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2010年5月

2010年5月13日 (木)

ドキュメント高校中退―いま、貧困がうまれる場所

■ 書籍情報

ドキュメント高校中退―いま、貧困がうまれる場所   【ドキュメント高校中退―いま、貧困がうまれる場所】(#1939)

  青砥 恭
  価格: ¥777 (税込)
  筑摩書房(2009/10)

 本書は、「問題の本質は学校崩壊ではなく、膨大な貧困層」が登場したとして、「高校を中退した若者たちの貧困の実態を伝え」、「日本社会の貞操に沈んでいる若者たちの嘆き、うめき、悲しみ、なかなか聞こえてこない助けを求める声を、彼らに変わって社会に伝えること」を目的としたものです。
 第1章「底辺校に集中する高校中退」では、「高校入学まで、小学校低学年レベルの学力のままで放置されている生徒が相当いる」ため、「1から100まで数えさせるといった補習授業」が必要になるとしたうえで、現場の高校教師が、「家庭に問題があり、次々に事件を起こす生徒を守るか、低学力でも学び直したいという生徒を守るか」という「究極の選択」に迫られていると述べています。
 第2章「中退した若者たちに聞く」では、小学校の教師たちが口にする「九、十歳の壁」について、「算数だと子どもが指を使ったり、おはじきの玉を使って、具体的に数えて『数』を現象的に認識する段階から、9、10歳になると、数や量が抽象的になり、概念的な思考が必要になる。学習を続けていくうえで、底が大きな壁になるのである」として、家庭にそれを教えてくれる環境が全くない子どもだと、その壁を乗り越えられず、「ここに家庭資源の差が大きな格差となって表出する」と指摘しています。
 また、「高校を中退した若者たちに聞き取をしていると、父親や兄弟からDVの体験を持つ若者が非常に多い」と指摘した上で、「貧しい子どもたちが依存するものは、薬、ゲーム、カルト、ダイエットなど様々だが、その中の一つとしてセックスがある。避妊しないから10代で子どもを生み、より生活が苦しくなっていく」と述べています。
 そして、3人の子どもを女で一つで育てた母親が、「貧しいということは何もできないこと」、「何も選べないんですよ。服も子どもの教育も、何も選べないんですよ」と語っていることを紹介しています。「
 第3章「子どもの貧困」では、「高校を中退した若者たちのライフヒストリーの聞き取りから、家庭の貧困が低学力、不登校そして高校中退と深い関係があり、就学前の生活、それを形作る家族が抱える問題に原因があることが見えてきた」とした上で、「テレビはあったがタンスなどの家具」がない家庭で育ったケースなど、「貧困とは所得の問題だけとは限らない。人間として必要な文化、習慣、そして尊厳を持って育てられていない子どもたちが、社会の隅の見えないところで生きている」と述べています。
 第4章「なぜ高校をやめるのか」では、「子どもの貧困を再生産する高校中退の原因」として、
(1)低学力
(2)学習意欲の欠如
(3)基本的な生活習慣の訓練(しつけ)がされていない
(4)人間関係の未成熟
(5)アディクション(もの、動物、性行動への依存)
(6)親からのDV・ネグレクト
(7)貧困層の囲い込み政策
(8)やめさせたがる教師たちの存在
の8点を挙げ、(5)については、「孤立している家族で成長した子どもや、自分をさらして安心して生きる場所が見つけられない子どもは、自分を裏切らない何かに依存する傾向がある」と指摘しています。
 そして、「貧困は子どもたちから、学ぶこと、働くこと、人とつながること、食べるなど日常生活に関することまでも、その意欲を失わせている。彼らから話を聞いていくと、ほとんどの若者たちが、経済的な貧困にとどまらず、関係性の貧困、文化創造の貧困など生きる希望を維持できない『生の貧困』に陥っている。それが親の世代から続いている」と述べています。
 第5章「高校中退の問題点」では、底辺校と進学校の中退率と減免率の変化から、「学力の階層が集まった学校ほど、この8年間の日本社会の貧困化の影響をもろに受けていることがわかる」と指摘しています。
 第6章「就学援助から中退へ」では、「江東、墨田、江戸川、足立などの『城東地域』では子どもの2、3人に1人が生活保護レベルの家庭の子ども」だとして、「東京都の23区の中でも、都市の中心と周縁部では、人々の暮らしにこれほど大きな格差があり、そしてと実の偏在が放置され、拡大し続けている」ことを指摘しています。
 第7章「終わりに」では、高校中退と子どもを貧困から救うための提案として、
(1)高校教育を義務教育化し、授業料を無償にする。
(2)高校教育の中身も現在の普通教育中心から専門教育中心に転換し、職業と地域をつなぐ役割を持つ職業教育中心の高校制度に転換させる。
(3)貧困層の家族に対する経済的な支援を厚くする。
(4)当面は、小・中学校の就学援助制度と高校の授業料減免制度をさらに充実させる。
の4点を挙げた上で、「高校中退は既に単なる教育問題ではなく我々の社会が抱える最大の社会政策課題の一つになっている」と述べています。
 本書は、高校中退者のリアルな状況を追った一冊です。


■ 個人的な視点から

 個人的には、この問題は高校の段階でどうにかできる問題ではなく、小学校の問題ではないかと思います。
 小学低学年の内容が理解出来ていないまま、他の子供達と「平等」に中学年、高学年の授業を同じ教室で受けさせる心温かき教育関係者の「慈悲深さ」には涙も出んばかりです。
 特に差が付きやすい算数や理科などは、科目ごとに理解度に応じた教育を受けさせた方が良いのではないかと思いますが。


■ どんな人にオススメ?

・高校のせいだと思っている人。

2010年5月12日 (水)

黒人はなぜ足が速いのか―「走る遺伝子」の謎

■ 書籍情報

黒人はなぜ足が速いのか―「走る遺伝子」の謎   【黒人はなぜ足が速いのか―「走る遺伝子」の謎】(#1938)

  若原 正己
  価格: ¥1,050 (税込)
  新潮社(2010/06)

 本書は、
「なぜ短距離走はカリブ海勢が強いのか。なぜ中・長距離走は東アフリカ勢が強いのか」という疑問をきっかけとして書かれたものです。
 第1章「短距離はジャマイカ、長距離はエチオピア」では、以前から、
・陸上短距離界は北米の黒人選手とカリブ海諸国
・中・長距離界は北・東アフリカ
・格闘技は西アジア勢
・卓球やバドミントンなどの競技は東アジア勢
が強いという見方が一般的だったとしたうえで、「ほんとうに人種によって運動能力に差があるのだろうか」と述べています。
 そして、過去の奴隷貿易に触れ、「ジャマイカ勢も米国黒人選手も今では国籍こそ違ってはいるが、その出自は西アフリカといってよいだろう」と述べています。
 第2章「走力と遺伝子」では、「圧倒的な速さを誇る選手が特定の国、特定の地域に多いことを説明するにはいろいろな立場、さまざまな考えがある」として、
(1)その原因を遺伝子の違いに求める立場
(2)人種特有の体型が速さに影響していると考える立場
の2つの立場を挙げています。
 第3章「短距離・瞬発力系の遺伝子」では、「ジャマイカをはじめ西アフリカにルーツを持つ国の選手は、筋肉の中に『αアクチニン3』というタンパク質を遺伝的に多く持っていることがわかった」として、「このタンパク質は、短距離走に必要な瞬発力やパワーを発揮する筋肉の収縮を支える機能がある」と述べています。
 第5章「西アフリカと東アフリカ」では、「表面的に見れば、西アフリカ人と東アフリカ人は、アフリカに住む黒人という枠組みでほとんど同じような人種と考えられがちだが、遺伝子距離を調べてみると、その差は結構大きい」と述べています。
 そして、「地域ごとにその風土・環境にふさわしい適応形質がより濃く選択されたと考えれば、東アフリカでは長距離走に適した体型になり、同時に持久力に強い遺伝子が残されたのだと説明できる。特に優秀な長距離走者が集中して現れるケニアのカレンジン地方は、大昔に持久力に関連した遺伝子の調節領域に突然変異が生じ、それが時間と共に広がった地域だと考えられる」と述べています。
 第6章「人種とスポーツ」では、運動能力の差を遺伝子に求めてはいけないとする理由として、
(1)黒人の運動能力の高さを強調すること自体が人種差別を助長するというもの
(2)もし黒人の運動能力が白人よりも遺伝的に高いのが真実であれば、黒人の青少年は早くから勉強をあきらめスポーツ界での活躍のみを夢見てしまう
の2点を挙げています。
 本書は、スポーツ界の常識でもありタブーでもある問題を扱った一冊です。


■ 個人的な視点から

 アメリカではこういう本は怖くて出せないのかも知れないと思います。そういう意味では日本人の感覚は鈍すぎるのか、まあこういう物なのかも知れません。


■ どんな人にオススメ?

・オリンピックに感動する人。

2010年5月11日 (火)

海から見た日本人-海人で読む日本の歴史

■ 書籍情報

海から見た日本人-海人で読む日本の歴史   【海から見た日本人-海人で読む日本の歴史】(#1937)

  後藤 明
  価格: ¥1,680 (税込)
  講談社(2010/4/9)

 本書は、『海を渡ったモンゴロイド』の著者が、日本を中心につづった海の民の物語です。
 第1章「ホモ・サピエンスと日本列島」では、日本語は、「いろいろな系統の言語が混合してできたために、周辺のどれかひとつの言語に近いと言い切れないという事情があるのであろう」と述べ、「異なった文化の波が何回かに渡って日本に到来した結果」、日本文化には、
(1)受容性と堆積性
(2)混合性と多様性
(3)伝統性と継続性
(4)等質性と同化性
という、「一見矛盾する特徴のように思えるが、ひとつひとつうなずける特徴」があると述べています。
 第2章「海を越える黒い石と白い海」では、「貝は古代人にとって特別な存在であった」として、「貝輪や貝貨に使うような貝は海岸にごろごろしているような貝ではなく、海底に棲むものを潜って採りに行くような種類であることが多い」と述べています。
 第3章「海を渡ってきた稲」では、「琉球列島では徳之島のように稲魂を海から迎える観念が強い。当然、稲自体もどこからか海を越えてやってきたはずである。それは日本列島も同様である」と述べています。
 そして、「江南地方の民族と弥生時代の文化が類縁的であることは明らかである」として、「弥生人イコール越人、あるいは倭人ではないが、弥生時代に日本列島に到来した集団の中に越の系統を引く倭人も含まれていたことは間違いないだろう」と述べています。
 そして、「日本における稲作の起源を論じるときに揚子江流域が注目され、いつどのようなルートで稲作がもたらされたかという議論のやり方が常識である」が、「江南地域から東南アジアの水郷地帯にかけて、同じような景観が作られたことが重要である」としています。
 第4章「海人の比較考古学」では、「海人」について、「漂海民のように船をねぐらとして海岸部を転々として移動して歩く集団に加え、臨海性の定着村を持っているが、一年の大半を集団の一部が家を離れる集団を含め、これらを総称して海人と呼ぶ」と定義しています。
 そして、「海を越えてきた弥生人」について、「海とも称すべき洞庭湖を擁する大河揚子江を行き来した彼らの祖先は必然的に海人的な性格を持つにいたり、その中から倭人のような海洋志向性の強い人々が生まれてきたと考えて間違いない」と述べています。
 第5章「海を越える魂」では、「東南アジアにおける船の表象には2つの大きな意味がある」として、
・死者の魂を運ぶ船
・疫病や災いを運び去ってくれる船
の2点を挙げています。
 本書は、海人という視点から日本人を論じた一冊です。


■ 個人的な視点から

 日本人はどこから来たのか、という話は、色々と主義主張とかのバイアスがかかったり無闇にロマンが発散したりという分野ではあるのですが、それはそうとして面白いです。


■ どんな人にオススメ?

・日本人のルーツを考えたい人。

2010年5月10日 (月)

コークの味は国ごとに違うべきか

■ 書籍情報

コークの味は国ごとに違うべきか   【コークの味は国ごとに違うべきか】(#1936)

  パンカジ・ゲマワット
  価格: ¥2,000 (税込)
  文藝春秋(2009/4/23)

 本書は、「国境はなくなり、世界はフラット化し、人々は場所の制約を受けることなく仕事や機械を見つけることができる」とする「フラット化」の旗印に対立する「セミ・グローバリゼーション」という概念を解説したものです。
 第1章「コークの味は国ごとに違うべきか」では、「グローバリゼーションによってそれまでの世界は押し流されて終末を迎え、その後に全く違った新しく素晴らしい世界が開かれる」とする「グローバリゼーション津波論」への期待を間違ったものと述べ、「本書におけるグローバル戦略はもっと幅広く様々な戦略を含んでいる」として、「国ごとの隔たりは一般に思われているよりも大きく、国際統合が完成した市場を想定した戦略は、国際的な標準化と規模の拡大を重視しすぎるところがある」と指摘しています。
 そして、津波論派が国際統合を促進する要素として主張していた、
(1)技術の進歩、特にコミュニケーション技術の進歩
(2)世界経済の中でほとんどの国がとった政策変更
の2点について、「この2つが近い内に本当にいっそう統合した世界をもたらすだろうか」を問うべきだとしています。
 第2章「ウォルマートは外国であまり儲けていない」では、国ごとの差異を、
・文化的(Cultural)
・制度的/政治的(Administrative/political)
・地理的(Geographical)
・経済的(Economic)
という4つの側面における隔たりという観点からモデル化する「CAGE」という枠組みを示しています。
 そして、CAGEの枠組みの応用の一つとして、「鍵となる差異を顕在化すること」を示すとともに、「第1章で論じたグローバリゼーション津波論に基づく構想を持つ意気揚々とした多国籍企業の妄想に対する解毒剤」であることを挙げています。
 第3章「ハーゲンダッツはヨーロッパの会社ではない」では、グローバル戦略がよく掲げる「なぜグローバル化するのか?」について概観した上で、「一国向けに開発された価値創造のロジックを、クロスボーダーの状況に応用したADDING(付加)価値スコアカードを提示」しています。
 そして、せメックスの価値創造を例に、「ADDING(付加)価値スコアカード」の構成要素である、
・販売数量の向上(Adding Volume)
・コストの削減(Decreasing Cost)
・差別化(Differentiating)
・業界の魅力の向上(improveing Industry Attractiveness)
・リスクの平準化(Normalizing Risk)
・知識(及びその他の経営資源)の創造と応用(Generating Knowledge)
の6点について解説しています。
 そして、「本章は国境を超える行動による価値創造を追求するための包括的で確固とした基板を提供している」と述べています。
 第4章「インドのマクドナルドには羊バーガーがある」では、「ありがちな先入観によって、クロスボーダー戦略が適応不足に陥っているケース」の解決策の一つとして、「国ごとの差異をいずれ重要でなくなるだろうと考えて無視するのではなく、差異を分析することだ」と述べ、「会社にとって同時に重要なのは、そういった差異に適応するツール、あるいは実際に適応を達成できるように条件を改善するツールを一通り考えることだ」と述べています。
 そして、主要家電メーカーがとった国ごとの差異への適応戦略として、
・多様化
・絞り込み:多様化の必要性を減らす
・外部化:多様化の負荷を減らす
・設計:多様化のコストを減らす
・イノベーション:多様化の効果を高める
などのツールを挙げています。
 第7章「IBMはなぜ新興国の社員を3倍にしたか」では、最近のIBMが「国ごとの差異を活用し始めた」として、「賃金の差を利用して、新興国の社員を3倍以上に増やし」たことを挙げ、「需要に見合うだけの有能な人材をグローバルに調達・配置したIBMの裁定の試みの中で非常に注目すべき要素は、各拠点に配置する社員を動学的に最適化する、洗練されたアルゴリズムである」と述べています。
 本書は、グローバリゼーションの実際をデータに基づいて冷静に論じた一冊です。


■ 個人的な視点から

 ネットが普及すると「世界の国境がなくなる」とか「テレビや新聞が無くなる」とか色々言われましたが、技術は進歩して入れ替わっても人間の世代交代はそんなに簡単には進まないわけで、本書の言うこともなるほどという感じでした。


■ どんな人にオススメ?

・国境はなくなると思う人。

2010年5月 9日 (日)

進学格差―深刻化する教育費負担

■ 書籍情報

進学格差―深刻化する教育費負担   【進学格差―深刻化する教育費負担】(#1935)

  小林 雅之
  価格: ¥714 (税込)
  筑摩書房(2008/12)

 本書は、「進学格差の最も重要な要因として、家計の教育費の負担力を取り上げ」たものです。
 第1章「大学進学の費用と進路選択」では、本書の目的として、
(1)高等教育機会の費用の差が、個人の進路選択に大きな影響を与えていること。
(2)日本では教育機会の問題や進学に要する費用負担の問題が大きな社会問題にならなかったため、教育政策の課題としても重視されず、奨学金や授業料免除が極めて乏しかった原因は何かを解明する。
の2点を挙げています。
 第2章「高等教育機会の選択」では、「大学全入」という言葉について、「この『全入』という言葉は、誤解を生みやすい、極めて危ない言葉である」として、「『全入』の意味するのは、単に大学短大志願者数が入学者数と等しくなるということだけで、そもそも進学できない者、さらに言えば、志願したくても志願もできない者がいることを覆い隠してしまうこと」を指摘しています。
 また、「高校生の進路に対する学力の影響と所得階層の影響は非常によく似ている」として、「学力が高いほど、そして所得階層が高いほど大学進学率は高い」ことを挙げ、「学力と並んで、家計の経済力の大きさは進学を規定する、極めて重要な要因であることが改めて確認できる」と述べています。
 第3章「子どもの進路に対する親の希望と教育費負担」では、「根強い親の進学希望により、成績が上位であれば、所得階層にかかわりなく8割以上が大学あるいは短大専門学校への進学を希望している」が、「成績が低くなるほど、所得階層の影響は大きくなっている」ことを指摘しています。
 第4章「各国の教育費負担と奨学制度」では、「各国と比べると日本の大学は高授業料/低奨学金で、世界各国の中でも韓国と並んで最も教育費の指摘負担が重いタイプである」と述べています。
 第5章「教育費負担と奨学金のあり方」では、教育ローンの返済方法として、「理論的に最も優れた制度」として提唱されている「所得連動型ローン(Income Contingent Loan)」について、「返済期間が長期にわたり、多くの場合、所得が最低基準額以下の借り手は返済が猶予され、一定期間の後、あるいは一定年齢以上では最終的には返済免除されるため、負担感は少ない」と述べています。
 本書は、進路選択の大きな要素となる家計の経済力に焦点を合わせた一冊です。


■ 個人的な視点から

 昔は大学に行けるかどうかが家の経済力によっていることなんて当たり前すぎて問題にもならなかったように記憶していますが、個人的にはFランク校に入ることを国が支援するというのも倒錯しているように感じられます。


■ どんな人にオススメ?

・誰でも進学できる社会が望ましいと思う人。

2010年5月 8日 (土)

マッド・アマノの「謝罪の品格」

■ 書籍情報

マッド・アマノの「謝罪の品格」   【マッド・アマノの「謝罪の品格」】(#1934)

  マッド・アマノ
  価格: ¥777 (税込)
  平凡社(2008/11/15)

 本書は、「頭下げ会見」の記事のコレクターである著者が、「頭下げ」パフォーマンスという視角から、「我が愛すべき日本の『謝罪文化』に一体何が見えてくるのか」を追ったものです。
 第1章「究極のパフォーマンス ここまでやる?」では、薬害エイズ事件におけるミドリ十字の土下座会見について、「これほど派手な土下座を私は見たことがない」として、「こんな目くらまし的謝罪が許されていいはずがない。そう思った人は少なくなかっただろう」と述べています。
 第2章「巨大救済劇のカラクリ」では、山一證券の自主廃業に関して、「銀行の投信窓口販売解禁に備えて、山一を破綻させたのではないか」という「"政府のシナリオ"を勘ぐる株式の専門家も出現。投信販売のノウハウの蓄積がない都銀や地銀などは山一が破綻の翌日から、投信部門社員を引きぬいた」と述べています。
 第5章「懲りない会社」では、リコールを巡る三菱自動車の謝罪会見について、「不祥事(死傷事故)の背景には三菱グループ内での微妙な立場や意思決定の遅い体質など構造的な組織の"欠陥"が見え隠れすることは間違いないが、最も問題にすべきことは『根本的に謝罪する気があるのか』ということではないだろうか」と述べています。
 第6章「罪の重さと自覚の軽さ」では、コムスンの不祥事に関して、「折口雅博会長を『悪者』に仕立ててコムスン潰しを企てた勢力が歴然と存在する」と推測し、「ハゲタカ・ファンド、つまり外資系投資会社の『日本企業買いまくり戦略』の一環ではないか、という推察も成り立つ」としています。
 第14章「学校の謝罪でかすむ本人責任」では、痴漢でっち上げ事件で在学生が逮捕された甲南大学の学長が謝罪会見を行ったことについて、「いくら悪質でも、事件の責任を感じて大学側が謝罪会見を開くことに、私は違和感を抱かざるをえない」として、「相手の事情や感情にはお構いなしに行われる日本的謝罪は、単に謝罪する側の都合と自己満足に過ぎないのではないだろうか」と述べています。
 第16章「不透明な、謝罪のあと先」では、エイズウイルスに関して、『暴露 エイズウイルスは細菌兵器だった』の著者ゲイリー・グラム氏に触れ、「世界で最も権威のある者たち」である、アンドリュー・カーネギー、コーネリウス・バンダービルト、J・P・モルガン、そしてジョン・D・ロックフェラーら大富豪の寄付によって、1904年に設立された「実験的進化研究所」の研究目的の一つが、「黒人を含む有色人種の急激な出生率の伸びをいかに抑えるかということにあった」ことを指摘しています。
 第18章「謝罪とニッポン人」では、"食肉の帝王"の異名をとった浅田満氏、"ホリエモン"こと堀江貴文氏、そして"防衛省の天皇"と呼ばれた守屋武昌氏の3人に、謝罪会見が行われなかったという共通点があることを指摘し、「彼らは謝罪会見を開かなかったのではなく、ある筋の都合によって開かせないように仕組まれたのではないのか」と述べ、「謝罪会見は開かれても裏があり、開かれなくても裏がある」としています。
 本書は、謝罪会見という切り口から日本社会を切った一冊です。


■ 個人的な視点から

 偉大なるパロディの巨人の眼を通したテレビ画面の中の茶番劇の姿はさぞかし面白おかしく腹がたつものだったのではないかと思います。


■ どんな人にオススメ?

・テレビでハゲの頭頂部を見て何が楽しいのかと思う人。

2010年5月 7日 (金)

軋む社会 教育・仕事・若者の現在

■ 書籍情報

軋む社会 教育・仕事・若者の現在   【軋む社会 教育・仕事・若者の現在】(#1933)

  本田 由紀
  価格: ¥1,890 (税込)
  双風舎(2008/5/26)

 本書は、「家族―教育―仕事という3つの社会領域間の循環関係の破綻、特に生活条件面での『軋み』」とその原因を直視し理解することを目的としたものです。
 第1部「日本の教育は生き返ることができるのか」では、「学歴社会」を巡る議論に、1980年代後半から1990年代末までの間、空白の期間があったことについて、70~80年代の「学歴社会」論は、
(1)「受験競争」論との連動
(2)「正社員」内部の差異という前提
(3)文化や社会意識の参照
(4)出身階層による学歴の不平等をなおざりにする
という特徴を持っていたことを指摘した上で、世紀末に噴出したさまざまな「格差」論には、かつての「学歴社会」論と比べ、
(1)かつては人々の大半が巻き込まれているとみなされていた学歴や地位を目指す「競争が、いまや社会の一部に偏って現れ始めたということが指摘されるようになった。
(2)出身階層に基づく格差や不平等という問題に、より焦点が当てられるようになった。
(3)学校教育終了後の若者の職業経歴が大きく変化したことが社会問題化し、若者の学校卒業後の進路は、かつてとくらべていちじるしく多様化している。
という違いがあることを挙げ、「1970~80年代の『学歴社会』論は、牧歌的にすら感じられる。それは、『総中流』である『正社員』という同じ土俵の上で、人々が学歴に応じた収入や昇進の細かい差異を気にしあっている状態に過ぎなかった」と述べています。
 第2部「超能力主義(ハイパー・メリトクラシー)に抗う」では、ハイパー・メリトクラシーについて、「非認知的で非標準的な、感情操作能力とでも呼ぶべきもの(いわゆる『人間力』)が、個人の評価や地位配分の基準として重要化した社会状態」を意味していると述べ、「認知的な能力(頭の良さ)よりも、意欲や対人関係能力、創造性など、人格や感情の深部、人間の全体の及ぶ能力を評価の俎上に載せる」意味で、「従来のメリトクラシーよりもむき出しで苛烈なメリトクラシー」だと指摘しています。
 そして、ハイパー・メリトクラシーが、若者に対して、
(1)要求水準の高度化という圧力
(2)属性的格差の顕在化と対処策の不在
(3)評価の恣意性
(4)自己責任化と自己否定・自己排除
(5)限度のない没入
のような「厳しい負荷を突きつける」と述べています。
 また、「『専門性』についての否定的な考え方から脱却しつつ、今後の職業教育や職業キャリアを再編していく上での指針となる概念」として、「柔軟な専門性(flexpeciality)」という概念を提唱し、「特定の専門領域や分野、テーマを入り口ないし切り口としながら、徐々にそれを隣接・関連する領域へと拡張・転換していくことを通じ、より一般的・共通的・普遍的な知識やスキル、あるいはキャリアを身につけていくプロセス」であると解説しています。
 第3部「働くことの意味」では、社会学者の阿部真大が提唱した「自己実現系ワーカホリック」がいま存在感を増しつつあるとして、その構成要素である、
(1)趣味性
(2)ゲーム性
(3)奉仕性
(4)サークル性・カルト性
の3点を挙げた上で、バイク便ライダーを例に、「彼らを『働きすぎ』にいざなっているのは、自分の裁量で仕事の仕方を決め、収益を動かすことができるという、擬似自営業者的な就業形態である」として、「こうした自営業的な就業形態に潜むゲーム性が、その従事者を再現のない『働きすぎ』に追い込んでいる」ことなどを指摘しています。
 そして、「安定雇用や賃金などの即物的対価以外の目的で働いてくれる『自己実現系ワーカホリック』たちは、企業による『<やりがい>の搾取』の好餌となっている」と指摘しています。
 第5部「排除される若者たち」では、「東京の若者の有業・無業状況は、全国と比べてそれほど大きな違いがない」が、「東京ではそうした有業・無業状況が、ある特徴を持つ若年人口内部の分布として生じている」として、
(1)もともと東京に在住していた者の中での大学・短大進学志向が高い。
(2)多数の大学が存在することから他の道府県から東京に大学生として新規に流入してくるものの規模が大きい。
(3)大学・大学院卒業後も東京で食を得るなどして定住する者が多い。
の3つの理由から、「東京の若者の中には、大学・短大や大学院などの高い学歴を持つ者の比率が、国内の他地域と比べて目立って多くなっている」事などを指摘しています。
 本書は、社会の軋みの間から聞こえてくる若者の姿を捉えようとした一冊です。


■ 個人的な視点から

 本題から外れますが、「超能力主義」という言葉は、「超・能力主義」と切るべきところなのにもかかわらず、ぎなた読みっぽく「超能力・主義」で切ってしまい、なんだかオウム真理教みたいなカルトっぽい話だと誤解されそうなのが心配です。


■ どんな人にオススメ?

・社会の軋みの真っ只中にいる若者について考えたい人。

2010年5月 6日 (木)

公務員ムダ論――不況時代の公務員のあり方

■ 書籍情報

公務員ムダ論――不況時代の公務員のあり方   【公務員ムダ論――不況時代の公務員のあり方】(#1932)

  福岡 政行
  価格: ¥740 (税込)
  角川書店(2010/1/10)

 本書は、「コツコツと働き、額に汗して働き、税金を収めている労働者よりも、税金を給与にしている公務員の方が給料がはるかに高いということは、どう考えてもおかしい。不自然であり、道理に反する」という思いから公務員制度の抜本的な改革に向けて書かれたものです。
 第1章「公務員は国民全体の奉仕者」では、日本の税収が20%以上も減る中で、「公務員人件費のカットも一つのコロラリー(必然的結果)である」ことが、「憲法15条の公務員の<全体の奉仕者>の精神」だと述べています。
 第3章「巨大すぎる公務員人件費」では、「大企業労働者の1200万人と、公務員350万人、それに、パブリックセクターの100万から500万人の労働者の2000万人前後の人が、恵まれた労働条件にある」として、「まさに、民貧官富の状況」だと述べています。
 そして、自民党政権を、「霞ヶ関の官僚中軸国家であり、官僚主権政権とするならば、民主党政権は、連合という正規労働者(大企業)と公務員の影響力の強い政権を言わざるをえない」と指摘しています。
 第4章「国も地方も天下り天国」では、「公益法人という組織はきわめて、官の色彩が強いものであり、国や自治体との人事方法や業務協力でかぶる部分が多い」ため、「国や自治体の天下りを受け入れることによって、補助金などのバックアップのシステムとなっている」と述べています。
 第5章「格差化する地方公務員」では、福島県矢祭町や長野県下條村の例を挙げ、「少ない職員でうまくやっている町村がある」として、これこそが、「自治体経営の原点なのかも知れない」と述べています。
 第6章「本当に危険なのは大都市」では、八大都府県の人件費が6兆5千億円を超えていることを指摘する一方で、神奈川県の一般行政職員が8000人弱で千葉県や大阪府よりも少ないことを評価しています(なお、政令市を除いた神奈川県の人口は約330万人で静岡県(380万人)と茨城県(300万人)の間くらい)。
 第7章「"どうする日本"への処方箋」では、日本の国が立ち直るための処方箋として、
(1)政権交代
(2)政治家の定数削減は半分!
(3)公務員の天下り全面禁止
(4)公務員人件費2割カット、退職金は3割カット
(5)有償ボランティア300万人!公務員と市民(住民)による<民官>パートナーシップの確立
の5点を挙げています。
 本書は、テレビのおなじみのコメンテーターが、ワイドショーや各地での講演で受けた話をまとめたような一冊です。


■ 個人的な視点から

 本書で著者は政治学者というよりもワイドショーのコメンテーターとしてのキャラクターを大事にしたというところでしょうか。もしかしたら自分が選挙に出たいのかも知れませんがそのへんは想像が及ばない範囲ということで。


■ どんな人にオススメ?

・ワイドショーとか好きな人。

2010年5月 5日 (水)

超ヤバい経済学

■ 書籍情報

超ヤバい経済学   【超ヤバい経済学】(#1931)

  スティーヴン・D・レヴィット, スティーヴン・J・ダブナー (著), 望月 衛 (翻訳)
  価格: ¥1,995 (税込)
  東洋経済新報社(2010/9/23)

 本書は、「人は誘因で動く」、「人はインセンティヴ(誘因)に反応する」が、「思ったとおりの反応ではなかったり、一目でわかるような反応ではなかったりする」ため、「意図せざる結果の法則は宇宙で一番強力な法則の一つである」ことを説いたものです。
 そして、「経済学的アプローチ」について、「世界をちょっと違った目で調べようという決意だ」とするノーベル経済学賞の受賞講演でのベッカーの言葉を紹介し、「経済学的アプローチが描き出すのは、世の中が実際にはどうなっているかだ」と述べています。
 第1章「立ちんぼやっている売春婦、デパートのサンタとどうしておんなじ?」では、「女性であることの経済的な大小はとても大きい」として、「21世紀の労働市場で女性は大きな進歩を遂げた。でも典型的な女の人は、ただ男に生まれてくるだけの先見の明があれば、それだけでずっとずっと得をしていたはずなのだ」と述べています。
 そして、「女の人たちがずっと牛耳ってきた労働市場」である売春市場について、「100年前は一番安手の女郎でさえ今の皆さんとは比べ物にならないぐらい稼いでいた」として、「婚外セックスは売春に取って代われる選択肢になった。有料セックスの需要が減るにしたがって、供給する人たちの稼ぎも減ったのだ」、「タダで男とセックスしようって女の人なら誰だって商売敵だ」と述べています。
 また、ポン引きが売春に与えるインパクトについて、「ポン引きのおかげで手に入る有利な点の中で、逮捕されないというのは一番大きな一つだ」と述べています。
 第2章「自爆テロやるなら生命保険に入ったほうがいいのはどうして?」では、「テロが効果的なのは、直接の犠牲者だけでなく、あらゆる人に負担を強いるからだ」と述べ、「そんな間接的な負担のうち一番大きいのが、また攻撃されるかもという恐怖」だとしています。
 第3章「身勝手と思いやりの信じられない話」では、「経済学者の言葉を借りれば、ほとんどの寄付は不純な思いやり、あるいはちょっとした満足感のための思いやりだ。助けたいから寄付をするというだけでなくて、見栄えがいいからとかいい気分に慣れるとか、ひょっとすると居心地の悪さが減るからとかで寄付するのだ」と述べています。
 第4章「お悩み解決いたします――安く簡単に」では、「人の振る舞いを変えるのは難しい」として、「毎日世界中で何十億人という人が、自分に悪いとわかっていながらいろいろなことをやっている。タバコを吸ったりギャンブルにのめりこんだりヘルメットもかぶらずにバイクに乗ったりしている」と述べています。
 第5章「アル・ゴアとかけてピナトゥボ火山と解く。そのこころは?」では、「いろんな点で、地球の温暖化は類がないほど頭の痛い問題だ」として、
(1)気候化学者は実験を行うことができない。
(2)科学的な面はものすごく複雑だ。人間の活動はどの一つもどんな影響を及ぼすかはものすごくいろんなことに左右される。
等の点を指摘しています。
 そして、「心の温かい人道派じゃなくて、身体に冷たい血が流れる経済学者みたいに頭を使うなら、ゴアの言葉は筋が通らないのがわかるはずだ。ぼくたちは大気の汚染をどうやって止めたらいいか分からないんじゃない。僕たちは止めたくないのだ。あるいは止める代償を払いたくないのだ」として、環境保護派の呼びかけは、「インセンティヴに関する限り、あんまり力強い話とは言えない」と指摘し、「集団が振る舞いを変えるのは、見てる分には面白いのかも知れないけど、理解しようとすると頭がおかしくなるぐらいとらえどころがないものなのである」と述べています。
 本書は、経済学という「ちょっと違った目」で世界を見る楽しさを教えてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 個人的には、前作の方がバランスよくまとまっていて読み物としては面白かった気がするのですが、まあ続編というのはこういうものなのでしょうか。


■ どんな人にオススメ?

・続きが楽しみだった人。

2010年5月 4日 (火)

サンカの真実 三角寛の虚構

■ 書籍情報

サンカの真実 三角寛の虚構   【サンカの真実 三角寛の虚構】(#1930)

  筒井 功
  価格: ¥798 (税込)
  文藝春秋(2006/10)

 本書は、サンカ研究の第一人者と言われている三角寛のサンカ研究について、「そこで語られていることから虚構、作為の部分を一つひとつはぎ取っていくと、あとには何も残らないと言っても過言でないくらい、三角の著作はつくりごとで埋め尽くされている」ことを、「揺ぎ無い物的証拠と確かな証言によって、きっちりと立証可能で」あることを示すことを目的としたものです。
 第1章「『サンカ社会の研究』の出版」では、「三角寛の著作は、たぶんに好事家的、素人的な傾向を持つ、この分野の研究所、観察記録に深刻な影響を及ぼしただけではない。わが国を代表するような百科事典、専門辞典にも、その記述は色濃い影を落としている」として、小学館の『日本大百科全書』の「さんか」の項の誤りを指摘しています。
 そして、三角の『サンカ社会の研究』の再発の許可が、三角の著作権継承者にある娘婿の三浦大四郎からなかなか出なかった理由として、「遠まわしな表現ながら、他ならぬ著作権継承者が、その著作の価値を否定していると受け取れる」文章を「復刊にあたって」で記していることを指摘しています。
 第2章「サンカ写真集の虚構と作為」では、「三角の写真集を貫いている基本的なからくりは、本物を起用した上での演出と作為にある」として、三角が、移動箕作りとその家族員、「自分が用意してきたテントを彼らに使わせたり、普段彼らが着用することなどなかった着物を持参して着せたりしている」上に、「写真説明で、実際とは違う撮影年月と場所を期す」ことで、「対象とした集団の特異性を誇張し、その規模を大きく見せ、さらに取材に何十年もの期間をかけたと思わせるために、さまざまの虚言を構えている」と指摘しています。
 第3章「被写体となった人びと」では、三角が撮った写真について、「この写真の家族が当時、埼玉県中部域で移動生活を送っていたサンカ(この地方ではミナオシと呼ぶ)であったことは、まちがいない」が、「三角は、『研究』の虚構を支える写真の被写体として、夫婦と子供たちを徹底的に利用した」と指摘しています。
 そして、「三角が実際に接した、サンカと呼んでよい人々は、辰三郎と、その周辺にいた、せいぜいで十数家族に過ぎない。三角は、他の地方では、取材と言えるほどのことは、ほとんどしていない」と述べています。
 第5章「三角寛は、なぜ偽りを語ったか」では、三浦大四郎氏によれば、三角が東洋大学に提出した論文が教授会で却下されてしまったことについて、そのことに三角がキレ、「話が違う。金で博士号を売ろうとしたことを公にしてもいいのか」と逆に東洋大学を脅しているのを聞いたと語っていることを紹介しています。
 第6章「三角寛こと三浦守の生い立ち」では、三角寛の娘、寛子による『父・三角寛』が、「周囲に毒をまき散らしながら生きた男」と評された三角の素顔を活写しているとした上で、データの思い違いを訂正した上で、三角の幼少期をたどるとしています。
 第7章「新聞記者から小説家へ」では、三角が、大正15年3月1日付けで、朝日新聞東京本社の社会部記者になっていることについては確かだとした上で、日本大学法科退学という履歴について、「三角の最終学歴は、小学校卒であった可能性が強い」と指摘しています。
 また、三角が、「取材の天才」と評されたことについて、「三角が記者として、めったにない資質の持ち主であったことは、まちがいあるまい」としながらも、「事実に過剰な味付けを凝らしたり、針小棒大に伝えたりする」、いわゆる「飛ばし」という癖の強い「飛ばし屋」出会ったと述べています。
 第8章「漂白の民サンカの真実」では、「サンカ」の語源は、「坂ノ者」ではないかという私見を述べた上で、サンカを、
・箕作り系のサンカ
・竹細工系のサンカ
・棕呂箒系のサンカ
・川魚漁系のサンカ
の4つの類型を挙げています。
 第9章「サンカ資料は、なぜ少ないか」では、「学問として見成立か、あるいは成熟度がいちじるしく低い分野には、好事家が群れやすい。ろくに知識がなくても、ああだ、こうだと勝手なことが言えるからである」とした上で、「サンカのことを記録した近世以前の文献資料が乏しい原因」として、「彼らはただ蔑視の対象であって、その生態や由来を苦労して調べようと考えたものなど、皆無に近かったのではないか」と述べています。
 そして、「被差別民、被差別部落史の実証的研究が本格化したのは、ここ三十年か四十年ほどのこと」だとして、「サンカ研究は、そのような見直しに重要な影響を与える可能性をはらんでいる」と述べています。
 本書は、評価の分かれる三角寛のサンカ研究に現代の目を向けた一冊です。


■ 個人的な視点から

 柳田国男の文章を読んで以来、サンカに対するロマンはあったりするのですが、それを商売にしてしまうガッカリ感も嫌いではないので、誰か三角寛を主人公に映画とか作ってくれたら楽しいのに。


■ どんな人にオススメ?

・サンカ好きな人。

2010年5月 3日 (月)

不透明な時代を見抜く「統計思考力」

■ 書籍情報

不透明な時代を見抜く「統計思考力」   【不透明な時代を見抜く「統計思考力」】(#1929)

  神永 正博
  価格: ¥1680 (税込)
  ディスカヴァー・トゥエンティワン(2009/4/15)

 本書は、
・他の人が気づいていない問題を見つけ出し、自分で考えて結論を出す。
・誰かが書いたデータの解釈を読まされている状態から、自分でデータを読むようになれば、見える世界が変わってくる。
という理由から、「データ分析が、自力でモノを考える際に強力な武器になる」ことを説いたものです。
 第1章「基礎編 データを見る」では、データを見ることの大事なこととして、
(1)データを先に見る
(2)だれかが解釈する前のデータを見る
(3)自分の仮説に反するデータも集める
の3点を挙げています。
 そして、「大学生全体の平均読書時間が減っている」というデータについて、「『よく読んでいる層』以外に、『ほとんど読んでいない層』がどんどん大学に入ってきているから」だという事実を指摘し、「もともと違う層に属する若者が、スライドして大学に入学してきているだけ」だと述べ、「『昔の』大学生と『今の』大学生は同じではありません」としています。
 また、ポアソン分布について、「稀にしか起こらない互いに全く無関係の事件(事象)が、一定期間(この場合は1年)に何回起きるかを記録すると現れる分布」だとして、航空事故の事件件数の分布がポアソン分布になることは、「航空事故同士が互いに無関係に起きていることを示している」と述べています。
 第2章「中級編 データを読む」では、ブラック・ショールズ評価式の前提が、「株価が正規分布を使って書ける」ということだとした上で、「株価のように、ときおりものすごく大きく変動するものに対しては、平均や分散が存在しないことがある」と指摘し、「経済現象では、正規分布で考えるととんでもない事態になることが、頻繁に(この場合は1年)に何回起きるかを記録すると現れる分布!)起こります」と述べています。
 また、回帰分析をする際に留意すべき点として、「『相関』というのは、あくまで『対応関係』を示したものであって、『因果関係』ではない」ことを挙げています。
 第3章「上級編 データを利用する」では、「それまで一度も起きたことがないことは、どんな分析手法を使っても予測できない」と述べています。
 また、「人口問題について考えるとき、『人口ボーナス』と『人口オーナス』という概念を知っておくと大変便利」だとした上で、「人口ボーナス期だけが繁栄の時だというわけでは」ないとして、経済成長を支配する、労働力、資本、労働の効率性のうち、「人口ボーナスが直接影響している」のは、労働力だけであることを指摘しています。
 著者は、「自力で考えることの最大の敵は、自分には分かっているという過信」であり、「いちばんむずかしいのは、正気を保つこと」なのだと述べ、「正気を保つために、データ分析ほど強力な薬は他にない」と述べています。
 本書は、データを分析することの効能を説いた一冊です。


■ 個人的な視点から

 データの使い途の件でも、LTCMの破綻の話はやはり面白い。とは言え、金融工学の理論自体は一定の条件が整うと巨額のリターンがあるからまるっきり無視をするわけにもいかない。まあ、素人がFXに手を出して儲け続けることがあるはずないよ、ということくらいは判るのかな、と思います。


■ どんな人にオススメ?

・データという言葉に拒否感を感じる人。

2010年5月 2日 (日)

望遠鏡が宇宙を変えた―見ることと信じること

■ 書籍情報

望遠鏡が宇宙を変えた―見ることと信じること   【望遠鏡が宇宙を変えた―見ることと信じること】(#1928)

  リチャード パネク (著), 伊藤 和子 (翻訳)
  価格: ¥2310 (税込)
  東京書籍(2001/08)

 本書は、「望遠鏡の歴史を軸に、人々の世界観・宇宙観の変遷をたどった物語」です。
 プロローグでは、「望遠鏡が人々の知る宇宙の大きさをいかに広げてきたか、その歴史はそのまま近代化の歴史に重なる。それは『ある技術の発展が人々の自己認識をどのように変えてきたか』という物語であり、同時に『人々の自己認識がある技術をどう変えてきたか』という物語でもある」としています。
 第1章「新世界」では、「新時代の物理的な発見のいずれと比べても、いや、すべてと比べても、少なくとも同程度に注目に値するのは、発見によってもたらされた新しい視点であった。発見そのものに対する評価の仕方が違ってきたのである」と述べています。
 第2章「神の目」では、「ガリレオは自分でつくった装置の力を借りて、一冊の薄っぺらな小冊子で『これまでの天文学の常識をすっかり覆した』」とした上で、「つまるところプトレマイオスのモデル、あるいはそれを多少修正した無数のモデルに対するコペルニクスの不満は、『美しくない』の一言に過ぎた」と述べています。
 第3章「数値を測る」では、ガリレオ式に比べたケプラー式望遠鏡の「構造上の大きな利点」として、「そこに目盛りを入れれば、像の中の二つの点の相対的な距離を計測できる」こと、「惑星の直径、惑星と恒星の距離、ふたつの恒星間の距離などが測定できる」という特徴を挙げ、「大きさ、そして距離。マイクロメーターや望遠鏡付きの四分儀で得られた測定値に三角法を組み合わせれば、天文学の二つの大問題に一歩近づくことができる」、「すなわち、宇宙はどのくらい大きいか、その果てはどのくらい遠いのか」と述べています。
 第4章「奥行きを探る」では、音楽家ウィリアム・ハーシェルが「本業の音楽がそっちのけになるほど、彼は星に魅せられていた」として、「当時は、教養のある紳士が天文観測を趣味にするのは珍しいことではなかった。過去100年間に望遠鏡は知のシンボル、科学研究と想像力に託された、文明の最善の希望のシンボルとなっていた」と述べています。
 そして、「百聞は一見にしかずと言うが、『見ること(シーイング)』と『信じること(ビリーヴィング)』は違う。望遠鏡を使っても、望遠鏡と使った天文学が純粋に主観的な学問にとどまる限り――位置天文学ではなく観測天文学、定量観測ではなく定性観測にとどまる限り、その成果は絶えず疑問視され、議論されることになる」として、「天文学者は『信じる』ことが出来る要因あったのである。宇宙は何らかの法則に従って動いており、その法則を探ることができる、と――」と述べ、「ニュートンはまさしく、ガリレオが提唱し、自身もそれに努力を傾けた『幾何学の言葉で書かれた自然の書物』を読み解く作業を行ったのである。天界の力学を抽象的な数学で表現したのである。ここにおいて古代の権威は完全に舞台の袖に退き、かわって近代の権威が登場した」と述べています。
 第5章「もっと光を」では、「19世紀を通じて、天文学者たちはハーシェルの観測から多くを学んできた」として、その影響の大きさを示唆する事実として、「望遠鏡の性能を判断する目安は、焦点距離ではなく、開口部の直径になっていた。つまり、どれだけ像を拡大できるかではなく、どれだけ光を集められるかが重視されるようになった」ことを指摘し、「より多くの光を集めることは、より遠くが見えることを意味し、より遠くが見えることは、より多くの星雲が見えることを意味した」と述べています。
 また、「天文学に根底的な変化をもたらした」者として、望遠鏡とカメラとともに、「分光器と呼ばれる装置が加わって、新しい時代の到来を告げる」と述べています。
 第6章「暗黒の謎」では、電波望遠鏡という新しい形の望遠鏡の発明によって、「天文学者は『見ること』を一から学び直さねばならなくなった」とともに、「天文学者は『考えること』も一から学び直さねばならなかった」として、天文学が、「見えない領域に入っていくという、全く予期しなかった段階に突入しようとしていた。それによって『見る』ということの定義が広がり、望遠鏡の概念も広がって予想外の仮説が浮上するだろう。その意味で、この新しい天文学は、19世紀の新しい天文学以上に画期的なものに見えた」と述べています。
 本書は、望遠鏡の発達が私たちの宇宙観を以下に変えてきたかを教えてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 望遠鏡と宇宙観の関係は、サイモン・シンの『ビッグバン宇宙論』などがよいのですが、望遠鏡に話を絞ってコンパクトにまとめた本書も悪くないです。個人的には、子供の望遠鏡をのぞくこともあるのですが、星座を見るのは楽しいですが、子供用の望遠鏡で見て楽しいのは月面くらいでしょうか。土星の輪とかが見れると楽しいかも。


■ どんな人にオススメ?

・望遠鏡を覗き込んで見えないものを見ようとした人。

2010年5月 1日 (土)

ストーカーの日本史―神話時代から江戸時代まで

■ 書籍情報

ストーカーの日本史―神話時代から江戸時代まで   【ストーカーの日本史―神話時代から江戸時代まで】(#1927)

  川口 素生
  価格: ¥819 (税込)
  ベストセラーズ(2005/06)

 本書は、「後妻打(うわなりうち)」という「一夫多妻制の下で前妻(こなみ)(第一夫人)が後からやってきた後妻(第二夫人)を、一夫一婦制の下で離婚した前妻が新しくやってきた後妻を襲撃する行為」や他のストーカーの事例を紹介したものです。
 序章「後妻打――習俗としてのストーキング」では、後妻打の手順について、「まず事前に前妻の側の家老が後妻のところへ赴いて、何月何日に後妻打を行うこと、その時にどういう武器を持参するかを申し入れる。武器は大抵、木刀か竹刀で、太刀、脇差などの刃物を一切持参しないのが通例である。当日は前妻の側、後妻の側の双方が親類や縁者、近所の女を動員する」などと述べ、「後妻打が終わったあと、双方は、味方を労い、論功行賞を行ったというからまさに女の戦である」としています。
 そして、「後妻打で後妻やその関係者が落命することは殆ど無かったものと思われる」としています。
 第1章「記紀や伝説の中のストーカー」では、「ストーカー犯罪を行った者(加害者)の名、された側(被害者)の名、犯罪の年代、内容などが正確に判明している」のは、穴穂部皇子と豊御食炊屋姫とを巡る事件が日本史上ほぼ最初であるとした上で、「根底には皇位継承問題が絡んでおり、その面では政治的な事件である」と述べています。
 また、「一般に知られている前近代のストーカー殺人の中で、最も有名な事例」として、安珍清姫の物語を挙げ、「愛を誓った恋人に裏切られた女が蛇に化身。自分の元から逃げ去ろうとした恋人を憎悪の炎で焼き殺したというストーリーで名高い」としています。
 第2章「平安時代のストーカー」では、『大鏡』に記録された後妻打の事例として、藤原安子が、恋敵である女御・藤原芳子に「土器の破片を投げつけさせた」ことを紹介しています。
 第3章「鎌倉時代から戦国時代のストーカー」では、源頼朝が、「政子の妊娠中に、愛人を鎌倉に呼び寄せ、さらに長兄の未亡人にも秋波を送っていた」ことについて、「身一つで長く流人生活を送っていた頼朝にとっては、いざという時は閨閥だけが頼りとなる。二股が三股になろうとも、折にふれて刑罰を構築しておきたいという願望もあったのであろうか」と述べた上で、夫の不貞を知った政子が、愛人の家を一軒壊してしまったとして、「政子は史上最強のストーカーであったと言っても誤りではないであろう」と述べています。
 そして、頼朝と政子との報復合戦について、「頼朝は清和源氏の棟梁として側室を持つのを当然のように思っている。これに対して、東国の武士の娘である政子は一夫一婦制を堅持することによって、自身の妻としての地位をより強固なものにしたいと考えていたものと推測される。いわば、武家の棟梁の文化・生活様式と、東国の武士の文化・生活様式との違いが、拗れに拗れて一大騒動に発展した、とみることも出来よう」としています。
 第4章「江戸時代のストーカー」では、映画『卒業』のシーンに触れた上で、「今から三百年近く昔、男が元許嫁の祝言の席に乱入。新婦を殺害するという事件が起こった」ことを紹介しています。
 本書は、伝統ある日本のストーカーの歴史を綴った一冊です。


■ 個人的な視点から

 個人的には「後妻打」という習慣自体を初めて耳にしたので面白かったです。現代から見ると一夫多妻制ってどうやって回っていたのか不思議ではあるのですが、やはりすんなりとはいかないというところが面白かったです。もちろん、離婚と再婚を繰り返すというのも、現行法で合法とは言え、時間差をおいた一夫多妻の一形態ではあるわけで、現代でも後妻打の習慣があれば離婚訴訟も丸く収まる……かな?


■ どんな人にオススメ?

・ストーカーは現代の病とか言っちゃう人。

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