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2009年4月

2009年4月30日 (木)

持株会社の歴史―財閥と企業統治

■ 書籍情報

持株会社の歴史―財閥と企業統治   【持株会社の歴史―財閥と企業統治】(#1561)

  岡崎 哲二
  価格: ¥693 (税込)
  筑摩書房(1999/06)

 本書は、「企業統治(コーポレート・ガバナンス)の観点から、戦前日本の財閥の歴史を再検討した」もので、「戦前の財閥は持株会社の設立という組織確信を通じて有効な企業統治の仕組みを構築し、参加企業の効率性を維持するとともに、潜在的・顕在的なテーク・オーバー・レーダー(乗っ取りを行う主体)として参加外の企業の規律付けに見寄与した」としています。
 第1章「問題の所在と分析枠組」では、持株会社に関する「制度ないし組織の役割に関する二つの見方」として、ウィリアムソンのいう、
(1)独占アプローチ;単純な市場取引以外の取引様式が採用される目的を、市場の差別化や参入障壁の形成による独占力の強化ないし顕在化と見る。
(2)効率性アプローチ:その目的を、インセンティブ構造の改善や取引コストの節約による効率性の向上と見る。
の2つを挙げ、「重要な点は、組織の効率性が組織の形態に依存すること」だと述べています。
 第2章「財閥の見取り図──戦争直前期の財閥」では、「1937年時点における財閥の日本経済における地位」として、「財閥は、戦争直後にアメリカ政府が評価したほどには日本経済において支配的ではなかった。しかし、全株式会社の払込資本総額の15%を財閥系企業が占め、重化学工業と金融を中心とするいくつかの産業で上位企業の多くを財閥系企業が占めたという、より限定された意味において、財閥は無視できない位置にあった」と述べています。
 第3章「資本の蓄積と多角化」では、財閥の膨大な事業ネットワークが、「どのような歴史的プロセスを通じて形成された」のかについて、初期における財閥の富の源泉については、「『政商』活動と鉱山業の2つに整理することができる」と述べ、これらの活動を通じて蓄積した富を、「各財閥はさまざまな事業に多角的に投資し、増殖させた、あるいはより正確には、多角的当市による富の増殖を通じて、各家は財閥に成長していった」と述べています。
 そして、「多角的な事業を経営する財閥という企業組織のあり方は、日本の経済発展の初期におけるコーディネーションの失敗を解決する役割を果たしたということができる」と指摘しています。
 第4章「持株会社の設立」では、「企業規模が大きくなると、所有者=経営者の指揮・監視機能は限界に直面する。企業の多角化に伴う業務の複雑性の増大のために、所有者=経営者の指揮・監視能力の限界を一層深刻なものとなる」と述べた上で、「いずれの財閥においても、持株会社は、参加会社の財務面からの監視を所管する組織、および新規投資分野の調査を所管する組織を備えていた」上に、「三菱・住友・安田の持株会社には参加会社の職員人事を一括して管理する部署があった」と述べています。
 第5章「内部資本市場としての財閥」では、「財閥組織内の資本市場、すなわち内部資本市場における役割」について検討するとしています。
 そして、「主要な株主である本社による監視は、参加企業に利益最大化のルールを守らせる有効な規律を与えたと想定される」としています。
 第6章「財閥と資本市場」では、「財閥が参加外の企業に対して、多数事業部製企業に見られるような監視機能を持っていたかどうかについて検討する」としています。
 本書は、戦前の財閥に対する見方を変えてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 戦前の財閥というと「○○家」というかオーナー一族による支配というイメージが非常に強いのですが、実態としてはかなり効率的に運営していた部分もあるようです。


■ どんな人にオススメ?

・財閥は前時代的で非効率な経営形態だと思う人。


■ 関連しそうな本

 岡崎 哲二 『江戸の市場経済―歴史制度分析からみた株仲間』 2006年01月19日
 岡崎 哲二, 奥野 正寛 (編集) 『現代日本経済システムの源流』
 小林 英夫, 米倉 誠一郎, 岡崎 哲二, NHK取材班 (著) 『「日本株式会社」の昭和史―官僚支配の構造』
 青木 昌彦 (著), 永易 浩一 (翻訳) 『日本経済の制度分析―情報・インセンティブ・交渉ゲーム』 2005年04月01日
 オリヴァー・E.ウィリアムソン 『市場と企業組織』 2005年04月19日


■ 百夜百マンガ

シュガー【シュガー 】

 この人の場合、サラリーマンを描いてもテロリストを描いても、何を描いても「男の生き様」の話になってしまうのですが、それはそれで強みでしょう。

2009年4月29日 (水)

コルナイ・ヤーノシュ自伝―思索する力を得て

■ 書籍情報

コルナイ・ヤーノシュ自伝―思索する力を得て   【コルナイ・ヤーノシュ自伝―思索する力を得て】(#1560)

  コルナイ ヤーノシュ (著), 盛田 常夫 (翻訳)
  価格: ¥4935 (税込)
  日本評論社(2006/06)

 本書は、「ラチェット効果」や「予算のソフト化」など、鋭く社会主義経済を分析したことで知られるハンガリーの経済学者コルナイ・ヤーノシュの自伝です。
 著者は、前書きの中で、「語り伝えることができるのは、私の人生の諸事件が展開した社会的歴史的場面」だと述べています。
 第1章「家族、青年時代」では、「どのようにして、何故に、そのような自分が出来上がり、今の自分が存在するのか」を、「子供時代、青年時代や家族のことを記しながら、自分自身と時代の双方を理解する二重の課題に応えてみたい」と述べています。
 第2章「共産主義者になる」では、共産党員だったことについて、「進んで入党した。当時はそれが私の確信だったから」と述べた上で、1945年に、ソ連軍がドイツ軍とハンガリーの矢十字党を粉砕したときには、「心の底から解放されたと感じた」と述べ、「虐待、辱め、排除という記憶は、私を含めたユダヤ人に、我々を同等に受け入れ、人種や宗教で差別することのない共同体への同化を促した」と述べています。
 そして、著者が組織での昇進が「直線的で早かった」理由として、「私が共産党の必要としている指導層カテゴリーに属しており、このカテゴリーに属する若者の供給源が狭かった」からだと述べています。
 第3章「『自由な人民』編集局時代」では、共産主義体制における昇進と格下げを決める基準として、
(1)共産党に対する忠誠心
(2)能力
の2点を挙げたうえで、「大人になった人生の最初の時期に、私は誤った道を歩んだことを認識しただけでない。重大な決意を持って、新しい道に入った」と述べています。
 第4章「覚醒の始まり」では、1953年のスターリン死去によって、「共産主義世界はひとつの歴史時代を終え、新しい時代を迎えた」として、「それらの変化は私の世界観、思考、行動様式を変えることになった」と述べています。
 そして、「夢遊病から揺り動かされる事件が、私を覚醒させてくれた」として、1954年に長期の監獄生活から解き放たれたシャニィ小父さんに会い、虚偽の事件の告白を迫られ、拷問を受けた話を聞いたことで、「その瞬間まで保持していた共産主義者の核心の倫理的基礎が崩れ始めた」と述べています。
 著者は、「深い失望、痛恨、恐怖。これがこの時期の私の精神状態を特徴付けている。以前の妄信は一度に霧散してしまった。何が起きたのかを、覚醒した目で見つめることができた。胃をかきむしるような虚偽、口汚い中傷、偽善的な議論、諜報員の事実と虚偽の操作、威嚇と詰問、敵の精神的拷問。これらは皆、党内の派閥闘争の『正常な』手段なのだ」として、「この汚れた物から遠ざかりたい気持ちに駆られた」と述べています。
 第5章「研究生活の始まり」では、この時期の著者の「経済学的思考形成に最も強い影響を与えた人物」として、当時の中央統計局長ピーテル・ジョルジュとブダペスト大学の経済学教授ヘラー・ファルカシュの2人を挙げています。
 そして、1956年に出版した『経済管理の過度集権化』において、西側のソ連学者が「ラチェット効果」と名づけた現象の叙述と分析を行っていることなどを述べたうえで、「文章として書かれたものだけが『過度集権化』のメッセージではない」として、「マルクス主義政治経済学のジャーゴンを使っていない」こともメッセージなのだと述べています。
 第7章「私の大学」では、「革命が潰されてから、国を離れないと決めたものの、『西側の経済学の一員に加わりたい』という決意が固まった」として、「ソ連の戦車の侵入が引き起こした怒りは、意識的な『西側への志向』に特別に強い衝動を与えた」と述べています。
 そして、1959年あたりの著者の選択について、「5年の時間が必要だった」が、「成熟した決断のいくつかが形成された」として、
(1)共産党と決別する。
(2)亡命しない。
(3)政治ではなく、学問研究を職業にする。共産主義体制に対する英雄的で非合法な戦いには加わらない。社会の革新に貢献したい。
(4)マルクス主義と決別する。
(5)現代的な経済学の基礎知識を我が物にする。勉学と研究を通して、西側経済学界の一員になりたい。
の5点を挙げ、45年の歳月が過ぎて、「この5つの決断は、以後の私の人生を決める決断だった」ということができるとしています。
 第10章「価格に挑む」では、「計画指令的な社会主義経済メカニズムを批判的に考え始め、近代経済学の知識を得た段になって、本質的な疑問がわきあがってきた」として、
・意思決定をよりよく導く価格体系とはどのようなものなのか。
・社会主義制度の内部に市場経済を創出することができるだろうか。
などの疑問を挙げたうえで、「批判した理論では、システムを構成する諸単位間に、ただ一つの型の情報が流れているそれが価格である。この排他性が私を悩ませた」と述べ、「さまざまな非価格的なシグナルが大きな役割を果たしている」ことを指摘しています。
 第13章「全体像の完成」では、「一言で言えば、経済全体を包括する慢性的で強い不足が、不足経済を特徴付けている」として「慢性的不足はここでは特別な現象ではなく、この制度の『正常状態』なのである」と述べ、「不足経済は社会主義体制に内在する制度に固有な特性である。改革はこの問題を緩和することができても、それを消滅させることはできない」と指摘しています。
 そして、著者が避けようとした問題として、
(1)明示的にソ連について語らない。ソ連圏諸国のソ連との関係、相互の外国貿易やその他の対外経済関係について語らない。
(2)社会主義経済における共産党の役割を記述しない。
(3)国家所有に代えて私的所有が入り込んだときに、どのような変化が生じるかを記さない。
の3点を挙げています。
 また、著者の人生の中で「一番誇れる実績」として、「私の著書に触れたことが、知識人、経済学者を揺るがしただけでなく、違う専門家をも揺るがし、社会主義体制を見る眼を変えることに役立ったとすれば、これほど嬉しいことはない」と述べています。
 第14章「突破」では、1979年に初めて印刷物で使用した「ソフトな予算制約」について、「ソフトな予算制約は重大な弊害を引き起こす。価格が合理的な場合でも、企業は価格、費用、利潤のシグナルに充分に感応的でなくなる」として、ハードな予算制約が、「市場で地位を確保できないものに自動的に重い罰則を課」すのに対し、「ソフトな予算制約はこの罰則から免除し、低い生産性を容認する」ことを指摘しています。
 そして、プリンストンでは「興味深いモデル化が行われた」として、リチャード・クウォントらが、「ソフトな予算制約と企業の投入財需要の増加との間に存在する理論的連関を証明」し、これを「コルナイ効果」と名づけたことを紹介しています。
 第15章「友情溢れる批評と距離を置く批判」では、著者が1954年から「社会主義経済の革新的思考に、確信を持って、本格的に取り組み始めた」が、「この革新は革命の敗北とその過程で展開された残虐な報復によって、粉々に砕けてしまった。これで私の人生の中で、『ナイーヴな改革者』の時代が終わった」と述べ、「人生の『ナイーヴな改革者』の時期を越えて、私は最終的に、社会主義経済改革の批判的な分析かになった」と述べています。
 第18章「統合」では、「1983年のプリンストン滞在時に、社会主義体制の概括的な著書をまとめようという決意が固まった」として、1991年に執筆を終えた『社会主義システム』について、「『社会主義ハンガリーのために』の顕彰を拒否し、私のこれまでの著作を統合する著書を記すことで、私の人生の出来事に、そして社会主義体制に別れを告げた」と述べています。
 第19章「運命の転換」では、1989年11月10日のベルリンの壁の崩壊について、「体制崩壊を事前に予測したか」は、「イエスでもあり、ノーでもある」として、「イエス。『社会主義システム』は数百頁を費やして、内部改革は体制を救済することができず、反対に体制の基礎を崩すものであるという命題を証明している」一方で、「ノー。私の著作のみならず、社会主義体制を検討しているほかのどんな学問的著作も、何時それが終焉を迎えるかについて何も語らない」と述べ、「諸事件の加速化は、私のもっとも大胆な予想すら超えてしまった。それを告白して恥じることはない」と述べています。
 そして、1989年中旬に出版された『経済的過渡期問題に関する感情的ビラ』について、腰痛で入院した著者が、初めて口述筆記を行ったもので、「著書はベストセラーになり、版を重ねた」と述べ、著書の主張について、一番重要なのは、「社会主義体制を繕うのは諦めろ」であり、「最初から、『第三の道』などないことを明瞭にしたかった」と述べています。
 また、『感情的ビラ』が大きな論議を呼んだ点として、「所有関係の漸次的改変とは逆に、マクロ的安定や価格自由化で速やかな実行を提案したこと」を挙げています。
 第21章「ただじぞくあるのみ」では、「私の学問的研究の中心的テーマは、常に、体制概念の理解にあった。数十年にわたって、並存する体制を比較対照することに携わってきた。そして今、相互に継起して現れる体制をどのように理解するか、それを観察し解釈できる絶好の機会に遭遇した」と述べています。
 そして、「ハンガリーや東欧諸国で、多くの人が失望を感じている」として、「体制転換によって、もっと別のものを、もっと多くのものを、もっと良いものを期待していた」が、「これらの人々に苦い思いをさせているのは、多くの不透明な行為、虚偽、国家資産の散逸である」と指摘しています。
 本書は、社会主義という経済体制を生涯をかけて分析した経済学者の人生が収められた一冊です。


■ 個人的な視点から

 「ラチェット効果」や「ソフトな予算制約」の問題については社会主義体制下の国営企業を分析する上で有用だとされてきましたが、「成功した社会主義国」とも言われる日本の企業や地方自治体の分析をする上でも注目されているものです。


■ どんな人にオススメ?

・社会主義経済は過去の話だと思っている人。


■ 関連しそうな本

 青木 昌彦 『私の履歴書 人生越境ゲーム』 2009年04月03日
 ポール・ミルグロム, ジョン・ロバーツ (著), 奥野 正寛, 伊藤 秀史, 今井 晴雄, 八木 甫(翻訳) 『組織の経済学』 2005年01月24日
 青木 昌彦, 安藤 晴彦 (編著) 『モジュール化―新しい産業アーキテクチャの本質』 2005年04月22日
 池田 信夫 『ネットワーク社会の神話と現実―情報は自由を求めている』 2005年09月17日
 赤井 伸郎 『行政組織とガバナンスの経済学―官民分担と統合システムを考える』 2006年11月24日
 赤井 伸郎, 山下 耕治, 佐藤 主光 『地方交付税の経済学―理論・実証に基づく改革』 2005年01月27日


■ 百夜百音

BEST BALLADE【BEST BALLADE】 井上陽水 オリジナル盤発売: 2008

 安全地帯版の「恋の予感」もいいですが、やっぱり陽水はいいですね。当時、玉置は石原真理子をイメージしてこの曲を作ったらしいですが。

2009年4月28日 (火)

物語としてのアパート

■ 書籍情報

物語としてのアパート   【物語としてのアパート】(#1559)

  近藤 祐
  価格: ¥3150 (税込)
  彩流社(2008/12)

 本書は、「日本のアパート誕生から現在に至る系譜」を、主に小説の世界に絡めて語ったものです。
 第1章「乃木坂倶楽部の在り処」では、萩原朔太郎が、「現実には木造二階建て」であった『乃木坂倶楽部』という建築を、「アパートの五階」と書いていることについて、「朔太郎が『乃木坂倶楽部』を書いた昭和初期は、アパートと呼ばれる建築が日本の近代社会に認知され始めて間もない時期ではなかったか」と指摘したうえで、「『乃木坂倶楽部』仮寓の1ヵ月半は、朔太郎の生涯において、精神的物質的な危機のピークであった」として、「『乃木坂倶楽部』は進むことも戻ることもできない朔太郎が、唯一立てこもることができた精神的なシェルターであった」と述べ、「現実の木造二階建てのアパートを時代の先端を行く命建築に重ね合わせてみる」ことで、「朔太郎は自らの悲痛な経験を、詩という虚構世界の中に昇華させたかったのではないか」と指摘しています。
 第2章「菜の花畑で眠っているのは……」では、小林秀雄、中原中也、青山二郎が間借りした『花園アパート』について、『乃木坂倶楽部』との相違や落差は、「東京に増殖し始めたアパートという存在の触れ幅を暗示している」として、「歳の新たな顔とも言うべき中間市民に、ちょっと無理をしてでも住みたいと思わせた『乃木坂倶楽部』と、社会の下層に蠢く者たちを受け入れていた『花園アパート』」と述べています。
 第3章「いとこちたくいかめしき」では、「あり得べき姿を理想主義的に具現化してしまうという意味において、つよく概念的理念的な産物」であった『御茶ノ水文化アパート』に、江戸川乱歩の小説の主人公明智小五郎が住んでいたのではないかとした上で、「『御茶ノ水文化アパート』は、日本近代の初期アパートにあって《理念性》の権化とも言うべき存在である。そこに時代のアダ花的な側面を見るのであれば、乱歩もまたそのアダ花性を充分に計算して明智小五郎を住まわせたのではないか」と述べています。
 第4章「この巨大なパイプオルガンのうめきは」では、「昭和13年の価格統制によって経営の旨みを失った民間の木造小規模アパート」が、昭和25年の価格統制撤廃を期に「再び増殖し始め」、「木造賃貸アパート」を略して「木賃アパート」と呼ばれたことを紹介しています。
 また、鳩山内閣が立ち上げた「住宅建設十箇年計画」の目的として、
(1)住宅不足の著しい地域における勤労者のための住宅建設
(2)対価性能を有する集合住宅の建設
(3)行政区域にとらわれない広域圏の住宅建設
(4)大規模かつ計画的な宅地開発
の4点を挙げ、「特に住宅の立地、家賃などの条件の良いところは、数百倍、数千倍の高倍率を示すに至り、都市勤労者にとって公団住宅は憧れの的となり、高根の花と評価された」とする言葉を紹介しています。
 第5章「みんなが大きな夢を描いて」では、寺山修司の短歌に見るアパートについて、「〈私性〉や〈虚構性〉の問題を計算に入れておく必要がある」と述べた上で、「『そこから出て行きたい』場所としてのアパートの《仮寓性》は、多くの都市生活者にとってはこのようにして《仮寓性》のまま夢見続けられたのであろうか」と述べています。
 そして、「戦後の民間の木造賃貸のアパートの中で、ひときわ有名」なものとして、『トキワ荘』を仰げ、「『トキワ荘』は決して特異な例外ではなく、戦後の民間経営による木造賃貸アパートを、ある意味で象徴している」と述べ、「戦後の木造賃貸アパートは多くの若者たちにとって、それまでには手にすることのできなかった自由を教授できる場所であった」と指摘しています。
 第6章「何より面映さのようなものが」では、昭和30年代には、「高級アパートに住むか否かという選択肢は、戸建住宅にも住める資金力のある富裕層にのみ許される問題であった」と述べた上で、木造賃貸アパートが、「懐かしい《家郷性》を孕むに至った」理由について、「第一には、そこに蓄積されている豊穣な時間性」だとして、「まだ誰も住んでいない新築物件の手垢のついていないひんやりした空間と比べ、多くの住まい手の生活を受け止めてきたアパートには、着古した服が体になじむような安息感があるのではないか」と述べています。
 そして、「団地アパートにも、同じような《家郷性》が漂いはじめているのであろうか」と述べ、「『何かを懐かしみたい』という思いの底には、すでにマンションに見てきたように、日本戦後社会が推し進めた徹底的な時間性の切捨てへの反動があるのではないか」と指摘しています。
 本書は、日本人にとってアパートがどのような存在であったかを読み解いてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 第5章で語られている木造アパートへの若者の憧れについては、自分自身も学生時代にアルバイトで敷金をためて初めてアパートを借りたときのことを思い出して懐かしくなりました。


■ どんな人にオススメ?

・「アパート」という言葉に思うところのある人。


■ 関連しそうな本

 竹井 隆人 『集合住宅と日本人―新たな「共同性」を求めて』 2008年06月13日
 竹井 隆人 『集合住宅デモクラシー―新たなコミュニティ・ガバナンスのかたち』 2008年06月28日
 エドワード・J. ブレークリー, メーリー・ゲイル スナイダー (著), 竹井 隆人 (翻訳) 『ゲーテッド・コミュニティ―米国の要塞都市』
 エヴァン マッケンジー (著), 竹井 隆人, 梶浦 恒男 (翻訳) 『プライベートピア―集合住宅による私的政府の誕生』
 ジグムント バウマン (著), 奥井 智之 (翻訳) 『コミュニティ 安全と自由の戦場』 2008年01月12日
 山岡 淳一郎 『あなたのマンションが廃墟になる日――建て替えにひそむ危険な落とし穴』 2008年06月02日


■ 百夜百マンガ

青山剛昌短編集【青山剛昌短編集 】

 名探偵コナンはマガジンの金田一少年のヒットにあやかって始めた、というのは知りませんでした。個人的には「まじっく快斗」の続編くらいだと思ってましたので。

2009年4月27日 (月)

読書人の立場

■ 書籍情報

読書人の立場   【読書人の立場】(#1558)

  谷沢 永一
  価格: ¥ (税込)
  桜楓社(1977/10)

 本書は、関西大学で日本近代文学を担当する文学史研究者である著者が、「書物の収集、評価、整理、そういうことについて、平素どういうことを考えているか」を語ったものです。
 第1部「読書と読者の現代」では、資料集めにおける原則として、
(1)実際に研究に役立つ資料を集めることと、高い本は絶対に買わないこと。
(2)分かりきった本、誰もが知っている本、別に問題はないと思う本に本当に問題がないかどうかということをいつも気をつけて再検討すること。
の2点を挙げたうえで、「書物を集めること、或いは整理分類利用することについて」一番根本になるのは、「カンをつけること」だと述べています。
 そして、「現代は、探求の時代でもなく、論理の時代でもない。実に談義の時代である。言い換えれば輪唱の時代である」と述べ、「快刀乱麻を断つ考証及び肺腑をつく洞察が重んじられず、視点と語彙をかすかに少しずつ、ただずらしてゆくだけのガヤガヤ談義、ワイワイ雑談のみがはやる」と述べています。
 また、「読書の趣味が嵩じると、書物について書いた書物を渇望するようになる。いわゆる書物随筆の滋味をかみしめるようになって、はじめて一人前の読書人」だとした上で、「かつて書物が尊師として崇拝された頃、書物は人間の主食であり、最も重要な栄養補給源と信じられていた」が、「書物もまた現代では嗜好品となった。そのときの気分に応じて一寸つまむもの、退屈しのぎのお茶菓子である」と指摘しています。
 さらに、個人全集編纂における今後の最大の問題点として、「ひとりひとりの作家の個性及び活動形態に即し、批評研究上の問題状況をも睨み合わせ、どれを先とし何を後に回すかの採録選択の深慮である」と述べています。
 第2部「余白に書き込む」では、「司馬史観の源流」として、「彼の小説のひとつの中核をなす人間観察の視座に限って言えば、司馬史観の源流をなしているかもしれない我が国での伝統を探ることも、必ずしも不可能ではない」として、「明治期に独自の発達を遂げた文学ジャンルとしての、史論と人物論と政界批評とを打って一丸とした広義の人物評論」を挙げています。
 第3部「余情残心」では、「石橋湛山を経済評論家だと思っている人は、その先入見を直ちに払拭していただきたい」として、「湛山の論説は、当初から、その時々の思想、社会、政治の中心課題に及び、経済問題は狭義のエコノミストの観点からではなく、国家が進み行くべき進路の舵取り方式の中核として、遠大な構想の一環として立証されていた」と述べています。
 そして、「探偵小説の作家論及び作品論ほど労多くして功少ない仕事は珍しい。犯人もトリックも伏線も、作品を構成する肝心カナメの要素を具体的には何一つ読者に告げないで、しかも個別的な作品のできばえを納得ゆくよう論評する語り口を工夫せねばならぬ」とした上で、権田萬治の『日本探偵作家論』を紹介しています
 また、矢作勝美の『明朝活字』について、「字体と書体との区別」は、「字体の構成要素に、一貫したある種の傾向や特徴を持たせることによって、そこに創り出されるのが書体である」と述べ、「矢作勝美の問題意識が、すぐれて広がりを見せるのは、活字印刷の形態様式面での発展を、近代精神史の形成展開に対する分析視座に結び付けようと努めた考察の部分である」と述べています。
 本書は、本に向かい合う姿勢を問い直した一冊です。


■ 個人的な視点から

 1977年の本ということで、内容自体はそれほど古さを感じなかったのですが、さすがに「ムック」が増えている世相を嘆いた部分や書評部分には時代を感じさせました。


■ どんな人にオススメ?

・本にきちんと向き合いたい人。


■ 関連しそうな本

 ピエール・バイヤール (著), 大浦 康介 (翻訳) 『読んでいない本について堂々と語る方法』 2009年04月16日
 メアリアン・ウルフ (著), 小松 淳子 (翻訳) 『プルーストとイカ―読書は脳をどのように変えるのか?』 2009年02月28日
 モーティマー・J. アドラー, C.V. ドーレン (著), 外山 滋比古, 槇 未知子 (翻訳) 『本を読む本』 2006年07月02日
 立花 隆 『ぼくが読んだ面白い本・ダメな本 そしてぼくの大量読書術・驚異の速読術』 2006年07月16日
 加藤 周一 『読書術』 2006年07月23日
 中島 孝志 『インテリジェンス読書術―年3000冊読破する私の方法』 2009年03月31日


■ 百夜百マンガ

臼井儀人こねくしょん【臼井儀人こねくしょん 】

 「クレヨンしんちゃん」でブレイクする前の「だらくやストア物語」とかのメジャーではないけど小粒でクスリと笑わせる作品が結構好きでした。

2009年4月26日 (日)

ヒトラー・ユーゲント―青年運動から戦闘組織へ

■ 書籍情報

ヒトラー・ユーゲント―青年運動から戦闘組織へ   【ヒトラー・ユーゲント―青年運動から戦闘組織へ】(#1557)

  平井 正
  価格: ¥798 (税込)
  中央公論新社(2001/01)

 本書は、「20世紀最大の全体主義政党」であるナチ党の組織だったために、「他に類を見ない特異なシステムとなり、青少年組織の歴史に悪名をとどめること」になった「ヒトラー・ユーゲント」について、「当時のドイツの若者の現実に即した視点で、その展開過程を辿ろうと意図」したものです。
 第1章「青年運動から『ヒトラー・ユーゲント』へ」では、「ヒトラー・ユーゲント」が、枠組みとしては、「ヒトラーの意思に従属する青少年団体」だったが、「そのスタイルには、1896年頃に始まったドイツ独特の『青年運動』に由来する諸要素が、影響を残していた」と述べています。
 そしてバルドゥーア・フォン・シーラハについて、「一般に浸透している『ヒトラー・ユーゲント』のイメージを確立した人物だった」と述べ、彼が、「青年組織から発展した社会秩序を目指した限り」で、「『ワンダーフォーゲル』的青年運動より革新的だった」と述べ、彼とヒトラーとの「きわめて『個人的』な関係を触媒としているところに、『ヒトラー・ユーゲント』の『シーラハ=ヒトラー』二重構造の複合的性格がある」と指摘しています。
 第2章「シーラハと『ヒトラー・ユーゲント』」では、「ヒトラー・ユーゲント」全国指導者の地位を獲得したシーラハが、1932年に開催した「全国青少年集会」が、「ヒトラーの政権獲得前の、シーラハの活動の頂点だった」と述べています。
 そして、青少年組織としては少数派だった「ヒトラー・ユーゲント」が「小説や派手なパフォーマンスを通じて、一般市民にもアピールしていた」と述べています。
 第3章「国家ユーゲントへの道」では、「ヒトラー・ユーゲント」が「『青年運動』の歌やワンダーフォーゲルといった行動を真似てはいても、本質的には伝統的な『青年運動』とは異質な組織だった」と指摘しています。
 そして、1936年に「ヒトラー・ユーゲント」を「公式に国家組織とする法律が公布」されたことについて、「これは重大な変化であり、青少年組織のあり方の歴史における画期的な出来事だった」と述べています。
 第4章「『ヒトラー・ユーゲント』育成の道」では、「ヒトラーの権力掌握後の2年間は『ヒトラー・ユーゲント』は、敵をやっつけるのが主要な課題」だったが、「それに一段落すると、将来若者を何に従事させるかを決定することが、緊急の課題として浮上してきた」ことについて、「シーラハはヒトラーのような暴力的な人間ではなかった。軍事より文化を優先する気質の持ち主だった」と述べ、「ヒトラーはシーラハが、ユーゲントたちに『ドイツ』文化を理解させようと力を尽くしているのを見たとき、鷹揚に構えて好きなようにさせた。彼は若者たちが、彼の『ドイツ・ユーゲント』というイメージを目指して努力している限りは、満足していた」と述べています。
 第5章「戦時体制──『ヒトラー・ユーゲント』の崩壊」では、「平和時代の『ヒトラー・ユーゲント』体制は、戦争とともに完全に崩壊した」が、「その課題は増大した」として、「ユーゲント幹部の10人中9人は制服を国防軍の軍服に着替えた」と述べ、「シーラハはそれまで、外からの『ヒトラー・ユーゲント』への干渉を排除することに一所懸命だった。突撃隊という怪物と国防軍という怪物の間で、彼は長い間協調しながらも、自立性を保とうと手を尽くした」が、「今やヒトラーには、できるだけ早く、できるだけたくさんの兵士が必要となった」と述べています。
 そして、「ヒトラー・ユーゲント」師団が最後まで勇敢に戦った理由について、「『少年』兵にすぎない彼らには『戦闘』と『戦争』は別だということができなかったからであろう。子供だからこそ、『戦う』という作業に、一途に没頭したのだといえる」と述べています。
 そして、「ヒトラー・ユーゲント」育ての親シーラハが、「結局自分の運命をヒトラーに委ねた。しかし彼はヒトラー以上に、『ヒトラー・ユーゲント』と自分を同一化していた」と指摘しています。
 本書は、ナチの青年組織がどのように生まれ、どのように滅んでいったかを当時の若者、特にシーラハの視点から描いた一冊です。


■ 個人的な視点から

 藤子不二雄の「ひっとらぁ伯父サン」の話に出てくる「黒シャツ隊」のモデルがわかってすっきりしました。何となくナチスの青年組織という漠然としたイメージを持っていましたが、本書を読んだ上で藤子作品を読むと、また発見があるのではないかと思います。


■ どんな人にオススメ?

・漠然とナチスは一枚岩の全体主義組織だと思っている人。


■ 関連しそうな本

 B.R. ルイス (著), 大山 晶 (翻訳) 『ヒトラー・ユーゲント―第三帝国の若き戦士たち』
 フーベアト マイヤー (著), 向井 祐子 (翻訳), 三貴 雅智 『ヒットラー・ユーゲント―SS第12戦車師団史〈上〉』
 村瀬 興雄 『アドルフ・ヒトラー―「独裁者」出現の歴史的背景』
 村瀬 興雄 『ナチズム―ドイツ保守主義の一系譜』


■ 百夜百音

「ワルキューレ」【「ワルキューレ」】 オリジナル・サウンドトラック オリジナル盤発売: 2009

 それにしても、第二次大戦から何年経ってもヒトラーを悪役にした映画というのは後を断つことがありません。その意味ではフセインもビン・ラディンも足元にも及ばないのではないかと思います。

2009年4月25日 (土)

ゲーム理論を読みとく

■ 書籍情報

ゲーム理論を読みとく   【ゲーム理論を読みとく】(#1556)

  竹田 茂夫
  価格: ¥903 (税込)
  筑摩書房(2004/11/9)

 本書は、「防衛知識人たちのクリーンな言語体系が核戦争の被害者視点を排除してしまうように、ゲーム理論によって見えなくなるものもある」として、「ゲーム理論はどのようにわれわれの眼をふさいでしまうか、ゲーム理論に代わるべきものは何か」を論じたもので、著者は本書で、「ゲーム理論の解説、解剖、批判を試みる」としています。
 第1章「囚人の罠、ゲーム論の罠」では、「ゲーム理論には、社会的不合理と思われるものを説明する仕組みが囚人のジレンマ以外にはない」と指摘しています。
 そして、本書が、「人間の行動や社会制度を解明する道具としてみると、ゲーム理論は核心部分に重大な問題を抱えており、社会現象の分析や政策への性急な応用は重大な失敗を招く危険性があることを説明したい」と述べ、「ゲーム理論は、人間と社会にとって不可欠なもの、決して無視できないものを切り捨てることによって成立する理論なのだ」と述べています。
 第2章「計算する独房の理性」では、「自明な論点だが、ゲーム理論の教科書や解説書では明確に説明されていない論点」として、「ジレンマとは、だれにとってジレンマなのであろうか」と述べ、「ジレンマは、このゲームを『外側』から眺めている『われわれ』にとってのジレンマである」と指摘しています。
 第3章「冷戦とゲーム理論」では、「ゲーム理論が最初に本格的に応用されたのは、経済学の問題ではなく、冷戦におけるアメリカの軍事戦略の領域であった」として、「1950年代のゲーム理論研究は、ランド・コーポレーションというアメリカ空軍のシンクタンクの役割を果たした研究所の中で行われ、共通の語彙と理論を持つ軍事・防衛問題専門家の一団が形成されていく」と述べています。
 そして、キューブリック監督の「ドクラー・ストレンジラブ」の主人公について、「フォン・ノイマンとストレンジラブ博士との共通点は多い」として
・核兵器の専門家として権力の中枢に食い込んだ天才科学者、
・ランド・コーポレーション(映画では「ブランド・コーポレーション」)、
・コンピューターの力を利用することに喜びを感じ、
・車椅子に縛り付けられている
の4点を挙げ、「フォン・ノイマンが後世に残した3つの遺産──核弾頭ミサイル、ゲーム理論、コンピューターを結びつけて、アメリカ側の冷戦イデオロギーを作ったのはランド・コーポレーションの『防衛知識人』立ちである」と述べています。
 第4章「心の均衡」では、「ナッシュ均衡が成立するためには、ゲームのルール、プレーヤーの合理性、ナッシュ近郊の存在に関するプレーヤーの推測、この3つについての共通の知識が必要である」とするオーマンの議論の紹介したうえで、「共通知識の前提、つまり神の目(全知の観察者の立場)をプレーヤーもとることができるという非協力ゲームの前提」が、「神の見えざる手」と通じるものがあるとして、「ナッシュ均衡の『物理的』な核心は、神の見えざる手の現代的解釈であるワルラス・モデル(一般均衡論)と同じ」であり、「数学的には不動点定理と呼ばれる」と述べています。
 そして、非協力ゲームの理論は、「認識論の観点から言うと、共通の知識(知識演算子の不動点)を前提にして、プレーヤーの認識・行為の間の整合性(ナッシュ均衡)を証明する」ものであると述べています。
 第5章「交渉と対話」では、「全ての展開形の非協力ゲームに共通している」点として、「共通の知識、後ろからの帰納法(現在化)、仮設的交渉」という3つの特徴を指摘しています。
 第6章「進化ゲームと制度」では、「天下りのルールとプレーヤーの超合理性という2つの仮定」が「ゲーム理論の信憑性に大きな傷をつける」としたうえで、1990年代に「ゲーム理論がナッシュ・プログラムから進化ゲームに転向した理由」として、
(1)プレーヤーの合理性を追求していくと結局袋小路にはまってしまうというゲーム理論内部の事情。
(2)70年代以降、制度分析を棚上げにして普遍的な経済の論理を追及するといった従来の方法に関して反省が生じたこと。
(3)遺伝学におけるゲーム理論の「成功」。
の3点を挙げています。
 第7章「遊びの破壊力」では、「固定したルールにこだわらず、遊びに没頭して我を忘れ、展開の意外性を楽しむのが、本来の遊びである」として、「まるで悲惨な運命のように盲目的に突き進む進化ゲームに対して、本来の遊びは自由奔放さと開放感に満ちたものだ」とした上で、「シリコン・バレーを例にとって、アメリカのITバブルを遊びと模倣で説明」しようとしています。
 第8章「暴力の連続体」では、「暴力の連続体は、歴史的に形成された文化や制度に体化した憎悪や怒りであって、民族や国家によって喚起されるような潜在的な暴力」だとした上で、「ゲーム理論は、対立と協調の一般科学という登録商標にもかかわらず、さまざまな暴力の問題やその解決法を考えるにはもっとも不適切な理論である」と指摘し、「ゲーム理論は、人間の意図と行為と結果の果てしない絡み合いから、ある一段面だけを切り取って土俵を定め、その土俵の内側だけで完結したストーリーを組み立てようとする」と述べています。
 さらに、「ゲーム理論家には人間が抹殺される可能性を正面に据えて、殺人ゲームや戦争ゲームの理論を組み立てて欲しい」と述べ、「人命をコストとして、戦争の結果を利得として、戦争を戦略として考えるためには、兵士や戦争に巻き込まれる人々の立場に立つことは不可能であり、必然的に将軍や政治家をゲームのプレーヤーとしなければならない」と述べています。
 そして、「ゲーム理論では、自分自身を明らかにするような敵を見つけることはできない。かといって、連帯できる友人を作ることもできない」として、「社会理論というにはあまりに希薄な世界であり、ゲーム理論は過去にも未来にも何の展望も開かない」と述べています。
 本書は、ゲーム理論万能的な世相に警鐘を鳴らしたいとする一冊です。


■ 個人的な視点から

 本書はゲーム理論の理論書のような体裁をとっているのでそういうつもりで読み始める人が多いと思いますが、まずは7章と8章を先に読んでから1章以降を読み始めるかどうかを判断することをお勧めします。


■ どんな人にオススメ?

・ゲーム理論のいうことが信用できない人。


■ 関連しそうな本

 ウィリアム パウンドストーン 『囚人のジレンマ―フォン・ノイマンとゲームの理論』 2006年09月11日
 トーマス・シェリング (著), 河野 勝 (翻訳) 『紛争の戦略―ゲーム理論のエッセンス』 2008年12月07日
 マックス H・ベイザーマン (著), マーガレット A・ニール (著), 奥村 哲史 『マネジャーのための交渉の認知心理学―戦略的思考の処方箋』 2005年07月04日
 D・B・バラシュ (著), 桃井 緑美子 (翻訳) 『ゲーム理論の愉しみ方 得するための生き残り戦術』 2007年07月09日
 デイヴィッド バラシュ, ジュディス リプトン (著), 松田 和也 (翻訳) 『不倫のDNA―ヒトはなぜ浮気をするのか』 2007年08月04日
 鈴木 光男 『社会を展望するゲーム理論―若き研究者へのメッセージ』 2008年03月17日


■ 百夜百音

ヘッド博士の世界塔【ヘッド博士の世界塔】 Flipper's Guitar オリジナル盤発売: 1991

 当時のアルバムの中でこれが一番好きでした。このアルバムを最後に解散したことから、ダークだとも言われているようですが、当時のUKとかを考えると同世代的には全然違和感はなかったように思います。

2009年4月24日 (金)

雌と雄のある世界

■ 書籍情報

雌と雄のある世界   【雌と雄のある世界】(#1555)

  三井 恵津子
  価格: ¥735 (税込)
  集英社(2008/10/17)

 本書は、「分子細胞生物学や分子遺伝学、発生生物学の世界で今、どこまで研究が進み、何が明らかになってきたのかをiPS細胞やクローン技術など、最先端のトピックを織り交ぜながら分かりやすく解説」したものです。
 序章では、「雌と雄のある世界では一代ごとに遺伝子を混ぜ合わせ、多様性を作り出している」として、「それぞれの親から受け継いだ異なる性質を備えた個体で構成されている集団には、その中に環境の変化に耐えて生き残る可能性を持ったものがいる」が、「クローン生物となると遺伝子が皆同じだから、変化した環境に耐えられないものだと全滅してしまう」と述べています。
 第1章「個体は細胞の集合」では、「細胞を基準に展開する話は日常的な感覚では捉えにくい。大きさも、それらが活動する時間のスケールも、時には常識を超えている」とした上で、「太古から今に引継がれ、変化しながら発展し、どこまでも続いてゆくものこそ生命なのだ」と述べています。
 第2章「まったく異なる役割をもつ二種類の細胞」では、「個体を作り上げている細胞を大きく2種類に分けることができる」として、「雌と雄のある生物では、ゲノムを二そろい持っている細胞(二倍体)と一そろいしかもたない細胞(半数体または一倍体)の2種類の細胞が、一つの個体の中に同居している」とのベルとともに、「生物の体には行き続ける細胞(germ)と死ぬ細胞(soma)という二種類の細胞がある」と述べています。
 第3章「細胞分裂の仕方にも二種類」では、「雌と雄のある生物では二種類の細胞、体細胞と生殖細胞がある」と述べ、「体細胞はひたすら同じ遺伝情報を分かち合いながら分裂増殖し、生殖細胞は遺伝情報の多様性を作り出す」という違いが、「細胞分裂の仕方によっている」と述べています。
 第4章「すべてのもとは一つの細胞」では、「受精卵は、体細胞、生殖細胞すべてをつくり出す能力を持っている」ことを「分化全能性があると表現する」と解説した上で、「生命現象は、まだわからないことの方がはるかに多い」として、「わからないことが多いからこそ生きものは面白い」と述べています。
 第5章「雌と雄は、どのようにして出来るのか」では、まず、「雌になるか雄になるかは、卵と精子の性染色体がどちらもXで受精卵がXX型となると女性、XとYが組み合わさったXY型なら男性になる」とした上で、「つぎに、発生過程で、これらの染色体型に応じて生殖腺(生殖巣)の出来方に違いが出る」と述べています。
 また、「Y染色体は、かなりの速さで衰えていて、このままでゆくと10万年か20万年後には消えてしまうなどといわれている」ことを紹介しています。
 第6章「環境に左右される性」では、「魚類、両生類、爬虫類の性は、受精による染色体型に基づいて遺伝的に決定されているはずなのに、その後の環境によって雌になったり雄になったり、性転換が起こる」と述べ、「内分泌撹乱化学物質が自然のホルモン作用を乱してサカナの性決定に影響を及ぼすこと」の例として、ヒラメが環境ホルモンに反応して雌になるケースを紹介しています。
 第8章「植物は植物」では、「植物は、雌と雄のある有性生殖でも増えるが、動物とはかなり様相が異なる」と述べ、「動物では受精の機会が訪れるまで、一倍体の卵や精子が単独で存在することはない」として、「動物では、発生のごく初期に生殖細胞が隔離・決定されるが、植物では、生殖細胞は最終段階で決定される」と述べています。
 第9章「細胞分裂の制御」では、「線状染色体の末端には、テロメア(telomere)と呼ばれる特殊な構造がある」として、「複製のたびにDNAの末端が短くなるという現象を1972年にワトソンが指摘した」ことを紹介しています。
 第10章「細胞の死と個体の死」では、「死すべき細胞が死ぬときには、アポトーシス(apoptosis)という現象が関わる」として、「組織が損傷したときに起こるネクローシス(necrosis)とは違う秩序ある細胞の死に方である」と述べています。
 終章では、「人類すべてのものであるはずの遺伝子組み換え技術が、一部の人間の利益に利用される場合が問題」だとして、モンサント社が開発した除草剤に耐性を持つダイズの例などを紹介しています。
 また、「自然が作り出したものの方が、人間の技術で作り出したものより良いなどと誰が言えるのか」と述べています。
 本書は、「雌と雄のある世界」の面白さの一端を教えてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 遺伝子の多様性の話は面白いのですが、本書のタイトルは売れることを狙った感じで狙いすぎという面もあるのではないでしょうか。せっかく面白い話なのにもったいない気がします。


■ どんな人にオススメ?

・遺伝子の多様な仕組みを知りたい人。


■ 関連しそうな本

 ブライアン サイクス (著), 大野 晶子 (翻訳) 『イヴの七人の娘たち』 2006年06月24日
 リチャード・ドーキンス (著), 日高 敏隆, 岸 由二, 羽田 節子, 垂水 雄二 (翻訳) 『利己的な遺伝子』 2006年09月26日
 スティーヴン・ジェイ グールド 『ワンダフル・ライフ―バージェス頁岩と生物進化の物語』 2007年03月03日
 アンドリュー・パーカー (著), 渡辺 政隆, 今西 康子 (翻訳) 『眼の誕生――カンブリア紀大進化の謎を解く』 2007年08月18日
 シャロン・モアレム, ジョナサン・プリンス (著), 矢野 真千子 (翻訳) 『迷惑な進化―病気の遺伝子はどこから来たのか』 2008年07月21日
 ランドルフ・M. ネシー, ジョージ・C. ウィリアムズ (著), 長谷川 真理子, 青木 千里, 長谷川 寿一 (翻訳) 『病気はなぜ、あるのか―進化医学による新しい理解』 2009年01月29日


■ 百夜百マンガ

オートバイ少女【オートバイ少女 】

 『ガロ』の全盛期を支えた代表的な作家さん。あがた森魚、つげ義春などが好きな人ならマストアイテム。

2009年4月23日 (木)

あったかもしれない日本―幻の都市建築史

■ 書籍情報

あったかもしれない日本―幻の都市建築史   【あったかもしれない日本―幻の都市建築史】(#1554)

  橋爪 紳也
  価格: ¥2310 (税込)
  紀伊國屋書店(2005/11)

 本書は、「明治以降に限っても、途方もない開発プロジェクトや画期的に美しい建造物の提案など、あまたの『構想』が示されてきた」中で、「幻のままに潰えた都市計画や開発構想、提案だけにとどまった建築物の設計案など」を蘇生させたものです。
 第1部「近代化への情熱」では、明治期にプロシアから招聘されたヘルマン・エンデとヴィルヘルム・ベックマンによる「バロック風の首都計画」について、「真に壮麗であった。もしこの姿がそのままに実現していれば、パリと比べうる美観で、東京の名は世界に知れたことだろう」が、「あまりにも気宇壮大であり、東京の現状を大幅に変えてしまうため、当時の経済力ではとても実現できそうになかった」と述べています。
 そして、「明治中期の東京で描かれた官庁集中計画、そして昭和のはじめに大阪で語られた『シビックセンター』の構想」が、「いずれも夢物語に終わった」が、「双方のデザインには、時代の気分が反映されている」とした上で、「駅前に公共建築を集め、壮麗な都市景観を出現させる」構想は、「日本の大都市では現前化するに至らない」と述べ、都市建築家達の夢は、「大陸の新天地でこそ追い求め続けられていった」としています。
 第2部「郊外の発見」では、現在、甲子園球場と呼ばれる土地が、開発段階では、「紅洲大競技場」と名づけられていたことについて、「『紅洲』と書いて『ベニス』と読むのが適切だと推測する」と述べ、「阪神間の海浜リゾート地にベニスのイメージを重ねた」理由について、「甲子園の最初のプランナーである設楽貞雄は、またのちに社長となる野田誠三など阪神の事業担当者は、アメリカ人たちが抱いた『イタリアへの憧れ』をそのままに、日本に輸入しようとしたのではないか」と述べ、「今日のテーマパークに通じる発想が、すでに大正時代には、アメリカから輸入されていた」ことを指摘しています。
 そして、「戦前期には各住宅地に『健康』という大きな主題が与えられていた。環境の悪化した都市からの避難をはかる、比較的富裕な都市住民の理想郷たることを想定していたからだ」と述べた上で、「新聞社とデベロッパー、そして建築家達が、『まず健康』の旗印のもとに手を携えて、『中流』の人々の住まいを改善しようとした」と述べ、「昭和初期、数多くの実験的な『健康住宅』が提案された」ことを紹介しています。
 第3部「祝祭の帝都」では、「文明開化のご時勢にあって各地で行われた博覧会」について、「賞品を並べて競い合わせる勧業事業という側面があった」が、「往時の人々は、物産会の類を学習の場とすると同時に、珍しい品々を見ることができる楽しみの機会と理解していた」と述べ、「『博覧会』という催事は、開化の新風俗としてもてはやされたようだ」と述べています。
 また、戦前の東京オリンピック開催について、「五輪招致には帝都全体の『繁栄策』という認識もあった」とした上で、「主たる競技場の建設位置は、埋立地の開発を重視する東京市にあっては重要な課題であった」ため、第15代牛塚虎太郎市長は、「あくまでも月島案に固執した」と述べています。
 第4章「大東亜のデザイン」では、「建築家及び建築業界の関心は大陸に向けられた」とした上で、「『大東亜』の様式を求める想いは、いっぽうで『日本』的なる物への確認を促した」と述べ、「その志は建築や記念建造物群の水準を超えて、都市のありようにも向けられる」として、都市計画家石川栄耀が、「生命論に基礎付けられた小都市を出発点とし、これにいかに大都市のような『文化的価値』を付与できるのか」という「大小都市」という形容を提唱したことを紹介しています。
 第5部「歴史に書かれない戦後」では、「戦災によって破壊された都市をいかに復興するのか、まず課題となったのが住宅である」とした上で、「建築家達の多くはモダニズムのデザインを広めよう」として、「その契機として、公共的な建築物の競技設計を活用しようとする考えがあった」と述べています。
 また、「国が行った戦後の三大コンペ」として、国立劇場、京都国立国際会館、最高裁判所の競技設計の3点を挙げ、「いずれもが『国家的』な建造物であるというだけではなく、その試みを通じて競技設計という仕組みの水準が高まった点に意義が見出される」と述べたうえで、審査の「まえがき」にある「品位と重厚さ」というキーワードが「建築家達を悩ませ、多くの質問が寄せられた」と述べています。
 そして、「国家的建造物のデザインにあって、繰り返し『伝統』をめぐる解釈と表現の方法論が議論され、提案され、実際の造作に表されてきた」と述べています。
 本書は、現在とは違う日本の姿に思いをはせる手助けをしてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 東京の都市計画が、常に現実に動いている都市機能を止めるわけには行かないという制約を受けていて、一方で、まっさらになった関東大震災と第二次世界大戦のときは住宅不足でバラックが立ち並ぶという現実に制約を受けているのに対し、何もないところに一から都市を作り上げるような満洲などの例では都市建築家は相当な野望を実現しようとしたのではないかと思います。


■ どんな人にオススメ?

・もう一つ以上の日本の姿を目にしたい人。


■ 関連しそうな本

 青木 栄一 『鉄道忌避伝説の謎―汽車が来た町、来なかった町』 2007年07月18日
 猪瀬 直樹 『土地の神話―東急王国の誕生』 2006年07月21日
 猪瀬 直樹 『ミカドの肖像』 2006年08月02日
 原田 勝正 『鉄道と近代化』 2007年11月30日
 成美堂出版編集部, 野島 博之 『昭和史の地図―昭和の始まりから太平洋戦争、高度成長時代まで46テーマ収録』
 西牟田 靖 『僕の見た「大日本帝国」―教わらなかった歴史と出会う旅』


■ 百夜百マンガ

剣客商売【剣客商売 】

 いよいよ時代小説の客層もマンガを読むようになったかと。というか、これでほぼ現役世代は全てマンガ世代になったともいえます。

2009年4月22日 (水)

政党崩壊―永田町の失われた十年

■ 書籍情報

政党崩壊―永田町の失われた十年   【政党崩壊―永田町の失われた十年】(#1553)

  伊藤 惇夫
  価格: ¥714 (税込)
  新潮社(2003/07)

 本書は、自民党、新進、太陽、民政、民主という5つの政党の事務局を経験した著者が、「政治に深い不信感を抱く多くの人たちや、関心を持つ機会さえ失ってしまった人たちに、この10年の政治の動きの『なぜ』『どうして』を少しでも知ってもらうことができれば、同時にそれが新しい政治の幕開けに、ほんのわずかでもヒントを与えられるのなら」という考えで著したものです。
 第1章「政治改革が残したもの」では、89年当時、党、国会、選挙制度、政治資金制度の4つの改革を柱とした政治改革がスタートしたことについて、「当時の自民党内の熱気はかなりのものだった。それだけに『あの時の「最初のボタン」の掛け違いが、本当の政治改革を進める絶好のチャンスを失わせたのではないか」との思いを述べています。
 そして、政治改革が現実に成果を挙げられなかった理由として、「自民党が追い詰められ、思考停止状態に陥っていたあの状況こそ、本当の改革を実現する千載一遇のチャンスだったかもしれない」と述べています。
 第2章「五五年体制崩壊と細川政権」では、細川、羽田の両政権について回る「非自民」という言葉について、「当事者が使ったとたんに、この言葉はきわめて重い意味を持ってくる」として、「『自民』がついている限り、その呪縛から逃れることはできない」として、「非自民連立政権は、つまるところ『非自民』を捨てられなかったことで、つかの間の夢に終わったといえるだろう」と述べています。
 第3章「自民党の救世主・社会党」では、「五五年体制下、国会が単なる『セレモニー』の場と化す一方で、自社の『談合政治』の主舞台となったのが国対である」として、「自社の国対族の癒着はマスコミも含め、公然の秘密だったが、ほとんど公になることはなかった」と述べています。
 そして、自社が連立を組んだ背景として、「変化に対する恐怖」という両党の利害の一致を指摘し、「住み分けに安住しているものにとって、何より大事なのは既成の構造であり、秩序である」として、「ある意味で両党の生活防衛から出たもの」ではないかと述べています。
 また、自社さ政権が残したものとして、「国民が政治に直接関与できる唯一の機会である選挙を無意味にしてしまったこと」だとして、「自社さ政権が、政治の世界の『モラルハザード』を体現した政権だった」と述べています。
 第4章「新進党の実験と失敗」では、新進党を「戦後政治史の中でも最大の『実験』」だとした上で、96年総選挙での敗因について、「小澤大半小沢という党内の深い亀裂が、一丸となった選挙を葉版多古と」を指摘し、「一時は『自民党に替わりうる政党』という期待すらもたれた新進党はたった3年で、その生涯を終えた」と述べています。
 そして、「合併型の新党が成功するためには、結党時の情熱が冷めず、新鮮さから来る期待感が国民に残っているうちに、明確な目標(政権獲得)を一定レベルまで達成してしまうことが必要だ」と述べたうえで、「確かに小沢は大きな絵図が描ける政治家であり、政策・理念を真正面に掲げ、摩擦を恐れずに突き進む稀有な存在でもある」が、「小沢が新進党の運営で見せた特徴的な傾向は、抜きがたい『派閥意識』だった」と指摘しています。
 第5章「迷走・民主と雑食・自民」では、「93年6月の自民党分裂から始まった政界の激動、その先頭には常に小沢が立っていた。自民党中心の政治構造が変わるかもしれないという思いを具現化するための象徴が小沢でもあった」としながらも、「自民党の連立政権参加を決断した小沢の頭の中には、おそらくさまざまな戦略、野望が渦巻いていたはず」にもかかわらず、「結果から見れば小沢は自民党の危機を救った上で、『使い捨て』にされたことになる」と述べています。
 第6章「小泉政権、そして……」では、「民主党は人事の面から見ると、不思議な政党である」として、「功績をあげたものが次々と排除されていく」として、菅、羽田、熊谷などの「逆信賞必罰」によって、「自らを弱体化していった」と述べています。
 そして、自民党が自社さ政権樹立に踏み切った瞬間に、「過去と訣別し、新たな状況に適応するために大胆な『変身』を遂げた」として、「好みの食事にしか手を出さない贅沢な『偏食動物』から、生存のためにはどんな食物でも、時には毒にでも手を出し、強靭な胃袋で消化してしまう『雑食動物』へのメタモルフォーゼである」と指摘しています。
 終章「政党とは」では、「この十年、政治は大きく揺れ動いたように見える」が、「非自民政権が存在したのは当初の十ヶ月だけ」だとして、「実は『主役』はそのままに、『脇役』だけが入れ替わったというのが、実態である」と述べています。
 本書は、複雑で分かりにくい90年代の数々の新党設立を当事者の目から描いた一冊です。


■ 個人的な視点から

 90年代の政党は入れ替わりが激しいのでよく分からないのですが、本書に収められている「主要政党離合集散チャート」は、分かりやすいのかもしれません。
 つい「離合集散」ではなく、「烏合離散」という言葉が浮かんでしまいました。イメージとは恐ろしいものです。


■ どんな人にオススメ?

・90年代の政党の関係を理解したい人。


■ 関連しそうな本

 竹中 治堅 『首相支配-日本政治の変貌』 2006年12月26日
 塩田潮 『民主党の研究』 2008年10月21日
 読売新聞政治部 『自民党を壊した男小泉政権1500日の真実』 2006年03月14日
 大嶽 秀夫 『政界再編の研究―新選挙制度による総選挙』 2006年12月28日
 飯尾 潤 『政局から政策へ―日本政治の成熟と転換』 2008年08月28日


■ 百夜百マンガ

サイコドクター楷恭介【サイコドクター楷恭介 】

 小説やドラマの世界では心理学モノは一定のファンがいるのかよく登場するテーマです。とはいえ、次々に珍しい症状が飛び込んでくることはありえないと思いますが。

2009年4月21日 (火)

モンスターペアレントの正体―クレーマー化する親たち

■ 書籍情報

モンスターペアレントの正体―クレーマー化する親たち   【モンスターペアレントの正体―クレーマー化する親たち】(#1552)

  山脇 由貴子
  価格: ¥1365 (税込)
  中央法規出版(2008/03)

 本書は、「学校が運営を脅かされないためのモンスターペアレントへの対処方法を具体的に提案すると同時に、学校と『モンスターペアレント』とが敵対する形では終わらないようにする方法、そして将来的に、モンスターペアレントがなくなってゆき、再び、教師が生徒が、保護者が、安心できる学校をどのようにつくってゆけるか、たがいを信頼できる関係をどう再構築するか」を提案するものです。
 序章「モンスターはある日突然やってくる」では、架空のクレーマー対応の例を紹介し、
・クレーマートは絶対に二人きりで話をしてはいけない。
・苦情を言われた教師は、すぐに校長を含めた他の教師に相談しなくてはならない。
など、苦情対応の間違いを指摘しています。
 第1章「モンスターペアレントに振り回される学校」では、「保護者たちの学校に対する要求は年々多くなり、高くなるばかりである。そしてその要求にこたえないと、学校、教師に対する苦情が出される」として、「無理難題の要求と苦情を繰り返す、学校、教師に対する強烈なクレーマー保護者は、モンスターペアレントと呼ばれるようになってきている」と述べています。
 そして、「つかれきった教師たちの中にはバーンアウトしてしまったり、うつ状態になって休職せざるを得なくなったり、自ら辞める選択をする教師が増えてきている」と述べています。
 第2章「保護者の側の苦悩」では、「わが子がトラブルの加害者、被害者にならなければ良い」という気持ちが強くなると同時に、「防衛心が強く」なった結果、「たとえ、わが子が問題を起こしたとしても、悪いのはうちの子だとは、言われたくない。認めたくない。認めてなるものか。認めたら負けだ」と考えた結果、「全てを他人のせいにしようとする」と述べています。
 第2章「保護者の側の苦悩」では、「こんなに家族のために頑張っているのに、誰もわかってくれない。感謝してくれない」という思いが家族の中に蓄積してくると述べています。
 第3章「学校と保護者の影響に疲弊する子どもたち」では、「子どもたちの友人関係には、親の競争意識というものも影響を与えている」として、「現代の親たちは、そう簡単には他の子の能力を認めない」と述べ、「他の子に負けることが赦されない子どもたちは、誉められることなどほとんどないまま、戦うことを余儀なくされている」と指摘しています。
 そして、子どもが大人を信頼できない理由として、
(1)子どもは「大人は嘘をつく」と感じていること。
(2)子どもたちが周囲の大人を尊敬できない、好きになれないこと。
の2点を挙げ、「信頼できる人がいない、というのは孤独と戦うということである」と述べています。
 第4章「何故モンスターペアレントが生まれたのか」では、モンスターペアレントには、
(1)あくまでも「うちの子さえ良ければ」という保護者の延長
(2)病的なモンスターペアレント
の2種類があるとして、モンスターペアレントが増えてきた原因として、「学校と保護者間のコミュニケーションの減少」を挙げています。
 そして、「保護者と教師が『支払う側』と『支払われる側』に、親たちによって分類されてしまったことにより、学校も徐々にサービス産業となりつつある」として、「自分たちを『支払う側』と位置づけた親たちの、学校に対する役割意識は希薄化する」と述べています。
 第5章「病的なモンスターペアレントへの対応」では、具体的な病的なモンスターペアレントへの対応方法について解説しています。
 そして、「誤れば許してやる」というクレーマーの言葉は、「誤らせる、すなわち非を認めさせて、自己の主張を正当化させ、主導権を握るため」のものであり、「絶対に信じてはいけない」と述べています。
 また、「訴えてやる」「マスコミに言う」「議員(大臣)を知っている」というクレーマーの常套句には、「全くおびえる必要はない」として、「彼らは自分たちがいっていることなど、誰も取り合ってくれない荒唐無稽な内容であることを良く知っている」と述べています。
 第6章「モンスターペアレントを生み出さないために」では、「子どもを協力して一緒に育てていく、という共通の目標をもち、学校運営は教師たちだけが行うのではなく、教師と保護者でともに学校を運営していくのだ」と述べ、特定の保護者からの「うちの子だけは特別扱いしろ」という要求に対しては、「次の保護者会で保護者全員で話し合い差いましょう」とする回答例を紹介しています。
 本書は、「モンスターペアレント」がどのように生み出されるかを、自らの相談経験を元に簡潔にまとめた一冊です。


■ 個人的な視点から

 「モンスターペアレント」という言葉が出てくると、その名の通り「怪物」に対する対応策ばかりに目がいってしまいますが、モンスターにならざるを得なくなった保護者の状況にも目を向け、Win-Winの前向きな解決策をめざしているのは嬉しいところです。


■ どんな人にオススメ?

・自分もモンスターペアレントになる可能性のある人。


■ 関連しそうな本

 嶋崎 政男 『学校崩壊と理不尽クレーム』 2009年03月08日
 本間 正人 『モンスターペアレント―ムチャをねじ込む親たち』
 諸富 祥彦 『モンスターペアレント!?―親バカとバカ親は紙一重』
 嶋崎 政男 『"困った親"への対応―こんなとき、どうする?』
 多賀 幹子 『親たちの暴走 日米英のモンスターペアレント』
 小野田 正利 『親はモンスターじゃない!―イチャモンはつながるチャンスだ』


■ 百夜百マンガ

レモンエンジェル【レモンエンジェル 】

 内容は青年誌向けですが、絵は正統派というか手塚門下生ならではという感じが色濃いです。

2009年4月20日 (月)

クジラは誰のものか

■ 書籍情報

クジラは誰のものか   【クジラは誰のものか】(#1551)

  秋道 智彌
  価格: ¥777 (税込)
  筑摩書房(2009/01)

 本書は、「どうしても感情的になりやすいクジラ問題を、改めて歴史的、文化的、地球環境的、経済的に整理」し、「人類とクジラのあるべき将来像を考察」したものです。
 序章「クジラと人間」では、「クジラを獲ることや食べることは時代錯誤」だとする反捕鯨派に対し、「クジラを適切に利用することができなければ、地球を救えない」と述べています。
 そして、現代の捕鯨・反捕鯨に関する論争に対し、
(1)文化を相対的に見る立場からは何が提起できるか。
(2)クジラは地球全体にとっての共有財産とみなすことができるか。
の2点を問題提起しています。
 第1章「クジラの浜」では、「クジラと人間とのかかわりは多様である」として、「クジラと人間のかかわりは、地域ごと、浜ごとに大変異なった様相を持つ」と述べています。
 第2章「クジラの経済学」では、「クジラと人間とのかかわりについて考える最大のポイント」として、「クジラを消費するのか、あるいは消費しないのか」という点を挙げた上で、「鯨汁」や「クジラのタレ」など、「全国各地に多様な鯨食習慣が分布している」と述べています。
 そして、「数千年の伝統をもつ鯨食の食文化がわずか20年ほどの変化で消滅しつつあるとしたら悲しいことだ」と述べています。
 第3章「クジラと日本文化」では、「日本のクジラ文化についての知見を周辺世界の事例と比較しながら、捕鯨の技術史とクジラ観に絞って検討」するとしています。
 そして、「鯨塚、鯨慰霊碑、鯨墓など、人間が鯨の恩恵を受けたことへの感謝の念、鯨の霊への弔い、憐れみの情念とともに、大量祈願、公開安全など、海で働く漁民の願いを込めるなどきっかけはさまざまであり、鯨と人間とのかかわりを捕鯨=鯨の死=鯨墓と単純化して考えるべきではない」と述べています。
 第4章「クジラと政治」では、クジラと人間の関係性について、
(1)地球上における生物の進化に着目する考え方
(2)人間はクジラを食料や道具、工業製品の原料などとして利用してきた歴史を持つ。
(3)クジラと人間との多様なかかわりはさまざまな範疇で類別化することができる。
の基本的な考えを示しています。
 そして、「ニューヨークやロンドンのエコロジストがアームチェアに座りながら、いかに格好良く生物の多様性保護を主張したところで、地球で環境の保護と開発の狭間で問題を抱えている住民を本当に説得することはできない」と述べています。
 第5章「クジラとコモンズ」では、人間が、「海洋空間に縄張りを主張して、本来誰のものでもない海洋生物を排他的に利用しようとしてきた」として、「高度回遊性のクジラ・イルカ類を捕獲しようとする際、地域間、国家間で利用権をめぐる利害対立が生じる」と述べています。
 第6章「クジラと人間の好ましい共存とは」では、「イルカと遊ぶドルフィン・スイムの体験者と、捕鯨でクジラを仕留める捕鯨者とは全く違いにいるようなものの、体験という共通項で両者はどこかで共有できるものを持っているはずだ」と述べています。
 そして、「人間とクジラはともに哺乳動物であるが生活領域は異なる」ため、「陸を活動の基礎とする人間と海洋に適応したクジラとではそもそも共生という用語を使うこと自体が問題となる」と指摘し、「捕鯨に反対する勢力と世論に対して、この先、敢然と立ち向かう決意を持って捕鯨再開を目指すスタンスは保持すべきである」と述べています。
 本書は、クジラと人間のかかわりを振り返りながら、捕鯨再開を主張した一冊です。


■ 個人的な視点から

 クジラの問題を小さいスペースに網羅的に並べたため、本格的に調べようとすると物足りない点が多いかもしれませんが、まず全体像を知るためには読みやすい分量ではないかと思います。


■ どんな人にオススメ?

・クジラ問題の全体像を知りたい人。


■ 関連しそうな本

 駒村 吉重 『煙る鯨影』 2008年09月15日
 渡邊 洋之 『捕鯨問題の歴史社会学―近現代日本におけるクジラと人間』 2008年01月31日
  『鯨類生態学読本』
 小松 正之 『クジラと日本人―食べてこそ共存できる人間と海の関係』
 小松 正之, 日本水産学会 『よくわかるクジラ論争―捕鯨の未来をひらく』
 大隅 清治 『クジラと日本人』


■ 百夜百マンガ

独裁君【独裁君 】

 表紙の人はイメージどおりのふてぶてしいヤバイ感じを醸し出していますが、先日の映像ではすっかり痩せてしまって別の意味でヤバイ感じを発していました。

2009年4月19日 (日)

原発・正力・CIA―機密文書で読む昭和裏面史

■ 書籍情報

原発・正力・CIA―機密文書で読む昭和裏面史   【原発・正力・CIA―機密文書で読む昭和裏面史】(#1550)

  有馬 哲夫
  価格: ¥756 (税込)
  新潮社(2008/02)

 本書は、アメリカの公文書館などでCIAなどの機密文書を解読してきた著者が、「日本の原子力発電導入にまつわる連鎖をできるかぎり詳細に」たどったものです。著者は、ノーチラス号の進水から始まった連鎖が、第5福竜丸事件を経て、日本の原子力導入、ディズニーの科学映画『わが友原子力』の放映、東京ディズニーランド建設絵と続き、「その連鎖の一方の主役が正力であり、もう一方の主役がCIAを代表とするアメリカの情報機関、そしてアメリカ政府であった」と述べています。
 第1章「なぜ正力が原子力だったのか」では、「正力の壮大な計画が挫折しそうになったとき、それと同時に大いなる政治的野望が芽生えたとき、たまたまそこにあったの原子力だった」と述べ、アメリカの情報機関が、「第5福竜丸事件以来大変な窮地に追い込まれており、日本の反原子力・反米世論の高まりを沈静化させるために必死になっているという情報」を得た正力が、「自分が手を挙げさえすれば、アメリカ側の強力な支援が得られ、『原子力の父』になれるという感触を得た」ことで、この切り札を使って「何とか総理大臣になろうと執念を燃やす」と述べています。
 第2章「政治カードとしての原子力」では、「日が九国の日本で原子力の研究開発を進めることは容易ではない」ため、「このような姿勢を変えるとすれば、メディアの力が必要だった」うえ、「アメリカの援助なしに原子力の研究開発を進めることは難しかった」ことから、「メディアとアメリカ・コネクションを持った」正力が浮かび上がったと述べています。
 そして、正力が手にした原子力カードが、「政治的にも大きな利用価値を持っていることに気づくのにそれほど時間はかからなかった」として、「原子力平和利用推進は正力にとってまさしく夢を現実にする魔法の切り札だったのだ」と述べています。
 第3章「正力とCIAの同床異夢」では、1955年の読売新聞の原子力キャンペーンについて、「当時の人々がほとんど知らなかった原子力平和利用というテーマについて認知させ、それが重要な政策課題だと思わせる効果があった」と述べています。
 そして、アメリカからの「原子力平和利用使節団」の来日に合わせて、彼らの日本での講演会の受け皿作りとして、「原子力平和利用懇談会」を設け、この目的について、CIAは、
(1)原子力の平和利用を真剣に考えていること。
(2)それについて日本人が何かできろいうこと
を確信させることを目的として、正力は、
(1)これによって財界人を取りまとめ、自分を支援させること
(2)懇談会の会長として原子力発電導入に関して自分が先頭に立って動いていることをアメリカに、そして国内にアピールすること。
(3)これと関連してライバル緒方竹虎から原子力カードを奪うこと。
の3点を目標としていたと述べています。
 第4章「博覧会で世論を変えよ」では、「反日本共産党工作」のプロデュースや「重要なターゲットに対する諜報」に対する「数千の(讀賣)記者のマンパワー」の提供などで、「正力はCIAに協力した」と述べています。
 第5章「動力炉で総理の椅子を引き寄せろ」では、「CIAは決して正力を騙したわけではなかった」が、「総理大臣の椅子を目前にしていると思っている正力が相手のメッセージをしっかり受け止めなかっただけだ。いや、受け止めるわけにはいかなかったのだ」と述べています。
 第6章「ついに対決した正力とCIA」では、「正力は行動の人で、この問題を科学的に考えて、慎重にことを進めつどういう辛抱ができない。だから、より慎重なアプローチを取るべきだと述べています。
 第8章「ニュー・メディアとCIA」では、東京ディディズニーランドについて、「巨大広告スペースという面も持つこのテーマパークには、テレビと同じくプロパガンダのメディアという側面がある」として、「刷り込まれるものは親米・反共プロパガンダというよりもアメリカ的生活様式・消費になっていた」と述べています。
 本書は、日本の原子力が、どのような思惑の元で導入されたのかを海外資料をもとに解説してくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 CIAって映画や小説の世界というイメージがあってほとんどMIBと区別も付かないほどですが、ちゃんと公文書館で事実が明らかになることはやはり有益だと思うのです。


■ どんな人にオススメ?

・日本で「原子力」がどのような文脈で語られているかを理解したい人。


■ 関連しそうな本

 春名 幹男 『秘密のファイル(上) CIAの対日工作』 2006年08月24日
 春名 幹男 『秘密のファイル(下) CIAの対日工作』 2006年08月25日
 有馬 哲夫 『日本テレビとCIA 発掘された「正力ファイル」』
 有馬 哲夫 『昭和史を動かしたアメリカ情報機関』
 岩川 隆 『日本の地下人脈―戦後をつくった陰の男たち』
 畠山 清行 『何も知らなかった日本人―戦後謀略事件の真相』


■ 百夜百音

一触即発【一触即発】 四人囃子 オリジナル盤発売: 1974

 日本ではある種の畏敬の念を持って言及されるプログレバンド。メンバーが個人でもプロデューサーとして活躍している理由も分かる気がします。

2009年4月18日 (土)

ダメなものは、タメになる テレビやゲームは頭を良くしている

■ 書籍情報

ダメなものは、タメになる テレビやゲームは頭を良くしている   【ダメなものは、タメになる テレビやゲームは頭を良くしている】(#1549)

  スティーブン・ジョンソン (著), 乙部 一郎, 山形 浩生, 守岡 桜
  価格: ¥1890 (税込)
  翔泳社(2006/10/4)

 本書は、ポピュラー文化が「平均としてみれば、過去30年にわたりますます複雑になり知的な要求度も高まった」として、「システム分析、確率理論、パターン認識、そして──驚くなかれ──昔ながらの忍耐力が、現代のポピュラー文化理解にとって不可欠なツールとなった」ことを解説しているものです。
 著者は、「通常は低俗きわまるクズとして黙殺されているエンターテインメントに没頭するにつれて、ポピュラーは着実に、だがほとんど気が付かない形で、ぼくらの心をシャープにしてくれる」という情報トレンドを「スリーパー曲線」と名づけています。
 第1部第1章「ゲーム」では、「ゲームのとりこになると、ほとんどの場合あなたをひきつける」のは、「次に何があるかを見たい」という「基本的な欲求だ」として、「報酬が明示され、それが環境を探索すると手に入るようなシステムを築けば、たとえそれが仮想上のキャラクターと人工の歩道でできていても、人間の脳はそのシステムにひきつけられる」と述べています。
 そして、「ゲームというのは、本や映画や音楽に比べてはるかに決断を要求する」として、こうした決定そのものが、「ゲームをプレイする際の付随的な学習の鍵」である、
(1)調査(プロービング):調査、仮説立案、再調査、再考の4つのプロセスからなるサイクル。
(2)テレスコーピング:関連のない複数の目的の混沌とした流れを扱う能力。
という2種類の知的労働に基づいていると述べています。
 また、テレビゲームの体験における付随学習は「はるかに大きな報酬をもたらす」として、「難解な上に刻々と変化する状況において調査し、テレスコーピングする能力」を挙げ、「重要なのはプレイヤーの考える内容ではなく、その考え方なのだ」と述べています。
 第2章「テレビ」では、過去50年間にテレビ番組が、「注意、忍耐、記憶、物語の筋の分析」という「知能に対する要求を着実に伸ばしてきた」として、その複雑さには、
(1)マルチスレッド:複数のストーリーが同時に進行する。
(2)点滅矢印:何が起こっているか観客が把握できるように、物語の中に都合よく据えつけられた道標のようなものだが、過去20年間にストーリーは爆発的に増えたのに、点滅矢印は逆にずいぶん減ってしまった。
(3)社会的ネットワーク:現在の人気テレビドラマの多くは込み入った人間関係を特徴とし、画面上で怒っていることを理解するには、集中と観察が必要だ。
の3つの要素が含まれると述べています。
 また、「リアリティ番組」について、「その形式が間違いなくテレビゲームのような構造を持っている」と述べています。
 第3章「インターネット」では、「スリーパー曲線のパズルに欠かせないもう一つのピース」としてインターネットを挙げ、「他のメディアの高い複雑な番組を維持する助けとなる手だてを提供してくれる」だけでなく、「ネットワークを介したコミュニケーションという新たな現実に慣れるプロセスが、人の脳に有益な影響を及ぼしてきたからだ」と述べるとともに、「新しいプラットフォームとソフトウェアの加速度的な進展は、ユーザーに新しい環境の調査と習得を強制する」と述べています。
 第4章「映画」では、「最近の映画において、もっとも重大な変化が起こったのは構造面だ」として、「映画の複雑さが実際に激増している例」を見るには、「中程度の成功を収めた作品に目を向ける必要がある」と述べています。
 そして、映画の世界ではスリーパー曲線が映画の世界では横ばいな理由として、
(1)物語性のある映画はテレビやゲームに比べて古いジャンルであること。
(2)スリーパー曲線を作るに当たって最も欠かせない材料は、同時にもっとも単純な材料、すなわち時間であること。
の2点を挙げています。
 第2部では、現代アメリカ人の「認知的なアップグレード」の源泉は、「精神的な摂取の変化」だとして、「複雑なシステムを受け容れて、そのそのルールをその場で学ぶ能力は、現実世界での応用力が極めて高い技術だ」と述べ、「子供がホームシアターの設定を直すのがよいことなのは、別にその技能を使っていずれ電気屋の店員になって欲しいからではなく、そうした思考形態に有益な構造があるからだ」と述べています。
 そして、スリーパー曲線を動かす力として、
(1)経済:児童映画のように何十回も見られることをはっきりと意識して設計されたジャンルの物語変化を見ると、最大反復製作モデルの作用がわかる。
(2)技術:加速度的に新しいプラットフォームやジャンルを導入する。
(3)神経:ゲームがますます複雑になっているのは、人の脳が挑戦を受けるのが好きだからだ。
という、経験の違った領域にまたがる3点を挙げています。
 著者は、「大衆娯楽の世界はますます要求を高めて高度なものになり、脳は嬉々としてその新しい複雑性に吸い寄せられている。そして吸い寄せられることで、脳はその効果をさらに高める」と述べ、「僕たちの文化の素晴らしい知られざる物語とは、実に多くの素晴らしい傾向が上昇している、ということなのだ」と述べています。
 本書は、ポピュラー文化がいわゆる「文化的」な活動と同じく、高度化をしていることを教えてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 テレビドラマとかは基本的に見ないので、海外ドラマにはまる人は不思議だと思っていたのですが、複雑なストーリーを一生懸命理解しようとしているということだと、昔エヴァにはまる人がたくさんいたのと同じようなものなのかもしれません。
 エヴァといえば、パチンコにはまる人たちは単なるギャンブル好きなのでなく、パチンコ台のルールを理解したい、という欲求が、お金とともに解決するという「報酬」にはまっているのかもしれません。


■ どんな人にオススメ?

・ゲームをすると頭が悪くなると思う人。


■ 関連しそうな本

 スティーブン ジョンソン (著), 山形 浩生 (翻訳) 『創発―蟻・脳・都市・ソフトウェアの自己組織化ネットワーク』 2006年02月25日
 メアリアン・ウルフ (著), 小松 淳子 (翻訳) 『プルーストとイカ―読書は脳をどのように変えるのか?』 2009年02月28日
 岩谷 徹 『パックマンのゲーム学入門』 2008年07月17日
 山形 浩生 『コンピュータのきもち 新教養としてのパソコン入門』 2005年07月23日
 ハワード ラインゴールド (著), 青木 真美, 栗田 昭平 (翻訳) 『思考のための道具―異端の天才たちはコンピュータに何を求めたか?』 2006年01月07日
 坂村 健 『痛快!コンピュータ学』 2005年07月02日


■ 百夜百音

ザ・スパイダース・スーパー・ベスト【ザ・スパイダース・スーパー・ベスト】 ザ・スパイダース オリジナル盤発売: 2007

 フロントの2人はタレントとして活躍、他のメンバーもミュージシャンや芸能プロダクションで活躍するなど今振り返っても才気溢れたバンドだったわけです。

2009年4月17日 (金)

限界自治 夕張検証―女性記者が追った600日

■ 書籍情報

限界自治 夕張検証―女性記者が追った600日   【限界自治 夕張検証―女性記者が追った600日】(#1548)

  読売新聞北海道支社夕張支局
  価格: ¥1680 (税込)
  梧桐書院(2008/03)

 本書は、「夕張の過去、現在、未来を追うだけでなく、一人の記者が財政破綻の発覚から571日、いかに立ち向かい、いかに思ったのか、新聞記者の仕事とはどのようなものなのか、を書きつづったもの」です。
 序章「抜かれから始まった」では、取材を続けていた夕張問題を「道新(北海道新聞)」に「抜かれ」てしまう、財政問題発覚の場面からスタートしています。
 第1章「ついに財政再建団体へ」では、「北海道庁、が何としても隠し通したい事実」であり、「道庁の一部で脈々と引き継がれてきた闇の部分」である「ヤミ起債」問題について、締め切り間際に道の幹部から、社内の記者やデスクの携帯電話に、
「書くのをやめてほしい」
「勘違いしている」
という電話が次々に入ったことに、「組織を守らんとする凄まじい力を感じた」と述べ、著者が前日にも、夕張市が第3セクターと土地開発公社をトンネルにホテルを購入していた事実を報道していたことに、「道庁内部で私のことを相当悪く言う職員がいる、「これ以上書くのは私の今後のためによくない」」と聞かされたが、「悪く言われる覚えはない。知った以上、報道するのが仕事だ」と述べています。
 そして、夕張破綻の原因として、マスコミの論調は、「ワンマン中田市長の暴走、そして無謀な観光開発」が主流だが、「炭鉱の町の、衣食住を会社にすがって生きる風土」があり、「炭鉱がなくなって市民がすがりついたのは行政」だと指摘する声を紹介しています。
 第2章「破綻の構図」では、「夕張の構造を考える上で、炭坑の歴史を忘れてはならない。財政破綻の遠因となっているからだ」と述べ、氏が、「土地の付属物、つまり、炭鉱住宅、水道整備、公衆浴場、学校など、それまで炭鉱会社が負担してきた全ての社会インフラ(基盤)を整え、少しでも労働者や家族に踏みとどまってもらおうとしたのが、財政に負担をかけることになった」と述べています。
 そして、「炭鉱から観光へ」のスローガンを掲げ、6期24年を務めた中田鉄治元市長について、「強烈な個性でアイデアをどんどん出す元市長の姿に、市職員は『頼もしい』『この市長なら大丈夫だ』」と思い、市民にも、「中田市長は夢を実現してくれる」と映り、「市長の影響で、市職員も上級官庁とやりあう方法を覚えた」として、ある課長は、起債の認定を渋る道職員に「それなら石川(十四夫)議員に言うぞ)と「怒鳴り散らし」、「いつも、夕張はそうだった。認められないと怒って開き直る」との証言を紹介しています。
 また、「赤字隠しの謎を解く鍵」は「一時借入金」にあるとして、出納整理期間(4~5月)中に、今年度の普通会計から、資金不足が生じている前年度のある特別会計を補う手法で、「表面上、各年度とも借金が出ていないことになる」が、「永遠に各会計の資金不足を補い合い続けなければならず、借金は雪だるま式に増える」として、「市役所ではこの手法を『ジャンプ』と呼んだ」ことを紹介し、このほかに、「地方財政法で定められた道知事の許可を得ない『ヤミ起債』」について、「第3セクターや後者に支払いを肩代わりさせ、市が長期の債務負担行為として返済していた」手法を紹介しています。
 さらに、中田元市長の政策にケチをつけたと取られた記事を書いた記者は市役所に出入り禁止になり、第3セクターの経営実態の取材に応じた職員は、「辞めさせられたのか、3せくを去った」ことや、「中田元市長の不正を暴こうとする記者には、支局の留守番電話に『いい気になるなよ』と正体不明の伝言が残されていたこともあった」ことなどを紹介しています。
 そして、「道にとって、夕張問題に立ち向かうことは、パンドラの箱を開けるようなものだった」として、1970年代に地方課にいた元職員は、動物のはく製を展示する「知られざる世界の動物館」の起債申請に来て、「中田市長の政策だ。どうすれば認めてもらえるのか」と食い下がった市職員に、「そんなことしている暇はない。お前の首でも飾っておけ」と言い放ったことを紹介しながらも、「道庁は夕張問題を遠巻きに見ながら『調査権限がない』等を理由に、長期間放置したことになる」と述べています。
 第3章「再生へのもがき」では、夕張市長選に本州から出馬した候補者が、読売新聞の記事に感動して「夕張のために私も頑張りたい」と語ったことについて、「1本の新聞記事が、本州の見もしない人の人生を変えるとは。おまけに、それが読売新聞だ」と述べています。
 そして、旧・夕張市立総合病院の運営を引き継いだ、医療法人「夕張希望の杜」が運営する夕張市立診療所について、「救世主」医師がやってきたと述べ、村上医師が、「夕張市立総合病院の経営状態を診断した知り合いの医療経営アドバイザー」から打診されて夕張に赴任し、「夕張は、高齢化が進む日本の未来像。ここで成功すれば新たな医療のモデルになる」と語っていることを紹介しています。
 また、「市職員が一気に半減し、残った人の仕事量が増えた」ため、「残業代は1時間67円」という「タダ働き同然の残業が常態化していた」ことを紹介しています。
 終章「夕張に『春』が訪れるまで」では、「夕張を取材したノートには、この街で生きるたくさんの人々の姿が記されている。時が経ち、夕張に本当の『春』が訪れるまで、私は夕張を見守り続けたい」と語っています。
 本書は、激動の夕張に張り付いて取材を続けた新聞記者の姿を描いた一冊です。


■ 個人的な視点から

 本書の中で、夕張希望の杜の村上医師に夕張行きを打診した「医療経営アドバイザー」として名前こそ出ていませんが、行政経営フォーラムの伊関城西大准教授のことが紹介されています。やはり、知り合いが登場する本というのは嬉しいものです。


■ どんな人にオススメ?

・夕張はなんで破綻したかを考えたい人。


■ 関連しそうな本

 白川 一郎 『自治体破産―再生の鍵は何か』 2006年10月30日
 鷲田 小彌太 『夕張問題』 2007年12月05日
 保母 武彦 『夕張破綻と再生―財政危機から地域を再建するために』 2007年08月08日
 松本 武洋 『自治体連続破綻の時代』 2007年01月04日
 吉富 有治 『大阪破産』 2006年10月20日
 小西 砂千夫 『自治体財政健全化法―制度と財政再建のポイント』 2008年09月16日


■ 百夜百マンガ

坂本龍馬【坂本龍馬 】

 高知出身ということで龍馬なわけですが、作者の実家は司牡丹酒造なのだそうです。そういえば「船中八策」という酒も出されてますね。

2009年4月16日 (木)

読んでいない本について堂々と語る方法

■ 書籍情報

読んでいない本について堂々と語る方法   【読んでいない本について堂々と語る方法】(#1547)

  ピエール・バイヤール (著), 大浦 康介 (翻訳)
  価格: ¥1995 (税込)
  筑摩書房(2008/11/27)

 本書は、「読んでいない本についてコメントを求められるという、この厄介なコミュニケーション状況に対処するテクニックを提案することだけでなく、そうした状況の分析に基づいて、一つの読書理論を構築すること」を目的とし、「一般に人が抱く理想的な読書のイメージとは裏腹に、読書行為に見られるある種の曖昧さ、いい加減さ、意外性などに注目することになるだろう」と述べています。
 著者は、読書をめぐって、「暗然たる強制力を持つ規範」がいくつもあるとして、
(1)読書義務
(2)通読義務
(3)本について語ることに関する規範(ある本について多少なりとも正確に語るためには、その本を読んでいなければならない)
の3点を挙げ、「学者の間では、上記の3つの規範のせいで、うそをつくのは当たり前になっている」と述べています。
 第1章「未読の諸段階」では、本についての「全体の見晴らし」として、「教養があるかどうかは、何よりもまず自分を方向づけることができるかどうかにかかっている」と述べ、「教養ある人間は、しかじかの本を読んでいなくても別にかまわない。彼はその本の内容はよく知らないかもしれないが、その位置関係は分かっているからである」と述べています。
 そして、「全体の見晴らし」という概念は、図書館の蔵書だけに限らず、「一冊の本を一つの全体として考えた場合にも有効」だとして、「流し読みは、本を我が物とする最も効果的な方法かもしれない」と述べています。
 また、「本を読まずに本の内容をかなり正確に知るもう一つの方法」として、「他人が本について書いたり話したりすることを読んだり聞いたりすること」を挙げ、「われわれが話題にする書物はすべて〈遮蔽幕(スクリーン)としての書物〉であり、この無限の書物の連鎖の中での一つのだいたい要素である」と述べています。
 さらに、「読書とは、何かを得ることであるよりむしろ失うことである」と考えることは、「われわれが読んでいない本について語るという苦しい状況に追い込まれたときに、そこから脱するための戦略を練るさいの大きな心理的原動力となる」と述べています。
 第2章「どんな状況でコメントするのか」では、「われわれが新たに本に出会うたびに、われわれとその本のあいだを仲介し、われわれの知らないうちに読解の仕方を方向付けるもの」として、われわれが共有している「神話的、集団的、ないし個人的な表象の総体」を〈内なる書物〉と呼んでいます。
 そして、作家を前にコメントするシチュエーションについて、「本の趣旨を全く理解していない読者の意見を耳にするときのこの不快な経験は、逆説的かもしれないが、おそらく読者が本に好意的で、それを評価している場合の方が辛いはずである」と述べています。
 また、「作家が一番よく自分の本を知っており、それを正確に思い出すことができるということからして、それほど自明なことではない」として、「作家は、自分の作品を書き終え、それからいったん離れてしまうと、他人と同じくらいそれに疎くなる」と述べています。
 第3章「心がまえ」では、「ある書物について語ることは、それを読んでいるかどうかにはあまり関係がない。語ることと読むことは、全く切り離して考えていい2つの活動である」と述べたうえで、「「われわれが話題とする書物というのは、客観的物質性を帯びた現実の書物であるだけでなく、それぞれの書物の潜在的で未完成な諸様態とわれわれの無意識が交差するところに立ち現れる〈幻想としての書物〉である」と述べ、「ある書物について語るということは、その書物の空間よりもその書物についての言説の時間に関わっている」と述べています。
 そして、「極端にいえば、批評は、作品ともはや何の関係も持たないとき、理想的な形式にたどり着く」として、別の言い方では、「批評の対象は作品ではなく」、「批評家自身なのである」と述べています。
 また、「読書のパラドックスは、自分自身に至るためには書物を経由しなければならないが、書物はあくまで通過点でなければならない点にある」と述べ、「重要なのは書物についてではなく自分自身について語ること、あるいは書物を通じて自分自身について語ることである」と述べています。
 「結び」では、「テクストと自分自身に耳を傾けるというこの行為は、精神分析に期待してしかるべき行為を想起させる」として、「読んでいない本について語ることは紛れもなく創造の活動なのである」と主張しています。
 本書は、「本は読んだ人しか語ることができない」と頑なに思っている人にぜひ読んで欲しい一冊です。


■ 個人的な視点から

 「1日1冊本を読む」というと、ものすごいスピードで速読してるかのような誤解をされがちですが、本書で言う「全体の見晴らし」というのが一番近いように思います。読むスピード自体には制約があるので、同じ1時間で、薄い本を深く読むことも、厚い本を浅く読むこともできます。日頃じっくり読み込まずに本を紹介している身としては本書は大変心強いです。


■ どんな人にオススメ?

・本は一字一句読むものと思っている人。


■ 関連しそうな本

 メアリアン・ウルフ (著), 小松 淳子 (翻訳) 『プルーストとイカ―読書は脳をどのように変えるのか?』 2009年02月28日
 モーティマー・J. アドラー, C.V. ドーレン (著), 外山 滋比古, 槇 未知子 (翻訳) 『本を読む本』 2006年07月02日
 立花 隆 『ぼくが読んだ面白い本・ダメな本 そしてぼくの大量読書術・驚異の速読術』 2006年07月16日
 加藤 周一 『読書術』 2006年07月23日
 中島 孝志 『インテリジェンス読書術―年3000冊読破する私の方法』 2009年03月31日
 アルベルト・マングェル (著), 野中 邦子 (翻訳) 『図書館 愛書家の楽園』 2009年03月28日


■ 百夜百マンガ

重機甲兵ゼノン【重機甲兵ゼノン 】

 自らを改造した組織と戦う改造人間、というシチュエーションは仮面ライダーやデビルマンなどお約束の王道ストーリーですが、抜け忍ものを含めてやっぱり引き込まれてしまう展開です。

2009年4月15日 (水)

地域は「自立」できるか

■ 書籍情報

地域は「自立」できるか   【地域は「自立」できるか】(#1546)

  奥野 信宏
  価格: ¥1890 (税込)
  岩波書店(2008/03)

 本書は、「少子高齢社会において、各地域の人々の満足を充足するために、行政だけでなく民間活動を含む幅広い『公共』がどのような役割を果たしうるか」と考えたもので、
(1)一人当たりで見た所得の地域格差について、半世紀の展開過程を概観し、それが大きな波や小さな波を繰り返しながら縮小してきたこと。
(2)地域に新しい価値を生み出す源泉として、交流と連携がなぜ大事か。
(3)ブロック圏の自立。
(4)地方の中都市や農山村の自立について、「新たな公」の重要性と、それが果たす役割。
(5)限界集落のあり方。
の5つのテーマを挙げています。
 第1章「プロローグ」では、「東京の住人は、地方がいつまでも自立しないで東京にもたれかかっていると感じ、地方は地方で、東京依存に気兼ねをしながら、将来の展望が開けないまま気をもんでいる」という状況を述べ、その原因の一つとして、「都会生まれの都会育ちが増え、都会に住む田舎の出身者が減ったこと」によって、「都会と田舎の相互交流が減少した」ことを指摘してます。
 そして、「田舎は都会で学び働く人々を背後で支える存在ではなくなり、都会人にとっては養わなければならない、世話の焼けるところになった」と述べています。
 第2章「地域格差は拡大しているか」では、「第一の波」として、「高度成長期前期には、寒冷地の山間部を中心にまだ深刻な貧困問題が残っており、大都市圏の成長には、偽装失業の状態にあった農山村の労働人口を大都市圏を吸引することによって、貧困も格差も飲み込まれるように解決してくれるという期待があった」が、このような成長神話は高度成長期後期には崩壊したと述べています。
 そして、「第二の波」として、1973年の第一次石油ショックを契機に日本の高度成長が終わり、経済が安定成長期に入ったことを挙げています。
 第3章「多様な自立の意味」では、「地方分権は、現在の都道府県を単位に実施されているが、それを前提にして徹底的に分権化してみても、地方自治体が政府に依存する状況は現在とあまり変わらない」理由として、
(1)都道府県を越えた広域的な政府補助金が、地方施策の実施で重要な役割を果たしていること。
(2)国際空港や国際港湾、高速交通網など大規模施設の整備について、政府が主要な役割を担い続けること。
(3)政府から地方自治体への贅言以上が問題の解決にはならない恐れがあること。
の3点を挙げています。
 そして、「地方の衰退の典型的な症状は定住人口の減少だが、その主たる原因は市場メカニズムが貫徹したこと」だと述べています。
 第4章「ブロック圏の自立」では、ブロック圏の「自立」について、「各圏域が地域自前の国際戦略をもち、日本や世界の各地域と、東京経由でないがネットワークを構築すること」が重要だとして、
(1)人が移動すると、それに伴って、もの・情報が流動するが、人・もの・情報の移動を軸にすえて国土を考えるとき、アジア全域からオーストラリア・ニュージーランドなどの大洋州まで一体の圏域として視野に入れなければならないこと。
(2)日本海側と太平洋側の広域連携。
(3)都市と農山村、大都市土地法との交流。
の3点を掲げています。
 第5章「地方中小都市、農山村の自立」では、「同じ新たな公でも、都市と農山村では行政と地域住民との関係や、地域コミュニティーの状況など正確や置かれている状況に違いがあり、新たな公をめぐる環境も異なっている」としたうえで、共通する課題として、
(1)人材の供給と後継者の育成
(2)資金の支援
の2点を上げ、「各地域の大学は新たな公の供給主体として、幅広く社会的な活動を展開することができる」と述べています。
 第6章「集権化で地方はどう変わるか」では、「地方圏の中小都市や集落の地域づくりについての政府や地方自治体の施策は『集約化』で代表される」として、
(1)役場、学校、公民館、病院など地域の生活支援機能の集約化によるコンパクトシティー化
(2)限界集落の住民の移住や、土砂災害・山崩れ・水害など居住するには危険な地域の住民の移転など、住民の居住地域についての集約化。
(3)近年、急速に進展している市町村合併による行政機能の集約化。
(4)地方拠点方式など働く場の集約化。
の4点を挙げています。
 第7章「エピローグ」では、「わが国の地域内格差は、修復不能になりつつあるが、社会背景の変化に伴って、地方圏のあり方もこれから変化し、東京依存からの脱却の機運が出てこなければならない」と述べています。
 本書は、「地方」と一括りにされているものの正体に切り込んだ一冊です。


■ 個人的な視点から

 東京と地方の格差についてはいろいろな人が言及していますが、東京生まれの東京育ちの人が増えたので非常に判りやすく感じました。


■ どんな人にオススメ?

・地方は東京のお荷物だと思っている人。


■ 関連しそうな本

 佐々木 信夫 『市町村合併』 2006年03月27日
 町田 俊彦 『「平成大合併」の財政学』 2006年12月06日
 赤井 伸郎, 山下 耕治, 佐藤 主光 『地方交付税の経済学―理論・実証に基づく改革』 2005年01月27日
 吉村 弘 『最適都市規模と市町村合併』 2006年03月29日
 土居 丈朗(編著) 『地方分権改革の経済学―「三位一体」の改革から「四位一体」の改革へ』


■ 百夜百マンガ

ロッカーのハナコさん【ロッカーのハナコさん 】

 NHKでドラマにもなった「職場+幽霊」の組み合わせの作品。「銭」なんかもそういうスタイルですが、何かのテーマに「+幽霊」にするだけで面白くなりそうなテーマというと何でしょうか? 例えば「グルメ+幽霊」とか。

2009年4月14日 (火)

森林の崩壊―国土をめぐる負の連鎖

■ 書籍情報

森林の崩壊―国土をめぐる負の連鎖   【森林の崩壊―国土をめぐる負の連鎖】(#1545)

  白井 裕子
  価格: ¥714 (税込)
  新潮社(2009/01)

 本書は、「木を植え育て、切っている山の中から、材となった木を組み上げて木造建築にするまで、一連の現場で何が起こっているのか」を伝えることを目的としたものです。
 第1章「日本の森でいま、何が起こっているのか」では、「大量密植した人工林を放っておけば、災害の原因にもなりかねない。日が差さなくなった森は、下草も生えず、木の根も浅く、ひとたび雨が降ればごっそり流れ出る」ことを「山抜け」というと述べています。
 そして、「木を切りたくてもその山の持ち主が分からず、その土地の長老たちに訪ね歩く」という山林がいまだに日本に存在していることを指摘しています。
 第2章「日本の木を使わなくなった日本人」では、「人為的に杉を大量植林」した長良川流域と比較し、「昔から檜が自生もしていた木曽川流域は、そこにある森林資源と結びついて木材地場産業が育ってきた」として、「全国各地で大々的に造林された人工杉林とその地場産業の関係がいまどうなっているのか、この長良川流域からも想像できる」と述べています。
 第3章「補助金制度に縛られる日本の林業」では、「補助金制度を抜きにして、日本の林業をかたることはできない」として、ある森林組合では、「この補助金制度が分かるようになれば森林組合のトップになれる」と語っていたことを紹介しています。
 そして、「それぞれ皆が目的を持って、最良と責任を併せ持つ健全な仕組みが肝要」だと述べています。
 第4章「公共財としての森と欧州の発想」では、「欧州の方が個人主義であり、意見がばらばらで協調性がないように思える」にもかかわらず、「なぜ人が勝手に自分の所有林に入ってもよいとしたのか」について、「みなで社会づくりを進める過程で、森林などは、みなのものである面を重視し、公共財としての立場が、社会制度上明文化された」と述べています。
 第5章「建築基準法で建築困難に陥った伝統木造」では、伝統構法による木造住宅が、「縦横に木が組まれた骨組みが基本であり、壁の強さ、壁の量が重視される建築基準法では蚊帳の外」だと述べ、「科学は規制の材料を増やすためのものではなく、むしろ技術や文化を発展させるためのものだろう」と指摘しています。
 第6章「大工棟梁たちは何を考えているのか」では、建築基準法が、「そもそも、戦後のバラック建築を規制するためにできた法律」だとして、「すべての安全性を机上で期すことは不可能」だと述べ、「規制を上乗せして公の関与を増やし続ければ、公的負担が高まり、その結果、漸近が増えることになる」と述べています。
 本書は、日本の森林で木がどのように育ち、どのように使われるのかを解説した一冊です。


■ 個人的な視点から

 樹木の様に、植林してから成長して木材として使えるようになるまで何十年もかかるものは、なかなか一気通貫にしてその一生を見ることが難しいので、そのサイクルが分かりにくいのではないかと思います。本書はそれに取り組んでいますが、イメージしやすいかと言うとなかなか難しいとも感じました。


■ どんな人にオススメ?

・木の一生をまとめて見たい人。


■ 関連しそうな本

 鷲谷 いづみ 『消える日本の自然~写真が語る108スポットの現状~』 2008年11月26日
 ジャレド・ダイアモンド 『文明崩壊 滅亡と存続の命運を分けるもの (上)』 2006年08月14日
 ジャレド・ダイアモンド 『文明崩壊 滅亡と存続の命運を分けるもの (下)』 2006年08月15日
 石城 謙吉 『森林と人間―ある都市近郊林の物語』
 田中 淳夫 『森林からのニッポン再生』
 浜田 久美子 『森の力―育む、癒す、地域をつくる』


■ 百夜百マンガ

いずみちゃんグラフィティー【いずみちゃんグラフィティー 】

 懐かしい、こんなのまで再発されているのは驚きです。確か1976年くらいだったでしょうか。ドクタースランプが始まった頃のジャンプだった気がします。

2009年4月13日 (月)

ブログ論壇の誕生

■ 書籍情報

ブログ論壇の誕生   【ブログ論壇の誕生】(#1544)

  佐々木 俊尚
  価格: ¥798 (税込)
  文藝春秋(2008/09)

 本書は、インターネットの世界に出現しようとしている巨大な論壇である「ブログ論壇」について、「分断された公論の世界を、再びひっくり返してそこからかき混ぜてしまう可能性を秘めている」として、「ネット論壇のダイナミズムの全容を紹介し、その世界がもたらすインパクトを解き明かすこと」を目的としたものです。
 第1章「毎日新聞低俗記事事件」では、「言論空間におけるマスメディアとインターネットとの対立は、団塊の世代をはじめとする中高年と三十代のロスとジェネレーション世代の対立を内部にはらみながら、2005年以降ずっとくすぶり続けていた」と述べています。
 第3章「ウィキペディア」では、ウィキペディアの情報操作が浮き彫りにした問題として、
(1)ウィキペディアの編集に官僚や大企業、マスメディアの社員などが参加すると、ウィキペディアの公平性が損ねられるのではないかという問題。
(2)官僚が自分の属する省庁に有利なことを書いていることに対する倫理的批判。
の2点を挙げています。
 そして、「ウィキペディアの編集行為が可視化されていけば、それらは、撲滅不能な存在ではなく、社会システムの一つとしてとらえることが可能になってくる」と述べています。
 第5章「『小沢の走狗』となったニコニコ動画」では、2007年、「自民党が惨敗し、民主党が第一党となったあの歴史的な参院選の直前」に、民主党の小沢代表の動画をネットで配信したことについて、
「一言で言い切ってしまえば、ニコニコ動画は『参加』のハードルを思い切り下げている」として、「自分で動画を作成しなくとも、『コメントを加える』という行為によって、その動画に積極的に参加することができる」ことを指摘し、「このニコニコ動画のアーキテクチャ(システムの設計概念)は、インターネットの群衆に新たな力をもたらす」と述べています。
 第6章「志井和夫の国会質問」では、2ちゃんねるで志井委員長が、「GJ(グッジョブ)」「CGJ(志井グッジョブ)」などと賞賛されていることを紹介し、志井委員長の国会質問がロストジェネレーション世代の注目を集めた理由について、
(1)この質問がワーキングプアに焦点を絞っていたこと。
(2)その追求スタイルが、(1)議論の土台となるニュースソース(情報源)をきちんと提示し、(2)そのソースに基づいてロジックを破綻なく積み上げていく、というきわめてブログ論壇的だったこと。
の2点を挙げています。
 第11章「ケータイが生み出す新たなネット論壇世界」では、著者が取材した、地方に住んでいる20代後半の若者について、「家族がいて、恋人がいて、仲間がいて、そういうのが自分の価値だし」と語り、「彼は東京の優秀な大学に進学して出て行った、上昇志向の若者たちに対しては、敵意を感じるわけでなく、かといって仲間意識を持っているわけでもない。ただ『別の世界の人間』と思っているようだ」と述べています。
 そして、「地元に残れず、地元の外に押し出された若者たちは、ホーボー化する」として、「ケータイ小説を読み、ケータイを使いこなす若者層は、ロストジェネレーションのみならず、いまや日本全体の中で見ても多数派となりつつある」と述べています。
 第15章「『ブログ限界論』を超えて」では、「ネット論壇の圏域はますます拡大し、その影響力も高め続けている」として、
(1)自己表現のメディアが移り変わりつつある。
(2)ブロゴスフィアの拡散と浸透が起きている
(3)ブロゴスフィアとリアル社会の接点の問題
の3点を挙げています。
 そして、「この新しい世界をきちんと認識し、ネット論壇に対する理解を深め、対等に渡り合う枠組みを作り直すところから、マスメディアとネットの論壇が補完しあう新たな言論の世界は始まる」と述べています。
 本書は、日本の言論世界の変化のとがった部分に注目した一冊です。


■ 個人的な視点から

 ブログの世界も、本書で取り上げられるような「言論系ブログ」とそれ以外の日記系のブログとではすっかり壁ができてしまったような気がします。なんのかんの言っても、やはり日記系ブログの量は圧倒的です。


■ どんな人にオススメ?

・ブログを読むのが大好きな人。


■ 関連しそうな本

 ロバート・スコーブル, シェル・イスラエル (著), 酒井 泰介 (翻訳) 『ブログスフィア アメリカ企業を変えた100人のブロガーたち』 2008年04月23日
 ダン・ギルモア (著), 平 和博 (翻訳) 『ブログ 世界を変える個人メディア』 2006年06月22日 06:00
 佐々木 俊尚 『グーグル―Google 既存のビジネスを破壊する』 2007年11月20日
 嶋田 淑之, 中村 元一 『Google―なぜグーグルは創業6年で世界企業になったのか』 2005年08月18日
 ジョン・バッテル (著), 中谷 和男 (翻訳) 『ザ・サーチ グーグルが世界を変えた』 2006年06月20日


■ 百夜百マンガ

不思議な少年【不思議な少年 】

 どうしても「柳沢教授」のイメージが強いせいか、別の作品では、読むときの距離感のとり方が難しいような気がしますが、結局、入ってしまえれば問題ないかと思います。

2009年4月12日 (日)

流言とデマの社会学

■ 書籍情報

流言とデマの社会学   【流言とデマの社会学】(#1543)

  広井 脩
  価格: ¥735 (税込)
  文藝春秋(2001/08)

 本書は、「噴火や地震などの災害をめぐる流言を中心に、社会学、心理学、言語学の視点から、噂がいかに生まれ、形を作って広まってゆくか、そのメカニズムを分析」したものです。
 はじめに「最近の流言」では、1990年の秋頃から、埼玉嫌悪一部で広がった「外国人労働者暴行流言」を取り上げ、
(1)90年夏に埼玉県草加市あたりで発生し、そこから越谷市、春日部市など東武伊勢崎線沿いに広がっていった。
(2)この話がどこからどうして生まれたのかは分からなかったが、これを聞きつけた女性たちが、自分のみにもいつ起こるか分からない話として、PTAや趣味の会合の中で口から口へと伝えていった。
(3)伝えられるにつれて次第に尾ひれがついたこと。
などの特徴を挙げています。
 第1章「流言とは何か」では、社会心理学者のオルポートとポストマンが『デマの心理学』の中であげている定義として、
(1)流言は、人から人へと伝えられる情報である。
(2)流言は、正々堂々と表明されるというより、秘密の色彩を帯びて密かにささやかれる「口コミ」の情報である。
(3)流言は事実の確証なしに語られる情報である。
(4)流言は人から人へと伝えられるうちに、その情報内容が次第に歪められ、元の内容と全く異なってしまう場合が多い。
(5)流言は、それを伝える人々の感情と深く関わっている。
の5点を挙げています。
 そして、流言が持つ側面として、
(1)心理現象:ここの人間の言語活動に支えられ、またそれを伝える個々人の感情を反映している。
(2)社会現象:唯一人の人間の言語活動だけでは、決して流言にはならない。
の2点を挙げています。
 第2章「流言の構造と内容」では、オルポートとポストマンが、「恐怖流言は国民の士気を阻喪させ、願望流言は国民の気の緩みを誘い、そして分裂流言は、国民の内部統一を妨害するから、危険なのだ」と書いていることを紹介し、「戦争や大災害に直面した政府の当局者にとって、事態はさらに深刻で、だからこそ、流言は厳しく監視され、流言をなす者は厳しい処罰を受けることになった」と述べています。
 そして、「すべての流言が、等しく社会を撹乱するとは限らない」として、流言には、
(1)噴出流言:災害による破壊が壊滅的で、今まであった社会組織や、われわれが普段従っている社会規範が、一時的に消滅してしまう状況で噴出する流言。
(2)浸透流言:災害の被害が比較的警備であり、社会組織や規範が残っている状況で発生し、日常的コミュニケーション・ネットワークの中でじわじわと浸透するため、スピードは遅いが、その代わりに比較的長期間持続することが多い。
という、「大きく異なった2つのタイプがある」と述べています。
 また、いくつかある地震来襲流言を挙げ、昭和48年には、「6月11日午後11時38分、千葉県館山市を中心とする房総半島一体に、マグニチュード8の地震が発生する」という流言では、「木更津市立第一小学校では6月6日、放送部の子供が校内放送を通じて、地震の予告放送を流すといった事態が起こり、あわてた教師が放送室に駆けつけ打ち消し放送を行った」ことや、6月8日には千葉県教育長が、「根拠のないデマに惑わされないように」という通達を出したこと、館山市内では懐中電灯が飛ぶように売れたことなどを紹介しています。
 第3章「風評被害」では、風評被害という言葉が「比較的新しいこと」だとして、「事実でないこと、あるいは些細なことが大げさに取り上げられ、ある人物やある業界、ある地域が被害を受けることであり、多くの場合、事件や事故を新聞、テレビなどのマスコミが大きく取り上げ、それが人々の間で風評となって、主に経済的な被害が発生すること」だと述べています。
 本書は、現代社会の重要な一側面である流言について、分かりやすく解説した一冊です。


■ 個人的な視点から

 本書では、偶然かもしれませんが、鴨川のコレラの事件や館山の地震の事件など、千葉県内での事例が多く取り上げられていて、親しみがもてるものの、もしかすると千葉県人は噂に乗せられやすいのかもしれないとも思ってしまいました。


■ どんな人にオススメ?

・流言が発生するメカニズムを知りたい人。


■ 関連しそうな本

 林 幸雄 『噂の拡がり方―ネットワーク科学で世界を読み解く』 2008年05月27日
 川上 善郎 (編集), 高木 修 『情報行動の社会心理学―送受する人間のこころと行動』 2005年11月19日
 小田垣 孝 『つながりの科学―パーコレーション』 2006年07月14日


■ 百夜百音

天使たち【天使たち】 THE STREET SLIDERS オリジナル盤発売: 1986

 いかにもなロックというか、古くはサンハウスとかを思い出させます。「ロックは不良の音楽」と言われていた時代はこんな感じなのでしょうか。

2009年4月11日 (土)

レポート・プレゼンに強くなるグラフの表現術

■ 書籍情報

レポート・プレゼンに強くなるグラフの表現術   【レポート・プレゼンに強くなるグラフの表現術】(#1542)

  山本 義郎
  価格: ¥756 (税込)
  講談社(2005/2/18)

 本書は、「データをさまざまな角度で観察することができたり、多種多様な方法で説明や自分の主張を裏付けたり理解を促したりできるようになるためのもの」であるグラフ表現について、「よりよいグラフを作れるようになるために、『グラフ作成の本質は何か』を意識すること」から解説したものです。
 第1章「グラフの作り方(基本編)」では、「よいグラフを作るためには『なぜグラフを作るのか?』というところからしっかり考えることが必要」だと述べ、よく用いられる「棒グラフ」「帯グラフ」「円グラフ」「折れ線グラフ」の4つのグラフ表現について、
・値の比較には棒グラフ
・内訳や構成比を表現するには帯グラフ・円グラフ
・値の推移を表現するには折れ線グラフ
であると解説しています。
 また、グラフ作成の際に考慮すべき点として、
(1)グラフ作成の目的を確認する。
(2)グラフ作成のためにデータを加工する。
(3)グラフ構成案を考える。
(4)グラフのデザインを決定する。
の4点を挙げ、グラフ作成の主な目的は、「比較、内訳、推移、分布、相関を表現すること」だと述べています。
 第2章「グラフ作成の目的と目的別のグラフ表現」では、
・1つの項目に関して比較:棒グラフ、単位グラフ、面積グラフ、体積グラフ
・一部の項目の全体に占めた構成比や、各項目の構成の比較:円グラフ、帯グラフ
・3つの項目に関して構成を表現:三角グラフ
・それ以上の場合:レーダーチャート
・推移を表現:折れ線グラフ
・ある区間を設定し、その区間ごとの値を比較:ヒストグラム
など、目的ごとに適したグラフ表現について解説しています。
 第3章「グラフの作成とその工夫」では、「グラフの構成要素に変化を与える、線の使い方、文字の使い方、ハッチング・色の使い方、レイアウト、軸と目盛り」について論じています。
 第6章「ビジネスの問題解決のためのグラフの活用」では、「現在の状況を正確に把握し、次のステップへの判断を行う管理のためのグラフ」とも呼ばれる表現について解説しています。
 そして、
・パレート図:データを項目別に分類し、各項目に対する件数や金額の総計を値の大きな順に棒グラフを並べ、その値の累積値を折れ線グラフとした組み合わせグラフ
・ABCグラフ:累積の割合により項目をA、B、Cのグループに分けて優先順位をつけ、グループごとの対応の仕方を検討する
などについて解説しています。
 本書は、日々さまざまなデータの説明の必要に追われているビジネスマンにとって不可欠なグラフに関する知識を解説した一冊です。


■ 個人的な視点から

 仕事でグラフを使う必要は結構あるのですが、そういう場合の上司の指示は、「図を使って分かりやすく説明せよ」とかだったりして、途方にくれちゃう分には無駄な労力がなくてまだましなのですが、いまはエクセルで簡単にグラフが作れてしまうだけに、下手に複雑なグラフにはまってしかも分かりにくい、という最悪の事態に陥ることが多いのではないかと思います。


■ どんな人にオススメ?

・伝えたいことをグラフにしたい人。


■ 関連しそうな本

 ジョエル ベスト (著), 林 大 (翻訳) 『統計はこうしてウソをつく―だまされないための統計学入門』 2006年1月8日
 谷岡 一郎 『「社会調査」のウソ―リサーチ・リテラシーのすすめ』 2005年12月13日
 ゲルト ギーゲレンツァー (著), 吉田 利子 (翻訳) 『数字に弱いあなたの驚くほど危険な生活―病院や裁判で統計にだまされないために』 2006年01月14日
 とつげき東北 『科学する麻雀』 2009年01月11日
 ダレル・ハフ (著), 高木 秀玄 (翻訳) 『統計でウソをつく法―数式を使わない統計学入門』
 ジーン ゼラズニー (著), 数江 良一, 管野 誠二, 大崎 朋子 (翻訳) 『マッキンゼー流図解の技術』 2007年4月30日


■ 百夜百音

狼惑星【狼惑星】 ギターウルフ オリジナル盤発売: 1997

 日本よりも海外で早く注目されたバンド。演奏技術よりもギターの音がいかにカッコいいかを追い求めています。

2009年4月10日 (金)

ゴム銃オフィシャルガイドブック

■ 書籍情報

ゴム銃オフィシャルガイドブック   【ゴム銃オフィシャルガイドブック】(#1541)

  中村 光児
  価格: ¥1575 (税込)
  社会評論社(2009/01)

 本書は、「日本ゴム銃射撃協会」の理事長である著者が書き下ろした、ゴム銃の魅力を満載した一冊です。
 著者は、2000年に任意団体の日本ゴム銃射撃協会を設立し、インターネットサイトを運営し、会員数は2008年12月現在で1840余名、全都道府県、海外13カ国に支部を持っています。
 本書は、「子の1冊出始めてゴム銃に接する方から全国レベルの射撃の名手を目指す方にまで情報提供ができるよう」、「5分でできる割り箸ゴム銃から連発銃にいたる各種のゴム銃の作り方、輪ゴムの知識、自宅でできる公式競技などを豊富な図説を写真を交えて」紹介しています。
 第1章「ゴム銃の定義」では、
・弾丸に輪ゴムを使い、その輪ゴムが自らの収縮力で発射される装置。
・身体の一部または全部を装置の一部または、全てとするものは銃とはみなさない。
の2項目からなる定義を紹介しています。
 第3章「ゴム銃の射程距離と弾道」では、その到達距離は、「大人が立って発射すると概ね5~6m程度」で、「急激に減速するので、最大到達位置ではまったく威力がなく、実用性も危険も」ないと述べています。
 第6章「制作」では、材料である割り箸にも、
(1)丁六
(2)小判
(3)元禄
(4)利休
(5)天削
(6)双生
などの種類があることなどを解説しています。
 そして、教材として、
(1)割り箸ゴム銃
(2)瞬間解放式単発銃
(3)回転翼式連発銃
の3点を紹介しています。
 また、作例として、表紙にもなっている、200発装弾できる「Side Winder」や、504弾が装弾でき、毎分1200発の発射速度を誇る「P503 DOTT DEL」など18点を紹介しています。
 第7章「射撃」では、輪ゴムの装填方法について、「左右のゴムが均等に伸ばされているか否かで、発射後の輪ゴムの弾道は大幅に変化」すると述べ、「どちらか一方をきつく伸ばして装填する」方法である「片掛け」について、弾道が曲がりそうな印象があるが、きつく伸びていた側が先行する回転運動によって、「極端に細長い陸上競技のトラックのような形を保ったまま、まるで横に寝かせたキャタピラのように回って」いき、回転運動が命中するまで続き、細長い形状も保たれるため、「平掛けの回転運動よりずっと安定した弾道を保」つと述べています。
 第9章「ゴム狩猟の手引き」では、「ゴム銃を猟具として使うと、家庭内の害虫駆除に実用性を発揮するだけでなく、アウトドアライフにちょっとした楽しみが加わります」と述べています。
 本書は、夢を失わない大人にお勧めの一冊です。


■ 個人的な視点から

 いい歳した大人が何をやってるのかと思う人もいるかもしれませんが、ゴルフに夢中になる人、パチンコにはまる人と何が違うのか、ということもあるのかもしれません。まあパチンコは依存症なので治療が必要だという話も聞きますが。


■ どんな人にオススメ?

・子どもの心を失わない人。


■ 関連しそうな本

 井波 恭子 『空間を彩るバルーンアートハンドブック』
 朝日 勇, 日本折紙協会 『親子でたのしむやさしいおりがみ』
 山内 スス, 菅原 道彦 『ベーゴマ』


■ 百夜百マンガ

銭【銭 】

 金銭がらみの業界ネタを織り込んだ作品。銭への執着を描いた作品は数多くありますが、いろんな業界を紹介するのは嬉しいです。

2009年4月 9日 (木)

メディア仕掛けの政治―現代アメリカ流選挙とプロパガンダの解剖

■ 書籍情報

メディア仕掛けの政治―現代アメリカ流選挙とプロパガンダの解剖   【メディア仕掛けの政治―現代アメリカ流選挙とプロパガンダの解剖】(#1540)

  ドリス・A. グレイバー (編集), 佐藤 雅彦 (翻訳)
  価格: ¥6090 (税込)
  現代書館(1996/10)

 本書は、「マス・メディアや政治について学ぶ人々が、まずもって読んでおくべき基本文献を集成した論文集」で、
(1)マス・メディアの政治的影響力をどう見るか。
(2)メディアは政治の「議題」を設定している。
(3)メディアは選挙結果に影響を与えている。
(4)メディアは政治舞台の"役者"たちに力を及ぼし、政局のパワーバランスの行方を左右している。
(5)メディアは公共政策の誘導を行う。
(6)影響力を持つメディアへの"飼いならし"の企みをめぐって。
の6つのテーマが立てられています。
 第1章「新聞とは何か」では、「あらゆる新聞は、どの事件をどういう立場で取り上げ、おのおのの記事にどれだけの紙面を割き、どれほど協調するか、という制作者側の選択につぐ選択を経て作り出され、読者はこの"選択の結晶"を受け取っている」が、その選択基準は、「客観的なものなどまったくない。新聞社なりの慣習があるだけだ」と述べています。
 そして、「最も有益だと思える仮説」として、「最新報告(ニュース)と真実(トルース)は、同じものではない。両者をはっきりと分けて考えなければならない」と述べています。
 第2章「『報道』が持つ"議題設定"の機能」では、マス・メディアが持つ、「おのおのの視聴者に影響を与えて認識の変化を誘い出し、視聴者全体の考え方を組織的に誘導していく能力」が、「マス・コミュニケーションの議題設定機能」と呼ばれていることについて、「マス・メディアは我々視聴者に、考える材料を提供するのは不得意かもしれないが、考える目安を与える上では驚異的な大成功を収めた」と述べています。
 第3章「マス・メディアの『議題設定』機能についての研究小史」では、「議題設定」の全工程が、
(1)媒体発表段階の議題設定(メディア・アジェンダ・セッティング)
(2)大衆認知段階の議題設定(パブリック・アジェンダ・セッティング)
(3)政策選択段階の議題設定(ポリシー・アジェンダ・セッティング)
の3つの段階を骨格として成り立っていると述べています。
 第7章「何が世論を動かすか」では、「庶民の"思い込み"を一変してしまうような新たな情報が登場したとすれば、そうした情報は、庶民向けに講じられた各種の政策の、当初に見込まれていた効力をもいっぺんさせてしまうことができるだろう」と述べ、その条件として、
(1)件の情報を市民が確実に受け入れ、
(2)受け入れるだけではなく内容を理解し、
(3)その情報が政策の良し悪しをはっきりと評価するものであり、
(4)受け手がそれまでに抱いてきた"思い込み"を否定するような"意外な情報"であり、
(5)情報が信頼できるものである。
の5点を挙げています。
 そして、世論変動の事例から、「テレビのニュース報道に現れるニュース論評的意見が、世論に強烈な衝撃的影響を及ぼしていることが分かった」と述べています。
 第9章「世間の主流意識を絵解きする」では、アメリカ社会が「人種の坩堝」と呼ばれているが、「20世紀のアメリカ車解が生み出した正真正銘の"坩堝"は、この『テレビ漬けの主流派』であろう」と述べています。
 第10章「選挙戦の中でのメディア」では、「テレビ時代の昨今では、テレビが選挙の行方に決定的な影響を与える"最後の一撃"まで用意されている」として、投票日当日、世論調査技術の開発が進む中で、「他社を出し抜こうと競争を繰り広げてきたテレビ・ネットワークの各社が、全米の少なからぬ地域でまだ投票が続いているうちに、早くも勝敗予測をまとめて、"大統領当選者"発表してしまう」ことを挙げています。
 第13章「『勝った、負けた』の選挙観」では、「候補者を『勝ち組』と『負け組』に振り分けてしまうイメージ操作の問題」を取り上げ、「大統領選挙に関するニュース報道の中でもっとも支配的な話題となっているのは、"勝者は誰で、敗者は誰か"という問題」だと述べています。
 そして、「候補者に"勝利"の見込みがあるかどうかを論じた情報は、世間に流れ出て広まると、「バンドワゴン効果」を生み出すことがある」と述べ、その条件として、
(1)他の要因の影響によって、有権者たちの意思決定が制約を受けてはならない。
(2)「予備選レースで一貫して首位を守り通した候補者は、本番の選挙でも、たいていは必ず勝つ」と有権者たちが信じていること。
の2点を挙げています。
 また、有権者が、「マスコミ報道によって、説得されてしまう」のは、「"この候補者が好きか嫌いか"という個人的感情のレベルでなく、むしろ"この候補者に勝ち目があるかどうか"といった情勢認識のレベルで、マスコミ報道に言いくるめられてしまう」と述べ、「似たり寄ったりの候補者が、強力な指示を引きつける力をいずれも持ち得ぬままに"どんぐりの背比べ"のような選挙戦を戦っている状況下では、マスコミが競馬の実況解説のごとき報道を行うと、それが有権者の情勢認識を一変し、候補者に対する有権者の感情的態度まで変わっていまう」と解説しています。
 第14章「グレート・アメリカン・ビデオ・ゲーム」では、ロナルド・レーガンが、大統領就任以来、「毎夜のごとく、思い通りのTVニュースを流してきた」として、「この男は、心憎いほど"絵になる"パフォーマンスを次から次へと打ち出し、報道陣をてんてこまいにさせて、メディアを通して思惑通りの"議題"設定を成し遂げ、思惑通りの大統領神話をデッチ上げることに、まんまと成功していた」ことについて、CBSのレスリー・スタール女史が、「ロナルド・レーガンはテレビをどう使ったか?」を告発した映像を放映したにもかかわらず、大統領の側近からは、「あんたが、あのテレビの映像と正反対のことをいくらまくし立てても、国民の耳は、そんな説教はまったく受け付けないぜ」と、ホワイトハウスの住人たちの"教え"を「噛んで含めるように」諭されたと述べています。
 そして、レーガンの「政治手法」からはっきりわかったこととして、「映像メディアそのものが政治的メッセージになった」ことを挙げ、「映像メディアを操ることと国民を統治することが、同義になった」と述べています。
 第15章「狩猟解禁シーズン……」では、猟犬的ジャーナリズムがもたらした難点として、
(1)政治の争点の瑣末化
(2)有望な人材が大統領選への立候補に躊躇してしまう状況を作り出したこと
の2点を指摘しています。
 本書は、政治とメディアの関係をしっかりと見極めたい人にお勧めの必読書です。


■ 個人的な視点から

 アメリカの政治とメディアの研究は、その多くが大統領選挙に向けられているので、日本の選挙制度で考えるときにはそのまま使えるものではないような気がします。
 あえて一番近いものを当てるとしたら、知事選挙などでしょうか。とくに東京などの大都市圏の知事選挙は、小さな国の大統領選と構造が似てくるのではないかと思います。


■ どんな人にオススメ?

・政治がどのように動くのかを知りたい人。


■ 関連しそうな本

 井上 篤夫 『ポリティカル・セックスアピール―米大統領とハリウッド』 2009年03月30日
 三浦博史 『洗脳選挙』 2009年03月23日
 ウィリアム パウンドストーン (著), 篠儀直子 (翻訳) 『選挙のパラドクス―なぜあの人が選ばれるのか?』 2009年02月26日
 蒲島 郁夫, 竹下 俊郎, 芹川 洋一 『メディアと政治』 2009年03月18日
 高瀬 淳一 『情報と政治』 2005年6月23日
 ドナルド・R. キンダー (著), 加藤 秀治郎, 加藤 祐子 (翻訳) 『世論の政治心理学―政治領域における意見と行動』 2006年06月19日


■ 百夜百マンガ

極道の食卓【極道の食卓 】

 野中英次が池上遼一の絵でギャグ漫画をやるというように、立原あゆみの絵でギャグをやる人が現れたかと思ったらまさか本人とは。

2009年4月 8日 (水)

類人猿を直立させた小さな骨―人類進化の謎を解く

■ 書籍情報

類人猿を直立させた小さな骨―人類進化の謎を解く   【類人猿を直立させた小さな骨―人類進化の謎を解く】(#1539)

  アーロン・G. フィラー (著), 日向 やよい (翻訳)
  価格: ¥2520 (税込)
  東洋経済新報社(2008/09)

 本書は、「霊長類の系統における直立歩行の起源は、これまで考えられていたよりもはるかに」古く、「「ゴリラやチンパンジーは、その古い直立形態にさらに変更を加えて、四足歩行への後戻りをした」もので、「古い形態を維持しているのは実は人類の方で、最初は必ずしも生存に有利とはいえなかった二足歩行を改良し、磨きをかけて、素晴らしい強みに変えたのだ」と述べているものです。
 第1章「生命の歴史」では、本書の狙いが、「われわれを魅了してやまない多彩な生物界をもたらした原動力についての理解を深めることにある」と述べ、現行の進化論に対する最も重大な異議として、
(1)解剖学的変化に対する製薬を説明できない。
(2不連続性について十分な説明をしていない。)
(3)複雑性の進展における階層構造を見極めるための基準を提供していない。
(4)進化論では方向性を説明できない。
の4点を挙げ、「昔ながらのダーウィニズム」には、「動物のデザインと組み立てに対する共通の要請という衝撃的着想を受け入れるだけの理論的余地がない」と述べています。
 そして、本書で、「モジュール説という考えかたの18世紀後半における起源、19世紀における発展とその後の放棄、そして20世紀と21世紀における漸進的な復興と展開の跡」をたどるとしています。
 第2章「偉大な詩人のインスピレーション」では、ゲーテが「西洋思想の成長における重要な節目に立っていた」として、18世紀後半のドイツの哲学者が、「自然界の根底にある統一性を追及していた」のに対し、ゲーテは、「その哲学の極めて空想的な自然観と、実証を重んじる博物学者の科学的な視点とを混ぜ合わせ、哲学的な予期と実際の生物学的現象とを結びつけた」と述べています。
 第3章「ジョフロワの不朽の功績」では、1822年にジョフロワが、「節足動物の体の外側の部分は、実は脊椎の外側の壁である。つまり、脊椎動物では脊椎の内部にある器官の数は限られているが、節足動物ではすべての器官が脊椎の内側にある」と発表したことについて、ジョフロワが裏付ける興味深い解剖学的事実として、「脳から下行する神経の大多数が、後脳すなわち延髄のところで交差する」ことを示し、「脊椎動物は頭部が節足動物と同じ向きのまま、体だけ反転したため、神経路の交差が起こった」と説明していることを紹介しています。
 著者は、ジョフロワの研究が、「根底にある類似性をどのように見るかを示すことによって、生理機能や細胞の働きのレベルだけでなく、動物の形態いのいても、共通パターンの理解に道を拓いた」と述べています。
 第4章「遺伝子が語る種の起源」では、「種形成──新しい種の形成──が、必ずしも突然変異や適応、物理的隔離によって起こるとは限らない」として、「染色体種形成には、ほんの数個の個体から数個の個体から出発して新しい種を突然に作り出すパワーがある」と述べたうえで、「染色体種形成が、さらに大きな役割を果たすことも考えられる」として、「種の構造や生態学的地位を新たに規定するだけの力を持つ、重要な突然変異を獲得することもありうる」と述べ、「そのような場合は、進化論的な変化の過程が、ちょうど種形成過程と同じく、『染色体の動原体融合』(二つのVの再結合)の瞬間に完了することになる」と述べています。
 第5章「形態と系統を理解するための基礎」では、オーウェンが唱えた、「3つの異なるタイプの相同」、すなわち、
(1)一般相同
(2)特種相同
(3)連続相同
の3点を挙げた上で、「それらが任意の特性に対して同じ結果をもたらすかもしれないこと、しかし、種によっては奇妙な例外の起こることを示す証拠が次々と見つかっている」という「新しい事実が判明している」と述べています。
 第6章「モジュール選択説」では、「動物にとってもっとも重要」なものは、「昆虫の分節や脊椎動物の発生中に現れる原体節のような高次モジュール(HOM)間の競争である。それらの競争によって、新しい体形が生まれる場合もあると考えられる」と述べ、高次モジュールの重要な例として、
(1)左右相称動物(昆虫、甲殻類、脊椎動物)の分節
(2)脊椎動物の四肢
(3)哺乳類の歯
の3点を挙げています。
 そして、グールドが提案した「さまざまなレベルでの進化論的選択すべてを検討すること」によって、「一つの種の生物体という単一レベルでの洗濯だけを考えるダーウィン説では説明が難しい現象に、説明がつく」と述べています。
 第7章「脊椎はどのようにしてできたのか」では、「基本的な構成単位からあらゆる動物を組み立てることができるという考え方は、原型という独自の概念にゲーテを導いた詩的な科学の発想だった」が、「2003年から2005年にかけての分子生物学の発展によって、そういった何度も繰り返される構成単位が本当に存在し、現存する動物種の99パーセント以上の組み立てとデザインがそれによって説明できることが、明らかになった」と述べています。
 第8章「陸生脊椎動物のホメオティックな進化」では、「左右相称動物が、さまざまな機能を果たす複雑な構造を獲得できたのは、ひと言で言えば、Hox遺伝子による領域化のおかげである」と述べ、「脊柱の5つの部位、四肢の5つの部分、5本の指──これらがすべて、まったく同じHox領域か遺伝子によって制御されている」として、「5つの要素を領域化する能力がHox遺伝子に備わったことこそ、脊椎動物の期限につながる根本的な出来事だったとしたらどうだろうか。すなわち、魚類の均一な脊柱が、突然に、しかもただ一度のできごとで頚部、胸部、腰部、仙骨部、尾部に分かれた陸生脊椎動物の脊柱に転換され」、「この革命的な五部構成の線状Hox遺伝子配列は、四肢の5つの部分と5本指を生み出すのにも適応される」ということが、「化石記録を見るかぎり、実際に起こったように思われる」と述べています。
 第9章「類人猿を直立させた椎骨」では、『2001年宇宙の旅』で登場する、類人猿からヒトへの転換を果たしたモノリスを紹介した上で、「東アフリカのモロト火山の斜面で見つかった一個の古代の腰椎は、このモノリスの特質の多くを備えている」と述べ、「2100万年前、いまの赤道アフリカにあたる場所で、ある得然変異が起こって新しいタイプのボディプランが創られたことが、今では明らかになっている」として、「ヒト上科ボディプラン」を挙げ、ダーウィン的自然淘汰という古典的なモデルでは、「肝心かなめの最初のできごとは説明できない」として、たった一世代のうちに起きた大きな変化を理解するには「モジュール説」に目を向ける必要があると述べています。
 第10章「私たちはどのようにしていまの姿になったのか」では、「『モロトピテクス・ビショッピ』かた『ホモ・サピエンス』まで、すべての道筋にわたって、5個または6個の腰椎のある柔軟な腰部脊柱を持つ直立歩行ヒト上科類が、私たち自身の祖先系統に常に存在したことがうかがわれる」ことから、「人間の腰部脊柱が示しているのは、これまでずっと継続されてきた原始的な状態であり、そこでは腰椎が5個の場合がもっとも多かった」と述べています。
 また、モロト転換によって、「直立姿勢にきわめて適した腰部脊柱を持つ、新しいタイプの霊長類が生まれた」が、「この脊柱によって移動運動中に伏位姿勢をとりにくくなり、四足歩行によって向上したスピードと安定性は失われてしまった」と述べ、オランウータン、ゴリラ、チンパンジーの各系統は、「四足歩行に戻ることによって、すでに実証済みの成功を取り戻そうとした」が、ヒト形系統は、代わりに、「二足歩行移動の最適化」という「別のタイプの特徴を獲得した」と述べています。
 そして、「ヒト固有の属性の起源は、ヒト形ボディプランを生み出した形態形成変異にある。このできごとが人上科類の種を作り出し、その種が、ヒト上科類とサルとのあいだにあるおびただしい解剖学的差異のほとんどを、一挙に示した」と述べています。
 著者は、「言語とテクノロジーだけがヒト固有の属性を表すと考えたのは、実は勘違いだったのだ。ヒト固有の属性自体の起源は2100万年以上前にある」形態形成変化の問題だとして、「最初の直立類人猿は、最初のヒトでもあった。その後何百万年かの間に、新しい種が枝分かれして直立姿勢を放棄し、私たちがいま『サル』と呼ぶものに落ちぶれたものもいた」と述べています。
 本書は、「直立したサル」という人間観に根源的な説明を与えてくれるかもしれない一冊です。


■ 個人的な視点から

 ゴリラの歩き方を見ていると、四足歩行から直立歩行への途上というよりも、直立歩行から安定のためにナックルウォーキングをするようになった、という説は納得できるような気がします。


■ どんな人にオススメ?

・人間が直立したのは何時かを知りたい人。


■ 関連しそうな本

 ジャレド ダイアモンド 『人間はどこまでチンパンジーか?―人類進化の栄光と翳り』 2006年09月29日
 リチャード・G. クライン 『5万年前に人類に何が起きたか?―意識のビッグバン』 2006年10月21日
 スティーヴン ミズン (著), 熊谷 淳子 (翻訳) 『歌うネアンデルタール―音楽と言語から見るヒトの進化』 2007年07月08日
 ロビンズ・バーリング (著), 松浦 俊輔 (翻訳) 『言葉を使うサル―言語の起源と進化』 2008年08月10日
 キム・ステルレルニー (著), 狩野 秀之 (翻訳) 『ドーキンス VS グールド』 2007年02月10日
 スティーヴン・ジェイ・グールド (著), 新妻 昭夫 (翻訳) 『神と科学は共存できるか?』 2009年04月07日


■ 百夜百マンガ

まんが極道【まんが極道 】

 漫画家にとっては永遠の名作、「まんが道」は、「さるマン」でもパクられ(野望の王国の印象の方が強いですが)、いろいろな漫画のネタになっていますが、さすがに最近は知っている人は少なくなったのではないかと思います。

2009年4月 7日 (火)

神と科学は共存できるか?

■ 書籍情報

神と科学は共存できるか?   【神と科学は共存できるか?】(#1538)

  スティーヴン・ジェイ・グールド (著), 新妻 昭夫 (翻訳)
  価格: ¥1995 (税込)
  日経BP社(2007/10/18)

 本書は、古生物者として有名なスティーヴン・ジェイ・グールドのもう一つの顔である「『創造主義運動』に抗して、戦い続けた闘士としての顔」について、「『科学と宗教の関係』をメインテーマに据え」、「生涯を通じて創造主義と戦い続ける中で深められていった思索の集大成」です。
 第1章「お定まりの問題」では、本書で取り上げる問題として、「科学」と「宗教」との間にあるとされている対立を挙げ、これについて、「敬意を持った非干渉――ふたつの、それぞれ人間の存在の中心的な側面を担う別個の主体の間の、密度の濃い対話を伴う非干渉――という中心原理」を「NOMA原理(Non-Overlapping Magisteria)」すなわち「非重複教導権(マジステリウム)の原理」という言葉で要約できると述べ、「全身全霊をこめて、科学というマジステリウムと宗教というマジステリウムとのあいだの、たがいの敬意と、愛にさえ基づく協約――『NOMAの概念』――を信じる」と述べています。
 第2章「原則的に解決済みの問題」では、「NOMAすなわち非重複教導権としての科学と宗教との適切な関係について」の考え方を明確にするため、
(1)これらふたつの領域は、いかなる完全な人間生活にとっても、同等な価値と必要不可欠な地位を持つということ。
(2)このふたつの領域は論理的に別個のものであり、また探求のスタイルにおいて完全に分離しているが、それがどれほど遠く、またどれほどはっきりと異なるものであっても、伝統的に知恵と呼ばれてきた裕で従前な人生観を構築するためには、わたしたちはこのふたつのマジステリウムの洞察を一つに統合しなければならないということ。
の2つの主要な主張を説明しています。
 また、ダーウィンとローマ教皇の関係について、ピウス12世が、「しぶしぶ進化を適切な仮説と認めたが、仮のものとして支持されるだけであって、潜在的には真実ではない(彼は明白にそう望んでいた)とみなしていた」と述べています。
 そして、NOMAが、「権利を授けるのではなく、義務を課すものとして機能する」がために、「NOMAは、万人の微笑に囲まれ、また両側からのホサナの叫び声に包まれて、勝利のコンセンサスに向かって堂々と進んでいくとは期待できない。しかしNOMAの成功は、知恵を求めるすべての人々に自由と開放をもたらすことだけはできる」と述べています。
 第3章「対立の歴史的理由」では、「平らな地球の果てから墜落してしまうに違いない、という当時の"一般常識"を覆し、コロンブスは海の向こうのアメリカを発見した」というお話について、「『科学と宗教との闘争』という捏造された図式がもたらす害悪を暴露するのに、私の知っている限り、最高の実例である」と指摘し、「コロンブスと平らな地球」という神話が、「ある意味で、NOMA(非重複教導権)の原理を逆説的に支持してくれている」と述べた上で、「現代の創造主義者たちは、なんということだろう、現実に闘争を引き起こしてしまった」と指摘しています。
 そして、「進化を教えることに反対する創造主義運動の活動家たちとは、『若い地球(ヤングアース)』の原理主義者である」と述べ、現代の創造主義との闘争の特殊性について、
(1)党派的で勝つ少数派の神学的教義をアメリカの公立学校の科学カリキュラムにたくみに植え付けようという、「若い地球」の創造主義者たちの強引で執拗な運動は、いかなる論理に照らしても、科学と宗教の間で起こるとされる一般的な闘争のエピソードの一つとしてとらえることはできない。
(2)この論争は地域的なものであり、アップル・パイやアンクル・サムと同様、アメリカに極めて独特のものである。
の2点を述べています。
 そして、「明白かつ最終的な要点」として、「『進化論』対『創造主義』の問題を、科学と宗教の全般的な闘争の主要な小競り合いとみなして描写するならば、私たちは、この闘争の主役たちを、考えられる最悪のやり方で取り違えてしまう。
の2点を述べています。
 第4章「対立の心理学的な理由」では、ダーウィンが、「道徳については無関心か、すくなくとも熱心でないとされてきた」ことについて、「これとは正反対の存在だと見ている」として、「彼は生涯を通じて、道徳や意味という偉大な問題に人間としての基本的な関心を抱き続けていたし、そのような探求の卓越した重要性も認識していた」とともに、「ダーウィンの科学と道徳についての見解は、NOMA(非重複教導権)の原理にしっかり根を下ろしたものであった」と述べています。
 そして、「科学者の全員が宗教について何も語らないことを約束し、また聖職者の全員が面倒を引き起こす『科学』という語を一言も口にしないと誓ったならば、政治的な正した(ポリティカル・コレクトネス)のもとで、科学と宗教を何らかの形で共存させることができるだろう」としながらも、「NOMAは科学と宗教のそれぞれの立場を大切にする──それぞれが別個の役割を持ち、それぞれ人間的に理解に欠くことのできない貢献をもたらす、時代を超えた『ちとせの岩」だと見なす」が、「NOMAは、実り多い対話への粘り強い一貫した探求という和協主義への本道の両脇にある日本の側道は拒否する」として、「混合主義の偽りの不合理な統一を拒否し、また目と耳と口を覆い隠す『見ザル、聞かザル、言わザル』的な解決で平和を確保しようとする『政治的な正しさ』の、道理に反する提案も拒否する」と述べています。
 本書は、日本人にはなかなかピンと来ない、科学と宗教の深刻な関係を誠意を持って語った一冊です。


■ 個人的な視点から

 グールドといえば、ドーキンスとの論戦は有名で、それを扱った本も出ていますが、「アメリカ」の創造主義者との戦いの方がより厄介だったのではないかと想像されます。それゆえに、本書のような一冊に重みが出てくるのではないでしょうか。


■ どんな人にオススメ?

・科学と宗教とを人生のなかで統合したい人。


■ 関連しそうな本

 スティーヴン・ジェイ グールド 『ワンダフル・ライフ―バージェス頁岩と生物進化の物語』 2007年03月03日
 キム・ステルレルニー (著), 狩野 秀之 (翻訳) 『ドーキンス VS グールド』 2007年02月10日
 ランドルフ・M. ネシー, ジョージ・C. ウィリアムズ (著), 長谷川 真理子, 青木 千里, 長谷川 寿一 (翻訳) 『病気はなぜ、あるのか―進化医学による新しい理解』 2009年01月29日
 リチャード・ドーキンス (著), 日高 敏隆, 岸 由二, 羽田 節子, 垂水 雄二 (翻訳) 『利己的な遺伝子』 2006年09月26日
 ビル ブライソン (著), 楡井 浩一 (翻訳) 『人類が知っていることすべての短い歴史』 2007年04月08日
 ジョン・アレン・パウロス (著), 松浦 俊輔 (翻訳) 『数学者の無神論―神は本当にいるのか』 2008年03月05日


■ 百夜百マンガ

派遣戦士 山田のり子【派遣戦士 山田のり子 】

 昨今では「派遣」というと、「派遣切り」、「派遣村」など失業者扱いというか、「かわいそうな人」というようなイメージを背負わされていますが、本書がスタートした頃は、のほほんとした正社員では太刀打ちできない「事務のプロフェッショナル」的なポジティブなイメージがあったように思います。

2009年4月 6日 (月)

日本史の誕生―千三百年前の外圧が日本を作った

■ 書籍情報

日本史の誕生―千三百年前の外圧が日本を作った   【日本史の誕生―千三百年前の外圧が日本を作った】(#1537)

  岡田 英弘
  価格: ¥2940 (税込)
  弓立社(1994/11)

 本書は、「日本列島に正当な位置を与えた世界史を書こう」という意図の下、「ユーラシア大陸と日本列島に共通な視点から」かかれたものです。
 序章「日本の歴史をどう見るか」では、日本の歴史を世界史の一部分として書くという当たり前のことがなかなかうまく行かない原因として、
(1)これまでの日本史が日本だけの歴史であって、日本列島の外の世界とは何の関連もなしにできあがっていること。
(2)本物の世界史と呼べるようなものがまだなくて、中国史と西ヨーロッパ史という、元々水と油の別物を、無理やりつき混ぜただけのものだから。
の2点を挙げています。
 第1章「邪馬台国は中国の一部だった」では、「『魏志倭人伝』から日本の歴史を復元するのはできない相談」である理由として、「『魏志倭人伝』は、魏朝中国の皇帝と、倭人の諸国とのあいだの政治関係の記録なのであって、倭国の方位や里程・風俗など、我々の興味をそそる記事はそのつけたりにすぎず、陳寿としては個人的に当時の日本にとくに関心をもつべき理由はまったくなかった」と述べています。
 そして、「一口に言えば、われわれ日本人は、紀元前2世紀の終りに中国の支配下に入り、それから400年以上もの間、シナ語を公用語とし、中国の皇帝の保護下に平和に暮らしていた。それが、紀元4世紀の初め、中国で大変動があって皇帝の権力が失われたために、やむを得ず政治的に独り歩きを始めて統一国家を作り、それから独自(?)の日本文化が生まれてきた」として、「日本の建国者は華僑であり、日本人は文化的には華僑の子孫である」と述べています。
 第2章「邪馬台国の位置」では、「魏志倭人伝」が倭人の諸国を列挙する順序が、実際の地理を反映したものだという仮定の上で、邪馬台国の位置を、「瀬戸内海の西部沿岸の、関門海峡の近くのどこか」だとしています。
 第3章「親魏倭王・卑弥呼と西域」では、「邪馬台国論争なるものは、実はいくつかの誤解がなくなってしまえば、論争それ自体、消えてしまう性質のもの」だとして、
(1)『日本書紀』に載っている神話や、神武天皇から応神天皇にいたる、いわゆる大和時代の物語が、何か4世紀以前の日本列島で起こった歴史上の事実の古い記憶を伝えたものだ、という誤解。
(2)「魏志倭人伝」は同時代の3世紀の中国の資料だから、当時の日本列島の実情を、中国人の目に映じたままに記録したもので、伝聞の混乱さえうまく訂正して、合理的に解釈すれば、どこに邪馬台国があったのか、決定できるはずだ、というナイーヴな誤解。
の2点を挙げています。
 第4章「倭人とシルク・ロード」では、「中国人は人種ではなく、首都の王なり皇帝なりと君臣の契約を結んでいるという政治的観念であり、都市に住んで中国語を話し漢字を使うという文化的観念なのである」と述べています。
 そして、「魏志倭人伝」に書かれた倭人の三十国は、「それぞれ華僑が作ったチャイナ・タウンであり、倭人の酋長たちは商税のあがりで食っていたのである」と述べています。
 第5章「日本建国前のアジア情勢」では、日本の建国を、「紀元668年であり、創業の君主は天智天皇」であるのは「東洋史学の立場から見て、疑いのないこと」だと述べています。
 そして、その背景として、「百済・高句麗の滅亡という、この事態が、倭人にとって、いかに重大危機だったかということは、今からでは、ちょっと想像もつかないほどだった」として、倭人が、「世界帝国の唐と、新たに韓半島の南部を統一した新羅という、この二大敵国に直面」し、それまで倭人が必要としていたアジア大陸からのテクノロジーと人的資源が「もはや頼れなくなってしまった」と解説しています。
 第6章「中国側から見た遣唐使」では、8世紀や9世紀の時代の遣唐使は、「新しい文化の輸入という目的」が目立つが、「7世紀の初期の遣唐使は、そんな平和な意味ばかり持っていた」のではなく、「当時のアジア大陸には、大変規模の大きな変動が起こっていて、われわれの祖先たちは、国際情勢の変化に押し流されそうになりながら、夢中で奮闘していた」のだと述べています。
 第8章「日本誕生」では、「紀元57年、最初の王権が博多に誕生するとともに、日本列島の政治史が始まった」と述べています。
 また、「天照大神が、『日本書紀』の神話で主役を演じ、皇室の祖先神となるのは、天武天皇が天照大神の信仰を採用して、新生日本国のアイデンティティの中心に据えたから」だと解説しています。
 第9章「神託が作った『大和朝廷』」では、『日本書紀』が語る神武天皇の事跡の大枠について、「壬申の乱での天武天皇の行動にヒントを得て作られた話であって、672年より前には、神武天皇の名前すら知られていなかった」と指摘しています。
 第10章「日本人は単一民族か」では、「歴史が始まったばかりの日本で、日本というアイデンティティを作り出すために行われたのが歴史の編纂」だとして、720年に完成した『日本書紀』を挙げ、一方で、『古事記』については、通説では712年にできたことになっているが、「実際にはそれより百年後の平安期の初期に作られた偽書」だと指摘しています。
 第13章「歴史の味方について」では、「われわれ日本人は、7世紀の建国以来、19世紀に至るまで、つねに中国の存在を意識しながら、しかも中国と深い関係に入ることを避けてきた」として、「いわば鎖国は、日本の建国以来の国是であった」と述べています。
 本書は、世界史のなかで日本の歴史を見る目を与えてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 邪馬台国へのロマンから考古学や歴史にはまっていった人も多いと思いますが、東洋史をベースにして日本を見るとこんな感じなのでしょうか。中学高校と習ってきた日本史もこういった成果を随時反映していってもよさそうなものなのですが、教科書に働きかけをしたいという人はずいぶんいて、とくに国民のアイデンティティに関わるものはうるさい人が多そうです。ちょうどグールドが戦った創造主義者のことを彷彿とさせます。


■ どんな人にオススメ?

・日本の外から日本の歴史を見てみたい人。


■ 関連しそうな本

 岡田 英弘 『だれが中国をつくったか 負け惜しみの歴史観』 2009年03月15日
 岡田 英弘 『日本人のための歴史学―こうして世界史は創られた!』
 岡田 英弘 『中国文明の歴史』
 岡田 英弘 『歴史とはなにか』
 岡田 英弘 『誰も知らなかった皇帝たちの中国』
 岡田 英弘 『世界史の誕生』


■ 百夜百マンガ

WANTED! 尾田栄一郎短編集【WANTED! 尾田栄一郎短編集 】

 作者に対する脅迫事件のニュースが出ていましたが、スマイリーキクチのケースと同じようなネットの匿名性による事件を想像させる報道の仕方にはちょっと引っかかるところがありました。

2009年4月 5日 (日)

人類は「宗教」に勝てるか―一神教文明の終焉

■ 書籍情報

人類は「宗教」に勝てるか―一神教文明の終焉   【人類は「宗教」に勝てるか―一神教文明の終焉】(#1536)

  町田 宗鳳
  価格: ¥1124 (税込)
  日本放送出版協会(2007/05)

 本書は、「ほかならぬ『宗教』こそが、人類最大の敵だと考えている」著者が、「宗教そのものというよりも、宗教の仮面をかぶった人間の思惑」を批判したものです。
 著者は、「宗教は〈愛〉と〈赦し〉を説くが、人を幸せにしない。人類社会を平和にもしない」理由は、「宗教は人間の勝手な思惑で作り上げられたフィクションに過ぎないから」だと述べています。
 第1章「エルサレムは『神の死に場所』か」では、「ゴルゴダ」が古代アラム語では「髑髏」を意味するが、「この教会は『神の死に場所』ではないのか」と述べ、「そこに渦巻いているのは、不信と憎悪のエネルギーであって、宗教が説いている〈愛〉のエネルギーではない」と指摘しています。
 また、「四千年のトラウマを抱えたユダヤ教から派生してきたキリスト教の基本構造にあるのは、やはり自分たち信仰者を〈正義〉とし、その信仰を受け入れない〈不義〉なるものを敵視する二律背反的世界観」であり、「そこに、自己中心的な〈愛〉の五人が生じやすい」と指摘した上で、「福音主義者」と呼ばれるクリスチャンの中には、「宗教というものを極めて狭く理解し、自分たちの信仰に加わらないものの立場を否定する人たちがいる」と述べています。
 そして、「他者の立場、他者の価値観を受け入れることのできない世界観を誰かによって植え付けられてしまったという事実は、実に不幸なことである」として、「宗教というのは、げに恐ろしいものである」と述べています。
 さらに、「一神教が持つネガティブな側面」の反面、「人類はその宗教からおおいなる恩恵を被っている」として、「人類が近代文明を構築しえたのは、ほかならぬ一神教的コスモロジーのおかげだった」と述べています。
 第2章「世界最強の宗教は『アメリカ教』である」では、「博物館入りがそう遠くないかもしれない日本仏教とは異なって、古代の宗教都市エルサレムで角を突き合わせている一神教は、今も生きている。しかも、進化している」として、「そのダーウィン的進化論の先端」に「アメリカ教」が誕生したと述べ、「アメリカを今日のスーパーパワーの地域に押し上げたのは、ピューリタン精神を核とする『アメリカ教』という世俗的原理主義者であり、それと正面衝突してしまっているのが、イスラム過激はの宗教的原理主義者である」と指摘してます。
 第3章「多神教的コスモロジーの復活」では、「このへんで『権力的な集中的統制力』をもつ文明の形態を転換しないことには、人類社会の行き詰まりは目に見えている」として、「一神教的コスモロジーから多神教的コスモロジーへの移行がどうしても不可欠となる」と述べています。
 そして、仏教とキリスト教の一番大きな違いとして、「それぞれが異文化・異宗教に出会ったときのリアクションの仕方」を挙げ、「仏教は融通無碍というか、妥協的というか、どこまでも土着の文化に合わせていこうとするのに比して、キリスト教はその思想性を高く掲げ、新領域をキリスト教色に染めようとする傾向がある」と述べています。
 第4章「無神教的コスモロジーの時代へ」では、「われわれは、いつまでも籠のような宗教が必要だと思い込むつもりなのだろうか」として、「人類が自分の足、つまり自分の判断力でしっかりと歩けるようになれば、宗教という歩行器はお蔵入りになる」と述べ、「無神教に目覚めることは、ロープなしで山に登ったり、重りなしで海にもぐるようなもので、決して簡単なことではない」が、「どれだけ時間がかかろうとも、人類の精神史において、有神の宗教が無神教へと変容していくのは、必然的で動かしがたいものであると思えてならない」と述べています。
 また、「現代に蔓延する精神的な荒廃やニヒリズムを警告し、そこから脱却するために人間がエゴを越えて成長する存在であることを指摘」するものとして、「トランスパーソナル心理学」を挙げ、「人間の心が成長していく個性化過程(individuation)や、それが究極的には『一なる世界』(unusmundus)につながり、そのゆえに共時性(synchronicity)という不思議な現象も起きるといった考え方」が、トランスパーソナル心理学の核心にあるものだと述べています。
 第5章「〈愛〉を妨げているのは誰なのか」では、「文明というハードウェアと、人間の欲望というウイルスに感染したソフトウェアで動かし続けていると、まもなくそれがブレイクダウンするのは、目に見えている」としながらも、「人間が欲望を抱くのが悪いわけ」ではなく、「問題は、欲望の使い方を誤ることである」と述べています。
 第6章「広島はキリストである」では、神話学の観点からみた、「日本文化が誇るべき美徳」として、「日本の神話に、いわゆる悪魔がいないこと」を挙げ、「日本文化では、神と人、善と悪、生と死が二項対立的に扱われることがなく、あいまいな関係におかれている」ことを指摘し、「近代文明が二項対立的な性格を強く帯び、そのために深刻な亀裂が生じていることを思えば、そのような曖昧さが貢献しうる余地は小さくない」と述べています。
 そして、「次世代の宗教は、実感の伴わない救いや、心理的な負担になるような罪を説くのではなく、刻々と終焉に近づきつつある人類に、『今』というときをいかに生き、そしていかに死を迎えるか、なんのてらいもなく、ストレートに語る宗教であって欲しい」と述べたうえで、「人類最後の看取りをしてくれる宗教が、一神教でも多神教でもなく、無神教の〈愛〉であることを祈っている」と述べています。
 本書は、人類にとって宗教とは何かを深く内省した一冊です。


■ 個人的な視点から

 本書は、タイトルを見ると少しぎょっとしてしまい、結構トンデモ本も平気で出版してしまうNHK出版だけに心配もしたのですが、本書で指摘しているような内容は、とくに宗教心のない人はもちろん、多くの日本人にとっては、うなづけるところが多いのではないかと思います。


■ どんな人にオススメ?

・大統領とキリスト教に熱狂するアメリカ人に違和感を覚える人。


■ 関連しそうな本

 町田 宗鳳 『前衛仏教論』
 町田 宗鳳 『法然―世紀末の革命者』
 町田 宗鳳, 上田 紀行 『「生きる力」としての仏教』
 松岡 正剛 『日本という方法―おもかげ・うつろいの文化』 2007年06月09日
 アレックス カー 『犬と鬼―知られざる日本の肖像』 2007年10月04日


■ 百夜百音

未来はパール【未来はパール】 パール兄弟 オリジナル盤発売: 1986

 僧籍を持つミュージシャンといえば、バカボン鈴木が有名ですが、昔のMCはバカボンは毎年ある時期になるとお寺に行かなきゃいけない、という話があったと記憶しています。

2009年4月 4日 (土)

はじめての初音ミク

■ 書籍情報

はじめての初音ミク   【はじめての初音ミク】(#1535)

  エム制作委員会
  価格: ¥2625 (税込)
  ヤマハミュージックメディア(2008/3/8)

 本書は、「人間の声を組み込み、データベース化した世界初の『歌うソフトウェア音源』」である「VOCALOID2 初音ミク」を通して、「音楽の創造・魅力・可能性」を紹介したものです。
 第1章「セットアップをしよう♪」では、「初音ミク」について、「専用エディタ(編集ソフト)を使い、音程と歌詞を入力して音楽データを制作」する方法について解説しています。
 第2章「楽譜を見ながら音符を入力してみよう♪」では、楽譜を見ながらピアノロール画面に入力する基本について解説しています。
 そして、歌詞については、初音ミク専用で、「長音の『ー』や小さい『っ』の表記が、通常の歌詞とは違う形になっている」と述べ、初音ミクは、「漢字や英語・数字の表現ができない」ことや、「歌詞の入力は、全部ひらがな・カタカナ・ローマ字で行う」ことなどについて解説しています。
 第3章「『大きな古時計』を歌わせてみよう♪」では、初音ミクの得意音域について、[A2]から[E4]をとく意図するとして、「これをもとに、楽曲を選んだり、オリジナル局の制作に、チャレンジしてみましょう」と述べています。
 また、声の性質については、「歌手の声質を調整する機能」である「ジェンダーファクター」について、「この値を大きくすると男性的で大人っぽい低い声」に、「値を小さくすると女性的で子供っぽい高い声」になるとして、「互いに極端にいじると、特殊な性質になるので、チャレンジしても面白いかもしれません」と述べています。
 第4章「伴奏に合わせて歌わせよう♪」では、「Cubase Studio 4」を使いながら、第3章で作成したメロディデータと、付属DVD-ROMに収録されたカラオケデータをミックスする手順を解説しています。
 そして、サウンド作りの要である音量バランスをとる「ミキサー」、音質を調整する「イコライザー」、音の強弱を加工して人間らしい歌声に近づける「コンプレッサー」、残響を調整することで「歌っているところを指定する」働きを持つ「リバーブ」などの機能について解説したうえで、自分で作った曲を人に聞いてもらうためのWaveファイルへの「書き出し」の方法などを説明しています。
 第5章「DTMで広がる世界♪」では、「パソコン上で音楽を作る作業」である「Desktop Music (DTM)」について、DTMが飛躍的に発展した理由として、「DTMでは、人間の代わりにパソコンが音楽を演奏してくれるので、入力したフレーズをその場で確認することができ」、「修正も簡単に行うことが可能」などのメリットがあるため、「DTMはプロの現場でも多用され続けている」と述べています。
 そして、初心者から本格サウンドまで、音楽制作ソフトの紹介をしています。
 第6章「DTMでオリジナル楽曲♪」では、実際にオリジナル楽曲を制作する手順を、ソフトの起動からドラムパターンの作成、他のパートの入力方法など、順を追って解説しています。
 第7章「動画を作って投稿しよう♪」では、VOCALOIDシリーズを制作したクリプトン社が運営するCGM型コンテンス投稿サイト「ピアプロ」を紹介した上で、Windows XPに標準で搭載されている「ムービーメーカー」を使って、静止画と音声の動画を作成する方法を解説し、ニコニコ動画に投稿するときのファイル形式である「flv」形式への変換方法について解説しています。
 第8章「VOCALOID関連特集♪」では、VOCALOID2のバーチャル・アイドルとして、「初音ミク」や「鏡音リン・レン」などのVOCALOIDのキャラクター設定や、本書描き下ろしのイラストなどを紹介しています。
 また、「はちゅねみく」によるVOCALOID開発者インタビューも掲載されています。
 第9章「VOCALOID2のレパートリーを増やそう♪」では、「創聖のアクエリオン」、「風の谷のナウシカ」、「残酷な天使のテーゼ」などの楽譜や「初音ミク版歌詞カード」が掲載されています。
 また、「初音ミク」の「入力語の決まり」として、
(1)「漢字・英語・数字」は「ひらがな・ローマ字・カタカナ」にする。
(2)助詞の「は」→「わ」、「を」→「お」にするなど、表記と発音が違うものは発音どおりにする。
(3)促音の「っ」は、音(音符)を短くするか、母音を入れて表現する。
(4)ピアノロールに入力した音(音符)の数を歌詞の文字数を同じにする。
(5)
の5点を解説しています。
 本書は、初音ミクに歌を歌って欲しい人にとっては必携の一冊です。


■ 個人的な視点から

 本書には、「初音ミク」の体験版が付いているのですが、やっぱり自分が作った曲を歌ってもらえるのは嬉しいもので、ついつい何時間も曲作りに没頭してしまいます。

■ どんな人にオススメ?

・自分の作った曲を初音ミクに歌ってもらいたい人。


■ 関連しそうな本

 クリプトン・フューチャー・メディア 『VOCALOID2 キャラクターボーカルシリーズ01 初音ミク HATSUNE MIKU』
 目黒 真二, Otomania 『初音ミク・鏡音リン・レン☆ボーカロイドを楽しもう』
 できるシリーズ編集部, 藤本 健, 大坪 知樹 『できる初音ミク&鏡音リン・レン』
  『DTM MAGAZINE 2008年 08月号』


■ 百夜百音

supercell【supercell】 supercell feat.初音ミク オリジナル盤発売: 2009

 ここのところ、初音ミクのCDがチャートにも入ってくるようになったことで、近いうちに一つのジャンルとしてVOCALOIDものは定着するのではないかと思います。

2009年4月 3日 (金)

私の履歴書 人生越境ゲーム

■ 書籍情報

私の履歴書 人生越境ゲーム   【私の履歴書 人生越境ゲーム】(#1534)

  青木 昌彦
  価格: ¥1995 (税込)
  日本経済新聞出版社(2008/04)

 本書は、2007年11月に日本経済新聞に連載された「私の履歴書」をもとに、「経済や政治の制度、さらには社会規範や文化などが一体となった制度様式が、なぜまとまった『かたち』として多様でありうるのか、さらにはそれらの多様性の底流にある普遍原理は何か、を考えようという学問」である、「比較制度分析」の第一人者である著者の半生を追ったものです。
 第1日「七つの知的ベンチャー」では、著者の専門分野について、「経済学、それも学部生時代のマルクス主義から受けた影響から脱し、経済システムを数理的に分析することが職業的な出発点だった」が、「それだけでは飽き足らず、比較制度分析という領域の開拓を試みるようになった」と述べています。
 そして、著者が、「世の中で当然のこととされている考えやしきたり、いわば社会のゲームのルールとも言うべきものに、チャレンジしようと、国の内外で7つもの『ベンチャー』の創成にも携わってきた」として、「新しい企てへのコミットメント→それなりの達成感か、挫折による引きこもり→リセット」という「懲りない繰り返し」が、「私の人生や学者生活を形作ってきた」と述べています。
 第2日「学生運動」では、東京大学の学生だった著者が、「全学連(全日本学生自治会総連合)」の情報宣伝部長を務め、また、全学連の活動を核としてできた「ブント(共産主義者同盟)」の創立メンバーの一人でもあったとして、1960年には、「羽田空港内で多くの学生と一緒にバリケードを築き、岸信介首相の訪米を阻止しようと試みた」ことから、秋葉原の万世橋警察署内に拘留されたことが述べられています。
 第3日「三人の先輩」では、歴史学者を目指して東京大学に入学した著者が、学生運動家の広松渉に、「日本共産党はもうだめだが、東大細胞でもう一度本当のマルクスを復活させる」東大細胞と誘われ、キラ星のように結集していた「秀才、俊才、異才、鬼才」に出会ったと述べています。
 そして、「本郷に進学する頃には、歴史を勉強するよりも経済学を勉強するのがマルクス主義の本道だと考え、経済学部に進学」しています。
 第4日「『姫岡玲治』」では、「ブント創立に向けてものを書き始めた時、旧左翼の流儀に従いペンネームを考えた」として、電話帳で見かけた珍しい印象的な姓である「姫岡」と、レーニンから「玲」、中学時代からの親友高橋悠治から「治」を借りて、「姫岡玲治」というペンネームを考えたと述べ、全学連先輩の森田実からは、「眉目秀麗な若者を彷彿とさせますな」と冷やかされたと語っています。
 そして、1960年1月、『中央公論』に、詩人にして思想家の吉本隆明が、「若い世代の政治家たち」として、ブント系の学生運動活動家の考えの一例として、姫岡玲治の文章を取り上げ、「石原や大江が、戦前も戦中も体験しなかった過去としてあっさり無視(少なくとも当時までは)したのに対し、若い世代の政治家たちは戦前、戦中、戦後を貫く社会構成の相対的なビジョンの分析から一つの独自な政治思想を展開している」として、「安保海底問題は国家独占が支配を維持・強化してゆくための布石だという点で、自分と共通の思想的な認識がある」と述べたことが、「言論界に大きな反響を呼び起こした」として、「それまでは思想界でも、政治の世界でも、孤軍奮闘というありさまだった分との我々にとって、その論文はまたとない力強い同盟者の登場を意味した」と述べています。
 第10日「巣鴨拘置所と安保闘争」では、巣鴨拘置所に移された著者に対し、「両親は意外と平成だった。実業家で、リベラルな思考の持ち主だった母方の祖父が、『年寄りの政治を正すために若者が行動するのはよいことだ』と言って、自分の娘つまり私の母の動揺を支えてくれた」と述べています。
 そして、安保闘争について、「自らの民主的な統治能力の不足を国家の軍事力の動員によって補うというような、岸流の政治的選択に未来はなくなった。その後の経済成長をリードした経営者のあいだにさえ、安保闘争によって統制経済復活の可能性の重石が取れたことを評価する者が少なくない」とする一方で、「民衆の自発的な政治行動を統制し、管理するという『前衛党』神話や、労働者階級が暴力によって国の形を変えるために立ち上がるという幻想」も打ち砕かれたと述べ、「とにかくブントは凄まじいまでの『出来事』の連続の中でもっとも急進的な役割を演ずることにより、結果として次の時代へと導く触媒の役割を無自覚のうちに果たした」と述べています。
 第11日「ブント崩壊」では、「『経済学』だけで政治的行動の戦略の根拠付けができるという『経済学至上主義』の考え、また政府の政策だけで国家独占が維持されるという社会構成全体のビジョンを考えは、極端なラディカリズムを一見根拠付けるかに見えても、その脆さは一時的な熱気が冷めると顕わになった」と指摘しています。
 第14日「留学作戦」では、ミネソタ大学から客員教授として東京大学に来ていたジョン・バトリック教授の勧めでミネソタ大学への留学を志した著者の前に、「政府の暴力的転覆を目的とする政治団体に入っているか、かつて入っていた者は入国できない」とするアメリカの移民法が立ちふさがり、「国務長官の推薦で検事総長の許可があった場合」という例外規定があったため、アメリカ大使館で面接を受け、「ブントと全学連は、別に反米を目的としたわけではなく、日本の軍国主義的復活に反対したのだ」と説得したと語っています。
 第18日「対抗文化」では、ハンガリーの経済学者コルナイ・ヤーノシュ、新制度派のパイオニアグラス・ノースなど、「私が親しくしている学者には、若い頃マルクスに傾倒していた人が少なくない。20世紀においてはマルクスの動態的社会観は、制度進化・変化を考えることになる学者にとって麻疹のようなものだったのだろうか」と述べチエます。
 第15日「アメリカを去る日」では、1971年秋に、先妻を事故で亡くしたことをきっかけに、「今やアメリカを去る日が来たと心が定まった」と述べています。
 第22日「東と西で企業を考える」では、1976年の中国旅行中、中谷巌氏と岩田昌征氏とのバスのなかでの会話がきっかけとなり、「経営者が、株主と従業員の双方の利益のバランスを取って企業を経営するという、企業のゲーム論的モデルを考えた」として、「バランスが株主と労働者のあいだで、どちらかに一対ゼロとなる特殊なケース」となり、「今でいう、コーポレート・ガバナンス(企業統治)のステーク・ホルダー理論の基礎づけだ」と述べています。
 第23日「再び古巣へ」では、1984年、スタンフォードに16年ぶりに復帰した著者が、「環境に恵まれて私はすっかり元気を取り戻し、学問的にも生産的となった」と述べ、「日本に対する知識欲が盛り上がっていた」時代に、大学院で『現代の企業:その理論と実践』を開校し、数年後に著者が日本に帰ったあいだには、ミルグロム教授がこの講義を受け持ち、そのときの講義ノートをもとに、ロバーツ教授と共著で書いたものが、日本でも名高い『組織の経済学』だと述べています。
 第25日「比較制度分析に向けて」では、1990年に、スタンフォード経済学部の大学院に「比較制度分析(頭文字をとって通称CIA)の博士号論文のフィールドを立ち上げた」として、「CIA分野には第一級の研究者が集まった」として、ポール・ミルグロム(組織論の教科書や周波数の配分オークションの設計で有名)、アブナー・グライフ、銭穎一、マルセル・ファフシャン、ジョン・リトバックなどの名を挙げ、「比較制度分析では、市場、社会規範、国家制度などの諸制度を一つの整合的な固まりと理解しようとする。その場合、さまざまな社会ゲームの絡み合いの『均衡』という概念が重要な役割を果たす」が、ゲーム理論だけでは、「なぜ、どのように、多様な制度様式が生まれてくるのか」を「自己完結的に説明することはできない」として、「さまざまな制度にかんする比較・歴史情報とゲーム理論的分析を結合させること」ができる点で、「我々のCIAは世界中探しても類のない、包括的で、豪華なメンバーで出発した」と述べています。
 第26日「霞が関へ」では、1997年に通商産業研究所の所長に就任した著者が、独立行政法人化を契機に「どのように本格的なシンクタンクを日本に作るか」を考えるようになったとして、従来の省内研究所が、
(1)研究員は主に省内キャリア官僚で、それに大学からの出向者が数名加わるだけ。
(2)研究員は擬アカデミックな研究発表はできるが、省益に反した政策提言は個人の資格においても、チームとしても慣例上しない。
(3)所長は学術アドバイザーで、事実上の管理はキャリア官僚である副所長が担う。
というものであったが、「独立行政法人という新制度のメリットを生かし、従来にない質の高い政策研究のシンクタンクを日本に作る」ためには、
(1)研究員には通産省を超えて広く人材を世に求め、「産学民」の三位一体の研究体制とする。
(2)個々の研究員はそれぞれのイニシアティブと責任を持って行う研究に専念し、サポート・スタッフにはプロの人材を登用する。
(3)理事長職と所長職を分離し、所長は研究上の目利きとして研究者の人事権を握るが、研究体制の基本的方向性が間違っていれば理事長が所長をクビにする。
の3点セットの要件が必要になると述べています。
 そして、着任後すぐに、「若手のリーダー格だった安延申電子政策課長(現フューチャー・アーキテクト社長)をヘッドに『通産レビュー編集委員会』というインフォーマルな組織を作り、そこに通産省の飛び切り優秀な若手15人くらいに集まってもらって、どういう政策研究の課題があるか、議論するようにした」と述べ、メンバーの半分ほどは、「経済産業省の一線級の課長として活躍」し、残りは、国会議員、大学教授、上場企業社長などになっているとしています。
 しかし、「私は今までの霞が関のしきたりを踏み越えることによって、後に虎の尾を踏むような事態になるのに、まだ気が付いていなかった」と述べています。
 第27日「独法の光と影」では、「2001年の経済産業研究所(RIETI)発足から2年間は、幹部、研究員、スタッフが一丸となり」、「本省ではできないような長期的政策研究を行う」という意味での「霞が関チームII」を作る熱意に燃えていたとして、『経済政策分析シリーズ」や『経済政策レビュー』などの出版、BBLセミナーの開催、RIETIの財政改革プロジェクトのメンバーだった鶴光太郎、高橋洋一氏が経済財政諮問会議で、時の与謝野大臣と竹中大臣の論争を支える経済学ブレーンとして活躍したこと等を挙げています。
 しかし、発足3年目には、「研究成果が目覚しく世に認められる研究員が出る一方、いわゆる『雑巾がけ』に徹している本省の行政官の中には、批判を溜め込んでいた人たちもいたようだ」として、「黒子に徹してきた役所の一部には、顔の見える同僚の活躍に嫉妬の火を燃やすものもいる。これは日本の組織文化の機微と澱みにかんする私の理解不足にも責任があった」と述べ、「私の理想とした政策研究シンクタンクの三原則は次第に掘り崩されていったが、それに対抗するのには、今ある独法の法制的ルールの下では、私の力に余るように感じられた。ゲームのプレイの仕方にかんする官僚たちの意識変化の可能性についても、私の期待は甘すぎたようだ」と述べています。
 著者は、RIETIにおける3年間を、「私個人にとっては研究面で時間を無駄にしたのではないか、という思いを今でも完全には拭えない」が、「その期間、私はこのベンチャーに中途半端ではなく全力投球をしたという自負もある」と述べています。
 第30日「社会のゲームと仮想研究所」では、「この『履歴書』を書いてみると、自分史と同時代史が分かちがたく絡み合っていることが、今さらながら感じられた」として、「自分史と時代史のあいだの関係は、私にとっては個人的にも、職業的にも切実な課題だった」と述べています。
 また、「社会と個人の関係の包括的な理解に有用な社会科学言語は、これまでもたびたび言及してきた『ゲーム』の考え方にある」とした上で、「社会科学の対象は、あるルールのもとで、他人の意図や行動を推察しつつ自分の行動を選択する人間たちの相互作用であるという意味で、それはゲームに喩えられる」として、「そこに客観的に存在する物的要素の相互作用を対象とする物理現象と決定的な相違がある」と述べています。
 そして、「社会と個人の関係を理解するのに、なぜゲームという考えが単なる類推を超えて有用なのだろうか。正統的ゲーム理論から何が学べるのだろうか、その思考枠組みはどう拡張されるべきなのか」について、
(1)伝統的なゲーム理論はもっぱら個別主体の金銭動機、したがって経済行動を対象としてきたので、その応用可能性は限られている、と問題にされているが、何らかの順序付けがつくスコア(利得)の獲得をお互いの目的としているような社会的関係であれば、ゲームとの類推は可能となる。
(2)ゲームの考え方を用いると、「個人が社会を作る」という経済学的考え(方法論的個人主義)と「社会が個人を作る」という社会学的考えの間の「鶏が先か、卵が先か」的対立に橋渡しができる。
(3)実効的なルールとしての制度は、突然あるいは社会に先立って、政府や、神様、超越的理性が設定するのではなく、人々のゲームのプレイそのものの中から、人々の共同行為の結果として生まれてくる。
の3点を要点として挙げ、「人々の意識的・無意識的な認知の構造と社会の制度(ルール)のあいだには、まだ十分に解明されていない関連性があるのではないか、というのが社会科学・人文科学の諸分野の境界を越えて最近浮かび上がってきた最先端の問題意識である」と述べています。
 結「越境ゲームに挑戦して」では、「人それぞれが社会的ゲームのプレイヤーであるということは、個々人の主観的視座から見ると、社会に対して独自の『人生ゲーム』をプレイしているという喩えになるだろう」と述べ、「一つの越境ゲームは他のそれと絡み合い、全体として切れ目のない連鎖をなしているようだ」として、「一見、事後的な自己合理化のようではあるが、人生ゲームには生きている限り終わりはなく、価値も、負けもないのではないか、という思いにたどり着く」と述べています。
 本書は、日本を代表する経済学者の知られざる半生を描いた一冊です。


■ 個人的な視点から

 比較制度分析や「組織の経済学」は個人的には相当ハマっていたので、本書はとても楽しみでした。しかし、それ以上に目を引いたのは、全学連、ブントでの「姫岡玲治」時代の話でしょうか。ネットで過去にこのペンネームを使っていたことは知っていましたが、本人の口から初めてまとめて語られたという意味で衝撃が大きかったです。


■ どんな人にオススメ?

・「政治の時代」を生きた経済学者の半生を読みたい人。


■ 関連しそうな本

 青木 昌彦 (著), 滝沢 弘和, 谷口 和弘 (翻訳) 『比較制度分析に向けて』
 青木 昌彦, 奥野 正寛(編著) 『経済システムの比較制度分析』 2005年05月10日
 ポール・ミルグロム, ジョン・ロバーツ (著), 奥野 正寛, 伊藤 秀史, 今井 晴雄, 八木 甫(翻訳) 『組織の経済学』 2005年01月24日
 青木 昌彦, 安藤 晴彦 (編著) 『モジュール化―新しい産業アーキテクチャの本質』 2005年04月22日
 コルナイ ヤーノシュ (著), 盛田 常夫 (翻訳) 『コルナイ・ヤーノシュ自伝―思索する力を得て』
 青木 昌彦 (著), 永易 浩一 (翻訳) 『日本経済の制度分析―情報・インセンティブ・交渉ゲーム』


■ 百夜百マンガ

レッド【レッド 】

 学生運動というと、「アカシアの雨に打たれて」とか「いちご白書をもう一度」とかの歌では残っているのですが、漫画ではあまりないのでしょうか。山本直樹が描くとなると相当重たくなりそうな感じですが。

2009年4月 2日 (木)

「力強い」地方づくりのための、あえて「力弱い」戦略論

■ 書籍情報

「力強い」地方づくりのための、あえて「力弱い」戦略論   【「力強い」地方づくりのための、あえて「力弱い」戦略論】(#1533)

  樋渡 啓祐
  価格: ¥1260 (税込)
  ベネッセコーポレーション(2008/01)

 本書は、「大人の僕たちが忘れていた友情、笑い、知的興奮、世代間交流」などがいろいろ詰まった、「まちづくり」という「楽しい、ドタバタ・現在進行形のドラマ」が詰まった「普通の力弱い市長、そして、普通の職員の物語」です。
 第1章「不可能を可能に――佐賀のがばいばあちゃん」では、ドラマ「佐賀のがばいばあちゃん」の誘致に手を挙げたときには、「何の伝手もなく、何のノウハウもなく、あるのは気合だけ」だったが、誘致に手を挙げた自治体リストの中に、佐賀県内の市町村がなく、担当者欄には、武雄市だけが市長の携帯番号が書いてあったエピソードを紹介し、「定石どおりにやったら、大型ドラマの誘致なんかできない」と述べています。
 そして、「JR九州始まって以来、ロケに現役の線路を貸してくれた」として、「市長の仕事は99%不可能なことをやること」だと述べています。
 第2章「頑張ろう!と声を張り上げるよりも――ダンスチームGABBAの誕生」では、「佐賀のがばいばあちゃん」のプロモーションに、タレントではなく本物の「武雄のがばいばあちゃん」を使ったと述べ、人選に当たって大事なのは、「相談しないこと。相談するとぶれる。ぶれるとそれが動揺感や不統一感になってしまい、他者に伝わってしまう」と述べています。
 そして、GABBAのCDデビューに当たっては、「メジャーレーベルから話が来ていたが、全て蹴った」、「東京のプロにお任せするのではなくて、自分たちで作ろうと思った」と述べています。
 第3章「認知を上げる」では、「僕の仕事は、企業誘致に変わる、企業誘致よりも効果的なことを考えている」ことだとして、「同じ土俵で強い自治体と勝負しても負ける。そしたら、土俵を移るだけの話だ」と述べています。
 第5章「どうせならやって失敗してくれ」では、「市役所(職員)がお宅まで伺う制度」である「動く市役所制度」が失敗した理由として、「年や性別に関係なく、みんな町に出たがっているし、人とのふれあいを求めている。そういう気持ちに思いが至らなかった」と述べています。
 第6章「不思議なエネルギー」では、著者が公務員になりたいと思ったきっかけとして、県庁の職員だった著者の父の職場に弁当を届けに行ったときに、「家の中では無口な父親が、凄く楽しそうに仕事をしている」のを見たことだったとして、「『両親の背中』だけでは今の時代、何かを得るのは難しくて、職場での『両親の顔』を見るのが大切なのだろう」と述べ、市長着任曹操に、「パパママ職場拝見制度」を作ったことを紹介しています。
 また、市役所1階キッズステーションを開設したことについて、誰も来ないかもしれなかったが、「僕らはやることも早いが、もっと早いのは撤退と修正だ」と述べています。
 第7章「農業でない農産業戦略――レモングラスを名産品に」では、今では、「単位面積では日本最大のレモングラス産地」となったことについて、レモングラスに目をつけた理由は、「レモングラスが好き」だということと、「こういう小規模自治体は、最初にやること、ファーストランナーになることが大切だ。二番煎じになると誰も目を向けない」と述べています。
 第8章「オープンと準オープンな関係」では、職員に望むこととして、「いつでも、ヘッドハンティングされるような人材であってほしい」と述べています。
 第10章「僕の流儀」では、「僕は思いつきでぽんぽんものを言う」が、「関係者はたまらない。しかし、成功例を増やすために渡来する数がいる。勢いがいる。ついでに言うと、気が弱いので、どんどん自分の手から離していく。自分でやるよりも、周りの人たちにやってもらったほうが成功率が高いのだ、うちの市役所は」と述べ、「お役所の失敗例の多くは、最初に決めたことを金科玉条のようにして最後まで突っ走ってしまうからではないか。その対極が武雄市役所だ」と述べています。
 また、トップセールスでうまくいったものとして、「関西大学の高槻市への誘致、ドラマロケの武雄への誘致、日田天領水との連携」を挙げ、うまくいく要素として、
(1)向こうのトップと人間関係を築くこと。
(2)だいたい優れたトップには懐刀がいる。その懐刀を大事にする。
(3)現場の人にかわいがってもらう。
の3点を挙げています。
 そして、面白い企画の考え方として、「99%マネ論、そして1%のオリジナリティをくわえたもの」を挙げ、「これってとても簡単だ」と述べ、さらに、「仕事+趣味→とてつもなく大きいものになる」という「組合せ論」を提唱しています。
 第11章「誰も読まないなら」では、「市民や議会が分からないようにしているとしか思えないもの」さえある「施政方針」を、高槻市役所時代に、「職員もそうだが市民にどうやったら読んでもらえるか」を考えた結果、「施政方針演説を完全マンガ化」し、さらに、「高槻市役所のHPにデジタル漫画に載せたら大反響」だったと述べています。
 本書は、自らは「力弱い」と謙遜していますが、「柳に風折れなし」の諺にあるように、しなやかに問題に立ち向かう力強さを感じさせてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 内閣府の勉強会で著者の講演を聞き、お話しする機会がありましたが、本書に書かれているそのままのバイタリティ溢れるお人柄でした。


■ どんな人にオススメ?

・したたかに生き残る地方を目指したい人。


■ 関連しそうな本

 佐々木 信夫 『自治体をどう変えるか』 2008年01月28日
 白川 一郎 『自治体破産―再生の鍵は何か』 2006年10月30日
 埼玉新聞社 (編集) 『生き生きまちづくり 埼玉県志木市の挑戦』 2005年04月17日
 北川 正恭 『生活者起点の「行政革命」』 2005年03月07日
 逢坂誠二 『町長室日記―逢坂誠二の眼』 2005年05月27日
 田村 明 『都市ヨコハマをつくる―実践的まちづくり手法』 2005年07月27日


■ 百夜百マンガ

西遊記【西遊記 】

 世代的に「西遊記」と言えば、堺マチャアキか志村けんの「ニンニキニキニキ」が思い浮かぶのですが、各世代でそれぞれの「西遊記」ものがあっていいと思います。

2009年4月 1日 (水)

メディア裏支配―語られざる巨大マスコミの暗闘史

■ 書籍情報

メディア裏支配―語られざる巨大マスコミの暗闘史   【メディア裏支配―語られざる巨大マスコミの暗闘史】(#1532)

  田中 良紹
  価格: ¥1680 (税込)
  講談社(2005/03)

 本書は、わが国では、「メディアについてほとんどその実態が知らされていないこと」を指摘し、「新聞とテレビが『記者クラブ』という『ムラ社会』の構成員で、お互いに都合の悪いことを明るみに出さない談合体質があること、また他の先進諸国では見られないことだが新聞とテレビが全て系列化されているというわが国の特殊事情」を解説しているものです。
 序章「崩壊のはじまり」では、2003年9月の野中広務元幹事長の政界引退について、「長らくわが国を呪縛してきた2つの『裏支配』が崩れ始めたこと」を意味したとして、
(1)政治の裏支配
(2)メディアの裏支配
の2点を挙げ、「伝播の調整を行う政治家が不在となったことを意味する」として、「今、派閥主導の政治構造が崩れていくように、もう一つの『裏支配』、メディアをコントロールしてきた電波利権の構造も崩れつつある」と述べています。
 著者は、「国民にメディアの実像を知らせなければならないときが来た」として、「国民に決定的な影響を与えるメディアがどのような素顔を持っているのか、国民には全く知らされていない。良識あるジャーナリストと呼ばれる人たちが必ず指摘する『記者クラブ制度の弊害』についても、具体的な事例を挙げて言及した人はいない」として、この「触れてはならないタブー」に挑戦すると述べています。
 第1章「視聴率という名の神」では、ニュース番組が「視聴率の世界」になった結果、「それまでは金の稼げない地味な世界であった報道セクションが、金を稼ぐための華々しい世界に生まれ変わった」と指摘しています。
 また、1993年7月18日の第40回衆議院議員選挙に関して、テレビ朝日の椿貞良報道局長が、「細川政権はテレビが生んだ」、「細川政権を作ったのは久米宏と田原総一朗だ」と発言し、部下に対して、「非自民政権が生まれるように報道しろ」と指示したことについて、「思い上がりも甚だしい発言だと思った」と述べています。
 第2章「『記者クラブ』というギルド社会」では、著者が司法記者クラブに在席していた頃は、「家宅捜索を事前に発表することがなかった」ため、「家宅捜索の映像などありえなかった」として、「家宅捜索の映像が、国民に『検察の正義』と『被疑者の悪』というイメージを植えつけることは間違いない」と述べ、「司法記者クラブほど徹底した情報管理の下に置かれ、それに抗することのできない無力な記者クラブは他にない」と指摘しています。
 そして、警視庁には、
(1)朝日新聞、毎日新聞、読売新聞、東京新聞、日本経済新聞と共同通信がメンバーの「七社会」
(2)産経新聞、時事通信、NHKなどが所属する「警視庁記者クラブ」
(3)民法各社の「警視庁ニュース記者会」
の3つの記者クラブがあるとして、「記者クラブが3つに分かれているため、広報の係官は同じ発表を3ヵ所で別々にやらなければならなかった」ことなど、「実に無駄で馬鹿馬鹿しいことが行われているのだが、誰も馬鹿馬鹿しいとはいえない。それが記者クラブなのである」と述べています。
 また、「さまざまな記者クラブを見てきたが、どこのクラブでも仕事のできる優秀な記者は村八分的存在だった」として、「極めて少数の優秀な記者と記者クラブに守られた多くのサラリーマン記者とによって日本のメディアは成り立っている」と述べ、「記者クラブのほとんどは霞が関を中心に『官』の世界にある。だから新聞もテレビもニュースは圧倒的に官庁初の情報で占められている」ことを指摘しています。
 著者は、「日本に議会制民主主義が芽生えた頃、秘密主義の政府に対して取材を要求するため、新聞社が団結して作った記者クラブは、百年余を経て既得権益を守るための組織となり、同時に政府に管理されやすい談合の組織と化している」と指摘しています。
 第3章「政治権力とメディア」では、「政治の世界は熾烈な権力闘争の世界」であり、「権力を得るためにさまざまな謀略劇が繰り広げられる」とした上で、「昔ならば暗殺など暴力を用いて決着を図ることもあっただろうが、現代では多くの国民の支持を得たほうが価値である」ため、「戦いはメディアを巻き込む情報戦となる」と述べ、「政治の世界では、情報が戦いの最大の武器なのである」と述べています。
 そして、「この国のメディアは、『特オチ』と言って、他者が報道した内容を一社だけが報道できなかったことを大きな恥とする」一方で、「前者が間違えると誰も責任を問われない」ことを指摘し、「これは全く倒錯した話だ」と述べています。
 第4章「歪んだニューメディア」では、「郵政省の放送行政に圧力をかける勢力としての新聞社の実態は全く国民に知られていない」として、「その先兵となっている『波取り記者』と呼ばれる記者の存在」を挙げ、「波取り記者は取材もしなければ記事も書かない。郵政事業を自分たちの異のままにするのがしごとである。そのために波取り記者には年配の記者が選ばれ、政治部、中でも田中派担当記者がなることが多かった」と述べています。
 そして、波取り記者が、「民法を郵政省記者クラブに加盟させることに強硬に反対した」理由が、「民法は郵政省に監督される『業者』で報道機関ではない」というものだったと述べ、「こうした波取り記者を先頭に、新聞社の妨害によって日本にはケーブルテレビが普及しなかった」と述べています。
 終章「メディア裏支配」では、「とりあえず国民がメディアと向き合うときに大事なのは、『正しい報道』という呪縛から解き放たれることだ」として、「最も大切なことは、わかりやすい報道には嘘があると思うこと」だと述べています。
 本書は、日本のメディアがどのような体質を持っているかを分かりやすく解説した一冊です。


■ 個人的な視点から

 いわゆる「記者クラブ」に主要新聞社とNHKが入っていて、他の民放テレビ局が入っていないのは不思議な感じがしますが、郵政省を跋扈した「波取り記者」という存在を知ってしまうと、彼らが郵政省管理下の民法と一緒にされたくない、と考えた理由は分からないではないものの、ものすごく時代錯誤に感じてしまいます。


■ どんな人にオススメ?

・記者クラブは誰のためにあるのかと思う人。


■ 関連しそうな本

 魚住 昭 『野中広務 差別と権力』 2009年03月14日
 魚住 昭 『官僚とメディア』 2008年04月20日
 国際社会経済研究所, 青木 日照, 湯川 鶴章 (著) 『ネットは新聞を殺すのか-変貌するマスメディア』 2008年02月29日
 池田 信夫 『ネットワーク社会の神話と現実―情報は自由を求めている』 2005年09月17日
 池田 信夫 『電波利権』 2007年05月07日
 吉野 次郎 『テレビはインターネットがなぜ嫌いなのか』 2008年05月03日


■ 百夜百マンガ

ユニコ【ユニコ 】

 昔は今ほど少年マンガと少女マンガの間の境界線はそれほど高くなかったようで、多くの少年漫画家が少女マンガを描いていたり、少女マンガでデビューしたりということをよく聞きます。最近では、少女マンガから青年誌に移ってくる人が多いような気もしますが。

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