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2010年2月

2010年2月28日 (日)

昭和マンガ家伝説

■ 書籍情報

昭和マンガ家伝説   【昭和マンガ家伝説】(#1865)

  平岡 正明
  価格: ¥819 (税込)
  平凡社(2009/03)

 本書は、ジャズと映画を専門とする評論家が書いたマンガ論です。
 第1章では、小松崎茂の『地球SOS』について、「小松崎茂は第二次大戦における日本の敗因を、科学技術力の劣勢にあったと総括し、したがって戦後日本の方向を技術立国と定めた独占資本の方針と一致している」と指摘したうえで、『地球SOS』が未完となった理由として、「現実の朝鮮戦争の進行」を挙げ、「兵器の発展にSFが追いつかなかったということではない。小松崎茂のイデオロギーが追いつかなかった」と述べています。
 また、サザエさんについて、「波平の禿頭の頂点に一本だけ残った毛は彼が福岡玄洋社系であったことの残光である」とした上で、『ブロンディ』と『サザエさん』を分かつのは、「社長と浮浪者がサザエさんにはほとんど出てこないという点」だと指摘しています。
 第2章では、谷岡ヤスジについて、その「噴出力というのはすごいものでしょ。鼻血も精液も涙も、頭に刺さった出刃包丁から吹き出す鮮血も、ビュービューと飛ぶその暴力的な有様は、ザマミロというほど痛快である」と述べています。
 第3章では、松本零士の『男おいどん』について、「パンツの山の中にサルマタケと一緒に丸まり、下宿四畳半からじっと世界を見ていた男おいどんの眼には、隣室の元中佐、ラーメン屋で読んだ新聞に載っていた横井庄一の生還、『新宿マッド』を倒した老郵便配達夫、天才バカボンの不滅の父、そして北九州炭鉱地帯に現れてまた地に没した幻の大日本陸軍が見えていた」として、「傑作『男おいどん』から歴史総体を奪還しようとするやり方を学び直せる」と述べています。
 第5章では、「日本の漫画家のなかで絵がうまいと思うのは石ノ森章太郎、松本零士、寺沢武一だ」として、「いずれも厚塗りの筆使いで、つげ義春の細い描線が出てきた時には俺には奇異だった」と述べています。
 本書は、平岡正明ファンにはお勧めの一冊です。


■ 個人的な視点から

 評論家としては有名な人のようですが、漫画評論として読もうとしてしまった自分には馴染めず。評論というかコラムニストなのかな? 読まれ方としては。


■ どんな人にオススメ?

・平岡正明が好きな人。

2010年2月27日 (土)

代替医療のトリック

■ 書籍情報

代替医療のトリック   【代替医療のトリック】(#1864)

  サイモン シン, エツァート エルンスト (著), 青木 薫(翻訳)
  価格: ¥2,520 (税込)
  新潮社(2010/01)

 本書は、「通常医療の外部で、近年、多くの患者を惹きつけている飲み薬や塗り薬、錠剤、鍼、指圧などの手技、エネルギー療法について、真実を明らかにすること」を目的としたものです。
 著者は、「さまざまな代替医療――鍼、ホメオパシー、カイロプラクティック、ハーブ療法の4つを本文で取り上げ、その他について付録に簡潔にまとめてある――の有効性と安全性を、今日手に入る限りもっとも信頼性の高いデータに基づいて判定しよう」としています。
 第1章「いかにして真実を突き止めるか」では、本書の目的を「代替医療について真実を探りだすこと」であり、「どの療法には効果があり、どれには効果がないのだろうか? どの療法は安全で、どれは危険なのだろう?」と述べた上で、「瀉血」について、「今日、理髪店の看板になっている赤白の縞がらせん状に回転する筒は、床屋がかつて外科医の役割を果たしていた名残だと言われるが、実はこの看板は、床屋が瀉血を担っていたことと関係がある」として、「赤は血液を、白は止血のための包帯を、円柱のてっぺんにある球は真鍮製のヒル盥を、そして円筒それ自体は、血流を増やすために患者に握らせた棒を象徴している」と述べています。
 そして、英国海軍を苦しめた壊血病について、「当時、科学者達はまだビタミンCを発見していなかったので、壊血病を予防するには加工していない果物を食べることが大事だとは知らなかった」として、リンドが、「環境と食事という変数を変えてみることにより、オレンジとレモンが壊血病を治療するための鍵になることを示した」と述べ、「なにより重要なのは、彼の治療によって患者が良くなったことだ。医療においては、治療の有効性を示すことが最優先とされる。基礎となるメカニズムの解明は、のちの研究にゆだねればよい」と述べ、「リンドによる臨床試験の発見が引き金となって起こった改革は、19世紀を通じて徐々に勢いをつけていった。臨床試験は医療を、18世紀の危険な賭けから、20世紀の合理的学問へと変貌させた。私たちがより長く、より健康で、より幸せな人生を送れるようにしてくれた現代医学は、臨床試験のお陰で誕生したのである」としています。
 また、フローレンス・ナイチンゲールについて、「無名といってよい女性だったが、反論の余地のない、信頼性の高いデータで武装することにより、男性優位だった医療界の主流派を相手取った論戦で、辛くも勝利することができた」として、「ナイチンゲールは、《科学的根拠に基づく医療》というアプローチをごく初期に唱え、ヴィクトリア朝の医療を変革した人物と見ることができる」と述べ、彼女が、「看護婦養成学校を設立し、看護学生のための教育課程の教科書を表した近代看護の創始者として知られている」が、「彼女はその生涯を通じ、統計に基礎づけられた衛生改革のために運動した人物でもあった」として、「統計が得意だったお陰で、ナイチンゲールは政府を説得し、一連の医療改革がどれほど重要かをわからせることができた」と述べています。
 著者は、「代替医療は通常医療と同じ病気を治療できると主張しているのだから、科学的根拠を調べれば、その主張の成否を検証することができる。そしてどれかの症状に効果があると判明したなら、その代替医療を通常医療と比較して、部分的または全面的に、通常医療の代わりに利用すべきかどうかを判定すればよい」と述べています。
 第2章「鍼の真実」では、「プラセボ効果」について、「《プラセボ》という言葉は、『私は喜ぶであろう』という意味のラテン語で、チョーサーらの作家は、本心とは裏腹に気休めを言うという意味で用いた」とした上で、重要なのは、「ヘイガースがプラセボ効果はみせかけの治療法だけのものではないことに気づき、本物の薬の効果にも、一役買っていると論じたことだ」と述べています。
 そして、「被験者には、自分の受けている治療が本物なのか偽物なのかわからないようにした」という「ブラインド」という概念を「臨床試験全体に当てはめて、この手続に従った試験を《盲検(ブラインド・テスト)》と言う」ことについて、「もしも患者と医師の療法が、投与されている薬は偽物か、効果の期待される本物の薬かを知らなければ、試験の結果には、どちらの期待も影響しない。このタイプの公正な試験は《二重盲検法(ダブル・ブラインド・テスト)》と呼ばれている」と述べています。
 また、WHOが鍼の有効性を判定するに当たり「2つの大きな過ちを犯した」として、
(1)ずさんな試験を含めて臨床試験から得られた結果はどれも皆考慮に入れたこと。
(2)中国で行われた多数の臨床試験を考慮に入れたこと
の2点を挙げています。
 著者は、「鍼はプラセボに過ぎないという可能性が極めて高いことを明らかにした」と述べています。
 第3章「ホメオパシーの真実」では、「ホメオパシーはここ数十年でもっとも成長著しい代替医療の一つであり、特にヨーロッパでの成長ぶりがめざましい」とした上で、その期限は、18世紀末のドイツの医師、ザムエル・ハーネマンが、「ある病気に特有の症状を治療するための物質を健康な人が飲めば、その症状が出るようにみえた」ことから、「健康な人に特定の症状を引き起こす物質は、その症状を示す病人を治療するために利用できる」という「普遍法則を提起した」ことから始まったと述べています。
 そして、「ハーブ療法の薬剤には、ある程度の有効成分が必ず含まれているのに対し、ホメオパシーのレメディには、有効成分と言えるものは何も含まれていないと考えてよい」と述べたうえで、「これまでに難白拳という臨床試験が行われてきたが、どの病気に対しても、ホメオパシーを支持するような、有意の、ないし説得力のある科学的根拠はひとつも得られてない。逆に、ホメオパシー・レメディには全く効果がないことを示す科学的根拠なら多数ある」と述べています。
 著者は、「科学的根拠によれば、ホメオパシーの効き目はプラセボ効果に過ぎない。したがって、もしも単なる気休めではない薬を探しているのなら、ホメオパシー・レメディは避けることを強くお勧めしたい」と述べています。
 第4章「カイロプラクティックの真実」では、「間接の柔軟性には、3つのレベルがあるものとする」として、カイロプラクティックの「脊椎マニピュレーション」は、
(1)関節を動かそうとして動かせる程度
(2)外から力を加えたときに動かせる程度
(3)かなり強い力をかけて関節を素早く動かすが、間接やその周囲の組織を傷つける恐れがある
の「その第3のレベルまで関節を動かすことに相当する」と述べたうえで、創始者のダニエル・デーヴィッド・パーマーが生み出したカイロプラクティックのもっとも注目すべき特徴として、「脊椎のズレを元に戻してやること」で、「人間にかかる病気はすべて、脊椎マニピュレーションで直せると信じた」ことを挙げています。
 そして、「科学的根拠によれば、腰痛に直接関わる問題を別にすれば、カイトプラテクターの治療を受けるのは賢明ではないということになる」と述べたうえで、「カイロプラクターによって引き起こされる動脈破裂の危険性、及びそのような損傷によって引き起こされる悲惨な事態は、カイロプラクティック界に3つの重大な批判を突きつける」として、
(1)脊椎マニピュレーションに伴う危険性について、正確なところがほとんど把握されていないという驚くべき状況にあること
(2)患者に対し、治療に伴うリスクの可能性について予め知らせないことが多い
(3)脊椎マニピュレーションは筋骨格系の症状以外には効果がないにもかかわらず、カイロプラクターはいまだに筋骨格系以外の症状も治療し続けていること
の3点を挙げています。
 また、代替医療の危険性として、「ホメオパシーには思いがけない危険な副作用がありうる」、それは「医師の代わりにホメオパスが医療についてアドバイスを与えることによる、言わば間接的な副作用だ」と述べると共に、「代替医療セラピストの行動のうちでもっとも危険なのは、患者が通常医療の医師による治療を受けなければならないときに、自分の代替治療を受けるようアドバイスすること」だと述べています。
 第5章「ハーブ療法の真実」では、「ハーブ薬が人間を害する場合がある」として、
(1)ハーブ薬の直接的毒性
(2)他の薬との相互作用によって引き起こされる間接的反応
(3)汚染及び混ぜものの危険性
の3点を挙げた上で、「ハーブ薬の最大の危険性は、効果のある通常医療の薬をやめて、ハーブ薬に切り替えること」だと指摘しています。
 また、「多くの代替医療に効き目が無いことが示されても、思慮ある人達がなぜ信じてしまうのか」に土江、「人々は代替医療に心惹かれるきっかけは、多くの代替医療の基礎となっている3つの中心原理であることが多い」として、
(1)自然(ナチュラル)
(2)伝統的(トラディショナル)
(3)全体論的(ホーリスティック)
の3点を挙げ、「実はよくできたマーケティング戦略に過ぎない」と指摘しています。
 第6章「真実は重要か?」では、チャールズ皇太子が「ひさしく代替医療に関心を寄せている」ことについて、「本書はチャールズ皇太子の問いに答えるために書かれたと言ってもいい」として、「要するに、ここで見た4つの治療法は皆、今日の医療研究の水準に適うような科学的根拠に裏付けられてはいない」ことを指摘しています。
 そして、「効果が証明されていない、または反証された医療を広めた責任者」として、
(1)セレブリティ
(2)医療研究者
(3)大学
(4)代替医療の導師たち
(5)メディア
(6)メディア(ふたたび)
(7)医師
(8)代替医療の協会
(9)政府と規制担当当局
(10)世界保健機構(WHO)
を挙げたうえで、マスメディアが、「ショッキングな記事にしたいがために恐ろしげなレポートにする」ことに関して、2005年に発表された「謎の殺人化学物質」である「一酸化二水素(DiHydrogen MonOxide:DHMO)」の記事を紹介しています。
 また、「最大の問題のひとつは、患者が代替医療の世界に入っていこうとするとき、それを押しとどめてくれるものが事実上何もないこと」だとしt、絵ホメオパシー・レメディに対して、
「注意:この製品にはプラセボ効果しかありません。ホメオパシーを信じていて、症状が痛みや抑鬱などである人にのみ効果があります。その場合でも、通常医療の薬のような強い効果は得られないでしょう。通常医療の薬よりも副作用は起こりにくいですが、効果も少ないでしょう」
とする注意ラベルを貼る案を紹介しています。」
 著者は、「医療の中には、科学的でない別の種類のものがある」という考え方は、「私たちを暗黒時代へと後戻りさせる」として、「今こそトリックがはびこるのを食い止めて、本物の治療法を優先させるべきときではないだろうか。誠実さと進歩、そして良い医療の名において、われわれはあらゆる治療法に対し、科学的な水準を満たすこと、検証を行うこと、規制を設けることを要求する――害よりも益の方が大きい治療を受けているのだと、患者が納得できるように」と述べています。
 本書は、テレビ局や出版業界が手を触れたがらないタブーに誠実に切り込んだ一冊です。


■ 個人的な視点から

 テレビや新聞が大スポンサーであるパチンコやカルトの問題を取り上げることができないように、マスコミの一番のお得意様である代替医療の問題を取り上げることは勇気のいることだったと思います。
 それにしても代替医療と呼ばれる怪しげな健康法に登場する芸能人・有名人の卑しさといえばこれより下はないのではないでしょうか。昔、サラ金のCMに出る芸能人は落ちぶれたと言われたものですが、さも良いものであるかのように効果のない代替医療や健康法を喧伝する芸能人はさらに罪が重いのではないかと思います。


■ どんな人にオススメ?

・代替医療を認めるべきと思う人(鳩山由紀夫とか?)

2010年2月26日 (金)

"想い"と"頭脳"で稼ぐ 社会起業・実戦ガイド 「20円」で世界をつなぐ仕事

■ 書籍情報

   【"想い"と"頭脳"で稼ぐ 社会起業・実戦ガイド 「20円」で世界をつなぐ仕事】(#1863)

  小暮 真久
  価格: ¥1,470 (税込)
  日本能率協会マネジメントセンター(2009/3/21)

 本書は、「企業の社員食堂にカロリーを押さえたヘルシーメニューを加えてもらい、その代金のうちの20円が開発途上国の子どもたちの給食一食分として寄付される」ことで、「貧困とメタボリック・シンドローム(メタボ)という2つの社会課題を同時に解決することを目指す」というコンセプトを持ったNPO「デーブル・フォー・ツー(TFT)」を立ち上げた元マッキンゼーのコンサルタントのお話です。
 第1章「TFTのビジネスモデルと苦難の創業期」では、TFT立ち上げに当たり、「しくみ」をつくる上で、
・Purpose
・Partnering
・People
・Promotion
・Profit
という「5P」のフレームワークで整理をしたと述べています。
 そして、協力企業の開拓の際には、「活動自体の説明に加えて、無名の団体が相手の信頼を得ること」だったとして、「自分が所属する団体が『なにか怪しいんじゃないの?』という目で見られることは生まれて初めての経験だったので、これに慣れ、説得するためのノウハウを身につけるまでは本当に苦労」下と語っています。
 また、意思決定に迷ったときには、
(1)立ち返れるPurpose(目的・達成目標)を持っておくこと
(2)無所属中立であること
の2つが、「自分たちの活動を広めていくため」に欠かせない、ということを学んだと述べています。
 第2章「世界最高峰のコンサル会社からNPOへの転身」では、「あらゆる分野の問題解決を手がけるのが仕事」という戦略コンサルティング会社、マッキンゼー・アンド・カンパニーに就職し、「マッキンゼーで叩き込まれた究極の問題解決法は、どこの場においても応用できる非常に優れたもの」だったので、「これを身に付けて実践してきたお陰で、『どこにいってもやっていける』という自信を持つこと」ができたと述べています。
 そして、学生生活の時までに、「自分の生きていく上での『軸』のようなものがおおよそ固まっていた」として、
(1)国や組織の壁を超えて物事に取り組みたい
(2)社会に役立つことをしたい
(3)日本を舞台にしたい
の3点を挙げ、「この3つが、いつしか僕の『想い』となって、その後の仕事と人生を形作るベースとなってきた」と述べています。
 第3章「社会起業にビジネススキルをいかす」では、TFTの食堂プログラムの営業先の対象として、
・社員食堂があり、一定数以上の利用者がいる
・社員が参加出来る社会貢献やCSRに力を入れている
・社員の健康管理に積極的に取り組んでいる
という条件から探し出し、「直接訪問してTFTの趣旨やしくみを説明して導入を打診」したと述べています。
 また、人材採用に関して、「最初の就職先はその後の価値観や仕事に対する美学・哲学を大きく左右する大切な場」だとした上で、創業期にあるベンチャー組織であるTFTにとっての新卒採用に関してのボトルネックとして、
(1)財務基盤と収入の安定性
(2)人材育成の体制
(3)精神的なケアの面
(4)キャリアパス
の4点をあげながらも、やはり「同志よ、来たれ」と語っています。
 終章「『しくみ』と『想い』が大きなつながりをつくる』では、「個人が、政府や国際機関だけに頼らず」に地球規模の問題に取り組むためには、「大きなつながり」を生み出すことだとして、
(1)地球規模の課題を解決したいという「想い」を発信する
(2)専門機能をつなげて「代表チーム」をつくる(課題解決力が圧倒的に高まる)
(3)「しくみ」に高め、価値を生み出す
(4)「しくみ」を一般の人に使ってもらい、大きくする
(5)地球規模の課題解決が進む!
の5つのステップを示しています。
 本書は、地球規模の課題の解決に動き始めた「想い」を伝えてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 一昨年、GLOCOMのプラカデミアサロンという勉強会に来てもらってお話を聞いたことが有ります。マッキンゼーの円で参加したダボス会議のグローバル・ユース・リーダーズの話とか、本書以前の話が色々聞けました。何しろ収入がないのが厳しい、という話をされていましたが、個人的に感じたのは、なんだか、芸能人の「1ヶ月1万円生活」のような感じというか、この活動をすることで「箔が付く」というか、学生の貧乏旅行の雰囲気というか、本当に生活が苦しいというリアリティは感じませんでした。なんというか、やっぱりセレブっぽいんです。


■ どんな人にオススメ?

・世界の課題を解決したい個人。


2010年2月25日 (木)

友だち地獄―「空気を読む」世代のサバイバル

■ 書籍情報

友だち地獄―「空気を読む」世代のサバイバル   【友だち地獄―「空気を読む」世代のサバイバル】(#1862)

  土井 隆義
  価格: ¥756 (税込)
  筑摩書房(2008/03)

 本書は、「空気の流れを決定する圧倒的な力」をもっている「優しい関係」を「導きの糸」に、「現在の若者たちが人間関係のキツさに苦しみ、そのサバイバルの過程で抱え込んでいる生きづらさの内実へと迫る」ものです。
 第1章「いじめを生み出す『優しい関係』」では、「現在のいじめには、日常的にその行為が繰り広げられているまさにその過程において、他人との違いに対する感受性が研ぎ澄まされていくという独特のメカニズムが見られる」として、「その集団的な行為が継続的に展開されていくダイナミックな過程を探る」ことが有意義だとしています。
 そして、「いじめという行為は、その加害者と被害者のあいだに生じる対立点に目を向かわせることで、『優しい関係』を営んでいる人々に孕まれた対立点を隠すという役割を果たしている。そして、あるグループ内でいじめが行われている様子を安全な外野席から眺めることで、多少なりとも解放されることになる」と述べています。
 また、「昨今の非行グループには、一般的な社会に対する反動としての非行サブカルチャーが成立しえなくなり、そのため集団の安定性も失われている」として、「その脆弱な人間関係をなんとか維持するために、外部の関係に対して固く殻を閉ざす傾向にある」としています。
 さらに、「昨今のいじめ問題は、誰もがコミュニケーションへ没入せざるを得ない今日の人間関係のネガティブな投影でもある」として、「昨今のマスメディアでは、コミュニケーション能力の未熟さから若者たちの人間関係が希薄化し、いじめをはじめとする諸問題の背景に鳴っているとよく批判される」が、「彼らは、複雑化した今日の人間関係をスムーズに営んでいくために、彼らなりのコミュニケーション能力を駆使して絶妙な対人距離をそこに作り出している。現代の若者達は、互いに傷つく危険を避けるためにコミュニケーションに没入し合い、その過同調にも似た相互協力によって、人間関係をいわば儀礼的に希薄な状態に保っているのである」と指摘しています。
 第2章「リストカット少女の『痛み』の系譜」では、1971年に出版された高野悦子の『二十歳の原点』と2000年に出版された南条あやの『卒業式まで死にません」という共に若くして死を選んだ「彼女たちの日記を紐解いていくことで、その生きづらさの編纂を辿って」います。
 そして、「高野の自傷行為も、南条のそれも、けっして死を希求した振る舞いなどではない。むしろ、その行為の外見とは裏腹に、生の実感を希求しての振る舞いである」点が共通しているが、「高野が、生の感触を媒介にしてその背後にある自己を確認しようと自らの身体を傷つけていたのに対し、南条は、生への刺激を直接的に自己へ与えようと自らの身体を傷つけている」ことを指摘しています。
 第3章「ひきこもりとケータイ小説のあいだ」では、「ひきこもりの青年たちが感じる社会の敷居の高さとは、外の世界で彼らを待ち構えている人間関係のキツさである」とした上で、「純粋な自分に強い憧れを覚える現代の若者達は、かえって自分を見失い、自己肯定感をそこなうという事態に陥っている。そのため、人間関係に対する依存度がかつてよりも格段に高まっている」と指摘しています。
 第4章「ケータイによる自己ナビゲーション」では、ケータイは、「たんに他人との『ふれあい』を可能にするためだけのメディアではない。そのコミュニケーションには強い身体性を伴った自己承認への欲求が潜んでいる」として、「ケータイ依存やメール依存もまた自傷行為の一種と言えるかも知れない。ケータイを言わば保護皮膜にして、少しでも心を軽くしようと必死にもがいていると考えられるからである」と述べています。
 第5章「ネット自殺のねじれたリアリティ」では、「ネット集団自殺における『形』のなさ」について、
(1)とりたてて生活の困難を抱えているわけでもないのに自殺するのはなぜかという、動機をめぐる不可解さ
(2)ネットで募った赤の他人と一緒に自殺しようとするのはなぜかという、過程をめぐる不可解さ
の2点をその特徴として挙げています。
 そして、若者の間では、「場の空気を敏感に読み取り、臨機応変にふるまって人間関係をスムーズに流していけるような能力が強く求められる。それが苦手な人間は、人格的にも否定的な評価を受けやすく、学校のクラス内でも、いわゆるスクール・カーストの底辺に位置づけられてしまう」と述べています。
 また、ネット集団自殺について、「極端に純化された純粋な関係という究極の虚構をあえて経由することによって、虚構化してしまった現実世界を逆に全否定し、『現実の中の現実』へと"サバイバル"しようとする試み」だと述べています。
 本書は、若者のコミュニケーションの今を切り取ろうとした一冊です。


■ 個人的な視点から

 「コミュニケーション能力不足」や「活字離れ」と言われることの多い今の若者ですが、今の子供達や若者を見ていると、過剰なほど友達の気を使い、場の空気を読み、強迫観点的なほどメールをやりとしていて、実は大人から見て「コミュニケーション能力不足」に見えるのは、若者同士ではより高度で繊細なコミュニケーションを取っているので、鈍感な大人はそれを察知できないからではないか、とも思えてしまいます。
 喩えるならば、若者同士はテレパシーでコミュニケーションが取れる、と。しかし、テレパシーを察知できない「旧人類」たる大人にとっては、「言いたいことがあるならはっきり話せ。おまえらはコミュニケーション能力不足だ」と感じられてしまうのではないかと想像してしまいました。

2010年2月24日 (水)

できる大人はこう考える

■ 書籍情報

できる大人はこう考える   【できる大人はこう考える】(#1861)

  高瀬 淳一
  価格: ¥714 (税込)
  筑摩書房(2008/01)

 本書は、「社会常識」に、「社会的妥当性を意識した考え方や話し方が出来ること」を加えて、ようやく「一人前の社会人」と言えるとして、「社会的妥当性を踏まえた判断や振る舞いができる『賢い常識人』=『できる大人』を社会に多く送り出」すことを目的としたものです。
 著者は、本書の各章の狙いとして、
・「定義」=社会活動に必要な言葉の意味の「明確化」についての考え方
・「程度」=社会活動に必要な「適切さ」をたもつための考え方
・「視点」=社会活動で尊重すべき「多様性」についての考え方
・「分類」=社会活動のために「分析・評価」をするときの考え方
・「総括」=社会活動に着手するときの「総合判断」についての考え方
の5点を挙げています。
 第1章「『定義』の使い手になる!」では、「できる大人」は、「議論や相談をしている時、個人によって差がある言葉を定義する必要性」に気づくとした上で、「抽象概念、大義名分、美辞麗句などには、議論や指示を『偽善化』してしまう弊害」があるとして、「社会活動にとって『偽善者』は大敵です。仕事の遂行や問題の解決より自分が善人でいるほうを優先されては、まともな社会活動などできるはずありません」と述べています。
 また、社会活動の議論で、「それは状況によるのではないか」と考えられる人は、「ケース・バイ・ケースの重要性の理解者」だと述べています。
 第2章「『程度』の使い手になる!」では、「できる大人」が、「メリハリのつけ方がわかって」いる理由として、「社会集団がメリハリをエネルギーとして動いていることを知っているから」だとした上で、「メリハリというのは状況に応じた『程度』の調整」だとして、「自分が属す集団が、今必要としている安定と変化のレベルを意識して振舞う。これが『できる大人』のあるべき姿だ」と述べています。
 また、「断定が愚かに見える理由」として、「社会的出来事には例外がつきものなのに、断定はその事実を見ようとしないから」だと述べたうえで、「あいまいにしか判断できないことと、判断したことを曖昧に表現すること」とは違うと述べています。
 第3章「『視点』の使い手になる!」では、「一般に、過去、未来、他国などへの視野の拡大は、自分の経験と分離して行う方が知的に見え」ると述べています。
 また、「一般に、社会的信念の持ち主たちは、自分の信念を基準に現実を評価し、自分のとるべき態度を決定」するとして、「自己のプライドをかけて、自分が信じる主義に固執」する強固な「○○主義者」は、「理屈だけで対応できる相手とはまず思わないこと」だと述べています。
 第4章「『分類』の使い手になる!」では、「社会生活では、『適切な分類』に基づく行動は、言わば暗黙のルールです。これを無視した行動は、非難の対象になりえます」とした上で、「分類は、複雑なものごとを理解するには、とても重要なプロセス」だが、「わかりやすさを優先させて単純なカテゴリーを採用すると、事実認識がシンプルになりすぎる危険が出て」来ることを指摘しています。
 そして、何かを評価するときの2つの方法として、
・ボックス思考:分類に箱(=カテゴリー)を使う
・スケール思考:分類にものさし(=尺度)を使う
の2つを挙げ、「なにかを評価するときには、まずボックス(箱)に入れてよいものか、スケール(ものさし)を使って段階やパーセントで表す方がよいのか、きちんと考えなければ」ならないと述べています。
 第5章「『総括』の使い手になる!」では、「総括」を、「色々考えた末に、実践に向けて判断するための知的営み」だとしています。
 そして、「最後はカンだった」という言葉について、「カンしかない」のと「最後はカン」では、大違いで、「後者の場合は、綿密な分析や試行錯誤の末に、なお優劣つけがたい可能性がいくつか残った」場合、「合理的な思考では結論を出せなかったため、仕方なく『総合的に判断した』」のだと述べています。
 本書は、「できる大人」に近づくための5つのポイントを解説した一冊です。


■ 個人的な視点から

 「できる大人」のノウハウ本みたいなのが多く出版されていますが、「メラビアンの法則」とかを持ち出して、「まずは身だしなみから」と形ばかり「できそうな大人」のスタイルを紹介する本も少なくないですが、やっぱり十代の頃に『POPEYE』とか読んでた層が対象なのでしょうか。作っている方のメンツも同じだったりして。


■ どんな人にオススメ?

・「できる大人」が増えてほしいと思う人。

2010年2月23日 (火)

戦後民主主義と少女漫画

■ 書籍情報

戦後民主主義と少女漫画   【戦後民主主義と少女漫画】(#1860)

  飯沢 耕太郎
  価格: ¥777 (税込)
  PHP研究所(2009/5/16)

 本書は、「少女漫画という1970年代まではあまり目立たなかったジャンル」を取り上げ、「なぜこの時期に女の子たちを中心に当時の若者に幅広く受け入れられ、短期間に市場を成立させて成長し、その後どのように変化していったのか」を論じるものです。
 第1章「大島弓子と『バナナブレッドのプディング』」では、「70年代のあの時期に成立した少女漫画の特性を『純粋少女』という言葉で括りたい」として、大島弓子の『バナナブレッドのプディング』は、「僕の考える純粋少女漫画としての完成度が一番高い作品」だと述べています。
 そして、「ストーリーの流れとは別のところで、登場人物のモノローグの表現がとても増え」たことについて、これを、「内面の言葉」である「内語」と呼び、「『内語』が発見されたおかげで、外に向けて実際に話す言葉と、内側で自分だけに呟く言葉の両方を同じコマで同時に表すことができるように」なり、「作品の持つ表現力の幅がものすごく広がる」ことになったと述べています。
 第2章「純粋少女とは何か?」では、「飛躍」「違和」「固着」「蕩尽」そして「感応」という「大体そういうパーソナリティというか、存在原理を持っているのが純粋少女で、漫画という舞台の中で彼女たちが自由に動き回り、その生命力を燃やし尽くしていたのが70年代少女漫画だ」と定義付けています。
 第3章「萩尾望都と『トーマの心臓』」では、「萩尾望都の作品には、60年代までは確実に機能していた、戦後の文化的な教養主義のにおいがかなりあります」とした上で、宮部みゆきと萩尾望都で共通する天として、「物語作家としての天才的な構築力や、完璧な技術力、作品の幅の広さ」だけでなく、「作者の姿が作品からはほとんど見えない」点を挙げています。
 第4章「岡崎京子と『ヘルタースケルター』」では、『Pink』について、「80年代の『愛と資本主義』のはざまをイノセントに生き抜いている純粋少女」の「栄光と悲惨を、見事に描き切っている」と述べています。
 そして、『リバーズ・エッジ』では、「資本主義社会における『幸福』の追求が最大のテーマであった彼女の作品世界から、記号を消費することのワクワク感、『フワフワした、しゅわしゅわした、スウィートは、あいまいな、夢』の輝きが、本当にぬぐい去ったように消えて」しまうと述べています。
 終章「純粋少女と少女漫画のいま」では、
(1)非論理性
(2)間主体性
(3)距離の無化
(4)非時間性
(5)受容性
の5つのポイントを挙げた上で、「これらの要素が満たされているのが、とりあえず少女原理的な空間」だとして、「これらは戦後民主主義=男性原理的な空間とは鋭く対立するものであり、それが取り落としてきた可能性をすくい取って」いると指摘しています。
 本書は、少女漫画を発見する手がかりを与えてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 少女漫画自体をあまり読んでいないのですが、「内語」の味わい方とか、少女漫画を読んでいる人ではないと楽しめない要素なのかも知れません。


■ どんな人にオススメ?

・少女漫画を読めるようになりたい人。

2010年2月22日 (月)

法律より怖い「会社の掟」―不祥事が続く5つの理由

■ 書籍情報

法律より怖い「会社の掟」―不祥事が続く5つの理由   【法律より怖い「会社の掟」―不祥事が続く5つの理由】(#1859)

  稲垣 重雄
  価格: ¥735 (税込)
  講談社(2008/4/18)

 本書は、「『会社の掟』をキーワードとして、企業が不祥事を起こす事情の考察と、それではどうしたらよいのか、について提言を」行っているものです。
 第1章「だから不祥事がなくならない」では、日本企業の不祥事が続いている理由として、
(1)企業規模が大きくなったために起きる「大企業」の問題
(2)そのメンバーが日本人だからこそ起きる「日本企業」の問題
の2点を挙げ、「この2つの側面が絡み合って企業不祥事が頻発している」と述べています。
 そして、後者の面に関して、「明治以来、現在に至る法体系は輸入ものだということに間違いはない」が、「民主主義と人権の尊重という理念に現在の日本人は賛同しているし、法が基本的にわれわれの権利を守ってくれるものになっているにもかかわらず、いまだに法律や裁判に違和感、あるいは縁遠い感じを抱く人々が多いのも事実だ」と述べています。
 また、日本社会を律しているものとして、「正直」「無私」「清貧」「真心」「寛容」「慈悲の心」「勤勉」「謙譲」など、「一見古臭く感じられる徳目や伝統的規範が脈々と行き続け、社会を導く基調となり『性さほど悪くない』といわれる社会を可能にしてきた」と述べています。
 第2章「企業の不祥事パターン」では、日本企業で不祥事が続く理由として、
(1)日本人と法の関係
(2)関係的主体であること
(3)あらゆる組織が共同体化する
(4)「会社の掟」が存在する
(5)目的と手段の逆転
の5点を挙げています。
 また、不祥事の類型として、
(1)経営効率過剰重視型
(2)情報の非対称性悪用型
(3)優越的地位濫用型
(4)部門暴走型
(5)共同体死守型
(6)トップ暴走型
(7)尊大民僚型
の7点を挙げています。
 第3章「不祥事はなくせるのか」では、「日本には、企業活動の社会性を認識し、不祥事とは無縁の立派な経済活動を行っていた先人たちがいる」として、江戸時代に「三方よし」を実践した近江商人を挙げています。
 そして、「日本人とその組織の特性」が、「『共生』という理念からするとCSR適性をもたらす一方で、会社の共同体化も促すものである」と指摘しています。
 また、「法的処罰・行政的制裁の厳格化、法による統治を図る法化社会への変貌は、脱談合の動きと同じく『時代の要請』」だとした上で、その理由として、「見えない規範」による統治が限界に達しているからだと述べています。
 本書は、日本企業の体質を切り口に日本社会を論じた一冊です。


■ 個人的な視点から

 日本企業の不祥事の問題を扱う本かと思ったら、扱っているのは日本社会そのものという感じで、よくある話というか、視点としてはちょっとぼやけた気がします。


■ どんな人にオススメ?

・日本企業は日本社会の写像だと思う人。

2010年2月21日 (日)

軍用鉄道発達物語―陸軍鉄道部隊の全容

■ 書籍情報

軍用鉄道発達物語―陸軍鉄道部隊の全容   【軍用鉄道発達物語―陸軍鉄道部隊の全容】(#1858)

  熊谷 直
  価格: ¥1890 (税込)
  光人社(2009/04)

 本書は、「戦争の時には本来の輸送機能により国家に貢献した他、平時も相手国の鉄道を謀略の道具として使い、また戦時の破壊工作や爆撃などで的の交通を妨害し、人々の不安を煽るマイナスの役割も果たすように利用された」ことなど、「主として日本の鉄道と戦争・軍事のかかわり合い」を述べたものです。
 第1章「鉄道がもつ軍事上の意味」では、日本の参謀本部が明治20年に、「鉄道論」を天皇に上奏していることについて、「とうじはメッケルの意見により、軍事制度の改革が進んでいたのであり、その一環であったと考えられる」と述べ、そのポイントとして、
(1)鉄道は戦時輸送に配慮してルートを決めなければならない
(2)単線の鉄道は軍事輸送に不適当
の2点を挙げています。
 第2章「日露戦争準備と戦時の鉄道」では、「日清戦争で鉄道の戦時利用の重要性を認識した政府は、鉄道敷設法により鉄道網の整備計画を作成し、この計画を民間鉄道会社にも示して鉄道整備に努めた」と述べた上で、参謀本部が、「鉄道線路を海岸から離して建設することを要求していた」ことについて、「その後の大艦巨砲の発達や航空機の発達を考えると、鉄道を海岸近くに敷設しないという原則論は、普仏戦争の体験に基づくドイツ陸軍の古い説の受け売りであり、将来への見通しが無いものであったと言わざるをえない」と述べています。
 また、日露戦争時の要塞攻略に鉄道の整備が不可欠であったことを挙げ、「鉄道舞台は戦争の裏方ではあったが、日露戦争では重要な役割を果たした」としています。
 第3章「日露線相互の鉄道と世界の戦争」では、第一次世界大戦について、「鉄道は最期まで重要な輸送手段ではあったが、航空機の出現で、空からの攻撃を受ける危険性についての配慮が必要になった。その一方で、艦砲射撃されることを恐れて、鉄道を沿岸に敷設するのを避けることは、意味がなくなっていた」として、「日本は第一次世界大戦で、このような大規模地上戦や国家総動員戦、さらには新しい兵器による戦闘やトラック輸送を経験しなかった」ことを指摘しています。
 第4章「国家総力戦に貢献した鉄道技術」では、「明治39年制定の鉄道公有法によって日本国内の幹線だけでなく、朝鮮半島の幹線も公有化された」として、「大正末には、全国で鉄道の恩恵を被らないところはないと、いえるほどになった」と述べた上で、「戦車のような重量物を鉄道で輸送するときは、路盤の強度や、鉄橋の幅と強度が問題になる」として、「狭軌の鉄道は、軍事用としては、あらゆる意味で問題があることになる」と指摘しています。
 第6章「陸軍鉄道部隊の戦時行動」では、「陸軍に鉄道隊がはじめて編成されたのは、日清戦争後の明治29年11月であった」とした上で、「大正7年5月には第2聯隊も、津田沼に編成された」と述べ、敗戦時までには、鉄道聯隊が第20聯隊まで臨時に編成され、聯隊編成ではない独立の鉄道大隊も、第23大隊まで編成されたと述べています。
 第7章「敗戦直後の日本の鉄道」では、「日本の鉄道は昭和30年代から、軍とは無関係の新しい発展をした。新幹線や青函トンネルは、戦前に、前段階としての計画が出来ていた。その計画の時は、軍事利用の配慮があったが、いまではそのようなことは忘れ去られている」と述べています。
 本書は、日本の鉄道の発展と切っても切れない軍事利用との関係を解説した一冊です。


■ 個人的な視点から

 千葉駅の近くに鉄道聯隊跡地の千葉公園というのがありまして、蓮の時期になると花が綺麗なのですが、よく見ると演習用の橋脚のあととかが残っています。


■ どんな人にオススメ?

・鉄道がどのように整備されたかを知りたい人。

2010年2月20日 (土)

総理の辞め方

■ 書籍情報

総理の辞め方   【総理の辞め方】(#1857)

  本田 雅俊
  価格: ¥882 (税込)
  PHP研究所(2008/7/16)

 本書は、「戦後日本の首相たちが、どのように最高権力の座を降り、散っていったのかを浮き彫りにしたもの」です。
 著者は、「もっとも美しく、潔いと思われる5人の首相の退任」として、鳩山一郎と石橋湛山、岸信介、池田勇人、そして小泉純一郎の5人を挙げ、「この中には、あえて『勇退』で行動を示した者もいれば、文字通り明鏡止水の心境で颯爽と官邸を去った者もいる」と述べています。
 第1章「終戦・占領下の時代」では、東久邇宮稔彦について、平成2年に享年102歳で大往生したことを、「首相経験者としては日本記録のみならず世界記録も保持し、ギネスブックにも載った」と述べています。
 また、吉田茂について、大野伴睦が、「講和条約締結直後に政界を引退していれば、神様だったに違いない」と回顧していることを挙げ、「講和条約の締結とともに、吉田の影響力に陰りが見え始める」と述べています。
 第2章「復興・成長の時代」では、「歴代首相の中で、その引き際がもっとも美しいとされているのは、石橋湛山であろう」とした上で、「その引き際の美しさとは裏腹に、最高権力の座を勝ち取るための自民党総裁選挙は熾烈を極め、永田町では権謀術数の限りが尽くされた」と述べています。
 第3章「派閥抗争の時代」では、三木武夫について、「志半ばの退陣」であったため、三木が、「日本の民主政治の健全な発展を目指してただ一筋に歩んできた風雪40年の道を、今後とも普遍の情熱を持って歩みつづける」として、「その後も政治浄化に努めた」と述べています。
 また、福田赳夫について、「首相として不完全燃焼だったためか、それとも退陣劇に著しい不満が残ったためか、首相の座を降りてから福田は、『今後は昭和の黄門の気持ちで全国をかけめぐる』と息巻」き、「精力的に活動を続けた」と述べています。
 第4章「改革標榜の時代」では、中曽根康弘について、「国会議員になった以上、多かれ少なかれ、最高権力者になることを夢見るもの」だが、中曽根の場合は、「内閣総理大臣になるために国会議員になった」として、若かりし頃から、「首相になったときに成し遂げたい政策を大学ノートに書き留めていた」と述べています。
 第5章「自民党凋落の時代」では、橋本龍太郎について、「人望を欠いた」と指摘されるとして、竹下が、「怒る、威張る、すねるがなければ、とっくに総理になっている」と分析していることを挙げ、「頭脳が明晰であることは誰もが認めたが、鋭利すぎたことが玉に瑕で幸いしたのかも知れない」と述べています。
 第6章「ポピュリズムの時代」では、「冷めたピザ」と海外メディアから評された小渕恵三が、「こうしたイメージとは裏腹に、小渕には勇敢かつ実にしたたかな面があった」として、「肩で風を切り、鋭利な頭脳で相手を論破した橋本に比べ、小渕は凡庸な首相と思われたが、多くの敵を作ることなく、着実に実績を残した」と述べ、「燻し銀の宰相」は、「1年8ヶ月を全力疾走し、数えきれないほどの足跡を残した」と指摘しています。
 また、小泉純一郎について、その評価は、「歴史家に委ねなければならない」として、「改革によって弊害がもたらされたのも事実である」が、「政治を変え、自らの大願を成就させ、余力を多分に残して颯爽と首相官邸をあとにした姿を評価する国民は少なくない」と述べています。
 本書は、日本の戦後政治を首相の去り際の姿から追った一冊です。


■ 個人的な視点から

 在任時は「凡人」とさんざん言われていた人でしたが、最近、小渕首相を評価する声が大きくなっているような気がします。一方で、森首相のリバイバルはあまり聴いたことがないのですが、いつか再評価される日は来るのでしょうか。何しろ「鮫」といわれているだけに。


■ どんな人にオススメ?

・首相jは辞め際が肝心だと思う人。

2010年2月19日 (金)

脱藩官僚、霞ヶ関に宣戦布告!

■ 書籍情報

脱藩官僚、霞ヶ関に宣戦布告!   【脱藩官僚、霞ヶ関に宣戦布告!】(#1856)

  脱藩官僚の会
  価格: ¥1680 (税込)
  朝日新聞出版(2008/9/5)

 本書は、「官僚主導の政治・行政を変えられる者」として、「霞が関の手の内を知る元官僚」である上、「母屋と完全に縁を切り、自力で道を開いている元官僚」である「脱藩官僚」こそ、「霞が関連合軍に宣戦布告できる者」だとしているものです。
 第1章「官僚のお家芸『改革の骨抜き』を完全阻止する!」(江田憲司)では、通産大臣秘書官、総理大臣秘書官という「怒涛のような4年間」で得た知識や経験は、「何物にも代え難い私の宝物」だとして、「今の私、江田憲司がある」と述べています。
 第2章「天下りの斡旋禁止で官僚の質はアップする」(高橋洋一)では、「省庁が年功序列をよしとし、官僚が皆省益優先で組織に忠誠を誓うのは、省が老後の面倒を見てくれるから」だと指摘し、「霞が関を変えるために一番効果が上がる作戦」は、「象徴による天下り斡旋禁止」だと述べています。
 第3章「官僚の政策独占を打ち破り、官製不況を止める!」(岸博幸)では、竹中大臣の改革を手伝おうと決意した理由として、
(1)役人としての心意気
(2)役人としての自負
の2点を挙げた上、さらに正直な気持ちとして、「官僚組織に心底嫌気がさして」いた事を挙げています。
 そして、「霞ヶ関文学」の解読には、「特殊なスキル」が必要であり、「テクニックを知りつくした官僚でない限り、手口は見破れない」と指摘しています。
 第4章「大阪維新に期待!地方分権こそ霞ヶ関改革の近道」(上山信一)では、「国が地方をリードし、霞ヶ関が日本全体を引っぱる時代」は終わったにもかかわらず、「日本人は構造改革を議論するときですら中央政府の方針を待つという姿勢」が抜けないことを、「まるで泥棒に刑法改正を頼むようなもの」だとした上で、
(1)産業も暮らしも地域の特性に合わせて考える時代
(2)官でも民でも疲弊した巨大組織はなかなか変われない
(3)官僚を本来の「公僕」の地位に戻す作業を急ぐべき
の3点を挙げています。
 そして、霞ヶ関の役人が、「国民から嫌われつつも、まだ信頼もされて」いる上、「法律、予算を作る技術や世論喚起のテクニックまで幅広いノウハウを蓄積して」いることについて、「これらは使い方次第で毒にもクスリにもなる」と述べています。
 第7章「国の人事制度を変えれば税金の無駄遣いは簡単になくせる」(木下敏之)では、著者が佐賀市長になった理由として、「地方を豊かにするには、農業改革だけでなく他の様々な政策を総合的に実施することが必要だと、栃木県の経験で実感した」ことを挙げています。
 本書は、国を変えるためには官僚と官僚出身者の力を活用することの大切さを教えてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 「脱藩」と言いながら、考えてみれば中央省庁を出ていった人たちは、「藩」ではなく「幕府」に務めていたわけですから、「脱藩」ではなく「脱幕」とかの言葉を使う方が適切ではないかと思うのですが、それでも「脱藩」という言葉を使いたがるのは、日本には司馬遼好きというか、龍馬好きというか、そういうところが影響しているのかも知れません。


■ どんな人にオススメ?

・「脱藩」してみたいと思う人。

2010年2月18日 (木)

数学がわかる楽しみ

■ 書籍情報

数学がわかる楽しみ   【数学がわかる楽しみ】(#1855)

  ピーター・M. ヒギンズ (著), 吉永 良正 (翻訳)
  価格: ¥2520 (税込)
  青土社(2003/08)

 本書は、「この世で最も公平に配分されている良識(ボン・サンス)」さえあれば、「誰もが無理なく読み進められる」ようになっていて、「自分の頭で考え、自分の手で計算したり証明したりする」という「数学がわかる楽しみ」が体験できるものです。
 第1章「10の問題と解答」では、本書で、「過去の天才たちでさえ知らなかった現代数学のパノラマの一部を見ることの満足感を皆さんに味わってもらいたい」と述べています。
 第3章「いくつかの幾何学」では、ユークリッド幾何学を取り上げ、その証明は、「私たちの子々孫々に到るまでやはりそれらのエレガントさに魅了されていくに違いありません」と述べた上で、「今ではユークリッド幾何学は学校教育であまり重きを置かれなく」なったと述べています。
 第4章「数」では、「数の研究の難しさは、数が無限に存在し、しかもそれらが全て異なる点」にあると述べています。
 第5章「代数」では、エチオピアのある部族の人々が、「倍数か半数にする掛け算しか行わず、その上、分数というものを全く扱」わないのもかかわらず、「どんな数同士の掛け算も自在にでき、それによって売買を行って」いると述べています。
 第6章「もっとQ&A」では、「もしあなたがどうしてもロトをやると決めた」ときに数学者にできるアドバイスとして、
(1)大きな数字を選びなさい(小さい数字、とくに31イカの数字は、友人や家族の誕生日にかこつけて選ばれやすいため)
(2)安定のために最も重要なこととして、毎回買う度に同じ数字を選ばないこと。
の2点を挙げています。
 第7章「級数」では、「数学を学び始めて最初に出会う簡単ですが興味深い問題」として、「数列のパターンを見つける問題」を挙げ、「そこから自然に級数すなわち数列の輪の問題が生まれ、知らぬ間に数学の深奥へと導かれてゆく」と述べています。
 第8章「確率とゲーム」では、「数学者や経済学者や軍事戦略家が『ゲーム』の最適戦略の話をすると、多くの聴衆はすぐに、そのような戦略が問題のゲームの全家庭で起こりうるいかなるシナリオに対しても同じように適用できて最良の答えを与えると思いがち」だたが、「現実の人生ゲームやその理論において、最適戦略がそのまま通用することはまれ」だと述べています。
 本書は、数学を学ぶ楽しさを誰でも追体験できる一冊です。


■ 個人的な視点から

 数学というと嫌いだという人が本当に多いのですが、数学を学ぶのが好きな人というのはどういう人なのかと考えてみると、普通に学校で学んでいる途中かどこかで数学の楽しみの入り口を見つけてしまう人なのかも知れません。本書のような本に学生時代に出会っていれば、もしかすると数学の道に足を踏み入れてしまっていたかも知れません。


■ どんな人にオススメ?

・数学はつまらないものだと思う人。

2010年2月17日 (水)

人でなしの経済理論-トレードオフの経済学

■ 書籍情報

人でなしの経済理論-トレードオフの経済学   【人でなしの経済理論-トレードオフの経済学】(#1854)

  ハロルド・ウィンター (著), 山形浩生 (翻訳)
  価格: ¥1,575 (税込)
  バジリコ(2009/4/3)

 本書は、「どんな政策、どんな規制、どんな変化や行動にも、良い面と悪い面がある」というトレードオフの考え方についての本です。著者は、「社会問題を考える方法の一つとして経済学的な議論を紹介する」ことを目的としているが、「唯一無二の方法としてそれを示すこと」ではないと述べています。
 第1章「社会問題へのアプローチ」では、「社会問題の分析にあたり、ぼくが経済学者として受けた訓練は、何が正しいか間違っているかについて道徳的な判断は下さず、トレードオフを見極めるように努力しようということだ」と述べた上で、社会問題解決へのアプローチとして、
(1)目下の問題にある理論的案トレードオフを見極めよう。
(2)できればトレードオフを実証的に測って、費用と便益のどちらが大きいか見極めよう。
(3)これまでのステップを元に、社会政策を提言(または実施)。
の3つのステップを挙げ、「本書では、もっぱらステップ1に注目する」と述べています。
 第2章「人命の価値っていかほど?」では、「人名に有限の価値しかおかない」という「経済学者たちが明示的にやっていることは、ほとんど誰もが暗黙のうちにやっていること」だとして、「費用便益の観点から人命の価値は無限じゃないんだという考え方を認めたら、必然的に人命とお金を引換えにするという発送も認めることになる」と述べています。
 第3章「取引しようか?」では、臓器移植を取り上げ、「資源を最高価値の利用に向けることに関心があるなら、その方法を実現するためのあらゆるメカニズムは、次の2つの問題と直面する可能性がある」として、
(1)よそでもっと高い価値での利用があっても、移転が起こらないこと
(2)資源がもっと低い価値の利用に移転しかねないこと
の2点を挙げています。
 第5章「持っているなら吸ってはいかが」では、喫煙の問題について、「まず喫煙が消費者にとって合理的な選択だと想定することから出発」し、「その後で、その選択に伴う市場の不完全性の可能性」を考えるとして、消費者の誤解、中毒、タバコの広告、若年喫煙、国の保険費用、副流煙などの問題を挙げています。
 そして、「ありがちな反喫煙メッセージとは裏腹に、喫煙は別に百パーセント健康の悪化をもたらすわけじゃない。喫煙は不健康な活動だが、その不健康というのは、病気になったり死んだりする確率をふやすというだけのことだ」と述べています。
 第6章「人に迷惑をかけないとは?」では、「経済学者が負の外部性と呼ぶもの」について、「個人の私的な行動が、別の個人にコストをかけるということ」だとした上で、「喫煙者が社会に与える金銭的な費用を推計しようとする研究」について、その費用としては、
(1)医療費の総額が上がる
(2)病気で休業する費用
(3)集団保険料
(4)喫煙は火事のもと
(5)寿命が短いせいで喫煙者は政府に支払う社会保障費などの税収への貢献が少ない
などの項目を挙げた上で、「喫煙者が非喫煙者よりも低い金銭費用しかかからない分野」として、
(1)寿命が短いと老人ホームの費用も少ない。
(2)喫煙者の多くは引退年金の支払を受ける以前に死ぬか、少なくともかなり残高を残して死ぬ。
の2点を挙げています。
 そして、著者の個人的な結論として、「たぶん喫煙の費用は過大に言われていると思うし、喫煙の便益はどうみても過小に述べられている」と述べています。
 第7章「規制と行動の変化」では、「正しい情報を増やしたらそれがリスクある行動を増やす場合、正しい情報提供は適切な社会政策と言えるのだろうか?」と述べた上で、「医療過誤をはじめとする本章の例は、規則や規制に対する人々の行動反応がかなりの相殺効果をもたらして、政策立案者の当初の目標をダメにする可能性があるということを如実に示している」と述べています。
 第8章「警告――製品に注意」では、「企業が効率的な安全策を採用するインセンティブとして、民法は損害賠償ルールを決め、消費者が欠陥製品で被害に苦しんだときには、どこまでの損害賠償責任を負うかを決めている」として、
(1)厳格賠償責任:企業がどれだけ安全に気を使っていたかによらず、製造物関連事故すべてのあらゆる損害について企業に責任があるとする。
(2)過失ルール:企業は十分な注意を払っていたのであれば製造欠陥の損害賠償からは逃れることができる。
の2つのルールを挙げた上で、著者の意見として、「損害賠償方、契約法、政府規制を比べるときの一番重要な点は、この3つが代替物であるだけでなく、各種の面で相補的な存在だということを認識することだ」と述べています。
 第9章「解決策などない?」では、2003年夏のアメリカの大停電について、「停電問題は、悲劇がそれ自体として公共政策の対応を決定づけてしまう好例だ」として、「適切な政策的解決を考える前に、その悲劇の恐怖から自分を切り離すことが重要だ」と述べています。
 そして、社会問題について考えるときのアプローチとして、「他人に悪影響を与えないような、個人的なリスク活動(たとえば自分ひとりで喫煙すること)を考えるとき、ぼくはそうしたふるまいを抑えるような社会的介入は正当化しにくい」とする一方、「問題の核心は、個人が他人の嫌がる行動をするかどうかにある」と述べています。
 本書は、社会問題の解決を考えるときに、まず考えなくてはならない一面を示した一冊です。


■ 個人的な視点から

 山形浩生が訳した本というのは、どの本も大好きで、他にも翻訳家としては、松浦俊輔さんとか、有賀裕子さんとかの本は、この人が翻訳しているというだけで「買い」です。
 翻訳家という仕事は、もちろん翻訳された文章の善し悪しもあるのですが、なにより目利き力というか、メイヴン(通人)というか、世界中の本の中からこの人が選んだ本、というところで選んでしまいます。


■ どんな人にオススメ?

・世界をできるだけフラットに眺めたい人。

2010年2月16日 (火)

スポーツマンシップを考える

■ 書籍情報

スポーツマンシップを考える   【スポーツマンシップを考える】(#1853)

  広瀬 一郎
  価格: ¥1,575 (税込)
  小学館(2005/04)

 本書は、「スポーツをやる上で守らなければならない精神的なもの」である「スポーツマンシップ」について、「どのように理解し、どのように教えたらいいのか」を解説したものです。
 第1章「スポーツマンシップに関する10の疑問」では、スポーツとは、「遊びの形態をとりながら、競争の要素を持ち、ルールによって統制された、人類が自由意志で選択した身体活動」だとした上で、スポーツマンシップを、「若いアスリートが競技を通じて少しずつ身につける人格的な総合力と言い換えること」もできると述べています。
 そして、「勝利至上主義」と「快楽至上主義(競争否定主義)」の2つの曲ろを挙げた上で、勝利至上主義の一番の問題として、「スポーツを通じて体得することができる他の重要な要素を阻害してしまうこと」を指摘しています。
 また、「競技をするには常に他社との関係が生じるため、スポーツは人間関係に関する判断力を向上させる場」だと述べています。
 第2章「スポーツと『生き方』との関係を考える」では、「人生はゲームのようなものだ」と言われるとした上で、「スポーツを通じて真剣に遊ぶという体験は、『人生をどう考えるか?』に少なからず影響を及ぼすはず」だとしています。
 第4章「スポーツマンシップを教える」では、「スポーツマンシップ」をテーマに小学校5年生を対象に授業を行った際の原稿を紹介しています。
 そして、スポーツマン(特にGood Loser)について、
(1)規則(ルール)に従う。
(2)相手を尊重する。
(3)勝つために最善の努力をする。
(4)良い試合をする。
(5)負けた時の態度。
(6)フォア・ザ・チーム。
(7)審判を尊重する。
(8)フェアプレー。
の8点を挙げています。
 本書は、スポーツマンとは何かを考える一冊です。


■ 個人的な視点から

 個人的にはスポーツをやらない人なので、学生時代に部活とかやっていなかったのですが、学生がなにかスポーツに打ち込むこと自体は素晴らしいとは思うものの、特に勝利至上主義的な部活動は逆効果なんじゃないかと思ってしまいます。


■ どんな人にオススメ?

・スポーツマンシップを素晴らしいと思える人。


2010年2月15日 (月)

ラブホテル進化論

■ 書籍情報

ラブホテル進化論   【ラブホテル進化論】(#1852)

  金 益見
  価格: ¥767 (税込)
  文藝春秋(2008/02)

 本書は、「日本の住宅事情と日本人の羞恥心の変化に反応しながら発展してきたラブホテル」について、「日本だからこそ、生まれ育った日本の文化」と指定捉えたものです。
 第1章「あこがれのラブホテル」では、「人々のあこがれが集まる場所」がラブホテルだとして、戦後すぐの連れ込み旅館では、憧れの存在だった「風呂」を売りにしたと述べ、アイネグループ名誉会長の小山立雄氏が、「家庭にないようなものがなにかあるということは集客をする際に相当大きなインパクトになる」と語っていることを紹介しています。
 また、御殿や御苑など、「高いくらいを表すようなネーミングが多く用いられているのは、そこにあこがれを感じる人々の意識を反映させたものだ」と述べています。
 そして、キーワードは、「ホテルでしか経験できないような非日常」だとして、「ラブホテルには、古城のような外観や、回転ベッドに代表されるような、夢のような非日常空間が追求された時代があった」が、現在のラブホテルは、「カップルが二人きりでくつろげる癒しの非日常空間へと変化している」と述べています。
 第2章「ラブのシグナル」では、「と、いうわけで。」「おててつないで」「よい子CLUB」「すずめの学校」「べんきょう部屋」など、1990年代に入ってから変わったホテル名が次々と生まれた理由として、「できるだけ費用をかけずに宣伝効果を上げる方法として、とにかく一度聴いただけで強烈に印象に残るホテル名が次々と考案された」と述べています。
 また、ラブホテル建築の大きな特色として、「建物から部屋、備品、ときには時間せって、サービス内容にいたるまで殆どを、ひとつの設計事務所が受け持っている」ことを挙げ、「日本ではラブホテルを専門とする設計事務所はごくわずか」であるため、「デザイナーやコンサルタントの考えが全国の多くのラブホテルに反映されている」と述べています。
 第3章「ラブホテル必須アイテム」では、「電動ベッドだけではなく、ラブホテルが進化を遂げるとき、必ず何か全く別のものとのコラボレーションが見え隠れする」と述べています。
 そして、ラブアイテムが発展しすぎた理由として、
(1)話題性が広告の役割を果たした
(2)客単価の底上げと、客寄せパンダ的役割を果たした
の2点を挙げています。
 第4章「ラブホテルをつくる」では、全国のラブホテルの件数が把握できない理由として、「現在のラブホテルは、ラブホテルであって、ラブホテルではない」として、一定の広さのロビーやレストラン、フロントなどを設置するなど、「条件さえクリアすればラブホテルもモーテルもシティホテルも区分けなく、当局の認知を得ることができる」と述べています。
 第5章「ラブホテルを経営する」では、ラブホテルの経営者というとヤクザや在日韓国人という印象を持つ人が多いが、「ラブホテルの経営者は、出身が様々」であり、「例えば関西には石川県出身の経営者」が多く、「豆腐屋さんで資本貯めて、お風呂屋さん。またそれで資本貯めて、売却してホテル」というステップが多いと述べ、「ラブホテルの経営者は、他府県から出てきて」というパターンが多く、「人が嫌がる職種であるからよそ者がやりやすいという点では、在日韓国人の経営者が多いというのもうなずける」として、「ラブホテルを経営するということは、マイノリティという立場の人々が富を得るための、少ない選択肢の一つだった」と述べています。
 そして、経営上、金銭管理が重要な問題となり、「従業員の"ぽっぽないない"がとても多かった」ため、その対策として自動精算機が考案されたと述べています。
 第6章「ラブホテルを利用する」では、ホテルの一人利用が断られる理由として、「風俗理由とそのイメージを避けるため」や、「一人になると自殺や逃走中の犯罪者の滞在など、事件性も高くなる」と述べています。
 第8章「ラブホテルの未来」では、バブル崩壊後から、ラブホテルが緩やかに衰退し続けている原因として、「ラブホテルの大きな特権であった"二人きりになれる空間"が他にも登場してきた」ことを挙げ、ワンボックスカーやカラオケルーム、漫画喫茶、貸切温泉、飲食店の個室のブームなど、「ラブホテル以外の個室空間が急速に充実し始めた」と述べています。
 本書は、日本に独特なラブホテル文化に真面目に取り組んだ一冊です。


■ 個人的な視点から

 著者の「師匠」にあたる井上章一氏の『愛の空間』も名作です。この本は、一昨年のゴールデンウィークの時に、館山から渋滞で一時間以上遅れた高速バスの中で読んだことを思い出しました。本を読むという行為は、本に書かれている中身をインプットしているようでありながら、実は本の内容を「タグ」代わりにして読んだ時の状況をインプットしているのかも知れません。


■ どんな人にオススメ?

・ラブホテルはつまらないものだと思う人。

2010年2月14日 (日)

若者の働く意識はなぜ変わったのか―企業戦士からニートへ

■ 書籍情報

若者の働く意識はなぜ変わったのか―企業戦士からニートへ   【若者の働く意識はなぜ変わったのか―企業戦士からニートへ】(#1851)

  岩間 夏樹
  価格: ¥2,310 (税込)
  ミネルヴァ書房(2010/04)

 本書は、「企業戦士と呼ばれた終身雇用サラリーマン像」と、「定職につかないニートなどの若者像」の2つの世代を分析することで、「働くことへの世代の考え方を明らかにする」ものです。
 第1章「若者は社会の変化に適応できるか」では、「本当にみんなが必死になって働いたのは70年代半ばくらいまで」で、「ここから先はかなり楽になって、ある程度達成された豊かさを前提に、さらに一層の成長をした時代」だとして、「経済成長の波に身を任せているだけなのに、生活水準が上昇していく」フリーライダーが見られるようになったと述べています。
 そして、「職場が強力なサポート体制を提供してくれるライフスタイルの55年体制は、長い平成不況と、小泉改革のプロセスで終わりを迎えた」として、インターネットの普及が、「ライフスタイルの55年体制の崩壊と軌を一にして進行したという非常にユニークな意味を持っている」と述べています。
 また、「我々の社会は、もはや、物質的な豊かさを求心力として利用できないところまできてしまっている」結果、「若い世代から順に、それに変わる求心力を模索し始めた」と述べています。
 第2章「若者の『失われた十年』とインターネット」では、「ライフスタイルの55年体制」は、「富の配分も政治的であった」が、「小泉構造改革と呼ばれるものは、この状況にメスを入れようとしたものだ」と述べています。
 そして、「雇用の流動化が進み、様々なことが職業として認知されるようになった社会にあっては、そのゴールに向かって進む手段も実に多種多様な選択肢がある」として、この状況を、「就労アノミー」(アノミー:目標と手段とが複雑に葛藤して合理的な解決策が見えにくくなっている状況)という現象として解説しています。
 第3章「若者の働く意味の変化」では、「様々な人間と直接対面した形で行われるヒューマン・ソーシャライゼーションと、情報や商品によってもたらされるマス・ソーシャライゼーション」とがあるとして、それぞれにアクセントがおかれた育ち方をしている世代について、「利害対立している両者は、しかし同時に、肩を並べて率直な自己提示を避け、ともに擬態のシェルターに隠棲している同類同士でもある」と述べ、「『まったり生きる』という若者言葉は、企業戦士型のライフスタイルの正確な陰画になっている。豊かな時代に生まれ育った世代は、それで十分満足なのだ」と述べています。
 そして「少なく見積もっても、戦後半世紀以上もの長きにわたって、われわれは際限もなくモノを消費する、それなりの理由を与えられてきた」が、「ここへきてそれが一挙に不透明になってしまった」と述べています。
 また、「フリーター」について、「この社会で積極的に一人前の役目を引き受けることを躊躇している存在」としながらも、「よく言われる確信犯的怠け者は極少数のはず」で、「その背後にあるのは、つきつめれば、この社会に対する漠然とした不信感である」として、「若い世代からそっぽを向かれた社会の先行きは暗い」と述べています。
 さらに、「ニート状態にある若者は、本質的に同世代の若者とさほど異なる特性をもつわけではない」として、「ちょっとしたきっかけで職場や学校といった『外』の生活空間に定着できず、次第に距離をおいてしまうライフスタイルによって形成されたもののように思えた」と述べ、「ニート状態にある若者の問題は、まず第一に、このような産業構造の変化、職業観の変化、ワークスタイルの変化が、ある種の若者を働くことから排除する社会的モメントとして作用していることを考えなければならない」と指摘しています。
 第4章「総中流社会に変わる若者の居場所」では、「家族関係の過去を振り返ると、われわれは安直に、父親を中心とする家父長制的な家族関係が、現在見られるような愛情で結びつけられた家族関係に変化したと考えがち」だが、「実際には、もっと複雑なプロセスを経て現在に至っている」として、「我々が封建的だと思い込んでいる古い家族関係は、実は明治の民法制定から生まれた」と述べ、この「近代家族」の原型の特徴を、
(1)他の親族からの独立
(2)ムラなど外部の共同体からの独立
(3)戸主権の明確化
の3点を挙げ、「それまで武家や大商人など一部のものにしか見られなかった、家を創り、それを継承していくという観念が、すべての国民に拡散した」と述べています。
 そして、「大正時代になると、中級ホワイトカラーが増加し、職住の分離が広まり、主婦というものが初めて社会的に認知されるようになる」と述べ、戦後のベビーブーム世代が家庭をもつようになると、住宅需要の高まりから大規模なニュータウンの開発が計画され、「ニューファミリー」と呼ばれる家族が生まれたと解説しています。
 また、「安定しているが(いまや疑問だが)窮屈でしんどい正社員、ライフスタイルの自由度はあるが低賃金で不安定な非正規雇用」という「不毛の選択を前にして、若い世代は、どちらにしてもしんどいならば意義を感じられる仕事をしたい、とメッセージしている」ことについて、「日本の若い世代が今なお、仕事は聖なるものという感覚をどこかに持っているからだ。この奇跡のような僥倖は大切にされるべきだ」と述べています。
 本書は、働く意識が、産業構造や家族の形によって大きく左右されることを示す一冊です。


■ 個人的な視点から

 基本的には、本の内容そのものはごもっともという感じなのですが、世代論はどうしても評論家っぽくなってしまって新たな発見らしいものというか、ひらめきみたいなものを打ち出しにくいのが難点なのかと思います。


■ どんな人にオススメ?

・若者の職業観を知りたい人。

若者の働く意識はなぜ変わったのか―企業戦士からニートへ

■ 書籍情報

若者の働く意識はなぜ変わったのか―企業戦士からニートへ   【若者の働く意識はなぜ変わったのか―企業戦士からニートへ】(#1851)

  岩間 夏樹
  価格: ¥2,310 (税込)
  ミネルヴァ書房(2010/04)

 本書は、「企業戦士と呼ばれた終身雇用サラリーマン像」と、「定職につかないニートなどの若者像」の2つの世代を分析することで、「働くことへの世代の考え方を明らかにする」ものです。
 第1章「若者は社会の変化に適応できるか」では、「本当にみんなが必死になって働いたのは70年代半ばくらいまで」で、「ここから先はかなり楽になって、ある程度達成された豊かさを前提に、さらに一層の成長をした時代」だとして、「経済成長の波に身を任せているだけなのに、生活水準が上昇していく」フリーライダーが見られるようになったと述べています。
 そして、「職場が強力なサポート体制を提供してくれるライフスタイルの55年体制は、長い平成不況と、小泉改革のプロセスで終わりを迎えた」として、インターネットの普及が、「ライフスタイルの55年体制の崩壊と軌を一にして進行したという非常にユニークな意味を持っている」と述べています。
 また、「我々の社会は、もはや、物質的な豊かさを求心力として利用できないところまできてしまっている」結果、「若い世代から順に、それに変わる求心力を模索し始めた」と述べています。
 第2章「若者の『失われた十年』とインターネット」では、「ライフスタイルの55年体制」は、「富の配分も政治的であった」が、「小泉構造改革と呼ばれるものは、この状況にメスを入れようとしたものだ」と述べています。
 そして、「雇用の流動化が進み、様々なことが職業として認知されるようになった社会にあっては、そのゴールに向かって進む手段も実に多種多様な選択肢がある」として、この状況を、「就労アノミー」(アノミー:目標と手段とが複雑に葛藤して合理的な解決策が見えにくくなっている状況)という現象として解説しています。
 第3章「若者の働く意味の変化」では、「様々な人間と直接対面した形で行われるヒューマン・ソーシャライゼーションと、情報や商品によってもたらされるマス・ソーシャライゼーション」とがあるとして、それぞれにアクセントがおかれた育ち方をしている世代について、「利害対立している両者は、しかし同時に、肩を並べて率直な自己提示を避け、ともに擬態のシェルターに隠棲している同類同士でもある」と述べ、「『まったり生きる』という若者言葉は、企業戦士型のライフスタイルの正確な陰画になっている。豊かな時代に生まれ育った世代は、それで十分満足なのだ」と述べています。
 そして「少なく見積もっても、戦後半世紀以上もの長きにわたって、われわれは際限もなくモノを消費する、それなりの理由を与えられてきた」が、「ここへきてそれが一挙に不透明になってしまった」と述べています。
 また、「フリーター」について、「この社会で積極的に一人前の役目を引き受けることを躊躇している存在」としながらも、「よく言われる確信犯的怠け者は極少数のはず」で、「その背後にあるのは、つきつめれば、この社会に対する漠然とした不信感である」として、「若い世代からそっぽを向かれた社会の先行きは暗い」と述べています。
 さらに、「ニート状態にある若者は、本質的に同世代の若者とさほど異なる特性をもつわけではない」として、「ちょっとしたきっかけで職場や学校といった『外』の生活空間に定着できず、次第に距離をおいてしまうライフスタイルによって形成されたもののように思えた」と述べ、「ニート状態にある若者の問題は、まず第一に、このような産業構造の変化、職業観の変化、ワークスタイルの変化が、ある種の若者を働くことから排除する社会的モメントとして作用していることを考えなければならない」と指摘しています。
 第4章「総中流社会に変わる若者の居場所」では、「家族関係の過去を振り返ると、われわれは安直に、父親を中心とする家父長制的な家族関係が、現在見られるような愛情で結びつけられた家族関係に変化したと考えがち」だが、「実際には、もっと複雑なプロセスを経て現在に至っている」として、「我々が封建的だと思い込んでいる古い家族関係は、実は明治の民法制定から生まれた」と述べ、この「近代家族」の原型の特徴を、
(1)他の親族からの独立
(2)ムラなど外部の共同体からの独立
(3)戸主権の明確化
の3点を挙げ、「それまで武家や大商人など一部のものにしか見られなかった、家を創り、それを継承していくという観念が、すべての国民に拡散した」と述べています。
 そして、「大正時代になると、中級ホワイトカラーが増加し、職住の分離が広まり、主婦というものが初めて社会的に認知されるようになる」と述べ、戦後のベビーブーム世代が家庭をもつようになると、住宅需要の高まりから大規模なニュータウンの開発が計画され、「ニューファミリー」と呼ばれる家族が生まれたと解説しています。
 また、「安定しているが(いまや疑問だが)窮屈でしんどい正社員、ライフスタイルの自由度はあるが低賃金で不安定な非正規雇用」という「不毛の選択を前にして、若い世代は、どちらにしてもしんどいならば意義を感じられる仕事をしたい、とメッセージしている」ことについて、「日本の若い世代が今なお、仕事は聖なるものという感覚をどこかに持っているからだ。この奇跡のような僥倖は大切にされるべきだ」と述べています。
 本書は、働く意識が、産業構造や家族の形によって大きく左右されることを示す一冊です。


■ 個人的な視点から

 基本的には、本の内容そのものはごもっともという感じなのですが、世代論はどうしても評論家っぽくなってしまって新たな発見らしいものというか、ひらめきみたいなものを打ち出しにくいのが難点なのかと思います。


■ どんな人にオススメ?

・若者の職業観を知りたい人。

2010年2月13日 (土)

教育の職業的意義―若者、学校、社会をつなぐ

■ 書籍情報

教育の職業的意義―若者、学校、社会をつなぐ   【教育の職業的意義―若者、学校、社会をつなぐ】(#1850)

  本田 由紀
  価格: ¥777 (税込)
  筑摩書房(2009/12)

 本書は、「日本で長く見失われてきた『教育の職業的意義』の回復を、広く世に訴えること」を目的としたものです。
 序章「あらかじめの反論」では、定番の批判として、
(1)「教育に職業的意義は不必要だ」
(2)」職業的意義のある教育は不可能だ」
(3)「職業的意義のある教育は不自然だ」
(4)「職業的意義のある教育は危険だ」
(5)「職業的意義のある教育は無効だ」
などを挙げ、それらに答えています。
 第1章「なぜ今『教育の職業的意義』が求められるのか」では、本書が、「教育の職業的意義」の向上を主張する理由として、「若者の仕事の世界が近年大きく変化しており、それに応じて教育という世界が担うべき役割や責任もまた変化しているということ」を挙げています。
 そして、「90年代初頭以降の日本社会では、正社員も非正社員も、それぞれ別の意味で、きわめて苦しい状態におかれるようになっている」とした上で、「こうした事態の重要な背景」として、「日本の労働市場において、正社員の世界と非正社員の世界が、まったく相対立する原理によって成り立っているということ」を挙げ、「ジョブなきメンバーシップ」を原理とする正社員と、「メンバーシップなきジョブ」を原理とする非正社員という、「二つの両極端な世界が並存していることが、いずれをも苦境に陥れる結果をもたらしている」と指摘しています。
 その一方で、「労働者の権利という知識の面でも、職業能力形成という面でも、働く者たちは自らの深刻な事態を改善するための手段を手にしていない」と述べています。
 第2章「見失われてきた『教育の職業的意義』」では、アメリカの社会学者メアリー・C・ブリントンが、「1960~80年代の日本の若者が経験していた教育と仕事との関係性――学校という『場』にしっかり帰属している状態から、職場という新しい『場』にしっかり帰属した状態への移行の道筋がはっきり標準化されていたこと――のほうがむしろ特異なものであったと指摘していることを紹介しています。
 そして、戦前期の「実業教育」が順風満帆であったわけでも、理想的な「教育の職業的意義」が実現されていたわけでもなかった理由として、
(1)為政者側は「実業教育」にきわめて積極的であったものの、一般の人々の中には「普通教育」への志向が強くあったこと。
(2)産業構造が大きく変化する中で、実業学校の性格そのものが、自営を中心とする在来産業のリーダー養成と、近代産業の雇用者の育成との間で、あいまいに揺れ動いていたこと。
の2点を挙げています。
 また、「戦前から1960年代初頭まで、日本の労働者の中では、生産現場で肉体労働に従事するブルーカラー職は初等教育卒、管理・技術・事務など知的労働従事するホワイトカラー職は中等・高等教育卒が担うという、学歴と職歴との対応が明確に成立していた」が、「1960年代における高校進学率の急上昇は、初等教育卒、すなわち中卒の新規就職者の急激な減少」をもたらし、従来中卒者が就くはずであったブルーカラー職に高卒が「大量に流入」したことで、「高卒者の内部ではブルーカラーとホワイトカラーが混在し、ブルーカラー職場の内部では年長の中卒者と新規採用の高卒者が混在するという自体を必然的にもたらした」と述べたうえで、「職能給制度を中心とし職務を明確化しない『日本的雇用』という『労働力実態』そのものが、高校進学率の急上昇と新規学卒者の学歴構成の急変という、『教育現実』を原因としていた面がある」と指摘しています。
 第3章「国際的に見た日本の『教育の職業的意義』の特異性」では、「日本の教育機関における『教育の職業的意義』は、国際的に見ても極めて低い」とした上で、「職業に関連するさまざまな専門療育別の教育の量的比重が小さいことが、日本の高校段階の『教育の職業的意義』を、世界の中でも低い水準に押しとどめている」と指摘しています。
 そして、「日本の大学教育で得られる知識が職場で活用される度合いの低さは、一方では大学教育のあり方に由来するとともに、他方では日本企業の内部における人と仕事の結びつけ方及び仕事の編成の仕方にも、強く影響されている」と述べたうえで、「日本の大学教育の『職業的意義』の低さをもたらしている『Jモード』のかなめとなっているのは、大学教育と仕事の世界の結節点に位置づく、『新規学卒一括採用』という慣行」だと指摘しています。
 第4章「『教育の職業的意義』にとっての障害」では、本書の立場と、「一見同じ方向を向いているようで、実は互いに相容れないどころか、『教育の職業的意義』の追求に対して、障害にさえなりかねないもの」として、現代日本社会日本における「キャリア教育」という施策・理念と「それと密接に関わる『人間力』や『生きる力』などの概念や発想」を挙げています。
 そして、「少なくとも高校段階においては、『キャリア教育』は『自分の将来や、やりたいことを考えて、自分で決めなさい』といった規範や圧力という形で、もっとも浸透している」として、「目標や活動が漠然としていながらも、『よきもの』として強力に推進されている『キャリア教育』は、そうした『漠然たるよきもの』を生徒個々人が自ら体現しなければならない、という圧力として、教育現場において実体化している」と指摘しています。
 著者は、「『キャリア教育』はその対象となる若者の『勤労観・職業観』や『汎用的・基礎的能力』を高めるという政策的意図に沿った結果をもたらすよりも、そうしたプレッシャーのみを強めることによって、むしろ若者の不安や混乱を増大させてきた可能性が強い」と指摘しています。
 そして、「進路選択とは、若者が自分自身と世の中の現実とをしっかり擦り合わせ、その摩擦やぶつかり合いの中で、自分の落ち着きどころや目指す方向を確かめながら進んでゆくことだ」という考えを示した上で、そのためには、
(1)職業人・社会人としての自分自身の輪郭が暫定的にでも一定程度定まっていること
(2)世の中の現実についてのリアルな認識や実感
の2つの条件が必要となるが、「そのような自分の輪郭や現実認識を得る機会を若者に与えないまま」に、「ただ選択を強いるという性質を『キャリア教育』はもっている」と指摘しています。
 第5章「『教育の職業的意義』の構築に向けて」では、「日本における職業教育に対する典型的な見方の一つ」として、「普遍的な『市民的教養』を賛美し、職業教育とは企業や労働市場にひたすら〈適応〉を強いるものだとする見方」を挙げた上で、「『日本的雇用』が交代し、世界的な経済競争かで企業にとって人件費コスト削減への誘引が著しく増大したとき、これまでの『能力』と処遇との『どんぶり勘定』的対応性は、際限ない『能力』の買い叩きへと転げ落ちようとしている」として、「こうした事態に歯止めをかけるためには、これまで日本では疎かにされてきた、労働者の職業上の『能力』と処遇との対応の妥当性を確保するためのしくみを、可能なところから築いてゆくしかない」として、「職種別採用をもっと拡大すること」をひとつの方策として挙げています。
 本書は、自分より後の世代に、「彼らが自らの生の展望を抱きうるような社会を残しておきたい」という著者の思いから書かれた一冊です。


■ 個人的な視点から

 本書主張そのものは、同じ著者のこれまでの専門書と基本的には同じトーンの上にあるのですが、冒頭に世間一般の主張に対する反論が挙げられているように、著者自身がさまざまな場所で繰り返して議論に遭遇したことをわかりやすくまとめたということなのでしょうか。こういう新書の形で一般に知られるようになるのは嬉しいことです。


■ どんな人にオススメ?

・職業意識と教育は関係ないと思っている人。

2010年2月12日 (金)

時刻表の謎

■ 書籍情報

時刻表の謎   【時刻表の謎】(#1849)

  三宅 俊彦
  価格: ¥1,995 (税込)
  新人物往来社(2003/06)

 本書は、毎月1000ページを超える大冊である時刻表から、「いろいろな疑問や新しい発見があるとして、「列車がどうして止まるのか、どうして止まれないのか」というような、「単純なようで答えが不明な点や、気づかない秘密」を一冊にまとめたものです。
 第1章「時刻表のできるまで」では、ダイヤについて、「限られたスペースに、多くの運転上必要な情報を表示するため、さまざまな記号を用いて見やすいものを作成する苦労がある」とした上で、ダイヤに表示される事項として、
・列車線および列車番号
・下り列車に対する標準勾配
・距離程
・停車場名、電報略号およぎ停車場の種類
・閉塞方式の種類および線数
・電化区間および変電所
・線路名称
・作成個所、整理番号、実施(改訂)年月日
などの情報をあげています。
 また、JRでは列車番号について、「同一停車場に着発する列車には同一列車番号をつけてはならない」という規定があるが、逆にいえば、「別の停車場では同じ列車番号がある」ため、「JR線には同じ列車番号がいくつか存在することになる」と述べています。
 第2章「時刻表の秘境を訪ねる旅」では、通勤に使われることがメインで昼間はお休みになってしまうJR兵庫駅からの和田岬線や、一日わずか1往復の清水港線清水―三保間などを紹介しています。
 また、「無人駅」と呼ばれる社員が配置されていない駅については、公式には「停留所」と呼称するとした上で、「無人駅でありながら行楽地や施設の最寄となる駅では、乗客が多く見込まれる季節には日や時間を限って委託駅や直営駅員返信する駅もあるので不正乗車は禁物」だと述べています。
 また、JRの臨時駅の中には一年中お休みの駅があるとして、
・函館本線朝里―銭函間にある張碓駅
・八戸線のプレイピア白浜駅
の2つをあげています。
 第3章「時刻表のここが気になる」では、一番長い駅名として、上越線の「上越国際スキー場前」(じょうえつこくさいすきーじょうまえ)をあげています。
 また、東西南北最果ての駅として、
・最北端の駅:宗谷本線稚内駅
・最南端の駅:指宿枕崎線西大山駅
・最東端の駅:根室本線東根室駅
・最西端の駅:松浦鉄道たびら平戸駅
の4駅を挙げています。
 また、上りホームがないために下り列車しか止まらない常磐線、水戸線の偕楽園駅を紹介しています。
 さらに、国鉄時代には、「同一県内をビジネスや観光のために主要駅を結んで走る列車は快速列車としていた」が、「機動車の発達や電化区間の延伸により、準急列車として料金を要するようになった」こと、1966年2月には、「運転距離が100キロ未満の列車が準急、以上は急行列車」となり、1966年10月にはすべてが急行列車となった経緯を説明した上で、「JRになってからは急行列車も少なくなり、特急列車に格上げするか、快速列車としてサービスするかの二極化している」と述べています。
 本書は、時刻表の行間に読むことができる鉄道の不思議が詰まった一冊です。


■ 個人的な視点から

 個人的には鉄道マニアではないのですが、18きっぷで旅行するときにはポケット版の時刻表をもって出かけるようにしています(単に携帯で時刻表検索ができないからという理由もあり)。やっぱり在来線で旅をするときには時刻表を見るのは楽しみです。


■ どんな人にオススメ?

・時刻表が好きな人。

2010年2月11日 (木)

子どもの声が低くなる!―現代ニッポン音楽事情

■ 書籍情報

子どもの声が低くなる!―現代ニッポン音楽事情   【子どもの声が低くなる!―現代ニッポン音楽事情】(#1848)

  服部 公一
  価格: ¥693 (税込)
  筑摩書房(1999/12)

 本書は、音楽や稼業半世紀を誇る著者の経験から、「身をもって知ったこと、『はて』と首をかしげたこと、などについて書き綴ったもの」です。
 前口上では、「今日本中の小学、中学、高等学校で使用されている音楽教科書の存在感が乏しく、役に立たっていないのではないか」として、「音楽の時間に誰かさんが検印を押してくれたような教科書は不要である」、「カラオケバーにあるお酒の匂いの浸みた歌詞帳、ギター少年が愛用している手垢に汚れた1冊500円のコードーネーム表、このような音楽の楽しさを媒介する一見権威がないような印刷物こそ、それぞれの音楽愛好者のもっとも効果的でだいじな教科書なのだ」と語っています。
 第1楽章「現代ニッポン音楽に異議あり」では、幼児の歌声に詳しい東京家政大学児童学科助教授の細田淳子氏の話として、「幼児の音域が3度ほど低くなっている」ことを取り上げた上で、日本の子供の声の低音化の原因として、
(1)木造家屋から鉄筋への生活環境の変化
(2)戸外で遊ばなくなった
(3)テレビから出てくる音声はマイクロフォンを通しているので高く張った声ではない
の3点を挙げ、「周りの人が高い声を出していないから、あるいは出すのをよしとしていないから、子どもたちは低音の魅力に取りつかれるのである」と述べています。
 また、「お母さんコーラスは世界一」として、「日本は世界的に合唱の盛んな国である」理由として、「日本人がグループ活動に優れている」という長所が、「遺憾なく発揮できているのが合唱である」と述べています。
 第2楽章「日本ドレミファ一代記」では、アジア諸国の中で、「国全体がドレミファ愛好者、どころかどっぷり西洋音楽に浸かっているのは日本だけのようである」として、その理由として、「ドレミファ音楽は政府が決め、日本国民に施行したから」だと述べています。
 また、滝廉太郎と山田耕筰について、その大きな違いは、「活躍した物理的長さ、時間である」として、滝が23歳でなくなり、山田が79歳の長寿を全うしたことを挙げ、また、それぞれの童謡作品の違いとして、山田の作品は、「大人が直感した――あるいはおとなの内部に潜在していた童心が、自発的に流れ出て、歌となったもの」である「芸術的童謡」であったのに対し、滝廉太郎の幼稚園唱歌は、「児童の表面に浮動している戯心を、おとなが自己流の鏡に反射したもの」に過ぎない「遊戯的童謡」に当たると述べています。
 そしてNHKの「のど自慢」の放送が始まった頃、判定の鐘を叩いていた「佐伯のとっつぁん」成人について、「そもそもは軍楽隊の花形ラッパ手から除隊後、このオケに迎えられたのだが、そのうち入れ歯になってトランペットが吹けなくなり太鼓に移された――といっても打楽器演奏の基礎訓練がないから、まともなものはやれない、しからばのど自慢の鐘打ち係が良かろうということになった」としたうえで、「飄々と鐘を打つ佐伯のとっつぁんは注目の的、いつも一人だけスポットライトを浴び独特な人気のある人だった」と述べています。
 また、このごとの新作童謡について、「歌い上げる美しいメロディーが不足している」ことと、「ハーモニーの美しい変化」の不足を挙げ、ポピュラー・ソングの和音進行のパターンを、「そのまま安易に童謡に持ち込」んでいることを指摘しています。
 本書は、日本の音楽の現場で半世紀活躍した著者ならではの一冊です。


■ 個人的な視点から

 本書のうまいのはタイトルのつけ方でしょう。はっきりいって騙されたという人も少なくないと思いますが、単なるエッセイではなく知識欲を刺激するようなタイトルをつけながら、中身はやっぱりエッセイでした。


■ どんな人にオススメ?

・のど自慢ファンの皆さん。

2010年2月10日 (水)

プレイバック1980年代

■ 書籍情報

プレイバック1980年代   【プレイバック1980年代】(#1847)

  村田 晃嗣
  価格: ¥935 (税込)
  文藝春秋(2006/11)

 本書は、「現在との連続と断絶、共通点と相違点を意識しつつ、エピソードを交えて、1980年代をできるだけ多彩に描いてみたい」という目的で書かれたものです。
 「出発点――1964年」では、戦後60年度ライフ・サイクルになぞらえ、
(1)幼少期:敗戦から60年年頃まで。
(2)青春期:60年頃から第一次石油危機を経てベトナム戦争の終わる75年頃まで。
(3)壮年期:75年頃から90年頃まで。
(4)初老期:90年頃から今日に至る。
の15年ごとに区分し、「この時代区分は、1947-49年に生まれた7百万人近い『団塊の世代』のライフ・サイクルと重複する」と述べています。
 「性急で不安な時代――1970年代」では、「1970年代の後半は、高度成長期も過ぎて、日本人が自らの立ち位置にしばし不安と不満を感じた時期であった」と述べています。
 「首相の死――1980年」では、「内政的には、1980年は何よりも『首相の死』によって記憶される」として、「小渕首相が亡くなった2000年と同様である」と述べています。
 「『歴史の復讐』と中曽根の登場――1982年」では、この年の世相として、
(1)ホテルニュージャパン火災
(2)羽田沖日航機墜落事件
(3)三越岡田茂社長解任
の3つの事件を紹介しています。
 「『ロン・ヤス』時代の幕開け――1983年」では、「1983年の日本政治は不幸な事件で始まった」として、1月9日に自民党の有力者・中川一郎が急死し、「当初は心臓疾患が死因と報じられたが、実は縊死であった」として、戦後初の現職の国会議員の自殺だったと述べています。
 そして、「中曽根の派手なパフォーマンス外交は、対ソ強硬路線をとるレーガン大統領を大いに喜ばせた」として、「対米関係の大胆な強化は、中曽根外交にとって賭けであり投資であった」と述べています。
 「オーウェルの予言――1984年」では、1949年に出版されたジョージ・オーウェルの近未来小説『1984年』が、「ソ連のスターリン体制を風刺している」ものであったが、その予言は、「世界がスターリン体制を駆逐できていなかったという点では、当たっていた」と述べています。
 「転換期――1985年」では、「この1985年は1980年代の転換点であるのみならず、戦後の日本と世界にとっての大転換点でもあった」として、ソ連のゴルバチョフ書記長の登場を取り上げ、「ゴルバチョフは、新冷戦と冷戦そのものの終焉、そして、ソ連の解体に重大な役割を果たした」と述べ、「ゴルバチョフが改革に打ち込まざるをえないほど、ソ連は疲弊していた」と述べています。
 また、85年9月のプラザ合意を受けた「急激な円高に対応して日本政府が大幅なドル買い介入したため、日本の外貨準備は85年の265億ドルから87年には815億ドルに急増する。一方で、ドル換算の日本の国民所得は急増し、日本の市場価値が高まった。円高対策で低金利になり、これが資産インフレにつながった。『バブル経済』の始動である」と述べています。
 「大爆発と総決算――1986年」では、「1986年は大爆発で始まった」として、アメリカの「チャレンジャー」打ち上げ失敗事故と、ソ連のチェルノブイリ原子力発電所の事故を取り上げた上で、「チェルノブイリの衝撃で、ゴルバチョフは『ペレストロイカ』(改革)をさらに推進する必要にかられ、それがソ連の崩壊を加速化させたのだから、皮肉なものである」と述べています。
 「消費税、リクルートと『自粛』――1988年」では、「昭和が終わろうとしているのは、もはや誰の目にも明らかであった」が、「消費税とリクルート事件による政界の混迷と表面的な『自粛』ムードの陰で、人々はバブルの物質的な果実をまだまだ貪っていた」と述べています。
 「昭和の終りと冷戦の終焉――1989年」では、新元号「平成」を発表した小渕恵三官房長官は、「このとき『平成』と墨書された半紙をテレビカメラに示して、一躍有名になった。地味ながらも『平成の政治家』には適任であった」と述べています。
 エピローグ「1980年代とは何であったのか」では、「1980年代には、この元気いっぱいで『強すぎる日本』が国際経済の難題であった」として、慧眼のビル・エモットが、「日はまた沈む」と、「日本経済の衰退を予見した」と述べています。
 本書は、1980年代を懐かしむ一冊です。


■ 個人的な視点から

 本書は、たしかに1980年代をまとめているものではあるのですが、読み物として面白いかと言われるとつまらないと感じる人も少なくないかも知れません。タイトルからは、1980年代の風俗的なものが中心だと誤解する人も多いでしょう。


■ どんな人にオススメ?

・1980年代が懐かしい人。

2010年2月 9日 (火)

パチンコ学講座

■ 書籍情報

パチンコ学講座   【パチンコ学講座】(#1846)

  宮塚 利雄
  価格: ¥1,680 (税込)
  講談社(1997/10)

 本書は、「パチンコを生業とし、パチンコに矜持を持って生きてきた人々の世界を、パチンコ機を中心にして語り、パチンコに興味にない人でも、パチンコについて少しでも興味を持ってもらえれば」という思いから書かれたものです。
 第1章「なぜ、パチンコは巨大産業になったのか」では、パチンコが今日まで発展してきた理由として、
(1)打つ楽しみ
(2)勝玉を景品に換える楽しみ
の2点を挙げ、「パチンコは『遊びと適度な射幸心』を満たしてくれる、もっとも手軽な娯楽である」と述べています。
 そして、「パチンコは戦後、在日朝鮮人が発明した」という記事について、「これは正しくない」としたうえで、「確かにパチンコ店の経営者の7割近くと、パチンコ機製造機メーカーやパチンコ機関連機器メーカーの経営者には在日韓国・朝鮮人(以下、在日)は多い」が、「就業の機械が限られている中で、在日が手っ取り早く日銭を稼げる道は、終戦によって国土は荒廃し、食糧事情が十分でなかった日本人に食べ物と娯楽を提供することであった」と述べ、さらに、「1954年に連発式パチンコ機が禁止されて客が遠のいたとき、日本人の経営者の多くはパチンコ店経営から身を引いた」としています。
 また、パチンコの景品交換について、「暴力団を排除し、かつ風適法に抵触しない範囲での換金行為を実現するために、パチンコ業界が先達が窮余の策として考え出した、最良の方式が『三店方式』であった」と述べています。
 第2章「パチンコの歴史」では、「パチンコ機が日本に誕生したのは、対象時代末期から昭和初期にかけてのことである」として、「まずは、パチンコ機のルーツであるコリントゲーム機が輸入され、これを改造したものが今日のパチンコ機の濫觴である」と述べた上で、「横のモノを縦型にすることは言うほどに易しいものではない」としています。
 また、名古屋が「パチンコの本場」と言われた理由として、「パチンコ機の製造で必要なものはガラスと合板と釘やボールベアリングがあればよいが、終戦直後の名古屋はこれらの物資が豊富であった」として、軍需工場や木材の供給が豊富だったことを挙げています。
 第3章「パチンコ機の秘密」では、「この業界には釘の配列を微妙に調整する、動物的なカンを持った『釘師』と呼ばれる、パチンコにとってはそれこそ天敵のような存在の特殊な才能の持ち主がいて、客の大当たりの夢をそうやすやすとは実現させてはくれない」とした上で、パチンコ産業発展の礎を築いた1949年に正村竹一が発明した「正村ゲージ」について、試作を繰り返していた正村が、「幼い頃に故郷の村を流れる岐阜の境川で良く見かけた『水車』の水の流れ」を思い出し、「釘を抜いたら球の飛び方が変わるかもしれん」と思いついたという正村ゲージ誕生の「水車伝説」を紹介しています。
 第4章「パチンコ機がメーカーから店に行くまで」では、「30兆円規模と言われる巨大なパチンコ産業を支配しているのは、1万8200店舗のパチンコ店ではなく、19社のパチンコ機製造メーカーであるという事実を知っている人は少ないだろう」とした上で、19社の会社で造られた新しいパチンコ機は、「言わば業界にとっては"鬼門"とも言える財団法人保安電子通信技術協会(以下、保通協)に検査を受ける試験用遊技機5台と膨大な書類を添付して検定を受けなければならない」と述べています。
 第5章「パチンコ店の経営」では、「パチンコ店の従業員の仕事は重労働である」うえ、パチンコ業界が3kならぬ「怖い、汚い、暗い、きつい、格好悪い、臭い(これは解消されつつあるが)」の「6K産業の代表のように言われている」理由について、「パチンコ業界が未だ社会的な認知を受けていないからであろう」として、「パチンコ業界が世間からダーティーな産業に見られるのは、『脱税・暴力団との関係・機械の不正操作(改ざん)』という、悪しき3つのキーワードのためである」と述べています。
 本書は、パチンコに対する著者の愛があふれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 個人的には、パチンコをやったこともなく、必ず負けるとわかっていて何が楽しいのかと思ってはいますが、現に日本で最大規模の賭博産業になっていながら、ギャンブル解禁になると一番ダメージを受けるからといって、カジノ特区に反対しているというのは何かが捻れてるとしかいいようがない気がします。都合よくねじ曲げた法解釈を破り捨てて、現実的にはパチンコが賭博そのものであるということを正面から見据える時期が来ているのではないかと思います。


■ どんな人にオススメ?

・パチンコにお布施を貢いでいる人。

2010年2月 8日 (月)

戒名のはなし

■ 書籍情報

戒名のはなし   【戒名のはなし】(#1845)

  藤井 正雄
  価格: ¥1,785 (税込)
  吉川弘文館(2006/9/21)

 本書は、「戒名が何ゆえに社会問題となったか、その解決にはどうしたらいいのかを日本文化の視点から論ずる」ものです。
 プロローグ「戒名をめぐる危機的状況」では、「戒名とは、もともと仏教において修行に必要な規律・戒律を授けた際に与えられる出家者の名前」であり、「のちにその戒名は、出家していない一般の人が臨終の時や死の直後に出家者としてつけられる名前を指すように変わってきた」と述べています。
 第1章「戒名と現代社会」では、「戒名や葬儀に関することが話題になるのは、端的に言えば、僧と檀信徒との信頼関係が失われていることに由来し、葬儀だけを取り上げる、あるいは戒名なら戒名だけをとりあげるということ自体に問題があるのではないか」と述べています。
 第2章「戒名とは何か、その始まりと意味」では、「昔はライフサイクルの中でも、子供→青年→壮年→老人=隠居と家庭内や地域社会の中で立場の変化に応じて改名がなされることがあった」として、「人の一生の中で見てみれば、戒名を付けることは、その人の最後の改名に当たり、現世の人々の記憶に永く残る『名前』を持つことになる」として、「日本における言葉の持つ神秘性への信仰は、解明することで新たな環境や新しい力を得ることができるとすることがある」と述べています。
 また、戒名の起源として、
(1)釈尊帰一説
(2)中国習俗起源説
(3)インドからの発展説
の3つの説を取り上げています。
 さらに、「日本において発展してきた仏教緒宗は、現代にいたるまでその固有の歴史の中で、宗派独特の法号を採用して展開して」きており、「それが、現在の戒名や法名に反映されており、戒名からその人の宗派が自ずと分かるものもある」として代表的なものを解説しています。
 第3章「信者の戒名」では、「江戸幕府に始まる檀家制度の展開によって、寺院が全檀家の葬儀を扱うようになると、檀家の中には全く信仰とは関わり合いを持たずに亡くなることがあり、いつの間にやら逆修の風が廃れ、没後作僧、いうならば死後に戒名を与えることが一般化する」と述べています。
 そして、実際の戒名に使われる文字の選定について、
(1)周波の所依経典・論釈から選ばれたり、宗派の信仰を明示するのに適した法語の中から選ばれる。
(2)道号・法号・尊称などの適切な組み合わせ。
(3)男女相応・年齢相応の文字の選定
(4)本義に返って仏道修証の深浅を考慮すること
の4つの選定基準を紹介しています。
 んまた、差別戒名問題について、幕府が、「一般寺院に戸籍係の役割を担わせるために檀家制度を設け、死者の管理も寺院にさせることにした」結果、「現世の身分階層関係を死後の世界にまで持ち込んで、差別されてきた人々の戒名にまで差別的な文字や意味を込め、墓石に刻むようになった」として、「死亡した男性には『革門』『革男』、女性には『革尼』『畜女』などという明らかな差別戒名を付けてきた」と述べています。
 本書は、戒名がなぜ問題になるのかという点から戒名を論じた一冊です。


■ 個人的な視点から

 戒名なんて自分には関係ないと思っていても、戒名に関係がないのは本人だけで、身内がなくなると嫌でも関わり合いにならざるを得ないものだけに、基本的な知識はあった方がいいと思います。とはいえ、最近は檀家になっていない家も多いので葬儀屋任せの部分も多いとも聞いていますが。


■ どんな人にオススメ?

・自分には関係ないと思っている人。

2010年2月 7日 (日)

回転寿司の経済学―「勝ち組」外食産業の秘密

■ 書籍情報

回転寿司の経済学―「勝ち組」外食産業の秘密   【回転寿司の経済学―「勝ち組」外食産業の秘密】(#1844)

  渡辺 米英
  価格: ¥714 (税込)
  ベストセラーズ(2002/09)

 本書は、「なぜ回転寿司が人々を引きつけるのかを、業態開発や店舗運営の裏話なども交えながら探っていく」ものです。
 序章「なぜ今、『回転寿司』が元気なのか」では、寿司マーケットの現場について、
(1)寿司店全体の数は減少傾向が顕著だが、回転寿司は増加している。
(2)寿司店全体の売上高は減少傾向が見られるが、回転寿司は増加している。
(3)寿司店1店舗あたりの平均売上高は年々増加しているが、これは回転寿司の店舗増加と大型化が大きく影響している。
の3点に整理しています。
 第1章「世界中の待ち望んだ『コワくない寿司屋』」では、回転寿司の「安さ」について、「回転寿司が世に現れて廉価で提供されるようになるまで、われわれの日常において、寿司は"ハレ"の日にしか食べることができないごちそうだった」として、「低価格でしかも明朗会計。世の中の店がすべてこうであればどれだけ人生が楽しいだろう」と述べています。
 また、「日本でも、太平洋戦争の前後までは江戸前寿司も1個ずつのサイズが今より大きかった」歳t、絵「終戦前後の物資統制で白米がふんだんに使えなくなった」せいで現在の大きさになったと述べています。
 そして、回転寿司を、「本格的な寿司を楽しむことのできない人のための補完業態」と考える人が多いことについて、「回転寿司こそ江戸前寿司が"先祖返り"した形態だと言える部分が、いくつか見られる」と述べています。
 第2章「成熟市場を彩る『回る寿司』の百花繚乱」では、くら寿司の強さを作り出している要因として、
(1)ハイレベルな食材の使用
(2)「低価格・ハイバリュー」実現のための各種システム化
(3)完全無添加の実施による「安心、安全」の徹底
(4)鮮度管理システムの導入による商品の鮮度の保持
(5)エンタテインメイント性の重視
の5点を挙げています。
 第3章「安さのウラには涙ぐましい努力が」では、コンベアの毎月の減価償却費が約10万円であることから、「コンベアで寿司を流すことによって、毎月10万円以上の人件費を減らすことができれば、コンベアのコストは吸収できる」としたうえで、、高性能な寿司ロボットが、「早さだけで言えば、1台で5~6人分の仕事をする」と述べています。
 また、「水産物の冷凍や加工、卸売を行う我が国髄一の専門商社」である東洋冷蔵が、「魚をさばいてサクと呼ばれる短冊形の状態に切り分けし、さらに規定の大きさに1枚ずつ切りつける。それらを発泡スチロールのトレイに並べ、真空パックを行って箱詰めにした上で店に納品する」として、「やっかいでコストのかかる作業をアウトソーシングできるからこそ、お客に寿司を安価で提供することができる」と述べています。
 第4章「回転寿司が美味くて楽しいワケ」では、「ウニやイクラなどは100円すれすれの原価で、儲けはほとんどない」ため、「お客がみなこういった高級ダネばかり食べ始めたら、すぐに店じまいしなければならなくなる」が、「ほとんどのお客が原価の安い皿も交えてバランスよく食べ、トータルでそこそこの利益を上げさせてくれるのだ」と述べています。
 また、「レーンの動くスピードを高めると、お客の取る皿の数が増える」という調査結果を紹介しています。
 第5章「徹底検証・回転寿司はおいしいビジネスか?」では、「回転寿司のチェーンには高収益企業や急成長企業が少なくない」理由について、「回転寿司が利益率よりも利益高を追求する業態で、コンベアという装置によって高い売上高、すなわち利益高を実現しているからだ」と述べています。
 終章「『美味しくて安い回転寿司』の行方」では、回転寿司業態の進化の方向性として、
(1)低価格業態の効率化、高質化
(2)高級業態の高質化、高サービス化、高アメニティ化
(3)簡便業態化
(4)異業種とのドッキング
の4点を挙げています。
 本書は、回転寿司をビジネスとして解説する一冊です。


■ 個人的な視点から

 100円の回転寿司というと、15年くらい前に、カッパ寿司に行って、押し寿司かのごとく四方をカッターで切ったような真四角のシャリに、半分凍っている寿司種が乗っていてショックを受けたのですが、最近の100円寿司は美味しそうです。特に、子どもが500円の皿を無造作にとりそうになるのにビクビクしているお父さんにとっては朗報ではないかと思います。


■ どんな人にオススメ?

・回転寿司は「亜流」だと思っている人。

2010年2月 6日 (土)

良妻賢母の誕生

■ 書籍情報

良妻賢母の誕生   【良妻賢母の誕生】(#1843)

  清永 孝
  価格: ¥693 (税込)
  筑摩書房(1995/07)

 本書は、大正期の女性について、「男性社会にとって都合のいい『女らしい女』として生きなくてはならなかった。それを世間は貞操といい婦徳と称し良妻賢母と讚美した」として、「それははいずれも当局好みの近代化のため、そして大正デモクラシーのため、なくてはならない栄養素だった」ことを明らかにするものです。
 序章「女神誕生」では、当局者が、「都市化という社会的変化を、日常生活の外面的な華やかさをもたらし国民精神をひ弱にするばかりか、家族制度意識の衰退や道徳心の腐敗を生み出すものとして嫌悪した」とのべ、こうした時期に起こった乃木夫妻の自刃が、「当局者にとって、人々の意識を引き締めるのに願ってもない最良の刺激剤だった」として、「世相の混乱を案じる多くの指導者たちはこの事件を、またとない精神教育のお手本とし、社会が近代化するにつれ、人々の暮らしが浮ついて華やかになっていることへの、戒めとした」と述べています。
 第1章「民法第七百三十三条の周辺」では、「家族制度社会は特に女性に厳しく、法も世間も冷たい壁で彼女たちを自由に身動きできぬほど、きっちりと取り囲んでいた。考えることも行動することも、喜ぶことも悲しむことも家族制度の枠の中でしか許されなかった」と述べた上で、「妻を家に強引に縛り付けておくため母性愛を利用し、妻と家とを繋ぎ止めるため子を役立てたのが民法第七百三十三条周辺の条文ということにもなろう」と述べています。
 第二章「何の余力ありてか」では、大正時代は、「政治、経済的にも安定を欠き、老人ら非力な庶民にとっては暮らしにくい15年間であった」が、「その暮らしにくさの原因は家計にあるだけではない。そこには家族制度の暗い影が常に寄り添っていた」と述べています。
 そして、「一にも二にも男のために生きることが女性の使命だった。骨身を削る思いの出産育児も、その原因を作ったのは決して女性だけではないのに、それに伴う苦労や責任はすべて女性に押し付ける世間だった」として、「家族制度はそうした苦労に耐える辛抱を美風とした」と述べています。
 第3章「超人への期待」では、「妻だけに従順と貞節を求めるような、昔ながらの教育が歯痒くもあり、物足りなくもあり、腹立たしくもある教師たちもいたであろう」としたうえで、「妻は『夫の顔に泥を塗った』ということで離縁されても仕方ない当時だった。特に女性教師は神となるか、さもなくば夫の顔のために、あるいは家長の顔のために生きるしかなかった。自分のために生きるのではなかった」と述べています。
 第4章「近代社会への助走」では、「男性上位的な長年の因習を破り、人間らしく自由に生きていこうと志す人たちにとって、社会生活の周囲を取り囲んでいる家族制度意識の壁はあまりにも高く険しいハードルだった」と述べた上で、「男性上位の社会に安住している人にとって女性が政治に近づくことは、自分たちの権威がそれだけ侵されることだった」と述べています。
 終章「地下水脈の行方」では、「どんな場合でも良妻賢母を目指して常に『女らしく』あること、それは家族制度が女性に課した使命であり、男性社会の熱烈な要望でもあった」と述べ、「自分の意思を主張して『女らしさ』に背を向けて生きることは社会の期待を裏切り、その秩序をかき乱し悪女、不貞、新しい女などと誹られ、憎まれ、世間の晒し者にされることだった」と述べています。
 本書は、「良妻賢母」という概念が、当局者によって人工的に作られた「美風」であったことを教えてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 今でも、「良妻賢母」で「専業主婦」こそ、大昔から日本らしい女性の生き方だ、ということを大真面目に口にする人がいますが、いかにその認識が底の浅いものであるかをよく知って欲しいものです。


■ どんな人にオススメ?

・日本女性は「良妻賢母」が昔から当たり前だと思う人。


2010年2月 5日 (金)

海を渡った幕末の曲芸団―高野広八の米欧漫遊記

■ 書籍情報

海を渡った幕末の曲芸団―高野広八の米欧漫遊記   【海を渡った幕末の曲芸団―高野広八の米欧漫遊記】(#1842)

  宮永 孝
  価格: ¥735 (税込)
  中央公論新社(1999/02)

 本書は、「幕末から明治初年にかけて欧米6カ国を巡業した、わが国の曲芸団」の後見人であった高野広八について、「たまたま誘いがあったために海外に出る羽目になり、小説を地でいくいき方をした"通り者"の広八が味わった座員らとの哀歓、新文明との出会いが生んださまざまな体験、旅芸人たちの異国での生活のありよう、 はじめてみる手足を見事に使っての日本サーカスの名人芸に目を見張った西洋人の反応、かれらの目に映った当時の日本人の姿」などを描いたものです。
 第1章「帝国日本芸人一座太平洋を渡る」では、慶応2年(1866)4月、徳川幕府が、「留学生や商人らの海外渡航を公認する」に至った「海外渡航差許布告」について、「この機を利用して、早くも海外にはばたいた芸人たち(軽業師、曲芸師)がいる」として、アメリカの興行師兼曲芸師であったリチャード・R・リズリー・カーライルが横浜で組織した「帝国日本芸人一座」を取り上げています。
 そして、「香具師、ばくち打ちを生業としていたらしい通り者の高野広八」について、「広八一行こそ幕府が発行した『御印章』(パスポート)を取得した民間人第一号であった」と述べています。
 また、"リトル・オール・ライト"として人気を博した浜碇梅吉らの芸がアメリカで大好評を得て、1867年4月16日には、「ホワイト・ハウスに大統領を訪れ、謁見をうけた」ことについて、リンカーン大統領暗殺後に大統領に昇格した第17台ジョンソン大統領の「対外的宣伝をかけて、新しい話題を提供したとも思われる」と述べています。
 第2章「『エウロッパ』へいく」では、一座で人気を博していた「こま回しの松井菊治郎」が、「労咳」(肺結核)を患い、一行より一足早くロンドンに向かって養生していたが、一行がロンドンに着いたときには既に亡くなっていたと述べています。
 著者は、ロンドンの南西28マイルのサリー州にある「ウォッキング共同墓地(ネクロポリス)」に赴いて、彼の埋葬記録を探し当てています。
 そして、「広八たちは、これまでいろいろな災難を経験してきたが、このロンドンの街ほど、不運に見舞われたところはない」として、菊治郎の死や宿舎での小火などを挙げています。
 第3章「南欧の光と影、そして帰国」では、パリに着いた一行に、「日本では大いくさがあり、幕府は崩壊し、江戸城は官軍に明け渡され、上野では旧幕臣と官軍との衝突があった、といったニュースを聞き、驚愕する」と述べています。
 そして、広八が帰国した明治2年春には、「日本国内はまだ混沌たる状態にあった」とした上で、広八が故郷、福島の大久保村に戻り、父・甚兵衛を襲名したとした上で、「広八が欧米各国をめぐって帰ってきたハイカラな人間であることは、大久保村の村民は誰でも知っていたが、その晩年の暮らしは決して楽なものではなかったらしい。広八は村人から"アメリカじいさん"と呼ばれ、子どもが仕事に怠けると、『働かないと広八のように貧乏になるぞ』と引き合いにだされた」と述べています。
 著者は、「広八は外国文明に驚嘆するだけで、その本質を見抜き、それを解明するだけの能力がなかったが、またその観察が皮相的なものであったとしても、かれは幕末期の市井人ならではの、実に得難い異文化体験をつんだことは否めない。そして、彼は当時の日本人のつねとして愛国的であり、海外に出ていっそう日本精神にめざめたとおもわれる」と述べています。
 本書は、幕末の「通り者」と西洋文明の衝撃的な出会いを綴った一冊です。


■ 個人的な視点から

 ドラマでも人気だった村上もとかの『仁』にこの一座の話が出てきていたので、何となく親しみがわきました。
 それにしても、広八が福島の生まれ故郷の村に帰って、「アメリカじいさん」と呼ばれていたのは、なんだか「マルコじいさん」みたいな話です。こっちの方こそ誰か漫画にしてくれないでしょうか。


■ どんな人にオススメ?

・幕末の曲芸が世界で受けている様子を知りたい人。

2010年2月 4日 (木)

カラス なぜ遊ぶ

■ 書籍情報

カラス なぜ遊ぶ   【カラス なぜ遊ぶ】(#1841)

  杉田 昭栄
  価格: ¥735 (税込)
  集英社(2004/03)

 本書は、「動物の行動学的・生理学的特性といった観点から、カラスの記憶・学習能力をはじめ脳構造などを調べて」いる研究者である著者が、「カラスの生物学的特徴と賢さの秘密を紹介」するものです。
 第1章「カラスの遊び」では、「カラスはどうみても、生きるという目的のみの行為とは結びつかない仕草を」するとして、「こんな振る舞いをするから、人間の注目を浴び、かえって不利な立場になる場合が多い」のではないかと述べています。
 第2章「『カラス研究所』ではないけれど……」では、科学的に証明されているわけではないが、「仲間が死んだとき、あるいは死体に接したとき、カラスは変わった鳴き声や行動を」とり、「まさに弔いや別れの儀式をしているのではないかと思わせられる光景に出会うことが」あると述べています。
 また、カラスの撃退グッズについて、「カラス対策には特効薬や万能薬を開発するような発想で立ち向かってはいけません。被害の種類に合わせて、そのつど、それにのみ有効な工夫をするケースバイケースの発想が必要」だと述べています。
 第3章「カラスの基礎知識」では、日本で見られるカラス科のトリの種類について、
(1)カササギ属
(2)カケス属
(3)オナガ属
(4)ホシガラス属
(5)カラス属
の5つの属に分けられるとしています。
 第4章「脳から生物『カラス』を見るということ」では、解剖学的手法でカラスに迫ることに際し、「カラスは日本では不吉なトリとされてきた一面」があり、「そんなカラスにメスを入れたら天罰が下るのでは」ないかということで、「カラスを腑分けするにはやはり躊躇」したと述べています。
 また、カラスの膿を取り出す作業にあたっては、「ついに手を染めてしまったか!」という心境だったが、「いざ始めてみると、これまで様々な動物の脳や体を解剖してきた私にも、脳の大きさをはじめ内臓のつくりなど、改めてカラスがとても興味ある動物であることがわかり、次第に解剖学を志している者としての血が騒ぎ出してくる」と述べています。
 そして、隣の学生に、「おい、すごく大きいぞ、形もなんかふっくらしていて神秘的だぞ」と思わず大きな声をかけてしまったほど、「カラスの脳の迫力と容積の充実感」があったと述べています。
 第5章「カラスの"知られざる"能力」では、カラスの目の構造について、「カラスはわれわれ人間以上によく色が見えている」として、「七色の虹どころか14色、あるいはそれ以上の色彩感覚がある可能性」があると述べています。
 また、ハシブトガラスの攻撃の類型について、
(1)基本型
(2)待ち伏せ型
(3)執拗達成型
(4)誘拐殺人型
(5)ギャング集団抹殺型
(6)絶望気力喪失型
(7)トビ真似攻撃型
(8)個別対処攻撃型
(9)友情型
(10)計画的抹殺型
(11)宣戦布告型
の11の類型に分けて紹介しています。
 第6章「『立派な』カラスの脳でできること」では、カラスが△や□や○を区別できるのかの実験について、「みな同じように、この実験で好成績を挙げたわけでは」ないものの、「1羽のカラスは、極めて優秀で○と正18角形を85%、丸と正24角形を70%の正解率で区別」し、平均的なカラスでは、正12角形までは十分識別していたとしています。
 また、人の顔写真について、「成績に多少の差こそあれ、結論として、どのカラスもちゃんと正解できること」がわかったと述べています。
 さらに、カラスの数的概念について、「少なくとも多いか少ないかという判断」はしていると述べています。
 本書は、身近でありながらその生態をよく知られていないカラスについて、興味を抱かせてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 カラスの頭がよいという話はよく聞きますが、そのエピソードは眉唾というか都市伝説っぽいものが多い気がするのですが、さすがの生物学者も、カラスの解剖には躊躇したというのは面白かったです。


■ どんな人にオススメ?

・なんとなくカラスが怖い人。

2010年2月 3日 (水)

社会的ひきこもり―終わらない思春期

■ 書籍情報

社会的ひきこもり―終わらない思春期   【社会的ひきこもり―終わらない思春期】(#1840)

  斎藤 環
  価格: ¥693 (税込)
  PHP研究所(1998/11)

 本書は、「みずからの臨床体験から、『社会的ひきこもり』が長期化するとともに、多様な病理の温床になりやすい」と断言できるにも関わらず、この問題が、「さまざまな事情から十分に理解されて」いないという「現状への危機感」から書かれたものです。
 第1部「いま何が起こっているのか――理論編」では、「社会的ひきこもり」が原因で引き起こされる犯罪の背景に、「明らかに一種の無知」があり、「思春期の心、わけても『社会的ひきこもり』への無理解、無関心が続く限り」、「このようないたましい事件が絶えることはない」と述べたうえで、「社会的ひきこもり」を、
「20代後半までに問題化し、6ヶ月以上、自宅にひきこもって社会参加をしない状態が持続しており、他の精神障害がその第一の原因とは考えにくいもの」
と定義しています。
 また、「ひきこもり」が、「心因とされる経験に比べて、それがひきおこす事態の深刻さがあまりにも重大である」理由としt、絵「おそらく、『ひきこもり』が単一の心因にもとづいて怒る生涯ではないためでしょう」として、「原因において複合的であると同時に、外傷が外傷を生み出していくような、一つの悪循環のシステムであろうと考えられ」ると述べています。
 そして、「社会的ひきこもりの問題は、つきつめれば、対人関係の問題と見ることができ」るとして、その複数の原因を、
(1)個人
(2)家族
(3)社会
の3つの領域に分け、「ひきこもり事例の場合、この『個人と家族』『個人と社会』などの回路が、完全に塞がれてしまっていることが多い」として、こうした悪循環が、「まるで一つの独立したシステムのように、こじれればこじれるほど安定して」いき、「ひとたび、安定したシステムとして作動を始めると、すこしばかりの治療努力では、こうした循環を止めることが難しくなる」として、この悪循環を、「ひきこもりシステム」と名付けています。
 第2部「『社会的ひきこもり』とどう向き合うか――実践編」では、ひきこもり事例と向き合うためには、まず、「『ひきこもり』を否認したい衝動」と戦わなければならず、そのためには、「『社会的ひきこもり』という状態が、ともかくそこにある、という事実を認めること」が重要であり、「彼らが何らかの形で援助や保護を必要としている、という視点を受け入れること」だと述べています。
 また、「『ひきこもり』事例の母子関係にも、しばしば『共依存』がみられ」るとして、「親子関係が膠着状態にあると感じられた場合、このような視点から関係を見直してみることも大切」だと述べています。
 そして、こじれきった慢性のひきこもり状態から立ち直りを図っていくには、
(1)隣あった2つのシステム同士の接点を回復すること
(2)本人と社会との接点をいかに回復するか
の2つの段階があるが、「意外にこの順番は守られない」ことを指摘しています。
 また、「社会的ひきこもりの事例では、かなりの割合でいわゆる『家庭内暴力』を伴」なうが、「基本方針をきちんと踏まえて対応すれば、家庭内暴力を鎮めることは、比較的容易なこと」だと述べています。
 さらに、パソコンについて、「とりわけ社会的ひきこもり状態の人にとっては、非常に大きな意義を持つ」として、「パソコンを使えるようになるというだけ、さまざまな可能性が広がり」、パソコンを家族に教えることで「『家族のために役立ちたい』と切望している彼らにとって、みずからの技術を活かして両親の役に立てる」ことなどを挙げ、「傍目にはパソコンへの没頭が逃避に見えるにしても、本人がそれを通じて他人とつながっているとしたら、パソコンもまた社会との接点を回復するための窓口として、十分に役立っている」と述べています。
 本書は、社会的ひきこもりへの理解と深めることを目的とした一冊です。


■ 個人的な視点から

 「2ちゃんねる」とかのネットの世界では「ヒッキー」のイメージは、不登校からひきこもりになり、昼夜逆転の生活で一晩中レスをつけている、というものではないかと思いますが、10年以上前の本とはいえ、ネットを使ったコミュニケーション自体に肯定的なのは面白かったです。


■ どんな人にオススメ?

・家族がひきこもりになる可能性のある人。

2010年2月 2日 (火)

『少年ジャンプ』の時代

■ 書籍情報

『少年ジャンプ』の時代   【『少年ジャンプ』の時代】(#1839)

  斎藤 次郎
  価格: ¥1,529 (税込)
  岩波書店(1996/10)

 本書は、「『少年ジャンプ』に掲載された漫画を全部読むことができれば、この30年の子供の精神史(少年編)を理解することができるはずだ」という目論見で書かれたものです。
 序章「『少年ジャンプ』誕生」では、『少年ジャンプ』のキーワードである「友情・努力・勝利」について、「正確にはこれは『少年ブック』から引き継いだ編集方針で、小学校4、5年生を対象にしたアンケート調査で50の言葉の中から選んでもらった結果に基づいている」として、『少年ジャンプ』では、「全ての漫画のテーマにはこの3つの要素をかならず入れること、3つ全部入らなくても必ず1つは入れることが申合された」と述べ、このキーワードが「大人の編集者の頭の中からひねり出されたのではなく、アンケート調査の結果から導き出されたことの意味をじゅうししたい」として、「『少年ジャンプ』は、創刊時から読者の期待、要求に応えることを第一義とする方針を貫いた」ことを指摘しています。
 第1章「『ガキっぽさ』からの出発」では、『少年ジャンプ』が、「漫画好きの子供たちに認知され、支持されるようになったのは、永井豪の『ハレンチ学園』と本宮ひろ志の『男一匹ガキ大将』によってである」として、「この二大連載漫画こそが『少年ジャンプ』の基盤を築き、性格を決定づけた」と述べています。
 第2章「スポーツ根性漫画を超えて」では、ちばあきおの「キャプテン」を読み出すと、「いったいなぜそれまでの野球漫画は『血と汗と涙』にああも熱中できたのだろうか、と不思議に思えてくる」として、それまでの野球漫画は、「読者である子どもたちの現実から、あまりにも掛け離れてしまった」と述べています。
 そして、「『少年ジャンプ』でちばあきおを受け継いだのは、種目こそ違え高橋陽一の『キャプテン翼』というサッカー漫画だと言えるかも知れない」と述べています。
 第3章「笑いの諸相』では、「子どもが漫画に求める笑いの質は、それぞれの時代の子どもたちの気分、緊張やいらだちとエネルギッシュな意欲や安らぎの微妙なバランスに、深く関わってくる」と述べています。
 そして、「ど根性ガエル」や「トイレット博士」が、「漫画ならではの荒唐無稽や、現実にはありえない飛躍やデフォルメが積み重ねられていた」が、「にもかかわらずその舞台は、読者の子どもたちの生活の話と地続きであった」のに対し、「Dr.スランプ」では、「子供の日常の中で生まれ、膨らむ欲求や欲求不満と、ペンギン村は、本質的に関わりが無い」ことを指摘しています。
 第4章「連載最長不倒記録の秘密」では、「有名作家のものであれ、一時的に人気が高まったものでも、読者が興味を示さなくなれが、誌上からすっと姿を消してしまう」という「過酷なサバイバルゲーム」を「こち亀」は生き抜いてきたとして、「主人公の両津勘吉巡査長共々そうとうタフな作品といわなくてはならない」と述べ、「ギャグマンガともストーリー漫画とも決められないボーダーライン上の作品であり、そのことが長寿の秘訣だった」と指摘しています。
 そして、作者は、「遊びにしても金儲けにしても、庶民的願望をことごとく両津によって実現させてようとした」ため、「両津巡査は、できの悪い公僕でありながら、同時に読者の欲求を代弁し、実行に移す魅力的なヒーローになる」と述べています。
 また、「子どもが『少年警察官』を名乗るより、大人の警官の中身が子供である方が(本人は無論そう自覚していないのだが)、描かれる遊びは破天荒ながら切実になる」として、「『こち亀』の衰えぬ人気の秘密は、、両津の少年性にほかならない」と述べています。
 第5章「スポーツ漫画の新展開」では、「荒唐無稽な闘争の場となったプロの野球漫画に最終的に引導を渡した」作品として、江口寿史の「すすめ!!パイレーツ」を挙げ、「最下位球団のナインが繰り広げるドタバタを通して、江口寿史はプロ野球そのものや、プロ野球に過剰な思い入れをする野球漫画のもっともらしさを笑い飛ばす」として、「この漫画の出現によって、もうプロ野球は少年たちの憧れの世界ではなくなってしまった、というのは言い過ぎとしても、『血の汗流せ、涙をふくな』の根性路線は、憑き物が落ちるように色あせていったような気がする」と述べています。
 そして、「『少年ジャンプ』のモットー、友情・努力・勝利を端的に表現できるのはスポーツの世界をおいてはない」として、「野球に変わる新しいスポーツ漫画」という要請に応え、「子供の世界に新しい流行のきっかけを作った」作品として、高橋陽一のサッカー漫画「キャプテン翼」と、井上雄彦のバスケ漫画「SLUM DUNK」の2作品を挙げています。
 第6章「漫画による恋愛論」では、桂正和の「電影少女」について、「『ハレンチ学園』から始まった『少年ジャンプ』が、この作品で宿題のように背負い続けていた『少年と性』という問題に対して、ひとつの回答を提出したようにも思える」として、「つねに『愛』の核心に迫るべく試行錯誤を続けてきた少女漫画の伝統を受け継ぎ、レンタルビデオ時代のちょっとエッチな少年たちの夢想に依拠したこの『電影少女』は、通俗なメロドラマの構成とロリコンふうのきわどい絵柄を用いながら、結局の所、感動的な純愛路線の王道を突っ走った」と述べています。
 第8章「ゲーム時代の想像力」では、『少年ジャンプ』650万部への道を牽引したのは鳥山明の「ドラゴンボール」だったというのが、「出版界の常識」だとした上で、「悟空は何か、読者の期待を担って、どでかいことをやらなければならない」ことが、「ストーリー漫画のヒーローの宿命」だとして、「このあたりが連載初期のつまずきの原因だったのではないか」と述べ、「科学と魔法が、権謀術数と無垢が、対立し絡み合い、ゆっくり鳥山ワールドが形成されていき、その独特の時空で悟空が思う存分強くなっていくのを見守る余裕が、読者にはなくなっていた」ことに、「テレビゲームの影響を読み取るというのは図式的に過ぎるであろうか」としています。
 そして、「ドラゴンボール」が、「確かに奇想天外な発想において、マニアックとさえ感じられる細かい設定と構成において、漫画の歴史に新しいページを開いた画期的な作品ということができる」が、「テレビゲームの『追体験』以上の骨太のドラマや物語性は、欠落せざるを得なかった」と指摘し、そのことが、「逆に単純明快で、スピーディな展開だと歓迎された」ところに、「今日の漫画状況の難しさがある」と述べています。


■ 個人的な視点から

 大昔に、嫌いだった歯医者に行く唯一の楽しみが待合室に置いてある「ジャンプ」でした。Dr.スランプの連載開始時の2話同時掲載とか覚えてます。あと、親戚のおばさんのうちでも、その家のお兄さんが読んでいたジャンプを読んでました。コブラとかブラックエンジェルスとかがあったかな。
 個人的には「ジャンプ」はメジャーすぎて敬遠し(友達の誰かが持っているということもあって)、「マガジン」は画が汚いというか怖そうだったので、小学生の頃は「サンデー」派でした。


■ どんな人にオススメ?

・『ジャンプ』を読んで育った人。

2010年2月 1日 (月)

戦後まんがの表現空間―記号的身体の呪縛

■ 書籍情報

戦後まんがの表現空間―記号的身体の呪縛   【戦後まんがの表現空間―記号的身体の呪縛】(#1838)

  大塚 英志
  価格: ¥2,650 (税込)
  法蔵館(1994/07)

 本書は、「巨大な閉塞した表現空間」である「まんが」について語った評論集です。
 第1章「記号的身体の呪縛」では、故手塚治虫が、自らのまんがの表現技法を、「記号的」と語っていることについて、「聞きようによっては彼の絵におけるコンプレックスを告白する内容とも」とれるが、「同時に自らのまんが表現そのものの限界を手塚自身が明快に解説している」と指摘しています。
 そして、手塚が、「たまたまお話をつくる道具として画らしきものは描いていますけど、僕にとってあれは画じゃないんじゃないかと、本当に最近思い出した」として、「自分の絵は『象形文字』のようなもの」だとしていることについて、「驚くべきことに手塚は自分はデビューの時に『そういうパターンをいくつか作っちゃって、30年間、その組み合わせをやってきたにすぎない』という言い方で、その創作歴を総決算しさえする」と述べ、「重要なのは手塚が田河の作風の継承に見られるように、手塚以前にあったまんがやアニメーションの技法を『パターン』として認識し、蓄積していった点にある」と述べています。
 著者は、「手塚の『まんが記号説』は、手塚の描く身体が生身の身体や具体的対象とは表現として遠く乖離していることを自己解説するものである。そして、それは手塚まんがと、手塚的まんが技術を出発点とする今日のコミックの表現としての限界を根本から規定している」と述べています。
 さらに、「まんが史における事実として、手塚は生身の肉体から乖離して成立しているはずの記号的身体に『性』を演じさせようとしてた」が、「そこには当然、矛盾が生じる」として、「記号化し自動化し生身の身体イメージを喚起しない、その意味で閉じてしまった表現がそれゆえに発するエロスというものはたしかにあるのだ」と述べています。
 そして、「まんがは手塚的まんが表現、すなわち記号的身体の呪縛の中に今もなおあることを忘れてはいけない」と指摘しています。
 第2章「性的コミックという枠組」では、有害コミック騒動と「黒人差別」問題について、「2つの『問題』を通してまんが界が外から問われているのは、まんが界の内部にとっては自明の、それゆえ、問われることも顧みられることもなかったまんが表現における暗黙の制度に対してである」と述べたうえで、「ロリコンコミック以降の、あまりに度を過ぎて少女たちの身体をモノとしてとらえる、そのようなまなざしは、実は手塚が自らの手法として設定した記号的身体に端を発している」と指摘しています。
 第3章「内面の発見と喪失」では、「〈内面〉を発見した少女まんがは、人物描写がメルヒェンの水準にとどまっていた手塚的少年まんがから大きく離脱し、〈内面〉を語ることを制度化していく過程で、結果として『文学』に酷似していく」とした上で、「90年代に入ると〈内面〉は再び見失われ、物語の外部でこれを客対視する奇妙な視点が登場する」として、「少女まんがの読者の中に、少女まんがを読めない読者が出現した」ことを指摘しています。
 第5章「『有害コミック騒動』と戦後民主主義という装置」では、「かつてのような『エロ漫画』の粗雑で劇画タッチの絵柄は、当時既に青少年の劣情をそそれるものではなかったので、読者の好みにあった作風でちゃんと劣情をそそるためにも、絵柄を『普通のまんが』と同じにする必要があった」として、「6、7年前に編み出した僕たちの手口に、ようやく規制する側が追いついたのかという感慨さえ実はある」と述べています。
 そして、有害まんがを批判する側が、手塚治虫を引き合いに出し、「その理想と創造力を後輩作家がもう少し受け継いでいたならば」と苦言を呈することについて、「手塚は『有害コミック』をも作り出したから偉大なのであり、彼が戦後日本社会の希望と不毛の両方に忠実に生きたまんが家だったことを忘れるべきではない」と指摘しています。
 第7章「技術としての物語」では、「まんが家たちの技術が退化してしまった以上、その分業化もより細分化される。その中で、原作者の役割も変わってくるだろう」として、「コミックにおける分業はかつて手塚治虫がたった一人で成し得たことを複数の人間が能力に応じて分担することである」と述べています。
 時評1「事件としてのまんが」では、「〈少女まんが〉というジャンルが戦後社会で花開き、その質的な側面においてある時期最先端にありえたのも、〈大人〉の枠組みの代わりに〈コドモ〉でも〈大人〉でもない第3の枠組みを作り出すことに消費者自身がラディカルだったからだと言える」と述べています。
 また、つげ義春について語ろうとする人々が、「必ずと言って良いほどつげの良き理解者的立場を無意識のうちに選択してしまう」ことについて、「それはつげによる、作品やエッセイを通じての巧みな、言ってしまえばマーケティング的な戦略の結果だ」と指摘しています。
 時評2「『解説』されるまんが」では、「課長島耕作」について、「舞台設定や細部の描写がリアルなので気がつかないが、実はストーリーそのものは荒唐無稽」だとして、「とにかく島耕作はまともに働かない。それがサラリーマンに支持される最大の理由のような気がする」と述べています。
 時評4「少年ジャンプの定点観測」では、ジャンプ・ブランドによる青年誌市場の"棲み分け"について、
・『少年ジャンプ』:青年誌市場の最多数派でありながら、カルト的な側面を強く持っている。
・『ヤングジャンプ』:まんがが好きというよりはまんがが楽だから読む、という読者が対象。
・『ビジネスジャンプ』:当初はビジネスコミックという新領域の開拓を目指したが、どうしたわけかおたく雑誌色が強い青年誌という、奇妙なスタイルをとりつつある。
・『スーパージャンプ』:『ジャンプ』のあくまでも少年まんがっぽい部分に執着する読者の受け皿。
の4つに分類しています。
 終章「戦後まんがの表現空間」では、「アトムの、あるいはピノコの成長をはばみ、しかし彼らが永遠に子供であることを保証する人造の皮膚の中で、戦後まんがにおける子供たちは安住し、あるいは葛藤してきた」として、「『戦後まんが』という表現空間もまた、手塚的な『人造の皮膚』の内側にあることを、ひとつの比喩として述べることは不可能ではない」と述べています。
 本書は、戦後まんがの限界という意味での、手塚治虫の影響の大きさを実感させてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 手塚治虫そのものをテーマにしているわけではないにもかかわらず、戦後まんがをテーマにする以上、避けて通れないというか、戦後まんがのフォーマットそのものが手塚治虫だということに驚きます。
 それにしても、パターンを見出して制度として確立するというのは、オリジナル以上に影響力が大きいのかもしれません。


■ どんな人にオススメ?

・戦後まんがにおける「身体」を見つけたい人。

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