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2008年12月

2008年12月31日 (水)

国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて

■ 書籍情報

国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて   【国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて】(#1441)

  佐藤 優
  価格: ¥1680 (税込)
  新潮社(2005/3/26)

 本書は、外務省の外交官で、ロシアを巡る背任容疑で逮捕された著者の、保釈されるまでの512日間の独房生活を綴ったもので、著者が毎晩、「なぜ私は逮捕され、ここに閉じ込められ、手錠・捕縄姿で裁判所に引き立てられるようなことになってしまったのか」を自問したものです。
 第1章「逮捕前夜」では、鈴木宗男氏が、「他人に対する恨みつらみの話しをほとんどしない」ことについて、「鈴木氏には嫉妬心が希薄」であるだけでなく、「他人がもつ嫉妬心に鈴木氏が鈍感である」ことが、「他の政治家や官僚が持つ嫉妬心や恨みつらみの累積を鈴木氏が感知できなかった最大の理由」だと述べています。
 第2章「田中眞紀子と鈴木宗男の闘い」では、「日本という国の根本的な方針が、小泉政権の登場前と後では大きく変貌を遂げた」という分析を述べ、冷戦構造の崩壊を受け、外務省内部で、
(1)日本はこれまで異常にアメリカとの同盟関係を強化しようという考え方。
(2)日本は歴史的、地理的にアジア国家であるということをもう一度見直し、中国と安定した関係を構築することに国家戦略の比重を移し、その上でアジアにおいて安定した地位を得ようとする「アジア主義」。
(3)日本、アメリカ、中国、ロシアの四大国によるパワーゲームの時代に、最も距離のある日本とロシアの関係を近づけることが、日本にとってもロシアにとっても、そして地域全体にとってもプラスになる、とする地政学論。
の3つの異なった潮流が形成されたと解説しています。
 そして、国際情報屋のタイプとして、
・猟犬型:ヒエラルキーの中で与えられた場所を良く守り、上司の命令を忠実に遂行する。
・野良猫型:たとえ与えられた命令でも、自分が心底納得し、自分なりの全体像をつかまないと決してリスクを引き受けない。独立心が強く、癖がある。しかし、難しい情報源に食い込んだり、通常の分析家に描けないような構図を見て取ることができる。
の2つのタイプを挙げ、著者が「諸外国の野良猫型情報屋から多くのことを学んだ」として、「国際情報屋は、猟犬型は9割5分、野良猫型5分くらいに分かれる」とした上で、情報入手の方法が、
・虎式:獲物の通り道を見つけ、誰にも見えないような場所でひたすら待ち、獲物が近づいたら一気に襲い掛かる。
・蜘蛛式:幅広く網を張り、獲物がかかるのを待つ。
に分かれると述べ、著者自身は諸外国の専門家たちから、「蜘蛛式が得意だ」とよく言われたと述べています。
 また、「小泉政権の誕生により、日本国家は確実に変貌した」として、その意義として、
(1)外交潮流の変化:冷戦後存在した3つの外交潮流は、「親米主義」に整理された。
(2)ポピュリズム現象によるナショナリズムの昂揚。
(3)官僚支配の強化。
の3点を挙げています。
 第3章「作られた疑惑」では、著者にかけられた疑惑として、
(1)背任
(2)偽計業務妨害
の2点を挙げています。
 また、「ロシアウォッチャーにとって、大晦日は重要だ」として、大統領が毎年大晦日の午後11時台後半に国民に読み上げる新年祝賀メッセージに「内外政のヒントが多く隠されている」として、1999年の大晦日に、「エリツィン大統領が本日辞任して、プーチン首相が大統領代行に任命される。既に大統領の特別声明が録画されており、モスクワ時間正午に放送される」という重大情報が引っかかったと述べています。
 第4章「『国策捜査』開始」では、取調べを担当した西村検事から、「だってこれは『国策捜査』なんだから」という言葉を聞いたときに、「この検事が本格的に私との試合を始めたということを感じた」と述べています。
 そして、弁護団に対して、「ふつう中にいる人は外の様子を少しでも多く知りたがり、自分の置かれた状況について全体像を知りたがる」野に対し、「全体像に関する情報をもつ人を限定する」という「情報の世界では当たり前」の「クオーター化の原則」を要請したと述べています。
 また、「今回の国策捜査が鈴木宗男氏をターゲットとしていたことは疑いの余地が」なく、「私はその露払いとして逮捕された」とともに、「私を逮捕すれば、外務省と鈴木宗男氏を直接絡める犯罪を見つけ出すことができるとの強い期待を抱いていた」と述べています。
 第5章「『時代のけじめ』としての『国策捜査』」では、「私が逮捕、起訴され、その後も交流されているのは、佐藤優と鈴木宗男を絡める事件を作り、現下の政官の関係を摘発、断罪し、検察官のことばでいうところの『時代のけじめ』をつけるため」だとしたうえで、「他の政治家ではなく鈴木宗男氏がターゲットにされた」理由として、「現在の日本では、内政におけるケインズ型公平配分路線からハイエク型傾斜配分路線への転換、外交における地政学的国際協調主義から排外主義的ナショナリズムへの転換という二つの線で『時代のけじめ』をつける必要があり、その線が交錯するとことに鈴木宗男氏がいるので、どうも国策捜査の対象になったのではないかという構図が見えてきた」としています。
 そして、「国策捜査」と「冤罪事件」の違いとして、冤罪事件では、「捜査当局が犯罪を摘発する過程で無理や過ちが生じ、無実の人を犯人としてしまったにもかかわらず、捜査当局の面子や組織防衛のために自らの誤りを認めずに犯罪として処理」することであるのに対し、国策捜査は、「国家がいわば『自己保存の本能』に基づいて、検察を道具にして政事事件を作り出していくこと」だと述べ、「初めから特定の人物を断罪することを想定した上で捜査が始まる」と述べています。
 第6章「獄中から保釈、そして裁判闘争へ」では、新獄舎への引越しに伴い、看守から「ちょっと難しい人たちのいるとこ」への移動を頼まれ、週に1、2回、両側の独房でビデオ付テレビが入れられ、映画を鑑賞していることに気づき、ビデオを見れるのは、「確定者」だけであることをサジェスチョンされたと述べています。
 また、間違えて隣の房の人の電気カミソリが差し入れられたことで隣人の氏名を知り、隣人が、「30年以上前、共産主義革命を目指して大きな事件を起こした人物」であることを知った著者が、保釈後、「いちばん最初に買い求めた本はこの隣人の書いた獄中手記だった」と述べています。
 また、公判における最終陳述の機会に、
(1)今回の国策捜査がなぜに必要とされたか
(2)国策捜査とマスメディアの関係
(3)今回の国策捜査で真の勝利者は誰だったか
(4)今回の国策捜査が日本外交にどのような実害をもたらしたか
の4点について、意見を述べたと述べています。
 本書は、マスコミで面白おかしく取り上げられたこの事件を、一方の当事者とはいえ、時系列に整理して知ることができる一冊です。


■ 個人的な視点から

 当時、2チャンネルなどでも「ムネオ」といえば「悪の化身」的なイメージでずいぶんたたかれ、「ムネオハウス」なる曲まで登場しました。著者も、「外務省のラスプーチン」と言われることに関して、日本ではラスプーチンはロシアを裏から操った怪僧というイメージがあるが、ロシアでのイメージはまるで違うと語っています。日本でイメージが悪いのは、山田風太郎の『ラスプーチンが来た』のイメージがあるからでしょうか。


■ どんな人にオススメ?

・ムネオは諸悪の根源だと思う人。


■ 関連しそうな本

 佐藤 優 『国家の罠―外務省のラスプーチンと呼ばれて』
 佐藤 優 『獄中記』
 佐藤 優 『自壊する帝国』
 佐藤 優 『国家の崩壊』
 佐藤 優 『国家と神とマルクス―「自由主義的保守主義者」かく語りき』
 手嶋 龍一, 佐藤 優 『インテリジェンス 武器なき戦争』 2008年02月06日


■ 百夜百マンガ

幕張サボテンキャンパス【幕張サボテンキャンパス 】

 登場人物も千葉県内の地名を使った千葉ローカルな作品。幕張でキャンパスといえば神田外語大学ですが、どんな関わりなのかは不明。

2008年12月30日 (火)

科学者と数学者が頭をかかえる8つの難問

■ 書籍情報

科学者と数学者が頭をかかえる8つの難問   【科学者と数学者が頭をかかえる8つの難問】(#1440)

  A.K. デュードニー (著), 小野木 明恵 (翻訳)
  価格: ¥2,520 (税込)
  青土社(2007/12)

 本書は、「われわれ人間の理性が行き着いた限界を、科学(主に物理学)と数学の分野から8例あげて解説したもの」です。
 著者は、「知識や行動の限界には、それが実在のものであれ見かけのものであれ、科学や技術の進展をいっそう駆り立てるという有益な影響力がある」として、「たぶん、すべての障壁を並べれば、我々が今いるこの場所の輪郭がよりくっきりと浮かび上がるのだろう」と述べています。
 第1章「エネルギーの流出」では、「永久機関」という観念が、ピラミッドと同じくらいから古くからあり、「永遠に動き続ける機械を作るという課題には、エジプトのピラミッドを建築するよりも、はるかに多くの時間と労力が費やされたことだろう」と述べた上で、永久機関について、
・タイプ1:すべての摩擦を取り除くことが可能だとすれば、ごくふつうの車輪でも永遠に回転することができる。
・タイプ2:装置が運動を永久に行う可能性があるだけではなく、その間にエネルギーを生み出すと想定する。
の2種類に分類しています。
 そして、19世紀初頭に、チャールズ・レドヘッファーという人物が、「決して動きを止めないという珍しい装置」をフィラデルフィアとニューヨークで公開し、そこに、いたアメリカ一の技師、ロバート・フルトンが、「装置から出る回転音が一定ではないため、だれかがどこかでクランクを回しているはず」だと気づき、「損害の弁償はする」とレダヘッファーに断った上で、「装置を壁に固定させていると思われる二本の支柱」を怖し、その内部から、「弦でできた伝動ベルト」を発見すると、そのベルトの先をたどり、その先に、一人の老人を発見し、「あごひげを長く生やした老人は、かなりの長期間にわたって部屋に閉じ込められていた様子がありありとうかがえた。老人は何が起きたのかわからず、腰掛に座り、片手で堅いパンをかじり、片手でクランクを回していた」と伝えられていることを紹介してます。
 第2章「宇宙的制限速度」では、光速が「現在では、自然の普遍定数のひとつとされている」が、「それは計測の精度が高いから」ではなく、「光速は、この宇宙における、あらゆる運動や、さらにはコミュニケーションまでをも制限する根本的な限界であるからだ」と述べています。
 第3章「量子のカーテン」では、「光子がどのような位置に置かれるかを陰で決定しているようなプロセスがたとえあるとしても、それは量子のカーテンの背後に隠れて見えない」ため、「どんな科学者でも、個々の光子がどうふるまうかを予測することはできない」と述べています。
 そして、「量子や光子など、われわれの世界の基本的な構成要素は、その存在が根本から謎に包まれている」として、「量子力学は、こうした存在の『実在』を見抜く試みというよりも、これらの属性を操作するための規則を集めたものである」と述べた上で、「ほぼ百年にわたり厳密な検証がなされた後に、量子力学は誤りだったなどということになったとしたら、物理学者らはみな愕然とするだろう」と述べています。
 第4章「カオスの果て」では、「『カオス』という言葉が『初期条件にたいする極端な感度』という言葉よりもはるかに魅力的なのは疑いの余地はない」が、「少々誤解を与える言葉である」として、このシンプルな名前が、「原理的には予測可能であるが実際には予測できない多種多様な現象を指し示すために使われるようになった」と述べています。
 そして、「カオス的なふるまいをするあらゆる力学系には、ある構造、いや、構造のようなものがある」として、マンデルブロがこの構造の形を、「フラクタル」と名づけたと述べています。
 また、「ある系の中でカオスが検出できれば、それに対して何か手を打てるはずだ」として、「系全体が小さな変化によってこれほど大きく影響を受けるのであれば、望ましい結果をもたらすような変化を作り出せばいいではないか」とする意見に対して、ローレンツは、「何らかの小さな変化による全体的な効果は、それがいかに重大なものであろうとも、予測することはそもそも無理なのだ」と答えたと述べています。
 第5章「円形の迷宮」では、定規とコンパスだけを使って、ある円と同じ面積を持つ正方形を作図できたとすれば、「この問題を説いた最初の人間になるだけでなく、数学理論のある部分、この場合は、そんな離れ業は無理だといっている理論を否定する最初の人間にさえもなる」としたうえで、「円の正方形かが不可能なのは、π、すなわち直径に対する円周の比が、まちがった種類の数だから」だと述べています。
 第6章「理性を縛る鎖」では、1900年の世界に数学会に向けた講演において、ヒルベルトが、「十数年間も後回しになってくすぶっていた」、「ありとあらゆる矛盾を確実に排除できるような形で、算術を公理化することができるのだろうか」という問題を解決したいと述べ、「算術を公理化しようとすると、論理的な異常が認められる場合が出てきた」として、1888年い、いたりあいjん数学者ジュゼッペ・ペアノが提唱した、「自然数(正の整数)の特性を記述する5つの公理」のうち、第5の公理が、「どうも厄介」で、「任意の集合を取ることで、すべての集合の集合というたちの悪いものが暗黙のうちに絡んでくる」と述べています。
 そして、ヒルベルトが、「数学のますます大きな部分を記号で書かれた台本、すなわち単なる紙上の印に還元することを提唱していた」と述べています。
 また、クルト・ゲーデルが、「大学教員資格をとるための論文の題材に、ヒルベルトの第2の問題、すなわち算術の無矛盾性の照明」を選び、24歳で、「かの有名な不完全性定理」を発見したと述べ、「ゲーデルの不完全性定理の証明にこっそり隠れている誤りを誰かが見つけない限り」、選択肢は、
(1)数学は無矛盾ではなく相反する定理を隠し持っているのか
(2)数学は不完全なものであり証明不可能な定理を隠し持っているのか
の2つしかない、という「のっぴきならない状況」に数学界が追い込まれたと述べています。
 第7章「コンピュータによる終りのない計算」では、「コンピュータにできないことは何もないと多くの人が信じるようになっている」が、「非常に重大なことでコンピュータにできないことがいくつかある」として、「こういう限界があるのには、根本的な理由がある。すべてのコンピュータは、非常に重要な点において平等に作られている。コンピュータは(どのようなタイプのものであれ)十分にプログラム可能になると、限界に達し、そこから先に進歩することはできないのだ」と述べています。
 そして、イギリス人数学者アラン・チューリングの「最大の業績」として、「計算の理論及び実践両面での仕事」を上げ、彼の天才が、「チューリング・マシンという概念上の装置に表れている」と述べています。
 第8章「ビッグO(オー)ボトルネック」では、「何らかの理由ですぐには解決できない問題は、手に負えない(イントラクタブル)問題だと言われる」として、「そうした問題を解くのに必要な計算の量」について考えると、「大体の大きさ(オーダー・オブ・マグニチュード)」を意味する「ビッグOボトルネック」が浮かぶと述べた上で、手に追いえない問題のもっとも有名な例として、複数の町を巡回するセールスマンが、「それぞれの町を1回だけ訪れ、合計の移動距離が最小になるような回り方」を求める「巡回セールスマン問題」をあげています。
 また、1974年にカリフォルニア大学バークリー校の大学院生スティーヴン・クックが発見した、「本質的に手に負えないような問題がいくつかある」とする彼の論文が、「充足可能性問題」と呼ばれる命題論理学の有名な問題に焦点を当てたもので、「コンピュータ科学の世界を揺るがした」と述べています。
 本書は、科学と数学が抱えている未解決の領域を示すことで、現在、私たちがどこまで分かっているのかを示してくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 個人的にはここまでいかなくても頭を抱える難問はいくらでもあるのですが、どんな科学者や数学者でも頭を抱えてしまう問題が存在しているということは、ちょっと安心させてくれます。


■ どんな人にオススメ?

・難しい問題は苦手な人。


■ 関連しそうな本

 ウィリアム・パウンドストーン (著), 松浦 俊輔 (翻訳) 『パラドックス大全』 2007年01月13日
 スティーヴン ウェッブ (著), 松浦 俊輔 (翻訳) 『広い宇宙に地球人しか見当たらない50の理由―フェルミのパラドックス』 2007年01月27日
 ニール・F. カミンズ (著), 増田 まもる (翻訳), 竹内 均 『もしも月がなかったら―ありえたかもしれない地球への10の旅』 2007年02月11日
 ビル ブライソン (著), 楡井 浩一 (翻訳) 『人類が知っていることすべての短い歴史』 2007年04月08日
 ジョン・ヘンリー (著), 東 慎一郎 (翻訳) 『一七世紀科学革命』 2007年04月21日
 ジョン・D・ バロウ (著), 松浦 俊輔 (翻訳) 『科学にわからないことがある理由―不可能の起源』 2007年06月24日


■ 百夜百マンガ

喧嘩ラーメン【喧嘩ラーメン 】

 喧嘩+ラーメンの異色の組み合わせで始まった作品ですが、旅マンガになってしまったみたいです。もちろんこっちの方が好きですが。

2008年12月29日 (月)

日本人の声

■ 書籍情報

日本人の声   【日本人の声】(#1439)

  鈴木 松美
  価格: ¥756 (税込)
  洋泉社(2006/12/14)

 本書は、声の研究を本格的に手がけて30年以上の経験をもつ著者が、「『声』から見えてくる日本人を探って」いるものです。
 第1章「声とは何か」では、声について、
(1)有声音:声帯が振動して起こる音、「あ」「い」「う」「え」「お」などの母音や「b」や「g」などの有声子音
(2)無声音:カ行、サ行、タ行、ハ行、バ行の破裂音や子音の発音など
の2種類に分けた上で、「口腔からの周波数や鼻腔からの周波数などがうまく混ざり合ったところではじめて完全な声になる」として、「人の声は口から12センチ離れたところまで出てきて、晴れて完全なる声になっている」と述べています。
 そして、「音の三要素」として、
(1)高低
(2)強弱
(3)音色
の3点を挙げています。
 第2章「声から何がわかるのか」では、声紋から、性別、体格、背の高さを推測することができるとして、「背の高さと声の高さは、ある係数を加えて反比例する」という「ファントの法則」という理論を紹介し、年齢も、声が25歳を過ぎることから劣化してくることから、「5歳刻みで推測することができる」と述べています。
 第3章「日本人の声を知る」では、日本人の声は高低の面からは、「周波数としては高くないが、キーとしては高い」と述べた上で、発声方法について、「もともと日本語というのは、肺からの空気圧をあまり必要としない言語」であり、「抑揚を大きくつけて話さなくても相手に伝わる傾向が強い言語」だと解説しています。
 そして、「女性の声が低音化している」とメディアで報じられていることについて、その原因として、
(1)体格的な変化:ここ20年で17歳女性の平均身長は2.0センチ伸びている。
(2)言葉遣いの変化:女性の言葉がより男性が使う言葉に近づいている
の2点を挙げています。
 また、男性の声が高音化してきているという指摘では、体型の変化からは「低くなってしかるべきはず」だが、「それだけ声を聞こえやすく、通りやすくしようという意図からだと考えられるし、周波数の幅が広がっていることは、抑揚が以前よりもついているということ」で、「より注意を喚起したり、情報を伝えやすくしている」という「時代的要請・環境的要請」が原因ではないかと述べています。
 さらに、倍音を多用した「だみ声」の例として般若心境を挙げ、「仏教は日本人に声に多大な影響を与えている」と述べています。
 著者は、「声は高いが、小さな声で細々と話すという日本人の姿は徐々に過去のものとなっていくのかもしれない」として、「日本人の声の変化を分析していくと、日本人の体格や気質といったものが、今まさに過渡期を迎えているのではないか」と述べています。
 第4章「声にできること」では、現在の音声認識のテクノロジーを解説した上で、「音声認識を迅速かつ正確に行うためには、データベースをいかに有用な形で作成するかが重要になってくる」と述べています。
 また、声を利用した技術として、動物の鳴き声を分析することで、「動物たちの感情や要求を理解することはできないだろうか」として、世界初の犬の翻訳機「バウリンガル」の開発経緯を解説しています。
 本書は、日本の「声の第一人者」による、声から見た日本人の変化をわかりやすくまとめた一冊です。


■ 個人的な視点から

 著者は、テレビのニュース番組やワイドショーなどで、声が問題になったときに必ず登場する人なので、顔には大変見覚えがあるのですが、失礼ながら本を読んだのは初めてでした。


■ どんな人にオススメ?

・声は体を表すと思う人。


■ 関連しそうな本

 鈴木 松美, 福島 英 『いい声になるトレーニング―人に好かれる。信頼される。』
 萩野 仁志; 後野 仁彦 『「医師」と「声楽家」が解き明かす発声のメカニズム―いまの発声法であなたののどは大丈夫ですか』
 米山 文明 『声の呼吸法―美しい響きをつくる』
 米山 文明 『声と日本人』
 福田 健 『人は「話し方」で9割変わる』
  『』


■ 百夜百マンガ

水に犬【水に犬 】

 タイの言葉といっても、マイペンライくらいしかわからないですが、屋台のタイ料理を食べに行きたくなる作品。辛い物好きなら。

2008年12月28日 (日)

「フラガール」を支えた映画ファンドのスゴい仕組み

■ 書籍情報

「フラガール」を支えた映画ファンドのスゴい仕組み   【「フラガール」を支えた映画ファンドのスゴい仕組み】(#1438)

  岩崎 明彦
  価格: ¥756 (税込)
  角川SSコミュニケーションズ(2007/10)

 本書は、「シネカノン・ファンド第1号」と呼ばれる映画ファンドを利用して資金調達を行ったヒット作『フラガール』に関して、「映画に投資してリターンを得る『映画ファンド』は、単なる投資という枠にとどまらず、『エンターテイメント産業を育てる』という側面を持っている」ことを解説しているものです。
 第1章「『フラガール』誕生秘話」では、『フラガール』が生まれるきっかけは、舞台となった「常磐ハワイアンセンター」を運営している常盤興産の社史を制作プロデューサーの石原仁美氏が発見し、「炭鉱が閉鎖されるというときに炭鉱から出る温泉を利用してリゾート施設にしようという発想、それを"ハワイアンセンター"にするという着想、さらにはそれを見事に実現させた実行力を兼ね備えた常盤炭鉱の経営者の話」を映画化に向けて動き出したと紹介し、あの映画に、「涙がこみ上げてくる場面が随所にある」のは、そこに「真実味」があるからであり、「登場人物に対する感情移入を支えているのが、徹底して実話を集めた石原さんの苦労の結晶」だと述べています。
 第2章「『フラガール』で学ぶ映画ビジネスの構造」では、『フラガール』が、「ビジネス的にも多角的な成功を収めた」として、事業収支として、「コスト6億円の約2倍の収益12億円を生み出した」と述べています。
 そして、映画に投資したいという人や映画ビジネスにかかわりたいという人が、「映画の制作費だけに注目しがち」では、「P&A費」と呼ばれる宣伝広告費を見落としがちであることを指摘し、「作品がヒットすればするほど、テレビCMや新聞広告が追加で投入され、『P&A費』が増額されて」いき、「結果として、映画がヒットしたにもかかわらず、追加P&A費の発生という形で費用がそれ以上にかさんでしまったために、出資者のもとにお金が返ってこない」ことを、「P&A費のマジック」と名づけ、「投資家の立場からすると、極めて"たちの悪い"、マジックである」と述べています。
 また、映画の業界関係者同士の契約書には、印税や成功報酬について、「別途協議する」と記載されていることが多く、作品がヒットした後から、「監督の成功報酬の金額が突然跳ね上がり」、利益のほとんどをもっていかれるケースがあるとして、「現在のファンドでは関係者の成功報酬について具体的な金額や料率を明記した上で、事前に契約書の中に盛り込むような形を取っている」と述べています。
 第3章「『フラガール』を支えた映画ファンドとは何か」では、『フラガール』が、「他の映画作品とは決定的に異なる」要因として、その政策に関して、「投資ファンドからの資金が介在していた」点を挙げ、「ポートフォリオ運用」を行うことで、「ひとつの映画作品をファンド化した場合に比べてリスクが低減」され、「ミドルリスク・ミドルリターン」な性格を有する金融商品に仕上がっていると述べています。
 そして、「シネカノン・ファンド第1号」が、「シネカノン社が製作をする映画作品の著作権などをファンド期間中に管理・保全する機能」を担う「著作権信託」という仕組みを使うことで、「投資家保護がしっかりと図られているストラクチャーになっている」と述べています。
 また、よく用いられる「製作委員会」方式の最大の課題である「出資者全員が連帯して、無限責任を負う」という「無限責任性」を、「匿名組合方式」によって「投資家側(匿名組合員と呼ぶ)の有限責任性が担保されている」と述べています。
 第4章「『シネカノン・ファンド第1号』ができるまで」では、著者の経歴を振り返り、「米国系投資銀行という『ウォール街(金融の聖地)』に代表される職種から『ハリウッド(映画の都)』に代表されるエンターテイメント・ビジネスに飛び込んだ」と述べた上で、2003年12月に登場した、「新人グラビア☆アイドルファンド第1号プロジェクト匿名組合」というファンドについて、「見た目はふざけたように見えるプロジェクトであったかもしれないが、ファンドを作り上げ、問題のない『金融商品』として世の中に提供するために、血の滲むような努力があった」と述べ、このファンドを作り上げることで、「常識の壁」を乗り越えるという感覚を得て、「世間の誰もが『無理でしょう』と思っていることも、実現しようと思えば形にすることができるのだ」という自信を得ることができたと述べています。
 第5章「日本映画と映画ファンドの今後」では、邦画復活に関して、シネコンの増大の貢献を認めながらも、「何と言っても邦画の作品の質が向上した点が最大の要因」だと述べつつも、「スクリーン数が増えているにもかかわらず、映画の興行収入というマーケット規模は変わっていない」として、「各劇場間でパイの奪い合いを行っている」と指摘しています。
 そして、コンテンツファンドの最終的な形態として、
(1)「証券化」商品:作品を株式のような金融商品に転換させて流通する商品
(2)「コンテンツ版投資信託」:投資家から募集したお金で著作権やプロジェクトに投資を行うが、先にお金があり、その運用方法を決める。
の2つの方向性を示しています。
 著者は、日本のコンテンツ産業が成長していくためには、金融面のインフラストラクチュアー整備が重要であり、そのためには、金融とペンたー底面との融合が必要である」として、「是非とも優秀な人材が、金融側にも、そしてエンターテイメント側にももっと流入して、日本のコンテンツ産業を盛り上げていってほしい」と述べています。
 本書は、映画の資金調達の新しい仕組みを開発することで、日本のエンターテイメント産業の姿を塗り替えてしまうかもしれない可能性を感じさせてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 個人的には、邦画も洋画もあまり見ないので、『フラガール』のすごさは実感として持っていないのですが、これを読んでしまうと面白そうに感じてしまいます。
 こういった資金調達の仕組みは、今後、マンガとか音楽の世界にも広がっていくのでしょうか。そうなると楽しみな部分と、つまらなくなってしまうのではないかという心配とが両方出てきます。


■ どんな人にオススメ?

・映画はカネがかかることを知っている人。


■ 関連しそうな本

 中村 伊知哉, 小野打 恵 『日本のポップパワー―世界を変えるコンテンツの実像』 2006年11月29日
 杉山 知之 『クール・ジャパン 世界が買いたがる日本』 2007年08月19日
 堀淵 清治 『萌えるアメリカ 米国人はいかにしてMANGAを読むようになったか』 2007年04月15日
 フレデリック・L. ショット (著), 樋口 あやこ (翻訳) 『ニッポンマンガ論―日本マンガにはまったアメリカ人の熱血マンガ論』 2006年04月29日
 ジョセフ・S・ナイ (著), 山岡 洋一 (翻訳) 『ソフト・パワー 21世紀国際政治を制する見えざる力』 2007年04月27日
  『』


■ 百夜百音

Too Fast To Live Too Young To Die【Too Fast To Live Too Young To Die】 氣志團 オリジナル盤発売: 2004

 1989年にユニコーンの『服部』のジャケットを飾ったおじいさん本人にリーゼントのカツラを被せちゃって怖いもの知らずな感じが相変わらずです。中高ともに君津と富津なので木更津ではないですが。

『服部』服部

2008年12月27日 (土)

立身出世主義―近代日本のロマンと欲望

■ 書籍情報

立身出世主義―近代日本のロマンと欲望   【立身出世主義―近代日本のロマンと欲望】(#1437)

  竹内 洋
  価格: ¥1071 (税込)
  日本放送出版協会(1997/11)

 本書は、単なる欲望にとどまらず、あるときは、東都の華やぎや躍動のオーラによって、あるときは脱落の恐怖のようなベールによって彩色された観念のドラマ」であった「立身出世(主義)」に、なぜ近代日本人が誘惑されたかを読み解いたものです。
 第1章「立身出世主義と社会ダーウィニズム」では、「立身出世」という言葉は、「江戸時代にすでに使われていた」言葉であるが、「江戸時代と明治時代とでは、立身出世という言葉の使われ方や立身出世現象を取り巻く意味の世界が大きく異なって板」として、明治になって、「武士の立身と町人などの庶民の出世という分節化は終わり、立身出世という人つながりの言葉が使用されるようになる」と、「立身出世の加熱モーターが音を立てて回り始めた」と述べています。
 そして、社会ダーウィニズムが、「日本人の背後感情である零落の危険という希少性の神話を言葉化するにふさわしいレトリックであり、しかも受験競争化された立身出世によってますます信憑性をましていった」と述べています。
 第2章「勉強・遊学・書生」では、「勉強は『無理をする』あるいは『骨折って励むこと』つまりたゆみない努力を意味する言葉にすぎなかった。あるいは、『安売り』を意味したにすぎない」とした上で、「勉強の意味が勤勉から学習に変化したことには『学問のすヽめ』の大きな影響があることが推測される」と述べ、伝統的な用語である「学ぶ」や「学問」に、「成人への道という道徳的修養の残響がある」のに対し、「勉強」は、「徹底的に現世的な意味(富貴)が込められた」として、社会的成功の帰属要因を、
(A)能力主義:能力→成功
(B)努力主義:努力→成功
(C)能力=教育主義:能力→教育→成功
(D)努力=教育主義:努力→教育→成功
(E)社会的再生産論:階級→成功
(F)文化的再生産論:階級→教育→成功
の6点に整理しています。
 そして、戦後の高度成長期以後の社会において、「勉強をめぐる意味の世界が大きく転換」し、「今や努力主義にも功利主義の匂いが嗅がれるだけでなく、努力や勤勉は才能のなさや余裕のなさに読まれてしまう」と指摘しています。
 第3章「受験生という装置」では、「あらゆる人に対して、何ものであり、何ができ、何処に配したらよいのかを知ろうとする」まなざしの作用として、ミシェル・フーコーのいう「規律訓練力」を挙げ、「規律訓練力は、赤裸々な暴力を伴った抑圧的な権力ではない。身体や感情を自発的に制御させてしまう慎ましいが疑い深い権力である」と述べています。
 そして、「昔の受験生は本当にこうした刻苦勉励の受験生物語通りに勉強したのだろうか」という疑問を挙げ、「いまと同じで昔の受験生だって結構サボっていたし、あぶない遊びもかなりやっていた」が、昔の受験生は、「受験勉強の道から逸脱することにはかなりの罪の意識が伴った」ため、戦前の受験生は、「気力の衰えによる心身不調状態」で、「頭痛、目眩、耳鳴り、睡眠不能、不活発、記憶力・思考力減退などなんでもかでも夢精や悲観まで」もが症候群とされた「神経衰弱」という病気に罹ったことについて、「戦前の受験生とて刻苦勉励の受験物語をそのまま実行することが困難だった。しかし『病気』のせいにすれば、罪障感からは免罪される。また神経衰弱であれば、あまり根を詰めた勉強はしない方がよく、美しい景色や高尚な絵画を見ることが必要である」とする、「逸脱と怠けが正当化される」と指摘し、「最近の受験生は根性がない怠け者だというのは、大概の今昔言説がそうであるように、過去の捏造の部分が大きい」と述べています。
 第4章「学歴貴族の世界」では、旧制高校が、その前身である高等中学について、「社会上流ノ人」で「高等官」(官吏)、「理事者」(商業者)、「学術専攻者」(学者)のような「社会多数ノ思想ヲ左右スルニ足ルベキモノヲ養成スル所」とされ、エリート学校として出発したことを挙げ、旧制高校→帝国大学ルートを辿った人々が、「教育市民層」を思わせると述べています。
 そして、「旧制高校生の学歴貴族としての身分文化や身分感情の基礎となったものが教養」であり、「教養主義は伝統的身分集団と切り離された学歴貴族のアイデンティティー確認のための身分文化だった」と述べています。
 第5章「学士『三四郎』の実人生」では、夏目漱石の小説『三四郎』の主人公小川三四郎の「就職や職業生活はどのようなものであったか」を推測し、「このころには大学卒業生の『腰弁』化が生じていた」として、「弁当代の余裕がないので風呂敷に弁当を包んで通勤する下級官吏」や、「企業の下級職員」を挙げ、「三四郎が大学を卒業した明治40年代は、高等教育卒業者であっても末端の仕事からはじめなくてはならない。また昇進に長い時間がかかる。こういう時代だった」と述べています。
 第6章「田舎青年の煩悶」では、雑誌『成功』の成功の背景に、「多くの田舎青年たちに立身出世熱が伝播し始めたことがある」と述べ、「中学講義録や普通文官講義録、尋常小学校教員受験講義録、陸軍受験講義録、鉄道員受験講義録など多種多様な職業資格試験をめざす講義録、英語やペン字、簿記、速記術などの講義録があらわれた」として、「苦学ができない田舎青年が講義録の主なユーザーだった」と述べています。
 しかし、講義録を元にした勉学の方法は、「朝は4時くらいに起床し、夜はどんなに眠くとも12時までは勉強しなければならない」というもので、「大半の田舎青年にとっての中学講義録は、実は体よく野心をあきらめ(クール・アウト)させるものだったのではなかろうか」として期しています。
 第7章「苦学力行と錦衣還郷」では、明治20年代までの苦学は、「さまざまなネットワークに庇護」されていた「庇護型」苦学であるのに対し、明治30年代に士族以外の貧しい階層に広がった上京遊学熱による、「東京へ行けば何とかなるだろう」と、ネットワークなしで、とにかく東京へ行けばの上京(苦学)が大量現象として始まりかける」として、「この間に苦学の大量現象化という量的変化と『庇護型』苦学から『裸一貫型』苦学への質的変化があった」と指摘しています。
 そして、「苦学は勉学立身をタテマエの動機にしていたが、深層の都会への憧れや家出願望の扮装でもあった」として、「進学は都会への憧れを正当化する格好な語彙であった」と指摘しています。
 第8章「たたき上げと学校出の確執」では、明治30年代後半から、銀行や財閥系の大企業で「学校出」の採用が始まった理由として、「民間企業が学校出を採用したのは組織や組織成員の社会的威信を官庁や官吏と同格化することにあった」と述べています。
 第9章「受験家族と新高等遊民の誕生」では、新中流階級の家族が受験家族となった理由として、「新中流階級は継承すべき財産がないから、文化資本を学歴資本(男子は高等専門学校、大学、女子は高等女学校)に変換し、さらに学歴資本を経済資本に転換するという再生産戦略を行使しなければならなかったから」だと解説しています。
 そして、大正時代以後の新中流階級に育った子弟の心性として、「受験競争が厳しくなればなるほど(長期的)野心が解体するというパラドックスが生じた」として、彼らにおいては、「立身出世という言葉も消え去り始め」、立身出世が、「むしろ下級官吏や下級鉄道員などのささやかな上昇移動を目指す苦学・独学人の世界でのキーワードになった」と述べています。
 第10章「ささやかな出世と癒しの文化」では、立身出世の機会が減少した明治後半期に立身出世本が多数出版されていることについて、「大臣や大将といった立身出世の英雄からは程遠い」ささやかな「出世」が、「立身出世と意識される」ところに、立身出世熱の「保温」の秘密があるとして、「庶民に立身出世主義が広がるにしたがって立身出世もささやかになった」ことを、「ささやか立身出世主義」と名づけています。
 第11章「物語の終焉」では、「農村が貧しかったころは、高等教育卒業者でなくて大企業の下級官吏職などのささやかな上昇移動をなした人でも、貧しい農村を地にして図柄である社会的上昇移動を『立身出世』として激化できた」が、戦後、「上昇移動を立身出世として鮮明化した農村が今や大幅に縮小した」だけでなく、「上昇移動」は、「都市化された農村」の上では、「鮮明な対照を示さなくなってしまった」と述べています。
 そして、「上昇移動にドラマ性を付与した動機の文法(侮辱を憤慨して発奮した立身出世)の存立基盤(身分階層秩序)が大きく崩壊してしまった」ため、「人々のルサンチマンの負荷が下がった」と指摘しています。
 第12章「欲望なき競争とそのゆくえ」では、受験社会を、
・受験社会I:学歴社会や立身出世物語を背景にした受験社会
・受験社会II:学校ランクや偏差値ランクがそれ自体として競争の報酬になり意味の根拠となってしまう。
の2つに分けた上で、「大衆受験社会=受験社会II」の危うさは、「競争の激しさによって挫折感などの心の傷をもたらす」ことではなく、「空虚な主体という精神の官僚制化の大衆的蔓延」にこそあると指摘しています。
 著者は、「立身出世を単なる欲望としてだけで見るべきではない。栄耀栄華でも脱落の恐怖でもない、構想力という希望を背景にした新しいアンビションの時代の開幕を願うものである」と述べています。
 本書は、単なる上昇志向と受け取られがちな「立身出世主義」を、戦前の時代背景の中でわかりやすく読み解いた一冊です。


■ 個人的な視点から

 今の日本ではあからさまな上昇志向の強さは敬遠される傾向にありますが、「立身出世」という言葉にはもっとストイックな感じを受けます。その意味で、健全な「立身出世」志向は望ましいものではないかと思います。
 ちなみに、戦前の青年がよく「神経衰弱」という病気にかかっていたうちのいくらかは怠けも入っているという推測がありましたが、現代の「ひきこもり」も現象だけを見るのではなく、その原因をみていくと、いろいろありそうです。
 本書で取り上げられている、明治時代の立身出世の指南書、通信教育の広告、苦学の指南書などを読むと、現在、本屋で山積みになって売られている数々の「ビジネス書」の類とほとんど変化がないような気さえしてきます。特に、本が瞬間的に読めるようになると人生が変わる、とかの自己啓発系の本は、100年後といわず、20年後くらいには、面白おかしく語られるようになるのかもしれないと思ってしまいます。やっぱり、コンプレックスを刺激する商売はいつの時代も手堅いです。


■ どんな人にオススメ?

・立身出世という言葉は過去のものだと思う人。


■ 関連しそうな本

 竹内 洋 『立志・苦学・出世―受験生の社会史』
 天野 郁夫 『学歴の社会史―教育と日本の近代』
 竹内 洋 『教養主義の没落―変わりゆくエリート学生文化』
 竹内 洋, 伊藤 隆 『日本の近代 12 学歴貴族の栄光と挫折』
 荒井 一博 『学歴社会の法則 教育を経済学から見直す』 2008年12月17日f
 小塩 隆士 『教育を経済学で考える』 2005年02月13日


■ 百夜百音

Baroque Favorites from 【Baroque Favorites from "Kramer vs. Kramer"】 Soundtrack オリジナル盤発売: 1988

 「クレイマー」というのが、さんま師匠の「クレーマークレーマー」とは意味が違うことは何と無くわかってましたが、名前だったということは今日初めて知りました。

2008年12月26日 (金)

海軍肉じゃが物語―ルーツ発掘者が語る海軍食文化史

■ 書籍情報

海軍肉じゃが物語―ルーツ発掘者が語る海軍食文化史   【海軍肉じゃが物語―ルーツ発掘者が語る海軍食文化史】(#1436)

  高森 直史
  価格: ¥1890 (税込)
  光人社(2006/02)

 本書は、牛肉とジャガイモ、玉ねぎ、人参、糸コンニャクを砂糖と醤油で味付けした和風の煮物料理」である「肉じゃが」のルーツをたどり、「この料理こそ日本海軍の合理性の象徴であり、西洋文化を完全に消化した和洋折衷の精華」であると主張しているものです。
 第1章「海軍料理教科書から『肉じゃが』を発見!」では、大正7年(1918年)発行の『海軍主厨厨業教科書』をベースにした昭和13年発行の『海軍厨業管理教科書』の中に、「甘煮」という料理名で、「材料 生牛肉、蒟蒻、馬鈴薯、玉葱、胡麻油、砂糖、醤油」と記されたレシピを発見し、「肉じゃがのルーツは海軍にある」ことがわかったと述べています。
 第3章「番組後日談」では、日テレの番組で、「舞鶴が肉じゃが発祥地」だと著者がコメントしたことを耳にした舞鶴市の商業デザイナー清水孝夫氏が「肉じゃがが町おこしになる」と考えて、平成7年に舞鶴で「肉じゃがまつり」を開催したことが述べられています。
 第4章「海軍レシピの背景」では、「海軍の肉じゃがには水を入れるとは書いてない」として、「このとおりやってみたら水分も適当に出て、じゃがいも、玉葱が煮えることには程よい汁が全体を覆うことがわかった」としています。
 そして、「牛肉にどっさりの砂糖で味をつける料理は欧米にはない」として、「すき焼きや肉じゃがは明らかに砂糖を貴重品としていた日本人的発想である」と述べ、「こういう一風変わったレシピが出来上がった海軍料理こそ、明治維新によって創建」された日本海軍の、「教育面でも英国紳士マナーを取り入れることに熱心だったように、国際性、合理性、簡潔性」をもった、「性格の一端が表れている」と述べています。
 第6章「イギリス式海軍の誕生」では、「日本海軍はイギリス海軍を範とし、人材教育は英国紳士をめざした」とされる理由として、雨をよける行為を嫌うなど、「英国人のマナー感覚は武士の心得とも通じるところがあって、大いに受け容れられた」としています。
 第7章「海軍誕生の背景に薩摩あり」では、明治海軍に、「薩英戦争を体験した薩摩人がたくさんいたため、イギリス海軍には一目も二目も置いていた」ため、「海軍はイギリス式」というのは自然の成り行きであり、「生麦事件がイギリス式日本海軍を誕生させたということになる」と述べています。
 第11章「洋食に抵抗運動──あわや日本版『戦艦ポチョムキン』」では、海防艦「海門」でおきた下士官兵のハンスト事件である「神戸事件」が、「ワシらは白い米の飯が食えるという理由で海軍に入りました。ところが、フネでは飯の代わりに、出るのはオヤツばかり。これじゃ、とてもがまんできません」という理由だったことを紹介しています。
 第16章「じゃがいもと海軍」では、「明治時代の日本人にとって、じゃがいもはいつまでたっても舶来野菜だった」として、「海軍が兵食としてじゃがいもをいろいろな料理に取り入れるのは国策としてのじゃがいも奨励に応じたものとしか考えられない」と述べています。
 第19章「砂糖と日本人の食文化」では、「明治初期の牛鍋に砂糖を使っていたのは贅沢な味付けでもあった」として、「牛肉の煮物には砂糖を使うとおいしくなるという日本的調理法が肉じゃが(甘煮)の考案に結びついていった」とするのが著者の肉じゃが考の基本であると述べています。
 第21章「『肉じゃが』誕生ものがたり」では、終戦直後は砂糖不足だったが、昭和23年にアメリカが国内の砂糖価格調整のために日本人に主食代用として大量の砂糖をくれたことで、「名もないじゃがいもと牛肉の煮物」が一挙に「本格的『甘煮』として復活した」のではないかと述べています。
 第22章「東郷元帥と肉じゃが伝説」では、東郷48歳のときの呉海兵団長のときこそ、「兵食に口を出せる唯一のチャンス」だったのではないかと述べるとともに、「まいづる肉じゃが実行委員会」が、平成6年ごろから、「得られるかぎり入手した資料をもとに整理して作成した東郷元帥肉じゃが考案の文言」として、
「東郷元帥は1901年、旧海軍舞鶴鎮守府初代司令長官として着任し、留学中に食べたビーフシチューを懐かしんで作らせた。ところが、ワインがないためにしょうゆと砂糖で仕上げたのが始まりである」
という文章を紹介しています。
 第23章「舞鶴か呉か──肉じゃが発祥論争」では、「ほとんどの国民(?)が、肉じゃがといえば、いまでは、『海軍料理で、発祥地は舞鶴あるいは呉』と答えるのは、舞鶴と呉の、この『仁義ある戦い』の影響だろう」と述べています。
 本書は、今では日本の代表的家庭料理とまで言われ、「おふくろの味」とまで言われるこの料理のルーツをたどった一冊です。


■ 個人的な視点から

 我が家では肉じゃがといえば牛肉より豚肉でした。千葉県、というか房総半島のほうでは昔は牛肉を食べる習慣がなかった、という話も聞いたことがありますが本当のところはどうなんでしょうか。外房の方では、肉が貴重だったのでカレーにはサザエを入れた、という話もあります。
 肉じゃがといえば、黒田硫黄の「肉じゃがやめろ」もありますので、手料理なんて肉じゃがが作れればいいと思ったら大間違いです。


■ どんな人にオススメ?

・肉じゃがは古きよき日本の家庭料理だと思っている人。


■ 関連しそうな本

 金子 優子 『西の牛肉、東の豚肉―家計簿から見た日本の消費』 2008年06月07日
 岡田 哲 『とんかつの誕生―明治洋食事始め』 2008年08月26日
 岡田 哲 『ラーメンの誕生』 2007年11月23日
 小菅 桂子 『カレーライスの誕生』
 岡田 哲 『コムギ粉料理探究事典』
 熊谷 真菜 『「粉もん」庶民の食文化』 2007年11月10日


■ 百夜百マンガ

スーパーくいしん坊【スーパーくいしん坊 】

 料理マンガの基本的フォーマットを作ったとされる作品。少年マンガ誌でも人気が取れるジャンルにしていった功績は大きいのかもしれません。

2008年12月25日 (木)

戦争民営化―10兆円ビジネスの全貌

■ 書籍情報

戦争民営化―10兆円ビジネスの全貌   【戦争民営化―10兆円ビジネスの全貌】(#1435)

  松本 利秋
  価格: ¥798 (税込)
  祥伝社(2005/08)

 本書は、「これまで語られてきた戦争の歴史を『戦争ビジネス』という視点からもう一度洗い直し、傭兵とと平気ビジネスの実態から、戦争のもうひとつの側面を描こうとしたもの」です。
 第1章「身近になった戦争ビジネス」では、「もっとも有名な傭兵部隊」とされ、「民間軍事会社の重要な人材供給源になっている」フランス外人部隊について、1970年代の体験談として既に契約書にサインを済ませたにもかかわらず、、三週間まで留まることができるが、「この三週間の間に出て行きたいと思う者がいたら、汽車の駅まで案内する。そして、フランス国内のどこへでも行きたいところまでの切符を渡す。この件についてはまったく処罰の対象にはならない。そして、お前たちの外人部隊での記録は存在しないことになる」と言い渡されたことを紹介しています。
 そして、2005年におきたフランス外人部隊に所属していた日本人、斉藤昭彦さんがイラクで殺害された事件に関して、「対テロ戦闘のスペシャリストとして、特別に訓練を受けた軍人のエリートたちが民間の軍事会社に入り、こうした民間軍事会社が約60社がイラクで行動している」と述べています。
 第2章「古代から戦争はビジネスチャンス」では、「古代世界において、国軍と傭兵団は明確な線引きをすることは難しい」とした上で、カルタゴの名将ハンニバルが、「傭兵たちには戦士としてのプロ意識を訴え、協力して戦う教育に専念し、奴隷であった者たちには、戦闘に勝ったら自由を与えることを約束した」と述べています。
 また、「ローマ教皇を含む数多くの王朝が、自分の身を守るための私的なガードマンとして、険しいスイス山岳地帯の土着人を雇っていた」ことについて、「地元の民は様々な政治的状況によって動くが、外国人はそのような政治的な状況とは関係なく職務をまっとうできる」ため、「外国の優れた警護人を雇うほうが理にかなっている」と述べています。
 さらに、日本においても、足利幕府末期には、「戦争ビジネスは口入屋や故買屋などの民間企業家の独壇場であった。傭兵隊長はこれら戦争企業家が兼ねていたのである」として、豊臣秀吉や蜂須賀小六などは、「『足軽』と呼ばれた食い詰め農民から、戦争ビジネスの世界に飛び込んだものたちであった」と述べています。
 第3章「紛争地に戦争ビジネスあり」では、アメリカが、アンゴラ内戦に、「武器とともにベトナム戦争経験者を中心とした傭兵を大量に送り込んだ」として、そのなかで、「もっとも果敢に戦った傭兵の一人」として、ジョージ・ベーコン3世を取り上げています。
 また、1960年代のキューバ危機に関して、「当時の世界を壊滅の危機に追い込み、ケネディ、フルシチョフの対決を激化させ、東側の盟主ソ連の首相を失脚させる、そもそもの原因となった亡命キューバ人傭兵団」として、「アルファ66」を紹介しています。
 さらに、「1980年代になって傭兵の新しい市場が生まれ、新種の傭兵集団が参入してくるようになった」として、コロンビアの麻薬組織、カリ・カルテルが集めた傭兵集団を取り上げています。
 第4章「アジアの歴史を変えた戦争請負屋」では、1940年代に、「表向きはあくまでも中立国の立場を守ろう」としていたアメリカが、中国を支援し、「日本の南進により支障をきたす援蒋ルートの保護を秘密裏に行うこと」を任務としてた傭兵航空団「フライング・タイガー」を生んだとして、「この傭兵航空団の特徴は、飛行機の期待のノーズにタイガー・シャーク(虎鮫)を描き、鋭い目でにらみつけたようになっていたこと」を挙げています。
 そして、中東においても、「先進諸国の超最新鋭兵器の輸出」が、「政治的にも不安定な中東諸国の軍事的バランスを一挙に突き崩し、戦争の要因を作っていた」として、ベトナム戦争の終結による政治的圧力によって、1972年5月にはニクソン大統領が、「大統領自らセールスマンになって」イランにアメリカ製兵器を売り込んだいたと述べています。
 また、「日本人にとって、『平和の象徴』というイメージが強い国連であるにもかかわらず、武器輸出大国の『死の商人』が、国連の方向を決定する力を持っている」と指摘しています
 さらに、湾岸戦争が、「旧ソ連製の武器を中心にしたイラク軍に対して、特にアメリカ製のハイテク兵器が、西側の圧倒的な強さを見せ付けた」として、「湾岸戦争はアメリカ製兵器の、またとないデモンストレーションの場となった」と述べています。
 著者は、「軍拡が緊張を引き起こし、さらなる軍拡を招くという悪循環を起こした、その原因は、国家と密接な関係を持ち、政治的・経済的に優位に立とうとする武器輸出国と、死の商人たちのあくなき利益追求の結果である」と述べています。
 第5章「現代の戦争ビジネス組織」では、「現代の戦争にビジネスとして参加している企業」は、
(1)軍へのサービスや、戦争後の復旧作業に従事する純粋なサービス・建設企業など
(2)それらの企業を護衛し、情報収集や場合によってはテロリストの襲撃に対する軍事的な防衛作戦を実行する役割の企業
の2種類に分けられるとしています。
 そして、軍事請負企業の中で「群を抜いて大きい」物として、アメリカのMPRI(Military Professionals Resources inc.)とイギリスのアーマーグループを挙げた上で、軍事請負会社の市場規模が、全世界でおよそ1000億ドルに上ると述べています。
 また、「軍の事業を民営化していく新しい軍運用モデルを作り、同時に民間企業に新たなビジネスチャンスと、市場を提供した究極の民営化推進者」であったチェイニー氏と関わりが深いとされるケロッグ・ブラウン&ルーツ(KBR)社について、ペンタゴンのレポートによれば、KBR社が提供しているイラク駐留軍向け食料がは「汚すぎる」とする声が多く、「給食を調理しているKBR社のキッチンは『床は血だらけ、汚れたフライパン、汚れたグリル、汚いサラダバー、腐った野菜』というありさまだった」と述べた上で、「米軍当局にとっては、KBR社と契約することのメリットは、その労働対価にある」として、「工兵隊の仕事を、兵士の給料の数分の一で請け負い、現地の労働者を雇用して、民生安定にも役立つ仕事をしていると評価が高い」と述べています。
 さらに、「日本企業も含めて、巨額でかつ長期にわたるであろうイラク復興事業を、世界の企業が不況脱出のためのビジネスチャンスとみなし、事業に参加しようとしてしのぎを削る状況が、今後も続くことは間違いない」と述べています。
 本書は、大きく姿を変えていながらも、ビジネスチャンスという点では変わらない戦争の姿を描いた一冊です。


■ 個人的な視点から

 軍隊が民営化される、という話を聞くと、どうしても筒井康隆の「通いの軍隊」を思い出さずにいられませんが、実際には「民間企業」の軍人の方が苛酷な環境にいたようです。


■ どんな人にオススメ?

・軍と企業は相容れないものだと思う人。


■ 関連しそうな本

 菅原 出 『外注される戦争―民間軍事会社の正体』 2008年01月07日
 本山 美彦 『民営化される戦争―21世紀の民族紛争と企業』
 P.W. シンガー (著), 山崎 淳 (翻訳) 『戦争請負会社』
 ロバート・ヤング ペルトン (著), 角 敦子 (翻訳) 『ドキュメント 現代の傭兵たち』
 高木 徹 『ドキュメント 戦争広告代理店―情報操作とボスニア紛争』 2006年11月27日
 アンヌ・モレリ (著), 永田 千奈 (翻訳) 『戦争プロパガンダ 10の法則』 2007年11月01日


■ 百夜百マンガ

スタンレーの魔女【スタンレーの魔女 】

 戦記ものの第一人者としても知られている作者ですが、リアリティあふれる戦記というよりも「男」とは何か、にこだわった感じを受けます。おいどんしかり。

2008年12月24日 (水)

経済政策の公共選択分析

■ 書籍情報

経済政策の公共選択分析   【経済政策の公共選択分析】(#1434)

  黒川 和美 (翻訳), アレック・クリスタル, ルパート・ペナンリー
  価格: ¥3675 (税込)
  勁草書房(2002/07)

 本書は、「経済政策分析として公共選択はどれほど有用であったか、その成果をイギリスやアメリカ、EU各国で検証」したもので、「学術的にも、政策的にもかなり厳しい」指摘をしているものです。著者は、公共選択アプローチを、「ミクロ経済学が消費者や企業に対して適用するのと同様の最適化原理を政策立案者に対して適用する」もので、「公共選択が抱える主な問題」として、「政策プロセスと政治活動は『よいもの』であるという仮定をほとんど自動的に転換し、政治家は自らのもつアジェンダに従うので、その結果は悪いものになりがちであるという反対の仮定を生みやすいということ」だと指摘しています。
 第1章「公共選択と公共政策」では、「多くの民主主義国家の経済構造は、自国の国民に損失を与えるように、ほぼ完璧に設計されている。小さな団体が、他の人(そして結局はすべての人々)の犠牲のもとに利益を得る機会、経済的な努力や市場運営の報酬ではなく、むしろロビー活動や政治的な影響にもとづく機会が与えられることによって、国民は損失を被る」という「ディレンマが存在する」と述べたうえで、「政策問題における透明さ行動の自由よりもむしろルールを強調することは、確実に、政治的な市場における一部の利益にかかわる権力を抑制し、その代わりに、彼らに商業市場で経済的有利を探すように要求する」として、「新しい経済構造の1つの結果は、政策が引き起こす不確実性の総計を取り除くことであろう」と述べ、「より少ない不確実性、より公正な競争」という変化は、「長期の経済成長を加速させることを手助けしてくれるだろう」と述べています。
 第2章「英国と米国における財政赤字と政府規模」では、財政赤字と政府活動規模の増大という、「双方の問題に取り組んだサッチャーとレーガンについて、修辞的な描写よりもむしろ彼らのありのままの行動を描写することにおいて、公共選択が実際に寄与した側面を浮き彫りに」するとしています。
 そして、「ヴァージニア学派の公共選択分析の一般に意図するところ」として、「政治的市場は慎重に発案され勝効果的に強制された制度的制約」を「欠いた経済的にも政治的にも非効率的なものである」と述べ、こうした意図が、「普遍的に民間市場は、独占、外部性、公共財の性格、情報の非対称性そして取引費用といったものの合成により経済的効率性の達成に失敗するという新厚生経済学のお決まりの仮説に対して、鋭く異議を唱えるもの」であるとして、ヴァージニア学派が、「経済的及び政治的市場の比較分析における知的な活動分野を同等に扱うことに成功した」と述べています。
 また、サッチャーが、「公共支出を削減することに失敗し、所得税の減税を間接税の増税によって置き換えたが、1987年までに予算を均衡化し、その後財政余剰を生み出すことに成功した」と述べるとともに、レーガン大統領の公約が、「『ただの昼食を提供する』ような、あるいは、『遅い秋と早い春』をもたらすような公約として見られたに違いない」と述べています。
 さらに、歳入歳出の決定にあたり、「分権化された政府と権限の分離の衝撃は、1980年代の膨大な財政赤字を生み出した」として、「ある1つの見方は、サッチャーとレーガン時代を通じての英国とアメリカ合衆国の双方における財政の動向の比較において、より分権化し2つに分かれている合衆国の政治構造よりも、より集権化された英国の政治構造の方を支持するように思えるかもしれない」としながらも、「そのような判断は、古典的な自由と保守の概念から考えて、少なからず正鵠を得ていない」と指摘しています。
 第3章「公共選択:大胆不敵な理論と問題だらけの検証」では、「公共選択の大胆不敵さ」として、「政党や政府の選択の領域へ経済理論を拡張子現実に適用する『公共選択』」が、「人は能力の限り合理的効用最大化するものと扱われるべきである」ということを「発見」し、「再発見する」ことを挙げています。
 そして、「新たなる大胆不敵な公共選択」として、
(1)公共部門制度は市場を修正するかもしれない。
(2)市場は公共部門の制度を修正するかもしれない。
(3)公共部門の「失敗」は市場の失敗が存在すると厚生を増大させるかもしれない。
(4)公共部門制度は公共部門制度を修正するかもしれない。
の4点の議論を提示しています。
 また、「大胆不敵な公共選択」に存在する3つの面として、
(1)非市場のコンテクストに、市場についてのミクロ経済学の働きを適用するという基礎的概念に結びつく。
(2)応用がなされ、その残滓が公共部門及び右翼政党の「お気に入りの経済学」に対する根深い反感と結びついているリヴァイアサン/覇権的公共選択。
(3)公共選択経済学が公共部門の可能性と現実面を結びつける点で「新しい」大胆不敵な公共選択という専門用語にするという目的の側面。
の3点を挙げています。
 第4章「政治とマクロ経済政策」では、「もし必要以上に高いインフレによって、それによりもたらされるコストをうまく抑えることができれば、政府が経済を刺激するだろうという信念」を紹介した上で、本章の議論が、「政治とマクロ経済のあいだの相互作用の関係が深いことを示すこと」を意図していると述べています。
 第5章「経済政策と公共選択の分析」では、公共選択の方法が、イギリス政治学から多くの反発を招いた理由として、
(1)特にアメリカで信奉される公共選択が、右翼の自由主義と関連しているため。
(2)公共選択の理論家が分析するものの多くは、主流は経済学の標準的な最適化計算にはうまく適合していない。
の2点を挙げた上で、「最近のイギリスの経験から得られた例を通じて、公共選択の本質的特性を示す、2、3のテーマを取り上げて検証」し、その結果として、
(1)公共選択論はこの15年間にわたってイギリスで公共政策の改革に役立った。
(2)公共選択のもっとも多くの教訓が十分に吸収されたならば、多数の改善は、より多くのインパクトを与えることができたであろう。
(3)公共選択や情報の経済学と台頭している新しい新古典派のパラダイムとの統合の機が熟している。
の3点を挙げています。
 そして、「新公共経営」と分類された最近の公共部門改革のいくつかが、「どのように公共サービスが組織化されようと、生産・分配されようと、決定が周囲で行われる統治システムに重要な変更を必要とする」と述べた上で、その改革の目的を、「官僚制度の効率を高めること」であるとするとともに、新経営管理論の出現が、「伝統的な公共選択の枠組みの内側に重要な問題を提起した」として、
・新・公共サービス・経営者は誰から指示を受けるのか。
・新公共経営は、サービスの設計と実行に関して中立であるか。
・新しいシステムにおいて公共サービスの消費者あるいはユーザーの声はどこにあるのか。
・公共事業のユーザーの声はどこにあるのか。
・それらを新しい公共サービス・経営者は聞いているのだろうか
などの点を挙げています。
 第6章「欧州連邦同盟の要素」では、「実証分析は、分権化され、より直接民主主義的な政府と比較して、代議制民主主義をとり、財政上集権化された政府の存在が、政事プロセスにおける供給サイドのウェートを高めること、したがって、政府やより早く成長し、政府規模はより大きくなることを示している」と述べています。
 そして、欧州憲法に取り入れられるべき重要な要素として、
(1)欧州委員会は厳密に制限された職務を行う欧州政府となり、閣僚理事会は議会の第二院となるべきです。
(2)欧州連邦政府の管轄権限は、外交政策、外国貿易政策、国防、域内の自由な移動の強化、反カルテル・独禁政策や、また、地域間に渡る公害や、その他の環境問題に関する市場と整合性の取れた基準などであるべきである。
(3)欧州政府に関しては、財政赤字と予算における会計年度を越える財政赤字の累積が禁止されるべきである。
(4)共同体の活動は、ある特定の税によってファイナンスされるべきである。
(5)国民の投票の制度は、主要な特定の政策問題に関して導入されるべきである。
(6)加盟国は、欧州連邦同盟から脱退する権利を持つべきである。さらに、基本的には、県や基礎的自治体は、それらの国家から脱退すべき権利もまた持つべきである。
の6点を挙げています。
 本書は、ヨーロッパにおける公共選択の受け入れられ方を日本に住む私たちにも伝えてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 公共選択論は、政治家や官僚などのパブリックセクターに属するプレイヤーも、それぞれ独自の選好に基づいて行動する、とみなした点では画期的だったのですが、その仮定があまりに単純すぎたことが反発を招いたのではないかと思います。
 ゲーム理論やプリンシパル=エージェント理論による分析は、特に企業などの分野ではさらに高度化しているので、そういった観点から公共選択論の対象となっているトピックを分析すると面白いのではないかと思います。


■ どんな人にオススメ?

・公共選択論はある一時期の流行だと思っている人。


■ 関連しそうな本

 加藤 寛 『入門公共選択―政治の経済学』 2005年03月13日
 小林 良彰 『公共選択』 2005年04月15日
 アレンド レイプハルト (著), 粕谷 祐子 (翻訳) 『民主主義対民主主義―多数決型とコンセンサス型の36ヶ国比較研究』 2006年02月20日
 ドナルド ウィットマン (著), 奥井 克美 (翻訳) 『デモクラシーの経済学―なぜ政治制度は効率的なのか』 2008年10月11日
 アビナッシュ・K. ディキシット (著), 北村 行伸 (翻訳) 『経済政策の政治経済学―取引費用政治学アプローチ』 2005年02月06日
 Jean-Jacques Laffont 『Incentives and Political Economy』


■ 百夜百マンガ

球道くん【球道くん 】

 野球に人生を描ける人たちを描いた作品。ある意味で作者自身が投影されていると言えなくもありません。

2008年12月23日 (火)

親指はなぜ太いのか―直立二足歩行の起原に迫る

■ 書籍情報

親指はなぜ太いのか―直立二足歩行の起原に迫る   【親指はなぜ太いのか―直立二足歩行の起原に迫る】(#1433)

  島 泰三
  価格: ¥924 (税込)
  中央公論新社(2003/08)

 本書は、「30年のあいだ日本とマダガスカルとアフリカ大陸」とでひたすらサルを見てきた「とりまとめであり、人類進化の謎を解く壮大な物語であるとも、手の形の意味を探る手のひらサイズの物語であるともいえる」ものです。
 第1章「アイアイに会うために」では、「マダガスカルに生きているサルたちは、進化の極致であるとも止まった時を刻み込んだ古いタイプであるともいえる。それがアイアイたちである」として、「私たちはこのれらのサルたちを見るとき、数千万年という時の堆積を同時に見ることになる」と述べています。
 そして、「アイアイの得意な主食と手と歯の関係」から、「マダガスカルに空白のニッチがあるのはキツツキ類ではなく、リス類だ」とする「アイアイ=リス説」を提唱し、ニッチは、「何を食べるかが問題ではない。何を食べることにその生存を頼っているか」と単純に定義することが必要だと述べています。
 また、「種形成の根本原理は、空間を分けるのではなくて、独自の主食を開発し、他の種と食物を別にする『食べわけ』」であり、「「この仮説を霊長類に適用すると、主食が口と手の形を決定するという『口と手連合仮説』としてまとめることができる」と述べています。
 第2章「レムール類の特別な形と主食のバラエティー」では、ネズミキツネザルにカブトムシを与えたところ、「自分の体の半分もあるほどの滑らかな装甲に覆われたその昆虫を両手でしっかりと抱きしめて、ガリガリとかじりはじめた」ことを紹介し、ネズミキツネザルの両手が、「甲虫類のつるつるの鎧をつかむためにおあつらえむき」の吸盤つきの手の指を持っていると解説した上で、「霊長類の手の真実」は、「人類の完全な手」という思い込みから「まったく離れたところにある」として、「手の特別な形は、主食に適応した形に過ぎず、それを原始的というのは、人間の評価の問題である」と述べています。
 第3章「アフリカの原猿類の特別な形と主食」では、アンワンティボの手について、「人差し指はほとんど退化してしまって、単なる突起のようなものになっている」と述べ、この指を見たときに、「この指の意味を解くことができたら、私の仮説も完成したといえるだろう」と思ったと述べた上で、「手のひらにあるふたつの向かいあった突起はケムシの毛をそこげとるのにこれ以上のものはない」と解説しています。
 また、「小型種は小型の食物に対応する。大型種は大型の食物か、たくさん取れる食物に対応する」が、「それぞれの動物種の大きさには臨界点がある」として、「昆虫や草や葉といった普遍的にあるものを食べることに適した大きさを逸脱した動物は、この臨界点の外で生きることになる」という点で、アイアイと人類は、「霊長類としてはあきらかな例会社として同じ位置に立っている」と述べています。
 第3章「ニホンザルのほお袋と繊細な指先」では、「季節ごとのさまざまな食物に対応している万能型のサル」であるニホンザルの「万能型の秘密はごく小さい食物を高速度で口に運ぶ指先とほお袋のあるくちの連合にある」と述べ、「ほお袋は小さな食物をつまみ取るという指先の機能としっかり結びついているのである」と述べています。
 第5章「ナックル・ウォーキングの謎」では、「主食と関係する手の指の形は、ここではこうして、あそこではああして、というふうに融通が利くものではない。それが不自由に見えようと、その同じ形を維持しなくてはならないのだ。それがふつうなのだ」として、チンパンジーにとって、「長い指を曲げた形こそ主食への接近手段」であり、ちんぱんじーの親指が短いのも、「チンパンジーのように全身の体重を両手にかけてツルをひっかけて移動するタイプでは、ツルを握りしめる親指は邪魔物でしかない」からであると解説しています。
 第6章「ゴリラとオランウータンの謎」では、「ゴリラは食物を食べる前に、引き抜き、下ごしらえをしなくてはならない」ことが、ゴリラの主食を知るための突破口だとした上で、「ゴリラはツルや茎をしごくときに、犬歯と小臼歯のあいだの隙間を上手に利用してツルの皮剥きをやっている」と述べ、「横顔を見ると、ゴリラのオスの顔はまったくウマそっくりである。その食物がそうとうに堅いものであることは、ゴリラの頭のてっぺんの筋肉がむくむくと動くことでよくわかる」と述べています。
 第7章「初期人類の主食は何か?」では、人類の祖先が現れた鮮新世の初期について、「人類はこの森林を草原に変えた地球規模での植生の大きな変化に対応して、そこで新しい主食を開発し、新しいニッチを切り開いた類人猿だった」と述べた上で、その歯について、「歯列の表面が平らで、臼歯のエナメル質が厚く、すり潰しシステムのある頑丈なあごと、しっかり握りしめる手を持つ直立二足歩行類人猿のニッチは何か?」と問題提起しています。
 そして、B・E・ポルシュネフの「ボーン・ハンティング(骨猟)仮説を取り上げ、「骨は主食になりうるのか?」について、
(1)ボーン・ハンティングがニッチを生み出すほど、放棄された骨の量があるのかどうか?
(2)肉食獣との競合から見たとき、サバンナで骨がそれほど手に入れやすいものなのか?
(3)骨自体に十分な影響があるのか?
(4)骨を口に入れるほどに砕く道具があったのか?
(5)骨をすり潰して栄養にする歯とあごの構造が、人類にはあるか?
の5点を課題として挙げ、サバンナには大きな骨は十分にあり、肉食獣とは競合せず、「なまじの肉よりもはるかに優れた食材」であり、医師をしっかり握りしめることで骨を割ることができ、「他の霊長類には見られない平らな歯列を持つことで、下顎を前後左右上下に回転させて骨をすり潰すことができる」と解説しています。
 第8章「直立二足歩行の起原」では、直立二足歩行の起原について、「人類学の永遠の課題であり、人類学者の数と同じだけの仮説が提出されている」とした上で、「主食である骨を砕く道具として簡単に手に入り、効果的で、その後人類史とともに歩んできたもっとも馴染み深い道具、石器に至る石を握るための指を人類はその最初から持っていた」と述べています。
 終章「石を握る。そして、歩き出す」では、「骨はサバンナに豊富にあるといっても、大型の食肉動物たちが食べ残したそうとうに堅いもの」であるが、「これを割ることができれば、脂肪の塊である骨髄はそのまま食物になる」と述べ、「こうして、常の食、主食を手に入れる手段として手には常に意思を持つようになる。こうなると、手の構造は親指のしっかりした把握タイプの形になる」うえ、「この手の形は小指を下向きにおいて、握った石を地上の骨に叩きつける形を取るから、四足移動をするとしてもナックル・ウォーキングにはならない」と解説しています。
 そして、「人類の特徴的な歯の形は、骨が主食のときにもっとも効率的であることを示している。人類の特徴的な手の形は、骨を口に入れ、その歯ですり潰す前に、道具を持って砕かなくてはならなかったこと、そのためにしっかり握りしめることが必要になったことを示している。そして、この握りしめる手の形は、両手に物を握った場合には、立ち上がって移動するしかないことを示し、直立二足歩行が自然であることを示すのである」と述べています。
 本書は、人類の手と歯の形から、直立二足歩行の紀元を解説した一冊です。


■ 個人的な視点から

 直立二足歩行に関しては、さまざまな仮説が展開されていて、そのどれを読んでも楽しいのですが、人間の歯と指からのアプローチというのは独特で面白いと思います。
 ただし、アイアイやチンパンジーと比べて、人類の祖先の「口と手連合説」の展開は若干強引な感じは否めないところです。


■ どんな人にオススメ?

・人類の祖先が何を食べていたか気になる人。


■ 関連しそうな本

 エレイン モーガン (著), 望月 弘子 (翻訳) 『人類の起源論争―アクア説はなぜ異端なのか?』 2005年12月10日
 エレイン モーガン (著), 望月 弘子 (翻訳) 『人は海辺で進化した―人類進化の新理論』 2005年05月08日
 ジャレド ダイアモンド 『人間はどこまでチンパンジーか?―人類進化の栄光と翳り』 2006年09月29日
 シャロン・モアレム, ジョナサン・プリンス (著), 矢野 真千子 (翻訳) 『迷惑な進化―病気の遺伝子はどこから来たのか』 2008年07月21日
 リチャード・G. クライン 『5万年前に人類に何が起きたか?―意識のビッグバン』 2006年10月21日
 アルフレッド・W. クロスビー 『飛び道具の人類史―火を投げるサルが宇宙を飛ぶまで』 2006年10月02日


■ 百夜百音

ポールのミラクル大作戦【ポールのミラクル大作戦】  オリジナル盤発売: 2002

 リアルタイムくらいで見ていた身としては、ニーナがいなくなって、ポールが町中の大人から疑いの目で見られる前半の展開がいたたまれなかった記憶があります。

2008年12月22日 (月)

楽しい電子楽器―自作のススメ

■ 書籍情報

楽しい電子楽器―自作のススメ   【楽しい電子楽器―自作のススメ】(#1432)

  米本 実
  価格: ¥1,890 (税込)
  オーム社(2008/12)

本書は、「音と電気の関係や電子楽器について知識を深めたり、電子工作を楽しみながら技術の基礎を学ぶもの」です。著者は、「自分の好きな音を求める感覚さえしっかりとあれば、誰にでも楽器を作る才能がある」として、「ないから作る」ことこそが、「自作楽器の一番大切なところ」だと述べています。
 第1章「音についてのお勉強」では、テルミンやアナログシンセサイザーなど、「使い勝手が悪かったり、演奏が難しい古い音源方式の電子楽器に注目」があつまり、「自分でユニークな楽器やデバイスを開発する人たちの活動も、メディアで取り上げられるようになって」北理由として、
(1)機器や道具の使い捨てに対しての疑問
(2)自分で手を動かして何かを造りリアリティが求められている
(3)電子音に対する人々の「耳」が変わってきたこと
の3点を挙げています。
 第2章「電気と音の密接な関係」では、「エネルギーというものに良い悪いはない、問題があるとすれば制御がうまくいっていないのだ」というヨガの本の言葉を紹介した上で、著者が作成した「片側が100VのACプラグ、反対側がホーンプラグ」になった危険なコード、「PAキラーコード」を紹介しています。
 そして、電気楽器と電子楽器の違いについて、「アコースティックのものと同じ物理的な発音システムを持ち、その振動を本体に取り付けたマイクやピックアップで電気信号に変換」する電気楽器と、「必ず発振器があり、そこから出力されるシンプルな電子音が、他の電子回路を通って加工されて、スピーカーから出力」される電子楽器との違いについて解説しています。
 第3章「電子楽器の歴史」では、1906年にニューヨークに登場した、「大きさは小型船並で重さが200トンもある巨大な1台の電子楽器」テルハーモニウムについて、その音源には多数の水力発電機が用いられ、「12期の多重発電機から得られる交流の正弦波を組み合わせ、倍音は抵抗器で調整し、音色をコントロール」下と開設し、「厳密に構造から言えば、テルハーモニウムは電子オルガンの先祖ということ」ができると述べています。
 そして、独自のスピーカーシステムを持った1928年のオンド・マルトノや、鍵盤一つにテープレコーダーを一つ割り当てたメロトロンなどを紹介しています。
 また、1979年に発売されたナムコのゲーム「ギャラクシアン」が、「独自の回路で、すでにデジタル的に音を鳴らす方法を開発」しているとして、この考えを「音のドット絵」と呼んでいます。
 第4章「作ってみよう!!」では、「ボタンを押すとブザーが鳴るという、誰にでも作れるシンプルな電子楽器」である「ブザ男」、カセットデッキのヘッドを取り出して手でテープにこすりつけることで音を出し、「カセットテープ以外の磁気記録媒体もこすって音を聞くことが出来る」、「時期をスキャンするもの」という意味の「マグスキャン」、家庭に供給される100Vの電気を「音として聴く」ことが出来るだけでなく、電圧制御式のアナログシンセサイザーにつなげば50Hz(関西ならば60Hz)のLFOとしてビブラートをかけることが出来る「AC-LFO」、トランジスタとトランスを使った発振器で、「スイッチを押すと音が出て、ボリュームを回すことによって音程が変化するというシンプルな電子楽器」にもかかわらず拡張性抜群の「ヨネミン」など、奇天烈な電子楽器を多数紹介しています。
 第5章「電子楽器ORIGINATOR列伝」では、「美術と音楽、ポップと前衛、デジタルとアナログの狭間で、カテゴライズの難しい独自の活動を展開するアーティストや技術者を紹介」しています。
 蛍光灯を改造した音具「オプトロン」を演奏する伊東篤宏さん、YAMAHAから発売された「16×16のLEDボタンを使って、音楽の知識がなくても視覚的・直感的に作曲/演奏することが可能な21世紀の音楽インターフェース」である「TENORI-ON」を開発した西堀佑さん、ノコギリでデストロイされたZO-3ギターとの出会いから、「IZYO-SYA」や「MISYN」などの改造楽器の音楽スタイル「奇楽」にはまり込んでしまった異常奏者さん、「流体や磁気、波の動きなどの自然現象を鑑賞者が動かして体験する装置」を作る冨岡雅寛さん、改造された「スピーク&スペル」との出会いから市販の電子機器を改造する「サーキットベンディング」にはまったKaseoさん、ハーディ・ガーディと胡弓をくっつけた「回擦胡」を作成した尾上祐一さん、カエルのパペットの形をした電子楽器「ケロミン」を開発した奥山雄司さんといったファニーな人たちを紹介しています。
 本書は、ハンダゴテを持ったことがない人、シンセを触ったことがない人にも、電子楽器の自作の楽しさを教えてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 昔、ギターマガジンに連載されていたエフェクターの自作記事を見て、秋葉原でパーツを買っては自作をしたものです。ギターの本体にプリアンプを組み込んだりといった簡単なものでしたが、大学受験のときにも、帰り道に秋葉に寄ってパーツを買ったりしてました。
 ところで、本書のタイトル「楽しい電子楽器」だけを見て、シンセサイザーの入門書と間違えて注文して公開してしまう人がさぞかしいるのではないでしょうか。
 そういえば、シンセサイザー自作キットが付録で付いていた「大人の科学マガジン」を買ったはいいけどまだ作ってません。この年末にでも作りたいです。


■ どんな人にオススメ?

・電子楽器は店で買うものだと思っている人。


■ 関連しそうな本

 大人の科学マガジン編集部 『大人の科学マガジン別冊 シンセサイザー・クロニクル』
 大塚 明 『サウンド・クリエイターのための電気実用講座』
 大人の科学マガジン編集部 『大人の科学マガジン Vol.17 ( テルミン )』
 本多 博之 『誰でも作れるギター・エフェクター』
 本多 博之 『誰でも作れるギター・エフェクター2』

■ 百夜百マンガ

ハゲまして桜井くん【ハゲまして桜井くん 】

 若ハゲだからこその悩み、悟られたくない、というのがこの作品の笑いのポイントだとすれば、全部ばれて子どもまでできちゃうと深刻さも薄れるのではないかと思います。

2008年12月21日 (日)

横浜・寿町と外国人―グローバル化する大都市インナーエリア

■ 書籍情報

横浜・寿町と外国人―グローバル化する大都市インナーエリア   【横浜・寿町と外国人―グローバル化する大都市インナーエリア】(#1431)

  山本 薫子
  価格: ¥3990 (税込)
  福村出版(2008/04)

 本書は、「日本の三大『寄せ場』の一つとして知られる横浜・寿町とそこで暮らす外国人を取り巻く社会的世界について描いたもの」です。
 第1章「寿町という街」では、「今日の寿町では大半の簡易宿泊所が生活保護受給者を宿泊させることによって安定した経営を図っている」上、「多くの簡易宿泊所では冷暖房やテレビ、エレベーターの設置など設備面の充実が進んでいるが、これも身体障がい者や高齢者を多く含む生活保護層の受け入れを前提としていることによる」と述べ、「寿町における簡易宿泊所経営そのものが生活保護受給者に見合うスタイルを志向し、生活保護制度と共存する方向で進められつつある」と指摘しています。
 そして、「寿町が日雇い労働の自由労働市場としての機能を喪失しつつあることは事実である。かつて労働者だった人々の大半が現在は高齢化し、身体に障がいを抱え、生活保護を受給しながら生活している」が、「現役の労働者であった時代を思い出すことがそうした高齢者たちの自尊心を支えている」と述べています。
 第2章「寿町で暮らす外国人、働く外国人」では、「外国人から見れば、日本での就労、寿町での就労はあくまでもいくつかある就労先の中から相対的に条件の望ましい場所を選んだにすぎない」とした上で、「寿町の外国人の大半は日本で定住や永住意思は希薄」であるが、「1990年代以降の経済不況の下では、多くの出稼ぎ外国人にとって来日当初の目的を達成して帰国することがそうたやすいことではなくなっていることも事実である」と述べています。
 第3章「寿町の外国人を支える人びと」では、外国人支援団体のうち、初期のものは、「もともと『寄せ場』など都市下層において労働運動に取り組んできた人びとが、これまでの運動の延長線上に外国人支援を位置づけ、活動をスタートさせている団体が多い」とした上で、こうした支援活動が、当の外国人にとっては、「自分たちが『助けられる対象』、『支援・救援の対象』とみなされているとは思いもよらない」として、「支援団体と外国人当事者との間には意識のギャップが存在」していることを指摘しています。
 そして、外国人たちの基本的な意識として、「自分たちの問題は自分たちで解決すべき(もしくは解決可能)という自負がある」と述べています。
 第4章「日本人からの支援、外国人どうしの互助」では、1987年に結成された「カラバオの会」について、外国人たちと日本人ボランティアたちとの関係を、「支援・非支援」という枠組みで捉えるべきではなく、「むしろ、日本人や他国出身の外国人と知り合い、友情を深め合うことを目的として『カラバオ』へ足を運んでいる」と述べています。
 第5章「グローバリゼーションのなかの寿町」では、「自国では大学やカレッジを卒業した人びとが海外では肉体労働者として働き、現地の低所得層に囲まれて生活する」という「立場の逆転」が南から北への労働力移動ではたびたび生じるとして、「本国では一カ月分の給料が移住先では一週間程度で稼ぐことができる。その代わり、現地の人々が厭うような仕事をし、肉体的にも非常に厳しい。ときに、人間以下の扱いを受けることもある。そのような状況はミドルクラスとしての誇りや威信をズタズタにする」ことを指摘しています。
 そして、「本来『自由な個人』であるところの外国人たちが自らの『積極的な選択』にもとづいて決定した行動の結果が、移住先社会では都市最底辺とみなされる地域での就労、居住であったのだ」として、このような「下層への囲い込み」現象を生み出すものとして、「出身国の村までつながる外国人の間のネットワーク」に、「彼らが積極的な意味を見出していることは皮肉である」と述べています。
 また、「韓国人、フィリピン人たちが寿町で日雇い労働者として就労可能であったのは、この街がすでに大きな構造j変容を迎えようとする時期と重なっていた」からであると述べ、「寿町の外国人と日本人との間で目立ったトラブルが起きず、外国人の存在が徐々に地域になじんでいった背景には、地域社会がもともと育んできたマイノリティの支援、受け入れといった取り組みも指摘できるだろう。『寄せ場』の特質として、来るものを拒まずに受け入れ、また必要以上は詮索しないという人びとの行動は、外国人とその家族をある程度の期間、定着させる基礎となった」と述べています。
 第6章「変わりゆく寿町」では、寿町が、「『日雇い労働者の街』から『日雇い労働者は住めない街』になっている」という声を紹介した上で、現在の寿町は、「全体的に『こぎれいになった』ということができるのではないだろうか」と述べ、「『美化』の一方で、街が『おとなしくなった』という印象も受ける」としています。
 そして、「現在、寿町で取り組まれている新たな『まちづくり』は、寿町がすでに『日雇い労働者の街から福祉ニーズの高い街へ変化した』ことを前提として進められている」とした上で、「時代は移り変わっても、寿町のような地域は社会の一定の層の人々につねに求められる場所であり続けるだろう」と述べています。
 本書は、日本人にとってもあまり知られていない寿町のなかの、さらに人目に付きにくい外国人の姿を追った貴重な一冊です。


■ 個人的な視点から

 田舎の人間にとっては、ドヤ街といってもなかなか想像が付かず、「あしたのジョー」の「泪橋」くらいしか思い浮かばないのではないかと思います。ジョーを慕う子どもたちも登場するあの街は単に下町というようにも見えてしまい、「日本一の日雇い人夫」こと星一徹の住む街と何が違うのかはっきりしませんが、ドヤ街は基本的に労働力である働き盛りの単身の男たちが集まった街なので、星一徹の街とは違うのではないかと思います。
 コミケを前にして山谷にも外国人バックパッカーが集まり始めているようです。日本人が海外旅行をする際には、昼間でも観光客相手にあからさまなスリ、置き引き、強盗までが起こることに警戒するほどですので、そういう国から来た外国人にとってはドヤ街は「安くて安全な街」なのかもしれません。


■ どんな人にオススメ?

・ドヤ街は腕っ節の強いオッサンの街だと思っている人。


■ 関連しそうな本

 山本 雅基 『東京のドヤ街・山谷でホスピス始めました。―「きぼうのいえ」の無謀な試み』 2007年01月25日
 エドワード ファウラー (著), 川島 めぐみ (翻訳) 『山谷ブルース』 2008年03月21日
 横山 源之助 『日本の下層社会』 2006年08月11日
 副田 義也 『生活保護制度の社会史』 2007年06月29日
 三矢 陽子 『生活保護ケースワーカー奮闘記〈2〉高齢化社会と福祉行政』 2006年04月17日
 風樹 茂 『ホームレス入門―上野の森の紳士録』


■ 百夜百音

羞恥心【羞恥心】 羞恥心 オリジナル盤発売: 2008

 娘の幼稚園のクリスマス会の出し物で、トナカイさんたちに踊ってもらいました。
私はシナリオ担当。ちなみに作曲は「完全無欠のロックンローラー」のアラジン高原。
 昔、シブがき隊の「NAI NAI 16」の替え歌をウガンダか誰かが、「ないないない、
金がない、~でも恥ずかしくない」と歌っていたのをうっすら覚えているのですが、思い出せません。夕方の番組だったような気がします。誰かわかったら教えてください。

2008年12月20日 (土)

明治新政府の喪服改革

■ 書籍情報

明治新政府の喪服改革   【明治新政府の喪服改革】(#1430)

  風見 明
  価格: ¥2730 (税込)
  雄山閣(2008/10)

 本書は、「明治以前の喪服は、古代に始まる白喪服が主流であった」が、「明治以前の白喪服主流から現在の黒喪服一辺倒に代わる詳しい過程」を解明しようとするもので、「現在に見る西洋流黒喪服や鯨幕の登場には明治天皇が密接に関係していた」と述べています。
 第1章「明治以前の喪服は白喪服が主流」では、「多くの地域で白喪服が着用」され、「正式の白喪服として白裃、白無垢、白い着物などがあり、略式の白喪服として(一般礼服などを着て)白い布を肩にかけたり頭にかぶるものがある」と述べています。
 そして、桃山時代の日本に来たイエズス会の宣教師ヴァリニャーノが、「西洋人は黒や紫の喪服を着るのに、日本人は白の喪服を着る。日本における黒や紫の意味は、西洋の意味とは反対に喜ばしいものである」と報告していることを紹介しています。
 第2章「明治5年、文官の大礼服と万人の燕尾服を制定」では、明治維新直前に「天皇(後の明治天皇)」が、「幕臣の礼服の制のの乱れが維新後も続くようではとても国体が立たないと、これを一新すること」を思い立ち、「新政府の文官となる人の礼服として、地位がわかり、しかも尚武の国体を示すようなものを側近に検討させた」結果、約5年を経て「礼服としての大礼服」と、「万人向けの通常礼服」が制定されたと述べ、「このような経緯から、明治始めの大礼服と燕尾服の制定が現在のよう喪服の原点となったといえる」と述べています。
 第3章「明治十一年の故大久保利通葬儀は国葬並み」では、明治11年5月に暗殺された故大久保利通の葬儀が、「皇族・大臣・参議・勅任官・奏任官・華族など、すべての上流階級が改装し、明治になってからは最初の大きな葬儀であった」として、「喪章としてつけた黒のネクタイ・手袋により、改装した上流階級は黒が喪のシンボル色になったことを身をもって認識することになった」と述べています。
 第4章「明治十六年から二十九年までに五回の国葬」では、明治30年2月の英照皇太后の大喪以前に5回の国葬があったが、「会葬する人は上流会葬に限られ」、「毎回、会葬者が着用すべき喪服について官報が出た。つまり、政府が会葬者の喪服を指定した」と述べ、大礼服を誂えていない人が多くいたため、「大礼服の代わりに通常礼服つまり燕尾服も認められ」る一方で、「襟飾と手袋は必ず黒色を用うべし」ことが要求されていると述べています。
 また、一般には、「白裃や喪服に換用の一般裃」が廃れるなど、「多くの喪服が廃れていくなか、喪服に換用の羽織袴は健在」し、「婦人の喪服で廃れるものはまったくなかった」と述べています。
 第5章「明治三十年の英照皇太后大喪は全国民が喪に服す」では、政府が、「宮中喪期間や国中喪期間、喪服を着用させるのは文官・武官や学生など政府管掌下の者だけでよく、管掌下にない庶民にも服を着用させる必要はないと考えていた」が、明治30年1月15日の日本新聞が、「一般士民の礼服を制定すべきの議」と題した論説を掲載し、「大喪に当たり政府は庶民に喪服を強制していないが、庶民は喪服を着用して哀悼の意を表したいと思っている。しかし、燕尾服は持っていないから、公に認められる喪服がない状況にある。この際、庶民の正式喪服を制定してほしい」旨を主張したことについて、1月21日の官報に、「国中喪期間庶民喪服心得」と呼べるものが出たことで、「庶民の間に自主的に着用しようとする動きが出て、フロックコートに黒腕章を付けたり、和服の方に黒布をつける人が多く現れた」と述べた上で、大喪以前まで、白喪服が依然として用いられていたため、「大喪以前までは庶民にとっての喪のシンボル色は白であった」と述べています。
 また、「フロックコートの丈を短くした形の背広は明治始めに導入されたが、明治時代はごく一部の人に着用されたに過ぎず、大正時代からやっと普及し始めた。それとともに庶民は黒の背広に黒のネクタイを付けた喪服を着用するようになった」として、「背広型のブラックスーツに黒ネクタイを付けた」現在の男子の一般的な喪服が、「基本的にはこの喪服を同じ」だと述べています。
 一方、婦人の喪服については、「明治以前から用いられてきた白無垢、白い着物、白い布を肩に掛けたり頭にかぶったりするものなどが大正時代に入っても、さらに昭和時代に入っても依然として用いられた」として、「婦人洋喪服が本格的に普及したのは戦後かなり経ってからである」と述べています。
 第6章「英照皇太后大喪での天皇の喪服は黒喪服」では、「明治時代には、墨染は天皇の喪服に用いる黒、黒橡色は天皇以外の喪服に用いる黒と使い分けられているが、昔においては必ずしもそうでなく、黒橡色を共通して用いることがあった」と述べています。
 第7章「喪主の喪服は国葬と英照皇太后大喪で共通」では、「葬場から墓所まで棺を運ぶ葬送行列は、国葬・大喪では多数の人が参列する長々としたものになるから、喪主を始めとする各人がどこに並ぶかを示す表が必要になる」ため、「葬送行列書」とも呼ぶべき官報が出たことを解説しています。
 第9章「英照皇太后大喪で登場した黒白縞の幕二種」では、「黒布と白布を交互に縫い合わせて黒と白の縦縞を作り、その上下に黒布をつけたもの」である「鯨幕」について、鯨幕が、第7回国葬となった皇族・小松宮親王の葬儀で用いられ、8回目国葬となった伊藤博文の葬儀で用いられたことで、「この頃から喪をあらわす性格を帯びて」きて、「明治天皇大喪では、完全に喪幕と受け止められるようになった」が、「当時はまだ、一般の葬儀で用いられることはなかった」と述べています。
 また、黒布と白布で横縞を作った「黒白段段(だんだら)幕」について、寛政3年に江戸城で開催された上覧相撲で用いられたように、「もともと遮蔽幕であり喪幕では」なく、「遮蔽幕としての鯨幕や黒白段段幕は屏風の屋外版のような存在のものであった」と述べています。
 しかし、英照皇太后大喪を機に、それまでは黒幕だけだった喪幕が、「鯨幕と黒白段段幕が喪幕としての性格を帯びるようになり、明治天皇大喪から喪幕となった」と述べています。
 本書は、今では当たり前になった黒い喪服や鯨幕が、明治以降の葬儀改革の中で、西洋化と天皇制への過剰適応の中で生まれてきたものであることを教えてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 今では黒のスーツですが、昔は黒い着物を着ていたものだと思っていました。
 それにしても、ネクタイ一つで、白ならば祝い事、黒ならば弔い事に使える日本の礼服はそれはそれで便利なのではないかと思います。


■ どんな人にオススメ?

・「弔い事=黒」だと思っている人。


■ 関連しそうな本

 中島 隆信 『お寺の経済学』 2006年03月21日
 勝田 政治 『"政事家"大久保利通―近代日本の設計者』 2008年10月30日
 新人物往来社 『異国人の見た幕末・明治JAPAN』 2008年06月09日
 湯沢 雍彦 『大正期の家庭生活』 2008年10月08日
 山崎 祐子 『明治・大正商家の暮らし』
 下川 耿史, 家庭総合研究会 『明治・大正家庭史年表―1868‐1925』


■ 百夜百音

KING'S【KING'S】 レッド・ウォーリアーズ オリジナル盤発売: 1988

 大学に入学したときに組んだバンドでやってた曲です。先日カラオケで歌ってしまいました。やっぱり意識しなくても体が動いてしまいます。

2008年12月19日 (金)

福祉がいまできること―横浜市副市長の経験から

■ 書籍情報

福祉がいまできること―横浜市副市長の経験から   【福祉がいまできること―横浜市副市長の経験から】(#1429)

  前田 正子
  価格: ¥2100 (税込)
  岩波書店(2008/06)

 本書は、2003年4月から2007年3月までの4年間、横浜市の副市長を務め、市長から「子育てしにくいといわれている横浜市の子育て環境を改善してほしい」という課題を与えられた著者の4年間の取り組みをまとめたものです。
 第1部「子育て支援の現場から」、第1章「子育て支援は必要なの?」では、「4年の間、市役所の中でどのように仕事が進められたのか、また子育て支援の現場で何が起こっているのか」を紹介するとしています。
 第2章「保育所を増やす」では、保育園の新設に対して、近隣から反対が出たことについて、「自分も保育園に子どもを預け、働いている。働く親たちがどれだけ保育園を必要としているかを知っているにもかかわらず、自分はもう入っているから必要ないと、保育園開設に反対する。情けなくて、職員は涙が出そうになったらしい」と述べ、「誰もが自分の権利だけ主張し、他人を批判するだけで、暮らしやすい社会になるわけがない」と語っています。
 第5章「世代を超えて分かり合える?」では、ノンステップバスにベビーカーを開いたまま乗れるようにしたいという課題に対して、福祉の街づくり課長に相談したところ、「バリアフリーは障害者や高齢者が対象です。ベビーカーに配慮が必要でしょうか? それに車椅子ともバッティングします」と言われて、早口と大阪弁なまりでまくし立てたことが語られています。
 第6章「公園は誰のもの?」では、今の公園に、「ことこまかに禁止のルールが作られてしまった」理由として、公園担当者が「個々の人が行政に意見をいってくるので、その場で対応している間に、どんどんルールができてきた」、「公園をどう使うか、という地域の利害について地域の住民が一緒に話し合う場がないのが問題だと思う」と語っていることを紹介し、片倉うさぎ山公園では、「作るときから地域を巻き込んで、どういう公園にするかを考えるワークショップを開き、みんなで課題を出しあうことにより『自分たちみんなの公園』だという意識を共有することができた」と述べています。
 第7章「子どもの遊びとケガ」では、「プレイパークそのものに、公園で一緒に遊んだ者どうしをつないでいく役割がある」としたうえで、プレイパークでのドロ遊びや小さなケガについて、「公園では誰とも話さず、自分ひとりで不満を溜め込み、電話をしてきた」例を挙げ、「誰ともつながらず、活動の趣旨も理解せず、気に入らないからと一方的に苦情を言ったり攻撃をするような人が増えれば、プレイパークが成り立たなくなっていく」と語っています。
 そして、プレイパークでの子どもの遊びをいろんな人に見てもらうことで、「子どもの生き生きとして遊ぶ本来の姿を理解してもらい、リスクとハザードについて、そして子どもの小さなケガについて冷静な議論をしてもらいたい」と述べています。
 第8章「深刻化する虐待」では、「私が副市長として垣間見た児童虐待や児童擁護の世界は、想像以上に深刻な状況だった」として、「子育てにリスクを抱える親子をどうやって支えるか、試行錯誤している現場の状況を、少しでも皆さんに知ってもらったほうがいいのではないかという思いからレポートした」と述べています。
 そして、「バブル期には日本中どの地域でも児童養護施設はガラガラで、一時期は施設不要論まで出ていた」として、「おそらく親の経済状況が安定していたこともあり、家庭崩壊も少なかったのだろう」と述べています。
 第2部「急速に変貌する地域」では、市役所で「ニートやフリーターの課題にも取り組みたい」と語ったら、「雇用問題は県の所管です。とにかく、まずは目の前の課題に取り組んでください。他のことをする余裕は副市長にはありません」と秘書にたしなめられたと語っています。
 そして、「ひきこもりは贅沢病、若者の甘え」といわれるが、「実際に劣悪な家庭環境で満足に教育も受けられず、貧困状態にある若者がいる」として、「ニートやフリーターの若者は、怠け者でも甘えているだけでもない。親の保護や援助も得られず、十分な教育も受けられないままに、放り出された若者もいる」として、「そういった若者を受け入れ、人間として関わり、励まし、育てる度量が私たちの社会にあるかどうかを問いかけられている」と述べています。
 第2章「寿」では、日本三大ドヤ街の一つである横浜市中区寿について、高校時代に大阪の釜ヶ崎の近くを通学していた著者にとって、「ドヤ街とは、騒然とし、働き盛りの男の喧嘩と酒のにおいで溢れていた場所だった」が、今の寿は高齢男性ばかりで、「もはや寿は『労働者の街』ではない」、「日本の高度成長期とバブルの建設ラッシュを支えた寿は、今や年老い、戻る家庭もない男たちが生涯を終える看取りの街なのだ」と述べています。
 一方で、「アルコール依存症の男たちはどれだけ家族を苦しめ、暴力を振るってきたのだろうか」と考え、「アルコールの海におぼれ、這い上がれなかった何百人、何千人もの男の向こう側には、それよりも何倍もの数の涙を流し続けた女や子どもたちがいるのだ」と語っています。
 また、「寿を緑化しよう」と言い出したNPO「さなぎ達」を紹介し、「さなぎの食堂」と「さなぎの家」などの活動を紹介した上で、さなぎ達には、「行政は動きが鈍い。遅い」というメンバーがいて、「しょっちゅういろんな行政の人と喧嘩をしている」が、著者は、「行政が動きがゆっくりなのは当たり前なのよ。自分のお金ではなく、他人様のお金でやっているんだから」と反論し、「行政ならではのしがらみも少しわかった気もする」と語っています。
 そして、「寿の人たちにとって重要な鍵は『役割』」だとして、「誰かに必要とされている、信用されている、求められている、という感覚が必要で、それは誰かとつながり、その関係性の中で自分の立ち居地を確認することでしか得ることができない」と述べています。
 第3章「増加する在住外国人」では、ベトナム人の6年生の女の子が、「自分はベトナム語が苦手、両親は日本語が苦手で、『おなかがすいた』といったような生活に最低限必要なことは伝えられるが、両親のベトナム語の会話は何を言っているのかよくわからないこと、そして、自分の気持ちを両親に伝えられないさびしさ」を語ったことを紹介し、「日本で子どもが暮らしているからといって、日本語教育だけしていればいいというものでもない。母語の維持や学力の保障がなされれば、この子どもたちは日本と母国を橋渡しする貴重な人材になる」と述べています。
 第3部「急増する福祉ニーズと逼迫する予算」では、「安心して人々が過せる社会を作るには、新しいセーフティネットの構築にいくらかかるのか、そしてそのために市民はどれだけ負担する必要があるのか、早く議論を始めなければならない」と述べています。
 本書は、新鮮な目で福祉の現場を4年間見つめ続けた発見が詰め込まれた一冊です。


■ 個人的な視点から

 日本に移住してきた外国人の子どもたちが、日本語は得意でも母語はなかなか学ぶ機会がなく、親やその親たちが母語で会話している内容を理解できない、という話は、在日韓国/朝鮮人の家庭でも起きていた問題のような気がします。
 在日外国人の母国の種類が飛躍的に増えた現在とは状況は同じではないと思いますが。


■ どんな人にオススメ?

・ニートは贅沢病だと思う人。


■ 関連しそうな本

 橘木 俊詔 『現代女性の労働・結婚・子育て―少子化時代の女性活用政策』 2006年08月18日
 副田 義也 『生活保護制度の社会史』 2007年06月29日
 三矢 陽子 『生活保護ケースワーカー奮闘記〈2〉高齢化社会と福祉行政』 2006年04月17日
 山本 雅基 『東京のドヤ街・山谷でホスピス始めました。―「きぼうのいえ」の無謀な試み』 2007年01月25日
 エドワード ファウラー (著), 川島 めぐみ (翻訳) 『山谷ブルース』 2008年03月21日
 横山 源之助 『日本の下層社会』 2006年08月11日


■ 百夜百マンガ

だってサルなんだもん【だってサルなんだもん 】

 これは果たしてマンガなのかというと難しいかもしれませんが、「小足派」の筆頭であるいしかわじゅん先生が書けばそれはマンガでしょう。この作品を読んだせいで鴻巣は相当遠いという印象を持ちました。

2008年12月18日 (木)

ものいうからだ 身体障害の心理学

■ 書籍情報

ものいうからだ 身体障害の心理学   【ものいうからだ 身体障害の心理学】(#1428)

  南雲 直二
  価格: ¥1680 (税込)
  講談社(2008/9/30)

 本書は、「からだとはいった何ものであるのか」という問いに答えること、「身体と心をあわせた『からだ』とはなにものなのかというテーマについて」、著者が十数年間考えてきた成果をまとめたものです。著者は、自らの心的外傷論について、「一般的に、心的外傷あるいは心的外傷後ストレス障害(PTSD)は精神疾患の一つとされ、身体疾患の合併の有無を問わないもの」であるが、著者の心的外傷論は、「身体疾患の合併が条件」であり、「それも障害という後遺症を残すような身体疾患を合併するものでなければならない」として、「症状精神病のもとでの心的外傷」だと述べています。
 第1章「からだの見方」では、
・ブローカ野:ミラーニューロン・システムの中枢
・運動前野:「運動メロディ」の中枢
の働きによって、「私たちは意識しなくても歩行や食事を行うことができるようになる」として、「このブローカ野と運動前野で形成されるニューロンのネットワークが型の脳内メカニズムの主要部」であり、「人間をコピー機になぞらえると、このネットワーク(鋳型)がコピー機の本体であり、からだの動作1回分がコピー1枚に相当する」と述べた上で、障害者は、「型」を失うのであり、「それと同時に鋳型も失うのだ」として、「『型』を失うことは自分を失うことのシノニム(同義語)」だと述べています。
 第2章「からだの反乱」では、「人間には『実行する私』と『監視する私」という二人の私がいる」として、「怒りに『我を忘れて』というが、その『我』とは『監視する私』のことである」と述べています。
 また、脳卒中や外傷などで脳が損傷すると、「失語(言葉が出てこない、文字が読めないなど)、失認(そこにあるものが認識できない。半側空間無視など)、失行(これまでできたことができない。服をうまく着られない着衣失行など)など」の「高次脳機能障害」が生じるが、著者はこれを、「監視する私」の機能低下によるもので、「『監視する私』が『実行する私』の機能不全を理解していないから失敗を繰り返すのだ」と述べています。
 そして、高次機能障害者の観察で、「監視する私」の機能低下をうかがわせる行動の例として、「傍若無人な言動」を挙げています。
 さらに、リハビリテーション患者の自覚の病理について、「いずれも『実行する私』と『監視する私』の両方の機能低下によるもの」だとして、論理構造の違いに着目して、
(1)非自覚:病態失認、アントン症候群、半側空間無視
(2)「~ないのにできる」あるいは「見えているのに~ない」という一つの否定の構造を持つもの:身体消失感、切断幻肢、余剰幻肢
(3)「知らない」という一つの否認の構造を持つ「無知」
の3つに自覚の病理を分類しています。
 第3章「からだの行方」では、たんなる病気やケガと違い、「体の障害の多くは治ることがなく、生涯その状態は変わらない」として、「人はからだに障害を負うと、心にも変化が生じることが多い」うえ、「対人関係が大きく変化することも体験する」として、「いわゆる健常者の視点からは見えにくい『関係性の病理』」を考えるとしています。
 そして、アメリカの社会学者アーヴィング・ゴッフマンが著作『スティグマの社会学』で、「非常に強い不名誉や屈辱を引き起こすもの」という意味で用いた「スティグマ」について、「身体障害もスティグマの一つ」として、「スティグマのある人とない人の出会いを観察して、そこには必要以上の緊張が生じて、時には出会いそのものが台無しになることを見出した」と述べています。
 また、家族における関係性の病理を引き起こす要因として、
(1)世間体の壁:他人にこんなからだを見せられないという世間に対する気がね
(2)心の壁:家族が障害者本人にいえない、あるいは障害者本人が家族にいえないといった「緘口(口をつぐみ、ものをいわないこと)」
(3)からだの壁:臭い、汚いという嫌悪感
の3点を挙げています。
 さらに、「ふだん私たちは自分のからだを意識していない」が、「からだに障害を負うと、からだはものをいい始める」として、自分自身に対しても、「たちどころに違和感という形でからだの存在を感じ」、他人に対しても、「顔に発疹ができれば周囲の人目を引き、捻挫した足首を包帯でぐるぐる巻きにして痛々しげに道を歩けば、行きかう人は同情の目で見たりする」と述べています。
 著者は、障害受容の理論について、「自覚の病理だけに焦点を当てて、関係性の病理がそっくり抜け落ちている」ことを指摘したうえで、「障害を持たないからだは、障害の意味を身体的にわかることは難しい。同じように、障害者であっても、障害の種類や程度が違えば、それぞれの障害を身体にわかりあうことはできないのではないか」と述べています。
 「エピローグ」では、「リハビリテーションは、残像機能を活用して、生活に必要な新たな『型』のつくり直しを手助けする営み」だとして、伝統的なリハビリテーション医療は、理学療法と聴覚言語療法とに分けられているが、「これらはすべて心の再建に他ならない」ものであり、「伝統的な両方の領域に収まりきるものではない。リハビリテーション心理学の出番である」と述べ、
(1)元気の回復
(2)障害の正しい自覚
(3)自信の回復
(4)生活の再建
の4つの側面を重視した「心の再建モデル」を提案しています。
 また、中途障害と先天性障害の違いとして、「中途障害では『喪失+喪失感』が生じるのに対して、先天性障害では『喪失』は生じるが『喪失感』は生じない」とした上で、「喪失感は受容できる・できない、あるいは受容する・しないで片付く問題かもしれない」が、「喪失に必要な対応は再建(回復を含む)」だとして、「こう考えると、中途障害と先天性障害とを分ける必要がないことになる。いずれも必要な対応は再建(先天性障害の場合は形成というべきか)である」と述べています。
 本書は、身体障害が単なる機能的なものではなく、心にとっても大きな問題であることを考えさせてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 本書でも、義肢や義足の身体感覚を得るまでについても少し触れられていましたが、この路線を進展させると、SFの世界で、脳は人間で身体は機械というサイボーグの心理学や、マトリクスの世界のバーチャルな身体感覚などさまざまな発展方向があるような気がします。
 「電気羊の夢」ではないですが、「銃夢」系の作品でこういうの扱ってくれたら面白いです。


■ どんな人にオススメ?

・身体障害とはからだの障害のことだと思う人。


■ 関連しそうな本

 V.S. ラマチャンドラン, サンドラ ブレイクスリー (著), 山下 篤子 (翻訳) 『脳のなかの幽霊』 2006年09月03日
 オリヴァー サックス (著), 吉田 利子 (翻訳) 『火星の人類学者―脳神経科医と7人の奇妙な患者』 2006年03月26日
 アリス・W・フラハティ 『書きたがる脳 言語と創造性の科学』 2006年09月23日
 ジュリアン ジェインズ (著), 柴田 裕之 (翻訳) 『神々の沈黙―意識の誕生と文明の興亡』 2006年06月04日
 トール ノーレットランダーシュ (著), 柴田 裕之 (翻訳) 『ユーザーイリュージョン―意識という幻想』 2006年06月18日
 アンドリュー ニューバーグ, ヴィンス ローズ, ユージーン ダギリ (著), 茂木 健一郎 (翻訳) 『脳はいかにして"神"を見るか―宗教体験のブレイン・サイエンス』 2006年07月01日


■ 百夜百マンガ

カオスだもんね!【カオスだもんね! 】

 それほどヘヴィではない、いわばデイリーポータルZ的な体験モノをエッセイマンガの形式で語ってくれる一冊です。

2008年12月17日 (水)

学歴社会の法則 教育を経済学から見直す

■ 書籍情報

学歴社会の法則 教育を経済学から見直す   【学歴社会の法則 教育を経済学から見直す】(#1427)

  荒井 一博
  価格: ¥777 (税込)
  光文社(2007/12/13)

 本書は、「教育の経済学」の成果を利用し、
・学歴と所得(地位)の関係
・どのような条件が整えば高い学歴が獲得できるか
・親は子どもに何をしたらよいか
・学校はどう対応したらよいか
・政府はどうしたら良質の教育を多くの若者に提供できるか
などの問題を検討したものです。
 第1章「学歴はなぜ所得格差を生み出すのか」では、教育の経済学の基本的な課題の一つとして、なぜ高学歴者が高い賃金を得るのかという疑問に答えることを挙げ、人的資本論では、「高学歴者は多大な金銭的費用(学校納付金など)や時間的費用(放棄稼得)を負担して、知識や技能を修得してきた。そのため」彼らの能力は、高く、生産活動に従事したときの生産性も高い。生産性の高い人が高い賃金を得るのは当然である」と主張していると述べています。
 そして、「教育投資が個人の能力(生産性)高めるから高学歴者の所得(賃金)は高くなる」とする人的資本論の主張では、「学歴は能力を高めるための手段であって、学歴自体が高い報酬を生み出すわけではない」としていることについて、「経験からそうした人的資本論の考え方に賛成できない人はたくさん」いると述べています。
 第2章「学歴シグナルによる『差別』は正当か」では、ノーベル賞経済学者のスペンスが、「学歴が個人の能力に関するシグナルの役割を果たす」と考え、そのエッセンスは、「学歴は情報の非対称性を解消する」ものであり、「能力は観察できませんが、学歴は簡単に観察できるため、そこから能力を推定できる」としていると述べています。
 そして、シグナリング理論では、大学は、「人々を識別して、パイ(企業ないし経済全体の生産物)の配分の仕方を変える機能を果たしている」に過ぎないとしていることについて、「大卒学歴は親の富裕度を示すシグナルになる」として、「教育投資には、ポトラッチの性格が部分的に含まれ」、「富裕な人々は富裕度を誇示するために、多大な資金を教育サービスの購入に投入して自分の子どもを有名大学に」行かせると述べています。
 著者は、「多くのタイプの教育には、人的資本論的な機能とシグナリング理論的な機能の両方が含まれて」いるが、「それぞれの機能の相対的重要性は、教育のタイプや企業の雇用制度などによって異な」るとして、
(1)義務教育などの基礎的な教育ほど、人的資本論的な機能が重要になる。
(2)理科系的な教育と職業ほど、人的資本論が成立しやすい。
(3)企業などの採用担当者が責任回避的なほど、シグナリング理論が成立しやすくなる。
(4)就職直後の企業内訓練や経験が学歴によって明確に区分されているほど、シグナリング理論が成立しやすくなる。
(5)経済や技術が複雑化・高度化するに従って、高水準の教育においても人的資本論が成立しやすくなる。
の5点を挙げています。
 第3章「働く母親と専業主婦、子どもの学歴を上げるのはどっち?」では、「親の所得や子ども自身の能力などが同じでも、親の学歴が高いほど、子どもも高学歴になることが、データを使った厳密な実証研究によっても世界的に確認されて」いるとした上で、「父親の学歴は女の子どもより男の子どもの大学進学に強く影響し、母親の学歴は男の子どもより女の子どもの大学進学に強く影響する」と述べています。
 そして、「母親が子どもと本を読むことが、子どもの言語能力を高めることが実証されている」として、「女性が教育を受けて高い学歴を達成することは、その女性自身の賃金や生産性を上げるだけでなく、その子どもの賃金や生産性も上げること」につながると述べています。
 第4章「学校選択制と教育バウチャー制度で何が変わるか」では、学校選択制と教育バウチャー制度について、「いずれの制度もさほど好ましい結果を生み出さない」として、「不適切な形で実施されれば、両制度は大きな害悪を生み出す」と述べています。
 そして、学校選択制の下における教育サービスについて、「工業製品などと違って、需要の増大がそれ以前の品質の維持を困難にする」として、「学校に生徒や生徒数を選択する自由がない通常の学校選択制では、需要が増大しても上質の教育サービスを供給し続けることは困難な場合が多い」と述べています。
 また、「バウチャー制度の最大の被害者は公立校の生徒」だとして、「かつては各学級に一人ないしは二人いた模範的な高学力の生徒が私立校に去ってしまい、公立校の雰囲気や教育力は大幅に低下する可能性」があると述べています。
 第5章「英語ネットワークへの投資法」では、「経済学的に考えると、英語をはじめとする言語一般にはふたつの顕著な性質』があるとして、
・公共財
・ネットワーク
の2つを上げ、さらに、「英語などの外国語の学習は重要な人的資本投資」だと述べています。
 そして、「今日では英語のネットワークが格別に巨大なため、英語を習得することの便益が大きくなっている」としながらも、「日本で行われている多様な投資(機械・設備・空港など)のなかで、収益率が平均的に最も低いのが英語教育であるといえそう」だと指摘しています。
 第6章「『いじめ』を経済学で解決する」では、「経済学は『いじめ』の理解に役立」つと延べ、「様々な調査結果を紹介しながら、いじめの実態把握に努めつつ、専門の世界においてもかなり先駆的な『いじめの経済学』を論じ」るとしています。
 そして、「いじめ問題には、言語に関して第5章で使ったネットワークの概念を多少修正して適用することが」できるとして、「いじめのネットワーク理論」による、「いじめを防止・根絶する方法」として、
(1)いじめネットワークに参加する(ネットワークを形成する)便益を小さくすること。
(2)その費用を高くすること。
(3)ネットワークを破壊すること。
の3点を挙げています。
 第7章「教師と学級規模の経済学」では、医師や弁護士に比べて学校教師の社会的地位は低くなっているが、「元来、教職のほうが聖職に近い」として、「教師は生徒の人生を変えること」ができると述べています。
 そして、最適学級規模の問題に関して、
(1)規模を小さくすると学力向上などの好ましい効果が生まれるのか否か。
(2)好ましい効果があるとしても、それは規模を小さくするための追加的な費用を上回る価値を有するか否か。
の2点が解明される必要があると述べています。
 さらに、少人数学級の主たる目的である生徒の学力向上を、「同じ目的をもっと廉価な方法で達成できる可能性」があるとして、
(1)教師の質を高めること
(2)教育方法を工夫して学力を高めること
(3)生徒のやる気を引き出す制度を作り、彼らの努力を促すこと
等を挙げています。
 本書は、教育とは相容れないものだと思われがちな経済学を使って、教育への理解を深めてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 「教育」と「経済学」という言葉を並べると、「教育はお金で考えるものじゃない」とか、「市場原理主義者」などの感情的な反応を呼びがちですが、経済学がお金のことだけを考える学問ではないことをもっと多くの人に知ってもらえるきっかけになるのではないでしょうか。


■ どんな人にオススメ?

・教育は経済学とは無縁だと思っている人。


■ 関連しそうな本

 エドワード・P. ラジアー (著), 樋口 美雄, 清家 篤 (翻訳) 『人事と組織の経済学』 2005年04月05日
 小塩 隆士 『教育を経済学で考える』 2005年02月13日
 伊藤 秀史, 小佐野 広 『インセンティブ設計の経済学―契約理論の応用分析』 2005年02月26日
 ジョン・マクミラン (著), 瀧澤 弘和, 木村 友二 (翻訳) 『市場を創る―バザールからネット取引まで』 2007年10月17日
 高橋 伸夫 『虚妄の成果主義―日本型年功制復活のススメ』 2005年03月30日
 本田 由紀 『多元化する「能力」と日本社会 ―ハイパー・メリトクラシー化のなかで』 2006年09月06日


■ 百夜百マンガ

電脳なをさん【電脳なをさん 】

 パソコン雑誌なのにコンピュータの話は少ない、しかもMacしかでてこない、ということで、そんな姿勢も含めて楽しませてくれます。

2008年12月16日 (火)

現代マンガの冒険者たち

■ 書籍情報

現代マンガの冒険者たち   【現代マンガの冒険者たち】(#1426)

  南 信長
  価格: ¥2520 (税込)
  エヌティティ出版(2008/5/15)

 本書は、「現代マンガの歴史の中でキーパーソンとなる作家たちを選び出し、『どこがすごいのか』『マンガ界にどんな影響を与えたのか』を検証しながら、チャート図なども用いて漫画家の系統進化の流れを俯瞰できるようにした、いわば<現代マンガ進化論>のようなもの」です。
 第1章「ビジュアルの変革者たち」では、「映画的手法(自由なコマ割り&カット割り、視点の移動など)と漫画的記号(効果線、焦りを示す汗など)といった斬新なビジュアル」を、「マンガに適した表現にブラッシュアップし、系統だった手法として確立させた」のが手塚治虫であり、手塚作品を手本にマンガを描き始めたのが「トキワ荘」の住人たちであり、そこから現代マンガの進化が始まったため、手塚が「マンガの神様」と呼ばれると述べています。
 そして、劇画~青年マンガの流れの中から、「突然変異のように現れた」のが大友克洋であり、「それはマンガ界にとって、まさに革命と呼ぶべき出来事であり、のちの作家たちに与えた影響はとてつもなく大きい」として、「手塚治虫が現代的マンガ表現の創始者だとすれば、大友克洋はマンガ表現の変革者であった」と述べています。
 また、大友克洋と江口寿史が「ともにちばてつやの影響について語っている」ことについて、「手塚治虫が"マンガの神様"なら、ちばてつやは"マンガの先生"なのかもしれない」と述べています。
 さらに、鳥山明について、『Dr.スランプ』のギャグが同じジャンプ誌上の『すすめ!!パイレーツ』に比べて、「幼稚」だったが、「多くの読者は、今まで見たことのない<絵の力>に酔った」として、「デビュー当初、"絵はうまいがマンガとしてヘタ"だった鳥山が、<さらにうまい絵>と<個性的なキャラ>を得て、"見ているだけで楽しい世界"を構築することに成功した」と述べています。
 第2章「『Jコミック』の正体」では、その特色として、「<明るい絶望感>のようなものを漂わせるマンガ」であり、年代としては90年代以降だとして、「バブルとその崩壊があって、一種の虚脱感、喪失感みたいなところからスターとしたのが90年代だった」と述べています。
 また、松本大洋が影響を受けた漫画家として、土田世紀の名を挙げていることについて、「ヒップホップ系のミュージシャンが『山本譲二をリスペクトしています!』と宣言するようなもの」だとした上で、初期の短編集『青い春』に土田のデビュー作にして名作『未成年』の影響を見て取ることができると述べています。
 第3章「<ギャグ>に生き、<ギャグ>に死す」では、吾妻ひでおについて、「スラップスティックから、SFパロディ、シュールギャグ、実録&私小説ギャグへと至る」作品の変遷は、「そのままギャグマンガの系譜と重なる」として、小説家を含めて、「トラウマ自慢の作家」が多い中で、「それを飄々とした笑いに昇華させるところが、ギャグ漫画家としての吾妻ひでおの真骨頂だ」と述べ、いしかわじゅんとの対談の中で、「俺とかいしかわさんみたいにナンセンスやってると、自己否定しちゃうんだよな。芸術家じゃないんだから、漫画家がそんなことやったら潰れるよ」と語っていることを紹介しています。
 また、鴨川つばめが、中学時代に酒井七馬の『漫画家入門』に出会い、「堕落した漫画界を変えるのは君たち若い人間なんだ」というメッセージに共感し、弟子入りしようとしたが、酒井が、「極貧の中での餓死」をしたと聞いたことから、「酒井さんを餓死に追いやったマンガ界に対する敵討ちみたいな気持ちが僕の原動力でした」と語っていることを紹介しています。
 そして、鴨川が、一時対人恐怖症に陥り、「いざとなったら首切って死ねるように枕の下に果物ナイフ」を入れていたことを紹介し、江口の場合は、「描けないこと自体をギャグにした」ことで、「吾妻ひでおや鴨川つばめが陥った"精神の袋小路"から逃れることに成功した」と述べ、『ストップ!!ひばりくん!』の第9話で初めて<白いワニ>が登場したとして、「江口は<白いワニに襲われる>というネタを使って、落とすこと自体をギャグにしてしまった」として、「結果的には白いワニが江口の作家生命を延ばしたことになる」と解説しています。
 また、とり・みきの作風について、「"ギャグの因数分解"のように、笑いのパターンみたいなものを、一度バラバラにして、その断片を順列組み合わせで再構築したり増幅させたりして作っているような印象を受ける」として、<理数系ギャグ>と評しています。
 第4章「<物語の力>を信じる者たち」では、大友克洋や江口寿史が「ちばてつやから影響を受けた」とか足り、井上雄彦にも、「ちばの影響が見受けられる」、あの本宮ひろ志でさえ、「ちばてつや氏に熱狂的に傾倒していた」と語っていることを紹介し、「ストーリーテリングの面でちばてつやの存在は極めて大きい」と述べています。
 また、浦沢直樹の『YAWARA!』について、「それまでのスポーツマンガをすべて咀嚼して、お約束事をあえてやり尽くすことで、マニアが読むとクスクス笑うようなものを目指していた」が、アニメ化され小学生からファンレターが来るようになったことで、「さすがにその子たちの気持ちは裏切れないなって。随分とエライものをしょいこんじゃったな」と思ったと語っていることを紹介し、その自己管理能力について、「午前中に起きて犬の散歩までしているという規則正しい生活」に、「夜9時には家に帰って食事する、と。だからそこに小さな締め切りがあるんです」と語っていることを紹介しています。
 そして、『課長 島耕作』が、連載当初は、「現在のようなスーパーサラリーマン」ではなく、「保身に汲々とする小心者で、妻子と住宅ローンを抱えて小遣いも少なく、不倫相手の女子社員にホテル代を出させる。そんなフツーの(?)サラリーマンが、中間管理職としての仕事をこなしながら、いろんな女たちとアバンチュールを楽しむ」という「罪のない娯楽作品だった」にもかかわらず、「いつの間にか主人公が勝手に成長して、国際舞台で活躍するスーパーサラリーマンに変身」してしまったと述べています。
 さらに、笠辺哲に関して、「よく『マンガが面白くなくなった』なんて言う人がいるけれど、それはその人が面白いマンガを発見できなくなっただけの話である。面白いマンガはたくさんある。特に新人作家に関して言えば、みんな昔より間違いなく上手い」として、「斬新で個性的な表現力を持った新人が随時登場しているのは事実」だと述べています。
 第5章「<少女>は成長して<女>になる、か」では、吉田まゆみについて、「'80年代の流行や世相が随所に取り込まれ、今読み返すと、あの時代の空気がまざまざとよみがえってくる」と述べています。
 そして、松苗あけみについては、少女マンガ界の女王・一条ゆかりのアシスタント出身であり、「まさに世間がイメージする少女マンガの王道のように見える」が、「その中身は、いわゆる少女マンガとは一線を画す」として、「あくまでも乙女チックな世界観を保ちながら、ストーリーや語り口、キャラクターはとことんドライ」だと評しています。
 また、耕野裕子に関して、"漫画家マンガにハズレなし"として、『漫画家残酷物語』『まんが道』『燃えよペン』『モト子せんせいの場合』『サルでも描けるまんが教室』『漫画家超残酷物語』『まんが極道』『僕の小規模な生活』『俺はまだ本気出してないだけ』等を挙げています。
 本書は、現在世に出ているマンガがどういう要素で組み立てられているかをわかりやすく解説してくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 マンガも結構細分化が進行していて、すべてのマンガをチェックするというのは権力の頂点に上り詰めた人間であっても難しい状況にあります。
 個人的にも、高校生の時には本屋の雑誌の棚にある本は全部読みつくす意気込みで一生懸命読んでましたし、当時は単行本も立ち読みできたので『こち亀』全巻読破のようなこともできましたが、今では限られた時間のなかでいかに面白いマンガに出会えるかということが大事になっています。
 その意味でも現在のマンガを体系化してくれる本はありがたい限りです。


■ どんな人にオススメ?

・世の中の無数の本を俯瞰したい人。


■ 関連しそうな本

 竹内 オサム 『手塚治虫―アーチストになるな』 2008年10月18日
 手塚 治虫 『ぼくはマンガ家―手塚治虫自伝』 2005年05月28日
 うしお そうじ 『手塚治虫とボク』 2007年10月6日
 堅 信之 『アニメ作家としての手塚治虫―その軌跡と本質』 2007年11月4日
 中野 晴行 『謎のマンガ家・酒井七馬伝―「新宝島」伝説の光と影』 2007年7月28日
 フレデリック・L. ショット (著), 樋口 あやこ (翻訳) 『ニッポンマンガ論―日本マンガにはまったアメリカ人の熱血マンガ論』 2006年4月29日


■ 百夜百マンガ

泣くようぐいす【泣くようぐいす 】

 幕張三校の関係者を伺わせた前作、とはいえ他誌での作品、を内容的には引き継いでいるということなのですが、何よりもこういう壊れた人材を排出したということで、当時の幕張三校関係者は面白がっていいのではないかとも思います。

2008年12月15日 (月)

公共哲学とは何か

■ 書籍情報

公共哲学とは何か   【公共哲学とは何か】(#1425)

  山脇 直司
  価格: ¥777 (税込)
  筑摩書房(2004/05)

 本書は、「公共哲学という学問の内容を一般読者の方々にできるだけ多く知ってもらうこと」を目的としたものです。著者は、公共哲学という学問が注目され始めている理由として、
(1)ここ数年の間に、「お上の公」と違う意味での「公共性」を、学問的に解明しなければならないという関心が人々の間に広まったこと。
(2)公共性というコンセプトが従来の公私二元論では捉えきれない広がりをもつことに、多くの人々が気づき始めたこと。
(3)公共性が幅広い分野にまたがるとともに、時空間的な広がりをもつ重要なイシュー(争点)であると認識されつつあること。
(4)冷戦体制が崩壊して、旧来のイデオロギーが魅力を失う中で、安直な流行しそうでも、思想なき実証主義でもなく、「現実と理念を統合しつつ現下のグローバルな問題群を論じうる」新しいビジョンへの関心が高まっていること。
の4点を挙げています。
 また、公共哲学が、「タコツボ的に営まれている諸学問の盲点を示し、そこに新たな視座を導入する『知のイノヴェーション(創造的革新)』の試み」だと述べています。
 第1章「公共哲学は何を論じ、何を批判し、何をめざすのか」では、「公共哲学という古くて新しい学問が一体、何をメインテーマ(主題)として論じ、何を批判のターゲット(標的)とし、何を目指す運動なのかというもっとも基本的な事柄」を示すとしています。
 そして、公共哲学が、「多くの大学で支配的な『社会科学』の分断のみならず、『社会科学』と『人文科学(humanities)』の分断の乗り越えを目指さなければ」ならないとしたうえで、「批判されるべき日本の現状」として、
(1)「滅私奉公」的な公私観とそれに対になった「滅公奉私」的な公私観
(2)「タコツボ的な学問状況」
の2点を挙げています。
 また、本書の大きな主張の一つとして、「政治や経済の世界においてもはや政府がパブリックを独占することは困難になって」いるとして、「こうした知的・社会的状況の中で、多分に『官』や『民や人々の支える公共』とを区別するべきだ」と述べています。
 さらに、「不安定なグローバル化時代における『自己―他者―公共世界』論は、多次元的な構造を持たなければ」ならず、「『民の公共』という場合の民も、19世紀以降の国民国家時代に考えられたような『国民』のレベルにのみ収斂させることも」できないと述べています。
 第2章「古典的公共哲学の知的遺産」では、近代の政治哲学が、「アリストテレスのように人間を自然本性上共同体的動物」とは考えず、「逆に、『平等な個人が相互に契約を結ぶ』ことによってはじめて政治共同体が成立するという発想」をとるとして、「ひと口に社会契約説と呼ばれるこの思想は、まさに近代ヨーロッパ固有の政治的公共哲学と呼ぶことができる」と述べています。
 そして、ヘーゲルが、「自由・平等・博愛を掲げたフランス革命がなぜ恐怖政治へ転化したのかという切実な問題関心のもと、制度を人間の『自由な精神の実現態』としてとらえる公共哲学を展開」したと述べています。
 第3章「日本の近・現代史を読みなおす」では、「明治初期から現代に至るまでの近・現代の日本社会は、公共哲学的観点からどのようにとらえられる」かを論じています。
 そして、福沢諭吉が、「在野で明治政府に大きな影響力を持った公共哲学者であった」のに対し、田中正造は、「明治国家に抗して、地方自治の確立のための独創的な公共哲学をとなえた」と述べています。
 また、戦後日本で公共哲学者の名にあたいする者として、南原繁と丸山真男の名を挙げ、「この両者は、東大法学部を拠点とするアカデミズムに身を置きながらも、時流におもねることなく、戦後日本社会の進むべき道について、明確な哲学的ビジョンを示した政治学者ないし思想家だった」と述べています。
 さらに、「公共哲学という観点からみて、マルクス主義には大きな問題」があるとして、「歴史の必然的発展法則」というイデオロギーを指摘し、「自発的な『民の公共』を権威主義的な『政府の公』によって抑圧してきたレーニン・スターリン体制の崩壊を、喜ぶべきどころか、逆に悲しんだ左翼勢力が日本に多かったことは、日本の左翼勢力が以下に公共哲学のセンスに乏しかったかを露呈」させたとしながらも、「それを叩く国家主義者」についても、「明らかに島国日本の特殊な現象」だと指摘しています。
 第4章「公共世界の構成原理」では、「社会理論を構築するときに『社会現象』を認識するためのフレームワーク(分析枠組み)として、一体どのような概念が決定的に重要なのかをめぐって、20世紀後半にひとつの大きな対立」が見られたとして、
・社会システム論:「システム」をもっとも重視する
・現象学的な社会理論:「生活世界」をもっとも重視する
の2つを挙げながら、「そこでは、『公共世界』というコンセプトは、ほとんど登場」しなかったと述べています。
 第5章「公共哲学の学問的射程」では、「政治、経済、社会組織、科学技術、教育、宗教などの領域において、前章で見たような公共世界の構成原理・価値理念がどのようにかかわるのかについて概観・論考」するとしています。
 そして、本書が、「経済社会にも公共性にかかわる次元が存在することを強調」するとした上で、「『公共的ルールにはめ込まれた市場経済』というリアリティを、主流派経済学の教科書が無視ないし軽視しているのは、実に奇妙なこと」だと述べています。
 また、「現下の教育基本法改正(改悪)論をめぐる議論が示すように、『教育と公共性」 はホットな争点となって」いるが、「いまの教育基本法では『個人の尊厳』を強調するあまり『公共性』がないがしろにされる」という考えは「根本的に間違っている」と指摘しています。
 第6章「グローカルな公共哲学へ向けて」では、「現下の国際政治経済レベルでのグローバリズムは、アングロアメリカン・スタンダードの支配を意味することが多く、『グローバルな公共哲学』では、そうしたスタンダードに基づく公共哲学という響きを払拭」できないとした上で、「諸地域の文化的歴史的多様性を顧慮しながら、また文化や歴史の多様なコンテクストに根ざしながら、同時に、平和、正義(公正)、人権、福祉、貧困、科学技術、環境、安全保障、文化財保護など、地球規模で対峙する必要のある問題を考えていく」のが「グローカルな公共哲学」だと述べています。
 そして、「『グローカル』な公共哲学を構想する」には、「カントの『世界市民=地球市民』的な観点とヘルダーの『多文化共存』的な観点とを、背反的にではなく、『相互補完的』にとらえること」が決定的に重要だと述べています。
 本書は、「公共心」という言葉が死語になってしまったかのような世の中に、正面から公共のあり方を問いかけてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 哲学って難しい、という印象があって苦手なのですが、公共哲学というのもなんだか大変そうです。
 哲学者になるには、悪妻を持てばいい、という言葉ありますが、公共哲学かになるには、悪い首長や議員を持てばいいものなのでしょうか。


■ どんな人にオススメ?

・公共哲学に接近したい人。


■ 関連しそうな本

 桂木 隆夫 『公共哲学とはなんだろう―民主主義と市場の新しい見方』
 山脇 直司 『グローカル公共哲学―「活私開公」のヴィジョンのために』
 齋藤 純一 『公共性』
 佐々木 毅, 金 泰昌 『公共哲学〈1〉公と私の思想史』
 塩野谷 祐一, 後藤 玲子, 鈴村 興太郎 『福祉の公共哲学』
 ロバート・D. パットナム (著), 河田 潤一 (翻訳) 『哲学する民主主義―伝統と改革の市民的構造』 2005年03月03日


■ 百夜百マンガ

恐怖の心理ゲーム【恐怖の心理ゲーム 】

 この人の作品の何が怖いって、線が怖いって言うか、作品世界のなかに入っていくのが怖くてためらわれます。入ってみるとやっぱり怖い。

2008年12月14日 (日)

公務改革の突破口―政策評価と人事行政

■ 書籍情報

公務改革の突破口―政策評価と人事行政   【公務改革の突破口―政策評価と人事行政】(#1424)

  村松 岐夫
  価格: ¥2940 (税込)
  東洋経済新報社(2008/03)

 本書は、「日本の政治行政におけるガバナンスの改善」に問題意識を置いて、新公共経営(NPM)の諸改革について論じたものです。
 著者は、「諸改革が地方から始まったのは自然であった」とする理由として、「地方自治体には問題を切り開いていく何らかの理念や理屈、それに手法が必要であった。NPMという考え方は絶好の視点であり、格好の枠組みであった」と述べています。
 そして、NPMが日本において、
(1)NPMは、新自由主義の上に立って財政削減を目的としている。
(2)NPMを主張する議論の中に日本では、それが、「行政再建」の実践理論だと見る視点もある。
の2つの使命を持っていると述べています。
 第1章「世界と日本のNPM」では、NPMの背景について、「政府財政の赤字拡大、高齢化等の新規行政需要への対応、政府への信頼低下、既往の行政システムの制度疲労」などを挙げ、「理論的には新制度は経済学と経営管理学の双方が組み合わさって発展したものといえる」と述べています。
 そして、NPMの「消費者的な市民像」が、「対話・参加型の民主主義に対立し、また、構成への配慮が不足していると当初から指摘されていた」ことを挙げた上で、「必要なのは音楽総監督が公演の際、指揮者の任命(政策)、演奏会での曲目構成(施策と事務事業)、オーケストラの構成(資源の投入・組合せ)、また、観衆の相互作用(社会との関係)、スポンサーの獲得と収支管理(資源の獲得・調達、財務管理)、優秀な演奏者の育成と継続及び施設の確保(人事管理と施設管理)という一連の行為を使命の達成に向けて的確に決定し実施すること(経営モデルの選択と実施)を参照することである」と述べたうえで、「NPMは活用できるが万能ではないから、上手に効果を発揮できる環境に適合した運用をすべき」だと述べています。
 第2章「NPM型改革における『経営』と『政策助言』」では、NPM型の行政改革の新しい管理方式として、
(1)組織内部管理においては、一定の目標を達成すること、また、その達成における効率性の確保に重点が置かれ、手続きの遵守という側面は薄れていく。
(2)独立行政法人と母体となる省庁の間といった組織間関係の重要性が増す
(3)行政資源の使い方に関して、個別のチェックを行うということではなく、総枠で管理するという方向が支配的になる。
(4)次善のチェックから事後のアウトプットに着目する管理方式へ移行する。
(5)「数値による管理」が多用される。
の5つの方向性を挙げています。
 そして、本章における結論として、
(1)NPM型とは対照的な日本の行政システムにおいて「経営」を確立するには、人事、組織編制、予算・会計の各サブシステムにわたるトータルな改革を実施しなければならない。
(2)政府内部における「経営」の確立に向けた改革は、従来の「政策助言」の昨日に基盤を置いたシステムとの間に齟齬を生じさせる可能性がある。
の2点を挙げています。
 第3章「新しい公共経営と人材育成・人事評価」では、「新公共経営の流れ」が、従来からの人材育成システムに再考を求めつつあるとして、
(1)「組織が求める能力」が変容しつつある。
(2)個々の職員の側からの異動希望の声が強くなる。
の2点を挙げた上で、「日本の公務員制度は、NPMをはじめとする劇薬を振り掛けられて、大きな転機に差し掛かっている」と述べています。
 第4章「NPMと評価のインパクト」では、NPMのインパクトとして、「二重の意味で行政管理責任者に組織の『マネジメント』構築を迫ったことにある」として、
(1)行政組織の運営にマネジメントの概念を持っているかを問い、マネジメントの思想を持てと主張する。
(2)NPMの諸主張のなかの一部を採用せよという。
の2点を挙げています。
 そして、後者について、「日本の行政運営で従来聞かれなかった成果主義、顧客主義、組織のフラット化、評価などの導入を主張していること」にインパクトがあると述べています。
 第5章「国における政策評価」では、「政策評価という手段(ツール)は、国の機関において、活用されれば大きな意味のあるものだと考えている」が、「問題はそれが正しく活用されているか否か」だと述べた上で、「本来、政策評価は、施策の妥当性の有無を結論づけるもの」ではなく、「施策導入時に提示された『仮説』を検証し、今後の施策導入時における政策分析の質を高めることにつながる」と述べています。
 そして、政策評価が改革しようとしているものについて、「『外科手術』ではない。むしろ、行政の仕事の進め方を風土、体質から改善する漢方薬のようなもの」だと述べています。
 第6章「公共事業評価」では、「費用便益分析が万能薬ではないということを認識する必要がある。評価として提示される数字の限界を理解していないと、実際に使う段階で大きな失敗をもたらすことになる」として、不確実性下での評価の限界について指摘し、「費用便益分析の限界を認識した上で、公共事業の評価を行う必要がある」と述べています。
 第7章「規制影響評価を日本に定着させるには」では、「規制影響評価(Regulatory Impact Assessment, RIA)」について、「規制を導入したり、改廃したりする際に、代替案も含めて、その規制が社会に与えるプラスとマイナスの影響をできるだけ包括的、かつ定量的に予測して事前に示すことであり、またそうした手続き全体のこと」だと述べています。
 そして、RIAの後発国である日本が、「各国で実施されているRIAの事例、ガイドライン、計算手法などを豊富に参照できる」という「後発の利益を享受」できるにもかかわらず、「質の高いRIAを作成しようとするインセンティブは全くなく、施行段階のRIAにおける定量化や代替案の乏しさにも納得できる」と述べています。
 第8章「地方における政策評価」では、「地方自治体においては、一時期急速に広まった事務事業評価を見直そうという考えや、行政評価導入を保留してその意義について見極めようという考えがあって、政策評価のために人・モノ・カネを積極的に投資するという姿勢はなくなってきているのではないか」と述べ、地方自治体で政策評価の積極的な取り組みが進まない原因として、「支出カット目的の評価」の行き詰まりを挙げています。
 第9章「自治体評価の意義」では、2006年3月に国内の自治体を対象として実施した調査結果をもとに、自治体における行政評価の実像を明らかにするとしています。
 第10章「地方自治体のNPM改革の現状と課題」では、「NPM改革を先取した英国と1990年代後半から一気に取り組みを始めたわが国とどこが異なっているのか、類似するのかを整理することは、わが国の今後のNPM改革の理解のために一定の意義があろう」と述べています。
 第11章「NPMにおいていかなる『責任』を実現するか」では、「わが国で政策評価を導入しようとするところではすべて、アカウンタビリティの実現をその導入目的に掲げていた」理由として、「20世紀末、日本人がアカウンタビリティを『発見した』直後に政策評価が登場したことがその理由であろう」と述べています。
 そして、「政策評価を実施した現場で、多くの課題が出現した原因」として、
(1)政策評価の本質を看過したこと
(2)わが国固有の行政文化の伝統を変えないままで単にテクニックを模倣するアプローチであったこと
(3)ミス・キャストが原因となって発生した4つの勘違い
(4)行政を取り巻く過剰な効率主義、あるいは安易なコスト削減が蔓延したこと
(5)政策評価を導入して行政を現代化する運動が進められた時期に、この運動の意気込みをくじく過誤行政が発生し、それらが悪影響を及ぼしたこと
(6)政策評価が効率化や過誤行政の摘発などすべての病気に即効性を持つ万能薬であると錯覚されたこと
(7)理論の欠如
の7点を挙げています。
 第12章「日本にNPMは定着したか?」では、「NPMが多くの海外の識者の予想に反して急速に広がった、あるいは普及したという意見は多い」が、「これは正しい認識なのか考えてみたい」としています。
 そして、「制度設計そのものが重要なのではなく、NPMが目指した目的が実現されているかどうか、イノベーションによる生産性の向上、顧客主義に基づく業績/成果志向のマネジメントが実践できているかどうか、が本質ではないか」として、「日本型NPMは、制度設計は進んだが、マネジメント・スタイルの実践がなされているとは到底言えない」と指摘しています。
 また、「日本型NPMは『ニュー』であるかどうかという以前に『マネジメント』ではない」と述べています。
 本書は、日本でNPMがどのように受け入れられ、どのように変質していったのかを概括した一冊です。


■ 個人的な視点から

 「NPM」という言葉も業界の流行語としてはすっかり過去のものになった感がありますが、どうして日本で評価ブームが起こったか、とか、日本におけるNPM改革のインパクトとか、NPMの光と影、とかというテーマの研究は、むしろ、これからの方が内容的には充実してくるような気がしますし、これこそがまさに評価の評価でしょう。
 ただし、本として売れるかどうかは定かではありませんが。


■ どんな人にオススメ?

・NPMはブームだったと思う人。


■ 関連しそうな本

 大住莊四郎 『ニュ-・パブリック・マネジメント  理念・ビジョン・戦略』 2005年01月23日
 大住 荘四郎 『パブリック・マネジメント―戦略行政への理論と実践』 2005年05月06日
 大住 荘四郎, 玉村 雅敏, 上山 信一, 永田 潤子 (著) 『日本型NPM―行政の経営改革への挑戦』 2005年04月26日
 上山 信一 『だから、改革は成功する』 2005年11月02日
 福山 嗣朗 『NPM実務の考え方・進め方―効率的・効果的な政策形成・実施・評価改善』 2007年09月21日
 Ewan Ferlie, Lynn Ashburner, Louise Fitzgerald, Andrew Pettigrew 『The New Public Management in Action』


■ 百夜百音

断絶【断絶】 井上陽水 オリジナル盤発売: 1972

 A面の最後の「人生が二度あれば」を聞いていた子供の頃は、自分の親がこの歳になるとは想像もしていませんでしたが、そろそろ陽水自身もこの歳になってきたと思うと感慨深いものがあります。

2008年12月13日 (土)

「小さな政府」の落とし穴―痛みなき財政再建路線は危険だ

■ 書籍情報

「小さな政府」の落とし穴―痛みなき財政再建路線は危険だ   【「小さな政府」の落とし穴―痛みなき財政再建路線は危険だ】(#1423)

  井堀 利宏
  価格: ¥1890 (税込)
  日本経済新聞出版社(2007/08)

 本書は、「単純な『小さな政府万能論』の限界を明示しつつ、また、『大きな政府』の問題点も指摘して、真に効率的で公平な政府規模、財政面からの政府のあるべき姿について、より冷静な議論」を展開していますものです。
 第1章「小さな政府──小泉改革とはなんだったのか」では、「財政再建の量的な数値目標に必ずしもこだわらなかった小泉政権の財政構造改革には、中期的な財政再建という観点で見ると問題点が多い」とした上で、「小泉政権の基本的な方針は、財政赤字を削減すると言うよりは、むしろ『小さな政府』を実現することであった」と述べています。
 そして、「政府の最適規模は、一般に次の4つの視点に関係して決まる」として、
(1)資源配分機能
(2)所得再分配機能
(3)経済活動の安定化機能
(4)商大世代への配慮
の4点を挙げ、「上記の4つの視点から見て、小さな政府を支持する条件が必ずしも成立しているとは思えないという議論もありうる」と述べています。
 また、「政府の目的は、現実には公共のためにその社会の構成員の経済厚生を最大にするという理想主義的なものではなく、利害の異なる各経済主体の対立を反映し、政府を構成する政党(政治家)、官僚などそれぞれ異なった利益集団の妥協の産物であるという考え方」に従うと、「全知全能の政府であっても、行動目的が異なる以上、国民全体から見て望ましい政策を実行しないのは当然である」と述べています。
 さらに、「政府(与党、官僚)が自らの行動をうまく律し切れていないということと、国民が政府の行動を適切に誘導・監視できていないということの二つの意味で、わが国政府のガバナンスには大きな問題がある」と指摘しています。
 第2章「安倍政権の成長戦略――増税なしで大丈夫か」では、安倍政権の基本戦略について、「成長重視の『上げ潮路線』であり、今後の潜在成長率の引き上げを重要な政策目標にしている」が、数十年という長期の視点で考えると、「わが国経済の潜在成長率は2~3%程度の水準を維持するのさえ厳しく、それどころか近い将来、マイナスになる可能性も排除できない」と述べています。
 そして、増税を伴う財政再建の道筋をつけることの利点として、
(1)早めに財政赤字抑制にめどをつけることで、将来世代に対する負担の先送りを回避できる。
(2)財政赤字に歯止めがかかると、税負担と歳出とのリンクがより明快になる。
の2点を挙げています。
 第3章「大きな政府・北欧」では、「大きな政府における公的部門の役割とその負担のあり方」について、論じるとして、「北欧諸国では消費税率25%でも経済活性化の上で特別に障害を感じているわけではないし、不公平感が大きくなっているわけでもない」として、
(1)消費税率25%は、勤労所得税に換算すると20%に相当すること
(2)受益と負担がリンクしていること
などの点を挙げ、「消費税率25%の大きな政府でも、条件さえ整えば、それが最適な政府規模として国民から指示されることは十分にある」うえ、消費税率の引き上げそれ自体は「それほど大きな負担ではない」と述べています。
 第4章「社会保障における政府の役割――受益と負担のリンク」では、「わが国で大きな政府か小さな政府のいずれが望ましいかを議論する場合、財政赤字の累積による将来世代への負担の転化という現状を無視することはできない」が、「わが国では受益と負担のリンクが乏しい」と述べています。
 そして、公債政策について、「将来時点ではなく現在時点で、将来世代から現在世代への世代間再分配を行っていると解釈できる」とした上で、「社会保障が世代間の助け合いとして機能するためには、どの世代も将来高齢者になって需給世代になったときに、自分が過去に払った負担から見て納得できる受益水準でなければならない」として、「政府の社会保障にどれだけの役割を求めるかも、そうした世代間の受益と負担のバランスを取り戻すという観点から検討すべきである」と述べています。
 著者は、「社会保障に対する公と民の役割分担を大幅に見直すことから、受益の給付と費用の負担のあり方をもう一度謙虚に、しかし早急に考え直すべきだ」と主張しています。
 第5章「格差是正と政府の役割」では、「平均的な個人にとってもっとも格差の大きいのは、地域間格差でも個人間格差でもなく、むしろ社会保障制度における受益と負担の面での損得勘定格差(世代間格差)である」ことを指摘し、「この問題は、財政赤字の累増による負担の先送りとも絡んだ大きな論点」だと述べています。
 そして、4つの分野での格差のうち、「わが国での格差是正の議論は、個人間格差と地域間格差に集中しすぎている」として、「同時に、世代間と国際間の格差問題にも注目すべき」だと述べています。
 また、地方分権に関して、「終戦直後の経済社会環境を前提とすれば、理想的な地方分権を推進することには無理があった」として、「その結果、財政面での地方分権は望ましい結果をもたらさなかった」と述べるとともに、「地方分権は、地方政府の財政面での自由度を高めるものでもあるが、それだけでは、地方政府の中央政府の財源へのただ乗り誘因をますます強める結果にもなりかねない」ことを指摘し、「地方間格差の問題は公平性ではなく、むしろ効率性の問題として議論する方が有益である」と述べています。
 さらに、「住民の基本的な税負担と、地域の行政サービスが対応するような制度にしないと、地方財政全体の危機も解決しないし、住民の税負担に納得しないだろう」として、「地方間の再分配政策を抜本的に見直すことも含めて、国と地方の財源のあり方を考えることが重要である」と述べ、「大きな政府と小さな政府のどちらを選好するかは、人によって異なる」が、「いずれの政府を選択しても、税金がより効率的に使用されるべきことに違いはない」と述べています。
 第6章「効率的な政府を実現する」では、公共事業などに見られる歳出の無駄を改革するうえで、
(1)総額の大きさの抑制
(2)受益者負担原則の確立
(3)見直しの方向
(4)省庁間の配分の見直し
の4つの視点が重要であると述べています。
 そして、「今後わが国の財政運営でもっとも求められるのは、財政規律の回復・維持である」として、そのために、「予算制度改革の中で、財政運営の大原則となる厳格なルールを設けることが必要」だと述べています。
 第7章「最適な政府の大きさ」では、「望ましい政府規模についての一つの標準的な考え方」として、「民主主義を信じて政治の選択にゆだねるというもの」を挙げ、「有権者の過半数が支持した政党、政治家が予算編成を行って、財政面からの政府規模を決める以上、実現する政府規模が最適なはずであるという考え方」という正論が適切に機能するには、「それなりの環境整備が不可欠である」と述べています。
 また、本書の議論として、「最適な政府規模を考える上で、財政再建、財政の健全化は不可欠の政策課題である。財政規律が緩んだままで将来世代に負担を先送りしている状況下で、受益面でも負担面でもその最適規模を議論することは無意味である。われわれはなるべく早く政府債務を減らし、財政規律を回復させなければならない」と述べています。
 本書は、とかくイデオロギーが前面に出た議論になりやすい政府の規模の問題について、議論の前提をわかりやすく整理した一冊です。


■ 個人的な視点から

 消費税が25%でも、受益と負担がきちんとリンクしていると不公平感が小さい、というのは政府の大きさにかかわらず、不公平感を生む大きなポイントではないかと思います。
 もしかすると、税制のせいで、税金を負担しているという感覚が少ないからこそ、受益と負担の関係を考えない議論が生まれるのではないでしょうか。
 まして、減税では税金を払っていない人に不公平だから給付金を全員に、というのは、受益と負担のリンクを当然と思っている北欧の国民には正気の沙汰とは思えないのではないかとも思います。


■ どんな人にオススメ?

・「大きな政府」は非効率だと思う人。


■ 関連しそうな本

 土居 丈朗(編著) 『地方分権改革の経済学―「三位一体」の改革から「四位一体」の改革へ』
 赤井 伸郎, 山下 耕治, 佐藤 主光 『地方交付税の経済学―理論・実証に基づく改革』 2005年01月27日
 山田 昌弘 『希望格差社会―「負け組」の絶望感が日本を引き裂く』 2006年01月11日
 神野 直彦 『三位一体改革と地方税財政―到達点と今後の課題』 2007年04月16日
 橘木 俊詔 『アメリカ型不安社会でいいのか―格差・年金・失業・少子化問題への処方せん』 2007年08月02日
 岩田 規久男 『「小さな政府」を問いなおす』


■ 百夜百音

IKZO CHANNEL 441.93【IKZO CHANNEL 441.93】 IKZO オリジナル盤発売: 2008

 ニコニコ動画でいじられまくったおかげですっかりネットでは「IKZO」として新しいポジションを与えられています。それにしても元の曲のインパクトは素晴らしいということもあるでしょう。

『35周年記念アルバム「すべての人にありがとうを~詩の旅へ」』35周年記念アルバム「すべての人にありがとうを~詩の旅へ」

2008年12月12日 (金)

官製ワーキングプアを生んだ公共サービス「改革」

■ 書籍情報

官製ワーキングプアを生んだ公共サービス「改革」   【官製ワーキングプアを生んだ公共サービス「改革」】(#1422)

  城塚 健之
  価格: ¥1995 (税込)
  自治体研究社(2008/08)

 本書は、「格差と貧困の問題をさらに深刻にするだけでなく、公共サービスの質にも影響を及ぼす」、「官製ワーキングプア」が大量に生み出されている状況を促進している、自治体構造改革、公務員制度改革、公務の市場化の進行の理由と、その問題を論じたものです。
 第1章「構造改革の柱としての『小さな政府』」では、「構造改革」を、「この国を多国籍企業奉仕型に変えていくために、政治経済をはじめとする国家社会のあらゆる仕組みをつくりかえていこうというもの」だと定義し、その根底に「新自由主義(ネオリベラリズム)」というイデオロギーがあることが、広く認識されるようになったと述べています。
 そして、わが国における新自由主義が、「開発主義国家」にて期待し、「小泉元首相が『ぶっつぶす』と叫んだ古い自民党」がこの象徴だと述べています。
 また、「地方分権」について、「その事務事業の実施リスクを自治体に押し付けるものであり、国のアウトソーシングに他ならない」と述べています。
 第2章「進行する公務の民間化」では、「小さな政府」かを進める様々な方策である、「ニューパブリックマネジメント」(New Public Management)について、「何か理論的にしっかりしたものがあるわけでもなさそう」で、「行政のコスト削減につながりそうなものを何でもかんでもひっくるめて、NPMと呼んでいるよう」だとし、「行政を民間企業と同様の経営主体とみなし、人件費などのコスト削減を第一の目標におく考え方・イデオロギーという理解でいい」と述べています。
 第3章「内部的民間化としての公務員制度改革」では、公務員制度改革の内容を、「一貫した『小さな政府』使用の公務員制度」だとして、2007年改正国公法が、
(1)能力実績主義の導入
(2)天下り自由化
の二本柱であると述べています。
 そして、「NPMに基づき行政組織のあり方それ自体を変えていくもの」として、
(1)行政評価、財政の枠予算化
(2)事務事業の集中化
などについて論じています。
 第4章「実施部門の外部化(公務の市場化)」では、財界が、公務の自由化を「金儲けの手段にしようと狙って」いるとして、、特に自治体が、「余剰資本の投下先」として、「市場規模が大きいということで魅力的」だと狙われていると述べています。
 そして、企業が参入したがる分野として、
(1)初期投資の要らない安全な参入分野
(2)PFIと結合させて施設設計・建設の段階から関与できれば大きな利潤が期待できる分野
の2つを挙げています。
 第5章「公務市場化の実際」では、2007年に自治労連が弁護団とともに実施した、
(1)愛知県高浜市
(2)京都府京丹後市
(3)広島県安芸高田市
の3つの自治体に対する実態調査の結果を紹介しています。
 そして、内閣府公共サービス改革推進室や総務省の解釈に、「偽装請負に限りなく接近して」くるなど、「多くの問題」があると指摘しています。
 また、「骨太2007」などを受けた独立行政法人の見直しによって、「独法の職員の賃金労働条件は悪化」していることを指摘しています。
 第6章「危機に立つ住民の権利」では、保育所の民営化に関して、「民間に委ねれば安上がりというのは、公務員の保育士よりも民間の保育しの方が人件費が安いということ」に他ならず、「安値競争が続けば、現場は疲弊していき、従前の保育の質が維持」できないと述べています。
 また、学校給食の民営化の帰結として、「1980年代の民営化をきっかけに急坂を転がるように質が落ち」、ファストフード形のメニューが主流となったイギリスの学校給食のショッキングな実態を紹介しています。
 第7章「公務市場化と労働者の権利」では、公務のアウトソーシングの結果、「受託企業では、パート、アルバイト、契約社員、派遣労働者といった有期・非典型・不安定雇用労働者が中心的な担い手となるでしょう」と述べ、「これらは、行政がみずからワーキングプアをつくり出すと言うことで、『官製ワーキングプア』と呼ばれて」いるとしています。
 そして、一部の自治体やNPOなどで使われている「有償ボランティア」が、「就労実態は非常に劣悪で、『官製ワーキングプア』と呼ぶべきケースが多いと思われます」と述べています。
 著者は、「公務が官製ワーキングプアによって担われていけば、これまで蓄積されてきた公務の専門性を維持することは困難」となると指摘しています。
 第8章「公務市場化への対抗軸」では、公務の市場化の弊害として、
(1)人権保障機能の低下
(2)民主的コントロールの低下
(3)労働権(労働者の権利)の軽視
の3点を挙げた上で、「公務の公共性」をどのように守っていくのかを、「住民がみずからの課題として考えることが必要」とした上で、「PPP(Public Private Partnership;公私協働)というお題目」は、「NPMのコロラリーであり、だいたい上から持ち込まれるもので、アウトソーシングを正当化するための方便に過ぎません。そこには民主主義の契機もなく、単なる自治体の責任放棄でしかない場合が多い」と述べています。
 第9章「どう運動を広げていくか」では、「公務の市場化の問題を考えていくと、今日の資本主義の最も根本的な部分を対峙することは避けられません」とした上で、「わが国では知識人躁が新自由主義にあまりにも無警戒で、官僚制度を打破すればバラ色の未来が広がるかのような幻想を抱いて、新自由主義に合流したり、利用されたりという事態が生じました」と述べています。
 本書は、公務の民間化に著者の鋭い視点で切り込んだ一冊です。


■ 個人的な視点から

 本書が、迷いのない切れ味というかすっきりとしているのは、独善的というか、著者のイデオロギーに基づいて一刀両断というか問答無用に断じているところがあるからではないかと思います。
 話の内容が間違っているとかではなく、聞く耳持たない話の進め方に感じたので、この議論に入っていくのは疲れそうです。
 よく講演会などで、質問と称してそれまでの文脈に関係なく自説を長々と披露する人もいますが、イデオロギーの議論をそういうところで始めてしまうときりがないので、講師や司会者の仕切り方が問われる場面ではないかと思います。


■ どんな人にオススメ?

・「公務」は神聖にして侵すべからずと思う人。


■ 関連しそうな本

 布施 哲也 『官製ワーキングプア―自治体の非正規雇用と民間委託』
 NPO法人地方自立政策研究所役割分担明確化研究会 (著), 穂坂 邦夫 『地方自治自立へのシナリオ―国と地方を救う「役割分担明確化」の視点』
 穂坂 邦夫 『自治体再生への挑戦―「健全化」への処方箋』
 上山 信一, 桧森 隆一 『行政の解体と再生』
 上山 信一, 大阪市役所 『行政の経営分析―大阪市の挑戦』
 鎌田 慧 『自律と協働、はたらきがいをもとめて―大阪市現業労働者の60年』 2006年01月18日


■ 百夜百マンガ

まあじゃんほうろうき【まあじゃんほうろうき 】

 名作ギャンブル漫画。強い者同志のバトルも緊張感がありますが、本当にハラハラするのは、ルールも知らないのにプロ雀士と卓を囲んでしまう素人でしょうか。

2008年12月11日 (木)

ヤクザに学ぶ組織論

■ 書籍情報

ヤクザに学ぶ組織論   【ヤクザに学ぶ組織論】(#1421)

  山平 重樹
  価格: ¥714 (税込)
  筑摩書房(2006/01)

 本書は、「あとさきを顧み」ない「直情径行」な行動だというイメージにもかかわらず、「微細にわたる計算と精力的な情報収集に裏付けられ」た集団的な行動をする、「一枚岩のような結束と強靭な組織力を生み出すヤクザの組織論を抽出したもの」です。
 第1章「日本型組織の原型」では、ヤクザ会で、「どの程度の地位、立場にある人間か、貫目・器量を表す言葉」として、「安目」、「高目」という言葉があり、「ヤクザとして生きる以上、『安目』は絶対に『売ってはならない』」ことが、「この世界の鉄則になっている」として、「ヤクザの社会では、いかに『安目』を売らないか――それが組織の盛衰にも関わる基本的な要素にもなっている」と述べています。
 そして、「この世界でも、人を動かすのはやはり心」だとして、「情も思いやりもなく、若い衆をコキ使って虫ケラ同然に扱うような親分には、絶対に若い衆はついていかない」とする一方で、出所したときに本当に「涙を流して」喜んでくれた組長について、「この親父のためなら、俺はいますぐ再び懲役に行ってもいい」と思えたという話を紹介し、「組織力の差というのは、リーダーがどれだけ人を動かせるか否かにかかっている。とりわけ『心』を動かせるかどうかが、その鍵を握っているといっても言い過ぎではなかろう」
と述べています。
 また、「義理場即勢力誇示の場である」として、北海道の某組織が、「テレビ撮影のエキストラ急募。2時間たっているだけで5千円、長髪不可」というチラシで集めた、「喪服に組の腕章を付け、組員になりすました、中学生を含む40数人からのアルバイト要員」が存在したことを紹介しています。
 さらに、昭和30年代の半ばから40年代にかけてマスコミを賑わせた「愚連隊」が、徐々に姿を消していった理由として、「ヤクザの社会に初めて『組織の概念』を持ち込んだとされる山口組が、数の論理に従い、愚連隊を系列組織の中に積極的に吸収して行った」と述べた上で、愚連隊からヤクザの世界に入ったという幹部が、「ヤクザがこれほど大変だとは思わなかった」、「好き勝手ができると思って飛び込んだこの世界だが、会社勤めより苦しいのが現実だ。この調子でサラリーマンをやっていたらどれくらい出世したかと、つくづく思うときがある」と語っていることを紹介しています。
 第2章「山口組はなぜ強いか」では、現在の近代的組織「山口組」を創設した3代目田岡一雄組長について、3代目襲名にあたって自分に課したとされる、
(1)組員各自に正業を持たせること。
(2)信賞必罰による体制の確立。
(3)昭和の「幡隋院長兵衛」(江戸初期の侠客。町奴の頭領として旗本奴と争った)をめざす。
の3つの誓いを挙げ、「田岡一雄という親分の生涯は、すべからくこの3つの誓いの実践に他ならなかった」と述べています。
 そして、「組織というものは、およそピラミッド型が基本には違いない」とした上で、「なぜ山口組が強いのか。それは山口組のピラミッド型が、実に整然とした形を描いているから」であり、「その形は、裾野が大きい『富士山型』のピラミッド組織」で「安定度は極めて高い」と述べています。
 第3章「〈親分〉のリーダーシップ」では、「15年の懲役に行ける若い衆を5人持っていたら、日本一の親分になれる。オレんとこには、そういうのが15人いるよ」と、4代目山口組竹中正久組長が、気を許した関係者に語っていたと紹介し、「いかに竹中4代目が若い衆との間に絶大な信頼関係を築いていたかは、数々の抗争、あるいは山一抗争における竹中組の戦闘ぶりを見れば明らかであろう」と述べています。
 そして、カリスマ性といえば、「この親分を抜きにしては語れまい」として、稲川会の創始者である稲川聖城総裁を挙げ、「稲川総裁という人は若い頃から、バクチの張りっぷり、カネのキレ(気っ風のよさ)、男っぷりとあらゆる面でケタはずれ。それでいて、威張らず、気取らずの自然体。兄貴や親分なんて生涯持ってたまるか──といってた連中でも、つい参ってしまうような男の魅力があった」
とする愚連OBの言葉を紹介し、「強い組織は、まずカリスマ型リーダーの存在があってこそ生まれ、つくられる──というのは、どんな組織にも共通する真理」だと述べています。
 また、平成2年に亡くなった、住吉会の堀政夫総裁について、「正真正銘の任侠人」とした上で、「住吉会という巨大組織をひきい、指導者の一人として堀政夫が生涯貫いたのは、『平和共存、内政不干渉』の鉄則であった」と述べています。
 第4章「組織を強くするブランド戦略」では、「プロの編集者はライターも顔負けの内容のある本格的な」組の機関誌であった極東会の『限りなき前進』を取り上げた上で、これに先駆けて組織機関誌の先鞭を付けた、昭和46年創刊の3代目山口組時代の『山口組時報』を紹介し、「第1次頂上作戦からの立ち直り期」にあり、「組織の再結束」が最重要課題であったとして、 「機関誌の発刊が、山口組にとっていかに意義深いことであったか」と述べています。
 そして、「ヤクザの親分が、私は○○会○○一家の何某ですよと堂々と名のりをあげて、顔を出してマスコミのインタビューを受けたり、雑誌にエッセイを書いたりするなどということは、日本のアウトローだけ」だとして、「ヤクザと役者は一字違い、ともに人気稼業であるということでは同じ」という言葉を紹介しています。
 第5章「勝ち組ヤクザの情報収集術」では、昭和20年代に、「日本一繁華な東京・銀座に、ヤクザによって組織された『私設銀座警察』と称する一団が存在した」ことについて、「この集団こそヤクザの情報収集の巧みさを如実に示すもの」だと述べ、「警察の刑事二課(知能犯担当)でも掴めない、手形パクリ屋、サギ師の連中を洗い出してワルさを暴いていた。債権取り立てや企業乗っ取りグループの追求では『聞き込み』等の情報収集を始め、『捜査』『張り込み』『留置』『取り調べ』など、刑事警察の全過程をすべてやってのけていた」とする証言を紹介しています。
 そして、「昔から勝ち組のヤクザが徹底して行ってきたことが、情報の的確なキャッチということ」であり、「ヤクザの本質は、つきつめれば『戦闘集団』である。戦闘集団にとって、正確な情報はまさに組織の死命を制することになる」と述べています。
 また、終戦直後に、「ヤクザと警察とが"蜜月"の関係だった時期がある」として、「占領当局による旧警察組織の解体と社会的混乱による治安の悪化という状況に対処するため、警察側がヤクザ団体を治安維持の補完勢力として利用した」としたうえで、一般的には「両極に位置する存在」であるヤクザと警察が、「体質的には、これほど似通った組織は他にない」と述べています。
 さらに、「いずれの世界にも、その道の『事情通』というのが存在する」として、「この世界では人脈こそ財産であり、『人脈の凄み』は、とりもなおさず本人の凄みとなる」として、そのためには、「一に熱意、二に金、三に信頼」だと述べ、「ヤクザ社会では人脈をつちかい、それを最大限に活用するすべを身につけた者は、必ずといっていいほど頭角を現している。これは疑いの余地のない事実である」と述べています。
 本書は、ヤクザ社会を取り上げながらも、組織や社会との接し方の本質をついた一冊です。


■ 個人的な視点から

 「組織論」と言われても、なかなかヤクザの組織を我がこととして想像しにくいため、ピンと来ないところがありますが、現在を切り取ったような静態的な組織論と合わせて、キャリアデザインと言うか、長期的な報酬システムについて合わせて分析していくと面白いのではないかと思います。とくに、リクルートから、幹部になれる人となれない人の選抜、そしてキャリア途中で「足を洗う」という退職と、幹部の引退、老後、「お務め」の間や殉職者の遺族の生活保障など、経済的合理性を見出せるかもしれないテーマが山盛りです。
 『ヤバい経済学』のレヴィット先生にでも調べてもらいましょうか。


■ どんな人にオススメ?

・ヤクザは何を考えてるかわからないという人。


■ 関連しそうな本

 スティーヴン・D・レヴィット/スティーヴン・J・ダブナー (著), 望月衛 (翻訳) 『ヤバい経済学』 2008年02月13日
 山平 重樹 『ヤクザに学ぶ伸びる男ダメなヤツ』
 山平 重樹 『ヤクザに学ぶ決断力』
 山平 重樹 『ヤクザに学ぶ交渉術』
 山平 重樹 『ヤクザに学ぶ指導力』
 山平 重樹 『ヤクザに学ぶできる男の条件』


■ 百夜百マンガ

奥 浩哉短編集【奥 浩哉短編集 】

 初期というか赤い糸を手繰る旅に出る受験生の越智総一郎くんが登場する「糸」は、大学1年のときに、船橋の食品コンビナートでの食肉工場のバイトに行った帰り、髪の毛についた肉の匂いを気にしながら総武線の車内でヤンジャンで読んだ記憶があります。
 記憶が鮮明に残っているのは、作品が印象に残ったのか、匂いと一緒に記憶に残ったからなのかはわかりませんが、車窓から見る外の景色がやたらに暗かったのが印象に残っています。

2008年12月10日 (水)

地名の社会学

■ 書籍情報

地名の社会学   【地名の社会学】(#1420)

  今尾 恵介
  価格: ¥1575 (税込)
  角川学芸出版(2008/04)

 本書は、「地名がどのように生まれ、どんな扱いを受けて拡大し、あるいは縮小・消滅を迎えたか、特に近代以降にどのように作られていったかに着目した」ものです。
 第1章「地名はどのように誕生したか」では、地名について、「2人以上の人間に共有される、場所を特定するための固有名詞」だと述べた上で、場所を特定するために、「その土地の際立った特長を表現することになるだろう」として、「自然の地形から生まれた地名は、その特徴が顕著に現れている様子を指していること。また、それらの地名は漢字移入以前の古い時代に名づけられたことが多いので、当て字が多用され、そこで表記される漢字は『音』に対して当てられることが多く、そのためしばしば元の意味とは無関係な字が用いられること」を指摘しています。
 そして、滋賀県守山市にある「浮気(ふけ)町」について、「普通名詞としてはまず『うわき』としか読めず、これを講演などで紹介すると会場の皆さんもニンマリしてしまう」と述べています。
 また、条里制の区画について、「一町四方の『坪』にはナンバリングが施された」として、「所々に残った坪から坪並を復元するのはなかなか難しく、だからこそパズルを解くような面白さがある」として、
・上古(じょうこ)←「十九」から転訛
・甚八←「十八」から転訛
・「ナタ」←「十九」が「十句」に転じ、これを書き写す際に、十→ナ、句→タに書き間違えられた。
などの変化を紹介しています。
 さらに、鉄道マニア以外はなかなか読めない難読駅名の
・「大嵐(おおぞれ)駅」:静岡県浜松市天竜区のJR飯田線
・「大畑(おこば)駅」:熊本県人吉市のJR肥薩線
について、「ソレ・ソリの付く地名は焼畑にちなむ地名」であり、開拓地名の一つである「ソリ・アラシ」の地名が、「焼畑をいうとともに焼畑後地ならびに山の急斜面または崩壊地をも意味する」という解説を紹介するとともに、九州に多い「コバ」も焼畑に由来する地名であると述べています。
 このほか、「日本一長い地名」だった「上土新田下足洗新田川合新田請新田」(あげつちしんでんしもあしあらいしんでんかわいしんでんうけしんでん)という地名を紹介し、現在は静岡市葵区流通センター、牛田、諏訪などになっていると述べています。
 第2章「地名の現場を訪ねて」では、「明治・大正期の地図に『橋地名』が見えない」として、「どうやら小さな町名を合併して新たに誕生したケースが多くを占めているようなのだ」と述べ、「橋地名」は、「圧倒的に昭和の地名」であり、「大半が震災復興事業たけなわの昭和ヒトケタ生まれ」なのだと述べています。
 そして、「バス停には旧地名がよく残る」として、昭和7年までは郡部だった東京23区の「外周部」を、当時の地図を元に訪ね、上目黒の「蛇崩」という地名について、「上目黒の小字名であると同時に、川の名前でもある」として、蛇崩川が、「目黒川の支流で、全長5キロほど。今は暗渠だが、かつては細かく蛇行して三軒茶屋や下馬、中目黒にかけて丘陵地や浅い谷を穿っていた」として、蛇の付く地名は「どうも水の流れに関連するものが多い印象がある」と述べ、「クズレというのは激しい蛇行で崩れる川辺の状態を表しているのかもしれない」と述べています。
 また、神泉駅の近くで見かけた「東京府荏原郡目黒町上目黒五××番地」という表札のある門柱について、門柱の上部が空襲のため黒ずんでおり、「風雪に耐えて今日まで残った歴史の証人である」と述べています。
 第3章「地名の階層」では、廃藩置県直後の「県」は、「ほぼ各藩領や天領をそれぞれ『県』という名に置き換えたものに過ぎなかったため飛び地が極めて多く、近代国家として、の行政区画としては現実的でなかった」として、江戸周辺の各藩の飛び地としては、現在の世田谷区内には彦根藩領が16村にわたって点在しており、「これが明治に入って旗本領・天領は品川県、彦根藩領は彦根県(本体は現在の滋賀県の前身)となったのだからモザイク状態もいいところ」だと述べています。
 また、「昔から受け継がれてきた小地名は、その地のかつての農業の方法や、たとえば鑪(たたら)製鉄や鉱山の様子、宗教行事や墓制など、様々な過去の人間の営みの実像を探るためのカギとなる貴重なものなのだが、地租改正に際しての字の統廃合により、残念ながらこれらが大幅に失われたところも多かった」として、民俗学者の柳田國男が、『地名の研究』のなかで、「歴史の長い小地名がどんどん失われることに危惧を覚え」、明治17年前後に内務省が全国の小字を網羅的に集めた『郡村誌』の地名集について、「文明史の材料を包含している」非常に貴重なものだと訴えたが、東京帝国大学の図書館に保存されていたこの貴重な資料が関東大震災で焼失してしまったと述べています。
 そして、明治以降、「不動産登記の番号である地番を住居表示に『代用』したため」、「高度成長期の急激な市街化により人口が膨張した都市の周辺部の地番の錯雑は顕著だった」として、「従来の地番表示とは別立てで住所を表示する」、「住居表示」が登場したが、「あくまで『道路に囲まれた街区』にこだわったため、特に城下町など同じ通りの両側が同じ町内で、背中合わせに隣の町が接しているという構造の町に導入する場合、町の境界を家の背後から道路にずらさなければならず、それを機に統合・廃止される町名が続出したのが問題なのである」と述べています。
 第4章「市町村名の由来」では、明治の大合併の際に、「新村名をどうするかは難航したケース」が多かったため、内務省が、「大町村と小町村が合併する場合は大町村の名をとり、優劣つけがたい場合は各村の頭文字を並べて折衷するなど調整してうまくやるように、また、歴史上著名な地名については大小にかかわらずなるべく保存せよ」という訓令を出していることを紹介しています。
 そして、「合併市町村の文字を合成」した例として、明治22年に合併した、有力3村の「谷津・久々田・鷺沼」から1文字ずつ取った「津田沼村」(現習志野市)や、「連称地名」の例として、「海士村」と「有木村を合併による「海士有木(あまありき)村」(現市原市)、「合併村数」の例として、13の村が合併したことにちなみ「13→トミ→富」と好字を当てた「富里村」(現富里市)などを紹介しています。
 第5章「駅名を分析する」では、鉄道の駅名に、「地名をつける思想の原点ともいうべきものが濃厚に表現されていることが感じられる」として、「行政地名より改変の手続きが容易であることもあり、地名への『思い』が詰まった駅名のあり方を考えることにより、現代地名の本質がはっきりと浮かび上がってくるのではないだろうか」と述べています。
 そして、東京の始発駅を「東京駅」としなかった理由として、欧米の大都市の鉄道ターミナルが、
・ロンドン→キングズクロス駅
・パリ→リヨン駅、サンラザール駅など
のように、都市名そのものをつけない慣習に合わせたのではないかと述べています。
 また、「駅名は所在地の名を付けるもの」と漠然と思われているような「駅名と所在地の地名が異なると『何か事情があったのでは』と考える向きも多いようだ」が、「所在地と駅名は食い違って当たり前」だとして、「駅に最も近い有力集落」が駅名になっただけだと述べています。
 同様に、国際線レベルでも、「首都から非常に遠い空港として世界的に有名」な成田空港が、「新東京国際空港」を名乗っていたことについて、「飛行機の乗客は2万5000分の1ではなく、数千万分の1の『地球儀の縮尺』で世界を眺め、また旅行している」と述べています。
 さらに、駅名の変更には「億単位のカネ」がかかるにもかかわらず、駅名を変える理由として、
(1)地名の変更(合併、市制施行、町名・大字の変更等)
(2)施設の新設・改称・廃止
(3)鉄道会社名の変更(冠称の変更)
(4)観光など集客促進
(5)宅地開発(鉄道会社のニュータウン開発など)
(6)防諜など戦時の特殊事情
の6点を挙げています。
 第6章「地名崩壊の時代を迎えて」では、「明治─昭和─平成という大合併の節目ごとに新しい地名が大量に生み出され、次の合併で弊履のように捨てられ、これに変わって再び大量の新地名が世に溢れるという構図が明治の町村制施行以来ずっと繰り返されている」として、いずれ、日本地図は、「歴史的根拠を持たず、当たり障りのない流行に影響」された「根無し草地名」で埋まってしまうのではないかと述べています。
 著者は、「これ以上歴史的地名を闇に葬らないための措置」として、自治体の名称決定について、
(1)必ず歴史的地名を選ぶ
(2)中心都市の名を選ぶ
(3)地名の本来の守備範囲を維持する
(4)安易に仮名を使わない
(5)東西南北や中央は使わない
の5点を提案しています。
 本書は、消え去ってしまう危機にさらされている日本の地名の現状を、背景となる歴史とともに解説した一冊です。


■ 個人的な視点から

 地名には、脈々と続き歴史を背負った「縦」の線と、ダイナミックに伸び縮みするように変わる土地利用や繁栄と衰退といった「横」の線とが、複雑に入り混じったようなもののように感じます。本書は、「横」の動きに翻弄されて切れそうになっている「縦」の線の重要性を特に訴えたものですが、こちらを強調しすぎると「横」の動きの実態と合わなくなります。このあたりの落とし所というのがどこかにあるのではないかと思いますが、海外も含めてそういうのを研究したら面白いのではないかと思います。


■ どんな人にオススメ?

・今ある地名は、昔も未来も同じだと思っている人。


■ 関連しそうな本

 今尾 恵介 『住所と地名の大研究』 2006年07月06日
 今尾 恵介 『日本地図のたのしみ』
 谷川 健一 『日本の地名』 2005年07月10日
 今尾 恵介 『地図で歩く路面電車の街』 2006年08月20日
 片岡 正人 『市町村合併で「地名」を殺すな』
 西中 真二郎 『市町村盛衰記―データが語る「日本の姿」』 2008年02月05日


■ 百夜百マンガ

しゅごキャラ!【しゅごキャラ! 】

 子供たちが大好きな作品。娘の友達もハロウィンのときにコスプレしてました。支持率急落中のローゼン閣下も読まれているのでしょうか。

2008年12月 9日 (火)

ウィキペディア革命―そこで何が起きているのか?

■ 書籍情報

ウィキペディア革命―そこで何が起きているのか?   【ウィキペディア革命―そこで何が起きているのか?】(#1419)

  ピエール アスリーヌ, フロランス オクリ, ベアトリス ロマン=アマ, デルフィーヌ スーラ, ピエール グルデン (著), 佐々木 勉 (翻訳)
  価格: ¥1785 (税込)
  岩波書店(2008/07)

 本書は、「根本的に『知識とは何か』を扱っ」たものです。著者は、「我々の知識はその獲得、蓄積、敬称に尽力した先人のおかげである。我々は受け継いだ遺産をよりよい形で将来に継承していかなければならないそれには過去と未来に対する経緯の姿勢が必要だ」として、「我々はウィキペディアを携えて、その姿勢を考えなければならない」と述べています。
 序「情報ソースに何が起きているのか」では、「ウィキペディアが情報ソースに当たるべしというルールをやがてだめにしていくかもしれない」として、「情報ソースに当たることは歴史、科学、ジャーナリズム、そしてあらゆる研究の基礎である」が、「ウィキペディアは情報ソースを間引くようにして、この視点を省く」と指摘しています。
 そして、ウィキペディアについて、「この百科事典には、その誕生からあらゆる社会現象がそのメンタリティの中に根を張り巡らせてきた。それが存在する以上、我々はそれを携えて行くしかない。このツールを無視するのではなく、反権力という我々の批判的精神を作用させることで、行き過ぎを抑えたいだけである」と述べています。
 著者は、「世界の人びとが今、目を覚まさなければ、『どうやって知識を得ていたのか』という質問にさえ答えられる者のいない日がやってくるのかもしれない」と述べています。
 第1章「動揺する教育現場」では、「世界中の教師たちにとって、ウィキペディアは厄介なものとなっている」とした上で、ウィキペディアについて、「人類の知識の集大成を、各自が望む言語で、思うままに変更、翻案、再利用、再配布ができるようなライセンスで、この星のすべての人に思う存分に提供すること」を使命とした、「信奉者が数百万人を数える巨大なプロジェクトだ」と述べています。
 そして、「コピー&ペースト、誤った情報の利用」という問題が、「ウィキペディアによる発展と普及によって、西洋諸国すべての教育制度に影響を与えている」として、「オンライン百科事典は教育現場において無視し得ない役割を演じている」と述べています。
 著者は、「ウィキペディアは品質改善に毎日苦慮し、記事に現れる間違いや荒らし行為を抑えるため、複数のプロジェクトを進めている」として、「ウィキペディアがなくなるのを希望するより、むしろ現実的に、品質改善を考えたほうがいいだろう」と述べています。
 第2章「判定の判断──ネイチャー誌調査の真実」では、2005年11月に雑誌『ネイチャー』が、ウィキペディアを、「百科事典ブリタニカと同じくらいに価値ある情報源である」とする調査結果を発表したことについて、その調査が、「ウィキペディアから見てもブリタニカから見ても、いい加減だった」として、「それだけにその結果が的確に引用されないのは問題である」と述べています。
 第3章「ウィキペディアの裏側」では、「ウィキペディアの拡大を可能とする匿名性がむしろ仇となって、一部の利用者は創設者の求める中立性をないがしろにするかもしれない」ことから、この協力型百科事典が、「管理者という補完的な防御策を講じた」と解説しています。
 第4章「間違い、改ざん、虚偽」では、「ウィキペディアは情報(そしてその真偽)があまりにもしばしば被害者や加害者の手の届かないところにいってしまうほど、非常に速くまた勝手に完結される」として、「ここでの問題は、この百科事典が素人によって作成されているということではなく、専門家がそこに参加するのを拒否しているというほうにある」と述べています。
 第6章「ディドロはウィキペディアの先駆者?」では、「多くの大学人、歴史家、メディア専門家がウィキペディアを非難するのは、人間の仕事である以上しょうがない間違いのためではなく、明確に体系化された原則そして透明性のある目録がないためである」と述べた上で、「知識についての階層性のなさは重要な知識を粗末にする」として、「知識を体系化する方法は一つの空間を作り出すことにかかって」いるにもかかわらず、「その点で蓄積的なオンライン百科事典の発送は百科事典の哲学に反している」とする指摘を紹介しています。
 第7章「ウィキペディアの賢い利用法」では、ウィキペディアを賢く利用するためには、
(1)すぐに利用できる情報を検索し増大する情報量を確認する方法
(2)どんな場合にも百科事典の網羅性が十分でないため、情報を深め、個人的な考察を組み上げる方法
の2つに利用法を区別することだと述べています。
 本書は、ウィキペディアを何気なく利用している間に自分に起こっているかもしれない変化を自覚させてくれるかもしれない一冊です。


■ 個人的な視点から

 昔は、「テレビばっかり見ていると、今に尻尾が生えてくる」と言われたものですが、ケータイが他者とのコミュニケーションの距離感のあり方を変えてしまったように、知識とのつきあい方、接し方をいつの間にか変えてしまっているのがウィキペディアなのかもしれません。
 ところで、ケータイからウィキペディアを使っている人は結構多いものなのでしょうか。


■ どんな人にオススメ?

・自分は知識に正しく接していると思っている人。


■ 関連しそうな本

 山本 まさき, 古田 雄介 『ウィキペディアで何が起こっているのか―変わり始めるソーシャルメディア信仰』 2008年07月11日
 アンドリュー・キーン (著), 田中 じゅん (翻訳) 『グーグルとウィキペディアとYouTubeに未来はあるのか?―Web2.0によって世界を狂わすシリコンバレーのユートピアンたち』
 吉沢 英明 『Wikipedia ウィキペディア 完全活用ガイド』
 ジェームズ・スロウィッキー 『「みんなの意見」は案外正しい』 2006年08月29日
 デビッド・ワインバーガー (著), 柏野 零 (翻訳) 『インターネットはいかに知の秩序を変えるか? - デジタルの無秩序がもつ力』
 ランダル ストロス (著), 吉田 晋治 (翻訳) 『プラネット・グーグル』


■ 百夜百マンガ

14歳【14歳 】

 14歳といっても多分エヴァとはあまり関係ないと思いますが、当時は、チキン・ジョージが怖かったです。大人になって分かったのは、チキン・ジョージよりも、「私の知能が足りないと思っている人間はその事実をまだ甘くみている」という恐ろしい台詞を口にするジョージのほうが怖いということです。

2008年12月 8日 (月)

2階で子どもを走らせるなっ!

■ 書籍情報

2階で子どもを走らせるなっ!   【2階で子どもを走らせるなっ!】(#1418)

  橋本典久
  価格: ¥777 (税込)
  光文社(2008/7/17)

 本書は、「トラブルの解決に不可欠な仲介者というものを通して、トラブルの本質を考え、トラブルの本当の解決を探ろう」とする「近隣トラブルの話」です。
 プロローグ「ある日、機内にて」では、「音の感じ方は主観的」という「呑気な評価では済まされない憂うべき状況」が訪れているとして、「騒音だけの話ではない。自己の感覚領域への侵入に対する過敏な反応、過剰な防衛、そして相手への過激な攻撃、日本人のメンタリティにすでに後戻りできない大きな地殻変動が生じてしまっている」と述べています。
 第1章「子どもは走らないようにしつけなさい!?」では、集合住宅の上階の居住者に対し、「夜間、深夜は、長男をしつけるなど住まい方を工夫し、誠意ある対応を行うのが当然」とした平成19年10月の判決を紹介した上で、判決理由の中で、被告が、「原告から再三にわたり注意や要請を受けたにもかかわらず、いっこうに改善する意思を見せなかった」だけではなく、判決の1年前からマンションを退去し、「陳述書を提出することもなく、口頭弁論にも出頭せずに裁判は決着した」として、「判決では被告に対する懲罰的な意味合いも含めた判決が下された」と解説し、「集合住宅における子どものしつけだけが争点になった判決というわけではなく、近隣トラブルの解決に対する誠実さの欠如がもっとも決め手になっている」と述べています。
 そして、子どもの遊ぶ声がうるさいという理由で公園の噴水の使用が停止された裁判所の決定について、「今回のこの子どもの遊び声は、騒音ではなく、"煩音(ハンオン)"」であるとして、「騒音」も「煩音」もともに、「不快に感じる音、聞きたくない音」であるが、「騒音の場合にはその前に『生理的に』が付き、煩音の場合には『心理的に』が付く」と解説し、「この種のトラブルの多くは近隣騒音問題というより、むしろ近隣煩音問題である。すなわち、当事者同士の心理的な軋轢が原因である場合が多い」ため、「裁判などにより決着をつけても根本的な解決にはならない」と述べています。
 著者は、「典型7公害」に挙げられている、大気汚染・水質汚濁・土壌汚染・地盤沈下・悪臭・振動・騒音のうち、「大気や水質、土壌などは、汚染物質による被害であり、いったん汚染されると容易には現状復帰ができないものであり、『物質公害』と呼ばれる」のに対して、「悪臭や振動、騒音というものは、発生源による感覚的な被害であり、発生源がなくなれば感覚的にも消えてなくなるもの」であり、「感情公害」と呼ばれると解説しています。
 そして、「近隣トラブルは、一部の短気で協調性のない人たちだけが起すものなどと考えてはいけない。闘争は人間の本能であり、誰にでも起こる可能性はある」と述べています。
 第2章「目には目を、近隣トラブルには規制と罰則を?」では、犬の鳴き声に関して、「欧米諸国ではおおむね犬の鳴き声は厳しく規制されている。これらの法規制の根拠は、犬はもともとムダ吠えする動物ではなく、これを起こさせるのは飼い主の怠慢、管理放棄だという認識」があるとした上で、日本と欧米の相違の理由として、「犬との関わりの歴史的な相違」を挙げています。
 また、米国の近隣紛争処理の社会システムとして、その中心となっている「NJC、ネイバーフッド・ジャスティス・センター(Neighborhood Justice Center)」について、「裁判所に代わる紛争処理機関として、1977年に米国司法省が試験的に設立した機関」であり、「調停に基づく紛争処理システム」についての模索の結果できあがったものであると解説し、米国式現代調停が、「当事者がお互い少しずつ画面をして解決策を受け入れるというフィフティ・フィフティ(fifty-fifty)の解決ではなく、両者がともに満足できる解決策」である「ウイン・ウイン・リゾリューション(win-win resolution)」をめざしていると述べています。
 そして、調停の技法として、
・パラフレイジング:調停者の主観を入れずに、当事者が語った言葉を別の表現で言い換えること。
・リフレイミング:当事者が語ったことを、調停者の理解を元に別の表現で言い換えること。
などの調停の技法を紹介し、「米国式現代調停というのは、日本と同じ調停、ミディエーション(mediation)という言葉を使っていますが、その中身は、全く異なるプロセスだといってもいい」と述べています。
 著者は、「近隣トラブルは、当事者が話し合わないと決して解決しないんですが、その話し合うというもっとも基本的な部分が欠落しているのですから、解決など望むべくも」ないとしています。
 また、日本にNJCができた場合の効果、効用として、
(1)法廷事案の減少による社会コストの削減
(2)退職者などの社会活動の促進
(3)市民の行政依存意識からの脱却
の3点を挙げています。
 第4章「トラブルの背景に潜む不安感と孤独感」では、「カクテルパーティのような多数の話し手がいる騒々しい環境でも、聞きたいと思う話し手の声に着目して選択的に音声を聞き取ることができるという聴覚能力」である、「カクテルパーティ効果」について、「着目したい音響パターンのみを認識して、他のパターンを無視できる農のパターン認識の一つと捉えられている」が、「このような感覚フィルター機能に障害が起きてフィルター効果が低下」すると、「これまで篩いにかけられ聞き流していた騒音が、気になって仕方がないという状態になるのではないか」として、「音耐力減退症」ともいえる病理的な原因の可能性を挙げています。
 第5章「【解決編】ウイン・ウインの結論を導くには」では、「近隣トラブルは法規制だけで解決するもの」ではなく、「トラブル解決の基本は話し合うこと」であり、「話し合いの中から解決策が見つかり、そして、どんな場合にも解決策は存在」するが、「解決のための話し合いには、そのためのシステムとプロセスが必要」だと述べています。
 エピローグ「感情公害だからこそ」では、「公害とは社会問題の代名詞である。近隣トラブルも、今や社会的なひろがりを持った深遠な問題、すなわち公害と化している」とした上で、「紛争の原因は、聴覚や嗅覚の感覚的なストレスではなく、その背後にある感情的な確執であり、その根本に社会全体のメンタリティの変化がある」と述べ、「せめて確執や軋轢を解消するための社会システムは用意しておかなければならない」と述べています。
 本書は、誰もがその当事者、被害者にも加害者にもなるかもしれない「感情公害」問題とその解決のためのシステムを提示してくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 子供の頃、集合住宅に住んだことがない人は、家の中でもかかとをついてドカドカ歩くので、わかる人にはすぐ分かるそうです。私も30歳で初めて2階に住んでよく怒られました。


■ どんな人にオススメ?

・自分は公害の加害者にはならないと思う人。


■ 関連しそうな本

 橋本 典久 『近所がうるさい!―騒音トラブルの恐怖』
 高橋 裕次郎 『すぐに役立つ近隣トラブル解決の法律―しくみと手続き』
 一宮 亮一 『これでわかる静音化対策―騒音に応じて最適方法を選ぶ』
 山田 伸志 『トコトンやさしい振動・騒音の本』


■ 百夜百マンガ

7年目のセキララ結婚生活【7年目のセキララ結婚生活 】

 結婚までや新婚生活をセキララに描いて人気を得ましたが、7年経っても面白いのは単にセキララに描けばいいというのではなく、観察眼がポイントなのでしょうか。

2008年12月 7日 (日)

紛争の戦略―ゲーム理論のエッセンス

■ 書籍情報

紛争の戦略―ゲーム理論のエッセンス   【紛争の戦略―ゲーム理論のエッセンス】(#1417)

  トーマス・シェリング (著), 河野 勝 (翻訳)
  価格: ¥3990 (税込)
  勁草書房(2008/3/25)

 本書は、「ゲーム理論的な概念や枠組みを用いて、戦略的意思決定に関するさまざまな問題を解き明かした古典的名著」であり、冷戦時代にあって、「核抑止、限定戦争、奇襲攻撃といったなまなましい国際政治上の問題をどのように体系的に突き詰めて分析すべきかを示した」ものです。
 第1章「国際戦略という遅れた科学」では、「紛争」の理論について、
(1)紛争を病的な国家が起こすものとして捉え、その病原と治療法を明らかにしようとする立場
(2)紛争をごく自然なものとして捉え、それに関連する行動を明らかにしようとする立場
の2つに分けた上で、後者について、
(a)紛争当事者を取り巻くすべての複雑性に目を向けた上で、彼らの行動を明らかにしていこうとする立場
(b)紛争当事者の合理的、意識的、そして計算された行動に焦点を当てる立場
の2つに分けています。
 そして、紛争に関する「理論」の構築が必要とされている領域の大きさが伺われるとして、「ゲーム理論、組織論、コミュニケーション理論、証拠論、選択論、集合決定論を混ぜ合わせたような何かであろう」と述べた上で、
(1)「紛争の戦略」と聞くと何か冷血菜ものを思い浮かべてしまうかもしれないが、この理論は暴力の効率的な行使やその種の議論に組するものではなく、他者の行動に自分の行動を依存させることについての理論なのだ。
(2)この理論は対立する利益のどちらか一方だけを扱うものではない。潜在的な敵と潜在的な友のどちらにも等しく適用されるのである。
を強調すべきだと述べています。
 第2章「交渉について」では、「交渉を分析する上での戦術的なアプローチを提示する」として、「明示的な交渉と暗黙的な交渉の両方」が対象になると述べています。
 「交渉力」、「交渉上の強み」、「交渉技術」という言葉が、「力のあるもの、強いもの、または技術に長けているものが有利な立場に立つことを示唆している」が、「もしそれらが、より知的で、より議論の技術に優れ、より多くの財政的資源、物理的な力、軍事能力、損失への免疫力を持つことが、こう症状の立場を有利にするということを意味するならば決してない。むしろ、それらはしばしば反対の価値を持つこともある」と述べています。
 そして、「もし拘束的な世論を作り出すことができ、それが相手に明らかになるならば、最初にとった立場を目に見える形で『最終』的なものにすることができる」等の例を挙げ、こうした例が、
(1)明らかにそれらは、コミットメントを作り出すだけではなく、そのことを相手に説得的な形で伝えることに依存している。
(2)コミットメントを作り出すことは決して簡単ではなく、ましてやコミットメントの強さはどちらの当事者にとっても完全に明らかではない。
(3)当事者のどちらも同じような行動をとることができる
(4)たとえ当事者のどちらにも利用可能であったとしても、コミットメントの可能性は決して同じではない。
(5)それらはすべて、交渉の行き詰まりや破たんの可能性を生み出してしまう危険性を持っている。
などの共通した特徴をもっていると述べています。
 また、コミットメントに関して、「信憑性を最大化するためには、脅しを実行する際に判断や裁量の余地を可能な限り狭めておくことが必要となる」と述べています。
 第3章「交渉、コミュニケーション、限定戦争」では、「限定戦争は制限を必要とする。また、戦争になる一歩手前で安定するためには、戦略的な作戦行動も制限を必要とする」とした上で、「暗黙の交渉──つまりコミュニケーションが不完全または不可能な場合に行われる交渉──についての研究は、限定戦争との関係において重要性を帯びてくる」と述べています。
 そして、「多くの交渉的状況には、合意できないならば譲歩しようと各当事者が望む、実現可能な結果がある一定の幅を持って存在している」として、「そのような状況では、すくなくとも当事者の一方もしくは双方ともが、ある結果に関する合意を実現するために、その結果へ向かって譲歩しようとする意思を持っており、かつ、しばしば相手もそのことを知っている」と述べています。
 また、「暗黙の交渉と限定戦争」に関して、「重要な結論」として、
(1)暗黙の合意、または部分的・場当たり的な交渉を通じて到達された合意は、その他のものとは質的に区別され、そしてただの程度論には還元されないような条件を必要とする。
(2)不完全なコミュニケーションの下で合意に達しなければならない場合、状況それ自体が結果に対して大きな制約要因となることを当事者は受け入れなければならない。
の2点を挙げています。
 第4章「相互依存的な意思決定の理論に向けて」では、伝統的なゲーム理論が、「非ゼロサムゲームといわれる相互依存ゲームに対しても、ゼロサムゲームにうまく適用できた概念や方法を用いてその純粋な対立の戦略を分析しようとしてきた」が、著者は、ゼロサムゲームを特殊なケースとみなし、
(1)相互に調和的な期待の形成における認知的及び暗示的な要素を特定化する。
(2)実際の戦略ゲームにおいてとられる基本的な「行動」とその行動を導く構造的な要因を明らかにする。
の2つの方向に拡大するとしています。
 そして、「ゼロサムゲームが純粋紛争というひとつの特殊なケース」だとして、その対極に、「ゲームの帰結に関して、プレイヤーが一緒に勝ったり負けたりするという意味で同一の選好をもつ『純粋協調』ゲームと呼ぶことができる」と述べています。
 また、「対立関係と相互依存関係とをともに含むような混合ゲーム」について、「戦争やスト、交渉などの複雑な状況においては、プレイヤー間の関係は、さらにあいまいな用語と必要とする」として、「これらの混合ゲームを交渉ゲームもしくは混合動機ゲームと名づけて、その本質を捉えることにしたい」と述べています。
 さらに、「交渉ゲームとは純粋なコミュニケーションを繰り返すことによって合意を成立させるゲームではない。それは、お互いの妥結点を模索する、動的な過程なのである」と述べています。
 第5章「強制、コミュニケーション、戦略的行動」では、「ゲーム理論の枠組みの中で検討されるべき、典型的な行動や構造的要素のいくつかを提示する。その中には、『脅し』、『約束』、『コミュニケーションの破壊』、『決定の委任』などといった行動や、コミュニケーション、強制のための規定といった構造的要素が含まれる」としています。
 そして、「この種のゲームにおいて自分を何かにコミットすることで得る力は、『先手』を取ることに等しい」とする一方で、「脅しは、自分の行動パターンを相手の出方次第で決めるという意味において、コミットメントとは異なる」として、「脅しは後手のための戦略へのコミットメントなのである」と述べています。
 また、人質という考えについて、「論理的には、大国間の軍縮協定が防衛兵器や防衛のための枠組みに関連している場合にその効果が大きくなる」という考えに等しいとして、「防衛能力を削減することは、実質的には、国民全体を相手国の物理的な所有物とすることなしに人質化することである」と述べています。
 著者は、
「戦略ゲームの本質が、相手が何をするかに関する予測に基づいて自らの最適な行動をとること」にあるならば、「戦略的行動」を、「自分がどう行動するかに関する相手の予測に影響を与えることによって、自分自身の利益になるよう相手の行動を左右すること」だと定義するのが便利だとしています。
 第6章「ゲーム理論と実験」では、ここまでの議論が、「交渉ゲームの研究に適した方法論に関わるいくつかの結論を提示している」として、
(1)利得関数に関する数理分析が交渉ゲームの分析においては絶対的な位置を占めるべきではないこと。
(2)より一般的には、過度の抽象化は危険だ、ということ。
(3)混合動機ゲームに関する研究の幾つかの本質的な部分は実証的でなければならないということ。
の3点を挙げています。
 第7章「約束と脅しのランダム化」では、「脅しをかけること自体にコストがかかり、大きな脅しをかけるほうが小さな脅しをかけるよりも大きなコストがかかるならば、脅しの大きさが問題となる」と述べた上で、「失敗するリスクがあると、過度な脅しを穏健な脅しにとって代えようとするインセンティヴが生まれてくる」と述べています。
 第8章「偶然性に委ねられた脅し」では、「戦略的な脅しの典型的な特徴は、脅しがうまくいかず実行されると、その懲罰的な行動によって当事者双方が痛みやコストを負ってしまう点にある」と述べ、「目的は、事前に抑止することであって、事後的に復習することではない。脅しに信憑性を付与するためには、脅しを実行しなければならないこと、またはそうするインセンティヴが自分にあることもしくは実行しなければ懲罰が自分に科せられるので、そうせざるを得ないことを証明しなければならない」と述べています。
 そして、「この脅しにとって重要なことは、脅された者が従わなかった場合に脅しを実行するかどうかは別として、脅す側に最終決定件が完全に委ねられていない点」であり、「実行するかどうか自分にもわからない」タイプの脅しだと述べています。
 また、「攻撃を抑止しようとする場合に、なぜ全面戦争の脅しでなく限定戦争の脅しをかけるのか」の理由として、
(1)限定戦争の脅しは、全面戦争の確実性ではなく、全面戦争が起こるかもしれないというそのリスクを脅しに用いるため大規模報復の脅しよりも脅威の低い脅しである。
(2)限定戦争の脅しが持つ中間的な性格は、敵がこちらの意図やコミットメントを謝って解釈した場合に、その長所を発揮する。
(3)敵が非合理的または衝動的であったり、我々が敵の動機やコミットメントを誤って解釈したり、敵の攻撃的な行動が停止できないまでに勢いづいてしまったり、敵の行動がコントロールの及ばない傀儡政権や衛星国によって遂行されたりする場合、確実性で脅すよりはリスクで脅したほうが思慮深い決定であるとも考えられる。
 第9章「奇襲攻撃の相互的恐怖」では、「相手の恐怖心に対する恐怖心が相互に奇襲攻撃の可能性を『乗数』的に増やしていく、という直感的な考えを分析していく」としています。
 第10章「奇襲攻撃と軍縮」では、「どちらの側も相手を壊滅することができる恐怖の均衡と、どちらが先制攻撃をしようとも両者とも相手を壊滅することのできる恐怖の均衡とは異なる」として、「相互の抑止を成り立たせているのは、『均衡』──単なる均衡とか対象とかという意味の──ではなく、均衡の安定性である」と指摘しています。
 本書は、現代の経済学の教科書として読もうとすると物足りないかもしれませんが、米ソが正面から対立していた冷戦時代を想像しながら読むと相当の臨場感を持った一冊です。


■ 個人的な視点から

 軍事問題をゲーム理論で説明する話は多くの教科書に登場しますが、これだけ生々しいのはなかなかないと思います。
 今現在、「ソ連との限定核戦争」という話を聞いてもピンと来ませんが、そういうことが現実的に危惧されていた時代にこれだけずばっとものが言えるのはたいしたものだと思います。


■ どんな人にオススメ?

・紛争とは武器を使うことではないと思う人。


■ 関連しそうな本

 マックス H・ベイザーマン (著), マーガレット A・ニール (著), 奥村 哲史 『マネジャーのための交渉の認知心理学―戦略的思考の処方箋』 2005年07月04日
 ロバート・B・チャルディーニ (著), 社会行動研究会 『影響力の武器―なぜ、人は動かされるのか』 2006年02月16日
 榊 博文 『説得と影響―交渉のための社会心理学』 2006年02月23日
 フランク・ベトガー (著), 土屋 健 『私はどうして販売外交に成功したか』 2006年11月17日
 印南 一路 『ビジネス交渉と意思決定―脱"あいまいさ"の戦略思考』 2005年6月28日
 鈴木 有香 (著), 八代 京子(監修) 『交渉とミディエーション―協調的問題解決のためのコミュニケーション』 2005年09月30日


■ 百夜百音

およげ!たいやきくん【およげ!たいやきくん】 子門真人 オリジナル盤発売: 1975

 自分は所詮はタイヤキだと思う人は、こういう歌を聞くと悲しくなるかもしれません。

2008年12月 6日 (土)

自己評価の心理学―なぜあの人は自分に自信があるのか

strong>■ 書籍情報

自己評価の心理学―なぜあの人は自分に自信があるのか   【自己評価の心理学―なぜあの人は自分に自信があるのか】(#1416)

  クリストフ アンドレ, フランソワ ルロール (著), 高野 優 (翻訳)
  価格: ¥2310 (税込)
  紀伊國屋書店(2000/09)

 本書は、「日常生活の些細な出来事から人生における重大な選択まで、性別や年齢を問わず、あらゆる状況に関係」する「自己評価」という言葉をキーワードに「重要な示唆を与えてくれる」ものです。
 第1章「自己評価の三つの柱」では、「自己評価が肯定的なものであれば、私たちは比較的安定した気分で過し、物事を積極的に行ったり、困難にも勇気を持って立ち向かうことができる」反面、「自己評価が否定的なものであれば、私たちは不安を感じ、日常生活の中でもうまくいかないことが多くなる」と述べ、「自分が自分の事をどう思っているのか」を知ることは、「実りのある人生を送るためには必要なこと」だと述べたうえで、自己評価について、
(1)自分を愛する
(2)自分を肯定的に見る
(3)自信を持つ
の3つに分類することができると述べています。
 そして、「〈自分を愛する〉ことは〈自己評価〉の土台をかたちづくる一番大切な要素」であるが、「それは社会的な評価とはまったく別のもの」であると述べています。
 また、〈自分を肯定的に見る〉とは、「自分の長所や短所を判断した上で、自分に肯定的な評価を与えること」であるが、「その判断に客観的な根拠があるかどうか」ではなく、「これが自分の長所や短所だ、能力や限界だ、と判断するのにどこまで確信を抱いているか」が大切だと述べています。
 さらに、〈自信を持つ〉については、「私たちの行動に密接に結びついている」として、「〈自信を持つ〉とは、〈自分の決断に確信を持てる〉、すなわち〈どんな重要な局面でも自分は適切な行動を取れると信じることができる〉ということでもあるから」だと解説しています。
 そして、「自己評価を維持する」ための「栄養源」は、
「自己評価の栄養源=愛されているという気持ち+能力があるという気持ち」
だと解説しています。
 第2章「肯定的評価と否定的評価──あなたの自己評価は高いか低いか」では、「問題はあなたが自分を否定的に見ているということ」ではなく、「肯定的に見ていないということだ」と述べています。
 そして、「何かの問題にぶつかって解決策を見出そうとする時、自己評価の低い人は高い人に比べて時間がかかる」理由として、「自己評価の低い人が自分のことを知らない」、つまり「自分の性格や能力を知らない」ために、「解決策が自分の中にあるとは思わず、まず他の人がどうしているかを見極めて、そのやり方に従おうとする」と述べ、「自己評価の低い人にとって、自分に疑いを持たずにいるというのは難しい」ため、「占いに興味を示すのは、自己評価の低い人が多い」と述べています。
 また、「いったん何かをしようと決めた場合、それを最後までやりとおすことができる」かどうかで、自己評価の高さがわかるとして、「自己評価の低い人は粘り強さに欠け、困難にぶつかったり、人から反対されたりすると、すぐにあきらめる傾向にある」と述べています。
 さらに、「自己評価が高い人と低い人ではその行動の仕方に大きな違いが出てくる」として、「自己評価の高い人は向上心が強いせいで、より大きなリスクを引き受ける。いっぽう自己評価の低い人は安心を求めるため、リスクを回避する傾向にある」と述べています。
 第3章「自己評価が低くても心配することはない」では、自己評価が低いことの利点として、「その最大のものは〈人から受け入れられやすい〉」ことを挙げ、
・周囲の人とあまり衝突しないように、自分のほうが譲ったり、あきらめたりすることが多い。
・ごく普通の人間関係の中では、謙虚で控えめな態度が好感をもって迎えられる。
・批判にも耳を傾ける素直な態度が人に近づきやすい印象を与える。
と述べています。
 そして、「自己評価は高ければよいというものではない。それよりも、自己評価の度合いに見合った環境にいることのほうが大切なのだ」と述べ、「あなたの理想が気持ちのよい仲間に囲まれて共同作業をすることなら、自己評価はむしろ低いほうがいい」と述べています。
 第4章「あなたの自己評価は安定しているか」では、自己評価を図る基準として、〈高いか低いか〉のほかに〈安定か不安定か〉を挙げ、これによって、自己評価は4つのタイプに分類することができるとして、自己評価が高いタイプについては、
(1)自己評価が高く安定している:自分のイメージを高めたり守ったりするのに、無駄な時間やエネルギーを使うことがない。
(2)自己評価が高く不安定:少しでも失敗したり、人から批判を受けたりすると、自分が全面的に否定されたような気持ちになるので、、〈失敗〉や〈批判〉に激しく反応する。
の2つを挙げ、「物事がうまくいっている時には、この2つのタイプはほとんど見分けが付かない。何かに失敗したり、人から批判を受けたりなど逆境に立たされた時に、初めてその違いが現れる」と述べています。
 また、自己評価が低いタイプについて、
(3)自己評価が低く不安定:周りの出来事に影響されやすい。
(4)自己評価が低く安定している:自己評価を高めようという努力をしない。
の2つを挙げ、自己評価が低く不安定な人は、「失敗をしたり、人から批判されることを恐れる」が、自己評価が低く安定している人は、「現状を変えることをあきらめているように見える」と述べています。
 著者は、「この4つのうち〈高く安定した〉タイプを理想として、そのほかのタイプは劣っていると考えるのは間違っている」として、「自己評価は高く安定していても、そのほかの性格が不愉快だという人物はたくさんいる」として、自己評価の高さが「モラルの高さに結びつくわけではない」と述べています。
 第5章「自己評価はどのようにしてできあがるのか──子供への上手な接し方」では、「〈自分の価値を高めたい=自分をえらく見せたい〉という気持ちも、自己評価と密接な関係を持っている」として、この気持ちが、「自意識が生まれる少し前、6歳から8歳の間に表れる」と述べています。
 そして、両親に対する助言として、「子供が自分の能力や特徴に不安や不満を抱いている時、それに対してきちんと耳を傾けて相談に乗ってやること。この努力は決して無駄にはならないだろう」と述べています。
 また、「自己評価にとって重要なのは本人の判断だけではない。その判断に裏づけを与えたり、そういった判断を下した子ども自身を支持したりするという意味で、まわりの人間の意見も大切になってくる」として、
(1)両親
(2)教師
(3)仲間(クラスメート)
(4)親しい友達
の4つの「まわりの人間」を挙げ、「この4つの方向からなされる意見(評価、態度)が子供の自己評価を補強する4つの力になる」と述べています。
 さらに、「子供の成績をよくしたいと思ったら、知識を詰め込む前に、まずは子供の自己評価を高めてやらなければなら」ず、「そのためには子供の学力だけではなく、総合的な人格形成に注意を払う必要がある」として、「子供にしてやりたいこと」として、「時間をさいて、注意を払い、愛情を注ぐこと」だという言葉を紹介しています。
 第6章「大人の自己評価──恋愛、結婚、仕事と自己評価」では、「人は恋人を自分の自己評価に見合った形で選ぶ」として、「恋人が美しいかどうかはその男性の自己評価を計るひとつの物差しになるのだろうか?」と投げかけています。
 そして、結婚と自己評価について、「一般に、結婚をすると自己評価は上がる」とした上で、「両親は子供に対し、とくに自分たちが失敗した領域で成功してもらいたいのである。たとえ子供を通じてであっても、自分の失敗を取り返したい──それができたら、自己評価が高まることは言うまでもない」と述べています。
 また、「失恋は自己評価を下げる」ことや、「本気で友達をつくりたいと思うのであれば、デール・カーネギーがある本の中で言っている〈人から好感をもたれる6つの方法〉が参考になる」として、〈相手の話を聞く〉、〈相手が好きなことを話題にする〉、〈相手を認めていることをうまく相手に伝える〉など、「すなわち相手の自己評価を高める方法である」ことを述べています。
 さらに、「政治家など権力者になる人間」に共通した特徴として、
(1)自分の運命を信じる。
(2)自分は偉大な人間であると思う。
(3)何かをしようと思ったら、すぐに行動する。
(4)失敗を受け入れる。
の4点を挙げ、「この4つはいずれも自己評価に深く結びついている」と述べています。
 著者は、「よきにつけ悪しきにつけ、自己評価は恋愛、結婚、友人関係、仕事など人生のさまざまな問題にかかわりを持っている」として、「私たちがどうしてそんな行動をとるか、その理由をかなりの点で明らかにしてくれることはまちがいない」と述べています。
 第7章「自己評価か自己イメージ化──あなたは見かけにとらわれていませんか」では、「思春期の女性のうち60パーセントは自分が太りすぎだと思っていて、自分のスタイルに満足しているのは20パーセントだった」ことに関して、〈あなたにとって理想の体重はどのくらいか?〉や、〈女性の体重について、男性の好みはどのくらいだと思うか?〉という質問に、「本当の男性の好みの体重よりもかなり軽めに予想して答える」と述べています。
 そして、バービー人形が、「身長1メートル77センチ、そのスリーサイズはバスト85、ウエスト46、ヒップ73」というものであり、「これはとうてい普通の女性のプロポーションではない。というより、はっきり言って人間離れしている」と述べ、「これが〈理想的な〉スタイルだという印象を少女たちに与えているとすれば……。少女たちが大きくなって丸みを帯び始めたときに、その自己評価は大いに傷つくに違いない」と述べています。
 また、ファッションに関して、「私たちの衣服は単に寒さから身を守ったり、裸を隠すためだけのものではない」として、「高い自己評価を手に入れるための手段でもある」と述べています。
 第8章「自己評価の理論」では、
(1)成功と願望との関係:何かに成功すれば、確かに自己評価は上がる。だが、その成功は本人の願っている異常のものでなければならない・・・自己評価=成功/願望
(2)投資理論:幼いころに受けた愛情を「投資のための資金」として、それをどのように「投資」するかで、自己評価の高い人と低い人の行動パターンの違いを説明する。
(3)鏡映的自己:他者が自分のことをどう思っているか推測し、それをもとにしてつくりあげた自分のイメージから自分の特徴や状態を理解する。
(4)理想と現実の関係:自己評価は理想と現実の差がどのくらいあるかによって決まる。
の4つの理論的アプローチを紹介しています。
 そして、自己評価と理想に関して、〈私はこうありたい〉と〈私はこうあらねばならない〉のちがいが、「正常な理想」と「病的な理想」との違いであると述べています。
 第9章「自己評価と心の病」では、「自己評価が低くなりすぎると、さまざまな形で精神に障害が起こってくる場合が多い」
として、「自己評価の問題は〈心の病〉と密接に結びついている」と述べています。
 そして、「躁状態になれば患者は全能感に充たされ、完璧な自己評価をもつことができる」ため、「病気から直りたくないという逆説が生まれる」と述べています。
 また、アルコール依存症との関係について、「自己評価が傷ついた人間にとって、アルコールは大きな誘惑になることがある。酒を飲めば幸せな気分になり、行動も起こしやすくなる。そして、この2つが自己評価の低い人間には欠けているものだからである」と述べています。
 さらに、「どんな親たちが子供に有害なのか」について、アルコール依存症の親のいる子供のうち約2割は、「自己評価を立て直すのに成功し、普通の子供よりも早めに大人になって、環境をコントロールする方法を身につける」が、「その能力を発達させすぎて、大人になってからいくつかの問題を抱えることもある」と述べてるとともに、「性的な虐待を受けた子供は自己評価を深く傷つけられる。そうしてまた、境界性人格障害などさまざまな精神障害を発祥することも多い。〈虐待〉と〈自己評価〉、〈精神障害〉の3つの事柄には密接な関係が存在する」と述べています。
 第10章「自己評価の応急処置──とりあえず自己評価を守る方法」では、「私たちは毎日の生活をしていく中で、自分でも気がつかないうちに、自己評価を上げようとしたり、守ろうとしたりしている」として、「そういった日常生活における自己評価の調整の方法」について論じています。
 そして、私たちが、「不安や抑うつ、罪悪感のような不愉快な感情があると、通常は無意識のうちに、心理的にさまざまな方法を使ってその不愉快な感情を弱めたり、避けようとしている」として、こういった心理的作用である〈防衛機能〉について解説しています。
 また、自己評価の低い人が、「自分が心理的に結びついているほかの人間の成功を自分のものとするという方法」を用いるとして、子供や配偶者、好きな俳優や応援しているスポーツチームの成功などを挙げています。
 一方、自己評価の高い人が、「失敗したときには同僚の劣った点を見つけて安心したり、あるいはもっと能力の低い人々を見て心を慰める」、すなわち、「他人の欠点に注意を払う」という戦略を用いると述べています。
 さらに、「ある種の性格の人(たとえば自己愛的な性格の人)にとっては」、「駐車違反の罰金を払わなかったり、税金をごまかしたり、法律に違反してずるいことをする」ことが、「自己評価を高めるよい方法となる」と述べています。
 第11章「我を愛する、ゆえに我あり──自己評価をよくするにはどうしたらよいか」では、「自己評価を改善するにはまず行動を起こすことが必要である。行動を起こして、その結果をうまく受け止めてやる──これが大切なのだ」と述べています。
 また、自己評価を改善する方法について、
・自分自身との関係
・行動との関係
・ほかの人との関係
の3つの分野で努力することを勧め、それぞれについて、
・自分自身との関係
(1)自分を知る
(2)自分を受け入れる
(3)自分に対して正直になる
・行動との関係
(4)行動する
(5)自分の心の中の批判を黙らせる
(6)失敗を受け入れる
・ほかの人との関係
(7)自己主張をする
(8)ほかの人の気持ちや立場を理解する
(9)社会的なサポートを受ける
の9つの〈鍵〉と呼ぶ具体的な目標を挙げています。
 本書は、人生のさまざまな場面で、切手も切り離すことができない影響を与える自己評価とのつきあいかたのヒントを与えてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 普通にしていれば変な人ではないのに、自己弁護や自己主張にはものすごいエネルギーをかけている人を見ると、これだけやると本人も疲れるだろうに、と思いますが、そういう人がどのようなメンタリティでそういう行動をするのか、ということがわかるという点では非常に有用な一冊です。本人はこういうのを読んでもなんとも思わないと思いますが。


■ どんな人にオススメ?

・他人の不可解な振る舞いの影にある心理を見てみたい人。


■ 関連しそうな本

 根本 橘夫 『なぜ自信が持てないのか―自己価値感の心理学』
 クリストフ アンドレ (著), 高野 優 (翻訳) 『自己評価メソッド―自分とうまくつきあうための心理』
 ナサニエル ブランデン (著), 手塚 郁恵 (翻訳) 『自信を育てる心理学―「自己評価」入門』
 フランソワ ルロール, クリストフ アンドレ (著), 高野 優 (翻訳) 『難しい性格の人との上手なつきあい方』
 クリストフ アンドレ (著), 高野 優, 田中 裕子 (翻訳) 『こころのレシピ―幸せと不幸のルール』
 デール カーネギー (著), 山口 博 『人を動かす』 2005年07月11日


■ 百夜百音

ルパン三世クロニクル スペシャル【ルパン三世クロニクル スペシャル】 大野雄二 オリジナル盤発売: 2005

 一人で、ピアノ、ドラム、ピアニカ、マリンバを演奏している人の動画にびっくりしました。大道芸人さんで、一度にいくつもの楽器を演奏する人はいますが、なんだかんだいっても手は二本しかありませんので、それをどう使うかがかぎになるのでしょうか。

2008年12月 5日 (金)

戦争の経済学

■ 書籍情報

戦争の経済学   【戦争の経済学】(#1415)

  ポール・ポースト (著), 山形浩生 (翻訳)
  価格: ¥1890 (税込)
  バジリコ(2007/10/30)

 本書は、「歴史を通じて、戦争はお金のために戦われ、そしてお金は戦争が戦われるのを可能にしてきた」という「経済的な事業」であることを前提にした、「戦争の経済学の入門書」です。著者は、本書の目的として、
(1)経済学や政事科学など、関連した人文社会科学に関心のある人びとに対して、経済が戦争や国防とどう関連するかを理解できるようにすること。
(2)経済学の講師に対し、重要な経済学の概念を説明するためのエキサイティングな現実世界の応用例を提供するツール。
の2点を挙げています。
 第1章「戦争経済の理論」では、「戦争が経済を活性するか打撃を与えるかについて、理論的な説明を述べる」としています。
 そして、「戦争が経済にとって良いものだ」とする「戦争の鉄則」なる「ありがちな発想」を紹介した上で、戦争が経済に与える影響として、
(1)心理的影響:戦争は人々を怖がらせる
(2)現実的影響:戦争はお金がかかる
の2つの影響を挙げた上で、これらの影響の程度を見極める際のポイントとして、
(1)戦争前のその国の経済状態
(2)戦争の場所
(3)物理・労働リソースをどれだけ動員するか
(4)戦争の期間と費用、そしてその資金調達手法
の4点を挙げています。
 第2章「実際の戦争経済:アメリカの戦争 ケーススタディ」では、「戦争の鉄則をいろんなアメリカの戦争に適用」するとして、アメリカが、「工業国への戦争の経済的影響を評価するのに面白い事例を提供してくれる」理由として、
(1)アメリカは今日でも20世紀のほとんどの大規模戦争でもかなりの軍事的な存在感を追っていただけでなく、経済も十分に発達していた。
(2)20世紀中にたくさん戦争に参加したけれど、本土戦は1つもなかった。
の2点を挙げた上で、「戦争の鉄則を支持する事例」として、第一次世界大戦、第二次世界大戦、朝鮮戦争の例を挙げ、第二次世界大戦や朝鮮戦争については、「戦争の鉄則と戦争の持つインフレ的な影響をどちらも見事に例証してくれている」と述べる一方、「戦争の鉄則を支持しない事例」として、ベトナム戦争、1991年湾岸戦争、2003年イラク戦争は、「戦争の鉄則をほとんど裏付けてくれない」どころか、「歴史をふりかえってみると、古代にいたるまで戦争は多くの社会にとって、繁栄をもたらすどころか国を大いに荒廃させてきている」と述べています。
 そして、イラク戦争について、「物理リソースの大量動員は不要だった」理由として、「軍が以前よりも技術依存型になった」として、
(1)軍が必要とする武器が減った。
(2)武器が安くなった。
(3)技術的な波及の方向の方向が逆転した(民生から軍用へ)。
の3つの影響を挙げています。
 第3章「防衛支出と経済」では、「軍事支出は絶対額で見ると巨額ではあるけれど、GDPでみたアメリカ経済の規模からするとかなり小さい」として、「GDP比で見ると、軍事支出は一貫して減少している」ことを指摘し、「政府支出が本当に民間部門の消費や投資を減らしてしまうなら、こうした民間投資や消費の『クラウディングアウト』をなくすには政府支出を減らすことだ」として、「軍事支出削減に伴う民間部門の拡大は平和の配当として知られる」と述べています。
 また、「国際紛争があると、各国は対GDP比で軍事支出にかけるお金を増やす」という「安全保障のジレンマ」について、ゲーム理論により、軍拡が双方にとって、「相手がどう行動しようと、どちらの側も軍拡という選択肢を取る」という「優位戦略」だと解説しています。
 第4章「軍の労働」では、
・徴兵制:政府の命令による義務付けられた軍役制度
・総志願軍(AVF):軍が給料や福利厚生によって、人びとが自主的に従軍するよう促す兵員募集制度
の2つの兵員確保の仕組みについて、「AVFのもとでは、軍は雇用主として民間と競合できるだけの賃金を払わなければならない」ため、「同じだけの予算制約の中で集まられる兵員の数は少なくなる」とともに、「AVFは労働の費用を増やすので、徴兵制からAVFに切り替えようとする政府にとっては、資本に比べて労働の値段が相対的に上がったこととなる」ため、「もっと資本集約的な軍隊を目指すだろう」と述べています。
 そして、「徴兵制が非効率性を生み出しがち」な理由として、徴兵が、「ある人が何らかの活動をしたり在を生産したりするときに、他人よりも低い機会費用でそれを行う能力」である「比較優位という発想に反するもの」であることを挙げ、「一言でいえば、人にはむき不向きがある。肉体的、精神的によい兵士になれる人もいるし、他のことをしたほうがいい人もいる。でも徴兵制は、適性のない人を軍隊に入れて、向かない作業に従事させることになりかねない」と述べています。
 また、「ベトナム戦争中およびその末期の軍隊人員確保をめぐる経験は、軍労働市場モデルから得られる結論を見事に裏付けてくれる」として、「アメリカが徴兵制からAVFに移行したことで、双方の兵員確保方式を対比するまたとない機会が得られた」と述べています。
 さらに、「軍人を確保する第3の道」として、1990年代末以来拡大している「民営化」を挙げ、通称「民間軍事会社(PMC)」または「民営軍(PMF)」とよばれる、「各種の軍事サービスを提供する民間企業」を挙げ、PMCが有能な理由として、「PMCは経験豊かな軍人に巨額の報酬をインセンティブとして提供する」ことを挙げ、PMCは経済学者たちが効率賃金と呼んでいる」、「仕事でもっと頑張ってもらうために、均衡賃金以上に設定された賃金」を使っていると述べています。
 第5章「武器の調達」では、「軍用ハードウェアの市場は完全市場とは似ても似つかない代物だ」として、
(1)唯一の買い手は国防省だけで、自分以外には絶対に買い手がいない財を買っている。
(2)他の市場に比べると防衛産業の企業はごく少数で、その中でも要求された製品を供給できるのはほんの数社──ときにはたった1社だ。
(3)国防省は右肩上がりの供給曲線に直面している。
と述べています。
 そして、「高価格とコスト超過の経済的な説明」の1つとして、「プリンシパル・エージェントモデル」を用いて解説し、「モラルハザード問題を回避するため」に国防省が用いる契約として、
(1)固定費契約
(2)コストプラス契約
(3)インセンティブ契約
の3つを挙げ、「3種類とも、企業が不確実性を怖れなくて済むような仕組みになっている」と述べています。
 第6章「発展途上国の内戦」では、「過去200年にわたって国際紛争の数(二国間の戦争)はだんだん減少しているが、内戦(同じ国内での勢力間戦争)は急激に増えている」として、「1世紀前なら紛争はもっぱら国同士のもので、死傷者の9割は兵士だったのに、こんにちではほとんどすべての戦争が内戦で、被害者の9割は民間人になっている」と述べたうえで、「戦争が経済を刺激してくれるという発想」である「戦争の鉄則」は、「先進国にしか当てはまらない経済概念だ」として、「敗戦は多くの低開発国において、発展の大きな障害となっている」と述べています。
 そして、内戦の経済的な原因として、「民族対立や週は争いがきっかけの不合理な行動」と思われがちだが、「実際には、民族や宗派対立といった要因は、紛争の新の原因である経済状況を上塗りしているだけ」であり、「本当の原因は、貧困、資源採掘、強欲、少数民族からのリソース搾取、格差などだ」と述べています。
 また、国連の平和維持活動が増加した理由として、
(1)冷戦が終わったので、かつては冷戦のライバルだった諸国が紛争をあおるかわりにこうした活動に合意する可能性が高まった。
(2)冷戦後には、これまでアメリカやソ連の支援で成り立っていた政府の多くが転覆したこと。
の2点を挙げ、「どちらも冷戦終結に関連している」と述べています。
 さらに、「世界経済の観点からすると、有効な平和維持活動はきわめて経済的に効率のよい政策だ」として、シエラレオネでのイギリス軍の経験から、似たような諸国12カ国に対する軍事介入を行うと、「費用は48億ドルだが、そこから生まれる経済的な利益は3970億ドルにものぼる」と述べています。
 第7章「テロリズム」では、アメリカ国防省による定義として、
「事前に計画され、政治的に動機づけられた暴力行為で、非戦闘員を標的とし、国家より小さい集団や隠密エージェントによって実施され、直接的な被害者を超える規模の徴収に影響を与えたり脅したりすることを目的とし、2カ国以上の市民や領土にまたがるもの」
という定義を紹介しています。
 そして、「経済的な悲惨のためにテロリストは極端な手段に走るという紋切り型は間違っている」と指摘し、テロリスト攻撃が、「抑圧的な国家で、政治状況が過激派の望む方向に動いていないときに増大しやすいのであって、その国の経済的な健全性とは関係ない」と述べています。
 また、1983年のレバノン以来広まった自爆テロについて、「自爆攻撃は平均で、他のテロ活動に比べて4倍の死亡者数」を出し、「イスラエルでの自爆テロは、通常はおそらく1回150ドルもかからない」ため、「貧乏人のスマート爆弾」と呼ばれると述べています。
 さらに、「テロ攻撃の最大の影響は経済のグローバル化に現れる」として、
(1)テロ活動のおかげで各国がセキュリティを強化するので、経済同士の国際貿易は減ってしまう。
(2)テロはその国への唐詩のリスクプレミアムを高める。
(3)リスクプレミアムが高いと思われた国に通貨は為替レートが乱高下し、テロ事件が起きたとたんに暴落したりする。
の3点を挙げています。
 第8章「大量破壊兵器の拡散」では、「大規模な死傷者をもたらせる兵器を入手し拡散させようとする経済的な動機について検討する」として、「国が核兵器を欲しがる理由」として、
(1)安全保障のジレンマ仮説:二国がお互いを脅威と考えると、どちらの国も兵器を買ったり製造したりして、相手を宇和間ロウとする。
(2)代替効果:同じ働きをする安いものをつかって、高いものの代わりにしようという発想
の2点を挙げ、後者については、「核兵器は潜在的な敵を抑止するのに比較的安上がりだという通説」にもかかわらず、「核兵器はそんな安上がりではない」として、出来合いの核兵器は今のところどこにも売っていないため、自分で開発するしかないが、「いったんこうした高価な固定費をかけてしまい、そして生産能力を首尾よく整備できれば、追加の原爆を作る限界費用は200万ドルから400万ドル(2003年ドル換算)で済む」として、「確かに核兵器は、通常兵器より破壊力当たりの費用がずっと小さいから、代替効果を持ち得る」と述べています。
 本書は、戦争を簡単な経済学で捉える枠組みを与えてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 「戦争」というテーマについては、何かと感情的に語られることが多く、それ自体が悪いわけではないのですが、同じ問題を捉えるのに複数のフレームを持つことは悪いことではないと思います。


■ どんな人にオススメ?

・戦争を複眼的に捉えたい人。


■ 関連しそうな本

 アラン・B・クルーガー (著), 藪下 史郎 (翻訳) 『テロの経済学』
 田中 秀臣 『不謹慎な経済学』
 菅原 出 『外注される戦争―民間軍事会社の正体』 2008年01月07日
 松本 利秋 『戦争民営化―10兆円ビジネスの全貌』
 高木 徹 『ドキュメント 戦争広告代理店―情報操作とボスニア紛争』 2006年11月27日
 アンヌ・モレリ (著), 永田 千奈 (翻訳) 『戦争プロパガンダ 10の法則』 2007年11月01日


■ 百夜百マンガ

太陽の黙示録【太陽の黙示録 】

 「日本を襲った未曾有の大地震は、国土を真っ二つに割り、誰も予想だにしなかった"未来"をもたらした…!!」というコピーを見ても「みぞーゆーのだいじしん」と読んでしまいます。重症です。
 「新しい」という言葉も、もともと「あらたしい」と読んでいたものを、江戸時代に洒落で「あたらしい」と読み始めたことが定着したらしいという説もありますし、「未曾有」も将来、「みぞうゆう」の方が定着したら、太郎さんも歴史に名を残すことができることができません。

2008年12月 4日 (木)

キーボード配列QWERTYの謎

■ 書籍情報

キーボード配列QWERTYの謎   【キーボード配列QWERTYの謎】(#1414)

  安岡 孝一, 安岡 素子
  価格: ¥2940 (税込)
  NTT出版(2008/03)

 本書は、コンピュータのキーボードのQWERTY配列が、タイプライターの「アームの衝突を防ぐために、タイプストがなるべく打ちにくいようなキー配列をデザインした」ものであるという説について、「全くのガセネタだ」と指摘し、「では、たいぷらいたータイプライターのQWERTY配列は、本当はどのようにして決まったのだろう。それはどのように普及していって、そしてどのような形でコンピュータのキーボードに取り入れられたのだろう。あるいは、『タイピストがなるべく打ちにくいようなキー配列』なんていうガセネタを最初に流したのは誰で、このガセネタはどう広まっていったのだろう」かを、「明らかにすべく、1840年代から1980年代まで」の約140年間の歴史を追ったものです。
 第1章「ジ・アメリカン・タイプ・ライター」では、1868年11月21日付のセント・ジョセフ・ヘラルド紙に『ジ・アメリカン・タイプ・ライター』と題した広告が掲載されたとして、この『タイプ・ライター』なる機会が、ミルウォーキーのクリストファー・レイサム・ショールズという人物によって製作されたと述べ、彼の半生と製作の経緯を追っています。
 第2章「QWERTY配列の誕生」では、初期のタイプライターには、ピアノの鍵盤を模した、A~Zとコンマとピリオドの28のキーしかなく、「最低でも、あと2~9とハイフンと疑問符は必要だから、キー数を38個に増やすのが当面の目標となった」として、そのためには3段ないし4段のボタン型のキーによるキーボードが必要になったと述べています。
 そして、1874年74年4月30日に納品された、『ショールズ・アンド・グリデン・タイプ・ライター』の1号機のキー配列が「左上からQ・W・E・R・T・Yと並んでいた」とした上で、「このキー配列に至った過程については、怪しい説が多数存在する」が、「著者はこの説に懐疑的である」と述べ、「クリストファー・レイサム・ショールズにとって、このキー配列はあくまで通過点であり、商品化の時点でたまたま手元にあっただけ、文字をまあまあ探しやすいキー配列に過ぎないから」だと述べています。
 第3章「小文字が打てるタイプライター」では、タイプライターの基本特許の発明者クリストファー・レイサム・ショールズが、「喀血と不眠症に悩まされながらも、ミルウォーキーでタイプライターの改良を続けていた」として、レイサムが、「タイプライターを改良し続けることで、一日のほとんどをベッドで過ごしながらも、生きる気力を取り戻した」と述べています。
 第4章「女性参政権運動とタイプライター」では、1882年9月に発行された2冊のタイプライター教本の著者、エリザベス。マーガレット・ベイター・ロングリー」という女性参政権運動家が、1877年に速記の能力を生かして、シンシナティ・アーベント・ポスト紙の裁判所レポーターを経験したことから、「速記のような特殊技能を必要とする職業においては、男女平等にチャンスがあるということ」に気づいたと述べ、「タイピング法の教育は、男女平等な職業というロングリー夫妻の理念にも、かなっているように思えた」と述べています。
 第5章「タッチタイピングの登場」では、1888年7月25日に開催されたタイプライター・コンテストにおいて、勝利したフランク・エドワード・マッガリンが、翌日には、シンシナティのパレスホテルで、「キーボードを全く見ず」、「目隠しタイピングすら可能だった」としてエキシビジョンを行ったと述べています。
 そして、マッガリンが、地方裁判所での速記官の仕事の傍らで、速記雑誌への寄稿を始めたとして、「速記者に対して、キーボードを見ずにタイピングすることの効用」を説き、「自分が書いた速記録をタイプライターで清書する際に、キーボードをいちいち見ていたのでは、目が速記録とキーボードの間を行ったりきたりするために、スピードが制限されて仕事の能率が上がらない。キー配列を覚えて、キーボードを見ずにタイピングできるようになれば、目は速記録だけを見ていればよくなり、かなりスピードの向上が望める」と寄稿したと述べています。
 第6章「ザ・タイプライター・トラスト」では、1890年代のアメリカで、「かなり多くの会社が独自のタイプライターを開発し、生産するようになってきた」が、「タイプライターの会社が乱立すると、当然、値下げ競争ということ」になるため、これを好ましく思っていなかったエクイタブル・モーゲージ社のチャールズ・ニューウェル・ファウラーが、「現在あるタイプライター会社のすべてを、1つの会社にトラストの形で合同させる。すべてのタイプライター会社がだめでも、レミントンとカリグラフを含む主要なタイプライター会社を、1つの会社にまとめる」という「タイプライター・トラスト」という結論にたどり着いたと述べています。
 そして、持ち株会社であるタイプライター・トラスト参加の5者が、「キー配列の統一」を行ったとして、「タイプライター・トラストによる寡占のために、19世紀のタイプライター市場は、QWERTY配列ほぼ一色となってしまった」と述べています。
 また、1900年にウィっ区オフ・シーマンズ・アンド・ベネディクト社が、無料配布した『タッチ・タイプライティングの歴史』という小冊子が、「タッチタイピングの黎明期を描いた歴史書を装っていながら、実はレミントンのみに言及した宣伝本だった」と述べ、「レミントンに都合の悪いことは全て無視する方針で書かれており、偽の歴史書といっていいようなシロモノだった」が、「後世のタイプライター歴史書の多くは、この小冊子やその孫引きに騙されてしまい、タッチタイピングがレミントン――すなわち、シフト機構を有するQWERTY配列――でしかおこなわれていなかった、という幻想を広めていくことになる」と述べています。
 第7章「遠隔タイプライターと文字コード」では、ニューヨークのポスタル・テレグラフ・ケーブル社の技術者ドナルド・マレーが開発しようとしていた、「遠隔タイプライター」とも言うべき電信機が、「まさか半世紀後のコンピュータにまで影響を与えようとは、マレー自身も想像だ似つかないことだった」と述べ、マレーが開発した電信機が、鑽孔テープに「5列分で1文字を表す」ものであったため、2^5=32種類しか表すことができなかったため、「32種類の鑽孔パターンを一対一にキーに対応」させ、各キーに3字ずつ収録し、切り替えようの「CAPS」「RLS」「FIGS」と「SPACE-BAR」とのぞく、28個のキーに、「大文字、小文字、数字(あるいは記号)を28×3=84種類まで収録できることになる」と解説しています。
 第8章「ドボラック配列とアンチQWERTY説」では、ワシントン大学の准教授オーガスト・ドボラックが、「AOEUIDHTNSの列だけで英単語のうち70%を打つことができる」という謳い文句のドボラック配列を開発し、「タイプライターのキー配列に関するドボラックの研究論文は、既存のQWERTY配列に対する、悪意とも言うべき攻撃に満ち溢れていた」と解説しています。
 そして、1955年9月21日に、ロバート・シャロン・アレンの依頼で記事を投稿したドボラックが、「自己のキー配列を宣伝するために、QWERTY配列を徹底的に攻撃している」ことを紹介し、アメリカ連邦政府の共通役務庁によるQWERTY配列とドボラックとの比較実験を紹介した上で、「QWERTY配列に関するアヤシゲな説は、アメリカのみならず、海外へも波及していく」として、「ドボラックのアヤシゲな説」が、「尾ひれがどんどんついたうえで」、日本を始め「世界中に広まっていった」と述べ、1975年にドボラックが死去したあとは、「QWERTY配列に関するがせねたはとめどなく広がっていき、もはやそれは『アンチQWERTY説』とも呼ぶべき都市伝説の様相を強く呈していた」と述べています。
 また、この「アンチQWERTY説」に騙された一人として、スタンフォード大学で複雑系経済学を研究するウィリアム・ブライアン・アーサーを挙げ、アーサーが「収穫逓増」というアイデアでQWERTY配列による市場独占を説明し、これを受けて、スタンフォード大学の経済史学者ポール・アラン・デービッドが、「経路依存性」というアイデアに基づく「QWERTY経済学」という説を発表したことを紹介した上で、「デービッドの『QWERTY経済学』説は、19世紀におけるタッチタイピストの現実やタイプライター・トラストの存在を、完全に無視している」として、デービッドが、「『効率の悪いQWERTY配列』が『自由市場を独占した』のは『経路依存性』の結果だ、という筋書きが最初からあって、それに合わせるために、デービッドはQWERTY配列の『歴史』を捏造した」と指摘しています。
 さらに、日本でも、1987年1月に東京大学の坂村健が「アンチQWERTY説」を、「初期のタイプライタは機構が稚拙で、印字速度が速くなると印字棒がすぐ絡むという問題があった。これを解決するように試行錯誤で決められた──つまり速く打てないように決められたのが現在の配列である」という文章を流布し、「あという間に日本中が『アンチQWERTY説』で埋まっていった」と指摘しています。
 終章「なぜコンピュータのキーボードはQWERTY配列になったか」では、「アメリカにおけるQWERTY配列の歴史は、生産者側による押し付けの歴史だったのではないか」として、「市場を独占したい生産者側が、独占を推し進めるために、QWERTY配列を道具の一つとして使ってきたのだ」と指摘しています。
 本書は、「アンチQWERTY説」という「都市伝説」の成り立ちを暴いた、一部の人間にとっては刺激的な一冊です。


■ 個人的な視点から

 都市伝説を暴く人は嫌われます。都市伝説を語る本人は、他の人が知らない取って置きの情報、内緒の情報を自分は知っている、というスタンスで、たいていの場合は得意げに語ります。扇風機をつけっぱなしだと死ぬ、メンソールはインポになる、現代人の死体は防腐剤を含んでいるから腐らない、ハンバーガーの材料は実は○○の肉でそれを見てしまったバイトが口止め料をもらった、などです。
 こういうのを聞かされて、「それは都市伝説ですよ」と答えてしまったら、話者の面目は丸つぶれです。そういう話は話半分で聞いておくのが大人でしょう。しかし、学術論文とかでまじめに紹介されてしまう都市伝説もあるのです。この類の都市伝説を指摘してしまうと、指摘された本人やそういった言説を信じ込んできた人たちは戸惑ってしまうわけです。本書のQWERTYの話は経済学のテキストにも出てくる話なので、その威信が丸つぶれになってしまうことへの反発はかなりのものがあるのではないかと思います。
 本書は都市伝説(QWERTYの神話)を解明していくという読み物としては非情に面白いものだと思いますが、Amazonのレビュー欄での本書への反発の心の底には「アンチQWERTY説」についての「虚を突かれた」戸惑いがあるのではないかと思います。坂村先生はファンが多いですし。
 ちなみに、Wikipdia日本版の「QWERTY配列」の項目の履歴を見ると、訳者本人が手を入れられているのがわかります。


■ どんな人にオススメ?

・何気なくキーボードを使っている人。


■ 関連しそうな本

 坂村 健 『痛快!コンピュータ学』 2005年07月02日
 山形 浩生 『コンピュータのきもち 新教養としてのパソコン入門』 2005年07月23日
 ヘンリー ペトロスキー (著), 忠平 美幸 (翻訳) 『フォークの歯はなぜ四本になったか―実用品の進化論』 2005年12月31日
 ヘンリー・ペトロスキー (著), 忠平 美幸 (翻訳) 『ゼムクリップから技術の世界が見える-アイデアが形になるまで』 2008年04月17日
 ジョー ティッド, キース パビット, ジョン ベサント (著),後藤 晃, 鈴木 潤 (翻訳) 『イノベーションの経営学―技術・市場・組織の統合的マネジメント』 2006年03月17日
 今井 賢一, 金子 郁容 『ネットワーク組織論』 2005年03月19日


■ 百夜百マンガ

鬼のヒデトラ【鬼のヒデトラ 】

 「鬼」っていうのも、この人の作品の文脈では「鬼のように~」という使われ方のようかと思うのですが、この作品ではそのまま「鬼」です。

2008年12月 3日 (水)

図解 地方議会改革―実践のポイント100

■ 書籍情報

図解 地方議会改革―実践のポイント100   【図解 地方議会改革―実践のポイント100】(#1413)

  江藤 俊昭
  価格: ¥2835 (税込)
  学陽書房(2008/05)

 本書は、「地方議会の現状を把握しつつ、新たな議会像を提案し、住民と歩みつつ住民福祉のために活動する議会が少しでも増えることを目的」としたものです。
 第1章「地方議会をとりまく状況」では、「地方分権による議会の変化」として、「議会が本来の役割を発揮できなかった理由と、それが変わりつつあり議会が本来の役割を発揮できる可能性を外部環境、政治環境、内部環境の3つから」考えるとしています。
 第2章「地方議会の本来の役割」では、「地方自治は二元代表制に基づいている」として、「首長と議会は、緊張感を持ちつつも協力する、一言で表せば機関競争主義といえよう」と述べています。
 また、「日本の地方自治制度は強首長主義といわれている」として、一般に言われる再議請求権の採用のほか、専決処分、不信任議決に伴う首長による議会解散などの首長の権限の強さを含む場合もあると述べ、「監視機能にとって必要な議決権限、検査権、調査権、『専門的知見の活用』などを積極的に活用することが必要」だと述べています。
 第3章「地方議会の位置づけ」では、「議会改革の特効薬」として、
・住民との懇談会
・議員同士の自由討議
・執行機関との切磋琢磨
などを挙げ、「こうした三者間の緊張関係は、議員の自己研鑽を生み出し、議会の水準を大幅に向上させることになる」と述べています。
 第4章「地方議会の権限」では、「大きな権限を有している」にもかかわらず、「首長の『追認機関』だと揶揄されてきた」地方議会が、「地方分権時代では、議会は首長と切磋琢磨してよりよい地域経営を行うためにこれらの権限を活用できる」と述べ、
・議決権(+追加事項)
・検査権
・監査請求権
・同意権・選挙権
・調査権
・予算の説明書の提出
などについて解説しています。
 そして、条例案提出に関して、「条例の制定改廃の直接請求の条例には、地方税の賦課徴収、分担金・使用料・手数料の徴収に関するものは除かれている」ことについて、「住民自治の基本である税にかかわれないのは奇異に感じられる」と指摘しています。
 また、財政過程について、「執行機関の独壇場、あるいは執行機関による自作自演」だと指摘し、「財政にとって大きな影響がある自治体の設立法人・出資法人への議会の監視県が弱く、また地方公営企業にかかわる契約に議会が関与できていない」と述べ、「予算書が款項のみで実質的なことがよくわからない」上、「議会の議決が款項だけだと審議対象が狭められる」ために、「実際には安易な目・節間の流用が行われることになる」として、「法制度上限界もあるが、財務過程に議会がかかわれる方途はあるし、関与しなければならない」と述べています。
 さらに、「議会には予算編成にかかわれる権限」として、「予算修正」があるが、「修正も組み替えも活用されているとは言いがたい」と指摘し、「予算を定めるのは議会の決議である」にもかかわらず、「それを乗り越える首長の権限、いわばバリアがある」として、「款項のみの予算、政令による契約基準の拘束、専決処分」などを挙げ、「すくなくとも議会費予算を議会が提案できる慣例を作りたい」と述べています。
 また、議会による首長の不信任議決に関して、自治法に即した解説から、
・極度の緊張状態→議会による首長の不信任議決→首長による議会解散→議員選挙(→議会による再度の不信任議決→首長の失職)
・極度の緊張状態→議会による首長の不信任議決→首長の失職(→首長選挙)
の2つの系列があるとの場、「住民が最終的に決着させるのであれば、みずからの失職、議会の解散、といった2つの道のほかに、『失職→再選挙』という選択もあってよい」として、2002年田中康夫長野県知事が、「議会の不信任議決に対して、そうした選択を行った」と述べています。
 第5章「地方議会の組織と運営の課題」では、「議会を自治体の重要な機関として位置づけると、定例会と臨時会という会期制は問題なしとはいえない」として、「自治法制定時、連合国軍総司令部は、地方議会の開催数を増やすこと、具体的には年12回以上を提案していた」ことを挙げ、自治法では、「定例会は毎年6回以上の招集が義務付けられた」が、1952年に「毎年4回」に、1956年には「毎年4回以内」に改正されたと解説した上で、「議会運営を活性化させるためには、議会の開催日数を増やすことを暗示している」と述べ、「議会運営を活性化するために、通年議会も模索されている」としています。
 そして、委員会制について、「問題も多い」として、「実質審議が委員会で行われることから、本会議が形骸化すること」や、「本会議は法定で公開となっているものの、委員会やその議事録は実質的に非公開という議会も少なくない」ことを挙げ、「これでは委員改正は密室政治の温床となる」と指摘しています。
 また、自治法の改正によって、「1人1委員会の規制が解除されたことによって、予算委員会(あるいは決算委員会)も常任委員会として設置することもできる」ようになったとしたうえで、「不当な処理の再発防止、政策の変更、責任の所在の明確化などについて、首長が議会に説明することを義務付けるルールを確立することが必要」だと述べています。
 さらに、「従来の一括質問一括回答から一問一答方式に移りつつある」として、「書面を読み上げるだけに終始していた『朗読会』から離脱し、論点を明確にするには、まずもって一問一答方式が必要」だと述べ、「これまでは、議員から執行機関への質問、逆に執行機関から議会(議員)への回答というように議員からのいいっぱなしであった」と指摘しています。
 第6章「会派の課題」では、「会派は政策集団として生まれ変わることが必要である」として、「会派の政策と議員間討議の関係が論点になる」と述べ、
(1)選挙公約と議会における討議との関係
(2)討議によるローカル・マニフェストの修正
の2点を挙げ、「従来のような政策なき選挙から比べれば大きな転換である」と述べています。
 第7章「地方議会の組織と運営の諸問題」では、「自治体の多くの政策に必要な優先順位づけは、賛成か反対かを問う住民投票には馴染まない」理由として、「住民投票は重要であることは認めるとしても、それは単なる住民による多数決ではない」と述べています。
 そして、多くの議場が、「国会議事堂のように議員に向かって、執行機関に質問している」方式であるが、「二元代表制を強調すると対面式の議場」、「討議する場を強調すると円形あるいはコの字型が想定できる」として、静岡県掛川市議会、愛知県名古屋市議会、同県稲沢市議会、島根県石見町議会、高知県馬路村議会などの例を紹介しています。
 また、政務調査費について、「領収書添付を義務付けていないところ」もあり、「早急な義務づけは当然である」とした上で、「義務づけているところでも疑問も多い」として、「選挙の年などは、選挙事務所も、月単位で借りている駐車場代、なども含まれている」として、「およそ1割ぐらいが政務調査費に該当」するに過ぎないとする指摘を紹介しています。
 さらに、討議による調整のパターンとして、
(1)討議によっても一致を見出せないもの
(2)妥協を見出せるもの
(3)新しい提案をつくり出すもの
の3点を挙げ、「もちろん、公開による討議である」と述べています。
 このほか、夜間休日議会の可能性に関して、「これまでに、休日・夜間議会は、会議規則を改定せず、臨時的・試行的に開催されてきた」が、「最初は、傍聴者が増大しても次第に飽きられ減少してきた」上、「自治体職員の時間外手当がかさんできた」として、市川市議会、会津若松市議会では中止したと述べています。
 第8章「現在の地方議員像」では、「議員がいまだ住民代表とはいえないのではないかという疑問も聞かれる」として、「社会の多数を占めるサラリーマンや、半数を占める女性が議員になりにくい状況」について、「早急に改善しなければならない課題」だと述べています。
 そして、フランスの地方議員や首長が、「一般職公務員だけではなく、国会議員を兼ねることが多い」として、
(1)政治家の活動範囲を広げ、政治的影響力を大きくする。
(2)中央―地方間の意思疎通の回路となる。
(3)若手の政治家が、小さな自治体の議員から始め、首長、県議などから国会議員といったプロセスを支える。
などの効果を挙げています。
 また、「今後の議員は、住民の提言を政策化する調整と提案の能力、地域デザイン構想者としての提案を討議の能力、監視の能力をそれぞれ有して活動する」として、「これらの一連の過程には、市民的感覚という市民性とともに専門的能力を持つ専門性が必要となる」と述べ、「議員は市民感覚や専門能力という点では特別な人としては描けず、たら議員となることによって公的活動に積極的にかかわる意欲、及び選挙で当選できるネットワークを有していることからだけで区別されるべきであろう」と述べています。
 第9章「議員への公費支給とその監視」では、議員の「待遇」が、住民からは見えにくいところで、「第2報酬、第3報酬の意味を持っていることも少なくない」として、「待遇だけはプロだが、実際の議会活動はボランティア以下」という人も散見されると指摘されていると述べています。
 また、「議員の報酬を月給制から日給制に変えることもできる」として、福島県矢祭町議会の例を紹介しています。
 第10章「新しい議員を選出する制度」では、「制度的にも現実的にも、議員になれない職業がある」という問題を挙げた上で、「当該自治体の自治体職員でないならば、議員となることは問題はない」として、「兼業禁止の緩和」や、「休職制度の拡大などを社会的にも、さらには法律によって認知させることも検討してよい」と述べています。
 本書は、地方分権が進むと必然的に重要性が増す、地方議会の改革の方向を示してくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 こういう地方分権の流れを受けた議会改革の話をすると、まず出てくるのが市町村議会です。基礎的自治体の役割が劇的に変化するからということはありますが、ますます空洞化してしまう都道府県議会の、「明日はどっち」なのでしょうか。


■ どんな人にオススメ?

・地方議会なんかに関心を持ってない人。


■ 関連しそうな本

 村松 岐夫, 伊藤 光利 『地方議員の研究―日本的政治風土の主役たち』 2005年02月21日
 加藤 幸雄 『市町村議会の常識―「知らなかった」ではすまされない』
 橋場 利勝, 神原 勝 『栗山町発・議会基本条例』
 江藤 俊昭 (著), 自治体議会政策学会 (監修) 『増補版 自治を担う議会改革―住民と歩む協働型議会の実現―』
 大和田 一紘 『習うより慣れろの市町村財政分析―基礎からステップアップまで』
 神原 勝 『自治・議会基本条例論―自治体運営の先端を拓く』


■ 百夜百マンガ

杉浦日向子全集【杉浦日向子全集 】

 NHKの「お江戸でござる」で江戸時代の解説をしてくれる女性、ということでお茶の間にも愛されていましたが、本職は漫画家さんです。惜しまれます。

2008年12月 2日 (火)

格差社会の結末 富裕層の傲慢・貧困層の怠慢

■ 書籍情報

格差社会の結末 富裕層の傲慢・貧困層の怠慢   【格差社会の結末 富裕層の傲慢・貧困層の怠慢】(#1412)

  中野 雅至
  価格: ¥798 (税込)
  ソフトバンク クリエイティブ(2006/8/17)

 本書は、「小泉後の格差社会」の行方を予測することを目的としたものです。著者は、「格差」が、「政府の政策によって生み出された人工的なもの」(政災)か、「グローバリズムに身を任せた自然な結果」(天災)かという見方しだいで、「わが国の政治経済情勢は大きく変化する」と述べています。そして、本書の後半のテーマとして、「小さな政府路線を維持しながら格差社会の弊害を緩和するためには、どのような政策が必要とされるのか」を挙げています。
 第1章「格差社会は『政災』か、それとも、『天災』か」では、「格差は見せかけだけで思ったほどに格差は拡大していない」とする政府見解及び学者の通説に対し、「格差拡大派」が主に使う指標として、
(1)所得・消費・資産の格差
(2)貧困層の拡大
(3)賃金格差の拡大
(4)社会問題
等の指標を挙げています。
 そして、「『世帯・所得』を軸にすると格差は拡大していないように見えるが、『個人・賃金』を軸にすると若年層では格差が拡大している」と結論づけ、この点についてはコンセンサスができていると述べています。
 また、国民が格差拡大をどのように捉えているかについて、
(1)格差歓迎論者
(2)格差必要悪論者
(3)格差固定忌避論者
(4)格差忌避論者
(5)格差戸惑い論者(派)
の5つの「代表的見解」を挙げています。
 第2章「本当に小泉政権は格差拡大の真犯人なのか」では、「格差が拡大するような政策は90年代の自民党政権以来とられ続けてきたが、小泉政権がそれを一気に加速させたというのが『国民の率直な意識』だ」と述べた上で、「格差拡大の現況は小泉政権ではないにしても、格差拡大を加速させたのは小泉政権である」と国民の多くは考えていると述べています。
 そして、構造改革を柱にした小泉政権の特徴として、
(1)小さな政府路線
(2)成長重視
(3)バランス感覚
の3点を挙げた上で、「この3つの特徴が相まって、小泉政権と格差拡大の関係に対する国民の微妙な反応が現れているのではないか」と述べています。
 また、「間接金融から直接金融への移行」という大きな戦略の変更が持つ問題点として、
(1)「金持ち優遇」と同時に「証券投資で生活する」「証券投資で儲ける」という新たな生活方法を国民に持ち込んだ。
(2)国民の資金をリスクマネーに振り向けようという政策をどこまで国民に説明し、理解を求めていたのか。
(3)ライブドア事件に見られるような証券・金融市場の不備。
等の点を挙げています。
 さらに、人気が5年近くあったにもかかわらず、「国家の基本であり政治そのもの」である税制に手をつけなかったことは、「小泉政権の穏健さを良く示している」と述べ、「この部分にこそ小泉政権のポピュリズム性を見ざるを得ない」と述べています。
 著者は、「6割の人が小泉政権と格差拡大を関連づける理由」として、
(1)小泉政権時代を含めて長期不況の中で国民の生活環境が悪化したこと。
(2)一般国民の負担が増えたこと。
(3)景気回復の度合いに差が見られること
の3点を挙げた上で、「規制緩和を格差拡大の現況にすることは疑問」であり、「規制緩和は小泉政権で初めて実施された政策でもない」だけでなく、小泉政権における規制緩和の新しさは、「威張り散らしている官製市場や中央官庁」への挑戦であり、「真面目に汗水垂らして働く人々」をいじめるという側面に向けられたわけではないと述べています。
 また、「歴代自民党政権は工場の再配置や公共事業のばら撒きで地域間の格差を是正してきた」が、「小泉政権は公共事業を削減したために地域間格差の拡大が浮き彫りになった」として、「地域間格差の拡大と小泉改革とは明らかに関連があるだろう」と述べています。
 第3章「『格差容認』から『格差への怒り』に変わるXデーの条件とは」では、「格差が拡大しているにもかかわらず、格差是正を求めない国民の心情」について、国民の多くは、「グローバル経済は格差を拡大させる。しかし、これに対応しないと自国経済が危うくなり、自分達自身の生活レベルが落ちるのではないか」と危惧したとともに、「どの程度の格差が望ましいのかがわからなくなった」というのも国民の本音ではないかと述べています。
 また、「誰かが遅れているのでそれを社会全員で埋め合わせようという『凹型格差』の場合には平等主義が通用しやすいが、一部の人間が自己の才能や能力で前に出た結果できあがる『凸型格差』がどうしてダメなのかは正当化しにくい」とした上で、「機会の均等」を、
(1)誰でも平等にチャンスが与えられる。
(2)チャンスを活かせるかどうか把握まで本人の能力・運に依存するものであって、出自に依存するものではない。
という2点においては、「これまでの日本社会は諸外国に比べて機会均等が保障されてきた」が、「今わが国においては後者の機会均等の確保が危うくなりつつある」との懸念を示し、その背景にある要因として、
(1)親の格差があまりにも開いて、子供に影響を与えるようになった。
(2)「金持ちのどら息子」が少なくなった。最近は富裕層の息子が努力する一方で、貧乏人の息子ほど努力しないようになっている。
の2点を挙げています。
 そして、累進税制や社会福祉の充実といった所得再配分の恩恵を最も受ける貧困層自身にも正当性が求められるとして、
(1)貧困層に落ちら理由が正当か
(2)貧困層から抜け出そうと努力しているか
(3)貧困状態で犯罪などに手を染めていないか
の3つの角度から貧困層が正当性を持たない場合、「富裕層から税金を取り貧困層に再配分すべきであるという方向に、世論は向かないだろう」と述べています。
 第4章「富裕層は追い詰められるのか─『小さな政府路線』の持続性─」では、「格差拡大が政治の責任=『政災』にされてしまう」最大の理由として、
・国民は「格差が拡大している」という印象論に引きずられやすいこと
・政府だけが格差是正の手段を持っていること
の2点を挙げています。
 また、ニートと犯罪の関連については、「『ひきこもり』と呼ばれる若年者が起こす犯罪というのは目立つだけで実際には少ない」として、「ニートと犯罪は関係ない」ことを確認しておくべきだとしながらも、「バイアスをかけて見られるほどにニートが増加して一つの層を形成していることを、十分考慮に入れる必要がある」と述べています。
 さらに、政治家が行政改革の課題を引っ張りたがる理由として、「自分の人気を維持するために『行政改革』『行政批判』というカードをいつまでも温存したいにすぎない」と述べ、「役所や公務員に改善すべき点があるのであれば、それらをすべて提示して早急に改革すべき」だと述べています。
 そして、70年代までの日本は、「政府の強い介入(経済的規制・社会的規制〈解雇規制を含む〉)と所得再配分を軸にして『雇用による福祉』を実現してきた」が、富裕層から高い税金を取りながら、高齢化が進んでいないことから社会福祉にはそれほど予算を使わず、「公共事業や地方交付税を中心にインフラ整備や地域間格差の是正に使われた」として、「経済的規制と地域間格差の是正策で『雇用による福祉』を実現してきた」、「富裕層や大企業から税金を取り、業界と地方に配分した」と述べています。
 著者は、「これからの格差是正作は企業や個人の自由闊達な経済活動とグローバリゼーションを受け入れた上」で、
(1)富裕層や上級中間層に今以上の負担を求める
(2)そこから得た資金を現役世代の貧困層を中心に再配分する
(3)ただし、貧困層などに対して安易に生活保護を認めないし、彼らを大量に公務員として雇うことで生活を保障するといった「保護政策」は採用しない
(4)あくまで政府は弱者を粘り強くこまめにサポートし、彼らが働くことで自立できるようにするのが基本である
とすべきだとして、「ケインズ主義型福祉国家」から「シュンペーター型ワークフェア国家」を目指すべきだと述べています。
 第5章「格差社会への対応としてどのような政策が具体的に実行されるか」では、ワークフェア国家の全体像の大前提として、「企業と個人の自由は最大限尊重される」とした上で、
(1)誰から格差是正策の原資(税金、社会保険料)を取るか
(2)貧困層を中心にどのように再配分するか
(3)企業や個人の自由で公正な経済活動をどのようにして実現するか
(4)企業と個人の負担をどう考えるか
の4点がポイントとなると述べ、これらの4つを通じて実現される「小泉後の格差社会」のラフスケッチとして、
(1)個人や企業の自由な活動が損著す荒れる社会で、規制などは必要最小限に止める。
(2)その結果、格差が生じたとしても、その格差は自然の結果として受け止める。
(3)他方で、「格差が純粋に個々人間の競争の結果であること」「競争が公平公正なものであること」を確保するために工夫をこらす。
(4)格差が拡大・固定すれば社会が瓦解することを踏まえ、富裕層・中間層・貧困層を問わず個人、政府、企業の三者が「各自なりの一定の義務を負う」。
の4点を挙げています。
 第6章「『経済の法則』と『社会の法則』の切り分けを─日本社会に信頼関係を再び─」では、「今後日本経済の回復が本格化しない限り、格差拡大を懸念する声は強まり、政府の責任を追及する声が激しくなる。そのため、紆余曲折を経ながらも政府は富裕層からより多くの税金を徴収し、貧困層に再配分する政策を取るようになる」と述べています。
 そして、「日本社会からトラストという価値観がなくなりつつある」理由として、「古い日本的価値観が壊れる一方で、米国流の史上主義が影響力を増す中で、バブル崩壊後(=ポスト・バブル)の価値観が形成されていった」として、「総じて言えば、『和』から『競争』の時代へがポスト・バブルの特徴だと言っていい」と述べ、そうした枠組みの中で生じた支配的価値観として、
・実践重視
・若さ
・挑戦
・リスク
・失敗すればやり直せばいい
・自己中心
等を挙げ、「どれを見てもトラストという価値観を消失させていくには十分である」として、「ポスト・バブルの価値観はすべて『自己』に関連したものであり、他人のことを思いやったり、社会全体のことを考えるようなものはどこにもない」と指摘しています。
 そして、「このようなポスト・バブルの価値観は間もなく崩壊する」と考える理由として、
(1)ポスト・バブルの特徴である「挑戦者への賞賛」という雰囲気が国民の間から消滅しつつある。
(2)「自分の職業や生き方はつまらない。私もリスクを背負って起業するような挑戦的な生き方をしたい」という自分を卑下するような憧れがなくなること。
の2点を挙げています。
 本書は、ポスト・バブル社会の終りの始まりとしての「小泉後」をわりと長い目で分析した一冊です。


■ 個人的な視点から

 元公務員で、公務員バッシングに関する本を書いている人なので、何気なく公務員バッシングの心理についても言及しています。
 こういう評論家的なポジションは、一度世論を読み間違えて、立ち位置を踏み外すと、それまでの議論が全部崩れかねないので神経を使うのではないかと思います。


■ どんな人にオススメ?

・格差社会は小泉ひとりのせいだと思う人。


■ 関連しそうな本

 中野 雅至 『はめられた公務員』 2005年05月26日
 山田 昌弘 『希望格差社会―「負け組」の絶望感が日本を引き裂く』 2006年01月11日
 樋口 美雄, 財務省財務総合政策研究所 『日本の所得格差と社会階層』 2006年02月01日
 苅谷 剛彦 『階層化日本と教育危機―不平等再生産から意欲格差社会(インセンティブ・ディバイド)へ』 2006年02月14日
 佐藤 俊樹 『不平等社会日本―さよなら総中流』 2005年03月22日
 白波瀬 佐和子 『少子高齢社会のみえない格差―ジェンダー・世代・階層のゆくえ』 2006年03月10日


■ 百夜百マンガ

デス・スウィーパー【デス・スウィーパー 】

 昔はヤンジャンでちゃらい作品を書いていた人、という印象がありましたが、いつの間にか、外薗昌也みたいなタッチになってました。ある意味流行廃りから抜け出るにはいい方向なのではないかと思います。

2008年12月 1日 (月)

ブレアのイギリス―福祉のニューディールと新産業主義

■ 書籍情報

ブレアのイギリス―福祉のニューディールと新産業主義   【ブレアのイギリス―福祉のニューディールと新産業主義】(#1411)

  舟場 正富
  価格: ¥690 (税込)
  PHP研究所(1998/09)

 本書は、「労働組合の既得権の擁護からではなくて国民全体の視野に立った産業と生活体系の構図を提起」して政権に就いたブレア政権の誕生とその政策をまとめたものです。
 著者は、ニュー・レイバーが、「過去の社会主義的な2つのドグマをかなぐり捨てて出発した」として、
(1)高福祉高負担を肯定するケインズ主義的な福祉国家戦略
(2)生産手段の公有化が国民経済の水準を高めることができるという幻想
の2点を挙げ、「それは国民に仕事をするための能力と意欲を持たせ、技術革新と教育を重視する『新産業主義』の理念に基づくものといってよい」と述べています。
 第1章「ブレアの登場とニュー・レイバー」では、ブレアが一貫して主張していることとして、「国民一人一人が働く機会をもち、その成果を享受できる社会システムをつくることであり、それを実現するためにすべての社会組織体が協力するような政治的リーダーシップをとれる党をつくろうということ」だと述べています。
 そして、ニュー・レイバーが、「労働組合の組織的な支援を受け、その利益を政治的に主張する閉鎖的・硬直的なオールド・レイバーと手を切り、広く国民の付託に応える政党へと脱皮していった」と述べ、「レイバー・マニフェスト'97」が、「これまでのレイバーが尻尾にくっつけてきた、教条的な左翼思想を直接政策につなげていく青臭い発展途上社会型の社会主義をかなぐり捨てたもの」であり、「1980年代のイギリスで進行した脱工業化と民営化、市場原理の浸透などによる産業システムと国民生活の変化を鋭く見抜いて、成熟社会における政治社会変革が如何にあるべきかを国民に提示し、その信頼を問うことに成功した」と述べています。
 第2章「新産業主義への道」では、サッチャー政権が進めてきた産業政策として、「それまで制度的に確立していたイギリスの国内産業振興の方向を完全に転換させようとするもの」だとして、
(1)不況産業地域などの既存産業への支援を通じて地域格差の拡大を防止する政策を取りやめた。
(2)ロンドンを含む東南部イングランドの過密問題と、地方における衰退地域の共存問題に対して採用されていた首都機能の分散に見られるような地域格差の縮小政策をロンドンの衰退を招くということで取りやめることとなった。
の2点を挙げて今しう。
 そして、イギリス経済が好調な理由が、「サッチャー時代の置き土産」である面はあるが、「ブレア率いる新しい政権が打ち出した21世紀へのビジョンが国民の支持を得て、軌道に乗り始めたところが大きいのではないか」と述べ、ニュー・レイバーが選挙で、「何よりもイギリス人の持つプライドと能力、そして自立への自信の回復」を訴えたと述べています。
 また、「公共セクターの市場化を進めてきたトーリーの政策」に対し、ブレアは、「重要なことは国民の利益である。カウントされるべきは公共セクターの市場化がどれだけ役に立つかだ」として、「役に立つ市場化を進めることは否定しないという、従来のレイバーの考え方とは異なる見解を表明」したと述べています。
 第3章「教育大改革と社会再生への挑戦」では、選挙期間中に、ブレアが演説の最後を、「エデュケーション、エデュケーション、エデュケーション」と3回絶叫して結んだとした上で、「教育を改革するのは時間がかかる、しかし、それなしにはイギリス国民にとって未来はない、という認識をブレアは国民に対して訴えた」と述べ、ニュー・レイバーの主張は、「公立学校優先」というオールド・レイバーの「かつての価値観への忠誠を守ることではなくて、良い学校をつくり、既存の学校の質を向上させ、教室での基本的な学力の指導に対するインセンティブをいかにつくっていくかであった」と述べています。
 そして、「マニフェスト'97」での政策公約として、
(1)統一学力テストで成績の改善が見られなかった学校への制裁措置
(2)教育の停滞に対する責任追及
(3)グラント・メインテッド・スクール=オプトアウト校(教育省直接補助維持学校)への対応
(4)教師に関する新しい基準づくり
の4点を挙げ、「ブレア政権の教育に対する執念は、それがイギリスの新しい産業社会の命運を握っているという確信に基づいているといってよい」として、サッチャー時代との違いは、「教育のターゲットをどこにおいているか」であると述べています。
 また、イギリスにおける大学教育の財政システムが、「これまでの教育の社会的な役割に関する位置づけとしての『無料の原則』を取り払おうとしている」背景として、「社会の限られたコストの一部分をエリート育成に集中して振り向けるという従来の教育の役割が変化したこと、情報化を始め、教育の内容そのものも変化して、コストが上がってきていること」を挙げています。
 第4章「福祉のニューディール」では、ニュー・レイバーが提起した福祉が、「過去の福祉国家や失業者の減少を目指すマクロな景気刺激」でも、「福祉の対象者に対する手厚い保護を財政的に講じるような『大きな政府』志向の高福祉・高負担経済の再現」でもなく、「自ら『福祉のニューディール』と呼んでいるものであり、国民の自立心と意欲を引き出して、公共と民間の諸階層のパートナーシップを発揮して意向というものである」と述べています。
 そして、レイバーの「ウェルフェア・ツー・ワーク」のプログラムについて、「失業を減らして、社会保障経費のスパイラル的な増大を打ち破るもの」だとした上で、「全国に100万人いるシングル・マザー等に対するウェルフェア・ツー・ワーク計画が、「さまざまな波紋を投げかけた」として、「彼女たちに対する生活支援や児童手当を廃止する代わりに仕事に就かせるようにするという基本方針は出されたが、その具体化は容易ではない」と述べています。
 また、「福祉のニューディール」のもともとのねらいとして、「ウェルフェア・ツー・ワークの推進を通じて給付型の福祉の受給者に対して仕事ができる能力をつけ、働く機会を保証して、福祉給付依存の生活をとめるようにすること」だったとして、「教育雇用省の側で、失業中の若者やシングル・マザーに対するさまざまなメニューを用意して対策を講じて行った」と述べています。
 第5章「地方分権の推進とロンドン市の再生」では、「地方自治体が住民のニーズで出発させてきた福祉事業や制度を国に認めさせ、全国的な制度にすることによって補助金を引き出す、あるいは集権的な福祉にしていくという経過」がイギリスでも見られたとしたうえで、「『先取り福祉』や『上乗せ福祉』が争点となり、中央政府にそれを受け止める財源があるときには、地方自治と福祉の向上は両立する」が、「イギリスでは、NHS(国民医療サービス)を始めとして、多くの給付型の福祉は中央に集権化され、地方自治はそうした制度をつくるための手段となり、受益と負担の関係が切れてしまった中での高福祉高負担への批判がサッチャーの登場を促したことの一因」だと述べています。
 また、1986年以来、サッチャー首相時代の法律改正で、ロンドン市が廃止されたことについて、「首都のあり方をめぐるサッチャーとレイバー自治体の間のビジョンの違いが、こうした荒療治を生んだ」と述べています。
 そして、新しいGLA(Greater London Authority=大ロンドン市)の設置計画が、1997年7月にニュー・レイバーによって、「ロンドン市実現への新しい方向──大ロンドン市に対する政府の提案」として提出され、1998年5月7日のレファレンダム(住民投票)の結果、71%の得票を得て、「ロンドン市は近代イギリスの歴史上初めての直接公選市長を持つことが決まった」と述べています。
 「むすび」では、「イギリスにおけるブレア政権の成立とその後の展開を解明」する中で強調したい点として、
(1)ニュー・レイバーが、福祉国家や企業国家、社会主義国家といった20世紀の壮大な社会システムに対して、個人や社会のそれぞれのグループの自立心、自己責任とその連携を対置し、人々が自分たちでできること、明日からできることを見出せるような筋道をつけたこと。
(2)技術革新、とくに情報化時代に突入していく時代の流れを鋭くキャッチして、それに対応できる国をつくらなければならないという強烈な問題意識。
(3)ブレア政権の教育の再生への取り組みを解明したこと。
(4)「福祉のビッグバン」、あるいは「福祉のニューディール」として開始されたウェルフェア・ツー・ワーク(仕事のための福祉)。
(5)地方自治の確立問題について、多くの懸案課題を一挙に解決するような取り組みを見せたこと。
の5点を挙げています。
 本書は、約10年間のブレア時代がスタートしたときのイギリスの期待の大きさと熱気を伝えてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 さすがに、ブレア政権誕生直後に書かれただけあって、ブレア時代を総括するような内容にはなっていませんが、本書を読むとブレアに対する期待の大きさを感じることができます。
 その意味では、『シャッチャー時代のイギリス』の続編を目指した『ブレア時代のイギリス』(2005)をあわせて読む必要があるのかもしれません。


■ どんな人にオススメ?

・ブレアに対する期待の大きさを感じてみたい人。


■ 関連しそうな本

 山口 二郎 『ブレア時代のイギリス』
 アンソニー ギデンズ (著), , 佐和 隆光 (翻訳) 『第三の道―効率と公正の新たな同盟』 2007年11月16日
 ジェフリー・W. メイナード (著), 新保 生二 (翻訳) 『サッチャーの経済革命』 2005年08月04日
 ポリー・トインビー (著), 椋田 直子 (翻訳) 『ハードワーク~低賃金で働くということ』 2006年03月08日
 アンソニー ギデンズ (著), 今枝 法之, 干川 剛史 (翻訳) 『第三の道とその批判』
 小堀 真裕 『サッチャリズムとブレア政治―コンセンサスの変容、規制国家の強まり、そして新しい左右軸』


■ 百夜百マンガ

味いちもんめ【味いちもんめ 】

 いつの間にか20年以上の長期連載となってしまった作品。長い間には原作者の急逝による連載中止、再開などを経ています。主人公も歳をとってもいいはずなのですがその辺りは少しゆっくりなようです。

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