誌や政府機関誌を「質的に上回る雑誌を刊行していた事実は、ほとんど知られていない」が、「それは、世界のグラフィックデザイン誌をはるかに凌駕するものであった」として、「陸軍が指導して、大日本帝国の国力を広く世界に知らしめる目的」で作られた雑誌『FRONT』を取り上げ、「日本国内で配布されることこそなかったが、東南アジア、中国はもちろん、日本へやってきたドイツ海軍のUボートによってヨーロッパにも送られた」と述べ、「日本の実態があまりにも欧米で知られていないことに義憤を感じ」た名取洋之助によって生まれたグラフィック雑誌『NIPPON』に着目した陸軍によって刊行されたと解説しています。
 本書は、とかく実物の兵器とその被害に目が向きがちな戦争の本質的な仕組みを解説しているかもしれない一冊です。


■ 個人的な視点から

 日本軍が、戦場での決戦主義に囚われて、ロジスティクスをまったく構築できなかったり、宣伝による世論操作をないがしろにしていたり、ということを後世の人が指摘していますが、形を変えてと言うか、日本企業のシェア市場主義や日本の役所のとにかく事業さえやればいいという意味での「実績主義」を見ると、ある意味で前向きさというか、目的地にたどり着くかどうかは二の次でとにかく前に進めばいい、というメンタリティは、坂本龍馬がドブの中で前のめりに倒れた「巨人の星」の映像が衝撃的だったからなのでしょうか。できれば目指したい状態から「後ろ向き帰納法」か何かで戻ってきてほしいところです。


■ どんな人にオススメ?

・戦争は武器だけで行なうものだと思っている人。


■ 関連しそうな本

 柴岡 信一郎 『報道写真と対外宣伝―15年戦争期の写真界』 2007年05月20日
 アンヌ・モレリ (著), 永田 千奈 (翻訳) 『戦争プロパガンダ 10の法則』 2007年11月01日
 高木 徹 『ドキュメント 戦争広告代理店―情報操作とボスニア紛争』 2006年11月27日
 菅原 出 『外注される戦争―民間軍事会社の正体』 2008年01月07日
 原 克 『悪魔の発明と大衆操作―メディア全体主義の誕生』 2008年02月24日
 木下 和寛 『メディアは戦争にどうかかわってきたか 日露戦争から対テロ戦争まで』 2008年04月18日


■ 百夜百マンガ

龍馬へ【龍馬へ 】

 日本のクリエイター、中でも個人の趣味を全開に出来る小説家やマンガ家にとって、「龍馬」を描くことが出来るのは、相当思い入れがあるのかもしれません。そして、龍馬ものならではのプレッシャーも相当なものがあると思います。

2008年6月 9日 (月)

異国人の見た幕末・明治JAPAN

■ 書籍情報

異国人の見た幕末・明治JAPAN   【異国人の見た幕末・明治JAPAN】(#1236)

  新人物往来社
  価格: ¥2520 (税込)
  新人物往来社(2005/05)

 本書は、幕末から明治にかけての、外国人の目で捉えられた日本の姿を、紹介しているものです。
 第1部「不思議の国JAPANのすべて」では、「外人写真技師が焼き付けた日本の原風景」として、ベアトとスティルフリードの2人の写真技師による日本の風景を紹介している。彼らは、「日本各地を精力的に撮影し、美麗なアルバムに仕立てて販売した」として、そのアルバムは日本土産として大好評を博したとされています。ここでは、箱根塾や東海道の松並木、小田原宿、厚木宿などが紹介されています。
 また、武家屋敷の撮影に当たっては、ベアトは、正面から撮影しようとして、「警備の侍に追払われている」ことなどが紹介されています。
 フェリックス・ベアトは、1863年に『ザ・イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』の特派員として来日し、1964年には横浜居留地に共同スタジオ「ベアト・アンド・ワーグマン商会」を設立、主に外国人旅行者の土産物として販売されたことが述べられています。
 1864年に初来日したシティルフィールドは、明治4年に横浜居留地で「スティルフリード商会」を開業し、土産用アルバムを制作、明治天皇の写真を無断で撮影、販売して問題になり、撮影原版を没収される騒ぎを起こしています。またに、日本滞在中、日本人女性と結婚して3人の女児を設けていますが、明治14年に家族と別れて帰国したことが述べられています。
 さらに、風景だけではなく、文久3年5月10日の下関戦争において前田砲台を占拠した英国軍の様子など事件の現場の写真も収められています。
 また、「庶民のわりわい」として、江戸~大坂間を8日ほどで踏破した剣客を持つ飛脚、駕籠かき、人力車、そろばんを持った商人、古着屋、床屋、傘張り職人等の写真が紹介されています。
 「日々の暮らしと風俗」では、火消や庶民のヒーロー児雷也の刺青の写真が、カラー写真と見まがう着色写真として紹介されています。「和式の食事風景」の写真では、「上半身裸で食事をする男性」と「立ったままで給仕する女性」というマナー違反のポーズにさらに女性は大根を手にしているという、「日本人の写真師には思い浮かばないような作品」として紹介しています。この他、宴会や炊事、足漕ぎ式の臼等の生活風景の写真が掲載されています。
 また、「文を読む若い娘」等では、スティルフリードお気に入りのモデルの女性について、「唐人お吉ではないかといわれている写真の女性ととてもよく似ているが、断定はできない」とコメントされています。
 第2部「来日外国人が見たJAPANの夜明け」では、英国初代駐日総領事のオールコックが、1860年に外交人として初めて富士山に登った後、熱海滞在時に、愛犬トビーを間欠泉の湯による火傷で失った際に、熱海の人たちが「トビーの亡骸を籠製の経帷子で包み、宿の美しい庭へ好物の豆と一緒に埋葬した」ことに観劇し、「英国に帰ってから、一部英国人の日本人に対する偏見に、『日本人は親切な国民』と弁明した」故事を紹介しています。
 また、『怪談』で知られる小泉八雲ことラフカディオ・ハーンが、英字新聞『神戸クロニクル』紙の招聘に応じて神戸に来た際に、「神戸で醜悪陋劣な西欧文明の模倣を目撃し、日本の近代化に不快感をあらわに」し、「それは服装や建築ではなく、心において」であったことが述べられています。
 さらに、『日本奥地紀行』で知られるイサベラ・バードが、「日本の魅力にとりつかれて、北国を旅行し」、「日本人の生活様式を鋭い観察力で明治の日本人を浮かび上がらせた」として、「当時、日光から北の方はまったくの田舎で、その全行程を踏破したヨーロッパ人は一人もいなかった」なかで、「異邦人、しかも女性の目が捉えた、美しい日本の農村風景、そこに暮らす勤勉で誠実な人々。健気に生きる北国の人々の生活とエネルギーをイサベラは旅先の宿で日記に書いた」と述べています。
 第3部「外国漫画に見る幕末・明治JAPAN」では、イギリス人チャールズ・ワーグマンが文久2年に、横浜居留地で創刊した漫画雑誌『ジャパン・パンチ』を取り上げ、この作品が、世界のマンガ界に影響を与えた例として、明治8年に、「日露間に千島・樺太交換条約が調印されたこと」を描いた漫画が、「その後、世界の漫画家が日本人を描くのに『眼鏡と出っ歯』を用いだす」発信源ではないかと述べています。
 本書は、現代の日本では最早目にすることができない、「失われてしまった日本」に出会うことができる一冊です。


■ 個人的な視点から

 明治期に国道のバイパスが出来たりして忘れられた宿場跡等が奇跡的に残っていることがあります。三国街道の須川宿跡は「たくみの里」としてすっかりリニューアルされてしまった中にもどことなく趣が残っているような気がしました。ぜひ今年の夏にでも会津の大内宿に行ってみたいところです。


■ どんな人にオススメ?

・江戸時代の日本の姿を写真で見てみたい人。


■ 関連しそうな本

 イザベラ バード (著), 高梨 健吉 (翻訳) 『日本奥地紀行』 2006年08月06日
 ハーバート・G. ポンティング 『英国人写真家の見た明治日本―この世の楽園・日本』 2006年08月13日
 宮本 常一 『忘れられた日本人』 2006年06月25日
 宮本 常一 『イザベラ・バードの『日本奥地紀行』を読む』
 宮本 和義 『和風旅館建築の美』 2007年09月30日
  『旅篭に泊まる』 2007年10月08日


■ 百夜百マンガ

月とスッポン【月とスッポン 】

 ラブコメの巨匠だったりサラリーマンの悲哀を描いている著者ですが、デビュー当時はギャグマンガの範疇というか、チャンピオンの中では吾妻ひでおの「ふたりと5人」の後継的な位置づけだったのかもしれません。

2008年6月 8日 (日)

日本人の脳に主語はいらない

■ 書籍情報

日本人の脳に主語はいらない   【日本人の脳に主語はいらない】(#1235)

  月本 洋
  価格: ¥1680 (税込)
  講談社(2008/4/10)

 本書は、日本語の主語不要派と主語擁護派の論争を、「脳科学の知見で解決できること」を説明しようとするものです。本書の知見を簡単に言うと、日本語と対極にある英語の場合、
・イギリス人は、母音を右脳で聴く。
・右脳で、自分と他人の識別を行なう。
・言語野は左脳にある。
・左脳と右脳の神経信号の伝播には時間がかかる。
というものであり、「まとめると、「イギリス人は自他を識別する右脳を刺激しながら、そして、右脳と左脳の間の神経信号伝播の時間遅れを伴いながら、言葉を処理する」となり、「その刺激と時間遅れが、英語が主語や人称代名詞を必要とする原因となる」となるのに対し、日本人の場合は、
・日本人は母音を左脳で聴く。・右脳で、自分と他人の識別を行なう。
・言語野は左脳にある。
・左脳と右脳の神経信号の伝播には時間がかかる。
ということから、「日本人は自他と識別する右脳を刺激せずに、そして、右脳と左脳の間の神経信号伝播の時間遅れなしに、言葉を処理する」となり、「このことが、日本語が主語や人称代名詞をあまり必要としない原因となる」と述べています。
 著者は、本書を、「『私』すなわち自己もしくは自己意識に関する、心理学と言語学と脳科学にまたがる議論を、一貫して仮想的身体運動をいう視点から説明している」という側面をもっていると述べています。
 第1章「人は言葉をどのように理解しているか」では、「理解」と呼ばれる言葉に、「異なる2つの意味があることを指摘」するとして、
「坊主が屏風に描いた坊主が屏風に描いた坊主が屏風に描いた坊主が屏風に描いた」
という例文を挙げ、「その言葉を聞いてイメージを作れれば、理解できる」という理解を「想像可能性」と呼ぶとともに、理解のもう一つの側面として、「記号を形式的に処理できる」という意味の「記号操作可能性」について解説し、これを「理解の二重性」と呼んでいます。
 第2章「仮想的身体運動としての想像」では、身体運動と脳について、「想像で活動する神経回路と、身体運動で活動する神経回路は多くの部分を共有している」として、それらの違いについて、
(1)想像の場合には、筋肉からのフィードバック信号がない。
(2)想像の場合には、脳から神経を通して筋肉に送られるパルス数がかなり少ない。
(3)感覚(知覚)は最近の研究で能動的であることが分かってきて、運動と見なせる部分が多い。
の3点を挙げています。
 そして、「従来から、スポーツでイメージトレーニングが重要であると言われてきた」ことについて、「想像が仮想的身体運動であるということは、まさに、これを裏付けている。ある運動のイメージをすることで、その運動で使われる筋肉を仮想的に動かしているのである。その運動のときに使われる神経系を実際に使うことができるから、イメージトレーニングが効果的なのである」と述べています。
 第3章「仮想的身体運動による言葉の理解――身体運動意味論」では、「言葉の意味」について、
(1)言葉の意味とはその指示対象である。(指示対象意味論)
(2)言葉の意味とは、その心的イメージである。(イメージ意味論)
(3)言葉の意味とはその用法である(用法意味論)
の3つの意味論を挙げ、それぞれについて、「どのようにして身体運動に基礎づけられるのか」を論じています。
 そして、「イメージは会話で修正されていくもの」であるとし、「イメージが用法で修正されていくことであり、仮想的身体運動的意味が用法的意味で修正されていくということである」と述べています。
 また、「内観を用いずに、心理学の実験をしよう」とする「行動主義」に対する不満を持った研究者が、「心は記号を計算する機械である」ということを前提とした「認知主義」を提唱し始めたことについて、「認知主義は、記号処理が特異で、刺激反射反応が不得手である。これに対して行動主義は、刺激反射反応が得意で、記号処理が不得手である」と述べ、「認知主義はイメージを伴なった心理現象、意識的な心理現象、中枢神経系が処理する心理現象の説明が得意であり、イメージを伴なわない心理現象、無意識的な心理現象、末梢神経系が処理する心理現象の説明が不得手である。これに対して行動主義は、イメージをともなわない心理現象、無意識的な心理現象、末梢神経系が処理する心理現象の説明が得意であり、表象やイメージをともなった心理現象、意識的な心理現象、中枢神経系が処理する心理現象の説明が不得手である」
と述べています。
 第4章「心の理解――仮想的身体運動による心の理解」では、「我々が他人の心も言葉と動揺に、仮想身体運動で理解していることを説明する」としています。
 そして、「ある人の思考は、他人と有効に対話できることによって、はじめてその人で実現される。他人と有効に対話できなければ、思考もまともにできないのである。思考は自分という他人との対話であるから、自分(自身)が社会的でなければ思考はできない」と述べています。
 また、「人間とかチンパンジーが、他者の心を理解する能力のこと」である「心の理論」について、「心の理論」を持っているかどうかを試験する課題である、「誤信念課題」について解説した上で、「他人の心を読むため」に必要なものとして、
(1)意図の検出
(2)視線の検出
(3)共同注視
(4)心の理論
の4点を挙げています。
 さらに、模倣に関して、「自分が身体のある部分を動かすときに動くが、他人がそれと同じ動作をするのと自分が見るときにも動く」「ミラーニューロン」について、「最初はサルで見つかり、その後人間でも見つかった」と述べています。
 そして、「子どもは最初は言葉を比喩的に捉え、主に右脳で処理している」が、「習熟して機械的に処理できるようになれば、左脳で処理するようになる」と述べた上で、「自己意識は自分の意識ではなく、自分と他人を分離する意識と考える方が適切であり、それは主に右脳によって担われていることが明らかになった」と述べています。また、「他人の心を理解するとは、他人の振る舞いや顔の表情から、自分の脳神経回路を使って他人の心を想像するということである」として、「他人の振る舞いの意味とは、他人の振る舞いを見ることにともなう想像(仮想的身体運動)」であり、「ことのきにミラーニューロンが重要な役割を果たす」と述べています。
 第5章「母音の比重が大きい言語は主語や人称代名詞を省略しやすい」では、「主語強要言語を母語」にしている話者が、大体10億であるのに対し、「残り約60億人の話者は主語を強要しない言語を母語にしている」ことについて、「この事実は少し衝撃的ではなかろうか」と述べています。
 そして、「日本語と英語で対照的な点」として、「日本語は母音を重視する言語であるが、これに対して、英語は母音よりも子音を重視する言語である」ことを指摘しています。
 また、ここまでの結論として、
(1)日本語は、母音比重も大きくて、主語省略度も大きい。これに対して、ポリネシア語以外の言語は、日本語より母音比重度も小さくて、主語省略度も小さい。
(2)ポリネシア語は、日本語と同じように、母音比重度が大きくて、主語省略度も大きい。
の2点を挙げています。
 さらに、「子音脳は主語を非主語より必要とし、人称代名詞を非人称代名詞より必要とするが、これらをあわせると、主語の人称代名詞が最も必要とされるということになる」と述べています。
 第6章「主語や人称代名詞の省略は母音で決まる――身体運動統語論」では、
「日本語では、
 認知的主体「私」(無音)+言語的動詞
 であるのに対して、英語では、
 言語的主体"I"+言語的動詞
 となる」と述べ、主語といわれる"subject"について、「直訳すれば主体」であり、「明治時代にsubjectを主語と訳した大槻文彦は、文主とも訳している」と述べています。
 また、日本人が、「私」「俺」「自分」「手前」「あっし」「あたし」のように、「多くの事故を表す言葉をもっているのは、様々な人間関係の認知が音声となって表出されてしまっているからである」として、日本語の自己を表す言葉には、「『純粋な』自己に加えて、発話がなされているときの人間関係の認知の情報も含まれている」と述べています。
 第7章「文法の終焉」では、「普遍的な規則を求めるとすれば、それは、言語の外に出て認知的な事柄をもあわせて考慮してはじめて、普遍的な規則が存在するのである。その普遍的な規則は、言語の外に出ざるを得ないので、もはや文法ではないし、言語意だけに関する規則でもない」と述べ、「その規則は、もはや文法ではない。分の法則ではなく、言語と認知がなす系の規則である」として、「認知形式」という言葉を充てています。
 また、「明治維新から140年余り経った現在の日本語は、江戸末期の日本語とはずいぶん変わったものになってしまった」として、例として、「~は…である」という文は「明治時代に登場した表現であり、目新しくてハイカラな響きがしたようである」ことや、「句点(。)も明治に造られた。それまでは読点(、)だけであった」と述べ、「明治維新の頃と現在の日本人を比べれば、明治の日本人の方が、より多くの場所の論理を用いた表現や思考をしていたのではないかと思う。学校の義務教育で模倣させることや翻訳文が数多流通することで、我々の日本語は140年間を経て大きく変わってしまった」と述べています。
 著者は、「日本語は、空間の論理が多く、主体の論理が少ない。これに対して、英語は、主体の論理が多く、空間の論理が少ない、ということになろう」と述べ、「英語は主体の論理が多い」理由と9誌テ、「英語の子音優勢性が大きく関係している」として、「英語によって系絵制された子音脳は、自他分離を母音脳に比べて過剰に行なう」ため、「主体の論理が多くなる」として、「主体の論理(擬人のメタファーの形式)という文法の根幹までも音声に支配されている」と述べています。
 そして、文法研究には、
(1)文法は複数の認識形式(の言語版)から構成されている。
(2)文は、認識形式の言語版に従って認識の一部が音声化されたものであり、この音声化は状況に依存しているので、語用論的問題である。
の2点を考慮すべきと主張しています。
 本書は、言語学者の内輪もめになりがちな日本語主語論争に別分野から光を当てる一冊です。


■ 個人的な視点から

 日本語に主語が必要か不要かどうかは文法学者にとりあえず任せたとしても、明治維新以後、どれだけ日本語が変容したか、そして、それに義務教育がどれほどの影響を与えたかについては、きちんと研究成果を読んでみたいです。


■ どんな人にオススメ?

・主語が何で必要なのか、納得いかない人。


■ 関連しそうな本

 金谷 武洋 『主語を抹殺した男/評伝三上章』 2008年01月19日
 金谷 武洋 『日本語に主語はいらない―百年の誤謬を正す』 2008年02月09日 06:00
 金谷 武洋 『日本語文法の謎を解く―「ある」日本語と「する」英語』 
 三上 章 『象は鼻が長い―日本文法入門』 
 三上 章 『現代語法新説―三上章著作集』 
 金谷 武洋 『英語にも主語はなかった 日本語文法から言語千年史へ』 2008年02月03日


■ 百夜百音

スーパーロボット マッハバロン【スーパーロボット マッハバロン】  オリジナル盤発売: 2000

 マッハバロン自体は子供の頃に再放送で見たような見なかったような、という感じなのですが、作曲は後の井上大輔氏で、グラムロックな雰囲気は、当時は特撮の主題歌じゃないと許されなかったんじゃないかと思います。

『スーパーロボット マッハバロン DVD-BOX』スーパーロボット マッハバロン DVD-BOX

2008年6月 7日 (土)

西の牛肉、東の豚肉―家計簿から見た日本の消費

■ 書籍情報

西の牛肉、東の豚肉―家計簿から見た日本の消費   【西の牛肉、東の豚肉―家計簿から見た日本の消費】(#1234)

  金子 優子
  価格: ¥1575 (税込)
  日本評論社(2007/06)

 本書は、「毎日誰もが行っている消費行動」が、「地域により、世代により、季節によりどのように異なっているのかを、家計簿による調査(家計調査、全国消費実態調査)の結果を用いてわかりやすく示したもの」です。
 第1章「地域・都市でこんなに違う」では、日本で最も古い牛肉屋が、「1851年に大阪阿波座の徳松というものが開業したもの」であるとした上で、1885年の全国の牛の屠殺頭数の8割が大阪であったと述べ、「牛肉の消費は西日本中心に進み、それにより構築された食文化のため、現在でも牛肉の消費量は西日本で多いようである」と述べています。
 また、煮干用の「かたくちいわし」が、「かつて東シナ海で大量に獲れていた」ため、「九州や四国では煮干による出汁が主流になったものと見られる」と述べています。
 さらに、「マーガリン」の消費量は、「食パン」の購入数量が4位の神戸市であることなどを挙げ、「食パン」と「マーガリン」が「それぞれ補完しあう食品であろう」と述べています。
 このほか、2007年に「発掘!あるある大辞典2」の放送で納豆の購入金額が倍増した後、捏造が発覚したあとも、放送以前に比較すると購入金額が増加していると述べています。
 また、沖縄の市場などで売られている「しま豆腐」が、「1丁が約1キログラムもあり、初めて見たときはとても驚かされる」と述べています。
 そして、お歳暮などで送られる食料品については、
・北海道、北陸、四国地方では魚介類の割合が高い。
・東北地方では果物の割合が高い。
・沖縄地方では穀類の割合が高い。
などの特徴を挙げています。
 第2章「どの世代が何を買っているか」では、「わかめ」と「しらす干し」について、年齢の高い世帯で多く購入されているとした上で、特に「しらす干し」については、「60歳以上の世帯では、29歳以下、30歳代、40歳代の世帯に比べ、2倍以上も購入されている」と述べています。
 第3章「春夏秋冬で変わる消費」では、「典型的な夏野菜」である「きゅうり」「なす」「トマト」の月別消費量を20年前と比較すると、「いずれも夏の購入数量が減少し、購入数量の月別パターンが平準化している」と述べ、「最近ではこれらの野菜は一年中店先に並んでいる」と述べています。
 第4章「消費の何が変わり、何が変わっていないのか」では、2004年と2005年の間の変化率の図から、「家電製品については、大型の液晶テレビや感想機能付きのドラム式洗濯機などのより品質や機能の高い商品を購入し、逆に、婦人服などの衣料品については、より低価格の商品を購入したことが分かる」としています。
 また、実物資産の動向については、「年間収入が多い世帯ほど実物資産額が多くなっている」傾向を指摘しています。
 さらに、住宅ローン返済世帯の割合が、2005年に33.0%であったとした上で、住宅ローン返済世帯において、「手取り収入に占める住宅ローン返済額の割合は19.3%を2割に迫るものとなっている」と述べています。
 本書は、牛肉好きの人にも豚肉好きの人にもお奨めできる一冊です。


■ 個人的な視点から

 うちの実家では、と言うか、房総半島では昔は牛肉はほとんど食べなかったようで、値段より何より、あの臭いがいやだ、という人が少なくありません。


■ どんな人にオススメ?

・自分の家の肉じゃがは牛か豚かが気になる人。


■ 関連しそうな本

 スティーヴン・D・レヴィット/スティーヴン・J・ダブナー (著), 望月衛 (翻訳) 『ヤバい経済学』 2008年02月13日
 飯田 泰之 『経済学思考の技術 ― 論理・経済理論・データを使って考える』 
 ティム・ハーフォード (著), 遠藤 真美 (翻訳) 『まっとうな経済学』 2008年02月15日
 大竹 文雄 『経済学的思考のセンス―お金がない人を助けるには』 2006年09月04日
 ゲーリー・S. ベッカー, リチャード・A. ポズナー (著), 鞍谷 雅敏, 遠藤 幸彦 (翻訳) 『ベッカー教授、ポズナー判事のブログで学ぶ経済学』 2007年02月05日
 中島 隆信 『これも経済学だ!』 2007年07月17日


■ 百夜百音

逆転イッパツマン【逆転イッパツマン】 オリジナル・サウンドトラック オリジナル盤発売: 2006

 youtubeにアップロードされていたベーシストの画像でこの曲のベースラインがカッコいいことを知りました。当時のテレビでは気にならなかったベース音を今聴くと刺激的です。

『逆転イッパツマン DVD-BOX』逆転イッパツマン DVD-BOX

2008年6月 6日 (金)

アキバをプロデュース 再開発プロジェクト5年間の軌跡

■ 書籍情報

アキバをプロデュース 再開発プロジェクト5年間の軌跡   【アキバをプロデュース 再開発プロジェクト5年間の軌跡】(#1233)

  妹尾 堅一郎
  価格: ¥790 (税込)
  アスキー(2007/11/12)

 本書は、「秋葉原クロスフィールド『産学連携機能』のプロデューサーとして、産学連携を軸とした先端技術による産業創出・活性化の拠点形成を進展させている」著者による、「アキバの午睡」を楽しむ一冊です。これは、「中世の頃、高野山には全国から多様な人が常に訪れるので、お坊さんは昼寝をしながらでも世間の動向を把握できた」という「高野の午睡」をもじっています。著者は、アキバを「伝統ある『テクノロジーの高野山』であり、『マニア文化(サブカルチャー)の高野山』である」と述べ、「そういった街をぐるりと歩くだけで、世界の最先端の動向を知ることができる」と述べています。
 第1章「変貌をとげる『アキバ』」では、JR秋葉原駅の北側の、かつて”やっちゃ場”(青果市場を指す下町言葉)である神田市場があった区画に、国鉄秋葉原貨物駅の跡地を加えた土地を、東京都が「再開発に提供し、それを基点としていったいの再開発を提案した」ことから、「日本の最先端IT拠点」が整備されたことを解説しています。
 そして、2001年に12~13万人の乗降客数だったJR秋葉原駅が、2007年には20万人程度に激増し、周辺の3駅(地下鉄日比谷線秋葉原駅、銀座線末広駅、つくばエクスプレス秋葉原駅)を加えると、「25万人を超えるのではないか」と言われるようになったと述べています。
 また、ここ3年ほどでアキバのサブカルチャーが全国レベルで急激に知れ渡った要因として、
(1)フィギュア
(2)メイドカフェ
(3)電車男
の3点を挙げています。
 著者は、秋葉原ダイビルの5階から15階までの11フロアを使った「産学連携機能」のプロデューサーとして、「先端技術を軸とした産業創出・活性化の拠点づくり」として、「秋葉原クロスフィールド」の創設に関わり、現在では、産学連携機能の充実と、秋葉原地区全体の活性化に携わっていると述べています。
 そして、著者が当初ビルオーナーから「コーディネーター」を依頼されたが、「関係者の利害の調整役」であるコーディネーターでは、「平均的な案はつくることはできても、斬新な案を提示し、それを実施に移すことはやりにくい」として、「プロデューサーなら引き受けます」と答えたこと、そして、プロジェクト開始時に、
(1)産業活性化に「地域」は何が貢献できるか
(2)街づくりに「技術」は何が貢献できるか
の2点を自問したと述べています。
 第2章「秋葉原とアキバ テクノとオタクの街の特徴」では、秋葉原の特徴として、
(1)交通利便性と知の集積性・・・秋葉原は知的なラインが結ばれている。
(2)知の三角形・都市の三角形・・・秋葉原は理系の心の故郷
(3)都市特性・・・エッジ、ディストリクト、パスノード、ランドマーク
の3点を挙げています。
 そして、秋葉原の本質「アキバらしさ」について、
(1)徹底集積
(2)新旧融合
(3)構成の多重性
の3点を挙げています。
 また、著者らが、秋葉原を「アキバ」と呼ぶ言葉の意味として、
(1)エリア名としての秋葉原の略・・・戦前は「あきばっぱら」と呼んでいた。
(2)秋葉原駅の近辺全体を秋葉原と呼ぶのに対して、電気街を中心にした商店街の中核地域を「アキバ」と呼ぶ。
(3)「アキバ」街区の物理的な空間の中から立ち上る、精神的な空間を”アキバ”と呼ぶ。
の3点を挙げています。
 第3章「秋葉原クロスフィールド構想」では、「基本的な産学連携機能を、技術開発から事業家に至るまでのプロセスを軸に整理し、『2つの連携、3つの支援、2つの交流』として構成」したとして、
(1)2つの連携――産業創出素材の導出:大学主導の産学連携と産官主導の産官学連携の2つの連携が組み合わさるように、公的研究所や企業の研究機関を招いた。
(2)3つの支援――産業創出・活性化のリスクマネジメント:人財育成リスクの低減、ベンチャーリスクの低減、テクノロジー、特にIT開発検証リスクの低減
(3)2つの交流――産業創出・活性化への環境構築:技術関係者が交流を行なう「場と機会」の提供として「プレゼンテーション&デモンストレーション・スペース」「アキバテクノクラブハウス」を組み込む。
の3つの機能を上げています。
 また、地域とベンチャーの関係のよくある議論で疑問視している点として、
(1)ベンチャーの成長段階を理解していない。
(2)米国のベンチャーの生態系を、そのまま日本に持ち込めば何とかなるという誤解が、多くの自治体にいまだに残っている。
(3)技術基点型のベンチャーとマイクロビジネスを区別しない議論。
の3点を挙げています。
 第4章「秋葉原テクノタウン構想」では、「テクノタウン構想」の柱として、
(1)インキュベーション:秋葉原の資源である「技術」を活用した様々なアトラクション(サービス・商品)により、街全体が”テーマパーク”となる街づくり構想
(2)プロモーション:大学などの研究機関から民間への技術移転や共同研究のきっかけを作るための、「先端技術の産直市場」を構想。
(3)エデュケーション:次世代の技術人財育成のために、科学技術をテーマとした「体験教育(ハンズオンラボ)」と「実演販売(デモンストレーションショップ)」を主体とした”場と機会の提供”を目指す。
の3点を挙げています。
 そして、2005年には、「アキバ・理科室2005」を内田洋行とラオックスと共催、「アキバ・ロボット文化祭2005」をクロスフィールドで開催、2006年に開催した「アキバ・ロボット運動会2006」では、有料イベントで1万7千人の動員を挙げ、アキバの動員記録を打ち立てたと述べています。
 第5章「安心して楽しめる街づくりへ」では、「なぜ、アキバを24時間タウンにしないのか」という考え方に対し、夜10には裏通りはひっそりしてしまうアキバを「健全なるオタクの街」であり、深夜まで明るい街にすることで、飲み屋や風俗が増え、「そのスジのお兄さんたちが湧き出てくることで、「得るものと失うものを比べれば」ば、「アキバを『健全なるオタクの街』に留め置くべき」だと述べています。
 また、旧万世橋駅や交通博物館があった万世橋地区の再開発について、もともと、「現在の中央線の東京川の起点」であり、「田舎から上京してきた人たちにとって、この須田町近辺こそが東京の中心地だった」と述べた上で、「万世橋」を、秋葉原の「ホワイエ」とする、
(1)多世代交流・次世代継承
(2)異業種交流・新事業創出
(3)多地点交流・次経路誘導
の3つのコンセプトを体現する”場と機会”を提供する「集客・誘導ゾーン」として構成すべきだと述べています。
 そして、万世橋地区を、
(1)電気街にとっては「電気街への誘導機能」
(2)万世橋地区そのものとしては、「人々が楽しむ集客機能」
(3)秋葉原地域全体にとっては、「秋葉原地域の全体価値を向上させる価値付与機能」
であると整理しています。
 本書は、著者のアキバへの思いが詰まった一冊です。


■ 個人的な視点から

 「アキバ」と言ったときに、子どもの頃にいった交通博物館と電気街は一体になって記憶されているのですが、藪蕎麦に代表される、あの辺りの古い東京の雰囲気も、再開発で失われてしまうとしたらもったいないです。


■ どんな人にオススメ?

・アキバは単なる「萌え」とオタクの街だと思っている人。


■ 関連しそうな本

 奥野 卓司 『ジャパンクールと江戸文化』 2008年01月06日
 妹尾 堅一郎 『知的情報の読み方』 『グリッド時代 技術が起こすサービス革新』 
 アキバ経済新聞 『アキバが地球を飲み込む日―秋葉原カルチャー進化論』 
 森川 嘉一郎 『趣都の誕生 萌える都市アキハバラ』 
 隈 研吾, 清野 由美 『新・都市論TOKYO』 


■ 百夜百マンガ

ウッド・ノート【ウッド・ノート 】

 バード・ウォッチングを題材にした作品というのも滅多に目にしないと思いますが、子どもの頃は「動物記」モノが好きな人は結構いたような気がします。

2008年6月 5日 (木)

ネット時代10年後、新聞とテレビはこうなる

■ 書籍情報

ネット時代10年後、新聞とテレビはこうなる   【ネット時代10年後、新聞とテレビはこうなる】(#1232)

  藤原 治
  価格: ¥1470 (税込)
  朝日新聞社出版局(2007/02)

 本書は、2010年代の登場が予想される「既存のテレビや新聞などのメディアをすべて飲み込むインターネット上の仮想空間」である「eプラットフォーム」について、その実態を明らかにするとともに、「メディアとネットの融合」という概念について論じているものです。
 第1章「新聞ははたしてメディア(媒体)なのか」では、「もともとmedium、つまり媒体」を意味する「メディア」について、「記者は情報の発信者なのにどういう意識で自らの立場をメディアと言う」のかという疑問を呈しています。
 そして、「新聞というメディアの性格」について、「新聞は広告においてはメディアであるが、編集においてはコミュニケーターとコンテンツとメディアを兼ねている」と指摘しています。
 第2章「既存メディアとインターネットはどこが違うのか」では、インターネットの特性として、
(1)グローバル性
(2)双方向性
(3)制約がない
の3点を挙げ、「従来のマス・メディアとはことごとく相違している」と述べています。
 そして、「インターネットの理解が難しいことの本質的な理由」として、「その外苑性、無限性」を挙げ、「その全体像がつかめないから、よく理解できない。このわかりにくさが、既存メディアの経営幹部のインターネット理解を妨げている」と指摘しています。
 著者は、「いわゆる『ツール』同士」という意味で、「マス・メディアにおける新聞やテレビと同列に捉えるべきなのは、インターネットそのものというより、パソコンでありケータイなのではないか」と述べています。
 第3章「新聞離れはなぜ生じたのか、テレビ離れはなぜ起きないのか」では、著者が社長を務める電通総研の研究員たちが、「そろいもそろって新聞をとっていない」だけでなく、「新聞を取らないことにまったく疑いを抱いていない」ことに、「唖然とするのと通り越して、時代の急激な変化が押し寄せていることをまざまざと思い知らされる」と述べています。
 そして、新聞離れの生じた真の理由として、「新聞を購読している読者(消費者)が『マス』の一構成員から『個』として存在し、主張するようになったからである」と述べています。
 また、テレビ離れが起こらない理由として、
(1)視聴者の試聴態度・・・テレビを見ている人の6割は「ながら族」
(2)視聴者にとってテレビの情報は「ただ」である
の2つの視点で説明できるとしています。
 第4章「すでに起こった未来――メディアとネットの融合の兆し」では、「地上波のデジタル化の完了の年であるとともに、アナログ地上波が停波される年」である2011年に、「日本では社会変革を引き起こす真の意味での『メディアとネットの融合』を前提とした革新」が生じると述べ、その場合の新しいメディアとして、「eプラットフォーム」という概念を紹介しています。
 第5章「地上波のデジタル化がメディアの大変革を促す」では、「ネットの世界の真の意味の『融合』に向けての『うねり』」としてブロードバンドを挙げ、「第一のいん石」である「インターネットの出現」を凌駕すると予想される「第二のいん石」であるとするソニーの出井社長の説を紹介しています。
 そして、2005年遅れに竹中平蔵総務大臣が立ち上げた「通信と放送の在り方懇談会」が、「メディア改革『尻すぼみ』」と報じられたことについて、「この委員会の意義は大きかった」とする理由として、
(1)同じ省内で別立てだった電波行政と通信行政を大臣権限で一本化された委員会が設置された。
(2)改革意欲が官民で逆転していた。
(3)民の方、とくに民放連のパッチワーク的対応が目立った。
の3点を挙げています。
 第6章「『紙』を前提とする新聞経営は次第に行きづまる」では、「紙を前提とする新聞社のとるべき経営戦略」として、
(1)紙の維持、つまり部数の維持をどうするか。
(2)これまでとは異なる戦略、つまりネットにどう対処するか。
の2点を挙げています。
 そして、「新聞社のネット事業は、慈善事業ではない」ため、
(1)ネットで流す記事の有料化
(2)ネット事業は、ネット広告収入で維持
のいずれかの戦略の上に成り立たせねばならないとしています。
 第7章「2011年を境に『メディアとネットの融合』が加速する」では、「融合」を、「もともと『異質であるものが、一つに融け合うこと』である」と述べ、そのメルクマールとして、
(1)どのように異質であるのかを知ること
(2)それがなぜ、あるいはどのように同質化していくのか
の2点を挙げています。
 そして、
(1)地上波のデジタル化
(2)ブロードバンドの普及
(3)蓄積型テレビの登場
の3つのステップを踏むことで、「マス・メディアとインターネットはまったく同質のものとなっていく」と述べています。
 第8章「『融合』以後のメディア経営の具体像」では、「『融合』が起こると、あらゆる既存のメディアが一本化し、eプラットフォームとなる」として、「コミュニケーションにおける三大要素のコミュニケーターとコミュニケーティ、およびメディアのうち、メディアに関する差別化がなくなり、『すみ分け論』が胡散霧消する」と述べ、既存メディアが、すべて「コンテンツ・プロバイダー」に変わっていくと解説しています。
 著者は、「eプラットフォームとインターネットの関係」を、「織田信長が城下で広めた『楽市楽座』に例えると、理解がたやすい」として、「行動は囲い込まれていないから、出す気になればどこででも出店できる」と述べています。
 本書は、新聞も取らずテレビも見なくなってしまった人たちを説明してくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 2011年まであと3年ありますが、今現在でさえテレビ見なくても困らなくなっているのに、3年後にわざわざ高い金出してデジタルテレビをよりも、様子見しているうちにそのままになってしまう気がします。
 例えるなら、据え置きの真空管ラジオが消えていったように、テレビは携帯で見るものとかになってしまうようなものでしょうか。
 それにしても2007年に出版されたにしては素朴すぎる感じが否めません。


■ どんな人にオススメ?

・10年後の生活を想像したい人。


■ 関連しそうな本

 崎川 洋光 『新聞社販売局担当員日誌』 2008年04月22日
 河内 孝 『新聞社―破綻したビジネスモデル』 2008年04月08日
 本郷 美則 『新聞があぶない』 2008年04月07日
 黒薮 哲哉 『新聞があぶない―新聞販売黒書』 2008年04月24日
 歌川 令三 『新聞がなくなる日』 2008年03月29日
 小林 弘忠 『新聞報道と顔写真―写真のウソとマコト』 2008年03月28日


■ 百夜百マンガ

猫目小僧【猫目小僧 】

 ちょっと前に映画化されましたが、楳図作品にしては珍しく普通にキャラとして成立しているのがポイントです。

2008年6月 4日 (水)

チャット恋愛学 ネットは人格を変える?

■ 書籍情報

チャット恋愛学 ネットは人格を変える?   【チャット恋愛学 ネットは人格を変える?】(#1231)

  室田 尚子
  価格: ¥735 (税込)
  PHP研究所(2005/7/16)

 本書は、「チャットは人を変えてしまうのか?」という素朴な疑問に対する、「チャット人間」側からの回答です。著者は、「チャット恋愛がもたらす喜びと困難さの原因」について考えるとしています。
 第1章「ネットにおけるコミュニケーション」では、ケータイ、メール、メーリングリスト、掲示板、チャット、メッセンジャーの特徴について整理したうえで、「チャットだけが、『文字』と『一対多』と『リアルタイム』という3つの要素を兼ね備えている」と指摘しています。
 第2章「チャットとは何か?」では、著者がチャットルーム(CR)に「ハマった」理由として、CRの特徴である「ルームを自分で開設できる」というところにあったと述べています。
 また、ネットにおける「氏ね」のやり取りに関して、「ネットの外から見ると、ネットは『攻撃的な言葉のやり取りによって心が麻痺した人間の集まる場』という風に映ってしまう」ことについて、「それは少しヒステリックな見方」ではないかと述べています。
 そして、「他者との関係の中でしか自分のリアリティを獲得できない現代社会で、ゲームとか、チャットといったコミュニケーションのためのツールに『ハマる』のは、ある意味で必然的なこと」であると述べています。
 第3章「チャットが届けるもの」では、オンライン上の人格である「オンライン・ペルソナ」について、「大多数の人は、ひとつのオンラインん・ペルソナは、一人の現実の人間とリンクしているという前提で会話を交わしている」が、「現実の人格とはまったく正反対のオンライン・ペルソナ」を演じることができるとして、「騙し」の顕著な例として「ネット・オカマ」の略である「ネカマ」を挙げています。
 そして、「社会的なアイデンティティからはほぼ完全に自由」であるチャットという場所で、「ハンドルネームを名乗り、新しいオンライン・ペルソナを獲得していく」として、「社会の『こうあれ』という要求にしたがってつくりあげたのは『偽の自分』である、『ハンドルネームとしての私』こそが、自分自身がこうありたいと願う『ほんとうの自分』なのだ、と感じること」は、「現代社会においては必然なのではないか」と述べ、「ある時期チャットに『ハマる』ことは、『生きづらさ』を抱えている人たちにとって、一種の救いになるのかもしれない」と述べています。
 また、「実際の生活の中では、よほど親しい間柄の相手にしかできない」告白、自己開示が、「ほとんど初対面」の「素性もよく分からない相手にできてしまうのは、チャットという場がつくりだす、独特の相手との距離感ゆえ」であると述べ、「匿名である」ということから生まれる「ネットに特有」の距離感が、「現実の社会では考えられないようなスピードで、一気に縮まる」のだと述べています。
 第4章「チャット恋愛の心理学」では、「ネット上で異性に魅力を感じる社会心理学的な理由」として、
(1)類似性
(2)自己呈示
(3)自己開示と相補性
(4)理想化
の4点を挙げ、「二人だけのチャットであるPMやMJ」に「よって交わされる情報の密度、そしてそのスピードは、実際の社会とは比べ物にならないほど濃くて、速い。それゆえ、チャット恋愛では、お互いに『理解しあえている』という感覚を強くもつことになる。また、容姿や職業などを超えて『心が通い合えている』という実感は、お互いに『ほんとうの自分を理解してくれる相手だ』という認識をもちやすい」ことから、「チャット恋愛は、普通の恋愛よりも強く、濃密な関係になりやすい」と解説しています。
 その上で、「チャット恋愛がそうした『真の心の結びつき』だと感じる背景には、チャットという装置に特有のいくつかの仕掛けが働いている」として、「匿名であることや、時間の流れるスピードとその密度の問題」等を挙げ「そうしたことにあまりに無自覚なまま恋愛に入ってしまうと、チャットという装置がはずされた時、つまり現実の交際がスタートしたときに、相手を過度に理想化していたことに気づいて、幻滅するという結果を招きかねない」と述べています。
 また、「通常のチャットと、チャット恋愛の間にあるもの」として、「相手が『ほんとうの自分を理解してくれている』という実感の強さ」ではないかとして、「一緒に時を過ごす努力を惜しまないこと」は、「異性に魅力を感じる重要なポイントの一つ」であると述べています。
 さらに、2005年に、「未成年の女性を3ヶ月にわたって監禁した」として、無職の24歳男性が逮捕された「監禁王子」事件を取り上げ、「本来なら決して出会うはずのなかった男女が、ネットというメディアを得て、不幸にも出会ってしまった事件」だが、「裏返せば、ネットというものは、そういう『場』なのである」として、「チャットで簡単に人と出会えるということは、実は簡単に恐ろしい犯罪とも結びついてしまう危険があるのだ」ということを注意しておく必要があると述べています。
 著者は、チャット恋愛が破局に終わってしまう理由として、
(1)相手のことを「こういう人だ」と認識するそのイメージが理想化されやすい。
(2)「本等の自分」を相手の前だけで出せる、という感覚。
(3)やはりチャットの中だけではどうしても見えてこない相手の性格というものがある。
の3点を挙げ、「チャット恋愛が失敗に終わる原因は、実はどれも、現実の恋愛でも陥りやすい落とし穴」であるが、その可能性を、「チャットという装置が増大させてしまっている」として、「相手と恋愛への過度の依存が、チャット恋愛の悲劇を生む」と述べる一方で、「チャットならではの恋愛のあり方、というのはたしかにあるが、それが現実の恋愛とまったく異質なものであると考える必要はない」と述べています。
 本書は、チャットに「ハマった」本人による、過去の自分を振り返った一冊です。


■ 個人的な視点から

 本書の内容は、チャット常連の人にとっては当たり前のことなのか、アマゾンの書評では酷評している人も結構いますが、チャットどころかネットもあまり触らない人にとっては、こんなふうに相対化して解説してくれるのはありがたいのではないかと思います。


■ どんな人にオススメ?

・チャットで恋愛なんてヒトゴトだと思っている人。


■ 関連しそうな本

 渋井 哲也 『ウェブ恋愛』
 渋井 哲也 『チャット依存症候群』
 パトリシア ウォレス (著), 川浦 康至, 貝塚 泉 (翻訳) 『インターネットの心理学』 2005年10月15日
 T. コポマー (著), 川浦 康至, 山田 隆, 溝渕 佐知, 森 祐治 (翻訳) 『ケータイは世の中を変える―携帯電話先進国フィンランドのモバイル文化』 2007年09月02日
 水越 伸 『コミュナルなケータイ―モバイル・メディア社会を編みかえる』 2007年11月29日
 小林 哲生, 天野 成昭, 正高 信男 (著) 『モバイル社会の現状と行方―利用実態にもとづく光と影』 2007年08月06日


■ 百夜百マンガ

釣れんボーイ【釣れんボーイ 】

 釣りか仕事か・・・男なら誰でも一度は迷う人生の選択を毎日のように行なう人の話です。やっぱり釣れるといいですね。

2008年6月 3日 (火)

先生の集団逃亡が始まった

■ 書籍情報

先生の集団逃亡が始まった   【先生の集団逃亡が始まった】(#1230)

  石井 竜生
  価格: ¥1995 (税込)
  清流出版(2007/12)

 本書は、「はじめに」では、「教育界の内部崩壊は、隠し切れないところまで進んでいた」として、「管理職志願者そのものが減少し、リポート程度の論文提出と実績評価だけになり、事実上廃止された」ことや、「1000人の合格者を名簿搭載し、別に社会人枠の合格者100人も用意した」が、一般教員の欠員を埋めきれず、「第一次試験で落とした受験者(!)に連絡をとって追加採用した」ことなどを取り上げ、「先生の集団逃亡」というタイトルに合わせた内容になっていますが、「先生の集団逃亡」の最大の原因を、「どのような教育改革論も、教師の力の買いかぶりの上に立って、現場に丸投げされているから」だとした上で、現実は「先生たちは”勉強が嫌い”」なのであることを、二十年間の学校警備員生活で「間近で見つづけてきた」として、そこから先の本編はひたすら学校版「家政婦は見た!」とも言うべき、告発本、暴露本の類となっています。
 想像するに、教育の荒廃を嘆き、教師たちの実態を告発しようと試み、
『学校警備員が見た学校の裏側』
『教師たちの本当の素顔』
『私の教育徹底改革論』
かなにかのタイトルをつけて持ち込まれた原稿を、売れるタイトルのものにしようと企てた編集者が、出版当時の「2007年問題」に絡めて無理やり「先生の集団逃亡」というタイトルをつけ、そのつじつまを合わせるために、「はじめに」の部分で教員の採用と退職のデータを後付したのではないかと想像されます。著者自身も、退職者の実態を調べたのは、「本書を脱稿したこの夏、念のために」だと「はじめに」で語っており、本書が教員たちの「集団逃亡」をもともとのテーマにしたものではないことは明らかです。
 第1章「国語」では、全国百万人の公立学校教師のうち、「読書習慣のある人は、よくて5パーセント、下手をすれば2、3パーセントかもしれない」としたうえで、その根拠として、
・著者から、著者の母校の前校長が出版した『日本の父へ』を薦められた校長が部下の教員全員に自腹を切ってプレゼントしたが、読んだ人は25人中3人だけだった。
・キリスト教関係の自営業者の方から区内すべての小中学校長とPTA会長に寄贈された西尾幹二の『国民の歴史』を誰も読まなかった。
・著者夫婦が出版したミステリー小説(第5回「横溝正史賞」受賞)を、読みたいとサイン入りで買ってくれた教員は21人中3人しかいなかった。(第7章)
ことなどを挙げています。
 そして、「いまの平均的な教師像」として、
《読書が嫌い。新聞も読まない。知識のもとは、大学時代に暗記した教科書と、教員になって目を通した教育雑誌、研究授業で耳にした指導主事の解説、およびテレビから得る雑学ぐらい。学校内の人間関係にしか関心がないために、時代の流れを読む力も、社会の変化に立ち向かう勇気もそなわっていない。予想外の出来事にぶつかるとうろたえるが、尊大さを保つために、したり顔で、なんとか他者に責任を転嫁しようとする》
と述べています。
 また、学級崩壊や「トンデモ親子」に対して、「武道の心得」が欠けているため、普段の気迫もなく、子供たちが逆らってくると述べています。
 第2章「算数」では、教師たちが、「算数を基にした人生の計算法を、しっかり教えてやらなかった」ために、「トンデモ親」を持つ子供や、「自営業の息子」が野放しにされ、前者は卒業後、高校に入ってほんものの悪グループに目をつけられて中退し、後者は少年院送りになったと語っています。
 また、校長試験に受かりたければ百万円用意しろ、と部下の教頭に言った校長が、事実が明るみに出れば、名誉も退職金も失ってしまうという「恐怖の引き算が、チラッとでも頭をかすめめなかった」のかと述べています。
 さらに、「教え子を再び戦場に送るな」という日教組のスローガンは、「一見カッコ良く、しかし何の責任も伴わない」「空念仏」だとして、「未来をになう子供たちに、教員たちが教えている算数は、自己チュー算としか思えない」と語っています。
 第3章「理科」では、生き物の飼育に関して、「見通しを持って観察・実験など」をおこなっている学校も、「問題解決の能力」を持っている教員も「ゼロ」だと語っています。
 第4章「社会」では、都心の私大の修士課程で社会学を学んでいるという教師の向学心に「ちょっと嬉しくなり」、「日本民族は邪悪であり侵略的だったがゆえに、第二次世界大戦では、アジア諸国に多大の損害をあたえた、とする反省過多論」を意味する「自虐史観」という言葉を、「知ってますよね」と、知っていて当然とばかりに質問して、「なんですか、それ?」と「キョトン」とされたエピソードを開陳し、教師の”社会音痴”を嘆いています。
 また、教育評論家やジャーナリストが、イジメ事件について、「教師、家庭、地域社会とが一体となって、再発防止に・・・」とコメントしていることについて、「なんのためらいもなく、この『地域社会』を口にする連中は、すべて偽者、というのが、私の<人物鑑定の方程式>である」と語っています。
 第5章「体育」では、「武術経験のないケンカの弱い教師にかぎって、感情むきだしで暴力をふるい、生徒に重傷を負わせたり殺したりする。なめられまいとして焦るから、自分の人生も、生徒の生涯も台無しにする愚挙を演じてしまう」として、「武術の習得を採用条件に加える」ことを主張しています。
 また、「校庭開放をずっと見守ってきたが、校庭で相撲をとっている子には、一度も出あっていない」ことを嘆き、「『相撲教育』が本格化すれば、相撲愛好家の子供たちがふえ、国技の危機など吹きとんでしまう」として、相撲協会と文部科学省にとって、「喫緊の課題として研究をはじめるべき」だと述べています。
 第6章「徳育」では、自身が高校2年のときに落第し、カトリックの3人の教師から、「落ち込んでいないはずのない教え子をはずかしめ、傷口に塩をなすりこんで」こられた経験を語り、「以後、私は、教師の傲慢と暴虐と耳にしても、まったく驚かなくなった」と述べています。
 また、イジメを減らす「唯一の手だて」として、「道徳教育と宗教教育」を挙げ、「『道徳教育』と『宗教教育』を火急に復活させないかきり、学校教育の溶解は、とめようがない」と主張しています。
 第7章「良い教師とは」では、「良い教師」の条件として、
(1)子供好き
(2)知的好奇心があること
(3)人間管理能力
の3点を挙げ、現実の教師がいかにこの条件から外れているかを、自分たちの著書に誰も関心を示さないことの不思議を織り交ぜながら語っています。
 本書は、教師たちの素顔を裏から見て溜飲を下げたい人にはお勧めの一冊です。


■ 個人的な視点から

 基本的に小説は読まないので、著者の石井竜生氏については存じ上げていなかったのですが、ネットで検索してみると、「つくる会」の掲示板に登場する「外野応援団」というコテハンではないか、という推測が見つかりました。
http://d.hatena.ne.jp/mahotan/20060701
 その根拠として、文章の水準、文章生産力、時間的余裕、の3点が挙げられていましたが、これだけの理由で決め付けてしまうのは乱暴ではないかと思いました。
 まあ、その主張なり、言い回しなりが特徴的だったからピンときたのかもしれませんが。


■ どんな人にオススメ?

・「聖職者」の裏の顔を覗き見たい人。


■ 関連しそうな本

 藤原 和博 『公立校の逆襲 いい学校を作る!』 2005年06月17日
 金子 郁容 (編著), 玉村 雅敏, 久保 裕也, 木幡 敬史(著) 『学校評価―情報共有のデザインとツール』 『父生術』 2005年06月12日
 大島 謙 『高校を変えたい!―民間人校長奮戦記』 2006年02月13日
 吉田 新一郎 『校長先生という仕事』 2006年02月15日
 藤原 和博, 天野 一哉 『民間校長、中学改革に挑む』 2006年04月07日


■ 百夜百マンガ

たたかうお嫁さま【たたかうお嫁さま 】

 ドラマ化されたので覚えている人も結構いるのではないかと思いますが、主題歌はユーミンの「円舞曲」です。

2008年6月 2日 (月)

あなたのマンションが廃墟になる日――建て替えにひそむ危険な落とし穴

■ 書籍情報

あなたのマンションが廃墟になる日――建て替えにひそむ危険な落とし穴   【あなたのマンションが廃墟になる日――建て替えにひそむ危険な落とし穴】(#1229)

  山岡 淳一郎
  価格: ¥1890 (税込)
  草思社(2004/3/26)

 本書は、これまで「デザイン的な『個人の趣味』、もしくは天空から見下ろす『都市計画論』のような『ますの観点』で語られることが多かった」住宅について、「その間に横たわる『社会的な構造』」を掘り下げたものです。
 プロローグ「奇妙な法改正」では、2002年の8月に行なわれた「法制審議会」での2人の「参考人」、すなわち、「マンション建て替え推進を強硬に主張してきた財界と学会の代表選手」である森ビル社長・森稔と政策研究大学院教授・福井秀夫を迎えて議論された「区分所有法」の改正に当たっての、「『建て替え決議』に求められる『客観的要件』をいかに合理的で明快なものにするか」の議論を取り上げています。
 そして、「地価神話」崩壊後、「容積率を上げて建て替え、新しく増えた十個を販売して再建費を捻出するという従来の手法」が「非現実的になりつつある」ためにマンションの建て替えが行き詰ったことについて、小泉内閣が、「住民がコミュニティの将来を決める手続きや義務、権利の行使を定めた区分所有法を改正することによって、老朽化から『建て替え』への『筋道』をつけようとした」と述べ、老朽化による建て替えの要件とされていた「五分の四決議」が、「立替を希望する住人にとっては資産価値を高める早道と映るが、そのまま住み続けたい人にすれば生命財産を守るはずの住居を喪う引き金になる。両者の溝は容易には埋められない」として、「五分の四決議は、住民にとっていわば『諸刃の剣』なのである」と解説しています。
 著者は、「マンションは単なる『商品』の集合体ではない。住人の自治を掟とするコミュニティだ」と述べています。
 第1章「さまよう老朽団地」では、1968年に分譲された千葉市稲毛の「稲毛海岸三丁目団地」を取り上げ、「誕生からわずか20年で、壊して超高層マンションに再建する『建て替え問題』が浮上」し、「以後、十数年の歳月をかけて、建て替え問題が話し合われ、住民の合意形成が行なわれたが、二転三転、紆余曲折の連続。『数の論理』では解決できない多くの壁に突き当たった」と述べた上で、「日本全国で、今、高度成長期に産声を上げた『新しいふるさと』が、時の波間に漂流している」とし、「その根底には、二hんの住宅が、コンクリート造の集合住宅を含めて建築後30年少々で壊されてきた事実が、厳然と横たわっている」と解説しています。
 そして、バブル期の不動産価格高騰の中で、「等価交換方式」による、「無償で広さは五割増し」という団地の建て替え計画が頓挫し、デベロッパーは手を引き、後には、建て替えを前にして、十分な維持補修を行なってこなかった老朽化した団地が残った経緯を解説しています。
 また、マンションが、「鉄筋コンクリート本来の特性が担保されていれば、『地震と火事の国』日本とはいえ、たかだか30年で物理的な老朽化に悩まされはしなかっただろう」が、「『高度成長』を境に、それ以前の建物の方が頑丈で、それ以後の建物は脆いという一般的傾向があるのだとすれば、建設業界の技術的『進化』を阻むほど大きな『老朽化圧力』が社会的に働いたと考えざるを得ない」と指摘しています。
 著者は、「『30年サイクル』でのマンション建て替えは、経済的にも、コミュニティの維持といった側面からも、困難になってきている」として、立替が進まず、「老朽化を抱え込んだままのマンションの『使用期間』」が延びていくことは、「真の再生とはほど遠い、『スラム化』『廃墟』といった『終末の危うさ』と背中合わせの延命でしかない」と述べています。
 第2章「誰が『30年寿命』にするのか」では、短期間で繰り返される「スクラップ&ビルド」を推し進めてきた力として、
(1)度を越した土地の「商品化」による「地価の高騰」
(2)地価高騰に対して「都市計画」がまったく機能していない
(3)「住宅供給」を景気刺激策として利用してきた政官財の人的ネットワーク
の3点を挙げ、「これら3つの要因をはびこらせた根本には、官僚主導の都市づくりにおける『住宅軽視』の悪弊がある」と指摘した上で、「スクラップ&ビルドの『日本的システム』」が戦後の復興期から高度成長期に固められたプロセスを、田中角栄という「水先案内人」を立てて解説しています。
 そして、「小学校卒」と信じられてきた田中角栄が、上京後、神田一ツ橋の私立「中央工学校(夜間)」で土木、建築、機会、製図などを学び、田中が建築に関する知識を振る活用して、「今日の建設行政の根幹をなす法律づくり」を行い、「在職中に手がけた議員立法33本、関与した法律総数120」という数は、「二度と破られない『記録』だとされる」と延べています。
 そして、1950年に、「郵便貯金や簡易保険積立金を『財政投融資資金』として運用する『住宅金融公庫法』」が、田中の強烈なバックアップで成立、51年には、田中が議員立法した「公営(都道府県営、市町村営)住宅法』が成立」し、「地方公共団体が、国の補助を受けて低所得者層に賃貸住宅を提供する仕組みができた」と述べています。
 また、首都圏において、「公営住宅」の建設が父として進まなかった理由として、「『行政区域』が大きな『壁』となって立ちはだかっていた」ことを挙げ、大規模な集合住宅の建設に伴なう、上下水道や学校等の生活基盤整備にかかる費用を負担する財政的余裕がなかった千葉県や埼玉県などの周辺自治体が、「東京で働き、東京の財産をふやす労働者のために、なぜ家を提供しなければならないのか」と反発したことを解説しています。そして、日本住宅公団が、表向きには、
(1)住宅不足の著しい地域の勤労者のための住宅建設
(2)耐火性能を有する集合住宅の建設
(3)大規模かつ計画的な宅地開発
(4)行政区域にとらわれない広域圏での住宅建設
の4点を新設の理由としていたが、(4)の「広域圏での住宅建設」こそが、「公団設立の『真意』」であったと解説しています。
 さらに、区分所有権法案づくりに当たって、「分譲アパートがいったい『誰のモノか』という素朴かつ根本的な問い」が俎上に上がったこと、「法律の背骨は『区分所有権』という『私権』の確立」であったこと等を解説した上で、「区分所有法によって、「持ち家」に手が出ない層にも家を持たせたことは、結果論であり、「他に選択肢がないから、皆、これが当たり前だと飛びついた」と述べています。
 第3章「被災マンション建て替え問題」では、建て替えを迫る要因として、「老朽化」と「大災害」とを挙げ、「一見、両者はかけ離れているようだが、建物とともにコミュニティが『解体』される点は共通している」として、阪神淡路大震災で被災した「六甲グランドパレス高羽」を取り上げています。
 そして、建て替えをめぐる住民同士の裁判で、区分所有法の「補修費用の過分性」が争点となり、建て替えを進めたい勢力にとって、「『費用の過分性』という客観的要件の存在自体が、とてつもない生涯として立ちふさがっている」ことが明らかになったとし、「被災マンションの建て替えと、平時の老朽化によるマンション建て替えを結びつけるのは、スクラップ&ビルドによって景気が上向くと信じて疑わない、土地神話時代につくられた『信仰』である」と指摘しています。
 第4章「住み慣れた住居とともに」では、「老いを受け入れつつ、ハードと人々の絆を保つ手段」が求められるとして、京都にある「全管連(全国マンション管理組合連合会)」と、「リファイン建築」を手がける建築家、青木茂を取り上げています。
 そして、全管連が、「いいマンション、いいコミュニティに長く暮らしたい」という思いから集まり、「年々、その情報発信力、影響力は強まっている」と述べ、「マンションは建てっぱなしでは長く持たない。維持管理を適切に行い、建物の寿命を延ばしながら、コミュニティを保つ仕組みを確立する必要がある」が、この「集住の掟」が、「日本のマンションではすっぽり抜け落ちていた」と指摘しています。
 また、全管連が、1991年に、バージニア州に本部を置く「CAI (Community Association Initiative)」という民間の非営利団体を訪ね、「対決型の運動の結果、何が変わりましたか?」という問いかけをきっかけに、全管連のあり方を「対決型」から「パートナーシップ」「共通の利益」に変革していく過程を追っています。そして、全管連の中心となってきた「管対協(京滋マンション管理対策協議会)」というNPO法人の別働隊であるNPO「マンションセンター京都」が行なう「京都方式」のコンサルティングの具体的な手法の要点として、
・徹底した建物調査で劣化の状況とその原因を把握する。
・劣化対策と予防措置の正しい選択をする。
・よい工事とは何か、具体的に見て知っておく。
・よい職人と現場責任者に関する情報を知っておく。
・工事費と工事の室について正確な情報を収集する
の5つの条件に基づいて修繕工事を行い、「管理組合が自信を持ってマンションの管理を行えるようになったか」「コミュニティの成熟度が高まったか」「住人が管理に関心を持つようになったか」が、「その工事全体を通した評価基準」になると解説しています。
 さらに、「老朽化したコンクリート建造物をいったん、基本的な骨組み(構造躯体)にまで、余分なものを削ぎ落とす『部分解体』を行い、耐震補強をした後に『増・改築』する」手法である「リファイン建築」について、「ユーザーから好評を持って迎えられる」一方で、「その『改革性』ゆえに建設業界内での風当たりは強い」と述べ、リファイン建築が世に知られるきっかけとなった「八女市他世代交流館」事業において、「計画段階から守旧勢力に激しくバッシングされ」、
(1)市長の手足となって動く職員の「固定観念」
(2)「議会」
(3)地元の建設業者たちが、意図的に落札しなかった
の「3つの壁」を突き破らなければならなかった、と述べています。
 また、「『政官財』の生々しい癒着ぶり、腐敗ぶり」を、元建設官僚で、NPO法人「住宅生産性研究会」理事長の戸谷英世が、
「部課長(本章から各県に出航した官僚)は、選挙が始まると管下の建設業教会をまわって厳しく業者を締め付けることになる。表向きは、選挙が始まっているが、選挙にかまけないで、公共事業をしっかりやってほしいと訓示や挨拶をして廻るが、その際の出席者の名簿を集め、誰が出席したかを確かめ、選挙結果の分析には大きな意味を持たせることになる。部長に随行する課長たちは、出席者全員と目を合わせるようにせよと指示される」
という「体験したものにしか書けない筆致」であると紹介しています。
 第5章「いい建物を永く使う」では、著者が、「なぜ日本の『鉄筋コンクリート』マンションは30年少々で壊されてしまうのか」という素朴な疑問から始まった一連の取材を、「老朽マンション建て替えの厳しい現場、震災復興の過重な負担に粉砕されたコミュニティを渡り歩く、反映の裏に隠された現代の『胎内くぐり』であった」と述べ、「建物を短期間に壊し、新築して経済を活性化させようとする『日本的メカニズム』が、土地神話の崩壊とともに根拠を失ったにもかかわらず、なおかつ幻影にすがりつき、幻影から復讐されて『悲鳴』が上がるのを聞き取る作業でもあった」としています。
 著者は、「ニュータウンの名で親しまれてきたあまたの団地は『再生への選択肢』を求めて、もがき、苦しんでいる」として、その「再生モデル」として、「苛酷な自然環境の中で住宅を大切に使ってきた」スウェーデンを訪れています。
 そして、スウェーデンが一般労働者用のアパートの供給に力を入れだした1930年代には、「海を隔てた隣国・ロシアで起きた『社会主義革命』の波が及ぶのを防ぐという婉曲的な意味も込めて『光あふれ、空気の清澄な場所』を選んで労働者用のアパートを造っている」ことなどを紹介しています。
 著者は、「都市の主役は『住人』なのだ。あるいは『生活』と還元してもいい」と述べ、「『再生』という言葉を『再開発』の代名詞ではなく、人間を核にした暮らしと環境の『維持循環』へとシフトしてゆく技術が求められる」として、「『諸刃の剣』は、慎重に慎重を記して期かれねばなるまい」と述べています。
 本書は、分譲マンションに住む人はもちろん、住宅とコミュニティについて考える上で、大きな問題意識を与えてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 例えば、1台のバスを20人なり30人で共同で所有したら、と考えると、マンションを見ず知らずの人たちと共同で所有する、ということがいかにリスクが高いかが理解できます。
 エンジンの調子が悪くても整備工場に持っていくのを嫌がる人が出てきたり、傷が付いたから修理したいという人と、ちょっとくらいの傷は気にしないという人がいたりを考えるとかなり面倒です。ましてや、古くなったから全員でお金を出し合って買い換えるか、そのまま乗るか、ということの意見がまとまるには、全損にでもなって動かなくならなければとても絶望的です。
 そう言えば、筒井康隆の小説で、団地がスラム化した近未来を描いた作品がありましたが、まさしくこれからそうなるわけですね。


■ どんな人にオススメ?

・分譲マンションに住んでいる人。


■ 関連しそうな本

 藤木 良明 『マンションにいつまで住めるのか』
 筒井 康隆 (著), 熊倉 隆敏 『三丁目が戦争です』
 山岡 淳一郎 『マンション崩壊 あなたの街が廃墟になる日』
 中谷 ノボル, アートアンドクラフト 『みんなのリノベーション―中古住宅の見方、買い方、暮らし方』
 平松 朝彦, 井上 和雄, サスティナブルマンション研究会 『マンションが破綻する理由―内配管から外配管方式に』
 村上 佳史 『マンション建替え奮闘記』


■ 百夜百マンガ

どぐされ球団【どぐされ球団 】

 子供の頃に「ジャンプ」でこの作品を読んだ40代のお父さんが、今ではゴルフ雑誌で『インパクト』を読んでいる、という構図でしょうか。小さい頃に読んだ漫画の嗜好は何歳になっても大きく変わらないのかもしれません。

2008年6月 1日 (日)

ヨーロッパをさすらう異形の物語―中世の幻想・神話・伝説 (下)

■ 書籍情報

ヨーロッパをさすらう異形の物語―中世の幻想・神話・伝説 (下)   【ヨーロッパをさすらう異形の物語―中世の幻想・神話・伝説 (下)】(#1228)

  サビン・バリング=グールド (著), 池上 俊一, 村田 綾子, 佐藤 利恵, 内田 久美子
  価格: ¥2310 (税込)
  柏書房(2007/09)

 本書は、1875年に出版された『中世の奇妙な神話』の全訳の下巻で、「中世を代表する伝説たちが一堂に会している」もので、「古典的地位を保っている」とされています。
 監訳者は、「古今東西の神話・伝説を自家薬籠中のものにして、つぎつぎ関連付けていくきらびやかな博識の本書は、翻訳者泣かせでもある」と述べています。
 第14話「聖ウルスラと一万一千の乙女」では、「中世の伝説には美しいものもあれば、奇怪なものもあるし、不快に感じるものもある」としたうえで、「美しいのは見かけだけで、ちりと灰が詰まった異教の『ソドムのリンゴ』であることもよくあること」であると述べ、「この興味深い物語」が、「勘違いと捏造だらけだった」として、「こんな神話はほかに類を見ない」と述べています。
 第15話「聖十字架伝説」では、「私個人としては、世界中の人々の間で存在していた従事が、いにしえの宗教の一部を作ったという考えに異論はない」と述べ、「十字は、命や水を通じての復活の象徴として世界中で扱われている。夜の時代である中世二十次が残して言った影、さまざまな国に落としていったその影は、私たちが考えているよりもずっと深いのかもしれない」と述べています。
 第16話「シャミル」では、ソロモン王がつくった荘厳の神殿が、「神殿の建築は、石切り場でよく準備された石を用いて行われたので、建築中の神殿では、槌、つるはし、その他、鉄の道具の音はまったく聞こえなかった」とされていることについて、「祭壇をつくるときに鉄の道具を使うことが禁じられた理由は、ミシュナにある――鉄は命を削ってきた。祭壇は命をのばすもの」であると述べています。
 そして、ソロモンの賢い部下たちは、「祭司長がつける裁きの胸当ての宝石」を彼に見せ、「宝石は、それよりも硬い何かで削られ磨かれていた。その何かとは、シャミルschamirといい、鉄の道具では無理なところも削っていた」と語り、ソロモンが精霊たちを呼び寄せ、シャミルのいる場所を尋ねたところ、「シャミルは大麦の粒ほどの大きさの虫だが、とても強力で、フリントでも歯が立たないほどだと」と告げられたことが述べられています。
 また、「シャミルは命を与えるちからをもっている」という名神もあるとして、「これにはおそらく、鳥あるいはイタチが、不思議な草を使って死体を生き返らせたという物語が関係していて、これらは、中世にかなり広まっていた」と述べています。
 さらに、北方に伝わる「栄光の手」について、「絞首刑になったものの手であり」、・人間の手首を死衣にくるんで、しっかり血抜きをする。
・完全に粉末状にした硝石、塩、インドナガコショウと一緒に陶器の中に入れる。
・二週間つけたままにして、よく乾燥させる。
・猛暑の時期の太陽にさらして、完全に乾かしきる。
・絞首刑になった者の脂肪、採りたての蜜蝋、ラップランド製のゴマでろうそくを作る。
という製造方法を解説し、このおそろしい手にまつわるいくつかの話が、ヘダーソンの『イングランド北方の民間伝承』に載っているとして、そのひとつを紹介しています。
 著者は、「錠を吹き飛ばし、石を粉々にして、秘法がずっと隠されていた山を開かせる。あるいは、しびれさせ、魔法の眠りに誘い、命をよみがえらせる」というさまざまな物語が伝えていることはひとつであり、同じことを主題にしている、「それはつまり、稲妻である」と述べ、「鳥によって運ばれる、石を砕くシャミル、虫、小石」とは、「嵐雲だ」と述べています。
 そして、「気まぐれな人間の心は、驚きをもたらすものを説明する理由を探して、次から次へと仮説を立てていった。そして、却下されていった説の数々は、神話として国々の記憶には残らず、神話の真意は忘れ去られてしまったのだ」と解説しています。
 第17話「ハーメルンの笛吹き男」では、ゲーテの『魔王』や、「魔力のある歌声を持つ有名なセイレーンの物語』との類似点を指摘しています。
 第18話「ハットー司教」では、飢えた貧しい人々を納屋に押し込め、納屋に火を放ち、「国に感謝してもらわねば、この絶望的なご時世に、穀物を食いつぶすネズミを退治したのだから」と言ったハットー司教が、翌日無数のネズミに食い殺された物語を紹介した上で、「これらの物語は、飢饉のときにキリスト教以外の信徒が人間の生贄をささげたことがもとになっている」と解説し、ハットー伝説は、「飢饉のときに指導者や王子を生贄にささげる風習と、その生贄をネズミに食わせることを伝えている。こうした供儀をおこなう理由が忘れられたときに、神の罰が下り、苦しむ人々によるむごい仕打ちや殺人、聖職者への暴力となって現れるが、これはなんら不思議なことではない」と述べています。
 第19話「メリュジーヌ」では、森の中の泉のそばで出会った乙女、メリュジーヌを妻に迎えたレモンダンが、「毎週土曜日には彼女一人で私室にこもり、彼は絶対にそれを邪魔してはならない」という約束を破り、「彼女の下半身が、醜い魚もしくは蛇の尾に変わっていた」のを見てしまい、「この蛇女め、私の高貴な血筋を汚しおって!」と声を荒げたところ、「新たな城主が誕生するときには、あなたと、あなたの子孫は、この美しいリュジニャン城の上を飛び回る私を見るでしょう」といって、窓から飛び立ったという伝説を紹介しています。
 第23話「サングリアル(聖杯)」では、「キリストが槍で刺されたとき、脇腹から血と水が流れ出た。アリマタヤのヨセフが、救世主が最後の晩餐で使った器でその血を受けた」として、42年もの間、地下牢につながれたヨセフは、「もっていた聖なる器から栄養と英気を与えられた」という伝説を伝えています。
 また、テンプル騎士団が、偶像崇拝をとがめられた際、「香油を塗り、磨きこんだ頭部の像に、テンプルの騎士はまさに卑しむべき信頼を置き、厚い信仰を寄せている。その頭部の眼窩には、天空の輝きを持つ暗赤色の宝石がはめ込まれている」と述べられていたり、「彼らが所持する例の頭は、顔が人間のそれのように青白く、髪は黒く縮れ、首には金色の飾りを巻いている。彼らは、実のところどの聖人のものでもない頭の像を崇拝し、その前で祈りをささげる」と述べられていることを紹介した上で、「頭の像が崇拝されたのは、目的は不明だが生首を器に載せておこなった、ふるいドルイド教の儀式の名残かもしれない」と述べ、「敵の血まみれの頭はケルトの民族的象徴」であり、「ボイイ陣はその頭を神殿に運んで洗い、金で装飾を施して、祭事には聖なる器の代わりに使い、それで飲み物を振舞った」と解説しています。
 本書は、無数の物語を通じて、中世ヨーロッパを生き生きと伝えている一冊です。


■ 個人的な視点から

 「近代の目から見た中世」という意味では小泉八雲の『怪談』みたいなものでしょうか。文化を理解する、というのは、こういう「誰もが知っているストーリー」を知っているということを意味するのかもしれません。


■ どんな人にオススメ?

・ヨーロッパ人の共通するストーリーに迫りたい人。


■ 関連しそうな本

 サビン・バリング・グールド (著), 村田 綾子 (翻訳) 『ヨーロッパをさすらう異形の物語 上―中世の幻想・神話・伝説』 2008年05月10日
 小泉 八雲 『怪談・奇談』 
 高橋 友子 『路地裏のルネサンス―花の都のしたたかな庶民たち』 2006年11月03日
 若桑 みどり 『フィレンツェ―世界の都市と物語』 
 高橋 友子 『捨児たちのルネッサンス―15世紀イタリアの捨児養育院と都市・農村』 2006年12月09日
 甚野 尚志 『中世の異端者たち』 


■ 百夜百音

「渡る世間は鬼ばかり」サントラ盤【「渡る世間は鬼ばかり」サントラ盤】 羽田健太郎 オリジナル盤発売: 1996

 泉ピンコが「三門マリ子」の芸名を持った牧伸二の弟子の漫談家であったということは有名なのかもしれませんが知りませんでした。

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