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2010年3月

2010年3月31日 (水)

物理と数学の不思議な関係―遠くて近い二つの「科学」

■ 書籍情報

物理と数学の不思議な関係―遠くて近い二つの「科学」   【物理と数学の不思議な関係―遠くて近い二つの「科学」】(#1896)

  マルコム・E. ラインズ (著), 青木 薫 (翻訳)
  価格: ¥1050 (税込)
  早川書房(2004/12)

 本書は、「物理学に多大な貢献を果たした数学の巨人たちの業績をたどりながら、『物理と数学の不思議な関係』を解き明かしているものです。
 第1章「数学――宇宙の姿を映す鏡」では、ハーバード大学の数学教授トム・レーラーが、「剽窃せよ、剽窃せよ、誰の仕事も見逃すな」と書いていることを紹介した上で、「二十世紀の物理学に起こった大躍進のほとんどは、理論を作るのに打ってつけの数学、それなしには理論にできないほどの数学が、古い文献の中に見つかったおかげで達成されている」と述べています。
 そして、「物理学者が周りの世界を理解するとき、形式的で抽象的な数学が役立つことは疑う余地がない」として、「数学を物理学に応用するということは、数学で調べられたパターンを使って、そのパターンに合う自然現象を『説明』することにほかならない」と述べています。
 第3章「時空を支配する幾何学の正体」では、リーマンがやり遂げたことは、「非ユークリッド的な幾何学を定義できるような数学的形式を発展させた」ことだとした上で、「われわれの宇宙は四次元時空の中に存在」しており、「その四次元時空はリーマン多様体で表せる」と述べ、はっきりしていることは、「銀河系内の時空がユークリッド的でないこと、そして用いるべき幾何学は(高い精度が求められるときには)ゲオルク・ベルンハルト・リーマンの創り出した非ユークリッド幾何学だ」としています。
 第4章「実用主義の絶大な威力」では、「フーリエの定理には厳密さが欠けていたので、、19世紀の末になるまで、純粋数学の立場から数え切れないほどの攻撃を加えられた」が、「それだけの攻撃を持ってしても、応用数学者と物理学者がこれを使うのを止めさせられなかった」と述べた上で、フーリエ変換は、「結晶中での電子の運動」という「いっそう重要で難しい問題において決定的な役割を果たすことになった」と述べています。
 第7章「方程式は単純、解は複雑」では、「物理学上の考え方と数学とが結びつくようになったのは、運動していない系を扱う静力学の分野からだった」が、「運動をどう記述するかという問題は、いつの時代も学者たちを引きつける魅力的なテーマではあった」と述べています。
 そして、「ニュートンは自分の重力理論から、自然現象に関する膨大な知識を引き出すことができた」として、「そんな成果の一つとして、すでに得られていた様々な運動の『法則』を、理論的に説明したことが挙げられる」と述べています。
 第9章「絶対役に立ちそうもない理論の効用」では、「ガロアが創始して名付け、コーシーが磨きをかけた群の概念は、数学者たちをその研究に駆り立てた。そして19世紀の後半には、それまでにない新しい代数学が生まれることになった」として、クラインが「その人生の大半を、群論を発展させ、広め、応用することに費やした」と述べています。
 そして、「素粒子物理学への群論の応用ということで言えば、一番見込みがありそうなのは、自然界の四つの基本力を統一しようという試みから生まれた『ゲージ理論』」だとしています。
 第9章「ミクロとマクロをつなぐ架け橋」では、「実験データを解釈するための道具という点では、統計解析楽の方法は19世紀が進むにつれ次第に受け入れられていった」が、「概念的な面で豊かな進展がもたらされた」のは、1860年代に入ってからであり、「そのこと、物性に対する微視的記述と巨視的記述のあいだには、大きなギャップが口を開けていた」と述べています。
 第10章「イボイノシシの赤ん坊は二重らせんの夢を見るか」では、「角度や大きさはもちろん、辺がまっすぐかどうかさえ問題にしないで、三角形と四角形とを区別する方法があるのは明らかである」として、「われわれが『位相幾何学(トポロジー)』に出会うのは、こうした深いレベルで幾何学的対象を区別しようとするときだ」と述べています。
 また、「今日、トポロジーは高度に発達を遂げて、数学の中でも大きな広がりを持つ基本的な分野となった」が、「その一方で、トロポジーはどんどんわかりにくくなってしまった」と述べています。
 第11章「幾何学は自然を模倣できるか」では、「幾何学を大きく前進させることになった出来事の一つは、幾何学と代数学との密接なつながりが発見されたことである」とのべています。
 そして、フラクタルが、「『パーコレーション(浸透現象)』と呼ばれる物理学の分野で中心的な役割を演じている」とした上で、「いまやフラクタルは固体物理学の基本的な要素になっている」と述べています。
 第12章「一点における速度の深遠な意味」では、ニュートンの方程式が、「力と運動に関する問題に次々と応用され」、「ニュートン力学」または「古典力学」という広大なジャンルが生まれたが、その一方で、「微積分の土台のところにはまだ問題が残されていた。無限小の意味がよくわかっていなかったのだ」と述べています。
 本書は、数学と物理学の関係を初学者にもわかりやすく解説した一冊です。


■ 個人的な視点から

 本書を読むと、数学者から見た物理学者が不憫に見えてしまいますが、実用性とかそういうのはお構いなしで抽象的な世界で遊ぶ数学者ってやっぱりちょっと近づきがたいものがあります。


■ どんな人にオススメ?

・物理学がなぜ数学を使うのかを知りたい人。

2010年3月30日 (火)

天下りの研究

■ 書籍情報

天下りの研究   【天下りの研究】(#1895)

  中野 雅至
  価格: ¥2940 (税込)
  明石書店(2009/9/25)

 本書は、「『なぜ、天下りという現象は複雑で曖昧模糊としているのか』ということを探求することを通じて、日本の官僚制度の病弊といわれてきた天下りの全容を明らかにすることを主な目的としたもの」です。
 著者は、「天下り」という現象が複雑でわかりにくい理由として、
(1)データの不備や退職した公務員のプライバシーにかかわる事項ということもあって、実態がわかりにくいこと。
(2)天下りは様々な側面から考察できる現象であること。
(3)天下りはそれ自体が独立した現象ではなく、様々な制度や状況の変化に影響を受けやすいこと。
の3点を挙げています。
 第1章「『天下り』とは何か」では、「学術研究を見てもジャーナリズムを見ても、天下りのみを研究(取材)対象として包括的に扱ったものはない」として、「天下りの概念・実態というものについては論者によって相当の幅がある」と述べています。
 そして、天下りを、「下の者の意向や都合を考えない、組織が介在した、上からの一方的な押しつけ」と定義し、
・押しつける組織
・押しつけられる組織
・組織の介在の程度
・在職中の人事異動か退職後の再就職か
・人事の対象者
の5つを関連させることで、「天下りの定義は広くも狭くもすることができる」としています。
 第2章「公務員等の天下りの現状」では、天下りの分析を行うに当たっては、
(1)公務員などの全体の何%が再就職しているのか、誰がどこに再就職しているのか、どういうポジションで再就職したのかといった表面的な現象・結果的側面
(2)実際にどういう要因があって再就職に結びついているのか、どのようなプロセスを経て再就職に至るのかといった実体的側面
の2つの観点が重要であるとしています。
 そして、国家公務員全体の再就職率について、「全体として30%にすぎず、管理職以下の者を含めると勧奨退職者を対象とした調査でさえ再就職斡旋率は高くない」として、「天下りはキャリア官僚の特権というイメージが強いが、地方勤務者の方が本省勤務者より数が多く再就職者の57%を占めている」ことを指摘しています。
 一方で、地方公務員の天下りについては、
(1)天下りのような雇用慣行を持つのは、都道府県や政令指定都市など規模の大きな地方公共団体であり、規模の小さい市町村には再任用が多い。
(2)地方公務員の場合、天下りは成果主義の要素が強い。
(3)天下りが労使癒着となっている面がある。
(4)中央官庁中心の中央集権体制・縦割り行政を基盤にした天下り構造が持ち込まれている
(5)公共事業を触媒にした天下りが目立つ。 
の5点を指摘しています。
 第3章「国家公務員の天下りの現状分析とその特徴」では、「日本の天下りの大きな特徴の1つは各省による再就職の斡旋にある」とした上で、その理由として、
(1)我が国の政治・行政が各省を機軸とした各省割拠体制になっていること。
(2)国家公務員の人事が各省ごとになっていること。
の2点を挙げています。
 また、「所属に関係なく、天下る人の性別・年齢・退職時のポスト、再就職先の種類・ポストなどを分析することで、、国家公務員全体に共通した特徴やグループごとの特徴も明らかになる」として、
(1)所属省に関係なく、退職時のポストに応じて天下り先の種類・規模・ポストなどが大きく影響を受けていないか
(2)天下る人に着目すれば、天下りは必ずしも高級官僚に限定されないことがわかる。
(3)天下る人に着目すると再就職が一度で終わらないことが明らかになる。
の3点を挙げています。
 そして、
・財務省:「金融機関を中心とした民間企業、公正取引委員会などの公職、政府系金融機関などの非営利法人の3つ」にバランスよく天下り先を持っている役所は財務省の他にない。
・経済産業省:他の省庁と比較しても民間企業の種類の豊富さが際だっている。
・旧運輸省:陸海空の運輸という許認可規制の強い分野を所管しており、安定した民間企業の天下り先を持っている。
・旧建設省:建設会社への再就職はほとんど見られない一方で、特殊法人を中心とした非営利法人の豊富さが際だっている。
・旧自治省:天下り先の規則性が強い。
・旧厚生省:大半の者は非営利法人へ天下りし、バランスよく関連の特殊法人・認可法人・独立行政法人・公益法人に天下っている。
・環境省・旧総務庁・旧経済企画庁・旧国土庁:(1)戦後新しくできた官庁である、(2)他省庁の影響を受けやすい、(3)産業を所管していない、(4)関連の非営利法人が少ない、等の理由から天下り先に恵まれない。
などのように、省庁別に分析しています。
 さらに、2回目以降の再就職先の特徴として、「特殊法人・認可法人・独立行政法人・(ある程度の規模で省庁との距離が近く、理事が天下りポストになっているような)行政委託型公益法人等が、高級官僚の2回目以降の天下り先確保のために、自ら出資したり影響力を及ぼして組織を作るケースも多い」ことを指摘し、その弊害として、
(1)ネズミ講のように天下り先が際限なく増えていき、ますます天下りの実態を把握することは難しくなる。
(2)天下り先を作る「製造拠点」が省庁と特殊法人などの巨大非営利法人の2つになれば、それだけ天下り先が増えるなど、天下りをコントロールすることが難しくなる。
の2点を挙げています。
 第4章「天下りを成立させる要素」では、「中央官庁内部の要因である任用・人事評価・給与などの制度は、それぞれが違う理念で動いていた」として、
(1)各省を中心にした利益共同体化
(2)平等主義
(3)競争的な人事の制限
(4)戦前の高等文官試験時と同様に、国家公務員に身分を持ち込もうとしたこと
(5)競争主義的要素の導入に要素式活性化と公務員のモラルの維持向上
という「相互に矛盾する5つの理念によって構築されていた」として、「それらが相互にぶつかり合う中で、天下り促進的な力が働くようになった」と述べています。
 そして、公務員制度のうちに、競争促進的要素と平等主義的要素が混じり合った結果の「妥協的産物」としてできあがっているものもあり、その1つとして、「裾野が広い一方で成果主義の傾向も強い天下り」を挙げています。
 また、「非営利法人については特殊法人・認可法人・独立行政法人、公益法人の2つが主な天下り先」となった理由を論じる際の視点として、
(1)非営利法人が中央官庁による統制を排除し、自立性を維持できるような仕組みが制度化されていたのか否か。
(2)戦後、非営利法人への天下りは増え続けてきたが、それに対してどのような手段が講じられてきたのか
(3)公益法人に絞って中央官庁との利害関係を考察する。
の3点を挙げています。
 第5章「天下りが引き起こす様々な問題と天下りを規制する枠組み」では、「天下りは単に公務員の再就職という人事だけにとどまる問題ではない」、「補助金、随意契約、規制など、天下りは様々な問題と関連している」とした上で、政官業癒着の弊害として、
(1)経済的規制は「見えない補助金」であると考えれば、納税者としての国民が損失を被っているということになる。
(2)消費者としての国民は自由競争で実現される価格よりは高い製品・サービスを購入している。
(3)雇用については見解が分かれる。
(4)政治的な側面では、社会全体の規律や風紀の乱れにつながることは否定できない。
の4点を挙げています。
 そして、「国家公務員法第103条を字義通りに解釈すれば、国家公務員の天下りに対して厳しい規制がかかっているように見える」が、
(1)適用対象者を絞り込んでいること
(2)役員か非役員かで扱いを区別していること
(3)承認基準が曖昧であること
の3つの面で、「厳しい規制が緩和されている」ことを指摘しています。
 第6章「天下りの実態」では、天下りの斡旋に要するコストについて、「天下りの人数の多さや、これだけ多様な組織で斡旋を行っていること」を考えると、「斡旋に要するコストは非常に低い」ことを指摘しています。
 第7章「天下りに対する国民の反応と天下りの多面性」では、天下りが批判される理由として、
(1)天下りは公務員や官僚の特権性の象徴と思われていること。
(2)天下りが様々な弊害を現実にもたらしていること。
(3)官民の労働条件の乖離。
の3点を挙げ、「3つの中でも平成以降に際だつようになったのは官民の労働条件の乖離」ではないかと述べています。
 また、天下りの多面性を分析する際の視点として、
(1)天下りという制度の利点
(2)公務員の能力の高さ
(3)職業選択の自由の制限など公務員が払っている犠牲
(4)官の意図的なポスト独占ではない
(5)官民ともに天下りは存在する
の5点を挙げ、「天下りの弊害だけでなく、天下りの利点と考えられるものも含めて、天下りが多様な側面から考察できる対象である」と述べています。
 第8章「戦前における天下りの動向」では、「昭和初期には天下りがそれなりに慣例化していた」と指摘した上で、「昭和13年の時点ですでにマスコミや国会において、各省から今日の特殊法人・認可法人・独立行政法人に当たる特殊会社への天下りが問題視される中で、国会において天下り規制が導入されている」と述べてます。
 終章「天下りの変遷」では、「様々な状況から判断して、戦前の天下りが生き残って戦後に継承されていった尾は考えにくい」理由として、
(1)戦前の天下りはごく一部の官吏に見られるものにすぎず、戦後の天下りのように再就職をシステム的に処理するものではない。
(2)戦前には営利法人への再就職規制がなかったことからわかるように、戦後とは異なる制度の下で官吏は天下っている。
(3)フーバーが提示した国家公務員法の天下り規制に対して、大半の省庁は驚天動地の反応を示さなかったことなどから考えて、天下りは制度や慣行として定着していたとは考えにくく、戦後に継承するような意思はなかったと思われる。
の3点を挙げています。
 また、「天下りが際限のない泥沼のようなものになっている」要因として、
(1)天下りを斡旋しているのは各省だけでなく、特殊法人などを基点にしたものもあり国家公務員だけでなく特殊法人などの役職員も巻き込んだものになっていること。
(2)天下りは1回で終わることはなく、複数回にわたる「わたり」が多くなっており、それを可能にするために特殊法人が関連会社を作ったり、小規模な公益法人に予算が流れるなど無数の小規模組織ができあがっていること。
(3)各省によるコントロールの不十分さ。
の3点を挙げ、「これら3つの要因が重なることで、天下りは『誰にも監視できない自動運動』を続けるような形と化しており、その結果、天下りやわたりの実態がますます不透明なものと化している」ことを指摘しています。
 本書は、曖昧で断片的な情報をもとに感情的に語られることが多かった「天下り」について、丹念かつ網羅的に論じた力作です。


■ 個人的な視点から

 「天下り」について、これだけ体系的に追っている本は他に見たことがない。とは言え、その手法自体は地道で着実で、ジャーナリスティックな「天下り」が好きな人には物足りないかも知れないけど、黙々と資料を読み込んだ力作です。


■ どんな人にオススメ?

・天下りって実際のところどういうものか想像がつかない人。

2010年3月29日 (月)

「天下り」とは何か

■ 書籍情報

「天下り」とは何か   【「天下り」とは何か】(#1894)

  中野 雅至
  価格: ¥756 (税込)
  講談社(2009/12/17)

 本書は、「天下りについて、なるべくわかりやすい形で読んで」もらうことを目的としたものです。同じ著者による大著『天下りの研究』の簡易版的な性質を持っています。
 序章「官僚たちの『第二の人生』」では、キャリア官僚だった著者が役所を辞めた理由として、
(1)下請け仕事が多く、自分たちが中心になって政策を進めている実感をもてなかったこと。
(2)組織の一員ではなく個人として仕事をしたくなったこと。
の2点を挙げています。
 第1章「あまねく広がる天下り」では、天下りを「組織による再就職の斡旋」と定義した上で、退職した公務員の6割以上が斡旋により再就職していることを指摘しています。
 そして、最大の天下りとして、非営利法人を挙げる一方、民間企業には1割程度しか就職していないことを指摘しています。
 また、地方公務員については、天下り現象が見られるのは、都道府県・政令指定都市レベルまでで、市町村レベルではないと述べた上で、天下りがシステム化していることの問題点として、
(1)天下りが労使癒着となっていること。
(2)公共事業を触媒にした天下りが目立つこと。
(3)退職後にいくつもの再就職先を渡り歩く、いわゆる「わたり」が存在すること。
の3点を指摘しています。
 第2章「天下りはなぜ発生するか」では、天下りの発生理由として、
(1)人事の停滞を防ぐため
(2)年次主義
(3)年金水準の低さ
の3点を挙げています。
 第3章「省庁別に見た天下りの実態」では、国家公務員の天下りの特徴として、
(1)人事の一環
(2)各省の斡旋
の2点を挙げ、天下りの特徴である、
(1)規則性
(2)成果主義
(3)生活保障
(4)裾野の広さ
の四大特徴についても、省庁ごとに濃淡がある理由として、
(1)産業を所管しているか否か
(2)どのような業界を所管しているのか
(3)非営利法人がどれだけ豊富にあるか
の3点を挙げています。
 第4章「幹部官僚たちの天下り人生」では、「どこの役所に就職するか」とともに、「退職時の役職」が天下りを左右すると述べています。
 また、天下りの内実が大きく変化した最大の要因として、「世論」を挙げ、「傲慢に思われがちな官僚は、実は普通の人が想像する以上に世論の動向を気にしている」と述べています。
 第5章「天下りの弊害」では、天下りの弊害として、
(1)税金の無駄遣い
(2)役所と天下り先との利益を媒介にした不透明な関係
(3)天下りを受け入れる側の活力が低下したり、組織としての競争力が削がれる
の3点を挙げた上で、「これらの弊害を全て包含したような『悪』」として、
(4)政官業癒着
を指摘しています。
 第6章「当世キャリア官僚の本音」では、天下りの優れた側面として、
(1)政官業の情報交換や意思疎通を容易にする
(2)公務員の働くインセンティブを高める優れた制度である
(3)最小の人事労務管理コストで行われていることから、非情に効率的な制度である
(4)官僚が様々な業会や企業に天下ることで、業界内の均衡が取れてきた
の4点を挙げています。
 第8章「天下りは根絶できるか」では、天下りの規制を考えるにあたっては、
(1)政府(各省)が公務員の再就職を斡旋することを規制するか否か
(2)公務員の再就職自体を規制するか否か
の2点がもっとも大きな論点となると述べています。
 本書は、「天下り」を様々な側面から概観した一冊です。


■ 個人的な視点から

 「天下りって、何だかよく分からないけど高級官僚が私腹を肥やしているんでしょ」と何となくイメージを持っている人に、天下りのリアルを教えてくれる一冊。そんなに楽でもウハウハでもないらしい。


■ どんな人にオススメ?

・天下りはよく知らないけどなんとなく悪いことだと思う人。

2010年3月28日 (日)

比較歴史制度分析

■ 書籍情報

比較歴史制度分析   【比較歴史制度分析】(#1893)

  アブナー・グライフ (著), 神取 道宏, 岡崎 哲二 (監修, 翻訳)
  価格: ¥7140 (税込)
  エヌティティ出版(2009/12/9)

 本書は、「中世後期(1050-1350年頃)に生じた経済的、政治的な出来事の原因をよりよく理解しようとする試み」であり、「経済学以外の分野で発展した分析的枠組みと概念上の枠組みを土台」としたものです。「解説」では、本書を、「ユニークな一次資料に基づいた厳密な歴史分析と、経済社会において人々の行動を動機づけるさまざまな誘因(インセンティヴ)を数理的に分析するゲーム理論を統合する画期的な試み」と評しています。
 第1章「イントロダクション」では、「本書は詳細な歴史分析に基づいて、1つの新しい視点を提示、紹介するもの」だとして、「制度の分析全般の発展に寄与するとともに、とりわけ社会の発展にまつわる問題を考える上で大きな役割を果たす」ものである「比較歴史制度分析」を挙げ、
(1)本書は、従来の研究で用いられてきた、一見すると互いに異なる様々な「制度」の定義に対し統一された概念を提示する。
(2)互いの影響を及ぼしあう個々人のレベルで制度を分析すると同時に、制度化された行動のパターンが、外部からの強制なしにどのように守られるのかという問題も考察する。
(3)首尾一貫した概念的、分析的枠組みを創り上げて、制度の存続とその内政的変化、及び過去の制度が校正の制度の発展にもたらす影響を分析する。
(4)演繹的な理論と統計的な分析に依拠したこれまでの社会科学の実証分析の方法を超えるものが、制度の分析には必要であることを主張する。
の4点を挙げ、「本書は、現在も発展を続けるこの新しい考え方の主な特徴を提示し、例として中世経済史の重要な論点を分析し、その適用可能性を明らかにする」としています。
 第2章「制度と取引」では、「ルールは、人がそれに従おうという動機を持たない限り行動と合致することはない」とした上で、行動の動機づけをする予想には、
(1)内面化された予想
(2)行動に関する予想(期待)
の「2つの違ったものがあることを理解しておくことが重要である」としています。
 そして、制度について、「本書で提示する定義は、制度が人為的なものであると同時に、それが行動に影響を与える個々人にとって外生的なものであるという二面性を認識して、構造説・主体説を組み合わせるものである」と述べています。
 第3章「自律的秩序による契約履行制度:マグリブ貿易商の結託」では、「評判に基づく制度では、中心的な取引における行動に対応して、将来における報奨もしくは罰則が、経済的あるいは社会的な(補助的)取引において与えられる。こうした取引の結びつきは、それが上手く機能すれば、事後的に機会主義的に行動したいことを、事前にコミット(確約・保証)することを可能にする」と述べています。
 また、「マグリブ貿易商にとって重要な取引の結びつきには、2つのものがあった」として、
(1)代理人、商人間の取引が、承認官の情報共有のための取引に結び付けられていた。
(2)商人と代理人の間における個別の代理人取引は、その代理人とグループに属する他のすべての商人との将来の取引に結びついていた。
の2点を挙げた上で、「コミットメント問題を克服する1つの方法は、特定の商人と代理人の間における、商人-代理人取引を、時間を通じて結びつけることである」と述べ、「商人法は、マグリブ貿易商の結託の内部で人々の行動を調整することで、結託を機能させ、交渉費用を節約し、代理人関係を柔軟に結ぶことを可能にした」としています。
 そして、「マグリブ貿易商の結託は、非対称情報と遅いコミュニケーション技術、包括的な契約を結ぶことの不可能性、そして法的な契約の履行の困難等の問題をはらんだ、複雑な貿易において、契約履行の行動の調整の問題に対処するものであった」と結論づけています。
 第4章「国家の触手から所有権を守る:商人ギルド」では、「調整のための組織による禁輸の脅しがもつ信憑性と効力を決定的に左右するのは、違反者に特別な条件を提示して禁輸を切り崩そうとする支配者の能力を抑制することである」として、「ギルド組織が禁輸中の都市への輸送を防止するために特別な手段を要したことは、歴史的な証拠によって確認されている」と述べています。
 そして、「商人ギルド組織を、地方の支配者による独占のための道具とみなす理論とは異なり、ここで提示された理論は、支配者が、明確な権利を効果的な組織を持つ外国商人による商人ギルド組織の設立を奨励することを予想する」と述べています。
 第5章「内生的な制度とゲーム理論分析」では、「ゲームのルールが周知の事実であるという、ゲーム理論的な過程は、社会的ルールの認知的、情報的な役割を捉えている」とした上で、「ゲーム理論は、制度化されたルールが成立しているような状況では、有用な分析道具である」と述べています。
 第6章「内生的制度変化の理論」では、「制度を均衡とみなすアプローチが内生的制度変化の研究と統合可能であることについて論じる」としたうえで、「ジェノヴァの歴史が示唆しているように、制度は『ライフサイクル』を持っている可能性がある」と述べています。
 そして、「均衡における行動は、制度がより大きな状況の集合において、またはより小さい状況の集合において自己実現的となるように、徐々に準パラメータを変化させる。したがって制度的均衡は、直接的にも間接的にも、内生的に変化する」と述べています。
 第7章「制度の軌跡:過去の制度は現在の制度にどのような影響を及ぼすか」では、「制度的要素に集約された過去が、なぜ、どのようにして制度変化の方向を決定し、それぞれの社会が異なる制度的軌跡に沿って進化するように導くかを探る」としています。
 そして、「制度変化を研究する際に、文脈に基づいた均衡の限定(contextual refinement)という概念を用いることは、概念的に適切であると同時に、分析上も有用である」と述べたうえで、「コーディネーション(調整)効果と同様に、包含効果もまた、自己実現的な制度が幾つかある場合、代替的な制度の中からの選択に影響を与える」としています。
 著者は、「過去は制度的要素に集約され、それによって、それぞれの社会は別々の制度に関する軌跡をたどって発展する。過去から受け継がれた制度的要素と技術的に利用可能なそれに変わる要素との間に基礎的な非対称性が存在するため、新しい制度の細部や制度が変化する可能性は歴史の関数となっている」と述べ、「歴史は、初期条件となるゲームのルールを与え、また次に生み出される構造の中での調整メカニズムを与えることによって、制度変化の方向に影響を及ぼす」としています。
 第8章「国家の建設:ジェノヴァの興亡」では、「強力だが限定的な政府、すなわち行動を決定する十分な力を与えられているが、その力を乱用することは阻止されているような国家を作ることの難しさは、社会科学者達によって古くから認識されてきた」とした上で、「ジェノヴァの自己実現的な政治形態には、3つの主要な特徴を持っていた」として、
(1)相互抑止的な予想が2つの主要な氏族間の関係を律していた。
(2)執政官政府自体が、氏族の代表者を通して氏族の行動を調整し、ジェノヴァの人々が持っている資源を、国の政策のために動員するための手段となっていた。
(3)執政官システムは、商業的発展を犠牲にして平和と政治的秩序を維持していた。
の3点を挙げ、「ジェノヴァという都市国家は、氏族を統治する力を持たない『調整的国家』に過ぎなかった」と述べています。
 そして、ジェノヴァのポデスタ制について、「氏族間の協力、政治的秩序、経済成長を促した。ポデスタ制の下では、、一氏族が政治的支配力を得ようとする試みは無駄であると予想されたため、いかなる氏族もその試みを実行に移そうとはしなかった。また相互に協力すれば、軍事的な衝突によって報酬を失う危険を冒す事無く利益が得られるという予想によって、氏族同士が協力する誘引が存在した。つまりポデスタ制は、自己実現的な制度であった」と述べています。
 著者は、「ジェノヴァの政治、経済、社会の歴史を理解するためには、都市内の暴力を抑制し、経済成長を高める政策を生み出した制度を考察する必要がある。ジェノヴァの歴史はそれらの制度によって形作られたからである」とした上で、「ジェノヴァとヴェネツィアの歴史が示すように、有益な制度移行を実現することの容易さや手段は、過去から受け継がれてきた制度的要素、特に、社会構造やそれに伴う予想や規範によって異なる」と述べています。
 第9章「制度の軌跡とその起源:文化に根ざした予想と社会組織」では、「マグリブの間では、集団主義的な文化に根ざした予想が、自己実現的な集団的懲罰、水平な代理人関係、区分された経済、集団内での社会的情報ネットワークなどを特徴とする、集団主義的な社会の形成を導いた」とする一方、「ジェノヴァの人々の間では、個人主義的な文化に根ざした予想が、垂直的で統合された社会構造、比較的少ない情報伝達、自己実現的な集団的懲罰の欠如、などを特徴とする個人主義的な社会の形成を導いた」と述べ、「文化に根ざした予想と組織の発展の関係は、以上のような全般的な過程だけでなく、特定の経済的目的のために作られた組織にも反映されている」としています。
 著者は、「マグリブとジェノヴァは、同じ技術的、環境的制約に福祉、同じ組織上の問題に直面した。しかし、文化的遺産や、政治的、社会的歴史が異なっていたため、異なる文化に根ざした予想が生み出された。理論的には、2つの集団の制度が異なる軌跡をたどったことを説明するためには、彼らの予想が異なっていたというだけで十分である」と述べています。
 第10章「個人的関係に依存しない取引の制度的基礎」では、「経済史と開発経済学の中心的問題を考察することによって、理論-歴史対話型で理論に裏付けられた、文脈に依存した分析の利点を明らかにする」としています。
 著者は、「受取と支払が時間的、空間的に分離した個人的関係に依存しない取引は、近代の市場経済の特徴である」として、「上記のような取引を中世後期に支えたのは」、「自治的な共同体、共同体間の(不公平な)裁判所、及び集団的評判によって支えられた、契約に基づかず、集団的で、共同体的な債務、および共同体の評判が、内政的に、不公平な裁判所に公平な裁判を行う動機を与えたのである」と述べています。
 第11章「理論-歴史対話型の文脈に依存した分析」では、「制度が社会科学の従来の実証研究の方法に対して難問を提起することには2つの原因がある」として、
(1)制度は偶然の要素によってもたらされるものではなく、特定の機能や利害関係に資するような組織には同一の力と配慮が働いているが、制度は本来的に不確定的であり、歴史に依存し、または文脈に依存する。
(2)一般に観察可能な特徴だけを考察しても、制度を研究することはできない。
の2点を挙げています。
 また、「制度が存在しない環境を想定することから制度分析を始め、次に演繹的に、関心を向けるべき制度の特定に進むことはできない」と述べるとともに、「われわれは、機能だけに依存することはできず、ルールや組織のような観察可能な特徴を検討することによって、内生的な制度を研究することができない」と述べています。
 そして、「ゲーム理論のとりわけ有用な特徴は、均衡経路の外にある予想、すなわち、広まっている予想を所与とした場合、実際には起こらない状況における行動に関する予想、にもとづいた均衡予測を与えることである」と述べています。
 第12章「制度、歴史、発展」では、「本書の中心をなす4つの問題」として、「方法論的問題」である「制度の本質、及び制度を研究するための分析的、実証的方法」と、「実証的問題」である「ヨーロッパ世界とイスラーム世界における制度の比較制度分析から得られる洞察、及び本書で示した制度に関する見方の政策的含意」の4つの問題について考察するとしています。
 そして、「制度は単に、各時点における行動や結果、そして政策に影響を与えるだけではない。制度はまた変化をもたらすことを通じて、歴史の原動力となる。制度は制度変化の時期と性質に影響し、新しく生まれる制度の細部に影響を与える。さらに、過去から受け継がれてきた制度の構成要素は社会と個人の属性となっているので、制度の構成要素に体化された歴史は、新しいまだ制度化されていない状況について、代替的な制度の間の選択に影響を与える」と述べています。
 また、「制度分析の難問を解決するために、比較歴史制度分析は、制度の起源、機能、及び発現形態の多様性に対応した実用的な定義を提起する。それは経済学者、社会学者、及び政治学者に広く使われる様々な定義を方眼紙、同時にそれを超えるものである。制度は、行動の規則性を協同的に生成する社会要因の体系である。これらの要因は、人工的であるが物理的ではないという意味で社会的であり、それが行動に影響を与える各個人にとっては外生的である。制度を構成する様々な社会的要因、特にルール、予想、規範、及び組織は、社会状況において技術的に可能な多くの行動の中で1つのものを取るように、人々に動機と能力を与え、彼らを方向づける」と述べています。
 さらに、「過去の制度の構成要素の新しい制度引退する影響は、環境、コーディネーション(調整)、及び包含効果として現れる」と述べています。
 著者は、「中世後期の制度は、効率性を増大させ自己実現的であったが、本来的に自己弱体化的な性質を持っていた。評判がそれらの制度の機能にとって中心的な意味を持ったが、評判メカニズムの有効性はレント(完全競争化において可能な利益を超える余剰)に依存した」と述べた上で、「本書で提示した歴史分析は制度が歴史の原動力であるという主張を支持するものである。制度は社会の歴史的発展を形作っている。制度は、与えられた時点で行動と結果に影響を与え、変化の時期と性質に影響を及ぼし、新しい制度の細部を形成する。制度は、意図的な制度変化に制約を課すとともに意図的制度変化に機会を与え、意図的でない制度変化の過程を指導させる。過去から受け継がれた制度の構成要素と技術的に実行可能なそれに代わる選択肢との間に基礎的な非対称性があることは、過去から受け継がれた制度の構成要素が、後の制度変化の方向とそれがもたらす歴史的発展に影響を与えることを含意している」と述べています。
 そして、「所与の環境の下で定着する制度は複数ありうる。制度の動態的変化は非決定論的な歴史的過程である。したがって、本書が提起した理論は、制度の理解とその実証分析を育んでゆくための概念的、分析的、実証的枠組みを構成するものである」として、「制度の発展は決定論的ではないので、制度の歴史はただ1つではない。制度の歴史は数多くある。このような歴史について学び、歴史から学ぶことは、異なる制度発展の奇跡に関する我々の理解をよりよいものとし、制度が取りうる多くの携帯、制度を形成する力、そして制度を役立てる方法に関する我々の認識を向上させる」と述べています。
 本書は、歴史を見るための新しい見方を与えてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 経済史の世界のみならず、歴史学そのものを揺さぶった一冊。中世イタリア経済史は、ボローニャ大にいた伯父の専門そのものなので親しみが湧きます。とは言え、自分は全然詳しくないのですが。


■ どんな人にオススメ?

・制度がどのようにできるのかを知りたい人。


■ 関連しそうな本

 星野 秀利 (著), 斎藤 寛海 (翻訳) 『中世後期フィレンツェ毛織物工業史』

2010年3月27日 (土)

ビッグバン宇宙論 (上)

■ 書籍情報

ビッグバン宇宙論 (上)   【ビッグバン宇宙論 (上)】(#1892)

  サイモン・シン (著), 青木 薫 (翻訳)
  価格: ¥1680 (税込)
  新潮社(2006/6/22)

 本書は、宇宙論に詳しくない一般の人たち向けに、「宇宙はどのようにして生まれ、いかにして今日に至ったのか? 人間はその宇宙の中でどんな存在なのか?」について解説するとともに、科学的方法とは何かを解説したものです。
 第1章「はじめに神は……」では、「世界中のあらゆる文化が、宇宙はいかにして生じ、どのように形作られたかに関する独自の神話を作り上げてきた」とした上で、古代ギリシア、古代ローマの宇宙モデルについて解説し、プトレマイオスの宇宙モデルについては、「基本的なところで間違っていたとは言え、科学的モデルが満たすべき基本条件のひとつを満たしていた」として、「それ以前のいかなるモデルよりもはるかに高い制度で、すべての惑星の位置と運動を予測したこと」を指摘しています。
 そして、ケプラーが明らかにした太陽系モデルの特徴として、
(1)惑星は完全な円ではなく、楕円を描いて運動する。
(2)惑星はたえず速度を変える。
(3)太陽はこれらの軌道の中心ではない。
の3点を挙げています。
 また、太陽中心モデルが、「18世紀が進むに連れて天文学者に広く受け入れられていった」理由として、「望遠鏡の制度が高くなるに連れて観測上の証拠が増え」、「モデルの背後にある物理現象を説明するための、理論上の進展があった」とともに、「大きな要因として、上の世代の天文学者たちが死んでいったこと」を挙げ、「死は、科学が進歩する大きな要因の一つなのだ。なぜなら死は、古くて間違った理論を捨てて、新しい正確な理論を取ることを渋る保守的な科学者たちを片付けてくれるからだ」と述べています。
 さらに、19世紀に入るまでは、科学者たちは、「突発的に起こったいくつかの激変によってこの世界は想像され、形作られた」とする「激変説」を撮っていたが、「19世紀の末になって、地球を詳しく調査し、岩石年代決定法による新たな成果にも照らした結果」、科学者たちは、「宇宙の歴史は、過去にも現在と同じような漸進的な変化が起こったものとして説明できる」とする「斉一説」に傾き始めたと述べ、「1900年段階での永遠宇宙モデルは、空と大地を分けたのは青い巨神ウルバリだという主張と同じくらい説得力を欠いていた」が、「この問題に取り憑かれた理論化と、勇敢な天文学者、そして才気あふれる実験家たち」が、「巨大望遠鏡や人工衛星等の最新テクノロジーを駆使して、手強い主流派を打ち倒そうとした」として、「この究極の問いに答えることは、科学上もっとも偉大で、もっとも多くの論争を生み、もっとも大胆な冒険の一つとなるのである」と述べています。
 第2章「宇宙の理論」では、アインシュタインの特殊相対性理論が、「それまでの時間概念を攻撃するとともに、空間という岩の如き権粉概念までも見直すよう物理学者に迫った」とした上で、「彼が特殊相対性理論の次に成し遂げた大発見は、壮大なスケールでの宇宙の振る舞いを明らかにし、宇宙論の研究者たちに、考えられる限りもっとも深い問題に立ち向かうための道具を与えることになる」と述べ、1915年に完成させた一般相対性理論について、アインシュタインは、「重力に関するより良い理論――すなわちより正確で、より現実世界に近い理論――を物理学に提供しているのだと信じていた」と述べています。
 また、ロシアの数学者アレクサンドル・フリードマンが、「アインシュタインの宇宙論の論文を興味深く読んだ後に宇宙定数の役割に疑問を投げかけ、科学の体制派に反旗を翻すことになる」として、「アインシュタインは、宇宙は永遠だという過程から出発して、宇宙定数を付け加えることにより理論を予想に合わせようとしたが、フリードマンはそれとは逆の立場をとった。彼は、もっともシンプルで、もっとも美意識に訴える一般相対性理論、即ち宇宙定数を含まない式から出発することにより、この理論からどんな宇宙が論理的に出てくるかを見る自由を手に入れた」と述べ、フリードマンが「動的で発展する宇宙モデル」を提唱したとしています。そして、新しい右中間を創り上げたフリードマンが「ほとんど無名のまま死んだ」理由として、「フリードマンがあまりにも過激だったこと」とともに、「世界最高の宇宙論研究者であるアインシュタインが彼を厳しく批判したこと」を挙げています。
 さらに、ベルギーの聖職者にして宇宙論研究者であったジョルジュ・ルメートルによって、「膨張し進化する宇宙というアイディア」が独自に再発見されたことについて、「ルメートルが得た偉大な洞察は、一般相対性理論によれば、宇宙はどこかの時点で始まったのでなければならないと気づいたことだった」と述べ、「アインシュタインは、膨張するビッグバンのシナリオを受け入れる、あるいは少なくとも考えてみる機会を二度与えられた」が、「二度ともそのアイディアを却下した」として、「かつては反体制派の典型だったアインシュタインは、いつのまにか絶対的権威になってしまっていた」と述べ、「彼はやがてこの皮肉な立場に気づき」、「権威を馬鹿にした報いで、運命はこの私を権威者にした」と嘆いたとしています。
 第3章「大論争」では、「科学は、相補い合う2本の糸、即ち実験と理論とがよりあわさってできている」として、ハーシェルやヘール等、巨大な望遠鏡の建造に生涯をかけた天文家を紹介しています。
 そして、これらの巨大望遠鏡によって発見された「星雲」が、「天の川銀河の一部」なのか、「はるかかなたにある別個の銀河」なのかという問題について、1920年4月、米国科学アカデミーが行った「大論争」と呼ばれることになる会議が開かれたと述べ、「科学アカデミーは、星雲の本性をめぐって対立する2つの陣営を一堂に集め、当代一流の科学者たちの前で議論を戦わせるのが良いと判断した」としています。
 また、「写真というテクノロジーは、観測を正確かつ客観的に記録するうえで計り知れない価値を持つことが明らかになった」とともに、「それまでは見えなかった天体を検出する力があった」とした上で、ハーバード・カレッジ天文台の台長になったピッカリングが、写真解析に女性のコンピューターを雇い入れ、「女性たちは夜間の観測で得られた写真を調べるという形で、それまで女性にはほぼ完全に門戸を閉ざしていた天文学という分野に貢献できるようになった」と述べています。
 そして、写真解析のスタッフであったリーヴィットが、当時知られていた変光星の約半数を発見し、「変光星の魔人」と呼ばれるようになり、なかでもセファイドの観測に関しては、「セファイドの実際の光度と、見かけの明るさの変動周期との間に厳格な数学的関係があること」を見出したと述べています。
 さらに、「分光器」と呼ばれる装置によって、「天文学者は巨大望遠鏡に届いたかすかな光の情報をとことん搾り取れるようになった」として、星に含まれる元素の特定や、「固有運動」関するドップラー効果などが測定できるようになったとした上で、スライファーによって、銀河の赤方偏移が観測されると、この観測結果からハッブルが、「宇宙に存在する全ての銀河は、過去のある時点において、一つの小さな領域に詰め込まれていた」とする考えを持ったとして、「今日ビッグバンと呼ばれているものを匂わせる最初の観測事実だった」と述べ、「銀河の速度と距離は比例するというこの関係は、のちに『ハッブルの法則』として知られるようになった」と述べています。
 本書は、宇宙に関する人間の理解の途中までを描いた一冊です。


■ 個人的な視点から

 宇宙についての専門書はいくらでもありますが、専門知識のない人向けに、科学的好奇心を惹きつけるギリギリのところで宇宙論の歴史を展開できる手腕に脱帽です。下巻に期待。


■ どんな人にオススメ?

・宇宙について一から知りたい人。

2010年3月26日 (金)

音楽ビジネス著作権入門―はじめて学ぶ人にもわかる権利の仕組み

■ 書籍情報

音楽ビジネス著作権入門―はじめて学ぶ人にもわかる権利の仕組み   【音楽ビジネス著作権入門―はじめて学ぶ人にもわかる権利の仕組み】(#1891)

  佐藤 雅人
  価格: ¥2520 (税込)
  ダイヤモンド社(2008/9/27)

 本書は、「音楽ビジネスに関わる人、あるいはビジネスで音楽を利用する人、これからそういう方面に進みたい人、著作権に興味のある人、そんな人達に読んでもらうことを想定」した、音楽に関する著作権の入門書です。
 第1章「音楽ビジネスの基本は、三者の権利」では、「楽曲」と「音源」の違いについて、
・楽曲(=著作物)by作詞家・作曲家(著作者)
・音源(=レコード)byレコード製作者
と解説し、「ひとつの楽曲から、無数の音源」と述べています。
 また、中古CDにレコード製作者、アーティスト、作詞家・作曲家の譲渡権が及ばないことについて、「譲渡権には消尽規定があり、これが中古CDの販売に当てはまる」と解説しています。
 第3章「原盤の契約で変わるビジネス構造」では、印税の算出について、
・印税={税抜定価-(税抜定価×10%)}×印税率×売上数×80%
と解説しています。
 第4章「音楽の利用にかかる権利と許諾」では、利用許諾をもらうポイントとして、「利用の仕方によって、許諾をもらう先は違う」として、
(1)楽曲だけを利用する:楽譜の出版等→作詞家・作曲家
(2)楽曲と演奏・歌唱を利用する:テレビの歌番組での生演奏など→作詞家・作曲家とアーティスト
(3)楽曲と演奏・歌唱と音源を利用する:テレビ・コマーシャル等→作詞家・作曲家とアーティストとレコード製作者
の3パターンについて解説しています。
 また、作曲家には、「楽曲を無断で編曲されない権利として編曲権」があるとした上で、編曲にかかる判例の解説として裁判所が示した、
(1)すでに公表されている曲をもとにして
(2)その表現上の本質的な特徴は生かし
(3)たとえば原曲の旋律の変更などにより
(4)原曲にはない新しい世界を表現しながらも
(5)原曲本来の世界を感じさせる
ような別の曲を創作する行為を編曲とする、というものについて解説しています。
 第7章「保護を受ける対象とその期間」では、著作権が切れた後、「その著作物は社会の公有になり、誰でもが『自由に×××できる』状態」になるとして、「これをパブリック・ドメイン(public domain 公有)あるいはPDといい、著作権が切れている楽曲をPD楽曲あるいは著作権消滅楽曲」と呼ぶとして、レコード、実演、著作物について保護期間の解説をしています。
 第8章「著作権、著作隣接権の制限」では、町内会主催の盆踊り大会における太鼓を叩いている人の楽曲の演奏権について、
(1)演奏が営利目的でないこと
(2)入場者から料金を徴収しないこと
(3)演奏を行う者に報酬が支払われないこと
の3つの要件を挙げています。
 第9章「人格権」では、著作者人格権について、
(1)公表権
(2)氏名表示権
(3)同一性保持権
の3つの権利の解説を行っています。
 本書は、音楽ビジネスの基礎とも言うべき著作権について分かりやすく解説した一冊です。


■ 個人的な視点から

 著作権の入門書は色々ありますが、音楽の著作権関係は独自かつ複雑なので、音楽ビジネス用に特化したものが読みやすいでしょう。


■ どんな人にオススメ?

・音楽ビジネスに携わりたい人。

2010年3月25日 (木)

「意識」を語る

■ 書籍情報

「意識」を語る   【「意識」を語る】(#1890)

  スーザン・ブラックモア (著), 山形 浩生, 守岡 桜 (翻訳)
  価格: ¥2,310 (税込)
  エヌティティ出版(2009/2/23)

 本書は、「意識はどうやって生まれるか、どのように機能するのか。それは脳とどう関係するのか、そもそも意識に脳は必要なのか? そしてそれに関連して、自由意志というのは存在するのか、人間とは何かといった問題」を20人の科学者や哲学者に尋ねたものです。
 ネッド・ブロックは、現象意識とアクセス意識の違いについて、現象意識は、「なぜそれが脳の状態であり得るのか、なぜそれが脳の状態に付随したりそれで決まったりできるのかわからないようなこと」であるのに対し、アクセス意識は、「しばしば意識という言葉で意味されているもの」だとした上で、「この二つは別物だけど密接に結びついているらしい」と語っています。
 また、「哲学者のゾンビには二種類ある」として、
(1)物理的に我々と完全に違うゾンビで、機能的には似ているけれど、対応するいくつかの状態を持っていて、それが同じ形で相互作用し、同じ種類の行動を生み出すようなゾンビ
(2)物理的には我々と全く同じ生き物だが、だれもそこにはおらず、現象性が全くないゾンビ。
の2つを挙げています。
 デイヴィッド・チャーマーズは、「科学の視点から世界を見るときには、三人称の視点を使う」のに対して、「意識の科学の核心にあるのは、一人称の視点を理解しようとすること」だとのべたうえで、「目がどうやって違う感覚刺激を区別して仕分けするのかを説明し、脳がその情報をどうやってまとめ上げ、それがどうやってぼく自身のある言語的な報告や反応につながるかを説明」することは「簡単な問題(イージー・プロブレム)」であるのに対し、「むずかしい問題(ハード・プロブレム)はそうしたものすべてになぜ主観的な体験がつきまとうのかという説明をすること」だと述べています。
 スチュワート・ハメロフは、「脳は見事な情報処理系ですが、我々がなぜ、どうやって主観的体験や感情や『内面生活』を持つのか、というのは全く説明できない」とした上で、この問題が「ハード・プロブレム」と呼ばれるようになったことについて、1994年のツーソン1に置いて、デイヴィッド・チャーマーズの講演のあと、「デイブの講演と、かれのいうむずかしい問題(ハード・プロブレム)の話でひたすら沸き返って」として、「たぶんあの瞬間こそが、意識の国際的な運動をたきつけたんだ」と述べています。
 スティーブン・ラバージは、「通常は夢に存在しない」とされる「自生的な意識、つまりそこで起きていることは全て夢のなかの出来事なんだという意識」について、「これが思い出せると、今やこのもっと広い文脈でなら筋が通るような、そしてそれまでは文字通り考えもつかなかったような、新しい可能な行動の集合が手に入る」と述べています。
 そして、「明晰夢は悟りがどんなものかについての、最高のメタファーの一つ」だと述べています。
 ヴィラヤヌル・ラマチャンドランは、自由意志について考えることについて、「シヴァの踊りというものに少し似ている」として、「あなたは自分が世界を見つめる超然とした傍観者だと思っているけれど、実はこの世の宇宙の盛衰の一部に過ぎない。でも何も変わっていませんよ」と語っています。
 本書は、意識とは何かを、常に考えている世界の賢者の言葉を聴くことができる貴重な一冊です。


■ 個人的な視点から

 世界の大物たちの生の声を聞ける機会というのはありがたい。できればこの対談集がビデオになっていたら楽しいのに。英語がわかるわけではないですが。


■ どんな人にオススメ?

・人間の脳をめぐる最先端を知りたい人。

2010年3月24日 (水)

意識 〈1冊でわかる〉

■ 書籍情報

意識 〈1冊でわかる〉   【意識 〈1冊でわかる〉】(#1889)

  スーザン・ブラックモア (著), 筒井 晴香, 信原 幸弘, 西堤 優 (翻訳)
  価格: ¥1,785 (税込)
  岩波書店(2010/2/19)

 本書は、近年の、脳科学の急速な進歩によって、私たちの人間観を大きく揺るがし始めた、「意識への現れをめぐる問題」を論じたものです。
 意識には、「現れと機能というふたつの側面」があり、哲学者のデイビッド・チャーマーズは、「意識的経験の機能については、どうすればそれが解明できるかが原理的には明らかだという意味で、機能の問題を『イージー・プロブレム』とよび、それにたいして、意識への現れについては、どうすれば解明できるかが原理的にすらまだ分かっていないという意味で、それを『ハード・プロブレム』とよぶ」としています。
 第1章「なぜ意識は謎なのか」では、「意識はわかりきったものであると同時に、じつに研究しにくいものでもある」とした上で、「意識という言葉のこの本質的な意味は、現象性ないしは現象的意識とも呼ばれている」として、
・現象的意識:ある状態にあることがそのようなことであるような何か
・アクセス意識:思考したり行為や発話を行ったりするのに利用できるという意味での意識
の2つを対比しています。
 そして、「私たちは劇場や意識の流れといった、おなじみの意識観を何とか維持し続け、それを上手く働かせるように務めるべきなのだろうか、それともなじみの考え方を捨てて一からやり直すべきなのだろうか。意識を脳の機能に関係付ける興味深い研究を考察するにあたって、この問いを心に留めておくことが重要」だとしています。
 第3章「時間と空間」では、「意識が現実世界の自称に遅れて生じるということはあるのだろうか」という問題が、ベンジャミン・リベットの研究から生じ、「リベットの遅延」ないし「2分の1秒の遅延」を巡る様々な理論が生まれたと述べています。
 第4章「壮大な錯覚」では、「人間の心は広大な無意識の部分と、それよりも小さい前意識ないしは下意識の部分、そして最後に、意識の部分から構成されており、私たちが直接的に知っており経験するのは意識の部分だ」と想像したくなるが、「この伝統的なイメージはきっと間違いだろう」と述べています。
 第5章「自我」では、「自我の問題は意識の問題と密接に絡み合っている」として、「意識的経験が生じているときには、それは誰かに対して生じていなければならないと、いとも簡単に考えられるから」だと述べ、「私たちが自我の存在を信じるかどうかによって、多くのことが左右されるにもかかわらず、自我に関する私たちの考えは、容易に深い混乱に陥ってしまう」と述べています。
 第6章「意識的な意志」では、「感覚情報が到来したときにどのニューロンが活性化するか、また行為が計画され実行されるときにどのニューロンが活性化するかは、科学によって明らかにできるが、何を行うかを決めることは、前頭前皮質であれ他のどの領域であれ、およそニューロンが白化することとは異なるように感じられる。むしろ、あたかもニューロンとは別の何か――自己、意識――が存在していて、それによって私は自分の望みどおりに自由に反応できるように感じられる」として、「これは古典的な自由意志の問題である」と述べています。
 また、リベットの実験結果では、「行為の決定Wは行為より約200ミリ秒(5分の1秒)前に生じていた。しかし、準備電位RPはWの350ミリ秒前に、即ち行為の約550ミリ秒前にすでに生じ始めていた」として、「運動を立案する脳過程は、人が動こうと意識的に良くするよりも3分の1秒以上前にすでに始まっていた」と述べ、「人が動こうと意識的に決めるよりも前に、多数の神経過程が世紀していたに違いない」としています。
 第7章「変性意識状態」では、「意識状態と変性意識状態(altered state of conciousnes, ASCs)も一見すると明らかなもののように見える」が、「変性意識状態をきちんと定義しようとすれば、いつもすぐに困難に突き当たってしまう」として、さしあたり明らかな定義の仕方として、
(1)客観的基準:どれだけの量のアルコールを飲んだのかなど。
(2)主観的基準:自分の意識が通常と根本的に異なっていると経験者が自ら感じるくらい、精神の働き方全体が質的に変化してしまうこと。
の2点を挙げています。
 また、臨死体験(near-death experience, NDE)について、「多くの異なる文化や様々な年齢の人々によって報告されており、大筋は驚くほどよく似ている」として、「この類似性は、あらゆる年齢・文化の人がみなよく似た脳を持っており、この脳はストレスや恐れ、酸素不足、その他多くのNDEの誘引に対してよく似た仕方で反応するという事実によって、はるかによく説明できる」と述べています。
 第8章「意識の変化」では、「意識は適応形質なのだろうか」という問いについて、
(1)意識は適応形質である
(2)意識は役に立たない副産物である
(3)ほかの適応的な何かの不可分の要素である
の3つの可能性を示しています。
 本書は、脳科学の発達によって可能性が広がった「意識とは何か」を探る最新の研究成果を解説してくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 脳科学の話はこの先どうなるか分からない緊張感というか、これまで通説として信じていたものが明日にもひっくり返らないとも限らない感じが楽しいです。茂木健一郎の新刊を読んでもすぐに時代遅れの旧説になるかも知れない。


■ どんな人にオススメ?

・最新の意識を知りたい人。

2010年3月23日 (火)

内閣政治と「大蔵省支配」―政治主導の条件

■ 書籍情報

内閣政治と「大蔵省支配」―政治主導の条件   【内閣政治と「大蔵省支配」―政治主導の条件】(#1888)

  牧原 出
  価格: ¥1,995 (税込)
  中央公論新社(2003/07)

 本書は、「現在なぜ『官僚主導』か『政治主導』かが見えにくいのか?」という問に対して、「『官僚主導から政治主導へ』という改革のキャッチフレーズが、過去における『官僚主導』の存在を過大に評価する一方で、あるべき『政治主導』を過剰に理念化しているから」であると答えたものです。
 第1章「『調査の政治』と『審議会政治』」では、「従来の『省庁セクショナリズム』論とは、原局の政策が省の政策となり、それを閣議で代弁する大臣間の対立へと縦割りに対立軸が形成されることを強調していた」が、本書は、「経済省庁の大臣官房から内閣官房・審議会事務局・総理府外局へ出向人事が繰り返されることによって、省の枠を越えた発想を持つ官僚の人的ネットワークが『官房』を銘打った組織間に形成されており、これが局さらには省をまたがる政策の立案を可能にしている」ことを主張しています。
 また、戦中期の「革新官僚」について、その多くは「戦後すぐに公職追放を受けるため、戦後行政には直接関係しない」ば、「彼らの作り出した機構と行動様式は、戦後の行政機構に2つの制度遺産を残した」として、
(1)組織面の制度遺産として、物動計画に対応する内部部局が経済省庁に設けられたこと
(2)物資動員計画の作成と各省総務局の設置は、入省後まもなくそこに配属された若手官僚の中に、マクロ経済の視野を醸成し、経済合理性を重視する政策思考を徐々に形成していった
の2点を挙げたうえで、それまでの大臣官房は、「各局の日常業務に必要な行政資源を配分する『受動的調整』を所掌する組織であった」が、「内閣の調査機関における物動計画の策定に伴い、所掌事務の量的増大に直面した関係各省は政策構想力を醸成する必要に迫られ」、「そのために設置された『能動的調整』を所掌する部局が大臣官房の調査・企画部局であり、これこそが総動員体制が刻印した省庁編成の特徴であった」と述べています。
 さらに、各省が発信源となる「調査の政治」を主導したのは大蔵相であった理由として、
(1)占領改革によって、大蔵省以外の省が解体・再編されたこと
(2)占領終結により、GHQによる法案審査が廃され、国会みが法案審議の場となったときに、その機能が爆発的に発揮されたこと
(3)占領終結後予算編成過程は流動化したままであったこと
(4)経済計画の導入によって、予算編成を統制するという企図が主として政党の側から唱えられたこと
(5)占領終結後の1950年代当時大衆社会か状況と呼ばれたマス・メディアの変容に大蔵省が能動的に対応し得たこと
の5点を挙げています。
 著者は、本書が、「1950年代において、出向を繰り返す大蔵省の『官房型官僚』が『調査の政治』の中でいかにして主導権を占め、またいかにして組織防衛に努めたかに焦点を当てることにより、『調査』活動における戦後の政官関係を解明する」としています。
 第2章「制令諮問委員会の『戦前型』審議会政治」では、「制令諮問委員会答申が果たした役割は、、占領期には明るみに出なかった日本国憲法の運用上の諸問題を一挙に噴出させたこと」だとして、
(1)内閣の役割:閣議に出席せず「側近」に問題処理を委ねるという吉田首相のスタイルは、制度的に見ると内閣の補佐機関を未整備のまま放置することを意味した。
(2)制令諮問委員会のような諮問委員会の役割:私的諮問機関が重要法案の奇数を握っているという不透明な立案過程は、すぐに国会で問題視された。
(3)国会の役割:政策決定過程がもろもろのルールの総体であるという観点に立てば、福永幹事長事件は、一時的な「混乱」ではなく、占領終結に伴って国会の制度化を告げるものであった。
の3点を挙げています。
 第3章「大蔵省大臣官房調査課の『一兆円予算』編成」では、「29年度予算の編成過程の特徴は、『一兆円の枠』を実現させた点で、終始大蔵省官房調査か主導のものであった」として、
(1)緊縮財政の方針が、アメリカの要請であり、吉田首相がそれを受けてリーダーシップを発揮したと指摘されているが、国際収支の危機という経済状況から、緊縮財政の方針自体は、ほとんど必然的に要請される情勢であり、問題は、いかなる緊縮財政方針をとるかであり、「一兆円予算」とはそれを端的に表す象徴であった。
(2)占領終結後の政治・経済状況全体の中に、財政と金融を位置づけ直すことに対応する調査能力と企画能力を具備していたのは、官房調査部設置に伴い調査課を失った主計局や税制調査に特化している調査課しか持たない主税局ではなかったという大蔵省内での権力関係の変化。
(3)この過程で官房調査課に協力的であった主計局内の官僚として、次長の原純夫や、結果としてこれを受け入れることを決断した森永主計局長らは、本来主計局官僚ではなかった。
(4)以上のような官房調査課の活動は、従来「森石会」についてマス・メディアが指摘していたように、決して池田勇人個人に依拠するものではなかった。
の4点を挙げています。
 そして、吉田内閣総辞職後、池田が「ほぼ一貫して財政政策に影響力をふれない位置に追いやられた」ため、「ひとたび『調査の政治』に参入した大蔵省はすぐ外部からの攻勢にさらされた」ため、「池田に頼らずに政策立案を行わねばならなくなったときに、大蔵省は官房調査課を中心に、調査機能を最大限に活用して組織防衛に努めていった」と述べています。
 第4章「政権交代と大蔵省主計局改革」では、保守合同直前の大蔵省が対峙する政治勢力として、
(1)経済計画の策定により発言力を増大させつつあった経済企画庁
(2)保守政党の一部と連携して資金統制の機会をうかがう通産省
(3)所属議員への充分な統制が行き渡らないまま財政膨張圧力をかけ続ける与野党
の3つを挙げ、「これに対し、大蔵省は、経済計画に対は予算を基準に策定するよう要求し、資金統制については審議会の設置によって議事進行の主導権を確保し、政党の圧力については世論操作によって歳出の膨張を抑制していた」と述べています。
 第5章「自民党政調会の『政策先議』と政府審議会の再編」では、自民党国民年金実施対策特別委員会が、政府審議会の2つの答申・意見を調整しつつ、地方団体・農民団体の要望を取り入れて、法案の作成に寄与した」として、「政策先議」のもと、「党主導の政策形成が成功した例」だと述べています。
 第6章「国民所得倍増計画の内閣政治」では、「国民所得倍増計画は、池田の構想を起源とし、それを岸・福田が取り入れたように見える」が、「経済政策を議論するためには、経済情勢への具体的な分析が不可欠の前提」であるため、「彼らは、様々な経済統計を分析して情勢判断を行う補佐役を動員しなければならず、実際には経済省庁内の調査・企画部門にそれを求めた」として、「池田や福田の構想は、彼らの背後にある調査・企画部門との提携関係から捉え直すことによって、その政官関係における歴史的意義を明らかにすることができる」と述べています。
 そして、「福田の『倍増』構想は、党幹部として等の政策を演出する発想から生まれたものであったのに対し、池田の『倍増』構想は、池田は事務局長の田村敏雄が組織した経済政策の勉強会から生まれたものであった」とのべたうえで、国民所得倍増計画を、「当時としては予想を超えた高成長率を掲げるという斬新な内容によって、1950年代の経済政策からの大きな転換となり、また警職法改正から安保改定にかけての街頭デモの時代を終結させ、経済を内閣の課題の中心におしあげた」一方で、「決定過程に関しても時代を画するものであった」として、「32年7月から33年6月にかけての河野経企庁長官による経企庁強化と、34年度予算編成において福田政調会長が提唱した『政策先議』による党政調会の強化という文脈上に、国民所得倍増計画の策定過程を位置づけると、1950年代の諸改革の集大成であることが浮かび上がる」として、
(1)国民所得倍増計画、経企庁による経済計画として極めて強い影響力を持ち得たのは、河野による経企庁の強化なくして理解できない。
(2)国民所得倍増計画の中核となるアイディアの出所は、下村と彼の率いる大蔵省官房調査課の調査官グループであった
(3)福田の提唱した「政策先議」の決定手続は、所得倍増計画の策定過程の最後においても形式上尊重された
の3点を挙げています。
 おわりに「党政調会―『原局型官僚』対 内閣―『官房型官僚』」では、「大蔵省官房調査課が『調査の政治』から離脱するのと並行して、経済企画庁においては調整局の地盤沈下が顕著となった」として、「総合計画局が経済計画、ついで全国総合開発計画の策定によって影響力を高めていったのに対して、調整局の影響力は低下した」と述べています。
 そして、多くの霞ヶ関ウォッチャーが、「原局型官僚」の中に、「日本の官僚の発揮する良質な政治性があるかのように考えてきた」が、「これはおおむね彼らが『国士』的スタイルを公然と振り回すために、同時代からもよく注目されてきた」ためであり、「あまり政治の表面に姿を見せない『官房型官僚』の政治性をも考慮に入れないと、戦後の官僚制の実像を理解することはできず、ひいては戦後政治の特性を見誤るであろう」と述べています。
 また、池田を支えた大蔵官僚には、
(1)同時代からは「秘書官トリオ」と呼ばれた大蔵省出身の池田側近(大平正芳、黒金泰美、宮沢喜一)
(2)宏池会事務局長田村に代表される戦前の大蔵官僚
(3)池田派宏池会と連携した下村と調査官のグループ
(4)木曜会に出席していた平田敬一郎に代表される主税局畑の官僚
(5)森永・石野・谷村の官房調査課のグループ
の「5種類の大蔵官僚ないし大蔵官僚OBが分担していたという点に留意せねばならない」と述べ、「本書の分析から、この第5のグループに着目することにより、『大蔵官僚支配』の内実を再検討することが可能になる」と述べています。
 そして、「イギリス型の『政治主導』が成立するには、党政調会―『原局型官僚』という提携関係に加えて、内閣―『官房型官僚』という提携関係が併存し、相互に緊張関係に立つことが条件となる」として、「今後『政治主導』が統治のルールとして根付くためには、いったん影を潜めた内閣―『官房型官僚』という提携関係を強化する必要がある」と述べています。
 本書は、「政治主導」の内実を深く探った一冊です。


■ 個人的な視点から

 「政治主導」というと「官僚を排除すること」と捉えられがちですが、官僚を完全に排除してしまうと行政が麻痺してしまいます。政務三役で全部決めるとか。
 そいういうわけで、官僚の行動原理を理解していないと官僚を使いこなす「政治主導」は不可能だということが、本書を読むと分かるのではないかと思います。


■ どんな人にオススメ?

・名ばかりの「政治主導」に限界を感じる人。

2010年3月22日 (月)

地方別・並列日本史

■ 書籍情報

地方別・並列日本史   【地方別・並列日本史】(#1887)

  武光 誠
  価格: ¥777 (税込)
  PHP研究所(2010/5/15)

 本書は、日本は「性格の異なる地方の寄せ集め」であり、「日本の一つ一つの地方が、それぞれ独自の歴史を持っている」として、「日本の歴史の全体像」をつかむことを目的としたものです。
 第1章「飛鳥時代(592年-709年)」では、この時代、北海道の大半が、「まだ続縄文文化の段階」であったが、「縄文時代のままの遅れた文化」ではなく、「北海道の人々は漁撈の技術を改良し、濃厚に頼らずに生活できる集落をつくり上げた」と述べています。
 また、この時代の東北地方は、「朝廷の領域の辺境」と、「蝦夷の居住地」の2つの文化圏にわかれていたと述べています。
 そして、九州については、「北九州は、辺境ではなかった。この時代の朝廷が北九州経由で、しきりに大陸と往来していたからである」として、朝廷が外交の出先機関としておいた筑紫太宰の官職が、後に太宰府に発展すると述べています。
 第2章「奈良時代(710年-793年)」では、この時代は、「一部の貴族が中国風の贅沢な生活を楽しんだ時代でもあった」が、「朝廷が送った国司の指導によって地方の農業が急速に発展し、文字や大陸の工芸技術が普及した点も見落とせない」として、「奈良時代に中央政権が安定したお陰で、日本全体が、一つの共通した文化を有する国家としてまとまっていく」と述べています。
 また、「九州は大宰府が治める、半ば独立した世界であった。そして大宰府は『西の朝廷』と呼ぶにふさわしいものであった」と述べています。
 第3章「平安前期(794年-900年)」では、蝦夷に「阿弖流為というすぐれた指導者が現れた」として、「この阿弖流為を従えるために東北地方に送られたのが、坂上田村麻呂である」と述べ、ています。
 そして、「この時代には、渤海国と北陸地方との使者の往来が盛んであった」として、「そのために渤海使を接待する能登客館と松原客館がにぎわった」と述べています。
 第4章「平安後期(901年-1191年)では、「平安時代なかばにあたる10世紀に、日本全国に武士が現れた」ことで、「古代からひとつの地域に根を張ってきた蝦夷の首長の性格も大きく変わっていった。武士の生き方を見習い、自領への支配力をつよめて武士化した」と述べています。
 第5章「鎌倉時代(1192年-1333年)では、沖縄では、11世紀後半ころに「グスクと呼ばれる小国が一斉に出現した」として、沖縄全体では400近くのグスクがあったと述べ、「独立した首長のグスクがさまざまな形でまとめられて、最後は琉球王国になる」と述べています。
 第6章「南北朝時代(1334年-1392年)」では、「14世紀なかば、アイオヌ文化がほぼ確立した」として、アイヌ文化を特徴付ける「クマ送り(イヨマンテ)の祭祀」を紹介しています。
 第7章「室町時代(1393年-1491年)」では、「日本海航路を用いた昆布の交易によって、北海道に大きな変革がもたらされた」として、「蝦夷地との交易が儲かるので、東北地方北端から北海道南端に移住するものが相次」ぎ、かれらは「館(たち)」と呼ばれる「城砦を経営する武士の保護のもとに定住した」と述べ、和人とアイヌとのあいだに様々な紛争が起こり、アイヌの首長コシャマインが移住者に挙兵した際に、花沢館にいた武田信広が鎮圧し、「このあと信広は名字を蠣崎と改めて和人層の指導者にのし上がっていった」と述べています。
 また、沖縄では、1492年、「第一尚氏が沖縄本島の統一を成し遂げ」、「これによって、琉球王国が誕生し、以降沖縄の海商が広域で活躍するようになる」と述べています。
 第9章「安土・桃山時代(1568年-1599年)」では、豊臣秀吉が政権を握ると、北海道の蠣崎家がかれに従い、「これによって北海道南端が正式に中央政府の領域に組み込まれた」と述べています。
 第10勝「江戸前期(1600年-1687年)」では、「この時代には、和人との交易なしにアイヌの集落の生活が成り立たなくなっていた。鯖との交易で和人から得る米が、アイヌに書かせない食料となりつつあったのだ」として、「北海道南端のアイヌは長期にわたって和人の政治的、経済的支配のもとに置かれることになった」と述べています。
 また、沖縄について、薩摩藩が琉球に出兵した後も、「沖縄をつうじた中国貿易の利益は、島津家にとって捨てがたいものであった」ため、尚家に『中山王』の名で中国に朝貢するように命じ」、「以降琉球王家は、日本から見れば将軍家の陪臣であり、中国に対しては独立国の君主という不明確な形で江戸時代を過ごすことになる」と述べています。
 第12章「幕末(1830年-1868年)では、1854年12月の日露和親条約によって、「択捉島以南が日本領となり、樺太は日露雑居の地とされた」として、「この時にアイヌは、相談なしに一方的に日本国民に組み入れられたことになる」と述べています。
 また、1853年にアメリカのペリーが、首里城を強行訪問し、1854年に「沖縄をアメリカの補給基地の一つとする」とした琉米修好条約が結ばれたことで、「ペリー艦隊が沖縄を攻撃する事態は避けられた」と述べています。
 第13章「明治時代(1869年-1900年頃まで)では、1869年から、「開拓使の主導による組織的な北海道移民が始められた」として、「森林や原野の農地化は、アイヌの狩猟、漁撈の生業を奪うものであった」ため、「奥地に追われたアイヌもいた」と述べ、「開拓使はアイヌへの勧農を進めた」結果、「農民となって、日本人と同化していくアイヌが増えていった」と述べています。
 本書は、学校の教科書とは違った方法で日本の歴史の全体像を捉えようとした一冊です。


■ 個人的な視点から

 まあ、歴史というのはその時々の為政者が自らの正統性と正当性を国内外に主張するために造られ、国民に信じこませようとするものなので、地方別の歴史などは、一部のオタクによる「郷土史」という枠に押し込めてしまえばいい、と考えられていたのではないかと思うのです。
 ということは、「地域主権」というのを進めていこうとすれば必然的に歴史教育も地域にフォーカスしたものにならざるをえないのではないかと。富山県で作られている南北逆の日本地図などはそういう動きの中にあるのかも知れません。


■ どんな人にオススメ?

・日本が地域の集合体であることを再認識したい人。

2010年3月21日 (日)

著作権の世紀―変わる「情報の独占制度」

■ 書籍情報

著作権の世紀―変わる「情報の独占制度」   【著作権の世紀―変わる「情報の独占制度」】(#1886)

  福井 健策
  価格: ¥756 (税込)
  集英社(2010/1/15)

 本書は、「著作権を中心とする『情報の独占制度』が直面している課題とその変わりゆく姿を、ディジタル化・ネットワーク化によって急速に拡大を続ける情報世界との関わりの中」で描き出そうとしたもので、最近の様々な話題や論争を、
・テクノロジー
・アーカイブ
・著作権リフォーム
・擬似著作権
といったキワードで眺めつつ、「変わる『情報の流通と独占』のかたち、『著作権の世紀』のいまを概観したい」としています。
 大1章「情報の独占制度」では、著作権は、「広く『情報の独占を許す制度』」だとした上で、「ある作品を著作物と認めるか、そして著作物だとしてもどのような利用に著作権が及ぶと考えるか」は、「情報の自由流通性」と「創作振興」のバランスに関わる問題であり、「こうしたバランスをはかりつつ、どこまでの情報に独占を許すかという、極めて政策的な判断である」としています。
 大2章「対立するテクノロジーと著作権」では、ユーチューブをめぐる著作権侵害訴訟に関して、「プロバイダーが彼らの把握していなかった書き込みについて突然、著作権侵害で損害賠償請求を受けるとすると、ビジネスが萎縮」してしまうため、「『侵害です』という通知を受け取ってからの、一定の手順によって情報を削除すれば、プロバイダーは著作権侵害を負わなくて良いというルール」である「ノーティス・アンド・テイクダウン」について解説しています。
 また、ネット上の新ビジネスをめぐる、「侵食か補完か」という状況について、「ある権利者や産業がそのビジネスといち早く提携する一方で、他の権利者や産業が危機感を持つ理由の一つ」だとした上で、ネットでの作品の私的な流通や私的複製の問題を考える上で、
(1)「その利用は市場を侵食するのか? 保管するのか?」という問題
(2)DRMが拡大することの功罪
(3)私的複製は果たしてユーザーの権利なのか、という視点
の3つの視点が関わってくるとしています。
 第3章「多次的創作の時代」では、JASRACについて、使用料規定が詳細にわたり、料金交渉は原則としてできないが、「その代わり、決まった料金を支払いさえすれば誰でも利用することができる。これが集中管理の大きなメリットであり、限界でも」あるとしたうえで、森進一の『おふくろさん』騒動で問題になったことが、「世の中のアレンジやカヴァー・レコーディング全般に、静かに、しかしひょっとすると大きな影響を与える可能性」があるとして、アレンジの変更が、編曲権と同一性保持権を侵害しているの処理が確立されていないことを指摘しています。
 そして、20世紀に、
(1)複製技術が非常に発達した
(2)情報の大量流通も可能になった
(3)メディアの発達・多様化が進んだ
(4)大衆消費社会が世界に広がった
という技術や社会面での変革が進んだ結果、
(1)文化産業の巨大化
(2)市民文化活動の拡大
(3)複合的、産業的、多次的作為hンの増加
(4)作品のマルチユース
(5)ユーザー/メディア/クリエイターが融合しつつある
の5つの大きな変化を文化にもたらしたと述べています。
 第4章「PD、オア・ノットPD、それが問題だ」では、「多次的創作は、私たちの文化にとって切り離すことのできない豊かな部分を形成して」いるとして、「仮に保護期間がどんどん伸ばされたら、そうした創作の源泉が細ってしまうのではない。それは私たちの文化に、目立たずゆっくりと、しかし決定的な影響を与えるのではないか」という懸念が横たわっているとしています。
 第5章「アーカイヴィングの現在」では、近年「アーカイヴィング」という言葉が注目される理由として、ディジタル化とネットワーク化を挙げ、「ディジタル化で情報の大量複製・高速処理ができるようになり、そしてネット化で空間を超えて情報の流通が可能になった」ことが「アーカイブの可能性を大きく伸ばし」たとしています。
 また、グーグルが、「ニューヨーク公共図書館など主要な図書館と提携して蔵書を提供してもらい、大量にスキャンを開始」したことに米国作家協会と全米出版社協会が著作権侵害だと主張して「クラスアクション」と呼ばれる集団訴訟を起こし、2008年10月に公表された和解案の内容に、世界が驚愕することになったと述べ、世界中の国の過去の刊行物がすべて対象とされ、「著者、遺族、出版社が期限までに脱退通知を行わなかった書籍については、裁判所の正式承認を条件に、グーグルは将来もディジタル化を継続し、全文配信を含むさまざまなオンラインサービスの提供が行え」ることになったとして、「和解案に対するEU諸国や権利者団体の反応は激烈で、日本でも少し遅れましたが抗議声明を出す団体、対応に苦慮する関係者など大きな波紋を巻き起こしました」と述べています。
 第6章「変容する著作権」では、著作権制度が、3つの側面での変化に直面しているとして、
(1)著作権リフォーム論
(2)権利の切り上げとしてのDRM(Digital Rights Management)
(3)権利の切り下げとしてのパブリック・ライセンス
の3つの方向性を示した上で、(1)についてはさらに、
(1)作品登録制
(2)報酬請求権化
(3)日本版フェアユース
の3つの大規模なリフォームの例を紹介しています。
 第7章「擬似著作権と情報の『囲い込み』」では、「著作物ではない情報の『囲い込み』といえる自体が着々と進行している」として、これを「擬似著作権」との名付け、「肖像権」や「パブリシティ権」の問題を挙げ、お菓子や料理など、「実用品のデザインは基本的に著作物では」ないことから、著作物でないにもかかわらず、「お菓子や料理の外観に法的権利があるように」ふるまうことについて、擬似著作権と言えると述べています。
 また、IOCやFIFAから、新聞社や出版社などに、「オリンピックやワールドカップという言葉は、IOCやFIFAの知的財産だから使い方に注意してください」という通達が回ることについて、商標として保護されることは当然ではあるが、「知的財産だから」という理由で、
・「オリンピック」は雑誌の表紙や広告に勝手にその言葉を使ってはいけない。
・文中でワールドカップと書くときには必ず「FIFAワールドカップ」という正式名称で書きなさい。
・さらにそこには小さく「TM」と書くように。
など、「記事の中で特定の言葉を使うときの表記方法まで細かく指定」されることについて、「雑誌の記事中で言葉を使っても商標権もその他の権利もほとんど及びませんので、IOCやFIFAの通達の法的な根拠はかなり希薄」であり、「いわば出版社への『依頼』『要請』ということができる」と述べ、「ここでも擬似著作権が生まれていることに」なるとしています。
 著者は、「著作権の適用範囲をめぐって、保証金や保護期間延長といった激論が続く一方で、法律の外に擬似著作権と呼ぶべき情報の囲い込みが数多く生まれて」いるとして、「いわば『言ったもの勝ち』『権利のようにふるまったもの勝ち』と呼べる例も少なくありません」と述べています。
 終章「情報の『世界分割』」では、「著者の知る限り、現状では情報を占有管理する方法」は、
(1)秘匿
(2)技術
(3)法的権利
の3つしかないとした上で、「議論の過程で、曖昧で不公正な『グレー領域』は明確化されていくべき」だが、「そのなかには、微妙に関係者の価値観やビジネス上の事情が反映され、バランスが図られているケースがある」として、「グレー領域が全く無くなるべき」ではないと述べています。
 本書は、著作権をめぐって激変している技術と社会を概観した一冊です。


■ 個人的な視点から

 7章に書かれている「擬似著作権」の問題は、スポーツ団体からの通達とは言いながら、実際には大手広告代理店のスポーツ事業部が手を回してやっていることなのではないかと勘ぐったりしてしまうのです。


■ どんな人にオススメ?

・著作権は、それで得する人が得するように変えているものだと思わない人。

2010年3月20日 (土)

主婦パート 最大の非正規雇用

■ 書籍情報

主婦パート 最大の非正規雇用   【主婦パート 最大の非正規雇用】(#1885)

  本田 一成
  価格: ¥735 (税込)
  集英社(2010/1/15)

 本書は、「社会を支えてきた主婦パートというあり方がほころび始めている。主婦パートは日本全域に散在する大規模な集団だから、このほころびの影響はとても大きい」として、「家族や企業のみならず、社会において複合的で大きな悪影響が噴出する」という「主婦パート・ショック」という不幸な将来を回避するための処方箋を提案するものです。
 第1章「主婦パートを誤解するな」では、「主婦パートは夫の収入に依存して生活しているから緊張感がない」、「副収入を狙って片手間で仕事をしているだけで、すぐ辞めていく」という中高年男性を中心とした誤解について、1980年代以前の主婦パートは、「夫の稼ぎが悪く、生活苦のために働かざるを得ない奥さん」だったとして、「幸せな主婦パート」は、「ほぼ1980年代のみの短命な存在であって、90年代以降の不況によって、再び生活を維持するために必死で働く主婦パートに逆戻りした」と述べています。
 そして、厚生労働省の「パートタイム労働者総合実態調査」の結果でも、主婦パートの主流が、「家計の足しにするために」に働く「家計補助」型から、「生活を維持するため」に働く「生活維持」型似変化していると指摘しています。
 また、主婦パートの高学歴化について、「企業内で男性と競い合い、長時間労働も経験しながら、企業社会やその内部の男性のことを知り抜いた女性が、主婦パートに参入している」と述べています。
 第2章「主婦パート職場は『アリ地獄』」では、主婦パートという雇用形態が問題視されていないことに異議を唱えたい理由の一つとして、「主婦パートの多さ」を挙げ、「非正規雇用の中で最大多数の存在は主婦パート」であると指摘し、「主婦パートは、パート全体の6割強、非正規社員全体の4割強を占める」としています。
 そして、今や主婦パートは、生活を守るために、仕事を求めて企業異な詰まっている。そこで企業は主婦パートを酷使する」として、「主婦パートは企業に巧妙につけ込まれ、職場に囲われる」と述べています。
 また、1960年代はじめに「臨時工」が消滅し、「内職」が先細りした理由として、「労働力不足に直面した企業が、主婦パートを雇用し始めたからだ」として、臨時工や内職の、「正社員(本工)に比べて差別的といえる低い労働条件の働き方」が、「主婦パートという新しい雇用形態にもしっかりと引き継がれ、今日でもそれを引きずっている」と指摘しています。
 第3章「『アリ地獄』型雇用は官民合作」では、「社会保険料を負担することによる手取り所得の減少を避けるために、年収を抑制して働く」、いわゆる「130万円の壁」について、「年収130万円ではとても経済的に自立した生活を送ることができないから、妻は自立した労働者となれず、家庭責任を担いつつ働くという方向に向かわされた」と指摘しています。
 第4章「正社員なみの働きを求める『基幹化』時代」では、「主婦パートへの『つけ込み』は、この十数年で新たな段階に突入している」として、「企業は内部に囲い込んだ主婦パートに正社員なみの能力アップを求めている」と述べています。
 そして、「仕事能力や経験の点で主婦パートが正社員に近づいてきた結果、企業は、正社員を雇う必要がなくなり、ますます主婦パートに依存するようになっている」としています。
 第5章「負担増加の家事・育児」では、昨今の主婦パートが抱える苦境として、
(1)仕事の負担が増加しているにもかかわらず、妻の「家事・育児」に夫が相変わらず協力していないこと
(2)現代の主婦は子どもが幼児のうちから、パート就労している
の2点を挙げています。
 また、女性の労働力率を示した「M字カーブ」について、その谷が浅くなってきた理由として、
・従来に比べて正社員の結婚退職や出産退職が減ったこと
・未婚女性が増えていること
の他、
・早期パート就労
もその一つとしてもっと重視されるべきだとしています。
 第6章「『主婦パート・ショック』が家庭を襲う」では、「主婦パートという働き方そのものが破綻して社会的な悪影響をもたらすという『主婦パート・ショック』が、企業による『つけ込み』と家庭内の『なすりつけ』によって発生しかねない」事を指摘しています。
 また、究極の家庭崩壊である離婚について、専業主婦、キャリア・ワイフ、主婦パートの「夫婦調和」ポイントについて、主婦パートがもっとも低いことについて、「主婦パート世帯こそ、夫婦関係が一番調和しておらず、離婚の危険性がもっとも高いといえる世帯」だと指摘しています。
 さらに、「家庭で夫からのDVの脅威にさらされている主婦パートが実に多い」ことについて、「主婦パートは、生活や子どもや世間体などが足かせになっているだけでなく、経済力から考えても逃げ場がない」事を指摘しています。
 第7章「『つけ込み』の代償を払う企業」では、「企業経営にとって必須の『人材開発』が有名無実になり、空洞化している」として、「いつの間にか、有能な正社員も、ひいては優秀な『基幹化』パートも、企業からいなくなっている」事を指摘した上で、企業が本気で「基幹化」を進めているかを見分ける方法として、「ボス」パートがいるかどうかを挙げ、「人材開発」が有名無実になっているために、「ボス」パートが誕生すると述べています。
 第7章「『パートタイム社員』創設を」では、主婦パートという雇用形態の問題点として、
(1)「日本型福祉社会」論を源流とした、いまだに矛盾が解消されていない社会保障制度、とりわけ問題の多い社会保険制度によるもの
(2)企業にとって「うまみ」が大きい「基幹化」を要求され、それに抗えずにいること
の2点を挙げた上で、2番目の問題の解決策として、「現在の『フルタイム社員』に加えて『パートタイム社員』をつくり、高度に『基幹化』したパートを無期雇用の『社員』へ一本化する」事を提案しています。
 本書は、日本社会を支える主婦パートの新しいあり方を提案した一冊です。


■ 個人的な視点から

 昔は主婦パートというと、稼ぎをランチと洋服で使い尽くしてしまう印象がありましたが、今はまさに生活給になっていると。
 それにしても、主婦パートの「夫婦調和」のポイントの低さとDVの脅威に関しては、元々の母集団の性質を反映している部分が大きいのではないかと思いました。つまり、専業主婦ということは、夫の稼ぎが多いということの反映でもあり、また、結婚・出産後も正社員でいられ続けるキャリア・ワイフは、高学歴な可能性も高く、ということは夫も学歴が高く収入も多い可能性が高いのではないかと思うのです。収入があると生活が安定するのか、生活や素行が安定しないから収入が低いのか、因果関係は不明ですが、少なくとも、生活や素行が乱れている層が主婦パートのパートナーに一定数含まれるがゆえに「夫婦調和」のポイントが下がり、DVの脅威にもさらされるという結果が出てしまうのではないかとも推測するのです。


■ どんな人にオススメ?

・パートの主婦はお気楽だと思っている人。

2010年3月19日 (金)

ネトゲ廃人

■ 書籍情報

ネトゲ廃人   【ネトゲ廃人】(#1884)

  芦崎治
  価格: ¥1365 (税込)
  リーダーズノート(2009/5/1)

 本書は、「ネットワークゲームにはまった人々の告白を再構成したノンフィクション」で、著者は、「ネトゲ廃人」を、「バーチャルな世界に生きがいや死にがいを見いだした人々」だと述べています。
 第1章「ネットゲームに日々を捧げた女神たち」では、「ネットゲームをやっていると、リアルの友達がいらなくなる。だって、画面上に友達がいっぱいいますから。話をしていても本当に楽しい。わざわざお金をかけて外に出て友達に会うっていうことの意味がなくなる」と語っています。
 また、ゲーム仲間とのオフ会で、「ゲーム仲間に対して抱いていた想像と現実との落差に愕然とした。ゲームの世界で、みんなから頼りにされるヒーローが、リアルでは、こんなに頼りない人だったのかと、それもまたショックだった」という体験を紹介しています。
 第3章「ゲームで愛し合いリアルで同棲」では、あるハードゲーマーが、ゲーマーは恋愛に対して奥手であるため、「恋愛経験がないから、一度火がついちゃうと、もうどうしていいかわかんなくなっちゃう」として、「ある種の出会い系サイト」だと語っています。
 第7章「キャラクター同士で、本気の恋愛」では、『ラグナロクオンライン』の参加者が、「前のゲームとは比べものにならないくらい仲間意識が濃密」になる理由は、「現実の世界では、人と仲良くなるのに時間がかかる。ところが、ネットでは年齢を飛び越えて、すぐに友達同士になれる。何か壁を越えて、つながっていけそうな感じを持った」ためだと述べています。
 また、「ネットの人たちはどこかで現実逃避している人が多くて、ある意味、人に対して、異常なほど執着心を持つ人が多い。だからこそ仲がいいし、つながりも深い。でも、恋愛関係で何かごたごたがあると、一気に崩れる」と語っています。
 第9章「オンラインゲーム大国、韓国の憂鬱」では、韓国がアジアのオンラインゲーム大国として爆発した要因として、
(1)インターネットのインフラ整備が日本より相当に早かったこと。
(2)「IMF危機」による失業者急増で、PC房が急激に増えていったこと。
(3)1998年の『スタークラフト』の大ヒットとオンラインゲーム『リネージュ』の登場
の3点を挙げています。
 第10章「急増する小学生のログイン」では、ネットゲームに小学生が入ってくるようになった理由として、
(1)パソコンが子供の身近まできてしまったこと
(2)子供のお小遣いで買えるゲームがなくなってきたこと
の2点を上げています。
 そして、「ゲーム中毒の身体的な禁断症状は、アルコール中毒や薬物中毒よりも弱い。例えるなら賭博中毒、ショッピング中毒に似ている。身体的な禁断症状が相対的に少ない反面、心理的に渇望する効果が大きい」と述べた上で、子供がゲーム中毒に陥ったときには、「ゲーム時間を調節すること」が鍵となるが、使用を禁止しても再発の可能性が高くなる戸述べています。
 本書は、深刻化する「ネトゲ廃人」の現実の一端を追った一冊です。


■ 個人的な視点から

 個人的にはネトゲやったことないのですが、楽しそうではあります。
 実社会の「制度」を持ち込んだセカンドライフよりも、実社会の「世間」を持ち込んだSNSよりも、実社会の「感情」を持ち込んだネトゲが一番人の心を捉えてしまうというのは皮肉なものです。


■ どんな人にオススメ?

・ネトゲの中毒性を知りたい人。

2010年3月18日 (木)

裸はいつから恥ずかしくなったか―日本人の羞恥心

■ 書籍情報

裸はいつから恥ずかしくなったか―日本人の羞恥心   【裸はいつから恥ずかしくなったか―日本人の羞恥心】(#1883)

  中野 明
  価格: ¥1260 (税込)
  新潮社(2010/05)

 本書は、「ヴィルヘルム・ハイネの『下田公衆浴場図』を出発点に、この150年間における日本人の裸体観の変遷を、出来る限りリアリティある資料をふんだんに利用しながら語ったもの」です。
 序章「下田公衆浴場」では、「現代の日本人には共通する裸体観がある」として、「異性の裸体とセックスを結び付けてしまう傾向が強い」ことを指摘した上で、ペリーの随行画家であったハイネが描いた「下田公衆浴場図」について、「公共の場である浴場で、男女混浴がこうも堂々と行われている光景は、現代の常識では考えられない」として、「現代の常識に照らせば、いくら今から150年前の江戸時代だとはいえ、公衆浴場での混浴は日本ではありえない」と考えるのが一般的だと述べています。
 第1章「この国に羞恥心はないのか!?」では、「来日した外国人は、日本の混浴風景を目撃して驚嘆した」として、当時の西洋人の常識について、「当時のイギリスの場合、厳しい社会規範とお上品さをモットーとするヴィクトリア時代の真っ只中である。この時代、裸体を人目にさらすなど非常識もはなはだしかった」と述べ、また、「入浴というものに対する西洋人の考え方も、当時の日本とまったく異なっていた」として、ペストの影響などで、「入浴は体力を低下させる」とも信じられていたことの言及しています。
 第2章「混浴は日本全国で行われていたのか」では、日本各地の入浴習慣について、「公衆浴場における混浴の習慣は決して下田だけに見られたものではない。日本全国に広く行き渡っていた習慣と考えるのが妥当である」が、「日本全国が一律混浴だったと考えるのは不適切」だと述べています。
 第3章「日本人にとってのはだか」では、「当時の日本人は、ハイネが下田公衆浴場図に描いた男女のように、裸体を人目にさらすことにそれほど抵抗はなかったと考えざるを得ない」として、「ここには公衆浴場における混浴よりもさらに深い意味が隠されているといってよい」と述べています。
 そして公衆浴場から裸のまま自宅に帰ることは特に不思議でもなく、該当を闊歩する裸体の人物を気にとめる人もいなかった」と述べた上で、「当時の日本人の裸体に対する意識は、西洋人がもつ裸体観と大きなギャップがあった」として、「裸体を人前にさらすことは恥ずべきことであり、これはキリスト教に深く帰依する当時の欧米人にとって一般的な感情だった」とする一方で、「当時の日本人にとって、裸体はダイレクトにセックスに結びつくものではなかった」、「当時の日本人は裸体をあたかも『顔』の延長、『顔』と同等のものとして考えていたのではないか」と仮説を立てています。
 第4章「弾圧されるはだか」では、「性を徹底的に隠そうとする外国人にとって、無造作に露出される裸体は好奇心の対象になる」ため、「裸体への熱い眼差しにより、見られる側は自分の裸を強く意識する」として、「視線が裸を通り過ぎるうちは、それは『はだか』でしかなかった」が、「高気に満ちた眼差しは裸の上で停止する。すなわち見られる対象になることで、『はだか』は性的な鑑賞物としての『ハダカ』になる。そして、性と直接的に結びつく『ハダカ』は隠されなければならない」と述べています。
 そして、「裸体の取り締まりは1872(明治5)年に東京府で施行された『違式註違条例』によりさらに厳しくなる」と述べた上で、明治政府による裸体弾圧の結果、「日本人は裸を徐々に隠すように」なったが、「裸体を徹底して隠す行為には、予期せぬ副作用があった」と述べています。
 第5章「複雑化する裸体観」では、「お上から厳禁された公衆浴場での混浴は消滅し、お目こぼしとなった温泉地での混浴は今でも営まれている」ことを指摘するとともに、黒田精輝の作品に関する裸体画論争について言及し、「裸体画論争は性を徹底的に隠す社会では避けて通れない」ことを指摘しています。
 第6章「五重に隠される裸」出は、「外国人男性の好奇の目から、江戸時代の女性が自然に裸体を隠したように、男性の露骨な好奇心は、女性をして裸体をさらに隠す方向へと走らせる」として、「この現象が、特定の女性のみならず、普通に生活する女性一般に広がっていく」と述べています。
 そして、「現代人は、自身の裸体を四重にも五重にも隠蔽することを、あまりにも当然として受け止めている」と指摘しています。
 また、2009年に人気男性タレントが、真夜中の公園で全裸になり「裸で何が悪い」と発言したことについて、「かつて日本人がおおらかな裸体観を持っていた事実を踏まえて考えると、裸体を徹底的に隠す日本社会も、行き付く所まで来た感がする」と述べています。
 本書は、日本人の「ハダカ観」の激変を追った一冊です。


■ 個人的な視点から

 「裸で何が悪い」は衝撃的でしたが、昔は悪くなかったのかも?
 かつて平安時代や戦国時代がそうであったように、もはや江戸や明治はファンタジーの対象になっていて、平成に生きる我々にはリアリティがなくなっているのかも。『帝都物語』とかそんな感じだし。


■ どんな人にオススメ?

・日本人と裸を考えたい人。

2010年3月17日 (水)

お役所バッシングはやめられない

■ 書籍情報

お役所バッシングはやめられない   【お役所バッシングはやめられない】(#1882)

  山本 直治
  価格: ¥777 (税込)
  PHP研究所(2009/8/18)

 本書は、「お役所バッシングにおぼれることなく、効果的に行うにはどうしたらいいか」を論じたもので、2008年の『実は悲惨な公務員』の続編です。
 序章「お役所バッシングは終わらない」では、「これまで行われてきた役所への批判の仕方が必ずしも適切でないために、公務員・役所の行動改革という面で十分な効果を上げていない(時には逆効果になっている)からではないか」と指摘しています。
 そして、お役所バッシングが発生する具体的なプロセスとして、
(1)お役所(公務員)バッシングの原因となるような事態が起きる。
(2)次にマスメディアが何らかの方法でそれを察知し報じる。
(3)その後、報じたマスメディア自身および報道を見た国民の怒りが燃え上がる。
の3点を挙げています。
 第1章「こんなバッシングが役所の政策を歪めている」では、お役所バッシングの副作用として、「社会がパニックやヒステリックの状態になっているために、役所もプレッシャーの中で性急な対処をせざるを得ず、それが裏目に出て規制の行き過ぎや脇の甘さを招き、その後、別の問題を生んでしまう場合がある」として、マンション耐震強度偽装問題を契機とした建築基準法の改正による規制強化の結果、「住宅の着工に非常に時間がかかるようになってしまい、かえって建築・不動産不況を招いた」ことを指摘しています。
 そして、「よく日本人の国民性として、普段はお上を批判しても、いざとなるとお上頼みにはや代わりする」といわれることについて、「その『お上依存主義』こそが、役所が規制緩和や組織改廃に抵抗するよりどころになってしまっていることを、私たちは今一度自覚すべき」だと述べています。
 第2章「公務員へのバッシングも『過ぎたるは猶及ばざるが如し』」では、「公務員の給与カットについてはお茶の間でテレビを見ながら文句を言っているだけでは決して実現はしない』として、公務員の待遇切り下げを本当に断行しようとするなら、
(1)改革のプロセスに根気よく参加すること
(2)改革に伴うリスクを国民が受け入れること
の2点を国民が実践することが必要だと述べています。
 また、「公務員というのは、あくまでも民間人に食べさせてもらっている存在だ。そう考えれば、本来なら民間人の給与が上になるのが当然だ」とする賃金コンサルタントの北見昌朗氏の著書『公務員の給与はなぜ民間より4割高いのか』の中での指摘について、担当する仕事の質について精査することなく、「単に『税金で食っているやつの給料が、食わせてやっている民間企業より高いとは何事だ』というだけでは、やはり乱暴な議論ではないでしょうか」と指摘しています。
 第3章「私たちはなぜ公務員ばかりバッシングするのか」では、「税金を原資として生み出される受注にありついている企業」や、「国の強固な規制などによってマーケットやビジネスモデルが保障され、十分な競争の働かない業種」などについて、「民間企業の中には、そういう特殊な環境のもとで稼ぎ出した売り上げで経営されているところも存在」し、「そういう会社の従業員は結構待遇がよかったりする」ことを指摘し、中でもマスメディアおよび大手広告代理店の従業員の給料が高いことについて、「正直言って、彼らの年収は公務員の中でもっとも高級といわれるキャリア組ですら比較にならないほど高い」ことを指摘し、「こういう高給取りのマスメディア関係者が、報道を通じて天下りとは無縁の普通の公務員を批判すえば、それこそなんとも滑稽な構図」であり、「マスメディアのコスト感覚、すなわち経費の使い方の中には尋常でないものもある」と指摘しています。
 さらに、「民間企業にも天下りが存在する」として、「天下りとは、官民に共通した一種の日本の組織文化だとまで考えると、いままでのような簡単な批判はできない」と述べています。
 第4章「建設的なお役所バッシングへの道」では、「世の中をよくするための、健全で建設的なお役所バッシングのあり方」である「バッシングリテラシー」について提言するとして、「公務員に対して厳しい視線を送る国民の中に、公務員に対してもこうした非常にストイックな姿勢を求めている人がいるのではないか」と述べています。
 そして、「公務員は極力精錬に振舞うべきですが、完璧を求めるのは無理という前提で考えたほうが健全」だと述べています。
 第5章「是々非々の改革とは、愚直で泥臭いイバラの道」では、「お役所バッシングと改革を好循環で進めていくために欠かせないポイント」として、「役所の中の個々の職員の行動をどうチェックしていくか」という問題を挙げ、「行政各部署における仕事の仕方、組織のあり方などについて普段の監視を行い、上層部にフィードバックできる体制を作ることがすべての改革の成否を左右るすう重要な要素ではないか」として、「現場に人を張り付けるか、あるいは機械仕掛けでもいいので、役所のさまざまな局面において業務を監査・監視する仕組みを作るべき」だと提言しています。
 また、「現在のような官(公)民給与比較、すなわち"一定規模の民間企業で、似たような職位・学歴・年齢層の従業員は大体いくらもらっているから、それに相応する職位・学歴・年齢層の公務員もいくらいくらで均衡する"というような、人事院などの考え方自体に疑問を持って」いるとして、「比較対象とする民間企業の従業員と官公庁職員が、同等の付加価値を持つ仕事をしているという前提」に疑問を呈しています。
 本書は、正しいお役所のバッシングの仕方を説いた一冊です。


■ 個人的な視点から

 著者も元公務員という経歴を見て、「どうせお仲間が身内をかばっている」と感じる人もいると思うのですが、公務員バッシングをしている人の言動は、なんというか「お上」に対する依存心の裏返しみたいなところがあるのは何でなのでしょうか。


■ どんな人にオススメ?

・上手に公務員を叩きたい人。

2010年3月16日 (火)

ジャーナリズムの政治社会学―報道が社会を動かすメカニズム―

■ 書籍情報

ジャーナリズムの政治社会学―報道が社会を動かすメカニズム―   【ジャーナリズムの政治社会学―報道が社会を動かすメカニズム―】(#1881)

  伊藤 高史
  価格: ¥2,310 (税込)
  世界思想社(2010/4/17)

 本書は、「ジャーナリズムには社会正義を実現したり、人権を守ったりする力があり、実際にそうした役割を果たすことがある」とした上で、「そのような「力」をジャーナリズムが持っているならば、その力はいかなるメカニズムによって発揮されているのか、その力の根拠は何であるのか、あるいはそういった力の発揮を妨げるものは何か」を論じたものです。
 著者は、本書の特徴および学術的な意義として、
(1)否定的ジャーナリズム研究から肯定的ジャーナリズム研究への転換
(2)静態的(構造的)研究から、ジャーナリズム、権力者、市民の相互行為に焦点を当てる「動学的研究」としての「アジェンダビルディング(議題構築)」研究への転換。
(3)市民一般へのジャーナリズムの影響を主題とする「社会心理学的マスコミュニケーション研究」から、権力者個人への影響を主題とする「政治社会学的ジャーナリズム研究」への転換
(4)「報道→世論喚起→権力者(政策形成)」といったモデルから、「正当性モデル」への転換。
の4点を挙げています。
 第1章「ジャーナリズムが社会を動かすメカニズム」では、「本書で試みることは、『ジャーナリズムには社会を動かす力がある』という直感を制裁に検討しなおすことであり、本章はその理論編である」とした上で、「ジャーナリズムが『正当性』を媒介にして権力者に影響を与えることができるとするとき、その場合の『正当性』の根拠となるものは何であろうか。それは一言で言えば『社会規範』であろう』と述べています。
 また、「ジャーナリズム、権力者、市民はその内部に多様性、分裂、葛藤を孕んでいる。メディアが自らの意志を貫こうとするとき、情報に力を与えるために、陣地戦のように、権力者や市民の多くを内部に取り込み、ジャーナリズムの陣地を広げようとする。こうした、『正当性』を媒介とした導体的な『力関係の場』として、ジャーナリズム、権力者、市民の相互行為をイメージした理論モデルが『正当性モデル』である」と述べています。
 第2章「ウォーターゲート事件」では、「ウォーターゲート事件の分析を通じて、報道が社会に影響を与えるメカニズムを考察する」として、
(1)ジャーナリズムと国家権力との関係
(2)ジャーナリズムと市民(読者・視聴者)との関係
(3)組織ジャーナリズムの存在意義
の3点について検討しています。
 第3章「栃木リンチ殺人事件」では、「最初にこの事件について広報したのは、栃木県警ではなく、東京の警視庁である」とした上で、警視庁が「結果的に誤った事実を広報した」原因として、
(1)家族の訴えを無視した栃木県警の情報操作
(2)少年事件犯罪と報道にかかわる構造的な問題
の「二つの解釈が成り立つ」としています。
 第4章「桶川ストーカー事件」では、「この事件をめぐって、さまざまな力がどのようにジャーナリズムに働いたのかを考察」するとして、
(1)記者クラブの問題
(2)客観報道の問題
の2点に言及するとしています。
 また、テレビ報道に関して、「でたらめな情報を基にして、ついには『そんなお店に勤めていたなら彼女も悪いですね』などと言い出す女性コメンテーターまでテレビに出現した」ことを紹介しています。
 そして、「メディアは『権力者』に近いところに存在しており、その近接性のゆえに、『世論』を経由しないで直接『権力者』に働きかける可能性があるし、少なくとも記者らは主観的にはそのように認識している」と指摘しています。
 さらに、「この事件の顛末は、警察行政に大きな影響を与えた」として、「いわゆる『民事不介入の原則』を盾に、ストーカーなどに対して機動的な対応をしてこなかった警察の姿勢が根本的に変わることになった」うえ、「この事件をきっかけにして、被害者保護を目的としたいくつかの法律も制定されることとなった」と述べています。
 第5章「薬害エイズ事件(1)」では、「『毎日新聞』の報道が、権力者に対してと同様に、他のメディアに対して与えた影響の乏しさ」について、「この事実は、ひとつの報道機関が持つ力の限界を示している」と指摘しています。
 第6章「薬害エイズ事件(1)」では、「報道機関が報道した情報が、権力者を動かすほどに影響を持ちうることを可能にするひとつの条件は、その情報が特定の報道機関のみならず、多くの報道機関が広く報道し、その情報とその情報がもつ意味が社会的に共有されること」だとして、「この場合、ある報道機関が、隠されていた事実を公にした際に、ほかの報道機関が『後追い取材・報道』を行うか否かが重要になってくる」と述べています。
 第7章「民主主義社会とジャーナリズムの課題」では、「ジャーナリズムは社会を動かすほどに力がある、ということは、ジャーナリズムはそれだけ危険である、ということを意味する」として、「調査報道」は、「報道による人権侵害と背中合わせである」ことを指摘しています。
 そして、「重要なのは、ジャーナリストは常に、こうした矛盾した力関係の中で働いていることを認識した上で、ジャーナリズムと民主主義社会が直面する諸問題の解決策を考えていくことである」と述べています。
 本書は、社会を動かす力を持ったジャーナリズムの立ち位置を論じた一冊です。


■ 個人的な視点から

 なんだかんだ言ってもジャーナリズムと権力は癒着しているというかジャーナリズム自体が権力の一角そのものなので「社会を動かす力」という言葉も空々しく聞こえてしまうことがあります。官房機密費を渡されているとかいうじゃないですか。


■ どんな人にオススメ?

・ジャーナリストの立ち位置を考えたい人。

2010年3月15日 (月)

日本の若者と雇用 -OECD若年者雇用レビュー:日本

■ 書籍情報

日本の若者と雇用 -OECD若年者雇用レビュー:日本   【日本の若者と雇用 -OECD若年者雇用レビュー:日本】(#1880)

  濱口 桂一郎 (監訳), OECD (編集), 中島 ゆり (翻訳)
  価格: ¥2,940 (税込)
  明石書店(2010/1/30)

 本書は、
(1)日本における学校から職業への以降を分析し、
(2)若者の移行にかかわる問題に取り組むため、すでに実施されている政府の対策をもとにして政策の可能性について論じること
の2点を目的としたOECDの報告書です。
 本書は、「日本の教育制度と雇用慣行・規制および2000年代からの積極的労働市場政策を国際比較の視点から批判的に検討した包括的な書」であり、最終的な提言として、
(1)労働市場により緊密な教育と職業教育、訓練制度の醸成、学校から職業への以降に関するデータ収集の促進によって学校から職業へのより円滑な移行を保障すること。
(2)若年雇用に対する需要側の障壁に取り組むこと。
(3)積極的労働市場政策の強化と対象者の絞込み、既存のプログラムの評価、相互義務アプローチに基づいた雇用保険制度の適用範囲の拡大といった雇用支援と所得保障対策の強化
の3点を挙げています。
 「要約と主な提言」では、「若年労働市場の失われた10年の主要な遺産の中には、なお存続しているものがあるように見える」として、「日本の若者に影響を与えている労働市場の二重構造の拡大」を理由に挙げ、「近年ある程度改善しているものの、日本の若年労働市場は深刻な困難を経験した」として、「学校から職業への速やかな以降という日本の伝統的な制度は学校を離れたものが安定した雇用にすぐに定着することを保障してきたが、現在、日本の終身雇用慣行に問題が生じている状況では課題に直面してきている」と述べています。
 第1章「これからの課題」では、「日本の大学卒業者の失業率はOECD諸国の中で4番目に低いが、後期中等教育卒業者の失業率は中レベルである」ことを指摘しています。
 また、「日本の多くの若者の長期的な雇用上の地位が卒業時に決定される」というパターンが、
(1)労働市場の二重構造の拡大
(2)日本の企業は伝統的に労働市場新規参入者と正規の契約をしてきたが、この観衆は新卒を好むので卒業後の採用過程に後で参入することを難しくさせるだけではなく、初職が正規の仕事ではない若者をスティグマ化しかねない」
の2つの要因から構成されていると述べています。
 第2章「教育と訓練」では、「後期中等教育のたった4分の1の生徒しか職業学校に在籍していない」ことについて、「これはOECD平均の46%を大きく下回っている」うえ、「日本の後期中等教育の学生にとって職業教育は主に学校で行われ職場で体系的に学ぶ時間はほとんどない。後期中等教育学校が垂直的なヒエラルキーになっており、高等学校への高い需要がある状況の中で後期中等職業教育は規模にして小さい。さらに、職業教育カリキュラムが提供するものと仕事が求めるものとの間に認識されうる大きな格差がある」と指摘しています。
 また、訓練について、「日本では訓練は多くの場合、企業の責任として考えられてきた。それゆえ、企業、特に大企業では広範囲にわたる公式あるいは非公式の職場内訓練を提供してきた」と述べたうえで、「日本の企業は1990年代の不況期に訓練にかける支出を減らし」た結果、「非正規労働者が企業主導の訓練を受ける機会はより減少している傾向にある」上、「訓練は企業の責任だと考えられてきたので、日本では若者の対象の公的な訓練プログラムがいまだ相対的に限定されたものとなっている」と指摘しています。
 第3章「若年雇用への需要側の障壁に対する取り組み」では、「日本の多くの使用者は、数十年にわたる高度経済成長の間に定着した雇用と人材戦略に関して過去10年持続的に変化させてきたように見える」として、「日本の使用者はコストを減らしフレキシビリティを増やす必要性の増大に答え、終身雇用にあまり固執せず学卒者の正規採用を減らし、その代わり臨時労働者、パートタイム労働者の採用を増やしているように見える」と述べ、その要因として、
(1)長期的な不景気と競争の増加
(2)年功賃金制度化で労働コストについて企業の関心を高めることとなった労働力の高齢化
(3)中小企業の役割の増大を伴うサービス産業とIT産業への産業構造の変化
(4)株主の関心をさらに反映し、市場シェアにおける長期利得よりも短期的採算性により焦点を当てるよう企業に要求するコーポレート・ガバナンス構造と財務の変化
の4点を挙げています。
 また、「雇用における男女平等を進めるよう政府が継続的に努力しているにもかかわらず、日本の若い母親は多くのOECD諸国の母親よりも仕事を続ける上でいまだ大きな障壁に直面している」として、「日本の職場におけるさまざまな雇用慣行は、若い女性の仕事と生活のバランスに対して直接的、間接的な障壁を形成するよう組み合わさってしまっている」として、
(1)使用者は長期雇用と訓練を女性に投資するのを躊躇する。
(2)年功賃金制度は子供を世話するために休業する労働者に不利に働く
(3)仕事と育児活動のバランスをとるのが難しい長時間労働
(4)ファミリー・フレンドリーな施設の欠如
の4点を指摘しています。
 さらに、「日本の終身雇用慣行は雇用保護規制、判例法理、社会規範によって支えられつつ、非正規雇用を増加させる主要な役割を果たしていると考えられる」とした上で、「日本では正規雇用に対する規制と臨時雇用に対する規制との間に大きな違いがあることがわかる」と指摘しています。
 そして、「長期雇用慣行に対する使用者の関与の縮小は社会政策と友の労働市場政策に対するさまざまな課題を提起し、セキュリティ(安定性)とフレキシビリティ(柔軟性)の双方を高めることを要請している」と指摘しています。
 第4章「積極的労働市場政策と給付」では、「近年の若者対象の積極的労働市場プログラムにおけるこれらすべての改革は、学校から職業への移行過程における実際の課題に取り組もうとしており望ましい」としつつも、「現在の政策アプローチには深刻な欠陥があるように見える」として、
(1)この改革の中には目標の範囲と比べると規模が極めて小さいものがある。
(2)日本でいまだ広く支持される見方は、若者労働市場の問題が基本的に若者個人の意欲(自立心、決意、労働倫理など)の欠如に起因するというものであるが、このような見方は失業や不完全雇用について若者自身を非難する傾向をもたらし、それゆえ、十分な政策的対応を見出そうとする関心を不十分なものにしてしまう危険がある。
(3)多くの若者対象の積極的労働市場プログラムは、15~34歳のフリーターとニートをあまり区別なく対象としている
の3点を指摘しています。
 本書は、国際比較によって日本の若者が置かれた雇用環境を読み解いた一冊です。


■ 個人的な視点から

 日本にいるとついつい「過去の日本」と「現在の日本」の軸で比較してしまいがちですが、国際比較の視点で見るとむしろ「過去の日本」の特異さというか異常さが分かるのかも知れません。


■ どんな人にオススメ?

・日本の若者を海外の目で見てみたい人。

2010年3月14日 (日)

行政改革と調整のシステム

■ 書籍情報

行政改革と調整のシステム   【行政改革と調整のシステム】(#1879)

  牧原 出
  価格: ¥2,940 (税込)
  東京大学出版会(2009/09)

 本書は、「これまで暗黙のうちに行われてきた改革現場での体験を通じた政策提言と理論研究とを結びつけ、それにより、理論研究を積み重ねると自ずからから現実適合的な政策提言を導出することができ、現場の経験が一定の方法を通じて理論に転化すること」だという問題意識から、「諸国の行政改革を見渡し、その言説の構造の中核から『調整』概念を取り出し、これに分析を加える」ものです。
 第1章「改革構想としての『調整』」では、「アメリカを中心に、一方でアングロ・サクソン諸国からオーストラリア、他方でヨーロッパ大陸諸国からドイツを取り上げ、行政改革の諮問機関の中から、『調整』概念がいかにして生成し、理論的に発展したのかを分析する」としています。
 そして、戦後イギリスを代表する行政学者であるダンサイアによる「ドクトリン」の定義として、「『理論』と『政策』の中間に立つ概念のセット」であり、「『ドクトリン』という『問題視されない理論』によって、諸々の行為を誘導しようとするものが『政策』だ」と述べた上で、イギリスの行政学者フッドによって、「ドクトリン」が理論化されたとして、フッドが、「伝統的に行政についての観念と考えられてきたものは、『理論』というよりはむしろ『ドクトリン』であった』と述べていることを紹介し、ダンサイアからフッドにいたる行政学理論の発展において、
(1)「理論」と「ドクトリン」の識別
(2)「ドクトリン」の生成する言説の場としての諮問機関への着目
の2点に着目すべきだと述べています。
 また、「ドクトリン」の国際比較の分析視覚として、「『調整』という概念が機能する場として、『理論』―『ドクトリン』―『政策』という概念を区別した上で相互関係を明示し、『ドクトリン』を支える制度としての諮問機関に着目した上で、その機能を比較し、さらに『ドクトリン』の中の『調整』概念の位置を見極める」と述べています。
 第2章「戦後日本における改革構想としての『調整』」では、「戦後日本でもまた『調整』の『ドクトリン』が、行政学を飛躍的に発展させた」として、「まず日本の諮問機関の制度的特長を歴史的に整理し、その上で、太平洋戦争後の行政改革史を全体として俯瞰しつつ、『調整』の『ドクトリン』を抽出し、それを他国と比較することで、日本の『調整』の『ドクトリン』の特殊性と他国との共通性とを検討する」としています。
 そして、「第一次臨時行政調査会が提示した内閣の『総合調整』という『ドクトリン』と、二省間調整としての共管競合事務における『調整』の『ドクトリン』は、以後の行政機構改革を規定する主要『ドクトリン』となった』とした上で、「第三次行政審議会から第一臨調にかけて、行政改革の中で『調整』概念が中核的な位置を占めるに至った』と述べ、さらに、行政改革会議は、「省庁の抜本的再編と内閣機能強化を掲げたために、内閣レヴェルの『総合調整』のみならず、省庁間調整の制度として政策調整システムを提言した」と述べています。
 第3章「近代日本における『総合調整』と『省間調整』』では、「戦後の諸外国や日本でいう諮問機関を通じた行政改革は、戦前の日本では見られない。もっぱら官僚集団に時に政治化の参与した機関が、行政改革を検討し、そこで作成された案の一部が実現に移された」として、「『調整』の『ドクトリン』の原型を探るには、諮問機関そのものではなく、官僚集団によって構成された会議体や、その周辺の人物による改革構想に着目する必要がある』と述べています。
 そして、井上馨が、「同時代の他の指導者と比べて、内閣制・省庁制の性格を熟知した上で官制改革を構想していた点で、異色の政治家であった」とした上で、1885年から89年までの官制改革において、「ヨーロッパ諸国の決定手続きが例示されて、『協議ノ道ヲ広ムル』という方針を立てることが主張された』ことが。『後に、これが日本において省間対立を終息させる基本的な手法となっていく。すなわち、省間調整の『ドクトリン』は、ここに起源を見出すことができる」と述べ、「他方で、大臣の権限強化が規定上進行し、これをもとにした大臣間の交渉手続の整備によって内閣の『統一』を図る構想が一時的にではあれ実行された」と述べています。
 第4章「戦後日本における『調整』の変容」では、「『調整』の『ドクトリン』が『政策』としての組織法を後追いする形で登場し、『調整』の不備といっそうの『調整』を提言するという構造は、戦後日本の『調整』の政治過程を特徴付けている」とした上で、
(1)日常的に行われている『調整』の実態と限界とは何か。
(2)改革の諮問機関は、どこまでこの日常的な『調整』の性質をとらえているか。
(3)提言内容に含まれるより高度な『調整』とは、いかなる活動をさし、それはいかなる条件で実現可能か。
の3点を指摘し、「これらの問いに答えるには、戦後日本の安定的な政治環境は好条件である』と述べています。
 そして、水資源をめぐる省庁間の「調整」の事例を取り上げ、「水資源に関しては、治水を所管する建設省、農業用水を所管する農林省、上水道を所管する厚生省、工業用水を所管する通産省の4章が所管を重複させている。また日本の重要河川では、江戸時代に農業用水の水利権が渇水時の水を取りつくしており、新規の水資源を開発するためには、上流にダムを建設してここで貯水し、渇水時に放流することによって河川の水量を増やすことが不可欠であった」と述べています。
 また、「法案作成過程の中で、自民党政調会、大蔵省、内閣官房、内閣法制局、経済企画庁のような調整をつかさどる器官は、それぞれ裁定者としての役割を分担している。したがって、従来言われてきたように、それぞれが政党戦略、財政状況、閣議の運営、法制度の体系性の保持、地域開発計画といった目的に関して、『総合調整』を行っているだけではなく、内閣レヴェルで合意を形成して法案を作成するために参与している」と述べています。
 さらに、省庁再編の過程に関して、「それが実施される以前から各省に対して強い圧力となっていた。この圧力が、従来の『調整』の過程を大きく変化させた」として、
(1)行政改革会議が唱えた『縦割り行政』の是正、言い換えれば分担管理原則の克服と内閣機能の強化とが、内閣官房の権限を形式的にも実質的にも強化させるという結果をもたらした。
(2)改革過程の透明性が強く求められるようになった。
(3)処理の加速。従来のように慎重かつ正確な意思決定よりは、迅速な意思決定こそが求められるようになった。
(4)政府全体の人事交流の拡大。
の4点を上げています。
 最後に、「今後省庁再編の改革を継承するのであれば、『二省間調整』の『総合調整』の一層の活性化が不可欠」だと述べています。
 「おわりに」では、「日本において、本書が定義する『調整』の『ドクトリン』が対象としたのは、内閣制と省庁制であった」とした上で、「いわゆる『理論』を含めた既存の言説を『ドクトリン』と自覚した場合、これへの行政学者の態度」として、
(1)「ドクトリン」自体の分析
(2)「ドクトリン」からさまざまな分析上のパズルを引き出す、科学的分析
(3)「ドクトリン」の応用
(4)本書の取った歴史学的アプローチ
の4点を挙げています。
 本書は、「総合調整」を「ドクトリン」として再発見した一冊です。


■ 個人的な視点から

 「理論」でも「政策」でもなく「ドクトリン」。
 これまでの行政学の視点に「ドクトリン」を追加してもう一度色々なものを見てみると新たな発見がありそうです。


■ どんな人にオススメ?

・理論と政策を繋ぎたい人。

2010年3月13日 (土)

デジタルネイティブが世界を変える

■ 書籍情報

デジタルネイティブが世界を変える   【デジタルネイティブが世界を変える】(#1878)

  ドン・タプスコット (著), 栗原 潔 (翻訳)
  価格: ¥2520 (税込)
  翔泳社(2009/5/14)

 本書は、「生まれた時から周囲の環境の一部としてパソコンやインターネットなどのデジタルテクノロジーが存在し、それらを呼吸する可能用に育ってきた世代」である「ネット世代」について、「膨大な調査データやインタビューに基づいて論じたもの」です。
 第1章「成人になったネット世代」では、ベビーブーム世代を特徴付けているのは、「テレビの普及によるコミュニケーション核心の影響」だとしています。
 一方で、ネット世代の行動基準について、
(1)自由:ネット世代は何をする場合でも自由を好む。選択の自由や表現の自由だ。
(2)カスタム化:ネット世代はカスタマイズ、パーソナライズを好む。
(3)調査能力:ネット世代は情報の調査に長けている。
(4)誠実性:ネット世代は商品を購入したり、就職先を決めたりする際に、企業の誠実性とオープン性を求める。
(5)エンターテインメント:ネット世代は、職場、学校、そして、社会生活において、娯楽を求める。
(6)コラボレーション:ネット世代はコラボレーションとリレーションの世代である。
(7)スピード:ネット世代はスピードを求めている。
(8)イノベーション:ネット世代はイノベーターである。
の8点を挙げたうえで、「いまだかつてない規模の人口からなるネット世代が成人になっている。ネット世代は、大学に行き、就職する過程で、強力なデジタルツールを活用し、かつては特別な人だけが利用可能だった力を得ているネット世代は最初のグローバルな世代であり、世界中の多くの場所で前述の8つの行動基準に従って行動している」と述べています。
 第2章「ビット漬けの世代」では、「ネット世代はインターネットそのものの特性を変革しつつある」として、「インターネットを主に情報を見つける場から、情報を共有し、互いの利益のために協業し、困難な問題を解決するための新しい方法を作り出す場へと変革している」と述べています。
 第3章「世代の特性――ネット世代の八つの行動基準」では、「ネット世代は親の世代では入手不可能であった科学、医療などに関する大量の情報に触れてきた」ために、「寛容性、さらには叡智を示している」一方で、「他人にも誠実であることを求める」と述べています。
 第4章「ネット世代の頭脳」では、「初期の研究結果はデジタル付けになることが脳に好ましい影響をもたらすことを明確に示唆している」として、「対話型のデジタル環境で暮らすことで、テレビをただ見ているだけの人よりも優秀な頭脳が得られるという確定的結論がいずれは出るだろうと、私は考えている」と述べています。
 一方で、英国のマーク・バウアライン教授が、今日の若者を、「もっとも愚かな世代」と呼んでいることについて、「教授が間違っていること」を示すとしています。
 そして、典型的なネット世代の子どもたちが大人になるまでに、「インターネットに2万時間以上を、そして、ビデオゲームに1万時間以上を費やしている」ことについて、「このようなデジタル漬けは脳が外界にもっとも影響されやすい時期、つまり、10代の時期に起きている」として、「研究結果では、12歳から24歳までの間に、注意力、報酬の評価、感情的知性、衝動のコントロール、目的志向の行動などに関連する脳の領域が全て変化することが示されている」と述べています。
 また、「ビデオゲームをプレイすることは意味が無い遊びのように思えるかも知れないが、視覚的な注意力を向上する効果がある」とする研究結果を紹介し、「デジタルの世界で育ってきたネット世代は、写真、グラフ、アイコンなどの画像を読む能力を身につけている。親の世代よりも視覚能力は高いだろう」と述べ、「多くのネット世代を見る限り、彼らは私よりも作業の切り替えが速く、周囲の雑音を排除する能力にも長けているように見える」としています。
 第5章「教育を再考する」では、「ネット世代はデジタルの世界で育ち、21世紀に生きている」にもかかわらず、「多くの教育システムは少なくとも100年以上は遅れている」として、「古い教育システムは画一的で一方通行の放送型の学習だった。これは、労働者が命じられたことだけをやっていればよかった工業時代に向けに設計された方式だ」と述べ、「新しい情報を超高速で処理しなければならない現代では、新しいことを学ぶ能力が今まで異常に重要になっている。学生は、独創的かつ批判的に、そしてコラボレーションを促進するように思考できなければならない」としています。
 そして、「古いモデルでは、学生が大量の情報を吸収することを求められる」として、「教育とは(教師が提供する)コンテンツを吸収すること」だったが、「今では学生たちは求めている情報を瞬時に手に入れられるため、この旧式のモデルは意味を成さない。何を知っているかは重要ではない。重要なのはデジタルの世界をどのように探索し、見つけた情報で何をするかである」として、「この点にフォーカスした新しい学習スタイルはネット世代に合致する」と述べています。
 第6章「人材管理を再考する――職場におけるネット世代」では、「会社のために働くのではなく『自分の生活を良くするために働く』ことがネット世代のモットーだ」として、「年長のマネジャーは、仕事と生活のバランスへの欲求を会社への忠誠心の欠如であると誤解することがあるが、それは必ずしも正しくない。ネット世代は、やる意義があり、やりがいがあり、多様性を提供してくれる仕事を求める。しかし、同時に自分の生活とのバランスも求める」として、「ネット世代は個人の生活と仕事の世界とを自由に混在できることを当然と考えている」と述べています。
 また、「ネット世代の3人に2人が『仕事と娯楽は一体であるべきだ』と答えている」ことについて、「これは、彼らが一日中ゲームをしたがっ知恵いるという意味ではない。彼らは仕事自体が楽しいものになることを望んでいるのである」と述べています。
 そして、「ネット世代の8つの行動基準は、未来の職場の革新の方向性を宣言するものだ。この8つの行動基準を重視している企業は、競合上の優位性を得られることになるだろう」と述べています。
 第7章「Nフルエンスネットワークとプロシューマー革命――消費者としてのネット世代」では、「ネット世代が買い物をするときには、本書で述べてきた8つの行動基準に従う」としたうえで、「ネット世代は単なる消費者ですらない。彼らは、ブランドに積極的に貢献しようとする」として、「これらのネット世代を『プロシューマー』(プロデューサー+コンシューマー)と呼ぶことができよう」と述べています。
 そして、「教のコミュニケーションネットワーク、そして、そこにある人間関係をネットワークでインフルエンス(影響)を与えるということから『Nフルエンスネットワーク』と予防。ネット世代にとっては、この友人と知り合いからなるネットワークこそが他人に対する影響力を及ぼす場所だ」と述べ、「ネット世代は、桁違いに大規模で、遥かに複雑で、同時に極めて効率的でもあるネットワークを使用している。これは、その親の世代では実現不可能だったレベルだ」と述べています。
 また、「Nフルエンスネットワークのもっとも興味深い点は、従来型の社会的結びつきの範囲外で信頼できる関係を築けるということだ。ソーシャルネットワークの規模が大きくなると、意思決定を行う際に頼りにする人の数も増えてくる。そして、このようなインフルエンサーが従来とは異なる場所から生まれてくるケースが増えている」と述べています。
 第8章「新しい家に勝る場所はない――ネット世代と家族」では、「典型的ベビーブーム世代は大学卒業後に実家に戻ることは考えなかった。これは、通常、彼らの家庭生活が今とは異なっていたからだ」として、「ベビーブーム世代は封建的な家庭で育っている」からであるのに対し、「ネット世代は、家族生活に対して発言権を持てる民主主義型の家庭で育った」ため、「ネット世代は、まず家の中、特にオンライン上に自由を見出した。そして、携帯端末によるネットへのアクセスが可能になったことで、自由は場所を選ばないものとなった」と述べ、「オンラインでの自由を経験することで、両親たちとの距離が縮まった。自由を求めて反抗する必要がないからだ」としてます。
 そして、「ネット世代は、自分たちの両親を幸福と安全の源とみなしている」として、「ネット世代の4人中およそ3人が、両親との関係が自分を幸せにしていると答えている」と述べ、「ネット世代が大学卒業後喜んで実家に戻るのは十分に理解できる」と述べています。
 また、オンライン検閲について、「子どもたちがインターネットでであった人物と実際に会う場合は、まず両親である私たちに話すこと、そして初対面の場合には私たちも同伴すること。子どもたちはインターネット上の不適切な場所に言ってはいけない。そのかわりに親はこそこそと嗅ぎ回ったり、子どもたちの仮想世界へのアクセスを制限したりしない」という相互契約を子どもたちと取り決めたとして、「私たちは家庭内で情報がオープンに行き渡る状態にすることで、信頼関係を築きあげようと懸命に努力した」と述べ、「子供にポルノを見てもらいたくないならそのことを子供と話しましょう、というのがこの問題に対する私の結論だ」としています。
 第9章「オバマ、ソーシャルネットワーク、市民参加――ネット世代と民主主義」では、2007年の冬にバラク・オバマ事務所で働き始めた23歳のクリス・ヒューズにとって、「もしオバマが出馬するなら、一般市民の力を借りて選挙運動をしなければならないことは明らかだった。それを実現するにはインターネットが必要不可欠だった」として、「ヒューズが組織したオンライン活動は、マイ・バラク・オバマ(mybarackobama.com、キャンペーン内での通称はMy Bo)を中心に展開し、インターネットと現実世界における政治のやり方を変えた」と述べ、「ネット世代は、デジタルツールで武装し、因習を崩し、権威を倒し、世界を変える可能性を秘めている」としています。
 そして、「オバマの選挙キャンペーン用ソーシャルネットワーキング・サイトであるマイ・バラク・オバマ(mybarackobama.com)は、支持基盤を構築し、集会を催し、寄付金集めを行う権限を支持者自身に与えるように設計されている」と述べ、「オバマの選挙活動が、これほど多くのネット世代の心を捉えたことは驚くべきことではない。彼の選挙活動は本書全体にわたり議論してきたネット世代の行動基準のいくつかを実行しているからだ」と述べています。
 第10勝「世界を根本的に良い場所に」でjは、「世代がテクノロジーに影響するのか、それとも逆なのか。双方向だというのが私の考えだ。テクノロジーは若者の考え方に影響を与え、若者の考え方はインターネットの利用方法や発展の方向性に影響を与える」と述べています。
 第11章「未来を守る」では、「ネット世代に対する大規模な調査プロジェクトにより、重要で興味深い結論が得られた」として、「その中でも最も重要な結論は、若者たちは間違っていないというだけではなく、一つの世代として社会のあらゆる制度を良い方向へと変革していく可能性が高い」と述べた上で、「ネット世代が多くの時間をコンピュータの画面を見つめて過ごすことで、深く考えたり独創的に考えたりする能力を失ってしまった」とする「もっとも遅かな世代」だという批判に対し、「情報の検索、閲覧、応答など、オンラインでの活動は高度な知的活動だ。実は子どもたちは多くの読書をしている。本を読む機会は少なくなっているが、オンラインで小節を読んでいる。オンラインでの読書には通常の本を読む場合と同じスキルだけではなく、さらに別のスキルも要求される」と述べています。
 そして、「ネット世代は浅薄で物質主義的な世代ではない。全く逆にボランティアと市民活動を重視する世代である。ネット世代は世の中を少しでも良くしたいと切望している」と述べています。
 著者は、「私の研究の結論は、ネット世代が致命的な欠陥を抱えているというものではない。今日の若者に対する侮辱的な見方が根拠を欠いているというものだ。批評家達の批判のほとんどはでっち上げだ」と述べた上で、「今はびこっている真の病は、若者のナルシズム、愚行、注意欠陥障碍、暴力などではない」として、「若者、特に、そのインターネットの活用法に対する不合理で不健全な恐怖」である「エンジェノフォービア」(造語)だと指摘しています。
 本書は、ネット世代がこれから本格的に社会の中心になっていくことで世界がどのように変わるのかを論じた一冊です。


■ 個人的な視点から

 ネットが子供たちに与える影響について、極めて楽観的とも言えるトーンで論じていますが、われわれの世代にとって、ネットが使えるようになって「便利になった」「変わった」「効率的になった」と実感できた変化を、ネット世代は当たり前にあるものとして育ってきたわけなので、そりゃあ変わるでしょう、と思うのです。


■ どんな人にオススメ?

・ネットが世代を変えたことを知りたい人。

2010年3月12日 (金)

日本の公文書─開かれたアーカイブズが社会システムを支える

■ 書籍情報

日本の公文書─開かれたアーカイブズが社会システムを支える   【日本の公文書─開かれたアーカイブズが社会システムを支える】(#1877)

  松岡 資明
  価格: ¥1,890 (税込)
  ポット出版(2010/1/21)

 本書は、「適正に運用されれば公務員の意識は変わり、日本の社会、文化にも少なからぬ影響を与える」と考えられる「公文書の管理等に関する法律」の成立過程とその後について解説したものです。
 第1章「公文書管理法はなぜ、必要なのか」では、「公文書は保存期間が満了したとき、3つの選択肢がある」として、
(1)保存期間自体を伸ばす「延長」
(2)公文書館などへの「移管」
(3)「廃棄」
の3点を挙げ、「全体からみると、公文書館への移管はごく一部に過ぎず、文書の大半は廃棄されている」と述べています。
 第2章「公文書管理法の成り立ち」では、2008年2月末の「公文書管理の在り方等に関する有識者会議」の発足に関して、「有識者会議が目指したのは公文書管理法の制定である」と述べています。
 そして、「公文書管理法は2009年の7月1日に交付され、2011年4月に施行の予定である」として、「最大の課題は人材の確保、要請かもしれない」と指摘しています。
 第3章「深くて広いアーカイブズの海」では、「公文書に関して、つい最近まで存在を忘れ去られていた文書として、国有林資料を挙げ、「森林国日本は地域に寄っては県土の大部分を国有林が占め、地域経済が様々な面から国有林に依存してきた歴史がある」として、「国有林資料の価値は計り知れない」と述べています。
 また、「つい10年ほど前まで、ごく一部の人しか存在を知らなかった地図がある」として、明治初期から太平洋戦争期までに作られた「外邦図」について、「列強に肩を並べようとした近代日本の意思を物語る物的証拠である」として、
(1)軍が自ら測量などを行い制作した地図
(2)外国で製作された地図を入手し、一部を改変して複製した地図
の2つに大きく分類できるとしています。
 第4章「デジタル化の功罪」では、「デジタル化した知識資源をどう蓄積し、国民に利用を促していくかという点でほとんど政府は無策に近い」としたうえで、「デジタルで問題視しなければならないのは、デジタル化してしまえば紙にかかれた資料は不必要となり、廃棄して差し支えないと思われていることである」と述べ、さらに、長期保存の問題の他、「記録の真正性や正本・副本の違いをどう定義するのかといった課題のほかに、管理の問題がある」と述べています。
 第5章「記録資料を残す意味」では、「郷土の歴史や文化は自分たちの手で作っていきたい」という思いから、アーカイブズ構築に取り組む自治体の例として、熊本県宇城市の例を挙げたうえで、「日本にある公文書館は公文書管理法の趣旨に則れば国立が3、都道府県立が30、そして7政令市を含む市町村立が23の計56である」が、「近代以前の歴史公文書から現代の公文書まで一貫した形で管理をしている公文書館は殆どない」と述べています。
 著者は、「人間が人間としてこの世に存在したことの証。それが記録資料の意味するところではないか」と述べています。
 本書は、日本の公文書のおかれているお寒い現状を指摘した一冊です。


■ 個人的な視点から

 自分の子供達の写真を端からハードディスクに入れ、DVDに焼き、DVテープに落としている人たちは、子供たちの公的な記録がどのように扱われているかについてご存知なのかと思ってしまいます。


■ どんな人にオススメ?

・自分の記録を管理していたい人。

2010年3月11日 (木)

人間集団における人望の研究―二人以上の部下を持つ人のために

■ 書籍情報

人間集団における人望の研究―二人以上の部下を持つ人のために   【人間集団における人望の研究―二人以上の部下を持つ人のために】(#1876)

  山本 七平
  価格: ¥540 (税込)
  祥伝社(1991/02)

 本書は、「題材として朱子の『近思録』や『旧約聖書』を取りあげ」、「欧米にも『人望』という概念があり、両者に共通した面がなぜ出てきたかを探る」として、「人望の条件」を追求したものです。
 第1章「『人望』こそ、人間評価最大の条件」では、』日本社会では、「ダメダな、あの男は人望がないから」の一言で「その人の前途は絶たれる」として、「『人徳』『人望』がそれほど絶対的な言葉なのに、さらその正体となると明らかでないのは不思議である」と指摘しています。
 第2章「『人望のある人』とは、どんな人か」では、「われわれは意識しなくても、さまざまな文化的蓄積を持っている。そして外国から新しい思想やイデオロギーが来ると、文化的蓄積の中でそれと似たものを掘り起こして共鳴する。これが矢野教授の言われる『掘り起こし共鳴現象』」だと述べています。
 第3章「不可欠の条件――『九徳』とは何か」では、『近思録』にある「九徳」について、
(1)寛にして栗(寛大だが、しまりがある)
(2)柔にして立(柔和だが、事が処理できる)
(3)原にして恭(まじめだが、ていねいで、つっけんどんでない)
(4)乱にして敬(事を治める能力があるが、慎み深い)
(5)擾にして毅(おとなしいが、内が強い)
(6)直にして温(正直・率直だが、温和)
(7)簡にして廉(大まかだが、しっかりしている)
(8)剛にして塞(剛健だが、内も充実)
(9)彊にして義(強勇だが、義しい)
の9点を挙げています。
 第4章「人間的魅力と『常識』との関係」では、「高次の常識人とは、人徳があり、人望がある者」だとして、「中庸こそ人望の不可欠の要件」だと述べています。
 第6章「『教なければ禽獣に近し』」では、「無教育問題」について、『小学』にある孟子の言葉として、「飽食暖衣、逸居して教なければ即ち禽獣に近し」を挙げています。
 第7章「機能集団における指揮者の能力とは」では、「人望とは何か」考えざるを得なくなったのは「フィリピンの戦場においてであった」として、「帝国陸軍では、部下は上官の命令に自動的に従った、と思っている人がいれば、それは軍隊神話を事実だと思っているに過ぎない」として、「外形はそのとおりかも知れぬ。たしかに部下に何か問題があって叱責すれば、部下は直立不動の姿勢で聞いている。だが、内心では『てやんでー、このバカ』『偉そうなことヌカすな、若僧のくせしやがって』と思っているかも知れない」と述べ、指揮官の能力を、「兵隊はこれを、とくに戦場では、実に的確に見ぬく。何しろ自分の命に関わるのだから、こういうときの研ぎすまされた目は実に鋭く、動物的とさえ言えるカンで上官の能力を見抜く」と述べています。
 そして、「機能集団におけるリーダーのもっとも重要な資格に『「情況判断」の正しさ』もまた『中庸』という『徳』と深く関連していることが明らか」だと述べています。
 本書は、日本社会における「人望』がどのようなものかを明らかにした一冊です。


■ 個人的な視点から

 空気の話は秀逸でした。この本も併せて読むといいいと思います。極限の状態で有る軍隊の話を持ってくることで説得力を得ているのではないかと思います。


■ どんな人にオススメ?

・日本人の評価基準を知りたい人。

2010年3月10日 (水)

まちづくりの「経営力」養成講座

■ 書籍情報

まちづくりの「経営力」養成講座   【まちづくりの「経営力」養成講座】(#1875)

  木下 斉
  価格: ¥2310 (税込)
  学陽書房(2009/10)

 本書は、「まちづくり事業における成否を分けるのは"経営力"である」ことをテーマとしたものです。
 著者は、「まちづくりに関する"5つの悩み"」として、
・何をどうしたらよいかわからない
・どう実行したら成果が出るのかわからない
・実行する人がいない
・手元に予算がない
・常に時期が遅れる
の5点を挙げた上で、途方にくれる前に、「まちを1つの会社として考えましょう」と提案していると述べています。
 そして、また、これまでのまちづくりの「誤った常識」として、
・まちづくりは補助金だのみが基本
・まちづくりはボランティアによる"活動"がよい
の2点を挙げています。
 第1章「ロジカル・シンキング」では、まちづくりを事業として推進するには「論理的思考に慣れていいく必要」があるとして、その基本原則として、
(1)すべての結果には原因がある
(2)すべての物事は構造化できる
の2点を挙げ、(2)について、「複雑に絡みついた問題や大きなテーマを1つひとつ分解して、小さく整理したり、それらをグループ員まとめたりしながら、構造的に理解していく方法」だと述べています。
 第2章「まちづくりに戦略はどのように役立つのか」では、戦略とは、「いかにして現状から目標に近づくか」という「シナリオ」だとした上で、まちづくり事業の戦略立案のステップとして、
(1)環境分析(自分を取り巻く環境の分析)
(2)組織分析(自分が推進する組織の分析)
(3)目標設定(達成可能な目標の設定)
(4)戦略立案(現状と目標とを結ぶシナリオ)
の4点を挙げています。
 第3章「STEP1 取り巻く環境から事業を分析する」では、「自分たちを取り巻く環境」を把握するために、
(1)顧客:まちづくり事業の主とした対象となるターゲット
(2)競合:まちづくり事業の置かれた競合組織やサービス
(3)供給:事業に必要な資源調達
(4)規制:まちづくり事業の制約となる法律や条例
(5)新規参入/補完財:新たな参入者や補完/代替機能となるサービス
の5つの要素から分析すると述べています。
 第4章「STEP2 自分たちの制約から事業を考える」では、自分たちの持つ制約を、
(1)ヒト(人材)
(2)モノ(設備)
(3)カネ(資金)
(4)情報
の4つの要素にわけて考えることができ、これらを「経営資源」と呼ぶとしています。
 第5章「STEP3 目標を立てる」では、「手段としての目標」とは、「中長期的な方向性に対して、具体的にいつまでにどの水準まで事業を育てていくのか」といった、「進めるメンバーが共有出来る『道しるべ』のようなもの」だと述べたうえで、目標の種類について、
(1)定性的かつ中長期的な先を見据えたビジョン型の目標
(2)現実的かつ達成可能な明確な目標
の2つの種類を挙げています。
 第6章「STEP4 戦略を立てる」では、「競合するまちづくり事業や一般企業などによる事業との差別化」を図るための競争戦略として、
(1)製品やサービスでの差別化
(2)補助的機能での差別化
(3)ブランドでの差別化
(4)価格での差別化
の4点を挙げています。
 第7章「まちづくり組織の設計」では、まちづくり事業の組織設計を行う際に、「実施する事業特性に合わせ、『みなが所有する組織』という理想と、『迅速かつ軽い組織』という経営優先型のモデルとの2つのバランスを取る必要」があるとしています。
 そして、「一時期、地域活動などでは"ネットワーク組織"が新しいと言われたこと」があり、「従来のヒエラルキー型の組織は古くて、これからはネットワーク組織が適している」という議論があったが、「これは誤り」で、「ネットワーク組織のモデルが役立つものもあれば、ヒエラルキー組織で推進した方が円滑に進められるもの」もあるとしています。
 また、「これまで、まちづくり関連の団体は"活動"を中心としてきたため、事業特性に合わせて組織形態を選択するということ」をしてこなかったが、「今後、まちづくり事業においては、事業特性、所有構造、事業リスクの最小化などを考慮して、適した組織形態を選択する必要」があるとしています。
 第8章「まちづくり組織の運営」では、「まちづくり事業における報酬の設定は、非常に重要なポイント」だとして、これまでの「まちづくり活動」では、「何らかの企画力などの無形資産や人件費などに対して支払いを行う概念」があまりなかった結果、「関わる人々の無償で手伝える範囲」という「非常に限定的な人材資源しか確保できなかった」と指摘し、「地域活性化のために低賃金労働を強いるしくみは、けっして良いとは言えません」と述べています。
 また、「まちづくり事業組織の社会的責任」として、「経営情報に関する公開性の確保」を筆頭に挙げ、「横領や不正取引などを社員ができてしまうのは、その組織設計に透明性が担保されていないからで、それは組織にとってばかりでなく、働いている社員にとっても不幸」だと述べています。
 第9章「財務・管理会計」では、「あらゆる事業には一貫した資金の流れ」があるとして、
(1)資金を集める(資金調達)
(2)集めた資金を事業システムに投資する(投資)
(3)事業システムを通じて利益が生まれる(利益創造)
(4)生まれた利益を再投資するか、所有者に配当する
の4点を挙げ、「業種形態を問わず、事業活動は単純化するとこのプロセスに集約」されると述べ、「従来のまちづくりの多くは『循環』という意識を持っていなかったために、(3)の利益を出して(4)再投資・配当という循環プロセスを事業として組み込んで」入ないため、「手元には何も残らず、また次の年に資金をゼロから調達し続ける形が多い」ことを指摘しています。
 第10章「プロジェクト・マネジメント」では、「プロジェクトは、計画や戦略とは異なり、細かく『時間(トキ)』『作業(コト)』『役割分担(ヒト)』という3つの軸で、目指すべき体制を作るための目論見をまとめたもの」だとした上で、「まちづくりプロジェクト5ヶ条」として、
(1)リーダーとマネジャーを置く
(2)納得できるプロジェクト設計
(3)違和感・不安感の共有
(4)変更を積極的に取り入れる
(5)プロジェクトを止める勇気
の5点について解説しています。
 そして、プロジェクト・マネジメントを見える形に剃る方法として、「ガントチャート」を挙げ、
(1)業務一覧を作成します
(2)それぞれの業務のスケジュールを矢印線で書きます
(3)矢印部分に担当の名前を入れて進めていきます
(4)各業務間で影響しあう事柄を矢印で結んでいきます
の4つのプロセスについて解説しています。
 本書は、全国のまちづくりに携わってきた長い経験と、若い感性との両方を兼ね備えた著者ならではのことばの重みが光る一冊です。


■ 個人的な視点から

 本書の編集者である村上広大さんとは、著者の木下さんとご一緒したパネルディスカッションの時に初めてお会いしたのではないかと思うのですが、実にいい本を出されたな、というのが感想です。
 もちろん、木下さんの書く文章がソリッドで分かりやすいという素材の良さもあるのですが、その素材をがっちりと受け止めてたいへん読みやすい本に編集されています。素晴らしい。
 私もこうゆう文章を書けるようになりたいし、こういう本を作れる編集能力を身に付けたいと思いました。


■ どんな人にオススメ?

・「まちづくりは理屈じゃないんだ」とおっしゃるエライ先生に納得が行かない人。

2010年3月 9日 (火)

論理学 (1冊でわかる)

■ 書籍情報

論理学 (1冊でわかる)   【論理学 (1冊でわかる)】(#1874)

  グレアム プリースト (著),菅沼 聡 (翻訳), 清水 哲郎
  価格: ¥1575 (税込)
  岩波書店(2008/02)

 本書は、「論理学の入門書であり、現代の論理学者達がこの学問をどう捉えているかを述べたものである」とともに、「哲学に深く根ざした論理学のルーツを探索すること」を狙いとしたものです。
 第1章「妥当性」では、「筋道だててものを考える」ことが、論理学のテーマだとして、「論理学は、理由として何が十分だとみなせるか、またその理由はなぜ十分だとみなせるかを研究する学問」だと述べたうえで、「前提から結論が本当に導かれるとき、その推論を論理学者は妥当と呼ぶ」として、「論理学のもっとも大切な目的は、妥当性とは何かを解き明かすこと」だとのべちます。
 第3章「名前と量化表現」では、「'nobody'や'someone'(あるひと)や'everyone'(みんな)といった言葉は、現代論理学では量化表現と呼ばれ」るとした上で、量化表現の働きとして、「状況というものには、必ず何らかの対象の集まりが伴う」ことを挙げています。
 そして、「量化表現を正しく理解することは大切である。それは論理学に限った話ではない」として、「'someone'とか'nothing'といった語は対象を表わしてはおらず、全く別の働きをする言葉なのである」と述べています。
 第5章「自己言及」では、
「いまわたしが話しているこの文は偽だ」
という文について、「この文は、ねじれによって内側が外側になり外側が内側になる」として、「こうしたパラドックスは大昔から知られていた。最初の例は古代ギリシアの哲学者エウブリデスが発見したものらしく、しばしば嘘つきのパラドックスと呼ばれている」と述べています。
 第8章「未来と過去」では、「時間に関してもっとも不可解な点の1つに、時間が流れているように見えることがある」として、「だが、時間が変化するなどということがどうしてあるだろうか。じかんとは、他のあらゆるものの変化率を測るものだというのに、これは時間に関する様々な難問の中核にある問題である」と述べています。
 第10勝「曖昧さ」では、「5歳の人間は(生物学的には)子供である。もしある人間が子供だとすれば、1秒後もやはりその人は子供である。さらにその1秒後も子供だし、そのまた1秒後も子供だし、そのまた1秒後でもそれは変わらない。結局、6億3072万秒後でもまだ子供ということになる。だが、そのときにはもう25歳になっているのだ!」とした上で、こうした論法は、「連鎖式のパラドックス(sorites paradox)と呼ばれている」と述べています。
 本書は、論理学に関心を持った人に、最初の一冊として手にとって欲しい一冊です。


■ 個人的な視点から

 「論理学」という一般的にはとっつきにくい分野というか、よく分からない文章をありがたがってウンウン唸りながら読むことが素晴らしいんだ、という価値観でも持ってそうな分野だと思ってましたが、本来的にはものすごく白黒がしっかりした分野なので、こういう分かりやすく解説してくれる本はありがたいです。


■ どんな人にオススメ?

・論理学は難しいという先入観を持っている人。

2010年3月 8日 (月)

楕円とガイコツ―「小室哲哉の自意識」×「坂本龍一の無意識」

■ 書籍情報

楕円とガイコツ―「小室哲哉の自意識」×「坂本龍一の無意識」   【楕円とガイコツ―「小室哲哉の自意識」×「坂本龍一の無意識」】(#1873)

  山下 邦彦
  価格: ¥3,465 (税込)
  太田出版(2000/03)

 本書は、「楕円」と「ガイコツ」という2つのキーワードで小室哲哉と坂本龍一の音楽について、著者が「発見」したことを書き連ねたものです。
 第1部「坂本龍一×小室哲哉」では、小室哲哉について、「頭の中で楽譜かなんか絶対していません。もししていたら、彼のように曲をつくることはできないでしょう」と述べています。
 また、高橋悠治が語った、「赤いドミナントの響き」と「緑のペンタトニックの響き」の「2種類の響きの違いが、自分にとっては、色彩感の違いとして、実にはっきりと感じられることに気がついた」と述べています。
 第2部「『戦場のメリー・クリスマス』と『エナジー・フロウ』を結ぶもの」では、「メロディーの世界、つまり声の周波数帯域の中で重要な要素」として、「4度」という音程を挙げ、4度を二重線で結んだ図について、作曲家の柴田南雄が、「音楽の骸骨(ガイコツ)」と呼んでいたと述べています。
 そして、「コード(楽器の3層)の基本の3度を、メロディー(声の1層)にも押し付けるから、平坦でつまらなくなるのです。メロディーには、べつの基本がある。それが、コードと同じくらいの割合でズレる『4度』(ガイコツ図で言えば、二重線の骨)なのです」と述べています。
 また、「ビートルズについて考えることが、私に『時間』の『内側』、コードが移るときの時間の流れそのものに、耳の焦点を移動させてくれた」とした上で、「小室哲哉について考えることが、『ド中心のビートルズ』から『ラ中心のビートルズ』へ、さらに『ドとラという2つの中心が共存するダエンの中のビートルズ』へ、という新しいビートルズの発見へと誘導してくれた」として、「ドとらという2つの中心を同時に持つような音楽の特徴を、この本では『ダエン』と」呼ぶと述べています。
 第3部「『ドミソ』の音楽と『ミソラ』の音楽」では、明治維新、第二次世界大戦という2つの波を経験して、「日本人が『声の記憶』と引き換えに獲得したもの」として「オクターヴ」と「ドミナント」を挙げ、「小室哲哉は、この獲得物をしっかりとキープしながら、なおかつ『声の記憶』を売り渡さなかった」と述べています。
 また、武満徹が、「2:3」という振動比をもつ「5度という響き」を「宇宙的な基準」とまで表現したのに対し、柴田南雄は、「3:4」という振動数比をもつ「4度」のほうを「基準』と考え、「縄文時代的」「アジア的」「非西欧的」だったと述べています。
 第4部「小室哲哉が発見した『ダエンの中のビートルズ』」では、ビートルズにとって、「CとFとG」のスリーコードに加える「4つ目のコード」が「D7」であったのに対し、小室哲哉にとっては4つ目のコードが「Am」であったことが、「その後の彼の音楽にとって、決定的な意味を持っていく」と述べています。
 そして、「ダエンの中のガイコツ」というイメージこそが、「小室哲哉の音楽を分析するための強力なナイフとなった」として、「結局、小室哲哉は、近代西洋の論理から見れば、遅れているもの、忘れられているもの、差別されているものすべての記憶を持っているのです。近代西洋の論理では見えないもの、聞こえないものを感知する創造力を持っているのです。そして坂本龍一は、言葉ではしばしば『近代西洋の論理』の中で考えているのですが、その音楽そのものは、はっきりと小室哲哉のつかんだ世界を共有しているのです」と述べています。
 本書は、坂本・小室というビッグネームを素材に、著者独自の「音楽論」が炸裂した一冊です。


■ 個人的な視点から

 なんと言うか、疑似科学の人とか環境系とか宗教系のいっちゃった人とかが各文章と同じ匂いが全編に満ち溢れているというのが感想です。「究極超人あ~る」の成原博士チックな、「私は学会に復讐してやるんだー!」 的な雰囲気がどうにも疲れました。
 内容が正しいか間違っているか、という問題ではなく、やたらにセンチメンタルに攻撃的、そして断定的な恨み節あふれる口調に、没入できる人にとってはバイブルになるかも知れません。


■ どんな人にオススメ?

・音楽界に復習したい人。


2010年3月 7日 (日)

自然に学ぶ粋なテクノロジー なぜカタツムリの殻は汚れないのか

■ 書籍情報

自然に学ぶ粋なテクノロジー なぜカタツムリの殻は汚れないのか   【自然に学ぶ粋なテクノロジー なぜカタツムリの殻は汚れないのか】(#1872)

  石田秀輝
  価格: ¥1785 (税込)
  化学同人(2009/1/25)

 本書は、文明崩壊を避けるために、「生活価値の不可逆性を肯定し、同時に循環型社会をつくる」必要があるとして、「物欲をあおるテクノロジーから、自然観を持った精神欲をあおるテクノロジー」すなわち、「ネイチャー・テクノリジー」への移行を訴えるものです。
 第1章「あたらしく生まれたネイチャー・テクノロジー」では、カタツムリの殻が汚れない理由として、「カタツムリの表面を電子顕微鏡で見てみると、数十ナノメートルからミリメートルにいたる小さな凹凸がたくさん存在する」として、「汚れがつきにくく取れやすいこの技術は、すでに過程のキッチンシンクやビル外壁に使われ始めた」と述べています。
 第2章「自然観をもったテクノロジーが必要なのだ」では、「今こそ、自然をサイエンスの目で見直す必要がある。自然のもつ形、物理的・化学的性能、生態学的特長、そして倫理的意味合い――それはまさに知の宝庫なのである」と述べています。
 そして、文明崩壊というと歌を避けるためには、
(1)非最適化テクノロジーの淘汰
(2)最適化テクノロジーの淘汰
(3)行為の淘汰
(4)ライフスタイルの淘汰
の4つの淘汰のステップが必要だとしています。
 第4章「人間活動の肥大化が生み出す地球環境問題」では、「生物生産力が人類のエコロジカル・フットプリントを上回っていたのは1980年代中頃までで、それ以降、地球への負荷は地球の生物生産力を超え、その差はますます拡大している」と述べています。
 第5章「近代テクノロジーを支える資源・エネルギーは有限だ」では、「地球温暖化、エネルギーの枯渇、資源の枯渇のどれをとっても、どうやら私たちは2030年頃までに、人類存続の興亡をかけた大きな判断をしなければならないことになる」として、「これから、世界を救う夢のような新技術が突然出現するなどとは期待せず(2100年を目指した研究開発は大いに進めるべきだと思う)、いかにこの2030年を乗り切るかをあらゆる切り口から考えねばならない時である」と述べています。
 第6章「一歩先ゆく粋なテクノロジー」では、「今私たちはテクノロジーを否定するのではなく、この環境制約を満足できる新しいテクノロジーの創出が望まれている」としたうえで、
・自然
・コミュニケーション
・愛着
・簡明
の4つの要素を持つテクノロジーが、「これから求められる『粋』なテクノロジーの要素であり、これこそがネイチャー・テクノロジーなのである」と述べています。
 本書は、自然とテクノロジーの幸せな結合を夢見た一冊です。


■ 個人的な視点から

 自然が持つ驚異のテクノロジーを応用する、という部分では非常に分かりやすく、説得力があったのですが、本書のほとんどを占める、そこら辺の環境団体が作ったチラシに書いてありそうな「文明論」の部分は、工学の大学教授が書いた文章としてではなく、環境保護団体のプロパガンダのビラだと思って読んだ方がよいような印象を受けました。


■ どんな人にオススメ?

・自然の技術に学びたい人。

2010年3月 6日 (土)

音楽好きな脳―人はなぜ音楽に夢中になるのか

■ 書籍情報

音楽好きな脳―人はなぜ音楽に夢中になるのか   【音楽好きな脳―人はなぜ音楽に夢中になるのか】(#1871)

  ダニエル・J. レヴィティン (著), 西田 美緒子 (翻訳)
  価格: ¥2940 (税込)
  白揚社(2010/03)

 本書は、「心理学と神経学の交わったところにある認知神経科学の視点から、音楽の科学について」書かれたものです。
 著者は、音楽制作の現場にあって、芽の出ないミュージシャンもいれば人気ミュージシャンもいること、作曲できない人もいればいとも簡単に曲を作る人がいること、心を動かされる歌とそうでない歌があること、音を聞き分ける「知覚」の役割は何か、「ほとんどの人には聞こえないニュアンスが聞こえる、有能なミュージシャンやエンジニアたちの並外れた能力は、いったいどうなっているのだろうか?」という疑問から、研究の道に入ったと語っています。
 第1章「音楽とは何か」では、「この本では、音楽が人の脳、心、思考、気分にどんな影響を与えるかを、神経心理学的な観点から探っていく」として、「音楽の基本的な構成要素」である、「大きさ、ピッチ(音の高低〉、音調曲線、長さ〈またはリズム〉、テンポ、音質、空間的位置、反響」などを挙げ、「人の脳は、知覚として受け取るこれらの基本的な特性を、もっと高いレベルの概念に――画家が線を上手く配置して形にしていくように――組織化していき、拍子、ハーモニー、メロディを作り上げる。音楽を聴くときには、実際にはいくつもの特性を、言い換えれば『次元』を、同時に感知している」と述べています。
 そして、「ピッチは、音楽によって感情を伝える基本的な手段として使える。憂鬱、興奮、冷静、恋愛、危機などの感情は、色々な要素で伝えることができるが、中でもピッチは最大級の決め手となる」としたうえで、「内耳の基底幕には振動数に対応する有毛細胞があって、それぞれが一定の範囲の振動数にだけ反応する」として、「聴覚皮質にも周波数対応地図があり、低い音から高い音にまで対応する神経細胞が皮質の表面に広がっている」と述べています。
 また、「おおむね文化的な理由から、私たちは長音階を嬉しい気持ちや勝利感と結びつけ、短音階を悲しい気持ちや敗北感と結びつける傾向がある」として、「作曲家はこうした結びつきを知っているので、意図的に利用する。私たちの脳も、生まれたときから音楽の形式、パターン、音階、歌詞、さらにそれらの間の関連性を耳にしながら暮らすことによって、それを身につけている。初めて聞く音楽パターンが耳から入ってくるごとに、脳はパターンに付随している視覚や聴覚などの感覚的ヒントを利用して、関連付けを試みる。私たちは新しいサウンドを適当な文脈に当てはめようとし、最終的には特定の音符の集まりと、特定の場所や時間や出来事の集まりとの間に記憶のリンクを作り上げる」と述べています。
 第2章」足で拍子をとる」では、「音楽を演奏するには調和のとれたリズミカルな体の使い方が必要になることと、体の動きから楽器にエネルギーが伝わっていくことは、単なる偶然の一致ではない。神経のレベルで見ると、楽器を演奏するには原始的な爬虫類脳〈小脳と脳幹〉の部分だけでなく、運動皮質(頭庁葉の中)や、脳の中で最も発達した前頭葉の計画に関与する領域というさらに高度な認知システムでも、組織化が必要になる」と述べています。
 そして、ミュージシャンでない人でも記憶だけで「本来のテンポの4%以内の誤差で歌うことができた」という「目を見張るようなこの正確さの神経的な基礎」は、「おそらく小脳にある」として、「小脳は毎日の暮らしのタイムキーパーをしているシステムを持ち、聞こえてくる音楽に同期すると考えられている。何らかの方法で、耳から入ってくる音楽への同期に使う『設定』を覚えておくことができ、記憶だけで歌を歌うときにはその設定を思いだせるということだ」と述べています。
 また、コロンビア大学の音楽理論家フレッド・ラーダールと、ブランダイス大学の言語学者レイ・ジャッケンドフが、「作曲に適用される規則を説明するという問題に取り組み、それには音楽の群化原理も含まれていた」として、「音も群化する。つまり、一部は互いにまとまり、一部は互いに離れる」として、「聴覚の群化の一例としてひとつの楽器から生まれたさまざまに異なる響きが、ひとつの楽器の知覚に結びつくというものがある」と述べ、「人の聴覚系は、音の群化に倍音列を利用している。私たちの脳は周囲の世界と共進化してきた。何万年という進化の歴史にわたって人間が世界で出会ってきた音の多くには、共通した音響的特徴があり、今では解明できている倍音列もその一つだ」としています。
 さらに、「これまで説明してきた音のさまざまな属性に対応する神経生物学的サブシステムは、早い時期に、脳の低いレベルで分離することが分かっている」として、「私たちは、何かに注目するのは脳のどの部分が働くせいかまで解明できたと考えている」と述べています。
 第3章「幕の向こうで」では、一世紀以上にわたる神経心理学の調査から、「脳の各部位の機能を示す地図を作れようになり、個々の認知活動にかかわっている場所を突き止められるようになってきた」としたうえで、「音楽的な活動には、既に知られている脳のほとんどの領域、ほとんどの神経サブシステムが総動員される。音楽の異なる側面には、異なる神経領域が対応する――脳は機能分離の方法を用いて音楽を処理し、音楽信号のピッチ、テンポ、音質など個々の側面を専門に分析する特徴検知システムを採用しているのだ」と述べています。
 そして、「聞こえてくる聴覚対象を識別しようとする脳は、3つの問題に直面する」として、
(1)耳に届く情報はごちゃ混ぜの状態だ
(2)情報は曖昧だ
(3)情報はほとんどの場合、不完全だ
の3点を挙げ、「音楽は一種の錯覚で、私たちの脳が、一連の音に構成と順序を当てはめていると考えることができる。ただ、こうした構成がどのようにしてい感情的な反応を引き起こすかが、音楽の謎の一つといえる」と述べています。
 第4章「先を読む」では、「西洋のクラシック音楽でこれまでにもっともよく使われてきた錯覚、あるいは隠し芸とでもいうべきものは、おそらく偽終止だろう」としたうえで、「脳の音楽系は、言語系からは機能的に独立しているようだ。それは脳の損傷によってどちらか一方だけの機能を失った患者の、たくさんの症例から実証されている」と述べています。
 第5章「名前を知っているなら電話番号は自分で調べて」では、「曲の認識という作業のために、音楽の処理に必要となる神経系は格段に複雑化する」とした上で、「ここ100年の間に記憶理論化の間で巻き起こっていた大きな議論は、人や動物の記憶は相対的か絶対的かという点についてだった」と述べ、「一般に知られている理論では、人が絶対的なピッチ情報を記憶するという根拠はないと見られており、曲を移調しても同じ曲だと簡単にわかるという事実がそれを裏付けている」と述べる一方で、「総合的に考えると、ポピュラーソングの記憶に関する実験結果は、音楽の絶対的な特徴が記憶に刻まれているという強力な証拠になる」としています。
 第6章「デザートが済んでも、クリックはまだ四つ先の席にいた」では、ミュージシャンの意見がおおよそ一致している点として、「メトロノームのように厳密なリズムをとらないとき、グルーヴがもっとも冴えるという点」を挙げ、「印象的な――グルーヴのある――音楽は、タイミングをわずかに外している。巣の屋根を叩く木の枝のリズムが変化すると、ネズミが感情的に反応するように、私たちもグルーヴのある音楽ではタイミングのズレに感情的に反応する」と述べています。
 そして、「音楽を聴くと、脳のいくつもの領域が一定の順序で次々に活性化する。まず、音の構成要素を最初に処理する聴覚皮質。次にBA44やBA47などの前頭部。ここは前から、音楽の構造と期待を処理するのに関与することがわかっていた。そして最後に、覚醒、快楽、オピオイドの伝達とドーパミンの生成に関わるいくつもの領域からなるネットワーク――中脳辺縁系――が続き、側坐核の活性化で終わる。その間、小脳と大脳基底核はずっと活動を続けている。おそらくリズムと拍子の処理を支えているのだろう。その後、音楽を聞くことによる報酬と補強の側面に関わるのは、側坐核内でのドーパミン・レベルの上昇と、前頭葉と辺縁系につながって感情を制御する小脳の働きだ」と述べています。
 第7章「何が音楽家を育てるか?」では、「ワールドクラスのエキスパートと言える専門技術のレベルに達するには――どんな分野であっても――1万時間の練習が必要だ」と述べています。
 そして、音楽のエキスパートが、「音楽の構造に関する知識を土台」にして曲を覚えるため、「熟練した音楽家は、『ルールに従った正しい』コード、または経験してきたハーモニーの体型で筋が通ったコード列は上手く記憶できるが、ランダムに並んだコードを覚えるとなると、素人と変りない」と述べ、音楽家は、「情報の細かい単位をグループにまとめ、一個ずつではなくグループ全体として記憶しようとするプロセス」である「チャンキング」という方法を用いていると述べています。
 第8章「私のお気に入り」では、赤ちゃんが「完全4度や完全5度などの協和音を、三全音のような不協和音よりうまくコード化できる」ことから、「生後9ヶ月の赤ちゃんにはまだ長音階のスキーマが心に組み込まれていないと考えられる」として、「人間の脳と、人間が使っている音階とは、共進化してきたと言える。長音階の音符が均整の取れていないおかしなハイチに鳴っているのは、偶然ではない。この配置の方がメロディーを覚えるのが簡単で、それは音の発生に関する物理的な現象から導かれた」結論だったのだと述べています。
 第9章「音楽本能」では、「音楽は性淘汰で役に立つだろうか?」という問題について、「ダーウィンは、音楽は求愛の手段として言葉より先に生まれていたと確信し、音楽は孔雀の尾羽根と同等のものだとみなした。ダーウィンは性淘汰の理論によって、本人(とその遺伝子)を魅力的に見せるだけで、生き残りの目的には直接役立たない特徴が現れることを肯定したのだ」と述べています。
 そして、「具体的な考えを活動に映すための道具としては、音楽より言語のほうが役に立つ。しかし気持ちや感情を高める道具としては、音楽は言語より優れている。この二つの組み合わせなら――その最適な例に挙げられるラブソングなら――誰にとっても最強の求愛行動になる」と述べています。
 本書は、音楽を切り口に、脳の機能に迫った一冊です。


■ 個人的な視点から

 脳の本も音楽の本も好きなのですが、両方一緒の本はもちろん読んで面白いです。こういう分野では『歌うネアンデルタール』も面白いのですが、本書の著者は、「認知心理学者・神経科学者であると同時にレコード・プロデューサーとしてのキャリアをもつ異色の存在」ということで、より音楽の話としても伝わりやすい物になっていると思います。


■ どんな人にオススメ?

・「音」はどうやって「音楽」になるのかを知りたい人。

2010年3月 5日 (金)

「戦争」の心理学 人間における戦闘のメカニズム

■ 書籍情報

「戦争」の心理学 人間における戦闘のメカニズム   【「戦争」の心理学 人間における戦闘のメカニズム】(#1870)

  デーヴ・グロスマン, ローレン・W・クリステンセン (著), 安原 和見 (翻訳)
  価格: ¥2,520 (税込)
  二見書房(2008/3/1)

 本書は、「戦闘の心理と生理について学問的に研究」したものです。
 第1章「戦闘――普遍的な人間恐怖症」では、「恐怖症とは、特定の対象または事象に対する、非合理でコントロール不能な激しい恐怖のことをいう」として、「その最大のものである人間恐怖症」を取り上げ、「警察官や兵士は、普遍的人間恐怖症の世界へ迫る――つまり、かれらを傷つけよう、殺そうとしている人間のいる世界へ、それと知りつつ赴くわけだから、その世界を理解し、戦闘を理解することが絶対に必要だ」と述べています。
 第2章「戦闘の過酷な現実――海外戦争復員兵協会では聞けないこと」では、「多大なストレスのかかる生きるか死ぬかの状況に直面したとき、下腹部に"荷物"が入っていれば、それは放り出される」が、「この事実は、信じられないほど完璧に隠蔽されている」として、「そろそろ戯言の山を切り開き、戦闘中に実際には何が起きるか学んでいい頃だ。何も知らせず心構えもさせないまま、有害な領域に戦士たちを送り込むようなことを、次の世代にまで持ち越してはならない」と述べています。
 第3章「交感神経系と副交感神経系――身体の戦闘部隊と整備部隊」では、「もっとも危険な瞬間は勝利の直後だ」としたナポレオンの言葉を紹介し、「緊張が解けた途端に、容赦なく交感神経の揺り戻しが襲ってくる」と述べています。
 また、「病院の医師や軍の指揮官など、人命を左右する決断を実際に下す立場になったら、睡眠不足に陥らないよう最大限の努力を払うべきだ」として、「あなたが警察署長か戦闘部隊の指揮官だったとする。そして例によって人手不足に悩んでいるとしよう。そこへ某アカデミーの人間が現れて、うちの人材を雇わないかと言ってくる。ただし、その人材のIQは一般の警官または兵士より5から10ポイント低く、反射神経は鈍く、とんでもなく不機嫌で、意思決定能力はゼロに等しく、しょっちゅう居眠りをしている。しかも、通常の5割増し(超過勤務手当に相当する)の給料を支払って欲しいというのである。さて、あなたはこの人材を採用するだろうか。答えがイエスだったら私は首をくくってもいい」と述べ、「この某アカデミー出身者の欠点は、睡眠不足で過剰な超過勤務をこなしている現実の戦士たちにそのまま当てはまるのだ」としています。
 第4章「恐怖と生理的覚醒と能力――白、黄、赤、灰、黒の状態」では、
・白の状態:眠っている時や、ぼんやり過ごしている時の、即応体制の最低レベルにある、無気力で、無防備、いわば目をつぶっている状態
・黄の状態:基本的な計画・即応状態、戦闘の心構えができている状態
・赤の状態:心拍数が毎分115から145の状態。複雑な運動能力、瞬間視能力、認知反応速度がピークに達する一方、微細運動能力は低下し始める。
・灰色の状態:心拍数は毎分145~175回。平均的な警察官はストレスで心拍数が毎分145回まで上昇すると、明らかに作業能力の低下が見られるが、必要な技術をなんども練習していると、"赤の状態"の範囲を押し広げ、心拍数が増加していても驚くべき作業能力を発揮することができる。
・黒の状態:運動ではなく恐怖によって心拍数が毎分175を超えた状態。認知機能が低下し、前脳は昨日を停止し、中脳の内なる「子犬」が出てきて前脳を「ハイジャック」する。
の5つの状態について解説しています。
 そして、「心拍数が高まると、微細運動の制御と近視野が失われる。落ち着いているときは簡単に思えることでも、ふだんから練習しておかなくてはならないのはこのためだ」と述べています。
 第5章「目と耳――選択的聴覚抑制、音の強化、トンネル視野」では、「脳は、目標に無関係と判断したデータを意識からはじいている。そしてその目標とは生き残ることだ」として、昔から、「当たったときは聞こえない」と言われている現象について、「すぐそばで爆発があって、身体が吹っ飛ぶほどの衝撃を受けたのに、その爆発音は聞こえなかったし、後で耳鳴りがすることもなかった」と述べています。
 第6章「自動操縦――『正直な話、自分が何をしているか気づいてなかった』」では、「致命的武力対決に巻き込まれた警官の74%は、自動操縦で行動していたと答えている」とした上で、「不適切な行動が染み付いてしまった」例として、「敵の武器を取り上げる訓練」をしていた警察官が、不審人物からピストルを奪い取った直後に、「それまで何百回と訓練してきたとおり、彼はその奪い取ったピストルを相手に差し出していた」と述べています。
 そして、「人に人を殺させるのは難しい」として、S・L・A・マーシャルが、第二次世界大戦末期に、「銃手の15%しか発砲しない」というデータを示し、「リアルな標的を使えば発砲率は上がる」と主張したことを紹介し、「支給された武器を戦士たちに使いこなして欲しいと思うなら、彼らが実際に直面する自体を再現する、リアルなシミュレーターで練習させなくてはならない」と述べています。
 また、暴力的なテレビゲームで遊んでいる子供の特徴として、
・この世は敵対的な場所だと考えやすい。
・教師に反抗する傾向が強い。
・けんかになると暴力をふるいやすい。
・学校の成績が良くない。
の4点を挙げた上で、「何百万という子供達が毎日のように暴力的なコンピュータゲームで訓練を受けているが、ゲームで身に付けた技術と条件反射を実際に使って、前例のない大量殺人を引き起こす少年はほんの数人だ。しかしこれだけでも、いまとんでもなく愚かなことがおこなわれえちるのはわかるはずだ」と述べています。
 第7章「さまざまな影響――鮮明な視覚、時間延長、一時的麻痺、解離、思考の割り込み」では、「銃撃戦のさなかには、ものが異常に鮮明に見える驚異の瞬間が出し抜けに訪れることが多い。目から最大限の情報を引き出すためだけに、全身のあらゆる資源がつぎ込まれるのだ」と述べた上で、さらに、「動きがスローモーションで見えるのは、まちがいなく生き残るためのメカニズムだろう」として、「銃撃戦に巻き込まれた警察官の65パーセントが経験している」と述べています。
 また、「危険きわまる状況に直面すると、奇妙な解離感が生じる。夢を見ているような気がしたり、自分自身を外側から眺めているような気がしたりする』と述べています。
 第8章「記憶の欠落、記憶の歪み、ビデオ録画の影響――実際にあったと思い込む」では、「致命的武力対決に関わった法執行官の半数近くが、『コマ飛び』を経験している」として、「記憶のかなりの部分がすぽんと抜け落ちる」と述べた上で、「課題なストレスにさらされると、もっとも恐れている事態」を想像しがちであり、「心の目でありありと見てしまうため、現実に起きたことと完全に思い込んでしまいう。実際に起きたこと、起きたと想像したことが記憶の中で合成され、ある戦闘経験者のいう『パラレルワールド』効果を生み出す」と述べています。
 第10勝「殺人機械――数少ない真の戦士がもたらす影響」では、「数えきれないほどのハリウッド『体験』のおかげで、いざ戦闘となったら兵士はたいてい銃をとって的を殺すものだと、私たちはすっかり信じ込んでいる」が、「それは大きな間違いである」として、「現実には、真の意味で戦闘に参加し、全身全霊で戦っているのはごく一握りに過ぎない」と述べています。
 本書は、「戦争」に直面するという極限状態の人間に心理について、当事者自身が解説した類の無い一冊です。


■ 個人的な視点から

 同じ著者による、『戦争における「人殺し」の心理学』も素晴らしい一冊でしたが、あちらは戦場における兵士が主となっていたのでかなり暗い気持ちに沈んでしまいました。それに対して、こちらは警察官が主な事例として紹介されていますので、勇気づけられる部分が多いです。


■ どんな人にオススメ?

・戦う人間の心理と生理を知りたい人。

2010年3月 4日 (木)

ブレイクスルーの科学者たち

■ 書籍情報

ブレイクスルーの科学者たち   【ブレイクスルーの科学者たち】(#1869)

  竹内 薫
  価格: ¥756 (税込)
  PHP研究所(2010/3/16)

 本書は、「トップレベルの科学者にインタビューして、『ブレイクスルーの法則』を知りたい」という動機で11人の科学者を取り上げたものです。
 第1章「ブレイクスルーは突然やってくる――『iPS細胞』研究最前線」では、「なぜiPS細胞は必要になったのか」について、「同じように『万能細胞』と形容されながら、世界中で反対運動がおきているES細胞に原因がある」として、受精卵からつくるES細胞には、「倫理的な問題」と、「患者本人の細胞ではないために起きる拒絶反応という問題」があり、「iPS細胞は、患者本人の皮膚からもつくることができる。まさに一挙両得の細胞なのだ」と述べています。
 そして、「ESs細胞ではマウスからヒトにいくまでに17年もかかったのに、iPS細胞では1年」しかかからなかった理由として、山中伸弥らが、「何万という因子の中から、たった4つ(いまでは3つ)の因子を取り出すことに成功したから」だと述べ、山中のブレイクスルーの法則は、「異分野をつなぐ力」だとして、コンピュータプログラミングに明るかったことで、「計算によって数万もの因子をたった4つに絞ろう」と考えることができたとしています。
 第3章「粘菌にも知性がある」では、「『粘菌』を『数学』を使って研究するという、異色のサイエンティスト、中垣俊之」を取り上げ、「中垣は、生物学と数学の境界領域で、世界のトップレベルの研究成果を発表し続けている」が、その研究は、「一部の生物学者からは敬遠されている」ことについて、「これだけ世界的に評価されている学者が、生物学者の多くが苦手とする『数学』の手法を使えるがために、日本国内で冷ややかな視線を浴びせられている現状には大きな憤りを禁じ得ない」と述べています。
 本書は、科学の世界からブレイクスルーの法則を学ぶことができる一冊です。


■ 個人的な視点から

 本書に取り上げられている科学者の記事自体は面白いのですが、本書自体が元々雑誌の連載だったということもあるのか、人もそうなのですが、内容的にも当たり外れが相当あるような印象を受けました。面白い記事はとても良かったのですが、雑誌の提灯記事っぽい展開の章もあってその点は残念です。


■ どんな人にオススメ?

・ブレイクスルーしたい人。

2010年3月 3日 (水)

数学最前線をになう挑戦者たち―難問の解決、ゲーム理論の展開

■ 書籍情報

数学最前線をになう挑戦者たち―難問の解決、ゲーム理論の展開   【数学最前線をになう挑戦者たち―難問の解決、ゲーム理論の展開】(#1868)

  マイケル・J. ブラッドリー (著), 松浦 俊輔 (翻訳)
  価格: ¥1,995 (税込)
  青土社(2009/05)

 本書は、20世紀後半の10人の数学者を取り上げ、「数学界がますます多様になり、またアメリカが数学研究の先頭に立つ中心地として台頭する時代の、国際的な数学の世界の断面を見せる」としているものです。
 第1章「ジュリアン・ロビンソン」では、彼女が、「経歴のホトンドを大学の常勤職なしで過ごしながら、数理論理学と数論で重要な発見をした。環や体での決定問題について証明された定理は、数理論理学に新たな聖歌をもたらした」とした上で、生前、「女性で始めて何々賞をもらったとか、何とかかんとかの職に選ばれた最初の女性とかのことより、私が問いた問題や証明した定理を覚えておいて欲しい」と求めたと述べています。
 第2章「J・アーネスト・ウィルキンス・ジュニア」では、ウィルキンスが、「傑出した経歴の全体にわたって、3つの分野――科学、工学、数学――での成果に対して、いろいろな栄誉や表彰を受け」、「数学者、科学者、工学者として、大学、政府、民間企業に努めて60年間仕事をする間に、百本以上の技術報告書や研究論文を、科学、工学、数学の専門誌に出した」と述べています。
 第3章「ジョン・ナッシュ」では、ナッシュが、「1948年から51年までの3年間には、博士論文を含めた4本の論文を書き、ゲーム理論という競争と協調を研究する数学の部門を変えた」として、「戦略の均衡というアイデアは、今ではナッシュ均衡と呼ばれ、ゲーム理論でもっとも広く使われる解法の考え方となっている」と述べ、「最初のゲーム理論の論文で発表された成果は、ナッシュの博士論文『非協調ゲーム』の中心的なアイデアとなった」としています。
 そして、「ナッシュのゲーム理論に関する博士論文と4本の公刊論文は、数学、経済学、政治学、生物学の展開に影響を及ぼした。ナッシュの考えは、ゲーム理論の研究者に、強調のゲーム理論と非協調のゲーム理論を別個に、しかも非協調モデルの統一的な傘の下で展開することを促した」とのべています。
 一方で、「1950年代の末から80年代まで、ナッシュの生活と有望な研究者人生は、ときおり数学的洞察を得る時期があったものの、長い精神病との闘いに陥った」として、1970年代と80年代、ナッシュは、「夜間、プリンストン大学のファイン・ホールと呼ばれる数学科棟を歩きまわり、黒板に暗号文を書きつける孤独な人物」を意味する「ファイン・ホールの幽霊」と呼ばれるようになったと述べています。
 第4章「ジョン・H・コンウェイ」では、コンウェイがライフゲームを生み出したことで、「広い範囲の人々がセル・オートマトンの数学的分析を知るようになった」と述べた上で、「コンウェイのゲームの数学的分析に対する関心は、超現実数と呼ばれる新たな部類の数を考えることにつながった」と述べています。
 第5章「スティーヴン・ホーキング」では、ホーキングが、「ビッグバン理論が一般相対性理論の原理と矛盾しないことを示すためのトポロジーや幾何学の道具の開発に貢献した」とした上で、1963年に筋萎縮性側索硬化症(ルー・ゲーリック病)と診断された後も、研究を続け、「1980年代半ばから現在まで、ホーキングは相当の時間をかけて、数学や科学の学説を専門家でない人々にもわかりやすくする本を書いている」と述べています。
 第7章「ファン・チュン」では、チュンが、「数学者として、企業や大学で、グラフと通信ネットワークの数理的分析に貢献した」として、チュンが、「グラフ理論と組合せ数学の手法を使って、電子通信ネットワークに出てくる一定の問題を調べ、解決した」と述べています。
 第8章「アンドリュー・ワイルズ」では、ワイルズが、「7年間1人で研究し、フェルマーの最終定理を、それと関係するモジュラー楕円曲線についての予想を解決することによって証明した」として、その成果の意義には、「3世紀以上も未解決だった一つの定理を証明できただけのことにとどまらない広がりがあった。その証明は、1960年代にカナダの数学者ロバート・ラングランズが始めた、一見すると関連のなさそうな数学の部門の間に、それを一つにまとめるつながりを確立しようというラングランズ・プログラムを一分実現したことになった」と述べています。
 本書は、20世紀後半以降の現代の数学を確立した数学者達を紹介してくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 完全に著者買いというか訳者買いです。この人が数学者の本を青土社から出すというのであれば読まないはずはないという感じでしょうか。


■ どんな人にオススメ?

・現代の数学者(一番若いのは1982年生まれ)を知りたい人。

2010年3月 2日 (火)

キャリアに揺れる―迷えるあなたに贈るブックガイド30

■ 書籍情報

キャリアに揺れる―迷えるあなたに贈るブックガイド30   【キャリアに揺れる―迷えるあなたに贈るブックガイド30】(#1867)

  上西 充子, 柳川 幸彦
  価格: ¥1575 (税込)
  ナカニシヤ出版(2006/06)

 本書は、「ちょっとでも歩いたことのある道」や「もしかしたら歩くかも知れない道」を「全部ひっくるめて『キャリア』と呼んでみると、これからの歩き方はがらっと変わってくるはず」だとして、「そういう予期せぬあれこれに触れる『きっかけ』となる本の、『紹介文』を集めたもの」です。
 第1章「学ぶ」では、橋本治『「わからない」という方法」について、「最初から方角がわかれば、あるいは最初から地図があれば、誰も苦労はしない」として、「『わからない』」という不快を簡単に排除してしまわず、『わからない』を身体に宿してサナギの状態に耐えることのあとに、はじめて『わかる』という羽化の瞬間は訪れる」と述べています。
 第2章「揺れる」では、香山リカ『就職がこわい』について、「就職活動真っ只中の若者が抱える『就職不安』や『就職離れ』の問題は、『サラリーマンになると自由がなくなるから』『仕事だけで人生終わりたくない』といった単なる『就職嫌い』ですまされるものではなく、彼らが抱えているのは、あまりに大きくなった『自分自身への不安』と『他人への恐怖』であるのかも」知れないと述べています。
 第3章「働く」では、小関智弘『仕事が人をつくる』について、仮に仕事が「選んだ」モノでなかったとしても、「仕事が人をつくり、人を育てる」「人は働きながら、その人となってゆく」と述べています。
 第4章「背負う」では、杉山春『ネグレクト 育児放棄 真奈ちゃんはなぜ死んだか』について、2000年12月10日に起きた事件についてのノンフィクションだとして、餓死した児童の両親がともに、「それまでの成長歴の中で、自分の感情を親に受け止めてもらえずに育ってきている」として、「自分ひとりなら、状況をやり過ごして生きていくこともできたのだろう。けれど、子供という、関わってやらなければならない存在が生まれたことによって」、両親の限界が「あらわになっていく」と述べています。
 また、金子雅臣『ホームレスになった 大都会を漂う』について、「夫婦や家族のもつ、本来の機能。それはきっと、『だまって受け入れてくれる』ことなのではないでしょうか」と述べています。
 本書は、広い意味でのキャリアという自分の将来を考えるきっかけとなる一冊です。


■ 個人的な視点から

 日本では、「書評」という何だか大上段に構えた言葉がよく使われていて、ハードルが高いイメージが有るのですが、本当は多くの人に喜ばれるのは、どういう本を読んだらいいか、ということを伝える、本書のような「紹介」文なのかも知れません。


■ どんな人にオススメ?

・キャリアに揺れている人。

2010年3月 1日 (月)

作詞本~言葉が歌になる

■ 書籍情報

作詞本~言葉が歌になる~   【作詞本~言葉が歌になる~】(#1866)

  遠藤 幸三
  価格: ¥1785 (税込)
  シンコーミュージック(2005/6/7)

 本書は、多くの教え子たちを世に送り出した作詞家自らが、作詞のノウハウを提供しているものです。
 第1章「街は歌の言葉であふれている すぐそばにある言葉が名曲をつくる」では、「人は歌を聞いたとき、そこに自分と共通する部分、あるいは自分が共感する部分を見つけることによって、その歌を自分の世界の歌として認めることができる。したがって、その共通する部分、共感する人が多ければ多いほど、その歌は多くの人に受け入れられる歌となり、つまりは大衆的広がりを見せるポピュラーミュージックになることができる」とした上で、「平凡さこそがポピュラーミュージック祈いては大衆の共感を得るための最大の武器」であり、「その平凡さの中で自分ならこうする、といった部分を照れずに出していく、それが個性、オリジナリティ」だと述べています。
 また、歌は、「人が聴きたくなる言葉、人が聴きやすい言葉を使って作品を書いていくことが大切」だとして、
(1)人に伝わる言葉で書く(話し言葉で書く、瞬間的に分かる言葉で書く)
(2)1番だけ聴いても分かるような書き方をする
の2点を挙げています。
 第2章「作曲家と作詞家」では、「詞先の場合は形式はABCまで、作曲家には3つ以上のメロディーを書かせない」ことを目標に歌詞をまとめるべきだとした上で、歌詞の「ワン・ブロックのサイズは2の倍数行で書かれているものが一般的には曲がつけやすいサイズである」と述べています。
 また、基本的な曲先作詞の手順として、
(1)デモ・テープをよく聴き、曲のイメージを掴む
(2)全体の構成をつかみながら、メロディーの切れる箇所などを確認する。
(3)デモを聴きながら自然と湧いてきたイメージや言葉をチェックする
(4)メロディーを完璧に覚え歌えるようにする
(5)メロディーに合った詞を書いていく
(6)イントネーションやアクセントのチェック
(7)歌詞をしっかり書く
の7点を挙げています。
 第3章「ボーカリストと作詞家」では、本能的に「聴衆を敵に回すよりも、自分の味方に付けたいと願うのがばーかリストに限らず人間としての性」だとして、「聴衆の生き方や考え方を否定するよりも、肯定してあげるといった内容のもの」がボーカリストに好まれると述べています。
 そして、ボーカリストが嫌いな音として、
(1)同音の連続
(2)「ま」行の拗音
(3)同じ言葉の多用
の3点を挙げています。
 第4章「リスナーと作詞家と時代」では、「聞き手が求めているものをまずはリサーチし、それにフィットする歌を提供していくという歌作りの方法もある」とした上で、「他人を気持ちよくさせない人物のパターン」として、
(1)嫌がられるおじさん
・言いたいことがわかったあとも、その話を続ける人
・何度も同じ話をする人
・結論までの話が長い人
・自分のことばかり話す人
(2)嫌われる女
・「なぜ」そうなのかの分からない人
・他人の中傷ばかりする人
・自分の要求ばかりを通そうとする人
などの例を挙げています。
 第5章「ジャンルと作詞家」では、Jポップの基本的な2番への展開パターンとして、
・1番と同じテーマで2番を書く
・1番から少しだけ時間を進ませたところで2番を書く
・思い出すままに思い出の断片を書いていく
の3つのパターンを紹介しています。
 本書は、作詞をするひとに気付きを与えてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 とは言え、作詞をする人、というのは少ないと思いますが、ちょっとした文章を書く上でもヒントになりそうです。


■ どんな人にオススメ?

・作詞をしてみたい人。

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