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2009年12月

2009年12月31日 (木)

「心なおし」はなぜ流行る―不安と幻想の民俗誌

■ 書籍情報

「心なおし」はなぜ流行る―不安と幻想の民俗誌   【「心なおし」はなぜ流行る―不安と幻想の民俗誌】(#1806)

  宮田 登
  価格: ¥840 (税込)
  小学館(1997/01)

 本書は、「都市生活者の日常的生活意識や行動のそれぞれに、少なくともケを維持・強化する意図があるとすれば、これは共通して『心なおし』によるものといえるのではなかろうか」としてい、「心なおし」を「新宗教の枠組みだけにとらわれないで」考えたものです。
 第1章「夢と現実のはざま」では、昭和56年あたりから「通り魔の衝動殺人事件が、特に白昼に起こることが頻発するようになった」ことについて、「昭和30年代後半には言って、従来物欲や色欲にもとづいて発生したと説明される犯罪とは性格の異なる新しい犯罪の傾向が出てきた」として、「それは心の深奥に秘められた抑圧感やうっ積した思いが噴出して大きな要因となった」と説明されることを紹介しています。
 そして、「現代日本の代表的な都市伝説」といえる「口裂け女」について、「般若面にも通じ、山中から平地に出現してくる山姥や鬼女の現代版でもある」として、「現代の文明社会における『迷信』は、子供・女性・老人を含めて、実に多様な展開を示していることがわかる」と述べ、「『迷信』は、近代国家では、かならず排除されるべき文化要素として、インテリたちから指弾されてきた」が、「文明は呪術を全面否定することができないまま、非合理性を保持してきた感じがある」としています。
 また、「水子地蔵の進行は日本列島至るところに普及している」ことについて、「水子が救いを求めており、『見ず子』に対する優しさと懺悔の気持ちから供養しなければならない、という一種の生活倫理が正面に打ち出されている」と述べたうえで、「水子や赤子については、その葬法が特別で、屋内の大黒柱の下とか床下に埋めて、ふつうの墓地には埋葬しない。石塔は立てず、丸石や板塔婆だけにして、墓の入り口に埋めたり、悪寒の中にわざわざ生臭い魚を入れておき、仏の世界に行かないようにするといった呪法が伝承されていた」と述べています。
 さらに、「ハレとケの間に位置するケガレの循環構造が重要となる」として、「ケガレは、一般にケが維持できなくなりつつある状況から派生するケの衰退である」と述べた上で、「ケガレを排除することは、浄化することであり、都市の繁栄はそうした都市の浄化作用に支えられている」と述べています。
 第2章「都市生活者の原風景」では、昭和4年に公刊された柳田国男の『都市と農村』において、「日本の都市」の特異性として、「都市民である市民が、『二代三代前の移住者の子』か『村民の町に居る者』によって構成されており、『耕作漁猟の事務と、何等直接の関係』をもたず、『心持は全然村民とは別』だというような外国都市における市民は日本に存在しないことを大きな前提とした」と述べています。
 また、永井荷風が「東京の固有の趣き」を描こうとした視点の中で興味深い点として、「町を表通りと裏通りとに空間的に分類し、表に対する裏に東京らしさの価値基準を置いた点」を挙げています。
 第3章「『ふるさと』観のゆくえ」では、「一時的にあるいは恒久的に、国を離れて日常生活を外国で送るときに、そこに母国とは文化的差異のある生活リズムが展開するに違いない」として、和歌山県三尾村の人々によって開かれたカナダのスティブストンにおける日系社会の歴史と実態の調査報告である蒲生正男編『海を渡った日本の村』を取り上げています。
 そして、「一世を通して『明治』と『日本人』の文脈に連なる"くに"意識は貫徹できるものだろうが、現実には二世さらに三世が『故郷』日本のイメージを媒介に、日系の民族文化として展開させる鍵をにぎっていると予測させる」と述べています。
 第4章「現代都市社会の再生を求めて」では、「江戸には稲荷が多く祀られていた」ことについて、「かつてその土地に住んでいたキツネを、江戸の都市開発により追い立ててしまったために、追われたキツネが憑き物になって、人間に復讐するようになったので、稲荷として祀られるようになった」として、「都市の持っている闇の部分をフォークロアが語りだしていることがわかる。このような民俗の見直しが都市伝説の興味深い点になっている」と述べています。
 そして、「都市には、神社仏閣、小祠の類から、新宗教までが多く集まっている」として、「これらの成立には、当初、都市空間に聖域を設定したことを物語る民間伝承が伴っていた」と述べています。
 著者は、「都市の繁栄の影にある闇の存在を見ることは、いわば現代という時代の縮図を見ることであり、都市の終焉を分析することは、逆に都市の繁栄の実装を知る手がかりにもなろう」と述べています。
 本書は、繁栄して見える都市の顔から垣間見える闇の部分を見せてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 都市伝説を面白がる本ならいくらでもありますが、まじめに民俗学や社会心理学の視点から都市伝説やフォークロアを扱うのはとても楽しそうです。


■ どんな人にオススメ?

・都市伝説は単なる作り話だと思う人。

2009年12月30日 (水)

24時間戦いました 団塊ビジネスマンの退職後設計

■ 書籍情報

24時間戦いました 団塊ビジネスマンの退職後設計   【24時間戦いました 団塊ビジネスマンの退職後設計】(#1805)

  布施 克彦
  価格: ¥714 (税込)
  筑摩書房(2004/2/6)

 本書は、「24時間戦えますか?」という言葉に突き動かされて働きまくった団塊の世代が、「『24時間戦いました』と言い切れる人生に向かってどう生きてゆけばよいか」をを語ったものです。
 第1章「24時間戦ったのに……」では、「こんなはずではなかったのだ。団塊の世代は、どこかで夜道が江をしてしまった。若い頃安月給でもあんなに一生懸命働いたのに、24時間戦ったのに、税金支払いなどの国民としての義務もしっかり果たし、社会を下支えしてきたのに、どうして今社会のお荷物呼ばわりされるようになってしまったのか」として、「どこかでやるべきことをやらなかったような気がしてならない」と語っています。
 第2章「こんな日本に誰がした」では、「われら団塊の世代」から、「こんな日本に誰がした」という「嘆きの声」が多くなっている、「24時間戦いました。その結果がリストラとは……」と、「責任をプレ団塊世代やその前の世代」に押ししつける傾向が、「この世代の特徴」だと指摘しています。
 そして、「プレ団塊世代の責任は重い。彼らのリストラ策は中途半端に終始した」ことを指摘し、「プレ団塊世代は、現行の年金、福祉制度を享受できる最後の世代となるであろう」と述べています。
 第3章「団塊の世代は社会のお荷物になる」では、「60過ぎても働く意欲のある人は、発想を変えなくてはいけない。会社は頼れない。自分で何とかするしかないのだ」と述べた上で、「団塊の世代が60歳で定年退職すると、各方面に大きな影響が出そうだ。低迷する日本経済に、さらなるマイナス効果を与えることだろう」と述べています。
 第4章「団塊の世代とは何者なのか」では、「大人や世間への抵抗や否定を根幹とする若者文化が、風俗的なものを超え、思想の肉付けを与えられる契機となったのが、1960年の全学連による安保闘争だった」と述べた上で、「戦後若者文化の系譜は、団塊の世代による全共闘学生運動により集大成され、そして自己崩壊していった」として、「当時の政治や社会の体制に対して、学生運動が糾弾したことは間違っていなかった」が、「その解決策に革命を持ち出したところが若気の至りだった」と指摘しています。
 また、団塊の世代をとりまくキーワードとして、
(1)メディア
(2)消費
(3)抵抗
の3点を挙げています。
 第5章「定年前こそが勝負の時」では、「どう見ても、団塊の世代が新時代を切り開くリーダーになるのは難しいと思う」とした上で、「横並びを廃し、抜け駆け主義を捨てる。組織の一員として養ってきた価値観を脱ぎ捨て、自分の原点に回帰してみる。団塊の世代の誰もが、全共闘時代に少なくとも一度はしたことのある根本的な問いかけを思い出してみよう」と述べています。
 第6章「世代間連携が日本を再生させる」では、「団塊の世代が定年になっても組織に頼らず、隠居せず、自分の力で生きていくにはどうしたら言いか。組織人間、現役世代最終団塊の今が大切なときだ」として、「団塊の世代の今後の同姓が、日本の浮沈に大きな影響を与える」と述べています。
 そして、「団塊の世代の活性化は日本を救う。団塊の世代の多くがいつまでも現役ならば、年金制度や国民健康保険制度は息を吹き返すはずだ。景気低迷に終止符を打つきっかけになるかもしれない。団塊の世代の役割は重要だ。我々の活躍の場は内外に広がっている。隠居などしている場合ではない」と述べています。
 本書は、これからも「24時間戦えますか?」と団塊の世代に問いかけている一冊です。


■ 個人的な視点から

 団塊の世代がこれだけいると、団塊の世代向けにターゲットを絞った雑誌はおろか、それを専門にしたライターも沢山いるんじゃないかと思いますが、なんにしろ人が多くて大変そうです。


■ どんな人にオススメ?

・団塊の世代は面倒そうだと思う人。

2009年12月29日 (火)

下流社会 第2章 なぜ男は女に"負けた"のか

■ 書籍情報

下流社会 第2章 なぜ男は女に   【下流社会 第2章 なぜ男は女に"負けた"のか】(#1804)

  三浦 展
  価格: ¥756 (税込)
  光文社(2007/9/14)

 本書は、著者の前著『下流社会』で「提示されたいくつかの仮説を、全国男性1万人を対象にした大規模アンケート調査によって検証」したものです。今回の調査では、
・上流か下流かといった階層意識による分析
にくわえ、「正社員か派遣かフリーターかにーとかといった違い」による、
・年収の差
・結婚できるかどうかの差
・「自分らしさ」思考などの価値観
・性格や心身の状態の違い
について「かなり詳しく分析した」としています。
 第1章「すがりたい男たち」では、「育った家庭では生活水準はどうだったか」について、20代では「上」が33%もいたことが特徴的だったとして、「20代の育った時代というと、ちょうどバブル時代なので、こういう結果になる」と述べた上で、「33%が『上』だった子供時代から比べると、どんどん生活水準が悪くなった、下流かしたと若い人は感じているはずだ」と述べています。
 また、「年収の高い男性ほど妻に求める年収が高い」ため、「夫婦合計した年収の格差が拡大することになる」と述べています。
 第2章「SPA!男とSMART男」では、「フリーターなのに下流意識は低く、自民党支持率が高い層にいる」ことに現代の下流社会の特徴が出ているとして、「ストリート系ファッションのフリーターという、ある意味で現代の若者の典型である人たちに小泉首相が支持されていたという事実は非常に興味深いものである」と述べています。
 第3章「上流なニート、下流な正社員」では、「格差社会を批判する学者、政党、労働組合、メディア関係者らは、非正社員がみな正社員になりたがっているのになれないと思っていると考えがち」だが、「雇用が不安定な人、所得が低い人が、必ずしも政治に強い不満を持っていない。必ずしも正社員になりたいとも、所得を上げろとも訴えていない」ところに「下流社会」の特徴があると述べた上で、
「非正社員は、将来的には正社員になることを希望している人が多い。
 しかし、すぐに正社員になりたいわけではない。
 なぜなら、正社員になると束縛が多いからだ。
 だから、もし非正社員のままで待遇が改善されるなら、非正社員のままでもいいと思っている。
 あるいは、正社員でも束縛の少ない働き方ができる会社があるなら、正社員になってみようかと思っている」
と類推しています。
 また、「正社員になれずに、下手に派遣やフリーターで働くくらいなら、働かないでニートになったほうが階層意識が高い、上流だよ」という「驚くべき結果」を紹介した上で、「今若いフリーターやニートが正社員に必ずしもなりたがっていないからといって、その状態を放置して、彼らが35歳、40歳と年を取っていくと、仕事をしても報われないという挫折感にさいなまれた人々を大量に発生させる危険性がある」ことを指摘しています。
 第4章「下流の自分探しを仕組んだビジネス」では、「30~34歳の男性について年収別に『個性・自分らしさ』志向を見ると、年収が低いほど『個性・自分らしさ』を重視する人が多い」ことを指摘したうえで、「若い男性ほど、誰もが自分探しについて考えた経験がある。自分探しが現代の若者に特有であり、かつ共通の行動であることがわかる」として、「ブームに乗って自分探しをする傾向がこの20年ほどの間に強まった」と述べ、「それに拍車をかけたのがリクルートなどが発行する就職、転職アルバイト、企業に関する数々の職業情報メディアや、派遣会社の広告などが発する『やりがい』『好きを仕事にする』『私らしい仕事』『私らしく働く』といった無数のメッセージ」だとしています。
 第5章「心が弱い男たち」では、「人生が、あまりうまくいっているとはいえない人にとって、37歳前後という年齢は、非常に重い年齢なのではないか」として、「近年増えてきた、フリーター、失業者、ニートなどが37歳を迎えると、けっこうヤバイ状況が生まれるのではないか」と指摘しています。
 第6章「危うい『下流ナショナリズム』」では、「下流にあるのは時刻への愛情というナショナリズムではなく、『反中』『反韓』『反米』というネガティブな形でのナショナリズム」だとしたうえで、「面白いことに石原慎太郎はどちらかといえば『弱者』に人気があるのだ。何者かにすがりたい男たちが、慎太郎に期待するのだろう」と述べています。
 第7章「踊る下流女の高笑い」では、「現代の若い男性は、自分と同世代の中に、仕事もできて容姿も端麗な女性が増えていることを実感し、それを好ましいと思う反面、自分が相手にされない事実に愕然とし、仕方なく、キャバクラに行って、キャバクラ嬢を口説くが、金がかかって、バカな女が多い、ああ、やだやだと文句を言っている、という構図が浮かびがある」と述べています。
 また、30歳前後の女性の階層意識として、「既婚正社員、既婚非正社員、未婚正社員、未婚非正社員という順番で高い」と述べています。
 本書は、日本の下流社会に、わかりやすいメスを入れた一冊です。


■ 個人的な視点から

 本書が学術的にどのくらいの意味を持っているのかは不安要素が多いですが、読み物としては面白いです。特にキャバクラ嬢を口説く男の気持ちは面白かったです。


■ どんな人にオススメ?

・女に負けたと思う人。

2009年12月28日 (月)

ヒトはなぜ、夢を見るのか

■ 書籍情報

ヒトはなぜ、夢を見るのか   【ヒトはなぜ、夢を見るのか】(#1803)

  北浜 邦夫
  価格: ¥725 (税込)
  文藝春秋(2000/08)

 本書は、「眠りと夢のなぜ」について、「最近の生物学全体の知識の増大に伴って、今、何が分かり、何が分からないままでいるかを読者とともに考えていこう」とするものです。
 第1章「睡眠と夢の人類史」では、「多くの人々は、死ねば霊魂は進退の外に出て戻ってこないが、眠って夢を見ている間は、霊魂は対外にさまよい、また身体に戻ってくると考えていた」と述べたうえで、覚醒・睡眠のメカニズムが、「とくに脳の電気活動が記録できるようになってからは睡眠現象を客観的に研究できるようになり大きな発展が見られた」と述べています。
 また、日本で睡眠用語として確立している「レム睡眠」について、「眠っているのに覚醒していて、揺り起こしてもなかなか目覚めない不思議な睡眠」を意味する「逆説睡眠=Paradoxical Sleep」と呼ぶと述べています。
 第2章「地球の自転、公転とともに」では、午後に眠気が来る理由について「サーカセミディアン(半日)・リズムと呼ばれる生理学的リズム」を挙げ、「熱帯地方に住む恒温動物は、暑い昼間の数時間は身体の働きを低下させて暑さをやり過ごす」性質があると述べています。
 また、シマリスが、「時期が来ると、環境温度より少し高い値にまで体温を下げて冬眠し始める」ことについて、「不完全な体温調節機構しか持たなかった哺乳類は次第に一定の体温を獲得するようになったが、シマリスは取り残されてしまい、いまだにその不完全性を引き継いでいるのだという説」と、逆に進化した結果、「シマリスは体温調節ができるようになった上に、さらに環境にあわせた高度の調節生を獲得した」という説の2つを挙げています。
 第3章「睡眠は進化する」では、「トカゲ以下の動物には活動状態と不動状態の二つしか見られないことが分かった」として、「この不動状態がそのまま逆説睡眠に引き継がれ、ワニ以上になって大脳皮質が大きくなるにつれてゆっくりした波が見られる徐波睡眠が付け加わってきたという説」を紹介しています。
 また、大脳皮質を休ませなければならない理由として、「恒温性を獲得したことで、生物は大きな代償を払うことになった」と述べています。
 さらに、「世の中は広い。いろいろな人間がいる」として、「数は少ないが睡眠時間が2、3時間ですむ人間がいる」と述べ、「ある日あくびをして以来30年間眠らないでいる」という女性の例を紹介しています。
 第4章「睡眠と覚醒――脳で何が起きているか」では、「かつて悪質な疫病やインフルエンザの流行によって、じつに多くの人々が眠り込んだ時代があった」として、「昔はこのように突然意識をなくしてしまうことは珍しいことではなかったはずである」と述べています。
 第4章「夢の発生」では、「視知覚は外界からの刺激によるものと、脳内に生成される映像によるものの二つがあるが、創造の場合、細部まで見ようとしても、それはとらえどころもなく漠然としたものに過ぎない」が、「眠り始めて意識が低下してくると明瞭に物が見えるようになり、聞こえるようになる。つまり幻覚が出てくる」と述べ、「逆説睡眠状態では、この入眠時心像よりさらにイメージは明瞭に出てくる」と述べています
 そして、「寝入りばなや明け方に身体の動かなくなる夢を見ること」として、睡眠麻痺あるいは金縛りと呼ばれる現象を挙げ、「これは逆説睡眠中の筋弛緩が意識化されることに原因がある」と述べています。
 また、「夢の中の個人的な体験はほとんど記憶に残らない」理由として、「一時的な記憶(作業記憶)が後々までの記憶(長期記憶)として残らずにその場で消えてしまうから」だとして、「暗算途中のプロセスが記憶に残らないのと同じである」と述べています。
 第6章「新・夢判断」では、フロイトの夢理論について、「現在では『欲望が夢を発生させる』という彼の学説は生理学実験によって否定され、生物化学者からは敬して遠ざけられている」とした上で、「宗教的な束縛の多かったあの時代」に、「人間の心の奥に潜む欲望、あるいは潜在意識を夢の分析という形を借りて顕在化させ、生物学的に検討し世とした功績は否定すべきではない」と述べています。
 また、夢を見ているときに、「ふらふらする浮動感、あるいは浮遊感が感じられる」理由として「中枢の機能異常」を挙げ、「浮遊体験は夢によく現れる」と述べています。
 さらに夢に死人が出てくる理由として、「近親や知人あるいは有名人が死ぬと、かなりのショックを受ける。日中の精神活動は睡眠中に延長されるから、死んだ事実を納得できない人が眠れば、夢の中で死人が生きていたときと同じように振舞う」と述べています
 そして、「自分が眠ってい夢を見ている」という認識が一般に成立しない理由として、「本来、逐次的直列処理しか行わない自己意識に関するワーキング・メモリーは、どのような状態でも、『自分が目覚めている』という一つの状態だけしか認めないから」だと述べています。
 第7章「夢はなんの役に立つのか?」では、「私たちは、一日に少なくとも百分ほど夢を見ている」とした上で、「大人の夢が何かの副産物であるならば、発達期の神経系の成熟過程の副産物かも知れないおそらく神経系の再構成に役立っているのではないだろうか」と述べています。
 本書は、私たちが毎日見ているはずの「夢」について、生物学的にわかっていることを整理してくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 実は最近夢を見ていないと言うか、本書の内容に従えば、寝ている間に見た夢について全然覚えていないのですが、昔はもっと夢を覚えていたような気がするのに不思議です。加齢とともに夢を覚えられなくなってしまうものなのか?
 子供の頃覚えている夢はゴレンジャー(たぶんミドレンジャー)と一緒に怪人に追いかけられた夢です。


■ どんな人にオススメ?

・夢を最近見ていないと思っている人。

2009年12月27日 (日)

ケータイ「メモ撮り」発想法

■ 書籍情報

ケータイ「メモ撮り」発想法   【ケータイ「メモ撮り」発想法】(#1802)

  山田 雅夫
  価格: ¥735 (税込)
  光文社(2003/11/14)

 本書は、「必要と思った情報を、カメラ付き携帯でメモするように撮りまくる」習慣である「デジメモ」のノウハウや整理法・検索方法を解説したものです。
 第1章「メモ撮りのすすめ」では、「メモ撮り」を、「数字や地図、ホワイトボードの文字など、従来は手書きでメモっていたも野を、カメラ付き携帯電話で撮影し、記録する行為」だとした上で、その保存・整理方法に関して、「いい意味で、いかに楽をしてちょっとしたデータをメモ撮りし、記憶し、管理し、取り出すかに徹した結果」だとして、「楽をして、毎日実践」が重要だと述べています。
 第2章「実践! メモ撮り」では、「新聞記事のデジメモも、コピー代わりのこれまた重宝」だとして、著者は、「一段分の正方形のサイズ」
をメモ撮りしていると述べています。
 また、「メモ撮りしていて端的に役立ったケース」として、「旅先で立ち寄った場所のメモ撮り」を挙げ、中でも店舗に関しては、「営業時間を記録しておくと便利」だと述べています。
 さらに、会議のホワイトボードについて、一般的な紙の出力では白黒になってしまうがカラーで記録できる点をメリットとして挙げています。
 第3章「デジメモかんたん整理法」では、デジメモについては、「ファイル名称はいらない」として、「日付プラス地名」のフォルダに整理していると述べています。
 第4章「メモ撮りのメリット・デメリット」では、カメラ付き携帯のバッテリーが切れてしまう問題に関して、「補助的に軽量のデジカメを併用」するとしたうえで、「苦い経験にもとづくアドバイス」として、「いわゆるカメラ用の専用電池を使うようなデジカメは避ける」ことを鉄則としてあげています。
 そして、カメラの使い分けの要点として、
(1)メモ撮りに徹する
  →「エコノミー」の画質でよいから、どんどんデジタル画像を撮る
(2)高画質の写真にこだわる
  →300万~500万がそのデジカメで、ノーマルないしファインのデジタル写真
(3)どうしても画質にこだわる
  →アナルとあるいはデジタルの一眼レフによる写真
の3点を挙げています。
 本書は、カメラ付き携帯によって可能になった情報整理術を解説した一冊です。


■ 個人的な視点から

 実は、カメラ付き携帯を持っていない、というか携帯電話を持っていないのですが、時刻表とかはよくデジカメで撮ってます。特に旅先の駅の時刻表は携帯を持っていない人には重要です。


■ どんな人にオススメ?

・カメラ付き携帯電話をネットと電話以外に使いたい人。

2009年12月26日 (土)

バカを使いこなす聞き方・話し方

■ 書籍情報

バカを使いこなす聞き方・話し方   【バカを使いこなす聞き方・話し方】(#1801)

  樋口 裕一
  価格: ¥1,365 (税込)
  幻冬舎(2006/06)

 本書は、「リーダーとして社会を引っ張っていくのに、どのようにバカに対応するか、どのようにバカを理解し、バカに理解させるか、そしてバカを知的にするにはどのような方法があるかを解説したもの」です。
 第1章「バカとはどんな存在か」では、「部下というものは本来愚かでばかげた人々であるという前提に立って行動する」ことで、「想像も付かないようなバカに対応できる」として、「愚かな人間が本来の人間の姿なのだ」と述べています。
 そして、著者が「バカ」と呼んでいるのは、「学校の勉強が得意でなかった人ではない。東大出のバカは、それこそ山のようにいる。コミュニケーション能力がなく、物事を自分で考えようとせず、自分のこと、他人のことで大きな勘違いをするような人間のことだ」として、「部下のバカさ加減をしっかりと見極め、一人ひとりのバカさ加減に応じてそれを使いこなすことのできるのが、優秀なリーダーなのだ」と述べています。
 第2章「バカを理解する」では、「バカの話し方には、いくつかの特徴がある」として、
・ワンセンテンス(一文)が長い
・何について話そうとしているのか、わからない
・何を言いたいのか分からない
・「もっと、私を認めて」と言いたいだけのことも多い
・途中でどんどんずれる
・感情的になる
・少ない知識で判断して、暴論、飛躍になる
・根拠を言わない
・イエス・ノーが曖昧
・問題を理解していない
等の特徴を挙げた上で、「バカの話を理解する必要のある場合、質問をして、言いたいことを明確にしなければならない」、「話しているバカ本人に自分が何を話しているかを認識してもらうためにも、質問は有効だ。イエスかノーかで答えられる質問を用意するのが、もっともよい」として、
・整理して誘導する
・根拠についても質問する
・具体と抽象を質問する
・イエス・ノークイズ方式で質問せよ
・矛盾したことを言っている場合は、どちらなのかを明確にする
・何について反対しているのかをたずねる
などの質問時のポイントを挙げています。
 第3章「バカを見極める」では、「バカの種類によって、対応が異なる。まず、そのバカの原理を見抜く必要がある」として、
・世間の狭いバカ
・大物ぶりたがるバカ
・安請け合いをするバカ
・一攫千金を夢見る怠け者バカ
・他人任せバカ
・何でも反対するバカ
等のタイプ別に対応策を紹介しています。
 第4章「バカの心を動かす」では、「社内において性善説をとるべきではない。性愚説をとるべきなのだ。どんなに愚かな人にでも通じるように、そして、末端にまで通じるように指令をしてこそ、リーダーの資質があるとみなされる。どんなに知的であっても、どんなに学識があっても、それを全員に理解させられなかったら、意味がない」と述べた上で、
・正当に評価する
・出会って三回目にきつく叱る
・わかりやすい言葉を用いる
・話は一分以内を心がける
・できるだけ一貫させる
・理解させるべき人と、そうでない人を分ける
・高度なたとえや皮肉は使わない
・複雑な条件をつけない
・メールやメモでの指示は、できるだけ箇条書きにする
等の「バカとつき合うための心がまえ」を説いています。
 第5章「バカの種類別対応法」では、「やる気を出させるにも、叱るにも、相手のバカさによって変える必要がある」として、タイプ別の対応法を説いています。
 本書は、バカにつける薬です。


■ 個人的な視点から

 本書は、バカな部下に対する対応策と銘打ってあるものの、実は、バカな部下が多いことを嘆いているバカな上司に的確な指示と部下の管理をさせるためのマニュアルなのではないかと勘ぐってしまいました。きっとそうでしょう。
 つまり、自分が部下を使いこなせない理由を部下がバカなせいだからと責任転嫁してしまうような上司が部下と円滑にコミュニケーションをとることができるように、いかに簡素で確実なコミュニケーションを取れるようにするかを説いたものではないかと思うのです。とはいえ、『バカな上司につける薬』というタイトルだったらプライドの高い上司本人は手に取らないでしょうし。
 植木等の「馬鹿は死んでも直らない」を思い出してしまいました。


■ どんな人にオススメ?

・世の中バカが多くて困っている人。


2009年12月25日 (金)

「食い逃げされてもバイトは雇うな」なんて大間違い 禁じられた数字〈下〉

■ 書籍情報

「食い逃げされてもバイトは雇うな」なんて大間違い 禁じられた数字〈下〉   【「食い逃げされてもバイトは雇うな」なんて大間違い 禁じられた数字〈下〉】(#1800)

  山田 真哉
  価格: ¥735 (税込)
  光文社(2008/2/15)

 本書は、
(1)数字が苦手な方が、「数字の裏側」を読めるようになること
(2)「会計が分かればビジネスも分かる」といった会計に対する誤解を解くこと
の2つを目的としたものです。
 はじめに「宝くじは有楽町で買うべきか否か」では、有名な宝くじ売り場で、「1億円が12本」と宣伝しているような、「事実なのだろうけれど人の判断を惑わせる数字」のことを「禁じられた数字」と名づけ、その理由として、「事実だけれど正しくはない」ことを挙げています。
 そして、禁じられた数字として、
(1)作られた数字
(2)関係のない数字
(3)根拠のない数字
の3点を挙げ、「数字の受け手である私たちは、数字を見たら疑ってかかる、もしくはそれほど信頼しないことが必要になって」くると述べています。
 第2章「天才CFOよりグラビアアイドルに学べ」では、急成長を遂げた「小寺フードストア」の自称「天才」CFOが、「秋以降の原価のコストダウンが予想以上にうまくいったため、利益が出すぎました。そのため、年内に1億円を使いきる必要があります」と言い出したことから起こった騒動の顛末を描いています。
 そして、節税のための「逓増定期保険」について、「こんな節税を国税庁が見逃すわけもないから、年々規制が厳しくなっている」と述べています。
 また、「近年、緻密な計画を立て、そのとおりにビジネスを展開させることの重要性が増して」いるが、それは「計画信仰」ともいうべきものであり、「計画信仰や成長への圧力が『作られた数字』『根拠のない数字』をうみだしてしまっている」と述べています。
 第3章「『食い逃げされてもバイトは雇うな』なんて大間違い」では、「なんでもかんでもお金に換算して考えたり、やたらと数字を使って話したがる人」を「会計人」と名づけ、その多くが、「費用対効果という言葉を好んで使うという『共通した傾向』を持って」いると述べ、「一見、論理的なもののように」見えるが、実際には、「前提がおかしかったり、効果の対象も曖昧だったりすることが多々ある」と述べています。
 また、「二分法」について、
(1)二分法を使って話すと論理的に見える
(2)二分法はものごとを「AかBか?」といった、シンプルでわかりやすいものにしてくれるので、考える際の手助けとなり、理解や判断もしやすくなる
の2点を挙げ、「使い勝手のいい、かなり万能なもの」だと述べています。
 そして、「食い逃げされてもバイトは雇うな」という「会計の観点からしか見ていない短絡的な考えは、大間違い」だと指摘しています。
 終章「会計は世界の1/2しか語れない」では、「科学的な会計から生まれた産物である内部統制と非科学的なビジネスは、どちらかといえば真っ向から対立する概念」だと述べた上で、「会計側の発送から生まれてくるものについては、それがどんなに優れていても世界の1/2しか語ることは」できないと述べています。
 本書は、会計の重要性とその限界を教えてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 こういう上下巻の本はちゃんと上の方から読むべきなのでしょうが、意外に、下の方から読んだ方が読みやすい本もあるようです。

2009年12月24日 (木)

新入社員はなぜ「期待はずれ」なのか

■ 書籍情報

新入社員はなぜ「期待はずれ」なのか   【新入社員はなぜ「期待はずれ」なのか】(#1799)

  樋口弘和
  価格: ¥777 (税込)
  光文社(2009/1/16)

 本書は、「人材次第で、ビジネスそのものが変わる」として、「企業と学生の双方にとってミスマッチのない採用が実現、新入社員に『期待通り』のパフォーマンスを発揮してもらう」ことを目的としたものです。
 第1章「上司の成功体験が通用しない時代がやってきた」では、「最近の若者を受け入れた企業の現場で何が起きているか」について述べたうえで、「過去の成功体験から部下を指導する時代ではなくなった」として、「時代が大きく変わって、自分たちが教えてもらっていない管理方法をやれといわれているようなもの」だと述べています。
 第2章「こんなはずではなかった!?――採用ミスの『真相』」では、採用の現場から覗いた「採用の失敗学」として、「こういう人だけは採用してはいけない」というダメ人材の典型的なタイプとして、
(1)急増する草食獣
(2)受験勉強だけのスペシャリストに要注意
(3)語学力や資格に弱い日本人
(4)二浪、二流以上はリスキー・・・プライドが高く、決断力がない
(5)頑ななマイペース学生
(6)家庭教師、塾講師はアルバイトの王道だが……
(7)情報メタボな若者たち
(8)マニュアルを鵜呑みにする「ハウツー君」
(9)誰もが採用したくなるルックス
(10)幻想に過ぎないキャリアビジョン
の10のタイプを挙げています。
 第3章「一流の人材はどこにいるのか?」では、「一流人材は、簡単には人に相談しません。悩んで、自分で決める。最後は、自分を信じて直感を大切に」すると述べた上で、「一流の人材は、トップクラスの上司がいる部署に配属しなくては」ならないと述べています。
 第4章「間違いだらけの日本の採用」では、「将来の活躍人材はどうあるべきか」などと難しいことを考えずに、「いま、実際に活躍している若手人材のコピーを採ろう」とすると述べています。
 また、ここ数年の変化として、「面接がとても丁寧になっている」ことを挙げ、「企業側は、就職活動をする学生たちに、ネットで悪口をかかれないよう、丁寧に我慢強く接するようになってきた」として、「いわゆる『圧迫面接』がなくなってきて」いると述べています。
 また、自己PRが駄目な理由として、「会社に入ったら、評価は他人(ほとんどの場合は上司)がおこなうものであり、そこの自己PRが入り込む余地はない」ことを挙げています。
 第5章「優秀な人材を見抜く"雑談面接"」では、「最終面接とか実質的な重要な選好をする場面」では、「お互い素になって話をするような濃い面接にすべき」だと述べています。
 第6章「かまってあげる育成」では、「企業を将来にわたって支えるトップパフォーマー」については、「採用時の資質で将来伸びるかどうかの8~9割が決まる」として、「現在の採用と社内教育は一体化しつつあり、内定段階で後の教育コストを見積もるような判定をしておかないと、全体としての調達コストが見えづらくなる」と述べています。
 本書は、企業が求める人材と採用の現場を描いた一冊です。


■ 個人的な視点から

 資本も技術もいずれは真似されてしまうことを考えると、企業の競争力の源泉はまさに人にあるのではないかと思います。


■ どんな人にオススメ?

・採用の大切さを自覚していない人。

2009年12月23日 (水)

麻薬とは何か―「禁断の果実」五千年史

■ 書籍情報

麻薬とは何か―「禁断の果実」五千年史   【麻薬とは何か―「禁断の果実」五千年史】(#1798)

  佐藤 哲彦, 吉永 嘉明, 清野 栄一
  価格: ¥1,260 (税込)
  新潮社(2009/05)

 本書は、「人間と麻薬との付き合いの歴史」を明らかにしようとするものです。
 そして、「現代の麻薬は社会問題のひとつだが、麻薬が人にもたらすのは、ごく個人的な体験だ」が、「有史以前から現代まで続く、麻薬と人間との長い付き合いの歴史について書かれた本は諸外国を含めてもあまり見当たらない」としています。
 第1章「麻薬・文明・万能薬」では、「麻薬類の伝播はそもそも、それらの多くが医薬品とされたことによるところが大きい」とした上で、「それがこんにち言うような『娯楽』となるためには、『娯楽』自体が成立する社会的条件が必要である」と述べています。
 第2章「コカインとヘロイン」では、19世紀に、「化学の発展に伴い、麻薬の歴史においても特筆すべき事象がおきた」として、「コカインとヘロインの発見・発明」を挙げています。
 第3章「ドラッグのアメリカ」では、「アメリカの薬物取締法の制定過程はいささか複雑ではあるが、そこには必ずといっていいほど移民や外国人労働者に代表される異質な人々、より正確には、異質だとされた人々が、関わっている」として、「本来あるはずのものが欠如していること。そのことがおそらくは必要以上の反作用を生んだ」と述べています。
 第4章「覚せい剤と日本」では、「それまでほとんど薬物問題を経験してこなかったとされる日本が、はじめて経験した薬物問題である覚せい剤について、その誕生と発売から問題とされていくまでの過程」を論じています。
 そして、「ヒロポンに代表される覚せい剤は、それが犯罪を引き起こすと考えられたがためだけに強く取り締まられたわけではない。むしろ覚せい剤は、共産主義勢力が日本を侵略する資金稼ぎに利用されているものであるとされたために大きく問題とされた。そして同時に、それによって日本人の、特に若者を荒廃させる戦略物質として利用されているとされ、それゆえに大きく問題とされた」と述べています。
 そのため、「密造や密売が、常に日本や日本人の市民生活の外部にある集団や人々によるものとされてきた」ことが興味深いと指摘しています。
 第5章「LSDとヒッピー、エクスタシーとレイヴ」では、「1950年代以降、LSDやMDMAなど新種の薬物の登場により、マリファナや覚せい剤を含めたドラッグは、若者層を衷心に、音楽などの『娯楽』をより刺激的に楽しむ楽しむための『道具』として一般的に使われるようになった」と述べています。
 本書は、麻薬とは何かを歴史で教えてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 麻薬の本を書く人っていうのは、やっぱり著者自身も麻薬の体験をしているわけですが、「海外での体験談」としながらも結構国内で捕まっている人も少なくありません。


■ どんな人にオススメ?

・麻薬の歴史を知りたい人。

2009年12月22日 (火)

浜口雄幸と永田鉄山

■ 書籍情報

浜口雄幸と永田鉄山   【浜口雄幸と永田鉄山】(#1797)

  川田 稔
  価格: ¥1,785 (税込)
  講談社(2009/04)

 本書は、「昭和初期に内閣を組織し、戦前政党政治の内外政策を最も推し進めたとされる代表的政党政治家」である浜口雄幸と、「昭和初期の陸軍中堅幕僚層の中心的存在で、満州事変以降の政治状況をリードした昭和陸軍を代表する人物」である永田鉄山の「2人の政治構想の対比を軸に、近代日本最大の転換期となった昭和初期の政治展開を、それぞれの行動の軌跡とともに描き出そうとしたもの」です。
 第1章「田中義一政友会内閣と民生党総裁浜口雄幸」では浜口が、「田中内閣の山東出兵や東方会議、そしてこれらのベースにある張作霖提携を軸とする満蒙政策を非難し、『我々は堅き信念のもとに一切の小策を廃し、支那の和平統一に向かって十分の機会を与うるの用意がなければなりません』として、国民政府による満蒙を含めた中国統一を基本的に受け入れるべきだとの立場を取っていた」と述べています。
 第2章「浜口内閣期の外交と内政」では、浜口内閣が、「組閣後、日中親善、国際軍縮、財政緊縮、金解禁、社会政策などを主な内容とする十大政綱を閣議決定し、首相生命のかたちで公式に発表。基本的にはそれにしたがって政策を遂行していく」と述べています。
 そして、「浜口の構想にとっても、国際社会とりわけ東アジアの安定と平和の維持は不可欠の前提条件であり、その観点から、国際連盟の存在とその平和維持機能は、重要な意味を持つものとして位置づけられていた」と述べたうえで、「浜口内閣期、日中政府間は、潜在的にはかなり深刻な問題を抱えながらも、相対的に安定していた」と述べています。
 また、ロンドン海軍軍縮条約問題について、「おもにその内容と手続きをめぐって大きな政治問題となる。事態は、内閣、外務省、海軍のみならず、民政党、政友会、貴族院、枢密院、陸軍、民間右翼など、当時の主要な政治勢力のほとんどすべてを巻き込んで、深刻な政治抗争に展開していく」と述べています。
 さらに、「浜口内閣下において、海軍、陸軍、枢密院を含め、議会政党による国家システムの全体的なコントロールがほぼ可能となる体制が出来上がってきた」と述べています。
 第3章「構想の相克」では、永田が、「第一次世界大戦によって戦争の性質が大きく変化し、戦争の執拗化、深刻化を背景に、機械戦への移行、大軍運用による戦争規模の飛躍的拡大、膨大な軍需物質の必要などから、国家総動員による国家総力戦となったことを認識していた」と述べています。
 そして、永田は、「大戦後における平和維持を希求する動きの高まりにもかかわらず、国際紛争の要因は除去されておらず、国際社会は今後も戦争を防止することは不可能と間が、いわば戦争不可避論に立っていた」と述べています。
 さらに、永田・浜口両者に共通する認識として、「第一次大戦移行もし先進国間に戦争が起これば、それは国家総力戦となるとの見方」を挙げ、「浜口は積極的に評価し連盟を重視する姿勢であったのに対して、永田は連盟によっては戦争を防止できないとして戦争不可避論の見方をとっていた」と述べています。
 第4章「満州事変と永田鉄山」では、永田のパーソナリティーについて、国策研究会の矢次一夫が、「政治的計画性に富んだインテリ軍人」で、その話は、「大学教授と語っている気がした」としていることを紹介しています。
 エピローグ「永田死後――太平洋戦争への道」では、永田軍務局長時代の陸軍の有力な政治集団として、「永田らの統制派、真崎らの皇道派、南らの宇垣派の三派閥があった。永田死後、皇道派はほとんど陸軍中央から放逐され、宇垣派も陸軍中枢に復活できなかった。統制派は、永田を失い大きな打撃を受けたが、中堅幕僚に武藤章・影佐禎昭・片倉衷ら有力メンバーを残していた」と述べています。
 そして、国内の政治体制において、「軍部主導の政治運営という永田の構想が、統制派系主導のかたちで、ほぼ実現する」と述べています。
 本書は、昭和初期の日本の政治の一面を伝えてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 浜口雄幸と言えばライオン宰相として知られていますが、ちゃんとライオン(の銅像)と写真を撮っているんですね。


■ どんな人にオススメ?

・昭和初期になぜ戦争に突入したかを知りたい人。


2009年12月21日 (月)

新左翼とロスジェネ

■ 書籍情報

新左翼とロスジェネ   【新左翼とロスジェネ】(#1796)

  鈴木 英生
  価格: ¥735 (税込)
  集英社(2009/4/17)

 本書は、「現役の記者」が新左翼を「必ずしも否定せず」扱って回顧したものです。
 第1章「『蟹工船』、希望は戦争」では、2008年の未曾有の『蟹工船』ブームのきっかけとなった作家の雨宮処凛と高橋源一郎の対談を著者が企画したことについて、「自分の関わった記事が思いがけず社会現象を生み出したことで、ついうれしくなってしまった」と同時に、「80年も前のプロレタリア文学の流行は、若年貧困層を始め、世代を超えて多くの人々が抱く不満と連帯――つまり、人とのつながり――への渇望感をまざまざと示しているのではないかと感じた」と述べています。
 そして、「かつての人々を『自分探し』から新左翼運動に流し込んだ仕組みは、大枠で言えば『実存主義』と『阻害論』だろう」として、「この2つを通して、運動とその先にある革命が、『僕って何?』という問いを解消させてくれるものと信じられたようだ」と述べた上で、「新左翼は、ある局面では能天気さと明るさも、その特徴だった」と述べています。
 第2章「新左翼前史 戦前~50年代」では、「大雑把に言えば、『蟹工船』などのプロレタリア文学は戦前、労働者のためというよりも、革命とそれを実現するはずだった共産党のために書かれたとされる」と述べた上で、「戦後左翼の世界では、絶対的に信頼できる/しないといけない、権威的な何かの失墜が『自分探し』の背景の一つだったといえる」と述べています。
 第3章「黎明期から60年安保へ 58~65年」では、全学連主流派がその指導下にあった「初の大規模な新左翼組織、共産党主義者同盟」(ブント)について、「ブントは60年安保闘争で学生を国会敷地内に3回突入させるなど、これまでの左翼にない過激かつ大衆的な行動をした。闘争『敗北』の後、結成わずか2年ほどで事実上崩壊する」と述べた上で、「共産党という『良心的な』左翼の大人たちに、これまで散々、学生はだまされてきた。それを体を張って暴こうとする気合こそ、ブントを支えた面があるようだ」と述べています。
 また、「政治的には稚拙なやり方でも、リーダーが率先して逮捕される『英雄主義』こそ、ブントの真骨頂だった」と述べています。
 第4章「頂点 叛逆する全共闘 61~69年」では、「60年々安保ごとの全学連と街頭闘争、大学内運動の流れを軽く押さえてから、最も盛り上がった日大全共闘に触れる」として、「あまりに締め付けすぎたり、いじめすぎたりすれば、もともとはまったく過激ではない人たちでも場合によっては暴発するという、その典型が日大闘争だったとも言えよう」と述べています。
 第6章「極北 内ゲバとその果てへ 69~73年」では、「新左翼運動=学生運動は、二重の意味で『自分探し』をしてきた」として、
(1)『僕って何』の「僕」に代表される、文字通りのもの。
(2)革命の主体である労働者以外の人が構成する運動が革命を目指すって何? といわば集団で自問するもの。
の2点を挙げています。
 また、重信房子について、その文章に「思いつめた自己否定的な暗さがないようにも感じる」理由として、「彼女が会社で働きつつ大学の二部に入り、男性中心主義バリバリの新左翼内で、優秀な活動家としてやり抜いた経緯も影響しているのではないか」と述べています。
 第7章「自己否定から少数者の運動へ 74年~現在」では、「70年代最大の運動は三里塚闘争、つまりなりが空港建設反対運動だった」とした上で、「管制塔の逮捕者が社会人中心だったことからも分かるとおり、70年代、学生運動は瞬く間に衰退していった」と述べています。
 第8章「『消滅』した新左翼 78年~現在」では、「バブル景気の入り口で、すでに、新左翼の『革命』は、世間では遠い昔の出来事になっていた」と述べる一方で、「新左翼のいわば『遺産』は、社会全体に薄められた形で取り入れられてきた」と述べています。
 また、「この数十年で、良くも悪くも、日本社会の多数派の意識と日常は、表面上、暴力から切り離された」と述べています。
 本書は、新左翼の歴史を現在の眼から淡々と綴った一冊です。


■ 個人的な視点から

 学生運動を知らない世代から見ると、何であの世代の人達は左翼にかぶれたのか不思議で仕方なかったのですが、流行というのがあったらしいということはわかりました。


■ どんな人にオススメ?

・団塊の世代は何であんなに鬱陶しいのかと思う人。

2009年12月20日 (日)

愛国と米国―日本人はアメリカを愛せるのか

■ 書籍情報

愛国と米国―日本人はアメリカを愛せるのか   【愛国と米国―日本人はアメリカを愛せるのか】(#1795)

  鈴木 邦男
  価格: ¥798 (税込)
  平凡社(2009/06)

 本書は、「アメリカとは何か」という「巨大な謎」に、「きちんと向き合い、考える必要がある」という思いから書かれたものです。
 第1章「『鬼』はどこにいたのか」では、スローガンとしては「鬼畜米英」といっていたが、「鬼の米英についてはロクにその正体を知らず戦ったのではないか」と述べ、「鬼は外にはいなかった。内にいたのだ。内なる鬼を探し出し、つぶし、殺しているうちに、その本体すらも殺してしまったのだ。玉砕とは、そういうことだ」と述べています。
 第2章「米兵捕虜を殺した人々」では、「戦争には色々な側面がある。それを多面的に見るべきだ。それなのに、『ここに真実がある』『これこそが本当だ』というのは、早トチリだろう」と述べています。
 第3章「天皇はなぜアメリカとの戦争を認めたのか」では、「絶対であり、至高の存在」であった昭和天皇が「戦争を止められなかった」理由が謎だったと述べた上で、「昭和天皇は二・二六事件のときに激怒し、即、討伐を決断した。しかし、これは立憲君主としての立場=範囲を超えたと後で思う。そして、これ以後は立憲君主の分を固く守る。だから、口も重くなる。口を閉ざす。だから、開戦にあたっても、平和の強い意志を持ちながらも、それをあまりいわない。押しつけてはならないと自重する」と述べています。
 第4章「ナチスの『思想戦争』に籠絡された日本」では、「日本はアメリカのことをよく知らなかった。いや、何も知らなかった。それなのに、あなどって、戦争を仕掛けた」と述べています。
 また、赤尾敏について、「テロリストの親玉」や「数寄屋橋の街宣」がイメージされるが、「あの戦争に命を賭けて反対した」と述べています。
 第5章「日米戦争に反対した右翼・赤尾敏」では、著者が叱られても「この人になら何と言われても仕方ない」と思った理由として、「赤尾敏の生き方、戦いが一貫しているからだ」と述べています。
 そして、「理想を持ち、夢を持って社会主義運動に飛び込み、挫折した。しかし、社会を変えようという理想や夢は持ちながら、右翼の運動を続けた。夢を持った上でのリアリストだった。だから、一般の右翼の考え付かないことを考えたし、実行したりもした」と述べています。
 第6章「日本はアメリカの謀略で戦争をしたのか」では、論文「日本は侵略国家であったのか」を書いた田母神俊雄について、「精神的クーデター」といわれたと述べた上で、「アメリカの謀略により、日本が戦争に引きずり込まれたという説」は「既にクリアされた問題だ」と思っていたが、「案外とこの説を信じている人がいるのかもしれない」と述べています。
 第7章「60年代安保とケネディ大統領」では、「日米関係を考える上で、1960年(昭和35)は大きな転機となった年だ」として、日米安全保障条約について、大規模な反対運動が起き、浅沼社会党委員長刺殺事件などが起きた「騒乱の年だった」とともに、アメリカではケネディ大統領が誕生し、「アメリカの人気が一気に高まった」と述べています。
 また、日本共産党の「反米愛国」路線について、アメリカ文化の浸透に対向する「民族文化」が強調され、「共産党系の文化団体では、茶の湯、生花、大仏などが『民族文化』と賞賛され、ヤマトタケルが『民族の英雄』と形容された」ことについて、「ここで、右と左が入れ替わってしまった」と述べています。
 さらに、共産革命や共産党について、「正確な認識を持っていたわけではない。先生や先輩たちに言われて恐怖していたのだ」として、「この恐怖は、かつてアメリカに対して持った恐怖と同じものではないか」、「戦争中、アメリカに対して煽った<恐怖>を、今度は、ソ連、中国の<恐怖>として煽ったのだ」と述べ、終戦間際に、「ソ連は実際にやっていた」ので、「今度の方がよりリアリティがあった」と述べています。
 第9章「80年代からオバマに至る日米関係」では、「アメリカとは何なのか。このリアリティのない社会において、(敵であれ、同盟国であれ)確固としたリアリティなのかも知れない。アメリカを『敵』として、あるいは『目標』として、そのことによって自分を振り返って見る。日本は自分では自分のことを考えられない。アメリカという鏡に映して見て、初めて分かるのだろう」と述べています。
 本書は、「命を賭けてアメリカを考え、立ち向かう覚悟」の必要性を訴えた一冊です。


■ 個人的な視点から

 著者は、『SPA』に連載を持っていたので断片的には文章を読むことがありましたが、まとめて読んでも読みやすかったです。それにしても、赤尾敏の話は面白い。


■ どんな人にオススメ?

・「右翼=街宣車」だと思っている人。

2009年12月19日 (土)

司法改革の時代―検事総長が語る検察40年

■ 書籍情報

司法改革の時代―検事総長が語る検察40年   【司法改革の時代―検事総長が語る検察40年】(#1794)

  但木 敬一
  価格: ¥798 (税込)
  中央公論新社(2009/05)

 本書は、元検事総長だった著者が、「市民の幅広い理解と支持なしには、そして市民と司法関係者が手を携えることなしには、司法改革はとうてい実現できない」という思いから司法改革を論じたものです。
 第1章「検事は面白い」では、「検事という仕事は実に面白い。あらゆる事件には、個性があり、あやなす人間模様がある」として、「真実を見極めることも難しい」が、「難しいからこそ、事件を捜査することは心を引きつける」と述べています。
 第2章「検察と政治の間で」では、法務省に在勤した23年間について、「カタカナ法がほぼなくなったことに象徴される」として、「『よらしむべし、知らしむべからず』の時代が終わり、国民の理解と指示を受ける法務行政に大転換したのではあるまいか」と述べています。
 また、談合問題に関して、「談合を既にやってしまった場合、このことを公正取引委員会に一番に通報した企業は課徴金を免れ、さらに刑事処罰も事実上免れることができる」制度である「リーニエンシー(leniency=課徴金減免)制度」について、「このような変化は、将来の日本の刑事司法を考えるに当たって、きわめて示唆に富んでいる」と述べています。
 第3章「日本の原風景」では、1865年に横浜港についてシュリーマンが、税関の役人に賄賂を渡そうとしたところ、「心づけにつられて義務をないがしろにするのは尊厳にもとる」として拒否された逸話を紹介した上で、シュリーマンが、「ここでは君主(大名)がすべてであり、労働者階級は無である。にもかかわらず、この国には平和、いきわたった満足感、豊かさ、完ぺきな秩序、そして世界のどの国にもましてよく耕された土地が見られる」と旅行記を結んでいることを紹介しています。
 そして、「日本人は風変わりである。その宗教心や封建制下のいきわたった満足感など、外国人から理解されるのは困難であろう」としたうえで、「金銀財宝を蒐集するために人民の膏血を搾り取らないこと、苛烈な権力行使をしないこと。人民から武器を取り上げた代わりに、武士による統治の基本的枠組みが形成されている。裏を返せば、民衆にとって、お上に任せてもさほどひどいことにはならないということになる」と述べています。
 第4章「深まる法化社会」では、「バブル崩壊の中で、官僚は大切なものを失った。国民からの信用である。官僚に任せておけば、必ずうまくやってくれるという確信を失わせた」とした上で、「財政力の減退、信頼感の喪失、情報の公開、裁量行政の交代は、確実に官僚の権限と影響力を奪った」として、「人は、明示されたルールに反しない限り、自由に活動することができる。ルールに反しているか否かは、事後的に司法がチェックすることになる」と述べています。
 そして、「事前規制型の社会から事後監視型の社会へ」という言葉について、「それは個人の生活や企業の活動が次第に司法に依存するようになってきたという意味でもある。この流れを逆流させることはもはや難しい」と述べています。
 また、司法改革を求める流れとして、
(1)法曹界の流れ:外弁問題や司法試験合格者の人数拡大などの流れ
(2)経済からの司法改革の提言
(3)政府が行政改革を完成させるために司法改革が行われなければならないとに認識を示した。
の3つの流れを挙げています。
 第5章「万民参加の時代」では、「いま司法改革が進んでいる。国民の司法に対する期待に応え、身近で使いやすく、頼もしくわかりやすいものとするために、全面的に、抜本的な変革を行おうとしている」と述べています。
 そして、松尾浩也・東京大学名誉教授が、日本の刑事司法について、「ガラパゴス諸島の風景を連想させる独自の繁栄だった」と指摘し、刑事裁判の改革の必要性を説いていることを紹介した上で、「裁判員裁判制度を導入することによって、操作そのものも、市民から理解と支持を得られるような方法に大きく舵が切られた」と述べています。
 終章「過去から未来へ」では、裁判員制度について、「ある意味で司法機関が140年以上にわたる統治者としての地位を退き、主権者国民とともに協力しながら司法を運用するという全く新しい時代を招来するであろう」と述べています。


■ 個人的な視点から

 事前に予想していないところで、学生時代の恩師の松尾先生の名前が出てきたので驚いてしまいました。


■ どんな人にオススメ?

・司法改革は自分には関係ないと思う人。

2009年12月18日 (金)

新聞再生―コミュニティからの挑戦

■ 書籍情報

新聞再生―コミュニティからの挑戦   【新聞再生―コミュニティからの挑戦】(#1793)

  畑仲 哲雄
  価格: ¥798 (税込)
  平凡社(2008/12)

 本書は、記者暦20年の著者が「そもそも新聞とはなにか」「新聞がこの世に存在する理由や根拠といったものは、どのようなものか」という「そもそも論」を、「研究者の作法にのっとり、研究者の視点から<新聞>に迫っ」たものです。
 第1章「新聞という『場』を再生させる」では、1930年代後半から40年代初頭にかけての「新聞統合」以前には、「全国に約千二百もの日刊新聞がひしめき、週刊や旬刊の新聞を含めると約七千七百もの新聞紙が存在した」とした上で、新聞統合が「いかに大がかりな情報網の再編であったことが理解できる」と述べています。
 そして、「地方メディア、とりわけ地方紙は、現在も各地で少なからぬ影響力を及ぼす存在である」と述べています。
 また、鹿児島県の県紙『南日本新聞』の対抗紙として1959年に創刊された『鹿児島新報』2004年5月に廃刊したことに関して、「マスメディアの周縁にあった新報社は、経営難も手伝って結果的に多くの人に門戸を開いていたが、そもそも記者の仕事が多くの人に開かれていることは悪いことではないはずだ」と述べています。
 第2章「コミュニティに回路を開く」では、市民記者を主体とするインターネット新聞『オーマイニュース』や『JANJAN』に対し、「神奈川新聞社が『市民記者』という言葉を用いなかった」理由について、カナロコ編集部では、「私たちはジャーナリズムなんて背負っていない」と説明していると述べています。
 また、神奈川新聞がカナロコを開設した一番の効果として、「旧サイト時代には相手にしてもらえなかった大手のネット広告代理店から大手のネット広告代理店から問い合わせや申し込みがやってくるようになった」ことを挙げています。
 第3章「<新聞>を創るということ」では、「県紙空白地帯」だった滋賀県で、地元財界の肝いりで創刊された日刊紙『みんなの滋賀新聞』について、「創刊から半年も経たずに休刊となり、新聞社も自己破産した」と述べた上で、「滋賀で県紙発行プロジェクトを推進したのは、経済団体・滋賀経済同友会に加盟している有力企業だった」としています。
 そして、「『県紙』は自明のごとく存在し、県民からもその存在理由を問われることなく受け入れられてきた」とした上で、『みんなの滋賀新聞』の問題意識について、「地元の人がたくさんの県内情報に触れられる環境を提示することで、結果的に県民意識の醸成に役立ち、滋賀というコミュニティをよりよくするだろう、という共同体主義的な思想に通じる」と述べています。
 また、『みんなの滋賀新聞』が直面した壁として、「大手通信社からの記事の配信を受ける契約」を結ぶことができなかったことや、2005年9月の衆議院選挙について、公職選挙法が、「選挙運動期間中及び選挙当日の新聞報道や論評について、(1)毎月3回以上定期的に有償で配られている、(2)第三種郵便物の承認を得ている、(3)公示日より6ヶ月前から引き続き発行している――という3つの条件を満たしていなければ選挙報道を認めていない」ため、「創刊から約4ヶ月の『みな新』は選挙報道ができない」ことになり、「選挙に関する記事が一本も掲載されない『みな新』は社会を映しえない新聞紙となった」と述べています。
 第4章「新聞を救う」では、「コーヒーハウスに現れた公共圏としての<新聞>と、今日の『産業としての新聞』は別物だし、ヨーロッパと異なる歴史を歩んだ日本に、公共圏論をそのまま持ち込むのは難しい」が、「私たちが<新聞>を考える上で公共圏論は踏まえておくべき議論であることには違いない」と述べています。
 また、「新聞読者には3つの側面がある」として、
(1)消費者としての読者
(2)広告主に提示する購読数=商品としての読者
(3)ジャーナリズム活動のパートナーとしての(市民としての)読者
の3点を挙げたうえで、「パブリックジャーナリズム運動は、新聞社や新聞記者たちが読者を政治的市民として遇することから始まった」と述べています。
 著者は、本書の結論として、「私なりのビジョン」は、「小さなマスメディアが多数存在し、多様な言論空間が形成される社会が望ましい」と述べています。
 本書は、「新聞とはなにか」の原点に立ち返って現在の新聞事情を論じた一冊です。


■ 個人的な視点から

 全国に千以上の日刊紙があってそれらが「県紙」に統合されていったというのは知らない人も多いと思いますが、それ以上に、実は地元ローカルな日刊新聞紙というのも知られていないだけで結構あるものです。


■ どんな人にオススメ?

・一県に一県紙が当たり前だと思っている人。


2009年12月17日 (木)

優れた企業は「日本流」

■ 書籍情報

優れた企業は「日本流」   【優れた企業は「日本流」】(#1792)

  原 正紀
  価格: ¥756 (税込)
  扶桑社(2009/8/28)

 本書は、「これからの日本企業が目指すべき新しい企業のかたち」として、「和の力、情の心、不安への備え」をキーワードとした「人肌経営」を提唱しているものです。
 第1章「日本人に最も適した企業のかたち『和』の組織」では、「バブルで血を流した記憶は、経営者や社員につらい思い出として残った」ため、「二度とこのような思いをしたくないということから、環境変化に対して柔軟な対応が可能であり、総額人件費をコントロールしやすい非正社員化に走った」と述べています。
 そして、従来型の日本企業保っていた特徴である「社員と長期にわたる信頼関係を結ぶことを前提とした仕組み」について、「こうした日本企業が従来持っていた良さが、バブル崩壊に伴う組織改革によって損なわれる結果となっている」と述べたうえで、「これからの日本で大事なのは、中間管理職の再活性化なのではないか」と述べています。
 第2章「ベンチャーの雄、IT企業が突如終身雇用を宣言したその理由とは?」では、株式会社サイバーエージェントを取り上げ、人材が激しく流動していたインターネット業界で、「一時は、離職率が30%を超えていた」ことから、「人材の定着率を挙げ、優秀な人材を確保」するために「新しい終身雇用制度」を柱とする人事制度の強化を図ったと述べ、年功序列型の賃金体系を禁じる一方で、「勤続年数の長い社員には福利厚生で還元」していると述べています。
 第4章「新入社員の不安を解消するため社内に"家族"を作ってしまった会社」では、スカウト・ヘッドハンティング事業や新卒採用のコンサルティングを手がけるレイス株式会社を取り上げ、新入社員の心のケアを行うため、「入社した新入社員2~3人を『子』として、2年目の社員を『兄・姉』、そして3年目以上の社員を『親』とする"里家族"」を作り、食事会やバーベキューなど、「もっと近い距離でコミュニケーションを図っていこう」としていると述べています。
 第8章「仕事の誇りと、教える技術を取り戻す体験教室の先生になるという試み」では、清川メッキ工業株式会社を取り上げ、「以前はメッキ加工業に対する世間のイメージが悪く、新卒採用を行っても全く人が集まらなかった」と述べた上で、小学校に出張してメッキ加工という仕事を知ってもらう「めっき教室」について、そのメリットとして、
(1)社会貢献
(2)企業のイメージアップ
(3)仕事への誇り
(4)教える本人の学び
(5)企業へのロイヤリティ
(6)技術の伝承力
等の点を挙げています。
 第11章「人は労働商品ではない。欧米とは違う日本独自の派遣のあり方を目指す」では、旭化成アミダス株式会社を取り上げ、「同社の最大の特徴は、仕事と人材のマッチング方法にある」として、「人材の募集、面接・採用、派遣先への営業、仕事を紹介するコーディネートなどの業務」を細分化せず、「あえて一元管理という方法を採用している」と述べた上で、「派遣という欧米から輸入した就業の仕組みに、日本的な"情""不安解消""和"という3つの要素を、上手に取り入れた」と述べています。
 第12章「衰退した日本特有の復活鉄工所が試みた、『和』の組織の作り方」では、「研修会や委員会の始めに、参加者の心を重ねる目的で、歌をハモるトレーニングを導入した」と述べています。
 第13章「新たな成長に向かって『和』する組織を作る重要な4つの要素」では、「人の気持ちや精神をとても重視する経営、"人財中心"の経営こそが日本流経営の骨格」だとした上で、「和」の組織を作り上げる重要な要素として、
(1)和する組織作りに、もっと注力すべき
(2)勤勉に主体的に活動する個人の育成
(3)顧客へ向かう力を高め、現場を活性化すること
(4)経営そのものに人を活かす思想を強く埋め込むこと
の4点を挙げています。
 本書は、日本企業が本来持っていた良さを教えてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 本書で取り上げられている例の多くは、もしかすると昔ながらの日本企業にとってはさほど珍しいものではないのかもしれませんが、あえて意識して導入しているところが新しい部分なのでしょうか。


■ どんな人にオススメ?

・日本企業は古臭いものだと思う人。

2009年12月16日 (水)

ソウルフルな経済学―格闘する最新経済学が1冊でわかる

■ 書籍情報

ソウルフルな経済学―格闘する最新経済学が1冊でわかる   【ソウルフルな経済学―格闘する最新経済学が1冊でわかる】(#1791)

  ダイアン・コイル (著), 室田 泰弘, 矢野 裕子, 伊藤 恵子 (翻訳)
  価格: ¥2,415 (税込)
  インターシフト(2008/12/5)

 本書は、「過去15~20年間における経済学の最先端の研究と実証的発見」を取り上げ、「経済学は新たな黄金時代を迎えようとしている」とするものです。
 著者は、本書で「1980年代初頭から出てきた興味深い新しい研究分野のいくつかを紹介する目的」として、「エコノミストの仕事や発言に関する見解を、最新情報にもとづくものにしようというところにある」と述べています。
 第1章「歴史探偵」では、現オランダ・クローニンゲン大学のアンガス・マディソン教授が、「西暦1000年から現在までの、世界各国の産出水準や成長率の推定についてきわめて重要な仕事をしたため」に、「世界一流の経済史家の一人となった」と述べています。
 そして、「経済史家が国際的に連携してデータを収集し、その証拠を競合する理論に適用することによって、エコノミストは1930年代以降、他の多くの自然科学と肩を並べるようになった」と述べています。
 第2章「なにが経済を成長させるのか」では、「経済成長は例外的な現象である」として、「いまの世代が一世代前よりはるかに高い生活水準を教授できるほど産出の拡大が急速で、また並外れたイノベーションによって健康と寿命が改善されるような成長は類を見ない」と述べています。
 そして、1997年のトニー・ブレア政権の誕生時に、財務大臣に指名されたゴードン・ブラウンについて、「英国でも卓越した財務大臣の一人となった」として、「彼の英国民への贈り物の一つが、『ポスト新古典派の内政的成長理論』の紹介だった」と述べています。
 また、「成長は集団的な成果であり、個々人の選択の相互関係に依拠するという認識は、実は制度を中心にすえるものである」とした上で、経済発展にとっての制度の重要性を強調していたダグラス・ノースについて、「制度は、歴史的な遺産の伝達手段であるため、重要な役割を果たす」と述べています。
 また、「エコノミストはイノベーションの過程を分析する上でとりわけ大きく前進した」として、「これは部分的には、情報通信技術や、バイオテクノロジーなどの技術が社会にどのように影響するかに関する最近の経験のおかげである」と述べています。
 第3章「いかにして貧困を過去のものとするか」では、「貧困を解決するのは経済成長である」としたうえで、ジェフリー・サックスが「地理的条件が経済を運命づけるだろうか」と問いかけたことについて、この疑問は、ジャレド・ダイヤモンドの研究を経済分野に応用したものだと述べています。
 また、IMFのエコノミストのラグフラム・ラジャンとアーヴィンド・スブマニアンが、「たとえよい経済政策を採用している政府に対してでも援助を与えることは経済に悪影響を及ぼす」という「困った結論」を得たと述べています。
 第4章「経済学は幸せにどう役立つか」では、幸せを独立した章で論ずる理由として、
(1)経済学研究においてこれまで、経済政策の目的をいかに定義し、政策指標をいかに正しく計測するか、について論争が行われたが、幸せはこうした論争と絡むため。
(2)幸せへの新たな関心は、台頭しつつある経済学の知的枠組みの重要な一部をなすから。
の2点を挙げています。
 そして、「幸福感は多元的である」とミルが論じていることについて、「おそらく幸福研究は、満足の次元のみを捉えているのでなかろうか」と述べています。
 第5章「人間のための経済学」では、エコノミストに対する批判者たちが、「経済学には心理学的な現実認識が欠落しており、そのため、人間社会あるいは公的政策形成を研究するにはふさわしくない学問分野だと非難する」ことについて、「心理学は経済学に課題を突きつけているのだが、それは感情や他の合理性の間隙が明らかに人々の意思決定に影響するからだ」と述べています。
 そして、「2つの主要な分野においては、より豊かな心理学的洞察によって、経済もであるが改善しつつある」として、
(1)ファイナンス理論
(2)不確実な将来の決定に関する消費者行動
の2点を挙げ、そのルーツは、ノーベル賞受賞者のハーバート・サイモン(「ハーバード」じゃ大学になっちゃう)の「限定合理性」の概念にまでさかのぼることができると述べています。
 また、行動経済学による経済学への挑戦が、
(1)人々が何を選好するか、についての従来型の仮定に挑戦し、もっと現実的な効用関数を描こうと試みる。→損失回避や互恵的利他主義などの特質は、経済モデルで利用されるのとは異なった種類の効用関数を意味する(プロスペクト理論)
(2)人々が彼らの効用をどれだけしっかりと実際に計算するのかを問う。→私たちが概して最大化に長けていないことについては、多くの証拠がある。
(3)一組の安定的で一貫した選好、といった考えそのものに挑戦する。→時間の経過において、選好は変動しがちである。
の3つの要素から成り立っていると述べた上で、「心理学が非常に重要な役割を果たしている」分野として、
(1)労働市場
(2)個人の資産運用(における意思決定)
の2点を挙げています。
 第6章「情報と市場」では、「情報は経済における市場と政府の適切な役割〔とはなにかという問題〕の核心に触れる」とした上で、非対称情報に依拠した研究に共通するテーマとして、
(1)非対称情報の効果を扱う――私的情報は人々の行動をどのように導くのか。
(2)こうした効果への対応を扱う――どのような制度が現れて、非対称情報によって特徴付けられた市場に秩序をもたらすのだろうか。
(3)市場設計への挑戦――何によって自然に均衡あるいは安定的状況が生み出されるのだろうか、そして、それ以上の状況は達成できないのだろうか。
の3点を挙げています。
 そして、「情報経済学の逆説は、広範な非対称情報は市場に欠陥のあることを意味するが、それでも多くの状況では、市場は依然として、私たちが考案するに至っていない市場に代わるいかなる社会的制度よりも、情報を共有し伝播するためのより良いメカニズムなのである」と述べています。
 第7章「殺気立った猿と起業家」では、ヴェブレンが、「なぜ経済学は進化科学ではないのか」という問題を提起したことを紹介した上で、最近再び活発になった進化論にもとづく経済理論のルーツとして、
(1)生物学の発展による影響であり、生物学の論理を進化心理学と社会生物学にも応用しようとするもの。
(2)経済分析におけるテクニックの発展で、そのおかげでエコノミストは従来型モデルが持つ分析上の緻密さを犠牲にせずに済んでいる。
の2点を挙げています。
 そして、「お互いに成功の理由を模倣すれば、企業はみな似てくる。では、変異の源はなんなのか。それは、イノベーションである。企業そのものも、自ら変化を導入しようとする」と述べています。
 また、進化論的アプローチの魅力として、「進化のモデルが競争過程における強固な規則性をうまく実証的に捉えられること」を挙げ、中でも、「ゲーム理論は、自然を理解するのにあまりにも適切な手法であるため、生物学者は経済学からその手法を取り入れた」と述べています。
 著者は、「多くの経済的そして政治的利害、専門的知識、法律、社会規範、文化的習慣などが、どのように共進化することによって市場制度が生じ、競争環境が形成されるのかについてのはっきりした理解は、ゲーム理論以外には存在しない」と述べています。
 第8章「経済と社会」では、「エコノミストは社会学に目を向け始め、社会的ネットワーク、社会規範、社会関係資本(ソーシャルキャピタル)などに興味を持ち始めている」とした上で、「社会的興隆が資源配分の役割を果たすという、社会学や人類学の広い視野」の期限として、
(1)進化理論(分析ツールはゲーム理論や複雑性システムから得ている)
(2)計量経済的な分析で、(エコノミストにとって)あいまいな社会学もしくは文化的な変数が、経済動向と正の関係を持つということを明らかにしつつある
の2点を挙げています。
 また、ロナルド・コースらの取引費用アプローチによって、「なぜ制度が市場の結果に影響するのか、なぜ制度がうまく機能しないかが説明できる」と述べたうえで、オリバー・ウィリアムソンの研究について、「取引費用の存在によって生ずる制度に関するものだが、心理学や行動科学の問題をも提起している」として、彼が、「合理的選択の方法論――人々は自己の利益に従って行動する――を限定合理性の仮定と組み合わせた」として、「限定合理性こそが、市場における合理的選択の代替物として、決定構造やガバナンス構造を生んだのである」と述べています。
 さらに、「エコノミストの中には、社会関係資本や文化といった幅広い概念の有用性を全く信用しない人々もいる」として、チャールズ・マンスキが、「社会的相互反応」に関して、
・他の人々の選択が自分の選択を制約する。
・他人の選択に関する期待に基づいて、自分は行動する。
・自らの選好(したがって選択)は、他人の選好に依存する。
の3つの特定ルートを提示していることを紹介しています。
 第9章「なぜ経済学に魂があるのか」では、「主流派経済学は『自閉的』と考えるエコノミストは明らかに多い。非エコノミストは言うに及ばず」とした上で、「機械論的で、数学的で、『現実世界』から乖離し、要素還元主義的で、自閉症的――これほど多くの人々、子れほど多くの経済学者は、なぜ経済学をこのような言葉で特徴づけ、経済学は一世代以上変わらないものとして描くのだろうか」について、「様々な理由が相互に増幅しあっている」結果ではないかと述べています。
 そして、「最新の計量経済学的手法と新しいデータセットを使いながら現在行われている私たちの社会の驚異的な解読は、次の10年間で、公共政策に画期的な影響を及ぼし始めるだろう。一連の社会問題についてのきちんとした実証結果が出てくると、逆に経済学は大々的な論議を呼ぶようになるだろう。なぜなら、経済学は技術的な学問であり、その結論はしばしば直感に反するものであったり、一般常識に反するものであったりするからである」と述べています。
 本書は、経済学が、「新古典派(主流派経済学)とは異なり、人間のまったき合理性を前提とせず、還元主義的な方法論からも脱している。複雑で不確実な人間行動を探り、良き経済社会をデザインする科学として成長している」として、「経済的人間」から「人間的経済」への大きな転換を描いた一冊です。


■ 個人的な視点から

 本書の第6章で、有名な「レモンの経済学」を扱う際に、欠陥車を「レモン」と呼ぶ理由について、「昔のスロットマシーンは、レモンが出るとハズレだったことから、米国では欠陥商品、とくに欠陥クルマをレモンという」と訳注が入っていて新鮮でした。


■ どんな人にオススメ?

・経済学は非人間的だと思っている人。

2009年12月15日 (火)

戦争ができなかった日本――総力戦体制の内側

■ 書籍情報

戦争ができなかった日本――総力戦体制の内側   【戦争ができなかった日本――総力戦体制の内側】(#1790)

  山中 恒
  価格: ¥740 (税込)
  角川書店(2009/8/10)

 本書は、「戦争をする」には、「国家の総力を挙げて精緻な戦争システムとビジネスを整備しなければならない。しかも国民は全力でそれを支えなければならない」として、「戦争をやることがいかに異常な事態であるか」を訴えたものです。
 第1章「戦争で儲けよう」では、「第一次世界大戦以降の戦争で勝敗を決するものは、国家の総力(軍事力、生産力、経済力、精神力などのすべて)となった」と述べています。
 そして、「関東軍は満洲権益を保持することと、同時に満洲の資源を獲得することで、日満経済ブロックを形成して、欧米経済ブロックに対抗し、日本経済に活気をもたらそうと考えた。そのために局地的紛争をでっち上げ、それを理由に満洲を武力占領することにした」と述べた上で、「関東軍は多大な犠牲を払って満州国を建国したが、5年経っても産業開発は困難なままで、成果を挙げられなかった。さすがの関東軍も困り果て、ついに内地の財界人に泣きついた」として、日産コンツェルンの総帥鮎川義介や森コンツェルンの森矗昶等を満洲に招いて、「満洲の産業や資源開発に関する意見を求め、対満進出を打診した」が、「満洲への進出を承諾する者はなかった」と述べています。
 第2章「戦費とは何か」では、「資源のない国日本が国家総力戦を遂行するためには、一日も速く生産力拡充計画を完了するしかない」ため、「冷静に考えれば当時の生産力で戦争をすること自体が無理だった。日本はあらゆる犠牲を国民に負担させないと戦争ができない国だった」と述べています。
 そして、「老若男女国民1人当たり、家屋1軒分の戦費を負担したことになる」と述べています。
 第3章「生産力が戦争の勝敗を決する」では、「戦争になると平時の財政、経済、金融、産業、貿易、外交、厚生、労働、食料、教育、文化、娯楽等すべての政策が戦争遂行に向けて改変される。近代戦争では軍需品の生産高――重工業の生産力が戦争の勝敗を決する」と述べています。
 そして、国家総動員法について、「『国家総動員法』にもとづく総動員体制というのは、戦時または事変に際し、国防目的達成のため、国の全力を最も有効に発揮させるように人的及び物的資源を、平時ならびに戦時において、統制運用する機構のこと」だと述べた上で、「議会は、『国家総動員法』を成立させることで、戦争を口実に、あらゆる権力を行使できる白紙委任状を政府に与えてしまった」と述べています。
 第4章「戦争のメンタリティ」では、1999年に「日の丸・君が代」を国旗・国家として法制化した際に、自民党が、「日の丸は昔から国民に親しまれてきて、祝祭日には必ず各戸の門口に掲揚されてきたもの」だと説明したことについて、「これは全くのでたらめであった」として、「日華事変が起きるまでは一般国民の暮らしの中に日の丸は浸透していなかった」と述べ、まず東京氏を中心に実施された「日の丸普及運動」について解説しています。
 また、戦時統制経済の強化で、中小商工業者階級が没落の危機に直面したが、「官僚は今まで転業・失業対策の実務経験が乏しかったので必要な救済対策を円滑に進めることはできなかった」として、「ある日突然たった一つの省令で廃業に追い込まれた中小商工業者は、統制の意味も商工省の意向も、将来の見透しも分からぬままに路頭に投げ出されてしまった」と述べています。
 第5章「資源がない、物がない」では、「石油、石炭、ガスが不足する中で生活必需品の木炭不足が起きた」ことについて、「戦時平時を問わず、日本の本質的弱点は原料資源に乏しいこと」だと述べています。
 また、「米国が石油を禁輸したから、日本はやむなく戦争をやった。日本が真珠湾を攻撃したのは米国に石油を止められたからだ」という一方的な米国非難がまかり通っていることについて、「石油を止められたのは、日米通商航海条約が廃棄され無条約状態のまま放置したのも大きな原因である」ことを指摘しています。
 本書は、戦争ができる「普通の国」の異常さを指摘した一冊です。


■ 個人的な視点から

 個人的には、本書の著者が「あばれはっちゃく」の原作者であることを初めて知りました。あのテーマ曲は「あばれはっちゃく鼻づまり」だと思っていた一人です。


■ どんな人にオススメ?

・「戦争ができる国」のリアルな姿が想像できない人。


2009年12月14日 (月)

LTCM伝説―怪物ヘッジファンドの栄光と挫折

■ 書籍情報

LTCM伝説―怪物ヘッジファンドの栄光と挫折   【LTCM伝説―怪物ヘッジファンドの栄光と挫折】(#1789)

  ニコラス ダンバー (著), 寺沢 芳男 (翻訳), グローバルサイバーインベストメント (翻訳)
  価格: ¥2,520 (税込)
  東洋経済新報社(2001/02)

 本書は、「いまだに謎に包まれた部分の多かったLTCM危機について、初めて体系的に整理した文献」です。
 監訳者は、レーガン政権時代の思い切った規制緩和の結果、「銀行と証券の垣根が崩れ、複数の市場にまたがる金融取引や業務間の隙間を衝くような金融商品が活発に利用されるように」なったとして、「そうした外部環境の変化をたくみに捉えたアメリカ金融革新の象徴が金融工学の発展」だと述べ、「コンピューターに強い数理技術者や学界からの優秀な人材を大量に投入して技術開発にしのぎを削った結果、金融技術が発達し、さらに新しいフロンティアが生まれ、そこにまた新たな商品が開発される、という好循環が生まれた」と述べた上で、「LTCMのアプローチは、それまで文科系産業の代表格だった金融業に自然科学のノウハウを持ち込み、究極にまで洗練したことに最大の特色」があるとしています。
 第1章「投機の理論」では、ブラック、ショールズ、マートンのアイデアが、「1973年の発表と同時に大きな影響力を持ったわけではないが、やがて世界を変え、また生みの親たちの人生も変えていくことになる」として、3人が、「後に金融工学と呼ばれる学問を興した」と述べています。
 また、今ならデスクトップ・コンピュータが1秒足らずで計算してくれる計算を、「1950年代から60年代の初期の機械では、何時間も何日間もかかった」ことがもたらした流れとして、
(1)金融においてテクノロジーは強い影響力を持つようになった。
(2)初期のコンピューターを最大限に活用する方法を身につけた若い世代が、きわめて貴重な存在となった。
の2点を挙げています。
 第2章「恐怖心と貪欲の科学」では、「オプションには大まかに言って、恐怖心と貪欲という二つの面がある。リスクとして知られる恐怖心は、オプションの存在意義を裏付けており、最低として知られる貪欲は価格の根拠となる」として、ブラック、ショールズ、マートンの3人は「これらを結びつけ、最低がそれを可能にする仕組みを示してはじめて、オプションは知られざる存在を脱した」と述べています。
 そして、「ブラック―ショールズ―マートン理論には、自爆を招く種が潜んでいる」として、「この理論を記した小さな活字の奥深くに埋められていた」と述べ、「最も重要な仮定は、株式など原資産の市場が正常に機能することであった。1998年夏、この仮定が他の条件とともに音を立てて崩れ落ちていくのであった」としています。
 第3章「時間に賭ける」では、「裁定という考え方の重要性を世に知らしめたのがブラック、ショールズ、マートンなら、この考え方をビジネスに変えた」のはソロモンブラザーズの債券市場のトレーダーだったジョン・メリウェザーだったと述べています。
 第4章「八岐の園」では、「ブラック-ショールズ式が完成された精密時計だとしたら、金融業会が捜し求めたのは使い捨て時計である。誰にでも分解でき、万能で単純な計算式が組み込まれた時計をウォール街のトレーダーたちは求めたのだ」とした上で、「物理学の世界では、非常にシンプルだが、自然界の原理を説明できる理論や法則をもとにありとあらゆるものが使われていた」として、カリフォルニア工科大学で学ぶステファン・ロスが、「ファインマンの理論をロスなりに実証して、この理論を株式市場に当てはめていた。ロスは、株価が変動可能なパターンすべてをツリー・ダイアグラムに書き換えてみたのだ。基本的には、量子力学を金融市場に取り入れたといえる」と述べ、1976年にロストコックスが発表した論文が、「金融界に新たな分野を生み出すきっかけになった」としています。
 そして、「このツリー・ダイアグラムを使う方法は二項モデルと呼ばれ、ロス、コックス、それに、ルビンシュタインの3人によって、オプション価格はよりビジュアルに、また、簡単に求められるようになった」として、「オプション市場は、3人の理論とテクノロジーの発展から、一段と飛躍した」と述べています。
 また、「80年代の半ば、ウォール街で誰よりも先に、この金融工学をウォール街に持ち込んだソロモン・ブラザーズの成功はメリウェザーなくしては起こり得なかった。ウォール街はメリウェザーの手の中にあった」と述べています。
 第5章「警告」では、1987年夏、株価大暴落の数ヶ月前、「マーク・ルビシュタインと同僚たちは、あることに気づいた」として、「実は彼らは欠陥品のパラシュートをつけて飛んでいた」と述べ、「問題はブラック、ショールズ、マートンの理論の小さな活字の中、つまり、その仮定条件にあった」とした上で、ブラック、ショールズ、マートンの理論の3つの重要な仮定について、
(1)連続的な市場
(2)摩擦がない市場
(3)株式などオプション理論家たちが対象とした資産が、ランダム・ウォークをたどる
の3点を挙げています。
 そしてブラック・マンデーの経緯について、「需給で価格が決まるというアダム・スミス流の昔ながらの市場を心臓として、流動性を心臓に流れ込む血液とすれば、ブラック・マンデーは心不全であった。血液が流れなくなって、心臓が止まってしまったのである」と述べています。
 第6章「ドリーム・チーム」では、「1993年8月までにLTCMは7人の『主役』――メリウェザー、ローゼンフェルド、ハガーニ、ホーキンス、マートン、ショールズ、そしてマッケンティーによって構成された」としたうえで、「富を楽しむことよりもLTCMにすべてを投資することを彼らは選択した」と述べています。
 第7章「制御不能」では、「ブラックの考えではクオンツとトレーダーの間にははっきりした境界線がある」が、「ソロモンの始めた新しいアービトラージの手法はすべてを変えてしまった。ローゼンフェルドに始まりメリウェザーもクオンツ派の人間にトレードさせ、すばらしい結果を物にした。LTCMはこの考え方をより発展させて出来上がったものだ」と述べています。
 そして、1994年以降、世界的に株式市場が活況を呈し、「特に東南アジアの発展途上国市場は目を見張るものがあった」として、「欧米の投資家たちは、高度経済成長をとげるこれらの諸国に現地通貨で投資を行うことにより、大きな利益を上げそれをドルに変えていたのだ。一方、これら諸国の高金利は、先進国の数多くの金融機関がアジアの企業にドルで貸し出すことを促す結果となった」と述べたうえで、「アジアのバブルがはじけ始めると、欧米の投資家たちは資金を回収し、現地通貨をドルに変え始める動きに出た」と述べています。
 また、「お祭り気分の漂う1997年の最後の数週間、LTCMの中では非常に深刻な議論が繰り返されていた」として、それは、「LTCMの目的は何か、また今後の方針は何なのか」という根本的な疑問に凝縮されていたと述べています。
 第8章「マーチンゲールの歌」では、著者がショールズに、LTCMが「投資運用会社なのか」と質問した際に、「ALMつまり資産負債運用会社と言うほうが正しい」と答えたことについて、「言い換えればヘッジファンドだ」と述べています。
 そして、1998年6月の重要なミーティングで、ショールズとマートンの意見が通らず、「巨大なマネー・マシーンは無傷で維持された」ことについて、「致命的なミスだった。いまや大虐殺の本番が始まろうとしていた」と述べています。
 1998年8月に、「既にLTCMに悪くない利益をもたらしていたハガーニの最近のスターリングポンド/ドイツマルク・スワップ・スプレッド・トレードのような巨額のポジションが突然赤字に転落した」ことについて、「なにが起こっているのか誰にもわからなかった」と述べ、「マネー・マシーンを稼動させているエンジンはしばしば流動性格差である」が、「いまや、マネー・マシーンが停止し始めたのだ、影響はギアをバックに入れた状態になった」として、「このマーケット・ウイルスは相関性についても破壊的な影響をもたらす」と述べています。
 また、「何千人ものトレーダーやアナリストが常識として身につけてきた通常の経済的な関係は突如として無意味なものになってしまった」として、「自分たちのモデルを設計しテストしてきたクオンツには強烈な経験だった。次から次へとマネー・マシーンが爆発する。彼らにとっては知的世界の破滅にとどまらず、個人資産の破産でもあった」とのべています。
 さらに、「LTCMの独立が維持された最後の7日間は、なんとも不思議な感じだった」として、「30年間磨きをかけてきた金融理論が、使い物にならないことが証明されたのだ。億ドル単位の運用成績やノーベル賞ももはや無意味だった」と述べています。
 著者は、「すべての仮定は、ブラック・ショールズ式の小さな活字に埋め込まれていたのだ。マーケットの流動性と連続性、標準偏差。それは『分散』のような昔からの一般通念とともに、あの夏、破壊されてしまった」と述べています。
 終章では、「いまや金融業会の端々まで、リスク管理の厳格な体制が採用された。LTCM危機の教訓を調査した民間銀行共同の調査グループは、リスク管理上、流動性とレバレッジの取り扱いに焦点を当てて、ヘッジファンドに対するより慎重な対応を進めている」として、「結果的に、厳格な担保設定要求とレバレッジの限定が数多くのヘッジファンドを廃業に追い込み、同時に大銀行の自己勘定デスクがリスク過大として閉鎖されることになった」と述べています。
 本書は、タイトルに違わず、いまや「伝説」となったLTCMの盛衰を描いた一冊です。


■ 個人的な視点から

 ノーベル賞学者のファンドが破綻したということで話題になりましたが、「よくわからないけど言わんこっちゃない」と言って理解しようとしない人が多い中で、金融工学とは何か、LTCMとは何だったのかをおった本書は大事だと思います。


■ どんな人にオススメ?

・金融工学が世界をどう変えたかを知りたい人。

2009年12月13日 (日)

トンデモ科学の見破りかた -もしかしたら本当かもしれない9つの奇説

■ 書籍情報

トンデモ科学の見破りかた -もしかしたら本当かもしれない9つの奇説   【トンデモ科学の見破りかた -もしかしたら本当かもしれない9つの奇説】(#1788)

  ロバート・アーリック (著), 垂水 雄二 他 (翻訳)
  価格: ¥1,785 (税込)
  草思社(2004/2/14)

 本書は、「トンデモないとしか思えないような考えが現代科学にはなぜこんなにも多いのか」について、「専門家の意見を頼らずに、より見込みのありそうな考えをふるい分ける方法を示して」いるものです。
 そして、「どんなに珍奇な科学理論でも、一つの厳格な検証にだけはパスしなければならない」として、「理論による予測は物理的な世界で観察される現象と一致しなければならない」ことを挙げています。
 第2章「銃を普及させれば犯罪率は低下する」では、「
・銃の増加は(犯罪差の牽制を通じて)犯罪の減少を意味する
・銃の増加は(攻撃をより致命的なものにすることを通じて)犯罪の増加を意味する
の2つの理論について、「現実的には、どちらの理論にもいくらかは真実の要素があるかもしれない」とした上で、「アメリカはつねに銃文化を持ってきた」と主張されることについて、「1850年以前に、10人に1人以上の人間が銃を所有した時期は一度もなかった」とする歴史家のマイケル・ベイザイルズの言葉を紹介しています。
 第3章「エイズの原因がHIVというのは嘘」では、「病原体と病気の因果関係を確立するという作業は、絶対的な確実さをもっておこなうのが難しい」と述べた上で、HIVがコッホの条件を満たしているかを検討しています。
 第4章「紫外線は体にいいことの方が多い」では、「日光曝露が虚血性心疾患の抑制を助けるような役割を果たすという考えは、まだ生むをいわさぬところまでは至っていないが十分納得の行く立証がなされているように思われる」として、「トンデモ度ゼロ」の判定を示しています。
 第6章「太陽系には遠くにもう一つ太陽がある」では、「太陽の伴星が存在しうることを支持する証拠は、宇宙の研究からではなく地球の岩石の研究から得られる」とした上で、「大量絶滅の2620万年周期とその原因となった隕石の衝突とを結び付けて考えるなら、巨大な隕石の雨が2620万年の間隔で定期的に地球を襲ったと結論せざるを得ない」と述べ、「大量絶滅の周期性(ネメシス仮説の唯一の根拠)の証拠には重大な疑問の余地がある」と指摘しています。
 第7章「石油、石炭、天然ガスは生物起源ではない」では、「炭化水素は現在信じられているような化石燃料ではなく、この地球という惑星のもともとの構成成分の一部であって、地球深部の地殻やマントルには、地質学者たちが考えているよりもはるかに大量に存在している」という説を紹介したうえで、「石油会社にとっては、石油は乏しいというイメージを行き渡らせておくことで石油を高値に保つのが利益に」なることを指摘しています。
 第11章「まとめ」では、「科学の全歴史を通じて、一度はトンデモない考えとみなされていたものが後に真実であることが判明した事例はいくらでもあり、嘘であることが判明した事例はもっとたくさんある」と述べています。
 本書は、科学に対する見方を養ううえで有益な一冊です。


■ 個人的な視点から

 読む前はトンデモな科学理論だけを紹介するものだと思っていましたが、今はトンデモに見えても実は正しいかもしれない科学理論があるかもしれないというのはロマンがあります。個人的にはアクア人類説が好きなのですが。


■ どんな人にオススメ?

・トンデモ科学は全部インチキだと思っている人。

2009年12月12日 (土)

部下を上手に伸ばすOJT 元気な公務組織の処方箋

■ 書籍情報

部下を上手に伸ばすOJT 元気な公務組織の処方箋   【部下を上手に伸ばすOJT 元気な公務組織の処方箋】(#1787)

  高嶋 直人, 渡邊 直一
  価格: ¥1,680 (税込)
  公務研修協議会(2008/12)

 本書は、「公務職場での人材育成に関する基礎と応用」をテーマとしたものです。
 第1章「組織DNAの継承と人作り」では、「組織DNA」とは「いわば組織文化」だとしたうえで、「組織文化は、組織内で共有される暗黙の前提になっている価値観や行動規範を形作るものであり、外部の研修や組織外の人からは学び取ることが」できないとして「人作り」に直結するものだと述べています。
 そして、組織DNAの継承に重要なこととして、「部下から見た理想の上司が身近にいるか」を揚げ、「上三年にして下を知り、部下三日にして上を知る」という言葉を紹介しています。
 また、部下育成がうまく機能しない理由として、
(1)上司が日常業務に忙殺されて、部下の育成に時間が取れなくなっている。
(2)成果の現れやすい当面の課題解決や達成に集中し、長期的な課題で成果の現れにくい部下の能力開発がおろそかになっている。
(3)働き方の多様化、職員意識の変化、さらには非正規職員の増加により、OJTを行うべき上司が部下の育成に情熱をもてなくなっている。
の3点を挙げています。
 第2章「OJTの基礎」では、「人材育成においては、相手の欲している、あるいは必要としているときに、その状況にあったアドバイスや助言をすることが効果的」だとして、
(1)業務の変化があって悩んでいる時
(2)努力しているのに成果が思うように上がらない時
(3)仕事が軌道に乗り自信過剰になっている時
の3つのタイミングを挙げています。
 また、OJTに関する誤解として、
(1)OJTは、同じ部署の上司が部下に行うものである。
(2)OJTは、部下の育成を図るのであって上司の成長には役立たない。
(3)OJTは、画一的な指導法がある。
の3点を挙げています。
 第3章「OJTの応用」では、「OJTを行ううえで効果的な手法や、従来型のOJTを発展させていくために有効な考え方」として、双方向のコミュニケーションを円滑に行うために不可欠な「コーチング」や、近年、効果的な手法として取り上げられている「メンタリング」などの手法について解説しています。
 また、「高業績者の行動特性」と言われている「コンピテンシー(competency)」について、その発端となったアメリカ国務省の調査について、高業績の外交官に共通する傾向として、
(1)異文化に対する感受性がすぐれ、環境対応力が高い
(2)どんな相手に対しても人間性を尊重する
(3)自ら人的ネットワークを構築するのがうまい
の3つの項目があったことを紹介しています。
 第4章「OJTの実践」では、部下の様子がおかしいと思ったときに、話しかける際に注意する点として、
(1)プライバシーを漏らすことはしない
(2)「頑張れ」などと闇雲に励ますことをしない
(3)わからないのに適当なアドバイスはしない
の3点を挙げ、「本人が嫌がっている場合は、無理に飲みに行くこと」を避けるべきだと述べています。
 第5章「管理職とリーダーシップ」では、「成果を挙げた部下に対しては、そのフィードバックとして『認めること』や『褒めること』が重要」だとした上で、その際のポイントとして、
(1)タイミング良く褒める
(2)具体的に褒める
(3)心から褒める
の3点を挙げています。
 また、管理職も、「最近ではプレーイングマネジャーとして自ら成果を挙げつつ部下の育成も求められて」いるとして、
(1)優先順位付けをした「やり過ごす力」
(2)部下の安心を構築する「サポート力」
(3)組織内の納得感を高める「ファシリテーション力」
(4)部下の行動や悩みを把握する「気配り力」
(5)明確に物事を伝える「コミュニケーション力」
などが、上司にとって新たに必要となったスキルであると述べています。
 第2部「進化するOJT」では、「人が育たなくなった」という声の背景には、「育てるべき立場の上司が部下を育てられない、育てない。」という意味合いが強くなったとして、
・管理職がプレーヤー化したこと
・仕事が恒常的に忙しくなったこと
・組織のフラット化で部下を持つ時期が遅くなり上司としての経験が少なくなったこと
などの原因を挙げています。
 また、タイムマネジメント意識を持つ意義として、一日や一週間の一定時間を「緊急ではないが重要なもの」に割くようにするなどの対策が必要であることを挙げています。
 本書は、管理職にとっての必須科目である「OJT」をわかりやすく解説した一冊です。


■ 個人的な視点から

 本書は公務員の管理職研修をメインの対象としているものだと思いますが、管理職の心得としては一般的なものではないかと思います。


■ どんな人にオススメ?

・管理職とは何かを知りたい人。

2009年12月11日 (金)

地域医療 ~再生への処方箋~

■ 書籍情報

地域医療 ~再生への処方箋~   【地域医療 ~再生への処方箋~】(#1786)

  伊関 友伸
  価格: ¥2,300 (税込)
  ぎょうせい(2009/12/16)

 本書は、著者の前著『まちの病院がなくなる!?』の続編に当たり、「現場における医療再生の試みの実践報告」を重視するとして、主に著者が委員などの立場で携わった全国の医療現場の活動を紹介しているものです。
 第1章「なぜ自治体病院の経営は崩壊するのか」では、銚子市立総合病院の医療崩壊の事例を取り上げ、「新しい臨床研修医療制度の影響や、市の市立病院に対する姿勢により、大学医学部による医師の引き上げが起きたこと」などの要因を挙げた上で、構造的な問題として、
(1)病院の機能低下と社会的入院の増加
(2)硬直的な病院運営・・・高い職員給与
(3)病院の努力と首長との対立
等を挙げ、「変われない病院と病院経営を知らない行政、銚子市立総合病院の崩壊は、自治体病院の抱える病理が典型的に出た事例」だと指摘しています。
 そして、「自治体病院の医師・看護婦不足問題」について、「構造的なものであり、新しい臨床研修制度や7対1看護の導入はその引き金になったに過ぎない」と述べ、「高度・専門化した病院に若い医師や看護師が集まること」は、「医療の高度・専門化の流れから当然のこと」であり、「問題は、このような構造の中で、いかに地方の自治体病院に若い医師・看護師が勤務するような環境をつくるか」だと指摘しています。
 また、質の高い病院運営に必要なものについて、
(1)設置者レベル
(2)運営責任者レベル
(3)現場職員レベル
の3つのレベルに分けて整理し、多くの自治体病院の経営は、「このような状況からほど遠い」ことを指摘しています。
 さらに、自治体病院が崩壊する原因の一つとして「政治リスク」を挙げ、自治体病院を危機に陥れる首長には、
(1)首長として能力のないタイプ
(2)首長としては優秀であるが、医療や病院経営についての理解を欠くタイプ
の2種類があると述べています。
 第2章「奈良県の自治体病院の課題」では、著者が公立病院改革部会の部会長を務めた、奈良県地域医療等対策協議会の事例を取り上げています。
 そして、「県立奈良病院の人員配置の抑制は民間病院と比べてみても明らか」であることを指摘したことをはじめ、「奈良県の自治体病院の抱える最大の問題は過小投資」であるとして、「これほど、自治体本体の財政や人事担当が過剰に関与し、必要な投資をしないという例を見たことはない」と述べています。
 また、奈良県地域医療等対策協議会が、「調査の分析を行ったところで終わることとなった」理由として、「事務局である地域医療連携課に人やお金をほとんど出さ」ず、中心となる職員が過労で倒れてしまったと述べ、奈良県の地域医療が、「ピースが絶対的に足りないジグソーパズル」という状況は「今も変わっていない」と指摘しています。
 第3章「沖縄県立6病院の医療再生」では、著者が委員を務めた沖縄県医療審議会「県立病院のあり方検討部会」の事例を取り上げ、沖縄県病院事業の最大の問題点は、「80億円に達する一時借入金の存在」であると述べています。
 また、「沖縄県立6病院のお役所体質も変えていく必要があるものの、あり方検討部会事務局である福祉保健部医療・国保課の姿勢は気になった」として、同課の職員が、「沖縄県の財政を優先し、できるだけ県立6病院への予算を減らすという意識が強かった」ことを指摘しています。
 そして、「委員として、責任を持って発言するには、沖縄県及び県立6病院の関係者全てが信用できなかった」として、あり方検討部会の審議の中で「沖縄県は信用できない」と発言したと述べています。
 第4章「夕張希望の杜の地域医療再生」では、「経営破綻した夕張市総合病院の医療を引き継いだ村上智彦医師と夕張希望の杜の医療再生の試み」について報告しています。
 そして、著者が村上医師に夕張の医療継続をお願いしようと考えた最大の理由として、「夕張のような危機的状況にある医療機関は、普通のやり方では再生は難し」く、「何よりもすぐれたリーダーがいて、理念を示し、周りがそれをサポートする体制が必要」であり、「危機的状況を変えるリーダーとして、村上智彦医師がベストだと考えた」ためだと述べています。
 また、外部から夕張市を見て感じることとして、夕張市はいわゆる「田舎」ではなく、「衰退した都市」だと述べ、「農村部と比べて、地縁の結びつきが薄い。基本的に個人個人が孤立している。基本的に何でも『人任せ』の住民が多い」ことを指摘しています。
 第5章「住民も『当事者』の医療再生」では、兵庫県丹波地域と千葉県山武地域の住民主体の医療再生の試みを取り上げ、「自治体病院そして地域医療の再生のためには、医療機関や行政だけが努力しても限界がある。患者であり自治体病院の本来の経営者でもある住民が、『当事者』として地域の医療や病院の経営について考え、主体的に行動していく必要がある」と述べています。
 そして、「多くの病院現場で、県立柏原病院の和久井医師のように仕事で疲れ果てた医師が退職し、医療が継続できなくなっている」と述べた上で、地域の母親たちが「自分たち住民にも責任があるのではないか」ということに気づき、「県立柏原病院の小児科を守る会」が結成されたことを紹介し、「署名をすることで、行政は一層医師不足への対応を行うことが求められるし、医師の待遇は改善されるかもしれない。しかし、住民の意識が変わらなければ、わざわざ医師は医療崩壊した病院に勤務したいと思わない」と述べ、一部の医師が、「医師の『確保』を『要求』する署名活動そのものの独善性を指摘している」ことを紹介しています。
 また、千葉県山武地域の「地域医療を育てる会」の活動を紹介したうえで、2つの団体の意義は、「何よりも医療機関と住民、行政を『つなぐ』ことにある」と述べ、「地域医療が崩壊する中で、住民は行政や医療機関に要求だけを行う『お客様』ではなく、医療や健康づくりについて学び、節度ある行動を行うことが求められるのではないだろうか。つまり地域医療という課題の『当事者』になるということである」と述べています。
 第6章「『まちの病院(医療機関)をなくさないために必要なこと』では、全国の地域医療崩壊の現場に入って感じることとして、「医療の高度・専門化と地域における高齢者の増大という、環境の変化に自治体病院や地域住民が対応できていないこと」を挙げたうえで、「医師と行政との間には深刻なコミュニケーションの溝が存在する」ことを指摘しています。
 そして、政権交代、医療費縮減政策の転換を踏まえ、「まちの病院(医療機関)の存続」のために必要な政策として、
(1)「自治体病院の基本理念」を明確に示すことの必要性
(2)「病院機能と運営形態の見直し」の必要性
(3)「自治体病院を巡る法律やルールの見直し」の必要性
の3点を挙げています。
 第7章「自治体病院の『赤字』について考える」では、全国の自治体病院が累積欠損金の約2兆15億円の赤字を解消した場合に残る約1兆8829億円の相当額が「自治体の貸借対照表の現預金として残る」ことについて、「安定した運営のために、病院事業が一定の現金を持つことは必要である」が、「果たしてここまで現預金を残す必要があるのであろうか」と指摘しています。
 そして、「自治体病院の『赤字』を批判するならば、経営を改善し『黒字』にすべきものを自治体病院の『赤字』として議論すべきである」と述べ、自治体病院の「赤字」概念が、「多元的であり、きちんとした定義がない」ことを指摘しています。
 本書は、自治体病院の現場で起きている具体的な課題解決の取り組みをつづった一冊です。


■ 個人的な視点から

 本書は、同じ著者の前著から読んだほうが日本の地域医療の構造的な問題を理解しやすくなるとは思いますが、一般的には本書のほうが著者が関わった具体的な事例がたくさん出てくるので読み応えはあるかもしれません。


■ どんな人にオススメ?

・自分と地域医療との関わり方を見つめたい人。

2009年12月10日 (木)

子宮の中のエイリアン―母と子の関係はどう進化してきたか

■ 書籍情報

子宮の中のエイリアン―母と子の関係はどう進化してきたか   【子宮の中のエイリアン―母と子の関係はどう進化してきたか】(#1785)

  エレイン モーガン (著), 望月 弘子 (翻訳)
  価格: ¥2,310 (税込)
  どうぶつ社(1998/09)

 本書は、「人類の進化を考えるとき、類人猿から人間に至る道のりのあらゆる段階には男と女だけでなく赤ん坊や子どももいた」として、「自然選択は決して他の年齢グループを犠牲にして特定の年齢グループだけを優遇することはなかった」という事実を指摘したものです。
 第1章「セックスはほんとうに必要か?」では、「高等生物におけるセックスはもともと、寄生生物や病気に対する対抗手段として生まれたのではないか」という仮説を紹介しています。
 第4章「氾濫」では、「有胎盤類の誕生は、地球上の生物の歴史の中でも最も注目すべき出来事の一つ」だとして、「問題は、発達の最初期である受精卵の行動の変化にあった」と述べた上で、「有胎盤類の胎児は、これ以上ないほど恵まれた、暖かい、栄養満点の、変化にさらされる心配のない環境で育つ」として、有胎盤類出現の意味は、「子どもの側が、大きな利益を手にした」と述べています。
 第5章「ゆっくりゆっくりと」では、人間の赤ん坊が、「成熟度や発達の度合いといった面ではひどく遅れているのに、体の大きさだけは急激に大きくなる」ことについて、まるで、「ママの生命時計のゆっくりしたペースから考えて、(哺乳類の平均的な推移傾向に従えば)その体がとても大きいに違いない」と思い込んで「急激な体重増加を始めるかのようだ」と述べています。
 第8章「裸のサル」では、人間の胎児が、「いったん毛皮のコートをまとってから、ふたたびそれを脱ぎ捨てる」として、受精後3ヶ月目にふさふさ生え始める「毳毛」が、受精後20週頃には、「頭も顔も手足も、すっかり毛で覆われる」後に、再び無毛になることについて、「人間の赤ん坊は、その発達途上のある時期に、類人猿とはまったく別の住環境に適応するための修正を行っている」ということ以外には「ありえない」と述べています。
 第11章「妥協案」では、「胎児がどんどん大きくなり続け、ことに頭部が巨大になって母親の骨盤を通り抜けられなくなれば、母子共倒れになってしまう」問題を解決するために、
(1)母親側で、一時的に骨盤を広げる
(2)赤ん坊側で、一時的に頭骸骨を小さくする
の2つの仕組みが考案されたとした上で、「さらに決定的な問題解決法となったのは、いわば、母親による一種の"クーデター"であった」として、「サルや類人猿の新生児に比べるとひどく未成熟な段階で、胎児を体の中から追い出してしまうことにした」と述べています。
 第13章「生命力にあふれたチビ」では、陸生哺乳類の母親が、臍帯を噛み切り、分娩後に胎盤(後産)を食べてしまうという共通の本能をもつことについて、人間の場合はその本能は失われているが、「タマネギといっしょにいためた胎盤は、とても美味なのだそうだ」と述べています。
 第16章「生きのびる知恵」では、生後1年間の赤ん坊に見られる身体的特徴を、
(1)胎盤での生活に向いた特徴の名残
(2)赤ん坊としての現在の生活に適した特徴
(3)謎に満ちた、人間独特の特徴
の3つのグループに分けて解説しています。
 第19章「身ぶりや手ぶりの意味すること」では、「子どもはけっして未完成な大人ではない」という児童心理学者N・ブラートン・ジョーンズの言葉を紹介した上で、「霊長類の赤ん坊はどんな種でも、今後その種独自の発達を遂げるための基本設計をあらかじめちゃんと備えた回路を、脳内に作り上げようとする。一生のうちでもいちばん活発に、いわばその種としての"心"をつくりあげている最中なのだ」として、「こう考えれば、赤ん坊に起こるたいていのことを、『大人になったときにそなえてのリハーサル』だなどといわなくても説明できる」と述べています。
 第23章「過去を読む」では、「50年以上ものあいだ人類進化の研究者たちは、ある一つの仮説を案内役として、道を歩んできた」と人類の二足歩行に関する「サバンナ説」を紹介した上で、「この説の一番の弱点は、人間以外にも森を出てサバンナで暮らすようになった霊長類」がたくさんいることだと述べています。
 そして、「もはや風前の灯といった状態であるサバンナ説にとってかわれるのは、"アクア説(水生類人猿説。『アクア』は"水"の意)をおいてほかにない」と述べ、本書の目的に関しての問題は、「人類進化の途上に半水生生活を体験した時期があったと考えると、誕生前後に人間の赤ん坊が示す得意な特徴を、うまく説明できるか?」だと述べ、胎脂や水生生活への適応としての無毛性、厚い皮下脂肪層を作ることなどの例を挙げています。
 また、脳容積の増大とアクア説をつなぐ糸として、
(1)食物の豊富さ:熱帯地方の海岸近くの海は、地球上で一番単位面積当たりの生物量が多い。
(2)食物の栄養バランス:脳の組織を作るのには、他の部分を作るのとは違う栄養バランスが必要・・・海中にはオメガ3脂肪酸が豊富にある。
(3)移動法:泳いだりもぐったりするのは三次元の移動法であり、その他の条件が同じなら、脳は大きくなるはずである。
の3点を挙げています。
 本書は、子どもから人類の進化を捕らえた一冊です。


■ 個人的な視点から

 同じ著者の「アクア説」の本を読んだことがある人ならば、22章までの間、「いつ出てくるか?」ともどかしく思いながら読んでいたのではないかと思います。やっぱりロマンがあります。


■ どんな人にオススメ?

・赤ん坊が子宮で育つのは当たり前だと思っている人。

2009年12月 9日 (水)

極端な未来 経済・産業・科学編

■ 書籍情報

極端な未来 経済・産業・科学編   【極端な未来 経済・産業・科学編】(#1784)

  ジェームズ キャントン (著), 椿 正晴 (翻訳)
  価格: ¥1,995 (税込)
  主婦の友社(2008/03)

 本書は、「ビジネスフューチャリストとして、顧客企業にとっての関心の的である国際競争、技術革新、労働市場、収益機会などについての今後の見通しを示すことを主要業務としている」著者が、「次なるトレンドをいち早く察知しようと努力する顧客企業のお手伝いをする」なかで、著者が「見聞きしたこと調べたこと考えたことをまとめたもの」です。
 第1章「イノベーション経済」では、「来るべきイノベーション経済のもとでは、価値を創造し、問題の解決策を提供し、人々の必要を満たすアイデアが次々に生まれ、それまでのアイデア、製品、サービス、プロセスは時代遅れとなり、人々の記憶から忘れ去られていく」としたうえで、「民主主義が成立している地域では、必ず自由市場経済が出現し、人々の生活の質が向上する。その一方で、イノベーションが民主主義を促進するという側面もある」と述べています。
 また、考えられる未来のシナリオとして、
(1)繁栄を謳歌するアメリカ
(2)巻き返しを図るアメリカ
(3)衰退するアメリカ
の3つのシナリオを挙げています。
 第2章「未来の燃料」では、「アメリカ人にとって、ガソリンがミネラルウォーターより安く買えるのは当たり前だった」とした上で、「ナノテクは、うまくすればエネルギー問題の抜本的な解決策となる」と述べています。
 第3章「夢の長寿薬と人間の能力強化」では、「私たちは、やがて、健康と医療の面で、現在では到底考えられない様々な選択肢を新たに提示されるだろう」と述べています。
 そして、近未来に「老化防止と人間の能力強化が行われる可能性」があるとした上で、未来のトレンドとして、
(1)機能強化治療としての能力強化
(2)個人の可能性を広げるための能力強化
(3)遺伝子操作による能力強化
の3点を挙げています。
 第4章「地球温暖化の進行」では、「私たちが化石燃料依存のライフスタイルから抜け出すことができず、大量のCO2を大気中に排出し続ければ、人類の生存が危機にされている」として、必要とされているのは、「地球温暖化の抑止という困難な課題に大胆かつ柔軟に対処できる政治指導者であり企業経営者である」と述べています。
 第5章「トンデモ科学」では、「いつの時代でも、新しい科学には懐疑の目が向けられがちだった」とした上で、映画『ターミネーター』と『マトリックス』の2作品を挙げ、「どちらの映画でも、巨大科学が制御不能となって猛威を振るい、破滅的な結果をもたらすという終末論的な未来館が提示される」と述べています。
 本書は、「極端」という留保条件を置きながらも、実は結構ありうるかもしれない未来を描いた一冊です。


■ 個人的な視点から

 本書に比べれば、不都合なナントカを含め、世に出回っている環境保護を訴える言説の殆どが「極端な未来」のような気がします。たいていそういう言説は、もともとは、「最悪のシナリオでは」とか「このペースで推移した場合」という前置きが付いているのですが、いろいろな場所で繰り返し語られているうちに、いつの間にか、それが最もありうるようなケースとして語られるようになるのが恐ろしいところです。


■ どんな人にオススメ?

・未来は現在とそれほど変わらないと思う人。

2009年12月 8日 (火)

安心のファシズム―支配されたがる人びと

■ 書籍情報

安心のファシズム―支配されたがる人びと   【安心のファシズム―支配されたがる人びと】(#1783)

  斎藤 貴男
  価格: ¥735 (税込)
  岩波書店(2004/07)

 本書は、「ファシズムは、そよ風とともにやってくる」と、「独裁者の強権政治だけでファシズムは成立しない。自由の法的と隷従を積極的に求める民衆の心性ゆえにそれは命脈をも絶つ」として、「より強大な権力と巨大テクノロジーと利便性に支配される安心を欲し、これ以上のファシズムを招けば、私たちはやがて、確実に裏切られよう」ことを警告しているものです。
 第1章「イラク人質事件と銃後の思想」では、2004年のイラク人質事件に関する「自己責任論争」について、「なんとも禍々しい春だった」として、「多様な価値観を許容する寛容さが急速に失われつつある今日の日本社会。『自己責任』という言葉が、そして、時代の気分にぴたりとはまった」と警鐘を鳴らしています。
 そして、「より立場の弱い人々に八つ当たりし、あるいは差別の牙を剥いて、内心の安定を図る」用になった傾向に、インターネット掲示板が拍車をかけたとして、女子供文化評論家の荷宮和子氏の言葉を引用して警告しています。
 第2章「自動改札機と携帯電話」では、高い場所から自動改札機を通行する乗客たちを見下ろしながら、「醤油や酒を飛び散らせないよう、瓶とか徳利に注ぎ入れるための漏斗と自動改札機とは、とてもよく似ている」と乗客たちを見下ろしています。
 そして、携帯電話について、「ケータイとは個人と国家やNTTと直接結ばれる、比喩でも制度上のイメージでもなく、電気通信の最新テクノロジーによって、文字通りの管理下に置かれるのだ」と警告し、「ケータイの機能が拡大するということは、人々の生活がシステムの稼動を同義になるということだ」と批判しています。
 第3章「自由からの逃走」では、エーリヒ・フロムの同タイトルからふんだんに引用しながら、『心のノート』について、
(1)人間の心の中に関わる教材については善悪二元論に単純化されすぎていること。
(2)どの学年用でも、「集団や社会、公共との関係」のつくりがきわめて誘導的であること。
の2点を挙げて警鐘を鳴らしています。
 また、ある音楽教師が、「君が代を弾く40秒間、私はロボットになったつもりでいる。そうでなければやっていられない」と語っていることを紹介した上で、教頭が、「職務なのだから、それでも40秒間はロボットになりなさい」と指示したことを、「ほとんどレイプと同じ発想で、教職員の人事が動かされるようになってきた」と警告の声を上げています。
 そして、源泉徴収について「個人として納税することの意味を深く考えることのない、考えさせてももらえない戦後のサラリーマン税制は、自立心や独立心を欠き、一方で協調性や長いものに巻かれろ式の服従には富んだ、大勢順応型の"会社人間"を大量に生み出してきた」として、日本の戦後企業社会を支えてきたサラリーマンを見下しています。
 著者は、「ナチス式の発想や人間観を受容したがるかのような空気が、再び蘇りつつある」として、『自由からの逃走』を引用しながら警告しています。
 第5章「社会ダーウィニズムと服従の論理」では、「新自由主義に貫かれた現代の帝國に"福祉"の2文字は存在しない。変わりに取られた国民統合のための方法論は、ハイテクノロジーという凶器を得て、むしろ剥きだしの暴力性を帯びた」とテクノロジーに対する警鐘を鳴らしています。
 また、「近頃の筆者は、空港の手荷物検査で撥ねつけられないときがない。家柄や組織の後ろ盾がないからか、戦後11年間もシベリアに抑留させられ、亡くなるまで公安警察の監視下に置かれていた父を持っているためか、筆者自身の文筆活動が好ましく思われていないせいなのか、まったくもって単なる偶然なのか、理由は何も分からない」として、いつも金属探知機のチャイムが鳴り、「靴を脱がされ、ベルトと眼鏡を外させられて初めて、探知機は沈黙してくれる」と、空港の金属探知機に仕組まれたファシズムの魔の手の可能性に言及しています。
 第6章「安心のファシズム」では、三多摩地区の反戦住民団体「立川自衛隊監視テント村」のメンバーが、住居侵入罪で逮捕されたことや、社会保険庁目黒社会保険事務所の係長が、国家公務員法が定める政治的行為の制限に違反して『赤旗』の号外を配布したことについて、「係長が号外を配布した日は、いずれも日曜や祭日の休日だった。休日の政治活動も犯罪とされるなら、公務員には思想信条の自由は全く認められないことになる」と国家公務員法に対する警鐘を鳴らしています。
 本書は、社会のさまざまな出来事からファシズムの匂いを嗅ぎ分ける著者の嗅覚の鋭敏さが際立った一冊です。


■ 個人的な視点から

 本書で一番面白いところは、空港の金属探知機にファシズムの魔の手を感じるくだりです。ここまで、もしかすると著者は真面目にファシズムの脅威を訴えるつもりでいたのではないかと思っていたのですが、金属探知機の陰謀説を訴えるこのくだりを呼んで、鳥肌実の左翼版の芸風、つまり「左翼芸人」なのだと理解できました。ここの部分の「落ち」では、ベルトや眼鏡が引っかかっていたことが分かり読者を安心させるのですが、本気で金属探知機陰謀説を信じているとしたら心配になります。


■ どんな人にオススメ?

・日本の伝統的な「見立て」の極端な例を見てみたい人。

2009年12月 7日 (月)

ネットカフェ難民―ドキュメント「最底辺生活」

■ 書籍情報

ネットカフェ難民―ドキュメント「最底辺生活」   【ネットカフェ難民―ドキュメント「最底辺生活」】(#1782)

  川崎 昌平
  価格: ¥777 (税込)
  幻冬舎(2007/09)

 本書は、25歳のニートがネットカフェに居を移し日雇いバイトをしながら1ヶ月を過ごした記録です。
 5日目「お金と睡眠」では、雀荘であったオッサンからパチンコ屋の「サクラ」の誘いを受けたことについて、「「それっぽい若者、根無し草で日銭を欲してやまないような、だがまじめに働きそうには見えない、ダメな人間を探してはああして声をかけているのだろう」と「オッサンも人を見る目がある」と語っています。
 そして、「極論してしまうと、ネットカフェ難民とは、睡眠にお金を払う人種であると定義することができる。宿泊にお金がかかるのではない。眠る行為に、対価が発生するのである」と述べています。
 9日目「機械にさせればいい仕事と機械よりも安い人間の存在」では、工場での「軽作業」のバイトをした著者が、「簡単な機械の代用品が、僕という人間なのだ」、「コストと利益を天秤にかけた結果、設備投資よりも人間のほうが安いと判断したのだとすれば、僕に課せられた使命は、機械よりも魅力的な人間になること」だと語っています。
 13日目「ネットカフェ難民と性欲」では、「今日は仕事の予定がない。することがない日というのは、ネットカフェ難民の技量と器量の両方が問われる重要なタイミングである」として、「今日という一日を少しでも建設的な意義のある無為の一日とするべく、僕は寝起きの頭をフル回転させた」と語っています。
 24日目「想像力が勝負の決め手」では、マンション見学の看板持ちのバイトをした著者が、「ネットカフェ難民生活により、ヒマには耐性ができていると思っていたが、給料の発生するヒマは無為のヒマとは異なり、情緒のない頑なさがある。逃げるのもサボるのもかなわないとあっては、ただ時間の過ぎ去るのを待つしかない」と語っています。
 本書は、ネットカフェ難民を疑似体験したい人にお勧めの一冊です。


■ 個人的な視点から

 本書で一番笑ったのは、18日目「不意に訪れる変化」です。「家に帰りたくなった」著者が、「戻るなら戻るで、もう一押し、背中をつついてくれる何かが欲しかった」ので、「財布がすっからかんになれば、帰るより他なくなるだろう」とパチンコ屋で「やったことのないスロット」をやって、10万円以上大当たりしてしまった場面です。そして、そのタイミングで派遣会社から新しい仕事のメールが入り、「これこそが苦難」、「お金が無いという状況は、実は苦難ではない。不安こそあるものの、そこには次のアクションに対するモチベーションの土壌があるからだ。が、こんな生活で、こんな人間が、なまじ大金を手にしてしまうと、いよいよ本物の苦しさがやってくる」と語っています。
 31日目が終わったところで、何の予告も無く終わるのも面白いです。


■ どんな人にオススメ?

・ネットカフェ難民の生活とは何かを疑似体験したい人。

2009年12月 6日 (日)

実践 ライセンスビジネス・マネジメント

■ 書籍情報

実践 ライセンスビジネス・マネジメント   【実践 ライセンスビジネス・マネジメント】(#1781)

  草間 文彦
  価格: ¥2,940 (税込)
  日本経済新聞出版社(2009/9/16)

 本書は、「ライセンスビジネスとは何か?」という問いに答えることを目的に、ライセンスビジネスに興味を持っている人が、「分かりにくい」「とっつきにくい」と思っている事項や、ライセンスビジネスを行ううえで、「必要な知識を取得するのが難しい」と思っている事項について、「それらを理解するための基礎知識と、実際の運営ノウハウなどを、できる限り実践に即した形で、またライセンスビジネスを行う際の時間の経過に従うようにして」取り上げたものです。
 第1章「ライセンスビジネスとは何か」では、「技術型知財権」に対し、「非技術型知財権」または「表現系地財権」と呼ばれる、
・著作権
・商標権
・意匠権
の3つの権利について、本書で論じる「ライセンスビジネス」の対象となるとして解説しています。
 そして、現代のライセンスビジネスについて、「プロパティを所有するものが、それを使用して(二次的な使用)商品を作りたいというものに、プロパティを一定の条件と期間、貸与して使用を許可し、商品を生産販売したものは、その対価として売り上げに比例したロイヤルティをプロパティの所有者に支払う」ものであるとまとめています。
 第2章「ライセンスビジネスの魅力」では、「ライセンスビジネスには設備投資、商品在庫が不要のために、ビジネスをスタートするときのコストは非常に低い」として、「非常に効率的な収入を得る可能性があるビジネス」だとしています。
 第3章「ライセンス市場」では、日本の企業に送られてくる、オウベイノライセンサーなどのライセンス契約書の中に、「たいていの場合は、先方に有利な条項が、いわば『ダメもと』で挿入されているケースが多い」として、所轄裁判所の条項などについて、「法務的な面では、日本のライセンスビジネス業界は、まだまだ国際的なレベルに達していない」と指摘しています。
 第4章「プロパティの種類」では、「ゆるキャラ」の強みとして、「全国的な成功を目指しているわけではなく、とにかく出身の地方自治体からある一定の範囲内(例えば日帰り往復の可能な範囲)ではやらすことができれば、まずは成功ということで、ホームラン狙いではなく、ヒット、それも内野安打でもよいということ」を挙げています。
 第6章「ライセンスビジネスを組み立てる――ステップ2」では、ライセンスビジネスで実際に売り買いされるものは、「契約」だとした上で、「日本では、生産や販売の金額が上がるにつれて、ロイヤルティの料率を下げるのが一般的」だが、「欧米では逆に挙げていく」と述べています。
 第7章「ライセンスビジネスを組み立てる――ステップ3」では、日本で用いられる「証紙によるロイヤルティの徴収方法」について解説した上で、「この証紙の管理システムの効用は認めるものの、実際の煩わしさを考えると、結局欧米方式のオーディットで管理する方法を取って」しまうと述べたうえで、「日本のライセンスビジネス業界では、とにかくこのオーディットに対しての反感がライセンサーとライセンシーのどちらからも大変に強いもの」があると述べ、「要するに、これは『慣れ』の問題」だと述べています。
 また、海外との契約書の署名について、「日本の場合になら、当然契約書自体が製本され、割り印が入れられて戻って」くるので、「調印後に契約書の中身の署名の入っていない頁が取り替えられたりする可能性は考えられ」ないが、海外の契約書は、「最終頁にのみサインされた分厚い契約書をただホチキスで留めただけ」なので、「何やら不安にかられる」とした上で、「このリスクを防ぐには、まず契約書自体に頁の番号を入れること。そしてすべての頁に小さく手書きのイニシャルを入れること」を推奨しています。
 第8章「ライセンスビジネスの戦略」では、「最近の映画、特にハリウッドで制作される映画作品の中では、撮影されている数々の小物や、セット類、テレビ、時計、クルマ、リアジェット飛行機、コンピューター、ゲーム、家具、アパレル、などの多くのアイテムが、映画会社とメーカーとのビジネス的な合意によって、使用されるメーカー、ブランドが最初から決まっている」というマーケティング手法である「プロダクト・プレイスメント」について解説した上で、「この、メーカーと映画会社のWin-Winな(両者がハッピーな勝者)契約も、実はせいぜいここ6~7年の間にそのギブアンドテイクの方法がやっと確立され、信頼しうるものになった」と述べています。
 第10章「ライセンスプロデューサー誕生への期待」では、「プロパティから商品のローンチ、そしてその商品のビジネスを、ライセンシーを通じてコントロールする指揮者のような職種」を「ライセンスプロデューサー」を名づけた上で、その条件として、
(1)ライセンスに関する法務知識が豊富なこと
(2)契約書関係について精通していること
(3)商品の企画生産の知識を持っていること
(4)品質関係の基礎的知識を持っていること
(5)クライアントと良好で対等な人間関係を持ち、コミュニケーションが取れること
(6)状況に合わせた分析ができること
(7)危機の認識と、問題解決ができること
(8)競合他社の動向をよく知っていること
の8点を挙げています。
 本書は、ライセンスビジネスについてこれから知識を得たいという人に最適な入門書です。


■ 個人的な視点から

 「ライセンスビジネス」というと何だか人の上前をはねる胡散臭い仕事というイメージがあるのですが、契約書の1枚1枚にきちんとページ番号とイニシャルを手書きで入れるという話は面白く、意外と堅実な仕事なのかもと思ってしまいました。


■ どんな人にオススメ?

・「ライセンスビジネスって免許書でお金貸してくれるところでしょ?」という人。

2009年12月 5日 (土)

キーボード革命―情報電子化時代への基本技術

■ 書籍情報

キーボード革命―情報電子化時代への基本技術   【キーボード革命―情報電子化時代への基本技術】(#1780)

  諏訪 邦夫
  価格: ¥714 (税込)
  中央公論社(1997/01)

 本書は、「ワープロとパソコンの使用に際して、キーボードの大切さを強調し、さらにそれがもたらす波及効果を検討する」ことを目的としたものです。
 第1章「キーボード革命の概念」では、「キーを打って書くことは、単に手書きの『代用』ととらえるべきではなくて、もっと日本語全体をゆるがす重大な画期的なことだというのが、本書で強く主張している事柄」だと述べたうえで、1980年代以降のワープロの導入のポイントである高速性と電子情報である点が、「書字文化・文字文化に変革を及ぼし」ているとしています。
 第2章「タッチタイプをマスターしよう」では、タッチタイプで打たなければならない理由として、「一番大切なのは個々の文字を意識しないでメモや文章を書くことに集中したいから」だと述べています。
 そして、「キーボードが苦手」という最大の理由は、順序だった練習をしないままキーを一つずつ拾って打とうとするから」だと述べ、「文章を打っていれば、自然に打てるようになる」とは行かないとしています。
 また、「キーボードの熟達は、スポーツや外国語の上達と似ている」として、「頭の中に『キーボード中枢』ができて発達する」という仮説を掲げ、「かたまりとして打てる音節や単語の比率が頭の中に増えることが、タイプに習熟すること」だとしています。
 第3章「キーボードから派生する問題」では、「キーボード革命」という言葉を使う理由として、「キーボードを使うことによって、正確な論理的な文章を書く人が多くなる、その点が社会にとって重要な意義がある」と述べ、「キーボードを使うことによって文書の構成ができ、遂行が自在なので、他人に読んでもらえる文章が書けるから」だと理由を挙げています。
 また、「キーボードの普及と電子情報の交換の確立で、書かれる文章が何倍にもなる」として、「文章が書く人が増える」ことの影響を指摘し、量の変化が質の向上に転じると述べています。
 そして、キーボードで書く利点として、「速く書けるからたくさん書ける」というだけでなく、「速く書けるので、思考速度に追いついて書きやすい」「だから考えるとおりに書ける」という「質的な意味が大きい」と述べています。
 第4章「周辺技術との関係」では、キーボードの普及について、「文字は、自分が知っている事実や自分の持つ意見を表現するためのものです。その事実や意見を表現するための文字を書く方法に、手書き以上の手法が利用できるようになりました。それを採用しないのは不合理です。字は書かなくていい、というのが私の考えです」と述べた上で、手書きはなくならないが、「現在ほど厳密に書ける必要はなくなる」として、教育も「従来ほどやかましいことをいわなくなる」と述べています。
 さらに、「音声入力ができると、話し言葉と書き言葉の差が減少すると推測」しています。
 第5章「キーボード普及の障害は何か」では、キーボード革命を妨げる要因として、「一番の不安は、指導者の考え方」だとして、「文字を手で書いていた時代には、正確に書く能力は重要な要素」だったが、「機械が書いてくれるならその要求は小さく」なり、「そぷした事実は、教育課程の決め方などに影響を与えて当然」だと述べています。
 著者は、「おわりに」で、「キーボードを打つことは、その個人にとって価値のある、長続きする技術」であり、「だれでもわずかな努力で身につく可能性の高い技術」だとして、「それに踏み出すかどうかは、読者の方の選択の問題」だと述べています。
 本書は、キーボードが普及した現代にこそ大きな意義を持つ一冊です。


■ 個人的な視点から

 もう13年も前の本なのですが、一部技術的な部分こそ陳腐化するものの、その主張の的確さは驚くほどです。特に、「書くための日本語」から「打つための日本語」に日本語や国語教育の方こそが変化するという部分は素晴らしい。


■ どんな人にオススメ?

・キーボードの普及によって変わる日本語を知りたい人。


■ 関連しそうな本

 秋月 高太郎 『日本語ヴィジュアル系 ―あたらしいにほんごのかきかた』 2009年10月24日

2009年12月 4日 (金)

経済学 (1冊でわかる)

■ 書籍情報

経済学 (1冊でわかる)   【経済学 (1冊でわかる)】(#1779)

  パーサ・ダスグプタ (著), 植田 和弘, 山口 臨太郎, 中村 裕子 (翻訳)
  価格: ¥1,785 (税込)
  岩波書店(2008/07)

 本書は、「われわれ経済学者が私たちのまわりの社会的世界を理解するために使う考え方を説明した上で、その考え方を、人類が今日直面している緊急性の高い問題の上いくつかに対して適用するという手順」で書かれた経済学の入門書です。
 プロローグでは、アメリカ中西部の郊外の町に住むベッキーとエチオピア南西部の村に住むデスタという2人の10歳の女の子を想定し、「まず、ベッキーとデスタの生活を形作る経済的な経路を明らかにする仕事に私たち経済学者がどうやって取りかかるのか」から始めるとしています。
 第1章「マクロ経済史」では、「彼女たちの家族が現在の状況を受け継ぐに至った経路を明らかにしなければならない」として、地理学者のジャレド・ダイアモンドが、「ユーラシア超大陸の人々は他の地域の人々と比べて2つの点でかなり有利だった」として、
(1)東西にのびる形で温帯に位置しており、しかも、人、アイデア、種、動物が広がるのをじゃまするような巨大な山脈や砂漠がない点。
(2)多くの家畜化できる動物種に恵まれていたおかげで、ユーラシアの人々は人力だけでは不可能な仕事でもできるようになったという点。
の2点を挙げていることを紹介しています。
 そして、貧しい世界が、「なぜ自分たちが授かった資源を利用して、同じように豊かになれなかった」のかについて、1つの答えとして、「植民地となったこと」を挙げています。
 第2章「信頼」では、「ベッキーの世界にもデスタの世界にも直接関わる重要な問い」として、「合意に達した当事者は、どのような状況において、互いが約束を守ると信頼し会えるのであろうか」という問いかけをしています。
 そして、「どの社会も、人々が互いに取引を行おうという気持ちになれるような制度を確立しようとしてきた」として、「そういった気持ちを引き起こすインセンティヴ(誘因・動機付け)はそれぞれ細かな点では異なる」が、「理由もなく合意を破る者は罰を受けるという点」を共通点として挙げています。
 また、「共同体とは、顔の見える(パーソナル)かつ排他的なものである」とする一方で、「市場とは、顔が見えない(インパーソナル)かつ非排他的なもの」であると述べています。
 第3章「共同体」では、「個人間のネットワークは、人々を互いに結びつける意思伝達経路システムである」とした上で、「このようなネットワーク概念の核心は『パーソナルな関係』という部分にある」と述べたうえで、「デスタの世界では、あるネットワークのメンバーであるかどうかは生まれつき決まっていることなので、民族や親族のネットワークに新たに加入したり、逆に離脱したりすることは不可能である」と述べ、「結果として、デスタの世界の住民は、保険業界で逆選択として知られている問題に悩まされることがあまりない」と述べています。
 そして「豊かな人間関係のネットワークを受け継いでいれば、新たな関係を作り出すことによる便益は低い。言い換えれば、受け継いだネットワークを使わない場合の機会費用は高い」と述べ、「私たちはいわば、生まれたときから埋め込まれ(ロックイン)ている」としています。
 第4章「市場」では、「競争均衡の概念が、前に見た共同体における均衡の概念にかなり似通っている」ことを指摘しています。
 そして、「私たちが知っているような世界では、市場は理想的な機能を果たしていない」として、
(1)公共財の生産はただ乗り問題の影響を受けやすいので、公共財を供給するのには、市場は効果的とは言えない。
(2)産業の中には、生産者がたった1社しかいなかったり(独占)、せいぜい数社しかいなかったり(寡占)というものがある。
(3)市場は取引が立証可能であるときに限って取引を支持することができる。
の3つの理由を挙げています。
 第5章「制度としての科学と技術」では、「制度は公共財である。社会は、社会にとってもっとも望ましい制度の組み合わせを見つけるという問題と向き合っている」とした上で、「どのようにして制度が互いに影響を与え合うのか」について考えると述べています。
 そして、「知識の分析的・経験的な基盤はベッキーの世界が発明したものではないし、神秘主義や啓示を通じた知識の獲得がデスタの世界に限って行われているのでもない」ことをはっきりと確認しておきたいと述べています。
 第6章「家計と企業」では、「大数の法則を活用することで、市場と政府は互いの働きがあいまって共同体よりもずっとすぐれた力を発揮することができる」として、「人々は、、市場において自分が直面するリスクをかなりの程度減らすことができる」ので、「人々は危険が大きくても収益の期待値が高い冒険的な事業に思い切って飛び込むことができるようになる」と述べ、「ベッキーの世界がここまで豊かになれたのは、1つにはこうした理由がある」としています。
 第7章「持続可能な経済発展」では、「経済とは無限に成長していけるものなのだろうか」について、
(1)個別の自然資源の例を見た場合、私たちが今それらの資源を利用しているペースは持続不可能だという強力な証拠がある。
(2)かつての世代の人々が科学と技術、教育、機械設備に投資を行うことで高い所得水準を達成する力を引き継ごうとしたのと同様に、将来の生活水準がさらに高くなるように投資を行っているのだという議論。
の2つの対立した視点を紹介した上で、「ある経済の包括的な富と制度を合わせたものがその経済の生産的基盤になる」として、「歩くにの経済発展がある期間にわたって持続可能であったかどうかを判断したいのであれば、その国の包括的な富と制度にその期間内に起こった変化を──もちろん人口の変化を考慮に入れた上で──推定しなければならない」と述べています。
 第8章「社会的福祉と民主主義的な政府」では、「政府とは、その国の市民の代理機関(エージェンシー)である」賭した上で、過去40年間のデータによれば、「貧しい国の中では、市民が民主主義をより享受できた国ほど、経済成長率も平均的に高かった」として、「貧しい国においては民主主義が決して贅沢品ではないという可能性がうかがわれる」と述べています。
 本書は、経済学を学んでいない人にも、また、古典的なテキストでしか学んだ経験がない人にも魅力的な経済学の入門書です。


■ 個人的な視点から

 本書はいわゆる経済学の「入門書」としては型破りな体裁なのですが、確かに経済学者の考え方を反映しているし、最初に価格理論から入る「入門書」よりも経済学が何のためにあるのかを考えさせるという点では優れているのかもしれません。


■ どんな人にオススメ?

・経済学とは何かを知りたい人。

2009年12月 3日 (木)

マンガとミュージアムが出会うとき

■ 書籍情報

マンガとミュージアムが出会うとき   【マンガとミュージアムが出会うとき】(#1778)

  表 智之, 村田 麻里子, 金澤 韻
  価格: ¥2,730 (税込)
  臨川書店(2009/07)

 本書は、「"ミュージアムにおけるマンガ"の意義と問題点の総括」を試みたものです。
 第1章「マンガから広がるミュージアム空間」では、「京都国際マンガミュージアム」の設立理念について、 「日本のマンガ・アニメは世界中で親しまれており、今や新たな『日本文化』となった。海外からの高い関心に応えるためにも、マンガを文化として恒久的に保存する公的な専門施設が必要である」と述べた上で、「マンガをミュージアムに収め、保存する意義も、個々の作品の意義や価値に基づくものではない」として、「時代や社会そのものを保存し、学術研究の資料として供するためにこそ、マンガミュージアムは存在する」と述べています。
 また、「『MANGA』が世界の共通語になったと言われること」について、「単に日本マンガの市場がグローバルに拡大したことを指すのではなく」、「表現手法の特徴で構成される一個の『スタイル』として『MANGA』が読み手にも作り手にも世界的に共有されていることこそ指している」と述べています。
 第2章「マンガ×美術館」では、川崎市民ミュージアムのマンガ分野を担当する著者が、「現場でどのような問題に直面し、悩み、迷っているかを書こうと思う」と述べています。
 そして、川崎市民ミュージアム美術館部門漫画分野の収集方針として、「日本漫画史を通観できる作品・資料、日本と相互影響関係にある外国漫画資料を収集する」という方針を挙げ、このような大きな枠での表現になっている理由として、美術史の蓄積に比べ、「その研究史はほとんど始まったばかり」であることを挙げています。
 第3章「ミュージアムにマンガがやって来た!」では、「マンガとミュージアムが出会うときに生まれる様々な現象についてミュージアムの視点から探っていきたい」としています。
 そして、マンガをいかに展示するかという点について、「マンガと展示の相性がよくない(悪い)」理由として、「マンガはどこまでもパーソナルなメディアであり、個人的に消費するような大きさや形をしている。それをパブリックな空間に展示することは全く想定されていない」ことを挙げています。
 また、「ミュージアムには『アウラ』という幽霊が棲みついている」として、「この『アウラ』こそが、先にあげたようなミュージアムの空間に独特の雰囲気や価値観をもたらしている張本人である」と述べ、芸術のアウラとは「『いま』『ここに』しかないという芸術作品特有の一回性」であり、「複製芸術」の最たるものであるマンガと「ミュージアムの相性を考える上で非常に役に立つ」と述べ、「『アウラ』というキーワードを軸にマンガとミュージアムの相性を文化圏的なレベルから考察することができる」としています。
 さらに、「主なマンガ×ミュージアムの来館者は、何を求めているのか? どのようにマンガ×ミュージアムを受容しているのだろうか?」について、
(1)マンガから時代や当時の社会を考える、というごく一般的な受容の仕方
(2)マンガと自分の関係を確認する、という受容の仕方
(3)キャラクター萌え・作家萌え・原画萌えという受容の存在
の3つの受容の仕方を挙げています。
 また、「もっかマンガ×ミュージアムを推し進めている原動力となっている」観光資源としての可能性について、現場には温度差があり、行政も青少年教育という観点からの配慮を要し、世論も「一方ではマンガをどこかで低俗な文化だと思っている」という複雑な力学が取り巻いているとした上で、「こうしたマンガ×ミュージアム状況は、長い目で見ればミュージアムにとって新しい何かを確実に生み出している」と指摘し、「ミュージアムとマンガの相性の『悪さ』は、実はミュージアムとマンガがぶつかって変質を余儀なくすることを意味する」として、「ミュージアムとマンガが双方に再編し合うところにこそ、今後マンガ×ミュージアムを考える上での課題も可能性も見えてくる」と述べています。
 本書は、マンガとミュージアムの両方に正面からぶつかった一冊です。


■ 個人的な視点から

 本書で一番面白かったのは「アウラ」の下りでしょうか。マンガを美術館で展示することに対して感じるなんとなくの違和感はこんなところから来ているのかもしれません。


■ どんな人にオススメ?

・マンガとミュージアムの不思議な組み合わせにドキドキする人。

2009年12月 2日 (水)

自治体の予算要求 考え方・つくり方

■ 書籍情報

自治体の予算要求 考え方・つくり方   【自治体の予算要求 考え方・つくり方】(#1777)

  吉田 博, 小島 卓弥
  価格: ¥2,625 (税込)
  学陽書房(2009/11)

 本書は、自治体の予算編成過程とその意義を解説したものです。
 第3章「地方自治体の予算」では、「予算要求→予算査定という一連の手続き」が継続している理由として、「組織内で、対立的なセクションをつくって、互いに牽制、議論を尽くして、最適な財源配分を実現するため十巻が得られる」と述べた上で、「各事業の経費を集めたものが予算となるが、その機能は、資源配分であったり、所得再配分であったりするので、個別の事業だけの評価は、一定の留保条件付きにならざるを得ない」と述べています。
 そして、「予算の枠組み及び内容をも規定していくような重要な予算編成の手続きが、議会の審議を別段受けなくても、いわば内部管理事務として当局の大幅な裁量のもと、決定されている」背景として、「予算は長のみに提出権があり、議会はこれを侵すことができない、ということが徹底されていること」を挙げています。
 また、埼玉県志木市が、市役所の予算案と別に無償ボランティアで構成される「市民委員会」による予算案を作成した試みについて、当時の志木市長の穂坂邦夫氏が、「自治体は元々村落共同体なのだから、住民に直接、行政に参加してほしかった。住民自治のなんたるかを実現したかった。『さすがに市民に予算編成は無理だろう』といわれた。でも、できた。道路補修の優先順位も地区代表らが全会一致で決めた。1億円以上の公共事業の是非を住民主導で判断する委員会も条例で設けた。住民は事業の存廃も含めて客観的に評価でき、とても信頼できた」と語っていることを紹介しています。
 第4章「予算要求制度」第1節「予算と予算要求の本質」では、「予算編成は一種の政治システムと言える。予算を取り巻く環境から、一局面だけを単独で取り出し、制度論のみで議論をしても、本質は見えない。予算は、各般の利害調整であり、財源の配分を決めることである。限られた財源を活用した全体最適と思われる姿を数値化したものだ。最大公約数の実現である。よって、予算から、一つの事業を取り出しても、全体を見ることができないだけではなく、その事業の全体に占める位置や評価がわからない」と述べています。
 第2節「予算要求システム」では、「職員定数と事業予算はリンクしないと意味がない。公務員は人件費をゼロと思って、ないしは意識しないで政策立案をしているが、人的集約的な組織である役所業務は、人件費を精査しなければコストの実態を把握できない」とした上で、「自治体にはアウトソーシング(もしくは非常勤職員に代替する、などでもよいのだが)を実施することにより、コストを大幅に引き下げられる定型的な業務が多く埋もれており、人件費を意識した業務実施体制の見直しが非常に重要だと言える」と述べています。
 第3節「財政状況によって予算編成は変わるか」では、不交付団体の例として愛知県春日井市を、交付団体の例として佐賀県の例を紹介しています。
 春日井市の例では、「独自財源が十分にあるように見えても、普通会計以外の負担が圧迫要因となっており、加えて財政調整基金が少ないことから、常に単年度の財政運営にゆとりがない状況になるなど、まさに車間距離が短いままで高速道路を走っているような、厳しい状況ともいえる」と述べています。
 佐賀県の例では、「都道府県税が法人二税などの景気変動の大きい財源になっていることは、都道府県の予算を見積もることを難しくさせているが、交付税依存度の高い本県のような団体は、平成16年度の交付税ショックがもろにこたえた」と述べています。
 第4節「予算編成の流れと公開」では、自治体の予算編成の段階を、
(1)準備段階
(2)査定段階
(3)審議段階
の大きく三段階で進むと述べています。
 第5節「予算要求の実務」では、予算編成業務の日程について、
10月下旬 予算編成方針の通知
11月中旬 予算見積書提出締切
11月下旬 ヒアリング
12月中旬 財政課長調整
1月上旬 総務部長調整
1月下旬 首長査定
2月上旬 記者発表
3月上旬 議会
の流れを解説しています。
 そして、「行政の予算は政治的機能を多く含む、極めて『人間的なシステム』の側面を持つ」にもかかわらず、「これまで、予算を巡る議論は、あまりにも、この部分に目をつぶり、『システム至上主義』『完全合理主義』に陥っていたのではないか」と指摘しています。
 また、予算がなく、「事業費ゼロで職員がオーバーワークで対応する」ことを公務員は「予算0(ゼロ)事業」と喧伝するが、「これは人件費の概念がないための陥穽である」と述べています。
 第7節「予算要求の改革の方向」では、各地の自治体の予算編成のタイプを、
(1)集権型
(2)分権型
(3)折衷型
の3タイプに分けた上で、事業評価の問題点の一つとして、「事業に関わる一次情報が、何でも提供されており、住民にとっては、情報の洪水の様相を呈し、逆に評価がしづらくなっていること」を挙げています。
 終章「今後の方向性」では、「予算は結局、今の市民及び将来の市民のための政策にきちんとした配分がなされたかにつきる」と述べています。
 本書は、自治体の予算要求システムを現場から正面からとらえた一冊です。


■ 個人的な視点から

 著者の吉田さんはご本人も相当に面白い人なのですが、それ以上に周りを感化する人というかグル体質なのか、周りの人達をどんどん開花させてしまう印象を持っていました。ついに真打ち登場か?


■ どんな人にオススメ?

・自治体の予算制度の実態を知りたい人。

2009年12月 1日 (火)

地下経済―この国を動かしている本当のカネの流れ

■ 書籍情報

地下経済―この国を動かしている本当のカネの流れ   【地下経済―この国を動かしている本当のカネの流れ】(#1776)

  宮崎 学
  価格: ¥700 (税込)
  青春出版社(2002/11)

 本書は、「『地下経済』とうたっているが、実際には『地下の』経済が単独で存在しているわけ」ではなく、「表も裏も、地上も地下もひっくるめたものこそが生の経済であり、いいも悪いもなく、それが世の中のカネの流れの真実」だとしたものです。著者は、「『経済』そのものが、『地下』的であり『裏』的なものなのだ。そして『地下』的、『裏』的でないと負け組になるしくみになっている」と述べています。
 第1章「企業社会の裏でうごめく金、カネ、かね・・・」では、「たとえ違法とされる行為であろうと、経済性に見合うのであれば、企業はためらうことなく違法行為に手を染める。経済性に見合わない、たとえば企業の存続にかかわるような問題に発展する可能性がある、と判断したときには手を引く。それだけの話なのだ」と述べた上で、「経済を『表経済』と『裏経済』のように、さも別個のもののごとく呼び分けることは、あまり意味がないのである。きれいな顔をした大企業が違法すれすれの行為に及ぶこともあれば、法の埒外にあるアウトローが開業免許を取得してまっとうな商売を営んでいたりもする」と述べています。
 また、著者が銀行を悪党と罵る理由として、「一般の人たちまで食い物にした」ことを挙げ、「投機狙いの連中はリスクを承知で首を突っ込んだのだから、銀行に食われたとしても自業自得、欲に目がくらんだバカでしかない」が、「銀行は、都会にわずかばかりの土地を持つ一般の人をもえじきにした」と述べています。
 さらに、「マンションやマイホームなどというものは、カネがある人間がキャッシュで買うものだ。そのカネがない人間は、賃貸暮らしで十分なのである。新興住宅地のこぎれいな建て売り住宅か何かに暮らすことが理想などというのは、かつて国やら住宅産業やらがしかけたキャンペーンにすぎない」と述べています。
 第2章「政治利権という無法地帯」では、「数ある職業の中で、政治家ほど卑しい職業はない。一番卑しいのが政治家、その次が官僚と警察、三、四がなくて、五が弁護士、といったところか」と述べた上で、政治家は「立ち居振る舞いが極めて卑しい」と述べ、「政治家とは、官僚や財界の召使いであり、茶坊主にすぎない」と述べています。
 そして、「政治家は企業にタカり、企業はタカられる見返りに、政治家に様々な便宜を求める。そんな構造ができあがっているのが現実社会だ。だから企業は、政治家からタカられる場合に備えて、日頃からせっせと『もしも』の場合に備えてウラ金作りに励んでいる」と述べています。
 また、著者自身が群馬県内でのゴルフ場開発に絡んで行った政治工作について、「5億円を超えるカネをバラ撒いた」として、「バラ撒いた張本人である私がいうのも何だのだが、政治家というのはこんなものだ。権限をチラつかせて、相手がカネを差し出すのを待っているのだ」と述べています。
 第3章「官僚たちの錬金術」では1999年の茨城県東海村のJCOの臨界事故について、「核燃料などという危ないものを扱うのだから、最悪の事態を織り込んだマニュアルがなければいけない」が、「役人たちはマニュアルづくりが大好きなくせに、最悪の事態を想定することはやりたくないのである。例の『起こってはならないこと』だからだ。あらかじめ最悪の事態の時のシミュレーションが行われていないから、実際に危機に直面したときには、うとらえることしかできない」と述べています。そして、行政が、「半径10キロ圏内の住民は、安全が確認されるまで家の中にいてください」と支持した理由は、「ただちに逃げろ!」と言えば大混乱になり、「国民の目に見える形でパニックが起きては、いままでの原子力行政について厳しい追及が行われることが明らかである」からであり、「当該地域の人々の生命の安全よりも、パニック防止を優先した」と指摘しています。
 第4章「日本経済を陰で牛耳るものとは」では、1992年に施行された「暴力団対策法」について、「警察の利権漁りのひとまずの総仕上げ」だとして、法律自体は「実際にはうまく機能しない。ヤクザ組織は闇に潜り、かえって凶悪犯罪が増えてきている。警察官らが日本の治安を悪化させたのだ」としつつも、「皮肉なことに、利権の拡大という点において暴対法の成果は上がっている。各都道府県に暴力団追放線ターなるものを配置してOBの天下り先を確保するとともに、風俗、交通、パチンコ、警備といった業界への支配力をよりいっそう強めている」と述べています。
 本書は、この国の見えにくいカネの流れを解説した一冊です。


■ 個人的な視点から

 本書のタイトルから、もろに日本の裏社会の経済の話を期待した人も少なくないのではないかと思いますが、他の先進国に比べて日本の地下経済の規模は小さいそうなのでそれほど未知のスペクタクルな話は期待できません。


■ どんな人にオススメ?

・日本のどこかに未知の地下経済社会があると思う人。

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