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2010年4月

2010年4月30日 (金)

近代の労働観

■ 書籍情報

近代の労働観   【近代の労働観】(#1926)

  今村 仁司
  価格: ¥672 (税込)
  岩波書店(1998/10)

 本書は、「本当に労働は人間の本質なのであろうか」という疑問から出発し、「労働が必要な活動であるからと言って、労働が人間になくてはならない本質的な活動であるとは言えない」という観点から近代の労働観を検討したものです。
 第1章「アルカイックな労働経験」では、「歴史的に見て、近代の労働経験は特殊な意味をもっている。それは近代とは異なる労働経験を解体して登場してくる。文明の歴史の中でひとつの断絶線が走ったとすら言えるほどに、近代の労働文明と近代以前の文明の間には深い溝がある」と述べています。
 そして、「近代以前の文明の価値基準は余暇に置かれていたという意味で、近代以前の文明は余暇の文明、自由時間の文明であった」と述べています。
 第2章「初期近代の宗教倫理と労働」では、「貧乏であること、あるいは貧民であることは、罪であった。ひとによっては貧乏を道徳的罪とみなすこともあったが、たとえそうではないにしても、国歌の行政的観点から見ればひとつの犯罪の可能性であった。だから浮浪者や古事記という形を取る貧民は、特定の場所に収容されなくてはならない。この空間は、道徳的罪と犯罪の可能性を防止するための空間、つまり収容所になる。それは当時は『矯正院』あるいは『労働の家』と呼ばれた」と述べています。
 そして、「施療院、矯正院といった救貧制度は、要するに、怠惰な人間の屑だと避難される民衆を収容所に監禁することである」として、「その教育の目標は、統治者の観点では、人間を無為と怠惰から『解放する』ことであったが、我々の観点では、興隆しつつある市民経済に照応する労働身体の形成であった」と述べています。
 また、「ブルジョワ階層における救済倫理と一体となった現世内禁欲と職業労働の成立、他方で国家と教会による教育手段としての強制労働と禁欲モラルの民衆への押し付け、この両者は、別個の歴史的展開をするが、ついに19世紀以降では、産業資本主義的生産過程において合体する」と述べています。
 第3章「現代の労働経験」では、1920年代のドイツ労働者たちの労働経験の調査を行ったヘンドリク(アンリ)・ドマンの著書『労働の喜び』について、「ドマンは人間労働の本質について初めからひとつの判断をもっている。『労働の喜びへの欲求は、最初から、正常な人間の自然な状態である』と彼は言っている」ことについて、「彼の調査報告を私なりに開削して、この報告から違った結論を引き出してみたい」としています。
 そして、ドマンの立場について、「労働の喜びは労働に内在するものであり、それは人間の本能である。しかし労働を取り巻く外的条件が労働の喜びの自然な発露を阻止するから、喜びは苦痛に変化するのである。したがって、外的な阻止条件を改善するなら、労働者は労働本来の本能的で内在的な喜びに浸ることができるに違いない」と要約した上で、ドマンが列挙する、活動、遊戯、構築、好奇心、所有の本能という5つの要素は、「少なくとも労働特有の経験ではない」として、労働に特有の要素は、「自己評価本能」と「逃走の本能」に絞られてくるとした上で、「ドマンの定義を換骨奪胎すると、労働の喜びなるものは、他者の視線あるいは他者の評価によって媒介されて初めて生じるものであると定義しなおすことができる」と指摘しています。
 著者は、「古代であれ現代であれ、労働は基本的には、自由な行為ではなくて、隷属的な行為である。労働の隷属性を、労働するものは、自覚するしないにかかわらず心の奥で感じている。それをなだめるのが種々のモラルであるし、特に他人による評価の媒介である。したがって労働の喜びは、内発的ではなく外発的である」と述べています。
 第4章「労働と対他欲望」では、「商人欲望は、他人の評価を求める熱狂的な欲望である」とした上で、「他人」を、
(1)下位の他人からの承認
(2)同当者としての他人による承認または労働ポトラッチ
(3)上位からの承認
の「3つのタイプの他人がいる」と指摘し
 そして、「労働がついに全面的に承認欲望だけで動く時代が到来した」として、「結果を含めての労働全体が実在性を喪失した」ため、「昔も承認欲求はあった」が、「その欲望の作用の強度が今とは違う」ことを指摘しています。
 第5章「労働文明の転換」では、「アルカイックな社会では、生産力主義などは全くないので、自ずから『1日3時間』の原則が維持されることができた」が、「近現代社会では生産力主義と精神の生産主義のゆえに、無為は怠惰とされ、勤勉だけが道徳的とされ、生活が労働生活に吸収されていく」と述べています。
 そして、「これまで、伝統的な『労働の喜び』論を批判的に検討して、労働に内在する喜びは近代の人間市議的労働観の思い込みでしかないことを明らかにした。実際の労働経験は、労働を手掛かりにするにしても、他人の評価をあくまで求める承認欲望によってすみずみまで浸透されていることが分かってきた」と述べ、「現実の労働は労苦である。労働条件の改善は常に必要である」が、「人間が身体を所有する限り、必然と必要の労働、つまり隷属的労苦としての労働はなくならない。人間にできることは、隷属的労苦であり続ける時間を最小限にすることだけである」と述べています。
 本書は、当然のものと考えられがちな「労働の喜び」に疑問を呈した一冊です。


■ 個人的な視点から

 まともに読めば読むほど、真面目に仕事をするのは実は馬鹿らしいことなんだ、と言われているような気がしてしまうのですが、ちょっと引いて読めばワーク・ライフバランスのことを言っているとも言えなくはないような気がしてきます。確かに労働に絶対の価値を置くように仕組まれるのは危険ではないかと思うのです。


■ どんな人にオススメ?

・働くことの価値を考える人。

2010年4月29日 (木)

リストラされた100人貧困の証言

■ 書籍情報

リストラされた100人貧困の証言   【リストラされた100人貧困の証言】(#1925)

  門倉 貴史, 雇用クライシス取材班
  価格: ¥680 (税込)
  宝島社(2009/3/9)

 本書は、「主に雇い止めにあった非正規雇用者やリストラされた正社員、内定取り消しにあった大学生など約100人から聞き取り取材」を行ない、「雇用崩壊」の現場を追ったものです。
 第1章「派遣切りにあった人々はどうなったか」では、「リストラによって失職するケースが最も多かった製造業の派遣社員の証言を集めた」としています。
 郵政民営化によって、「突然、職場が成果主義になり、僕のようなのんびりしたタイプの人間には、居場所がなくなりました」と、退職し、自動車工場の派遣を選んだ39歳男性、「同人誌やアニメグッズを買うためにできた借金が200万円近く」(37歳男性)、「派遣に来る人をずっと見ていて思うのは、やはりいい加減なひとが多いということ」(44歳男性)、「ハケンは叩けば埃の出るヤツが多いですよ。自分も若い頃にサラ金で借金をつくり、逃げるように仕事を転々としてきた」(38歳男性)などのコメントの他、ネットカフェ生活中にケータイを盗まれ、「今時ケータイなしでは派遣の仕事を見つけることすらむずかしい。一部の派遣会社では、仕事の予約から終了報告まで、一切をケータイで行う仕組みになっているくらいですから」と語る24歳男性のケースが紹介されています。
 第2章「内定を取り消された学生はどうしているか」では、「内定取り消しは、合理的な理由がなければ違法になることは、学生の間でも話題になっていたので、会社側が『内定辞退』という自主的な行為を促して、あとから賠償金請求されないようにしているという魂胆が見え透いていて、ほんとうに嫌でした」(22歳男性)というコメントが紹介されています。
 第3章「リストラされた正社員はどこへ行ったのか」でjは、「このリストラの嵐のなかで懸念されるのが『便乗リストラ』だ」として、「雇い続ける余裕がありながらも、余剰人員の削減を行う企業も出てくることが予想される」と述べた上で、「これまでは現場を指揮する立場にあったので、若い女の子からパソコンの操作方法を教えてもらうのは屈辱的でしたね。思わず、わかってもいないのに『わかる』といって、何度ミスを繰り返したことか。かといって、誤って教えを乞うこともプライドが許しません」(53歳男性)などのコメントを紹介し、「貧困は派遣社員だけの問題と思われがちだが、正社員のうち10人に1人が年収200万円以下という現実もある」と指摘しています。
 第4章「大不況でどん底! 『働く貧困層』の衣食住」では、「『2ちゃんねる』に書いてある貧乏生活上方がすごく役に立っている。まず、野草を食べる(笑)。近くの川沿いには食べられる野草がいっぱいあるんです」(32歳女性)などのコメントを紹介した上で、「恐ろしいことに、貧困層が増えていくにつれ、貧者のための『インフラ』がどんどん拡大しつつある」として、ネットカフェにいた人達が、ゲストハウスに流れつつあることを指摘しています。
 また、貸し倉庫業者の、「契約した上で、レンタルコンテナに住んでしまう人が増えていて、報告があるたびに退去勧告を出しています」というコメントを紹介しています。
 第5章「貧困層をカモにする『貧困ビジネス』の手口」では、「ゼロゼロ物件」の家賃の振込が3日遅れただけで、鍵を交換され、家財道具を全て処分されたケースを紹介し、「持ち去られた家財道具には免許証や銀行通帳もあったが、そのまま廃棄処分されたため、新たに物件を借りることは難しかった」と述べています。
 本書は、クローズアップされた現代の貧困の一端を紹介した一冊です。


■ 個人的な視点から

 派遣切りにあった人の話というと、なんと言うか、感傷的な話が多いのですが、積極的・消極的を問わず、派遣労働を選ぶ側の人間にも色々事情があることをきちんと書いているのは好感が持てました。


■ どんな人にオススメ?

・雇い止めって違法なの?って思う人。

2010年4月28日 (水)

ダルマの民俗学―陰陽五行から解く

■ 書籍情報

ダルマの民俗学―陰陽五行から解く   【ダルマの民俗学―陰陽五行から解く】(#1924)

  吉野 裕子
  価格: ¥651 (税込)
  岩波書店(1995/02)

 本書は、「達磨の像、容が象徴するものは、まさに、木火土金水の五行の五気の一つの『火』である」として、達磨大師が、
(1)真理の体得者としての達磨大師
(2)五行の「火」の象徴としての達磨大師
のに面から日本社会に深く広く息長く、異なる信仰の対象として生き続けることとなるとして、陰陽五行の観点から達磨大師を読み解いたものです。
 第1章「はじめての陰陽五行 その一」では、「陰陽五行の最大の特徴は、この世のありとあらゆるもの、有形無形を問わず一切の森羅万象を、木火土金水の五気、このファイヴ・エレメンツに還元し、配当していることである」と述べています。
 第2章「はじめての陰陽五行 そのニ」では、「陰陽五行が発生したのは黄河流域であり、古代中国の都も、またほとんどここに集中している。日本の井戸は黄河流域のそれとほぼ等しいので、陰陽五行は日本の自然の推移によく見合ったため、違和感なく受け入れられた」と述べています。
 また、「私どもの先人は円錐形、つまり、炎状の山を祖霊として進行していたが、これも火を人祖とする法則あってのことである」と述べています。
 第4章「ダルマのある風景」では、「縁起ダルマの発祥の地は、この少林山達磨寺である」として、「冬場、空っ風の吹く上州の乾燥した気候が、このダルマづくりに適し、農閑期の副業としてと仕事に盛んになった」と述べたうえで、「私ども日本人にとって馴染み深いダルマ」は、
(1)正月のダルマ市
(2)時節を問わず授与される名刹のダルマ
(3)選挙風景のダルマ
の3つの場面などの中で最もよく見かけられるが、「そのほか、各地方によって独特に作り出され、土産物店などで見かけられる各種のダルマなども、その量はその種類とともに相当数に上ると思われる」と述べています。
 第6章「ダルマさんが転んだ」では、張り子のダルマについて、
・どんな場合にも倒れ放しではない
・倒れてもすぐ真っ直ぐに立ち上がる
ことが、「火、あるいは炎の造型として創出された『起上り小法師』に背負わされている特質であり、その呪物制の根源である」と述べています。
 第8章「ダルマさん笑っちゃだめよ」では、「迎春呪物の王者、ダルマさんは、けっして笑っては不可ない。大口を開いて笑って、穴の像をその本領とする口を、自由にさせることなど、金輪際、タブーである」とした上で、「正月の呪物、だるまさんが口を固く閉ざしているのは、その淵源は遠く日本の神話、あるいはそれに近い古代に求められる」と述べています。
 第9章「ダルマさんの仲間」では、「上方志向の呪物、熨斗鮑の本質は、当選を第一義とする選挙の呪物、ダルマさんのそれと全く等しい」と述べています。
 本書は、慣れ親しんだダルマが持っている意味を教えてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 ダルマといえばにらめっこですが、それにもちゃんとした呪術的な意図があったなんて意外でした。それを考えると、障害者に配慮して選挙の時にダルマを使わなくなるというのも、角を矯めて牛を殺すことにならないか心配です。


■ どんな人にオススメ?

・手も足も出ない人。

2010年4月27日 (火)

「大きなかぶ」はなぜ抜けた?

■ 書籍情報

「大きなかぶ」はなぜ抜けた?   【「大きなかぶ」はなぜ抜けた?】(#1923)

  小長谷 有紀
  価格: ¥798 (税込)
  講談社(2006/7/19)

 本書は、「世界中の昔話や伝説など人々の間で伝承されてきた物語がいかに多様で面白さに満ちているかを知ってもらうために編まれたもの」です。
 「なぜ『じゅうたん』が空を飛ぶのか?」では、「空と絨毯」というペルシア語の言い回しについて、「人の上には空があり、人の下には絨毯がある」というほど、「絨毯も空も人間と分かちがたいものであることを示す言葉である」と述べています。
 「森にお菓子の家があるのはなぜか?」では、「なぜ森の奥深くに『パン(お菓子)の家』が存在するのか」という謎について、「パンの家」、「森」、「グリム兄弟の視点」の3つの視点から考えるとして、「グリム兄弟は、ドイツに古くから伝わる習慣や文芸を中心とした、文化、文学、言語、歴史、法律の研究者であり、大学教授でもあった」と述べたうえで、「パンの家」がもろに存在する理由として、「ドイツ人の祖先であるゲルマン民族の一部族」である「スエヴィ族」が、「聖なる森の出自であることを誇りに思い、森林崇拝を行っていた」と述べ、グリム兄弟が、「自らがキリスト教徒であるというその枠組を超え、自分たちの根源、心の故郷としての聖なる森を少なからず意識していた」と指摘しています。
 そして、「グリム兄弟にとって、豊かな森のメルヒェンを集める原動力となっていたものは、実は、目の前に広がる現実の森の貧困な姿だったのではないだろうか」と述べています。
 「水辺の美女が愛される理由」では、「民間伝承におけるルサールカのイメージは、異教やキリスト教の信仰や儀礼、民衆の自然観や神話的世界観と結びついて極めて多様である」とした上で、作家たちが愛したのは、「自らがイメージする女を自在に盛り込める器、それも、特に『宿命の女(ファム・ファタル)』的女性像を盛り込むのに適した、『美しい器』としてのルサールカだった」と指摘しています。
 「ラテンの民衆はピカロ(悪者)がお好き」では、スペインの口承文芸である笑話のなかで、「最も人気のある民衆のヒーローは悪者(ピカロ picaro)である」とした上で、「スペインの記載文芸と口承文芸の両者を含めて、ピカロの存在がこれ程大衆の支持を得て、スペインの民衆を楽しませ続けたのは、かつて経済的貧困と社会的不平等が著しかったためだろう」と述べています。
 「おばあさんはなぜ桃を食べたのか?」では、「現存する『桃太郎』絵本や江戸時代の人が書いた随筆などの資料を見る限り、江戸時代までは、回春型と果生型の両型の『桃太郎』が存在していた」とした上で、「『健康で若々しくありたい』『若返りたい』という願望は、昔も今も、大人になれば誰しも抱く普遍的なものであろう。その願いが『桃太郎』にはたしかにこめられていたのだ」と述べています。
 本書は、大人だからこそ、知っているはずの昔話をもう一度読みたくなる一冊です。


■ 個人的な視点から

 多くの人が子供の頃に『ドラえもん』を読んでいるはずですが、子供向けとは言えど、描いているのは大人なわけで、大人になって読んでこそ判る細かなギャグに笑うことができます。お伽話も、大人だからこそ判る毒が混ぜられているはずなのですが、最近のお話は大人が毒に気づくと徹底的に薄めてしまい、時には元の話がなんだったのかもわからなくなるようです。


■ どんな人にオススメ?

・お伽話は子供のためのものだと思っている人。

2010年4月26日 (月)

サンタクロースの謎

■ 書籍情報

サンタクロースの謎   【サンタクロースの謎】(#1922)

  賀来 周一
  価格: ¥777 (税込)
  講談社(2001/11)

 本書は、「なぜ、これほどまでにサンタクロースは世界中の人から愛されるのだろうか」として、「その不思議な魅力」を追ったものです。
 第1章「サンタクロースはいるのか、いないのか」では、1897年9月21日のニューヨーク・サン紙の社説を飾った8歳の娘バージニアからの「サンタクロースはいるのでしょうか」という手紙に対する「そうです。バージニア。サンタクロースは、いるのです」という回答について、「サンタクロースを見た人はだれもいません。だからといって、サンタクロースがいない、と言えるでしょうか。この世でいちばんたしかでほんとうのもの、それは大人の目にも、子供の目にも見えないのです」と紹介し、「人間がほんとうに生きていくためには、目に見えるカーテンのこちら側だけを見るのではなく、カーテンの向こう側もまた、人間にとってなくてはならない真実の世界であるということを言いたいのだ」と述べています。
 第2章「クリスマスの起源を探る」では、「西方教会がクリスマスを12月25日と定めたのは、354年、教皇りベリウスの時であったが、それまでに多くの論議を重ねた」として、「クリスマスのこの時期は、協会にとって単にキリスト誕生を祝うだけの季節ではなかった。11月1日は殉教者のための記念日であったが、次第にすべての信徒の死を記念する日として守られるようになった」と述べています。
 第3章「宗教的象徴となったサンタクロース」では、「近代サンタクロースの誕生のきっかけをつくった詩」として有名なクレメント・クラーク・ムーアの「クリスマスの前夜」を紹介した上で、「このしの中に、サンタクロースが8頭のトナカイに曳かれたそりに乗って空からやってくることや、煙突から煤だらけで家の中に入ってきて、おもちゃを袋の中から次々に出す様子が書かれている」と述べています。
 また、「聖ニコラスの付き人は、聖人の太陽を表す赤と白の衣装に比べて、闇を表す黒と茶の服装をする。時には動物の化物のような格好をすることもあった」として、「付き人の異様な格好は、当時のこの時期が闇に包まれ、死者の霊が横行するさまを表しているのである」と述べ、「聖ニコラスの祭りは驚くほど明るい祝福と暗い災が奇妙に入り混じる。よくみるとその明と暗は、明は明、暗は暗と綺麗に整理された関係にはない」として、「聖なるものが痛みを持ち、闇なるものが幸いを招く。祝福と災が奇妙に入り交じった世界が聖ニコラス祭にある」と述べています。
 第4章「聖書に見るクリスマス」では、「聖書は全くどこの誰とも知れないナザレの若夫婦と、ときの最高権力者皇帝アウグストゥスやシリアの総督キリニウスの名を対比させる」として、「聖書は明らかに意図的に国家権力とそれに翻弄される名もない民衆の姿を対比させている」と述べ、「そこでの出来事は、無力を嘆じるとき、弱さに歯ぎしりするとき、小ささをかんじるとき、人々がその世界から目をそらさず、直視するようにとのメッセージを伝えている」と述べています。
 そして、「聖書の降誕物語には、登場する人物をめぐってテーマを持ちつつ、極めて強い対比的要素を含んでいる」として、「クリスマスは人間の世界と神の力のせめぎあいのような様相を呈する」と述べています。
 第5章「サンタクロースがやってくる」「もともとラップランドでは、トナカイはロバや馬と同じく、魂を彼岸の世界に送ると考えられており、同時にまた死者の乗り物でもあった。使者が無事にあの世に行ってくれると、不吉な闇の力から人々は救われる。かつトナカイは森の支配者であった」と述べ、「サンタクロースはどこから来て、どこへ去っていくのか分からない人の生と死の神秘を表象しているのである」としています。
 また、サンタクロースの袋はもらって嬉しいクリスマス・プレゼントのためだけにあるのではないことがわかる。悪い子を連れ去る罰の印でもあった。言い換えれば善悪の判断袋と言ってもよいものなのだ」と述べています。
 本書は、サンタクロースの本当の意味を教えてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 サンタクロースが本当にいるかどうかが、西洋でもやっぱり問題になっていたのかと思うとちょっと安心します。本当はこういう背景を知らないと「赤鼻のトナカイ」の話は理解出来ないわけですが。


■ どんな人にオススメ?

・サンタクロースの存在に疑義をいだいている人。

2010年4月25日 (日)

アインシュタインの望遠鏡―最新天文学で見る「見えない宇宙」

■ 書籍情報

アインシュタインの望遠鏡―最新天文学で見る「見えない宇宙」   【アインシュタインの望遠鏡―最新天文学で見る「見えない宇宙」】(#1921)

  エヴァリン ゲイツ (著), 野中 香方子 (翻訳)
  価格: ¥2,625 (税込)
  早川書房(2009/12/18)

 本書は、「宇宙の質量とエネルギー全体の23%がダークマター、72%はダークエネルギーで、私たちが知っている普通の物質、つまり、星とかガスなどはほんの5%に過ぎない」ことなど、「読者の皆さんを現代科学の最も興奮に満ちた最先端へご案内し、ともに宇宙の組成を探求していこうとするもの」です。
 第1章「宇宙は何でできているのか」では、「予想では、数千億の星で輝く膨大な数の銀河をすべて合わせれば、宇宙に存在する物質、すなわち質量の総計になるはずだった」が、「観察の結果は、私たちに見えている星や銀河は宇宙に存在する物質のほんの一部でしかない」ことがわかり、「おそらく宇宙に存在するものの大半は物質ではなく、奇妙な新しいエネルギーで、それが宇宙の膨張を加速させているらしい」と述べています。
 また、「一般相対性理論は、天文学者に宇宙を画像化する新しい手段を授けたのだ。アインシュタインの理論によって視野の限界は打ち破られ、重力レンズのおかげでかつては見ることの出来なかった宇宙の暗い領域の詳細が明らかになってきた」として、「重力レンズを使えばダークマターとダークエネルギーを探し出せる」と述べています。
 そして、「宇宙とその組成が明らかになるにつれて、観察の目はほかの重要な3つの点にも向けられるようになった」として、
(1)宇宙には目に見える星や銀河だけでなく、もっと他にも物質があるということ。
(2)見ることのできないこの物質の大部分は、私たちがすっかり詳しくなった標準モデルの粒子でできているのではないということ。
(3)宇宙の大部分はいかなる種類の物質でもないということ。
の3点を挙げ、「宇宙の組成を理解しようとする試みは、新しく重要な段階に到達した。『宇宙は何でできているのか』という謎は、突き詰めれば『ダークマターとは何か』『ダークエネルギーとは何か』という謎になったのだ」と述べています。
 第2章「時間と空間の一大革命」では、「相対性理論が完全なものとなるには、さらに二つの洞察が必要だった」として、
(1)重力の強さが場所によって違うことを考慮しなければならない。
(2)宇宙の幾何学は平坦なユークリッド空間的宇宙よりずっと複雑だと見抜いたこと。
の2点を挙げています。
 第3章「宇宙の膨張」では、「一般相対性理論――重力を扱う――は、違いのわかる支配者とは言えない」として、様々な物質も放射も区別しようとしない代わりに、「宇宙の中身を、時空の進化にどう影響するか」によって、
(1)物質(通常物質もダークマターも含まれる)
(2)放射の形をしたエネルギー
(3)ダークエネルギー
の3つのカテゴリーに分けるとしています。
 そして、「総じて、宇宙の膨張の歴史は、その時代を支配していたエネルギーによって決まる」として、「それぞれの時代において、その支配的エネルギーが、宇宙の膨張速度と、物質を引き寄せて高密度の構造を作る重力の作用を牛耳っていた」と述べています。
 第4章「アインシュタインの望遠鏡」でjは、「宇宙を探索する道具としての重力レンズの真の威力は、エディントンの遠征の成果が新聞の見出しを飾った後も、久しく完全には理解されなかった」とした上で、「大きな物体が引き起こす光の屈折は、ごく現実的な意味でとても有用なレンズとなり、それを通して天体を眺め、ダークマターとダークエネルギーを探すことができる。重力レンズは、宇宙の目に見えない部分のマッピングを可能にし、新しい科学革命をもたらす力を秘めている」と述べています。
 そして、「宇宙を調べる道具としての重力レンズの強みは、質量だけに反応する点」だとして、「ダークマター、通常物質、まぶしい光を放射する物質、ほとんど光らない物質、真っ黒な物質、いずれも同じ扱いになる」と述べ、「アインシュタインの望遠鏡は、宇宙に存在する質量を描き出す力を授けてくれるのだ」としています。
 第5章「MACHOとWIMP」では、「今のところダークマターの存在を裏付ける唯一の証拠は、目に見える物体に及んでいるその重力効果だけだ。その実態は、まさに闇に包まれている」として、おそらく、
(1)あまりに暗すぎて、望遠鏡でも見えない
(2)光を放出も吸収も反射もしない物質でできている
のどちらかであろうかとし、最初のカテゴリーは「MACHO(巨大暗黒物質)」で、「惑星、光が弱い星、ブラックホールなど、既にその存在が認められている物質が含まれ」、もうひとつのカテゴリーは「WIMP(弱い相互作用しかない粒子)」で、「未知の全く新しい種類の粒子を想定している」と述べています。
 そして、「MACHO」という「覚えやすいが、少々趣味の悪いこの呼び名」が、「ランチの席上での冗談から生まれた」として、「銀河系はWIMP(『弱虫』の意もある)だらけなのかな。それとも、もっと当たり前の物質で、ダークマターになるものがあるのだろうか。ウィンプでなきゃ、マッチョ(男らしい)とか……?」と、現在、カリフォルニア大学サンディエゴ校物理学部教授のキム・グリースとがうっかり口にしたことがきっかけだったと述べています。
 第7章「宇宙の重さを量る」では、銀河団全体の質量を割り出すには、「見えるものを頼りに、見えない部分も含めた銀河団の総質量を弾きださなければならない」として、
(1)銀河団の銀河
(2)銀河団のガス
(3)遠方の銀河
の3つの「見えるもの」の選択肢を挙げています。
 そして、「銀河団にずっしりとその重みをかけているダークマターは、強力な重力レンズになる。このレンズが作り出す大きな弧は、銀河団の中心部を丸く囲み、銀河団の質量がもたらした時空の歪みをなぞる」と述べています。
 第10章「加速する宇宙」では、ダークエネルギーの候補は、
(1)宇宙定数:真空エネルギー(空っぽの空間のエネルギー)。全時空においてその値は一定。
(2)クインテッセンス:ダークエネルギーの動的バージョンで、その値は、宇宙の歴史を通じて変化する。
(3)その他:今までと違うアイデアすべて(今後生まれる理論を含む)。
の3つのカテゴリーに分けられるとしています。
 第11章「宇宙の網目に残されたダークエネルギーの痕跡」では、「現在、実験家がダークエネルギーの宇宙に及ぼす影響を突き止めようとする際に用いる一般的な方法」として、
(1)遠くの超新星を探す
(2)銀河分布の地図を作る
(3)銀河団の調査
(4)重力レンズ
の4点を挙げ、「それぞれ、膨張する宇宙の歴史と構造の形成のいずれか――あるいはその両方――を探るために考案されたものだ」と述べています。
 エピローグ「ダークマターとダークエネルギー――次なる変革の鍵」では、「宇宙は何でできているのか?」という疑問に対する答えは得られていないが、「ダークマターとダークエネルギーの証拠はこの疑問を書き換え、それを解明しようとする試みを方向転換させ、そして答を見つけようとする動機を強めている」と述べています。
 本書は、宇宙が何でできているかを考えさせてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 これまでも海外のSFなどを通じて、当時、最先端の科学理論がマンガに影響を与えてきています。ドラえもんのタイムマシンだったり、宇宙戦艦ヤマトのワープ航法だったり。最近の科学の進歩は、最近のマンガにどんな影響を与えているのかが気になります。


■ どんな人にオススメ?

・最新の宇宙観を掴みたい人。

2010年4月24日 (土)

音に色が見える世界

■ 書籍情報

音に色が見える世界   【音に色が見える世界】(#1920)

  岩崎 純一
  価格: ¥756 (税込)
  PHP研究所(2009/9/16)

 本書は、共感覚者男性である著者が、
・共感覚とは何かを、初めての方々にも分かりやすく説明すること。
・既に共感覚をご存知の方々や共感覚者の方々にも、私の共感覚の日本人男性としての特徴を分かりやすく説明すること。
・まだ全国にいらっしゃるであろう、私と同じような共感覚を持って生きる日本人男性の目にこの本が触れることを願って、私の共感覚を語っておき、今後の文化的な語らいの契機とすること。
を目的とし、「かつては共感覚が、女性だけに多いものでも社会の異端でもなく、人の生を人の生たらしめる基本的な感覚だったのであり、ひいては日本や世界の原風景に通じるものであることを感じ取って」もらうことを目的としたものです。
 第1章「共感覚とは何か」では、「共感覚」を「五感がそれぞれ分別化されていない、全感覚的な感覚のあり方」としたうえで、著者が、「女性を目指した際などに、その姿や仕草、時には性周期(排卵期や月経期)に色や音などが感覚される」ことを「対女性共感覚」と名付けています。
 また、「本当の『数字についての優れた特殊能力」とは、『数字で世界を分節化すること自体が人間の勝手であることを知って、大切に数字を扱うこと』」だと述べています。
 第2章「日本文化の原風景としての共感覚」では、「子どもの頃は、文字と風景との区別がつかなくなることがしばしばあった」として、「この感覚はしばしば直観像記憶と呼ばれる能力をもたらす。風景を抽象的に理解できない代わりに、写真のように写し取れるのだ」と述べています。
 また、著者の色彩感覚は、「今現在共感覚をもつ日本人女性及び江戸時代までの日本人(男女問わず)に近いことがわかった」として、「彩度と明度とを第一義的に見て色彩を把握している」としたうえで、「どんな文字にも不随意的に色が見えたり、音に色が見えたり、集中しなくても女性の性周期に色や音楽が見聞きされたりする私の共感覚が、かつての日本語にそぐうものである」と述べています。
 そして、「現代の日本人男性が『目に見れるものに全幅の信頼を置くようになってしまった』ことが、自分たちの共感覚・完成にとって実に致命傷だった」として、「現代の日本人男性の性欲の引き金は、ほとんどが視覚である」ことを指摘し、「欧米的価値観に圧倒されて、我々は望むか望まないかの判断もうやむやのうちに、それまでの『色恋』を解体することを選んだ。『性欲』と『恋愛』という概念に無理やり分けたわけだ」と述べています。
 第3章「共感覚者男性として」では、共感覚を持つ日本人男性として思うこととして、
(1)男性と女性それぞれの脳や体で起こる共感覚を一緒に扱うことに無理がある。
(2)「共感覚者の数は、女性の方が男性よりも多い」という今の科学者が主張するデータは、何に対して多い、少ないと言っているのか。
(3)男性の方に多いと言われる自閉症の中で、共感覚を持つ男性を探していくと、おそらく、いわゆる「健常者の男性」よりも高い確率で見つかり、結果として、男女間で共感覚者数の差が縮まるのではないか。
(4)少なくとも、男性が女性の身体に対してなんの共感覚も持たないのに、記号的な文字の一部にだけ色を感じる感覚だけが残る、などという不自然な自体がありうるのか。
等を挙げた上で、「『共感覚』は常に『男らしさとは何か』ということと関わっているのをひしひしと感じる」と述べています。
 本書は、共感覚とは何かを考える上で、ヒントとインスピレーションを与えてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 絶対音感的に音を聞いた時のイメージではないですが、和音には色がくっついているような気はします。おそらく共感覚というよりも連想なのだと思いますが。Amは緑がかった水色だったり、Emは濃い青だったり、Bは黄色だったり、Dmはオレンジかかった赤だったり、G7は緑だったり。


■ どんな人にオススメ?

・音を聞くと色が見える人。

2010年4月23日 (金)

ちゃんぽんと長崎華僑―美味しい日中文化交流史

■ 書籍情報

ちゃんぽんと長崎華僑―美味しい日中文化交流史   【ちゃんぽんと長崎華僑―美味しい日中文化交流史】(#1919)

  陳 優継
  価格: ¥1,200 (税込)
  長崎新聞社(2009/10)

 本書は、「長崎の食文化と、長崎華僑の物語をたどりながら、中国との交流史に、スパイスをたっぷりと効かせた、おいしい一冊」です。
 プロローグ「長崎に暮らす」では、華僑の生き方は「落地生根」と呼ばれ、「一粒の種がちにおちて、芽生えて根を張り、枝を伸ばし、やがて大樹となるように、故郷を遠く離れ、海をわたって異国の地にたどり着き、その地の人々と慣れ親しみ合う。その地の習慣にも馴染み、家業を起こし、家庭を築き、子孫を増やし円満に暮らしていく。そして、やがてはその地の土に帰ることをいう」と述べています。
 第1章「平順のちゃんぽん」では、著者の曾祖父で、四海樓の創業者であり「ちゃんぽん」「皿うどん」の考案者である陳平順氏について、「19歳の時に、蝙蝠傘一本持って長崎に来た」ところから、「人は食べ物によって生きる意欲や勇気が湧いてくる」ので料理店を始めたこと、「華僑は血縁、地縁を大切にし、世界中に幇(パン)という組織ができるほど」であり、「自分の受けた恩を、次の者に送る」「恩送り」という言葉があることなどを語っています。
 また平順が考案したちゃんぽんについて、鶏ガラと豚骨で炊き上げたコクのある白濁したスープに負けない麺にするため、鹹水の代わりに小麦粉に唐灰汁(炭酸ナトリウムと炭酸カリウムが主原料の長崎独特の添加物)を入れて作った太目の麺を使ったと解説し、その語源については、当時の華僑たちの挨拶の慣用語「吃飯了ロ馬(チィファンラマ)」が長崎人の耳には「ちゃんぽん」に聞こえ、華僑たちが食べている「支那饂飩」と同義語になり、ついには「ちゃんぽん」という料理名になったのではないかと述べています。
 第2章「長崎華僑の催事と文化」では、「中国においては古代から旧暦(太陰太陽暦)を基準に生活が営まれてきた」として、年間催事を軸に、その起源についても触れ、「長崎華僑のあいだで守られている催事は、中国本国では近代化によって姿を消してしまったものもあれば、長崎で独自に進化し、今や長崎の一大観光イベントにまで発展したものもある」としています。
 また、中国人の供え物の数が5であることについて、「黄檗宗では古くからのしきたりで、行事や法要での飾りや供え物に到るまで五つの原色(青・黄・赤・白・黒)にちなんであり、例えば供え物の野菜五種は、『青』はきゅうり、『黄』はかぼちゃ、『赤』は人参、『白』は大根、『黒』は昆布といった具合に色を基本に選ぶなど、黄檗宗独特のきまりがある」と述べています。
 本書は、ちゃんぽんを生み出した長崎華僑の歴史と文化を伝える一冊です。


■ 個人的な視点から

 ちゃんぽんというと全国展開しているチェーン店もありますが、どうも揚げ麺の皿うどんとあんまり区別がついていなかったので、こんどちゃんとしたちゃんぽんをキチンと食べてみたくなりました。


■ どんな人にオススメ?

・ちゃんぽんと皿うどんの区別がつかない人。

2010年4月22日 (木)

「多様な意見」はなぜ正しいのか 衆愚が集合知に変わるとき

■ 書籍情報

「多様な意見」はなぜ正しいのか 衆愚が集合知に変わるとき   【「多様な意見」はなぜ正しいのか 衆愚が集合知に変わるとき】(#1918)

  スコット・ペイジ (著), 水谷 淳 (翻訳)
  価格: ¥2,520 (税込)
  日経BP社(2009/1/22)

 本書は、「多様性を能力と同列に扱うべき」という主張を、「枠組みとモデルを使って展開」し、「適度な厳密さで、多様な観点、ヒューリスティック(発見的方法)、解釈、思考モデルが、問題解決と正確な予測における集団的能力を向上させることを示」そうとするものです。
 本書は、「社会科学者が、"ブラックボックス"として無視する、問題解決と予測のプロセスを分析することで、社会科学に貢献する」としています。
 序論「我々の違いを分析する」では、多様性の分析は、
・多様な観点:状況や問題を表現する方法
・多様な解釈:観点を分類したり分割したりする方法
・多様なヒューリスティック:問題に対する解を生み出す方法
・多様な予測モデル:原因と結果を推測する方法
の「4つの形式的な枠組みからなる」としています。
 そして、本書が示す中心的な主張として、
(1)多様な観点とツールは、人々の集団により多くの優れた解を見つけさせ、全体的な生産性に寄与する。
(2)多様な予測モデルは、人々の群衆に価値を正確に予測させる。
(3)多様な基本的好みは、選択のプロセスをくじかせる。
の3点を挙げています。
 第1章「多様な観点――我々は事柄をどのように見るか」では、「構造を作り出せない内的言語は、問題解決や理解の助けにはならない。観点が実用的に価値を持つためには、意味のある関係性を含んでいなければならない」と述べています。
 第2章「ヒューリスティック――逆のことをすべし」では、ヒューリスティックについて、「一つの観点の中で表現される既存の解に適用され、新たな(そして望むべくはより良い)解や、考えうる解の新たな集合を生み出す規則である」と定義した上で、ここには、「ヒューリスティックが完全な解を創りだすと仮定されている」ことや「問題解決のためのヒューリスティックしか考慮していない」点で、「限界がある」ことを指摘しています。
 そして、「ヒューリスティックは数多くのタイプから選ぶことができる」として、
・トポロジカル・ヒューリスティック:観点の構造に基づいて近くの解を探索する。
・グラジエント・ヒューリスティック:微積分を使って価値関数の傾きを計算し、傾きが最大である方向へ移動する。
・エラー許容・ヒューリスティック:光度なヒューリスティックには丘を下るステップが多少は必要であるが、丘を下るステップが多すぎてはならない。
・ポピュレーション・ヒューリスティック:複数の解を同時に探索する。
の4つの典型的なヒューリスティックについて解説しています。
 第4章「予測モデル――本を表紙で判断する」では、予測モデルについて、「一つの解釈と、それによって作られる集合やカテゴリー一つ一つに対する予測を合わせたものである」と述べています。
 そして、「個人の予測は正確でないかも知れないが、不正確で多様な予測の集まりは正確になりうる」としています。
 第5章「物差しとツールボックス」では、ツールボックスの枠組みは、
(1)知能について新しい形で考えることができる
(2)知能をどのように順位付けするかを考え直すことができる
(3)集団的能力を計算できるようになる
の3つの目的に使えるとした上で、ツールについて考えるモデルとして、
(1)モデル1:一組のトランプ
(2)梯子
(3)木
の3つを挙げています。
 第6章「多様性と問題解決――ダーウィンの核心」では、「多様な観点と多様なヒューリスティックは互いに打ち消しあうことがある」として、「異なる表現と異なる問題解決技術を使う二人の人が解を違うふうに探索するとは、必ずしも言えない」と述べています。
 第7章「情報寄せ集めモデル――心なきシグナル」では、「群衆の知恵を理解したいなら、人々が予測をするようなモデルが必要である」として、「群衆が賢いためには、個人のある程度の正確さと、ある程度の集団的多様性の療法が必要なように思える」と述べています。
 第8章「多様性と予測」では、「予測モデルの枠組みを使って群集の知恵を説明」することによって、
・多様性予測定理
・群衆が平均を負かす則
の2つの定理へ行き着くとしています。
 そして、多様な群衆の予測が持つ特徴として、
・包括特性:群衆の予測モデルには、その群衆の各メンバーの予測モデルに含まれている属性や属性の組み合わせの影響がすべて含まれる。
・粗近似特性:群衆の予測モデルは、すべての属性や属性の組み合わせが結果に及ぼす影響を粗く近似する。
の2点を挙げています。
 そして、「群衆が賢いためには、そのメンバー一人ひとりが賢いか、あるいは集団としてたようでなければならない。理想的には両方だ」と述べています。
 第9章「多様な好み――タパスがある理由」では、「我々の脳は、知る必要のあるものすべてを追いかけられるほど大きくはない。だから人は、自分にとって重要なことに目を向ける。それが比喩的な意味で大きく、多数の部分や次元を持っていると、人は解釈のために観点をもつことを諦める」ため、「ほとんどの問題において、考慮する次元はその人が何に価値を置くかによって左右される」と述べています。
 第10勝「好みの寄せ集め――四つの(それほどではないが)がっかりさせる結果」では、「多様な好みをもつ個人は、形式的に言えば合理的でない集まりを形成しうる。好みが多様で、適切な手順が機能していないと、投票の結果はどんなものにもなりうる。そして完璧に機能する手順などないので、個人個人が、自分の好みを偽ったり決め方を操作したりしようという動機をもつことになる」と述べています。
 第11章「ツールボックスと好みの相互作用――アリスに訊いてみよう」では、「複数のタイプの多様性が相互作用すること」に関して、
(1)多様性が多様性を生み出す。
(2)ある場面における多様性の影響は別の場面にも広がっていく。
の2つに注目し、「個々の多様性が課題に対する集団の出来にどのような影響をもたらすのか、その全体像は複雑になる」と指摘しています。
 第12章「認識的な多様性の原因――家族休暇か、大学か、アイデンティティーか?」では、「多様性が恩恵をもたらし(認識的に多様な社会、都市、チームはより一様な集団より良い出来を示す)、基本的好みの多様性が問題を生み(公共財の供給が減り、人々は中が悪くなる)、多様な認識的ツールボックスと多様な基本的好みを持つ人々の集まりの出来はばらつきが大きい(より良い結果を見出すとともに、より多くの衝突を生み出す)」と述べた上で、「ブレークスルーには、ほぼ決まってセレンディピティーが必要である。そしてセレンディピティーは、多様な心づもりから生まれる。奇妙な現象をどのように解釈すればいいのか、それに気づいて理解した人がブレークスルーを起こすのだ」と述べています。
 第14章「実り多いロジック――アイデアを実行へ移す」では、「ひらめきがどこからやってくるか予測できると言い切れる人はいない。しかし他がすべて同じであれば、訓練、経験、あるいはアイデンティティーについて人と違う人のほうが、独自の経験からブレークスルーをもたらしたり、原子量の体系的原理を見抜いたり、空間と時間を一つのものとしてみたりできる可能性は高いと考えるべきなのだ」と述べています。
 本書は、多様性がなぜ重要なのかを教えてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 多様性とかネットワークとかいう言葉はなぜか手放しで賞賛されやすいのですが、なぜいいのかということを真面目に考えた本は少なかったような気がします。


■ どんな人にオススメ?

・多様性がなぜ優れているかを知りたい人。

2010年4月21日 (水)

家族と格差の戦後史―一九六〇年代日本のリアリティ

■ 書籍情報

家族と格差の戦後史―一九六〇年代日本のリアリティ   【家族と格差の戦後史―一九六〇年代日本のリアリティ】(#1917)

  仁平 典宏, 元治 恵子, 小暮 修三, 佐藤 香 (著), 橋本 健二 (編集)
  価格: ¥1,680 (税込)
  青弓社(2010/01)

 本書は、1965年SSM調査の調査票原票に残されていた、「家族全員の性別・続柄・年齢・学歴・職業・居住地に関する解答」という「軌跡のようなデータ」を元に、「階級・社会階層に関する分析に、家族構成や家族の就業構造という要素」を加えた分析を行ったものです。著者は、このデータによって、「『計量歴史社会学』あるいは『計量社会史』とも呼びうる研究領域へと入っていくことができるかも知れない」と述べています。
 第1章「一九六五年の日本」では、「敗戦直後の日本では、経済格差が比較的小さかった。戦争によって資産の多くが破壊され、豊かな人々ほど大きな経済的損失を被ったこと、特に都市部の被害が大きく、このため貧しかった農村との格差が縮小したこと、そして農地改革によって農村内部の格差が縮小したことなどが、その原因である。みんな等しく貧しい時代だったと言ってもいい」と述べた上で、「経済の復興とともに、経済格差は拡大を始める」としています。
 第二章「激変する社会の多様な就業構造」では、「1955年から60年代にかけてのこの時期、日本の農林業は、農家戸数を維持したまま労働力を外部に排出したり、農家戸数が減少しても片手間で農業を営む家族の数は逆に増加したりするなど、農民層の流出が本格化するまでの過渡期にあったと見ることができる」と述べています。
 また、「有業者数の変化に伴う等価所得の変化は、極めて興味深い」として、「世帯員数が増えるとともに必要生活費は増加するが、このとき世帯は、等価所得40万円のレベルを維持することを無意識の原則としながら、有業者数を決定していたように見える」と述べています。
 そして、「1965年の日本では、一方では家族総出で農業を営みながらも、それだけでは最低レベルの生活さえ維持することが難しく、外部に労働力を排出して兼業化したり、あるいはさらに進んで離農の可能性を探ったりする世帯が大量に集積していた。ところが他方では、当時としては平均レベルの所得を確保する労働者階級と、平均をかなり上回る所得を得ている新中間階級が、『夫は仕事・妻は家庭』という明確な正役割分業を特徴とする被雇用者世帯を形成しており、その比率は全世帯数の半数にも達しようとしていた」と述べています。
 第3章「三丁目の逆光/四丁目の夕闇」では、「新中間階級・第の『夫型』家族は貧困率が極めて低いのに対し、労働者階級・中小の『夫型』では貧困率が高い」とした上で、「妻をはじめ子やきょうだいなど複数の成因が働く他就業型の家族は、男性稼得者が中小企業の労働者階級や旧中間階級に所属している場合でも、収入経路の複数化と成員所属階級の複合化によって、貧困を回避するルートを確保していた」と述べています。
 第4章「転換期における女性の就業」では、「1965年は、女性の就業を考えていく上で、重要なターニングポイントの一つと捉えることができる」として、「女性労働の中心が自営業者・家族従業者から被雇用者に移行し、若年期には大多数が就業するものの、結婚(あるいは出産)を気に退職して非労働力化し、子育てが終わると再び多数が労働力化するという、その後、二十年から三十年にわたって女性の主流となる就業パターンが確立した時期と考えられる」と述べています。
 第5章「独身男の肖像」では、「すべての年齢層で一貫して、自営業層と農民層を合わせた旧中間階級の独身率が低くなっている」ことについて、「旧中間層が旧来的な地域コミュニティに根ざした存在であり、地縁的な交際関係及び結婚圧力にさらされていたことをうかがわせるものだろう」と述べています。
 そして、「1965年当時、就業機会の大都市集中に伴い、農村の若者たちが就職や出稼ぎ先として大都市に向かった」結果、「農村の独身男性の数が少なくなった」一方で、「都市部では男性労働者の単身世帯が増加した」と述べています。
 また、「1965年当時、結婚をめぐる独身男の状況は、自らの所属する階級によって大きな影響をうけるだけでなく、年齢によっても否応なく影響を受けていた。少なくとも65年当時、三十歳を超えても独身であることには、『社会的信用』や『親や周囲の期待』といった、今以上にキビシイ結婚圧力がかかっていたものと想像出来る」と述べています。
 第6章「戦後社会に見る戦争の影響」では、「この時期、人々の意識の中では、既に戦争は遠くなっていたかも知れない。けれども、彼らの職業キャリアや家族との関係は、戦争の影響を強く受けていた。その影響はぬぐい去ることが出来ないものであった」と述べています。
 本書は、「三丁目の夕日」の世界のリアルな姿を見せてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 過去の思い出は美化されるので、60年代は「貧しくても幸せだった時代」と見られてしまうのですが、果たしてバブル期は「豊かだったけど何も残らなかった時代」とかになってしまうのでしょうか。


■ どんな人にオススメ?

・60年代を振り返りたい人。

2010年4月20日 (火)

アカデミア・サバイバル―「高学歴ワーキングプア」から抜け出す

■ 書籍情報

アカデミア・サバイバル―「高学歴ワーキングプア」から抜け出す   【アカデミア・サバイバル―「高学歴ワーキングプア」から抜け出す】(#1916)

  水月 昭道
  価格: ¥777 (税込)
  中央公論新社(2009/09)

 本書は、「高等教育市場の維持を熱望する者たちにより張り巡らされた罠に、からめとられ、人柱とされた人たち」である「高学歴ワーキングプア」から抜け出すために必要な情報を詰め込んだものです。
 第1章「お化け屋敷の比ではない『大学院』の恐怖」では、「いま大学院にいくと、修士号や博士号などの学位と一緒に、もれなくワーキングプアへの片道切符も手にすることができ、大変お得となっている」としたうえで、「全国の私立大学では、教授がもっとも多く、次に多いのが助教授(現・准教授)で、この2つのポストを合計すると、実は、助手(現・助教)と講師を合わせた数の倍近くとなるという"びっくり"な世界が出来上がっている」と述べています。
 第2章「アカデミアで生き残るために 精神編」では、「アカデミアではイエスマンとなれ」としたうで、「イエスマンになれとは、丁稚になれという意味では決してない」、「あなたとかかわる『あの人』を笑顔にするため、少しくらいの損なら喜んで引き受ける人(イヤシマン)になってみてはどうか」という提案だ、としています。
 また、高学歴といわれる人たちは、「一般的に『勝ち組』であると認識されやすいので、彼らが"落ちていく"分には、下流社会から喜びの声はあがっても、それを問題だとする意識は理解されにくい」として、「高学歴ワーキングプア」は、「行き場のない怒りと絶望感を抱く庶民からすれば、まったく同情などできない存在」であり、一方で、小泉政権の失政を、「人々に二度と思い出してほしくない現政府」にとっては、「格好のスケープゴート」だと指摘しています。
 第3章「アカデミアで生き残るために 技術編1」では、「アカデミアという社会は一筋縄では行かない世界であり、正攻法だけでは選任への階段を上りきれないのだという現実をまず知ってほしい」として、「そこでは、『能力』以外のものがどれほど深く関係しているかを、ぜひ理解していただきたい」と述べています。
 そして、若い人にとっては、「自分の身の丈にあった業績作りこそが大事」だとして、「論文は書きすぎてはいけない。だが、まったく書いていないのもダメ」だとして、「あの程度であれば悪くはないな」と思ってもらえるかが重要だと述べ、その理由として、「現実的にかつてほどの給与を教員に払えない」大学法人が多い中、「ほどほど」の人材に注目が集まると指摘しています。
 第4章「アカデミアで生き残るために 技術編2」では、ポスドクになれるには、「チカラを持っている先生との出会い」がまず必要となるとした上で、「せっかく学会に参加したのに、研究発表のみを行って満足して家路につくのだとしたら、何のために行ったのかわからない、金と時間お無駄ということになる」として、「もっとも重要なのは、懇親会に参加することなのである」と述べています。
 本書は、大学院の世界で生き残るための技術を、外の世界にも教えてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 「高学歴ワーキングプア」はまあ働いているだけマシかと。アリとキリギリスではないですが、「頭がよければ」「人より勉強すれば」上に行ける、という子供の戯言に学費を払い続けた親も可哀想ですな。本人は先輩見ていればわかりそうなものなのに、自分だけは大丈夫と思っていたのか、分かっていても見ないようにしてきたのか。せめて『文学部 唯野教授』を読んでさえいれば、「講師になりたいよう」という蟇目の姿にビビって院になんか行かなかったのに。それでも助手になれるだけましなのか。「高学歴ニート」問題の方が深刻です。


■ どんな人にオススメ?

・「高学歴ニート」になりたくない人。

2010年4月19日 (月)

生き方の不平等――お互いさまの社会に向けて

■ 書籍情報

生き方の不平等――お互いさまの社会に向けて   【生き方の不平等――お互いさまの社会に向けて】(#1915)

  白波瀬 佐和子
  価格: ¥840 (税込)
  岩波書店(2010/5/21)

 本書は、「さまざまな現実があり、様々な当事者がいることを不平等や格差の存在と関連させて、社会の中での人の生き方を考える」ことを目的として書かれたものです。
 第1章「ゆりかごが決める人の一生」では、「母子家庭の問題は貧困にあるというだけでなく、貧困から派生する様々な不条理院」あるとして、「母子家庭にいる子供たちのライフチャンス(教育を受ける機会、職業に就く機会など)がしっかり保障されているかどうか」をその代表例として挙げ、「世代を越えた不平等の再生産に、貧困問題の深刻さがある」と指摘しています。
 また、子どもの貧困問題がこれ程取り上げられる理由の一つとして、「親の貧困が子供の将来に向かっての様々な機会を排除する危険をはらむから」だと述べ、「機会の平等として最近注目されているのは、生まれ育った家庭環境」だとしています。
 第2章「たまたまの勝ち組、たまたまの負け組」では、最近の日本社会における雇用を考える場合の見方として、
(1)雇用の多様化
(2)雇用の不安定化
の2点を挙げ、「両者は関連しあっていますが同じことではありません」と述べています。
 また、最近の若者論での新しい論調として、「若者の中の格差に注目が集まったこと」を挙げ、「親との同居期間と若者の経済状況の間に小さからぬ関連があることは確か」だとしています。
 そして、「晩婚化、未婚化の背景には、若者が結婚を望まないのではなく、結婚に踏み切れない、結婚出来ないという状況」があるとして、「家族を養えるための先立つものがなくては、結婚はできません。若者の貧困問題は、未婚化や晩婚化と連動」していると述べています。
 著者は、「さまざまな生き方が出てきた、多様な社会になったと言われる割には、未婚に留まり、一人で子供を育てることに、経済的なペナルティが大きいのが日本的な特徴」だとして、「口で言われるほど制度そのものが、現実の変化についていけていない」と指摘しています。
 第3章「稼ぐ人・世話する人の分かれ道」では、「アメリカやイギリス、スウェーデンといった欧米諸国において女性の働き方が男性と似通ってきたのに対し、日本は依然として女性の就労参加が男性よりも大きく異なっているのが特徴的」だとして、その理由として、
(1)労働市場自体が男女で大きく分断されていること
(2)女性に対して昇進機会が均等に提供されておらず働き続ける意欲を低下させていること
(3)就労と過程をつなぐために社会的支援が不十分であること
の3点を挙げています。
 また、政府が2006年6月決定した「新たな少子化対策について」について、
(1)「子ども」と「家族」を全面に押し出すことで、少子化問題の当事者を子どもと家族に限定してしまった点
(2)「望ましい家族」「子育ての喜び」「大切な家族」といった個人の判断に委ねるべき価値観を政策の文言として安易に投入し、対策としての目標と個々人の評価の問題が混同されていること
の2点を問題点としてあげています。
 第4章「蓄積された不条理」では、欧米と比べて日本の高齢層の経済格差が大きい理由の一つとして、「高齢者の就労率が他国に比べて大きいこと」を挙げるとともに、「高齢者の経済的水準が、彼・彼女らの所属する世帯構造と関係する」ことを挙げています。
 終章「お互いさまの社会に向けて」では、「社会の不平等の存在を指摘すること」も重要だが、「もっと重要なことは、その不平等がどのように作り出されたものであるかのメカニズムを明らかにすること」だと指摘しています。
 また、お互いさまの関係を形成していくために、
(1)再分配政策を今一度見直し、社会制度の中心的な制度として整備すること
(2)若年層、壮年の現役層を中心に、子育て支援、就労支援等を通して社会が生活保障機能を提供することのメリットを実感してもらうこと
(3)就労を通した参加型社会の形成
の3点を提言しています。
 本書は、お互いさまと言える社会を目指した一冊です。


■ 個人的な視点から

 結婚にも子作りにも、まずは先立つ物は金、ということですが、昔はそういうの当たり前だった気がします。その意味では、いまだに「平等」とか「総中流社会」という看板を下ろせないことも問題なのかなと。


■ どんな人にオススメ?

・お互いさまと言いたい人。

2010年4月18日 (日)

貧困化するホワイトカラー

■ 書籍情報

貧困化するホワイトカラー   【貧困化するホワイトカラー】(#1914)

  森岡 孝二
  価格: ¥798 (税込)
  筑摩書房(2009/05)

 本書は、「アメリカとの対比を念頭において、今日の日本のホワイトカラーの働き方/働かされ方について述べ、ホワイトカラーにのしかかる困難の背景と原因を探り、現状の困難を多少とも軽減する方とを示すことを課題」としたものです。
 序章「恐慌が壊れた雇用を直撃する」では、「今回の〇八恐慌の最大の特徴は、非正規労働者の激増によって雇用が破壊された直後に大量の非正規切りが行われたことにある」とした上で、「今回の生産の落ち込みがとりわけ深刻な理由の一つは、製造業に限らず経済の安定装置である雇用が破壊され、個人消費が縮小していたところに、追撃ちをかけるように、恐慌が襲ったことにある」と述べています。
 第1章「悲しき中流階級」では、「賃金労働者とホワイトカラーの際立った違いの一つ」として、「賃金労働者は彼の労働とエネルギーとスキルを売るが、ホワイトカラーは、多数の消費者、顧客、管理者に対して、自己の労働を売るだけでなく自己のパーソナリティを売ることにある」と述べた上で、「おそらくすべてのホワイトカラーにとって最も大きなストレスとなっているのはレイオフであろう」としています。
 第2章「しぼられるホワイトカラー」では、「大学進学率が4割さらには5割を超えるまでの高等教育の大衆化は、高等教育のインフレを引き起こし、従来の大学卒業者の就職先であったホワイトカラー職を超えて、ブルーカラー職とされる職業領域への高等教育修了者の進出をもたらした」と述べています。
 第3章「このままでは仕事に殺される」では、「この20年間に平均労働時間が大幅に減少したことは事実」だが、「平均で見たこの『時短』は、正社員あるいはフルタイム労働者の労働時間の短縮を意味しない」として、「この間の平均労働時間の短縮はパートタイム労働者の増大によるところが大きい」ことを指摘しています。
 そして、過労死・過労自殺の犠牲者が目立って多い職種として、「現場作業組織の第一線管理者という立場のホワイトカラー」といえる「作業朝」を挙げ、2002年に起きたトヨタ自動車の過労死事件の例を取り上げています。
 第4章「雇用差別に屈しない」では、サラリーマンとホワイトカラーの違いとして、
(1)ホワイトカラーは男女のいずれにも用いるが、サラリーマンは、ビジネスマンと同様に、通常は男性会社員を指す。
(2)サラリーマンの用例には、民間企業で働く月給制の男性正社員であれば、ホワイトカラーだけでなく、ブルーカラーも含まれていることがある。
の2点を指摘しています。
 また、近年の雇用の分野における女性差別裁判事件の争点の一つとして、「均等法成立後に従来のむき出しの男女差別に代わって導入された、男性を『総合職』、女性を『一般職』に振り分ける『コース別雇用管理』による間接差別」を挙げています。
 第5章「阻止されたホワイトカラー・エグゼンプション」では、「財界の要求を受けて政府・厚生労働相が検討してきた労働時間規制の除外制度が労働界の世論の猛反発を受けたのは、制度の設計自体が2つのウソで固められていた点を考えれば当然」だとして、
(1)対象者として想定されていた「自律的な働き方をする労働者」が大量にいるかのように言うウソ
(2)時間規制を外すことによって、自由で弾力的に働けるようになるというウソ
の2点を指摘しています。
 そして、「一方における正規雇用の現象と他方における非正規雇用の増大を特徴とする『働き方の多様化』は、正規労働者の間では長すぎる労働時間のために、非正規労働者の間では低すぎる賃金と細切れ雇用のために、結婚や育児や家族生活の困難を増大させ少子化を助長してきた」と指摘しています。
 終章「市場個人主義を超えて」では、「雇用の非正規化――間接化、外部化、細切れ化――は、資本主義における市場経済のメカニズムから自然発生的に生まれたものではない。それは経済界の要求に押され、新自由主義の政策イデオロギーに突き動かされて、政府が推し進めた雇用と労働の規制緩和の所産である」とした上で、「残業を制限して労働時間を短縮することは、男性と女性の間のワークシェアリングにとどまらず、正規労働者と非正規労働者の間のワークシェアリングをすすめることに直結している」として、「これこそは働き過ぎと貧困の両方を改善する特効薬である」と述べています。
 本書は、ホワイトカラーという言葉のイメージと実像のギャップを指摘した一冊です。


■ 個人的な視点から

 最近ではホワイトカラーと言ってもSEが「IT土方」と自重する風潮があったり、管理職と言っても「名ばかり管理職」が裁判で争われたりと、言葉のイメージと実情は離れているのではないでしょうか。


■ どんな人にオススメ?

・ホワイトカラーは気楽だと思っている人。

2010年4月17日 (土)

血の政治―青嵐会という物語

■ 書籍情報

血の政治―青嵐会という物語   【血の政治―青嵐会という物語】(#1913)

  河内 孝
  価格: ¥735 (税込)
  新潮社(2009/08)

 本書は、「1970年代半ば、戦後政治史未曾有の熱さと厚かましさで一躍脚光を浴びた政治集団」である、「青嵐会」の奇跡を追ったノンフィクションです。
 序章「青嵐会の血脈」では、青嵐界が、1973年7月に結成された自民党内の政治集団であり、解散の時期は、事実上の主催者であった中川一郎元農相が派閥を結成した1979年5月だと述べています。
 そして青嵐会の人たちの印象を、「日常的躁状態」だとして、「3目0取る作家ら熱気を感じた。語ることすべてが国家の大事、と言わんばかり、額に汗をにじませて、口角泡を飛ばしていた。机をたたき、胸ぐらをつかみあうのが日常だった」と述べています。
 第1章「青嵐会、その誕生」では、「芳名簿に血判を押すかどうかは、ぎりぎりまでもめた」ため、参加予定者31名のうち2名が「血判」を忌避したため、「実質29人で発足した」としています。
 また、その会の名前について、石原慎太郎が、「青嵐とは寒冷前線のこと。つまり夏に激しく夕立を降らせて、世の中を爽やかに変えて過ぎる嵐のこと」だと改装していることを紹介しています。
 また、会員たちの特徴として、「圧倒的多数が農漁村地域の出身者であること」を挙げたうえで、青嵐会の源流として、
(1)憲法改正と、自主武装による真の独立回復を目指すイデオロギー
(2)戦後一貫して子弟を都会に「奪われつづけた」農漁村の怨念
(3)青嵐会結成の2年半前に起きた三島由紀夫割腹事件の衝撃
の3つを挙げています。
 第2章「青嵐会と三島由紀夫」では、「両者の間に直接の結びつきはない」が、「青嵐会結成直後の興奮と盛り上がりは、『三島が放った炎が燃え移ったような』熱気」を感じさせたとしています。
 第3章「青嵐会の闘い 一九七三」では、「青嵐会は、マスコミの扱いは散々だった」が、どこへ行っても人が集まった」のは、「国民は建前の議論にへきえきしていた。青嵐会の演説界が、そうした渇きを幾分なりとも潤していたのは、まちがいなかった」と述べています。
 第4章「青嵐会の闘い 一九七四」では、「机を蹴倒し、灰皿を投げる。青嵐会会員の言動、とりわけ浜田幸一のそれが『議員としての品位に欠けるもの』(橋本幹事長の厳重注意)であることはまちがいない」と述べた上で、「この手口は、まちがいなく渡辺の『コーラ瓶事件』から学んだものだろう」と述べています。
 第5章「青嵐会のルーツ 戦後政治の中の書くと改憲」では、自民党の歴代政権が、「占領下の当面の政策」を墨守した結果、日本は今、
(1)「一方で自主独立の国民でありたいという気持ちと、楽をするために安保条約もしょうがないか」という矛盾をあまりにも長く抱え込んできたために精神の均衡が崩れてしまった。
(2)本来、憲法改正という大ナタでしか打破できない国家の基本問題を、小手先の解釈や、国会答弁で糊塗してきた、「欺瞞の堆積」が限界に達してしまったこと。
の2つの自縄自縛状態に陥っていると指摘しています。
 第6章「二つの分かれ」では、浜田の母の葬儀を舞台に、「浜田の真骨頂は、嗚咽し、涙で頬を濡らしながら舞台を降りたとたん、マスクを外したような表情で、『三列目にいた××町長、途中で席立ったぞ、当分、陳情受けるな』と秘書に下知するクールさにあった」と述べています。
 本書は、1970年代に日本を湧かせた政治集団の「熱」を今に伝える一冊です。


■ 個人的な視点から

 それにしても、青嵐会会員の子女11人が国会議員になっているというのは、元々は非エリート集団の集まりだった青嵐会にとって、今はエリートを生む母体となってしまったということで皮肉に感じます。


■ どんな人にオススメ?

・青嵐会って机ひっくり返したりする人達だと思っている人。

2010年4月16日 (金)

私たちはどうつながっているのか―ネットワークの科学を応用する

■ 書籍情報

私たちはどうつながっているのか―ネットワークの科学を応用する   【私たちはどうつながっているのか―ネットワークの科学を応用する】(#1912)

  増田 直紀
  価格: ¥840 (税込)
  中央公論新社(2007/04)

 本書は、「人と人との結びつき」である「ネットワーク」を主題とし、「人間がなすネットワークを知り、活用することについて考え」、ネットワークという「期待と不安をかき立てさせるこの単語を生活の糧に変えること」を目的としたものです。
 第1章「人のネットワーク」では、「個人差を無視して、同じ点で置き換えてしまうことが、ネットワーク的なものの見方の出発点」だとし、「このような単純化によって人々のつながり方にのみ着目し、この出発点からできるだけ多くの知見や教訓を引き出す」と述べています。
 そして、1998~99年に、「現実のネットワークに潜む性質が解き明かされ始めた」として、「複雑ネットワーク」研究の夜明けだと述べ、そのキーワードは、
(1)スモールワールド
(2)スケールフリー
の2つだと述べています。
 また、根とワークを理解するための道筋として、
(1)ネットワークとは何か。
(2)人のネットワークがどのような形をしているかを知ること。
(3)個人として、組織するものとして、どのようにネットワークを活用するかを知ること。
の3点を挙げています。
 第2章「世の中はスモールワールド」では、人間関係が織り成すネットワークの設計原理として、
(1)6次の隔たり
(2)クラスター
の2点を挙げています。
 そして、世界を6次の隔たりにしているのは、「ショートカット」ないしは「近道」と呼ばれる人間関係だと述べています。
 第3章「6次の隔たりを使う」では、「一見弱そうに見える枝が、情報を運ぶ上では強い力を発揮しうる」として、グラノベッターの「弱い紐帯」を取り上げ、「このつながりこそネットワークの近道であり、6次の隔たりの実現に書かせない役割を果たす」と述べています。
 そして、「上手にネットワークを築いている人は、自分と異なる世界で見つけた友人や、現在は道を同じくしない旧友とも連絡を保っていることが多い」として、「このような連絡を保つことは億劫に見えるかも知れないが、長い目でみると有効な情報獲得手段だ」として、「このようなマメさで、いざという時の問題解決能力に差が出る」と述べています。
 第4章「クラスターを使う」では、「信頼の解き放ち理論と対応付けてみると、クラスターにとどまる人は、内集団(自分のコミュニティ)の外を信用しない『社会的びくびく人間』であると考えられる」とした上で、「6次の隔たりにつながる信頼と、クラスターにつながる安心の両輪が大切」だと述べています。
 第5章「世の中はスケールフリー」では、「ネットワークにも『とっても』不平等な法則がある」として、「個人の持つ人間関係(枝)の数の偏り」を挙げ、「大抵の人は数人としかつながっていない」一方で、「沢山の人とつながっている人が、少ないながらいる」ネットワークを「スケールフリー・ネットワーク」と呼ぶとしています。
 そして、スケールフリー・ネットワークの作り方のうちで有名なものとして、バラバシとアルバートによる「BAモデル」を取り上げ、その特徴として、
(1)成長
(2)優先的選択(強いものに魅かれやすい)
の2点を挙げています。
 第6章「スケールフリーを使う」では、ハブになるための規準として、
(1)個人の能力
(2)先住権
(3)運
の3点を挙げています。
 第7章「ネットワークの中心」では、「ネットワークでどのくらい中心の近くにいるか」を表す「中心性」という概念について、
・次数中心性:枝の数で測る
・近接中心性:自分から他人までどれくらい近いか
・媒介中心性:橋渡しの度合いを測る
などを挙げ、「どの意味で中心になると良いかは場合による」としています。
 第8章「ネットワークと教育」では、「ネットワークを正しく知ることは、まず、様々な応用へ進むために大切である」とした上で、会社の組織改革などの文脈においては、「目の前の現実をネットワークという枠組みを用いて認識出来ることを、ネットワークをなす社員たちに実感してもらうこと」が出発点だと述べています。
 著者は、「人のネットワークは、これからも時代と共に形を変えていく」が、「ネットワークは、孤独を取り去り、あなたの内面を映し出す鏡となり、あなたの生活を支える右腕となってくれる」と述べています。
 本書は、ネットワークを正しく理解する助けとなる一冊です。


■ 個人的な視点から

 複雑ネットワークの本もひと通り出揃ってしまった感がありましたが、こういう一般向けに分かりやすく解説してくれる本はよいです。ゲーム理論も最初は専門書だけだったわけですし。


■ どんな人にオススメ?

・ネットワークには関心はあるけど難しい話は読みたくない人。

2010年4月15日 (木)

雇用システムの理論―社会的多様性の比較制度分析

■ 書籍情報

雇用システムの理論―社会的多様性の比較制度分析   【雇用システムの理論―社会的多様性の比較制度分析】(#1911)

  デヴィッド マースデン (著), 宮本 光晴, 久保 克行 (翻訳)
  価格: ¥3,990 (税込)
  NTT出版(2007/05)

 本書は、「雇用システムを構成する制度やルールを、徹底して演繹的に導出しよう」とし、上記のルールの導出を、
(1)効率性の要件
(2)履行可能性の要件
の2点を提示した上で、「効率性のルールと履行可能性のルールにはそれぞれ2つの方法がある」とする「卓抜したアイデアを提示」しているものです。
 第1章「雇用関係」では、「雇用関係が企業と労働者の協働のための安定した枠組みを与えるものであるためには、互いを機会主義から守る必要がある。つまり企業の側の柔軟性の要求がどのように満たされるのか、労働者の側の機会主義を阻止する要求がどのように満たされるのか、そしてこれによって経営者の権限の範囲がどのように合意されるのかが明らかにされる必要がある」とした上で、これらの条件を調べることによって、
(1)雇用関係において経営者の権限の範囲を確定するためには、1つではなく4つの方法があり、このことが近年の多くの国際比較研究を通じて明らかとされた国ごとの雇用関係の多様性の根拠となり、さらに本書で展開する雇用システムの4つの包括的モデルの基礎になる。
(2)形式的には、雇用契約は個々の従業員と雇用者の間で結ばれるものであるとしても、経営者の権限を確定するために、企業と労働者のそれぞれが採用する解決法は相互に依存しあっている。
(3)雇用関係のモデルは分権的な方法で普及し、かつ進化論的な安定ゲームのようにある程度までは自己拘束的であるとしても、それぞれの優位性と有効性は多くの場合、企業間に広がる雇用者と従業員の集合的組織によって高められる。
(4)選択された雇用関係のモデルは、企業内部の人的資源政策の全領域を形作る。
(5)企業の選択とそれを支える企業間の諸制度との相互依存の関係は、雇用関係をより広い範囲の「雇用システム」の一部として議論することを可能とする。
の「驚くべき結論が導かれる」と述べ、「雇用システムの理論」は、「労働市場と人的資源管理に関わる制度理論を与えるものであり、これによってそれぞれに異なる企業の意思決定の間の相互依存の関係に分析の力点が置かれる」としています。
 また、「仕事の課題が詳細な職務記述書によって完全に定義できない」理由として、
(1)そのような業務の遂行のためには、その進め方についての経験的知識や暗黙知の応用が含まれる。
(2)経済的観点から見て、職務を構成する業務を正確に定義することの利点はすぐに無くなってしまう。
(3)一般に企業内でなされる仕事量の測定が、業務の正確な定義や測定に基づくのではなく、仕事の等級や賃金の等級をめぐる労働者グループとの交渉に基づく。
の3点を挙げています。
 著者は、「本章は雇用関係の特別の性質に関するコースとサイモンの分析から始め、それを近代の最も一般的な代替物、すなわち売買取引のある種の変種と比較した」と述べています。
 第2章「経営者権限の限界」では、「雇用関係が労働者にとって魅力あるものとなるためには、仕事の配置に関する経営者の権限を制約する4つの主要な取引ルールが存在する」として、
(1)職務(work post)ルール
(2)職域(job territory)/職種(tool of the trade)ルール
(3)職能(competence rank)ルール
(4)資格(pualification)ルール
の4点を挙げています。
 そして、「雇用の安定的な枠組みを構成するためには、2つの重大な問題が解決されねばならない」として、
(1)効率性の制約:職務の要求と労働者の能力を一致させるための適切な手段を与えるという問題
(2)履行可能性の制約:業務を特定の労働者グループに割り当てるために様々に異なる仕事環境の中で容易に適用できる十分に堅固な規準を与えるという問題
の2点を挙げています。
 また、「労働者と企業の双方が雇用関係から利益を引き出すと同時に、他方の一方的行動によってそのことが危うくされる領域」として、
(1)職務の境界と仕事の配分
(2)雇用の継続
(3)業務の可変性と「普段と異なる業務」
(4)技能の認定と伝達
の4点を挙げています。
 第3章「雇用ルールの普及と優位性」では、「Milgrom and Roberts (1992)が明らかとするように、従業員のインセンティブを仕事のうちの測定可能な側面と結びつける結果、従業員の行動はその方向に偏り、質的側面から乖離する。このように業務の特定化を大きくすることからの利得は当初増大し、その後横ばいとなることから、そのコストは最初のうちはゆっくりと増大し、その後急激に増大することがわかる」と述べています。
 また、「集合的な制度はさらに、取引ルールが職場で適用される柔軟性を高めることを可能とする」として、
(1)それは仕事のルールの核となる指標を示すための準拠枠となり、これを基準として協力の度合いを測ることを可能とする。
(2)それは「しっぺ返し」の協力戦略が硬直性の原因となるのを阻止することを可能とする。
(3)それは当事者の一方の側が示す情報の妥当性を確証することによって、ルールの柔軟性を支えるものとなる。
の3つの方法があると述べています。
 第4章「分類のルールと雇用システムの統合」では、「国ごとの職種別賃金調査をみると、熟練職種の定義において非常に大きな違いがあることが直ちに明らかとなる」として、
(1)企業内の職務階梯上や職務等級内での職務の地位
(2)企業内の地位のヒエラルキーにおける労働者の位置
(3)別個の労働市場に分類される職業
(4)企業間の認定された訓練と資格に基づく技能のレベル
の「主要な技術概念が識別できる」と述べています。
 また、「雇用システムの概念は、雇用関係を支える機能がどの様の実現されるのかに関して、ある一定の事由度を残すものとなる」が、「そこにはいくつかの制約が存在する」として、
(1)機能中心ルールは業務中心ルールよりも、労働者と経営の間の協調関係により大きく依存するものである。
(2)訓練アプローチは企業間の制度により大きく依存するものであることによって、雇用者が提供する職種別の技能訓練の割合をより大きなものとし、これによって訓練アプローチと職務設計の統合が維持される。
(3)4種類のルールのうち、職務ルールは企業間の諸制度に依存することが最小になる。
の3点を挙げています。
 第5章「データからみた雇用システムの多様性」では、「これまでに延べられた4つの雇用関係のモデルが各国の国民経済において大きな割合を占めていることを実証する」としています。
 そして、「企業が、生産アプローチか訓練アプローチのどちらを主に採用しているかを識別するために、5つの変数が挙げられる」として、
(1)仕事のデザイン
(2)技能の移転可能性
(3)年功に対する報酬
(4)職業分類における職業別技能の扱い
(5)職業別労働市場及び内部労働市場の構造と報酬の関係
の5点を挙げています。
 第6章「業績管理」では、「一般に、従業員と経営者は、業績規準に対して異なる規準を持っている」として、「経営者はプリンスパル=エージェント問題が想定するような従業員のモラル・ハザードに関心を持っている」一方で、「従業員は、企業の要求水準が無制限に上昇するのではないかと懸念している。また、査定に伴う曖昧さを企業が悪用して賃金の抑制に使われるのではないかという懸念を持っている」と述べています。
 著者は、「業績管理は経営者の権力の中でももっとも重要な権力の1つである」が、「経営者の選択には2つの制約がある」として、
(1)経営者や労働者による機会主義的行動があるため、業績管理そのものがもともと容易ではないということ。
(2)取引ルールが、仕事の割り当てと同時に業績管理を規定しているということ。
の2点を挙げています。
 第7章「報酬とインセンティブ」では、「企業が従業員を雇用しているとき、企業は何に対して報酬を支払っているのであろうか?」という単純な質問の背後には、「雇用の本質と報酬を規定しているルールに関する多くの微妙な仮定が存在する」とした上で、「各国のさまざまな価格ルールが、分類システムや業績管理を通じてどのように賃金構造に影響を与えるかを分析する」上で、
(1)職務給がどのように、機会主義的な行動をコントロールしているか
(2)分類と成果主義賃金の関係
(3)「ヒエラルキーに基づく」分類と「職業に基づく」分類の影響力
の3つの疑問点に着目するとしています。
 そして、「成果主義の最大の問題点の1つ」として、「従業員が、どのように賃金が決定されているかが分からないという不満を持つこと」だと述べています。
 また、「業績給の運用をよく観察すると、ここまで展開してきた雇用関係の理論の2つの重要な論点が浮かび上がってくる」として、
(1)業績評価の公平性に対して、従業員が信頼できるようにするためにはどうしたらよいか、ということ
(2)業績給は、従業員から追加的な報酬によって追加的な努力を引き出すための手段である。どの程度の追加的な努力が行われたか、を考える際を考える際には職務分類のような比較対象が必要となる。
の2点を挙げています。
 第8章「技能と労働市場の構造」では、「労働者や企業が、技能形成に安心して投資できるようにするためには、仕事の割当てを決めるための安定的な枠組みが必要である」とした上で、「移転可能な技能の習得に必要な費用の全てを訓練生が負担する場合」、
(1)技能形成への投資に対して、十分な収益が得られるという見通しが必要である。
(2)雇用者は訓練に必要な費用を回収できなければならず、雇用者の費用と便益のバランスを考えると、訓練生が一定期間以上勤続するようにするためのしくみが必要となる。
の2つの問題が発生すると述べています。
 第9章「雇用システムと企業の理論:社会的多様性」では、「本書は国際比較研究が明らかとする雇用関係のもう一つの側面、すなわち国ごとの多様性を説明することを目的と」し、「機能的方法、すなわち周知の事実から出発するのではなく、本書は意図的に演繹的方法を採用し、それによって国際比較から得られる事実がどこまで説明できるかを試みた」と述べ、その理由として、
(1)演繹的方法は基本的前提の全てを明示する。するとその前提を受け入れるなら、正しく導出される限りにおいて、その結論は受け入れられるべきとなる。
(2)労働市場の行為者に対する法的ルールの影響は、「外生的」とすることによってかなり誇張されている。
の2点を挙げています。
 そして、「近年企業の理論は、コースとウィリアムソンを手掛かりとして、企業の主要な存在理由を取引コストと機会主義のコントロールに求める論者と、ペンローズ、チャンドラー、小田切の見解から出発し、企業を『資源の束』とみなる論者の間での論争を見てきた」とした上で、「ここで展開する雇用システムの理論は、2つのアプローチを総合する視点を提示する」と述べた上で、「4つの取引ルールは、技能と職務の柔軟性の異なった組織モデルを生み出し、これによって『資源ベース』の企業理論の概念に大きな内容を与えるものとなる」としています。
 また、「企業の間に広がる制度の重要な貢献」として、
・企業内の取引と分類のルールを予測可能とすることによってその作用を強化する。
・職場の信頼関係の形成に寄与する。
・再交渉のための経路を与える。
・職業別労働市場を補完し、それよりも弱く内部労働市場を補完する。
の4点を挙げています。
 著者は、「雇用システムの社会的多様性を生み出す要因として、一国の職業教育システムや労働法や労使関係システムなどを取り上げることが一般的となっている」背後には、
(1)そこから生まれるルールは雇用システムにとってある意味で外生的であり、独立に決定されるということ。
(2)制度はその影響の範囲内において社会的になるということ。
の2つの暗黙の前提があるとした上で、「本書において示したいくつかの事例」は、「最初の前提は誤りであり、そして一般に想定されることではあるが、『社会的』ということを、『一国の制度』の影響の範囲と同一視することは、むしろ大雑把すぎる」ことを示すとして、「これに代わって、本書の雇用システムの理論は社会的多様性に関するもう1つの見解、すなわち組織の柔軟性を与えると同時に、経営者の権限をどのように規制するのかという問題に対する解答として、雇用システムの社会的多様性が生まれることを提示する」としています。
 本書は、雇用システムに関する新しい見方を示してくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 NTT出版の比較制度分析関係のシリーズは充実していていいですね。巻末の宣伝をみると大体読んだものばかりだったのですが、クラウチ=ストリークの『現代の資本主義制度――グローバリズムと多様性』だけ読んだことなかったです。ちょっと毛色が違う感じがして手が出そうにありませんが。


■ どんな人にオススメ?

・雇用システムの多様性がどのように生まれるのかを知りたい人。

2010年4月14日 (水)

江戸時代の江戸の税制と明治六年地租改正法公布

■ 書籍情報

江戸時代の江戸の税制と明治六年地租改正法公布   【江戸時代の江戸の税制と明治六年地租改正法公布】(#1910)

  土方 晋
  価格: ¥2,310 (税込)
  税務経理協会(2004/03)

 本書は、江戸から明治にかけての税制の変化を通じて、明治維新を描いたものです。
 第1章「番地と税金」では、「土地に番号が付けられたのはそう古くはなく、明治維新後でまだ136年の歴史しか」ないと述べています。
 第2章「検地と年貢」では、年貢が重い順に、
(1)旗本領
(2)幕府領(天領)
(3)寺社御朱印領(山王領等)
の支配者によって厚薄の差があったと述べています。
 第5章「米商人と米取引」では、「田租は米納ですが、畑租は金納のため米麦雑穀、野菜などを売ってお金に変えねば年貢は払えません」とした上、「杉並各村は地味が悪く、米質が悪いとされていたので、天領各村の年貢米は浅草蔵前の米蔵には入れてもらえず、他の有料米を買って代納する『御回米買納』か幕府の公定相場である『御張紙値段』によって租米をお金に代えて収めねばなりません」と述べています。
 第12章「江戸の土地所有制度と保有税制」では、日本の土地制度の四大改革として、
(1)大化の改新
(2)太閤検地
(3)地租改正
(4)農地改革
の4点を挙げ、「江戸時代の土地制度は、(2)の太閤検地から(3)の地租改正まで約300年間続いたわけです」と述べています。
 第14章「町地と沽券地の譲渡について」では、「江戸の町人間の土地売買は通例では家屋付きであり、名主宅で証文(沽券状)と引き換えに金子を受領し、名主、五人組、町中に祝儀をふるまいました」とした上で、「この沽券状の商習慣が、明治6年の地租改正法の地券精度に発展する」と述べています。
 第15条「明治維新時の武家地版公と払下げ」では、「明治3年調査の武家地は朱引内7,644坪、朱引外4,008千坪計11,692千坪で江戸の6割を占める広大さであるが、上記3,365千坪は、武家地の3割に当たる。したがって、全官庁用地がほぼ無償取得であり、武家地転用の恩恵の絶大なることが判る」としています。
 第16章「明治維新時の寺社地収公と払下げ」では、「明治維新により江戸面積の6割を占める広大な大名屋敷や旗本屋敷の収公と官庁用転用が始まるや、江戸面積の2割を占める寺社地の収公も続いて始まった」としています。
 第18章「壬申地券発行と地租改正法公布」では、明治6年7月28日に交付された地租改正法の法令について、
(1)上論
(2)地租改正法(太政官布告)
(3)地租改正条例
(4)地租改正施行規則
(5)地方官心得
の5つからなっていたとして、「この大事業を推し進めていた主管者は大蔵省事務総裁 参議 大隈重信」であったと述べています。
 第20章「経済史的に見た日本橋の歴史」では、文化文政天保頃の江戸の人工は、「少なくとも100万人超の人口があった」として、「そおころロンドン、パリをはじめとするヨーロッパの諸都市は、まだこれだけの人口を有していない。おそらく中国の北京だけが、江戸と争う人口を有していたとされており、当時世界第一の規模の都市であったわけである」と述べています。
 本書は、江戸時代の暮らしを経済の面から見た一冊です。


■ 個人的な視点から

 江戸時代の税金については、「年貢」くらいしか知識がない人も多いと思いますが、その土地の支配者によって年貢の重さにも違いがあったことや、米質が悪いと換金しなければならなかったこと、町人は税金を払っていなかったことなど、分かりやすく解説してあってよかったです。


■ どんな人にオススメ?

・江戸時代の税制を知りたい人。


2010年4月13日 (火)

ミラーニューロン

■ 書籍情報

ミラーニューロン   【ミラーニューロン】(#1909)

  ジャコモ ・リゾラッティ, コラド・シニガリア (著), 茂木健一郎 (監修), 柴田裕之 (翻訳)
  価格: ¥2,415 (税込)
  紀伊國屋書店(2009/5/19)

 本書は、「他者が行っている行為を、あたかも自分が行っているかのように、鏡さながら自分の脳の中に反映する」ニューロンである「ミラーニューロン」について書かれたものです。
 第1章「運動系」では、「コーヒーカップをつかむという単純な動作の背後では、感覚(視覚・触覚・嗅覚、固有受容性の感覚(訳注 各部位の位置や、体に加わる圧力といった感覚)など)、動機に基づく行為同士の関連、体の各部の配置、運動の実行が複雑に絡み合っている。そして、姿勢の調整(個々の動きの実行とその結果を予測し、実行に必要とされる体の力学的バランスの制御を保証するもの)や、学習のプロセスが果たす役割と、対象物一般を識別し、その位置を突き止め、手を伸ばし、つかむことですでに身につけたノウハウもこれに絡んでいることはいうまでもない。これらの要因がすべておおむね足並みをそろえ、互いにも、この世の中に満ちているものとも、作用しあうのだ」と述べています。
 そして、従来の見方に重大な変化をもたらしたものとして、「(従来、『連合野』というレッテルを貼られていた)頭頂後部の皮質野は、感覚野から強い求心性情報を受け取るばかりか、無顆粒前頭皮質と類似の運動特性も持っており、無顆粒前頭皮質とともに高度に特化した皮質内回路を現に形成している、という発見」を挙げています。
 第2章「行動する脳」では、つかむというプロセスについて、手が何かを実際につかむためには、
(1)対象物の幾何学的な特性に関する感覚情報を変換し、つかむにふさわしい形状を指に取らせるメカニズムを持つこと。
(2)実際につかむために、手、とりわけ指の動きを制御できること。
の2つが必要だとして、「このつかむという機能には第一次運動野(F1野)の関与が必要であることは、以前から知られている」と述べています。
 そして、AIPとF5野が、「視覚情報を行為の実行に必要な運動のフォーマットに変換するとき」には他rしている役割について、「AIPニューロンのうち、『視覚優位』と『視覚・運動』のカテゴリーに入るものの持つとりわけ重要な特性のひとつが、特定の三次元の刺激に対する選択的反応であることがわかっている」と述べています。
 また、「運動行為の語彙という観点からF5野を解釈することには、重要な機能的意味合いがある」として、
(1)特定の運動行為をk-度するニューロンという概念から、なぜ私たちは日ごろからほとんど同じやり方でものを扱うかが説明できる。
(2)語彙があれば、そうした行為とAIPニューロンによって取り出されたアフォーダンスとの連合が促進される。
(3)語彙は、従来は感覚系に帰するとされてきた認知機能の根底にある行為の「レパートリー」を運動系に提供する。
の3点を挙げています。
 第3章「周りの空間」では、「F4野に関して一番意外な発見」として、「ほとんどの二重様相(バイモーダル)ニューロンの視覚受容野は対応する体性感覚野にしっかり固定されていて、そのため、視線の方向とは無関係である」と述べた上で、「サルが空間の情報を処理するときのF4野やVIPの役割を考えると、ディ・ペレグリノらが報告した現象には、バイモーダルニューロンの基盤があった可能性は十分ある」と述べています。
 また、「物と空間は実際的な状況に即応し、その状況によって前者は『ヴァーチャルな行為の極』の役割を果たし、後者は、そうした行為によって展開された『関係の体系』で定義づけられ、体の各部位に固定されているようだ」として、「物と空間の密接な結びつきによって、空間無視の研究で見過ごされがちな疑問も解明される」と述べています。
 第4章「行為の理解」では、「つかむ、持つ、いじるといった運動行為の間に、この皮質野のニューロンはその大多数が発火し、視覚刺激にも反応するものがある。視覚刺激に反応するニューロンの運動特性(たとえば、ニューロンがコードするつかみ方のタイプ)と視覚的選択性(対象物の形、大きさ、向き)は明らかに呼応しており、そのおかげで、対象物に関するし各情報を適切な運動行為に変換するプロセスでこれらのニューロンが果たす役割が決定的なものとなる」として、このようなニューロンは「標準(カノニカル)ニューロン」と呼ばれるとした上で、1990年代の初めに行われたサルを使った実験で、「カノニカルニューロン以外にも視覚―運動特性を持ったニューロンのタイプがあることがわかった」として、「驚いたことに、サル自身が運動行為(たとえば食べ物をつかむ)を行ったときと、実験者が運動行為を行っているのをサルが見たときの両方で、活性化するニューロンが見つかった」として、「これらのニューロンはF5野の皮質凸状部で記録」され、「ミラーニューロン」と名づけられたと述べています。
 そして、「ほかのミラーニューロンとは違い、コミュニケーション・ニューロンが『自動詞的』行為を見たときに反応するというのは、注目に値する」と述べた上で、「手の運動行為にかかわるミラーニューロンや接触ニューロンとは違い、コミュニケーション・ニューロンは視覚反応と運動反応がまったく一致しない」ことを指摘しています。
 また、「F5野ミラーニューロンとPF-PEG結合体のミラーニューロンの機能は、その発生源がもっとも古いと考えられる」として、「これらのニューロンの主な働きは『運動事象』、つまり、『他者が実行した行為』の意味を理解することにあるようだ」としたうえで、「ミラーニューロンは、その視覚―運動特性のおかげで、視覚情報を運動知識と強調させられる。行為の最中にミラーニューロンが運動ニューロンとして活性化する事実は、これらのニューロンが行為のタイプや様相(モダリティ)、タイミングをコードするだけでなく、行為の実行を制御することによっても確認できる」と述べています。
 第5章「ヒトのミラーニューロン」では、「サルでミラーニューロンが発見されたとなれば、当然、ヒトの脳にもそれに似たシステムがあるかもしれないという考えが湧く」として、「現在ミラーメカニズムとみなされている仕組みを裏付ける証拠は、間接的なものではあるが、 脳波図(EEG)の研究で見つかっている」と述べた上で、「かなりの重複部分はあったものの、ミラーニューロン系は体性感覚局在的に配列され、手や口や足の動きそれぞれに対応する大脳皮質の部位を持つようだった」と述べています。
 そして、「電気生理学と脳画像研究はともに、サルで発見されたものとよく似たミラーニューロン系がヒトにも存在していることを示している」が、「両者には重要な違いがいくつかある」として、
(1)ミラーニューロン系はヒトでは、サルの場合よりも広範囲の皮質を含むように見える。
(2)ヒトのミラーニューロン系には、サルで発見されていない特性がある。
(3)「他動詞的」な運動行為の場合、対象物への実際の働きかけは絶対条件ではない。
などの点を挙げ、「サルと同じでヒトの場合も、他者の行為を目にすると、その行為の構成と実行を担う運動野が直ちに活性化し、この活性化を通して、観察された『運動事象』の意味が解読できる。すなわち、目的思考の動作の観点から理解できる」と述べています。
 そして、重要なのは、「ミラーニューロン・メカニズムが、行為者と観察者の両方に共通する、行為の意図的側面を捉えるということ」だと述べています。
 また、「他者の行為が持つ意味を理解するのに運動知識が決定的役割を果たしている」として、「運動知識と視覚情報という二つのモダリティの間に大きな違いがあるのは間違いない。運動知識というモダリティを通した場合にだけ、『見る側』は、観察している行為に対してあたかも自分が行っているかのような一人称的感覚を持ち、その結果、その行為の意味をただちに捉えることができる」と述べています。
 第6章「模倣と言語」では、「ミラーニューロンが発見されるとすぐに、これが模倣能力の神経基盤なのではないかという疑問が湧き起こった」が、「模倣とは何かを厳密に定義しておくべき」だとして、
(1)おもに実験心理学者が使うもので、個体が自分の運動レパートリーにすでに属する行為を他者が実行するのを見て、それを再現する能力。
(2)主に動物行動学者に受け入れられている考え方で、個体が観察によって新しい行為のパターンを学習し、以後それを細部に至るまで再現できるようになるプロセス。
の2点を挙げた上で、「ミラーニューロンの発見は、観念運動適合性原理の再構築の可能性を示唆している」と述べています。
 そして、「ミラーニューロン系は、観察した行為を運動の言語でコード化し、その行為を再現可能にするという、模倣における根本的な役割を果たしているように思える」と述べています。
 また、「ミラーニューロン系は、元来の役割はつかむ、持つ、手を伸ばして取るなど『他動詞的』な手の行為を認識することだが、全身的な進化によって、個体間のコミュニケーションの原書形態が出現するのに不可欠な神経基盤になった可能性はないだろうか。ヒトの口頭言語の制御と生成を司り、皮質半球の外側面にある回路は、解剖学的に似た位置にあるこの系が進化したとは考えられないだろうか」として、「まず模倣し、次に自分の運動レパートリーにある行為を身振りでやって見せて、最後に腕-手部による『原始的合図』を行い、コミュニケーションを性格で確実なものにするというヒト科の動物の能力が、このコミュニケーション系の進化で決定的な役割を果たしてきたに違いない」と述べています。
 著者は、実験から得られた神経生理学的データが、「言語獲得に向けての長い進化プロセスには一連の重要な出来事(口-喉頭部の系と手の系の統合、おもに模倣の動作による『原始的合図』のレパートリーの形成、動作と音からなる二重様相の『原始的言語』の発生、そして最後に、おもに音声によるコミュニケーション系の出現)があったことを示しており、それぞれの出来事はミラーニューロンの発達のような、ひとつのメカニズムの発生の一段階と結びついているように見える」と述べています。
 第7章「情動の共有」では、「嫌悪を感じるときと、他者の嫌悪感を知覚するときには共通の神経基盤を使うこと、そして、どちらの場合にも島の関与が不可欠であることは、臨床データに加えて画像化や電気刺激による脳の研究によっても裏付けられるようだ」として、「他者の感じた嫌悪を真に理解する、言い換えれば、ある時点で他者の感じていることを実際に理解するときは、どうやらそれは推論や連想といった認知プロセスのかたちをとることも、そうしたプロセスに基づくこともなさそうだ」と恩べ低ます。
 そして、「ある情動を表している他者の顔を観察すると、前運動皮質音ミラーニューロンが活性化する。次に、これらのニューロンは、自らの活性化パターンのコピー(遠心性コピー)を、体性間隔野と島に送る。これらの領域の活性化は、見るものが自分の情動を自発的に表現しているときにおきるパターンと類似しており(これが『あたかも(アズ・イフ)』の所以)、他者の情動反応を理解する基盤となる」と述べています。
 また、「情動のミラーニューロン系は、他者の情動を一瞬で理解することを可能にする。この瞬間的な理解は、より複雑な対人関係の大半の基盤となる共感にとって、必要条件だ。とはいえ、他者の情動の状態を内臓運動レベルで共有することと、その人に共感することは、まったく違う次元の話だ」と述べています。
 著者は、「私たちはコーヒーカップを持ち上げるといった単純な行為を出発点に、運動系の構成と機能性を分析し、周囲にあるものへの働きかけを統制する神経回路を識別してきた。するとミラーニューロン系の性質とその範囲の解明によって、広範な行動--私たちの日常生活を特徴づけ、私たちが社会的関係や対人関係の網を折りなすのに使う広範な行動ーーを司る脳のプロセスを研究するための土台を得ることができた」と述べています。
 本書は、私たちの社会がミラーニューロンという脳の部位によって支えられていることを教えてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 脳科学のような分野は10年前に学んだことがすっかり役に立たなくなったりするスピードの速い分野なので、「脳科学の第一人者」と言われる人でも最新の研究はフォローしきれないんじゃないかと思ったりもします。フォローしているだけだと特定分野を深く追求できないということで。


■ どんな人にオススメ?

・当たり前にできることが当たり前ではないことを知りたい人。

2010年4月12日 (月)

ネーミングライツの実務

■ 書籍情報

ネーミングライツの実務   【ネーミングライツの実務】(#1908)

  市川 裕子
  価格: ¥2,940 (税込)
  商事法務(2009/11)

 本書は「一般的に、スタジアム、アリーナ、文化施設などの公共施設などに、『名称』を付与する権利をいう」とされている「ネーミングライツとは何かを論じているものです。
 著者は、「ネーミングライツとは何か?」という当初の問題に遡りつつ、
(1)ネーミングライツ定着に向けた関係者の取り組み方法
(2)スポンサー企業の募集方法
(3)スポンサー企業のコンプライアンス違反などを想定した契約条項の策定方法
を大きな枠組みとしながら紹介し、論じていくとしています。
 第1章「ネーミングライツとは何か」では、「ネーミングライツ」を、「施設、設備等対象物に対し名称を付与することに一定の経済的価値を見出し、この名称を付与する権利」と定義しています。
 そして、日本国内の継続的ネーミングライツの類型として、
(1)プロ・スポーツ施設
(2)プロ・スポーツ施設を除く一般公開施設
(3)施設以外のもの
の3点を挙げています。
 第2章「ネーミングライツ導入による効果」では、スポンサー側の効果について、ネーミングライツの市場価値は、
(1)広告媒体としての価値
(2)企業の社会貢献性を示す企業イメージの向上
の2点に集約できるとしています。
 第3章「日本国内におけるネーミングライツ案件の分析」では、
・神戸総合運動公園野球場(現:スカイマークスタジアム)
・宮城球場(現:クリネックススタジアム宮城)
・渋谷公会堂(現:C.C.lemonホール)
・西武ドーム
などの事例を紹介しています。
 そして、神戸市が検討した問題点として、
(1)補助金等に係る予算の執行の適性化に関する法律
(2)屋外広告物条例
の2点を挙げ、この事例の特色として、「スポンサーであるソフトバンクBBとヤフーは、施設所有者である神戸市と直接契約していない点」を指摘しています。
 また、渋谷公会堂の協定所の特色として、ネーミングライツの内容を、
(1)ネーミングライツ
(2)本施設名などの掲示請求権
(3)本施設名の使用権
に分類し、詳細に義務として記載している点を挙げ、「本件は、エンタテイメント文化の集積地にある渋谷に存し、知名度の高い『渋谷公会堂』であるからこそ、使用できた手法である」と指摘しています。
 第4章「スポンサーの決定方法と手続きの概観」では、「近年、ネーミングライツ導入を検討する施設所有者が、スポンサーを見つけ最終的に契約締結に至ることは、難しくなってきている」とした上で、施設所有者が抱える課題として、
(1)スポンサー獲得の困難さ
(2)料金設定および契約期間の妥当性
の2点を挙げています。
 そして、導入手続きとして、
(1)公募による方法
(2)広告代理店を介する方法
の2つを挙げ、「現実には、募集後数ヶ月、あるいは1年程度にわたっても応募企業がなく店晒し状況となるケースも散見される」として、「このような場合には、かえって施設の価値ならびにネーミングライツの価値を下げる要因になりかねないことに留意すべきである」と指摘しています。
 第5章「ネーミングライツ契約書をつくる」では、「契約書自体は、シンプルなものが多い」が、「ネーミングライツを『権利』と捉える以上、施設所有者とスポンサーの権利と義務を定め、できる限り契約締結時に内容を明確にしておくことが将来の紛争防止に資することは間違いない」と述べています。
 第8章「ネーミングライツの今後」では、今後、日本のネーミングライツは、
(1)著名施設:契約金は高額となり、大企業をスポンサーとして、契約更新を続けて名称を定着させる。
(2)地方施設:契約料金を一定程度低額化した上で、長期の契約期間を提示して施設の維持管理費の捻出に努める。
のように二分化していくと思われるとしています。
 本書は、日本ではまだ案件の少ないネーミングライツの手続きを解説した一冊です。


■ 個人的な視点から

 日本ではまだネーミングライツの事例の蓄積は少ないにもかかわらず、行政改革の成功例として紹介されることが多いので、安易にネーミングライツを導入したがる傾向がありますが、実際には、手続きやコンプライアンス問題なので見えないコストが相当かかるものであり、費用対効果で疑問があるところも少なくないのではないかと思います。


■ どんな人にオススメ?

・ネーミングライツを検討することになってしまった担当者さん。

2010年4月10日 (土)

浦島太郎の日本史

■ 書籍情報

浦島太郎の日本史   【浦島太郎の日本史】(#1907)

  三舟 隆之
  価格: ¥1,785 (税込)
  吉川弘文館(2009/11)

 本書は、「古代の浦島子伝承から中世の浦島太郎へ、そして近世のさまざまな浦島太郎と生み出し、やがて近代の教科書の中に統一されていく、という展開」をみせた浦島説話について、「この変化には必ずその時代が反映されているはずではないか」として、「浦島太郎を、歴史学の視点から見ること」を試みたものです。
 プロローグ「さまざまな浦島太郎」では、歴史書にある浦島太郎は「浦島子」として、実在した人物として伝えられているとしたうえで、「昔話の浦島太郎は、基本的なモチーフはあるものの、地域密着型の創作が入り、一種の文芸的作品となっている」と述べています。
 第1章「古代浦島説話の成立と説話の源流」では、『丹後国風土記』の浦島説話が、われわれの知っている「浦島太郎」と異なる点として、
・舞台が丹後国という地域で、時代が雄略朝であるという点に限定される。
・亀を助けるのではなく、釣り上げた亀が美女となって結婚し夫婦となる異類神婚譚である。
の2点を挙げた上で、浦島説話には神仙思想の影響、特に『遊仙窟』の影響が現れていると述べています。
 また、『万葉集』の浦島説話について、「亀が出てこない点や白髪の老人となって死んでしまう点など、細部については丹後系浦島説話とは異なるところが多い」が、「全体的なモチーフは『日本書紀』や『丹後国風土記』と同一である」と述べています。
 さらに、「中国にも浦島説話と似た説話が存在する」として、中国の長江流域の洞庭湖の竜女説話について、「中世の『御伽草子』の浦島太郎の源流ということは言えても、古代の浦島説話の源流にはならない」と述べたうえで、「神仙思想の大陸的な影響を強く受けた丹後系の浦島説話と、それをベースとしながらも、日本神話的な展開となった『万葉集』の浦島説話と、複数の浦島説話が奈良時代には発生したものと思われる。先後関係から言えば、丹後系の方が古い可能性がある」として、「中国に源を発しながらも、日本に渡来して説話として成立・展開した浦島説話は、一つではなかった」と述べています。
 第2章「浦島説話の展開と浦島太郎の登場」では、三十六歌仙の一人、中務の「夏の夜は浦島の子が箱なれやはかなくあけてくやしかるらん」という詩を取り上げ、「あけて(開けて)くやりい」のは玉手箱だが、それが夏の夜の「はかなくあけて(明けて)くやしい」にかかる点だと述べています。
 そして、『御伽草子』の浦島太郎の物語について、「古代的な要素を継承しながら新たな要素が出現したのが、中世の浦島説話の特徴」だとしたうえで、中世浦島太郎の物語で画期的な点は、「動物報恩譚という、昔話によくある恩返しのストーリーが強調されている点にある」と述べています。
 第3章「庶民の浦島太郎」では、神奈川にかつてあった観福寺について、「浦島観音を祀っていたため通称を『浦島寺』といっていた」として、「神奈川の浦島伝承は、中世末期から近世初期にかけて創作されたものと思われるが、木曽の浦島伝承と違い地元の庶民によって信仰され、現在まで継承されてきた」と述べています。
 また、「江戸時代の作家の想像力はすごいと言わざるをえない」として、「江戸時代の浦島物語には、竜宮から帰ったその後の浦島物語を創作したものが多い」として、「浦島太郎の歴史を見てきて、どの時代でも重要なのは、玉手箱の中身が何か、という問題であった」が、「それを江戸時代の草双紙の作者たちは、いとも簡単に壊して笑いに変えてしまった」と述べています。
 第4章「浦島太郎の近代化」では、明治時代の国定教科書について、「こうしてわれわれは、それ以前のさまざまな浦島太郎の姿を知ることなく、教科書の浦島太郎が、『浦島太郎』のすべてであると、おそわるのである。それは明治政府が画策した、中央集権的な国家主義教育の成果でもあった。われわれの知る浦島物語の不自然さは、本来意図していた重要な宗教性を削除したため生じた」と述べています。
 エピローグ「浦島太郎の未来」では、「浦島太郎は、不老不死の物語の中から生まれた。日本の歴史と共に生きてきた。古代から中世、そして近世・近代と、いつの時代でも愛されてきた。大日本帝国は滅びても、浦島太郎は滅びなかった。防空壕の中で、そっと生き延びてきた。戦争なんかでは、死ななかった。そして、今も生きている。日本人がある限り、浦島太郎も生き続ける。そのようにして浦島太郎は、1600年もの歳月を生きてきた。竜宮城にいた時間より、はるかに長い年月を、この日本で生きてきた」として、「浦島太郎は、不老不死だ。昔も今も、そしておそらく未来も」と述べています。
 本書は、誰でも知っている浦島太郎の本当の意味を教えてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 浦島太郎の話に限らず、日本の昔話の来歴をきちんと調べた本を読んでみたいです。一時、グリム童話が流行ったみたいに。


■ どんな人にオススメ?

・浦島太郎の話は子供だましだと思う人。

オホーツクの古代史

■ 書籍情報

オホーツクの古代史   【オホーツクの古代史】(#1906)

  菊池 俊彦
  価格: ¥798 (税込)
  平凡社(2009/10)

 本書は、これまで日本の歴史院ほとんど登場することがなかったオホーツク海沿岸の古代史について、「沿海の生活者、海獣狩猟、クジラ漁、ブタやイヌの家畜飼育、大陸との交易、このような特徴を持ったオホーツク文化の人達はどのような人達だったのだろうか」を追ったものです。著者は、「7世紀に、環オホーツク海を舞台に唐に朝貢使節を派遣した流鬼や、またその名が中国に知られた夜叉は豊かな海の幸に恵まれて、広範囲な交流・交易を展開していた。この流鬼はサハリンのオホーツク文化の人たちであり、夜叉はオホーツク海北岸の古コリャーク文化の人達だった」のではないかとして、「流鬼はニヴフ民族に相当し、夜叉はコリャーク民族に相当すると考えることができる」としています。
 第1章「流鬼国の長高施設」では、「中国の唐の貞観14(640)年に、長安を去ること1万50000里の彼方にある流鬼の国から、朝貢の使節が長安にやってきた」とされているが、「流鬼の入貢はこの一回限りであり、また流鬼国に関する資料が少ないため、流鬼国はどこにあったのか、流鬼とはどんな人たちだったのか、などの不明な点が多く、これまでに様々な議論を呼んでいる」としています。
 第2章「流鬼国はどこにあったのか」では、「資料の解釈の相違から、流鬼国の所在地はカムチャッカ半島ともサハリンともみなされてきた」が、「これを新たに考古学の資料を検討することによって、流鬼国=カムチャッカ半島説を補強した」のが、佐藤達夫だとしています。
 第3章「オホーツク文化の大陸起源説」では、「オホーツク文化の土器は、縄文文化の土器や弥生文化の土器とほとんど同じ頃に発見され、学会誌に報告されていた」が、「それ以来100年を越すにもかかわらず、今日でもなお、オホーツク文化という考古学の用語がほとんど知られていない」ことを指摘しています。
 第4章「オホーツク文化と流鬼」では、「それまで大陸に類例があると言われながら、実際にはその確実な類例が知られていなかったオホーツク文化の異物について、靺鞨文化の移籍や女真文化の遺跡から確実にその類例が出土していることが明らかにされた」としています。
 そして、「靺鞨文化の内容を詳細に検討すると、オホーツク文化との相違点が顕著に認められる」として、
(1)住居の相違
(2)墓の相違
(3)生業の相違
(4)土器の相違
(5)労働用具の相違
の5点を挙げ、「いずれにおいても相違点が顕著であり、しがたって2つの文化は全く異なっているとみなすことができる」と述べています。
 また、「オホーツク文化は8世紀に大陸の黒水靺鞨がサハリンに、ついで北海道に渡来したことによって形成されたのではなく、サハリンに居住していた流鬼=吉里迷=ニヴフ(旧称ギリャーク)民族によってサハリンで形成されたのである」と述べています。
 第5章「夜叉国と環オホーツク海交易」では、「流鬼国はサハリンにあった。夜叉国はサハリン北方のオホーツク海北岸にあったと見てよい。7世紀の夜叉国はオホーツク海北岸のトカレフ文化、もしくは古コリャーク文化に相当する。流鬼は夜叉と交流があって、サハリンから北へ1ヶ月行程の夜叉国へ交易に行き、そこでセイウチの牙を手に入れていたのだろう」と述べています。
 本書は、日本で一般的に知られていないオホーツク海沿岸の古代史に言及した一冊です。


■ 個人的な視点から

 個人的にはオホーツク海に行ったことはないのですが、こういう話を聞いてしまうとぜひ行ってみたくなるものです。


■ どんな人にオススメ?

・北海道=アイヌと思っている人。

2010年4月 9日 (金)

都市伝説の正体-こんな話を聞いたことはありませんか?

■ 書籍情報

都市伝説の正体-こんな話を聞いたことはありませんか?   【都市伝説の正体-こんな話を聞いたことはありませんか?】(#1905)

  宇佐 和通
  価格: ¥840 (税込)
  祥伝社(2009/4/21)

 本書は、「"友だちの友だち"という、決して近い間柄ではなく、特定もできないが、実在することがかすかに感じられる人が体験した者として語られる、起承転結が見事に流れる話」である「都市伝説」についてかかれたものです。著者は、「都市伝説には自ら信じられやすい話になるよう変容するという性質」があるとしています。
 第1章「トラディショナル都市伝説」では、「死体洗いのバイト」について、表裏一体のように語られる小説として、大江健三郎の『死者の奢り』を挙げ、「この小説は、『死体洗いのバイト』というと市電説のモチーフになっていると考えて間違いないだろう」として期しています。
 また、日本生まれの都市伝説としては珍しくアメリカに上陸したものとして「耳たぶから出る白い糸」を挙げ、「アメリカ特有のモチーフを盛り込んだ話」が生まれているとしています。
 第2章「乗り物に関する都市電説」では、カーナビの指示通りに走っていたら死にそうになる「死のカーナビ」を挙げ、この話がそもそもは「安すぎる中古車」の派生バージョンとして生まれたとした上で、「モチーフとして盛り込まれたカーナビという要素が、すでに広く流通していた『安すぎる中古車』のプロットに勝ってしまった。その結果、全く別の都市伝説としてスピンオフ的に広がり、派生バージョンまで生まれるに至った」と解説しています。
 第3章「子どもに関する都市伝説」では、「幼女レイプ事件」と「遊園地の人さらい」の2つの都市伝説について、「トイレに連れ込まれ、服を脱がされて髪の毛を剃られた子ども」という共通するモチーフを指摘しています。
 第4章「ホラーな都市伝説」では、「ベッドの下に包丁を持った男が隠れている」という「下男」について、「アメリカで生まれた話が日本に入ってきて変化したものではなく、純然たる日本生まれの話」だと述べています。
 また、朝目が覚めると行きずりの女が洗面台に「エイズの世界へようこそ」と口紅で書かれていたという「エイズメアリー」については、1980年代半ば頃にアメリカで盛んに語られていたものが日本には行って来たと解説しています。
 そして、ルームメイトが殺人者に殺されていた「電気をつけなくてよかったな」について、「1970年代からアメリカ中のキャンパスで囁かれていた話」だとして、「オリエンテーションなどで先輩学生がする話のマクラにされることが多い」と述べ、「キャンパス・ロアとして過去30年間も不動の地位を保っている」としています。
 第6章「食に関する都市伝説」では、牛丼チェーンの肉が「オーストラリアの食用ネズミの肉だ」とされる話について、「昔の日本人がネズミの一種の肉をたんぱく源としていたことがあったという事実と深く関係している」と述べています。
 また、「コーラに関する都市伝説」である「コークロア」について、「数も多く、内容のバラエティも豊富」で、「原料にまつわるものから思わぬ効能、そしてお馴染みとさえ形容していい異物混入系と、都市伝説のサンプルテキストという表現がふさわしい」と述べています。
 第7章「事件・事故の都市伝説」では、道案内をしてあげた外国人男性から「今日から1週間、決して地下鉄に乗ってはいけません」と告げられたとする「親切な外国人」について、「アメリカ/イギリス両国で2001年10月に生まれたものがまず関西に入った」上で、「関西ではそのまま定着したが、関東に北上してくるまでには少し時間がかかった」と述べています。
 本書は、都市伝説を客観的な目で見ることができるようになる一冊です


■ 個人的な視点から

 学生時代にもこういう都市伝説ネタを飲み会の持ちネタにしている人がいましたが、今はネットでも流通するようになって、都市伝説の形も変わってきているようです。いまだに「神の手」の写真を「沖縄で撮られました…」とか言ってツイッターに載せている人もいるようですし。


■ どんな人にオススメ?

・都市伝説には踊らされないつもりの人。

2010年4月 8日 (木)

「超」図説講義 鉄道のひみつ

■ 書籍情報

「超」図説講義 鉄道のひみつ   【「超」図説講義 鉄道のひみつ】(#1904)

  川辺 謙一
  価格: ¥756 (税込)
  学習研究社(2010/3/17)

 本書は、「最近になって鉄道に興味をお持ちになった方々をまず第一の聴き手として想定した『鉄道入門講義』」です。
 第1章「線路のひみつ」では、線路のレールが内側に傾けて敷いてある理由として、「レールの『頭部』がすり減りにくくなるから」だとして、「レールが垂直に置かれていると、車輪と接触する部分の幅が狭くなり、そこだけすり減りやすくなる」と述べています。
 また、線路に敷かれている石(バラスト)の役割として、枕木を支える以外に、
(1)レールから枕木へと伝わる振動や衝撃をクッションのように吸収する。
(2)音楽室の壁のように音を吸収する
(3)線路の水はけをよくする。
(4)雑草が生えるのを防ぐ。
の4点を挙げています。
 第2章「車両運動のひみつ」では、車輪が円筒形でない理由として、「円筒形に見える踏面は、じつはフランジから離れるほど半径が小さくなって」おり、「これらの形に、線路のカーブで生じる内側と外側のレールの長さの差という問題を解消する秘密がある」と述べています。
 第3章「車両構造のひみつ」では、「電車の車体は、進行方向に対してまっすぐな箱状であり、床は真っ平ら」と思われがちだが、「中央部分が少しだけ高くなるようにわずかに反ったアーチ状になっている」として、乗客の重みで車体が変形し、「車両限界から車両がはみ出さないようにするのが大きな目的のよう」だと述べています。
 また、日本で鉄道の電化が進んだ理由として、「工業が急速に発展した第一次世界大戦後の日本では、海外からの輸入に頼らざるを得ない石油の消費を抑えるため、起伏が激しい地形を活かして水力発電所の建設が国策として重点的に行われ」、「その電力を鉄道に利用するため、大正時代から幹線を中心に電化が進められ」たと述べています。
 第4章「電車のひみつ」では、架線がジグザグに張ってある理由として、「ジグザグに張ってあれば、列車が進むのにあわせて、すり板の上で架線が接触する位置が右へ左へと移動するので、すり板全体にまんべんなく当たり、1カ所だけ削れてくぼみができることはない」と述べています。
 また、ハイブリッド自動車に使われている「電力回生ブレーキ」について、「鉄道はもともとエネルギー効率が高い交通機関なのですが、さらなる省エネルギー化が実現できたのは、電車そのものの消費電力が小さくなっただけでなく、この電力回生ブレーキによって路線全体の消費電力を節約できるようになったから」だとしています。
 第7章「改札ときっぷのひみつ」では、「駅の改札口などで細かく検札を行うこの方式は、国内最初の鉄道が開業した当初から採用されて」いたとして、「通行手形を乗車券、関所を改札口と考えれば、江戸時代の街道での考え方がそのまま明治初期の鉄道に応用され、改札に対する日本独自の考え方が生まれた」のではないかと述べています。
 本書は、鉄道を知りたい人向けのわかりやすい入門書です。


■ 個人的な視点から

 最近、「鉄」とか「鉄分」とかいう言葉が一般化してきたのか、ニュースにおける鉄道ネタも定番化してきたような気がします。夏休みの恒例行事となったポケモンスタンプラリーも将来の「鉄」を養成するという意味では総統な貢献をしているのではないかと思います。


■ どんな人にオススメ?

・鉄とかマジ勘弁とか思っている人。

2010年4月 7日 (水)

孫は祖父より1億円損をする 世代会計が示す格差・日本

■ 書籍情報

孫は祖父より1億円損をする 世代会計が示す格差・日本   【孫は祖父より1億円損をする 世代会計が示す格差・日本】(#1903)

  島澤 諭, 山下 努
  価格: ¥777 (税込)
  朝日新聞出版(2009/4/10)

 本書は、「まだ、一般にはなじみの薄い『世代会計』の概略を易しく示した上で、政治における高齢者の数的優位の乱用を排除して、若年世代や将来世代の利益をいかに保護するか、またそのためには、今を生きるわれわれ世代ができることは何か、ということを論じ」たものです。著者は、「若者は日本国の『正社員』としてきちんと処遇されているでしょうか」という問題意識に立ち、将来世代が担わされている負担について、「孫の名義のクレジットカード」をきりまくっている状況であり、「ツケの返済を将来世代に押しつけ、若者や子どもをだまして、明るい未来を奪い取る『ワシワシ詐欺』のようなもの」だと指摘しています。
 第1章「『世代会計』で解けるさまざまな問題」では、「世代会計の立場から見れば、民主主義の意思決定システムは決して万能では」ないとして、「時間軸を考慮すると、民主主義は途端に脆弱となる。ある時点において民主主義的な手続に基づいて合意された政策が、将来時点における人々の幸せにつながるという保証はどこにもないからである」とする神戸大学の小塩隆士教授の言葉を紹介しています。
 第2章「『世代会計』って何だ!」では、「世代会計とは、政府を支える負担をし、政府から受益を受ける国民と政府との関係(国民と政府との取引)において、どの世代が得をし、どの世代が損をするのかを金銭的に評価する枠組み」であると解説しています。
 そして「世代会計を用いて、政府の経済政策を評価することのメリット」として、
(1)われわれと政府との間に存在する税の支払いや移転給付等のやりとりを年齢別に分解した上で、その受益・負担構造を明らかにする。
(2)年齢別の受益・負担構造を長期的な人口予測と結びつけることで、現在の財政運営や社会保障制度を維持した場合、隠された政府債務が長期的にどの水準に達するのかを現在の価値に換算して明らかにしてくれる。
(3)現在の財政政策や社会保障制度を世代間の公平性の観点から評価することが可能になる。
の3点を挙げています。
 第3章「『世代会計』で見る世代間格差」では、世代会計で明らかにできることとして、
(1)政策を予定も含め現状のまま変更しないなら、いま生まれたばかりの日本国民と将来生まれてくる日本国民との純負担額がいくら違うのか。
(2)もし予定外の政策変更が行われた場合、現在世代ばかりでなく将来世代も含め、どの世代がいくら得をし、どの世代がいくら損をすることになるのか。
の2点を挙げた上で、現在の日本の「常軌を逸した世代間不均衡の大きさから判断しますと、現在の政府の歳出・歳入構造、すなわち社会保障制度をも含んだ政府財政は、今後すでに予定されている政策の実施や制度変更を考慮したとしても、実質的に破綻している」と指摘しています。
 そして、その要因として、「日本の世代間格差は、その多くの部分が、少子高齢化の進行と、アンバランスな受益負担構造に由来していて、その大きさは臨海点にまで達しており、それを是正しようとすると、現在生きている私たちの生活が崩壊する『改革』」が必要になるとしています。
 第4章「老人の、老人による、老人のための政治」では、「高齢化が進展する中、私たちから見ると、政治もマスコミもどんどん近視眼的――高齢者迎合的――になって」いるとして、「高齢者医療制度の騒動は、マスコミを味方に付けてお年寄りが一致団結すれば、国の政策をも変えさせることができる、ということを世間に知らしめた大きな出来事」だと述べています。
 そして、「危機感を多くの国民が共有した上で、本章で指摘したような現在の選挙制度に基づく民主主義の限界をしっかり認識し、年齢別選挙区制度を導入するなど、高齢者がむき出しの『数の論理』で政治を乗っ取ることがないように、あらかじめ制度設計をしておかなければ」ならないと指摘しています。
 第6章「『世代会計』と時間、『世代会計』と政府投資」では、「事業を推進する官僚、政治家にうしろめたさがないのは、健全な世代会計的な視点がまったくないから」だとした上で、「人口が順調に増えた時代の次の時代に来る『負担』が人口オーナス」だとして、「この言葉の意味するところを知れば、世代間格差をはじめ日本経済が直面するほとんどの深刻な問題を説明できる」と述べています。
 本書は、日本ではなじみの少ない「世代会計」の考え方をわかりやすく解説した一冊です。


■ 個人的な視点から

 本書で示されている「年齢別選挙区」というのは考え方としては分かるものの、年齢をことさら強調すると人口比ではやっぱり高齢者が圧倒的多数なわけで考えようによっては高齢者の有意を固定化するだけなんじゃないかという気もしないでもないです。


■ どんな人にオススメ?

・自分が多額の借金を背負わされているという感覚に乏しい人。

2010年4月 5日 (月)

学校選択制のデザイン―ゲーム理論アプローチ

■ 書籍情報

学校選択制のデザイン―ゲーム理論アプローチ   【学校選択制のデザイン―ゲーム理論アプローチ】(#1902)

  安田 洋祐
  価格: ¥2520 (税込)
  エヌティティ出版(2010/3/29)

 本書は、「マッチング理論の目覚ましい発展をバックグラウンドに、日本の学校選択制度の実態や問題点を現場や自治体レベルから汲み上げつつ、制度の改善設計にどのような示唆をなしうるか、様々な角度から探求」したものです。
 「プロローグ」では、マッチング理論について、「結婚市場における男性と女性、労働市場における労働者と企業など、2つの異なる集団に属する人と人(あるいは組織)のパートナー形成について扱う、ゲーム理論の応用分野」だとした上で、学校選択制の導入が、生徒・保護者の満足度や学校生活へもたらす効果について、
(1)選択の自由
(2)競争の利益
(3)同級生効果
の3点を挙げています。
 第1章「日本における学校選択制」では、文部科学省による、
(1)自由選択制
(2)ブロック選択制
(3)隣接区域選択制
(4)特認校制
(5)特定地域選択制
の5つの分類を示した上で、学校選択制を採用する区が掲げる導入理由として、
(1)生徒・保護者の選択の幅を拡げるため
(2)特色ある学校づくり・魅力ある学校づくりの実現
の2点を挙げています。
 また、東京23区の学校選択制が抱える問題点として、
(1)キャパシティの問題
(2)学校の人数の偏りの問題
(3)戦略的選択行動の問題
(4)受け入れ枠の問題
(5)地域の一体化の問題
の5点を挙げています。
 第2章「米国における学校選択制」では、現在のアメリカの学校選択制について、公立学校に関しては、
・公立学校選択制(オープン・エンロールメント)
・チャーター・スクール
・落ちこぼれ防止法(No Child Left Behind)による学校選択
の3つ、私立学校については、
・バウチャー制度
・タックス・クレジット
の2つについて解説しています。
 そして、「米国においては、広義の学校選択制の導入が学校間の競争の(不)利益へ与える効果について様々な検証が行われている」が、「既存の実証研究の結果はしばしば互いに対立し、その示唆は曖昧である」と指摘しています。
 第3章「マッチング理論による分析」では、「ゲーム理論やそのち分野であるマッチング理論では、これまでにも、学校選択制とよく似た形の問題を分析してきた」として、
・割り当て問題:参加者に対してどのように非分割剤を配分するかについて扱う
・マッチング問題:2つの集団にわかれた人と人(あるいは組織)のマッチングを分析する
の2つに大きく分類できるとしています。
 そして、学校選択制にマッチング理論による分析を初めて取り入れたアブデュルカディログルとソンメツは、「マッチング方式の望ましさに関する基準(パレート効率性、安定性、対戦略性)を念頭に置きつつ、2つの主要なマッチング方式を提案している」として、
(1)受入保留方式
(2)トップ・トレーディング・サイクル方式
の2点を挙げています。
 第4章「米国におけるマッチング理論の実践」では、ニューヨーク市における制度変更の経について紹介した上で、重要な論点は、
・入学先未決定者の多さ
・選好順位の虚偽申告
の2点であったと述べています。
 第5章「学校選択問題のフロンティア」では、「受入保留方式とボストン方式は、代表的な学校選択の運営方式として注目を集め続けている」と述べています。
 第6章「学校選択制に関する政策提言」では、「理論分析ろシミュレーション結果を参照しながら、より望ましい学校選択制を実現するための制度運営の仕方について、本書の特徴である"デザイン"の視点から、我々のアイデアを提示したい」と述べています。
 本書は、学校選択制について、ゲーム理論の見地から分析を行った一冊です。


■ 個人的な視点から

 教育問題は、とかくイデオロギー色の強いヒステリックな議論がまかり通りがちですが、本書のような視点での解説があることはありがたいです。


■ どんな人にオススメ?

・学校選択制とは何かを考えたい人。

非行少年の消滅―個性神話と少年犯罪

■ 書籍情報

非行少年の消滅―個性神話と少年犯罪   【非行少年の消滅―個性神話と少年犯罪】(#1901)

  土井 隆義
  価格: ¥3675 (税込)
  信山社出版(2003/12)

 本書は、「現在の少年犯罪に特徴的な性質とは何か、それを解明していこうとするもの」であり、「近年の日本に見受けられる少年犯罪の特徴を、後期近代社会に特有の社会的性格の表れとして論じたもの」です。
 第1章「『少年犯罪の凶悪化』言説の妥当性」では、「少年補導の第一線に携わっている実務家らの間では、最近は、少年の凶悪化というよりも、むしろその幼稚化の方が囁かれている」として、「少年たちは、かつてと変わらないどころか、むしろかつてよりもさらに幼稚化している」、すなわち、「刑事処分を課そうにも課せないほどにまで、少年犯罪は稚拙化してきている」と述べています。
 第2章「非行キャリアの崩壊と暴発型犯罪」では、「非行グループは、単に犯罪の巧みな手口を伝授する場であっただけではない。むしろ、犯罪に許容的な態度を醸成する場でもあった。だからこそ、非行グループに加わることは、非行サブカルチャーに慣れ親しむことを意味し、したがって反社会的な態度や信念の確立を促すことにつながっていた」とした上で、「昨今の少年による衝動的で短絡的な凶悪犯罪の増加は、必ずしも彼らの凶悪化を意味しているわけではない」として、「むしろ少年たちは、自らの行為の影響について無知であるからこそ、周囲をアット言わせるような事件をいとも容易に引き起こしてしまうのである」と指摘しています。
 第3章「衝動化する少年たちの社会的性格」では、「往時の人々が、集団の強固な紐帯に独自性を絡め取られているように見えながら、その一方では孤独に強く、むしろ孤高ですらありえたのは、自らの振る舞いに普遍的な根拠を与えてくれる社会的な規準を、彼らが内在化していたらかにほかならない」とした上で、「今日の少年たちには、二重の意味において他者が欠落している」として、
(1)被害者にされる他者に対しての創造力を欠いていることが、衝動的な振る舞いへの促進要因になっている
(2)「重要な他者(significant other)」に対する想像力の不足によって、衝動的な振る舞いを抑制する機能がうまく作動しなくなってきている。
の2点を指摘しています。
 第4章「『熱い犯罪』から『冷たい犯罪』へ」では、「オヤジ狩りという表現には、これまで述べてきたような少年たちの心性が見事に反映されている」として、「仮に対象にされるオヤジたちが、実はこの社会を支える中心的な人物なのだとすると、親父を単なる獲物として、全く異なった種であると捉えている少年たちには、この社会の一員であるという実感も極めて乏しいと推測される」と指摘しています。
 第5章「『個性的な自分』という強迫衝動」では、「近年の若者たちが切望する個性とは、これから作り上げられているものとしてではなく、あらかじめ持って生まれてくるものとして感受されている」として、「他者の不在は自己の自律化を意味しない。むしろ、異質な他者の存在こそが、自己が自律化するための大前提である」と述べています。
 また、「今日の若者たちは、ある状況や人物がたまらなく不快で嫌であり、そのことによって精神的に苦しい状況に追い込まれたとき、『心が傷ついた』という表現を用いる」ことについて、「あたかも肉体が傷つくかのごとく、心もまた傷つく。このような表現は、今日の若者たちにとって、心がいわば身体の一部と化してきていることを示唆している」と指摘しています。
 第6章「集団主義の残滓としての個性主義」では、「最近の若者達の多くは、主観的には差異化しているつもりでいるのに、実質的には画一的な振る舞いを繰り返す傾向にある」と指摘し、「『個性的な自分』の追求という現代の若者達の人生目標は、極めて集団主義的に追求されている。だから、それは社会の一大潮流となっているのである」と述べています。
 第7章「『個性』という教育アスピレーション」では、「個性化教育とは、個性の尊重によって人々の多様化をもたらすというよりも、むしろ『個性』という一元的なものさしによって人々の序列化をもたらす」と指摘し、「『心の教育』の導入とともに、生徒たちによるストレートな自己表出が学校内で許容されるようになると、学校はだんだんと私的空間の延長へと変貌していく」と述べています。
 第8章「『個性』への絶えざる焦燥の果て」では、「現代の若者達の気分をおおっている『個性的であらねばならぬ』という強迫観念は、その至高とは裏腹に、彼らから自己を語る言葉を奪い去っている」として、「そこで目指されているのは、社会的な個性化ではなく、内閉的な個性化だからである」と指摘しています。
 そして、「世間に大きな衝撃を与える凶悪犯罪へと走った少年たちの一部には、個性の徴表としてのスティグマを求めるメンタリティが、潜在的ではあるにせよ作用していた」と指摘しています。
 本書は、少年犯罪の凶悪化というマスコミで語られている裏に何が進行しているのかを教えてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 非行少年そのものは、街中では見かけても、実際に関わり合いを持っている人は少ないんじゃないかと思います。凶悪化と幼稚化が同じ所に起因するという指摘は面白い。


■ どんな人にオススメ?

・少年犯罪は怖いと思っている人。

2010年4月 4日 (日)

ビッグバン宇宙論 (下)

■ 書籍情報

ビッグバン宇宙論 (下)   【ビッグバン宇宙論 (下)】(#1900)

  サイモン・シン (著), 青木 薫 (翻訳)
  価格: ¥1680 (税込)
  新潮社(2006/6/22)

 第4章「宇宙論の一匹狼達」では、「アインシュタインにできたのは理論を創ることだけで、理論は間違うことがある。だからころ、高価な実験装置や巨大望遠鏡に投資することに大きな価値がある」として、「アインシュタインが封筒の裏に走り書きして得た結果は、静的な宇宙を支持していたが、ハッブルが得た観測はどうやらそれに矛盾するらしく、理論の良し悪しを判定する実験の威力をはっきりと示していた」として、「1931年2月3日、アインシュタインはウィルソン山天文台の図書室に集まった記者たちを前に会見を行ない、自分の静的宇宙を放棄し、ビッグバン宇宙モデルを支持することを明らかにした」と述べています。
 また、「進展はするが変化はしない」とする「定常宇宙モデル」のアイディアについて、「こうして宇宙論研究者には明らかな選択肢が生じた。ひとつは、宇宙には創造の瞬間があり、宇宙は有限の過去に生まれ、未来は現在と大きく異なるというビッグバン宇宙。もうひとつは、たえず物質が生成され、宇宙は永遠の過去から存在し、未来は概ね今と変わらないという定常宇宙」だとした上で、「『ビッグバン』という言葉」が登場したのは、定常宇宙論に立つホイルがライバル理論について説明した時だったとして、「彼はライバル理論を嘲るためにこの言葉を使ったようである」が、「ビッグバン・モデル最大の批判者が、うかつにも名付け親になってしまったのだ」としています。
 第5章「パラダイム・シフト」では、「西側の宇宙論研究者は、宗教の影響から離れることに一定の成功を収めつつあったが、東側ではまだ、科学者ではない人たちが科学論争に影響力をふるおうとする問題に対処しなければならなかった」として、ソ連では、「このモデルがマルクス=レーニン主義のイデオロギーと相容れないため」に、理論的指導者たちと敵対したと述べています。
 また、1983年のノーベル物理学賞がフレッド・ホイルにではなく、ウィリー・ファウラーに与えられたことについて、「ノーベル賞の歴史上、最大の不公正のひとつである」として、その理由は、「彼は歯に衣着せぬ物言いをするせいで、長年の間に大勢の敵を作ったことだった」と指摘しています。
 そして、「ガモフ、アルファー、ハーマンは1948年にCMB放射の存在を予測したが、そのことは10年ほどですっかり忘れられてしまった。1964年、ペンジアスとウィルソンがCMB放射を発見したが、その素性には気づかなかった。それとほぼ同じ頃、ディッケとピーブルズがCMB放射の存在を予測したが、既に1948年に予測されていたことは知らなかった。結局、バークがペンジアスに、ディッケとピーブルズによる予測のことを伝えた」として、「CMB放射発見の競争はこうして終わり、ベル研究所チームはそうとは知らずにプリンストン・チームを打ち負かした」と述べています。
 さらに、ビッグバンが紡ぎ出す物語として、「初期の宇宙は極度になめらかで均質な物質のスープだった。その中の極微小な密度のゆらぎが引き金となって、数十億年の時間を経て、密度の高い銀河と密度ほとんどゼロの空っぽの空間という、途方も無い密度格差をもつ宇宙が出来上がった」と述べています。
 エピローグでは、「ビッグバン宇宙モデルは、20世紀に成し遂げられた最も重要かつ輝かしい科学上の偉業といってまず間違いはないだろう」とした上で、「ここで重要なのは、科学上の闘いの大半はパラダイム・シフトを伴わないということだ」として、「これは非常に心強いことだ。というのは、もしそうでなかったなら、科学はたえず自らの足場を組みなおしてばかりいなければならず、宇宙を探り、理解するための枠組みとしては頼りにならなくなるからだ」としつつも、「いざパラダイム・シフトが起これば、それは科学史上稀に見る大きな節目となる」と述べています。
 本書は、宇宙論が現在の姿になるまでの道筋をたどった一冊です。


■ 個人的な視点から

 宇宙論について、物心ついた時からそれほど派手などんでん返しがあった記憶はないのですが、子供の頃は恐竜はゴジラみたいにしっぽを引きずって直立していたものだと思っていたら、いつの間にかしっぽでバランスを取った前傾姿勢の恐竜ばかりを目にするようになりました。きっと、ビッグバン以前に宇宙論を学んだ人達にとって、ビッグバンはこれ以上の衝撃だったのではないかと思います。


■ どんな人にオススメ?

・ビッグバンがあたりまえだと思っている人。

2010年4月 3日 (土)

選挙演説の言語学

■ 書籍情報

選挙演説の言語学   【選挙演説の言語学】(#1899)

  東 照二
  価格: ¥2520 (税込)
  ミネルヴァ書房(2010/06)

 本書は、「政権交代という歴史的な総選挙において、政治家たちはどういうことばを使って国民に訴えていたの」かを分析したものです。
 第1章「いざ出陣!」では、野田聖子と馬淵澄夫の出陣式の模様を比較し、野田陣営の出陣式は、「参加者はほとんどウチのメンバー(正当関係者、支援団体関係者、動員によって集まった人)であり、フォーマルで儀式的であり、ソトの人たちに開かれたというよりは、ウチに向かって、クローズされた世界での出陣式」出会ったのに対し、馬渕の出陣式は、「一般市民、いわゆる浮遊層を巻き込むようなソト向きの出陣式」だったとして、インターンの学生が応援演説をするという事実が、「大きな意味を持つ」と述べています。
 第2章「ことばを失った党首たち」では、自民党の麻生総理(当時)が、「演説の出だしを自分の名前を言うところから始める」として、「文型、文末表現、使用語彙などを駆使することによって、自発性のある、自然でホンネをそのまま語っている政治家というフレームを創り上げようとしている」として「麻生の演説は聞き手を勇気づけ元気づける、また聞き手との心理的距離感を少なくすることを意識したものとなって」いるのに対し、「鳩山の演説は前もって丁寧に練り上げられた準備されたスピーチのようで、自然さ、瞬間的に口から出てきた即興性、そして動き、ダイナミックさがない」ことを指摘しています。
 第3章「ベテランたちの模索」では、岡田克也の演説について、障害者自立法案に関して、「ふつうの政治家なら、この法律の問題点を、数字を並べながら、細かく説明していく」が、岡田は「『私が思い浮かべる、まず光景は』ということばで、極めて個人的に、なおかつ視覚的に、小さな物語を語るところから始める」としたうえで、岡田の問いかけに、「共感という、ありきたりの言葉ではものたらない、もっと深い、人間としての正義感が聴衆たちを包み込む瞬間だ。一瞬、会場が水を打ったようにシーンとなり、しばらくして、『そうだ、そうだ』という声が聴衆の間から聞こえてくる」と述べ、「もっとも大切な事は、それを演説として、作られた、準備された、飾りの言葉として語るのではなく、本心から、本物の思いとして語る」ことだとしています。
 また、岡田のもう一つの特徴として、「聴衆に問いかけることばを多用している」ことを指摘し、「^いきなりマニフェストの中身、論点に入ってリポート・トークをしていくのではなく、まず最初に、背景、思いを語り、聴衆との心理的な繋がりを創り上げようというラポート・トークで始める、これが、岡田が目指そうとしているスタイルだ」と述べています。
 そして、小泉純一郎の演説について、「他の政治家の演説と明らかに違う点」として、「政策、マニフェスト、論点の話が全くなかった」ことを挙げ、「ものの見事に全くない、ゼロである(小泉は別格の政治家だ)」として、「政策などのリポート・トークではなく、勇気、激励、感銘などを中心としたラポート・トークに徹したものであった」と述べています。
 第4章「新人政治家たちの苦闘」では、「ことばがフレームを作り上げ、そのフレームの中で私たちは物事を理解しようとする。強者に挑む弱者というフレームで、その弱者が熱心で真面目であればあるほど、我々は心理的に弱者に味方したくなるものだ。それもまだ若い女性である」として、石川2区に立候補した田中美絵子について述べた上で、「スティーブ。ジョブズは経験について話し、ビル・ゲイツはデータに付いて話す」という言葉を紹介しています。
 第5章「聞き手中心のラポート・トーク」では、2009年8月に日本各地で行われた街頭演説についてみえてきた演説のスタイルとしt、絵
(1)政策、論点を中心にして、自分の主張したい点をできるだけ多く語ろうとするスタイル(話して中心のリポート・トーク)
(2)政策、論点よりも、聞き手の「情緒の扉」を開けるような、物語、経験、個人的な思い、気持ちなどについて語り、聞き手との心理的距離感を少なくし、共感を作り上げようとするスタイル(聞き手中心のラポート・トーク)
の2点を挙げ、「今回の選挙で当選した民主党の候補者、応援弁士たちの多くは、支持者だけでなく、広く一般市民に向けた『聞き手中心のラポート・トーク』をしようと試みていた」と指摘しています。
 本書は、政治家が使う「ことば」に焦点を当てて2009年の衆院選を振り返った一冊です。


■ 個人的な視点から

 政治家の演説の分析というと、公式資料の手に入りやすい首相の所信表明演説とか、アメリカの事例などが中心になってしまうのですが、実際に生の選挙の現場に行って取材してきた事例は臨場感があっていいですね。学術的な調査としては厳しいのかも知れませんが。


■ どんな人にオススメ?

・政治家はどんな言葉を使っているかを知りたい人。

2010年4月 2日 (金)

日本の殺人

■ 書籍情報

日本の殺人   【日本の殺人】(#1898)

  河合 幹雄
  価格: ¥819 (税込)
  筑摩書房(2009/06)

 本書は、「殺人者の、眼を背けたくなるような部分にも光を当てて、実像をできるだけ多くの人に知ってもらいたい」という目的で書かれたものです。
 第1章「殺人事件の諸相」では、「殺人事件のうち、半分近くが、親族による犯行」だとした上で、「子殺し」が全体の3分の1と飛び抜けていると述べ、「嬰児殺は、もっともありふれた殺人事件であったから無視されたのかも知れないが、それが戦後10分の1以下に激減した大変化を、マスコミは大きく取り上げるべきである」と指摘しています。
 そして、ヤクザによる殺人について、「共犯者が多いため検挙人員で比較すれば、4分の1に見えるが、検挙件数で見れば、総数1224のうち、14%を占めるに過ぎない」として、「ヤクザの場合、脅すのが本文であり本当に殺すことは少なく、未遂が多数、予備も含まれる」と予想し、「ヤクザは人殺しではない、彼ら自身が自己認識しているようである」と述べ、2006年には、「ついに抗争事件がゼロとなり、犠牲者も当然ゼロ」になった要因として、
(1)外部的には、ヤクザ自体が、世間からその存在を許されなくなること。
(2)内部的には、組みのために抗争事件で活躍しようというようなメンバーがいないという人材難とともに、組にとって、抗争にはコストがかかり、公共事業はじめ多くの業界から締め出されつつある現状では、抗争事件を起こす体力がヤクザ組織にはないと言えそうである。
の2点を挙げています。
 また、バラバラ殺人事件について、「バラバラ事件が起きてしまう、第一の原因は、殺してしまったときに、死体の処分を考えていなかった上、どこかへ遺体を運ぶには重すぎたので切り分けた」というものであり、「バラバラ事件の犯人は、悪知恵が働かない上に、遺体を担ぎ上げる体力も不足している、知力体力ともに劣った人物」だと述べています。
 また、死刑にするための分水嶺として、
(1)殺された人数が複数であること
(2)確定的な殺意があったこと
(3)計画的であり、偶発的でないこと
の3点を挙げています。
 著者は、殺人事件の全体像として、
(1)戦後減少し続けている。
(2)家族がらみである場合が過半数を軽く超えている。
(3)底辺社会で、失敗人生の末に起きてしまっていることが多い。
の3点を挙げ、「マスコミ報道から受けてしまう印象と大きく違うことを確認して欲しい」と述べています。
 第2章「捜査、刑務所生活、そして出所後」では、「警察官と刑務官は、似たもの同士ではなく、組織風土は大きく異なる」として、「刑務所は、訪れてみれば、第一印象は、タイムマシンに乗ったかと思うほどのものである。それほど、旧き良き日本も旧き悪しき日本も同居している別世界である」と述べています。
 また、受刑者について、累犯者である窃盗犯に比べ、「殺人犯の方が、能力は高いし、さすがに悪いことをしたと反省しているし、相対的に扱いやすいということで納得できる」と述べた上で、性犯罪者について、「刑務所内でもっとも嫌われ者でイジメの対象になる」が、「彼らは、性行動以外はまともで能力も高いことがあり、刑務官側からは扱い易い者も含まれるそうである」と述べています。
 さらに、「普通の人々は、前科者がどこに暮らしているのか知らない」理由として、「殺人犯に限らず、前科者は、塀から外には出してもらえるが、世間には帰れない。彼らは、皆、密かに特別な人々の世話のもとで暮らしている。彼らと普通の人々は出会わないように、社会的境界によって分けられてきた」として、「特別な職業に従事し、普通の人々と異なった時間帯と場所で生活してきた。そういう仕組があったのである」と述べています。
 第3章「ひとを殺すとはどういうことか」では、「何が理想かという逆の方向から言えば、制度上は死刑判決が可能な状況で、個々の殺人犯への働きかけを通して、何とか生かして矯正できる未来が、全犯罪者に対して個々に描けることによって死刑が無くなることがもっとも望ましい」が、「この理想が実現できないから死刑がある」と述べています。
 終章「社会的大転換の裁判員制度」では、「死刑については殺人であり正しい殺しがあるはずがないと考えるが、立法によって廃止することは、間違いであると考える」と述べています。
 本書は、知られざる「殺人」の素顔を伝える一冊です。


■ 個人的な視点から

 某政治家が、日本で親族内の殺人が多いのは日本企業のせいだと暴論(妄論?)を吐いていましたが、実際には心中とか子殺しとかが多いからなのですよ。とは言え、それを肯定もしませんが。


■ どんな人にオススメ?

・リアルな「殺人」の姿を見てみたい人。

2010年4月 1日 (木)

著作権の法と経済学

■ 書籍情報

著作権の法と経済学   【著作権の法と経済学】(#1897)

  林 紘一郎
  価格: ¥4095 (税込)
  勁草書房(2004/06)

 本書は、「『法と経済学』の視点から、著作権制度のあるべき姿について、新しい光を当ててみようという試みの書」です。著者は、著作権制度を取り上げる理由として、
(1)著作権を含めた知的財産制度は、創作者に対する事前のインセンティブの付与と、創作物の利用者に対する事後のアクセスの確保という、トレード・オフの関係にある法益のバランスをとる制度であり、経済学的分析に向いている。
(2)知的財産制度の中でも、産業財産権の代表である特許権よりも著作権の方が、「言論の自由」との関係など、より深い分析を必要とし、それだけに未開拓の分野でもある。
(3)ナップスター事件以後、技術的手段を強化することによって権利保護を貫徹すべきか、違法コピーをある程度までは黙認した上で新たな収益源を見出すべきか、あるいは第3の道を模索するのか、100年以上にわたって有効に機能してきた近代著作権制度は、今歴史上初めてと言ってよい岐路に立たされている。
の3点を挙げています。
 第1章「『法と経済学』の方法論と著作権への応用」では、「公害、消費者保護、製造物責任、インターネトの規律のあり方等の今日的課題」について、「法律学と経済学の言わば連携プレーが期待されており、互いに無関心で相互交流のない現状が望ましいとは言えない」として、「『法と経済学』は、このような現状を打破し、法律学と経済学(近代経済学)とを何らかの形で融合させようとする、学際的な新しい学問領域である」と述べています。
 第2章「デジタル流通システムと著作権」では、「情報と媒体の結合は、技能の複製限界、機械の性能限界、伝送の劣化限界、通信の接続や品質限界、によってなされ、情報と意味の結合は、知識権威、属地性、言語や文化の共有性、といった仕組みや広義の技術によって結合されていた」として、「技術はそのような結合を崩したり、あるいは再結合させるために進歩してきている」と述べています。
 第3章「アメリカにおける著作権の経済分析」では、「著作権法がアイディアではなく表現を守るのはなぜか」について、従来は「作者がアイディアまで独占してしまうと、作品の価格が高くなり、社会厚生が減少する」と説明されていたが、Landes and Posnerは、「コストに注目し、アイディアを保護すると表現のコストが高くなって現作品の数が減り、社会厚生が低下するという理由を主張している」と述べています。
 第4章「権利保護期間の最適化」では、著作権の権利保護期間について、「各著作物の時間ごとの需要に関して一定の仮定を置くことで、個々の著作物に対して最適な権利期間の導出を試みている」として、
(1)需要者の便益が時間と共に低減していく速度が十分大きいもとで、著作物の権利保護期間は、著作者が設定する価格で需要がなくなった時点から一定期間の後に設定することが望ましい。
(2)このような最適な権利保護期間は、著作物によって千差万別である。
の2点を結論としています。
 第5章「権利保護期間延長の経済分析」では、1998年著作権期間延長法(CTEA)について、2002年5月に、5人のノーベル経済学賞受賞者を含む17人の経済学者によって提出された法廷助言について、「全体として、CTEAによる期間延長がもたらす経済的便益がそのコストを上回るとは考え難い。さらに既存の著作物の機関を延長する場合、そのコスト増に見合うほど新しい著作物を創作するインセンティブを増大させない」とした上で、「CTEAに伴う費用便益分析を行うと、既存の作品、新しい作品のいずれに対しても期間延長が効率を高める手段であるとは言えない」と結論づけたとしています。
 一方で、2003年1月に下された最高裁判決では、
(1)既得著作権の期間を延長することは議会の権限を逸脱していない。
(2)CTEAは著作権条項によって付与された立法権限の合理的な行使である。
と判断されたとした上で、「負けたとは言え、原告が最高裁まで争った意義は十分あった」と述べています。
 第6章「消尽理論の法と経済学」では、「権利者が適法に生産して一旦流通においた限り、その物を購入して使用、販売、貸与等する行為は権利侵害を構成しないとする知的財産権上の法理」である「消尽理論」について、そ「意義とその法的状況を詳らかにし、これまでの判例を踏まえ、法学者の視点から必要と思われる諸要素を抽出」しています。
 第7章「音楽著作物流通と集中管理の可能性」では、「日本の著作権法と著作権等管理事業法、これらに基づく音楽著作物の流通を主な事例として、著作権の許諾についての法と経済学的考察を行う」としています。
 そして、集中管理について、克服すべき問題も多いとして、
(1)集中管理方式が業界団体の存在を基礎にしていること
(2)使用料規定や管理事業者の管理手数料の問題
(3)著作権等管理事業法の施行により導入された管理事業者間の競争の問題
の3点を挙げています。
 第9章「学術分野における著作権管理システム」では、「学術情報に関する著作権管理システムを紹介し、合わせてその課題を示すこと」を目的とした理由として、
(1)電子化の歴史がもっとも古い。
(2)市場における位置が公的領域と私的領域の双方に関わっている。
(3)研究者の著作権制度に対する意識と行動は、実はフリー・ソフトウェア運動における関係者のそれのプロトタイプになっている。
(4)上記の特性を持っているので、著作権ビジネスにおける現在の課題に大きい示唆をもつものである。
の4点を挙げています。
 本書は、著作権制度を事例として、法と経済学の考え方を分かりやすく解説した一冊です。


■ 個人的な視点から

 「法と経済学」と言っても、憲法とか刑法の問題については、なかなか立法者的なフラットな眼でトレードオフ関係を見ることがむずかしいのですが、著作権は基本的には私権対私権の問題なので(中にはそういうことが理解できない人もいるようですが)「法と経済学」による解説に馴染むのではないかと思います。


■ どんな人にオススメ?

・「法と経済学」を実際的な法律について考えてみたい人。

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