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2010年1月

2010年1月31日 (日)

梶原一騎伝 夕やけを見ていた男

■ 書籍情報

梶原一騎伝 夕やけを見ていた男   【梶原一騎伝 夕やけを見ていた男】(#1837)

  斎藤 貴男
  価格: ¥780 (税込)
  文藝春秋(2005/8/3)

 本書は、『巨人の星』、『あしたのジョー』等で知られる劇画原作者・梶原一騎(本名・高森朝樹)の評伝です。
 第1章「スポ根伝説~栄光の時代」では、講談社の名物編集者・内田勝氏が、「マガジンの"佐藤紅緑"になってほしいんです」と口説いたことから、「劇画原作者・梶原一騎の栄光と破滅のすべては始まった」と述べ、「W3事件」以来『サンデー』に部数で引き離されていった内田新編集長率いる新生『マガジン』は、「意地に賭けても、手塚を頂点とする既存の漫画に挑戦した起死回生の一発を狙わなければならなかった」ため、「手塚漫画へのアンチテーゼのような格好で発達を遂げてきていた劇画のリアルな表現手法」と「これと連動しうる一つの骨太なテーマに貫かれたドラマツルギー」が導入されたと述べています。
 そして、この時代が、「梶原一騎にとって、漫画家、編集者と三つ巴になって一つの作品に取り組むことが出来た、あるい、そして最も幸福な時代であった」と述べています。
 また、昭和43年頃、手塚治が、『巨人の星』を手に、アシスタントたちに、「この漫画のどこが面白いのか、君たち教えてくれ」と「泣きべそをかいたような表情」でたずねたというエピソードを紹介しています。
 第2章「生い立ち」では、梶原一騎の父高森龍夫が、「知的で冷静な男が多く」出た高森家の、「父母の才能をよく受け継いだ、文才に恵まれた少年だった」のに対し、「きわめて烈しい気性を秘めていた」として、「梶原一騎は、対極にあるそのような二つの家系の人格が融合したからこそ生まれた天才、というよりある種の怪物だった」と述べています。
 そして、13歳と7ヶ月の高森朝樹が、「たびかさなる彼の暴力歴と家庭環境から」品川児童相談所の判断によって、児童福祉法に基づいて設置されたいわゆる教護院である「誠明学園」に入所したことについて、「"両親の同意"という事実、とりわけ父・龍夫のそれは、幼かった朝樹の心に深い傷痕を残したようだった」と述べ、その空気は、「後年の彼の作品のイメージで表現するなら『あしたのジョー』の少年院と、『タイガーマスク』に出てくる孤児院『ちびっこハウス』の中間のようなニュアンスではなかったか」と述べ、「閉鎖社会の中で努力し、その結果進学できたのなら、これ以上の教護成果はない」として、後に「朝樹は誠明学園で、後輩たちの目標に擬せられるようになる」としています。
 第3章「青春」では、「梶原一騎」というペンネームの由来について、「誠明学園時代からの恋人・梶原某女の存在だった」と述べています。
 また、父・龍夫の死後、その蓄えを元に、蒲田駅前の「呑ん兵衛横町」にトリス・バー「モンテクリスト」をオープンするも、ミカジメ料をめぐって地元暴力団とトラブルになり、「専守防衛ではなく、攻勢に転じることにした」として、「この頃の梶原の喧嘩っ早さと強さは相当のものだったらしい」と述べています。
 また、酔った梶原は、弟・真樹日佐夫に「いつの日か俺たちもなあ、石原兄弟のようになろうや。いや、彼らを凌駕するんでなくちゃな」と語っていたと述べています。
 第4章「『あしたのジョー』」では、梶原一騎の最高傑作と定説になっている『あしたのジョー』について、梶原一騎にとって、「確かに最高傑作の一つだったが、同時に彼を滅ぼした最大の源でもあったのではないか」と述べています。
 そして、作画のちばてつやが、連載開始後も梶原の原作を使おうとしないことについて、「梶原は激怒した」が、ちばの「意図、さらにはちば流の漫画作法などを彼は梶原と話し合い、梶原は納得した」として、「梶原作品の中ではまさに異例中の異例、漫画家が原作を相当程度いじることを許された唯一の作品となる」、「二つの相反する個性の融合は、この前提なくして生まれなかった」と述べています。
 また、「梶原一騎の作品を通して読むと、それらの主人公たちは例外なく作者である彼自身の投影された姿であることがわかる」として、中でもジョーは最も梶原自身が投影されたキャラクターだったが、「自他共に認めるこの最高傑作の最後の最後にジョーのように完全燃焼できたのはちばの方で、梶原はできなかった」、「梶原は、ちばに深く嫉妬していたに違いない」、「彼がやりたいのは、漫画家との共同作業などではなかった。漫画家の才能に依らない、自分だけの最高傑作を生み出さなければならなかった」として、「梶原にとって『あしたのジョー』は、愛すれど、憎い憎い作品だったのである」と述べています。
 第5章「栄光の頂点」では、昭和48年に始まった青春純愛劇画『愛と誠』について、「"男"を描く原作者」であると同時に、「すごく繊細な、女性的な部分を持った人でもあった」として、「梶原が"スポ根作家"を卒業する景気になった記念碑的作品」だと述べています。
 第6章「狂気の時代」は、昭和51年に連載を始めた『新巨人の星』の頃の梶原について、その頃の新連載の多くは、「いずれも新鮮なテーマに取り組もうとする意欲的なものだったが、少し連載が進むと、100%近い確率で暴力団が登場し、あるいはプロレスや空手の話になっていった」と述べた上で、「あらゆるスターは、時代とともにある」として、「昭和40年代に時代の寵児だった梶原一騎」は、「少しずつ坂道を下り始めていた」と述べています。
 そして、昭和47年、「8年間連れ添った妻の篤子と正式に離婚した」後、「女性にもむやに手が早くなった」として、「トラブルに発展したケースも、枚挙にいとまがない」と述べています。
 また、「『愛と誠』の原作を書いたことが梶原一騎の人生に与えた影響の、いかに大きかったことか」として、「梶原は『愛と誠』を書きながら、自らもその作品世界の中に生きているかのような行動を取り始めた」と述べ、「行動は作品にフィードバックされ、『愛と誠』はさらに暴力的になった」としています。
 第7章「大山倍達と梶原一騎」では、「二人の邂逅と友情と別離の歴史は、そのまま人間が生きていくことの辛さを物語るかのようである」と述べた上で、「『空手バカ一代』は、極真会館に多大なメリットをもたらした」が、「同時にそれは、鋭すぎる両刃の剣でもあった」と述べています。
 そして、梶原が設立した「三協映画」が「第1回世界空手道オープントーナメント大会」の記録映画で、「映画の世界に本格的に進出した」が、「この映画が、大山と梶原の間に入った亀裂を決定的に広げていった」と述べています。
 また、『空手バカ一代』の作画を降板してオカルトの世界に進んだつのだじろうが、『魔子』の中で、梶原を中傷するアナグラムをセリフに織り込んだことで、梶原の怒りを買い、「新宿の京王プラザホテルに軟禁され、各出版社や漫画家仲間宛に詫び状を書かされた」とする「つのだじろう詫び状事件」を紹介しています。
 第8章「どいつもこいつも」では、昭和48年から10年間『週刊サンケイ』に連載された『ボディガード牙/カラテ地獄変』シリーズについて、「ピークを過ぎて以降の梶原一騎の狂乱ぶりが、これほどストレートに反映された作品もない」と述べ、「全編リンチを拷問(特に女性に対する)、暴力とサディズムの応酬である」として、連載の最終版におイテ、作画の中城健は、「ああいう殺伐とした絵を描くのが、気が狂いそうなくらい嫌になってしまった」として、第一線を退いたと述べています。
 そして、「すぐに暴力や格闘技を持ち出す安易さの裏に、『俺のことをわかってくれよ』とでも言いたげな梶原一騎の孤独を見てしまうのは、それこそ安易だろうか」と述べ、「他の誰よりも、作品の登場人物たちに自らを投影する作家であった梶原は、狂乱の時代に陥って、その傾向をより強めていく。そして次第に、現実と虚構の境界線を見失っていった」としています。
 また、梶原が、「最悪の精神状態だったに違いない」として、「狂乱を超え、どん底に陥った時期の梶原の作品世界には、物語展開上の必然性を大幅に上回る、激しく絶望的なセリフが散見される。このころは信用していた人間に裏切られたり、人間関係でも複雑な事情を抱えていたようだ」と述べています。
 第9章「逮捕とスキャンダルと『男の星座』」では、昭和58年、梶原が、『月刊少年マガジン』副編集長だった飯島利和への暴行と傷害容疑で逮捕されたことで、「それまで不問にされてきた梶原のさまざまな行為が、飯島への暴行を契機に噴出した」としたうえで、「当時の警察関係者の証言やのちの梶原自身の分析などを総合すると、治安当局は、梶原が覚醒剤に関わっていた場合、彼は日本版"マフィア"のボスに成長しかねないと踏んだようだった」と述べ、「覚醒剤の容疑がシロ」だったことが明らかになると、「代わりに流されたのは、事件とは本来何の関係もない梶原の女性スキャンダルの数々だった」として、「変態趣味で強姦の常習犯だとされたのがスキャンダルになった」と述べています。
 また、昭和60年に『週刊漫画ゴラク』に連載された『男の星座』について、「梶原自身がたどってきた半生を描く、初めての自伝的作品である」として、「狂おしいまでの上昇志向が、赤裸々に語られる」と述べ、「一流の漫画家たちがこの作品をきわめて高く評価していた」としています。
 第10章「梶原家の父と子」では、梶原の妻・篤子が「仕事場がネオン街に近いのをいいことに遊びまくる夫が、そうすることで帰ってきてくれるかも知れなかった」という思いで建てた豪邸に、「むしろ逆効果だった」として、「当時の風潮だった『マイホーム』という観念を生理的に嫌悪していた梶原は、豪邸に反発だけを感じたらしい」と述べています。
 そして、「正義感で、優しく、才能豊かな梶原一騎と、激情家で、カッとなると手がつけられない梶原一騎。あたかもジキル博士とハイド氏のような彼の二つの人格がめまぐるしく回転する様に、篤子は日夜接していた」として、「仕事から干され、ほとんど収入がなくなってしまっていた時期」に、道で大金の入った財布を拾い、それを届けたときに、「いまだかつてネコババのような真似だけはしたことがない。俺は自分の家が貧しかったから、極力卑しいことをしないように自分を律してきたんだ」と語ったことを紹介しています。
 また、昭和62年1月、この世を去る直前に、点滴に打たれながら書いた、「血痕も生々しい梶原一騎の最後の原稿には、彼の青春がなおも脈打っていた」と述べています。
 本書は、スポ根劇画を一人で体現した男の烈しい生涯を描いた一冊です。


■ 個人的な視点から

 年代的には、『巨人の星』も『あしたのジョー』もテレビの再放送を見ていたくらいで、梶原劇画といえば、やたら説教臭いつまらない漫画と子供心に思っていたのですが、きっと今読んだら面白いかも知れません。


■ どんな人にオススメ?

・昔読んだ梶原劇画の裏側を知りたい人。

2010年1月30日 (土)

手塚治虫の冒険―戦後マンガの神々

■ 書籍情報

手塚治虫の冒険―戦後マンガの神々   【手塚治虫の冒険―戦後マンガの神々】(#1836)

  夏目 房之介
  価格: ¥690 (税込)
  小学館(1998/06)

 本書は、「手塚治虫はどこにいる」を出発点に、「他の重要な作家たちとの比較、さらに手塚がマンガシーンで先端的な作家でなくなった'70年代以降までを視野に入れ」た、戦後漫画表現史です。
 第1講「手塚治虫の線とコマ」では、
「現在マンガについて発言している人たちは、マンガがどう描かれているか、どんなコマで、どんな絵で描かれているか、そういうことを踏まえないと漫画の面白さを語ることにはならない」と考えているが、「昔はそうじゃなかった」と述べています。
 そして、「手塚以前の子どもマンガってのは、大人の作家が子どもの読者にわかりやすく面白く説いてあげるという発想のもの」だったが、「手塚もそういう発想を大切にしてたけども、一方で自分がやりたい高度なことをやっちゃってる」と述べています。
 第2講「初期手塚マンガの達成」では、「手塚が初期作品群によって実現した<物語>という大きな概念こそが、戦後マンガを革命したものであった」として、「概念の玉葱状態」という物語の構造を指摘しています。
 そして、手塚が、「マンガ的な絵とコマの展開の革新をまずやって、そのことで映画の手法の映像効果を模倣した」として、「『来るべき世界』は手塚が戦前から夢想し、敗戦後目指した新しいマンガを、たぶんほぼ完全に実現できた作品」だと述べています。
 第3講「様々な実験」では、「モダンなハイカラな異文化の象徴が宝塚で、手塚はそのまっただ中で育った」と述べています。
 そして、「敗戦時16歳で、『ジャングル大帝』、『来るべき世界』という高度な物語を成し遂げたのが22歳頃。『罪と罰』25歳」として、「その青年期に、戦後マンガの基礎的な工事を終えている」と述べています。
 第4講「手塚マンガのライバルたち」では、「手塚マンガの青年性から、たとえば劇画というものも生まれてきた」として、「手塚治虫の手法を極端に拡張することで劇画は出てきたっていってもいいくらい」だと述べ、「手塚マンガの新しい様式があって、それで初めて非手塚的な戦後マンガも可能だった」としています。
 そして、「人間は人間のリアリティをもって、動物は動物のリアリティをもって描かれなければいけない」が、「手塚マンガの描線では、これは描けない」とした上で、「白土三平は、石や草は石や草として、動物はあくまでも動物として、人間は人間として、描線を描き分けていこうと」したと述べています。
 第5講「'60年代手塚マンガの変容」では、「手塚は本当にいろいろ、あっちから取り、こっちから取り、やってる」として、「自分がつくりあげたものも多いけれど、人がやって受けたものも、さかんに模倣」したと述べています。
 そして、『どろろ』という作品が、「人物と風景が同じ生命観のある有機的な線で描かれていた手塚マンガから、劇画的な写実的風景と人物の描線を分離した表現に変容している」として、「そういう変容の要素がたくさん入っていて、全体を読むと絵の描写としては、ややアンバランスな印象を受け」ると述べています。
 第6講「手塚マンガの再構築」では、「'60年代後半というのは、手塚が築きあげた物語の緊密さみたいなものが壊れて行く時代」だったと述べた上で、「手塚治虫は日本的な風土に対してい文化的な存在として登場してきて、漫画の手法をぬりかえてしまった」が「逆に手塚マンガは、規範とすべき制度になってしまって、今度はそれを破っていく表現が出てくる」として、'60年代後半には、「手塚マンガはその根底を問われるような危機に見舞われている」と述べています。
 第7講「大友克洋と手塚治虫」では、「手塚マンガに対抗するように劇画が出てきて、その後制度化した劇画を打ち消すものとして大友克洋が出てきた。でも手塚マンガに帰るわけじゃなくて、べつの場所に移る」と述べています。
 そして、「大友克洋は、いわば戦後マンガが達成してきた修辞法を打ち消し、解体したあげくに、物語ってものを、自分の修辞法でもう一度読み替えて作り上げる」と述べています。
 第8章「最後の手塚治虫」では、「晩年の手塚治虫は、まだまだ概念の組み換え、拡大、画像化の実験を続けている最中だった」として、「幼児の頃から持っていた宝塚的な、一種のユートピア志向みたいなものを、生態系重視の凡生命的な世界観に組み換え、未来へのあこがれを終末論的に組み換え、歴史概念を加え、『アドルフに告ぐ』『グリンゴ』などの現代世界の構図みたいなものに膨張していく、そんな形で概念を拡大し続け越境性を持続し続け」たと述べています。
 本書は、マンガの神様がいかに苦しんでいたかを教えてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 著者はもちろ手塚治虫に敬意を払いつつも、自らの子供たちとも言える白土三平、水木しげるら劇画作家や大友克洋らによって追い込まれた手塚治虫が、60年代に変容に苦しみ、そして新しい境地を開いていく様を技術論からアプローチしていて非常に興味深いです。
 こういうのは、手塚治虫の長いキャリアと膨大な作品群があればこそできるのかも知れませんが、文学部とやらで小説家の研究をしている人達がいるのだから、ぜひ、他のマンガ家についても研究して欲しいです。まずは藤子不二雄でお願いしたい。


■ どんな人にオススメ?

・マンガの神様が迷う様を知りたい人。

2010年1月29日 (金)

火打ち箱 (こんなアンデルセン知ってた?)

■ 書籍情報

火打ち箱 (こんなアンデルセン知ってた?)   【火打ち箱 (こんなアンデルセン知ってた?)】(#1835)

  赤木 かん子 (著), H.C.アンデルセン, 高野 文子
  価格: ¥1,300 (税込)
  フェリシモ(2006/09)

 本書は、「人魚姫」や「親指姫」で知られるアンデルセンの不思議な童話に、漫画家の高野文子氏がペーパークラフトでビジュアルを付けた絵本です。
 そもそも表紙から「こんなアンデルセン知ってた?」と書かれているのですが、タイトルの「火打ち箱」からして不思議です。
 ストーリーは、戦争帰りの兵隊さんが、魔法使いのおばあさんから、木の幹の中にある三つの部屋からお金と火打ち箱を取ってくるように頼まれて、部屋に入ると茶碗くらいある目玉とか水車くらいある目玉とか塔くらいある目玉の犬がいて、その火打ち箱で火を打つと犬が何でもいうことを聞いてくれて、お城のお姫様も手に入れようとしたら捕まってしまったああ大変、とざっくりいうとこんな感じです。
 とにかく、ペーパークラフトの国に入り込んでしまったかのようなカメラのアングルと遠近感が素敵。何よりもぶっ飛んだアンデルセンのストーリーが素敵です。最近は日本の漫画さえストーリーをちゃんと作っていて物足りないのですが、そんな人もこれなら安心。
 子供にだけ読ませるのはもったいないけど、ぜひ子供にも読んで欲しい一冊です。


■ 個人的な視点から

 世代的には、山田康雄のズッコが登場するアニメ『アンデルセン物語』が好きだったのですが、火打ち箱の話は16話と17話ですね。DVDボックスの2巻の方に入っているようです。


■ どんな人にオススメ?

・自分の言う事を聞いてくれる家来が欲しい人。


■ 関連しそうなDVD

  『アンデルセン物語 DVD-BOX2』

2010年1月28日 (木)

トキワ荘の時代―寺田ヒロオのまんが道

■ 書籍情報

トキワ荘の時代―寺田ヒロオのまんが道   【トキワ荘の時代―寺田ヒロオのまんが道】(#1834)

  梶井 純
  価格: ¥1,223 (税込)
  筑摩書房(1993/07)

 本書は、『スポーツマン金太郎』などの作品で知られ、「第一級の人気があるマンガ家」から、「『みずからの意思』で消えていったように見えた」マンガ家寺田ヒロオの評伝です。著者は、「そういうかたちで後退していったマンガ家は、戦後マンガ史の中では寺田ヒロオ以外にはいない」とした上で、「なぜ、寺田ヒロオはそういう選択をしたのだろう」かが本書のテーマだとしています。
 第2章「マンガ家への夢」では、トキワ荘アパートが、「木造モルタル2階建て、炊事・トイレは共同・押入付きの四畳半一間、全22室という当時のアパートとして最も類型的な外観と構造を持った建物である」と述べています。
 また、手塚治虫を訪ねてきた初対面の安孫子素雄を、手塚の「すぐもどるから、一晩泊めてやってくれ」という言葉で結局一週間泊めてやったことについて、「初対面の人間を、一週間泊める方も泊める方だが、泊まっていく方も泊まっていく方だという常識的な世知を、いとも簡単に飛び越えてしまう彼らの人間関係は快い」と述べた上で、「安孫子素雄との一週間にわたる同居生活は、上京後に友人らしい友人のなかった寺田ヒロオにも印象的だったらしい」と述べ、寺だが、「あとのきかれと会わなかったら、僕は自分から友達を作れる性質じゃないですから、孤独なままのマンガ家で終わっただろうと思います」と語っていることを紹介しています。
 第3章「トキワ荘の日々」では、トキワ荘のマンガ家たちが、「仲間たちの部屋に群れて話し合う時間」を、異口同音に楽しかったと語ることについて、「そこにはいつも『テラさん』がいる。寺田ヒロオは常に大人びたまなざしで仲間たちを見守る存在として記憶されている。寺田への信頼感は、無限にやさしい家父長に対するもののように、ほとんど絶対的なものであったようだ」と述べています。
 第4章「マンガブームの時代」では、1956年に連載が始まった寺田ヒロオの『背番号0』が、「かれが初めて描いた野球漫画であると同時に、かれの最初の本格的なストーリーマンガでもあった」と述べ、後に、「野球や柔道漫画の名作を生み出す本物のマンガ家が、このときから指導した。野球をめぐるドラマティックな道具立てなら、身にしみてわかっている世界だった。寺田ヒロオの進むべき道が見えたように思われた」と述べて、「野球は、たしかに人生のようにおもしろいのだ。寺田ヒロオも、それを知っていたはずだった」としています。
 第5章「貸本劇画という『異人』たち」では、「現在、マンガ家の中で最も口数の少ない人物の一人と思われているに違いない」つげ義春の口から、寺田が「無口で、内向的」と評されていることについて、「考えるだけでほほえましい」と述べています。
 第6章「少年週刊誌全盛のなかで」では、「1956年(昭和31年)~57年になると寺田の仕事は順調に増えていくように見えた」として、「多忙な日々が続いていた」と述べた上で、トキワ荘の仲間たちとの集まりでは、「もっぱら聞き役に徹していた、というよりたえず微笑を浮かべて皆の話に敬意を払っていた」と述べ、寺田の結婚式での様子を安孫子素雄が8ミリカメラをぶら下げているスケッチを残していることについて、「ほかならぬ正装の花婿のテラさんが、その立場も入に介さずに参会者たちを撮ってあげたいと思っているらしいことへの、安孫子の微苦笑が表れていた」と述べています。
 そして、寺田がもっとも嫌ったものとして、マンガ雑誌の「人気投票」を挙げ、「寺田ヒロオにとっては、月刊誌体制の下でも過酷だったスケジュールは、週刊誌体制になってから限界を超えるものと感じられた」と述べ、「もっとも多忙だった時代には、週刊・月刊の連載だけで11本に及び、3時間眠れる日はいい方だったというから、たった一人での『闘い』のすさまじさが想像できる」としています。
 そして、『暗闇五段』の連載を最後に、週刊誌の連載から足を洗い、学年誌を仕事の中心に指定ったと述べ、当時、「マンガ作品には『スピード』と『スリル』がいっそう加速され、かつ過激に様式化されていった。寺田のいう『描きたい物』はもはやどこの場所にもなかったともいえる。カッコつきにちがいないけれども、そうしたはなばなしいマンガメディアの『隆盛』のなかで、寺田ヒロオは実質的な現役マンガ家としての生命を終えた」と述べています。
 本書は、マンガが急激に変化する時代の、一人の人気マンガ家の生き方を描いた一冊です。


■ 個人的な視点から

 まんが道が好きな人ならテラさんが嫌いだという人はいないんじゃないかと思いますが、人気がありすぎるが故に辞めることもできたのかも知れません。
 そういえば鳥山明は今何をしているのか?
 それから誰か森安なおや氏の評伝を書いてくれる人はいないものか。読んでみたいです。


■ どんな人にオススメ?

・トキワ荘の大事な登場人物の人物像を知りたい人。

2010年1月27日 (水)

マンガと「戦争」

■ 書籍情報

マンガと「戦争」   【マンガと「戦争」】(#1833)

  夏目 房之介
  価格: ¥735 (税込)
  講談社(1997/12/18)

 本書は、「時代がくだるにしたがって日本人の戦争観がどんどん中性的(ニュートラル)になっていく」ことを前提として、「漫画に描かれた『戦争』イメージの変遷」を描いたものです。
 第1章「手塚漫画と戦争」では、「異者同士の矛盾と和解という、手塚マンガを貫くテーマの説得力は、手塚自身に内在した矛盾感情の振幅から来ていた」として、「だから矛盾を置き忘れたような単純な善悪の堆肥や、その枠内での正義の味方の英雄行動には、手塚漫画は相対的であろうとした」と述べています。
 第2章「戦記物ブームと『紫電改のタカ』」では、主人公滝が、特攻を「犬死に」だと断じるところに「ちば自身の思いを感じる」として、「滝の、少年マンガの類型を逸脱した自己主張は、連載終了当時26歳のちば自信のものだった。一言で言えばそれは、何はともあれ『生きる』ことのほうがいいことだ、ということにつきる。この部分は幼少のちば自信の、家族で命からがら大陸から引き揚げてきた敗戦体験から来ると同時に、彼が手塚漫画の水脈から継承した戦後思想の一つの粋であったように私には見える」と述べています。
 第3章「水木しげると戦記マンガ」では、水木の自伝的戦記物には、「生々しい体験の描写が活きてくる」として、「とりわけ戦場の兵士たちの、死と生ぎりぎりの場面の描写は、手塚の理念的な戦争描写では達し得ない迫真性があった。ことに戦争による兵士の死の描写は、まったく劇的でない」として、「ふいいんつまずいて転んだような偶然として描かれる」事を指摘しています。
 そして、「水木は戦争体験の圧力によって日常的な倫理、規範の場所から遥か遠くまで吹き飛ばされてしまったのではないか」と述べています。
 第9章「神話とシミュレーション」では、『ナウシカ』のマンガ表現としての面白さについて、
(1)優れたアニメ画面の運動感の再現のようなコマ展開
(2)腐海や虫、あるいは奇妙な戦艦の造形であり、そこには独特の生物的な歪みの誇張がある
の2点を挙げたうえで、「宗教的な領分から『人間』へと引き返した宮崎には、手塚の倫理に似たものを感じる。手塚は、戦争体験からきた、ユートピアと人間との矛盾感情を、生涯持ち続けた。宮崎の《ヤバイ》感覚は、手塚以来戦後の漫画が持ち得た、まっとうなバランス感覚ではないか」と述べています。
 第10章「『戦争』と身体」では、「60年代までの漫画における『戦争』は、ヒーローによる忍法・スポーツ的戦闘(戦記物少年マンガ)だったり、未来や過去の仮託された戦争寓話(手塚、白土)だったり、平凡な人間の体験回顧的作品(水木、滝田)だったりした。『戦争』は、じっさいの体験に通じるものであれ、通俗的な戦闘活劇であれ、人間の身体の外側に起きたことがらだった」が、70年代に、「作家の層が戦争世代から戦後世代へと交代していく」中で、「『戦争』イメージは、個人のたたかいというリアリティと、自己否定的な心情によって内向する」として、「70年代以降、体験の蓄積されにくい身体からの救済や再生が、マンガの『戦争』イメージに求められてきたようだ」と指摘しています。
 本書は、マンガに描かれた「戦争」から、読む側の変化を読み解いた一冊です。


■ 個人的な視点から

 戦争もののマンガは好きな人は好きですが、そこに描かれているのは戦争そのものではなく、男の子的な機械に対する愛情だったり政治だったりするような気がします。
 むしろそうでないマンガ、戦争を表面上テーマにしていないマンガの中にこそ戦争が描かれているような気もしないでもないです。


■ どんな人にオススメ?

・戦争漫画好きの人。

2010年1月26日 (火)

漫画の歴史

■ 書籍情報

漫画の歴史   【漫画の歴史】(#1832)

  清水 勲
  価格: ¥819 (税込)
  岩波書店(1991/05)

 本書は、「1830年代にパリで創刊された諷刺新聞『カリカチュール』と、同時期に江戸で大評判となった『北斎漫画』から説き起こし、今日の隆盛に至る漫画文化の軌跡」をたどったものです。
 第1章「諷刺画・権力・大衆」では、「近代漫画」は、「主として版画という複製美術として表現され、大衆に購入してもらうことを目的に生み出された」として、「ドーミエらがパリでルイ・フィリップ王に対してきわめて辛辣な諷刺画を描いていた1830年代に、江戸でも、芳虎や北斎らが権力を諷刺する漫画を描いていた」と述べています。
 第2章「『漫画』という言葉」では、明治から対象にかけての一般の人々は、「漫画」を、「鳥羽絵」とか「ポンチ」または「ポンチ絵」といった言葉を使っていたとした上で、「そぞろかき」あるいは「随筆」を意味する「漫筆」という言葉があり、この言葉から日本人が、「漫筆→漫筆画→漫画」と派生していったのではないかと推測しています。
 第3章「『パンチ』と『ジャパン・パンチ』」では、1862年に『ジャパン・パンチ』を創刊したイギリス人チャールズ・ワーグマンについて、彼が創刊に踏み切った理由として、
(1)外交官たちや親友の写真家F・ベアトなどから得るたくさんの情報をもっと有効に利用するため。
(2)恐らく、日本定住を決意し、生活のための事業として。
の2点を挙げています。
 第4章「自由民権期の漫画」では、「日本漫画の長い歴史の中で、漫画が『諷刺』機能とくに『権力への諷刺』機能を最もダイナミックに発揮した最初の時期は自由民権期であろう」と述べ、明治13年の「民犬党吠」について、「自由民権運動の高揚を巨大に成長した犬(民犬)の姿で表し、政府がそれを抑えつけるのに苦労している図」だと解説し、「この作品を見た人々は自由民権運動の躍進を実感し、世の中が変わることへの確信を抱いたことだろう。一枚の漫画が一時期に大衆を動かす……そんなことが可能になったのである」と述べています。
 第5章「中江兆民とビゴー」では、明治20年に創刊された『トバエ』について、「最低4人の人物が担当していたことがわかる」が、「秘密出版であるから、この4人は口の堅い結束した仲間であることは間違いない」と述べています。
 そして、治安警察から尾行されるなどしたビゴーは、「日本人の協力者たち、すなわち兆民と仏学塾関係者たちとは極秘の作業を続けた」として、「まさに秘密出版だった」と述べています。
 第6章「ヒーローは語る」では、北沢楽天の漫画に登場する丁野抜作について、「彼は頭の回転が鈍いためにいつも失敗をしているが、根は真面目で愛嬌があるところが救いで」あり、楽天家であるとして、「そうした正確こそ、不況と生活難の時代を生き抜くタフさであり、人々は『ダメ人間』丁野のタフさに憧れたのである」と述べ、「漫画のキャラクターは、常に時代を反映して生まれてくるものなのである」としています。
 第8章「子供漫画の時代」では、昭和戦前期は、「子供漫画が急速に子供の生活の中に入り込んでくる時代」だとした上で、講談社と中村書店の2社を挙げ、「戦後児童漫画の発展に多大な影響を与えた手塚治虫の漫画創造の根底に、この2つの出版社の漫画が大きく影響していることは間違いない」と述べています。
 第11章「戦後漫画の潮流」では、「昔から漫画の二大ジャンルというと、政治や権力を風刺する政治漫画、そして風俗や世相を風刺する風俗漫画を指して」いたが、「20世紀に入ると新しいジャンルが登場する」として、「いわゆる『短気・のん気』『慌て者・臆病』『やせ・デブ』といった人間の性格・性癖・体質などにまつわるものをテーマにする漫画」である「ナンセンス漫画」を挙げています。
 そして、「コミックはその表現法に無限の可能性を秘めている」として、「カートゥーンはその表現の明快さ・簡潔さで、地球人なら誰でもわかる『国際語』あるいは『共通の文化』になりうるだろう」と述べています。
 本書は、漫画が生まれてからの1世紀半を振り返った一冊です。


■ 個人的な視点から

 フランスの風刺画もいいですが、やっぱり漫画というよりも「絵」という感じなのに対して、江戸時代の北斎漫画や鳥羽絵はいま見ても抵抗感がないのは日本人だからなのでしょうか?
 そういえば、日本人がGペンで書いた漫画が好きなのも毛筆の影響なのかも知れません。


■ どんな人にオススメ?

・漫画がどのように生まれたかを知りたい人。

2010年1月25日 (月)

ぼくのマンガ人生

■ 書籍情報

ぼくのマンガ人生   【ぼくのマンガ人生】(#1831)

  手塚 治虫
  価格: ¥777 (税込)
  岩波書店(1997/05)

  本書は、1986年から88年にかけての手塚先生の講演記録から「少年時代に始まるマンガ家の人生をまとめたもの」です。
 第1章「マンガを描きはじめた頃」では、いじめられっ子だった著者が、「自己防衛手段」として、「特殊技能を身につけること」を考え、「いじめる連中にできなくて、ぼくにだけできることをつくろう」と考えたことから、家にあった200冊のマンガを、いじめっ子も読みに来るようになり、「おかげで学校でも、しだいにぼくに対してはいじめもなくなって、仲良しが増えて」きたのは、「マンガの功徳です。マンガ大明神さまさま」だと語っています。
 また、友人の今中宏君の家のご隠居の顔が、「たいへんマンガ的な顔」をしていたので、はじめてのキャラクター「ヒゲオヤジ」を考え付いたと語っています。
 第2章「すばらしい先生たちとの出会い」では、「綴り方教育」といって、「子供に好きなように作文を書かせる、それもたくさん書かせる」という教育をされた小学校の乾秀雄先生との出会いによって、「物語をつくる喜び」を知り、調子に乗ると何十枚も書き続けることがあったと語っています。
 また、中学時代の美術の先生、岡島吉郎先生からは、「マンガを描くなどとは、戦時下に、何たることか」という世相の中で、「手塚はこれが才能なんだから」と擁護し、「どんなに戦争が激しくなっても、たとえ兵隊にとられるようなことがあっても、マンガを描くことだけ早めるなよ。お前はきっと、いつか、それで身を立てられるチャンスがあるんだから。いまはこういう時勢なんだが、あきらめちゃいかんぞ」と励まされたと語っています。
 第3章「ぼくの戦争体験」では、戦争末期の大阪大空襲について、「大阪の方向や、阪神沿線を見ると、真っ黒な雲の下が赤く光っています。それもふつうの赤ではありません。ちょっと形容のしがたい赤色なのです。赤いイルミネーションのようです。それを見ているうちに、現実の世界ではないのではないか、もしかしたら夢を見ているのではないか、あるいはぼくはもう死んでしまって、地獄なのではないかという気が一瞬した」と語っています。
 そして、8月15日の終戦の日に、「阪急百貨店のシャンデリアがパーッとついている」のを見て、「ああ、生きていてよかった」と思い、「それまでの人生の中で最高の体験」だったと述べ、「それがこの40年間、僕のマンガを描く支えになっています。ぼくのマンガでは、いろいろなものを描いていますが、基本的なテーマはそれなのです」と語っています。
 第4章「『生命の尊厳』がぼくのテーマ」では、病院に勤め始めてからもマンガを描き続け、「一人で宿直室で徹夜して原稿を描いても、とても締切には間に合」わないので、一人の看護婦さんに手伝わせたところ、「手塚が毎晩毎晩、看護婦を部屋に引きずり込んで、中から鍵をかけて何かしている、看護婦は非常に疲れた顔をしている」ということで、「病院に変なうわさ」が経ったと語っています。
 また、入院患者が亡くなる瞬間に、「それまでしかめっ面して、頬がやせこけてほんとうに見るのも哀れな要望だったのが、一瞬非常に神秘的な美しい顔になった」のを見て、「ああ、人間の死というのはこんなものだったのか」、「もしかしたら死というものは、われわれが頭の中で考えている苦しみを超越したものではないだろうか。何か大きな生命力みたいな物があって、人間という肉体に宿っているのは、そのうちのごく一部の、一時の期間に過ぎない」のではないかと思ったとして、「僕は前にも増して生命の神秘というものを直接に感じ」田と語っています。
 第5章「アニメーションをつくる」では、鉄腕アトムの頭に「かならず角が動いて2本に見えるようになっている」のは、「ミッキーマウスの耳から完全に影響を受けている」としたうえで、上半身が裸なこと、ドタ靴を履いていること、指が4本で、手袋に穴が開いていること、などを語っています。
 第6章「子供は真剣なメッセージを待っている」では、永井豪の『ハレンチ学園』が子供に絶大な人気で迎えられたことについて、「もしかしたら、当時、子供のあいだではすでに教師に対する不信感がおこりつつあったのかもしれません。ダメ教師に対する無言の反感が、この作品に拍手を送らせたのかもしれません」と語っています。
 第7章「人間性こそ大切」では、自身の体験から「好きなことで、ぜったいにあきないものを一つ、つづけてほしい」と語り、「何でもいいから、一つのことを高校二年生ぐらいまでつづけていると、それはかならず何らかの形で皆さんの宝物になる」と述べ、「大きくなってからは、すくなくとも二つの希望を持ち、二つのことをつづけることです。いろいろな条件で一つが挫折することになっても、もう一つは残ります」と語っています。
 本書は、「マンガの神様」が何を考え、何を語ってきたのかを伝えてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 「マンガが得意ないじめられっ子」っていうモチーフは、おそらく手塚先生を出発点に色々なモチーフが漫画に登場しているのではないかと思います。とはいえ、いじめられなくなるほどの特技というのは現実には少ないとも思うのですが。


■ どんな人にオススメ?

・「神様」の幼少時を知りたい人。


2010年1月24日 (日)

スポーツマンガの身体

■ 書籍情報

スポーツマンガの身体   【スポーツマンガの身体】(#1830)

  齋藤 孝
  価格: ¥735 (税込)
  文藝春秋(2003/6/21)

 本書は、「身体論」的にマンガを読み解いたものです。著者は、「日本の子どもは、スポーツマンガを通して自己形成のモデルを獲得していったケースが少なくない」とするとともに、「スポーツの上達のプロセスには、勉強や仕事の上達に直接つながる理論が含まれている」と述べています。
 第1章「巨人の星」では、「時代の身体性がよくにじんでいる」として、
(1)ぶっ倒れる身体
(2)汁の多い身体
(3)父が過剰にからだを張る
の3点を挙げています。
 また、印象的だったシーンとして、「青雲高校が甲子園に出発する新幹線の駅のホームで、一徹が柱の陰からすっと現れ、飛雄馬にだけわかるように力強く勝利のVサインをしてみせるシーン」を上げ、「Vサインが現在まで流行り続けているのは、あのシーンによるところが大きいのではないだろうか」と述べています。
 第2章「あしたのジョー」では、『巨人の星』と『あしたのジョー』について、「同時代に『少年マガジン』に連載され」ていたが、「ファン層は微妙に異なる」として、「『あしたのジョー』の方が大人っぽい雰囲気があり、大人を含めた幅広い層に人気があった」と述べています。
 また、「無意味なまで吠えまくり、誰にでも突っかかっていくのが初期のジョーの特徴」だが、ストーリーの中で成長し、「余計なことはしゃべらない。吠える身体から黙る身体へと大きな変貌を遂げている」と述べています。
 そして、「『あしたのジョー』で減量といえば、何といっても力石徹の二階級減量だ」とした、「ジョーのテーマは、燃え尽きて真っ白な灰になることだった」と述べています。
 第3章「スラムダンク」では、「身体感覚は内側から感じられるものだ。これを描写できれば、その作品にはリアリティが出る」として、「繊細に身体感覚が描写されると、読者は自分の身体感覚をそこに重ねて実感しつつ読むことができる。私はそうしたスポーツマンガが好きだ」と述べ、「スポーツマンガのよさは、呼んでいるうちに自分の身体感覚までもが呼び起こされ、むずむずしてくるというところだ」としています。
 第4章「バガボンド」では、「描かれる身体の荒々しさ」を挙げ、「身体がただぶつかり合うのではなく、血しぶきを上げる残酷さで描かれる」と述べています。
 また、「『バガボンド』は、肚という、死語と化していた身体文化を復活させた」として、「足の長い、重心の高い身体が格好いいとされる現代において、帯を締め重心を低くした身体で格好よさを表せる作画力は、日本の伝統的な身体感を改めて見直させ、読者に新たな魅力を発見させている」と述べています。
 第5章「バタアシ金魚」では、主人公カオルの「魅力の中心は、過剰なエネルギーの的外れな使い方にある」と述べています。
 第6章「奈緒子」では、「このマンガの場合は、細かな感覚を表現するために言葉がうまく使われている」として、「ここでは明晰な認識力が、繊細な身体感覚を研ぎ澄ます砥石になっている」と述べています。
 第7章「ピンポン」では、「松本大洋は、その独特な画風と、ストイックかつ切れ味のいいせりふで、コアなファンを持っている漫画家だ」として、「タイプの違う男二人が絡み合い、成長していくモチーフ」が、『ピンポン』、『花男』、『鉄コン筋クリート』に共通すると述べています。
 また、『ピンポン』の功績として、「卓球という地味に見られがちなスポーツを、本格的に描いた点」を挙げ、「肉体派のスポーツではないように見られがち」な「ネガティブなイメージを一変させた」と述べています。
 そして、「瞬間的に高速で反射する身体は、卓球というスポーツが求める身体の特性だ」として、マンガの帯に、「274cmをとびかう140km/h」と謳われていると述べています。
 さらに、「反射神経を生かした攻撃的なスタイル」の前陣速攻型のペコと、「台から離れてカット」する「カットマン」のスマイルのスタイルの違いを挙げ、「スポーツの醍醐味の一つは、私の見るところ、スタイルを味わうところにある」と述べています。
 著者は、「『ピンポン』には、現在のマンガが到達しうる、身体感覚の描写と熱いストーリーの最高の結合が見られる」として、「『ピンポン』は身体感覚を呼び覚ますための必読書である」と述べています。
 本書は、スポーツマンガ本来の魅力をストレートに語った一冊です。


■ 個人的な視点から

 スポーツは苦手ですが、スポーツ漫画は大好きです(キリッ)。
 本書を読むと、実はスポーツ漫画の表現力というのは格段にアップしているのですが、その元になったのはゲームとかアニメとかの部分も大きいのかなと思ってしまいます。そういうの調べた研究ってないものでしょうか。それとも自分でやるのかな。


■ どんな人にオススメ?

・スポーツ漫画が好きな人。

2010年1月23日 (土)

謎の田舎政治―これからは田舎暮らしがおもしろい!

■ 書籍情報

謎の田舎政治―これからは田舎暮らしがおもしろい!   【謎の田舎政治―これからは田舎暮らしがおもしろい!】(#1829)

  吉津 耕一
  価格: ¥1,631 (税込)
  ハート出版(1996/04)

恩書は、「田舎には人を追い出してしまうような力が働いている」として、「田舎政治」の力を指摘し、「そんな不思議な田舎の政治や行政、文化や人々の意識について」、「20年前に田舎に帰ってからずっと考えていたこと」と綴ったものです。
 第1章「私と田舎の二十年戦争」では、「ふるさとは病気になって帰るとこ」という川柳を紹介したうえで、突発性難聴になったことを機会に田舎に帰ったことを述べた上で、「人々のイメージの中にある田舎は、病気になったり、失恋したり、都会の人間関係に疲れて帰る場所なんだろう」と述べています。
 また、田舎の占拠について、「田舎には"お年始"という慣習があって、のし紙にくるまれた年始タオル一本とのし袋に1000円から3000円を入れて、普段お世話になっている人の家を歩く。選挙の年には立候補を予定している人は"お年始"の中身を増やしたり、ふだんはあげてない子供へのお年玉も奮発したりする」とした上で、「都会と違って田舎は血縁や地縁、職場での付き合いで支持者を決める人がほとんどだから、政策とか人柄とかはあまり関係ないし、買収も難しい」と述べ、「お金を渡したり受け取ったりする」のは、「わたしはあなたが投票してくれるとあてにしている」、「私は大丈夫、あなたに投票しますよ」という「確認のための儀式のようなもの」だと述べています。
 そして、「田舎の政治は、田舎の選挙そのものだし、旧来の慣習を打ち破るような形での立候補は、それ自体が非常に困難な仕組みになっている」として、「まさに政治は武器を使わない戦争行為のようなものだ」、「田舎政治にも中央の政治に負けない、駆け引きや業が発揮される」と述べています。
 第2章「謎だらけの田舎政治」では、田舎の政治家の体型は、「ずんぐり・むっくり・ハゲ頭」というタイプが7割以上だと述べ、「背の低いずんぐりした人は、おじぎをしたときに、相手から見れば見下ろす感じになるので、いかにも深々とおじぎをしてくれたという感じになる」からではないかと述べています。
 また、「田舎の選挙に金がかかるのは、決して、マスコミなどで言われているような意味での買収のためではない」として、「田舎の選挙では金を使う習慣がある」程度の表現が実情に近いと述べています。
 そして、「一般に町会議員を続けているうちは資金繰りに困ることはない」が、「選挙に落ちたり、政治家をやめて"ただの人"になったとたんに取り立ては厳しくなる」として、「只見町の町長経験者、あるいは町長選挙に挑戦して敗北した人で、その後十年以上も借金返済と財産処分、果ては一家離散の苦しい後始末の人生を送った人が何人もいる」と述べています。
 第3章「不思議な田舎の文化」では、「うわさは若い女の子が田舎に残りたくない大きな理由の一つ」だとして、「田舎にはきちんとしたプライバシー、個人の尊厳が確立されていない。それを利用して、自分の気に入らない人を陥れるために事実を捻じ曲げて話を大きくし、うわさを流して政治的に利用する人さえいる」と述べ、「どうせのこと、うわさが追いつかないほどの面白い事実を次から次へと起こして、旧い話や大したことのない話なんかつまらないと思われるくらいに活気のある町をわたしはつくりたい」としています。
 また、「田舎もずいぶん豊かになったなあ。どこの家にも農業用軽トラックのほかに自家用車があって、焼肉を腹いっぱい食べて、たらふくビールを飲んで、カラオケだもんな」と実感する一方で、その酒飲みの話題は、「最も貧しい時代と同じような、グチや不平不満ばかりの会話」であることに「びっくりした」と述べています。
 さらに、「只見町の祝宴には、必ずといっていいほど"赤飯付き折り詰め弁当"がつく」が、「これはその場で食べるものではない。最初から『お持ち帰り専用』にできているのだ」として、「このマナーを知らないで、折り詰め弁当のほうをガツガツ食べたりすると、『ばがやろ、田舎のしきたりもわがんねぇのが。持ち帰り用の「折り」をこっだどごでガツガツ食うどは、いやしい奴だな』と思われたりする」と述べています。
 第4章「わたしの田舎改造論」では、「田舎の旧くさい政治を変えるには、まずその旧くさい選挙を変える必要がある」として、「政治家が自分の政策を訴えるには選挙公報で十分であり、その内容が本物かどうかは有権者がその候補者の普段の生活や仕事を見て判断すれば十分だ」と述べています。
 そして、「田舎へ行けば行くほど、町村長が変わるたびに、自分を支持してくれる役場職員を重要なポストにつけ、自分を支持してくれた土建会社へ公共事業を発注しようという傾向が強い。自分に反対意見を言う者は遠ざけ、重要なポストから外す」と述べた上で、「このようないかにも『田舎政治』的なやり方は実は田舎だけでなく、日本の中央の省庁や一流の大企業、一流の大学の中でさえ広く見られる。『田舎的』というよりは、旧い日本の体質の名残なのだろう」と述べています。
 また、「かじっかのいっぱいいる川で泳げる街」が理想とする町だとして、「一日も早く、kぁじっかがいっぱいいて、子どもたちが安心して泳げて魚採りのできる川を取り戻したい。そこで大人たちも一緒に遊べる街をつくりたい」と述べています。
 本書は、高校を出てから田舎に暮らしていない人にはわからないディープな田舎を教えてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 都会の人から田舎がよく見えるのは、田舎に住んだことがないか、大学から都会に出てしまって「田舎政治」に触れることが無かったからかも知れません。特に田舎の噂好きや陰口の面倒臭さを知ってしまうと幻滅してしまうでしょう。定年退職後にリサーチや免疫なしに田舎に引っ越してきても周りから孤立してしまって失意のまま都会に戻る人も少なくないようです。


■ どんな人にオススメ?

・知りたくもない田舎のディープさを知りたい人。

2010年1月22日 (金)

おんなの県民性

■ 書籍情報

おんなの県民性   【おんなの県民性】(#1828)

  矢野 新一
  価格: ¥756 (税込)
  光文社(2005/2/16)

 本書は、「本邦初」の「女性の県民性」に関する本です。著者は、「長い間、県民性といえば男性を前提にしたものであるとの固定観念に縛られていた」と指摘し、「今まで男性中心に行われてきた県民性研究の反省を踏まえて、女性に焦点を絞り、出身都道府県別に徹底的に解剖しようと試みた」と述べています。
 第1章「好みと性格の県民性」では、かつての「世界中の男たちの間に理想の家庭像というものがあった」として、「西洋式の建物に住み、日本人の妻をもらい、中華料理を食べる」と述べた上で、今では、「従順で貞淑な女性」は絶滅したかに見えたが、島根県出雲地方では、「酔ったご主人が家に電話すると、深夜でも奥さんが自らクルマを飛ばして迎えに来てくれる」と述べ、「明治以降も他の地域に比べて近代化が遅れたこともあって、人の出入りはもとより他の地域との交流が比較的少ないまま今日まで来た」ため、「風土が未だに保守的で、その地に生まれ育った女性の真面目で控えめな人が多い」と述べています。
 また、宮崎では「街のあちこちに弁当屋が目につく」理由として、多くの女性が夜間も働いていることを挙げ、その理由として、「女子社員の給料が低く抑えられているため、夜も働かざるを得ないという説」を挙げています。
 そして、新潟県人の忍耐強さを挙げ、「新潟県人は東京の他県出身者ナンバーワンの数といわれ、特に銭湯、豆腐や、米屋などの経営者に新潟の人が多い。これらはいずれも、朝早く起きたり、労働時間が長かったりなどといった辛いことの多い商売」だと述べています。
 さらに、テストマーケティングに広島と静岡がよく使われることについて、テストマーケティングの要件として、
(1)メディアが比較的独立して、情報が漏れにくい。
(2)新しい物好きで顧客水準が高い。
(3)ある程度の市場規模を持っている。
(4)産業構造や人口の年齢別構成が全国平均に近い。
(5)東西文化の接点で、東日本と西日本の体質を持つ地域がある。
の5点を挙げ、「これらを満たしているのが、静岡と広島」だと述べています。
 また、「お金におうような女性」ランキングでは、2位の千葉県について、「土地が豊かな上、東京への日帰りの行商に出れば現金収入を得られたことから、男女とも楽観的だ。神奈川や千葉など沿岸部の女性は、視野は広いが大雑把なところがあり、地道にコツコツ努力することはあまり得意ではない」と述べています。
 さらに、「九州は自己破産が多い地域」だとして、「全7県がベストテン入り」ことを挙げ、「九州は比較的大ざっぱな性格の人が多く、気軽に借金をしてしまう傾向がある」ことを指摘しています。
 第2章「恋愛と結婚の県民性」では、「ナンパの成功率が群を抜いて低いのは富山、石川、福井の北陸3県」だという説について、「県民性に照らし合せて考えてみると」当たっていると述べる一方で、「福岡の男性の酒好き、女好きは500年も前から脈々と続いている」として、「大阪と福岡は男女とも"恋愛体質"の地域だ」と述べています。
 また、むかし「茨城巡査に千葉女中」といわれたほど、「出稼ぎのお手伝いさんは千葉の女性が圧倒的に多かった」とした上で、「たくましく働き者のかつぎ屋さんたちこそ千葉の女性の象徴である」と述べ、「千葉では、女の子が生まれると赤飯を炊いて盛大に祝う風習があった」とする一方、「千葉の女性はよく働くので、千葉の男性はこれに甘え、女性に保護され支えられる存在になってしまう。そのため『千葉の男はだらしない』とさえいわれることもある」と述べています。
 そして、各都道府県出身の男女の相性のわー素路3として、
(1)岩手の女性―大阪の男性
(2)東京の女性―岡山の男性
(3)広島の女性―大阪の男性
の3つを挙げています。
 第3章「美と健康の県民性」では、「秋田美人」の理由として、「一般的には曇りや雨・雪の日が多く、日照時間が短いため紫外線が少ないから」だとか、「佐竹の殿様が茨城から転封(左遷)された際に、美人を選りすぐって連れてきたからという説」などを挙げた上で、「秋田県人には白人の血が混ざっている」という説を挙げ、「青森から秋田沿岸部の女性の中には彫りが深く、髪の毛が茶系で、目の色も緑系や青系の人がいる」として、「かつて白人の血を引く集団が日本にわたってきたことが考えられる」と述べています。
 第5章「嫁と姑の県民性」では、相性の良い嫁と姑の組み合わせとして、
(1)北海道嫁―東京姑
(2)福岡嫁―長崎姑
(3)宮城嫁―千葉姑
等の組み合わせを挙げています。
 第6章「嫁と舅の県民性」では、「男尊女卑的な傾向が茨城に残っている」として、「相変わらず親や年長者の力が強く、冠婚葬祭も派手だ。これは、みっともないことをしたくないという面子やプライドからきている」と述べています。
 本書は、ありそうでなかった女性の県民性を解説した一冊です。


■ 個人的な視点から

 本書は「女性の県民性」と言いながらも、あくまでも歴史や地理などの観点から県民性そのものに着目し、さらに男女の県民性に分けている点がさすがだなと思いました。
 ところで、テレビ番組の「ケンミンショー」は「県民性」の読みのことなのでしょうか。ちなみに私も取材に答えたことがありますが結構いい加減です。その辺はまあテレビですし。


■ どんな人にオススメ?

・各県の女性に興味がある人。

2010年1月21日 (木)

ケネディはなぜ暗殺されたか

■ 書籍情報

ケネディはなぜ暗殺されたか   【ケネディはなぜ暗殺されたか】(#1827)

  仲 晃
  価格: ¥1100 (税込)
  日本放送出版協会(1995/01)

 本書は、「鉄壁のようなケネディ暗殺事件の隠蔽作戦突破に向けられたささやかな一つの試み」であり、「ケネディ政権の退場を強く望んだ全米各地の陰謀グループが、いわず語らずのうちにケネディ暗殺のための『蜘蛛(クモ)の巣』をはりめぐらせ、実行可能な時と場所、つまり、ケネディが『クモの巣』にかかった状況に応じての計画実現を期した。その結果がたまたま63年11月のダラスでの襲撃になった」との立場をとるものです。
 プロローグ「『パンドラの箱』が開いた」では、「死後30年経っても衰えず、それどころか年を追うごとに強まるかに見える」ケネディ人気の秘密として、
(1)ケネディがアメリカの黄金時代の最後の大統領であったこと
(2)彼のユニークな人柄と、それを反映した独特の政治のスタイル
の2点を挙げています。
 第1章「黒ワク入りの挑戦状」では、「社会主義革命を成功させて首都ハバナに乗り込み、売春やカジノ経営、麻薬密売などでうまい汁を吸う悪徳商人たちを追いやったヒゲのカストロ首相」に追い出されたアメリカ亡命者やその先頭のマフィアにとって、「カストロに劣らず憎まれたのがケネディ大統領だった」として、亡命キューバ人による本土奪回作戦の失敗劇を解説しています。
 第2章「FBI謹製『ウォーレン報告』」では、『ウォーレン報告』には、「アメリカの政、財、官界、それに言論界のエリート層が、史上最大の民主主義国家、法治国家としてのアメリカ合衆国もメンツを守ろうとする渾身の努力が凝縮されている」と述べています。
 第3章「ホワイトハウスと暗黒街の距離」では、「ケネディ暗殺事件の真相を、アメリカ政府の総力を挙げて徹底的に追跡、検証したと主張する」『ウォーレン報告』が、「いまでも大半の国民から疑いの目で見られている理由」として、「この歴史的な暗殺事件の後ろにハッキリと姿の見える中央情報局(CIA)や連邦捜査局(FBI)、全米にまたがる巨大な犯罪地下組織マフィア、それにケネディ政権の生ぬるいキューバ政策に激しい怒りを抱いていた亡命キューバ人グループらの暗殺事件との関わりについての記述が、見事なほどに欠けている」ことを挙げています。
 そして、「19世紀の後半から新大陸に進出したアメリカのマフィア組織を育て、繁栄させたのは、ほかならぬアメリカ政府の当局者たちであった」として、シチリア島のマフィアも、国家権力と癒着して、「地域社会と国家を媒介する機能を果たし、その役割から政治的、経済的な利益を巧みに引き出していた」と解説しています。
 第4章「大統領が愛した『マフィアの恋人』」では、「ケネディ暗殺に1年3ヶ月ほど先立つモンローのハリウッドでの奇妙な死には、当の大統領だけではなく、弟のロバート・ケネディ司法長官との錯綜した愛情関係のもつれが影を落としたという見方が今では支配的になっている。その上、モンローとケネディ兄弟の交遊にはマフィアの陰が見え隠れしている」と述べたうえで、「モンローとジュディに代表されるケネディ大統領のきわどい女性関係は、当然ながらマフィア首脳たちから詳しく監視され、しばしば秘密のテープレコーダーで録音された。これがマフィアによって脅迫の材料とされたら、ケネディの大統領職の遂行に重大な支障が出るだけでなく、アメリカ国家の安全保障にも影響が出る可能性が十分にあった」と述べています。
 第5章「史上最大の身代わり男」では、『ウォーレン報告』が、「単独犯と名指しされているリー・ハービー・オズワルドから司法当局が生前ついに犯行の『動機』を何一つ引き出せなかった」理由について、「彼が『複合歯車』の一つにすぎず、ケネディ大統領を暗殺する個人的動機を、白状するにも持ち合わせていなかったから」だとして、「陰謀最上層の大物たちから大統領暗殺の理由など一切打ち明けられず、限られた自分の任務だけを努めたあげく、身代わりの『主役』に仕立てられた人物に暗殺の真意を聞き出そうとする当局の努力そのものがムダだったといえる」としています。
 そして、オズワルドが、記者団から「あなたはケネディ大統領を殺したのですか?」と尋ねられ、「私は、身代わりにすぎないんですよ!」と答えていると述べています。
 第6章「陰謀の道化師」では、ケネディ暗殺事件の最大の皮肉として、「ジャック・ルービーという『第三者』が現れてオズワルドを射殺したことによって、事件のは以後に潜む大がかりな陰謀の存在が浮かび上がったこと」を挙げています。
 そしてルービーを、「ケネディ暗殺事件を演出した『複合陰謀』の中核、マフィアの巨頭たちが目を付けた使い捨ての『手ゴマ』だった」として、マフィアの庇護の下で、ダラス市警に出入り自由で多数の「内部協力者」を持つルービーが、「ナイトクラブの経営不振で税金の滞納に苦しんでいるのをいち早く耳にした陰謀グループのボスたちはほくそ笑んだに違いない」と述べています。
 エピローグ「クモの巣がケネディを捕らえた」では、「ケネディ大統領を打ち倒したのは、個人でなかったのはもちろん、単一のグループによる陰謀でもなかったのではないか。それは、大統領の抹殺をねらういくつかの反ケネディ組織が、意図的であるとないとを問わず、大きく手を取り合って作り上げた目に見えぬ緊密な協力体制の元で実現した暗殺だった。数多くの暗殺グループがいわず語らずのうちに力を合わせて結果を生み出す『複合陰謀』だったといえる」として、「この『複合陰謀』のクモの巣のどの部分にひっかかっても、ケネディ大統領は命を落とす運命にあった」と述べています。
 本書は、日本人にはすでになじみの薄くなったケネディ暗殺を読み解いた一冊です。


■ 個人的な視点から

 日本ではケネディの病的な女好きはそれほど一般的ではない気がするのですが、国家の安全保障さえ揺るがす女好きって宇野総理の比ではないですね。
 おかげ様で1月21日付で5周年になりました。
 最近はビハインド気味ですが引き続き配信を続けますのでよろしくお願いいたします。


■ どんな人にオススメ?

・国家元首の女性関係に関心がある人?

2010年1月20日 (水)

セレブの現代史

■ 書籍情報

セレブの現代史   【セレブの現代史】(#1826)

  海野 弘
  価格: ¥798 (税込)
  文藝春秋(2006/04)

 本書は、「きちんと説明されていないが、みんななんとなくわかっている社会現象」であり、「実は、現代文化を読むためにかなり重要なキーワードではないか」と思われる「セレブ」について、「もしセレブが鏡であるとするなら、そこに現代の社会と文化が映し出されているはずだ」として、「セレブをキーワードとして現代を読んで」みたものです。
 第1章「セレブの誕生」では、「50年代のグラマー(セレブリティといってもよい)は、成上がりではなく、生まれつき備わったような上品さ、輝かしさを持っていた」、「60年代のグラマーは未来の才能を感じさせる輝きを持っていた」が、「それ以後は、成り上がりの虚栄が鼻につくようになる」と述べています。
 第2章「映画スターのセレブ」では、「かつては、ある努力の結果であった名声は現代においては、ハイプ(誇大宣伝)、メディア操作で得られるものとなった」として、「セレブ企業は、ハイプ、買入れ、メディア操作、自己PR、提携などによって展開される」と述べ、「そのような変化は、それまでのスターをつくり出してきたハリウッドの衰退を背景としている」としています。
 そして、「セレブリティは<商売>、<財産目録>、<財産>、<製品>、<商品>となり、ファンは<マーケット>となり、現代の高度消費文化のワン・ピースとなった。セレブは投資の対象となった」と述べています。
 第3章「テレビのセレブ」では、アメリカのテレビが生んだ2人のセレブ、バーバラ・ウォルターズとオプラ・ウィンフリーを取り上げています。
 第4章「ポップスのセレブ」では、「グラム・ロックが解禁したロック音楽の資格化、スペクタル化は止まらなかった」として、「プロモーション・ビデオがレコードを売るためにつくられるようになったこと」が、「それに拍車をかけた」と述べています。
 第5章「アートとセレブ」では、アンディ・ウォーホルが、「アーティストのお金に対する罪悪感を払拭してしまった。よい芸術とは売れる芸術である。売れることがよいことなのだ」と述べています。
 また、「有名建築家はブランド化した」として、「建築・デザイン(グラフィック、インダストリアル、インテリア)・ファッションなどの分野が<セレブ>によってくくられ、混ざりあいはじめた」と述べています。
 第6章「ファッションとセレブ」では、「ファッション界も大きく変わった。デザイナー自身がセレブの仲間入りをしたのである」として、「いまやデザイナーは"洗練された暮らしの達人"と見られるようになる」と述べています。
 第7章「女性とティーンズ」では、「セレブリティ・ビジネスのマーケットの主力は、女性とティーンエージャーである。女性とティーンズはセレブに魅せられ、そのスタイルを真似、その服や持物と同じものを欲しがる。セレブはファッションやライフスタイルのリーダーと見られるのである」としたうえで、「ティーンズと女性によるセレブ・ビジネスのマーケットはますます加熱している」と述べています。
 第8章「政治とセレブ」では、「かつては有名人といえば、政治家や軍人がかなり多かった」が、今や、「セレブの中で政治家の占める割合はかなり少ない」と述べています。
 そして、「1990年代までに、セレブリティ・ポリティックスのシステムが確立された。それはテレビの画面のようにヴィジュアルであり、私たちは政治に参加するよりは、政治ゲームに見とれているようになった。政治はショーになった」と述べています。
 また、「日本でもこれに近い状況になってきているのではないだろうか」としています。
 第9章「セレブ・テン・ギャラリー」では、著者の好みによると前置きした上で、
・グレース・ケリー
・オードリー・ヘップバーン
・ジャクリーン・ケネディ・オナシス
・マドンナ
・ダイアナ
・アンディ・ウォーホル
・ミック・ジャガー
・マイケル・ジャクソン
・トム・クルーズ
・デイヴィッド・ベッカム
の10人のセレブを挙げています。
 エピローグでは、「セレブ時代の象徴ともいえるのが、ものまね芸なのである」とした上で、「<セレブ>がコピーの構造を持っていることを示している」と述べ、「セレブにあこがれ、そのコピー、そっくりさんになりたくなる。そのためにセレブの持物、服、化粧を真似る。セレブ文化=ものまね文化なのである」と述べています。
 本書は、言葉では聞いたことがある「セレブ」とは何かを考えさせてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 一般には「セレブ」と言えばホテル王の娘とかを想像しますが、デザイナーやアーティストなど様々な世界で世に出る素質としてセレブかどうかが必要になっているのかと思うと寂しいものです。


■ どんな人にオススメ?

・セレブが好きな人。

2010年1月19日 (火)

群衆―モンスターの誕生

■ 書籍情報

群衆―モンスターの誕生   【群衆―モンスターの誕生】(#1825)

  今村 仁司
  価格: ¥693 (税込)
  筑摩書房(1996/01)

 本書は、「近代社会の根源としての群集」を主題としたもので、「近代史の中での群集のあり方を特徴付けること」は、「それがひとつの決定的な社会的勢力(puissance sociale)として、また社会と歴史の原動力(mouter sociale)として、大きく登場したことにある」と述べ、「根地図無もスターリニズムも、群集社会が作る全体主義であるが、ドイツの哲学もレーニン以降のマルクス主義も群集の精神に転落し、変質してしまった」としています。
 第1部「群集の本質」では、モスコヴィッシが、「皮相ではあるが広く分布した3つの群集論がある」として、
(1)群集は、制度あるいは秩序から外れて、制度や秩序に反抗して集まる、一時的集合体である。
(2)群集は気違いである。
(3)群集は、本質的に、犯罪者集団である。
の3点を挙げたうえで、「要するに、いっぽうに、決して群集ではない、群集にはならない上流・中流の市民層があり、他方に下層民や屑が作る群集がある、という考え方は『皮相で通俗的』である。むしろ反対に階級・階層の区別なく万人が群集化し、群衆の中で『個性を喪失する』ことが群衆の性格である」と考える点で、「モスコヴィッシの見解は正当である」と述べています。
 また、カネッティが、群集の特質として、
(1)群衆は常に増大することを望む
(2)群集の内部には平等が存在する
(3)群衆は緊密さを愛する
(4)群集はある方向を必要とする
の4点を挙げた上で、群集を、
(1)迫害群集
(2)逃走群集
(3)禁止群集
(4)顛覆群集
(5)祝祭群集
の5つに類型化していることを紹介しています。
 そして、「群集は何らかの社会的危機から生ずるもの」であり、「群衆はその身体の中の隅々に至るまで危機を刻み込んで」いるため、「群集は危機を拡大し激化することができるし、危機の解消になることも」できると述べています。
 さらに、「超人ないしツァラトゥストラ、他方での群集を脱したプロレタリアート」という19世紀の二つの思想像は、「突如として地下から魔術によって呼び出された妖怪としての群衆に対峙する企てであった」と述べ、「複数の存在、多数の存在としての『われわれ』は、群集としての『われわれ』とは根本的に違うのだということを、確認しなくてはなりません」としています。
 第2部「群衆の分析」では、『フランケンシュタイン』を、「アメリカ映画のように、やたらと怪奇物語に仕立て上げるのは間違い」であり、「重要なことは、フランケンシュタインとモンスターというキャラクターの中に、どういう社会的歴史的寓意がこめられているかを読み取ること」だとした上で、「この小説には、これまでには見られなかった、新しいが極度に不安を掻き立てる人間の集まりの最初の形象がモンスターという『名前』をもって描かれているのです。そして、この人間でありながら人間を超えるものとしての群集への、一定の魅惑をないまぜにした恐怖が的確に描かれているのです」と述べています。
 そして、「最初に群衆の形成や動きに心理学のメスを入れた」として、ルボンを挙げ、その「実践的関心」は、「群集の突出を抑制しコントロールして、野蛮を回避し文明を救わなくてはならない。もし首尾よく群集心理の法則を逆用できるならば、群衆を飼いならすこともできよう」というものであり、「ここに群集操作の技術的可能性の道が開かれた」として、後に、「一方では軍事的政治的プロパガンダの技術として、他方では広告宣伝の技術として、開花することになる」と述べています。
 また、「群集は状況によって野蛮にも英雄的にもなること」ができるとして、「それは超歴史的な集団に還元されるような人間集団ではなくて、たえず同一化願望に突き動かされて、自然発生的に大小の『指導者』を内部から算出して、個人はもとより、階級や身分をすら溶解させて、ついには等質的な群集国家を建設するほどの巨大な勢力なの」だと述べたうえで、「ついに新しい人間類型が登場した」、「近代的人間は、群集的人間になった」としています。
 エピローグ「批判と抵抗」では、「群集があまたある集団のひとつではない」ことを強調し、「群衆は集団や組織の位置類型であるのではなく、むしろそれらを横断し包摂していくような一つの傾向なの」だと述べています。
 そして、「群集はあらゆる人間の個別的際がすべて解けて消える場所である」とした上で、「群集になること、それは人間が人間(理性的に思考する存在)でなくなること」だと述べています。
 本書は、実態がつかみづらい「群集」の姿かたちに光を当てた一冊です。


■ 個人的な視点から

 世代的に『フランケンシュタイン』と言えば「ウオーでがんす」を思い出してしまう(これは狼男か)のですが、まさかフランケンにこんな寓意があろうとは。深読みしすぎなのかどうかは本書だけではわかりませんでした。


■ どんな人にオススメ?

・「群集」はただの人の集まりだと思う人。

2010年1月18日 (月)

もしもあなたが猫だったら?―「思考実験」が判断力をみがく

■ 書籍情報

もしもあなたが猫だったら?―「思考実験」が判断力をみがく   【もしもあなたが猫だったら?―「思考実験」が判断力をみがく】(#1824)

  竹内 薫
  価格: ¥756 (税込)
  中央公論新社(2007/12)

 本書は、「思考実験」を主題とし、「単純なように見える、あるいは、一見くだらないような思考実験から始まって、実は、ものすごい『知の体系』が編み出されていくという構図がある」ことを解説したものです。
 著者は、「本書で、思考実験を通じて、固定化され惰性化したモノ的世界観を脱却して、より自由闊達で無限の可能性を秘めたコト的世界観へと読者の皆さんを誘い」たいとしています。
 第1日「もしあなたが猫だったら」では、「自分の周囲の人々とか、猫とか、あるいは、飛んでいる鳥とかの世界が動なんだろうなって想像する」ことで、「自分の世界の見え方っていうのも、だんだん変わってくる」として、「思考実験によって、人生、少し変わってくるかもしれません」と述べています。
 第2日「もしも重力がちょっぴりだけ強かったら」では、3匹のクマの家に迷い込む少女ゴルディロックスを描いた「三匹のクマさん」というお話を紹介した上で、欧米の人たちが、「ぴったり」の意味で「ゴルディロックス」という言葉を使うと解説し、「ゴルディロックス・ゾーン」とは、「人類が快適に暮らせる環境」のことだと述べています。
 そして、ゴルディロックス・ゾーンを決めている「6つの魔法数」として、
(1)核力と電磁力の強さの比
(2)電磁力と重力の強さの比
(3)宇宙の密度、つまり質量密度
(4)宇宙定数
(5)宇宙マイクロ波背景放射
(6)空間の次元
の6点を挙げ、「この宇宙を作っている物理的な数字が、極めて狭い範囲で微調整されていないと、我々のような生命体というのはありえない」と述べています。
 第3日「もしもプラトンが正しかったら」では、現代人がみな、「自分のことを中心に考え」ることについて、「プラトンは、はっきりそれがいけないって言う」として、「もっと広い視野で考えなさいと。国家という単位でものごとを考える人がいないとダメじゃないかと強く言っている」と述べています。
 第5日「もしも仮面をつけることができたら」では、人間には、「一つの固定された客観的な人格なんて存在しない」ことが、「現代物理学のキーワードである『間主観性』の話と、密接に結びついている。結局、その考え方をいかに徹底させるか、っていうことだ」と述べています。
 また、「みんなが完全なる仮面を被った状態というのは、一転して誰も演じなくていい状況」だとして、「そういう極限状態で、じゃあ人間はどういうことが出てくるのか、というのが、あの『2ちゃんねる』の世界で、そこではその人の本性が出ちゃう」と述べています。
 第6日「もしも小悪魔がいたならば」では、電磁気学を確立した物理学者マクスウェルの思考実験に出てくる小悪魔を取り上げ、「小悪魔は本当に熱力学の第2法則を敗れるのか、ということを中心に様々な議論が展開して」きたと述べています。
 そして、「エントロピーで世界を見るという観点が出てくると、たぶん、世界の見方が凄く広がる」として、「ふつうの人は、たぶんエネルギーでしか考えていない」が、エネルギーが保存されるのに対して、「エントロピーはエントロピー増大の法則なので、わかりにくい」と述べています。
 第7日「もしもアインシュタインが正しかったならば」では、相対性理論の中の重要な考えである「等価原理」を取り上げ、「アインシュタインと同じようにエレベーター(ロケット)にいるあなたは、重力と加速度を区別できるだろうか?」という思考実験を行い、「等価原理を使うと、加速度と重力は同じ」であり、「重力場の中でも、重力の強いところと弱いところでは、時計の進み方が違うという結論になる」と述べています。
 本書は、思考実験を通じて、新しいものの見方の世界に誘ってくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 同じ著者の、『99・9%は仮説』は有名ですが、正面切って論じようとすると抵抗感がある科学の世界をハードルを下げてくれる力量は大したものではないかと思います。


■ どんな人にオススメ?

・猫と科学を愛する人。

2010年1月16日 (土)

生物と無生物のあいだ

■ 書籍情報

生物と無生物のあいだ   【生物と無生物のあいだ】(#1822)

  福岡 伸一
  価格: ¥777 (税込)
  講談社(2007/5/18)

 本書は、「『動的平衡』論をもとに、生物を無生物から区別するものは何かを、私たちの生命観の変遷とともに考察した」ものです。著者は、「生命とは何か?」の問いに対し、「自己複製を行うシステム」だと述べています。
 第1章「ヨークアベニュー、66丁目、ニューヨーク」では、「パスツールやコッホの業績は時の試練に多恵が多、野口の仕事はそうならなかった。数々の病原体の招待を突き止めたという野口の主張のほとんどは、今では間違ったものとして全く顧みられていない」とした上で、「彼が、どこの馬の骨ともしれぬ自分を拾ってくれた畏敬すべき師フレクスナーの恩義と期待に対し、過剰に反応するとともに、自分を冷遇した日本のアカデミズムを見返してやりたいという過大な気負いに常にさいなまれていたことだけは間違いないはずだ」と述べています。
 第2章「アンサング・ヒーロー」では、「ウイルスは、栄養を摂取することがない。呼吸もしない。もちろんに酸化炭素を出すことも老廃物を排泄することもない。つまり一切の代謝を行っていない」として、「ウイルスは機械世界からやってきたミクロなプラモデルのようだ」としながらも、「ウイルスは生物と無生物の間をたゆたう何者かである。もし生命を『自己複製するもの』と定義するなら、ウイルスは紛れもなく生命体である」と述べています。
 第3章「フォー・レター・ワード」では、「生命科学を研究する上で、最も厄介な陥穽は、純度のジレンマという問題である。生物試料はどんな努力を行って純化したとしても、100%純粋ではあり得ない」と述べています。
 第4章「シャルガフのパズル」では、「生命の"自己複製"しすてむ」を、「ひとつの細胞が分裂してできた二つの娘細胞に、このDNAを一組ずつ分配すれば、生命は子孫を残すことができる」と解説した上で、「これは地球上に生命が現れたとされる38億年前からずっと行われてきたことなのである」と述べています。
 また、「死んだ鳥症候群」と呼ばれる、「研究者の間で昔から言い伝えられているある種の致死的な病」について、仕事が円熟期を迎え、「鳥は実に優雅に羽ばたいているように見える」ときには、「鳥はすでに死んでいるのだ。鳥の中では情熱はすっかり燃え尽きているのである」と述べています。
 第6章「ダークサイド・オブ・DNA」では、「匿名のピア・レビュー法は、細分化されすぎた専門研究者の仕事を相互に、そしてできるだけ公正に判定する唯一の有効な方法である」が、「同業者が同業者を判定するこの方法はそれゆえに不可避的な問題を孕むことにもなる」として、「『一番最初にそれを発見したのは誰か』が常に競われる研究の現場にあって、つまり二番手には居場所も栄誉も与えられない状況下にあって、せまい専門領域内の同業者は常に競争相手でもあるという事実」を指摘しています。
 第7章「チャンスは、準備された心に降り立つ」では、「ピア・レビューの途上にある、未発表データを含む報告書が、本人の全くあずかり知らないうちに、ひそかにライバル研究者の手に入り、それが鍵となって世紀の大発見につながったのであれば、これは端的に言って重大な研究上のルール違反である」として期しています。
 第8章「原子が秩序を生み出すとき」では、生命は、「現に存在する秩序がその秩序自身を維持していく能力を秩序ある現象を新たに生み出す能力を持っている」としたうえで、シュレーディンガーが、「生命が、エントロピー増大の放送区にこうして、秩序を構築できる方法の一つとして、『負のエントロピー』という概念を提示した」と述べています。
 第9章「動的平衡とは何か」では、「生命とは要素が集合してできた構成物ではなく、要素の流れがもたらすところの効果」だとして、シェーンハイマーが提示した新しい生命観について、「ここにあるのは、流れそのものでしかない」と述べ、シェーンハイマーが、これを、「身体構成成分の動的な状態」(The dynamic state of body constituents)と名付けたとしています。
 そして、「エントロピー増大の法則に抗う唯一の方法は、システムの耐久性と構造を強化することではなく、むしろその仕組み自体を流れの中に置くことなのである。つまり流れこそが、生物の内部に必然的に発生するエントロピーを排出する機能を担っていることになる」と述べ、「自己複製するものとして定義された生命は、シェーンハイマーの発見に再び光を当てることによって次のように再定義されることになる」として、「生命とは動的平衡(ダイナミック・イクイリブリアム)にある流れである」と述べています。
 第10章「タンパク質のかすかな口づけ」では、「ジグソーピースのように、相補的な相互作用を決定する領域は、ひとつのタンパク質に複数存在しうる」とした上で、「ジグソーパズルのピースは次々と捨てられる。それはパズルのあらゆる場所で起こるけれど、それはパズル全体から見ればごく微細な一部に過ぎない。だから全体の絵柄が大きく変化することはない」と述べています。
 第11章「内部の内部は外部である」では、「細胞は、内部で作り出されたタンパク質を細胞の外部へ運び出すために、直接、細胞の皮膜を開閉する危険を避けたかった」ために、「そのかわり、細胞はあらかじめ細胞の内部に、もうひとつの内部を作った。それが小胞体である」と述べています。
 第14章「数・タイミング・ノックアウト」では、「遺伝子を人為的に破壊して、その波及効果を調べる方法を、『ノックアウト実験』という」とした上で、著者らが、「マウスのような多細胞生物に対して」、「細胞膜のダイナミズムに重要な役割を果たしている」と考えた「脾臓の細胞に存在するタンパク質GP2」のノックアウト実験を行おうとしていたと述べています。
 そして、「すべての細胞がES細胞由来」の「GP2ノックアウトマウス」を生み出し、「このマウスの脾臓細胞ではとてつもない膜の異常が展開しているはず」だと目論でいたが、「GP2ノックアウトマウスの細胞はあらゆる意味で、全く正常そのものだった」と述べています。
 第15章「時間という名の解けない折り紙」では、「私たちは混乱した。そして落胆した」として、「GP2が、分泌顆粒膜の組織化に重大かつ必須の役割を果たしているという私たちの仮説は見事なまでに粉砕されてしまった」と述べています。
 そして、「生命とは、テレビのような機械ではない。このたとえ自体があまりにも大きな錯誤なのだ。そして私たちが行った遺伝子ノックアウト操作とは、基板から素子を引き抜くような何かではない」として、「私たちは遺伝子をひとつ失ったマウスに何事も起こらなかったことに落胆するのではなく、何事も起こらなかったことに驚愕すべきなのである。動的な平衡が持つ、やわらかな適応力と滑らかな復元力の大きさにこそ感嘆すべきなのだ」と述べています。
 エピローグでは、「生命という名の動的な平衡は、それ自体、いずれの瞬間でも危ういまでのバランスを取りつつ、同時に時間軸の上を一方向にたどりながら折りたたまれている。それが動的な平衡の謂いである。それは決して逆戻りのできない営みであり、同時に、どの瞬間でも既に完成された仕組みなのである」として、「私たちは、自然の流れの前に跪く以外に、そして生命のありようをただ記述すること意外に、なすすべはないのである」と述べています。
 本書は、生命が持つバランスの驚愕すべきすばらしさを教えてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 本書で紹介されている流れとしての生命体という生命観をはじめて知ったのは、藤子・F・不二雄のSF短編「宇宙からのおとし玉」だったのではないかと思います。F先生はこういう生命科学の動向にも関心を持っていたのでしょうか。


■ どんな人にオススメ?

・生命が危ういバランスの上に成り立っていることを知りたい人。

2010年1月15日 (金)

派閥

■ 書籍情報

派閥   【派閥】(#1823)

  永森 誠一
  価格: ¥756 (税込)
  筑摩書房(2002/01)

 本書は、日本の政治における派閥の「生態ではなく、生態系を眺めて」見たもので、著者は、「この生態系は論理でできている」として、「この論理が、生態系をつくり、派閥を生かしている」と述べています。
 序章「語る」では、「党派はその規模が拡大すれば割れる、多数を目指す党派内には党派が生じる、とだけ考えるのではなく、複数の党派を内に抱えなければ党派はその規模を拡大できない」と述べています。
 第1章「争う」では、党内党派としての派閥の抗争には、
(1)党を割らない・・・政権政党の原則、あるいは政権の原則
(2)しこりを残さない・・・総裁公選において、投票を避けて「話し合い」に持ち込む動きが出てくるのはこのため
(3)政策で争う・・・単なる党内抗争ではないという印象を与え、いわば世間体を作る効果がある
の三原則があるとしています。
 第2章「決める」では、日本政治には、「いわゆる二大政党制を意味するとともに、おそらく党首に率いられた規律正しい政党をモデル」とした、「よく組織された政党による政党政治への憧憬がある」と述べています。
 また、一任と裁定について、「裁定は話し合いの一種ではあるが、一任を取り付けることで、『派閥の論理』から離れることになる」として、「それは、派閥の対立がもたらす硬直した状況の所産であり、政治的な芸の世界でもあって、『落としどころ』を探しつつ、投機的にリーダーシップを発揮して、『派閥封じ』を楽しむ心境がそこにうかがえないでもない」と述べています。
 第3章「集める」では、「派閥はそこにある現実として了解されているから、いわば人が集まるところに人は集まる。党派内に党派が形成されるというのではない。先に派閥という現実があり、それぞれの現実で構成される政党がある」と述べています。
 そして、派閥は、「職業政治家の職業教育の、少なくとも一環であるとは考えられる」として、「派内の序列を下から上まで順番に体験することで、(フォロワーとしての)経験を蓄積し、リーダーシップの技術や哲学を習得することになろう」と述べたうえで、「そこで習得されるものを一言で表現するとすれば、それは政治の複雑さ、あるいは現実の『割り切れなさ』に対する感受性ということになるのではないか」と述べています。
 第4章「分ける」では、「党派が、分裂と統合を繰り返しながら、政治の複雑さを調節する機能を果たす」という観点から、その調節機能について、「モノやコトを分配することによる。また、モノやコトの分配によって、ヒトとヒトとの間に関係をつけることによる」と述べたうえで、「権力が役職の姿をしているとすれば、役職の序列が権力の序列になる」として、「人事には、勝ち負けの微妙な度合いが表現される。それを読み取ることができれば、派閥のいわゆる力関係の変化を知ることができるであろう」と述べています。
 第5章「継ぐ」では、「派閥は世代交代の形で継承されてきた」として、「世代」の数え方は、「やはり総裁の交代を基準にするのが普通」だと述べています。
 また、派閥による問題の解決について、「問題ごとに党派が形成されるのではなく、問題を組み合わせて、いくつかのセットとして解決するという方法によるもの」であり、「基本的な問題やいくつかの重要な問題について<正しい>解答の組み合わせが用意されている。党派的とはそういう意味であった」と述べています。
 そして、「政策や技術では、『どうにもならないもの』が、党派の継承と、そこから生じる党派間の関係には、ある」として、「『不問に付す』という一括処理をするほかない。もとより『怨念』が消去されるわけではない」と述べ、「政策が政治の象徴形式として効果を発揮するためには、この『不問に付す』という作業が必要であろう」と述べています。
 さらに、「党派や政党、あるいは運動として『われわれ』が組織されることによって、政治は目に見える争いになる」として、「党派のアイデンティティ、あるいは党派意識が問われる」と述べています。
 著者は、「日本の政治は、もしかすると派閥以外には、日本的なものを表現する政治形式をいまだ持っていない、あるいは(もし、かつてはもっていたとするならば)失ってしまったように見える」として、その原因として、
(1)政治体制の構築が、借用や輸入や移植のような形になったこと。
(2)そうした体制の構築をふくむ「近代化」が政治の大目標となったこと。
(3)日本的なものを前面に押し出そうとした試みはあったが、敗戦という形で失敗に終わったこと。
の3点を挙げています。
 本書は、日本の政治の生態を描いた一冊です。


■ 個人的な視点から

 現在でこそ、自民党の派閥政治は末期症状を迎えているかのようですが、こんな激変期にこそ派閥政治の本質が露呈するのかも知れません。注視し続けたいです。


■ どんな人にオススメ?

・派閥は過去の遺物だと思っている人。

政治献金―実態と論理

■ 書籍情報

政治献金―実態と論理   【政治献金―実態と論理】(#1821)

  古賀 純一郎
  価格: ¥735 (税込)
  岩波書店(2004/05)

 本書は、「これまでほとんど知られることのなかった企業献金にスポットを当て、その現状、歴史、(出す側と受け取る側の)論理、変質、国際比較などの全体像を解明してみた、いわば政治献金の政治経済学的考察」です。
 第1章「いま、政治献金は」では、「5万円超が公開の対象となっている政党支部への企業・団体献金」が、「献金者名の非公表の枠が広いパーティー券のほうに自然とシフトしている」と述べ、企業名が公表されることを嫌がる理由として、
(1)特定の政治家と癒着していると誤解される。
(2)他の政治家から「自分とも是非」と付き合いを強要される。
の2点を挙げています。
 第2章「企業献金、半世紀の奇跡」では、戦後の企業献金の歴史を、
(1)経営者個人が政治家を選別、献金していた時代
(2)高度成長期から、非自民の細川政権誕生、自民党下野、旧経団連の斡旋廃止までの期間
(3)旧経団連斡旋廃止で企業が自主的な判断で献金し始めた1990年代初頭からの約10年間
(4)旧日経連、旧経団連の統合で日本経団連と衣替えしたのを機に、経団連が政策評価を軸に新型献金を再開する2004年以降
の4つの段階に分けています。
 そして、造船疑獄を受け、1955年1月に、新献金制度の受け皿となる「経済再建懇談会」が設立され、「主に合同前の日本民主党、自由党などに供与した」ことについて、「これが後の『経団連斡旋』の原型である」と述べています。
 また、ニクソンショック、石油ショック後に、経団連が、消費者団体などのデモ隊に取り囲まれたことを受け、「政治の金権化を憂いた時の財界総理、土光敏夫」が、「政治献金の集金の手伝いはやらない」という爆弾発言をしたことについて、「自民党を半ば恐慌状態に陥れた土光の決断は、世論をにらんだ絶妙なタイミングで行われた。土光は、経団連会長に就任する直前の記者会見でこの決意を表明、就任後、正式に機関決定足した。造船疑獄で拘置の憂き目に会った土光は、常々、『政治にはカネがかかるが、かけすぎると民主主義が滅びる』との持論を吐露していた」と述べています。
 さらに、政治資金規正法について、「疑獄との、いたちごっこの歴史だったと表現しても過言ではない」としながら、「どういうわけか、抜け道は、必ず残る。『政治家が自分の首を絞めるような規正法は作るはずがない』との陰口さえ聞かれる」と述べ、同法が、「規制」ではなく、「規正」となっているのは、「『規制』には、制限する意味合いがあるが、『規正』には、それがない。政治資金規正法が目指すのは、正すのが目的で、制限ではないのである」と述べ、総務省は、「それは表現の自由との関係」と説明しているとしています。
 第3章「企業献金の意味」では、族議員が改革に反対する理由について、「族議員になることが、いまや活動資金を捻出する政治家の"打ち出の小槌"化している」と述べています。
 第4章「献金の論理、拒否の論理」では、『企業献金の論理」について、かつて、「経済再建懇談会」を軸に、「旧経団連斡旋の原型作りに成功、政権党への政治献金を本格的に開始した財界」の大義名分は、ながら、「自由経済体制を守るための保険料」であったとした上で、「企業献金は、思いが実現すれば贈収賄、うまくいかなければ企業にとって背任行為」という「シニカルな見方」もあるとしています。
 また、1993年10月5日に明らかになった、業界団体である電気事業連合会が、「広告費の名目で自民党の機関紙『自由新報』(現『自由民主』)に年間10億円程度、供与していること」と、ガス業界では、「経団連の外郭団体の経済広報センターが、ガス業界の依頼でやはり自民党『自由新報』に広告費の形で年間2億円以上を提供していた」ことについて、「自民党のも害不出の最高機密は、元自民党の実力者、その重鎮でなければ決して持ち出せない」として、「辣腕、小沢一郎ならではの大胆な手法、そんな見方が大手町のビジネス街を駆け巡った」と述べています。
 第5章「受け取る側の論理」では、「カネのかかる現況が人件費」だとして、選挙で勝利するのに必要とされる「地盤(票田)、カバン(カネ)、看板(知名度)」が、「人件費と密接に関係している」と述べています。
 そして、後援会は、「解散にもそれなりのコストがかかる」として、「二世議員が減らないのは、後援会を解散するにも秘書の退職金などで相当のコストが要ることが背景にはあるようだ。後継を出さないのが地獄であれば、結局、二世は減らないのである」と述べています。
 第6章「姿を変えた献金」では、「企業側が購入に渋いため、政治家側でも企業側との出会いの機会の開拓に努力、名刺交換後に翌日に挨拶に出向くということも多くなった」ことから、「企業側は、最近は、会合で政治家に会っても簡単には名刺を渡さないとの涙ぐましい防衛努力をしている」と述べています。
 第7章「海外に見る政治献金」では、「政治献金関連の規制は、日本も抜け道が多くザル法と言われるが、米国でも同様に抜け道との批判が多い」として、その筆頭に、「企業・労組献金禁止の網をかいくぐって誕生した、言わば、間接の企業献金とも言える政治活動委員会(PAC)」の例を挙げています。
 また、「自由・博愛・平等」の国であるフランスで「企業献金が全面禁止されている」理由として、ミッテラン政権時のスキャンダル噴出がきっかけになったと述べています。
 さらにイギリスに着いて、「20世紀初頭に蔓延していた金権腐敗選挙への反省から、選挙費用に厳格な支出制限を設け、政党が全面に出て選挙を仕切る方式に転換した」としながらも、「それ以外の政治活動に支出される費用はもちろん、個人・企業献金の双方についても戦後長い間ほとんど規制が無く、驚くほど寛容だった」が、政治スキャンダルの噴出で、「20世紀が終了する直前、規制強化を余儀なくされた」と述べています。
 第8章「改革への道」では、「中選挙区時代に比べカネは要らなくなったという声は、政界・経済界・企業関係者に対する取材の中で、頻繁に耳にした」と述べています。
 また、政治資金規正法に関する収支報告書について、「IT(情報技術)時代だというのに、どういう訳か、この報告書はコピーが許されていない」としたうえで、2004年3月末からネット上で閲覧できるようにしたが、「プリントアウトを防ぐ特殊な技術が施されている」ことを指摘し、「やや時代錯誤的な印象は否めない。政治資金規正法の第1条が掲げる『国民の不断の監視と批判の下に』おくための最善策という視点はどこに行ったのだろう。これとは無縁の世界であるといわざるをえない」と述べています。
 そして、政治資金制度改革での今後のポイントとして、
(1)後援会組織への何らかの歯止め
(2)個人献金・党費拡大への政策誘導
(3)欧米を範とした独立機関の設立
の3点を挙げています。
 本書は、企業献金の歴史と現状を教えてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 本書が出版された2004年時点では収支報告書の印刷はできなかったようですが、総務省のサイトの「なるほど!政治資金 改正政治資金規正法のポイント」によれば、2009年4月から印刷が可能になったようです。そりゃそうだとも思いますが。


■ どんな人にオススメ?

・企業献金がどのように行われているかを知りたい人。

2010年1月14日 (木)

ゲリラの戦争学

■ 書籍情報

ゲリラの戦争学   【ゲリラの戦争学】(#1820)

  松村 劭
  価格: ¥735 (税込)
  文藝春秋(2002/06)

 本書は、9.11同時多発テロ事件から、「組織的テロが新しい戦争の形態といわれるゆえんについて改めて考察し、戦略的論理を明らかにしてみること」を狙いとしたものです。
 第1章「持久戦の戦略的背景」では、「戦争に強いのは、剣(攻撃)と盾(防御)の使い方が優れている点にあるのであって、戦力格差にあるのではない」として、「戦力格差と勝敗の間には、ほとんど相関関係がない」として、「『いかに容易に勝つか(決戦)』を知ろうと思うなら『いかにしぶとく負けないか(持久戦)』を学ばなければならない」と述べています。
 そして、「持久戦(protracted warfare)」の特色として、
(1)不敗が戦闘の目的である。
(2)戦力の温存を図る。
(3)できるだけ戦争を長引かせる。
の3点を挙げています。
 また、軍事史を、「決戦対決戦」「決戦対持久戦」「持久戦対持久戦」の3つに分類し、「戦史としての記録は、ほとんどが決戦対決戦の記録であって、その他の記録が定かでない」ことを指摘しています。
 第2章「ゲリラ戦の原型」では、「ゲリラ」とはスペイン語の「小さな戦争をするグループ」という意味で、それに「不正規に編成されたグループ」という意味が加えられているとした上で、ゲリラ戦の戦闘行動の要領として、
(1)襲撃:その目標は軍事物資か敵軍のVIP
(2)伏撃(待ち伏せ):敵の前衛部隊や後方支援の兵站部隊
(3)破壊工作:軍事施設、軍需物資、道路・橋梁など
(4)テロリズム:要人の拉致・殺害
(5)退却
(6)潜伏
の6点を挙げ、「一つのゲリラ戦闘は、『ヒット・エンド・ラン』で完成する」と述べています。
 っそして、BC166年のユダヤのゲリラ戦を紹介した上で、「その戦法は、のちのゲリラ戦法の原則の一つになっている」として、その特色を、「群雀、鷹をも殺す」の諺どおりだとしています。
 第3章「初期のアメリカ独立戦争」では、『近代戦は17世紀から始まったとされているが、民兵が正規軍に刃向かって戦った革命的な独立戦争の好例は、18世紀末のアメリカ独立戦争である」とした上で、「独立宣言までの初期段階は、民兵のゲリラ戦が主体であったが、そのゲリラ戦側の記録がこのように残っているのは珍しい」と述べています。
 第4章「ナポレオンのスペイン戦役」では、正規軍による持久戦を、「フェビアン戦略」と呼ぶ由来として、カルタゴのハンニバルと戦ったローマのクインタス・ファビウスの戦略を挙げた上で、「ゲリラ戦でフランスに抵抗したスペインは、英軍のフェビアン戦略と決戦によって救われた」と述べています。
 第5章「軍靴の通り道=アフガニスタン」では、19世紀に東インド会社が、アフガニスタンの礼拝堂とバザールを完全に破壊した上で、「ようやくアフガニスタンを理解することになった」として、「アフガニスタンは軍靴で踏みにじって通過する国ではあるが、占領する国ではない」として撤退したと述べています。
 第6章「両大戦の谷間=スペイン内戦」では、「スペイン内戦は、今日のゲリラ戦、対ゲリラ戦の基本的な特色を提供している」と述べた上で、
(1)右派反乱軍という正規軍への左派人民軍というゲリラの戦争である。
(2)内戦を傍観する外国はありえない
(3)介入した外国軍にとって、内戦は新兵器の実験場となるだけではなく、新しい戦闘ドクトリン開発の鉱山となる。
(4)内戦ほど憎悪に満ちた、凄惨な戦闘はない。
(5)三方が海に囲まれ、支援国との境界にピレネー山脈のあるイベリア半島では、左派政権のゲリラ軍に「聖域(harbor)」はなかった。
の5点を挙げています。
 第9章「冷戦時代の覇権地図」では、「軍事力は、『変化するもの』と『変化しないもの』が有機的に結合して造られている」として、
・変化しないもの=戦いの原則であり、戦いの機能であり、戦闘力の要素の役割
・変化するもの=軍事科学技術であり、新しい兵器の出現によって戦術ドクトリンが変化する
の2点を挙げています。
 第10章「インドシナ三十年戦争」では、第二次世界大戦後に、米空軍が、「戦略爆撃調査団を日本とドイツに派遣し、米空軍が行った爆撃の戦略的効果を調べていた」が、「その結果、第二次世界大戦における米軍の戦略爆撃は相手国の産業と国民生活のインフラストラクチャーの破壊に絶大な威力を発揮したが、相手国民の士気を打撃してはいなかった」ことがわかったとした上で、「この調査結果は日の目を見ることはなかった」理由として、
(1)ソ連のベルリン封鎖に対抗するため、米空軍力は世界最強であるとのイメージをソ連軍に示す必要があった。
(2)せっかく独立した米空軍の存在意義を保障する必要があった。
(3)人権を尊ぶ米国軍が戦略爆撃によって多くの非戦闘員を殺傷した事実を公表したくない。
の3点を挙げています。
 また、「戦争の目的が制限され、戦闘に敗北しても国家が生き残ることが可能であり、そのうえ核戦争が抑止されるとなると、逆に戦争の方法は全く無制限に拡大してしまった」として、「大規模な通常兵器による戦争、ゲリラ戦争、テロ・破壊活動など」、戦争の方法はまさに「やりたい放題」になったと述べています。
 第13章「アメリカ同時多発テロ事件」では、ゲリラとテロの基本的な違いとして、
(1)戦場が違う。
(2)原則として国際関係や対抗する勢力との関係が違う。
(3)主たる襲撃目標が違う。
の3点を挙げています。
 その上で、対ゲリラ戦成功の要件として、
(1)まず、何を差し置いても、ゲリラの機動力を奪うこと。
(2)敵のゲリラ実行単位部隊と同じ程度の大きさの独立戦闘能力を持つ部隊をもって戦う。
(3)ゲリラの潜伏地域を遠巻きにして方位陣地を構築し、外部からの武器・弾薬の補給を経つ。
(4)ゲリラが潜伏している可能性が高い地域の一般住民に対しては、「洗脳」を解くために、特定の信条を押し付けることなく、ゲリラが主張する信条と現実政治との乖離を悟らせるような知識を広める。
(5)徹底的にゲリラの武装を解除し、武器・弾薬庫を捜索する。
の5点を挙げています。
 第14章「教訓と展望」では、「国家の戦争戦略は『決戦と持久戦』の組み合わせの芸術である、といっても過言ではない」とした上で、「国家戦略立案の基礎は、外交と軍事が残した歴史の教訓である。そして、軍事においては、決戦と同じように持久戦を研究しなければならない」と述べています。
 本書は、映画などでしか知っている人が少ないゲリラ戦について戦争論として語った一冊です。


■ 個人的な視点から

 個人的な「ゲリラ」の印象は、何だか良く分からないけどとにかく面倒なもの、という印象がありましたが、だいたい多くの人に共通するものではないかと思います。
 太平洋戦争時も、米軍は日本本土での泥沼のゲリラ戦を覚悟していたという話も聴いたことがありますが、確かに戦時中の日本でゲリラ戦の勅命が出たら大変そうな気がします。


■ どんな人にオススメ?

・ゲリラとはよくわからないものだと思っている人。

2010年1月13日 (水)

不思議なダンス―性行動の生物学

■ 書籍情報

不思議なダンス―性行動の生物学   【不思議なダンス―性行動の生物学】(#1819)

  リン マーグリス, ドリオン セーガン (著), 松浦 俊輔 (翻訳)
  価格: ¥2,243 (税込)
  青土社(1993/06)

 本書は、「心理学と霊長類の進化論を結び合わせてもっともらしい話にする」ことを目標に、「現在という時代が巻き戻され、我々の体がホログラフィで解かれて、性の起源というあられもない物語を明らかにするという趣向」の「ストリップショーのファンタジー」です。
 著者は、「我々はまだ、性の暗黒時代にいる」として、その理由の一つに、「その生物学的な『深さ』」を挙げ、「我々自身の性的な部分はとても古く、生殖する動物の体として深く我々の存在に染み付いているため、我々の性行動の多くが自動的で生理学的なものであり、規則正しく自然に鼓動する人間の心臓のように意識に上らないし、我々が生きていくとすれば実際そうでなければならないということ」だと述べています。
 そして、「暖かな哺乳類の毛皮とよく知っていて安心できる哺乳類の魂の下から、『爬虫類の』脳――解剖学的に見たヒトが類人猿だけでなく哺乳類全般や爬虫類と共有している古い部分をはじめとする『爬虫類性』という冷たい層が現れる」として、人間の脳にある爬虫類の名残である「R-複合体」に言及し、「理性的な意識を無視して、この性に特化した管制センターは、嫉妬による怒りから、衝動的な自暴自棄や突然の激情に至る反応を引き起こし、善良な人間を明らかに危うくしている」と述べています。
 第1章「精子コンテスト」では、「ヒトのオスがもつ比較的大きな生殖器」という「比較解剖学上のスキャンダル」が、「ある早い段階でのヒトの祖先の性生活を巡る状況証拠となっている」と述べた上で、「雑婚が広くいきわたっているという条件」を挙げています。
 そして、「ある一匹のオスの精子が競争相手のオスよりも有利になる因子」として、「大量の精子生産(睾丸の重さから見積もられる)、深い挿入、長く伸びたペニスを持つオスが精子競争に参加する上で有利になると考えられる」としたうえで、「子供の数はダーウィンの言う成功の一つの最重要の構成要素である。子供の健康がもう一つの要素である。雌のつつしみとライバルの雄にうちかった雄が最大数の子供を残す。我々のみだらな祖先にあってはそういう雄がスターだったのである」と述べています。
 また、「嫉妬による怒りという一見してこれほど消耗し、破壊的な情緒がどうして進化することになったりした」のかについて、「嫉妬心を持つ恋人は自分の投資先を守り、自分の遺伝子を守っているのである」からだと述べています。
 第2章「オーガズムの平等」では、「生理学的には男女のオーガズムは基本的に平等なのに、文化が異なれば、女性のオーガズムについても異なる価値が与えられる」とした上で、「この文化的な相違と生物としての類似を見てゆき、女性のオーガズムが人間の進化において演じているかもしれない重要な役割についてさぐってゆく」としています。
 そして、「女性の快感は、男性の快感よりも、エロチックな学習と文化的な期待の働きである面がずっと強い」として、ポリネシア中央部のクック諸島南部のマンガイアの女性たちの例を紹介しています。
 著者は、「女性の体の無意識の知恵の一部として、女性のクライマックスは妊娠能力を高める。確かなことだとすれば、この『装置』は女性の生殖の選択肢を広げることになろう」と述べ、「男の乱暴さという土壌においては、女はオーガズムによって、意識してかどうかは別にしても、自分で自分の生殖に対してより大きな支配力を求めるいっぽうで男の野蛮なルールを和らげ、自分の生物学的な運命に対する支配力の一端をもつことができたのだろう」と述べています。
 第3章「ボディ・エレクトリック」では、「ネオテニーは発達を延期し、長引かせ、遅らせる。しかしその遅れが心理学的な早熟をもたらす」とした上で、「感受性のあるネオテニーの赤ん坊が大人になって一人前の男になる。自分に乳を与えてくれた母親の姿を刷り込まれ、この男たちは乳房の膨らんだ相手を探したということなのかもしれない」と述べています。
 第4章「トカゲのツイスト」では、「古生代の頃の祖先が取っていた爬虫類的な性生活は、人間の心の中に意識化のものとして残っているかもしれない」とした上で、「我々の脳の中の爬虫類的な部分に関係する特徴の一つには、間違いなく虚勢を張ったり、威嚇したりというのがある」として、我々が、「前脳の爬虫類的な(レプティリアン)部分、略してR-複合体と呼ばれるところを、爬虫類や哺乳類と共通に持っている」と述べています。
 そして、「嫉妬による荒々しい悪行、強制された交接、幼児殺し、軍隊やギャングの殺人行為といったことは、爬虫類の時代の我々の先祖が生きのびる機会を増大させることがあったとすれば、そうした行動が、一種の遺伝の勢いのおかげで強力に残っているということもありうる」と述べた上で、「我々の脳の内側にたたみこまれたこのR-複合体は、亀やトカゲ、ワニの一般的な前脳によく似ていて、人間の行動の性に関する核は今なお爬虫類的であることを示唆している」と述べています。
 第5章「男根的魂」では、「比較的しっかりした科学という基盤からおそるおそる足を踏み出して、精神分析という思弁の色合いが濃い領域へと入っていく」とした上で、「精神分析にとって、男根つまりシンボルとしてのペニスは、『欠落したもの』――決して本当には手に入れられないというまさにそのことのために、永久に欲望が続く、永遠に満たされない望みである」と述べています。
 第6章「小さな生存者」では、「人間の求愛や情事は、基本的には無目的ではあるが発達上は欠かせない、20億年前からの生き残り『ダンス』を念入りにしたものである」と述べた上で、「原生生物の共食い」は、「生きた、現実の、アリストファネスの言う両性具有、つまり二重の状態の原始の球である」と述べています。
 そして、「進化のダンサーは我々に、我々のシンボルや言語や知識の隠喩の偶然性を警告する」として、「ダンサーはインクのしみであり、印字された記号であり、文字による装置であって、暑い日の海岸で眼を欺く空中の幕のように実体のないものである」として、本書が、「神秘の踊りを生み出し、そのステップをたどり、人間の性の歴史の細部に分け入った」と述べています。
 本書は、性とは何かを考える一冊です。


■ 個人的な視点から

 個人的には本書のポイントは、
・ヒトは雑婚だった。
・衝動は爬虫類由来。
という点でしょうか。
 こういう観点で現実の文化や事件を見ると面白いかも知れません。


■ どんな人にオススメ?

・性とは何かを考える人。

2010年1月12日 (火)

「できない」を「できる!」に変える

■ 書籍情報

「できない」を「できる!」に変える   【「できない」を「できる!」に変える】(#1818)

  木村俊昭
  価格: ¥1470 (税込)
  実務教育出版(2010/1/13)

 本書は、小樽市役所勤務から内閣官房・内閣府、そして農林水産省に出向し、地域活性化の仕事に取り組む著者が、「これまで実践してきた"楽しさを作り出す仕掛け"について解説」したものです。
 著者は、「人のモチベーションが高まる瞬間を見るのが大好き」で、「楽しい」を作り出すには、「満たされなかった思いが成就すること」が必要であり、そのアプローチとして、
(1)"経済的に安定したい"を実現する
(2)"仲間と共感したい"を実現する
(3)"正しく評価されたい"を実現する
(4)"理想に近付きたい"を実現する
の4点を挙げています。
 第1章「"楽しい"はつくり出せる」では、小樽市役所に入庁した著者が、「もう一度、小樽を活力ある職人のまちに」という思いを抱き続けていたとして、第1回『おたる職人展』の開催に向けた挑戦を語っています。
 また、著者が、「一生の仕事に行政職員を選んだ」理由として、「やっていて心の底から"楽しい"と思えること」、すなわち「地域活性化」を「人生の本業」として職業にしたいと思ったからだと語っています。
 そして、「どうせダメだろうな」と思っているうちは、「何をやっても成功しない」、特に、「他の人を巻き込んで何かをしようとするとき、『ムリだろ』は絶対に禁句。なぜなら、こうした負の感情は周囲に伝染していくから」だと述べています。
 第2章「"経済的に安定したい"を実現する」では、ある果樹農家に、「私は今までほとんど失敗したことがないんですよ。というか、成功するまでやり続けるから、失敗にならないんですよ」と語ったことを紹介した上で、「人に働きかけて行動を促すときは"メリット"を提示すること。それによって、満たされなかった思いに火がつき、希望があふれ、生き生きとしてくれます」と語っています。
 そして、「ボランティアだけでは、継続的に物事はつくれません」として、「善意に頼りすぎる仕組みをつくると、協力してくれる人が集まらなく」なると語っています。
 また、小樽市役所入庁当初から経済部を希望していた著者が、12年後にようやく配属されてから「9年間、みっちりと金融政策や産業振興に携わった」ことを語り、「小樽の経済部時代、私がある程度の成果を挙げられたのは、金融機関をはじめとして、農業や商業、工業に携わる多くの皆さんに、熱心に対応いただいたから」だと述べています。
 第3章「"仲間と共感したい"を実現する」では、「人と知り合いになったり、どこかの組織に所属したり、ただそれだけでは人と濃密な関係は結べません。一緒にいることで、具体的な共感や一体感、新たな賑わいへの予感が生まれたとき、そのワクワクする"楽しさ"を通して、人と人は仲間になる」と語っています。
 そして、小樽市役所入庁時に一番驚いたこととして、「職員の付き合いの範囲がとても狭い」ことを挙げ、「公務員だからこそ、いろいろな人に会って人脈を広げておく必要があります。また常に地域のために『誰と誰をつなげばいいか』を考え、仲立ちをできるネットワークを持っていなければならない」として、「実は公務員の名刺は、意外に威力を秘めており、多くの方が会ってくれます。それを活用しない手はありません」と述べています。
 また、これまで仕事をする上で重視してきたこととして、「ディスカッション・パートナーをつくる」ことを挙げ、そのメリットとして、
(1)言語化による気付きを得られる
(2)企画やアイデアに多様性が生まれる
(3)さらに人脈が拡がる
の3点を挙げています。
 第4章「"正しく評価されたい"を実現する」では、「失われたプライド」を癒してくれるのは、「あなたの仕事はすごい!」「こんなに大切なことをやってきたんですね」という"再評価"に他ならないと述べています。
 そして、「子どもたちが故郷に帰ってこない」理由として、「お父さん・お母さんが自分たちのまちを褒めないことも影響している」と述べ、「子どもたちの多くは、小さい頃から、『このまちはダメだ』と聞かされながら育っていることも考え」られるとしています。
 第5章「"理想に近付きたい"を実現する」では、著者が小樽市で、星座夜景やおたる職人展などの地域活性化に取り組んできたた、「私が各種の企画に関わっていることを知っている人は、ごく少数」だったと述べた上で、「『楽しいこと』を広げるなら、まず相手の"理想の実現"を手助けすること」だと述べています。
 第6章「全体の最適化を図る」では、「日本の多くの自治体や行政で地域を盛り上げようという取り組みがあるにもかかわらず、厳しい状況を改善できていない理由」として、「プロジェクトのデザインが極めて刹那的で中長期的に何のインパクトも残せていない」ことを挙げ、「観光振興も、いったい何人の人が関わっているのかが重要」だとして、「漠然と『観光客を増やそう。そうすればまちが活性化する』と考えることは危うい」ことであり、具体的に「試算しなければ、説得力に欠ける」と述べています。
 そして、「他の地域と、どう高めあえるかを考えたとき、自分たちが『持っているもの』と『足りないもの』が明確になり、連携することができる」と述べています。
 第7章「木村流『できるに変えていく』シゴト術」では、企画書を出し続けるメリットとして、
・上司にやる気を伝えられる
・提案の仕方を身につけられる
・自分の所属している組織への理解が深まる
の3点を挙げています。
 そして、「人脈を維持するために一番重要なのは、スピード感」だとして、「電話やメールで連絡をくれるとき、それは、まさに相手のモチベーションが高まっている瞬間です。絶対に、このタイミングを逃してはいけません」と述べ、「だから携帯メールなのです」としています。
 おわりに「成長しないと人は会ってくれない」では、「一期一会」という言葉について、著者の父親が、「一家しか会えないと思って接しないと、次はないぞ。『また今度会えるから、今日はいいや』と思うな。常に、相手に対して全力で接するんだ」と教えられたと述べています。
 そして、「どんなときでも、どんな相手にも全力をつくす。そして、次に会う機会ができたときにもっと実のある話ができるように、自分を成長させておく」ことが、「"楽しい"を広げていく中で、最も大切なこと」だと述べ、「常に成長していないと、人は会ってくれないよ」として、「次も会ってもらえるか。私と話をしていて、毎回"楽しい"と感じてもらえるか。モチベーションを高めてもらえるか」という「常に真剣勝負の中に身を置いているようなもの」だと述べています。
 本書は、どんな逆境も逆境と思わない人になるための一冊です。


■ 個人的な視点から

 著者の木村さんには4年くらい前にお会いして以来、ずっとお世話になっていて、一昨年くらいには多い時で週に3回くらいご一緒していましたが、NHKの出演でさらに忙しさに磨きがかかってしまっています。
 最近は近況は木村さんのブログでチェックしています。http://kimutoshi.jugem.jp/


■ どんな人にオススメ?

・諦めるのはまだ早い人。

2010年1月11日 (月)

生き物をめぐる4つの「なぜ」

■ 書籍情報

生き物をめぐる4つの「なぜ」   【生き物をめぐる4つの「なぜ」】(#1817)

  長谷川 真理子
  価格: ¥777 (税込)
  集英社(2002/11)

 本書は、「雄と雌の存在、鳥のさえずり、雄の動物の持つ角」など、の題材について、動物の行動を理解するために必要な、
(1)その行動が引き起こされている直接の要因は何だろうか。(至近要因)
(2)その行動は、どんな機能があるから進化したのだろうか。(究極要因)
(3)その行動は、動物の個体の一生の間に、どのような発達をたどって完成されるのだろうか。(発達要因)
(4)その行動は、その動物の進化の過程で、その祖先型からどのような道筋をたどって出現してきたのだろうか。(系統進化要因)
の4つの「なぜ?」から解説したものです。
 第1章「雄と雌」では、「そもそも性はなぜあるのか」について、「2つの違うレベルの問題がある」として、
(1)性ホルモンなどによってもたらされる雄と雌の違い、性差がそもそもなぜあるのかという疑問
(2)性そのものがなぜ存在するのか、という究極要因の疑問
の2点を挙げています。
 第2章「鳥のさえずり」では、「なぜ、雌は、より複雑なさえずりをする雄を配偶者として選ぶの」かについて、
(1)ハンディキャップの原理
(2)ランナウェイ淘汰
のシナリオを挙げています。
 第3章「鳥の渡り」では、鳥の渡りは、「繁殖のスケジュールと密接に関係して」いるとして、「渡りの衝動も、直接には性ホルモンの働きによって制御されて」いると述べています。
 また、「多くの鳥たちは、夜空の星座を目印に方角を決めて」いると述べています。
 第4章「光る動物」では、ホタルイカが光る理由として、
(1)暗い海の中を浮遊している時に、下からやってくる捕食者(おもに魚)に見つからないようにするため
(2)敵がすぐ近くまで来た時の目くらまし
(3)不明
の3点を挙げています。
 第5章「親による子の世話」では、「ヒトでも、妊娠や出産、授乳を司っている」のは、「エストロゲン、プロゲステロン、プロラクチン、オキシトン等のホルモン」だが、「赤ん坊の世話をする行動とこれらのホルモンとの関係は、よくわかって」いないと述べています。
 また、「子育ては最初からうまくできなければ困るはず」だが、「複数回の繁殖をする動物では、経験とともに子育て行動がうまくなっていく余地」があり、「それはとくに、私たち人間を含む霊長類で顕著」だと述べています。
 第6章「角と牙」では、「多くの種類の雌には角がない」理由として、「メス同士が繁殖期に雄の獲得をめぐって闘争することがないから」だと述べています。
 第7章「人間の道徳性」では、他者の心の理解には、「人間が誰でも持っている、他人の心の状態を類推する脳の機能のことを『心の理論』と呼ぶ」と述べています。
 また、「人間の社会的な感情は、互恵的利他行動で双方が協力を選択するように仕向ける原動力となっている」と述べています。
 本書は、病院がどのように支えられているかを教えてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 生物の本、特に進化論の本はもともとゲーム理論とかを勉強している人にとってはアイデアの宝庫なのかも知れません。


■ どんな人にオススメ?

・生き物係の人。

2010年1月10日 (日)

タリバン

■ 書籍情報

タリバン   【タリバン】(#1816)

  田中 宇
  価格: ¥714 (税込)
  光文社(2001/10)

 本書は、「アフガニスタンでの現地取材を元に、タリバン、オサマ・ビンラディン、アメリカの抜き差しならなくなった『三角関係』を描き出」したものです。
 第1章「タリバンとオサマ・ビンラディンとアメリカ」では、「タリバンがアフガニスタンを安定させ、中央アジアへの道が開けることは、まさにアメリカが求めていたことだった」ため、今であればタリバンを「人権侵害だ」と強く非難して当然のアメリカ政府は、「タリバンをほとんど何も批判しなかった」と述べています。
 また、タリバンがビンラディンを受け入れたのは「反米」目的ではなく、「かつてビンラディンがソ連軍と戦うアフガンゲリラを支援してくれたという、国家レベルで受けた過去の恩義を無視するわけには行かなかったし、見方によっては、ビンラディンはイスラム教の歴史上、重要な人物になるかもしれないと考えられた」からだと述べています。
 第2章「イスラム原理主義とテロリズム」では、「日本人にとってイスラム世界の情勢を考える際に役に立つと思われる日本自身の歴史的な出来事」として「明治維新」を挙げ、「日本は中国文明の『縛り』を受けにくい自由な存在だった」ことが、「19世紀末に日本だけが明治維新という欧米化に成功した理由の一つだった」と述べています。
 また、「多くの日本人自身にとって、日本赤軍はもはや嫌悪すべき犯罪者でしかないかもしれないが、中東では日本赤軍が放った『世界革命』の神話は今も生きている」と述べています。
 第3章「サムライの国・アフガニスタン」では、「アフガニスタンは、日本陣にはなじみの薄い『イスラム教』の国で、しかも『テロリストをかくまう国』『狂信的なイスラム原理主義の国』というイメージを持たれているが、実際に行ってみると、彼らなりの価値観に基づいた正義感があり、黒沢明の映画『七人の侍』に出てくるような人々がいることがわかった」と述べた上で、アフガニスタンの男性が、「パキスタン人などよりも強い存在感を持っていた」理由として、
(1)男性が泣いたり叫んだりして喜怒哀楽の情を表すことが、恥ずかしいことと考えられている。
(2)「家系」「一族」へのこだわり
の2点を挙げています。
 第5章「パキスタンの事情」では、ソ連がアフガニスタンに侵攻したことで、「パキスタンは東西連戦の最前線に立たされることになった」として、「欧米諸国にとって、パキスタンを通じてアフガンゲリラを支援することが重要なこと」になったとした上で、「冷戦の終結とともに、ハクもムジャヘディンも『用済み』にされた」と述べています。
 第6章「仕事は難民と傭兵」では、「アフガン人にとっては、難民と出稼ぎは、今やあまり大きな違いがなくなっているように見える。特にイランへの出稼ぎはそうだ」と述べた上で、「アフガン人の出稼ぎで、もう一つ得意な分野は『兵士』である」として、ソマリアの内戦に米軍が介入したときには、参戦した元ムジャヘディンが、「86~87年にアメリカから供給されたスティンガーミサイルを、今度は米軍のヘリコプターめがけて発射した」と述べています。
 第7章「膨張する密輸マーケット」では、「ペシャワールの西からカイバル峠を超えてアフガン国境までの区間は『カイバル・エージェンシー』と呼ばれ、『部族地域』の7つの自治区の一つで、パキスタン政府の行政権や司法権が及ぶのは国道とその両側数メートルだけだ」と述べ、「部族地域の無法性は、パキスタンにとって国家の秩序を混乱させる要因となっている」と述べています。
 第8章「新しい戦争」では、同時多発テロ以降、「アメリカはイスラエルのような国になった」と感じていると述べています。
 本書は、多くの日本人に得体の知れない狂信的集団と思われているタリバンを理解するための一冊です。


■ 個人的な視点から

 日本では、イスラム教に限らず原理主義的に原理原則に拘る人を「タリバン」扱いすることがありましたが、よく理解せずにレッテルづけすることはかなり危険なのではないかと感じます。


■ どんな人にオススメ?

・アフガニスタンを知りたい人。

2010年1月 9日 (土)

「できない」を「できる!」に変える

■ 書籍情報

「できない」を「できる!」に変える   【「できない」を「できる!」に変える】(#1818)

  木村俊昭
  価格: ¥1470 (税込)
  実務教育出版(2010/1/13)

 本書は、小樽市役所勤務から内閣官房・内閣府、そして農林水産省に出向し、地域活性化の仕事に取り組む著者が、「これまで実践してきた"楽しさを作り出す仕掛け"について解説」したものです。
 著者は、「人のモチベーションが高まる瞬間を見るのが大好き」で、「楽しい」を作り出すには、「満たされなかった思いが成就すること」が必要であり、そのアプローチとして、
(1)"経済的に安定したい"を実現する
(2)"仲間と共感したい"を実現する
(3)"正しく評価されたい"を実現する
(4)"理想に近付きたい"を実現する
の4点を挙げています。
 第1章「"楽しい"はつくり出せる」では、小樽市役所に入庁した著者が、「もう一度、小樽を活力ある職人のまちに」という思いを抱き続けていたとして、第1回『おたる職人展』の開催に向けた挑戦を語っています。
 また、著者が、「一生の仕事に行政職員を選んだ」理由として、「やっていて心の底から"楽しい"と思えること」、すなわち「地域活性化」を「人生の本業」として職業にしたいと思ったからだと語っています。
 そして、「どうせダメだろうな」と思っているうちは、「何をやっても成功しない」、特に、「他の人を巻き込んで何かをしようとするとき、『ムリだろ』は絶対に禁句。なぜなら、こうした負の感情は周囲に伝染していくから」だと述べています。
 第2章「"経済的に安定したい"を実現する」では、ある果樹農家に、「私は今までほとんど失敗したことがないんですよ。というか、成功するまでやり続けるから、失敗にならないんですよ」と語ったことを紹介した上で、「人に働きかけて行動を促すときは"メリット"を提示すること。それによって、満たされなかった思いに火がつき、希望があふれ、生き生きとしてくれます」と語っています。
 そして、「ボランティアだけでは、継続的に物事はつくれません」として、「善意に頼りすぎる仕組みをつくると、協力してくれる人が集まらなく」なると語っています。
 また、小樽市役所入庁当初から経済部を希望していた著者が、12年後にようやく配属されてから「9年間、みっちりと金融政策や産業振興に携わった」ことを語り、「小樽の経済部時代、私がある程度の成果を挙げられたのは、金融機関をはじめとして、農業や商業、工業に携わる多くの皆さんに、熱心に対応いただいたから」だと述べています。
 第3章「"仲間と共感したい"を実現する」では、「人と知り合いになったり、どこかの組織に所属したり、ただそれだけでは人と濃密な関係は結べません。一緒にいることで、具体的な共感や一体感、新たな賑わいへの予感が生まれたとき、そのワクワクする"楽しさ"を通して、人と人は仲間になる」と語っています。
 そして、小樽市役所入庁時に一番驚いたこととして、「職員の付き合いの範囲がとても狭い」ことを挙げ、「公務員だからこそ、いろいろな人に会って人脈を広げておく必要があります。また常に地域のために『誰と誰をつなげばいいか』を考え、仲立ちをできるネットワークを持っていなければならない」として、「実は公務員の名刺は、意外に威力を秘めており、多くの方が会ってくれます。それを活用しない手はありません」と述べています。
 また、これまで仕事をする上で重視してきたこととして、「ディスカッション・パートナーをつくる」ことを挙げ、そのメリットとして、
(1)言語化による気付きを得られる
(2)企画やアイデアに多様性が生まれる
(3)さらに人脈が拡がる
の3点を挙げています。
 第4章「"正しく評価されたい"を実現する」では、「失われたプライド」を癒してくれるのは、「あなたの仕事はすごい!」「こんなに大切なことをやってきたんですね」という"再評価"に他ならないと述べています。
 そして、「子どもたちが故郷に帰ってこない」理由として、「お父さん・お母さんが自分たちのまちを褒めないことも影響している」と述べ、「子どもたちの多くは、小さい頃から、『このまちはダメだ』と聞かされながら育っていることも考え」られるとしています。
 第5章「"理想に近付きたい"を実現する」では、著者が小樽市で、星座夜景やおたる職人展などの地域活性化に取り組んできたた、「私が各種の企画に関わっていることを知っている人は、ごく少数」だったと述べた上で、「『楽しいこと』を広げるなら、まず相手の"理想の実現"を手助けすること」だと述べています。
 第6章「全体の最適化を図る」では、「日本の多くの自治体や行政で地域を盛り上げようという取り組みがあるにもかかわらず、厳しい状況を改善できていない理由」として、「プロジェクトのデザインが極めて刹那的で中長期的に何のインパクトも残せていない」ことを挙げ、「観光振興も、いったい何人の人が関わっているのかが重要」だとして、「漠然と『観光客を増やそう。そうすればまちが活性化する』と考えることは危うい」ことであり、具体的に「試算しなければ、説得力に欠ける」と述べています。
 そして、「他の地域と、どう高めあえるかを考えたとき、自分たちが『持っているもの』と『足りないもの』が明確になり、連携することができる」と述べています。
 第7章「木村流『できるに変えていく』シゴト術」では、企画書を出し続けるメリットとして、
・上司にやる気を伝えられる
・提案の仕方を身につけられる
・自分の所属している組織への理解が深まる
の3点を挙げています。
 そして、「人脈を維持するために一番重要なのは、スピード感」だとして、「電話やメールで連絡をくれるとき、それは、まさに相手のモチベーションが高まっている瞬間です。絶対に、このタイミングを逃してはいけません」と述べ、「だから携帯メールなのです」としています。
 おわりに「成長しないと人は会ってくれない」では、「一期一会」という言葉について、著者の父親が、「一家しか会えないと思って接しないと、次はないぞ。『また今度会えるから、今日はいいや』と思うな。常に、相手に対して全力で接するんだ」と教えられたと述べています。
 そして、「どんなときでも、どんな相手にも全力をつくす。そして、次に会う機会ができたときにもっと実のある話ができるように、自分を成長させておく」ことが、「"楽しい"を広げていく中で、最も大切なこと」だと述べ、「常に成長していないと、人は会ってくれないよ」として、「次も会ってもらえるか。私と話をしていて、毎回"楽しい"と感じてもらえるか。モチベーションを高めてもらえるか」という「常に真剣勝負の中に身を置いているようなもの」だと述べています。
 本書は、どんな逆境も逆境と思わない人になるための一冊です。


■ 個人的な視点から

 著者の木村さんには4年くらい前にお会いして以来、ずっとお世話になっていて、一昨年くらいには多い時で週に3回くらいご一緒していましたが、NHKの出演でさらに忙しさに磨きがかかってしまっています。
 最近は近況は木村さんのブログでチェックしています。http://kimutoshi.jugem.jp/


■ どんな人にオススメ?

・諦めるのはまだ早い人。

食い逃げされてもバイトは雇うな 禁じられた数字 〈上〉

■ 書籍情報

食い逃げされてもバイトは雇うな 禁じられた数字 〈上〉   【食い逃げされてもバイトは雇うな 禁じられた数字 〈上〉】(#1815)

  山田 真哉
  価格: ¥735 (税込)
  光文社(2007/4/17)

 本書は、「数字がうまく」なってもらうことを目的とした「「薄くて本当に役立つビジネス書」です。
 著者は、「ビジネスや会計の世界では、数字は突き詰めれば2種類しか」ないとして、
(1)使うべき数字
(2)禁じられた数字
の2つを挙げています。
 イントロダクション「『Web2.0』と『ゲド戦記』がすごい本当の理由」では、「数字は必ずルールに基づいて使われているので、いくつかの原則パターンを覚えて、数字をそのパターンに当てはめる」だけで数字を「読み解く」ことと「使いこなす」ことができるようになるとして、
(1)順序がある
(2)単位で意味を固定する
(3)価値を表現できる
(4)変化しない
の4点を挙げています。
 第1章「今日は渋谷で6時53分」では、わざと待ち合わせ時刻を半端な時刻を指定することで、「その時刻に何か意味があるのではないか?」「遅れたら、二度と合流できないのではないか?」と思わせる幹事のテクニックを紹介しています。
 また、ベストセラーの本のタイトルに数字が使われる理由として、「とにかく数字が入っていれば、後は読者が『その数字には何か特別な意味があるのでは?』と勝手に推測してくれる」ことが編集としてのねらいだとして、
・『若者はなぜ3年で辞めるのか?』→決めつけ
・『99.9%は仮説』→常識破り
・『江戸三〇〇藩 最後の藩主』→ざっくり
の三つの例を解説しています。
 そして、「数字がうまい人とは、数字を記号としてみるのではなく、言葉の一つとして、表現の一つとして、積極的に使っている人」だと述べています。
 第2章「タウリン1000ミリグラムは1グラム」では、数字は「言い換える」ことが可能だとして、「言い換えがうまくいくかどうかは、数字の取捨選択にかかって」いると述べています。
 また、「会計分析(経営分析、財務分析)においては、わり算は『キング・オブ・分析』」だと述べています。
 第3章「食い逃げされてもバイトは雇うな」では、「節約はパーセンテージではなく金額で考える」という金額重視の市政が「会社や家庭を問わず、節約の鉄則」だと述べています。
 第4章「決算書の見方はトランプと同じ」では、「われわれ会計士にとって、決算書はけっして読むものではありません」として、「数字は『読む』のではなく『探す』のです」と述べています。
 本書は、数字の扱いを上達するきっかけを与えてくれる手引き書です。


■ 個人的な視点から

 本のベストセラーのタイトルに数字が入ってるってのは面白かったです。曲名で数字が入っているのは、「君は1000%」とか「1/2の神話」でしょうか。バンド名で「はっかにぶんのいち」とかもありましたが。


■ どんな人にオススメ?

・数字がうまくなりたい人。

2010年1月 8日 (金)

神社の系譜 なぜそこにあるのか

■ 書籍情報

神社の系譜 なぜそこにあるのか   【神社の系譜 なぜそこにあるのか】(#1814)

  宮元 健次
  価格: ¥735 (税込)
  光文社(2006/4/14)

 本書は、「太陽の動きを、神の宿る『神社』の配置に応用」した「自然暦」を用い、「新たな切り口から神々の系譜について考えることを目的」としたものです。
 第1章「怨霊の神々」では、大手町の将門の首塚について、「江戸時代の初め、幕府の宗教担当ブレーン・南光坊天海によって、都市計画的にこの場所へ残されたもの」だと述べたうえで、神田神社はもとは「かだ」と読み、「将門公の『からだ』を語源とする」など、「将門公の身体や着用物が切り刻まれて祀られた」理由について、「五街道それぞれの出入口に、江戸の地霊である将門公の身体を切り刻み、神社としてねんごろに祀ることによって、街道を通じて江戸に侵入する悪鬼を封じる。同時に知霊そのものを鎮魂するという意図があったと思われる」と述べています。
 また、「天神」と名の着く神社について、「道真は、今でこそ学問の神として崇拝されているが、実は激しく荒ぶる怨霊神であった」として、「とうりゃんせ」という童謡が「それを如実に物語っている」と述べています。
 第3章「大和朝廷と東西線」では、日本最古の神社の一つである鹿島神宮を、「朝廷が自然暦を設けた最初の事例の一つであり、大和朝廷成立の謎に深く関係している」とした上で、「鹿島神宮――諏訪神社――造山古墳――出雲国府跡――神魂神社――八重垣神社――岡田山古墳――日御碕神社」と、「東西戦場の本州の東から西まで古代の以降が配されて」おり、さらに、「東の鹿島神宮は常陸(日立ち)であり、西の日御碕神社は『日沈宮』なのである」と述べるとともに、「この東西線をさらに西へ延長すると、韓国の慶州の都城へ正確に達する」ことを指摘しています。
 そして、「出雲国造であった出雲臣の祖・意宇氏と朝鮮は深いつながりをもち、意宇氏のルーツは朝鮮からの帰化人である可能性が高いといってよいだろう」と述べています。
 第4章「氏族の守護神」では、鎌倉幕府の守護神・鶴岡八幡宮について、「自然暦による巨大な正三角形が二重に張り巡らされていた」と述べています。
 第5章「人を神として祭った社」では、家康の遺言が、「壮大な東西線配置による神への再生を意図していたことが明らかになる」とした上で、豊臣家が滅びた後、家康が、豊国廟一円の破壊を命じ、「天海と崇伝が秀吉の棺を掘り起こし」、「参道をつたって棺を阿弥陀ケ峰から大仏殿の裏手に移し、神号も廃して、神の座から引き摺り下ろした」ことについて、「家康は秀吉の神格化の秘儀である東西線を分断して神の座から引き摺り下ろした。そして豊国廟や豊国神社を破壊して豊国信仰そのものを根絶やしにする。そして反対に秀吉の秘儀を自らの神格化に利用した」と述べています。
 本書は、日本中に存在する神社がどのような意味を持っているかを考えさせてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 神社って適当に見晴らしのいいところに出来ているのかと思ってましたが、「自然歴」って驚きでした。


■ どんな人にオススメ?

・近所の神社に久しく行ってない人。

2010年1月 7日 (木)

都市の魅力学

■ 書籍情報

都市の魅力学   【都市の魅力学】(#1813)

  原田 泰
  価格: ¥693 (税込)
  文藝春秋(2001/03)

 本書は、「大部分の都市は、富を創造することによって都市になった」として、「都市の力はどこにあるのかという問いから出発し、様々な都市の生成と発展の歴史をたどり、そのメカニズムを明らかにする」ことを目的としたものです。
 第1章「対抗する力による地方分散」では、「東京の持っているものを少しずつ地方に持たせ、地方を公平に繁栄させたのでは、東京に対抗する都市の魅力は生まれない」として、「都市を活き活きとさせるのは、中央からの富を移転させることによるのではなく、それぞれの都市が独自の対抗する力を持つことによってではないだろうか」と述べています。
 第2章「創造し模倣される大阪」では、「意外なことだが、大阪は権力に拠らない町人の町と言いながら、その繁栄自体、徳川幕府の権力に基づいた参勤交代の制度に依存していた」として、「明治初期の大阪の衰退は、大阪が江戸幕府の権力に依存していたことの当然の結果でもあった」と述べています。
 第3章「伝統を生かしきれない京都」では、「古都の景観論争には私にはわかりにくいところがある」として、「京都の景観というが、本当に美しい景観は町のごくわずかの地域に過ぎず、大部分のところはただ古いだけで美的価値などないのではないか」と述べています。
 第5章「海に栄えた神戸と横浜」では、「江戸末期の開国以来、最も発展した都市といえば横浜と神戸だろう」とした上で、「すべては新しいことをしようという試みが繁栄の元であり、そのような試みをなそうという勇気を与えたのは海なのだ。にもかかわらず、神戸は海を埋め立てそれを陸にしようとしてきた。陸地は確かな富を与えてくれるもののように見えたのだが、陸は人々を固定し、余所者を排除し、自由な気風を排斥するものになっていったのではないだろうか」と述べ、ベネチアの例を挙げ、「海の富を陸の富に引き換えたときから、ベネチアと神戸の衰退は必然だった」としています。
 第7章「富を創り富に逃避される工業都市」では、工業都市の発展について、「すでにあるものと新しいものを組み合わせて都市は発展するが、そのことをもっとも典型的に示すのは工業都市である。しかし、工業都市は、富を生み出しながらも、その富に逃げられるという不幸を負っている」と述べています。
 第9章「なぜ『都市の物語』を失ったのか」では、「税の中央集権が地方の独自性を破壊してしまった。その結果、日本の財政支出の国と地方の配分においては世界的にも奇妙なことが生じている」として、「日本の中央政府は、税収においては大きいが、支出においては小さい」ことを指摘しています。
 そして、「皮肉なことに、各自治体の、社会インフラを、住民のニーズに敏感に反応して供給する能力を破壊したのも、もとはと言えばシャウプ博士の作ったシステムなのである」と述べています。
 第10章「シャウプ財政の克服」では、「多くの地方が、発展のために自ら工夫しようという気概を失っている。発展は、人、技術、資本を集める自立的な循環をつくり出すことなのだが、地方はその気概を失っている」とした上で、「中央が税を集め、それを地方に配分するというシステムが、ゲームが終わった気分を蔓延させているのではないだろうか。課税自主権の復活が、地方の復活になるはずである」と述べています。
 そして、「現在の日本の地方財政・税制度は、基本的にはアメリカの財政学者シャウプ博士によって作られたものである。都道府県ごとの財政格差を埋めることを目標にした地方交付税制度は、日本で熱狂的に歓迎されたが、この制度こそが、地方の自立を妨げ、政府支出の効率性を低下させた現況だった。地方分権は、税の地方分権でなければならない」と述べています。
 第12章「日本の都市は美しくできる」では、美しい都市を作るためには、「未来を変更しやすくすることと、意見の同意を得やすくかつ費用のかからない、または費用負担の仕組みを考慮に入れた計画を実施することである」とした上で、「この観点から言うと、日本は4つの大きな失敗をしている」として、
(1)1950年の建築線制度の廃止
(2)都市改良についての目的税の発想を捨てたこと
(3)都市計画税や固定資産税のような保有にかかる税を引き下げた一方、譲渡にかかる税を引き上げたこと
(4)戦争や終戦直後の混乱でやむなく生まれた既得権を認め、土地利用の権利を錯綜させ、やり直しに費用がかかるようにしてしまったこと
の4点を挙げています。
 終章「都市の物語から何を学べるか」では、都市の物語の復活のためには、「倒錯した地方自治制度を廃棄すること」が必要だとして、「地方分権とは税の分権でなければならない」と述べています。
 本書は、都市にとっての魅力とは何かを考えさせてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 地方の都市は東京や中央に頼らず自ら独自の力を持つべきだというのは、言葉としては全くそのとおりだとは思いますが、中央官庁の役人がこの言葉を使うときには、話半分というか、注意して聴くべきだとは思います。


■ どんな人にオススメ?

・地方都市の魅力を考えたい人。

2010年1月 6日 (水)

日本の国境

■ 書籍情報

日本の国境   【日本の国境】(#1812)

  山田 吉彦
  価格: ¥714 (税込)
  新潮社(2005/03)

 本書は、「市民レベルで沿岸巡視・海洋環境汚染対策などを行う民間組織『海守(うみもり)』」を立ち上げた著者が、中国潜水艦の侵犯、北朝鮮工作船など、「暗雲が立ち込めている」日本の国境に「なにが起こっているのだろうか。そもそも国境とは、何を意味するのか」をレポートしたものです。
 第1章「海洋国家日本の肖像」では、「近年、中国の海洋調査船が頻繁に日本の排他的経済水域内の海洋調査を行っている」とした上で、江戸中期の経世家である林子平が著した「海国兵談」について紹介し、「現在も『海国兵談』や『三国通覧図説』に書かれている、近隣諸国との間での海洋を巡る対立が起こっている。日本は今まで自国の意思を毅然とした態度で示すことがなく、問題をより深刻にしてしまったようだ。次世代の日本人のためにも海国としての国益を真剣に考え、早急に対応しなければ手遅れになる」と述べています。
 第2章「日本の国境を行く」では、沖ノ鳥島、石垣島、大東諸島、根室・羅臼の4つの「国境」についてレポートしています。
 沖ノ鳥島については、1987年に建設省が行った、「この2つの貴重な島を守るために鉄製の消波ブロックとコンクリートなどによる保全工事」について、「南の海の真ん中で、海洋権益をかけて実施された、足掛け7年にわたる一大土木工事であった」と述べています。
 また、大東諸島について、「最果ての地で、日本の領土を守り続ける生活が、現実にこの島には残っている。自衛隊の駐屯がなくても、経済活動・文化活動を維持することで、領土の保全をしているのである。先達は、荒れた海とやせた台地と戦い、領土を開拓し守ってきたのである」と述べています。
 さらに、根室・羅臼については、1960年代に登場した、「ソ連のスパイとなり、日本側の情報を入手してくれば、ソ連支配海域において、拿捕せず安全操業を保障する」とソ連国境警備隊の甘い誘いに乗った「レポ船(レポート船の略)」や、「小型のFRP(強化繊維プラスチック)製の船体に180馬力~200馬力の船外機を2機搭載し、高速で北方領土の海域を走り回って密漁を行」う「特攻船」について紹介した上で、「特攻船に乗る漁民には、暴力団系と不良漁民と呼ばれる2つのグループがあった」と述べ、「根室の暴力団は『勤労やくざ』と呼ばれている。広域指定暴力団の組長や幹部が、自ら船に乗り込み密漁の網を引くのである」として、「都会の暴力団とは全くイメージの違うやくざが、北の海に生きているのである」と述べています。
 第3章「領土紛争最前線から」では、「対馬は、国境の島である。おそらく日本人がはじめて国境という意識を持ったのは、この対馬からであろう」と述べ、「歴史上、対馬は朝鮮半島情勢に翻弄されながらも日本の最前線基地の役割を果たし続け、そのため対馬と島民が受けた被害も甚大であった」と述べています。
 第4章「『日本の海』を守る」では、「日本においては、国土をとりまく『海』に対応する政策が欠如していることも問題である」として、「海洋に関する政府機関を一元化した組織の設置と責任者となる担当大臣の任命」を提案しています。
 本書は、日本の海とは何かを考えた一冊です。


■ 個人的な視点から

 何年か前に「海守」のポスターは見かけましたが、民間組織と言いながらも、背景にはいろいろな思想的な思惑とか戦略とかがあるんだなあ、と素朴に感じてしまいました。


■ どんな人にオススメ?

・日本の海はどこまでかを知りたい人。

2010年1月 5日 (火)

スクープ 記者と企業の攻防戦

■ 書籍情報

スクープ 記者と企業の攻防戦   【スクープ 記者と企業の攻防戦】(#1811)

  大塚 将司
  価格: ¥725 (税込)
  文藝春秋(2004/1/21)

 本書は、「刑事コロンボ」の捜査手法を、新聞記者の取材になぞらえて、「スクープを巡る経済記者と企業経営者たちの攻防」を描いたものです。
 第1章「刑事コロンボが手本」では、「コロンボの捜査手法は新聞記者がスクープをものにすべく取材する際に見習うべきところが多々あるのではないか」と思い、1984年の三光汽船の破綻劇の取材の際に試してみたとして、「『刑事コロンボ』に置き換えれば、『殺人事件』が三光汽船の倒産であり、コロンボのようにその『犯人』、つまり仕掛け人に目星を付け、三光汽船の倒産の引き金を引く言質を取ろうと、取材を開始した」と述べています。
 また、「倒産関連の記事ではスクープはスクープでも、倒産する会社の社員のことを考えると、後ろめたさも付きまとう」として、「私の心の中には、三光汽船を倒産に追い込むのは大和銀行など3行なのに、記事を書けばコロンボのはずの私が犯人になってしまうという気持ちがあった」と述べています。
 第2章「基本が大事」では、東証2部上場の黒田精工を取材するために第一勧銀の丸の内支店に取材に行った著者が、支店長から「うちの支店じゃ、業績が悪いから"ぼろ工"って呼んでいるんだ」と教えられた上で、経済記者として必要な財務諸表の見方を叩き込まれたことを述べ、「私にとって深津健一支店長は経済記者としての基本を教えてくれた、一生忘れられない存在である」と述べています。
 また、1984年のリッカーの倒産報道を通じて、「企業会計の知識を持っていることが経済記者にとって以下に大事か痛感したのである。その知識があれば、企業が現在、どんな状況にあるのかわかるし、仮にリッカーのように不正をして損失を隠蔽していても、その端緒をつかむことができる。貸借対照表と損益計算書は企業の通信簿のようなものであり、企業会計の知識を持ってそれをじっと見つめれば見えないものも見えてくる」と述べています。
 第3章「森を見よ」では、「スクープをものにするためには、丹念に集めた情報を取捨選択して、大きな絵を描き、それに基づき取材を進めることが必要になる」とした上で、25年前の佐世保重工業救済劇の立役者であった来島どっくの坪内社長への取材について、「佐世保重工業の経営権を一番有利な形で引き受けたい」という本音を持っていた坪内社長に「感情移入までして、その駆け引きの片棒を担いだ。木しか見ずに森を見ない記者はジャーナリスト失格である」と述べています。
 第4章「石の上にも3年」では、「しつこさだけではどうにもならない」として、「最も大事なのはきちっとしたシナリオ、絵を描くことだ。それができなければどうにもならない。それが描ければ、目標に向かってしつこく、執念深く、取材することだ」と述べています。
 第5章「臨機応変」では、「経済犯罪が関係している案件では、その犯罪を暴くことが最も大きなニュース、つまり価値の高いニュース」だとして、「経済犯罪が暴かれたためにその会社がどう処理されるのかのほうは、ニュースとしての価値が落ちる」と述べたうえで、「仮に不正の端緒を?んでも、それを記事にするタイミングは重要だ」と述べています。
 そして、1990年5月に表ざたになったイトマン事件に関して、大阪地裁で開かれた初公判の中で、「イトマン側が日経関係者に1000万円を渡して私の情報を収集していたことが明らかになった」と述べ、「1000万円を受け取った人間が誰なのか、今もって藪の中であるが、私は、存在したと思っている」と述べています。
 エピローグ「リスクをとれ」では、「経済記者にとって最も重要なニュースは企業倒産であり、そこで、修行を積むことが大事だ」としたうえで、「日本の経済ジャーナリズムの現状を点検すると、さびしい現実が浮かび上がる」と述べています。
 そして、「ジャーナリストは常にスクープを目指さなければならない。しかし、いわゆるリークを期待してはいけないのである。スクープは自分でシナリオを書き、それを検証し、ものにしなければならない。そういう努力を続ける中でしか、日本経済の健全な発展に寄与する論説も生まれない」と述べています。
 本書は、日本の経済社会に欠かせない役割を持った経済記者の仕事を描いた一冊です。


■ 個人的な視点から

 本書で「ぼろ工」と紹介されている黒田精工は千葉県内各地に工場があったりで馴染み深いのですが、「ぼろ」はあんまりだとも思いながらも確かにぼろいかも……。


■ どんな人にオススメ?

・経済紙のスクープがどのように生まれるのかを知りたい人。

2010年1月 4日 (月)

ネットvs.リアルの衝突―誰がウェブ2.0を制するか

■ 書籍情報

ネットvs.リアルの衝突―誰がウェブ2.0を制するか   【ネットvs.リアルの衝突―誰がウェブ2.0を制するか】(#1810)

  佐々木 俊尚
  価格: ¥840 (税込)
  文藝春秋(2006/12)

 本書は、「インターネットが、リアルの世界をじわじわと侵食しようとしている」として、ネットの世界における「排除と囲い込みという二方面の衝突がどのように生じ、そしてこの衝突の局面がどう動いているのか」の状況を記録したルポルタージュです。
 第1章「Winny――『私の革命は成功した』」では、Winnyの開発者として京都府警に逮捕された金子被告が、「私はプログラムを作る役割があり、そして使う人はファイルを共有する役割がある」という持論を語ったことを紹介した上で、Winny開発の目的を、「著作権を侵害する行為を蔓延させて、著作権を変えるのが目的だった」と語っていると述べています。
 第2「P2P――エンド・ツー・エンドの理想型」では、2002月4月1日に、金子被告が2ちゃんねるに「暇なんでfreenetみたいだけと2chネラー向きのファイル共有ソフトツーのを作ってみるわ」と「匿名で新たなP2Pソフトの開発を宣言した」と述べています。
 第3章「著作権破壊――ヒロイックなテロリズム」では、「金子被告の行動には、2つのバックボーンがあったと思われる」として、
(1)技術者としての果てしない技術への関心
(2)インターネットやコンピュータが、この社会を変えうるのではないかという変革思想
の2点を挙げた上で、P2Pとリアル社会の断絶について、「P2Pはインターネットの理想と考えられ、多くの技術者の関心を惹きつけてやまなかった」が、「WinMXやWinnyを社会の中に出現させ、『著作権侵害を助長する犯罪的なP2P』として警察権力の摘発を招いた」と述べ、「金子被告はこの断絶にとらえられてしまった犠牲者だったようにも思える」としています。
 そして、金子被告が提案した「デジタル証券によるコンテンツ流通システム」について紹介した上で、「金子被告は真面目に著作権システムの今後を考えていたのは間違いない。そしてその将来を実現するためには、ボロボロになっている現行の著作権システムが崩壊しなければならず、そこでWinnyを配布して――と考えたのである」と述べ、「彼は思想犯として、従来の著作権概念の崩壊を図った。その手法はテロリズムに近いものではあったものの、ある種のヒロイックな行為でもあった」としています。
 第4章「サイバースペース――コンピュータが人々にパワーを」では、「サイバースペース独立宣言」を紹介した上で、「この宣言の背景には、60年代から一貫して人間の解放を主張してきたコンピュータ世界と、国家権力の衝突があった。コンピュータ文化が進化し、巨大化していくのに従って、政府にとっては目障りなものになっていく」と述べています。
 また、「現在に至るまで、アメリカやその他の諸国では、ソフト開発者自身が逮捕され、有罪と確定してしまったケースはひとつもない」と述べています。
 第5章「逮捕――『ガリレオの地動説だ』」では、家宅捜索の日に、金子被告が、「著作権を侵害する行為を蔓延させて、著作権を変えるのが目的だったんです」と述べたことに対して「京都府警の捜査官たちはひどく動揺した。そして彼のその発言が、最終的に強制捜査の引き金となったと見られている」と述べた上で、弁護団が、「17世紀にガリレオの地動説に対する偏見があったのと同じように、Winnyの開発目的に対する偏見が存在している」と訴えたと述べています。
 第6章「アンティニーウイルス――パンドラの箱が開いた」では、「Winnyを摘発した京都府警も被害にあった」として、「下鴨警察署の交番勤務の巡査が、私用のパソコンに保存していた操作書類19枚」が流出し、回収できなかった事件について、「京都府警にとっては、まさに恥辱にまみれた失態だった」と述べ、弁護人が最終弁論で、「本件の幇助として金子被告を逮捕したのは、京都府警からの捜査情報流出が原因ではないか」と指摘したことに、「検察官は憤激し、発言取り消しを強く求めた」と述べています。
 第9章「ガバナンス――インターネットは誰のものか」では、「各国政府とインターネットコミュニティの対立、中国とアメリカ政府の対立、そしてグーグルへの圧力――。様々な対立構造が乱れ、インターネットの世界は、揺れに揺れ続けている。その戦いはいまや国家間の紛争と化し、かつてインターネットを支えた人々の理想は忘れさられつつある」と指摘しています。
 第10章「デジタル家電――iPodの衝撃」では、TRONが敗退した1990年代後半の日本政府が、
(1)オープンソース戦略
(2)情報家電をパソコンに変わって普及させようという戦略
の「2つの方向に戦略を採った」と述べた上で、「iPodが支配する世界では、日本の情報家電が入り込む余地はない可能性が高い」と述べています。
 第11章「ウェブ2.0――インターネットの『王政復古』」では、「iPodの登場は日本にとって、半導体OSに次ぐ第3の敗戦ともいえる事態になろうとしている」とした上で、「ブログによって政治に対する意見が交換されていくことによって、旧来の有識者の論壇の枠組みを越えた、あらたなネット上の『論壇』が形成され始めた」と述べ、「将来的にネットの世論がリアルな世論と結びつくことになっていけば、このアンプリファイアー機能は破壊的な能力を持つことになっている膨大なネットの海から浮かび上がった言論が、政治や社会を動かす時代がやってきたのである」と述べています。
 本書は、ネットがリアルな世界の何を変えようとしているのかを教えてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 どうしてもネットの世界をリアルの世界と対立して捉えてしまいがちなのですが、自分ではできるだけ、「ネットじゃなかったらどういう業態になるだろう」ということを考えるようにしています。


■ どんな人にオススメ?

・ネットが世界を変えると思う人。

2010年1月 3日 (日)

すべては音楽から生まれる

■ 書籍情報

すべては音楽から生まれる   【すべては音楽から生まれる】(#1809)

  茂木 健一郎
  価格: ¥714 (税込)
  PHP研究所(2007/12/14)

 本書は、私たちの生命がその始まりから包まれている音楽について、「シューベルトを始めとする音楽家の作品に向き合うことを通して、音楽について考えた」ものです。
 第1章「音楽は微笑む」では、「この世はままならぬことばかりである。自分の理想とは程遠い現状に憤慨や焦燥、諦念を覚えることも少なくはない」が、「座標軸があれば、周りがどう思おうと関係ない、という潔い強さを持てる」として、「音楽は、そんな座標軸になりうる。音楽の最上のものを知っているということは、他のなにものにも変えがたい強い基盤を自分に与えてくれる」と述べています。
 第2章「音楽との出会い」では、「耳をすます」ことと、新しいことを「発想する」こととは、「同義」だとした上で、「聴くこと」とは、「自分の内面にある、いまだ形になっていないものを表現しようとする行為に等しい」と述べています。
 また、「人が音楽を聴いたときの脳の状態は、食べたり飲んだりしたときのそれと非常に近い」として、「音楽を聴くという行為は『自然の営み』である。これが、音楽体験が生命原理に近いといわれる理由の一つ」だと述べています。
 第3章「音楽と創造力」では、「ザルツブルグ以外の土地に生まれていたら、モーツァルトのような音楽はかけなかったのではないか」として、その共通点は、「純粋な美の肯定」だと述べています。
 第4章「音楽のように生きる」では、「考えることにおいて重要なのは、『リズム』だ」とした上で、「新たなリズムの発見は、日常における『根源的な自分自身との対面』の機会」であり、そこには、
(1)「リズムを生み出せる生命体としての自分」を知ること
(2)もともと自分の中に潜在する願望や生き方を実感できること
の「2つの重要な側面がある」と述べています。
 本書は、脳科学者の視点から音楽について語った一冊です。


■ 個人的な視点から

 個人的には、どういう経緯でこういう本ができたのかに興味がわきます。
 著者は元々脳科学者なのですが、すっかりお茶の間にお馴染みになったのでこういう音楽エッセイの依頼がくるのでしょうか。まあまるっきり脳に関係がないわけではないのですが、壁の本とか品格の本とか、学者にエッセイを書かせたものがヒットする世の中なので、そういうトレンドなども関係しているのでしょうか。


■ どんな人にオススメ?

・音楽がなぜ欠かせないかを納得したい人。


2010年1月 2日 (土)

"俺様国家"中国の大経済

■ 書籍情報

   【"俺様国家"中国の大経済】(#1808)

  切込隊長・山本一郎
  価格: ¥830 (税込)
  文藝春秋(2005/10/20)

 本書は、中国製でさえも正確には知らない中国の実体経済を、「切込隊長」の異名を持つ著者が読み解いたものです。
 「はじめに」では、「中国に関連した経済関連のデータは信用ならないケースが多い」理由として、「中国人は経済や企業、あるいは家計の情報を正確に出さないから」だと述べ、「経済統計を算出するために必要なサンプルや算出の根拠になった市況データなど、裏を取るために必要なデータをほとんど公表せずに、中国政府がドーンと『皆様、注目の2004年の中国経済成長率ですが、やっぱり9%以上でした。凄いですね』とか、全世界に向けて言うわけである。信じられるか、そんなこと」と述べています。
 そして、「先進国の経済学的常識とはかけ離れた事例や、後進の経済発展国がたどった成長経緯とはずいぶん違う実情も出て」きてしまう理由として、
(1)経済圏に参画しうる人口が多すぎること
(2)中国共産党支配という政治体系によって「経済的に正確な情報」が「政治的に正しい情報」に置き換わってしまうこと
(3)中国経済においては補足不能な地下経済が膨大なキャッシュを溜め込んでいること
の3点を挙げています。
 第1章「いびつな粉飾国家の実相」では、「中国経済がなぜ、かくもいびつな状態のまま成長を遂げているか、あるいは遂げていることになっているのか」について、「中国経済は地下経済の割合が多い体質だ」都市指摘しています。
 また、中国政府が発表する年間の経済成長率などについて、中国ウォッチャーの間では、これらは、「全人代向けに経済改革の成果を発表するために政治的に作られた数字であり、実態は別のところにあると見るほうが正確」な「政治発表」と称されると述べています。
 第2章「貧乏人のためのファンダメンタルズ」では、中国国内の所得格差について、「外資系金融機関の推計で言うと、中国で今猛烈に増えている豊かな中産階級は約1億6000万人を超え、国家のGDPベースでは日本を抜いた」とする一方、「途方もない貧乏を強いられている中国人は、今なお10億人以上存在していることになる。どうやって生きているのかさえ判然としない」と述べています。
 そして、「中国経済の生命線というのは、中国政府がそのファンダメンタルズでどう考えているかではなく、外資系がいかに中国と牛に積極的であり続けられるかという側面にかかっている」と指摘しています。
 また、不動産関連投資について、「都市部では中古住宅市場を除いて今なお軒並み取引価格が上がっている」一方で、「高級住宅の空き室率がなぜだか急上昇しつつあり、新規物件の17%に買い手がつかないという不思議な事態に直面している」として、「買い手がいないのに値段だけ上がるというのは、17世紀に原始的な資本主義が産声を上げて以来、初めてのことである。もうこれだけで中国人は資本主義の歴史に名前を刻んだことになる。中国人は市場原理を超えた。おめでとうございます」と述べています。
 さらに、「中国がちょうど世界経済の成長と流動性の増大の狭間で余っていた投機性資本を吸い集めて急激な経済成長を達成したように、自国の経済発展を促進させようとするのであれば、海外からの資金流入を効果的に促したほうが得策であるということは指摘できよう」として、「まさに世界の富の奪い合いの構造であり、後述する世界の流動性、すなわちワールドダラーをめぐる資金循環こそが、経済発展の本質なのである」と述べています。
 第3章「銀行不良債権の諸行無常」では、「バブル期以降抱えてしまって10年以上苦労した日本の不良債権額を上回りかねない不良債権を、日本の4分の1以下の経済規模しか持たない中国が抱えていることになる」とした上で、中国全土で14万ヵ所の視点が営業していると思われる金融機関が、大半を手作業で業務を行うため、「大手になればなるほど決算にかかる業務が膨大になり、前年度決算を確定させるのに余裕で半年とかかる」と述べています。
 そして、「内陸部の建設会社や運送会社など中国人民解放軍が軍閥で経営している国営企業や、省が農業振興などで設立している公営市場などは、融資の名目で資本が調達されているのもの、設立以来一度も返済していないところがゴロゴロしている」とした上で、「中国では『お金を借りる』風習はあっても『お金を返す』習慣が」なく、「お金を借りて踏み倒すに当たって、借り入れた金額の最大10%を支払えば逃げ切れる。そんな商習慣がどこで通用するかと言うと、中国だけである」と述べています。
 第4章「あまりに共産党的な人民元改革」では、中国に投資している投資銀行の出資者は、「カナダやオーストラリアの銀行に個人口座を持つ中国人グループがメインのスポンサー」であるとして、「中国に流入する外資系資本とか騒いでいるけど、結局、外資のヅラをかぶった中国人じゃん、と思うわけである」と述べ、「いわゆる欧米人が、純粋な投資目的で中国市場に投機性資本を投入しているシェアは多く見積もっても20%程度ではないか」と述べています。
 そして、「経済的側面から見ると、全く帳尻が合わず、統計資料をいくらひっくり返しても、明確な答えの出ない中国経済は実にファンタジーなのだが、中国政府の経済政策をつぶさに見ていくと、中国共産党的には万事うまくいっていると考えるほかない」と述べています。
 第5章「資源・エネルギーをめぐる大暴発」では、「中国経済の成長は、短期的には日本経済にプラスのインパクトを与えるが、比較的長期、おおよそ2020年頃をピークとして世界資源調達戦争に近い情勢を惹起することが考えられ、その時点で日本は世界の先進国から脱落してしまっている可能性を否定できないことになる」と述べています。
 そして、「中国の資源問題は、中国単独の話ではなく、日本に余波が津波のようにやってくる」が、「その原因は、中国だけに帰すべきものとも思えず、むしろ日本がいびつな形で人的リソースを配分してしまったために拡大したものである」と述べています。
 第6章「米中対立新時代の世界秩序」では、「中国発のリスクシナリオで最悪の可能性として懸念するのは、中国共産党体制が轟音を立てて崩壊してしまうことにある」とした上で、中国の「公称人口13億人」の「1%でも日本海を泳いで島根県あたりに中国人がたどり着いたら、それだけで島根県の日本人人口を上回り、独立されかねない」と述べています。
 第7章「チャイナリスクとどう対峙するか」では、「中国は日本に限らず他国をして『軍国主義』あるいは『侵略国家』と名指しする資格はないように思える」とした上で、「日本は国益として、諸外国と一致協力して中国政府が今までどのようなことを中国人や諸外国にしてきたのかを詳らかにするだけで、歴史認識問題というものはイーブンのものになりうる」と述べています。
 また、「二国間交渉を突き詰めれば、それがいかに発展的な経済協力の申し入れであれ、領土問題であれ、すべてゼロサムゲームの延長線上にある」としつつも、「国際的な資金還流の図式でいくならば、日本はプラスサムゲームで勝ち続け、ゼロサムゲームで負けっぱなしである結果、プラス部分を海外に供給して世界に循環させるエンジンとなっている」と述べています。
 そして、「非資源国である日本にとって、決定的に大事なのは経済力であり、その経済力を脅かされない限り、世界経済の重要なエンジンであり続けることができる」が、「この前提条件が冷戦の終結と、それでもたらされた『平和の配当』が出た結果としての世界の流動性、つまりワールドダラーの拡大によって、タイミングよく近代化へ舵を取っていた中国に、リスクマネーが流入して大規模な経済発展に結びついた。これで中国人の野心のハートにボーボート火がついてしまった」と述べています。
 著者は、「悲しいほどの我慢強さと一体感。普通の国であれば、デモや暴動が起きてもおかしくない長期の経済低迷も、自殺者の急増と逆説的な犯罪発生数の減少で我慢できてしまう国民性。これが、私たち日本が世界に誇る概念なのである」と述べています。
 本書は、隣にある危うげな大経済大国の片鱗を見せてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 「切込隊長」と言うだけあって、ゲラゲラ笑いながら読む分にはまったく申し分ないですが、その文体や切り込み方には抵抗のある人もいらっしゃるのではないかと思われます。ニーハオ。


■ どんな人にオススメ?

・中国はどんな国かを考えるきっかけが欲しい人。

2010年1月 1日 (金)

日常の疑問を経済学で考える

■ 書籍情報

日常の疑問を経済学で考える   【日常の疑問を経済学で考える】(#1807)

  ロバート・H. フランク (著), 月沢 李歌子 (翻訳)
  価格: ¥1,890 (税込)
  日本経済新聞出版社(2008/02)

 本書は、「経済学の基本知識をもとに日常の様々な疑問を解いていく」「経済生物学者(エコノミック・ナチュラリスト)」である著者が、「日常生活で見られる疑問を経済学的観点から解き明か」しているものです。
 第1章「直方体の牛乳カートンと円筒形のソーダ缶」では、「生産者が製品をある特定の形にしようと思う斧は、消費者にとっての価値(便益)が生産費用を十分に上回ると考えられるから」だとして、「製品設計は、消費者を満足させるための形状と、競争力を保つために価格を抑える必要性とのトレードオフで決まる」と述べています。
 第2章「無料のピーナッツと高価な電池」では、バーではミネラルウォーターが有料でピーナッツが無料であることについて、「水とピーナッツを提供することでバーの主要製品であるアルコールの需要がどのように変わるかを理解しなくてはならない」として、「ピーナッツとアルコールは補完関係にある」のに対し、「水はアルコールの代替になる。水をたくさん飲めば、アルコールの注文が減る」ため、水に高い値段をつけるのだと述べています。
 第3章「『職場』での不思議な話」では、高級レストランでは、料理長助手よりもウェイターの賃金のほうが高い理由として、「高い能力を要求される仕事の多くは、賃金が比較的低い。そうした仕事は、他の望ましい仕事への足がかりとみなされるためである」として、「スキルの高い人が比較的低い賃金で料理長助手の仕事につくのは、高い評価と賃金が与えられる料理長になるために必要な訓練と経験の機会を得られるからだ」と述べています。
 第5章「競争とコモンズの悲劇」では、「医者が軽い感染に対しても抗生物質を処方し続ける」ことについて、「コモンズの悲劇」の典型例であり、「海から魚を捕獲しすぎるようなものである」として、「患者一人に抗生物質を過剰処方しただけでは、致死性のある薬剤耐性菌は生まれない」が、たかが処方箋一通という気持ちが、「積もり積もれば、さらに耐性の強い菌を出現させることになる」と述べています。
 一方で、多くの学校で制服の着用を義務付けていることについて、「生徒たちが自分自身を表現する能力を制限することになるが、着る服を競い合うことによる、金銭的及び感情的負担を減らすことができる」と述べています。
 第7章「市場のシグナルを読み解く」では、「二年目のジンクスは、単なる統計学上の錯覚なのかもしれない」として、「統計学者が『平均値への回帰』と呼んでいるものの一例である」と述べています。
 第9章「心理学と経済学の出会い」では、下着メーカーが、誰も買うはずがない宝石をちりばめた高価なブラジャーを発表することについて、「宝石をあしらった高級ブラジャーがカタログにあるだけで、プレゼントに適した金額という枠組みが外される」ことを指摘し、「『プレゼントに数百万ドルも使う人がいる』という考えを植えつければ、数百ドル程度の支出はたいしたことがないと思わせることができる」と述べています。
 また、面ファスナー(マジックテープ)が、靴を留めるには紐よりも適しているにもかかわらず、「大人はそれほど面ファスナーで留める靴を履いていない」理由について、面ファスナーは、老人用、体の不自由な人用、そして子供用の靴に好まれたため、「面ファスナーの靴は、体が不自由であるとか弱いとかいったイメージと結びついている」ことを指摘しています。バリバリ
 第10章「人間関係の市場」では、「人間関係をつくる非公式な市場が、他の市場と同様に需要と供給の理論で動いていることを経済的視点から確認する」として、平均初婚年齢が高くなっている理由について、「所得水準があがったおかげで高等教育が受けやすくなり、十分な教育を受けないと仕事に就くことができなくなった」ことを挙げ、「若いうちに結婚することによって発生する機会費用は上昇し続けてきた」上に、「経済力がある人と結婚したいと思っても、誰が成功して金持ちになるかは、昔ほど早く予想がつかない」ことを挙げています。
 また、男性が多数を占める議会が一夫多妻制を禁止する法律を認めている理由について、「一夫多妻制が認められれば、一夫一婦制を支持する人たちの中で、男性と女性の数の不均衡が起こる可能性がある」として、「一夫多妻制になって困るのは、むしろ男性なのだ」と述べ、「一夫多妻制を法律で禁止することは軍縮協定のようなもので、男性の人生を楽にする。議会で優位を占める男性もそれがわかっているのだろう」と述べています。
 「最後に」では、「エコノミック・ナチュラリストとしてのスキルは、磨き続ければ、市場で正しい判断をするために役立てる以上の利点がある」として、「ほとんどすべての人工的な環境や、人間及び動物の皇道派、費用と便益の相互作用の結果なのである。日々、出会う様々なことに、そうした事例や傾向を認めることができるだろう。そうしたものを発見することが今後のあなたの知的冒険である」と述べています。
 本書は、経済生物学者としての視点を与えてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 昔ならば、経済学のコラムなんかを喜んで読むのは一部のマニアだけだったんじゃないかと思いますが、今ではあらゆる分野で最新の経済学の研究成果に基づいたコラムを読めるようになりました。隔世の感があります。


■ どんな人にオススメ?

・どうしてマジックテープが笑われるのかを知りたい人。


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