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2009年1月

2009年1月31日 (土)

選挙の裏側ってこんなに面白いんだ!スペシャル

■ 書籍情報

選挙の裏側ってこんなに面白いんだ!スペシャル   【選挙の裏側ってこんなに面白いんだ!スペシャル】(#1472)

  三浦 博史, 前田 和男
  価格: ¥1365 (税込)
  ビジネス社(2007/06)

 本書は、「やればやるほど奥が深くて、面白い発見がある」という、著者らが体験した「選挙の醍醐味」を、「一人でも多くの有権者に知ってもらいたい」という動機でかかれたものです。
 第1章「選挙の常識、世間の非常識」では、「選挙プロ」と「選挙ゴロ」は違うとして、「この両社が混同されているために、『選挙のプロ』と聞くと、非常に胡散臭いイメージが持たれる」と述べています。
 また、公選法について、「古今東西どんな選挙でも、候補者は有権者と生でふれあい、政治に参加してきた。それがイギリスの憲政の出発点であり、原点でもある」として、「戸別訪問を禁止する日本の公選法は、世界一レアものの一つ」だと指摘しています。
 そして、選挙違反に関して、「ラーメン1杯、弁当1個でも、れっきとした買収になる」として、選挙事務所ではベテランから「あんたらが飲食してる店は、警察が後で行って、金額と支払い方法も含めてチェックしてるから、注意しいや」と警告があったこと、「買収」には「投票買収」と「運動買収」があり、「これまではもっぱら前者が取り締まりの主要対象とされてきた」が、後者についても取締りが厳しくなったこと、「安全な選挙」のためには、
(1)銀行は使わず全て現金で処理せよ
(2)電話、携帯は盗聴されていることを前提で使用せよ
(3)メモはとるな
(4)選対会議のレジュメはつくるな、口頭でせよ
(5)パソコンは選挙終了後に破壊せよ
(6)文書類はすべて処分せよ
など、「秘密地下組織かテロリストの掟」と見まがうほどの注意が必要になっていることなどを解説しています。
 さらに、著者の一人、三浦氏の「個人的な意見」として、「実は、この国に革新系という層は、団塊の世代を除いていない、ということを最近発見した」と述べています。
 また、日本の広告代理店の選挙における役割に関して、「日本の広告代理店は肝心なPRについて去勢されている」と指摘し、その歴史的背景として、「第二次大戦後、日本に乗り込んできたアメリカの占領軍がやった占領政策の中で、『大東亜共栄圏』のような日本の軍国主義的思潮、ならびにそのPRは徹底的に排除」され、「そのプロセスで、戦前からあった日本の優秀なプロパガンダ技術も同時に封印され、広告宣伝会社は実質的にメディアバイイング(スペースブローカー)が中心となってしまった」と述べています。
 第2章「勝てる選挙、負ける選挙」では、「選挙はタマ(候補者)次第」だとして、「悪いタヤを担ぐはめになると、どんなに優れた戦術を駆使しても一敗地にまみれる」と述べた上で、「この強さは本物だとイチオシする」候補者として、野田聖子を挙げ、「足のかかとを披露骨折」するほど「歩き作戦」を徹底し、帝国ホテルに4年勤めたときには、新人研修の便所研修で、「先輩社員が自分の掃除した便器に水を入れ、それをコップですくって飲んだ」のを見せられ、「負けてなるかと便器を磨き、水を飲んだ」という「本物のつよさ」を持った政治家だとして、「政治家の真贋を見分ける。そんな意識で自分の選挙区を見直してみれば、またあらたな選挙の面白さがわかってくる」と述べています。
 また、有権者に対する「個別接触」で成果をあげている政治家として、上田清司埼玉県知事を挙げ、地元のコンサートやイベントで、「さいたまアリーナ」クラスの会場でも、「一番前の席から順に名刺を配って」いき、「何百枚、何千枚と配って、開演前には帰るらしい」と述べ、松下政経塾では、「電車に乗って、一番端の乗客から順に名刺を何枚配れるかということを競争した」ことを紹介しています。
 そして、選挙に勝てそうな「タマ」の見分け方として、「いいタマ」は「演説で聴衆の心をつかむのがうまい」と述べ、「演説の極意は『カラオケ十八番』。自分の得意なものを自分の言葉で繰り返し話す」、「どんな街頭、会場でも、何度も動員された人以外は、百人中九十九人が初めて候補者を見る、聴く」のだと述べています。
 さらに、「公示(告示)日の午前中に選挙ポスターを公営掲示板に貼り終えているかが、およそ各々の選対(陣営)のパワーのリトマス試験紙だ」と述べています。
 第3章「情報を制するものが選挙を制す」では、「あなたはどの候補に投票しますか?」という類の「事前世論調査」が欠かせないとそてい、千サンプルで150万円という費用の高さがあるが、「調査はやはりプロに任せないと大変なことになる」と述べ、「政令指定都市の市長や都道府県知事、国政選挙クラスでは候補者陣営が独自に調査することが当たり前になってきている」としています。
 そして、都知事選の浅野陣営の情報収集活動が、「マスコミに頼っていたのだから、お粗末以前の話だ」と述べています。
 また、「新聞予想の読み方」として、デッドヒート状態では、「横一線」「競り合う」「接戦」などの表現が使われるが、「実に単純明快で、先に名前が書かれている候補が有利」なのだと述べています。
 本書は、選挙という祭りの裏で繰り広げられている「情報戦」の一端を垣間見ることができる一冊です。


■ 個人的な視点から

 2007年4月の都知事選で、石原陣営と浅野陣営に分かれて戦った選挙参謀どうしが6月にはこういう面白い本を出してしまうということは、統一地方選と参院選が重なった「亥年」という選挙の特異年ゆえの盛り上がりがあったからでしょうか。


■ どんな人にオススメ?

・選挙の世界は胡散臭いと思う人。


■ 関連しそうな本

 三浦 博史 『舞台ウラの選挙―"人の心"を最後に動かす決め手とは!』 2008年07月22日
 前田 和男 『選挙参謀―三ヵ月で代議士になれる!』
 井上 和子 『選挙裏物語―「当選確率80%」スゴ腕選挙コーディネーターが明かす選挙のすべて』 2007年10月30日
 杉本 仁 『選挙の民俗誌―日本的政治風土の基層』 2007年11月07日
 季武 嘉也 『選挙違反の歴史―ウラからみた日本の100年』 2007年10月02日
 藤谷 治 『いなかのせんきょ』 2006年10月28日


■ 百夜百音

Pablo Honey【Pablo Honey】 Radiohead オリジナル盤発売: 1993

 当時のブリティッシュの雰囲気というか、もう15年も前になってしまうのですね。やっぱりバンドはいいです。

2009年1月30日 (金)

カラオケ秘史―創意工夫の世界革命

■ 書籍情報

カラオケ秘史―創意工夫の世界革命   【カラオケ秘史―創意工夫の世界革命】(#1471)

  烏賀陽 弘道
  価格: ¥714 (税込)
  新潮社(2008/12)

 本書は、「ウォークマン」と並ぶ、「戦後日本人が作り上げた世界的な発明」である「カラオケ」の「正史」です。著者は、「これほど巨大なマスメディアであるカラオケの歴史を、通史として正確に記述した本や資料が、いまだに見当たらない」と指摘しています。
 第1章「『カラオケの発明者』になりそこねた男」では、「誰が『発明者』か、というのは実ははっきりしない」として、「アマチュアの歌い手が娯楽として歌をうたうための機械と音源、周辺機器」である「カラオケ」の発明者について、「最初にカラオケ機械をつくった人物ではないにもかかわらず『カラオケの発明者』として最も有名になった人物」は、神戸市でクラブ専属の伴奏ミュージシャンをしていた井上大祐であるが、井上より4年ほど前にほぼ同じシステムをつくって、ある程度の台数を打った人物として、東京・板橋で電気部品組み立ての町工場を経営していた根岸重一を挙げ、井上が世界の有名人になり、根岸が歴史の波に消えた理由として、「井上が基本的に『素人の歌い手』を客に育った『流しのミュージシャン』であり、カラオケ音源も自作したのに対して、根岸は機械作りの専門家、言うなれば歌好きのエンジニアで、音源テープを自分ではつくらなかったから」だと述べています。
 そして、井上が、「客の歌を聴いて、瞬時に曲のアレンジとテンポを変え、転調させる能力」をもち、「いかに歌いやすく、どれだけ新曲が入ってくるか。歌のテープが命」だと思っていたこと、「流し」の同業者の集会でも、「こんな音程も変えられんようなチンケな機械に負ける言わはるんですか」と会場を押さえたのに対し、根岸は、カラオケ機を販売しても、地元の「流し」の反発にあって返品され、また、元々NHKから借りたプロ用の伴奏からスタートした伴奏テープは、「素人が歌うには難しすぎた」ことから、カラオケ事業から撤退したことを解説しています。
 第2章「カラオケボックスを考案した弁当屋のおじさん」では、カラオケが「日本人の娯楽の横綱」に成長するには、
(1)カラオケボックス
(2)通信カラオケ
の2つの技術的なブレイク・スルーが必要だったとして、(1)については本章で、(2)については次章で述べるとしています。
 そして、元トラック運転手で、ロードサイドでコンテナを転用した運転手向けの弁当屋兼食堂を経営していた佐藤洋一が、妻の交通事故をきっかけに経営していた「カラオケ喫茶」を休み、カラオケの機材を食堂に持ってきたことから、コンテナのカラオケボックスが誕生したとしたうえで、その利点として、
(1)建物を新たに作る必要がなく手続きが少ない。
(2)運び入れるのが簡単。
(3)撤退も簡単。
(4)地主の心理的な負担も軽く、土地を借りやすい。
などの点を挙げています。
 さらに、「カラオケボックスにはそれまでの『盛り場型カラオケ』の欠点がなかった」として、「時間貸しのプライベート空間」であるカラオケボックスが、「いかにカラオケに対する敷居を下げたか、その客数の爆発的な増加」で明らかだとするとともに、土地バブル景気の最盛期であった当時、「土地から効率よく利益を得たい」と狙っていた地主にとっても、「うってつけだった」と述べています。
 著者は、「85年には岡山県の田んぼに一つしかなかったカラオケボックスは、わずか5年後の90年には全国で5万2578室と、まるで『ビッグバン』のように急激に数を増やしていった」と述べ、さらに、90年1月には「第一興商」が都心部のビルの中に進出し、現在では主流になった「ビル・イン型カラオケボックス」を開発、93年には病院や企業への給食、レストラン経営の「シダックス」が食事メニューの高級化によって急激に店舗数を増やしていったと述べています。
 第3章「原子力博士はなぜミシン会社で通信カラオケをつくったのか」では、80年代後半のレーザーカラオケ等の欠点として、
(1)LDやCDが増えると、場所を食う。
(2)LDなどの切り替えに手間、人手を食う。
(3)新曲の配信に時間がかかる。
を挙げています。
 また、カラオケ市場のみならずポピュラー音楽そのものまで激変させることになった通信カラオケのシステムを開発したのが、ミシンメーカーの老舗「ブラザー工業」の子会社「エクシング」であることについて、原子力工学の博士豪を持つエンジニア安友雄一の名を挙げ、ブラザー工業が、「脱ミシン依存」のために、「全く異分野の頭脳」を求め、「好きなことを何でもやればいい」とリクルートしてきた安友に、ニューメディア事業の立ち上げを指示、1984年、「客の注文が来たときに電話回線でソフトウェアを送って売る『在庫なし・品切れなしのパソコンソフトの自動販売機』」である「TAKERU」を考案したと述べています。
 そして、回線費用の高さや市場の小ささなどから、「通信回線で送れるデータで、爆発的な需要のある」新しいアイディアを探していた安友が、通信カラオケのアイディアをひらめいた瞬間を、「JR水道橋駅の交差点で信号待ちをしていた安友の脳裏に『まるで雨が降り始めるように』アイディアがひらめいた」として、本人は、「突然雷が落ちて回路がショートしたような感じ」と語っていると述べています。
 安友は、この通信カラオケ実現のために、「会社には内緒のまま、TAKERUにある『装置』を積み込んでおいた」として、「昼間、ソフトの自動販売機として働いていたTAKERUが、閉店後はカラオケデータの中継局になるように、こっそり改造しておいた」ことについて、「この約300という多数の中継局コンピュータを事前に整備しておいたことが、後に通信カラオケの競争時代に突入したときに同業他社との明暗を分けることになる」と述べています。
 そして、「最初の3千曲を完成させるまでは地獄の毎日」だったとして、新製品の発売に間に合わせるために「百人をビルに監禁」した上で、テスト演奏を聴き続けたために安友自身も難聴になり、「今も、安友の両耳は4キロヘルツの高音域が聞こえない」と述べています。
 また、カラオケデータを再生するハードウエアも「ゼロから作らなければならな」かったとして、「命が危ないですよ!」等各メーカーに仰天される中で、MIDIの開発メーカーであるローランド社の協力を得て、端末装置「JS-1」を開発、この「MIDIデータの受信と再生に特化し、シンセサイザーと同じ音源チップをつんだネットワーク型自動演奏コンピュータ」が、米国デジタル・リサーチ社のDR-DOSをOSとしたものであったと述べた上で、ゲーム機メーカーの「タイトー」が、2ヵ月早く通信カラオケ「X-2000」を売り出し、通信カラオケ市場で主導権を握ったが、「途中にサブホスト・コンピュータ=中継基地をおくかどうか」が「最後はシステムとしての勝敗を決めることに」なったと述べています。
 さらに、安友が会社に内緒で様々な「仕込み」をしていたことについて、JS-1の発売1年前に、心配して様子を見に来たブラザーの安井義博社長から「そろそろ設備投資が必要なんじゃないのか」と尋ねられたときに初めて、「実はもうやっちゃってるんです」と告白したことや、歌詞に連動した動画を再生するシステムで先行したときに、競合のライバル会社だけでなく、ブラザー工業の上層部も「なんでウチの会社がこんあことできるんだ?」と仰天していたと述べ、97年ころにカラオケ市場に翳りが見えると、エクシングは携帯電話用着メロ配信事業に乗り出し、「エクシングはブラザーグループの利益の約6分の1を稼ぎ出すようになっていた」と述べています。
 第4章「音源づくりの耳コピー職人は自宅作業をしていた」では、現在の通信カラオケが、「どこかで誰かが楽曲をパソコンでMIDIに変換するという作業をしている」として、そのデータは、「楽器の音符を一音一音『耳コピー』して、パソコンにMIDIデータを手で『打ち込んで』」つくられていると述べ、「8万から9万曲あるといわれている通信カラオケの楽曲(2008年現在)づくりを支えている」のは、「マンションの一室で一人黙々と耳コピーをしながらコンピュータをたたいている人たちなのである」と述べています。
 そして、カラオケ音源のような手作業は、「中国や韓国など人件費の安い国に外注するということ」も考えられるが、「やはりどうしても日本人がつくった音源が『最高』なのだ』と述べ、アメリカ人にカラオケデータを作らせると、原曲どおりに作らず、「俺のプレイの方がカッコいいだろう」」と堂々としていると述べています。
 本書は、お父さんだけのものではなく、子供からお年寄まで欠かせない日本人の娯楽になったカラオケの歴史を伝えてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 クレイジーキャッツの名曲に「無責任一代男」というのがありますが、その中に、「ゴルフに小唄にゴの相手」というのがあり、「小唄」ってなんだろうと思ってましたが、本書によれば、昭和30年代のサラリーマンの宴席での嗜みとして小唄がはやり、ゴルフ、囲碁、小唄は「三ゴ」と呼ばれていてエリートサラリーマンの必須科目だったようです。
 ちなみ私は何一つできません。


■ どんな人にオススメ?

・カラオケはあって当たり前だと思っている人。


■ 関連しそうな本

 ジョウ・シュン, フランチェスカ・タロッコ (著), 松田 和也 (翻訳) 『カラオケ化する世界』 2008年07月08日
 烏賀陽 弘道 『Jポップの心象風景』
 烏賀陽 弘道 『Jポップとは何か―巨大化する音楽産業』
 野口 恒 『カラオケ文化産業論 21世紀の「生きがい社会」をつくる』
 中村 伊知哉, 小野打 恵 『日本のポップパワー―世界を変えるコンテンツの実像』 2006年11月29日
 堀淵 清治 『萌えるアメリカ 米国人はいかにしてMANGAを読むようになったか』 2007年04月15日


■ 百夜百マンガ

以蔵の青春【以蔵の青春 】

 『行け!!南国アイスホッケー部』にしても、『工業哀歌バレーボーイズ』にしても、連載開始後見る見るうちに、スポーツマンガだったことが忘れられてしまう作品がありますが、こういうのは連載を続けていく上でのうまい戦略なのでしょうか。

2009年1月29日 (木)

病気はなぜ、あるのか―進化医学による新しい理解

■ 書籍情報

病気はなぜ、あるのか―進化医学による新しい理解   【病気はなぜ、あるのか―進化医学による新しい理解】(#1470)

  ランドルフ・M. ネシー, ジョージ・C. ウィリアムズ (著), 長谷川 真理子, 青木 千里, 長谷川 寿一 (翻訳)
  価格: ¥4410 (税込)
  新曜社(2001/4/15)

 本書は、「欧米において、ダーウィン医学(進化医学)について一般向けに書かれた初めての概説書」の邦訳で、「疾患のある細胞や組織、器官ごとに病気を分類する従来の観点」とは異なり、「病気の原因を防御、感染、新奇環境、遺伝子、設計上の妥協、進化的遺産といった諸点から論じて」います。
 第1章「病気の神秘」では、「私たちのからだはこんなにもうまくできた構造をしているにもかかわらず、なぜ、病気にかかりやすくさせるような欠陥やもろさを無数に抱えているのだろうか」と問い、また、「私たちの行動や感情さえも、いたずら者によって作られたかのよう」だとして、
・からだによくない食べ物をほしがり、
・太りすぎだとわかっていながら食べ続け、
・欲望を抑えられないほど意志は弱く、
・男性と女性の性的反応は不調和で、
・多くの人間がつねに不安に刈られ、
・喜びは長続きせず、目標に到達しても新しい欲望を感じる。
ことなどを挙げ、「私たちのからだは、驚くほど精密であると同時に、信じられないほどずさん」だと述べています。
 そして、「この矛盾を解決するためには、それぞれの病気の進化的な原因を見つけなければならない」として、
・至近要因:形質を描写するもの。
・進化的要因:なぜDNAがその形質を特定しているのか、なぜ、私たちはある構造を作らせるDNAはもっているのに、他の構造を作らせるDNAを持っていないのかに関するもの。
を注意深く区別することで、「生物学上の多くの疑問がもっとよく理解できるようになる」と述べ、「進化的仮説は、至近的なメカニズムの中には何があるはずかを予測する」として、「病気の進化的期限を決定しようとすること」は、「まだほとんど使われていないが、病気を理解し、防止し、治療するために決定的に必要な道具」だと述べています。
 また、「いったいなぜ、ある特定の病気が存在するのだろうか」を理解するために、病気の進化的説明として、
(1)防御
(2)感染
(3)新しい環境
(4)遺伝子
(5)設計上の妥協
(6)進化の遺産
の6つのカテゴリーを提案しています。
 第2章「自然淘汰による進化」では、「私たちは、自然界の生物は幸せで健康なものだと考えたがるが、自然淘汰は、私たちの降伏には微塵も関心がなく、遺伝子の利益になるときだけ、健康を促進する」として、「もし、不安、心臓病、近視、通風や癌が、繁殖成功度を高めることに何らかのかたちで関与しているならば、それらは自然淘汰によって」遺されると述べています。
 そして、「多くの人々が、ある形質の機能を問うのは科学的ではなく、『目的論的』あるいは、『憶測にすぎない』ので、科学的な探求の対象としては不適切だと考えている」が、「この考えは間違って」おり、「生物学的形質の適応的機能についての疑問は、解剖学や生理学についての疑問と同じように、科学的に扱うことができる」と述べています。
 また、「私たちの目的は、何か特定の仮説を証明することではなく、進化的な設問が、興味深く、重要で、検証可能であることを示すことにある」と述べています。
 第3章「感染症の徴候と症状」では、「私たちのからだには、関連のある防御メカニズムがあるが、ほとんどの人はそれに気づいておらず、医者はときどき、そのつもりはないのだが邪魔をしてしまう」として、
・慢性の結核患者の低い鉄分レベルを上げるために鉄剤を与えて感染が悪化する。
・マサイ族で、アメーバに感染する人は10%に満たないが、鉄剤を与えると、88%の人が間もなくアメーバに感染した。
等の例を挙げ、「鉄分は、最近にとって重要かつ希少な資源であり、細菌の宿主は、細菌たちに鉄分を取らせまいとするありとあらゆるメカニズムを進化させてきた」と述べています。
 また、寄生者の適応の例として、「宿主の操作(host manipulation)」と呼ばれるものを挙げ、「帰省者は、微妙な科学的な影響によって、宿主のからだの機構を何らかのかたちで支配し、宿主よりも寄生者に有利になるようにからだを働かせることができる」として、
・アリとヒツジの間を行ったりきたりするある種の寄生虫が、アリの神経系のある部位に入り込み、アリに草の葉の上まで上らせ、そこにしがみついて離れられないようにさせることで、アリがヒツジに食べられる確率がずっと高くなる。
・ある種の寄生虫は、巻貝をむき出しの岩や砂の高いところによじ登らせ、そこにとどまらせることで、カモメに食べられやすくする。
・狂犬病のウィルスは、感染した個体の噛み傷から体内に入り込み、脳に移動し、攻撃性を調整する部位に集まり、宿主を攻撃的に振舞わせ、噛み付かせることによって他の個体に感染する。また、物を飲み込むときの筋肉を麻痺させ、ウィルスを満載した唾液が口の中にとどまることによって、感染しやすさを増加させる。
等の例を挙げています。
 さらに、病気への機能的なアプローチとして、
(1)病気の徴候と症状を機能的に分類することは、重要であり、役に立つ。
(2)病原体が宿主を操作しているのか、それとも、宿主の防御を攻撃しているのかを見極める必要もある。
(3)本性の考え方を医者が使うように明確に教えられたことがなく、感染症を考えるときにこれらの本質的な考えを無視しやすくなる。
の3点を挙げています。
 第4章「終りなき軍拡競争」でjは、「捕食者とその獲物との競争と同じく、宿主と寄生者との戦いも、だんだんと拡大する軍拡競争を引き起こし、それは、大量の危険な出費をかけさせて、とてつもなく複雑な武器と防御を生み出す」とした上で、「私たちは、自然淘汰によって、恐ろしいほど効果的な科学戦争のシステムを備えている」と述べています。
 第5章「ケガ」では、「痛みや恐れは役に立つものであり、それを感じない人たちは非常に不利である」として、「痛みの感覚を持たずに生まれてきたまれな人たちは、30歳までにほとんど全員が死ぬ。もし、恐れを感じる能力を持たずに生まれてきた人たちがいるとすれば、救急治療室か、死体置場を探せば見つかるに違いない」と述べ、「痛みや恐れは、私たちに、危険を警告してくれる正常な防御なのである」と述べています。
 第6章「毒素──新、旧、いたるところ」では、「私たちは今や、ほんの少し前にすら存在しなかった数多くの毒素にされされている一方で、石器維持代や初期農耕時代以来、多くの自然の毒素にされされる機会はずっと少なくなった」としたうえで、「自然環境にどれだけ多くの毒素が存在するかということ、そしてそれに対する私たちの進化的な適応について強調する理由の一つ」として、「新種の毒素の医学的な重要性に関する見解を提供したい」と述べています。
 そして、「適応論的プログラムに完全に先進している一人の生物学者」であるマージー・プロフェットが、つわりについて、「胎児の毒素に対する弱さがほとんど正確に妊娠中の吐き気の経過とぴったり対応していること」に着目し、「妊娠中の吐き気や食べ物に対する嫌悪は母親の食事に制限を与え、それによって、胎児が毒素にさらされる機会を最小限にするように進化した」と論じていることを紹介しています。
 第7章「遺伝子病気──欠陥、変わり者、妥協」では、近視が、「目の過剰な成長にによって」起こるとした上で、「進化学者にとってまず問題なのは、いったいなぜ遺伝病自体が存在するのかを説明すること」だと述べ、「自然淘汰では、健康が淘汰上有利になるのではなく、繁殖成功のみが有利になる。もし、遺伝子が生存する子どもの平均数を減らさないならば、たとえそれが、破壊的な病気を起こそうとも、その頻度が高いまま残るだろう」と解説しています。
 そして、「病気の原因となるにもかかわらずと歌上有利となっている遺伝子」の例として、鎌状赤血球対立遺伝子を挙げ、この遺伝子が、
(1)その遺伝子は広い範囲に分布しておらず、元をたどれば熱帯アフリカに住んでいた人々の子孫にほとんど限られている。
(2)ヘモグロビンの変化は、かなり単純な適応であり、鎌状赤血球対立遺伝子が、正常なヘモグロビンの対立遺伝子と違うのは、たった1個のAに取って代わるたった1個のTだけである。
(3)この場合には、1つの遺伝子座に働きかける並外れて強い淘汰が存在する。
の3つの理由で珍しいものとしています。
 また、「近視は、その原因が強度の遺伝的であると同時に、強度に環境的なものでもある病気の古典的な実例」だとした上で、「他の多くの病気もまた、複雑な遺伝・環境相互作用に起因している」と述べ、「病気の遺伝的基盤の研究は、すみずみまで奨励されるべきであり、臨床医学はそのような研究が提供する情報を上手に利用することができる」と述べています。
 第8章「若さの泉としての老化」では、アルツハイマー病が、「脳の中でも、ずっと最近になってから進化した部位の異常である」として、「過去400万年以上にわたって、人間の脳を非常に急速に増大させた遺伝子の変化が、ある人々にアルツハイマー病を起こさせているか、または、他の遺伝子の変化によって打ち消されることがまだないような副作用を生んでいるのではないか」と述べています。
 そして、「医学の進歩が私たちの寿命を劇的に延ばすことはないだろうということを知ると、落胆もするが、同時にほっとすることでもある」と述べています。
 第9章「進化史の遺産」では、「人類の進化を通じてだけでなく、脊椎動物全体の進化を通じて、常に死亡の原因となってきた」窒息死について、「すべての脊椎動物は皆同じ設計上の欠陥」、すなわち、「私たちの口腔は、鼻の下、そして前方に位置しているが、食べ物の通り道である食道は、胸の中では、空気が通る気管の後ろ側にあるので、その2つの管は喉で交差しなければならない」と述べています。
 また、「私たちは、とくに、石器時代の状態に適応している」として、「その状態は数千年前に終りを遂げたが、進化は、それ以来、人口密集した世界、現代の社会経済的な状態、からだをほとんど動かさない生活など、現代的環境の多くの新しい側面に人間を適応させる時間がなかった」とした上で、「人間の祖先の狩猟採集民たちが、大変な苦難とともに活きていたというのは、不愉快ではあるが事実である」として、「人々は、実行可能な限りの最大限に近い率で繁殖していたにもかかわらず、常に死が繁殖を帳消しにしていた」と延べています。
 さらに、「人間の本性は、人類学者たちが最近、『進化的適応環境(EEA: the environment of evolutionary adaptedness)』と読んでいるものの中で形成された」と述べています。
 第10章「文明化がもたらした病気」では、「今や、若いうちに天然痘や虫垂炎や難産や狩猟のときの事故で死ぬ人の数が少ないので、年をとってから、癌や心臓発作で死ぬ人の数が、数世代前よりも格段に多くなっている」として、「10歳または30歳でライオンに食われなかったことの代価は、80歳で心臓発作を起こすことなのだ」と述べています。
 そして、「私たちの職位jに関する問題は、石器時代の条件下で進化した味覚と、それが現代にもたらす影響とのミスマッチである」として、「脂肪、砂糖、塩は、私たちの進化の歴史のほとんどすべてを通して、常に不足していた」ため、「もっとこれらの物質を食べた方が健康によく、より多くそれらを欲しがり、手には入れようとすることは、常に適応的であった」が、「現代社会における、阻止可能な病気のほとんどは、脂肪過多な食事の悪い効果の結果生じている」として、「食物のエネルギーを極度に高い効率で抽出し、貯蔵すること」ができる「倹約的遺伝子型」の人は、「長く続く食物不足の時期に、もっと効率よく脂肪を蓄えられなかった仲間たちよりもよく生き延びたのだろう」が、「食物の欠乏などありえない世界では適応的でない」と述べています。
 第11章「アレルギー」では、アレルギーが、「反応が敏感すぎる」とされることについて、
(1)単に程度の問題ではな。アレルギーでない人は、それが大量にあってもなんの明らかな反応も示さない。
(2)アレルギーは、明確な機能を持って普通はうまく働いているシステムが、過激な反応を起こすのではない。
の2点を挙げています。
 そして、免疫グロブリンE(IgE)システムについて、生物学者のマージー・プロフェットが、「毒に対する防御のバックアップとして進化したのではないか」と考えていることを紹介しています。
 また、IgEシステムの潜在的機能として、「ダニ、シラミ、ノミ、南京虫などの外部寄生虫に対する防御である」とする説を紹介しています。
 第12章「癌」では、「なぜ、私たちの中には、癌で死なずに何十年も生き続けられる人がいるのだろうか?」、「どうして、多くの細胞は、何十年も成長を抑えるというような不自然なことができるのだろう?」と述べ、「私たちは、自分に都合のよいように癌の発生を食い止める、素晴らしいメカニズムを備えているに違いない」と述べています。
 また、「癌の発生が加齢とともに増加すること」は、適応が、「それが進化してきた環境において、もっともよく働く。私たちが備えている癌制御の機構その他の重要な機能は、80歳の老人を生かすために進化したのではない。それほど歳をとったヒトの肉体は、ヒトの遺伝子とその生産物にとって異常な環境であり、石器時代には、そんなものはほとんどなかったのだ」と述べています。
 第13章「性と繁殖」では、「報われない愛、恋人どうしのけんか、早漏、インポテンツ、オーガズムの欠如、月経困難、難産、乳児の育てにくさ、両親と子どもの間での避けられない葛藤などなど、繁殖には揉め事と悩み事がいっぱいである」として、「なぜ、繁殖はこんなにも多くの葛藤と惨めさを伴うのだろうか? それは、まさにそれが適応度にとって決定的に重要だからなのだ」と述べ、「それは、非常に強い競争の核となるものであり、だからこそ問題をたくさん含んでいるのである」と述べています。
 そして、配偶相手の選び方について、「男性は、繁殖力と性的な忠実さにより興味をもち、女性は、優良遺伝子と資源により興味をもつ」と述べたうえで、世界中の諸文化の男女が、「ともに、配偶者として最も重要な2つの資質において、意見が一致していた」として、
(1)やさしくて理解のある人
(2)頭のよい人
の2点を挙げ、これは、「なぜ結婚などという制度があるのか」に関わる問題で、「ヒトの食物獲得の方法や、子育てのやり方は、おそらく重要な役割を果たしているに違いない」と述べています。
 また、「嫉妬の感情を持たない男性は、だまされる危険性が大きくなるだろうから、その結果、繁殖成功度が低くなるに違いない」ため、「男性を性的嫉妬に導く遺伝子は、こうして集団中に維持されていく」とした上で、「性的嫉妬は人間の生活にあまりにも大きな影響を及ぼしているので、ほとんどの社会でそれは制度化され、慣習または正式な法律によって制御されている」と述べています。
 第14章「精神障害は病気か?」では、「精神障害が医学的な病気であると認識できるのは、進化的な枠組みで見たときにそうだから」だとしうて、「精神障害の多くの症状は、それ自体が病気なのではなく、発熱や咳と似たような防御であることがわかる。さらに、精神障害を起こしやすくさせる遺伝子の多くは、適応的な有利さをもっている可能性がある」と述べています。
 そして、「不愉快な感情は、痛みや嘔吐に似た防御であると考えられる」として、「疲れを感じる能力が、筋肉を使い過ぎないようにするために進化してきたのとまったく同様に、悲しみを感じる能力は、それ以上に損失をこうむらないように進化してきたのだろう。不安、悲しみ、その他の感情を非適応的なほどに強く感じることは、それらの進化的期限と、正常なときの適応的な働きを理解すると、意味のあるものとなる」と述べています。
 また、「感情を感じる能力は、進化の過程で繰り返し生じ、しかも適応度に重要な意味を持っていた状況によって形成された」としたうえで、「感情的苦痛の多くは、役に立つものではない。まったく役に立たない不安障害やうつ病が脳の正常なメカニズムから生じることもあれば、能の以上から生じることもある」と述べています。
 さらに、「不安は有効であるのだから、私たちがいつも不安を感じているようにメカニズムを調節するのが最適であるように思われる」が、「これではストレスが大きすぎる」として、「私たちが時折平安であるのは、不快なのが非適応的だからではなく、不安が余計なカロリーを使い、毎日の活動により適さないようにさせ、組織に損傷をもたらすからである」と述べています。
 著者は、「高揚した気分と落ち込んだ気分とを感じる能力は、現在の機会が好調なものであるかどうかに応じて、資源の振り分けを調整するメカニズムであるようだ。もしも儲けが全くないなら、エネルギーを無駄に使うよりは、じっとすわっていた方がよい」と述べています。
 また、精神分裂病を引き起こす遺伝子にかかる淘汰が非常に強いのにも関わらず、その頻度が高く、また、比較的一定していることから、「この遺伝子は最近現れたものではなく、何万年にもわたって維持されてきたと示唆される。精神分裂病を起こす遺伝子は、その強度な損失にもかかわらず、何らかの利益をもたらしているに違いない」として、「この遺伝子が、他の特定の遺伝子、または特定の環境と一緒になったときに利益をもたらすという」可能性を指摘しています。
 第15章「医学の進化」では、「からだは、なぜもっと信用がおけないのだろうか? そもそもなぜ病気などあるのだろう?」と述べ、その理由として、
(1)私たちのからだを病気にかかりやすくさせる遺伝子があるが、欠陥を引き起こす遺伝子のほとんどは、その損失を上回る利益をもたらしているため積極的に残されている。
(2)私たちが進化してきた環境では存在しなかったような新しい要因にさらされることによって生じる病気がある。
(3)病気は、直立姿勢をとるから腰痛が起きるように、からだの設計の妥協によっても生じる。
(4)自然淘汰によって適応を生み出し、維持しているのは、私たちだけではない。
(5)不幸な歴史的行きがかりによっても、病気が生じる。
の5点を挙げています。
 そして、「ダーウィンの理論を病気に対して体系的に当てはめるまで」に、100年以上かかった理由として、
・病気に関する進化的な仮説を構築したり検証したりすることの困難さ
・進化生物学のいくつかの発展が非常に最近のことであること
・医学という分野の特殊性
等を挙げています。
 本書は、すでに原書が出てから15年経っていますが、進化生物学の著しい発展を背景に、医学に対する新しい視点を提供してくれる記念碑的な一冊です。


■ 個人的な視点から

 原書が1994年に出版され、邦訳は2001年にやっと出版されています。4千円を超えるという価格からも、それほど一般向けの本ではないと見なされるのは仕方ないですが、つまらないポピュラーサイエンスの本よりも、多少硬くてもこういうしっかりした本の方が面白いです。
 その代わり読むのに結構疲れます。中身もてんこ盛りで、読み応え十分。1500円の本を2冊読むより、本書を読んだ方がはるかに満足感は高いでしょう。


■ どんな人にオススメ?

・病気の研究は医学分野のものだと思っている人。


■ 関連しそうな本

 シャロン・モアレム, ジョナサン・プリンス (著), 矢野 真千子 (翻訳) 『迷惑な進化―病気の遺伝子はどこから来たのか』 2008年07月21日
 マーリーン ズック (著), 佐藤 恵子 (翻訳) 『性淘汰―ヒトは動物の性から何を学べるのか』 2009年01月22日
 井村 裕夫 『人はなぜ病気になるのか―進化医学の視点』
 長谷川 眞理子 『ヒトはなぜ病気になるのか』
 井村 裕夫 『進化医学からわかる肥満・糖尿病・寿命』
 ジョージ・C. ウィリアムズ (著), 長谷川 真理子 (翻訳) 『生物はなぜ進化するのか』


■ 百夜百マンガ

一条ゆかりの食生活【一条ゆかりの食生活 】

 少女漫画界の女王、一条先生の食に対するこだわりが詰め込まれた一冊。

2009年1月28日 (水)

行政の解体と再生

■ 書籍情報

行政の解体と再生   【行政の解体と再生】(#1469)

  上山 信一, 桧森 隆一
  価格: ¥2730 (税込)
  東洋経済新報社(2008/7/24)

 本書は、「これからのわが国の『公共(public)』のあり方についての問題提起」であり、「『政府』を会えて主役の座から外し、向こう20年のわが国の『公共』の姿とそこに至る過程」を描いたものです。著者は、「『壊す改革』の時代は終わった。これからの改革には『創る』ことも必要だ。創るべきは新しい『公共』の担い手である。これまで間が独占してきた仕事を企業、NPO、市民団体などが担っていく。そして新たな官民の役割分担を構築する。そのことを通じて、同時に官も再生させる」と述べています。
 序章「なぜ今『行政の解体と再生』なのか」では、「これまでの官主導の社会の弊害は明白だ」として、「政府(各省庁)が既得権益集団やOBと結託して税金を自分たちの組織の温存とその利益追求のために使う。そして間接的にNPOの成長も阻害してきた」ことを指摘した上で、「官主導から民主導への転換の中身」として、
(1)官の氏名や倫理の明確化
(2)官と民の役割分担による公益の追求
(3)民はまず利益追求に徹するべき
(4)公務員の民間への転換には社会全体の支援が必要
の4つの課題を挙げています。
 第1章「資産の流動化と公共施設の見直し」では、「現代においては、資本も設備も人材もすべてが流動化しつつある」ため、「行政の解体と再生」は「歴史の必然」であり、「『市場』という"海"がこれまでの社会の中核を構成してきた『組織』という"島"を浸食する現象」だと述べたうえで、「政府による直営の施設はその存在自体にイノベーションを否定する仕組みがビルトインされている」と指摘しています。
 第2章「公立文化施設の経営刷新」では、「全国で進行中の公立文化施設の経営改革」のパターンとして、
(1)館長に有能な人材、それも多くは民間企業の元経営者か海外のミュージアムで活躍した人材を登用し、その人物に多くを委ねるパターン。
(2)指定管理者制度の導入を機に民間企業の参画を得て経営の刷新を図ろうというもの。
(3)経営形態の見直しには至っていないが、行政評価や包括外部監査をきっかけに経営改革が始まるパターン。
の3つを挙げた上で、(1)のパターンには再現性がなく、(2)については第4章で、(3)については本章で解説するとして、
・川崎市市民ミュージアム改善委員会
・横浜市立動物園のあり方懇談会
・静岡県立美術館「評価委員会」
の3つの事例を取り上げています。
 そして、これら3つの事例が、「いずれも民間の第三者による委員会が評価を行った点が特徴的である」として、「役所の事務局にデータと情報の提供は求めたものの分析や報告書の執筆も委員が手分けして行った。提言の内容も事務局に素案の作成を求めずすべて委員会が自ら決めた」上、評価対象は施設の経営にとどまらず、
設置者、つまり出資者、スポンサーとしての自治体の関与の仕方も調査した」と述べています。
 第3章「民間への管理委託の先行事例」では、2003年の地方自治法の改正による「指定管理者制度」の創設以前に、「事実上、施設の管理委託を民間事業者にゆだねて一定の成果をあげていた例」として、太田房江知事の時代の大阪府の事例として、
(1)リゾートホテル:大阪府立青少年海洋センターファミリー棟
(2)キャンプ場:紀泉わいわい村
(3)スポーツセンター:大阪府立臨海スポーツセンター
の3つの事例を挙げ、「公務員の多くは民間委託をすれば人件費が公務員より安くなるからペイすると考えがち」だが、実は、「民間事業者が役所よりも長けているのはコスト管理だけではない。むしろ施設の稼働率の向上、つまり固定費の回転率の向上なのである。そのことで収入を増やし、同時にコストも下げる。両者が相まって収支が改善する」ことなどを指摘しています。
 そして、「この手法が万能といえるわけではない」として、
(1)施設の保守や修繕を誰がやるかという問題がある。
(2)そもそもこれらの施設を大阪府が所有し続ける必要があるのかという根本的な疑問がある。
(3)果たして個々の施設ごとの民間委託が正しいかどうか疑問がある。
の3点を指摘しています。
 第4章「指定管理者制度」では、官業の民間開放の動きとして、
・PFI法(1999年)
・構造改革特区(2002年)
・指定管理者制度(2003年)
・市場化テスト(2006年)
・道交法改正による駐車違反取締りの民間委託(2006年)
等を挙げた上で、「指定管理者制度の影響の大きさは群を抜く」として、
・全国の自治体の既存のすべての施設が対象となること。
・それらの施設が地域住民に身近な存在であること。
・企業だけでなく市民に身近な町内会・自治会やNPOなどの団体が指定されることもあること。
等を挙げ、「この制度は市民一人一人が行政の解体と再生を実感できる制度でもある」と述べています。
 そして、指定管理者制度のねらいとして、
(1)経費の節減
(2)地方分権における自己責任
の2点を挙げています。
 また、この制度のリスクとして、指定管理者に関しては、全国30箇所の施設の指定管理者になっているアクティオ株式会社が、
(1)本当に民間企業の参入を望んでいるか。
(2)自社のノウハウが活きる案件か。
(3)適正な収益を確保できるか。
の3原則に沿って指定管理者の応募案件を慎重に選んでいる例を挙げた上で、「民間企業が、適正な収益を確保できるかどうかには、指定期間によってかなり左右される」として、現在の大勢を占める3年から5年では「おそらく短すぎる」として、「施設の運営に習熟し、新たに雇用した人材の育成も終わってその成果を享受するには、10年はかかる」と述べるとともに、自治体にとってのリスクとして、
・倒産のリスク
・撤退のリスク
等を挙げています。
 さらに、指定管理者に関してしばしば発せられる疑問として、
(1)民間企業は営利優先で公共サービスがおろそかになったり値上げをしたりするのではないか→民間企業に限った問題ではない。達成すべきサービス水準と価格を明確にした上で、情報の透明性を確保し、さらにモニタリングなどの監視が必要。
(2)地方に民間企業は本当に来てくれるのか→「全国規模のパブリックビジネス参入企業」や「専門企業」は確かに案件選択は身長であるが、「ビルメンテナンス企業」や「地元企業」は全国各地に存在し、また無理に民間企業に任せず、NPOや地縁団体に積極的にチャンスを与えた方がよい。
等に答えています。
 第5章「行政機関の外注管理」では、「行政解体の形態は様々』だとして、
(1)民営化
(2)独立行政法人化
(3)廃止
(4)外注
の4点を挙げた上で、(4)について、外注管理があまり話題にならないが、「外注管理のプロセス全体の良し悪しを論じるべき」だと述べ、外注の成否を決める要素として、
(1)事業や業務のどの部分を外注するかの見極め
(2)相手の選択
(3)外注した相手に効率的かつ質の高い仕事をしてもらうための契約条件やその他の環境づくり
の3点を挙げています。
 そして、企業において、「自分の仕事を外注するかどうかの見きわめ」である、「メイク・オア・バイ」(make or buy)の判断に悩む業界が多いとした上で、行政機関の外注管理のあり方として、
(1)都市部と地方ではかなり違う。
(2)役所の外注管理能力の問題。
(3)業務によってはすべてを外注してしまわずに一部を手元においておく。
(4)地元大学や企業と連携する。行政の仕事はますます高度化する。
の4点を挙げています。
 第6章「企業と社会の新たな関係」では、最近、「企業は様々な社会責任を果たすべきだ。それはまた企業の存続の根幹にかかわる事項であり不可欠だ」という考え方に変わったとして、この考え方を象徴する「サステナビリティ(Sustainability)」について、
(1)経営サステナビリティ:企業が事業を継続するために必要な外部の環境を自ら努力して保持するということ。
(2)環境サステナビリティ:企業が自社の外に目を広げ、地球環境を保全し人類の生活が持続できるような社会全体のあり方作りに協力する。
の2つのことを意味すると述べています。
 第7章「社会企業とその出現の背景」では、2006年のノーベル平和賞受賞者の、ムハマド・ユヌス氏(バングラデシュのグラミン銀行の創始者)のように、「ビジネスを通じて社会改革に取り組む人たち」が増えているとして、「社会企業」や「社会起業家」という言葉を紹介した上で、著者が、社会企業が持つ、「その経営戦略における先進性と成長のパワー」にお注目すると述べています。
 そして、社会起業家の定義として、米国のアショカ財団による、「社会の最も差し迫った社会問題に対し革新的な解決策を持つ個人」という定義と、スイスのシュワブ財団による、「新しい発明や従来と異なる方法を用いたり既存の技術や戦略を使いこなすことにより、あるいはこれらの組合せ技により、大規模かつ体系的で持続可能な社会変化を引き起こす現実的な夢想家」とする定義を紹介した上で、社会起業家の類型として、
(1)職業訓練&自立支援型
(2)フェアトレード型
(3)環境配慮商品提供型
(4)社会投資促進型
(5)オルタナティブバンク型
の5つを挙げています。
 また、国内の事例として、
(1)ビッグイシュー
(2)スワンベーカリー&ヴィ王子
の2つを挙げ、(2)については、元ヤマト運輸株式会社会長の小倉昌男氏が障がい者の共同作業所を訪れ、月額7000~8000円という月給を知り、「障がい者の労働が報われないのは、作業所の運営者に『経営』という観念が足りないためだ」と考え、全国で「小規模作業所パワーアップセミナー」を開き、経営ノウハウを講義するとともに、「福祉施設を事業体に脱皮させるという発想」で、株式会社スワンベーカリーを設立したと述べ、その優位性として、
(1)障がい者が持つ優しさや笑顔といった人間性に根ざした価値を顧客に伝えている。
(2)お客の側にもパンを買うという日常の消費を通して社会貢献ができるという満足感を与える。
(3)他の企業や団体による支援。
の3点を挙げています。
 さらに、これらの事例の共通点として、
(1)一見無縁な2つのものを結び付けてビジネスに仕立て上げている。
(2)顧客に対して「ハンディを抱えた人のための就業支援をしている」と明示している。
(3既にビジネスで成長し実績と信用を持つプロによる支援。
(4)単にビジネス面のみならず社会問題としてのホームレスと知的障がいに対する洞察を持った専門スタッフの関与。
の4点を挙げた上で、「真の社会企業は企業という形態が持つイノベーション創出力というパワーを社会問題の解決に向けてフルに発揮する」と述べています。
 第8章「社会企業としてのオルタナティブバンク」では、オルタナティブバンクが、「貸す側、借りる側の意思をマッチングしながら、お金を回していく」者であり、「もともと、公共性の高い事業をやるときに通常の金融機関からの融資だけでまかなえない場合に、志ある人たちが集まって始めた」ものだと解説しています。
 そして、欧州の「ソーシャルバンク」の例として、
・倫理銀行(イタリア)
・トリオドス銀行(オランダ):「トリオドス」とは、社会的、倫理的、金融的の3つのアプローチを表す。
の2つを挙げるとともに、米国の「コミュニティ開発金融機関」(CDFI, Community Development Financial Institution)を紹介しています。
 また、わが国におけるオルタナティブバンクの例として、
(1)企業と連携して資金集めをするNPO法人:北海道グリーンファンド
(2)広く市民から出資を募っている社会企業:株式会社市民風力発電
(3)欧州のソーシャルバンクに似た活動をするNPOバンク:市民バンクなど
の3つを挙げ、通常の金融ビジネスに対する優位性として、
(1)融資意思を反映した融資を行うことで資金調達がやりやすくなる。
(2)貸し倒れのリスクが低い。
(3)今までにはない形での新たな信用創造ができる。
の3点を挙げています。
 さらに、政府系金融機関の中で、オルタナティブバンクから発展したものがあるとして、「商工中金」を挙げ、「政府の信用に裏打ちされた資金調達力のみならず、さらに融資の効果を高める仕組みを持っている」として、
(1)全国の支店で通常の銀行業務をやっている。
(2)全国をくまなくカバーする99カ所の店舗。
(3)組合に対する融資という形態をとること
等の特徴を挙げています。
 第9章「行政解体とNPO法人」では、一般に言われているNPO法人のほかに、「法人格を持たない非営利団体」として、町内会、PTA、地域婦人協議会、子ども会などの地域・地縁団体を挙げ、「いわば法人格を持たない『古いNPO』であり、地域によっては最近できた法人形態の『新しいNPO』と競合する」と述べたうえで、NPOが、「政府のフットワークの悪さを補い、あるいは先行して社会・公共問題を解決する」として、米国のエイズ対策のケースを例に挙げています。
 また、1998年に施行されたNPO法の意義として、
(1)NPOが政府や企業と同じく社会運営の重要な担い手だと認知された。
(2)行政との連携関係の構築。
(3)NPO法人側に実務能力が備わってきた。
の3点を挙げる一方で、現状に対する懸念として、
(1)過半の収入を行政機関の委託業務から得ると行政の外郭団体化する。
(2)抽象的な理念や思いつき、あるいは自分たちの趣味が先に立ち、現実の社会問題やサービスの受け手のニーズをきちんと捉えていない団体がまだまだ多い。
(3)持続安定的に経営するための事業基盤と組織能力の不足。
の3点を挙げています。
 そして、NPO法人にも評価が必要な理由として、
(1)企業のように売り上げや利益といったわかりやすい業績指標がない。
(2)社会性のチェックのため。
(3)役所と仕事をするうえで評価報告が必要になるという現実的理由。
(4)資金と人材を外から得る上で評価結果を開示する必要がある。
の4点を挙げた上で、「評価や情報公開の手法は主に米国で発達してきた」が、米国には、「所詮、評価には限界がある」という割りきりがあると指摘しています。
 さらに、「社会全般のありようを変えていく力」をNPOが発揮できるために、
(1)"ノン・プロフィット"の呪縛から自らを解放する必要がある。
(2)政府に対する"破壊力"を期待したい。
(3)わが国の行政機関が要する豊富な人材を民間の世界で活用する場として極めて大きな可能性を秘めている。
の3点が必要だとしています。
 終章「個人の公共性と職業としての公務員」では、NPOと個人の問題について、
(1)人はなぜ公共の分野に興味を持ち、貢献しようと思うのか。
(2)個人が社会貢献に費やす時間や労力は、どのような形で報われるべきか。
(3)多くの人は、本業を別に持った上で社会貢献をする。どうやって両立させるのか。
の3つの問いを通じて「個人の公共性」について考えるとしています。
 そして、行政解体が進むと、
(1)公務員の数が減る。
(2)雇用形態の流動化が進む。
(3)外部からの人材の流入が進む。
の3点を挙げ、「従来のような軍隊型の強固なピラミッド型の行政組織は崩壊していく」と述べています。
 また、これからの時代の公務員の仕事が、「裏方に回ってプロデューサー的な機能、あるいはホテルの今シェル中のような周辺補佐機能を果たすのではないか」と述べています。
 本書は、単なる行政の解体にとどまらず、その後を実証を挙げながらわかりやすく解説した一冊です。


■ 個人的な視点から

 今まで、行政の世界は、インクリメンタリズム(増分主義)で拡大してきて行っただけに、成長が止まり、「行政改革」をやるといっても、各分野から同じ割合で予算を減らしていって、「痛み分け」とする、「減分主義」とでもいうべきやり方しかできず、その典型が「シーリング」という手法なわけですが、必要なのは、外来語になった「首切り」を意味する「リストラ」ではなく、解体と再構築という本来の意味の「リストラクチャリング」をどのように行われるか、ということを本書は示しているのではないでしょうか。


■ どんな人にオススメ?

・今の行政に手詰まり感をもっている人。


■ 関連しそうな本

 上山 信一 『「政策連携」の時代―地域・自治体・NPOのパートナーシップ』 2005年03月28日
 上山 信一 『だから、改革は成功する』 2005年11月02日
 上山 信一, 伊関 友伸 『自治体再生戦略―行政評価と経営改革』 2005年4月30日
 上山 信一, 稲葉 郁子 『ミュージアムが都市を再生する』 2006年02月09日
 上山 信一, 梅村 雅司 『行政人材革命―"プロ"を育てる研修・大学院の戦略』 2005年04月16日
 ダニエル ピンク (著), 池村 千秋 (翻訳), 玄田 有史 『フリーエージェント社会の到来―「雇われない生き方」は何を変えるか』 2005年02月02日


■ 百夜百マンガ

かっとばせキヨハラくん【かっとばせキヨハラくん 】

 今ではすっかり「番長」というキャラで定着してしまい、とても「くん」がつくような印象は持たれていませんが、こういう時代もあったのだということでしょうか。

2009年1月27日 (火)

その数学が戦略を決める

■ 書籍情報

その数学が戦略を決める   【その数学が戦略を決める】(#1468)

  イアン・エアーズ (著), 山形 浩生 (翻訳)
  価格: ¥1800 (税込)
  文藝春秋(2007/11/29)

 本書は、「大量データ解析が各種の意志決定にますます活用されている」ことをテーマにしたもので、ワイン、野球から、出会い系サイト、政府の政策決定、政策評価、医療、教育など、「予想もしなかったような分野にまでこうしたデータ解析による意志決定や方針決定が浸透していること」を描き出しています。そして、「単に『大量データ解析──絶対計算──が使われています』こいうことだけ」ではなく、「それに対する伝統的な『専門家』たちの抵抗、役割の変化、といったところにまで配慮と検討が及んでいるところ」に面白さがあるとしています。
 序章「絶対計算者たちの台頭」では、ワインの質を、
「ワインの質=12.145+0.00117×冬の降雨+0.0614×育成期平均気温-0.00386×収穫期降雨」
という方程式で予測してしまったり、「打者が出塁にどれだけ貢献したか」を、
「貢献出走塁=(ヒット数+四球数)×総塁数÷(死球以外の打席数+四球数)」
という方程式にしてしまったことを紹介した上で、「ワインや野球での定量分析の対等が単独の現象ではない」と述べ、「現実世界の意志決定を左右する統計分析」を「絶対計算」と呼んでいます。
 第1章「あなたに代わって考えてくれるのは?」では、Amazonの「おすすめ」などの「協調フィルタリング」が、「消費者にとっても小売業者にとっても大きな力となってきた」と述べ、このような協調フィルタリングが、「ジェイムズ・スロウィエッキが『群衆の知恵』と読んだものの例だ」と述べています。
 そして、グーグルが、「個人別データマイニングを、そのあらゆる機能に盛り込もうとしている」として、そのウェブアクセラレータが、「人が次に読むページを予測することによって」、「絶えずウェブページをネットから先読みしている」と述べています。
 第2章「コイン投げで独自データを作ろう」では、無作為抽出テストが「医学治療が有効かどうかを証明する黄金率となった」ことに、企業が追いつこうとしている様子を描くとしています。
 また、本書のタイトルを、「消費者が多種多様なオンライン体験にどう反応するか」を見てくれる「オファマティカ社」のテストを行ったと述べたうえで、「何度も何度も目にするのが、意志決定者は自分の組織の力を過大評価しすぎる」と指摘しています。
 そして、「定量データがますます商品として囲い込まれ、売買されるようになるにつれて、企業も無作為抽出テストを広告や価格、商品属性、雇用方針などに適用するようになるだろう」と述べています。
 第3章「確率に頼る政府」では、「求職支援など無作為抽出テストの成長」が、「独立州が集まった連邦制という発想がきちんとした『民主主義の実験室』になれるという考え方を始めて実行に移している」と述べ、「それぞれの州が自分なりに最高と思ったやり方を実験してみて、アメリカ全体としてはそれを見渡してお互いに学び会えばいい」とした上で、「問題はその実験の設計だ」が、「多くの州レベルでの実験で困るのは、その結果をどう比べたら言いかよくわからないということなのだ」と指摘しています。
 そして、「既存の無作為化の利用としてずば抜けて協力なのは、刑事裁判で裁判官を無作為に割り当てる手法だ」とした上で、「刑事裁判の無作為化は、刑法における核心的な問題の一つに答えるツールとなる──刑期を長くすると、再犯率は上がるか下がるか?」と述べています。
 また、メキシコのエルネスト・ゼディロ大統領(当時)が始めた、「教育、健康、栄養状態のためのプログレッサ計画」が、メキシコの貧困を削減するために、「現金を得るには、まず子供を学校に通わせること。現金を得るには、妊娠中には出産前診療を受けること。栄養状態のモニタリングを受けること発想としては、貧困家庭の子供は貧困のままという世代間の貧困敬称を破ること」と目的とした、「条件つきで現金を貧困者に支給するプログラム」だと述べ、ゼティロが、政権交代後もプログラムが継続されるために、500以上の村落で無作為抽出テストを実施し、高い評価を得ることで、人気が高まり、2000年の選挙でヴィンセンテ・フィックスが大統領になると、名称のみ、「オポルチュニダデス」に変更になったと述べ、「無作為化による証拠の透明性と第三者評価は、政府に計画の継続を納得させるための鍵となった。ゼディロの企みは、政治経済的な問題を大きく解決したことになる」と述べています。
 第4章「医師は『根拠に基づく医療』にどう対応すべきか」では、「医師が統計的な根拠を特に重視すべきだという発想は、いまだにあれこれ議論の的となっている」とした上で、「ウェブの検索技術のおかげで、医師が個別患者の個別問題に関連した結果を見つけるのはずっと楽になっている』と述べています。
 そして、医師が、「巨大な新データベースをもとに絶対計算することで、医師たちは史上初めてリアルタイムの疫学を実践できるようになる」として、「一部のパターンは、個別医師が気まぐれに見るよりも、総計した形で見た方がずっと見つけやすい」と述べています。
 第5章「専門家VS.絶対計算」では、絶対計算者と伝統的な専門家の「どっちが正確なのだろう」という疑問は、「研究者たちが何十年にも渡って問い続けてきた疑問」だとして、「直感主義者や臨床家たちはほとんど例外なしに、自分の意志決定の根底にある変数は定量化もできないし誰でもわかるようなアルゴリズムにも還元できないと主張する」と述べています。
 そして、「人は偏った予測をしてしまいがちなばかりか、それについてとんでもなく自信過剰であるがために、新しい証拠が出てきてもその予測を変えたがらない」として、自信過剰の問題が、「現実世界の意志決定もこれで歪められてしまう」と述べています。
 また、「絶対計算の支援をもってしても、人の予測は絶対計算のみの予測に劣る」として、支援を受けた専門家の判断が、「モデルの予測と支援なしの専門家予測の中間くらい」になり、「専門家のほうはモデルのおかげで改善」されるが、「モデルだけのほうが精度が高い」として、「専門家と絶対計算技能を組み合わせるにしても、もっとずっと人間を矮小化して疎外するようなやり方を支持する証拠は増えている」と述べています。
 さらに、「人間に残された一番重要なことは、頭や直感を使って統計分析にどの変数を入れる/入れるべきではないかを推測する」という「仮説立案だ」として、「マシンもまだまだ人間を必要としている。人間は何を試験するか決めるだけでなく、データを集め、ときいんはそれを作り出すにも重要な役割を果たす」と述べています。
 第6章「なぜいま絶対計算の波が起こっているのか?」では、「デジタルデータは商品になった。そして公共・民間を問わず、売り手は集約情報の価値を知るようになっている」として、営利目的のデータベース集約業者として、アクシオムやチョイスポイントなどを挙げています。
 そして、「絶対計算革命に重要な貢献をしている新しい統計技法」として、「実績豊富な回帰方程式に対する新進気鋭の競争相手」である「ニューラルネットワーク(神経系ネットワーク)」を挙げ、アパゴギクス社という会社が、「ニューラルネットワークを『訓練』して、主に脚本の特徴だけから映画の興収を予測しようとした」と述べ、「ニューラル方程式が映画9本のうち6本の収益性を正確に予測でき」、「ほとんどの映画はもっと無名の(したがってお安い)俳優を使ったところで、興収は変わらない」と述べています。
 また、ベストセラーのタイトルは、「中身を文字通り述べた題名よりも、それを比喩的に語るもの」の方が適していて、「最初の単語が動詞か前置詞か感嘆詞かというのもかなり効いてくる」こと、そして「出版界の常識とは裏腹に、短い題名が必ずしもいいとは限ら」ず、「題名の長さは本の売り上げには大きく影響しない」ことなどを紹介しています。
 第7章「それってこわくない?」では、「教師を脚本に従わせ」、「教師に、理解しやすい細かい概念として情報を提示させるように強制し、そしてその情報が本当に咀嚼されるよう確認する」教育法である「ダイレクト・インストラクション」を紹介した上で、その有効性について、他の教育方法との比較調査の結果、「ダイレクト・インルトラクションの圧勝」であり、「試験が終わってみると、DIの生徒たちは読み、書き、算数、言語で全て1位になった。他のどんなモデルも足下にも及ばなかった」上、「DIの優位は、基本的な技能習得」にとどまらず、「高次の思考力を要求される問題にも楽々と答え」たとした上で、「最も重要かもしれない点として、DIはだれにでもできる。別に超有能熱血教師がいなくても十分に可能」であると述べています。
 そして、教育学会が、「ほぼ一丸となってDIに抵抗している」ことについて、「DIによって生徒たちが基礎技能をもっとしっかり身につけることで、創造性を構築発展させるための能力も高めているのではないかという可能性――しかも標準化試験の証拠で裏付けられた可能性――を無視している」と指摘したうえで、この戦いが、「直感や個人的体験、哲学的な傾向が、数字の力に対して戦争を挑んでいる」という「本書の根本テーマにかかわる」問題だと述べています。
 また、エパゴギクスに対する映画産業からの抵抗について、「この懸念は、すでに映画にはいろいろ枷がかかっているのを無視する」者であり、「最大の問題は、スタジオが口出しすることではない。むしろ、これまでの口出しがダメだったということなのだ。私としては、スタジオの重役が直感と経験だけでしかないくせにあれこれ注文をつけてまわるほうが、数式よりもずっと怖い」と述べ、「芸術の絶対計算は倒錯して見えるかもしれないが、消費者への権限委譲でもあるのだ。エパゴギクスのニューラルネットワークは、消費者たちが本当に好きなのが映画のどういう性質なのかをスタジオが予測する支援となっている」と述べています。
 さらに、著者が、「拳銃隠匿が犯罪に与える影響」について著した論文について、「メアリー・ロシュ」を名乗る人物が、ウェブ上で「かなり辛辣な批判を投稿した」が、「彼女のコメントが印象的なのは、その中身のせい」ではなく、メアリー・ロシュというのが、著者が論文で反論したもとの論文の著者である「ジョン・ロット自身だからだ」と指摘し、「ロットをめぐる騒動は、絶対計算者にとっては多くの重要な教訓を含む」として、「ロットはデータを共有する態度の点では大いに賞賛されるべき」だが、「結果の第三者確認がいかに重要かも示してくれる」と述べ、「データに基づく意志決定の台頭は、きちんと監視しなければ(内部的または外部的に)、間違った統計分析の洪水を生み出しかねない」と指摘しています。
 第8章「直感と専門性の未来」では、著者の当時8歳の娘アンナが、「正規分布する変数が、平均値から正負を問わず2標準偏差内にある確率は95パーセントである」とする「2標準偏差」ルール(Two Standard Deviation=2SD)を理解することで、「変動性を理解するということの核心」に達していると述べています。
 また、「統計的思考の台頭は、直感や専門技能の終わりを意味するものではない」として、「今後の意志決定者はますます、直感とデータに基づく意志決定とを何度も切り替えつつ仕事をするようになる。直感は、データについて直感を持たない数値分析者たちの見逃しがちな新しい質問を問うよう導いてくれる。そしてデータベースはますます意志決定者たちに自分の直感を試せるようにしてくれる」と述べています。
 そして、「人は比率や確率を理解するほうが、標準偏差や誤差範囲を理解するより得意」であるが、「2SDルールがすばらしいのは、この両者を橋渡しできることだ」と述べています。
 著者は、「結局のところ、絶対計算は直感に代わるものではなく、それを補うものだ。この新しい知性は人間を歴史のゴミ箱に追いやるものではない」として、「直感も経験も、そして統計も、協力してもっとよい選択肢を生み出さなくては」と述べています。
 本書は、統計という実社会から縁遠いと思われていた技術が、コンピュータの発達によって、身近な意志決定に有用に使われるようになってきたことを説得力を持って説明してくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 本書で使われている「絶対計算」という言葉には抵抗がある人が入るのではないかと思いますが、実は結構すんなり受け入れられる部分は多いのではないかと思います。


■ どんな人にオススメ?

・数字は人間味がないと思う人。


■ 関連しそうな本

 とつげき東北 『科学する麻雀』 2009年01月11日
 スティーヴン・D・レヴィット/スティーヴン・J・ダブナー (著), 望月衛 (翻訳) 『ヤバい経済学』 2008年02月13日
 ティム・ハーフォード (著), 遠藤 真美 (翻訳) 『まっとうな経済学』 2008年02月15日
 大竹 文雄 『経済学的思考のセンス―お金がない人を助けるには』 2006年09月04日
 ゲーリー・S. ベッカー, リチャード・A. ポズナー (著), 鞍谷 雅敏, 遠藤 幸彦 (翻訳) 『ベッカー教授、ポズナー判事のブログで学ぶ経済学』 2007年02月05日
 中島 隆信 『これも経済学だ!』 2007年07月17日


■ 百夜百マンガ

黒い秘密兵器【黒い秘密兵器 】

 野球マンガの一ジャンルである「魔球モノ」のルーツが忍者マンガであるということを納得させてくれる作品。そう考えると他の魔球が出てくる作品も解釈しやすくなります。

2009年1月26日 (月)

戦略PR 空気をつくる。世論で売る。

■ 書籍情報

戦略PR 空気をつくる。世論で売る。   【戦略PR 空気をつくる。世論で売る。】(#1467)

  本田 哲也
  価格: ¥780 (税込)
  アスキー・メディアワークス(2009/1/13)

 本書は、「消費者を『買いたい気分』にさせる『空気』」を作り出す「戦略PR」手法について解説したものです。
 第1章「『空気』でモノが売れる時代がやってきた」では、「消費者に伝わりにくくなっている」ことの本質的な原因として、
(1)量のハードル:消費者に襲い掛かる大量の情報とどう闘うのか。
(2)質のハードル:伝えたいことの「中身」を見る目が厳しくなっている。
の2つのハードルを挙げています。
 そして、「空気」について、「その場にいる人々の多くが、暗黙のうちに共有している情報や意識の集合体」だと定義し、「ビリーズブートキャンプ」が大ヒットになった背景にある「空気」として、
(1)メタボリックシンドロームに対する意識の高まり
(2)安易なダイエット方法に対する疑惑
(3)「ビリー」にハマる著名人からの情報発信
(4)ネットや知人を通じたクチコミ情報の盛り上がり
の4点を挙げ、「商品が売れるために作り出したい空気」として、「カジュアル世論」という言葉を定義しています。
 第2章「カジュアル世論が消費者を動かす」では、永谷園の『「冷え知らず」さんの生姜シリーズ」を例に挙げ、「生姜が注目され、はやっているという『空気』を世の中に広めること」を使命としていたと述べた上で、「カジュアル世論をつくる3つの要素」として、
(1)おおやけ:公共性
(2)ばったり:偶然性
(3)おすみつき:信頼性
の3点を挙げています。
 第3章「PRがカジュアル世論を生み出す」では、アメリカ大統領選挙におけるオバマの選挙キャンペーンスタッフの中心が、9人のプロフェッショナル集団であり、「その1人が戦略PRプランナー」で、「アメリカ国民の関心や興味を調査し、そこにどんな世論を喚起して、どんなメッセージを発信すればオバマ支持につながるか、という戦略を作ること』が彼のミッションだったと解説しています。
 そして、PRと広告の違いとして、
(1)広告枠を買うか買わないか
(2)信頼性が高いか低いか
(3)コントロールしやすいかどうか
の3点を挙げた上で、「広告とPRの垣根は、どんどんなくなっていく」と解説しています。
 また、日本では「PRと広告との違いをあまり理解していない人」が多く、アメリカに比較して、広告市場との格差が大きい「PR格差社会」である理由として、
(1)「宣伝広告」の分野が異常発達してしまったこと。
(2)「あうんの呼吸」「以心伝心」などの日本独自の考え方。
の2つの理由を挙げています。
 著者は、「戦略PRの手法は、『お金よりもアタマを使う』という意味では、とっても健全で、またエキサイティングなやり方」だと述べています。
 第4章「カジュアル世論のつくりかた」では、戦略PRのテーマ設定について、
(1)商品の便益に関連しそうな、世の中の「関心事」を調べる
(2)商品の便益を世の中や消費者の関心に合わせて翻訳する
(3)その2つを結びつけ、テーマを設定する
(4)テーマを「ニュース」にするための材料を用意する
(5)テーマを広げるための具体的なPRプランを策定する
の5段階のステップにより説明した上で、カジュアル要素を作るために、「メディアや第三者的な存在を活用していく」必要があるとして、
(1)「おおやけ」感を生み出すために:「マスコミ」の活用
(2)「ばったり」感を生み出すために:「クチコミ」の活用
(3)「おすみつき」感を生み出すために:「インフルエンサー」の活用
の3つの要素ごとに、活用方法を解説しています。
 そして、ブロがーを中心とした「クチコミ」を巻き込む具体的な方法として、
・情報提供
・商品提供
・ブロガー会議・ブロガーイベント
・SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)のコミュニティ活用
・「リアルクチコミパネル」の活用
などの手法を紹介しています。
 また、インフルエンサーを巻き込む方法として、
・調査の監修
・コンテンツの監修・商品企画などの監修
・セミナーでの講演
・イベントへの出演
・マスコミ取材のアレンジ
などの手法を紹介しています。
 第5章「時代の変化がPRを主役にする」では、著者が働いていたゲーム大手のセガで、上司であった田中愼一氏が、世界最大規模のPR会社フライシュマン・ヒラードの日本法人の代表に転じたことをきっかけに、自らも転職し、PR業界に飛び込んだことや、フライシュマン・ヒラードの「マーケティングの戦略PRに特化したブランド」である「ブルーカレント」の日本法人の責任者としてスピンオフしたことなどが述べられています。
 第6章「つくった『空気』を活かすには」では、「広告がなくてカジュアル世論だけがあっても、『モノが売れる』状態を作るには一歩足りない」とした上で、良く知られている、
・AIDMA(アイドマ)
・AISAS(アイサス)
などの消費者行動理論について、「ここ数年、この公式が崩れつつある」として、「最初に『Interest』がきて、その後で『Attention』が続くという流れが生まれていると述べています。
 終章「明日のPR」では、「どうしても伝えておきたいこと」として、
「PRは『社会のムードメーカー』である」
と述べ、「こんな時代だからこそ、社会のムードをもっともっと明るくしていかなきゃ、と思う」と述べています。
 本書は、「空気」を作る「戦略PR」について、分かりやすく解説した一冊です。


■ 個人的な視点から

 最近出たばかりの本なので、生姜ブームとかの仕掛けは、いまでもメディアで「いま、生姜がブームなんですよ」と言っているのを見かけたりするので、はァなるほどと思いながらも、こういうところで騙されちゃいけない、と警戒したりしてしまいます。
 最近は、こういう仕掛けがあることを知っていてマスコミの情報を見ているので、つい勘ぐってしまうのですが、1月24日の読売新聞の、
「『レキジョ』急増中!武将のドラマ性にハマる女心」
という記事なども、「戦国武将ファンの女性が急増しているという」というけど、「という」ってPR会社の資料見て書いてるでしょ、とか思ったり、コメントしてる「流行に詳しい東京富士大経営学部の岡本慶一教授(マーケティング論)」って、この人もどうせ仕込みでしょ、とかいう穿った見方で見てしまいます。
 おそらく、「4月にアニメ化され、テレビ放映されることになった」というゲームソフトのPRなのだと思いますが。時期的にも。


■ どんな人にオススメ?

・マスメディアには騙されまい、と思う人。


■ 関連しそうな本

 矢島 尚 『好かれる方法 戦略的PRの発想』 2006年10月25日
 世耕 弘成 『プロフェッショナル広報戦略』 2006年09月22日
 矢島 尚 『PR会社の時代―メディア活用のプロフェッショナル』 2006年11月13日
 デイヴィッド・オグルヴィ (著), 山内 あゆ子 (翻訳) 『ある広告人の告白』 2007年01月02日
 アル・ライズ, ローラ・ライズ, 共同PR株式会社 『ブランドは広告でつくれない 広告vsPR』 2008年01月26日
 藤田 康人 『99.9%成功するしかけ キシリトールブームを生み出したすごいビジネスモデル』 2008年02月08日


■ 百夜百マンガ

グルマンくん【グルマンくん 】

 この人のキン肉マン以外の作品を知る人も少ないと思いますが、私も知りません。グルメマンガなのに。

2009年1月25日 (日)

三大都市圏の鉄道計画はこうだった―計画路線図でみる過去・現在・未来都市計画の変遷事情研究

■ 書籍情報

三大都市圏の鉄道計画はこうだった―計画路線図でみる過去・現在・未来都市計画の変遷事情研究   【三大都市圏の鉄道計画はこうだった―計画路線図でみる過去・現在・未来都市計画の変遷事情研究】(#1466)

  川島 令三
  価格: ¥1869 (税込)
  産調出版(1999/04)

 本書は、東京・大阪・名古屋の三大都市圏について、明治以来の鉄道網計画と現実の整備をフォローして行ったものです。
 第1章「もし過去の高速鉄道網計画が実施されていれば」では、何度も改定された三大都市の高速鉄道網計画が、「もしそうなっていれば現在とは異なる高速鉄道網ができたのではないか」という歴史に「イフ」をつけて想像しています。
 また、「大阪市営モンロー主義」として、大阪市が高速鉄道の建設を、「市電建設のときと同様」に、「道路整備と同時に行うことにしていた」と述べた上で、「市電であっても高速鉄道であっても、大阪市の都市計画を計画通り、そして整然として建設する」手法が、アメリカの外交政策である「モンロー主義」になぞらえられたと述べています。
 第2章「明治時代の市街電車建設と戦前の地下鉄建設まで」では、東京の地下鉄網が、海浜部にあるため、「四方に放射状に線路を延ばすことはできない」ため、「各路線はひねって三角形の長辺、すなわち短絡するようにし、さらに海浜部で行き止まりにならないようにU字形の路線を多用する」などの「ターナー形」と呼ばれる形を取ったと述べています。
 そして、大正9年の市区改正条例に盛り込まれた7路線が全部できていた場合には、池袋、新宿は現状のように発展していたが、渋谷ではなく目黒が発展していたと考えられると述べています。
 また、大阪の高速鉄道網については、
・地下鉄はキタとミナミを結ぶだけでよく、公害路線はキタとミナミを目指して作ればいい。
・格子状に街路を整備してきた。
等の理由から、「直交形のピーターゼン形」を採用したと述べています。
 第3章「戦後から昭和39年まで」では、中央線の混雑緩和を至上命題としてた国鉄が、「中野─三鷹間を複々線化するとともに、都心部に新たな線増線を建設」するとして、
(1)既設線に併設。
(2)短絡線:北回り案(市ヶ谷~神田橋~東京駅東側外堀通り地下~西銀座)、南回り案(四谷~九段~錦橋~東京)
(3)ループ案:信濃町~赤坂見附~霞ヶ関~有楽町~東京
(4)総武縦貫案:北回り短絡案の途中から分岐して錦糸町に向かうものとループ案の赤坂見附から霞ヶ関を経由せず、有楽町で東海道線と交差して錦糸町に向かう案
(5)地下鉄5号線(現東西線)を利用する案
の5案を検討した結果、「国鉄としては地下鉄に乗り入れるのはプライドが許さず、結局、御茶ノ水─東京間の併設案」に決定したが、「都や建設省、千代田区、地元住民などの都市計画側が反対して中止」となったため「営団5号線との相互直通が本決まりとなり、中野以遠の複々線化後の緩行線と相互直通することになった」と述べています。
 第4章「昭和40年代から都市交通審議会最終答申まで」では、国鉄が、昭和40年~46年までの7年間に設備投資を行う「国鉄第三次長期計画」にあった、「5方面作戦」といわれる輸送力増強策について、
(1)東海道線・横須賀線:東海道線浜松町─小田原間の貨物線の新設と東京─品川間の横須賀線電車用線路の新設
(2)総武線:東京─千葉間に快速線の新設と西船橋─千葉または津田沼間の緩行線の地下鉄東西線との相互直通、横須賀線電車用線路の新設による横須賀線との相互直通
(3)常磐線:常磐線綾瀬─取手間の複々線化と地下鉄9号線(現千代田線)との相互直通
(4)東北線:赤羽─大宮間の貨物線の新設等
(5)中央線:中野─三鷹間の複々線化と地下鉄東西線との相互直通等
の5つを挙げた上で、昭和40年に発表した「通勤新幹線構想」について、
(1)東京─千葉県新空港付近、距離50km、所要時間30分
(2)東京─茨城県中央部付近、距離100km、所要時間50分
(3)東京─埼玉県南部付近─群馬県南部付近及び栃木県南部付近、距離100km、所要時間50分
(4)東京(渋谷?)─神奈川県湘南地区、距離70km、所要時間40分
の4方向から東京で、最高速度160km/hなど、「車両の大きさ、規格は新幹線に準じたものにして、輸送力、速度とも在来線を大きく上回るものであった」と述べた上で、(1)千葉県新空港付近への路線:新幹線整備計画で成田新幹線となり整備新幹線の建設線として昇格し、実際に着工もされたが、それは東京ターミナルの一部と成田空港内だけで、千葉ニュータウンを通る中間部分は反対運動が強くて着工できず、ついに建設を中止した。東京ターミナルは京葉線の東京地下ホームに転用され、成田空港内は成田高速鉄道が使用している。
(2)茨城県への路線:紆余曲折を経ていわゆる常磐新線として建設中である。
(3)群馬県への路線:整備新幹線の上越新幹線となり、通勤用のMax、ニューMaxもつくられ、ここだけは通勤新幹線として実現した。
(4)神奈川県湘南への路線:東海道新幹線もあり、人口過密地帯を通るため、国鉄としての具体的な動きはなかった。
など、「通勤新幹線として実現はしなかったが、異なる形で実現あるいは計画されている」と述べています。
 第5章「運輸政策審議会答申とそれに対する現況そして未来」では、昭和60年7月の「首都圏についての高速鉄道網等の整備計画」について、「建設スピードを高めるために建設主体と運営主体を分けた建設方式も多用され、これによって私企業であっても公営地下鉄に近い建設補助が受けられるようになった」と述べています。
 また、「平成12年度までに運輸審議会は東京圏の高速鉄道網等の整備について新しい答申を出すとされている」として、「運輸政策審議会の答申で削除された本八幡─小室間は千葉県が免許を維持しており、千葉県は次の答申にはなにがなんでも取り上げるように希望している」と述べています。
 本書は、東京圏をはじめとする三大都市圏が、どのような経緯を経て今のような形になったのかを、鉄道の面から理解することができる一冊です。


■ 個人的な視点から

 鉄道マニアの種類の中には、未成線のマニアの人もいるようですが、「もしあの路線ができていたら、東京の形はどうなるのか」というのを考えるのは面白いです。首都圏の鉄道の形がある程度できてから育った人にとってや上京してきた人にとっては、陽水の「延びる線路が拍車をかける」は実感が湧かないのではないでしょうか。


■ どんな人にオススメ?

・首都圏の形は昔から今のようなものだと思う人。


■ 関連しそうな本

 秋庭 俊 『帝都東京・隠された地下網の秘密』 2006年10月4日
 秋庭 俊 『帝都東京・隠された地下網の秘密〈2〉地下の誕生から「1‐8計画」まで』
 青木 栄一 『鉄道忌避伝説の謎―汽車が来た町、来なかった町』 2007年07月18日
 猪瀬 直樹 『土地の神話―東急王国の誕生』 2006年07月21日
 猪瀬 直樹 『ミカドの肖像』 2006年08月02日
 橋爪 紳也 『あったかもしれない日本―幻の都市建築史』


■ 百夜百音

My Cherie Amour【My Cherie Amour】 Stevie Wonder オリジナル盤発売: 1969

 たまにスーパーでインストがかかっていたりすると嬉しくなってしまいます。
 そういえば、/.で「タッチスクリーン式デバイス」の改善を求めているという記事を見たときはなるほどと思いました。

2009年1月24日 (土)

シンクタンクとコンサルタントの仕事―知っているようで本当は知らない

■ 書籍情報

シンクタンクとコンサルタントの仕事―知っているようで本当は知らない   【シンクタンクとコンサルタントの仕事―知っているようで本当は知らない】(#1465)

  勝田 悟
  価格: ¥1890 (税込)
  中央経済社(2005/08)

 本書は、シンクタンクなどの「業界の内容と必要とされる技術について述べたもの」です。著者は、「日本でも、マスメディアでシンクタンクが取り上げられることが増えてきたことから比較的人気の職業となっている」が、「必ずしも政策提言のための公益的事業を行っている機関とはとらえられていない」と述べています。
 第1章「関連業界の業務と関係」では、シンクタンク、コンサルタント、調査会社の3つを挙げた上で、シンクタンクについては、「各種政策(技術政策、経済政策、エネルギー政策、環境政策、福祉政策など)の提案、提言の作成を実施している」と述べ、その収益事業として、
・委託・請負調査研究
・助成研究
・マルチクライアントによる調査研究
・シンポジウム
・セミナー・研修
・会員制情報サービス
・視察旅行
・出版
などを挙げています。
 そして、調査研究過程で、専門家にヒアリング調査を行うなどで、「シンクタンクの研究者は、研究テーマについて3日で専門家になれ」と言われていたが、これによって得た知識で「耳年増」になってしまい、「自分自身が当該分野の専門家であると勘違いする者も出てくる」ことを指摘しています。
 また、政策研究に適しているものは、「社会動向に明確な問題意識を持っていることが不可欠」な上、「なぜこのようなことが起こったのか、何が問題だったのか、どのようにすれば再発が防止できるか、新たに必要な社会システムはどのようなものか、など、と考える者は、適していると言える」と述べています。
 さらに、コンサルタントについて、「資格、経験など実力を身につけた者でなければならず、簡単にコンサルタントにはなれない」としています。
 著者は、シンクタンクの研究が、「政策研究が中心となるため、長いレンジで将来を見据えた提案になることが多い」のに対し、「具体的になった問題点の対策については各種コンサルタントが適任である」と述べています。
 第2章「受注(営業)活動」では、シンクタンクの研究やコンサルティングなどの「知的作業」については、「業務遂行者の専門性や知的レベルによって、できるものとできないものがはっきりしている」ため、「無理にできない内容の業務を行っても、無駄な結論を作り上げてしまう可能性がある」として、「なんでもやります」といった受注活動(営業活動)は、「成果が問われる知的業務には不適切」だと述べています。
 そして、企画提案においては、「クライアントとの信用関係が最も重要」だとして、「共通の問題意識を共有することで、プロジェクトの実現、成功につながる」と述べています。
 第3章「調査研究方法」では、「業務に関連する情報を、どのような機関、専門家が持っているか、またどのようにすれば収集できるか」を理解していることが、「シンクタンクの研究者やコンサルタントとしてのきわめて重大なノウハウ」だと述べています。
 また、調査研究の一環として専門家などによる委員会・検討会を設置することについて、「委員会の議論が活性化すると、非常に良い成果も期待でき、研究へのインセンティブも高まる」が、委員会資料の作成に手を抜くと、「会議の結果に明らかに現れる」と指摘しています。
 第4章「調査・研究成果の作成─業務の成果報告─」では、「日本では情報の価値を理解していない者が多く、情報を無料で入手しようとする行為がよく見かけられる」が、シンクタンクの政策提案やコンサルタントの専門知識、調査会社等が収集した情報等の青果物は、「著作物として慎重な取り扱いとしなければならない」と述べています。
 また、「政策研究の結果である提言や提案は、政策に反映されるかどうかが問われるため、調査研究レポートの内容は、政策実施者に対して明確に理解されなければならない」が、将来ビジョン作成に向けての政策研究では、「絵に描いた餅」になりかねないという批判を避けるために、「複数のシナリオを作り、それぞれについて検討を行ったりもする」と述べています。
 第5章「シンクタンク業務とコンサルタント業務の例─環境分野─」では、環境政策の研究について、「強制的に行動を惹起させる法政策について長期的な視点を持って検討する必要がある」としながらも、「このような政策研究に研究費を支出する機関も行政などに限られてくる」ため、「環境保全の面からだけではなく、生産の持続可能性やリスク研究の面からなど広く研究費を得ることを考えなければならない」と述べています。
 また、シンクタンク業務とコンサルタント業務の異なる点として、「経済的な効率と環境効率の矛盾」などを挙げ、「企業に直接コンサルティングをしている環境コンサルタントにとっては、ジレンマになっている」などとして、「両者は、大きくは同じ学術分野に属しているが、仕事は全く異なっている。しかし、目標としている『環境保全』というコンセプトは同じである」と述べています。
 本書は、シンクタンクやコンサルタントの違いがよくわからないという人に、わかりやすく解説してくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 シンクタンクもコンサルタントもどちらも学生、特に修士課程卒の学生に人気が有るような気がしますが、世の中の理解としては、シンクタンクの研究員もコンサルタントもあまり変わらないように見えるのではないでしょうか。


■ どんな人にオススメ?

・シンクタンクとコンサルタントの区別がつかない人。


■ 関連しそうな本

 ルイス ピーノルト (著), 森下 賢一 (翻訳) 『コンサルティングの悪魔―日本企業を食い荒らす騙しの手口』
 若松 茂美, 織山 和久, 上山 信一 『変革のマネジメント―明るい「リストラ」を考える』 2005年08月10日
 横江 公美 『第五の権力 アメリカのシンクタンク』 2005年06月13日
 横江 公美 『アメリカのシンクタンク―第五の権力の実相』 2008年09月01日
 小林 英夫 『満鉄調査部―「元祖シンクタンク」の誕生と崩壊』 2007年10月22日


■ 百夜百音

Sugarless GiRL【Sugarless GiRL】 capsule オリジナル盤発売: 2007

 吉幾三の曲と混じった「Starry Sky」しか聞いたことがなかったのですが、単独で聞いてみて、なるほどこういう曲だったのかと。

2009年1月23日 (金)

アンディ・グローブ[上]―修羅場がつくった経営の巨人

■ 書籍情報

アンディ・グローブ[上]―修羅場がつくった経営の巨人   【アンディ・グローブ[上]―修羅場がつくった経営の巨人】(#1464)

  リチャード・S.テドロー (著), 有賀 裕子 (翻訳)
  価格: ¥2310 (税込)
  ダイヤモンド社(2008/6/27)

 本書は、シリコンバレーを代表する企業であり、「半導体業界に秩序をもたらした」インテルの経営者であったアンディ・グローブの評伝です。
 「イントロダクション」では、グローブにまつわる謎として、
(1)次々と立ちはだかる難問をどのように乗り越えて、稀にみるほどの成功を手にしたのか・・・彼がハンガリーで生まれ育ったという事情がある。
(2)彼が外向きの人格と内面の個性、二つの顔を持っている
等の点を挙げています。
 第1章「祖国ハンガリーへの凱旋」では、アンディ・グローブが、「亡命以来、ハンガリーの土を踏んでいない」が、「彼は自分の分身を通して、間違いなく祖国への凱旋を果たしている」と述べ、「グローブはインテルを介してハンガリーへ里帰りしている」としています。
 第2章「第二次世界大戦とグローフ一家」では、アンディが4歳の時にしょうこう熱に罹り、これが原因で」難聴という後遺症が生涯つきまとうことになった」と述べています。
 また、「ホロコーストとそれに続く何年かのあいだ」、ユダヤ系であったグローフ一家が、「居場所をすぐにでも離れなくてはならない状況になると、そのたびに間髪を入れずに行動した」と述べたうえで、アンディの父ジョルジュは、舞台がソ連軍に捕らえられたが、「寒さ、飢え、医療の不備」という苦難を生き延びたと述べています。
 第3章「スターリン体制の影」では、1945年末、人口およそ1000万人のハンガリーに、100万人近くものソ連兵が駐留し、「人を人とも思わないことにかけてはヒトラーに引けを取らない」ヨシフ・スターリンによって完全に掌握されていたと述べています。
 そして、アンディが進学したブタペスト・エヴァンゲーリクシュ・ギムナジウム(ブタペスト・ルター派ハイスクール)の卒業生には、ノーベル物理学賞を受賞したイェネー(ユージン)・ウィグナー、ゲーム理論のパイオニア、ヤーノシュ(ジョン・フォン)・ノイマン、ノーベル経済学賞を受賞したヤーノシュ・ハルシャーニ(ジョン・ハーサニ)がいたと述べています。
 また、アンディの大学生活について、「あくまでも推測にすぎないが、アンディはユダヤ人であることに居心地の悪さを感じていたのではないだろうか」と述べています。
 さらに、1956年、アンディが年の離れたいとこであり、「アウシュヴィッツからの生還者」であったマンツィから、「アンドリシュ。この国にとどまっていたはいけない。行きなさい、いますぐに」と背中を押され、オーストリア国境から亡命したことについて、「ハンガリーは常に憧れの対象であり続け、グローブは今なおハンガリー出身であることを誇りにしている。だからこそ、今日に至るまで帰国を果たしていないのではないだろうか」と述べています。
 第4章「新天地アメリカ」では、アメリカに渡り、ニューヨーク市立大学(CCNY)を修了したアンディが、1963年に就職先を決めるに当たって、ベル研究所とフェアチャイルド・セミコンダクターの二者択一に絞り込み、フェアチャイルドはゴードン・ムーアがグローブ獲得に腰を上げ、グローブの論文をたちどころに理解してしまったことに、グローブは惹かれたとして、「ゴードン・アール・ムーアは、アンディ・グローブの職業人生に最も深い影響を与えることになる」と述べています。
 また、グローブがフェアチャイルド入社早々に頭角を現した理由として、
(1)技術力に加え、データと向き合って現実を直視する姿勢
(2)はるか以前に身につけた「目上の人をうまく活かす」秘訣
の2点を挙げています。
 そして、フェアチャイルドの上司であったロバート・ノイスについて、「誰もがノイスに惹かれるなか、なぜグローブだけは違う見方をしたのか」という理由として、
(1)グローブは他人から操縦されるのを嫌う。
(2)おそらく本人が考えている以上にノイスとの共通点が多かった。ふたりとも、自分がスターでないと気がすまなかった。
の2点を挙げています。
 第5章「仕事漬けの日々──フェアチャイルド時代」では、グローブが、会社の業績以外にも、「夫や父親としての役目を果たし、母校カリフォルニア大学バークレー校で半導体物理学の教鞭を執った上、教科書まで執筆したことなどの業績を残していることについて、「会社が機能不全に陥っていたため、製品関連の業務にまともに取り組める状況ではなかった」ため、「創造性の一部を大学での講義に注ぎ、大いに楽しんだのだった」と述べています。
 また、ノイスとムーアによって、1968年7月16日に設立されたインテルにとって、「優秀な従業員の第1号を探す必要はなかった」として、「相手から門を叩いてくれた」、すなわち、それがグローブだったとして、「ノイスが活躍するためにはムーアが必要だったのと同じく、ムーアが実績をあげるためにはグローブがなくてはならない存在だった」と述べています。
 第6章「波乱の船出──インテル創業」では、40年近くに及ぶインテルの歴史が物語るものとして、「コントロールの重要性」を挙げ、ノイスとムーアは、自分たちの会社を興すという大きな賭に出たが、それでも「自分の運命を自分で決められるようになる」という価値があったと述べています。
 そして、「未知への挑戦を前にして不安に駆られるのは、グローブの習性のようなもの」だが、「必ず、そのような不安や恐怖をはねのけて全力で未知の世界に挑む」のが、グローブの生き様だと述べています。
 また、グローブが、「教えるというのは企業エグゼクティブにとって重要な活動である」と考え、「教え魔」を辞任し、他のCEOにも、「時間を作って大学院レベルの教壇に立ってはどうか」と勧めている、すなわち、「教えることは学ぶこと」なのだと述べています。
 第7章「才能の結集」では、ムーアとグローブが、インテルの立ち上げに関して、「180度異なる見解」を持っているとして、ムーアは、「出だしはすこぶる順調」だと捉えていたのに対し、グローブは、「地獄でしたね」と捉えていることについて、「ムーアとグローブの人柄の違い」(生まれつき穏やかなムーアと、気性が激しく短気で感情がストレートに表に出るグローブ)や、「社内での役割の違い」を挙げています。
 第8章「長く険しい道のり」では、グローブが、『絶望』から『僕の起業は亡命から始まった!』まで、何十もの著書や論文など、「絶えず文章を書いて過ごしてきた」ことについて、「文章にするまでは決して自分の考えがまとまらない」タイプだと述べています。
 また、モトローラなどのライバル企業の追撃を受けたインテルが、当たって砕けろの「クラッシュ戦略」によって、IBMとの契約を取り付けたことが、「マイクロプロセッサ戦争の行方を決定づけた」としたうえで、IBM製品に8086シリーズが採用される上で、「幸運にも恵まれた」が、「幸運よりも努力が圧倒的に重みを持つ。インテルは規模が大きくなってはいたが、依然としてハングリー精神を失っていなかった」と述べ、「製品技術で他社を圧倒できないときには、マーケティング力で難局を切り抜けた」としています。
 そして、1987年4月には、ムーアが会長にとどまったまま、グローブがCEOに昇格したことについて、「マスコミのあいだでは、グローブは手強い課題に対処しなくてはいけないという反応が多かった」と述べています。
 第9章「一九八六年のアンディ・グローブ──仕事とプライベート」では、グローブが、46歳になった1982年には「すでに引退を考え始めていた」ことに関して、グローブは「『無鉄砲』な半導体業界に秩序をもたらした」とともに、「インテルと『楽しい会社』と表現した人を私は知らない」として、グローブが社内に秩序を持ち込み、その象徴として、「遅刻者リスト」を挙げています。
 そして、グローブが「仕事に多くのものを賭け、猛烈に働きはしたが、家族とも充実した時間を過ごした」として、グローブが、「たいてい夕食までには自宅に戻り、食後はエバとともにくつろぐのがならわしだった」ことや、「週に7日間働くのはごく稀」だったと述べています。
 第10章「死の谷」では、1986年に1億7300万ドルの損失を計上したインテルにおいて、グローブが、「新しい製品ラインの立ち上げを統括」し、彼が、「マネジメントも統括したが、主としてリーダーシップを発揮して、そのもとでインテルはメモリ事業から撤退してマイクロプロセッサ事業を主軸に据えた」と述べています。
 そして、グローブがムーアにメモリ事業からの撤退を提言する際に、「無表情」だったことについて、1945年1月に、「母親とともに隠遁場所からブタペストのアパートに戻ったとき」に、無表情だったように、「理解しがたい状況から距離を置く能力を発揮した」と述べています。
 第11章「パソコンに活路を見出す」では、1980年6月に、NBCの『日本にできるなら、アメリカにもできないははない』を見たグローブが、マイクロプロセッサ事業において、「アメリカの自動車メーカーにできなかったことを実現した」と述べたうえで、インテルの戦略には、
(1)製造
(2)マーケッテング
(3)アーキテクチャー面での優位性をさらに拡充すること
の3つの柱があったと述べています。
 そして、死の谷から上がる戦略の肝として、「1985年10月発売の8036プロセッサについては、セカンドソーシングを行なわない」ことを決めたと述べています。
 第12章「インテルおそるべし」では、386によって「インテルには凄まじい利益がもたらされた」として、1987年には、「売り上高が前年度比51%増となり過去最高の19億ドルを記録した」としています。
 そして、グローブは幸運に恵まれたことを否定しなかったが、「たとえ運に恵まれたとしても、それを掴み取り、活かすのは自分たちです」と述べたことを紹介しています。
 また、「グローブが社長兼CEOに就任して以降、合計10人の上級幹部が6事業部の舵取りに携わった」が、彼らの勤務年数を合計すると148年になることから、「インテルには『組織人』が多いことが見えてくる」ことを指摘しています。
 本書は、インテルをマイクロプロッセサーのナンバーワン企業として君臨させた経営者の半生を知ることができる一冊です。


■ 個人的な視点から

 20世紀のアメリカの科学技術、情報産業の優位性は、ハンガリー人に負うところが大きかったということは知識としては知っていましたが、ハンガリーのユダヤ人が戦時中のナチス、戦後のスターリンと、これほど過酷な環境にあったとは驚きました。


■ どんな人にオススメ?

・「インテル入ってる」PCを使っている人。


■ 関連しそうな本

 リチャード・S.テドロー (著), 有賀裕子 (翻訳) 『アンディ・グローブ[下]―シリコンバレーを征したパラノイア』
 アンドリュー・S・グローブ (著), 樫村 志保 (翻訳) 『僕の起業は亡命から始まった!―アンドリュー・グローブ半生の自伝―』
 ケビン・メイニー (著), 有賀 裕子 (翻訳) 『貫徹の志 トーマス・ワトソン・シニア―IBMを発明した男』 2007年01月29日
 ルイス・V・ガースナー (著), 山岡 洋一, 高遠 裕子 (翻訳) 『巨象も踊る』 2005年03月21日
 ノーマン マクレイ 『フォン・ノイマンの生涯』 2006年11月21日
 ジョン・L. カスティ (著), 寺嶋 英志 (翻訳) 『プリンストン高等研究所物語』 2007年02月18日


■ 百夜百マンガ

おるちゅばんエビちゅ【おるちゅばんエビちゅ 】

 テレビアニメ化もされた人気作品。葛城ミサトと同じ声優さんということで、エヴァに出てくるのは、「YEBICHUビール」だそうです。作者は吉田戦車の奥さん。

2009年1月22日 (木)

性淘汰―ヒトは動物の性から何を学べるのか

■ 書籍情報

性淘汰―ヒトは動物の性から何を学べるのか   【性淘汰―ヒトは動物の性から何を学べるのか】(#1463)

  マーリーン ズック (著), 佐藤 恵子 (翻訳)
  価格: ¥3675 (税込)
  白揚社(2008/10)

 本書は、「進化の過程で生じたと考えられる動物のさまざまな制的な行動の例を示すことによって、人間社会のジェンダーバイアスを通した見方」を「打ちこわし、ありうべき動物行動の見方を提案していく」ものです。
 著者は、「私たちがしでかす誤解の仕方の一つ」として、「人間社会に関するステレオタイプ的な見解を通して動物行動を解釈してしまうこと」だと述べ、この本によって、「自然を観察すればさまざまな解釈がもたらされるとはいえ、だからといって世界を研究する試みのすべてが、かつて哲学者や社会学者たちが私たちに信じさせようとしたような、ある特定の社会的文脈の中でだけ意味をもつ、たんに文化によってもたらされた行為なのではない」と述べています。
 第1章「死んだ海鳥を『ブラザー』と呼ぶのは」では、「人はいつも、動物たちを自分たちの行動の実例やモデルとしてみてきた」とした上で、「「モデルシステムが理論形成のために便利なテストケースであるにとどまらず、非専門家たちが使う意味のレベルでモデルになり始めた場合」に有害なものになると述べています。
 第2章「代替のステレオタイプ」では、行動生態学と進化生物学における数々の発見が、「私たちに二つの性とはどのようなものかについて教えてくれるのであり、しかもそこには、私たちが考えている男であること、女であることの意味を変える力も秘めている」と述べ、「一般的にメスにはある種の思いやる性質があるゆえに、女性たちは攻撃性が弱く、他の生物への感情移入がより上手くできるのだとする考え方」に懐疑的だと述べています。
 そして、著者が何千というコオロギを解剖する中で、「そこに白くて脈動する蛆の一匹を発見するたびに、私はいつも深い衝撃に襲われ恐れおののく」として、「忘れないでほしい。自然には頭がないことを。自然は、もともと善でもなく悪であるわけでもない。私がここで念を押しておきたいのは、私たちがフェミニストとしてであれ、自然と私たちの関連性について議論するときには、実際にはその関連性についてだけではなく、自然そのものについても語っている」と述べています。
 第3章「母親の自己犠牲に代表される不自然な行為」では、「生物学における最も深い謎の多くは、つまるところ、子の世話とは何かという一点に集まっている」と述べ、「それは、最高の自己本位が最高の自己犠牲になる場なのである」としています。
 そして、「雌イコール母という仮定は、2つの点で間違っており、そのいずれもが、動物が示しているはずの事実を正しく見るための私たちの認識力を制限してしまう」として、
(1)雌たちは子供の世話以外にも他のことを数多くしている。
(2)雌が遺伝的に子の母親であるという以上の存在であるように、父親たちもまた重要だから。
の2点を挙げています。
 第4章「DNAと結婚の意味」では、「乱婚(プロミスキュイティー)」という呼称を「疑問に思う」として、
(1)そこには擬人化して暗に無節操な女性を匂わせる節がある。
(2)無節操に見える多くのケースは実は無節操なのではなく、ただよく理解されていないだけではないかと疑うから。
の2つの理由を挙げています。
 また、「EPC(つがい外交尾)」が、「鳥類のすべての科で起きることが知られている」ことに関して、
(1)なぜ人々はこれをきわめてショッキングなものと思うのか。
(2)子の発見が、動物行動学や私たちの持つ配偶システム観にとっては、何を意味しているのか。
の2つの疑問が生じてくると述べています。
 第5章「精子の世話と管理」では、「精子競争は、二個体以上の雄の射精による精子が競争すればいつでも起こるものだ」として、「異なる雄に由来する精子たちが雌の同じ生殖管に居合わせることになる多様なメカニズムを調べてみることは、どのように雄雌に対する先入観が解釈を変えうるのかを示すために役立つ」と述べています。
 そして、精子競争の研究において、「体内で精子競争が起きている雌は、すべての戦闘が展開される場としての便利な容器であって、それ以外に何か関与があるとは思われていなかった」が、「何が雌の体内で精子に起こっているかがわかれば、進化生物学のいくつかの重要な問題に関する多くのヒントが与えられるかもしれない」として、
(1)静止の運命は変えられる可能性があるということにより、強制された交尾や雄雌間の攻撃性について異なる見方が生まれてくる。
(2)精子管理は性淘汰におけるもう一つの新しいテーマ、つまり性的葛藤に影響を与える。
(3)精子の競争や管理は、雌が一個体以上の雄と交尾することが前提になるので、それらの雄に由来する精子の運命を研究することは、いろいろな関係の性質を研究することを意味している。
の3点を挙げています。
 第6章「性と《自然の階梯》」では、「私たちはなぜ生命を、つねに複雑さを増しながら、各々の生物が後に続く生物のために道ならしをするような、形態の漸進的な発展と見なしてはならないのだろうか」と述べ、「マストドンはゾウの祖先であるのだが、ゾウはマストドンと比べて『より高く』もないし『より低く』もなく、ただより最近になって進化したというだけ」だと述べています。
 そして、《自然の階梯》が、「すべての種をランクづけようとする」だけでなく、「ヒトのさまざまな亜種(人種)をランク付けるために、多くの試みがなされてきた」として、「それによれば、西欧に住むコーカソイド(白色人種)は、アフリカに祖先をもちより最近に現れた人々よりも高い位置に置かれている」とともに、「女性たちもまた、男性たちほど高度に進化していないと見られてきた」と述べています。
 第7章「ボノボ──新千年紀のイルカたち」では、「高い知性と制的抑制の明らかな欠落が、ボノボを動物界の最近のセレブに仕立て上げた」として、人々が、「動物行動を取り上げて、ある観点を擁護するためにそれを用いる」ということを、数世紀にわたって行ってきたと述べています。
 第8章「アルファチキン」では、「私たちは自然における支配の序列が実際にはどのようなものなのか、よく見ておく必要がある」として、
・神話その1:動物相互の支配関係は一般的で、明快で、常に有益なもの→両性間の支配関係についても、動物の間ではこういう面でも数限りないバリエーションが見られる。
・神話その2:雌が凶暴だったり攻撃的だったりすることはめったにない→雌の支配関係は、あからさまな暴力はないにしても、雄のヒヒどうしにおける牙をむき出した最も野蛮な戦いよりはるかに無情な結果(繁殖の阻止)をもたらす可能性がある。
・神話その3:人間は日常的に自分たちの仲間を殺す唯一の動物であり、他の動物は種の繁栄のためにそれを我慢する。→似たような殺戮行為は、脊椎動物であれ無脊椎動物であれ、また雄であれ雌であれ、他の種においても見られるものなのである。
・神話その4:雄の攻撃性は獲物を狩ることと結びついている。→ほとんどすべての動物で雄雌どちらも狩りをする。
などの「神話」を解説しています。
 第9章「サッカー、適応の産物、オーガズム」では、「人は往々にして、ものごとは雄のあり方が標準で雌のあり方はそのヴァリエーションであり、変異であり、取るに足らないものと考える」と述べた上で、「ある形質の適応的な意味を調べる前に、私たちはその形質がそもそも適応の産物なのかどうかを決定する必要がある」として、女性のオーガズムについての考え方が、「適応の産物支持派か、あるいは非適応的産物(アーティファクト)支持派のどちらかに分類される」と述べています。
 第10章「聖俗論争=神の恵みかただの細胞か」では、「古代であれ現代であれ、月経中の女性たちは多くの社会で『不潔』であり、日常の活動から多かれ少なかれ隔離されるべきであると考えられている」と述べた上で、1993年に出版された「精子の運ぶ病原体に対する防御としての月経」という論文が、「ヒトと少数のほかの霊長類は、成功意中に感染する可能性のある最近やその他の病原微生物と戦うために月経の量が多いのだ」と提言したことを紹介しています。
 第11章「性行為じゃない、ただ会っていると楽しいんだ」では、同性愛が、「自然、ジェンダー、文化、ヒトと他の動物の間の差異について私たちが持っている考え方がぶつかり合うときに何が起きるかを見るための、申し分ない場」だと述べています。
 そして、動物に同性愛が起こることから学ぶべき教えとして、
(1)どのようにしてこのような明らかに不利益な行動が生じたのか。
(2)同性愛は性的行動そのものの本質について何を教えてくれるのか。
の2点を挙げています。
 第12章「ハタネズミは数学ができるか」では、「性別による相違があるかどうかをめぐる議論の主要な戦場の一つ」として、数学的な能力と遂行能力を挙げた上で、「私は性差の存在を否定しているのではなく、ただこれらの説明が後からこじつけられたものであって、必ずしも男性の生態や女性の生態への理解を深めるものではないと指摘している」のだと述べています。
 結論「不自然な境界線」では、この本の大部分と著者のキャリアのかなりの部分を、「フェミニストと科学者の両方に同時に語りかけることに費やしてきた」とした上で、「大事な点は、すべての種は各々に特有の環境で進化したということである」と述べています。
 本書は、自然を見るときにどうしてもまとわりつくバイアスについて、普段は気づくことのない多くの示唆を与えてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 本書のテーマからは離れるのですが、血液型で知られる「Rh+」や「Rh-」という言葉は、多くの医学研究や行動研究に用いられる動物である「アカゲザル(rheus macaques)」の名前に由来しているそうです。


■ どんな人にオススメ?

・自分は先入観にとらわれずに自然を見ることができると思うヒト。


■ 関連しそうな本

 デイヴィッド バラシュ, ジュディス リプトン (著), 松田 和也 (翻訳) 『不倫のDNA―ヒトはなぜ浮気をするのか』 2007年08月04日
 リチャード・ドーキンス (著), 日高 敏隆, 岸 由二, 羽田 節子, 垂水 雄二 (翻訳) 『利己的な遺伝子』 2006年09月26日
 ユージン・カプラン (著), 土屋 晶子 (翻訳) 『奇妙でセクシーな海の生きものたち』 2008年6月12日
 ピーター アトキンス (著), 斉藤 隆央 (翻訳) 『ガリレオの指―現代科学を動かす10大理論』 2006年5月5日
 D・B・バラシュ (著), 桃井 緑美子 (翻訳) 『ゲーム理論の愉しみ方 得するための生き残り戦術』 2007年07月09日
 キム・ステルレルニー (著), 狩野 秀之 (翻訳) 『ドーキンス VS グールド』 2007年02月10日


■ 百夜百マンガ

かみちゅ!【かみちゅ! 】

 尾道が舞台といえば、大林宣彦監督の尾道三部作が有名ですが、ここを舞台にしたメディアミックスものということで、テレビアニメのコミカライズ作品です。「もっけ」なんかも思い出しました。

2009年1月21日 (水)

ディープエコノミー 生命を育む経済へ

■ 書籍情報

ディープエコノミー 生命を育む経済へ   【ディープエコノミー 生命を育む経済へ】(#1462)

  ビル・マッキベン (著), 大槻敦子 (翻訳)
  価格: ¥1,995 (税込)
  英治出版(2008/4/22)

 本書は、これまで、「仲良く同じとまり木に並んでいた」、「量」と「質」という二羽の鳥のうち、「質」が「数本離れた木に飛び移ってしまった」世界において、「二羽のうちのどちらかを選ばなければならなくなってしまった」として、「たとえ成長が富をもたらしても、もはやその富は私たちに幸福をもたらさないこと」を示し、「地域経済」の再建を訴えたものです。
 第1章「拡大の果てに」では、「成長に固執していると2つの大きな難題が浮上してきた」として、
(1)政治的な問題。
(2)必要なエネルギーがなく、環境汚染に対応できるか。
(3)成長はもはや幸福をもたらしてはいない。
の3点を挙げています。
 そして、「裕福とは何か? たとえ裕福だとしても、果たして幸福になっているのか?」という本質的な質問をする者が現れたとして、「幅広い学問分野の研究者が満足度を直接測る方法を模索し始めた」と述べ、「物が私たちに幸福を与えてくれない理由は定かではないし、それが本書のテーマの一つでもある」とした上で、「一般的に一人当たりの収入がおよそ1万ドルまでなら、一貫して幸福は金で買うことができるが、それを超えると相関関係はなくなる」という研究報告を紹介しています。
 著者は、「私たちには新しい功利主義が必要」だとして、「量」と「質」の二羽の鳥を一つで落とすことができるような「ニュートン経済学」は役に立たなくなり、「もっと掘り下げて問うような、複雑で相対論的なアインシュタイン経済学が必要なのだ」と述べています。
 第2章「食から見えてくる経済」では、現代農業が、「大量の食糧」を、「安価に」生産することを、「人類がこれまで常に達成しようと歴史を費やしてきた2つの偉業」だとした上で、「あまりにも強烈な特価と整理統合の結果」、アメリカ農村の多くは、「コンビニエンスストアに頼り、新鮮な農作物が手に入らない『食の砂漠』」になってしまったと指摘しています。
 そして、産業型食物体系の「代価」として、「食品価格が非常に低い理由の一つは、農家の数が減り、その農家に対して以前より少ない割合しか私たちが支払っていないからだ」と述べています。
 そして、新農業技術の可能性を大きな規模で試せるチャンスとして、ソビエト連邦崩壊後、東欧圏の「経済」を当てにできなくなったキューバが陸の孤島になり、「砂糖の輸出をやめ、代わりに小さな個人の農場や都市部に何千とあるちっぽけな市場向け菜園で自分たちの食料を育て始め」、化学薬品や肥料の不足から「事実上有機栽培になった」と述べ、キューバが、「他諸国よりも石油、化学薬品、大量の食糧輸送に頼らない、半ば持続可能な農業における世界最大の成功例と言えるものを作り出した」と述べています。
 著者は、「地元の農家も産業型農業と同じくらい技術的に工夫できる」、いや、「愚かな石油の力にそれほど頼っていない」点では、「地元農家の方が余計に工夫できるかもしれない」と述べています。
 第3章「失われた絆」では、「過去500年の物語は度重なる解放の物語だ」とした上で、「ここ数十年で、この解放のプロセスが役目を終えかけている」として、「これ以上、断ち切るべき絆が残っているだろうか」と述べ、「ソビエト連邦と中国は20世紀に新人類を作り上げることに失敗した。ある意味成功した私たちは、世紀の終わり頃までに、この超個人主義という新種の人類へと進化した」として、「この超個人主義に専心するあまり、私たちは不平等を黙認し、あるいは賞賛さえするようになってしまった」と指摘しています。
 そして、「超個人主義が私たちの生活を損なっているのだとしたら、いったいどうすればよいのか」として、「自分個人の生活範囲をほんの少し新しい環境に合わせること、超個人主義の鎧を少し脱ぎ捨てて代わりにある程度の近所づきあいをすることが求められる」と述べ、「ファーマーズマーケットへ行くときには、ただトマトを買うだけではない。友達の輪を広げているということになる」と述べています。
 また、「私たちはまたしても行き過ぎた。あまりにも多くの安定を失ってしまったので、結果として以前よりも幸福どころか不幸になっている」として、「幸福感と満足感の統計値から見る限り、私たちは心の奥底では解放されすぎたと気づいているのだ」と述べています。
 第4章「地域に芽生える力」では、「ラジオは農業よりも速いスピードで一極集中した」とした上で、「クリアチャンネルやインフィニディーが大型店舗のラジオ版だとするなら、国内のあちこちで音波のファーマーズマーケットが芽吹き始めている」と述べています。
 そして、「最も難しいのはエネルギーを新たな目で見るということなのかもしれない。エネルギーは遠方から購入するものではなく、自分で作り、近所に分けるものになる」と述べるとともに、「質のよい大量輸送交通機関は費用がかかるとおもうなら、それは心に描くことに慣れてしまった分類のせいでしかない」と述べています。
 また、「本当に地域経済を活性化したいと望んでいるなら、地域通過を作ることが最重要ステップかもしれない」とのべるとともに、「行政は規模が小さく地域単位である方が、世界の最難題のいくつかと取り組むには小回りが利いて良いかもしれない」と述べています。
 第5章「持続可能な未来へ」では、「圧倒的な数の中国人が農村部から都市部へ押し寄せている。地球史上最大の民族大移動だ。もしかすると年間3000万人にものぼるのではないだろうか」と述べています。
 また、ウガンダの不毛地帯での話として、スターバックスでは5000ウガンダシリングで売られているにもかかわらず、コーヒー栽培農家は1キロ200シリングでしか売れないという話を紹介しています。
 そして、「問題の大部分は、成長が発展途上国で猛烈な不公平を生み出していること」だとして、「理論上のものだが、経済成長が多くの人を豊かにするとしても、ある点を超えるとその人にとっても損得の入り交じったものになることも覚えておくに値する」と述べています。
 さらに、「私たちを満足の得られない経済へと突き進ませる超個人主義に転じなくても、十分に生産できる最適な方法がどこかにある」として、「そういった価値観と、そこからゆっくりと進化する法律や慣習を作ることが、ここでも世界各国でも、私たちの時代の重要な課題なのではないだろうか」と述べています。
 そして、アメリカ人とヨーロッパ人とを比較し、「ヨーロッパの人々は私たちの半分のエネルギーしか使っていない。半分はかなりの量である。地球温暖化を解決できなくても、その軽減にはなるはずだ」と述べ、「自家製サンドイッチと小さな家と医療保障と長い休暇を手にして、それらをすべて合わせたときに得られるもの」として、「生活の質」ランキングでは、「上位10位の国々はすべて西ヨーロッパにある」と述べています。
 著者は、「私たちは少し遠くまで行き過ぎた。いまこそもっとよい可能性を求めて地図を見直し、新たな方向へと進むときだ。惰性には大きな威力がある。結婚生活も企業も国家も、何か大きなものによって方向転換されないかぎり、そのまま動き続ける」として、本書がその「大きなもの」について述べたものであるとしています。
 本書は、社会をよりよい方向に変えるものとしての「経済」のありかたを、刺激的なトピックとともに解説した一冊です。


■ 個人的な視点から

 「エコノミー」というと、ここのところの経済危機で世の中の信頼性がだいぶ弱っている気がしますが、歴史を動かしてきたのは「経済学」ではなくとも、「経済」であることは間違いないわけですので、本書を読んでおいて損はないと思います。


■ どんな人にオススメ?

・世界はこれからどうなってしまうのかと思う人。


■ 関連しそうな本

 村井 哲之 『ハイヒールと宝石が温暖化をもたらす』 2008年11月10日
 ビョルン・ロンボルグ (著), 山形 浩生 (翻訳) 『環境危機をあおってはいけない 地球環境のホントの実態』 2005年09月19日
 ブライアン フェイガン (著), 東郷 えりか, 桃井 緑美子 (翻訳) 『歴史を変えた気候大変動』 2006年12月02日
 ジャレド・ダイアモンド 『文明崩壊 滅亡と存続の命運を分けるもの (上)』 2006年08月14日
 ジャレド・ダイアモンド 『文明崩壊 滅亡と存続の命運を分けるもの (下)』 2006年08月15日
 ジェフリー サックス (著), 鈴木 主税, 野中 邦子 (翻訳) 『貧困の終焉―2025年までに世界を変える』 2007年06月20日


■ 百夜百マンガ

嗚呼祐天寺家【嗚呼祐天寺家 】

 少女漫画といわれて男性にはハードルが高かった漫画家の良質な部分を引っ張ってきたというだけでも、モーニング/アフタヌーン/パーティの功績は大きかったと思うのです。

2009年1月20日 (火)

心とことばの起源を探る

■ 書籍情報

心とことばの起源を探る   【心とことばの起源を探る】(#1461)

  マイケル・トマセロ (著), 大堀 壽夫, 中澤 恒子, 西村 義樹, 本多 啓 (翻訳)
  価格: ¥3,570 (税込)
  勁草書房(2006/2/14)

 本書は、「ヒトとは何か」という古来からの問いかけに対して、進化人類学の立場から、「極めて重要な洞察を示す」ものです。著者は、「ヒトを他の動物から決定的に分かつ特性」として、「言語記号、道具使用、社会組織」などを「象徴・記号体系」が統べるシステムを、「ヒトに固有の他者理解」が支えているとした上で、「生命体は遺伝子と環境の双方を継承して成り立っている」としています。
 第1章「謎と仮説」では、ヒトと他の大型類人猿とが系統の上で極めて短い時間に分かれたという謎に対する解答として、「ヒトに特有のやり方で社会的あるいは文化的な継承を行う能力であり、それは生命体の進化に比べて桁違いに速いスピードで働く」という生物学的なメカニズムに収束すると述べています。
 そして、著者が主張する仮説として、「ヒトの認知が種に特有の性質を持つ」のは、
・系統発生的側面:現生人類は同種の者と「同調する」能力を進化させ、それは他者を自己と同じく、意図と心理状態を持った存在として理解することを促した。
・歴史的側面:この結果、新しい形の文化学習と社会的生成がもたらされた。
・個体発生的側面:ヒトの子供はこうして社会的・歴史的に構成された人工物や伝統のただ中で成長する。
という理由によるものだと述べています。
 第2章「生物学的遺伝・文化的継承」では、「最近になって、多くの動物種にとっての文化的継承の重要さが認められるにつれ、二重継承理論(dual inheritance theory)といわれるものが考え出されるようになった」と述べた上で、「ヒト以外の霊長類は、物理的な対象や出来事と関わる多くの認知スキルを持っている」が、「彼らは物体や事象間の動的な関係を背後で媒介する潜在的な因果関係を知覚し理解することはしない」という意味で、「行動の柔軟性や一般的な因果性の理解といった、ヒトの子どもならばかなり早い年齢から物理的な問題の解決において見せる特徴」が見られないと述べています。
 そして、「ヒトの文化伝統とチンパンジーの文化伝統」をもっとも明確に分けるのは、「ヒトの文化伝統が時間の中で改良を積み重ねていくという事実に他ならない」として、「累進的な文化進化のプロセスは、共同作業による相違の発揮すなわち社会的生成のとりわけ強力な形態と見ることができる」と述べています。
 第3章「共同注意と文化学習」では、生後9か月から12か月の赤ちゃんに、「子供と大人と、そして両者が注意を向ける物体ないし事象と構成される指示の三角形」である「共同注意(joint attention)」が生じてくると述べたうえで、
(1)共同注意のスキルのすべてが、一緒に、相関しあって発現するのはなぜか。
(2)それが起こるのが生後9か月なのはなぜか。
の「2つの問題にともに答えられる理論的な説明」が必要だと述べています。
 そして、「ヒトの赤ちゃんは、個体発生の非常に早い時期から他の人間と同一化するということ、そしてこれはヒトに固有な生物学的遺伝に基礎があるというもの」だとして、「ヒトの文化の基盤となっている根本的な社会的認知の能力は、他のヒト固体と同一化するというヒト個体の能力と傾向性である」という仮説を提示しています。
 第4章「言語的コミュニケーションと記号的表示」では、「言語という記号や、そのほかの記号的な役割を持つものの使い方を身につけることにはいろいろな結果が伴う」とした上で、「子供と大人が一緒の第三の何かに、また第三の何かに向けられた相手の注意に、ある程度の時間に渡って注意を向けるという社会的なやりとり」である「共同注意場面(joint attentional scene)」について、その本質的な特徴として、
(1)共同注意場面は、一方では、知覚される出来事と同じではなく、子供に知覚される世界の中の一部の物だけを含むが、他方で、共同注意場面は言語的出来事と同じではなく、言語記号が明示的に示す以上の物を含む。
(2)子供の観点から見て、共同注意場面が、共同注意の対象となるもの、大人、そして子供自身という三つの関係要素を同じ概念平面状に含んでいる。
の2点を挙げています。
 そして、「子供が、間主観的に理解されている言語記号の習慣的な使い方を習得するため」に、
・他者が意図をもつ主体であると理解すること。
・言語的コミュニケーションを含む記号的なコミュニケーション行為の社会的認知の基盤となるような、共同注意場面に参加すること。
・単なる意図だけでなく、共同注意場面で何かに注意を向けさせようとする誰かの伝達意図を理解すること。
・文化学習のプロセスの中で、大人と役割を交替し、大人が自分に向かって使った記号を大人に向かって使うこと。
等が必要だと述べ、「言語記号の習慣的な使用を習得するためには、子供は、大人の伝達意図(子供の注意をどこに向けたいかという大人の意図)を突き止められなければならない」と述べています。
 また、言語記号が、「人間が持つ概念に便利な名札を提供し、また概念のあり方に影響を与えたり決定したりしているだけ」ではなく、「人間の言語記号の間主観性と、間主観性の結果の一つとしての視点依存性は、言語記号が知覚的あるいは感覚運動的表示のように世界を直接的に表示するのではなく、他者に知覚・概念的状況についてある特定の解釈をさせ、注意を向けさせるために使われることを意味する」と述べています。
 第5章「言語の構文と出来事の認知」では、「子供が世界の言語すべてに同じように適用することができる生得の普遍文法を備えているとしても、子供はそれぞれ、やはり自分の個別言語の、具体的、抽象的な個別の構文を習得しなければならない」として、
・文化学習
・談話と会話
・抽象化とスキーマ化
の3つの課程が重要だと述べています。
 そして、著者の立場として、「社会的・文化的なプロセス──あらゆる文化に共通のもの──が人間の最も基本的かつ普遍的な認知スキル、とりわけ人間という種に特有のスキル、の多くがたどる通常の個体発生経路の一環として不可欠である」と述べた上で、本書の仮説として、「言語記号の表す意味には記述の対象である自体に対する特定の視点が含まれており、談話でのやり取りにおいて言語記号が用いられると複数の異なる視点が明示的に対比され、共有されることになるのであるが、そのようにして与えられる素材をもとに、どの文化に属する子供たちも柔軟で多様な視点を含む」と述べています。
 また、「重要なのは言語がカテゴリー化、視点選択、アナロジーやメタファーの創造などの能力を何もないところから創り出すということ」ではなく、「歴史時間の範囲内で、人間は協調しあうことによってありとあらゆる種類の物体、出来事、関係に対する夥しい数のカテゴリー化の視点や捉え方を作り出し、自然言語と呼ばれる記号的なコミュニケーションの体系の中でそれらに具体的な形を与えてきた」と述べています。
 さらに、基本的な仮説として、「生後1年で意図を持つ主体として他者を理解するようになってから間もなく、子供は他者との談話に酸化し始める能力を持っている」が、他者を心を持つ主体として理解するようになるにはそれから数年を要する理由は、「他者が世界について自分とは異なる信念を持っていることを子供が理解するには、このような異なる視点が明確に現れるような談話」に他者とともに参加する必要があるからだと解説しています。
 著者は、「人間同士が互いに社会的行動を調整しあう──意図を持つ主体として互いを把握する──という能力に向けた進化論的な適応が、個体発生の過程での大幅な精緻化を経て、人間が自らの行動を内省し、その結果、科学理論のような明示的な知識を体系的に構築する能力の基盤にもなっているのではないか」と述べています。
 第7章「文化的認知」では、人間の認知を十全に理解するには、
(1)霊長類の中の人間が同種の固体を理解する独自の方法を進化させていく系統発生的な時間枠
(2)この独自の社会的理解の様式から物質的及び記号的な人工物を含む独自の文化的継承の様式が発達し、時間の流れの中でそれらの人工物への変更が蓄積されていく歴史的な時間枠
(3)人間の子供が自分の所属する文化が提供するすべてを吸収し、その過程で視点に基づく独自の認知表示の様式を発達させていく個体発生的な時間枠
の「3つ別々の時間枠でのその展開を詳しく考察しなければならない」と述べています。
 そして、「子供が一つの非常に特別な文化的産物──言語──を身につけることによって子供の認知は決定的な質的変化を受けることになる。言語が何もないところから新しい認知プロセスを生み出すわけではもちろんないけれども、子供が他者と間主観的に関わって他者のコミュニケーション上の慣習を取り入れるという社会的プロセスから他の動物の種には見られない、新しい種類の認知表示が生み出される」と述べています。
 本書は、いつの間にか言葉を覚えている赤ん坊が、大人顔負けの複雑なプロセスを経ていることを教えてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 人間の子供が言葉を覚える過程が、人間の進化を探るきっかけになるというのは興味深いのですが、自分の子どもをいくら観察してもそういう着想に至らないのは勉強が足りないということでしょうか。


■ どんな人にオススメ?

・言葉はどこから来たかを知りたいヒト。


■ 関連しそうな本

 ジェフ・ホーキンス, サンドラ・ブレイクスリー (著), 伊藤 文英 (翻訳) 『考える脳 考えるコンピューター』 2005年12月17日
 スティーヴ・グランド 『アンドロイドの脳 人工知能ロボット"ルーシー"を誕生させるまでの簡単な20のステップ』 2006年01月28日
 オリヴァー サックス (著), 吉田 利子 (翻訳) 『火星の人類学者―脳神経科医と7人の奇妙な患者』 2006年03月26日
 V.S. ラマチャンドラン, サンドラ ブレイクスリー (著), 山下 篤子 (翻訳) 『脳のなかの幽霊』 2006年09月03日
 トール ノーレットランダーシュ (著), 柴田 裕之 (翻訳) 『ユーザーイリュージョン―意識という幻想』 2006年06月18日
 アンドリュー ニューバーグ, ヴィンス ローズ, ユージーン ダギリ (著), 茂木 健一郎 (翻訳) 『脳はいかにして"神"を見るか―宗教体験のブレイン・サイエンス』 2006年07月01日


■ 百夜百マンガ

警視正椎名啓介【警視正椎名啓介 】

 連載途中で作者が亡くなったものをアシスタントが引き継いだ、というだけでも、さすが「代打屋」の弟子、という感じですが、さらに作中でも主人公に同期の代打をやらせてしまうなんて代打にもほどがあります。

2009年1月19日 (月)

人はいかに学ぶか―日常的認知の世界

■ 書籍情報

人はいかに学ぶか―日常的認知の世界   【人はいかに学ぶか―日常的認知の世界】(#1460)

  稲垣 佳世子, 波多野 誼余夫
  価格: ¥756 (税込)
  中央公論社(1989/01)

 本書は、「人はなぜ日常生活ではこのように能動的でかつ有能に学べるのであろうか。その能動性や有能さを支えているものは何なのか」について、知的好奇心に関する研究と「日常的認知」の研究をよりどころにして答えようとしているものです。
 第1章「伝統的な学習観」では、「サルの仲間では、経験にもとづいて外界についての知識を身につけることが、個体の生存にとっても、また種の維持にとってもそれだけ重要になってくる。いいかえると、サルはもともと学習する種である」と述べています。
 そして、「伝統的学習観によると、効果的に知識を身につけるためには、まず教える人がいなくてはならない。つまり、教え手がいて初めて学べる」として、「多くの人間が学び手として有能でないという仮定が含まれている」ことを指摘しています。
 著者は、「伝統的な学習観の説くところは、結局のところよりいっそうの教え込み、よりいっそうの学習の管理というところに行き着くことになってしまう」ため、「実験室での動物が示すと同じような受動性と無能力とを示す」と述べています。
 第2章「現実的必要から学ぶ」では、「現実的必要をみたすためであれば、人々が能動的に学ぼうとするのは、ある意味では当然」であり、「日常生活では、人々は単に外界に働きかけるばかりでなく、その働きかけ方が上手くいったか否か(目標を達成したか)を判断し、そのような個別的な経験を集積して一般化を行い、そしてそれがなぜ成り立つのかの理由を考える」ことから、「この意味で、人は能動的だ」と想定しています。
 そして、「必要から学ぶ」意味について、
(1)その「必要」は、あくまでも学び手自身が、自己の現実の問題を処理する上で不可欠だと実感したものであること。
(2)「必要」によって作り出された目標と、それを達成する手段として学ぶこととのあいだに本質的に切り離せない関係があること。
の2つの条件を満たすとしています。
 第3章「知的好奇心により学ぶ」では、「人間、とくに年長の子どもや成人における知的好奇心は、他の高等動物のそれとは違って、より深い理解(意味)を求めるところに特徴がある」と述べた上で、「日常場面では、有用性を持った課題を、社会的文脈で処理することが多い」として、「その過程で、いろいろな考えが出されることによって認識的な関心が生まれ、次第に有用性から離れた認識的な性質の行動が成立してくることもある」と述べています。
 そして、「理解するためには、新しく入ってくる情報を既有の情報と関連づけ、そこに整合的な関係を見いだすことが必要」だが、「理解をともなう学習には時間がかかる」と述べています。
 第4章「ことばや数を学ぶ種としてのヒト」では、「ヒトが言語や数を効率的に学ぶようプログラムされていること、その基盤としては、生得的な認知的制約が存在し、これによって速やかにもっともらしい解釈や仮説へと到達しうること」を明らかにしています。
 第5章「文化が支える有能さ」では、「人々が日常生活で示す有能さの多くは、文化によって支えられている」として、「その有力な仕組みの一つは、文化が、課題をできるだけ遂行しやすくするよう、外的な制約条件(さまざまなやり方をあらかじめ排除することによって、可能なやり方の範囲を限定し、適切なやり方をとりやすくする条件)を設定すること」だと述べています。
 そして、「日常生活では、人々は有能な学び手であるが、文化的真空の中においてもそうだとは、必ずしもいえない」として、「文化的真空」ないし「文化の援助やヒントを最小限にした環境」である学校で「有能でなくても、日常生活では、何ら問題でない」と述べ、「子供に、本来必要ないほど高い水準の有能さを要求し、これが達成されないからといって無能扱いすることは、どう見ても正当とは思われない」と指摘しています。
 第6章「文化の中の隠れた教育」では、文化が、「別の形で人間の学習を助けている」として、「その文化の中で必要とされる知識や技能を、誰もが確実に獲得できるよう、長期に渡って少しずつ、その『基礎』があらかじめ形成されているように準備したり、そうした知識や技能が価値があると人々に信じさせ、その獲得を動機づけたりすること」を挙げています。
 また、大学生が卒論の調査で私立保育園を調査したところ、9月の時点で、「5歳児クラスでは60文字以上読める者が80パーセント以上いた」ことを挙げ、学びにくいはずの文字学習を、幼児がイトモたやすく成し遂げてしまうことについて、「用意に学習できるよう文化が助けているからだ」と述べています。
 そして、実生活では、「数を数えることが、正確にかつ速やかに行えるようになっていることがどうしても必要」であるため、「文化は、さまざまな遊びや活動の場を用意し、子供が繰り返し数を数える『練習』をするようはげます」と述べ、「数を数える技能を使うことそのものがおもしろくてやっている」という意味で、遊びといえる楽しい活動だからこそ、「繰り返し行われ、計数技能の熟達もそれだけ進む」と述べています。
 さらに、「家庭で親が頻繁に本や新聞・雑誌などの印刷物を読んでいることも、子どもの読み書きを学ぼうとする意欲の基礎になっている」として、アメリカでの研究では、「親が家庭の中で印刷物に目を通すことがほとんどない家庭の子供は、文字への関心が薄く、読み書きを学ばせるのがとても難しい」と述べています。
 著者は、「文化は、長い時間をかけて人々のうちに共通の価値を持たせるように仕向ける。これによって、その社会の中での知的伝統を構成している重要な知識・技能を身につけるよう動機づけ、その学習を効果的にしていく」と述べています。
 第7章「参加しつつ学ぶ」では、「獲得すべき知識をすでに持っている他者は、『コーチ』として学び手を導くことができる」として、「このように他者の与える柔軟な援助の結果として、学び手は、そもそものはじめから比較的有能である」と述べています。
 また、集団討論をすると、知的興味が高まる上に、「討論を経た後で実験を観察した場合は、ただ単に実験を観察しただけの場合に比べて、深く学ぶことが多い」と述べています。
 第8章「知識があるほど学びやすい」では、「人間が学び手として有能な存在だ」ということの根拠として大きな意味を持つ、「豊かな既有知識が認知的制約として働く」場合について考えるとしています。
 そして、「日常生活で人々が有能に振る舞い、しかも効果的に学習している」理由の一つとして、「彼らが主に、もともと自分が熟達している分野について、いっそう学ぼうとする」ことを挙げています。
 また、「その分野の知識の多少により記憶量の差異が生ずる」理由として、
(1)新しい材料といえどもそのすべてが新しいわけではなく、いままで知っていた部分がある、ということ。
(2)エキスパートの方が与えられた情報に基づいて適切な推論を行い、それによって材料をひとまとまりの意味のあるものに仕上げる。
の2点を挙げ、「われわれの問題解決の能力も、一般的な頭の良さといったことよりも、直接にはその分野での豊かな、しかも構造化された知識があるか否かによるところが大きい」と述べています。
 第9章「日常生活のなかで学ぶ知識の限界」では、「多くの場合、日常生活では、ある結果を得るために、ある手続きが何十回、何百回と繰り返されるが、これはその手続きの意味を十分理解していなくても支障がないことが多い」と述べ、「日常生活で学ぶ知識の限界──概念的知識の欠如ないしは未発達から由来する『浅い』理解」の原因として、
(1)日常生活では「現在の生活」を維持することが第一義的にめざされるあまり、理解よりも「うまくできる」ことのほうに価値がおかれやすい。
(2)日常生活における以心伝心的なコミュニケーションが、深く理解することを妨げ、概念的知識の獲得を抑制している可能性がある。
の2点を挙げています。
 第10章「新しい学習観にもとづく教育」では、「理想的な教育の場」を考える際の要件として、
(1)学習者が、日常生活におけるように能動的でかつ有能な学び手であること
(2)日常的認知の限界を超えて理解を深める機会となること
の2点を挙げた上で、「学び手が、本来能動的で有能であるという前提に立てば」、「教科書に書いてあるような、いわゆる『体系的』知識を教師が教え込むのではなく、子どもが自ら知識を構成していくのを助けることが試みられるだろう」と述べています。
 本書は、多くの人が当たり前に行っている「学ぶ」ことについて、深い理解を促すきっかけになる一冊です。


■ 個人的な視点から

 こういう話を読んでしまうと、自分の子どもは知的好奇心を満たせるような教育を受けさせてあげたいと思うのですが、今の日本では、公立校以外は、
・詰め込み式の英才教育のエリート校
・学校について行けない子や登校拒否の子を対象にした特色ある教育
くらいしか選択肢がないのが現状です。
 例えば、チャータースクールのように、自分が受けさせたい教育を自分で作り出せる方法はないものでしょうか。


■ どんな人にオススメ?

・「学習」は大変だと思っている人。


■ 関連しそうな本

 ロビンズ・バーリング (著), 松浦 俊輔 (翻訳) 『言葉を使うサル―言語の起源と進化』 2008年08月10日
 アルフィ コーン (著), 田中 英史 (翻訳) 『報酬主義をこえて』 2005年11月08日
 小塩 隆士 『教育を経済学で考える』 2005年02月13日
 アンドリュー ニューバーグ, ヴィンス ローズ, ユージーン ダギリ (著), 茂木 健一郎 (翻訳) 『脳はいかにして"神"を見るか―宗教体験のブレイン・サイエンス』 2006年07月01日
 トム スタッフォード, マット ウェッブ (著), 夏目 大 (翻訳) 『Mind Hacks―実験で知る脳と心のシステム』 2006年12月30日
 V.S. ラマチャンドラン, サンドラ ブレイクスリー (著), 山下 篤子 (翻訳) 『脳のなかの幽霊』 2006年09月03日


■ 百夜百マンガ

K2【K2 】

 これも2世モノの一つではあるのですが、スターウォーズにしてもそうですが、設定が上手くかみ合った面白い話をコアにできると、その周囲の話も面白くなりますね。

2009年1月18日 (日)

満員電車がなくなる日―鉄道イノベーションが日本を救う

■ 書籍情報

満員電車がなくなる日―鉄道イノベーションが日本を救う   【満員電車がなくなる日―鉄道イノベーションが日本を救う】(#1459)

  阿部 等
  価格: ¥798 (税込)
  角川SSコミュニケーションズ(2008/02)

 本書は、「満員電車をなくすことはできないのか。なくすためには具体的にどうしたら良いのか」という問題を考え利材料を提示しているものです。
 著者は、満員電車をなくすためのイノベーションとして、
(1)創意工夫しながら相応の経費をかけられれば、供給を大幅に増やして満員電車をなくす方策はある。
(2)運賃抑制の呪縛を開放し商品価値と生産コストに応じた値付けをすれば、それを実行する資金を調達できる。
(3)同時に制度のイノベーションを実行すれば、鉄道のコストは下がり、自動車の利用は適正化され、短期間でより効果的に満員電車を解消できる。
の3点を挙げ、「鉄道イノベーションは日本を救う」と述べています。
 第1章「満員電車の現状と歴史」では、「3000万人もの人々が週重視、平和で豊かにかつ安全に暮らせる社会というのは、現代社会において、そしてもちろん人類史上と照らし合わせても東京都市圏のみである」として、「我々日本人が豊かな生活と享受できる背景には、間違いなく鉄道の発達と満員電車がある」と述べています。
 そして、鉄道の歴史を調べ、データを負ってきた著者が思索の末に行き着いた仮説として、「満員電車の歴史は運賃抑制の歴史」だと述べ、「鉄道の運賃を抑制することは大衆の歓迎を受けやす」いため「ポピュリズムに陥りやすい」結果、「鉄道事業者の収益は限られ、赤字、設備投資の遅れ、要因削減といった問題を恒常的に抱えてきた」ことを指摘しています。
 第2章「満員電車をなくすための運行方法のイノベーション」では、
(1)信号システムの機能向上:「列車位置検出」、「データ通信」、「運転指示」の3つを組み合わせる。
(2)総2階建て車両:1階と2階を完全に別室とし、扉も増やし、床面積を純粋に2倍とする。
(3)3線運行:線路を3線にし、朝のラッシュは真ん中の線路を上り線、夕方のラッシュは下り線として使うことで、実質的に複々線と同等の運行本数を設定する。
(4)鉄輪式リニア:左右レールの間にリアクションプレートを敷き、それに相対するリニアモーターを電車の台車下部に取り付け、両者間の電磁力により駆動・制御する。
等について提案した上で、山手線以外の路線については、「現行の運行本数が1時間に24本より多い線と少ない線」があるが、「倍率が小さい路線で3倍強、大きい路線だと5倍以上」の「床面積の提供が可能」になり、「3線運行化が可能な路線では、さらに倍」になることで、「東京・大阪・名古屋から満員電車をなくすことは十分に可能」だと述べています。
 第3章「満員電車をなくすための運賃のイノベーション」では、「満員電車をなくすには、『コストを掛ければ満員電車はなくせる、満員電車をなくすにはコストが掛かる』という現実を、利用者に、そして社会に理解、納得してもらうことが肝要だ」とした上で、「現在の値付けの仕方は矛盾している」として、「着席と立ち席という明らかに品質が異なり、かつ生産コストも異なるものに対して、同じ値付けというのはおかしくないだろうか」と指摘しています。
 そして、「跳ね上げ式座席にICカード読み取り機を設置し、ICカードでタッチすると座席が下り、立ち上がると跳ね上がるようにする」ことで、「着席の区間、あるいは時間をシステムが把握して課金する」システムを提唱しています。
 また、「商品価値と生産コストに応じてプライシングするならば、ラッシュ時は閑散時間帯より高い値付けとすることが理にかなう」にもかかわらず、「本来ならば多く払わねばならないところを、通勤・通学のラッシュ時の利用者の多くは、定期運賃制度によって安い費用負担で済んでいる」ことを指摘し、本書の仮説として、現在の通勤・通学割引が、「民間主体の鉄道事業者に対して、いまだに明治時代と同じ仕組みを押し付けている」として、「それが満員電車を生み出した大きな原因のひとつだ」と述べています。
 第4章「満員電車をなくすための制度のイノベーション」では、現在の鉄道運転士の免許制度が、電話や無線がなく、「運転士が乗客全員の命を預かっている」時代であった明治時代に作られたものがベースになっていることについて、「システム投資を充実させることで、運転士の勘違いや突発し、あるいは悪意が伴ったとしても事故が根本的に起きない仕組みにした方が合理的ではないだろうか」と述べています。
 第5章「満員電車のなくなる日を目指して」では、「空から見ると、モノの移動に地上の空間が使われ、人の移動は地下に押し込められている」ことは、「いかにも不自然」だとして、「本来なら人の移動に地上を使い、モノの運搬こそ地下で行われるべきではないだろうか」と述べ、「大都市部の末端輸送として、現在の人向けの地下鉄ネットワークを活用すること」を提案しています。
 本書は、日々使っていて、現在の使われ方が当たり前だと思っていた鉄道を、新しい目で見つめるきっかけを与えてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 鉄道事業というと、鉄道事業本体は、ポピュリズムを背景とした規制行政で儲からない中で、最低限のアクセス(新宿まで○○分)を整備した上で、宅地開発で利益を上げていくというモデルが固まったことで、乗客を増やすことにはインセンティブが働くものの、運賃は最低レベルの収入に合わせて規制されたので快適性の向上にはお金が使われなかったということでしょうか。井上陽水の「東へ西へ」でも「延びる線路が拍車を掛ける」というのがありましたが、40年代の満員電車はそういう悪条件の中にあったのでしょう。


■ どんな人にオススメ?

・満員電車は当たり前だと諦めている人。


■ 関連しそうな本

 猪瀬 直樹 『土地の神話―東急王国の誕生』 2006年07月21日
 猪瀬 直樹 『ミカドの肖像』 2006年08月02日
 原田 勝正 『鉄道と近代化』 2007年11月30日
 三戸 祐子 『定刻発車―日本の鉄道はなぜ世界で最も正確なのか?』 2005年10月10日
 青木 栄一 『鉄道忌避伝説の謎―汽車が来た町、来なかった町』 2007年07月18日
 野田 隆 『テツはこう乗る 鉄ちゃん気分の鉄道旅』 2008年03月08日


■ 百夜百音

ヒロシ&キーボー【ヒロシ&キーボー】 ヒロシ&キーボー オリジナル盤発売: 2008

 2008年にカセットテープで音源が発売されているということに驚きを感じてしまうのですが、アナログのレコードがいまだに発売されていることを考えると、カセットテープの再評価というのもあってもいいのではないかと思います。

2009年1月17日 (土)

卍の魔力、巴の呪力―家紋おもしろ語り

■ 書籍情報

卍の魔力、巴の呪力―家紋おもしろ語り   【卍の魔力、巴の呪力―家紋おもしろ語り】(#1458)

  泡坂 妻夫
  価格: ¥1050 (税込)
  新潮社(2008/04)

 本書は、小説家にして「紋章上絵師」である著者が、「図形による家のシンボル」である紋章について語ったものです。
 「紋章のこと」では、「平安時代からはじまり、およそ千年の歴史のうちに完成された、格調のあるデザインとバリエーションの豊富な紋」が、「世界中のデザイナーや美術館傾斜から注目されて」入るとして、1971年にアメリカで出版された『ザ・エレメンツ・オブ・ジャパニーズデザイン』(邦題『紋章の再発見』)を紹介しています。
 「垂れる形」では、「たれぱんだ」を取り上げた上で、「紋の変形の一つに『垂れる』という形式がある」として、「百をはるかに超えた変形法」があり、「同じ巴から数多くの変種を作り出した国は、日本以外にない」と述べています。
 「卍の魅力」では、「卍は古くから世界各地に現れ、神聖な印として大切に扱われて」北とした上で、戦前のドイツでナチス党章とされた「ハーケンクロイツ」と呼ばれる「右卍」について、紋では、「隅立五つ割り右卍」と呼ぶと紹介しています。
 「巴の魔力」では、「中国で巴は、もともと蛇がとぐろを巻く形とされて」いて、日本では、「渦を巻く水」とされ、建物の軒先に置く「軒丸瓦」が、またの名を「巴瓦」と呼ぶのは、「巴の水によって火災を防ぐ」という意味があると述べています。
 そして、「三つ巴を直線で表現」したものを「鱗巴(うろこどもえ)」と呼ぶことにしたうえで、「卍と巴との近い関係がよりはっきり」するとして、「卍は十字形の、4本の軸の先に鍵をつけたものであるのに対して、これはYの形に鍵をつけた形」だと解説しています。
 「麻の葉」では、「麻がまっすぐに伸びることから、子どもが丈夫で育つという幸せの印」だとした上で、歌舞伎狂言の「八百屋お七」が大当たりしたときのお七の衣装が、「浅黄色の麻の葉鹿の子振袖」だったと述べています。
 「独楽と駒」では、独楽は「古くは巻貝の貝(ばい)の殻を廻して」いて、「江戸期にはバイはベイと呼ばれ」ていたことから「ベイゴマ」担ったと解説しています。
 「非対称形」では、「四つ石」や「六つ組み合い亀甲」などを、「非対称に見せて、実は対称になっているという、一筋縄ではいかない紋」だとした上で、「同じような発想の変化法」として、「捻じ牡丹」「捻じ山桜」など、「捻じ」という一群の紋を挙げています。
 「見立て」では、日本の紋が、西洋の紋章と違い、「貴族のみが用いたのではなく、町人も家の紋をもって」いたとして、町人の礼装が「五つ紋のついた黒の羽織に袴」であり、「苗字は持たなくとも門はあった」と述べた上で、江戸時代に観光された紋帳が「時代が下るほど紋の数が多くなって」いることに、「町人がせっせと紋を作っていたからでしょう」と述べています。
 そして、江戸時代の文化に「見立て」という創作法が欠かせなかったことから、「紋の世界にも、見立てが頻繁に」現れるとして、
・柏の葉や桔梗の花→蝶
・牡丹の花と葉→蟹
・三つの稲妻→鶴
・銀杏→鶴
などの見立ての例を紹介しています。
 本書は、千年の歴史を持ち、江戸の文化の洗練を今に伝えてくれる「紋」に対する理解を深めるにはうってつけの一冊です。


■ 個人的な視点から

 「卍」という漢字は形そのままを表しているのですが、「巴」もそういう目で見ると形を現していることに気づきました。
 子供の頃は、襖紙や布団、建具などの模様を見ているのが楽しかったのですが、今ではそういう「紋」が隠れたものは少なくなったのでしょうか。意外に最新のツールの中に隠れていたら楽しいです。例えばケータイの裏側にこっそり入っていたら粋なのかもしれません。


■ どんな人にオススメ?

・「紋」といえば「家紋」くらいしか浮かばない人。


■ 関連しそうな本

 泡坂 妻夫 『織姫かえる―宝引の辰 捕者帳』
 泡坂 妻夫 『家紋の話―上絵師が語る紋章の美』
 高澤 等, 千鹿野 茂 『家紋の事典』
 岡田 保造 『魔よけ百科 かたちの謎を解く』
 能坂 利雄 『家紋を読む―ルーツと秘密を解き明かす』
 藤森 照信, 増田 彰久 『看板建築』 2008年04月12日


■ 百夜百音

もしもピアノが弾けたなら【もしもピアノが弾けたなら】 西田敏行 オリジナル盤発売: 1981

 個人的にはピアノが弾けない人間なのですが、子供の頃からこの曲を弾くたびに、男がピアノ弾けないからといって卑屈になるな!と思ってました。
 「ピアノ」というのが、「育ちのよさ」とか「教養」とかの意味なのかもしれないとも思いますが、「男だったらギター持て」と。はなわみたいにベースでもいいかも。
 ちなみに、作詞者の阿久悠は、「少しばかり器用なサービス精神」という意味だといっているそうですが、不器用だからこそアカペラで歌うことに意味があるような気もします。

2009年1月16日 (金)

謎の会社、世界を変える。―エニグモの挑戦

■ 書籍情報

謎の会社、世界を変える。―エニグモの挑戦   【謎の会社、世界を変える。―エニグモの挑戦】(#1457)

  須田 将啓, 田中 禎人
  価格: ¥1680 (税込)
  ミシマ社(2008/3/14)

 本書は、「世の中を変えるボタン」、すなわち、「そのボタンを押すと、世の中に小さな変化が起こる。その変化は、最初はゆっくりと、そしてだんだんスピードを上げながら、じわじわと勝手に広がっていき、気がついたときには世の中の価値観をすっかり変えてしまっている」というボタンを、エニグモという会社を「起業」することで押してしまった人たちの物語です。著者は、「個々の無理のない範囲の善意を束ねて全体をよりよくしていく新経済ムーブメント」である「シェアリング・エコノミー」の確立によって、「エニグモのノーベル平和賞受賞」を最終ゴールにしたいと述べています。
 第1章「起業前夜」では、2002年のクリスマスに、博報堂に勤務していた須田(著者)が、同僚の田中(著者)から「すごいことを、思いついた」と、「海外にいる在留邦人のネットワークを構築して、世界中からありとあらゆるものを『お取り寄せ』ができるようなサイトがあったら、使ってみたいと思わないか?」というアイディアを持ちかけられ、この「ショッピングの仕組み」を、「バイイング・マーケット(買い付け市場)」を意味する「バイマ」という名前に落ち着き、常に、「成功するイメージ」を二人で共有し、「一年後、やばいよね」、「これを出せば世の中が変わる」と二人とも確信していたとして、「バイマを出したい、世に問いたいという気持ちがすごく強かった。自分たちがオーナーでなくてもいい、とにかく実現したいという一心だった」と述べています。
 第2章「エニグモ誕生!」では、「謎」を意味する「エニグマ」という言葉をヒントに、「独自の名前の方がネット検索で引っかかっていいよね」として、「エニグマ」の活用形「エニグモ」にたどり着き、「クモの巣」であるウェブのビジネスなので、語尾を「クモに変えたのも象徴的に感じた」と述べています。
 そして、バイマのシステム構築を頼んだシステム会社が、「丸々下請けに出して」いて、「その下請けの会社が夜逃げしてしまった」という事件をきっかけに、「半年間の努力が、全く無駄になってしまった」時に初めて「会社を辞めたんだな」と実感した、「手ぶらになってしまった。金もない。後ろ盾もない。システムも完成しなかった」と述べています。
 第3章「世界初第一弾 バイマ、オープン」では、新たに福井にあるシステム会社とであった著者らが、「インターネットがあれば、東京の会社でなくて地方にあってもリアルタイムでやりとりができる」、「地方の会社でもこんなにすごいシステムがつくれるんだ、ということを、バイマがさらに大きくなって知らしめていければいいな」と思ったと述べています。
 そして、「起業してみて、こんなに楽しいとは思わなかった。本当に毎日が楽しい。日曜の夜になると『早く会社行きてえな』と思うほど、それぐらい楽しい。それは基本的に人に仕事をやらされていないからだ。要はどれだけ主体的に仕事をしているかの違いだ」と述べています。
 また、「海外在住の方のホームページをネットで検索し、直接連絡してバイマを紹介する」という「人力プロモーション」について、「一見デジタルなビジネスをやっているように思われがちだが、じつはそうしたアナログなど力をものすごくしていた」と述べ、「人と人のつながり」を大事にし、「バイヤーや購入者とのやりとりは、手を抜かずに徹底的に丁寧にやった」と述べた上で、2005年2月21日のオープンの日を、「世界を変えるボタン」が押された瞬間だったと述べています。
 第4章「失意からの挑戦」では、オープンして10日後に、「身内ではない、本当の見知らぬ人同士の取引があった」ことについて、「その一件の取引で、エニグモに入ってくる手数料は数百円という金額であったが、2年以上の歳月を数千万円の投資、何よりバイマを世に出したいという想いが、やっと形になった、記念すべき初の取引だった」と述べつつも、「何をやっても、会員はなかなか増えない日」が続き、「これはもしかすると市場を読み間違えたか?」という想いが湧いたとして、「エニグモは、順風満帆に成長してきた」と思われることが多いが、「実際はぜんぜん違い、試行錯誤の日々だった」と述べています。
 そして、社員がみな、「口には出さなかったがが、『これから先、どうなるんだよ』」と感じていた矢先、「会社の空気を変えなければ」と思い、日当たりの良い部屋で、「みんな一緒に弁当を買ってきて食べるようにした」ことで、ポジティブになれ、いい気分転換になったと述べ、「この時期があったおかげで、『楽しい仕事をしたい』『楽しい会社を作りたい』と理想を言っても『結局ビジネスとしてうまくいかないと、楽しさってありえないな』ということを、すごく実感した」と述べています。
 第5章「世界初第二弾 プレスブログ」では、2005年9月の役員の話し合いで、取締役がそれぞれミッションを持つことになった中で、田中は「新しい収益源になるビジネスの開発」をノルマにし、「メルマガ、ネットリサーチ、ブログ、口コミ……」というキーワードがぐるぐる頭の中をめぐる中で、「これは絶対にいける」と確信できるアイディアが「降りてきた」と述べています。
 それは、「3万人のOLブロガーがネットワークできたら、そこに商品情報を発信してみたくはないですか?」というもので、当初は、「OLプレスルーム」と名づけられ、「最終的には、ブログを持っていれば誰でも参加できる」ことにして『プレスブログ』と名づけられ、「このサービスは絶対に当たる。間違いない」という自信を持った田中は、「『これだ!』と思ったら、すぐに行動に移すタイプ」だとして、「バイマのときとはまったく違うスピード感で、アイディアの片鱗を思いついてからわずか二ヶ月という短時間でプレスブログはスタートした」と述べています。
 そして、その仕組みについて、「ブロガーをネットワーク化して、企業からの情報を自分のブログ上で発信してもらうサービス」で、2005年12月8日の1件目のリリース(映画の予告編の感想を書いてもらう)を3万人に登録ブロガーにメールで送ったところ、1時間後にはブログに書かれ始め、「瞬く間に、ブログに書いたという申請がプレスブログのサイトに届き始めた。一晩で申請数は数百に届き、それを見た我々は『これすげえよ!』と、みんなで叫んでいた」と述べ、検索の結果は、「映画の公式サイトがトップに出て、2位から数十位までが、すべてエニグモが配信したりリースをもとに書かれたブログの記事だった」のを見た社員全員で、「俺たち、世の中を、動かしちゃったな」と言ってみたと述べています。
 また、プレスブログのアイディアは、「生まれるべくして生まれたサービス」であり、「エニグモが始めなければ、どこかの会社が似たサービスをきっと始めていたことだろう」が、「アイディアだけではどうにもならない。それを具体化できるか、実現できるかどうかが重要なんだ」と述べています。
 第6章「世界初第三弾 フィルモ」では、「動画とCGMと広告」を組み合わせて、「消費者にCMを作ってもらえる時代が来た」と考え、これによって、「莫大な制作費と、CMを流すための媒体費がなくとも、消費者の視点と発想によって制作される多種多様なコマーシャルが、個人のブログを通じて口コミで広がっていく」ことに「関心を抱く企業は絶対にあるはずだ」と考え、「プレスブログの動画版」的な位置づけを持つ「フィルモ」のサービスをスタートさせたと述べています。
 そして、「新しいことや面白いことをやると、面白い方々や熱い方々に出会えるもの」だとして、「新しいことをやることは大変で、市場を作り上げることは生半可なことではないが、一方で、新しい出会いがあり、応援や励ましがあり、喜びがある。それこそが、新しいことをやる醍醐味だと思っている」と述べています。
 また、フィルモのサービスが無事に立ち上ったことをきっかけに、チームの営業の岡崎が「起業したい」と、「エニグモ初の、正社員の退職者」になったことについて、全社員で行った「卒業式」で、「30歳を過ぎてあんなに泣けるとはと、びっくりするくらい涙が出た。エニグモを設立して以来、涙もろくなった気がする」と語っています。
 第7章「世界へ」では、エニグモにとって急拡大の年となった2006年に、初の社員旅行に、スポンサーをつけて、「実質的に持ち出しゼロで、沖縄に全社をあげて社員旅行に行くことができた」として、携帯電話キャリアをスポンサーに、「そのスポンサー企業の携帯電話を使って、旅行の模様をブログで行進する。それをプレスブログで配信して、ユーザーに感想を書いてもらう」という企画が、日経新聞本紙にも「社員旅行ベンチャー流」という記事になり、「なんでも企画にして楽しむエニグモ流が、仕事にも結びついた好例である」と述べています。
 そして、2007年には、「フィルモとプレスブログを組み合わせた新サービス」である「ローミオ(rollmio)」をアメリカで立ち上げ、日経本紙に掲載され、「これだけ華々しく、日本の一ベンチャーが欧米に打って出たということが、日本のビジネス界においても結構衝撃的だったようだ」として、「ローミオの記事の反響の中でも特にうれしかったのは、社員の親からの反応があったこと」だと述べ、「内定者のご両親や、新しく入ってきた社員の親御さんや奥さんが記事を読んですごく喜んでくれた」としています。
 著者は、「今の小さいベンチャーの規模でも海外に出て行ってチャレンジできることを証明し、少しでも日本のベンチャー企業の刺激に慣れればうれしい限りである」と述べています。
 本書は、企業によって世界を変えることの楽しさを教えてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 日本からアメリカに進出したベンチャーというと「はてな」を思い出しますが、近藤社長は昨年には帰国してしまったようです。まあ同じベンチャーといっても、文系と理系というか雰囲気が違う会社ですし、社長のキャラクターも経歴も異なるので単純に比較はできませんが、日本でブレイクしたサービスを世界に広げたい、というのは「世界を変えるボタン」の使い方としては至極まっとうな方向なのではないかと思います。


■ どんな人にオススメ?

・世界を変えられると思う人。


■ 関連しそうな本

 近藤 淳也 『「へんな会社」のつくり方』 2007年12月14日
 岡田 有花, ITmedia News 『ネットで人生、変わりましたか?』 2007年12月25日
 駒崎弘樹 『「社会を変える」を仕事にする 社会起業家という生き方』 2007年11月22日
 デービッド・ボーンスタイン (著), 井上英之 (監修), 有賀 裕子 (翻訳) 『世界を変える人たち―社会起業家たちの勇気とアイデアの力』 2007年08月28日
 渡邊 奈々 『チェンジメーカー 社会起業家が世の中を変える』 2005年08月11日
 シルヴァン・ダルニル, マチュー・ルルー (著), 永田 千奈 (翻訳) 『未来を変える80人 僕らが出会った社会起業家』 2007年03月28日


■ 百夜百マンガ

真・中華一番!【真・中華一番! 】

 主力週刊マンガ誌から系列誌に移行して生き残りを図るケースはよくありますが、たいていの場合は片道切符で終わるのに、移行してから人気が出て戻ってくるケースは少ないのではないかと思います。

2009年1月15日 (木)

監獄ビジネス―グローバリズムと産獄複合体

■ 書籍情報

監獄ビジネス―グローバリズムと産獄複合体   【監獄ビジネス―グローバリズムと産獄複合体】(#1456)

  アンジェラ・デイヴィス (著), 上杉 忍 (翻訳)
  価格: ¥2415 (税込)
  岩波書店(2008/09)

 本書は、「現代アメリカの監獄制度の肥大化のメカニズムを解明し、歴史的産物としての近代監獄制度そのものが既に『時代遅れ』になっていると断じ、その廃止の展望を模索したもの」です。
 第1章「監獄改革か、監獄廃止か」では、「死刑のない社会を思い浮かべることはそれほど難しくはない」が、「監獄は、われわれの社会生活には不可避で永久になくならないものだと思われている」として、「ほとんどの人には監獄を廃止することなど想像すらできない」と述べた上で、「この本に込めた願い」として、「監獄についてのこのような既成概念に対して読者が疑問を抱いてくれること」だと述べています。
 そして、合衆国の人口が、「全世界の5%以下しか占めていない」にもかかわらず、「監獄人口では全世界の20%以上を占めている」ことを指摘し、エリオット・カーリが、「主要な戦争を除けば、大量投獄は現代のもっとも完全に執行された政府の社会計画だった」と述べていることを紹介しています。
 また、「軍産複合体の台頭を思い起こさせるほどの規模で、監獄建設とその運営が、建設業から食品、保険医療設備にいたる巨額の資本をひきつけるようになった」ことを、「産獄複合体」と名づけたと述べています。
 著者は、「今日われわれが挑戦しなければならないもっとも困難で緊急の課題は、司法の新しい地平を創意を持って切り開くこと」であり、「その地平の向こうには、監獄がもはや主要なブレーキ装置としての役割を与えられていない社会が生まれる」と述べています。
 第2章「奴隷制・公民権・監獄問題」では、人種差別制度解体のための歴史的努力の具体例を挙げた上で、「これらの出来事が監獄とその監獄廃止に関するわれわれの議論と直接的な関係がある」と述べ、「その関係を究明すれば、現在の懲罰産業のおかれた状況に新たな展望を見出せるかもしれない」としています。
 そして、「もしわれわれが、奴隷制あるいは囚人貸出制度や人種隔離制度といまだに格闘していた」ことを想像することで、「われわれは監獄がどういう深刻な結果を社会にもたらしているかについて」推測できるとしています。
 第3章「監獄と改革」では、監獄自体は、「より良い懲罰制度を確立しようとする各界の努力の産物だった」とした上で、監獄への収監が、「ヨーロッパでは18世紀、合衆国では19世紀になって主要な懲罰形式として採用」され、「植民地支配の重要な手段としてアジア、アフリカに輸出された」と述べ、「この時代には、資本主義制度確立のために必要不可欠な工業労働を担う自己規律化された労働者階級の形成が求められていたが、この時代の要請こそが、新しい懲罰形態を可能にした」ことを指摘しています。
 第4章「ジェンダーに規定された監獄制度」では、「収監が懲罰の主要な形態として登場してきた18世紀の末以来、有罪とされた女性は同じように有罪判決を受けた男性とは本質的に異なったものとみなされてきた」として、「男らしい犯罪性は、女性の犯罪性よりも常に『正常』なものと見なされてきた。その不品行によって公に国家によって罰せられた女性は、男性犯罪者よりもより常軌を逸し、より社会に脅威を与える存在だとみなされる傾向が常にあった」と述べ、「女性囚人は立ち直りようのない、堕落した救済不能な女性だとの見方が支配的」で、「男の罪人が社会契約を犯しただけの公的個人だとみなされていたとすれば、女の罪人は女性としての基本的な道徳的基準の一線を越えてしまった存在だとみなされていた」と指摘しています。
 また、「女性監獄における抑圧の度合いが高まり、また、逆説的なことなのだが家庭内懲罰体制が後退するにつれて、家庭内暴力と同様、女性に対する私的な懲罰のもう一つの要素である性的陵辱が、監獄内の懲罰の重要な構成要素となった」として、「世界中の女性囚人に関する研究によれば、性的陵辱は、公然と認めらているわけではないが、監獄に収監された不幸な女性たちが受けなければならない昔から長く続いてきた懲罰の形態である」と述べています。
 そして、「女性監獄で広く性的陵辱が行われていることを認識することは、われわれを監獄は意思に導くラディカルな分析にとってきわめて重要な意義を持っている」と述べています。
 第5章「産獄複合体」では、株式会社による囚人労働の搾取が、「株式会社と政府、監獄関係者、メディアを結び付けている一連の諸関係の一局面である」として、「われわれが産獄複合体と呼んでいるものは、このような諸関係によって構成されている」と述べたうえで、「軍産複合体と産獄複合体の関係を共生的な関係と呼べば、より説得力がある」として、「この二つの複合体はお互いに支えあい、促進しあっている」ことを指摘しています。
 そして、「18世紀と19世紀の人々が監獄という懲罰制度を新しくかつ大変素晴らしい改革だとして歓迎した」が、「もし、いまではこれほど多くの人間が監獄に入ったままになっていることを知ったら、当時の人々は一体、どのような反応を示すだろうか」と述べています。
 また、監獄の民営化について、「民営監獄は合衆国ではまだほんののわずか」だが、「多くの国々で急激に懲罰施設設立の主流になろうとしている」として、民営監獄会社が、「合衆国だけでなく世界中で女性集感謝が増えていることに便乗しようとしてきた」ことを指摘し、「一般消費者によく知られている数多くの株式会社が、自分たちの商品を監獄に売り込んで大きな利益を上げる新しいチャンスを獲得した」と述べています。
 著者は、「グローバルな産獄複合体に対する根源的な批判者」が、「民主主義の発展を目指す運動を拡大するうえで反監獄運動は決定的に重要な運動だとみなしている」と述べています。
 第6章「監獄のない世界へ」では、監獄は意思の展望について考える際に、「われわれをしばしば思考停止状態に陥れてしまう厄介な問題」として、「もし留置所や刑務所が廃止されるなら、では、何がそれにとって代わるのか」という問いを挙げた上で、「現行の収監制度に対する単一の対案を抗争しようと努力するのではなく、われわれは、われわれの社会の様相を根本から変えるような一連の対案を構想すべき」だと述べています。
 そして、「この脈絡の中でこそ、麻薬使用の非犯罪化を検討することの意味が理解できる」として、いわゆる「麻薬との戦争」が、「膨大な数の有色人を監獄に送り込む際に大きな役割を果たしてきた」と述べた上で、「麻薬使用の非犯罪化の提案を、各地域の無料麻薬対策プログラムと結合させる必要がある」としています。
 また、「監獄に対する対案を構想する新しい概念的領域を切り開くためには、なぜ『犯罪者』が一つの階級、すなわち、他の人に与えられている市民権や人権を与えるに値しない階級とみなされるのかを検討するイデオロギー的作業が必要である」と述べたうえで、「これらのより広い視野から提起された廃止主義者の対案を背景にして考えてみれば、現行の刑事裁判制度の根本的な変革を提言することの意味が理解できる」と述べています。
 本書は、多くの人が当たり前の存在だと考えている「監獄」が、必ずしも単一の解決策ではない可能性を教えてくれるとともに、大量監獄によって生まれた産業が大きな力を持っていることを気づかせてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 本書の内容自体には、「グローバリズム」という言葉はそれほど大きな意味を持っていないのですが、邦題に書かれているのは、どういう人にこの本を買ってほしいのか、という意味でわざとミスリーディングを誘うようなタイトルをつけたのではないか、という気がしてなりません。


■ どんな人にオススメ?

・監獄はあって当たり前だと思う人。


■ 関連しそうな本

 ジグムント バウマン (著), 奥井 智之 (翻訳) 『コミュニティ 安全と自由の戦場』 2008年01月12日
 菊田 幸一 『日本の刑務所』 2007年12月28日
 クリスチャン ウルマー 『折れたレール―イギリス国鉄民営化の失敗』 2006年08月03日
 飯尾 潤 『民営化の政治過程―臨調型改革の成果と限界』
 野田 由美子 『民営化の戦略と手法―PFIからPPPへ』 2006年01月30日
 菅原 出 『外注される戦争―民間軍事会社の正体』 2008年01月07日


■ 百夜百マンガ

刑務所の前【刑務所の前 】

 今ではすっかり刑務所マンガの第一人者になってしまった感じがしますが、また、本来のファンタジーでも注目されてほしいです。

2009年1月14日 (水)

成功術 時間の戦略

■ 書籍情報

成功術 時間の戦略   【成功術 時間の戦略】(#1455)

  鎌田 浩毅
  価格: ¥714 (税込)
  文藝春秋(2005/5/20)

 本書は、「人間としてのトータルな成功を達成するための具体的な方法について、『時間の戦略』という切り口で論じたもの」です。火山学者である著者は、「人生の成功」について、「仕事、人づきあい、趣味が満たされた時に成功といえる」として、「この三者がバランスよく発展していく生活が、幸福な人生」だと述べています。
 第1章「時間管理の戦略」では、誰にも平等に与えられる1日24時間の使い方にとって、「もっとも重要となる概念」は、「活きた時間」であるしたうえで、人間にとって時間は、
(1)物理的時間(ニュートン時間):時計で計ることができるような客観的な時の流れ
(2)心理的時間(ベルクソン時間):人間の生きる密度によって感じ方が異なる
の2つに分けられるが、「後者によって測られる時間が、ここでいう『活きた時間』」だと述べています。
 そして、「一日の中で頭が本当に想像的に働くのは、せいぜい1時間程度」だとして、「もっとも頭の働く時間を、もっともクリエイティブな仕事に向けよう」とするためには、「大事な仕事から最初にやる」ことだと述べています。
 第2章「人に負けない"武器"を持つ方法」では、「スペシャリストになるためには、他人が追随できないような武器を持たなければならない」として、プロフェッショナルとして通用する武器の錬磨には、
(1)とりあえず何かの専門家になる
(2)どこでも通用する専門家になる
(3)ンリーワン(only one)になる
の3つのステージがあるとしています。
 そして、「自分の専門を決定する際に大切な考え方」として、
(1)将来花が開きそうな分野の専門を選ぶ。
(2)「好きなこと」より「よくできること」を判断基準におく
の2点を挙げた上で、「どこでも通用する専門家」になるためには、「世界のトップが集まるところで仕事をすることが、実力を磨くもっとも早道」だと述べています。
 第3章「人間関係の戦略」では、大学生だった著者が、人間関係に関心があり、国家公務員を目指していたが、通産省の人事担当者から、「君は研究所に行く方がよい」と勧められたことについて、所属していた地質学科の教授から、「周りの人には、君の子とが君よりもずっとよく見えている。それを見越した上で、アドバイスしてくれているのだろうから、それに従った方がよい」と諭された経験を語っています。
 そして、学びのコツとして、「自分が師と同じことができるまで、繰り返し行動することのうちにある」と述べ、「師から素直に学べるかどうかが、すべてを決定する」と述べています。
 第4章「フレームワーク利用術」では、現代の心理学が、「思い込みの世界で生きているのが、むしろ人間の正常な姿だ」と教えているとして、この、「思考パターン、つまり考えかたの枠組みのこと」である「フレームワーク」について解説しています。
 そして、「教えるという作業は、聞き手のフレームワークを考えてしゃべるということ」だとして、「相手に合わせて、伝達する中身と手法が決まる」と述べています。
 第5章「戦略的な読書家になる」では、読書法を、
(1)目的型の読書
(2)さし当たってはっきりとした目的はないのだが、良い本なので読んでおこうという読書
(3)楽しみのための読書
の3点に分類した上で、読書の戦略を、初級用から上級用にわたって解説しています。
 そして、読書の初心者に対し、「難しいと思った本の9割は、著者の書き方が悪いと思え」と述べています。
 また、中級編として、「本は考えるための文房具である」から、「本来汚して使うのがよい」として、著者が、「紙と鉛筆」ではなく「本と鉛筆」を使ったものごとを考えていると述べています。
 さらに、「上級者がよくおちいる陥穽」として、「読書に熱中すると、何日も読書三昧になる。頭の中が新しい内容で飽和していく。そうなると知識に対する感受性が、かえって鈍くなる」と述べています。
 第6章「効率的に教養を身につける方法」では、「教養は、人生全体の戦略を練る上でもきわめて重要なもの」だとして、「人物の広さは教養の深さを比例する」と述べ、「仕事でもその質が上がれば上がるほど、仕事の能力だけでは勝負がつかなくなってくるもので、このとき、人としての器の大きさが最終的にものを言う」と述べています。
 そして、教養は、「遊びの要素と密接に関連している」として、「知的な遊びの行き着く先が、自然と教養として培われる」と述べています。
 第7章「無意識活用法」では、「人が学ぶときにも、意識領域の学習と無意識領域の学習の2つがある」として、「想像力や新しい発想を生み出すには、意識と無意識の両方の能力が必要」だと述べています。
 そして、「人生で行う決定の大部分は、実は無意識が支配しているといっても過言ではない。大切なことは、無意識が求める目的を知ること、言い換えれば自分の無意識的な目標を知ることなのである」と述べています。
 また、「良質なインプットを行って大輪の花を咲かせる」ための戦略として、
(1)広い教養を身につけること
(2)蓮根の一本一本を太らせること
(3)よい花を咲かせるには、美しい花のモデル(ロールモデル)が必要
の3点を挙げています。
 第8章「クリエイティブになる方法」では、クリエイティブな仕事を成し遂げるための法則として、
(1)物事を俯瞰して隙間となっている仕事を探し出す。
(2)直観によって大局をつかむ。
(3)当たり前を疑う。
(4)無意識にゆだねる。
の4点を挙げ、「1日の中で本当にクリエイティブに頭が働く時間は、1時間まで」だとして、「この1時間をどこで確保し、何をするか」、「ふだんから時間に対する鋭い感覚を持つようにする」と述べています。
 第9章「『オフ』の戦略」では、「自分の持っている能力を全開にするためにも、オフに対して戦略を持ちたい。時間管理の達人は、オフの時間への的確な方策を持っている」とした上で、「オフをシステムとして日常生活に組み込もう」と述べ、オフを機能の面から、
(1)マニアックに何かに熱中すること。
(2)仕事のモードから離れて、ただボーッとすること。
(3)普段の人生から離れて、瞑想すること。
の3つに分類し、「バランスの取れたオンとオフを持つ。そのスタイルを確立すると、無限の可能性が広がってくる」と述べています。
 本書は、単に出世やお金儲けではなく、充実した人生を送るための戦略を考え、実践するヒントを与えてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 日々の生活における時間管理の本は多く出ていますが、本書はそれよりもやや長い時間、人生における年単位での時間管理を説いています。
 その意味で、「成功術」というタイトルをつけたのではないかと思いますが、いわゆる「成功本」好きの人への市場戦略ということもあるのでしょう。


■ どんな人にオススメ?

・自分自身にとっての「成功」をつかみたい人。


■ 関連しそうな本

 田尾 雅夫 『成功の技法―起業家の組織心理学』 2005年04月23日
 モーガン マッコール (著), 金井 壽宏, リクルートワークス研究所 (翻訳) 『ハイ・フライヤー―次世代リーダーの育成法』 2005年08月09日
 フランク・ベトガー (著), 土屋 健 『私はどうして販売外交に成功したか』 2006年11月17日
 フィル・ローゼンツワイグ (著), 桃井 緑美子 (翻訳) 『なぜビジネス書は間違うのか ハロー効果という妄想』 2008年11月19日
 中島 孝志 『仕事の道具箱』 2006年11月19日
 小室 淑恵 『結果を出して定時に帰る時間術』 2008年02月20日


■ 百夜百マンガ

RED【RED 】

 正統派の漫画家さん。少年向けの良作を描いている人という印象がありましたが、こういう作品を描けるのは底力なのか化けたのか。

2009年1月13日 (火)

要約力―仕事も勉強もポイントをつかめばうまくいく!

■ 書籍情報

要約力―仕事も勉強もポイントをつかめばうまくいく!   【要約力―仕事も勉強もポイントをつかめばうまくいく!】(#1454)

  和田 秀樹
  価格: ¥1470 (税込)
  かんき出版(2003/07)

 本書は、「情報の引き出しを多く持つことができる」力である「要約力」について、「単に情報の収集や要点のピックアップだけでなく、集約・加工技術」による強化をテーマにしたものです。著者はこの力を、「才能の問題でなく、習慣や態度で身に付くもの」だとしています。
 第1章「これからは『要約力』が生き残りのキーワードになる」では、「情報の要点をつかんで手短に集約し、かつ全体像をしっかり理解すること」である「要約」という作業を「正しく効率的にできる能力」を「要約力」と定義した上で、「要約力とは情報を論理的に把握する能力であり、同時に、自分の考えや意見を論理的に構成し、表現する能力でもある」と述べています。
 そして、要約力には、
(1)第1段階の要約:情報の的確・簡潔な圧縮──ストックとしての要約情報
(2)第2段階の要約:要約情報を集約し、個々の要約情報が目的に沿って整理・仕分けされ、、そして統合されることによって新たな要約情報になる──強化された要約情報→要約カプセル
の2段階があり、この「要約の強化」が行われてはじめて、「要約としての大きな力になる」と述べ、「真の意味で要約力の高い人は、たくさん持っておりストックとしての要約情報から必要なものを瞬時に抜き出し、関連づけたり、統合することができる」として、「リファレンス(参照)とブレンドの達人」だと述べています。
 第2章「『要約ベタ』を解消しないと日本の再生もあり得ない」では、「問題点の所在を明確にしたり、自らの姿勢をハッキリと相手に伝えるには、意見をしっかり要約しておく必要」があるとしたうえで、日本人の要約力の欠如が、「日本語の特性や教育システムにも一因がある」としながらも、「問題は、要約力が欠如したまま、行政や経営の責任ある立場になってしまった人たち」だと指摘しています。
 第3章「要約力アップのために『強化の基本原則』を身につけよう」では、第1段階の要約では、「あなたなりの関心度、視点、知識、想像力、連想といったフィルターを通して情報を咀嚼することが大切」だとした上で、「一つの情報に接したときに、ポイントとなる情報を要約情報として残すだけでなく、そのとき関連しているかもしれない情報を思い出し、その関連付けを自分なりに確かめることによって、新たな『強化された要約情報』が手に入る」と述べています。
 そして、「フローとしての要約情報を得る第2段階の要約で欠かせない視点」として、要約情報に対する「メタ認知」(ちょっと高みから自分を見る視点を持つこと)を挙げています。
 第4章「新聞・雑誌・テレビetc.メディア情報の的確要約術」では、著者が新聞に接するときの要約の基本として、
(1)「関心度の感度」を最大限に上げて目を通す
(2)ひっかかる記事があれば、とにかく切り抜く
(3)ためた切り抜き記事は、一週間後に見直す
の3点を挙げ、「一週間のフィルター期間」を設けることで、「捨て去る情報がハッキリしてくる」と述べています。
 そして、読書には、
(1)趣味型読書
(2)目的方読書
の2通りがあるとした上で、後者について、1冊のうちから2章に絞り込んで読み込む「一部読書法」を挙げた上で、読書に伴う「要約力強化法」である要約メモの書き方のルールとして、
(1)要約として書き記すべき内容を箇条書きにする。
(2)箇条書きにする項目は10項目以内。
(3)書き出した項目を並べたときに、前後の因果関係・相互関係などから、全体の文脈が見えてくること。
の3点を挙げ、この「要約レポート」作りが、「要約という思考習慣を身に付ける上で、大きなプラスになる」と述べています。
 第5章「要約力を活かすビジネス発想・ビジネス行動の掟」では、「毎日の仕事の中で、会議、ミーティングは最も要約力が求められる場面』だとした上で、「各発言者たちの要約情報をその場でどんどん記録していくこと」(手書きメモがお勧め)とした上で、「錯綜したり脈絡のない話になること」もあるフリートーキングに近いような会議の要点をどうメモしていくか、「メモする側の要約力が問われる」と述べた上で、「参加者の発言内容の要点を書き記すと同時に、自分の思考活動の痕跡を併せてメモしていく」ことが、「単なる講義の記録と異なる」と述べています。
 そして、ビジネス文書は、「起承転結」ではなく、「起結承転」こそが、「ビジネス文書構成の要諦」だと述べ、「ビジネス・コミュニケーションではすべて、『最後に転がして次につなげる』ことが大事」だとしています。
 第6章「仕事もスムーズにはかどる対人関係の要約法」では、「ビジネスパーソンにとって重要なヒューマンスキル」であるリーダーシップを発揮できる人のタイプを、「送受信型」、つまり、「自らどんどん発信して周りを引っ張っていき、それと同時に周囲の意見をどんどん取り入れ、それを改善案としてふたたび発信していく」タイプだと述べています。
 また、著者が、精神科医の立場から、人間を、
(1)「シゾフレ人間」:分裂病的資質の濃い人、「周りの人」に関心があり、周りの意見に左右されやすい。
(2)「メランコ人間」:躁うつ病的資質の濃い人、周りに流されず、すべて自分で引き受けようとし、責任感が強い。
の2つのタイプの分けて考えているとした例を、「要約力と人間関係に応用する」例として挙げています。
 第7章「要約頭脳を身につけるための九つの習慣」では、「出力をスムーズにするための思考習慣」として、「アウトプット・トレーニング」を挙げ、ビジネスの現場も受験も、記憶の基本原則は同じだとして、「記銘(入力)・保持(貯蔵)・想起(出力)と、脳の記憶システムをフル稼働させた者が、勝ち組となれる」と述べています。
 また、最新の精神分析理論では、「成熟した依存関係」が人間関係の理想だとされているとして、相手の心理的ニーズをつかむには、
(1)鏡自己対象機能:ホメられたい、注目されたい
(2)理想化自己対象機能:安心したい、不安をなくしたい
(3)双子自己対象機能:自分の体験・思いを理解してほしい
という「人が求める3つのニーズ」のうち、「相手はどのニーズが大きいタイプなのか、いまの状況ではどれが大きくなっているかを、相手の立場になって要約し、ニーズを的確に充たすような対応が必要に」なると述べています。
 本書は、ビジネスや学習だけでなく、人間関係にまで応用が利く「要約力」のポイントを的確に要約した一冊です。


■ 個人的な視点から

 本を要約していると、その「量」とか「知識」の方に関心を向けられることが多いのですが、本書でも指摘されているように重要なのは要約するプロセスそのものというか、それぞれの本で使われているロジックの「型」を身につけることなのではないかと思います。
 それにしても、 「要約力」と題された本を要約するというのはやはり緊張するというか、考えようによっては気合が入ります。


■ どんな人にオススメ?

・「要約」とは文章に限ったものだと思っている人。


■ 関連しそうな本

 斎藤 孝 『「できる人」はどこがちがうのか』 2005年05月14日
 モーティマー・J. アドラー, C.V. ドーレン (著), 外山 滋比古, 槇 未知子 (翻訳) 『本を読む本』 2006年07月02日
 加藤 周一 『読書術』 2006年07月23日
 立花 隆 『ぼくはこんな本を読んできた―立花式読書論、読書術、書斎論』 2006年07月29日
 ポール・R・シーリィ (著), 神田 昌典 (翻訳) 『あなたもいままでの10倍速く本が読める』 2006年1月15日
 松山 真之助 『仕事と人生に効く100冊の本』 2006年01月22日


■ 百夜百マンガ

ANGEL【ANGEL 】

 悪書追放の動きで槍玉に挙げられた作品。才能のある人なのにもったいないですが、風俗店のチラシにパクられ真似られたことでは日本一の影響力のある作者でもあります。

2009年1月12日 (月)

リクルートのDNA―起業家精神とは何か

■ 書籍情報

リクルートのDNA―起業家精神とは何か   【リクルートのDNA―起業家精神とは何か】(#1453)

  江副 浩正
  価格: ¥720 (税込)
  角川書店(2007/03)

 本書は、リクルートの創業者が、自らの経験をもとに、起業家精神を論じたものです。著者は、リクルートやコスモスOBが20社近くの上場会社の社長を務める理由として、リクルートが、「『社員皆経営者主義』を掲げて、会社の中に会社(プロフィットセンター)を作り、PC長を会社の社長としてきたからであろう」と答えていると述べています。
 そして、著者の経験を伝えることで、「無気力の代名詞のように言われているニートやフリーターの中から何人かでも若き起業家が輩出すれば、望外の喜び」だと述べています。
 第1章「企業風土について」では、リクルートを、外部の人たちが、「自由闊達」というイメージを持っていることについて、「大半の社員は、風通しの良い、何でも自由に発言できる会社であると思っている」企業風土がどこから生まれたかを語っています。
 そして、「経営の三原則」として、
(1)社会への貢献
(2)個人の尊重
(3)商業的合理性の追求
の3点を挙げ、「社訓」として、
「自ら機会を創り出し、機会によって自ら変えよ」
を定め、IBMの「THINK」のプレートを真似て、ブルーのプラスティックのプレートに銀色の文字を入れたと述べています。
 また、「経営理念のモットー」として、
(1)誰もしていないことをする主義
(2)分からないことはお客様に聞く主義
(3)ナンバーワン主義
(4)社員皆経営者主義――起業家のの集団
(5)社員皆株主
(6)健全な赤字事業を持つ
(7)少数精鋭主義
(8)自己管理を大切に
(9)自分のために学び働く――遊・学・働の合一を理想とする
(10)マナーとモラルを大切にする
の10点を挙げています。
 第2章「私が学んだ名起業家の一言」では、松下幸之助氏にインタビューする際に、大阪支社長、営業マン、カメラマンなど4名を同行したが、松下氏は一人で出てきて、「私一人のインタビューに5人も来られて、おたくはえらい儲かってる会社でんなぁ」と言われたことから、祖霊ら、「人に合うときは極力一人で伺うことにした」と述べています。
 第3章「成功する起業家の条件」では、「成功する起業家の二十カ条」を掲げ、その中の第10条として、「大学の成績や学歴は関係がない」と述べ、「高学歴のせいで失敗したケース」としてノーベル賞経済学者のマイロン・ショールズとロバート・マートンが立ち上げたロング・ターム・キャピタル・マネジメント(LTCM)が、アメリカ証券市場空前のファンドになった後に倒産した例を挙げ、「起業家と秀でた学者とは違った世界の人と言えよう」と述べています。
 第4章「リクルート創業期」では、大学新聞の求人広告をビジネスにしていた著者が、大手企業の人事課長から、「反体制な大学新聞には求人広告を出したくない。だけど、求人広告を見てうちを受けに来る学生はみんな穏健な思想の持ち主で、入社後も政治に関心を持たない」と疑問を投げかけられ、また、フルブライト奨学生として留学中だった先輩から、「アメリカでは、学生にこのような本が配られています」として、就職情報ガイドブック『キャリア』誌を送ってもらい、「それを見た瞬間、私は『これだ!』と思った」と述べ、のちに『リクルートブック』となる求人広告の本『企業への招待』の創刊に当たり、印刷代などを工面するために2割を事前に受け取る前金システムをとったと述べています。
 また、当時の日本の初任給が同業者と申し合わせていて、「職種による給与差もない社会主義的給与体系だった」が、「高い給与水準は働く人の誇りとなる」と考え、初任給を大企業より30パーセント高くしたと述べ、学歴や男女による差別のない採用をしたところ、「リクルートは女性や高卒を差別しない給与水準の高い会社、との評判を得るように」なり、優秀な女性や意欲的な地方高校出身者が大勢集まり、「これらの人たちがよく働き、リクルートの戦力となった。リクルートは女子と高卒とでもつ会社、と言われた時期が長かった」と述べています。
 さらに、情報理論学者である当代の芝祐順氏の研究室に通い、ノーバート・ウィーナーの『サイバネティックス』やフォン・ノイマンらの情報理論の講義を受け、「リクルートの組織にもフィードバックの回路を極力組み込みたい」と考え、顧客や読者からのフィードバックはがきに力を入れたと述べています。
 第5章「生き生きと働く風土」では、リクルートのプロフィットセンター制を、「社員皆経営者主義」と呼び、PC制の浸透につれて、「リクルートは商売の勉強ができる会社」という評判が学生の間でたち、「起業家精神旺盛な人が入社してくるようになった」と述べています。
 また、社内には、"外飯・外酒を"と、「お得意先や社外の人との会食を勧め、勉強会や研究会への参加も奨励した」うえ、「社外での講演は、勤務時間中でも自由。新聞、雑誌への執筆、テレビ出演なども本人と会社にとってプラスである」と述べています。
 さらに、創業から10年ぐらいの間、「辞表を提出した人との面談」に時間を割き、彼らの率直な意見を参考にし、「この面談によって、人事異動の自己申告制を導入し、上司からメンバーへの評価のフィードバックに極力多くの時間を割くようにした」と述べています。
 第8章「早過ぎた新規事業の立ち上げ」では、「現在の高収益事業も何時かは赤字事業になる。リクルートの永遠の繁栄のためには、常に新しい事業を立ち上げていかなければならない。社内で新規事業の提案を募集し、"健全な赤字事業"と称して毎年新規事業を起こしていた」と述べ、1983年に立ち上げた中古不動産の「JON(住宅情報オンラインネットワーク)」では、加盟店から「ファクシミリで十分だ」といわれて解約が相次ぎ、スタート4年目で撤退したと述べ、「その後、パソコンは急速に低価格になり、伝送スピードも速くなった」が、「失敗と気づいたらすぐ撤退する」がリクルートのポリシーだと述べています。
 本書は、起業家の学校とも言われたリクルートが、どのような考えのもとに作られたのかを語っている一冊です。


■ 個人的な視点から

 リクルートには、将来起業したいという若者が、退職までに仕事を学びたいと言って入社してくるようです。現在、各方面で注目されている起業家の中にも多くのリクルートOBがいますが、こういう社風に鍛えられてきた経営者が多くなることは社会全体にとって大きなメリットではないかと思います。


■ どんな人にオススメ?

・リクルートは不思議な会社だと思う人。


■ 関連しそうな本

 福西 七重 『もっと!冒険する社内報』 2007年12月18日
 藤原 和博 『公立校の逆襲 いい学校を作る!』 2005年06月17日
 藤原 和博 『父生術』 2005年06月12日
 中島 茂, 秋山 進 『社長!それは「法律」問題です―知らないではすまないビジネスのルール』 2005年09月06日
 小杉 礼子 『フリーターという生き方』 2006年04月04日
 大久保 幸夫 『上司に「仕事させる」技術―そうか!ボス・マネジメント!』 2007年01月12日


■ 百夜百音

hana-uta【hana-uta】 ハナレグミ オリジナル盤発売: 2005

 「フライパンママ」という言葉が出てくる「家族の風景」という曲が印象的ですが、ハイライトとウイスキーグラスがキッチンにあるかというと何だか無頼漢な感じがします。

2009年1月11日 (日)

科学する麻雀

■ 書籍情報

科学する麻雀   【科学する麻雀】(#1452)

  とつげき東北
  価格: ¥777 (税込)
  講談社(2004/12/18)

 本書は、「『読み』や『総合的な判断』や『ツキの操り方』といった一般化が不可能な、個人レベルでしか身につけることができない"技"だけで麻雀を論じて」いる従来の戦術書とはことなり、「こうした曖昧な記述を一貫して排除し、『どんな場合に、何を基準に、どう考えるか』といった『麻雀の答え』を明示して」いるものです。著者は、「いずれは、本書の内容を知らずして麻雀を語ることのできない日が来るでしょう。みなさんはいま、麻雀戦術の最先端に立とうとしているのです」と語っています。
 序章「なぜ彼らは曖昧なのか」では、麻雀を語る人たちが、「結果については雄弁だったが、考え方や判断方法について語ることはほとんどなかった」として、プロが書いた戦術書でも、「『どういうときに、何を考え、どう打てばいいのか』という当たり前の疑問に、明確に答えてくれる本がなかった」うえ、「友達が教えてくれるレベルの基礎を解説したうえで、『とにかく経験を積むこと』などとまとめてしまうような本」が最も多かったとして、打ち方を解説している本でも、「人によって判断基準がばらばらで、どれを信用すればいいのかわからなかった」と述べています。
 また、キャリアの長い友人やプロの解説書などが、「牌の勢い」や「流れ」なるものをよく語っているが、「勢い」を重要視している戦術書に「客観的なデータ」が示されていることはなく、もし「印象」に過ぎないとしたら、「『勢い』や『流れ』にもとづいて戦略を変更することそのものが間違いということになる」と指摘しています。
 そして、「麻雀界が隠蔽してきたものの正体を見た」として、誰も「答えの出し方」を教えてくれないのは、「わかっていたが、教えなかった」のではなく、「単純に、わかっていなかったのだ。麻雀界はこれまでずっと、『わからない』を隠し続けてきた。それを認める代わりに『状況』『流れ』『勢い』などの曖昧なものを持ち出した結果」、自称「上級者」を数多く生んできたと指摘しています。
 第1章「データが麻雀を理性化する」では、「『ムダに考える』ことほどムダなことはない」として、「考えるまでもなくその問題の答えを知っていること(あるいはその問題が解けないことを知っていること)」が重要だと述べ、本書の方針として、・「読み」のかわりに統計データを用いよ。
・「読む」のは基礎技術が身についてからにせよ(ただし、その方法を統計的または合理的に検証せよ)。
の2点を挙げています。
 そして、「麻雀の結果は非常に大きく偶然性に左右される」ため、「東風荘の平均的なレベルの相手に対してさえ、平均順位2.1位程度異常をマークできる人間はほとんど存在しない(全体の99.62%がこれ以下の成績になる)」としています。
 第2章「最強をめざす基礎理論」では、「この章こそが本書の本質」であり、「麻雀研究の基礎となりシミュレーターの開発について理論化し、第3章の講座で示す『麻雀の答え』の根拠となるもの」だと述べ、「今後の麻雀研究が『文学』から、『工学』の領域へと移行していくことが期待できる」と述べています。
 そして、「限定的ないくつかの状態に対しては、明確な『答え』を示せるようになった」が、「現段階ではまだ最適戦略を論じるには研究すべき課題がいくつか残って」いるとしています。
 著者は、「筆者の理論、方法論、思考法がすべて盲目的に信仰されるようなぶざまな状態」を望むのではなく、「どのような要素にどの程度の誤差があるかを真剣に考えつつ、理論の限界を明らかにしながら理論を発展させてゆく『科学的な』態度こそが必要」だと述べています。
 第3章「最強の麻雀講座」では、さまざまなシチュエーションに照らして、実際の牌を示しながら具体的な戦術を解説し、「『高度で複雑な判断』を、種々の場面に応じて誤りなく行うことは不可能に近い」として、「成績向上のためには、そうした問いに対して答えを考察する能力よりも、いくつかのテンパイのパターンにおいてどうすればよいかを『覚えてしまうこと』、つまり知識が必要となる」と述べています。
 具体的には、
・良形先制テンパイにおいては、「ダマで6ハン以上や、ダマ4ハンの中~終順以降でなければすべてリーチ」と記憶しておけば通用する。
・ドラ待ちは「出にくい」が、それを十分に補うほどの得点的メリットが存在する。
・自分が和了することを考えている限り、役牌の絞りはすべきではない。
等の具体的戦術について解説しています。
 また、著者が重視する「ベタオリ」の技術については、特に項目を設けて解説し、「麻雀で一番明確に技術差が感じられるのが『正しく降りているかどうか』」であり、「麻雀というのは全局のうち半分近くはベタオリするゲームなのだ。なぜならば、4人いるうちでもっとも配牌とツモが良かった人が和了するのが麻雀であり、自分だけが毎局毎局上がれるゲームではないからだ」と述べています。
 そして、「これまでの『当たり牌読み』の議論がいかに不毛だったか」について、
・裏スジ
・間4ケン
・リーチ宣言牌のソバ
・ワンチャンス
・壁(ノーチャンス)
・アンコスジ
などを実証データをもとに解説し、「リーチに対してもっとも着目すべきは『ドラ』『ドラソバ』の影響であって、その次に『序順の打牌の外側牌』である」として、「その他の影響の多くは誤差レベルといえる」と述べた上で、「攻めるなら最大限に攻め、守るなら最大限に守る」ことが、「多くの局面において正しい」と述べています。
 さらに、「『不調』は確率的な理由で誰にでも訪れる」が、「強い人は不調を含めた上で強い」のだとして、「結論は、『冷静に、いつも通りの打ち方で、もくもくと試合数をこなす』」ことが、「最善の合理的方法」だと述べています。
 第4章「麻雀の思想的側面について」では、「麻雀には流れがあって、それをいかに把握するかが大事だ」という発言に関して、インターネットの掲示板上での「流れ信者」との議論を紹介した上で、彼らが、「自分のいう『流れ』の定義さえできない水準」で、「根拠を示されると、『いや、流れはそういう意味ではない』と定義をころころと変え、見苦しいほどに信仰にすがりつく」と指摘し、この構造は、「麻雀に関するあらゆる『検証の努力のない語り』」に適用されると述べています。
 本書は、これまで、コンピュータなどの技術は持ち込まれているものの、迷信と疑似科学が跋扈していた麻雀の世界に、視点としての「科学」をまじめに持ち込んだ一冊です。


■ 個人的な視点から

 本書で展開される「流れ」などの科学的根拠のないオカルト的な言説に対しての著者の指摘は厳しいものがありますが、ネット上に出ているインタビューでは、両親がオカルトにはまっているので反面教師にした、ということが(嘘か真かは別として)語られています。
 もともと多くのゲーム自体が占いや魔術の類にルーツを持っていますし、もしかすると、今でも麻雀というゲーム自体が、「オカルトの実践」的な要素を持っているのかもしれません。言ってみれば「いい歳こいた大人が集まってやるコックリさん」みたいなものでしょうか。一応はギャンブルという体裁をとっていますが、麻雀卓の上で山から示される「御神託」の中から「流れ」などのメッセージを読み取る共同作業なのではないでしょうか。
 そういう目で見ると、雀荘に立ち込める煙草の煙も焚き染めたお香のように見えてきます。すると竹書房は宗教雑誌の出版社? 今まで「○○理論」なる名前でそれぞれの提唱者(教祖)たちから示されてきた「教典」をそれぞれの信者たちは守ってきたわけなので、著者も「デジタル教」とか「データ信者」とかの名前で別の教義の一派だと認識されているのかも知れません。著者の「信者」が生まれる可能性があるかも?
 つまり、オカルト実践者たちに向かって「お前たちはオカルトだ」と指摘すること自体が馬鹿げたことなのであり、オカルト好きの人たちにはそのまま楽しませてあげればいいのではないでしょうか。本書を読んだ人たちは、オカルトの指摘などせず、粛々と信者の皆さんから点棒を巻き上げましょう。


■ どんな人にオススメ?

・麻雀には人知を超えた何かがあると思う人。


■ 関連しそうな本

 マイケル・W. フリードランダー (著), 田中 嘉津夫 (翻訳), 久保田 裕 (翻訳) 『きわどい科学―ウソとマコトの境域を探る』 2006年01月21日
 マーティン・ガードナー 『インチキ科学の解読法 ついつい信じてしまうトンデモ学説』 2006年02月11日
 伊勢田 哲治 『疑似科学と科学の哲学』 2006年02月12日
 パオロ・マッツァリーノ 『反社会学講座』 2006年03月11日
 村上 宣寛 『「心理テスト」はウソでした。 受けたみんなが馬鹿を見た』 2007年02月28日
 A・K・デュードニー (著), 田中 利幸 『眠れぬ夜のグーゴル』 2005年12月25日


■ 百夜百音

寺尾聰 2000(ミレニアム)BEST【寺尾聰 2000(ミレニアム)BEST】 寺尾聰 オリジナル盤発売: 2000

 イントロのリフがかっこよかった「ルビーの指輪」。そういえば最近見かけたのはビールのコマーシャルか何かでしたっけ。

2009年1月10日 (土)

日本に「民主主義」を起業する―自伝的シンクタンク論

■ 書籍情報

日本に「民主主義」を起業する―自伝的シンクタンク論   【日本に「民主主義」を起業する―自伝的シンクタンク論】(#1451)

  鈴木 崇弘
  価格: ¥1680 (税込)
  第一書林(2007/5/27)

 本書は、「約二十年間、日本にシンクタンクを構想し、つくるために、つまり『構創:構想し、創り出すこと』するために、様々な活動をしてきた」著者による、「シンクタンクとは何か」を論じたものです。
 第1章「シンクタンクに思い至るまで」では、大学卒業後、マレーシアに留学したのち、ハワイのイーストウエストセンターの奨学金を受け同センターで学ぶ機会を得た著者が、「単なる観光や短期滞在でなく、ある程度の期間滞在したことに限ると、私は母国である日本、そして欧米とそれ以外を含めて3カ国以上での経験を持ったことが、物事をみたり考えたりするときにホロスコープのようにその本質を立体的にしてくれる点で、非常に役立っている」と述べています。
 第2章「仕事としてのシンクタンクとの関わり」では、日本に戻り、NIRAで働いたことをきっかけに、政治家のグループ「自由主義経済推進機構」(後の自由社会フォーラム)の事務局長に出会い、スタッフとして参加、1989年9月に、、笹川平和財団(SPF)に就職を決め、そこで、自分の事業として民間で非営利独立型のシンクタンクを立ち上げたいと思っているときに、「日本に米国型の非営利セクターの導入を」と主張していた上野真城子と出会ったことを述べています。
 そして、SPFでシンクタンク調査事業を立ち上げ、その成果を『世界のシンク・タンク』として、1993年12月に出版したと述べています。
 第3章「世界のシンクタンク」では、米国のシンクタンクについて、「米国はシンクタンクのメッカ」だとして、「首都ワシントンだけで百、全国で千二百ぐらいのシンクタンクがある」として、米国のシンクタンクが、「政権交代が起きるときには有力な人材供給源の一つ」となり、「各組織の政治的立場と連動し、その立場に近い政権が成立するとそのシンクタンクから政権に参加することが多い」と述べています。
 そして、アジアのシンクタンクについて、「マレーシアには積極的な活動を行って国際的に評価が高い機関がある」として、マレーシア戦略国際問題研究所(ISIS)やマレーシア経済研究所(MIER)を紹介した上で、マレーシアのシンクタンクが、「社会的な意味でも、また政治・政策的な意味でもそれなりの存在感を有し活躍している」と述べています。
 また、「国際関係や外交における政府間交渉」を「トラック1」というのに対し、「その基礎となるような国際社会に関わる政策課題をめぐる非政府ベースの会議や対話、共同研究、情報交換等」である、「主に民間非営利で様々な政策に関わる活動を行う大学、研究機関や政策研究機関による活動」を「トラック2」と呼ぶと述べています。
 さらに、アジアにおけるシンクタンクの増加を受け、「従来と比較して政策研究におけるより多元的な環境が生まれてきており、国内外での存在感は増してきている」と述べた上で、欧米の財団、政府あるいはシンクタンクが、「世界の様々な国々にシンクタンクや政策研究機関の設立を支援したり、場合によってはその設立を仕掛けたりすることで、自分たちの考えを理解できる知的人材、さらには知的エリートを育成し、そしてプールし、政策的に自分たちを意思疎通できる装置をそれらの国々に設置してきている」と述べ、日本と他のアジアのシンクタンクの比較で、「知的で政策的にすぐれた起業家(policy entre;reneurs)の不在」を指摘しています。
 著者は、シンクタンクを考察する上でのポイントとして、
(1)独立性の概念の重要性
(2)ミッションや政治的価値観
(3)資金
(4)情報(政策情報)
(5)人材(経営者<リーダー>、研究者、職員)と組織
(6)他のセクターや業種(メディア等)
(7)業界、環境の必要性(複数のシンクタンク)
(8)政策研究、政策分析、政策適合性
(9)デセミネーション、アウトリーチ
(10)民主主義の存在
等の点を上げています。
 第4章「シンクタンクとは何か?」では、その定義として、「民主主義社会で、政策の執行者ではないが、アカデミックな理論や方法論を用い、適正なデータに基づく科学的な政策形成のための実効性ある政策的な助言や提案、政策の評価や監視役等を行い、それらを通じて政策形成過程に多元性と競争性を生み、市民の政治参加を促進し、政府の独占の抑制を図る」組織だと定義したうえで、その理想の活動を行うためには、
・民間
・非営利
・独立
・公益
という要素を有していることが望ましいとしています。
 そして、世界中では、「大学、シンクタンク、行政府、議会(立法)等の間を相互に行き来したり、それらの機関に関わりを持ったりする人材」が、「シンクタンクという仲介機関を一つの軸として、政策研究に多様に関わっている」と述べています。
 第5章「日本のシンクタンク」では、「調査機関としてのシンクタンクの時代」として、
(1)第1次シンクタンク・ブーム:1970年代、日本の主要シンクタンクの設立
(2)第2次シンクタンク・ブーム:1980年代後半、金融・生保、メーカー、地銀系シンクタンクの設立
(3)第3次シンクタンク・ブーム:1990年代前半、自治体主導
(4)第4次シンクタンク・ブーム:1997年前後、民間非営利独立
(5)第5次シンクタンク・ブーム:2005年頃、政党系
の5次に渡るシンクタンク・ブームについて解説しています。
 そして、1996年の後半頃に、笹川陽平理事長らから、シンクタンク設立への関与の支持を受けた著者が、「私の夢がやっと実現するのだという高揚感」を感じたと述べるとともに、その東京財団に、当時慶応大学総合政策学部助教だった竹中平蔵氏に中心になってほしいと考え直談判した理由として、シンクタンクは、「エコノミストの牙城」であり、政策に関わる専門的な問題を「できるだけ一般の方にもわかりやすく、しかも印象強く説明」できる「コミュニケーション能力」を重視したためだと述べています。
 また、東京財団の特筆すべき活動として、
(1)「プレ・サミット」の開催
(2)インターネット国際会議の開催
(3)森政権下の「政策タスクフォース」
等を挙げ、「日本の現状で新たな手法を生み出そうとした経験とその蓄積の意味は、小泉政権が日本の構造改革をしようとしたことと同様に、非常に大きい」と述べています。
  さらに、竹中氏が大臣に就任した前後も、「東京財団は後方から支援した」として、組閣名簿の作成や小泉元首相の初の所信表明演説の草稿作成にも関わったが、日本における民間非営利独立型シンクタンクが、「それらの組織や活動をサポートする土壌や財政や組織運営上の基盤は脆弱であった」ため、2004年前半頃までに、「組織解散や実質上の活動停止、弱体化、変質し、現在に至っている」と述べています。
 第6章「政党系シンクタンクの動き」では、2005年以来、「複数の政党がシンクタンクを設立するようになっている」として、「短期的には民間非営利独立型シンクタンクの運営は、現時点の日本では非常に難しい」ため、「政党のシンクタンクを設立・運営して、その成果を政策形成の実際に活かせるようにすることの方が実現性は高い」と述べています。
 そして、2006年3月に有限責任中間法人という法人格でスタートした自由民主党が設立に関わった「シンクタンク2005・日本」に関して、政党のPR活動である「PPP(Policy Patry Public Relations)」について、
(1)広告の段階
(2)広報の段階
(3)政策(双方向)コミュニケーションの段階
の3段階で考えていると述べ、この政策コミュニケーションを考える上では、「外部の声を吸収するために『政策ユニット』という部局を政権に設置」し、政策文書に対して、「社会各層の関係者から意見を受け取り、政策アイデアのキャッチボールをできるように」することで、「政府を多孔質なものに変え、外からの意見やアイデアが政策形成過程に直接入り込んでくるような仕組みを作りだした」ブレア政権の手法が参考になると述べています。
 また、2005年11月に民主党がスタートさせた「公共政策プラットフォーム(プラトン)」について、メインの活動として、月に数回程度実施している「ブラウンバッグ・ランチ(Brown Bag Lunch, BBL)」形式(昼食持込型)のディスカッション・セッションを紹介しています。
 著者は、「世界的にみても、複数の政党が出資してシンクタンクを設立したというケースはあまりない」として、「日本の政党系シンクタンクは新しい民主主義のモデル構築につながるかもしれない」と述べています。
 第7章「シンクタンク再考」では、「民主主義は社会主義や共産主義のように、固定された理想があるわけ」ではなく、「『主義』というよりも、むしろ社会の政治決定をし、社会を運営していくための『政治システム』にすぎない」として、「民主主義は自然に育つものではない」と述べています。
  そして、「官主導の政策形成、社会運営での問題と限界が見えてきた」として、「変化に対応できるように、どのように社会を運営していけるかという『ソーシャル・ガバナンス』の問題を再考し、新たなるガバナンスを再構築する必要がある」と述べています。
 第8章「日本に『民主主義』を起業する──シンクタンクの観点から」では、著者の20年以上に渡る活動を、「日本に民主主義を起業しよう」という試みであり、「その実現のために本格的なシンクタンクを日本に構築し、運営し、日本の政策形成過程を変えていくということ」であると述べた上で、日本で本格的なシンクタンクができない理由として、
・知的インフラの欠如
・法制度上の問題
・政策研究に関わることができる人材の不足:ネットワークではない常勤の研究員の重要性及び必要性への認識の低さなど
の点について指摘しています。
 そして、「勝利への地図」として、
・V:社会を変革していくためには、自分がどのような社会を構築したいかというビジョン
・M:その実現のための自分の使命
・A:行動
・P:使命の実現に向けた情熱
からなる「V-MAP」が必要だと述べています。
 また、「学生がインターンとして実務経験を積むことのできる本格的なインターンシップ制度を、国会、鑑定、行政に構築」することを提案し、インターンシップと、政治任用制度の拡充、民間人登用、公務員の官邸スタッフ公募などを組み合わせることで、「政策人材の育成と流動性を図るようにしていくべき」だと述べています。
 著者は、「2つの側面から日本を変革していきたい」として、
(1)政策コングロマリットの構築を通じて、日本の政治制度、政策形成過程の制度や流れを変えること
(2)国民や有権者の意識、政策形成プロセスの基底部分に関わる資金の流れを変えるような、根本部分を変革すること
の2点を挙げています。
 本書は、日本のシンクタンク史として読めるとともに、日本に欠けている民主主義を適切に指摘した一冊です。


■ 個人的な視点から

 自民党系の「シンクタンク2005」の事務局長を務められている著者にしても、民主党系の「プラトン」の小田氏にしても、政党系シンクタンクの事務局長さんは紳士的な印象の方が多いのですが、やはり色々と調整が大変なポジションなのではないかと想像します。


■ どんな人にオススメ?

・シンクタンクと聞くと「総研」のことだと思う人。


■ 関連しそうな本

 鈴木 崇弘, 上野 真城子 『世界のシンク・タンク―「知」と「治」を結ぶ装置』
 横江 公美 『アメリカのシンクタンク―第五の権力の実相』 2008年09月01日
 横江 公美 『第五の権力 アメリカのシンクタンク』 2005年06月13日
 アレックス・アベラ (著), 牧野 洋 (翻訳) 『ランド 世界を支配した研究所』
 小池 洋次 『政策形成の日米比較―官民の人材交流をどう進めるか』 2005年12月14日
 ジェームズ・A. スミス (著), 長谷川 文雄, 石田 肇, ボストン・フューチャー・グループ (翻訳) 『アメリカのシンクタンク―大統領と政策エリートの世界』


■ 百夜百音

Folder+Folder5 SINGLE COLLECTION and more【Folder+Folder5 SINGLE COLLECTION and more】 Folder+Folder5 オリジナル盤発売: 2003

 メインの大知くんは「将来のマイケルジャクソン」と期待されていましたが、声変わりした後は歌唱力もダンスも抜群なものの、華が無くなってしまった感じもあります。ぜひ、今度は話題性ではなく実力で生き残ってほしいものです。
 ちなみに、チャッピーの「デリカシーのかけら」を歌っていたという説もありますが、一粋という女性が自分が歌っていたとブログで書いてもいるので。

2009年1月 9日 (金)

シティマネージャー制度論―市町村長を廃止する

■ 書籍情報

シティマネージャー制度論―市町村長を廃止する   【シティマネージャー制度論―市町村長を廃止する】(#1450)

  佐々木 信夫, 金井 利之, 工藤 裕子, 土岐 寛, 牛山 久仁彦, 穂坂 邦夫
  価格: ¥1500 (税込)
  埼玉新聞社(2008/12)

 本書は、住民自治を確立し、民主主義を保障する合理的で効率的な地方行政制度の設計が必然的な時代の要請として強く求められている」なか、世界の政治制度や地方自治制度を比較し、制度の長所・短所を様々な角度から分析したものです。
 第1章「我が国と主要国の地方制度に関する比較」では、「世界的にみると、すべての地方自治体の長について、直接公選することを憲法で規定しているのは、我が国独特の制度」であり、「諸外国では、議会が議員の中から首長を選ぶ議院内閣制型、立法機関と執行機関をかねる評議会(理事会)を設置する評議会(理事会)型など、多様な統治形態」があり、「これらの制度を地方自治体が選択できるようになっている場合もある」と述べています。
 第2章「わが国における自治制度の検証」では、日本の首長制度について、
(1)政治家である首長が、人事・予算を握る。政治優位の仕組である。
(2)首長と議会は、それぞれ住民から直接選挙される二元的代表制であるが、現実には首長の力が議会より圧倒的に大きい。
(3)教科書的には執行機関多元主義と呼ばれ、各種の委員会・委員がおかれているが、現実には、首長に総合調整権があるため、基本的には、首長が全行政の統合を担う。
の3つのポイントを挙げた上で、首長に強い権力が集中することを想定した戦後日本の首長制は、市支配人制度とは「水と油」のようなものであることを指摘した上で、アメリカで市支配人制度を必要とした理由が、
(1)政治の過剰な優位
(2)各分野の過剰な分立傾向
であることに鑑みると、「住民から直接選挙される首長以上に、各分野を統合できる正統性のある主体は想定できない」ため、(2)の観点からの市支配人制度の導入は「あまり意味がない」とした上で、「権力は集中しているが、十分な賢慮をすることのできない首長は、膨大な行政分野に実際には配慮することはできず、結果的に、『気まぐれ』あるいは『人気取り』で、政策・事業をつまみ食いする可能性も増えている」という点では、「市支配人制度には意味が見出せよう」と述べています。
 第3章「シティマネージャー制度の紹介と実態調査」では、米国のシティマネージャー制について、「日々の市の政策運営を行うために市議会によって雇用された行政経営の専門家」とする定義を紹介した上で、国際シティマネージャー協会(ICMA)によるシティマネージャーに求められる資質として、
(1)分析と総合の能力
(2)社会哲学
(3)優先順の決定
(4)イニシアティブ
(5)組織的指導
(6)よき公共関係
(7)専門的知識
(8)職業的精神
の8点を挙げつつ、今後の課題として、
(1)シティマネージャーの能力
(2)いかに政治的に中立を保とうと思っても、政策判断が政治家の意見と異なる場合、すぐれた政策であっても、それを遂行することが難しい場合もある。
の2点を挙げています。
 また、英国の地方自治体について、2006年現在では、「リーダーと内閣制度」と「公選首長と内閣制度」の2つのない武功増も出るに分かれているとした上で、「従来の『委員会制度』に近い『リーダーと内閣制度』を採用する自治体が圧倒的に多く、これらの自治体については、従来型のチーフ・エグゼクティブが活躍すること考えられる」と述べています。
 さらに、イタリアの地方自治制度について、1997年のバッサニーニ法が、「補完性の原理に基づいて、国から州、県、コムーネへ、権限・事務、税源、人員の移譲を実施した」ことを、一般に、『行政的連邦主義』といわれるとした上で、この一連の地方分権改革を2001年憲法改正が完成させたとして、
(1)コムーネ、大都市圏、県、州を、国と相互に対等な関係にある自治体として明確に位置づけた。
(2)立法権は、国と州に帰属するとした。
(3)地方自治体の財政自主権が規定されているが、この規定は地方自治体の財政は自主財源によりまかなうことを意味すると理解されている(財政連邦主義)都道時に、担税力の乏しい地方自治体のために均衡化基金の設置が規定された。
の3点を挙げています。
 さらに、日本でシティマネージャー制度が比較的評価を受けているのは、「知らないから受けているという点もある」ことを指摘したうえで、シティマネージャーにとって一番重要なことは、「人当たりが柔らかい」ことで、「日本流に言うと根回しのうまい人が、シティマネージャーには多い」と述べています。
 第4章「日本型シティマネージャー制度の導入」では、「代議員制度が適正に機能しているとすれば『住民参加』の必要性は考えられない」が、「二元制の実態を検証すると随所にその必要性が生じる」として、「一般市民の多くは負担とサービスの関係を理解すると、個々の利害を超えて全体の利益や市民の連帯を考えることができるため、政策決定における住民の参加が必要不可欠ともなる。本末転倒とも言えるがこれが実態である」と述べています。
 そして、我が国の二元制が持つ大きな矛盾として、
(1)首長と議員の双方に政策機能が付与されていること。
(2)首長は一人を選出するが議員は複数であるという異質な選出方法
の2点を挙げたうえで、「首長は政治と行政的な機能のみならず行政活動と永続的に展開するための財政規律機能も同時的に発揮して経営責任を果たさなければならない」一方で、二元制のもう一つの柱である議会には、「予算編成権や執行権を持たないだけでなく、縮小された政策機能だけを行使することになる」と述べ、このような矛盾が、「地方と国の集権的関係の中では顕在化しなかったが、分権化が加速することによって様々な問題が顕在化した」と指摘しています。
 また、市支配人制度の要素として、
(1)公選=政治機関は市支配人とは別にあり、その高専機関からの選任・解任・監督を受ける
(2)市支配人は独任制である
(3)市支配人は行政運営の様々な権限(特に、人事権、予算編成兼など)を持つ
(4)市支配人は、公選でないのは勿論であるが、政治的任用ではなく、中立的に成績主義に基づいて資格任用されるものである。
の4つの革新的要素を挙げたうえで、「既存の制度の中にも、市支配人的制度での運用は可能なものもある」が、「それが市支配人的に運用されない」とすれば、「その原因は、制度そのものではなく別の要因にある」として、「同一組織内での終身職としてのジェネラリストの内部昇進という日本型人事慣行」を指摘しています。
 第5章「多様な地方制度のあり方について」では、埼玉県志木市が、2003年から2005年にかけて、計4回「市町村長の必置規定の廃止」を提案したが、構造改革特区推進室は、憲法第93条に抵触するとして「対応不可」としたと述べたうえで、「地方制度の抜本的な改革によって、住民の行政参加が加速して、行政経費の削減が進み、住民負担が軽減されるとすれば国民にとって、痛みを伴わない改革が実現し、多大な利益を還元することができる」おして、「住民自身が様々な自治制度を選択することによって、住民自治は確かなものとなり、財政規律も回復して、小規模自治体におけるコミュニティも再生する」と述べています。
 本書は、日本における地方自治のあり方と課題をシティマネージャーという切り口から論じた一冊です。


■ 個人的な視点から

 本書の面白さは、現場の人と学者との温度差でしょうか。現場からの問題意識は、シティマネージャー制度の導入を目的にしているわけではなくそれを切り口にして改善の糸口を見つけたい、というところにあるのではないかと思いますが、研究者はまじめなので既存のシティマネージャー制度について詳細に分析していて、その部分の温度差というか、向いている方向の違いに本書を読んだ人は戸惑うのではないかと思います。


■ どんな人にオススメ?

・地方自治体の長は公選が常識だと思っている人。


■ 関連しそうな本

 NPO法人地方自立政策研究所役割分担明確化研究会 (著), 穂坂 邦夫 『地方自治自立へのシナリオ―国と地方を救う「役割分担明確化」の視点』
 穂坂 邦夫 『教育委員会廃止論』 2006年01月26日
 穂坂 邦夫 『市町村崩壊 破壊と再生のシナリオ』
 埼玉新聞社 (編集) 『生き生きまちづくり 埼玉県志木市の挑戦』 2005年04月17日
 小滝 敏之 『アメリカの地方自治』 2006年02月02日


■ 百夜百マンガ

熱闘コンドルズ【熱闘コンドルズ 】

 架空のプロ野球チームという設定はマンガの世界では定番ですが、そういえばドラマではなかなか見かけない気がします。スポンサーとかの制約がきついのでしょうか。

2009年1月 8日 (木)

明治国家と近代美術―美の政治学

■ 書籍情報

明治国家と近代美術―美の政治学   【明治国家と近代美術―美の政治学】(#1449)

  佐藤 道信
  価格: ¥7875 (税込)
  吉川弘文館(1999/03)

 本書は、「明治期を中心とする近代日本に起こった美術にまつわる動きについて、制度論や言語・言説論の視点から」、著者が「これまで行ってきた論考をまとめたもの」です。本書が扱う具体的な内容は、
(1)いわゆる近代日本美術そのものについて
(2)近代に始まった美術史学あるいは美術史研究について
(3)それによって構築された「美術史」という歴史認識体系について
の3つに収斂するとしています。
 序章「美術史学の現在」では、「現在の日本で古今東西の美術に対してもっとも包括的勝一般的に使われている美術用語の多くは、明治期に作られたものである」として、「美術」「絵画」「彫刻」「工芸」「時間」「空間」「人間」「人体」「写実」「様式」「創造」「伝統」「描写」「具象」などを上げています。
 第1部「近代美術の政治学」第1章「明治美術と美術行政」では、明治維新以降の美術をめぐる行政が、質的に
(1)殖産興業としての美術工芸品の奨励振興
(2)古器旧物(古美術)の保護
(3)美術教育制度の確立
の3つの命題を柱として展開したと述べています。
 また、「鑑画会、東京美術学校という文部省路線」が、「新たな美術教育と弛まざる伝統の革新による新画の創出」と、「一方の皇室と宮内省に密着した日本美術協会は、伝統美術の保護」という「当代美術振興の2つのルートが成立」したとして、その結果、
・新派=文部省系(美術教育)
・旧派=農商務省系・宮内省系(殖産興業・美術保護)
という基本構図が成立したとしたうえで、、「日本の美術史学自体が、実は文部省路線の学校教育制度の中で成立し、宮内省との共同体性で展開してきたこと」を指摘しています。
 第2章「『美術』と階層」では、「美術」概念成立の経緯で重要なこととして、
(1)「美術」「絵画」「彫刻」「工芸」という概念の"器"が、日本では博覧会は工部省機関などを具体的な場とする産業経済政策(殖産興業)の中で成立すること。
(2)それらはいずれも官製の用語、制度的用語として成立すること。
の2点を挙げています。
 また、「同じ『工』『商』の中でも、支配階級としての武士・公家、庶民階級の富裕層を対象とした、一般性活用とは異なる質とレベルのもの」があり、「そうした美術は、明らかに階層性を帯びた"階層美術"としての性格を強く持っている」とした上で、「近代の『美術』を実際に担った人々」と「前代の身分制や階級性との関係」について、「工部美術学校、明治美術会、白馬会の洋画家と西洋彫刻家に、圧倒的に士族が多いこと」を指摘し、「絵画が上位、工芸が下位に位置づけられたのには、西欧美術のジャンルのヒエラルキーの移植という事情の一方で、実はこうした階級意識が、それを支える底流としてあった」ことを指摘しています。
 第3章「美術と経済」では、「19世紀後半の日本美術品の海外移動やジャポニスムの日本美術観を、経済的、政治的視点から検証してみる」としています。
 そして、「明治期の政府が美術に対して取った美術行政」の柱として、
(1)殖産興業としての美術の振興
(2)古美術保護
(3)美術教育制度の確立
の3つの柱を挙げた上で、「明治政府が、万博と内国勧業博覧会という内外2つの博覧会を、西欧の市場と日本国内の地場産業を直結するトランス装置として機能させるため」に採った方策について、「直輸出政策によって輸出は大きく伸びていった」として、「当時美術工芸品が輸出に占める割合が、総輸出額の約10分の1だった」という説から、「膨大な数量の当代工芸品が海を渡ったことがわかる」として、欧米のジャポニスムコレクションが、"流出"古美術と"輸出"当代美術のうち、「数量的には後者のほうが多いのは、まさにこうした当時の日本の国策による結果」だと述べています。
 また、「欧米の日本美術観に殖産興業や他の2つの日本の美術行政が、どのように関係しているのか」について、「西欧の日本美術観は、日本の行政でいえば殖産興業に、また美術品の質でいえば浮世絵・工芸品という"民"の美術に、強い関係を持って形成された」と指摘しています。
 第4章「美術史学の成立と展開」では、「近代日本で『日本美術史』が形成されたとき、その理念的支柱となったのは、国家主義と天皇制を背景にした皇国史観だった」上、「日本における『東洋美術史』は、対象がアジアの歴史だから本来皇国史観とは関係ないはずなのだが、実際にはやはり皇国史観を背景に成立した」と述べています。
 そして、明治20年代以降の古美術保護と美術史研究の間に起こったこととして、
(1)古美術保護のための宝物調査が、同時に美術史研究のための作品の基礎調査となった。
(2)古美術保護が、"指定"によって、国家による美術作品の権威付けとしても機能した。
(3)古美術保護との関係が、美術研究じたいの確立や権威付けにも影響している。
(4)古美術保護との関係が、日本東洋美術史の研究上の方法論にも影響している。
(5)古美術保護は、欧米の日本美術コレクションや日本美術観の形成にも、間接的に関係している。
(6)古美術保護との関係の有無が、日本における日本東洋の古美術研究と、近代美術や西洋美術氏研究を隔てる一因となっていること。
の6点を挙げ、「第二次大戦までの日本東洋美術史研究は、国家思想・皇国史観と不可分の関係にあった」と述べています。
 第2部「近代美術の言語学」第1章「『画』と漢字」では、「きわめておおざっぱな言い方をすれば、色彩中心の大和絵系の絵画には『絵』、水墨を中心とする漢画系の絵画には『画』、実用的性格の強いものには『図』が多く用いられたこと意が窺われる」と述べた上で、「明治になって、現在も用いるような意味での『絵画』という語が新しく造語された時代背景」として、「西洋絵画の本格的な移入が、大きなインパクトとなったことがまず考えられる」としています。
 そして、「日本における『画』や『絵』の語の実際の用法は、一見無秩序のように複雑に入り混じっているものの、実はそれぞれが意味する内容について一定の社会的な了解が成立した上で、建前と実態の間で使い分けられ、時に折衷されるケースも多かったのではないかと思われる」としています。
 第2章「雅号と理想の世界観」では、「二字で構成される人名の一字に用いられる」「通字」について、本来、中国では、「二字の下の字」が、「本体を示し、上の字が識別符号とされたため、通字は上の字に用いるという規則が出来上がった」が、「それを移入した日本では、二字の形式は保ちながらも、内容的にさまざまな変化が生じた」として、
(1)上下の二字に対等感が生じ、通字は上字という規則が崩れて、上下どちらにでも使われたこと。
(2)中国の血縁関係では、縦の血統よりも兄弟や世代など横のつながりが重視された(列通字)のに対して、日本では、縦の系流が重んじられた(行通字)こと。
の2点などを挙げています。
 そして、18世紀後半から19世紀初頭の画壇が、「百花繚乱の様相を呈した」として、「各派の系譜に見る画家名」において、「雅号の一字継承性は著しくうすれている」として、「同じ流派といっても、実態としては"家"から個人集積の"画系"へと移行しつつあるのであり、そこでは、流派という社会集団における個人の比重が、大きくなっている」と指摘し、この時期の興味深い事例として、
(1)一字の継承性が薄れる中で、勝川、歌川、鳥居葉など浮世絵諸派は、逆に狩野派同様、名字を継ぎ、雅号の一字継承にもこだわっていること。
(2)名字と雅号で一つの山水風景をイメージさせる画家名が、現れ始めること。
(3)強烈な個性派作家たちの雅号のユニークさ。
等の点を挙げています。
 さらに、大正期には、「現代の日本画まで続く新たな、そして極めて重要な動き」として、「雅号を用いない実名の使用」を挙げた上で、「洋画では、すでに明治時代から実名が使用されていた」ことについて、「基本的に雅号という制度を持たない西洋の形式に倣ったこと」だけでなく、「雅号の慣習を持っていた日本画の中では、そうした実名の使用という形式自体が、一つの"洋"イメージとして解された可能性がある」ことを指摘しています。
 第3章「『写実』『写真』『写生』」では、「似て非なるこれらの語について、各語の歴史性をふまえながら現在にいたる語義の定義を試みたい」としています。
 そして、「写実」の成立には、「理想化や美化、神聖化とは異なる価値基準、ありのままの現実の是認と"見る"力、視覚の力への新たな信仰という、まさに19世紀的な要因が必要だった」として、「この写『実』という認識論が、『写真』や『写生』の語彙再編を生んだ根本的な動因だった」と述べています。
 そして、「同じように見える"リアル"さでも、『写真』と『写生』ではそれに込めた意味が違っていた。しかしその『写真』『写生』という語は、西洋文化が移入された時点でその翻訳語として使われたため、近代以降、同じ字形でもその意味が違うものになる。さらに『写実』『自然主義』という概念と用語の成立によって"リアル"さをめぐる近代日本の言語環境が整った」と述べています。
 第4章「『歴史』と『人間』」では、明治20年代から30年代にかけての、美術の世界における、「歴史画論争や裸体画論争など、画壇全体を巻き込む大きな論争」について、「実際には理念闘争としてだけでなく、世代闘争、権力闘争といったさまざまな局面を持っていた」が、論争の歴史的意義として、
(1)国家体制の完成を背景とした、近代日本のあるべき姿をめぐるソフト論争という性格を持っていたこと。
(2)論争という形態じたいが、結果的に新たな西欧の理念や概念に対する取捨選択と移植の作業になったこと。
(3)これが日本人同士による論争だったこと。
(4)この二つの論争がいずれも風景画や花鳥画ではなく、歴史画や裸体画といった人間にまつわる主題の論争として起こっていること。
の4点を挙げ、「日本では、根本的に同じ"人間"をめぐる問題だったはずの歴史画と裸体画でも、前者は積極的、後者は消極的な移植が図られた」と述べています。
 そして、裸体画の受容が、「"洋魂"の議論も風俗としての問題もすべてタナ上げにして、西洋美術の移植にまつわる一つの制度的モチーフとして受容された感が強い。西洋美術の側から見れば、それはぬけがらとしての神の形だったとも言える」と述べ、裸体画問題が、「裸の肉体による"美の規範"に対して、社会的な共通の認識基盤が成立していなかったことによるもの」だとして、「"美の規範"としてこそ成立する"Nude"に対して、ジャンル用語としてはまさに即物的な生身の肉体を意味する『裸体(naked body)』という言葉を使った『裸体画』という造語が成立してしまう。『裸体画』というジャンル用語そのものが、"Nude"という概念に対する受容の限界を象徴することになったのだった」と指摘しています。
 第3部「近代美術の組織論」では、「狩野派が明治維新を期に一気に瓦解した最大の要因」として、「権益のほとんどすべてを徳川家と幕藩体制そのものに負っていたこと、いわば芸術面のみならず、経済的支持基盤としてのパトロネージも、体制の構造に一元化していたこと」を挙げた上で、「流派としての狩野派が解体したのち、個人となった狩野派の画師たちは、かつての純粋な絵画活動による幕府への出仕とは異なり、急速な西洋化と体制整備を進める新政府のさまざまな分野の中で、画図技術を必要とする実用的作業、殊に富国強兵、殖産興業に関連する部署での作業に組み込まれていった」と述べています。
 そして、明治以降の狩野派について、「美術界の動向と再編が、既に流派を骨格とする図式ではなく、国家の主導による美術の制度化という、全く新しい力と論理によって展開している」と述べています。
 第2章「狩野芳崖の歴史評価の形成」では、維新後からフェノロサに見出されるまでの芳崖の社会的境遇が、「不遇なものだった」とした上で、後に芳崖が、「近代国家を表彰する新たな伝統主義絵画の代表作家として、その芸術的立場と社会的地位を確立した」ことについて、
(1)鑑画会と東京美術学校の主力となった画家には、実は狩野派出身の画家が多かったこと。
(2)美術の"大家"となった人々と、その出身階級の関係。制度としての「美術」の実態は、旧支配階級出身者を中心に形成された。
等の点を挙げ、「彼自身の力もさることながら、こうした時代的潮流のプラスの部分に乗った形で、有力者への道を駆け上がっていったのだった」と述べています。
 そして、「日本での『日本美術史』は支配階級の美術、西欧での日本美術観は、庶民階級の美術と輸出工芸品を中心に掲載されている」という図式を指摘しています。
 第3章「川鍋暁斎の歴史評価の形成」では、「狩野派・浮世絵二つの絵画を個人で体現した暁斎の評価が、日本・西洋でどのように形成されたのか」について、「近世、近代、現代の要因から見てみる」としています。
 そして、「浮世絵と工芸品の人気は、19世紀西欧の美術動向の内的必然と、エキゾチシズムの上に成立していた」として、「暁斎も、まさにこの上に乗った」としています。
 本書は、近代日本の「美術」がどのように形成されて行ったかをわかりやすく解説した一冊です。


■ 個人的な視点から

 本書の面白さは、学校や教科書で習う建前的な「美術史」よりも、近代日本の美術がどのように形成されて行ったかを有機的に生々しく描いていることにあるのではないかと思います。イメージとしては、「年表」で歴史を学ぶか、「歴史小説」で歴史を学ぶか、という面白さの違いに近いかもしれません。


■ どんな人にオススメ?

・美術の教科書はつまらないと思う人。


■ 関連しそうな本

 水藤 真 『博物館学を学ぶ―入門からプロフェッショナルへ』 2008年06月20日
 山田 奨治 『日本文化の模倣と創造―オリジナリティとは何か』 2008年08月15日
 アレックス・カー 『美しき日本の残像』 2008年09月09日
 佐藤 道信 『「日本美術」誕生―近代日本の「ことば」と戦略』
 北沢 憲昭 『境界の美術史―「美術」形成史ノート』
 佐藤 道信 『美術のアイデンティティー―誰のために、何のために』


■ 百夜百マンガ

蒼き炎【蒼き炎 】

 明治の若者の絵にかける熱い思いを描いた作品。今では古臭い絵で、当時のヤングジャンプの中でも地味な感じでしたが正統派のマンガとして楽しめる力量を持っています。

2009年1月 7日 (水)

地域医療を守れ―「わかしおネットワーク」からの提案

■ 書籍情報

地域医療を守れ―「わかしおネットワーク」からの提案   【地域医療を守れ―「わかしおネットワーク」からの提案】(#1448)

  平井 愛山, 秋山 美紀
  価格: ¥2310 (税込)
  岩波書店(2008/01)

 本書は、千葉県立東金病院を舞台に、「地域医療をつくるプレーヤーは、医療者だけではない。住民も行政もみな一人ひとりが大切なプレーヤーだ。自らの問題として現実を受け止め、知恵を絞り、自らは何ができるのかを考える。地域が自前で解決していく力を育てる必要がある」という思いを伝えることを目的としたものです。著者は、「千葉県山武地域で起きていることは、今、日本のあちこちで起きている問題である」として、「地域医療が直面している危機的状況に対して、医療の担い手、行政、住民はどう考え、どう動いていけばよいのか、本署が紹介する取り組みが、皆さんの地域での問題解決の一助となることを願っている」と語っています。
 第1章「病院から医師がいなくなる」では、「3つの公立病院と、4カ所の民間病院、90あまりの診療所が地域の医療を担ってきた」千葉県山武地域で、2004年に入って、「医師不足に追い討ちをかけるように、病院から医師が次々と辞めていき、地域医療の崩壊が始まった」と述べ、2996年9月下旬には、東金病院の内科医は平井院長を含めて「たった二人の体制」になり、「診療は連日深夜まで続き、そのまま当直をして入院患者を診て、次の日も朝から診療に当たるしかなかった」として、平井は、「野戦病院のようだった。本当にしんどくて、何度も逃げ出したいと思った」と語っています。
 そして、「当直をした翌日も、外来患者や入院患者の診察など、日常業務に当たる」という現状が、「全国の救急医療の現場では、決してめずらしいことではない」として、社団法人日本病院会の調査で、医師不足の要因としても、「苛酷な労働環境」と答えた人が61.0%で最も多かったことを紹介し、「このようなことが許されている」理由として、「医師の当直は、労働基準法とその施行規則では労働時間としてカウントされない」ことを挙げ、法規上の当直は、「常態としてほとんど労働する必要がない勤務」と定義されていることと、「わずかな仮眠しか取れずに働き通しの実態とは乖離している」ことを指摘しています。
 また、「2004年からの新医師臨床研修制度の導入を契機として、わが国に戦後から存続してきた医局制度のもとでの医師教育が崩壊し、医師供給システムが大きく変わった」として、この大改革が、「歴史にたとえれば、幕末から明治への大きな時代の変化に匹敵する」と述べています。
 第2章「医師不足」では、「これまで大学の医局が地域への医師派遣を調整する機能を担ってきた」が、2004年からの新医師臨床研修制度をきっかけに、「これまで毎年一定数であった医局の入局者が激減し、各地の大学病院では2年間ゼロになってしまう医局も出てきた」ため、「大学病院では病棟勤務を始めとする大学病院の診療を支える医師の確保が困難」になり、「人手不足となった大学病院の医師確保のために、関連病院へ派遣した医師を引き上げはじめた」ことが医師引き上げの「第一波」であり、さらに、「各地で2年間の初期臨床研修を終えた研修医の多くは、大学関係者の予想を裏切り大学の医局には戻って」こず、「引き続き後期研修についても、大学以外の研修病院でレジデント医として研修することを選択」したため、「大学病院の日々の診療を維持していくためには、派遣先の病院からさらに多くの医師を引き上げなければならなくなった」この「引き上げ第二派」が、「山武地区を含む全国各地の医療に大きな打撃を与えた」と解説しています。
 そして、「これからは『病院で』、『地域で』医師を育てる時代になったことを自覚し、臨床研修病院として教育機能を充実させることが、地域中核病院として生き残る必須用件だ」として、平井は、「地域として教育能力を上げ、キャリアパス(仕事と人生の将来設計)を提供していくことが地域医療再生のカギとなる」と語っています。
 また、平井が、「新医師臨床研修制度は医師引き上げのきっかけではあったものの、そもそも今日の医療崩壊の新の原因だとは思っていない。日本の医療を取り巻く制度や社会にあった歪みが、これまで長い間にわたって増大し、すでに崩壊寸前の臨界点に達していたと考えている」ことを紹介した上で、「破綻した自治体病院の過程を見ていくことで、今日の医療崩壊を招いた問題の本質が見えてくる」として、舞鶴市民病院、阿賀野市立水原郷病院、江別市立病院・市立敦賀病院など、「全国で相次いだ自治体病院の崩壊過程」を挙げ、「医師の大量辞職の背景には、医療現場と行政、そして住民の間の医療に対する意識のギャップが指摘できる」と指摘しています。
 さらに、「病院の医師不足、医療崩壊の本質」として、「地域医療の最前線で、苛酷な労働環境の下で、ぎりぎりの人数で業務をこなし、何とかして地域医療を支えてきた、特に中堅クラスの病院勤務医の心の支えがぽっきりと折れたこと」を挙げ、「その根底には、地域住民と医師の間のコミュニケーションの断絶があった」と述べています。
 第3章「『点』から『面』へ」では、10年前に平井が東金病院に赴任した当時、「すっかり時代に取り残されたような病院だった。地域に閉ざされた病院で、診療技術も遅れていて、チーム医療と呼べるものはなく、サービスなんてあったもんじゃなかった」だけでなく、「職員のための病院になってしまっていてそこには住民貢献の視点も医療向上の視点もなかった。もちろん学術的なことはゼロ」だったと語っています。
 さらに、「平井が東金病院に着任してから知ったショッキングな事実」として、「山武地域は千葉県下で医療費も最低だが、平均寿命も最低ということ」を挙げ、特に「糖尿病が悪化し下肢を切断する『糖尿病性壊疽』の割合が全国平均の5倍にも上る」ことについて、「こんなひどい状態まで放置されている人がいるのか!」という「千葉大では見たこともないようなひどい状態の患者が次々やってくる」ことが、「後に地域ぐるみで糖尿病の治療に力を入れて取り組むきっかけとなった」と述べています。
 そして、「生活習慣病などの患者は診療所に多く、大きな病院だけでは治験が停滞し、よい新薬を早く患者の元へ届けることが難しい」が、「山武郡市医師会と山武郡市薬剤師会が全面的にバックアップすることで、多くの被験者を必要とする治験に地域として取り組むことが可能に」なり、後に、地域医療ネットワーク「わかしおネットワーク」へと発展することになったと述べています。
 また、2001年11月から実証実験が始まった「わかしおネットワーク」が、
(1)地域共有電子カルテを中核とした病診連携システム
(2)病院、診療所、保健調剤薬局を電子カルテで結ぶオンライン服薬指導システム
(3)生活習慣病の診療ガイドラインのオンライン配信を軸とする診療支援システム
(4)インスリン自己注射患者の自己血糖値測定結果のオンライン共有を軸とする在宅糖尿病患者支援システム
(5)被験者匿名化により個人情報を保護する遺伝子診療システム
の5つのシステムから構成されると解説した上得、医師同士だけでなく、「保健調剤薬局や保健所、訪問介護ステーションまでが、一つのネットワークに参加し、日常的に治療において情報共有してきたケースは全国的にも例がない」と述べています。
 第4章「地域で医師を育てる」では、全国でもあまり例のない「病院群方式」の臨床研修プログラムについて、「研修医が1~数カ月ごとに各病院をローテーションで回ることにより、一つの病院では学べない高度専門医療や地域医療をバランスよく学べる」として、「この臨床研修プログラムには、内科、リハビリ医療、外科、救急、小児科、産婦人科、精神科、地域医療、地域保健といった科目があり、これらを8つの病院で分担して受け持つ」と解説しています。
 また、千葉県の状況について、平井が講演などで、「千葉県には房総半島を縦断する医師育成の分水嶺がある」と説明しているとして、千葉市以東で初期臨床研修を行っている病院は3ヵ所しかなく、県北東部の旭中央病院と、南房総の亀田総合病院の「二つの大規模病院の間の空白地帯にポツンと一ヵ所ある小さな臨床研修病院が、県立東金病院だ」と述べています。
 そして、「充実した医師研修に魅力を感じた若手医師が、東金病院に集まりはじめた」として、東金病院に移ってきた医師が、「この地域は地域医療連携に先進的に取り組んでおり、患者さんを地域で診ていくという取り組みを全国に先駆けてやっている。全国的にも先駆けであまり例がないので、ぜひここで経験を積みたいと思ってやってきた」と語っていることを紹介しています。
 第5章「医師が来てくれる地域をつくる」では、2007年4月から、「東金病院とNPO法人『地域医療を育てる会』が一緒になって」始めた「医師育成サポーター制度」について、活動の中心となっている東金市内の主婦、藤本晴枝が、「若い医師が『ここにいたい』と思う地域をつくるために、住民に何かできないかと考えたときに、コミュニケーション研修のサポーター制度を思いついた」と述べています。
 また、藤本が、千葉県の病院分布の資料を見て、「初期研修を受ける研修医がいる千葉県内の病院を示した地図」と、「各種学会の教育病院、あるいは教育関連病院の認定を受けた病院」の一覧が、「頭の中でぴたりと一致することに気づき」、「この地域の病院が、学会の教育病院あるいは教育関連病院の認定を受ければ、資格を取りたい和解医師が集まってくるかもしれない」という情報を、「ぜひ地元の人々に広く知らせたい」と思い、平井院長に相談したことをきっかけに、「東金病院で働いてみようかと考えている医師が奄美大島にいる」ということで、奄美に飛んだことが紹介されています。
 そして、奄美でインタビューした古垣斉拡医師が、「若手医師の多くが市中の一般病院で実際の診療経験を積み、専門医になりたい傾向」があり、「そのために若手医師に選ばれる病院とは、『そこで働くことで、自分のキャリアが上がるところ』、つまり学会の認定医・専門医といった資格を取ることができる病院である」上に、若手医師が、職場選びのために、「積極的に病院を見学」し、医師同士で自分の体験をインターネットで伝え合っていると語っていることを紹介しています。
 第6章「政争に翻弄されるな」では、2006年3月27日に合併によって登場した山武(さんむ)市の市長選の最大の争点が、「仮称『山武地域医療センター』の建設計画をめぐる地域医療の問題だった」と述べたうえで、2004年度の地方公営企業法の全部適用などで、「県立病院全体としては経営に対して以前よりは機動的・積極的な取り組みができるようになったとはいえ、各病院の院長には職員人事や給与についての裁量権はない」ため、「医療の責任者でありながら経営権限のない院長として、病院の現場と県上層部との板ばさみに苦悩することもあった」と述べています。
 そして、「地域医療をめぐって紛争している他地域の事例を学ぶ中で、さまざまな課題が見えてきた」として、それを教えてくれた、インターネット上のオピニオンリーダーとして、城西大学経営学部准教授の伊関友伸氏のサイトなどを挙げた上で、2007年3月3日には伊関氏を招いての講演会を開催し、「地域住民、行政関係者、地域を越えた医療関係者ら220人』が集まり、病院を新築する場合には、「地域において必要とされる医療を明確にすること、病院建築のコストを最小限にすることが必要」であるとして、「吹き抜けロビーのある新築病院から医師がいなくなる」という法則があることや、「医師が来てくれるには、『寝られます』が一番効く」と語ったことなどを紹介しています。
 第7章「地域医療を再構築する」では、ある自治体病院で、「当直医師は一睡もできない状況が続いて」いて、「家族とクリスマスイブを過ごす約束も反故にしてまで病院から頼まれた2日連続の当直勤務中、深夜2時に救急でやってきた患者が『1ヵ月前から水虫が気になっていて、クリニックに行ったら夜間でもいいから病院にいくように言われた』といった」ことが引き金となって、この医師が「地域医療を支える虚しさから退職を決意した」ことを紹介しています。
 そして、平井が、2004年度に、総務省の地域情報化に関する検討会の住民サービスワーキンググループのメンバーを務め、「地域から湧き上がるエネルギーを有効に活用するための重要な要素」として、
・インセンティブ:「地域を変えたい、良くしたい」という強い医師、地域への愛情、やりがい、といった取り組むの発端になるもの。
・トラスト:インセンティブを共有する主体相互間の信頼関係。
・コネクター:地域の中の多様な主体、そして地域の中と外をつなぐ機能。
の3つの要素が浮かび上がってきたとして、「地域の発生かには不可欠な要素」であるこの3要素の頭文字をとって、「イトコ」の法則というと述べています。
 また、「地域に入り、地域を見て、地域を知る」ことが必要だと考える平井の発案で、「東金病院の生活習慣病療養指導室をはじめとする病院スタッフ」が、2004年の秋から「東金病院巡回市民講座」という手作りイベントを2ヶ月に1回程度開催していることを紹介し、声帯模写や物まねなど、糖尿病療養指導室の外口徳美室長の漫談が、この巡回講座の目玉プログラムになっていると述べています。
 終章「わが国の医療はどこへいく」では、「どこに住んでいても、誰でも、病気やけがをしたときには、必要な医療が安価に受けられる」という、「日本の医療の質は世界最高水準だという見方をされてきた」が、「アクセス、コスト、質の3つすべては選べない。国民が質の高い医療を求めるのであれば、医療機関へのアクセスを自制するか、あるいは医療費を増やすことを考えるべきだろう」と述べています。
 そして、山武地域の現在進行形の取り組みから浮かび上がった「地域医療を守るための処方箋」として、
(1)地域ぐるみの医師育成システムの構築
(2)地域医療システムの再構築
(3)住民参加型の医療システムの構築
の3点を挙げています。
 本書は、地域医療の崩壊を目の前にした必死の取り組みを描いた多くの示唆を与えてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 本書には、元埼玉県職員で、現在は城西大学の教員の伊関さんが登場しますが、4年ほど前に伊関さんが千葉県の県立病院の話をヒアリングに千葉に来た際に、同席して話を聞く機会がありました。いまでは自治体病院問題の第一人者になっていて、先見性というか、視点の鋭さに感心するばかりです。


■ どんな人にオススメ?

・便利で安くて質のいい医療が受けられて当たり前だと思っている人。


■ 関連しそうな本

 平井 愛山 『千葉「わかしおネット」に学ぶ失敗しない地域医療連携―広域電子カルテとヒューマン・ネットワークが成功の鍵』
 村上 智彦 『村上スキーム 地域医療再生の方程式』
 伊関 友伸 『まちの病院がなくなる!?―地域医療の崩壊と再生』 2007年12月12日
 小松 秀樹 『医療崩壊―「立ち去り型サボタージュ」とは何か』 2008年01月08日 06:00
 永田 宏 『貧乏人は医者にかかるな!―医師不足が招く医療崩壊』 2008年04月09日
 杉元 順子 『自治体病院再生への挑戦―破綻寸前の苦悩の中で』 2008年05月26日


■ 百夜百マンガ

ダブル・フェイス【ダブル・フェイス 】

 表の顔は金融業に勤めていて、裏には別の顔、という設定は昔の『太郎』を彷彿とさせますが、この作品も入念な取材に基づいているのでしょうか。

2009年1月 6日 (火)

安心の経済学―ライフサイクルのリスクにどう対処するか

■ 書籍情報

安心の経済学―ライフサイクルのリスクにどう対処するか   【安心の経済学―ライフサイクルのリスクにどう対処するか】(#1447)

  橘木 俊詔
  価格: ¥2100 (税込)
  岩波書店(2002/03)

 本書は、「誰が安心を確保するのだろうか。セーフティ・ネット(安全網)の提供者は誰であればよいのだろうか」ということに注目して、「個人(本人)、家族、企業、国家をはじめとして、誰がどのように安心を提供しているのか、どのような方法を用いて提供したらよいのかを、徹底的に検討」したものです。
 序章では、わが国の精神・神経科の専門家による、「日本人の遺伝子は外国人(特に西洋人)よりも不安を感じやすい遺伝子を多く持っているとする研究」を取り上げ、「日本人は生まれながらに、不安を感じやすく、安心を求める国民のようだ」ということを、「念頭に置きながら本書を読めば、案外読みやすくなっているかもしれない」と述べています。
 第1章「人生におけるリスクと安心」では、第1項「幼青年期」で、「児童手当の支給を少子化対策の観点から見るよりも、子どもは社会にとって何なのか、という点を明確にすることが、より本質的ではないか」として、「子供が私的財であれば、児童手当の支給は不合理とみなせるが、公共財であれば支給は容認される。子供は私的財でもなく、準公共財とみなすことが自然な理解であろう」と述べ、著者の個人的判断として、「わが国の少子化は子供を持つことの経済的負担にあるよりも、子育ての難しさと、子育てのわずらわしさによって、親の人生において自由が奪われることを嫌うことに原因があると思う」ので、「児童手当の支給は出生率の向上に寄与しない」と述べています。
 第2項「教育の意義と費用」では、「義務教育は国民一人一人に最低限の知的資質を供与するために、社会が必要とする公共財」であるので、「国民全員の税負担によって財源を調達するということに社会的合意はある」と述べています。
 そして、わが国の労働経済学者の間では、教育を受けることによる生産性の高まりが賃金に反映されるとする、「人的資本理論の信奉者が多い」が、著者はむしろ、教育の効果を人を選抜するときの情報として使われることに重きをおく考え方である「スクリーニング仮説を支持している」と述べています。
 第3項「勤労期」では、妻と夫の両人が就労することのメリットの一つとして、「不確実性の高まる中、そして高度経済成長の望めないわが国経済において、人が失職する確率は高まっている」が、「二人が就労していれば、どちらか一方がたとえ失職しても、他方の勤労による所得によって安心は確保できるメリットがある」と述べています。
 そして、「人間が生きていくための糧を失う」という意味で、「人間にとって最大の不幸は失業である」とした上で、わが国の失業の特色として、
(1)失業率の高いのは若年層と高年層である。
(2)高年層への労働需要が低いことも事実である。
(3)非自発的な理由による失業が、自発的な理由による失業を上回るようになっている。
の3点を挙げています。
 また、わが国で生活保護制度が成熟していない遠因として、
(1)「働かざる者食うべからず」の信念が強く作用して、生活保護制度に頼ることを排除する考え方が、為政者と国民双方にある。
(2)生活保護を受ける人には、大なり小なりモラル・ハザード(制度の悪用)があるのではないか、という不信感がこれも為政者と国民の双方にある。
の2点を挙げています。
 第4項「引退期」では、本書で主張したい点の一つとして、高齢者の経済状況が、「二極分解にある」として、「高齢者の貧富の格差が相当大きい」だけでなく、「貧しい層のウエイトが豊かな層のそれよりも高く、前者への対策必要度は高い」と述べています。
 そして、わが国の医療について、「少ない医療の下で、医療サービスは相当高いレベルで供給されているし、それが国民全員にほぼ公平に行き届いているとみなされる。わが国の医療制度は比較的美味く機能しているのである」とした上で、わが国の医療制度を評価するときに、
(1)日本の医療制度は他の先進諸国と比較すれば、まだ優れている方なので、急激な改革は必要ない。
(2)医療費の急増に見られるように、日本の医療、特に医療財政は危機的状況にあるので改革が必要である。
の2つの異なった見解があるとした上で、著者自身は「前者の見解が正しいと判断している」と述べています。
 第2章「誰が安心を与えるのか」では、第1項「個人(本人)」で、「特定の事象に備えた拠出、ないし保険料は広い意味に解釈すれば、貯蓄とみなしうる」と述べています。
 第2項「家族」では、「家族を媒介にした愛情装置は大きく揺れながら今日にいたっている」とした上で、「家族の変容が社会保障、セーフティ・ネット、安心の確保に、どのような影響をおよぼしているか」について、
(1)近代化と産業化によって、従来は家庭内で行っていた諸機能を、外部から購入したり外部に委託するようになった。
(2)核家族化が多くの国で進展した。
(3)専業主婦の減少。
(4)家族の不安定性、あるいは家族の危機といわれる現象。
の4点を挙げ、「4つの変容が、社会保障制度やセーフティ・ネットのあり方に与えた影響力は甚大である」と述べています。
 第4項「NPO」では、わが国のNPOが、「各種各様の幅広いサービスに対するニーズが高い福祉の分野において、NPOの期待は大きく」なったとしながらも、「残念ながらまだ発展途上の段階にあるといわざるをえない」と述べています。
 第5項「国家」では、「歴史を振り返ってみると、福祉政策ないし福祉国家は政治勢力の動向と密接に関連している」として、「福祉は政治と無縁ではないのである」と述べたうえで、1950─60年代に西欧を中心に栄光を極めた福祉国家が、1970年代のオイル・ショックを契機に、「福祉国家が経済不振の元凶であるとする意見が台頭し、福祉国家は批判の対象になった」と述べ、具体的な批判として、
(1)福祉国家の官僚主義的政策は、市場原理に基づく資源配分による経済成果より劣る。
(2)福祉国家は費用負担者と受給者にとっても道徳に反する。
(3)福祉国家は市民による消費の自由選択を阻害している。
(4)政府による大量資源投入にかかわらず、貧困は除去されていないし、機会不平等の阻止に役立っていない。
の4点を挙げています。
 第3章「望ましい政策に向けて」では、キーワードとして、
(1)セーフティ・ネット(安全網)
(2)ユニバーサリズム(普遍主義)
の2点を挙げた上で、第2項「普遍主義」で、普遍主義ないし自由主義体共同体主義の論争を、「すべての人(すなわち異なるコミュニティに属する人々を含めて)を満足させるような平等思想はありえないし、平等を達成することも不可能であるというのが共同体主義であるのに対して、普遍主義ないし自由主義は、手続きさえうまくいけば、普遍的な平等を達成することは可能であるとする」と述べています。
 第3項「望ましい制度改革」では、「わが国の医療保険制度は制度の乱立が見られることを強調した」上で、「医療保険制度の乱立をこれ以上続けていると、保険財政の全体が破たんして制度の存続する危ぶまれるケースがある。私は制度の統合と一本化が最良の方策とかんがえる」と述べています。
 そして、「誰が安心を与えるのか」については、「国家というのがここでもっともふさわしい候補になることが自明となる」と述べています。
 本書は、人生のさまざまな場面で直面するリスクにどう対処するかを、経済学の観点からまじめに論じた一冊です。


■ 個人的な視点から

 数年前に「格差」問題が流行ったときがありましたが、昨年来の不景気で「派遣切り」が現実のものとなると、いよいよ「格差」ブームのときに論じられていた言説が本物かそうでないかという足腰の部分が問われてくるのではないかと思います。


■ どんな人にオススメ?

・安心は金次第だと思う人。


■ 関連しそうな本

 橘木 俊詔 『日本の経済格差―所得と資産から考える』 2006年02月10日
 苅谷 剛彦 『階層化日本と教育危機―不平等再生産から意欲格差社会(インセンティブ・ディバイド)へ』 2006年02月14日
 橘木 俊詔, 浦川 邦夫 『日本の貧困研究』 2008年03月24日
 橘木 俊詔 『アメリカ型不安社会でいいのか―格差・年金・失業・少子化問題への処方せん』 2007年08月02日
 橘木 俊詔, 斎藤 貴男, 苅谷 剛彦, 佐藤 俊樹 『封印される不平等』 2006年02月10日
 橘木 俊詔, 森 剛志 『日本のお金持ち研究』 2006年06月13日


■ 百夜百マンガ

4P田中くん【4P田中くん 】

 定番なのは、横長に切ったコマ割りに顔のアップとか、ピッチャーが投げるシーンは前の上方45度くらいから見下ろしたシーンだとか、どの作品も同じように見えるというか、よくいえば「ブレない」漫画家ということができるでしょうか。

2009年1月 5日 (月)

グラミンフォンという奇跡 「つながり」から始まるグローバル経済の大転換

■ 書籍情報

グラミンフォンという奇跡 「つながり」から始まるグローバル経済の大転換   【グラミンフォンという奇跡 「つながり」から始まるグローバル経済の大転換】(#1446)

  ニコラス サリバン (著), 東方 雅美, 渡部 典子 (翻訳)
  価格: ¥1995 (税込)
  英治出版(2007/7/12)

 本書は、「南アジア、アフリカ、そして中東の一部の国を含む『南』と呼ばれる発展途上国で起こっている力強い経済革命を描いたもの」で、「国民一人当たりのGDPが約1ドルで、電話普及率は世界で最も低いレベルにあり、政府は世界で最も腐敗していると見なされている国」であるバングラデシュで、事業として大きく成功したグラミンフォンの携帯電話事業がどうして可能になったのかを解き明かしたものです。
 序章「『外燃機関』となる三つの力──経済成長の原動力とは」では、大多数が農村部で暮らす、バングラデシュの1億4800万の人口のうち、「25万台のビレッジフォンを通じて、1億人に通信手段を提供」し、これを保有するのは、「グラミン銀行からマイクロクレジット(小規模融資)を受けた」、「テレフォン・レディ」と呼ばれる女性起業家たちが、「ビレッジフォンを村人たちに使ってもらい、使用料金による収入でローンを返済」し、年間所得は、バングラデシュ人の平均所得のほぼ2倍に当たる750ドル、というビジネスで、このビジネスを考案したのは、アメリカでベンチャー・キャピタリストとして働いていたイクバル・カディーアで、彼が36歳の時に、バングラデシュに戻り、「全国的な電話サービスを始めることを決意し、投資家を探して起業のために奔走した」と述べています。
 そして、「貧困国では自然な成長や有機的成長は起こりにくい」ため、「外燃機関」としての3つの力が必要だとして、
(1)IT:情報通信技術は、多数の人々に力を分け与えるという際だった特徴があるため、他の技術よりもずっと強い力を持っている。
(2)現地の起業家:母国の文化や複雑な官僚組織についての暗黙知を持つ現地の企業家の手を借りずに、最先端の情報通信技術が輸入されることはない。
(3)外国人投資家:グラミンフォンはノルウェーのテレノールと日本の丸紅という外国人投資家の存在なしには始められなかったし、成功もしなかっただろう。貧困国では資本市場が未発達なので、新規事業を始めるときは何億もの資金を市場の外で集める必要がある。
の3つを挙げたうえで、「歴史的にも、また今日でさえ、外燃機関となる3つの力はいずれも反対勢力からの強い抵抗に遭遇してきた」として、「多くの貧困国の最大の敵は、国内経済を牛耳る政府である」と述べています。
 第1章「『つながることは生産性だ』──起業家カディーアの夢と祖国」では、世界銀行で働き始めたカディーアが、「世界銀行による貸与は、国家統制主義の政府を永続させるためにはなっても、貧しい人々の力にはなっていないように見えた」ことから、「世界銀行の無力さや資金貸与の仕方に幻滅した」と述べています。
 そして、ベンチャー・キャピタリストとして働く中で、「コンピュータのネットワークがつながらなくなって困っていた」経験から、「それが最新のオフィスであろうと、発展途上国の村であろうと」、「<つながること>はすなわち生産性なのだと気づいた」と述べています。
 著者は、グラミンフォンについて、「成功したビジネス」という言葉だけでは言い尽くせるものではなく、「政府に対抗しうる勢力であり、国全体がグローバル経済につながっていく上での先導役となるはずだ」と述べています。
 第2章「グラミン銀行と先駆者たち──ユヌス、ピトローダ、アンテナ屋」では、カディーアがバングラデシュで携帯電話事業を展開する上で、「長い時間をかけて成功の基盤を築かなければ」ならず、「そこで重要な意味を持っていたのが、グラミン銀行だ(ベンガル語で『村の銀行』を意味する)」と述べた上で、そのメッセージと手法は、「シンプル」で、「少額(10ドル以下)を比較的手頃な利率で融資し(最初は20%だが返済のたびに低下する)、そのお金で小規模な事業を興させ、独立と自尊心を獲得させる。すると借り手はゆっくりと貧困から脱却していく。借り手は貧しければ貧しいほどよく、未亡人や身体障害者がまず歓迎される」というもので、借り手が5人のグループを形成することで、「周囲からの圧力と支援が、現実的に担保を不要にする」と述べています。
 そして、グラミン銀行を設立したユヌスは、「銀行と反対の行動」をとり、「銀行が金持ちに貸すのなら、私は貧乏人に貸す。銀行が男性に貸すなら、私は女性に貸す。銀行は大規模な融資をするが、私は小口融資をする。銀行が担保を要求するなら、私の貸付は無担保だ。銀行が多くの書類を求めるのなら、私は文字が読めない人でも利用しやすいローンにする。あなたを銀行に行かせるのではなく、私の銀行が村々に行く」というのが戦略だと語っていることを紹介しています。
 また、インドに電話サービスを普及させたピトローダについて、「ビレッジフォンは文化的なバリアを破壊し、経済的な不平等をなくし、知的格差さえも埋めてしまう。つまり、ハイテクは不平等な立場にいる人たちを同じ土俵に乗せる。そのため、これまで発明された中で、最も強力な民主化のツールとなる」と語っていることを紹介しています。
 さらに、カディーアが最も刺激を受けたビジネスモデルとして、1990年代初期に衛星放送用のパラボラアンテナを設置し、海外からの放送をとらえて近所にケーブルで流していた勇ましい事業家たち」であるデリーの「アンテナ屋(Dish-Wallahs)」を紹介した上で、「アンテナ屋現象とピトローダのビレッジフォンの成功は、カディーアのプロジェクトのモデルとなり、彼の意欲に火をつけた。そして、グラミン銀行のマイクロクレジットは彼を魅了した」と述べています。
 第3章「牛の代わりに携帯電話──新たなパラダイムが見えてきた」では、カディーアが、「電話がつながることとマイクロクレジットは同類であると考え」、あるひ、「携帯電話を牛のように使えばいいじゃないか」というアイデア、つまり、「借り入れ経験のある貧しい女性がグラミン銀行からお金を借りて携帯電話を買い、携帯電話サービスに加入して、その電話を村人たちに賃貸ししたらどうだろう」と考えついたと述べています。
 そして、カディーアが、ソーシャル・ベンチャー・ネットワークという、「社会起業を推進する起業家たちの世界的なネットワークの設立者」であるジョシュア(ジョシュ)・メイルマンと会い、二人が、ベンガル語で「大衆のための電話」を意味する「ゴノフォン」を冠した、「ゴノフォン・ディベロップメント」を設立したとの述べています。
 第4章「投資するのか、しないのか、それが問題だ。──資金を求めて北欧へ」では、北欧企業が、自国の人口が少ないため、新市場に積極的に参入し、「脆弱なインフラ、低い購買力、官僚的な政府」というバングラデシュにも当てはまる他の国々にも進出していたことから、「携帯電話のオペレーションで最も成功している北欧諸国の電話会社なら、最もすぐれたノウハウを提供でき、大胆なリスクもとれるだろう」とカディーアが考えたと述べ、「バングラデシュは、電気通信事業に投資する人々にとって夢のような場所だ──浸透率が低く、地形も平坦で、競争もない」と訴えたと述べています。
 そして、「グラミン銀行が財務面でプロジェクトに積極関与すれば、海外の投資家が魅力を感じることは明白」だとして、グラミン銀行に投資を迫り、グラミン銀行は、
(1)このプロジェクトにおけるグラミン銀行の真の目標は何か。
(2)グラミン銀行は、利用可能なファンドがあるかどうかで、プロジェクトへの投資を決めるべきか。
の2つの問題の解決を迫られたと述べています。
 また、ノルウェーのテレノール・コンサルティングから派遣されたインゲ・スコールがハンガリーでの経験を生かし、グラミンの価値を理解し、「当プロジェクト用のコンピュータ・モデルを作り上げた」として、「彼はまさに必要としていた人材だった」と述べています。
 第5章「グラミンフォン、誕生──政府・官僚との闘いを超えて」では、グラミン銀行のムハマド・ユヌスが、
(1)非営利法人のグラミン・テレコム
(2)通信事業者のグラミンフォン
の2つの登録組織を作り、「グラミン・テレコムはグラミンフォンから通話時間を(50%のディスカウント価格で)大口購入し、それを農村部の女性に再販し、彼女たちがエンドユーザーに小売りする」というモデルを構築したと述べています。
 また、入札の後で、シェイク・ハシナ政権が、入札プロセスを位置からやり直そうと考えているという情報を入手したユヌスが、「個人的な力と名声にモノを言わせて、ハシナと一対一で話し合う機会」をつくり、「バングラデシュは新しい電話会社を3つも持てない」と語り、グラミンフォンにライセンスを与えないとするハシナに対し、競争的な環境の整備と、ユニバーサルサービスの恩恵を解いたことで、1998年11月28日に最終合意が結ばれ、ライセンスを獲得したと述べています。
 第6章「貧困国から世界クラスのプレーヤーへ──雄牛のように突進せよ」では、グラミンフォンがライセンスを受けてから4ヶ月後に計画通り開設し、他の2社は1年経っても満足にサービスを立ち上げられなかったことで、「グラミンフォンは先行者利得をつかみ取った」と述べたうえで、「1998年の終わりまでに、グラミンフォンの3万1000人の加入者の4分の1近くが、同国の主流の電話システムに接続しないサービスを利用するようになった」として、「今日、発展途上国のあいだで(特にアフリカで)、独自に携帯電話網を構築することが当たり前になっている」ことについて、「発展途上国の電話のビジネスモデルに対するグラミンフォンの最も重要な貢献」だとユヌスが宣伝していると述べています。
 また、キャッシュフロー問題の解決のために、ユヌスがジョージ・ソロスにグラミン・テレコムの出資比率を高めるための資金提供を求め、、ソロス経済開発ファンドから、1060万ドルの貸付を受けたことについて、「貧しい人に市場の金利を上回る率で少額のお金を貸し付ける男が、世界で最も金持ちの一人から譲歩的な金利(5%)で巨額の貸付金を獲得した」として、「世界の象徴的人物である2人もシンクロした」と述べています。
 第7章「BOPで広がる野火──アジア、アフリカ。、30億人が立ち上がる」では、「自由化や民営化や規制緩和は、どうやら民主主義と同一視すべきではないようだ」として、中国のような独裁体制の国が、「自由市場システムを導入して経済的に成功している」が、「民主主義化は明らかに、狭量で官僚的な政府首脳から一般大衆への権力の移行を意味する」として、「こうした政治マインドの変化は確かに、公共の利益に関するサービス分野が独占されてきた状況を変革する力となる」と述べています。
 そして、南アフリカのマンデラ大統領が、「連絡を取り合いたいという願いは、誰もが抱く基本的ニーズだ」と演説したことを紹介した上で、アフリカの典型例として、「携帯電話が『スパイ』行為に利用されかねない」として、「携帯電話を違法とした」ジンバブエの例を紹介し、携帯電話の普及のために政府と戦ったストライブ・マシイワが、1999年に、「世界の最優秀若手人材十人」に選ばれたことを紹介しています。
 また、「ドクター・モ」として知られるスーダンのモハメド・イブラハムが、「皆、アフリカは飢えた人々と可愛いライオンだらけだと思っている。電話をかけるというごく当たり前のことをしたいと思う普通の人々も大勢いる、ということを理解していない」と語っていることを紹介しています。
 第8章「時代を一気に飛び越えろ──途上国で加速するMコマース」では、発展途上国における携帯電話技術の「社会的・経済的影響ははるかに劇的で、かつ破壊的だ」として、「携帯電話は情報格差の克服に役立つだけではなく、銀行口座やクレジットカードを持ったことがなかった人々のお金の扱い方を変えつつある」として、多くの貧しい人々にとって、「初めて銀行を利用できるようになった」という利点を挙げ、「このことは貯金や信用構築の機会を長期的に広げ、非公式な現金文化から、公式のクレジットとデビットの文化への移行を促進する」と述べています。
 そして、フィリピンの携帯電話会社である「スマート・コミュニケーションズの躍進ぶりを見ると、テキストとプリペイドのシステムが組み合わさると、電話がキャッシュレスのデビット付きATMカードへと急速に変わっていくことがわかる」と述べ、「従来は対象外だった貧しい人々のサービスを広げたスマートの事例は、グラミンフォンがバングラデシュでテレフォン・レディに手を差し伸べたのと同じく、包括的資本主義の裏付けとなる」と述べています。
 また、農村部でモバイル・バンキングを推進していく際の障害として、
・農村部の電話台数が不足している
・システムの標準化が遅れている
・文字でのコミュニケーションの不慣れ
等の点を挙げています。
 第9章「援助ではなく、ビジネスチャンスを──社会に利益をもたらす『包括的資本主義』」では、「電気や銀行が夢物語であった地域に携帯電話がもたらされたこと、そして同時に収入を得る機会ももたらされたことは、革命的な出来事」であり、「発展途上国への携帯電話の普及は、まさに産業革命──西側諸国を経済面で世界の他の地域から引き離した──に匹敵する」と述べたうえで、「収入、あるいは収入を得る機会こそが、発展につながる。それによって人々は、最低限の生活から抜け出し、貯金をし、投資し、生産することができる」と述べています。
 そして、「統計的な調査に基づいていても、推測はあくまで推測でしかない」が、「携帯電話はすべての国でGDPの成長に大きく貢献するということ、それも携帯電話の浸透率が低かった貧困国でGDPが最も大きな成長を示すということは、数多くの証拠によってたしかに裏付けられている」と述べるとともに、「電話台数の増加と価格競争が、村人の電話利用と生産性を拡大し、グラミンフォンの売上を増やし、テレフォン・レディの収入獲得の機会を増やす。さらに、テレフォン・レディ自体も増える。これが包括的資本主義」であると述べています。
 第10章「携帯電話を超えて──カディーアとBRACの新たな挑戦」では、カディーアがレメルソン財団を通じて、セグウェイを発明した発明家のディーン・ケーメンと出会い、ケーメンが設計し直した19世紀の外燃機関であるスターリングエンジンに興味を示したと述べ、「理論的にはスターリングエンジンはバングラデシュで電気をつくる上での『適正技術』である」と述べています。
 そしてカディーアが、「新たな市場のニーズと改良された技術、そしてすでに存在する燃料を前に」、「ビジネスチャンスがある」と見た上に、「グラミンフォンのように、この新しいビジネスは全く新しい小規模事業主を生み出せそうだった」と述べ、「ある事業主が牛の糞を集めてバイオダイジェスターに入れ、バイオガス(メタン)を作る。それを見に発電所の運営者である別の事業主に売り、その人はスターリングエンジンを購入して動かし、電力を村人たちに売る」というモデルを、設計したことを解説しています。
 第11章「静かなる革命──変貌し続けるバングラデシュ」では、「政治的な停滞(15年以上、新しいリーダーが誕生していなかった)とその結果生じた腐敗(官僚が入れ替わることはほとんどなく、彼らは並外れた力を独占していた)は、この国の経済発展を妨げる深刻な問題となっていた」とした上で、「自己中心的な政治家や、投資家をなかなか引きつけられない未発達の資本市場や、国の心までも食べ尽くしてしまうガンのような腐敗などにもかかわらず、バングラデシュはここ10年で大きく変わった。再生の力が退廃の力を上回ったのだ。政府のあり方とは関係なく、『静かなる革命』が国を変えつつある」と述べています。
 本書は、バングラデシュを舞台に、世界を変革しつつあるストーリーの一部をドラマティックに語った一冊です。


■ 個人的な視点から

 本書のプロデューサーの高野氏には、社会起業家関係の勉強会でお会いしたことがありますが、本書を読み終えてから、もしやと思って奥付を見るとやはり高野氏の手によるものでした。
 英治出版の社会起業家やイノベーション関係のシリーズは面白そうなものがまだたくさんあり、これから読んでいくのが楽しみです。


■ どんな人にオススメ?

・ケータイは先進国のぜいたく品だと思う人。


■ 関連しそうな本

 ムハマド ユヌス, アラン ジョリ (著), 猪熊 弘子 (翻訳) 『ムハマド・ユヌス自伝―貧困なき世界をめざす銀行家』 2007年05月10日
 C.K.プラハラード 『ネクスト・マーケット 「貧困層」を「顧客」に変える次世代ビジネス戦略』 2006年07月28日
 ジェフリー サックス (著), 鈴木 主税, 野中 邦子 (翻訳) 『貧困の終焉―2025年までに世界を変える』 2007年06月20日
 ジェレミー シーブルック (著), 渡辺 景子 (翻訳) 『世界の貧困―1日1ドルで暮らす人びと』 2007年08月15日
 坪井 ひろみ 『グラミン銀行を知っていますか―貧困女性の開発と自立支援』 2008年03月12日
 渡邊 奈々 『チェンジメーカー 社会起業家が世の中を変える』 2005年08月11日


■ 百夜百マンガ

パタリロ西遊記!【パタリロ西遊記! 】

 超ロング作品のメインキャラを使ったスピンオフ作品ながら、全く違和感がないのはそれだけキャラの立ち方が強烈だからなのでしょうか。もう出てくるだけでおかしいです。

2009年1月 4日 (日)

デジタルキッズ―ネット社会の子育て

■ 書籍情報

デジタルキッズ―ネット社会の子育て   【デジタルキッズ―ネット社会の子育て】(#1445)

  坂本 旬
  価格: ¥1470 (税込)
  旬報社(2007/05)

 本書は、「テレビゲーム創世記の時代からメディア文化の中で生きてきた」著者自身の経験を踏まえた「ネット社会の子育ての子育てのあり方」を考えたもので、「子どもとのコミュニケーションが上手く行かないために悩んでいる親」のために講演してきたものをまとめたものです。
 第1章「ネットは危険!?すれちがうおとなと子ども」では、教育評論家の尾崎直樹ゼミが行った、『インターネットと子どもの生活 小中高校生のインターネット利用に関する4000人調査』をもとに、「中・高生では学年が上がるたびにケータイ所有率が高くなり、通話よりもメールを利用することが多く」なり、「子どもたちがネットを日常的にコミュニケーションのツールとして使っている様子」が伺えると述べています。
 そして、問題は家庭の中にあるとして、「家族の中のコミュニケーションそのものが危機に瀕している」と指摘し、「家庭の中のコミュニケーションがうまく機能せず、親子が互いに分かり合えない。そのことが子どもに大きなストレスとなり、しばしば問題を引き起こすこと」になると述べ、「子どもとおとなの『コミュニケーション不全』は子どもの問題であると考えがち」だが、「同時におとな自身の問題」でもあると指摘しています。
 また、2004年6月に起こった佐世保の女児殺害事件について、「メディア報道だけを鵜呑みにしていたら、この事件の本質には全く踏み込むことは」できないとして、「教育現場や教育研究者の間では、当初からこの事件がネットでのトラブルが本当の原因でないのではないか」と言われていたが、「メディアがさかんに指摘していたネット上のトラブルは、背景のほんの一部」に過ぎず、「そのトラブルのきっかけは、加害児童が交換ノートやインターネットを安心して自己表現し、存在感を確認できる『居場所』への『侵入』だったと指摘されて」いると述べています。
 著者は、加害児童が「アスペルガー症候群」であったことが報じられなかったことなどを挙げ、「このような事件を引き起こした最も大きな原因は、子どもの発達の実態に関心を持たず、発達の危機を示す数多くのメッセージを見落としてしまった親や学校にある」と指摘しています。
 第2章「ネット空間の特徴とおとな・子ども関係」では、ネットと子どものめぐる問題を、
(1)ネット環境それじたいの問題:インターネットそのものの安全性や危険を回避するための教育に関わる問題
(2)ネット時代のコミュニケーションというもっと広い問題:ネットがテレビや書籍とならんで市民生活に欠かせないメディアとなることによって生じる子どもの発達・学習環境に関わる問題
の2つに大別しています。
 そして、「インターネットがつくりだす空間(サイバー・スペース)」が、「公共空間」(公共圏)であり、「個人の情報発信は公共放送と同じ機能をもちうる」と述べ、「この結果、この公共空間に参加するために必要な資質がすべてのネットユーザーに求められること」になり、「一人ひとりが市民社会に参加しているという自覚と市民としての基本的な知識や能力」が重要になると述べ、「改めて学校教育の人権教育のあり方を問い直してみると、現代の情報社会を生きる子どもたちを育てるために必要な資質を十分育ててこなかったのではないか」と述べています。
 第3章「子どもの発達とコミュニケーション」では、コミュニケーションの一般的な理解として、「知識、意思、感情などの情報の伝達」を挙げた上で、「私たちは、見えるコミュニケーションの背後にある、見えないコミュニケーションの存在を意識しておく必要」があると述べています。
 そして、ネット時代の子育ての原則として、
(1)メディア環境をバランスのとれたコミュニケーション環境に変えること。
(2)子どもの発達の節目をしっかりと認識すること。
(3)子どもは、情報社会においても親密な関係を結ぶ場(親密空間)と社会のさまざまな人々の関係を結ぶ場(公共空間)の境目で発達していくことを理解し、子どもたちとともに新たな社会を作っていくという視点を持つこと。
の3点を挙げています。
 また、子どもが思春期にさしかかる10歳前後の発達の節目を「10歳の壁」と呼ぶことを紹介した上で、「多くの保護者や親は、子どもの発達の節目に無関心であり、そのことが子どもを理解できない原因になっていると考え」られると述べ、このような子供の発達の節目を理解すれば、10~14歳ごろの子どもたちが直面する問題の性格が理解できる」と述べています。
 さらに、「子どものメディア利用と生活行動の変容」という調査報告から、とくに中・高生において、
(1)ほとんど勉強をしないグループ:いまを楽しく生きればよいと考えており、学校的価値から脱落している層(現状志向)
(2)2・3時間以上するグループ:成績も良く、将来のためにいまをがんばろうと考えている層(将来志向)
との間にこの約10年間に大きな変化が起こって」いると述べ、「テレビやテレビゲーム、ケータイなどのマルチメディア環境は、10年前までの子どもを縛ってきた学校的価値絶対主義とでもいうべき社会規範に対して、同質グループを形成することによって、何らかの風穴をあけつつあるのではないか」と述べています。
 そして、テレビの視聴行動について、「テレビそのものの影響よりはむしろ親の視聴傾向からの影響が大きい」として、「子どもは、テレビ視聴という文化を家庭の中で親から受け継ぐ」と述べたうえで、「子どもはつねに家族と切り離された状態でメディアから一方的な影響を受けている」わけではなく、「子どもは家庭の中で、親とともにテレビを視聴することを通して、メディアに対する価値意識を形成して」いるとして、「親が教養的な番組を好めば、子どもも教養志向になる傾向にあり、逆に親が娯楽思考の番組を好めば、子どもも自然にそのような番組を好む傾向に」あると指摘しています。
 第4章「ネット時代に子どもを育てる」では、家庭内のコミュニケーション不全チェックポイントとして、
(1)朝子どもが起きても「おはよう」とあいさつしない。
(2)子どもに「ありがとう」といったことがない。
(3)子どもは家に帰ってくるとまっすぐに自分の部屋に行く。
(4)子どもが好きな歌手や芸能人を知らない。
(5)過去1か月、家族みんなで大笑いしたことがない。
(6)過去1か月、家族でいっしょにテレビを見たことがない。
(7)子どもが使うパソコンは子ども部屋にある。
(8)子ども部屋に子ども専用のテレビがある。
(9)子どもは自分に口答えをしたことがない。
(10)子どもを思いっきり抱きしめた記憶がない。
の10点を挙げています。
 そして、著者の家では、「テレビゲームをするときのルールを決めて子どもたちに守らせることにした」として、「テレビゲームに熱中する子どもに対して、もっとも必要なことは、テレビゲームそのものを規制しようとするのではなく、その中身を子どもとともに吟味し、考えたり、話したりする機会を数多くつくること」だと述べています。
 また、転校先の小学校で、「子どもは外で遊ぶものだと考え」、「コンピュータに精通していたり、読書を好んでいることに対して否定的だった」担任教師とうまくいかなかった長男が、インターネットで「カービィくらぶ」というテレビゲームのキャラクターをテーマとしたホームページと出会い、「なじめない学校社会から、外部の社会への橋渡しをする役割」を果たしたと述べ、「子どもにとって安全なネット環境があれば、子どもたちは自らの手で新しいコミュニティをつくりだす力を持っている」と述べています。
 さらに、「テレビゲームやネットゲームにどっぷりと浸かる生活」がたたった著者の長男が、中学校3年生になると成績がどんどん落ちたときに、「本人が納得しない限り、一方的にやめさせること」はできないので、「勉強しろ」という代わりに、「進学について話し合う機会を何度もつくり、何を勉強したらいいのか、どの学校に進学したいのか、自分で決めることを求め」たことを挙げ、「勉強は自分でするものであり、人に言われてするものではありません。どんな状況でもその原則は変えませんでした。ゲームにはまってしまっている状況を、自分の意志で変えない限り、何も変えることはできません」と語っています。その後、関心のある情報コースを持つ総合制の学校を選んだ著者の長男は、自らパソコンを解体して押入にしまい、「本当の猛勉強」の結果、志望校に合格することができ、「高校に入学したことではなく、自分で選び、自分で決断し、自分で努力し、自分で勝ち取ったという経験そのものが、彼にとって大きな意味を持つもの」になり、「自分で自分をコントロールする能力を高校入試という試練の中で得た」ことで、「ゲーム中毒」からも脱することができたと述べています。
 著者は、「北朝鮮問題や中国での反日運動などに対して、差別的な言葉が飛び交い、その安易なものの考え方は人権や平和教育をしっかり受けていない子どもたちをたちまちのうちに飲み込んでしまう危険性をはらんで」いるネットの現状について、親・保護者は「もっと関心を持つ必要」があり、「親が子供の意見に耳を傾け、一人の人格を持った存在として扱い、論理立てながら議論をして結論を導き出す、このことが民主主義の基本であり、排外主義や差別主義的な思想とは相容れないということをきちんと教えれば、このような思想の本質を体験的に見抜く能力を身につけることができる」と述べています。
 第5章「子どもたちにファンタジーの世界を」では、「テレビゲームの虚構性が仮想と現実をあいまいなものにするという見方」によって、「子どもが暴力的になったり、社会的に不適応状態になるという理解が社会的に定着」していることについて、「こうした考え方にはっきりとした根拠があるわけでは」なく、科学的にも実証されておらず、「悪影響の根拠となると覆われる研究調査でさえ、それらは相関関係を示したものにすぎず」、「もともと社会的不適応の度合いの強い子どもが、テレビゲームをするようになる」という逆の因果関係を意味するものではないかと述べています。
 そして、「子どもにとってのファンタジーとは、決して頭の中だけの世界を指すのでは」なく、「日常の世界と空想の世界の交錯と調和を自分自身の力によって形成していく主体的な営み」であり、「このような豊かなファンタジーの世界を構築する能力が、思春期以降、子どもたちが主体的に外的世界と関わっていく能力を形成していくことにつながると考えられる」と述べ、「今日最も大きな問題は、そのような想像力を子どもたちに培うための家庭力や地域力が急速に衰えつつあること」だとしていきしています。
 著者は、「いますぐできること」として、「言葉を通した想像の世界を楽しむ方法を子どもたちに伝えること」であり、「『物語る』ことがそれを可能に」すると述べ、
・子どもたちを図書館に連れていくこと、
・学校の図書室をいつも子どもが楽しく集まる場所に変えること、
・勉強のための読書ではなく、読書そのものの楽しさを教えること、
・想像の世界を演じる楽しさをともに感じること、
など、「できることはたくさん」あるとしています。
 本書は、ネットやゲームやケータイが、親や子どもにとって不可欠な環境になってしまった現代において、新しい子育てのあり方を考えるきっかけを与えてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 子どもに関して表出してきた問題が、子どもの身の周りの新しい環境変化のせいにされがちになるというのは、一昔前のテレビ悪玉論や悪書追放運動、ロック不良論など随分古くからあったようで、ネットやゲームもその類型に収まるのではないかと思います。問題はむしろ家庭の中や親自身にあるという指摘は古くて新しい問題なのではないでしょうか。


■ どんな人にオススメ?

・ケータイは子育ての障害になると思う人。


■ 関連しそうな本

 遊橋 裕泰, 宮島 理 (著), モバイル社会研究所 (監修) 『子どもとケータイ―Q&Aで学ぶ正しいつきあい方』 2008年10月05日
 遊橋 裕泰, 河井 孝仁 (編さん) 『ハイブリッド・コミュニティ―情報と社会と関係をケータイする時代に』 2008年02月01日
 小林 哲生, 天野 成昭, 正高 信男 (著) 『モバイル社会の現状と行方―利用実態にもとづく光と影』 2007年08月06日
 パトリシア ウォレス (著), 川浦 康至, 貝塚 泉 (翻訳) 『インターネットの心理学』 2005年10月15日
 T. コポマー (著), 川浦 康至, 山田 隆, 溝渕 佐知, 森 祐治 (翻訳) 『ケータイは世の中を変える―携帯電話先進国フィンランドのモバイル文化』 2007年09月02日
 水越 伸 『コミュナルなケータイ―モバイル・メディア社会を編みかえる』 2007年11月29日


■ 百夜百音

Glass Age【Glass Age】 さだまさし オリジナル盤発売: 1999

 正月に実家に帰るたびに、さだまさしの「寒北斗」を思い出してしまいます。いつも聞くたびに不思議に思うのですが、この曲は「煤払い」とあることから年末を歌ったもののようなのですが、「親父は美味そうに雑煮を喰う」と思い込んでいたために、年が明けなくても地方によっては雑煮を喰う習慣があるのかと思っていました。よく聞くと雑煮ではなく「煮凝」でしたね。


http://www.youtube.com/watch?v=SdEHuAaGzRk

2009年1月 3日 (土)

日本軍のインテリジェンス なぜ情報が活かされないのか

■ 書籍情報

日本軍のインテリジェンス なぜ情報が活かされないのか   【日本軍のインテリジェンス なぜ情報が活かされないのか】(#1444)

  小谷 賢
  価格: ¥1680 (税込)
  講談社(2007/4/11)

 本書は、「戦前日本のインテリジェンスに関してその具体像を描き、日本のインテリジェンスの特色について考察していくもの」で、
(1)情報収集
(2)情報分析
(3)情報利用
の3点から検討することで、「当時の日本の長短所やその特徴が見えてくる」としています。
 著者は、「戦前の日本がどのような情報活動を行っていたのかについて言及されることはあまり」なく、「これに関してはまとまった学術的研究が行われてこなかった」として、「このような日本における研究の遅れが、戦前日本のインテリジェンスへの誤解を招き、現在でも特務機関や憲兵、特攻など本来区別されるべきものが、一括りにして議論されることも多い」うえ、「戦前に日本が行っていた通信傍受活動に関する研究が諸外国と比べ決定的に遅れていることと、戦前日本のインテリジェンスに関する包括的な考察が行われてこなかった」ことを問題視しています。
 また、擁護に関して、「情報収集の方法によって入手する情報の呼び方が異なっている」として、
(1)人的情報(ヒューミント):情報関係者が聞き込みや情報提供者を利用して集める情報
(2)通信情報(シギント):相手の通信を傍受して収集される情報
(3)画像情報(イミント):航空機や偵察衛星などによって集められる情報
(4)公開情報(オシント):新聞やインターネットなど公開されている情報
(5)テレメトリー情報(テリント):通信傍受以外の電波信号から得られる情報
(6)電子情報(エリント)
などに分類しています。
 第1章「日本軍における情報収集活動」では、日本海軍が収集した情報を情報源別に見ると、非公開情報が全体の3分の1以上を占め、「現在の情報収集に対する非公開情報の割合は1割以下だといわれる」ことに比べ、「かなり高く、特種(殊)情報がかなり重視されていた」と述べています。
 そして、公開情報について、「ニュースの裏に秘められた意図や行動を読むとなると相当なものだが、之が出来るようでなくては、本当の情報士官にはなれない。(中略)外国のニュースは之に宣伝のころもが被せてあるから、尚一層事は厄介だった」とする軍令部第三部五課の今井信彦中佐の言葉を紹介しています。
 第2章「陸軍の情報収集」では、陸軍が、「米国務省のグレー、ブラウン、ストリップといった外交暗号を解読していた」ことについて、「当時最高の解読能力を有していたイギリスの暗号解読組織やドイツの暗号解読組織ですらストリップ暗号は解読していなかったので、この解読能力は相当なものであったと言ってよい」と述べ、「陸軍は人員や資金不足の割には相当な暗号解読能力を有しており、膨大に収集される通信情報を処理する人員を早急に増加していれば、おそらく米英に匹敵する通信情報能力を備えていたのではないかと考えられる」としています。
 そして、ヒューミントについて、「シギントなど技術情報の及ばない情報源をカバーするものであり、現在においてもこの原則は概ね同じである」とした上で、対ソ情報収集活動について、「情報を持った軍や情報部の関係者と接触して情報を引き出すということは困難であったため、ソ連から満洲に亡命してくるロシア人を買収して、再びソ連に潜入させるという方法が考え出された」が、「これらスパイのほとんどはNKVDに逮捕され、洗脳された上にソ連側の二重スパイとなって帰ってくることが多くこの計画も困難を極めた」と述べています。著者は、「陸軍は対ソ連インテリジェンスに膨大な労力を費やしていた」が、「ソ連の対日防諜活動も協力に推進されていたため、陸軍は相当に苦戦したようである」と述べ、「対米情報活動は低調」であったため、「太平洋戦争が始まってからも陸軍は対ソ重視、対米軽視の方針を柔軟に変更することができず、その後、方針を変えてもそのような失敗を埋めることはできなかった」と述べています。
 また、防諜に携わる憲兵隊の情報収集手段として、
(1)諜者(スパイやエージェント)
(2)監視行動
(3)文書の入手
(4)郵便検閲
(5)逮捕者、捕虜
(6)無線探知機による電波源の特定
(7)一般民衆からの聞き込み
(8)憲兵隊員による内定調査
等を挙げ、「憲兵隊の目的菜防諜と情報収集であるため、情報の分析にはあまり労力が割かれず、集めた生情報はそのまま上へ報告することが多かった」と述べています。
 第3章「海軍の情報収集」では、1932年に、上海に「X機関」と呼ばれる対中通信傍受組織が設立され、札幌の英領事館から、「領事館の日本人タイピストが、領事の隙をついて窓から暗号書を放り出すという離れ業」によって盗み出した暗号書によって、「イギリスの省庁間暗号(海軍でBF5と呼称)を解読する事に成功した」と述べています。
 そして、海軍内でのシギント機関が、「インテリジェンスというよりはむしろ『通信』の分野でとらえられていたことから、軍令部内でそれほど重視されていたわけ」ではなく、「海軍の通信情報は暗号解読よりも、方位測定などの通信傍受活動に重点が置かれていた」と述べています。
 また、日本海軍が、「主にイギリス人をエージェントとして雇って、情報収集の任に当たらせていた」が、英MI5は、「エージェントを見つけても迅速に拘束せず、ぎりぎりまで泳がせてその動向を探る手法を採っていた」ため、「海軍が行ったヒューミント活動は、逆に手の内を相手に暴露していた可能性が高い」と述べています。
 さらに、陸軍が、「比較的防諜活動が機能しており、また陸軍暗号は戦争終盤まで連合国側に解読されることはなかった」のに対し、海軍では、「防諜活動はあまり積極的に行われていなかったために、機密漏洩等の事案が生じることがあった」として、「戦争中に機密書類がアクシデントで相手側に渡ったり、暗号通信が解読されてしまうことは時に避けようのないこと」だが、「日本海軍の問題は、機密が流出した兆候がありながら、それに対する原因の徹底的な究明と対策が講じられなかった」ことが問題だとしています。この例として、1944年4月1日に起きた「海軍乙事件」を挙げ、連合艦隊参謀長福留繁中将が搭乗した飛行艇が撃墜され、「防水の書類ケースに収められた日本海軍の暗号書と対米迎撃作戦についての詳細な作戦計画であるZ作戦計画書」が、行方不明となり、福留中将らは現地のゲリラに捕らえられてしまい、アメリカ側はこの機密書類を直ちに複製し、再び発見された海域に流し、日本側に発見されたとして、「機密書類については無事戻ってきたことで不問とされ」たことについて、「このような日本側の対応は、防諜以前の問題であり、戦場で機密書類が一時的とはいえ行方不明になることの深刻さを全く考慮していない」と指摘しています。
 第4章「情報の分析・評価はいかになされたか」では、当時の日本軍における情報分析部門が、「不十分ながらも、『インテリジェンスを生産』する意識を有しており、価値判断を加えた情報を査カク????????資料と称していた」事などを紹介した上で、「陸海軍の情報分析を見ていくと、双方ともかなり客観的な基準から情報を分析しようとしていたことがよくわかる」と述べ、ただし、「問題は、優れた情報分析官、もんしくは民間専門家の慢性的な不足」であり、「インテリジェンスの現場では、決定的な情報を入手するのではなく、断片情報を組み立てていく必要性が認識されていたため、ある程度知性(インテリジェンス)を有した分析者と、その作業を下支えする多くのスタッフが不可欠であった」と述べています。
 そして、情報業務とは、「軍における機甲や航空に匹敵するような専門分野であり、長年の経験と専門知識がものをいう、一種の特殊技能が必要とされる」が、「情報勤務は一時的なポストであるという意識が抜けなかった」としたうえで、「そもそもインテリジェンスという営み自体」が、「情報分析、評価を効果的に行うための情報共有」が重要であり、「軍隊の指揮命令系統(Chain of Command)に合致していない」と述べています。
 また、作戦部と情報部の意見の相違について、「作戦部は台湾沖航空戦に見られたような前線部隊からの過大な戦果を基に日本に侵攻してくる米軍の戦力をはじき出し、情報部は通信情報や米側の公開情報を基にインテリジェンスを生産しているため、情報部の判断は作戦部よりも米軍の規模を大目に見積もることとなる」ため、「軍の指揮に影響するという理由から受諾されなかった」うえ、情報部が、「神風特攻隊による戦果報告などを控えめに算出すると」、
「情報部の奴等は、作戦の現場にいたわけでもなく、戦果の実際を見たのでもないのに作戦部隊の報告を無視するような戦果を云々するのはけしからん」
と、作戦参謀から批判されたと述べ、「作戦部の状況判断によれば、米空母『レキシントン』は6回、『サラトガ』は4回も撃沈されたことになっており、そのあまりのずさんな報告に天皇は『サラトガが沈んだのは今度で確か4回目だったと思うが』と及川古志郎軍令部総長に苦言を呈すありさまであった」と述べています。
 第5章「情報の利用」では、英空軍情報部(AID)が、極東に配備された航空機の量的劣性を質的優位でカバーするため、日本の航空戦力を過小評価する必要性に迫られ、「日本人パイロットについては、その細目と難聴によって正確な航空機の操縦や機銃掃射ができないと、偏見に基づいた判断を下している」と述べ、「少なくとも人種的優越感がある種の自信過剰と、アジア地域におけるイギリスの楽観主義を助長していたことは否めない」と述べています。
 また、陸海軍の対米英イメージについて、「太平洋戦争の緒戦を見る限り、陸海軍ともよく相手を研究していた」が、「陸海軍のインテリジェンス能力は軍事情報の分野や作戦計画に対応することはできた」が、「経済・産業情報や、相手の文化といったトータルな観点からの視点」を必要とする「総力戦や大戦略のレベルになると対応しきれなくなった」としています。
 第6章「戦略における情報の利用」では、日本には、「大局から戦略を判断し、そのためのインテリジェンスを提供する組織自体が欠けていた」ことを指摘し、三国同盟について、「情報を無視した結果の産物であり、そこにはまず独伊との同盟を結ぶという政策が先にあった。そしてそのような政策に反する情報は黙殺されるか曲解されたわけである」と述べています。
 第7章「日本軍のインテリジェンスの問題点」では、「日本がインテリジェンスを扱う上で特有の問題」として、「組織における情報機関の立場の低さ、情報集約の問題、近視眼的な情報運用、そして政治家や政策決定者の情報に対する無関心」などを挙げた上で、 日本軍のインテリジェンス活動における第一の問題として、「情報分析、評価担当の組織が曖昧なままで、この部分が機能的に分化されていなかったこと」を指摘しています。
 そして、日本軍が本格的に第一次大戦を戦わなかったため、総力戦というものを実感できず、「限定戦争の延長でしかインテリジェンスを捉えられなかった」と指摘しています。
 終章「歴史の教訓」では、戦前の問題点を踏まえた上で現在の日本のインテリジェンスを見ると、
(1)組織化されないインテリジェンス
(2)情報部の地位の低さ
(3)防諜の不徹底
(4)目先の情報運用
(5)情報集約機関の不在とセクショナリズム
(6)長期的視野の欠如による情報リクワイヤメントの不在
等の特徴を挙げることができるとしています。
 本書は、旧日本軍のインテリジェンス活動を客観的に分析することで現代日本のインテリジェンスの問題点を浮き彫りにした一冊です。


■ 個人的な視点から

 情報活動というと、どうしても007ばりのスパイアクションをイメージしてしまいますが、特殊情報は、公開されている情報を丹念に整理することで、その情報が、欠けている最後のピースだということがわかってこその意味を持ってくるもので、特殊情報だけ集めてもそれだけでは価値を生まない、という点では、軍事や外交に限らず、公開されている情報を含めて全体像を組み立てる役割の大きさを感じます。


■ どんな人にオススメ?

・旧日本軍は旧態依然とした情報活動をしていたために負けたと思う人。


■ 関連しそうな本

 手嶋 龍一, 佐藤 優 『インテリジェンス 武器なき戦争』 2008年02月06日
 川成 洋 『紳士の国のインテリジェンス』 2008年02月16日
 サイモン シン (著), 青木 薫 (翻訳) 『暗号解読―ロゼッタストーンから量子暗号まで』 2006年05月03日
 ゲリー ケネディ, ロブ チャーチル (著), 松田 和也 (翻訳) 『ヴォイニッチ写本の謎』 2006年09月10日
 小谷 賢 『イギリスの情報外交 インテリジェンスとは何か』
 小谷 賢, 落合 浩太郎, 金子 将史 『世界のインテリジェンス―21世紀の情報戦争を読む』


■ 百夜百音

OH!ベスト【OH!ベスト】 岡村靖幸 オリジナル盤発売: 2001

 「岡村ちゃん」と多くのアーティストからも愛されているにもかかわらず、塀の中に行ったり来たりで無念がらせています。再度の復活のときはあるのか??

2009年1月 2日 (金)

自然の中に隠された数学

■ 書籍情報

自然の中に隠された数学   【自然の中に隠された数学】(#1443)

  イアン スチュアート (著), 吉永 良正 (翻訳)
  価格: ¥1890 (税込)
  草思社(1996/10)

 本書は、「何の予備知識もない、したがって余計な思いこみや偏見もない読者を、知らず知らずのうちに『複雑性の理論』という、数学と科学の最新動向にまで導こうという本」です。
 「プロローグ」では、「数学者の豊かな想像力によって生み出されうるものならシミュレートしてしまう」夢の機械「仮想非現実(バーチャル・アンリアリティ)マシン」を提示しています。
 第1章「パターンの宇宙」では、「人間の精神と文化は、パターンを認識し、分類し、活用するために、かたちに関する思考体系を発展させてきた」として、その体系を「数学」と呼び、「数学を用いてパターンに関する考えを組織立て、体系化することによって、私たちは偉大な秘密を発見した──自然のパターンは賛美するためだけに存在するのではなく、自然のプロセスを支配する法則を探る上で極めて重要な手がかりなのだ」と述べています。
 第2章「自然の謎をとく道具」では、「自然のパターンはその一つ一つが謎であり、しかもかならずといっていいほど各深い謎である」と述べています。
 そして、「約200年のあいだ、人間は微積分学に関してかなり奇妙な立場にあった」として、微積分学の物語が、「数学が何のためにあるのか」という問いかけに対して、
(1)科学者に自然の営みを計算させる手段を提供すること
(2)数学者には解決すべき新しい問題をあたえること
の2つの目的を明らかにしていると述べています。
 そして、「数学と『現実世界』との関係における最も奇妙な、しかし最も強烈な特徴の一つ」として、「すぐれた数学は出所に関わらず最終的には役に立つ」と述べています。
 また、「新しい数学がすぐさまお金に換算できる利益をもたらすと期待してはならない」として、「数学の考えを、工場でつくれるものや家庭でふつうに使用できるものにするには、時間がかかる。非常に多くの時間を要し、一世紀かかることも珍しくない」と述べています。
 第3章「証明という名の織物」では、「数学者の武器庫において最も強力な一般兵器」として、「プロセスのもの化」を挙げ、「数学のプロセスもまた抽象物だが、プロセスはそれが適用される『もの』以上に『もの』らしくない」が、「プロセスのもの化は、日常生活で普通に行われている」と述べています。
 そして、「数学を利用する者は、この数学の領土の、よく踏みならされたところだけを通る。数学を創造する者は未知の神秘を探検し、それを地図に描き、そこを通る道路を建設して、誰もがもっと簡単に入ってこられるようにする」として、「この風景をつなぎ合わせる要素は証明である。証明は、一つの事実から他の事実へのルートを決定する。数学の専門家にとって、いかなる論理的な誤りも犯すことなく証明されていなければ、どんな主張も妥当とは見なされない」と述べています。
 著者は、「証明は、数学という織物をつくりあげる。もし一本でも弱い意図があれば、織物全体がほどけてしまうだろう」と述べています。
 第4章「カオスの秘宝」では、自然に関する人間の思考が、「2つの相反する観点のあいだを揺れ動いてきた」として、
(1)宇宙は固定された普遍の法則に従い、すべてのものは明確に定義された客観的な現実の中に存在する。
(2)客観的な現実というものは存在せず、すべては流転であり、すべては変化である。
の2点を挙げています。
 そして、「ニュートンの運動法則は重要な教訓を与えてくれる」として、「自然の法則から自然のふるまいにいたるルートは、直接かつ明白である必要はない。私たちが観察するふるまいとそれに生み出す法則のあいだにクレバスがあり、人間の精神は数学的な計算によってのみ、そこに橋をかけることができる」と述べ、「少なくとも人間がそれらのパターンを把握するうえで、数学はきわめて有効な方法だということは確実」だとしています。
 また、「解く」という言葉の意味が、最初は、「公式を見つける」ことを意味したが、次に、「近似解を見つける」ことに意味が変わり、最後には、事実上「解がどのように見えるかを教える」ということに意味になったとして、「私たちはいまや、量的な答えの代わりに質的な答えを探すようになった」と述べています。 
 第5章「バイオリンからビデオへ」では、「ガウスの時代には、一人の人間が数学の全体像をかなりしっかりと把握することが可能だった」が、「現代では科学における古典的な部門のすべてが非常に巨大化したため、ただ一人の頭脳では、おそらくそのうちの一部門の全容さえつかみきれなくなっている」と述べています。
 そして、「数学の純粋な面と応用の面が手を携えて、どちらか一方だけではとうていなしえなかった、きわめて強大で人を動かさずにおかれないものを生み出した物語」として、16世紀の初頭の、「バイオリンの弦の振動という問題」に端を発する物語を紹介し、1748年に、スイスの数学者レオンハルト・オイラーが、弦の「波動方程式」を完成させたとして、オイラーが、「波動方程式を公式化しただけでなく、それを解いた」と述べています。
 著者は、「波動方程式をめぐって起こったことは、数学がどのように自然の隠された普遍性を解明できるかという、感動的な実例だった」として、「同じ方程式がいたるところにあらわれはじめた」と述べています。
 第6章「破れた対象の美学」では、「妻のマリーとともに放射能を発見した偉大な物理学者」であるピエール・キュリーが、「対象な原因は、それと同等な対象性をもつ結果を引き起こす」という一般原理を述べたことについて、「世界には、原因ほどには対照的ではない結果があふれている」として、その根拠として、「自発的な対象性の破れ」として知られる現象を挙げています。
 そして、1958年にロシアの科学者B・P・ベルーソフが、「あたかも無から、パターンが自発的に形成される化のような化学反応を発見し」、1963年までに、ロシアの科学者A・M・ザボチンスキーが、「ベルーソフの化学反応を修正して空間でも同じようにパターンが生じるようにした」ことについて、同様の化学反応が、「ベルーソフ-ザボチンスキー[またはB-Z]反応」と命名されたと述べています。
 また、「自然が対象性をもつのは、池の表面の一様性と同じく、私たちの住む宇宙が、大量生産された同一なものでできているからだ」とした上で、「物理学の法則があらゆる場所、あらゆる時代で同じなら、そもそも宇宙にはなぜ興味深い構造が存在するのか」という深刻なパラドックスが生まれるのは、「冒頭で紹介したキュリーの原理が誤りだ」と述べ、「正反対の原理、すなわち自発的な対象性の破れの原理のほうが、はるかにすぐれている。対象性を持つ原因から生まれた結果は、しばしば対象性において劣る」と述べています。
 第7章「生命のリズム」では、多くの生物学的サイクルの背後でそれらをまとめる原理として、「振動子──本来備わっている動力が、同じサイクルの動きをくりかえし行わせる一単位──という数学的概念である」と述べています。
 そして、「生物学的にはまったく別のものだが、数学的には同じタイプの二つの振動子が移動様式に関わっている」として、
・動物の脚
・生物の神経系にある「中枢パターン発生装置central pattern generator」(CPG)
の2つを挙げています。
 また、四足動物について最も一般的な歩き方として、
・はや足
・側対はや足
・跳躍
・歩行
・回転ギャロップ
・横ギャロップ
・普通駆け足
の7種類を挙げ、「歩き方の力学についてかなりくわしいところまで深入り」する理由として、「それが現代数学の技法を、一見まったく関係のない領域に応用した珍しい実例だから」だと述べ、「一般的な考えの応用例」として、1990年にレナート・ミロロとスティーヴン・ストロガッツが証明した、「ホタルの大群が同時に点滅する現象」について、「同期が、すべてのホタルがおたがいに相互作用するような数学モデルの中では必然的に起こる」ことを紹介していまする
 著者は、「動物の動き方と同期性という、この章で取り上げた二つの事例の双方に読みとれる大きなメッセージは、自然のリズムはしばしば対称性と結びついていること、そして、生じるパターンは対称性の破れという一般原理を引き起こすことにより、数学的に分類できるということ」だと述べています。
 第8章「サイコロは神になれるか?」では、 「現代物理学によると、空間と時間の最も小さいスケールにおいて、自然は偶然に支配される」とした上で、カオスの発見について、
(1)科学の焦点が変わって、くりかえされるサイクルのような単純なパターンを離れ、より複雑な振る舞いに向けられたこと。
(2)コンピュータのおかげで、力学方程式について簡単かつすみやかに近似値をはじき出せるようになった。
(3)力学に関する新しい数学的視点──数値的視点というよりも幾何学的視点。
の「3つの別の流れが結びついた結果」だとして、「第1の流れが動機となり、2番目が技術を用意し、3番目が知識を提供した」と 述べています。
 そして、「ポアンカレの革新的な発想から、ダイナミクス、つまりシステムの固有のふるまいのあり方を『アトラクター』と呼ばれる幾何学的なかたちで視覚化できるようになった」とした上で、カオスが不思議な幾何学をもち、「それは奇妙でフラクタルな『ストレンジ・アトラクター』と呼ばれるかたちと結びついて」いて、「バタフライ効果は、ストレンジ・アトラクターの上での運動の詳細は前もって決めることができないことを意味している」と述べています。
 また、「カオスの発見によって、法則と法則から生じるふるまいとの関係、すなわち原因と結果の関係について、私たちの見解に根本的な誤解があることが明らかになった」として、「安易にもランダムさと誤解されかねない、きわめて不規則な結果を生む場合もあり得ることがわかっている」と述べ、「かつては、単純な原因は単純な結果を生むはずだ(複雑な結果には複雑な原因があるということでもある)と考えられていた」が、「いまでは、単純な原因が複雑な結果を生み出せることがわかっている」と述べています。
 さらに、「基本的に重要なのは、自然の法則の結果にパターンがないと思われるときでさえ、実は法則は存在し、パターンも存在するという点である。カオスはランダムではない。それは正確な法則から生じる、一見ランダムな振る舞いである。カオスは暗号化された秩序なのだ」と述べています。
 第9章「複雑さの単純さ」では、「カオスが教えてくれるように、単純な規則に従うシステムが驚くほど複雑なふるまいをすることがある」が、「同時に、世界は完全にカオスであるわけでもない」として、「カオスの発見がこんなにも遅れた理由の一つは、私たちの世界がいろいろな意味で単純だからだ」と述べています。
 そして、この章で、「複雑性から創発される単純性」について、
(1)水滴のかたち
(2)動物集団の個体数におけるダイナミックな変動
(3)植物の花弁の数に見られる不思議なパターン
の3つの例を挙げ、これらの例を、「複雑性の理論の著作からではなく、現代応用数学の本流である力学系の理論から選んだ」理由として、
(1)複雑性の理論の中心となる哲学が、はっきりと「複雑性の科学」を謳った研究とは独立に、科学の至るところで持ち上がってきたことを示したいから。
(2)自然界の数学的なパターンについて長いあいだ謎とされてきたことを、個々の研究が解明していること。
の2点を挙げています。
 著者は、これら3つの例について、「科学において異なる分野から引用されていて、それぞれが独自のやり方で、私たちの目を開いてくれた。いずれも自然の数──自然のかたちのなかに見つけることができる深い数学的な規則性──に起源をもつケース・スタディだ」として、ここには「共通する一本の糸」として、「自然が複雑であるというのではない。それどころか、自然は独特の微妙な意味で、単純である。しかしその単純さは、私たちの前に直接現れるわけではない。そのかわりに、自然は数学の得意な探偵に手がかりを残して謎を解かせる」と述べています。
 エピローグ「数学者は眠れない」では、冒頭で取り上げた「仮想非現実マシン」に続く、「もう一つの夢」として、「夢の学問としての数学ではなく形の学問としての形学という意味」の「モルフォマティックス」を挙げた上で、前章で取り上げた、液体の滴、キツネとウサギ、および花弁の3つの物語に共通するメッセージとして、「自然のパターンは『創発する現象』だ。ボッティチェッリのヴィーナスが二枚貝の殻の片割れからあらわれるように、自然のパターンは複雑性の海から、何の前触れもなく、その起源を超越した姿で出現する」と述べ、「自然のパターンは、まぎれもなく、自然の深部にある単純性の間接的な結果ではあるが、原因から結果にいたる道は非常に複雑なので、そのすべての段階をたどることができる者はいない」と述べています。
 そして、モルフォマティックスは、「いまはまだ存在しない」が、「その片鱗はいくつか存在する」として、力学系、カオス、対称性の破れ、フラクタル、セル・オートマトン等を挙げ、「いまこそ、それらの断片をまとめはじめる時期だ」として、「それらをまとめることができてはじめて、自然の数を──自然のかたち、構造、ふるまい、相互作用、プロセス、発生、変態、進化、変革などをあわせて──真に理解できるようになるだろう」と述べています。
 本書は、流行としての複雑性を扱った類書が多い中で、数学そのものの立ち位置を含めて、丁寧に解説した一冊です。


■ 個人的な視点から

 本書の原書が出版されたのは1995年ということもあり、本書で取り上げられている事例は複雑系の様々な書籍の中で目にしたことがあるものが多く、最終章にたどり着くことには、少し懐かしい感じもしましたが、単に事例を紹介して新しい科学の話をするだけではなく、数学とは何かを丁寧に解説してくれる本書は、相当な良書だと思います。

■ どんな人にオススメ?

・数学は机の上の学問だと思う人。


■ 関連しそうな本

 スティーヴン・ストロガッツ (著), 蔵本由紀, 長尾力 (翻訳) 『SYNC』 2006年04月10日
 アルバート・ラズロ・バラバシ (著), 青木 薫 (翻訳) 『新ネットワーク思考―世界のしくみを読み解く』 2005年10月24日
 マーク・ブキャナン (著), 阪本 芳久 (翻訳) 『複雑な世界、単純な法則 ネットワーク科学の最前線』 2005年12月21日
 ダンカン ワッツ (著), Duncan J. Watts (原著), 栗原 聡, 福田 健介, 佐藤 進也 (翻訳) 『スモールワールド―ネットワークの構造とダイナミクス』 2006年03月22日
 ダンカン ワッツ (著), 辻 竜平, 友知 政樹 (翻訳) 『スモールワールド・ネットワーク―世界を知るための新科学的思考法』 2005年09月28日
 渡邉 泰治 『黄金比の謎』 2008年03月16日


■ 百夜百音

くちばしにチェリー【くちばしにチェリー】 EGO-WRAPPIN' オリジナル盤発売: 2002

 テレビドラマの濱マイクの主題歌で知られる人達、遅れてきた渋谷系とも言われるものの出身地が関西なのは知りませんでした。

2009年1月 1日 (木)

高度経済成長は復活できる

■ 書籍情報

高度経済成長は復活できる   【高度経済成長は復活できる】(#1442)

  増田 悦佐
  価格: ¥735 (税込)
  文藝春秋(2004/07)

 本書は、「日本経済の高度成長が70年代前半に終わったのは、経済成長を敵視する社会主義革命家が政権奪取に成功したからだという主張を展開する」ものです。著者は、日本経済の成長率が一番大きく落ち込んだのは、バブル崩壊ではなく、「1970年代前半のこと」だと指摘しています。
 第1章「日本経済はどこで間違ってしまったか」では、高度成長期の日本経済が、「ありとあらゆる差別が弱まる方向に社会全体が変わっていった経済」で、「できるだけの大勢の人が平等な条件の下、自分でつかんだ仕事から得る報酬で食べていけて、しかも、なるべく実績本位で人を雇っていかなければ企業として競争から脱落してしまうような社会だった。世界経済史の中で例外的に長い期間にわたってこの黄金時代を実現していたからこそ、日本の戦後経済は高度成長を達成できた」と述べています。
 そして、1960年代末まで、年間40万~60万人に達していた地方から大都市圏への人口流入が、70年代半ばについにゼロまで落ち込んでしまうという「地方から大都市圏への人口移動の縮小」と平行して、「日本経済は他の先進国並みの低成長経済へと転落する」と述べるとともに、「家を絶やさないために地方に跡取りを縛り付けるような行動様式は、江戸時代後期から戦前までの日本では、よっぽど格式の高い旧家以外にはほとんど定着していなかった」と指摘しています。
 著者は、「戦後の日本経済は、世界中でもめずらしいくらい階級とか身分とか人種とかの差別の少ない社会で、しかもみんなが自由に自分にとって何がいちばんいいかを判断して行動できる、自由競争の市場経済の理想型に近い社会だった」が、「日本人の大半は、1960年代末から70年代はじめに日本で『忍び寄る社会主義』勢力が政権奪取に成功したなどということは、夢にも考えなかった」と述べています。
 第2章「誰が高度成長経済を殺したのか」では、「生活に不安のない文化人、知識人たちのあいだでは」、「『たかが金のために』あくせく働く人たちを量産した人間的なゆとりを欠いた経済だ」として、高度成長は評判が悪いが、著者は、「金のために一生懸命働く」や、「金を儲ける機会を求めて都会に出ていく」という行動は、「悲惨な生活から脱出するための人間的で崇高な行為だった」と述べ、終戦直後の「勤勉に仕事さえすれば地位も収入も上がる」という熱気を受けたのは「大都市圏の民間企業に勤めるサラリーマンたちばかり」ではなく、「今では国や自治体から少しでも大きな保護を引き出すことしか考えていないのではないかと思えるような地方の小さな漁業集落をも突き動かした」として、世界で初めてノリ養殖の人工採苗の実用化に成功した有明のノリ養殖事業の例を挙げています。
 一方、「大都市圏と地方との経済格差をなくせば、もっとすばらしい国になる」という考えた、「旧内務省の都市計画官僚たち」が、1962年に最初の全国総合開発計画の制定以来、約40年にわたって推進した全総路線によって、「反映する資格のある街は、どんな田舎にあっても繁栄する。繁栄しないのは繁栄するために必要な経済的条件が欠けているからだ」という形で進んでいた人口獲得競争を「ほぼ完全にぶちこわしてしまった」結果、「日本全体も70年代前半頃から急激に風通しの悪い社会になっていった」と述べています。
 著者は、「『だれもが一生、生まれ育った土地を離れることなく暮らせる社会をつくる』という理想の実現で、「日本経済はいったいどれだけ貴重なものを失ったことだろうか」と指摘しています。
 第3章「実行犯は田中角栄」では、「田中角栄は戦後日本政治の中で唯一政権奪取に成功した革命家なのだ」として、彼が、政治手法を、「三宅正一や小林進などの社会党の農民運動指導者から学んだ」として、「田中角栄の政治手法は必然的に政治理念をも社会党系の急進農民運動の理念に変えていったのだ」と述べています。
 そして、「田中角栄が自民党内で革命を起こそうとしていることが、なかなか周囲に感づかれなかった理由」として、「自分の政権奪取能力、政策遂行能力、利害調整能力に絶大な自信を持っていた田中は、政治理念を宣伝して同志を募るという過程を省略し、たったひとりで革命を成し遂げた」と述べ、当時の北朝鮮国家元首、金日成は、田中角栄政権の本質を、「『革命家』による政権奪取」と見抜き、毛沢東も、「日本に革命を起こした同志」と見なし、「実務家同士らしく『米ソ覇権主義二大帝国に抗して、日中同盟を作ろう』という議論をしたらしい」と述べています。
 また、全総路線が、「大都市圏と地方との経済格差を縮めることには成功した」が、それは、「手術は成功したが、患者は死んでしまった」というような成功だったと述べています。
 第4章「『弱者』をふやしたがる『黒幕』たち」では、「苦しくても自力で生きようとする都市勤労者の見方は少ないが、生活水準は高いのに『保護がなければやっていけない』という泣き言ばかり並べている『かわいい弱者』たちには大応援団がついている」として、「与野党含めてあらゆる政治勢力からマスコミまで、一斉に保護政策の拡充を大合唱する」と述べています。
 そして、駅前商業地の衰退が話題になるが、「衰退しているのは、もともと需要もないのに『立派なウワモノさえ作れば需要は後からついてくる』といったそごう型の再開発便乗路線でできた図体ばかりでかくて中身の薄い大型店舗しかない商店街か、大型店舗を排除して自滅したところだけだ」として、「商売をしていて『競争が激しいからうまくいかない』と言うのは、100メートル競走のスタートラインで『ほかの選手もみんな一生懸命走ったんじゃ自分に勝ち目はない』と泣き言を並べるようなものだ」と述べています。
 また、農業に関しても、「きちんと金になる作物をつくれば食っていける世の中で農村一般が『食えない』のは、自業自得だ。日本の農民が食えないのは、アメリカやアジアの農民が日本の農民よりずっとやすくコメを作れるからではない。効率の悪すぎる稲作にしがみついているからだ」として、「政府の保護が及んでいない作物を作って失敗すれば自分の責任だが、コメを作っている限り低水準でも安定した収入は保証されている」という根性でコメにしがみついているから「農業では食えない」のだと指摘しています。
 さらに、「どんなに劣悪な環境に生まれた人間でも、一生自分の生まれ故郷で暮らしたがっているはず」だとするのは、「愚にもつかないセンチメンタリズム」であり、「こんな不便でチャンスも少ない場所からは脱出したい」と思う人がいるから「過疎地は過疎化が進む」のであり、「人間が住むには不便なところにわざわざ人間が住み続けられるように巨額の公共投資をするのは、全くの無駄」だと指摘し、過疎化は、「辺鄙で不便な土地に生まれた人間にも自分の行きたいところに行き、住みたいところに住む自由が確保できるようになった時初めて進展する社会現象」であるので、過疎化は「良いこと」だと述べています。
 第5章「『弱者』のための利権連合がつくった世界」では、「公共事業費の傾斜配分が、『平等』の名のもとにいかに大きな不平等をもたらしたか」について、日本の地方財政が、「税金の支払額が少ない地方ほど自治体による財政支出が大きいという異常事態を、過去40年近くにわたってつづけてきた」だけでなく、もし「通勤時間で給与を稼ぐことができたらいくらになっていたかという数字を、都道府県ごとの実質勤労世帯成員一人当り収入から引いてみる」と、東京都は47都道府県中17位まで後退し、大阪府(41位)、千葉県(44位)、埼玉県(42位)、兵庫県(45位)など、最下位争いに加わることになると述べています。
 そして、「世界中の先進国では、女性の就業機会の多い大都市圏のほうが共働き世帯比率も高いのが普通」だが、日本では、大都市圏ほど共働き比率が低い理由として、
・大都市圏ほど保育所の数が少ない
・郊外のベッドタウンでは、就業機会は遠隔地にしかないため、かなりの長時間労働でなければ、コストと収入のバランスが合わない。
ことなどを挙げ、「こんな情けない実態」が定着してしまったのは、「公共事業費の配分が圧倒的に地方に有利で、大都市圏に不利だったから」だと述べています。
 また、田中角栄自身は、「列島改造」が、「大都市の勤労者から奪った金を、農林漁民、中小企業経営者、零細商店、地場ゼネコンにばら撒く」政策だとわかっていたため、都市勤労者を敵に回さないために、「働いているうちは利権ではつれなくても退職して年金生活に入れば、利権で釣れる『かわいい弱者』になるだろう」と考えたと述べています。
 第6章「高度成長は復活できる」では、「日本経済は世界経済の牽引役を務めるだけの潜在資源を持っている」として、
(1)国の保護に依存した地方の方が自前で生きている大都市圏より実質所得水準が高いのに、自力で生きようと地方から大都市圏に移住してくる若い人たちの存在。
(2)世界中で東京だけが高密大都市には不可欠の発達した鉄道網によって、人口集中と環境にやさしい都市文明を両立させていること。
の2点を挙げています。
 そして、日本では、「広々とした大地とともに生きるのどかな田園生活」が、「環境に優しい持続可能な社会だと思っている人が多い」が、「本当に多くの資源を子孫たちに残すにはコンパクトな都会に住むべき」だと述べ、「今、欧米の先進的な都市計画プランナーたちが知恵を絞っているのは、『駅から歩いていける距離の中に生活に必要なあらゆる施設が密集していて、しかも一つの駅からの徒歩圏とその次の駅からの徒歩圏との間に空白がない都市圏を育てる』という課題だ」として、「これは昔から東京の真ん中に住んでいる日本人は、なんのありがたみも感じずに恩恵に浴してきた生き方だ」と述べています。
 また、「大都市圏と地方との経済格差は、移動の自由さえあれば問題ではない。経済的な機会を求める人たちはどんどん大都市圏に移住すればいい。地方を選ぶ人は経済的不利益を承知の上で、地方が好きだから地方を選んでいるのだから補償する必要はない」と述べ、「もし効率本位の経済政策が採られたら、だれも地方に住まなくなってしまう」という主張こそ、「底の浅い物質万能論」であり、「広々とした空間やゆったりとした生活のペースといった、金には換算できない地方の魅力を軽視しすぎている」と指摘しています。
 本書は、多くの人が内心では感じていながらも、口に出すのをはばかられていたモヤモヤとした感じを、はっきりすぎるほどはっきりと、ズバッと切り込んだ一冊です。


■ 個人的な視点から

 1970年代が、日本の社会主義革命の成就した時期だと言い切ってしまうのは、極端といえば極端なところがあり、その前からも官僚による規制行政は綿々と続いていたわけですが、田中角栄が成し遂げたのは、単純な政権奪取ではなく、地方にお金を回さなければならない、という国民の価値観に対する壮大な変革の訴えだとすると、この時期を境に、日本経済と日本社会は、ドラえもんの「もしもボックス」が現実になったかのごとくの価値観の変化にさらされたのではないかと思います。


■ どんな人にオススメ?

・高度経済成長期は日本の闇だと思う人。


■ 関連しそうな本

 増田 悦佐 『国家破綻はありえない』
 増田 悦佐 『日本文明・世界最強の秘密』
 増田 悦佐 『日本型ヒーローが世界を救う!』
 土居 丈朗 『財政学から見た日本経済』
 土居 丈朗(編著) 『地方分権改革の経済学―「三位一体」の改革から「四位一体」の改革へ』
 土居 丈朗 『三位一体改革ここが問題だ』


■ 百夜百音

ファミコン サウンドヒストリーシリーズ「マリオ ザ ミュージック」【ファミコン サウンドヒストリーシリーズ「マリオ ザ ミュージック」】 ゲーム・ミュージック オリジナル盤発売: 2004

 テレビ番組の企画で、スーパーマリオのゲームをプレイするときの音を消して、それに合わせてBGMと効果音をリアルタイムで弾く、というのがあったのですが、このすごさは、実際にゲームをやった経験のある人にしかわからないんじゃないかと思います。
 そういえば、Youtubeでは、両手でギター2台をタッピングしてスーパーマリオの曲を弾いている人がいましたが、これまたすごい。

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