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2011年1月

2011年1月31日 (月)

なぜヒトは旅をするのか―人類だけにそなわった冒険心

■ 書籍情報

なぜヒトは旅をするのか―人類だけにそなわった冒険心   【なぜヒトは旅をするのか―人類だけにそなわった冒険心】(#1971)

  榎本知郎
  価格: ¥1,575 (税込)
  化学同人(2011/1/20)

 本書は、「ヒトという生物種では、なぜ旅をするのか、できるのか」について、「これまでだれも語ってこなかった」として、「近縁のサル類との比較によって『許容』の進化を説明すること」を目的としたものです。
 第1章「旅する人たち」では、「人類は、文明以前から旅をしてきた」として、アフリカから南アメリカ南端までの「グレート・ジャーニー」や法顕、玄奘のインドへの旅、イブン・バトゥータの大旅行などを取り上げた上で、旅を、
(1)有史以前からあったアフリカから南米の南端に至るような"グレート・ジャーニー"
(2)ある集団から別の集団への嫁入り、婿入りの移動
(3)自分の帰属する国とか地域の集団や家族があり、その帰属を変えないまま旅をし、やがて故郷に戻ってくるもの
の3通りに大別しています。
 第2章「なぜ動物は移動するのか」では、動物の移動の形を、
(1)移動するのが一個体ないし少数個体か、それとも大集団か
(2)生活圏のなかでの移動か、それとも未知の領域への移動か
の2つの類型により、4つのカテゴリーに分類した上で、「どの移動を見ても、ある集団の生活圏を出て移動し、ふたたびその生活圏へ戻ってくる様式がない。この点がヒトの旅とは、明らかに違っているのである」と述べています。
 第3章「旅とはなにか」では、「文明以前の人は野蛮人で、知的能力が現代人より劣っていて、とんでもない野蛮な行動をとる」という「いわれのない偏見」を読者は持っていないはずだとした上で、「一万年前の状況を想像して自分をその場におき、どのように行動するだろうかと考えながら読んでいただきたい」と述べています。
 そして、北アメリカの先住民が、「無断で押し掛けてきた植民者を攻撃せず、自分たちの蓄えである食料を無償で分け与えた。このことは、"文明人"の常識から考えると、つじつまが合わないことかもしれない」が、「先住民のこの対応こそ、われわれヒトが本来持っている性質だと考えられる」と述べています。
 そして、旅を可能にするヒト乗せ異質として、
(1)許容:ヒトは"よその集団"に属す見知らぬヒトが自分たちの生活圏に入って来たとき、敵として排除しないという性質がある。
(2)旅人が宿舎や食物などの便宜強を受けられる。
の2点を挙げています。
 また、本書における「旅」の定義として、「旅とは、"うちの集団"の生活圏を出て"よその集団"の生活圏に行き、その集団に属す人たちとコミュニケーションし、宿舎や食料の供与を受けつつ何日もかけて移動し、ふたたび"うちの集団"のもとへ帰還する行動である」と述べています。
 第5章「許容が生まれるコミュニケーション」では、「『あいさつ』は、敵意がないというメッセージを相手に伝える信号であると同時に、そのあと平静な気分でコミュニケーションができるように準備する働きがある」と述べています。
 そして、「ヒトにはコミュニケーション・システムがあり、人と人のあいだに関係性がある。そして、それぞれの関係をなかだちする信号が決まっている。許容もそんな関係性のひとつである」と述べています。
 第7章「ヒトはなぜ旅をするのか」では、「旅をするには、見知らぬ人に対して敵対的でも親和的でもなく対応する『許容』というヒトの性質が必要条件である。この許容は、他のサルには見られない、ヒトに固有のものなのである」として、「この許容を獲得した結果、ヒトは社会関係が複雑化し、多様なコミュニケーション・チャンネルをもち、やがて文明を生むに至った。そして、言語やトレードが生まれた。見知らぬ弱者を保護することも、許容がもたらしたことの一つである」と述べています。
 著者は、「いろんな民族が共存するには、相手を"味方"と見なす必要はない。それは感情を伴うから、逆転するとむしろ危険なのである。もっと中立的な、感情を伴わない"許容関係"をめざすことこそ共存への道だ」として、「まさに許容こそ、ヒトだけが進化の過程で獲得した、ヒトらしい関係性なのである」と述べています。
 本書は、旅を手がかりに、ヒトだけが持つ「許容」関係を語った一冊です。


■ 個人的な視点から

 文化人類学の先生によれば、いわゆる「未開」のジャングルの奥地に毎年通っているそうですが、一番喜ばれるお土産はタバコとポルノらしいです。DVDとかは持っていってもと思いますが。


■ どんな人にオススメ?

・旅が好きな人。

2011年1月30日 (日)

ゼロから考える経済学――未来のために考えておきたいこと

■ 書籍情報

ゼロから考える経済学――未来のために考えておきたいこと   【ゼロから考える経済学――未来のために考えておきたいこと】(#1970)

  リーアン アイスラー (著), 中小路 佳代子 (翻訳)
  価格: ¥2,310 (税込)
  英治出版(2009/11/4)

 本書は、「パートナーシップ(つまり相互尊重)のシステムと、支配(つまりトップダウン型制御)のシステム」というレンズを通して、著者が「『思いやりの経済システム』と呼ぶものがもつ胸躍るような可能性を明らかにする」としています。
 第1章「新しい経済学が必要だ」では、「私たちが問題に効果的に取り組むためには、経済学に対して異なった味方をする必要がある。技術や社会の状況が急速に変化するこの時代においては、従来の経済分析や経済理論が無視してきた問題にもっと深くかかわっていかなければならない」と述べています。
 また、新古典派経済学が、「『合理的な経済人』は合理的な自己利益に基づいて経済上の選択を行う」という「すっかり神聖化された」前提に基づいていると指摘しています。
 さらに、「征服、搾取、支配などの価値観によって導かれる高度な技術が私たちの生き残りそのものを脅かすこの時代においては、思いやりの精神によって動かされる経済的発明品が必要だ。思いやりの革命が必要なのである」として、
(1)広範囲の経済地図
(2)思いやることと世話をすることに価値を置く文化的な考え方と制度
(3)思いやりの経済原則・政策・慣行
(4)包括的な正確な経済指標
(5)パートナーシップに基づく経済・社会構造
(6)著者がパートナリズムと読んでいる経済理論
の6つの基盤を持つ「思いやりの経済システム」を提唱しています。
 第2章「視野を広げて見る経済システム」では、「経済システムを変えるためには、経済システムにだけ焦点を合わせていてはだめだ。もっと深く、踏み込まなければならない」と述べています。
 第3章「思いやりは金銭的にも利益になる」では、「国家の真の富は、人的資本や自然資本の質にある」として、「人的資本に投資することは、単に市場で収入を得る能力を高めることではなく、人間の生活の質や人間の幸福や満足感を高めることだ」と述べています。
 第4章「経済のダブル・スタンダード」では、「私たちは、力をもった者(男性)が力をもたない者(女性)とは異なる規定によって判断を下されていた、性に関する男女間の野蛮なダブル・スタンダードが受け継がれてきたことを認識している」が、「同じダブル・スタンダードは経済に関しても受け継がれている」ことが「依然として一般に認識されていない」ことを指摘しています。
 また、パートナーシップ研究センター(CPS)の研究によれば、「男女の関係の性質と全体的な生活の質の高低との間には強い相関関係があることも明らかになった」と述べています。
 第5章「すべてをつなげて全体像をつくる」では、古い社会分類が、「男女の役割や関係のあり方が社会システム全体の構造にどのように影響を与えるかを織り込むことはできない」のに対し、パートナーシップのシステムと支配のシステムという分類が、「人類全体――人類の半分ずつを占める男性と女性の両方――と私たちの生活全体――ひと昔前までは『男の世界』と呼ばれていた公的領域と、女性や子供たちが従来その範囲内にとどめられていた、家庭や親しい親族といった指摘領域の両方――を考慮に入れている」と述べています。
 第6章「支配の経済システム」では、「資本主義のことを、不平等と搾取をどん欲にむさぼる鬼のように思っている人もいる」が、「資本主義が鬼なのではない。私たちが受け継いできた、資本主義の根底にある考え方や構造や習慣が鬼なのである」と述べた上で、「世界の貧困と飢餓が女性と子供たちに偏って影響を及ぼしているという事実は、偶然でも必然でもない。今なお支配者の特質を強く残している政治・経済システムが生んだ直接的な結果である」と述べています。
 第7章「パートナーシップの経済システム」では、「資本主義と社会主義のもつパートナーシップの要素を含みつつも、確実に人間のニーズと能力がはぐくまれ、かつ自然の生息環境が守られるような、遙かに進んだ」新しい経済理論を、「パートナーシップ主義」と名付け、「多くの人たちの知性と創造性を必要とする発展中の理論である」と述べています。
 第10章「思いやりの革命」では、「人間の開発に投資することの利益が莫大で、そうしないことの損失も莫大であることを、政策立案者や一般の人々に対して示さなければならない」として、「より能力が高く、高度な技術を持ち、思いやりのある労働者は経済生産性を高め、そうなるとその人たちの税によって、思いやることや世話をすることを支援する政府や企業の政策」の財源が増えることを、政策立案者に対して圧力をかける、または政策立案者そのものを変える政治運動を構築しなければならないとしています。
 本書は、新しい世界の仕組みを思い描いた一冊です。


■ 個人的な視点から

 個人的には、思いやりの経済システムそのものを提唱することは悪いことだとは思いませんが、原タイトルの『The Real Wealth of Nations : Creating a Caring Economics』にたいして、訳書のタイトルの『ゼロから考える経済学:未来のために考えておきたいこと』はあまりにも跳躍じゃなかった超訳しすぎだろうと思ってしまいました。プロデューサーの高野達成さんにもお会いしたことがありますが。
 例えるなら、環境保護団体の集会とか新興宗教団体の集会とか(両方兼ね備えている場合含む)に間違えて迷い込んでしまったような違和感というか居心地の悪さが残ったまま読み終わってしまいました。
 もちろん『国家の真の富:思いやりの経済をつくる』では手に取る人は余り多くないと思いますが、せっかくいいことを言っているのに、多くの人が騙されたと感じながら読んでいたらもったいない。


■ どんな人にオススメ?

・訳書を買うときには原題をチェックする人。

2011年1月29日 (土)

セイラー教授の行動経済学入門

■ 書籍情報

セイラー教授の行動経済学入門   【セイラー教授の行動経済学入門】(#1969)

  リチャード・セイラー (著), 篠原 勝 (翻訳)
  価格: ¥1,890 (税込)
  ダイヤモンド社(2007/10/27)

 本書は、経済学の理論がうまく当てはまらないケースばかりを集めたものです。著者は、例外事象を集大成しようとした理由として、
(1)経験的な事実は個別には評価できないということ。
(2)本書において例外の認識を完成させたい、と願っていること。
の2点を挙げています。
 第1章「経済理論と『例外』」では、地下にどれほどの石油埋蔵量があるかわからない土地を巡るオークションにおいて、このオークションに勝つ者は、「地下の石油埋蔵量をもっとも多めに見積もった者」であり、「その土地に対して実際の価値以上の値を付けた可能性が高い」ことを指摘し、これが恐れられている「勝者の呪い(ウィナーズ・カース)」駄ト述べています。
 第2章「協調戦略」では、フリーライダー仮説について、「全員タダ乗りと、全員が最大限の拠出をするという両説の間には、広大な中間体が横たわっている。公共財のジレンマやその他のジレンマに代表される様々な問題を理解するには、通常、経済学では無視されるいくつかの問題を探し出すことから手をつけたい」として、「どんな要素が協調率を決定するのか」などの点を上げています。
 第3章「最終提案ゲーム」では、「公平(フェアネス)という考えが交渉の結果を決定する上で重要な役割を果たしている」として、「人びとはすべてを等分する『公平な人間(フェアマン)』であるか、さもなくば経済学説上の理論的モデルにふさわしい利己的で合理的思考をする『かけひき屋(ゲームズマン)』であるかのどちらかであると考えられている」が、「大部分の人びとを両極端なタイプのいずれかに決めつけるのでは、ほんとうの姿を記述し得ない」と指摘しています。
 第4章「産業間賃金格差」では、「競争力のある賃金よりも高い賃金がより多くの利益を生む」と考える「効率賃金モデル」について、その基本的な考え方として、「結果は労働者の努力にかかっており、彼らの努力は賃金の高に直接影響を受ける」と述べた上で、
(1)怠業回避モデル
(2)雇用安定モデル
(3)逆選別モデル
(4)公平な賃金モデル
の4つのモデルを示しています。
 第5章「オークション」では、「勝者の呪いこそ、認知心理学とミクロ経済学を組み合わせた、最新の行動経済学を用いて修正されるべき問題の基本形である。カギをにぎる重要なポイントは、認知上の錯覚の存在である。錯覚は、実質的に大多数の対象者に系統的なまちがいを起こさせる心理作用であり、こうした心理作用の存在はケーペンたちが発見し、その後の研究によっても例証されている。そして、このような錯覚が具体的に出現するところならどこでも、市場の結果が経済理論の予測と異なる可能性はつねにある」の述べています。
 第6章「損失回避」では、「人はしばしば、あるものを手放す代価として、それを手に入れるためになら喜んで支払う額より以上の金額を要求する」という「保有効果」を取り上げ、その意味の一つとして、「人びとは機会利得の現象を、自分の『ポケットから支払う』費用とは異なる扱いをする」というものがあると述べています。
 第7章「選好の逆転現象」では、「選好の逆転現象は、過去20年に及ぶ無数の研究によって確立されてきたが、その原因は、最近になってようやく解明されたばかりである。選好の逆転は全て、非推移性、あるいは期待効用理論の独立性原理からの背反に起因すると決めつけることはできない。というよりむしろ、これを引き起こす原因は何にもまして、選択と価格付けの乖離にあり、それが適合する基準に結びついているように思われる」とのべています。
 第10章「ギャンブル市場」では、「競馬という賭け『市場』は、驚くほど効率がよい。オッズは、賭けに勝つ確率を極めて高い精度で予想している。このことは、競馬の賭け手たちに相当高度な専門知識があり、市場を真剣に受け止めていることの証である」とした上で、理論では説明しきれない例外事象として、
(1)本命=大穴バイアス
(2)2着、3着以内入賞馬の賭けに見られる市場の非効率性
の2つが厳然と存在すると述べています。
 また、北米で宝くじが盛んになったきっかけとして、ニュージャージー州が「クジの買い手に自分の気に入った数を選ばせるシステムを導入したこと」を挙げ、「純然たる偶然が支配するゲームにおいてさえ、プレーヤーは純粋な『偶然』の要素に任せるのでなく、自分の運命は自分でコントロール可能なほうが勝つチャンスが大きいと感じている」と述べています。
 第12章「株価予測(2)」では、「金融市場は、例外事象の宝庫である」理由として、「金融理論の質が悪いために、例外が多いわけではなく。むしろ、その理論が(検証可能なように)異常なほど細かく具体的であるのと、そのデータも極めて豊富であるが故に、例外が広範に見受けられるのである」と述べています。
 エピローグ「行動経済学が描く新しいパラダイム」では、これまで見てきた経済学の様々な「例外」を、「経済理論に対していっせいに『表舞台から撤退せよ』と迫ってでもいる」ととらえるのではなく、「変革はかならずや経済学の本流から生じる、と見るのが本筋であろう」と述べた上で、新しい種類の経済理論の進化は、「規範的理論」と「記述的理論」の間に「明確な一線を画すこと」だと述べています。
 本書は、例外を見ることで経済理論の有用性をとらえようとする一冊です。


■ 個人的な視点から

 こういう読み物が日本でも人気になるのはうれしいことです。経済学というとハードルが高い印象がある一方で、いわゆる「エコノミスト」(自称経済事情通)の皆さんがテレビでいろいろな言説をまき散らしているせいで、誰でも経済について一家言持てるようになってしまうのは良いことなのか悪いことなのか?


■ どんな人にオススメ?

・経済理論なんて役に立たないと思う人。

2011年1月28日 (金)

心はどこにあるのか

■ 書籍情報

心はどこにあるのか   【心はどこにあるのか】(#1968)

  ダニエル・C. デネット (著), 土屋 俊 (翻訳)
  価格: ¥1,995 (税込)
  草思社(1997/11)

 本書は、脳の研究によって人間の心が本当に解明できるのかを論じた一冊です。
 第1章「さまざまな種類の心」では、「心について考えるとき考慮に入れるべき展望の一つは、やはり言語は無視できるほど周辺的なものではない」と述べた上で、「理論化する以前に私たちが持っている直感に無批判に頼るのではなく、なにかそれに変わる探求方法を見つけようとするなら、私たちは、どのようにして考察を開始すればよいだろうか」として、「進化の道をたどってみることにしよう」と述べ、「わたしたちは、(それが心と呼べるとして)より単純な心を持つ存在から進化し、そのより単純な存在自体は、さらに単純な心の持ち主から進化してきた」としています。
 第2章「そこに意識は存在するか」では、「(心身二元論者や生気論者がかつて考えていたような)謎の追加成分が存在するのでない限り、人間はロボットを要素として成り立っているのであり、別の言い方をすれば、私たちは、何兆もの巨大分子機械の集合物なのである」と述べています。
 また、「ある対象の行動について、その実体を、『信念』や『欲求』を『考慮』して、主体的に『活動』を『選択』する合理的な活動たいとみなして解釈するという方策」である「志向的な構え」について、「気をつけて使えば、ただすばらしい考えだというだけでなく、心に関する謎、いや、あらゆる種類の心に関する謎を解く鍵にもなるということを明らかにしていきたい」と述べています。
 第3章「身体と心」では、「心とは、基本的には、予感するものであり、期待を生成するものである。現在を掘り起こして手がかりを求め、そこに過去から蓄えておいた資源を加えて精製し、未来の予測をつくりだす。そして苦労して手に入れた予測に基づいて、合理的に行為する」と述べています。
 そして、「心と脳は同一のものという考え方を一度捨て、心の存在を身体の他の部分にも広げて考えるようになると、心を機能本位で考えるのは難しくなるが、その代わりに見返りも大きい」として、「わたしたちの制御システムは独立していないため、『わたしたち』は知恵を身体の内部に(神経系にではなく)宿し、日々の意志決定に利用することができる」と述べています。
 また、「すでにわたしたちの身体がそれ自身のために心を持っているならば、なぜ、私たちの心をわざわざ手に入れようとしたのだろうか」として、「そのような心は、識別能力に関しては比較的未熟でかつ比較的スピードが劣る。志向性は短期間しか持たず、すぐにごまかされる。世の中ともっとうまく関わっていくためには、より速く働き、より理解力があり、より豊かでより良い未来を生み出せる心が必要なのである」と述べています。
 第4章「心の進化論」では、「さまざまな生物は、実戦と計画とのために個体、すなわち、自分の母親、配偶者、獲物、群れの上位者と下位者などを追跡し、再認しなければならない」が、「人間以外の動物の場合、そのようなことをしているときに、その行動自体がまさにそのようなことであると理解していることを証明する証拠は提出されていない」として、「動物の志向性は、われわれ人間が到達した形而上学的に特殊なレベルまでは到達していないのである」と述べています。
 第5章「思考の誕生」では、ニコラス・ハンフリーが、「自己意識の発達は、他者の心のなかで何が起こっているかについて仮設を立て、それを試すための戦略だった」と述べていることを挙げ、「他者の思考を感じ取って操れるようになると、それにともなって自分の思考についても敏感に行動できるようになる」理由として、
(1)自己意識が他者の意識についての仮説を生むためか
(2)他者に志向的な構えを当てはめる習慣を身につけると自分にも同じ方法を使えることに気づくためか
の2点を挙げ、「あるいは2つの理由が組み合わさって、意識的な構えを使う習慣が他者の解釈と自己の解釈の両方に広がったとも考えられる」と述べています。
 そして、「わたしたち人間は知的活動を身につける途上で、文化遺産からさまざまな思考の道具を獲得するが、中でも重要なのは、言うまでもなく言葉である」として、「人間の脳の進化の歴史で、言葉の発明ほど人を高めた、飛躍的で重要な段階はない」と述べています。
 第6章「わたしたちの心、そしてさまざまな心」では、「心的内容が意識されるのは、それが脳の特別な部位に入るからでもなければ特別な力を持つ不思議なメディアに変換されるからでもなく、他の思考との競争に勝って行動を制御する権利を獲得し、長期的な影響を及ぼせるようになるからである」と述べています。
 また、本書の主な目的の一つとして、動物の心について、「話せないかもしれないが、考えてはいるはずだ」という「この親しみ深い考え方を支える自信をぐらつかせること」だと述べ、「人間以外の動物の知的能力を解明しようとするときに最大の障害となるのは、おそらく私たちが動物たちの賢い行動を見て、人間と同じ内省的な意識のようなものがあるのではないかと思ってしまうことである」と指摘しています。
 本書は、人間の心とはなにかを質問した一冊です。


■ 個人的な視点から

 今日も公園で猫に話しかけている人を見ました。動物を見て心があるように見えるのは、それが人間が発達させてきた能力だからなのか。


■ どんな人にオススメ?

・動物は人間の心を分かっていると思う人。

2011年1月27日 (木)

誘惑される意志 人はなぜ自滅的行動をするのか

■ 書籍情報

誘惑される意志 人はなぜ自滅的行動をするのか   【誘惑される意志 人はなぜ自滅的行動をするのか】(#1967)

  ジョージ・エインズリー (著), 山形 浩生 (翻訳)
  価格: ¥2,940 (税込)
  NTT出版(2006/8/30)

 本書は、「人間を人間たらしめ、今の文明へと続く壮大な運動の根底をなす、人の『迷い』という現象の本質を説明」しているものです。そして、「人は、しばしば目先の誘惑=望ましくない選択に負ける」ことを、「双曲割引という概念」を使うことで説明しています。
 第1章「はじめに」では、「人間が自分自身の計画をだめにするという傾向は、はるか古代から著述家を悩ませてきた」が、「新しい実験的な成果や複数の学問分野からの概念ツールのおかげで、既知の科学的伝統に矛盾しないような意志の仮説を構築できるようになった」と述べています。
 第2章「意志決定の科学の根底にある二律背反」では、意思決定に関する理論が、「欲望と判断という2つのはっきり違う選択体験を取り上げてきた」とした上で、
(1)欲望に基づくモデル「認知主義」:人は各種の選択に伴う満足感を計測し、最大の満足につながる行動を選択的に反復する。
(2)判断に基づくモデル「効用理論」:人の選択肢が何らかの基本的な動機的性質に基づいて、その人に気に入ってもらおうと競合する。
の2点を挙げています。
 第3章「人の未来評価にはギャップがある」では、「人が未来の効用を割り引くときに、銀行と同じやり方をするという想定を疑問視する効用理論家はほとんどいない」として、この割引関数を「指数」割引と呼ばれると述べた上で、「衝動への報酬が合理的・理性的な選択への報酬よりも大きく割り引かれるというのはで不十分だ」として、指数曲線のかわりに「双曲線」を挙げています。
 そして、「双曲割引は、効用理論にとっての主要な問題を変えてしまう。もはや、近視眼的な選択の説明に困ることはない」として、「人類は将来を評価するに際し、非常に正則的だが深くしなった割引曲線を持つよう進化してきたと十分に考えられるし、それを否定する材料は全くない」と述べています。
 第4章「そのギャップが自発的でない行動を生み出す」では、「双曲割引が『報酬』と『快楽』を別物として扱うように仕向けるのだ」と述べ、「伝統的な効用理論では、この2つは同じ」だが、「双曲割引の下では、後からもっと大きな報酬欠如につながることが分かっているような短い報酬であっても、人を誘惑できる」として、「報酬と快楽の関係を直感的にいちばんよく示す現象が、中毒性の習慣に耽溺しすぎたときの境界あたりで起きる」と述べています。
 そして、「双曲割引が引き起こす一時的選好は、その持続期間に応じて違った経験をもたらす。それが最もはっきり現れる活動というのは、数分から数日にわたって強く選好されるが、事前には同じくらい強く恐れられ、事後的には強い後悔をもたらすようなものだ」と述べています。
 第5章「利益の基本的な相互作用」では、「人の内的市場で生き残った利益は、自分と相容れない利益を阻止する手段を備えておく必要がある。その手段は、その利益がたまには求める報酬を得られるくらいに有効なものでなくてはならない。このニーズこそが、効用理論家たちを昔から困らせてきた」とした上で、
(1)自分の心理以外の縛りや影響を見つけること
(2)自分の関心を操作すること
(3)心の準備をすること
(4)意志力
の4つの戦術を挙げています。
 第6章「内的利益同士の高度な交渉」では、「双曲割引曲線は、自分自身に交互に訪れる動機状態同士の間に部分的協力、あるいは限定戦争の関係を作り出す」とした上で、「異時点間の協力――人の意志――が最も脅かされるのは、目先の選択は例外なんだと認めさせてしまうような弁明/合理化であり、最も安定となるのは自分が何を持って協力とするかを判断するための明確な一線を見つけた場合だ」と述べ、例として、「一滴も酒を飲まないという個人的ルールは、一日二杯しか飲まないというルールより安定性が高い」と述べています。
 第8章「非線形動機システムの証拠」では、異時点間交渉モデルと、現代の各種著作に見られる他の4つのモデルを比較するとして、
(1)「帰無」理論:つまり追加の動機などはなく、意志というのは作り物の概念でしかないという立場
(2)「器官」理論:医師というのは一般的に強いとか弱いと特徴付けられるような実体的存在であり、独立した知性によって筋肉のように動かせる、という立場
(3)「明確な選択」理論:意志は計画の変更を合理的に避けることで伝統的な効用を最大化するが、そのためには(おそらく)追加の動機が必要になるという立場
(4)「パターン探求」理論:意志というのは内在的にどう気づけてくれるようなパターンを享受することだという立場
の4つのモデルを挙げています。
 第9章「意志力が裏目にでるとき」では、「日常生活では、人はある状況で想定しうる囚人のジレンマが多数存在する。そして最終的に協力を促す選択のグループ化方式は、最も生産的なものではない可能性がある」として、
(1)明確な区分というのが選択的であること
(2)累積した双曲割引曲線の持つ数学的性質自体
の2つの要因を挙げています。
 第10章「効率の高い意思は欲求をつぶす」では、「伝統的な効用計算と双曲割引とで最も大きな差が生じる原因」として、「数分から数日に渡る欲求で個人的ルールの必要性を生み出すもの」である「中毒範疇の期間」における選好ではなく、そうした個人的ルール事態の副作用でもなく、「関心の速度の点らしい」と述べています。
 第11章「欲求を維持する必要性が意志を圧倒する」では、「意志が報酬獲得に上達すればするほど、最終的に獲得できる報酬は減ってしまう」という「人間の重要なパラドックスの核心にやってきた」と述べた上で、「このメカニズムが示唆する解決策は、合理性を求める人にとってはがっかりするようなものだが、一方で最も基本的な人間活動3つが持つ、奇妙に見える部分は解消できる」として、
(1)信念の構築
(2)他人への共感
(3)目標到達における意図的な間接性
の3点を挙げています。
 第12章「結論」では、「人が現在の選択を未来の自分の選択に関する予測ツールとして使うようになると、おなじみの交渉ゲームである反復型囚人のジレンマと似た論理のために、追加インセンティブを動員することで豊かなプロセスのほうが選ばれるようになる」と述べています。
 そして、「一時的選好のクセが個人の内部にどんな選択の市場を作り出すか」というアプローチを行う、「経済学的な思考の中で最も微視的な発想」である「ピコ経済学」について、「最も優れた自己コントロールの可能性を見つけるツールになれるが、その一方で自己コントロールの効率を高めすぎると最長期の利益には貢献しないような状況を明らかにしてしまう。最終的には意志というのは将来報酬の双曲割引が創りだす衝動性に対する限定的な解決策でしかない。意外性の必要性を作り出す、感情的報酬に対するせっかちさはコントロールできないし、それを中毒範囲の選好に対抗するために使い過ぎると強迫観念が生じる。強迫観念は逆に意外性を引き下げるので、強迫観念的な人も、衝動的な人に負けず劣らず、長期的な快楽を得るのが難しくなる」と述べています。
 本書は、人間の意志をめぐる小さな小さな市場の中で何が行われているかを知ろうとする一冊です。


■ 個人的な視点から

 植木等的な「わかっちゃいるけどやめられない」もちゃんと学術的な研究の対象になることがわかりました。


■ どんな人にオススメ?

・分かっていてもやめられない人。

2011年1月26日 (水)

地球温暖化は止まらない

■ 書籍情報

地球温暖化は止まらない   【地球温暖化は止まらない】(#1966)

  デニス・T・エイヴァリー, S・フレッド・シンガー (著), 山形 浩生, 守岡 桜 (翻訳)
  価格: ¥2,520 (税込)
  東洋経済新報社(2008/2/29)

 本書は、地球温暖化を巡る、
(1)地球温暖化は確実に起こっていて、人間によるもので、今すぐ二酸化炭素排出を止めないととんでもないことになる。
(2)温暖化はしているし、人間のせいだけど、そんなに大騒ぎするほどのことはないので対策もゆっくり考えればいい。どのみち二酸化炭素排出はすぐには止められないし。
(3)温暖化はしているが、人間による部分はそんなに大きくない(または未知の部分があまりに多い)から性急な対応はやめるべき。
の3つの流派のうち、(3)の立場を明確に採用し、その見解を集大成したものです。
 第1章「人類は地球温暖化論争で負けつつあるのか?」では、「地球は温暖化しているが、世界中からの物理的な証拠をみると、人間の排出するCO2(二酸化炭素)は大した貢献をしていない。むしろ僅かな温暖化は天然の1500年気候周期(プラスマイナス500年)のせいらしい。この気候周期は少なくとも100万年前から存在している」と述べています。
 そして、「本書のねらいは、地球のほぼ一定した気候変動の大半を律する、太陽による穏やかで幅のある機構の1500年周期について、比較的新しいがすでにかなり強固な証拠を提示すること」だとしています。
 第2章「1500年周期はこうして見つかった」では、「ダンスガードとエシュガーが、1984年に書いた報告『北大西洋気候循環がグリーンランド深層氷床コアにより明示される』は、その制度といい完全性といい、穏やかな気候周期と太陽とを結びつけた論理性といい、ほとんど不気味なほどだ」と述べています。
 第5章「地球の気候を変える条約――かどうか」では、京都議定書に関する最も深刻な問題の一つとして、「これが国連の気候変動に関する政府間パネル(IPCC)の本質的に誤った報告によって進められていることだ」と述べ、「IPCCはごく最近、地球の吉の貴公子を書き換えようとして科学的な信用を怪我した」として、「1996年にIPCCが発表した第二次報告には、最近の地球の気候変動の歴史的実態を示す過去1000年間の気候史のグラフが含まれて」おり、「このグラフには現在より気温が温暖な中世温暖期と、現在より寒冷な商標が気が示されていた」にもかかわらず、その6年後には、「地球の過去の1000年の気候史について全く違った図式を提示」し、「説明が難しい中世温暖期と厄介な小氷河期はどこかへ行ってしまった」と指摘しています。
 第6章「根拠のない恐怖――100万の野生種が永遠に失われる」では、「皮肉なことに、人為的温暖化が膨大な数の朱を破壊すると主張する環境団体の多くは、農業における緑の革命と窒素肥料に反対しているが、これはいずれも大規模な森林破壊を未然に防いできたものだ。もっと悪いことに、京都議定書は現代技術(窒素肥料を含む)のエネルギーコストをかなり引き上げる可能性があるため、発展途上国の経済成長と農業の発展は実質的に不可能になるだろう」と述べています。
 第7章「人類史上の温暖化と寒冷化」では、「変動性は記章の最大の特徴で、気候傾向を判断するには少なくとも一世紀分の気象データが必要だ」と述べています。
 第8章「根拠のない恐怖――温暖化が飢饉、干ばつ、荒地をもたらす」では、「歴史的に人類の食料生産は地球温暖化によって増大してきた」とした上で、「確かなのは、現在の人間社会は広範囲の干ばつに対して過去の人間社会よりも備えができているということだ」と述べています。
 第9章「地球は過去の気候周期を物語る」では、「年輪、氷床コア、石筍、塵埃プルーム、小昆虫、プランクトン、先史時代の廃村、崩壊した文化、花粉化石、藻類の残骸、チタン特性や、ニオブイオンに至るまでの地球上の物的証拠のサンプル」を挙げ、「これらすべてが少なくとも100万年前に遡る気候の1500年周期を肯定している」と述べています。
 第11章「地球気象モデルはどこまで信用できるのか?」では、「コンピュータ化された地球気候循環モデル」が、「歴史や有史以前の要素の検討」を抜きに、「地球が安定した気候状態にあったという前提から出発している」と指摘しています。
 第13章「太陽と気候の結びつき」では、「温室効果理論の最強の友」として、
・将来の温度も性格に予測できない以前に、そもそも過去の温度も再現できないようなコンピュータモデル。その資金は、急激な温暖化を世間が怖がってくれるかどうかにかかっている。
・現代技術に全て反対し、人口増を嫌悪し、特に人間の貧困と飛散を軽減するような低コストのエネルギーを憎悪している活動家達。かれらによれば、人は魅力的なライフスタイルを否定し、高収量農業を諦め、何百万人もの寿命を短縮し、第三世界の森林を薪にするよう圧力をかけるべきだということになる。
・ヨーロッパの政治家達。
・おっかない見出しが欲しいジャーナリストたち。
・各種の国内・国際官僚組織と、国連が指名したIPCCの委員や職員たち。
を挙げています。
 第16章「京都議定書の最終的な失敗」では、「人間社会が、人の温室効果ガス排出に拘束的な制約を設ける」ための条件として、人為的温暖化支持者たちが、
(1)温室効果ガスが、これまでの自然現象としての気候温暖化周期よりも世界温度をはるかに急激に押し上げるのが確実だということ。
(2)温暖化が人間の福祉と生態系を大幅に損なうこと。
(3)合理的な人間の行動が、そうした過熱を本当に止められるということ
の3点を示す必要があると述べています。
 本書は、国際政治の駆け引きの主戦場となっている地球温暖化問題に冷水をかける一冊です。


■ 個人的な視点から

 エネルギー消費の少ないライフスタイル自体には概ね合意なのです。暑い真夏にエアコンかけてネクタイしてスーツ着たりとかアホかと。一方で、「エコ」とか大好きな人からは一歩距離を置きたいというか、日本中、世界中から有機食材を取り寄せたり、省エネや低燃費という販促キャンペーンに乗って家電や自家用車を買い換えちゃう人はもうアホじゃないかと。
 きっと地球温暖化を盲信する人達は、アメリカ人は鬼だと言われれば信じてしまうのでしょう。


■ どんな人にオススメ?

・エコなライフスタイルを実践している人。

2011年1月25日 (火)

リトル★ハッカー 「ハッカー」になった子供たち

■ 書籍情報

リトル★ハッカー 「ハッカー」になった子供たち   【リトル★ハッカー 「ハッカー」になった子供たち】(#1965)

  ダン・ヴァートン (著), 山形 浩生, 守岡 桜 (翻訳)
  価格: ¥2,100 (税込)
  翔泳社(2003/12/16)

 本書は、「これまであまり描かれてこなかった、いわば『悪い』ハッカーの事例を詳しく説明してくれる」貴重な一冊です。訳者は、「かれらがコンピュータに夢中になって、クラッキングやハッキングに手を染め、そして(多くが)そこから離脱するまでを描くことで、本書は一種の社会現象としての『悪い』クラッカー像を、そこそこ描き出すことに成功している」とともに、「ハッカー像をよくあるステレオタイプから救いだそうという試みも行っている」としています。
 「はいjめに」では、本書に登場するハッカーたちの罪を、「知識中毒、技術への愛、情報の本質的な自由への信仰」としたうえで、「本書はハッカーサブカルチャーの様々な人々の実生活の物語を語る。単に彼らのハッキングやクラッキング侵入の技術面の話を集めただけでなく、本書はなぜこうしたどこにでも居るティーンがそもそもハッキングに手を出したのか、何を考えているか、成長過程での人生はどんなものだったか、ハッカーアンダーグラウンドにどんどん深入りさせていった内的・外敵圧力は何か、そしてそこに深入りした結果として彼らが見つけたのはなんだったのかを探求する」としています。
 第1章「『ジェノサイド』:コロンバインからハッキングへ」では、ハンドルネーム「ジェノサイド」を名乗る少年が、「セキュリティ試験用のコンピュータ侵入ソフトツール」を山ほど見つけ出したことで、彼らのグループGenocide2600のウェブページの「価値と知名度はおおいに高まった」として、「グループがまんまと盗みだしてきたツールやスクリプトは、グループのアンダーグラウンドでの力を見せつけ、存在価値を示すのに重要な役割を果たした」と述べています。
 そして、「ハッカーコミュニティ、政府、普通のインターネットコミュニティは、軍拡競争をしている3つの勢力と同じだ」としたうえで、「ハッキングというのは真実の追求であり、あるグループが他のグループによる真実へのアクセスを妨害させないということだ。真実を画すのを認めるなんて、ジェノサイドには許しがたかった。真の犯罪行為はハッキングではなく、むしろ、他の人達が羊たちの目からベールを積極的にはぎたがらないことだ」と述べています。
 第2章「反乱:ジョー・マギーと『Noid』」では、「1992年にはジョーは情熱を持ち、エネルギッシュで知識を求める13から14歳になる訓練中のハッカーだった。背は高くはないが170センチで、体重は85キロだった。茶色の海兵隊のヘアスタイルと茶色の目のアイルランド人の子供は『大物』でタフな奴だと思われていた」、「物静かだた社交的で好感の持てる子供だった」と述べています。
 そして、「結局のところ、ハッキングなんて相当部分は自己顕示欲だ」として、本章に登場する2人の少年の「発見と達成感に対する渇望も、仲間からの尊敬と賞賛を糧としていた」と述べています。
 第3章「マフィアボーイを探せ:クレイモア作戦」では、1999年に、コソボのセルビア軍爆撃及び中国大使館の誤爆により、世界中のハッカーが団結してアメリカ率いるNATO同盟諸国に抵抗することになった」と述べた上で、FBIロサンゼルス支局長のチャールズ・ニールによる、「ハッカー社会に潜入するという初めての公式な秘密工作」を取り上げ、「逃げ場がなくなったと分かったハッカーはすぐにFBIおかかえのトレーナーやコンサルタントになった」として、「さまざまなIRCチャットルームでの振る舞い方や、質問への答え方、他のハッカーからの挑戦への応じ方」を教えられたおかげで、「FBIはすぐれたハッカーが集まる招待者限定のチャットルームに入れた。ハッカーについての最高の情報源はハッカーであることに間違いなかった」と述べています。
 第6章「サイバーシック:スターラ・ピュアハート」では、ハッカーたちの祭典、2001年の第9回DefConにおけるサイバー倫理Surfivorゲームにおいて、「若い無垢な女性ハッカー、アンナ・ムーア」が勝者となったことで、「ハッカーはもはや、男性の反社会的な落ちこぼれというタコツボに押し込められる存在ではなくなった。それはもう過去のイメージだ。いまのハッカーはむしろ、自分たちの行動の帰結を知っている。結果として、責任あるインターネットの住民になりつつあり、行動には用心して安全な方を向き、さらには先輩たちの多くと違って、自分を取り巻く社会が大きく変わったこともはっきり知っていた」と述べています。
 そして、彼女の母親が娘のハッキング教育にいかに献身的だったかを、「彼女がアンナとオクラホマ2600グループのティーンエイジャー3人(全員男の子)を、時間変更線を2つ超えて光の都市へ、世界で最も悪名高いアングラ大会へつれていくのに同意したことが雄弁に物語っている」と述べています。
 本書は、ステレオタイプで語られることの多い「ハッカー」の生い立ちと人物像に迫った一冊です。


■ 個人的な視点から

 日本では「ハッカー」という言葉はネット上では嘲笑の対象になっているというか、厨房が「スーパーハカー」とか「闇プログラム」とかの言葉を使うせいで恥ずかしい言葉のようになってしまっていますが、こういうこともネット上でもハッカー趣味の延長なのかもしれまい。


■ どんな人にオススメ?

・なぜ子供達がスーパーハカーに憧れるかを知りたい人。

2011年1月24日 (月)

天下り"ゾンビ" 法人 「事業仕分け」でも生き残る利権のからくり

■ 書籍情報

天下り   【天下り"ゾンビ" 法人 「事業仕分け」でも生き残る利権のからくり】(#1964)

  野口 陽
  価格: ¥1,470 (税込)
  朝日新聞出版(2010/6/18)

 本書は、「官僚たちの天下り先であり、公費が注ぎ込まれる」、「天下り法人」について、「各省庁やOBたちが維持してきた利権そのもの。ここを見れば、公金を扱う人々が隠し通してきた思惑が鮮明に見えてくる」として、「筆者が実際に見てきた、天下り法人の本音、思惑」を明らかにするとともに、「天下り法人がどうやって甘い汁を吸うのか」の手口を明らかにするものです。
 第1章「『日本一ひどい』天下り法人」では、国道のずさんな空洞探査調査を行った「道路保全技術センター」について、
(1)建設省が保全センターを設立した目的は、新たな業務を請け負わせるため=新規業務にあわせた設立
(2)建設省が、調査業務を「一括して」保全センターに発注した点=一括発注
の経緯を挙げ、「他の天下り法人と共通する点がある」と指摘しています。
 そして、国交省の契約見直しによって「簡易公募型プロポーザル方式」が導入された結果、それまで全面的に業務を丸投げしていたジオ・サーチ社が「競合相手」「ライバル」になったため、国交省と組織ぐるみで「地域性」「受注実績」という基準により業務を受注できたものの、ジオ社以外に満足な調査をできる下請け会社がなかったために道路の空洞を発見できなかったと指摘しています。
 第2章「天下り法人の全体像」では、「国家公務員の天下り先は、大半が独法と政府系公益法人だ。すなわち、天下りと税金の無駄遣いは、この2つを抜きには語れない」としたうえで、「収入は国頼りなのに、民間だから政府は経営や人事に口出しできない」という矛盾を指摘しています。
 そして、「独法は役員報酬や職員給与も独自に定めることができる」ため、「国並み、もしくは国以上の給与体系を作り上げてしまった」として、「外部化で期待されたのは、民間並みのコスト削減だったが、それもかなわなかった」と述べています。
 第3章「URファミリーのネットワーク」では、独立行政法人・都市再生機構(UR)の本社で2007年12月に開かれた会議について、「URファミリーのも住管協会も、互いに随意契約をやめたくない」ため、「表向きは国の方針に従いながら、どのようにして随意契約を残すかを研究する会議だ」と指摘しています。
 第4章「『彼らの手口』」では、「独法や公益法人が独自に収入を上げるのならば、口を挟むいわれはない」が、「彼らのビジネスは、お国の威力をバックにした、『ならでは』のものだ」として、「天下り法人の間には、国から補助金などとして直接受け取った金でなければ、それは公金ではない」という理論がまかり通っていると指摘しています。
 第5章「斬っても死なないゾンビ法人」では、雇用・能力開発機構が既に2度も「廃止」になっていることを挙げ、「天下り法人にかぎっては、『廃止』とは、『看板の付け替え』でしかない」と述べています。
 本書は、ヒトとカネの流れに着目して、官僚が生涯の間にどのようにして公金の分け前に預っているかを解説した一冊です。


■ 個人的な視点から

 天下りと随意契約の問題は別々に議論しても全体像が見えません。さらには法令による規制にも退職後のOBにお金を回す仕組みが巧妙に隠されているので別々に仕分けるよりも、一人の官僚が退職後にどのように公金を巻き上げているかをトータルで追っていったほうが実態がつかめるかも。


■ どんな人にオススメ?

・天下りは悪だと思う人。

2011年1月23日 (日)

流行歌の誕生―「カチューシャの唄」とその時代

■ 書籍情報

流行歌の誕生―「カチューシャの唄」とその時代   【流行歌の誕生―「カチューシャの唄」とその時代】(#1963)

  永嶺 重敏
  価格: ¥1,785 (税込)
  吉川弘文館(2010/08)

 本書は、大正3年に島村抱月の芸術座が帝国劇場で上演した『復活』の劇中で歌われ、「現代流行歌の元祖」「日本の流行歌第一号」とされる「カチューシャの唄」を手掛かりに、「大正初期の流行歌の誕生、流行、受容のあり方を読み解く」ものです。
 第1章「『カチューシャの唄』の誕生」では、島村抱月が、大正3年の芸術座の『復活』の公演で、明治から大正にかけてのトルストイ人気に加え、「興行的成功のための切り札として劇中歌の採用に踏み切」ったと述べています。
 そして、「当時の流行演歌は俗謡調や替え歌的なものが多く、唱歌と同じヨナ抜き音階で新しく書かれたオリジナルな流行歌は少なかったため、『カチューシャの唄』はこれまでにない新鮮な流行歌として受け入れられ」たとした上で、「このメロディは晋平の完全なオリジナルではなく」、「このメロディの冒頭の一楽句は、『女学唱歌』の中の『旅のくれ』という外国曲と、梁田貞の作曲した『院の庄』という2つの曲に影響された」と本人が後に述べているとしています。
 また、「カチューシャの唄」の流行要因として、「西洋のリードと日本の俗謡との中間を狙った」という中山晋平作曲のメロディが優れていたこと、「『復活』という劇が、当時学生青年層に人気のあったトルストイの原作であったこと」などの重要な要因の他、
(1)島村抱月による事前の宣伝活動の展開
(2)劇中で二度感動的な場面で歌われたことによる強い感銘効果
(3)合唱という歌い方のモデルの提示
(4)「カチューシャかわいや」のリフレインによる歌詞の覚えやすさ
のような、劇中歌としての要因が関係したと述べています。
 さらに、それまでの流行演歌にない新しい特徴として、
(1)帝国劇場から流行歌が誕生している
(2)舞台の上で歌う松井須磨子は歌手の先駆的存在として位置づけられる
等の点を挙げています。
 第2章「『カチューシャの唄』の流行過程とメディア」では、「カチューシャの唄」の「全国的流行過程において重要な役割を果たしたのは学生生徒であった」と述べた上で、「楽譜・歌本といった印刷メディアも、歌の重要な伝播ルートであった」とのべています。
 第3章「地方巡業と歌の再発見」では、芸術座が5年にわたる地方巡業に多大な情熱を注いでいた理由として、「地方興行は芸術座の唯一の財源」出会ったと述べています。
 そして、「文学や演劇を愛好する地方の若者にとって、島村抱月は知的憧憬の対象としてカリスマ的な存在であり、芸術座の来演はまさに一大事件の発生を意味した」と述べ、巡業に訪れた人々の反応として、
(1)「カチューシャの唄」の元祖、本家としての松井須磨子という存在が、芸術座の巡業によって改めて再発見されている
(2)歌のメロディの同一性
(3)各巡業地でのリバイバル現象
の3点を挙げています。
 さらに、「カチューシャ裁判」と呼ばれた『復活』の鉱業権を巡る裁判の過程で、「流行歌の著作権に対する考え方の変化」が浮上してきたと述べ、「権利関係においても、収益構造においても、『カチューシャの唄』は従来の街頭演歌とは全く異なった段階に位置している」としています。
 第4章「〈歌う文化〉と流行歌の近代」では、「現在の私たちは歩きながら、あるいは日常生活において声に出して歌うという習慣を失ってしまっている」が、「再生装置の普及していないこの大正初期においては、人々が流行歌を享受するということはイコール歌をうたうということに他ならなかった」と述べ、「明治の人々が駅や汽車の車内、あるいは新聞縦覧所といった公共空間で盛んに声を出して音読する習慣を持っていた」上、「明治大正の人々は学校や公共空間、日常生活のさまざまな場面で、声に出して歌う習慣になじんでいた」と述べています。
 エピローグでは、島村抱月が大正7年にスペイン風にかかって亡くなると、松井須磨子があとを追って縊死するという劇的なしによって、「抱月と須磨子の一生は悲しい物語へと昇華し、『カチューシャの唄』『ゴンドラの唄』とともに人々に長く記憶されていった」と述べたうえで、流行歌の受容の在り方について、見田宗介が「民衆が自らそれを口ずさみ(あるいは放歌し斉唱し)、能動的に参与することを通して初めて流行歌たりうる」と述べていることを挙げ、「流行歌が流行歌たりうるためには、その歌を何度も繰り返し聴いてメロディと歌詞を覚えるという反復行動を行う人々が、しかもそれを自ら進んで記紀として行う膨大な数の受け手の存在が必要である」と指摘しています。
 本書は、大正期の流行歌の受容のされ方を追った一冊です。


■ 個人的な視点から

 松井須磨子は元は木更津の旅館に嫁いだということで、千葉にも結構縁のある話です。あまり取り上げられることがないような気もしますが。


■ どんな人にオススメ?

・流行歌が好きな人。

2011年1月22日 (土)

人材の複雑方程式

■ 書籍情報

人材の複雑方程式   【人材の複雑方程式】(#1962)

  守島 基博
  価格: ¥893 (税込)
  日本経済新聞出版社(2010/5/11)

 本書は、2000年代前半に、「より深い部分で、導入された人事施策や、経営改革の影響により、人財の育成や活性化においていくつかの複雑な変化が起こった」として、「企業経営の中に置ける人という資源の重要性、人材育成機能や働きがい提供、働く人が経営に対して持つ信頼感、現場リーダーの役割など、本来、経営の中で大切にすべき、人にまつわる基本要素の既存や弱体化」をあ挙げ、「こうした深いレベルで起こっている変化について危機感を持ち、何らかの警鐘を鳴らしたい」という目的で著されたものです。
 第1章「問われる日本企業の職場とリーダーシップ」では、「正社員の雇用に関する規制緩和が企業経営にとって持つ意味」として、「それでもやはり競争力の源泉は人に宿る」が、「同時に今後、正社員の入れ替えや増加、削減の柔軟性は高くなる」と述べ、「人材の効率的活用と、長期的にしか便益の発生しない人材への投資をどうバランスさせるかが経営者にとって大きな課題となる」としています。
 また、職場の基本機能として、
(1)協働の場
(2)人材育成の場
(3)コミュニティとしての職場
(4)同質化の場
の4点を挙げています。
 また、「従業員を信頼しない(または信頼しないというメッセージを伝える)コンプライアンス経営」について、2種類の問題を引き起こす可能性があるとして、
(1)従業員を信頼しない企業には、経営を信頼しない従業員が育つ
(2)ルールに従うこと自体が目的になり、自律的にかんg萎えることをやめてしまう
の2点を挙げ、「コンプライアンス経営の土台は従業員に対する信頼」にあり、「人間行動の原理に従うと、今、多くの企業が行なっているルール重視のコンプライアンス活動はやや問題があるように思う。内部ルール遵守先行で、働く人の自律性を否定するようなケースが多いからだ」と述べています。
 第2章「なぜリーダーが育たないのか」では、「現場リーダーの現実感を増し、魅力を高めるための要点」として、
(1)現場で必要とされるリーダーシップは、極めて個別的である
(2)リーダーシップは発達的な現象である
(3)多くの現場リーダーは、戦略家であるよりも、翻訳家である
(4)リーダーとはトップマネジメントという言葉で想起されるようなリーダー一種類ではない
の4点を挙げています。
 そして、「過去日本企業は集めた人材情報を有効に活用して、丁寧な人材活用を行ってきた」が、「今、そうした情報が失われている。また劣化している」と述べ、その原因として、
(1)人事制度事態の変革によって、人財把握規準が、大きく成果や能力などの集中されてきたこと。
(2)企業の分断
(3)人材情報を集め、蓄積する部署としての人事部が弱体化した
(4)個人情報保護の観点から、人事部が収集した情報を現場で活用することが難しくなってきた
の4点を挙げています。
 さらに、フォロワーに求められる要件(フォロワーシップ)にちうて、
(1)リーダーが語っているビジョンの正しさと実現可能性を評価する能力
(2)選んだ対象へ意図的に努力を集中する能力
(3)常に批判的にリーダーを評価し続ける能力
の3種類の能力で成り立っていると述べています。
 第3章「人と組織の関係をどう考えるか」では、「企業には育成機会を資源として従業員に配分することで、企業の競争力を維持することが求められる」が、「データを見るかぎり、賃金面での衡平原則(つまり成果主義)に比べてその分配原則について、未だ多くの企業で衡平原則による配分を行うという視点には立っていないようだ」と述べ、「企業にとって必要なのは、長期的な競争力の観点から、平等、公平、どちらの分配原則が適合的なのかを見極め、それを一貫して実施していくこと」だとしています。
 第4章「働き方革命の始まり」では、「ワークライフバランスに関する3つの誤解と、それに基づく難しさのイメージをなくすことが、この考え方を企業に根付かせるのには必要」だとして、
(1)みんながワークとライフをバランスさせなければならない
(2)ワークライフバランスは働き方の変革を引き起こす
(3)ワークライフバランスは企業の競争力を向上させる
の3点を挙げています。
 そして、「多くの問題の根源に、正社員の働き方や、それを前提とした人材マネジメントのあり方がある」として、「そろそろ、正社員の働き方や人材マネジメントのあり方を変えよう。そして、正社員であり続けるために、雇用保障や高い賃金と引換に、極めて高い会社忠誠心と長時間労働を求められるのではない働き方が必要だ」と述べています。
 そして、「働き方は、組織設計のあり方や企業経営の方法と密接に連動しており、組織の中で仕事をしている私たち一人ひとりがどんなに努力しても、組織全体が変化しないと改革は進まない」として、
(1)日本企業の顧客志向
(2)日本企業における職務の設計
(3)日本人の労働倫理
の3種類の「敵」との対応を工夫することが必要だと述べています。
 第5章「働きやすさと働きがいを目指して」では、「働きやすさとは、職場や仕事の『働き勝手』の良さ」だとして、「こうした規準をどれだけ考慮して職場と仕事を設計するかが、働きやすさを決定する」と述べ、「働きがいと働きやすさは表裏一体のものなのである」としています。
 本書は、複雑な人材マネジメントを一つひとつ解きほぐしていく一冊です。


■ 個人的な視点から

 以前、人事関係の仕事をしていたときには集中的に人事の本を読んでましたが、最近は少し読まなくなっていたのでフォローしてみました。過去に読んだ蓄積のある分野は後追いで読むのが読みやすくて楽です。


■ どんな人にオススメ?

・2000年代の人事マネジメントを総括したい人。

2011年1月21日 (金)

人口負荷社会

■ 書籍情報

人口負荷社会   【人口負荷社会】(#1961)

  小峰 隆夫
  価格: ¥893 (税込)
  日本経済新聞出版社(2010/6/9)

 本書は、「人口がこれからの日本の経済社会にとって大きな不可となっていく姿を描き、それにどう対処すべきかを論じたもの」です。
 著者は、「人口問題を考える本書の基本的な視点」として、
(1)人口予測は相対的に不確実性が小さい
(2)人口の変化を示すキーワードは「人口オーナス」
(3)長期的な経済成長を考えるとき、人口が大きな意味を持ってくる
(4)人口オーナス現象には、正統的な経済政策の考え方で対応すべき
(5)人口オーナスへの挑戦は新たな発展の機会でもある
(6)年金、医療・介護問題については解決策についての議論も必要だが、それをいかに実行するかも重要
(7)人口オーナス問題は世界的な問題でもある
の7点を挙げています。
 第1章「日本の人口構造はどう変化していくのか」では、「日本の人口構造は今後大きな変化を示すことが確実」だとして、
(1)人口総数の減少
(2)高齢化の進展
(3)少子化の進展
の3つの特徴を挙げ、その大きな特徴として、「スピードが速い」ことを挙げています。
 第2章「日本の出生率の真実」では、ここ数年の合計特殊出生率の上昇が、「主に晩産化によってもたらされたのではないか」として、「この晩産化の影響がなくなったときに現れる合計特殊出生率こそが、日本の基調的な出生率の動きを示すものとなる」と指摘しています。
 第3章「日本の少子化の原因を考える」では、日本的な働き方が「女性の逸失所得を大きくする方向に作用している」として、
(1)長期雇用が逸失所得を大きくしている
(2)日本型の年功賃金も逸失所得を大きくしている
の2点を挙げています。
 第4章「人口オーナスとは何か」では、「日本経済に難しい問題をもたらす人口変化」を一言で表す言葉として、「人口オーナス」を挙げ、15歳以下の「年少人口」と65歳以上の「老年人口」の合計である「従属人口」を生産年齢人口で割った「従属人口指数」が上昇する状態が「人口オーナス」だと述べています。
 そして、人口オーナスの影響として、
(1)労働制約が強まる
(2)資金面での制約も強まる
(3)年金・医療・介護などをめぐって世代間の対立が強まる
(4)政治的意思決定にも影響がある
の4点を挙げ、「すでにわれわれが経験し始めている」と述べています。
 第7章「大労働力不足時代へ」では、労働力不足への対応策として、
(1)高齢者や女性の就業率を高めること
(2)技術革新などにより労働生産性を高めること
(3)外国人の力を借りること
(4)企業が生産拠点を海外に移すこと
の4点を挙げています。
 第8章「高齢者と女性の就業率を高めるには」では、「就業率引き上げが人口オーナスへの対応という点でどの程度の効果があるか」について、
(1)とりあえず人口構成そのものは予見とした上で人口オーナスに対抗するには、就業率の上昇が特効薬である。
(2)社会全体の仕組みを女性・高齢者活用型に変えていくことにより、人口オーナスは克服可能である。
(3)女性と高齢者を比較すると、ボリュームという観点からは、女性のほうが潜在的な力は大きそうだ。
の3点を挙げています。
 第11章「人口オーナスと民主主義の失敗」では、「人口構造の変化は、年齢別の投票者構成の変化を通じて、政治的意思決定プロセスに影響してくる」として、
(1)年齢構成
(2)年齢別の投票率
の2つの要素を挙げ、「日本の投票者の分布は現在すでに大きく高齢者に偏ったものとなっており、その度合は今後急速に強まることになる」として、「政治的意思決定は、勤労世代よりも引退世代の医師が反映されやすくなったり、将来世代への負担の転嫁が行われやすくなったりする」と述べています。
 そして、「投票者構造の変化が社会的意思決定に及ぼす影響」として、
(1)勤労世代よりも引退世代の医師が反映されやすくなるので、供給力重視の政策より分配重視の政策が取られやすくなるだろう。
(2)高齢者の負担を避け、勤労者の負担が強まるような政策が取られやすくなるだろう。
(3)投票者に占める若年層のシェアが低下し続けるので、将来世代への負担の転嫁が行われやすくなる。
の3点を挙げています。
 そして、こうした民主主義の失敗を是正する方法として、アメリカの人口学者デーメニが提案した、「子どもが有権者の年齢に達するまでは、親が子供の代理として投票するという制度」である「デーメニ投票」を紹介しています。
 第12章「人口オーナス下の地域」では、「人口構造の変化は地域ごとに大きく異なる」として、「オーナス度合いの強い地方部は、人口の社会移動によって生産年齢が流出するので、オーナスの度合いがさらに高まるという問題が発生する」と述べています。
 本書は、人口減少社会を経済的に考察した一冊です。


■ 個人的な視点から

 人口オーナスへの対応には、経済的、政策的な対応が必要になるにもかかわらず、民主主義の仕組みではむしろ人口オーナスを上乗せする方向の政策が選択されてしまう。医療の進歩と長い平和が実現させた社会は結局こういうものだった。昔であれば兵力である若者が少なくなるような国は滅んだのかもしれません。


■ どんな人にオススメ?

・高齢者と若者の一票も同じ重さだと思う人。

2011年1月20日 (木)

大学破綻 合併、身売り、倒産の内幕

■ 書籍情報

大学破綻 合併、身売り、倒産の内幕   【大学破綻 合併、身売り、倒産の内幕】(#1960)

  諸星 裕
  価格: ¥760 (税込)
  角川書店(2010/10/9)

 本書は、日本に778校の大学があり、約600校近くを占める四年制の私立大学のうち、約4割で入学者の定員割れに陥っているという現状の中、「大学における最大の受益者は学生だ」という当たり前のことを、「大学関係者だけでなく、一班の方々にも十分に認識して」もらい、「良い大学」の選択に必要な、「大学という制度や大学人の意識の改革の方向性」を示したものです。
 第1章「崩れ始めた日本型『大学ビジネス』」では、「2007年ショック」と「大学全入時代」は、「行きたい大学」と「行ける大学」の二極化の時代への一里塚だったと述べたうえで、今後淘汰される大学について、
(1)学籍の保管と管理
(2)卒業証明書の発行事務
の2点が重要となると述べています。
 第2章「教育力は再生するか?」では、「すべての大学が東大のまねをすることはない」として、大学の教員は、「圧倒的大多数が元来『勉強ができる』人達ですし、『勉学が好きな』人達」であり、「自分が勉強するのは大好きだし、いくらやっても苦ではない。ただ、それを他人に伝える、教えるという作業に向いているとは、必ずしも言えないし、また他人に物事を教える方法を習ったことがない人達」だと述べています。
 第3章「タイプ別・日本の大学それぞれの『いま』」では、「地方、田舎というのは『いい教育環境』の要件の一つ」だとして、「地方のほうが、学生も、ここで勉強するぞと意気込んで、集中できるということがある」と述べています。
 第4章「受験生はなぜ『大学選び』を誤るのか?」では、「大学に出向く日については、大学が用意したオープンキャンパスは当然として、私はそれ以外に、平日に必ず一度入ってみることをお勧めしています」と述べ、「やはり長くお付き合いをしようと思う相手、一生その名前が付いて回ることになるかもしれない相手については、絶対に普段の顔を見ておいたほうがいい」としています。
 第5章「大学から日本がよみがえる」では、21世紀初めの日本に必要な大学として、
(1)世界レベルの研究大学
(2)本当の意味での教養人を養成する大学
(3)全入時代を明確に意識し、「あまり勉強のできない子」をともかく一生懸命に鍛えて、社会に役に立つ人材に育てることをミッションとした大学
の3つを挙げています。
 本書は、日本の大学のこれからを示した一冊です。


■ 個人的な視点から

 誰でも高校3年間我慢して机に座ることと親の経済力があれば大学に入れるこの時代。大学の先生も義務教育の教員免許が不可欠になるかも。むしろ、「わが校の教員にはマスター持ち、ドクター持ちのような二十代を無駄に過ごした人材はおりません。義務教育の現場でできない子供たちをしっかり教育してきた教員出身者でがっちり固めております」というのが売りの大学が出てくるかもしれない。まじで。


■ どんな人にオススメ?

・大学は入試があるものと思っている人。

2011年1月19日 (水)

ゼロ戦から夢の超特急―小田急SE車世界新記録誕生秘話

■ 書籍情報

ゼロ戦から夢の超特急―小田急SE車世界新記録誕生秘話   【ゼロ戦から夢の超特急―小田急SE車世界新記録誕生秘話】(#1959)

  青田 孝
  価格: ¥840 (税込)
  交通新聞社(2009/10)

 本書は、1957年に、狭軌での世界最高の時速145キロを達成した小田急ロマンスカー・SE車(デハ3000形)が「誕生するための経緯とともに、戦後の国鉄を中心とした鉄道車両、中でも当初は短距離区間の足でしかなかった電車が、いかに長距離を走る華麗な存在に変身していったのか、そこにどんな技術が関わってきたのか」を追ったものです。著者は、は、SE車の車体には「ハニカム構造に代表される軽量化と、低重心、さらには『美しいものは速い』を具現化させる流線型など航空機の技術がふんだんに取り入れられている」として、その影にある旧海軍航空技術廟でゼロ戦(零式艦上戦闘機)をはじめとする航空機製造を担った技術者の技」に光を当て、「突然、職場を奪われた優秀な技術者が、全く異なる世界で、一歩先を見据えた愚直とも言える努力の積み重ねが、ついには『世界新記録』を手にする。その姿は、今も脈々と生き続ける『もの作り日本』の原点でもある」と述べています。
 第1章「鉄路に花開く軍の技」では、戦前の国鉄において、鉄道事業本体の「装飾的存在」とさえ言われていた鉄道技術研究所が、「旧陸海軍に蓄積されていた技術を活用すべき」という判断から、旧陸海軍の技術者を大量に採用し、後に彼らが、「研究所の核として活躍」したと述べています。
 そしてその中に、「後にSE車の設計に関わり、新幹線の開発にも大きく貢献する松平精と三木忠直の両技術少佐も名を連ねていた」として、松平が、飛行機のフラッター現象解明の第一人者であったこと、三木が「美しいものは速い」として、流線型と軽量化にこだわったことについて、松平が後に、「海軍にいたときに散々苦労して習得した飛行機のフラッターに対する知識と経験が鉄道車両の蛇行動の研究に生かされて、車両の全般的振動軽減に効果をあげ、さらに新幹線高速台車の開発にも少なからず貢献した」と語っていることや、三木が、「航空機の技術を生かした車両の『軽量化』で鉄道の持つ新たな可能性に挑戦した」事などを紹介しています。
 第2章「東京~大阪3時間」では、1957年の鉄道技術研究所の創立50周年講演会で、鉄道技術研究軌道研究室長・星野陽一と、車両構造研究室長の三木、車両運動研究室長の松平、陸軍出身の川辺一・信号研究室長の4人が、「講演会の開催まで互いの研究を知らなかった」ため、直前に熱海の旅館に集まり、全員の研究が温泉旅館の座卓の上で付き合わされた瞬間に「東京~大阪間3時間」で走る超高速列車の姿が浮かび上がったと述べています。
 第3章「身の軽い私鉄」では、SE車に採用された航空機の技術として、「張殻構造(モノコック)」による車両と、鉄道車両として初めて採用された「ハニカム構造」の2点を挙げています。
 本書は、戦時中の軍需産業の技術をもとに、戦後花開いた日本のモノづくりの原点を伝えてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 軍事と鉄道の技術面での結合の話。軍需技術者が民生品の分野に投入されたのが戦後日本の強みだったのですね。じゃあ今はどうすればいいのか?


■ どんな人にオススメ?

・鉄道に日本軍の痕跡を見たい人。

2011年1月18日 (火)

ロボットとは何か――人の心を映す鏡

■ 書籍情報

ロボットとは何か――人の心を映す鏡   【ロボットとは何か――人の心を映す鏡】(#1958)

  石黒 浩
  価格: ¥777 (税込)
  講談社(2009/11/19)

 本書は、「ロボット開発を通して人間を知る」という著者の研究を紹介し、「いかにロボットが優れた人間の鏡であるか」を解説したものです。
 第1章「なぜ人間型ロボットを作るのか?」では、「カメラから得られた画像をコンピュータで解析し、その画像に何が映っているかをコンピュータに認識させる研究」である「コンピュータビジョン」を研究していた著者が、ロボットの世界に研究の範囲を広げた理由として、「コンピュータが人間と同等の認識能力を持つには、人間と同じように、環境の中で動きまわり、物に触れる身体が必要となる」ことを挙げています。
 そして、「ロボットの技術開発は、社会の変革を伴いながら普及するインターネットと同様に、人間理解を伴う技術開発」だと述べ、その営みは、「人間はすべての能力を機械に置き換えた後に、何が残るのかを見ようとしている」ことであり、「人間を理解したい」という根源的欲求を満たす格好の道具だと述べています。
 第3章「子どもと女性のアンドロイド」では、自らの4歳の娘とそっくりな子供アンドロイドを作った著者が、「後ろからアンドロイドを抱き抱えようとして、その頬に顔を近づけると、娘のにおいがした」と述べ、「いかに人間が人間らし見かけに敏感であるか」を痛感させられたとしています。
 また、子供アンドロイドと女性アンドロイドの研究において、もっとも重要な点として、「ロボットを作るというロボット工学と、人間を理解するという認知科学や脳科学にが、融合している点」を挙げ、「人間らしいロボットを作るには、認知科学や脳科学の知見が必要不可欠である」と述べています。
 第4章「自分のアンドロイドを作る」では、自分をモデルとした遠隔操作型アンドロイド「ジェミノイド」を開発した理由として、
(1)子供と女性のアンドロイドの次は男性のアンドロイドを作っておくべき
(2)大きい身体が必要だったこと
(3)いつでも比較実験ができること
(4)「自分がアンドロイドになったら、どのような感覚を持つか」を体験できること
(5)かわりに授業や講義をしてくれるのではないかという期待
の5点を挙げています。
 第5章「ジェミノイドへの人々の適応」では、「ジェミノイドを通した対話を5分ほど続けて、操作者がジェミの井戸の体に適応した頃を見計らい、ジェミノイドの頬を突っついてみる」と、「操作者もほんとうに自分の頬を突っつかれたような感覚を持った」理由として、「人間の体と感覚は密につながっていない」ため、「脳の中には、身体全体の感覚がちゃんと得られていると錯覚を起こす機能がある」ことから、「人間は、ジェミノイドのようなロボットにも乗り移ることができる」、「ジェミノイドを自分の体と錯覚し、さらには、自分の脳とジェミノイドの感覚まで繋がっていると錯覚する」と述べています。
 そして、「ジェミノイドの開発を通して、自分にとってのアンドロイドサイエンスの中身は大きく変わってきた」として、「人間らしさの探求」から「人間の存在とはなにか?」という基本問題へ、「自分の心がどこにあるか」「心とはなにか」という問題にまで疑問を抱かせると述べています。
 エピローグでは、「ロボットがインターネットのように我々の生活に深く入り込み、生活のスタイに大きな変革をもたらす可能性もある」として、「情報化社会の先にはロボット化社会が来る」と述べています。
 本書は、ロボットいう鏡を通してみえてくる人間の姿を追った一冊です。


■ 個人的な視点から

 「自分にそっくりなロボット」というのはドラえもんとかパーマンに出てくるモチーフでもあるのですが、そのロボットが意識を持ったら?と考えると怖いですね。ブレードランナーを思い出すほうがかっこいいのですが、ドラえもんの「かげがり」を思い出して怖い。


■ どんな人にオススメ?

・自分そっくりのロボったほしい人。

2011年1月17日 (月)

新聞が消える ジャーナリズムは生き残れるか

■ 書籍情報

新聞が消える ジャーナリズムは生き残れるか   【新聞が消える ジャーナリズムは生き残れるか】(#1957)

  アレックス S. ジョーンズ (著), 古賀林 幸 (翻訳)
  価格: ¥1890 (税込)
  朝日新聞出版(2010/4/20)

 本書は、「いまニュースに何が、なぜ起きているのかを明らかにし、ニュースの価値を率直に検討し、未来を導くであろう重要な選択を提示」したものです。
 第1章「鉄心のニュース」では、「毎日の硬派のニュース報道の集合体、健全な民主主義の中核をなす情報の鉄心」を、「あちこちにくぼみのある鉄の玉、灰色の、ややいびつな、大きな砲弾」のような「ずっしりとした重い球」にたとえ、「この鉄心は巨大で扱いにくく、報道機関が送り出す、プロフェッショナルによるありとあらゆるニュース」を反映していると述べ、「鉄心に入るのは、政府をはじめとした権力に説明責任を課すことを目的としている」という意味で「説明責任ニュース」と呼ばれる日々のニュースの集合体だとしています。
 そして、「ニュースに関わるものが何より懸念しているのは、主として新聞業界に広がる苦境のせいで、この鉄心が脅かされること」だと述べ、「つい最近まで、鉄心に含まれるあらゆる形態の報道は、人為的に保護され、支援されてきた」のは、「わが国ではニュースがビジネスを生み出すことにより、公共に奉仕する報道が貪欲な資本主義に貢献するという取引関係があったため」だとしています。
 また、「2006年に、新聞業界は発行部数の減少と広告収入の落ち込み――なかでも利益率の高かった案内広告の激減――に直面し、業界全体がパニックに陥った」として、「その結果として、鉄心のニュースが苦境にある」と述べ、「ニュースが、つまり説明責任ニュースが消えつつあることが、なぜこれほど重要なのか。それは信頼できる情報が不足すれば、我々は説明責任ニュースより面白いかもしれないが、信頼性という点でははるかに劣る『ニュースまがい』のものと意見によって、国の進路を決めなくてはならなくなるから」だとしています。
 第2章「メディアと民主主義」では、「世界中の独裁者が反体制派の意見を黙殺しようとしているのを見るとき、積極果敢な敵対的報道の価値は到底否定しがたい」と述べた上で、「タブロイド報道機関は利益を最優先し、その次に重視するのが、楽しく面白く気晴らしになる情報を提供する義務である。そして、かなり離れた三番目が、アメリカが取り組む課題に影響を及ぼし、政策面で多少の効果をもたらすことである」と述べています。
 第3章「合衆国憲法修正第1条」では、「アメリカ人にとって、憲法修正第1条の保護のもとに自由に発言する権利は、疑う余地のない当然のものである。あるいは、そう信じている」とした上で、「アメリカ人の大半が修正第1条により保障されていると考えている言論と出版の自由は、実のところ、まだ75年ほどの歴史しかない」と述べています。
 そして、「19世紀を通じて、出版に関しては、修正第1条の保障が実質的に効力を持たないという事実があった一方、それは新聞が極めて辛辣な言葉で乱暴な政治批判を行った時代としても知られている」と述べ、「基本的に、修正第1条の解釈を巡る争いは、政府が好ましくないあるいは有害な情報の出版を防ごうとする長い戦いだったと言ってよいだろう」と述べています。
 また、タイムズ対サリバン事件の判決について、「結果として、言論の自由のまわりに法的な要塞を築いた。言うまでもなく、要塞によって守られるものの中には、誇張、過失、歪曲、事実誤認も含まれている。そうした事柄は、報道機関が育む制約のない自由な政治議論の一分である」と述べています。
 第4章「客観性の最後の抵抗」では、「客観性がジャーナリズムの基準となったのは、ジャーナリストがより真摯な職業意識を持って行動規範や倫理基準を作り、それまでどちらかというと憎むべき下賎な職業とみなされていたその地位を引き上げようと努力していた時代だった」と述べた上で、「客観性の基準を受け入れることには、多くの皮肉が含まれる」として、「ジャーナリズムの業績を客観性に基づき判断することは、ジャーナリストに説明責任を果たさせるために必要な手段となる」一方で、「客観的報道のつまずきとみなしたことに対する非難の多くは、到底客観的ではないにもかかわらず、そうした絶え間ないメディア批判が積み重なって、報道機関への信頼を傷つけてきた」と述べています。
 第5章「メディアの倫理」では、コバッチとローゼンスティールがリストアップしたジャーナリストが共有する10の信条から、最初の3つとして、
(1)ジャーナリズムの第一の義務は真実に忠実なことである。
(2)ジャーナリズムの第一の忠誠は市民に向けられる。
(3)ジャーナリズムに不可欠な要素は検証の原則である。
の3点を挙げたうえで、「倫理的ジレンマの中で私が何よりも困難だと思うのは、ジャーナリズムの倫理が市民の要求と対立する場合である」と述べています。
 第6章「ニュースの奇妙な歴史」では、「いま何が起きているかを理解するには、背景を知らなければならない」として、ニュースの発展の歴史を、
(1)言語の発明
(2)活版印刷と最初の近代的な印刷機の発明
(3)電信技術の発明
の大きく3つの時代に分け、「それぞれの時代を特徴付ける要因となったのは科学技術で、それはただ重要なだけでなく、革新的でもあった」とした上で、「われわれはいま、第4期の戸口に立っている」と述べています。
 そして、「アメリカの新聞事業を、他の営利事業と比べて常に異例のものにしてきた要因は、それがアメリカ市民との純粋な社会契約に基づく事業だという点である」と述べるとともに、「公共政策をはじめとする説明責任ニュースの分野で、テレビは事実上、その報道を放棄した。新聞は厳しい競争環境により変わったが、鉄心のニュースの報道は、新聞の使命の一つとしてまだ受け入れられていた」としています。
 第7章「崖っぷちの新聞」では、「新聞の未来にとって何よりも気が滅入る筋書き」として、「死骸についた肉を根こそぎ削りとった後、山をなす骨を捨てることを婉曲に表現したビジネス用語」である「刈り取り」と呼ばれる事態が起きることだと述べています。
 本書は、アメリカの新聞が置かれている状況を解説し、民主主義における「鉄心」ニュースの重要性を説いた一冊です。


■ 個人的な視点から

 フリーのジャーナリストも増えて、会見場に入れるようになったりしていますが、一方で、一発もののスクープではなく、本書のいう「鉄心」のニュースを書くにはそれなりの金と人材を投入しないと難しいというのも事実。日本の新聞社のあしたはどっちだ?


■ どんな人にオススメ?

・新聞を作る元手に考えが及ばない人。

2011年1月16日 (日)

頭脳はどこに向かうのか

■ 書籍情報

頭脳はどこに向かうのか   【頭脳はどこに向かうのか】(#1956)

  村上 由紀子
  価格: ¥2940 (税込)
  日本経済新聞出版社(2010/5/15)

 本書は、「高度人材と呼ばれる人達が、活動の場を外国に求めるのはなぜだろうか。彼らの国際移動を実現させる社会的なメカニズムは何だろうか」という問に答えようとするものです。
 第1章「科学者の国際労働移動とは」では、本書が対象としている国際移動は、「頭脳労働の代表とも言える科学者の自発的な国際移動に着目」し、「労働市場が国際的な広がりを持っていくメカニズムについて、科学者の国際移動を題材にして考えて」います。
 そして、「科学技術人材の国際労働移動は、送り出し国と受け入れ国の双方にとって重要な意味があり、人数が少なくてもその影響力は大きい。しかも国内で科学技術人材を要請するには時間がかかるために、戦略的に海外から優秀な人材を受け入れようという各国の政策は、今後暫く続くと予想される」と述べています。
 また、「科学者のコニュニティには科学者独自の価値観や規範がある」として、「最初の発見者であることを仲間の科学者に認知される」ことである「プライオリティ(priority) の価値」や、「ひとたび新しい科学的知識を研究成果として外部に公表すると、科学者はその知識に対して排他的な所有権を持たない」という「知識の公有(communality)」などを挙げ、「以上のような科学者の価値と規範が、国境を超えて広がる科学者のコミュニティに行き渡っている時、オリジナリティを求める競争も世界的な規模で行われている」ことが重要だと述べ、「科学は普遍的あるがゆえに、科学者の知識や能力は組織の枠や国境を超えて活用される。そこで、業績の高い科学者のほうが、国の内外から給与、研究費、自由度の高いジョブをオファーされ、また、外部資金、賞金、講演料、コンサルティング料などを多く稼ぐことができる。すなわち、科学者仲間に業績を認められるという社会的報酬を得ることが、実は内発的報酬や外発的報酬を高めることにも繋がっている」としています。
 さらに、「同じ研究(学問)分野に属する科学者の緩やかに結びついたインフォーマルな共同体」を意味する「見えざる大学(invisible college) 」という言葉を紹介し、「科学的知識の創出に、このような科学者のネットワークは大きな貢献をしている」と述べています。
 第2章「日本の外国人科学者の受け入れと科学技術」では、「日本は科学技術の発達した国であり、政府もその振興に力を入れ、また、優秀な外国人科学者の受け入れも促進している。しかし、実態としては、日本に来る科学者は多くはない」と述べています。
 第3章「外国人科学者の日本への移住動機」では、「科学の発展に貢献するためには、まずは既存の科学的知識を吸収し、さらに、研究資金が豊富で設備が整っている場所で一流の科学者と情報交換や議論を行いながら研究に励むことが望ましい。また、ネットワークの中心に位置する一流の研究者と直接的な他意を築き、情報にいち早くアクセスしたり、仲間の科学者に貢献を認知されやすい環境に身を置くことが、インターナショナルな科学の世界で競争していくために重要な条件になる」として、「基礎研究に従事する科学者はまさにその環境を求めて日本に来ている」と述べています。
 そして、「賃金格差が国際労働移動を引き起こすろいう経済理論は、科学者や技術者の場合にも当てはまる」と述べています。
 第4章「日本における外国人科学者の雇用」では、「外国人科学者を雇用している組織は非常に少ない」とした上で、「外国人科学者と日本人科学者に同じ雇用管理を適用する組織が多く見られるが、この場合は外国人にも遅い昇進や業績による格差の小さい報酬制度が適用される」ため、「外国人科学者が不満を持つ可能性」が考えられる上、「平均的に見て、勤続年数が短くなりがちな外国人を、長期的に組織内で育成し処遇するシステムが、機能不全を起こすこともありうる」としています。
 第5章「日本に住む外国人科学者の生活と帰国の計画」では、「一度流出した頭脳が元の国に戻ること」である「頭脳還流(brain circulation)」について、「海外の知識・技術やビジネスノウハウ、新しいアイデアを送り出し国に移転することもできる。あた、海外とのネットワークを利用したR&Dやビジネスをスタートさせることも可能である」と述べた上で、帰国に影響を与える要素として、
(1)キャリアディベロップメントの機会
(2)日本の生活関する満足
(3)ネットワークの影響
(4)出身国と日本との間の経済格差、科学技術格差
の4点を挙げています。
 第6章「アメリカにおける外国人科学者」では、「米国においては多様な国から来た多くの外国人科学技術者が就業している」が、「彼らの受け入れについてはアメリカ国内で賛否両論があり、活発な議論が展開されてきた」として、
(1)国内において科学技術人材が不足しているために外国人を受け入れるという議論
(2)光度な科学技術の場合には、特定の知識を持った人材の数が世界的に見ても限られているため、外国人を雇わざるをえないという議論
(3)外国人の異なる視点や独創性とエネルギーが、プロダクトイノベーションを生むという効果を強調して、外国人の受け入れを支持する議論
などを挙げ、「このように活発な議論が行われ、この問題に関する研究が展開されてきていることは、受け入れ先進国アメリカの特徴であろう」と述べています。
 そして、「外国人科学者が非常に優秀で、高い業績をあげることが出来る場合には、米国において科学者としてのキャリアを発展させていく可能性が開けている」が、「平均的に見ればその可能性は低く、また、管理的業務への昇進になると、さらにその確率は低くなる」と述べています。
 第7章「日本人科学者のアメリカへの移住」では、「科学の世界の中でできるだけ中心へ向かう移動が見られるのは、国籍を問わず科学者に共通の傾向である」として、「科学の普遍性、科学者コミュニティの国際性と競争性がそうさせているのであろう」と述べています。
 第8章「日本人科学者のアメリカにおける生活と帰国の計画」では、「日本人科学者の帰国を左右するのは主に、日本で職を得られるか、あるいはアメリカでそれを得られるかということである」と述べ、「頭脳流出が頭脳還流となるためには、日本にどの程度の職があるか、また、その職とアメリカに済む科学者とのマッチングが上手く行われるかが鍵を握ることとなる」と述べています。
 終章「頭脳はどこに向かうのか」では、「科学者は研究成果を他の科学者に認知されることに価値を置いているが、科学者をどう築けているのはそのような社会的報酬だけではない。興味のあるテーマに自由に取り組み、自然界のパズルを解く喜びを味わうことは、科学者にとっての内発的報酬である」として、資金や設備などの環境のために、「そのような条件を備えたところに科学者が移動する傾向がある」と述べています。
 そして、「科学者の国際労働移動には、政府の移民政策、労働市場政策、科学技術政策、教育政策など様々な政策が関与している」として、「本書をきっかけに、日本が今後、人財をどのように育成し確保していくのか、政策立案者ばかりではなく、産業界、アカデミア、そして家庭など広い範囲で議論が展開」されるべきとしています。
 本書は、国際移動する人財の代表として科学者を題材に取り上げた一冊です。


■ 個人的な視点から

 海外に留学する人材にも二種類あるようで、日本の学習環境、研究環境にものたらないので海外を目指す人と、日本国内で就職が決まらないので海外で箔をつけようとする人があるようです。さて、昔の海外流出組といえば野口英世ですが、「野々口精作」の場合はどちらに当たるのか?


■ どんな人にオススメ?

・「日本の頭脳」とは何かを考えたい人。

2011年1月15日 (土)

ん―日本語最後の謎に挑む

■ 書籍情報

ん―日本語最後の謎に挑む   【ん―日本語最後の謎に挑む】(#1955)

  山口 謠司
  価格: ¥714 (税込)
  新潮社(2010/02)

 本書は、「ん」の謎を解き明かすことで「日本語の歴史や日本の文化を知る鍵」にもなるとして、「さまざまな角度からこの大きな謎」に挑んだものです。
 第1章「『ん』の不思議」では、奈良時代の文献には、「上代特殊仮名遣いによる音の書き分けがあった」として、「当時の日本語表記は、後世の日本語とは比べものにならないくらい音の差異が意識されていたといえよう」と述べた上で、「これら上代の書物には、『ん』を表す文字がひとつも使われていない」としています。
 第2章「『ん』の起源」では、『古事記』が後代に作られた偽書であるという説について、「古代日本語の表記の中でも非常に古い上代特殊仮名遣いという特徴が残っている」ことを指摘しています。
 そして、「ん(ン)」が「平安時代が始まる800年頃から次第に表記の必要性が感じられるようになり、民衆の文化が言語として写されるようになる平安時代末期、音を表すための文字として姿を表した」と述べています。
 第3章「『ん』と空海」では、「天才」と呼ばれる空海が、「日本語の歴史の中にも燦然と光を残すべく、それまで日本語にはなかった『ン』という文字を、より深い思想として築いた」と述べたうえで、「『ン』という記号がなかった時代、空海もまた『ニ』と書いて『ン』を示すしかなかった」と述べています。
 第6章「声に出して来た『ん』」では、「清少納言が下品だと思ったように、日本語は、濁音を嫌うという特徴がある」として、「『ん』も、はっきりとした濁音ではないけれど、『あ』から『を』までの清音で構成された五十音図の枠外にあるという点からしても、少なくとも正当な清音とはみなされてこなかった」と述べています。
 そして、「江戸の人が、われわれ現代人が知らない『ん』を使った『ん廻し』という言葉遊びをしていた」として、「平安時代までは書くことさえできなかった『ん』は、それから約6百年後の江戸時代にはこうした遊びに取り入れるようになるまで、日本語には不可欠の音と表記となって現れてきていた」と述べています。
 第8章「『ん』の文字はどこから現れたか」では、カタカナの「ン」について、「撥ねる音を示すための記号を書こうとして、色々と試された形であった結果『レ』から『ン』の形に定着したと考えたほうが常識的であろう」と述べています。
 本書は、我々が普段使っている「ん」がどこから来たのかをたどることで、日本語の来し方を伝えてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 小さな頃から「ん」の扱いは不思議でしたが、結構奥が深いものです。現在「日本語」と呼ばれているものが古代とはまるで違うという話は聞いたことがありますが、そういう研究書も読んでみたいです。


■ どんな人にオススメ?

・タイムマシンで大昔の日本に行こうとしている人。

2011年1月14日 (金)

気分はサイボーグ

■ 書籍情報

気分はサイボーグ   【気分はサイボーグ】(#1954)

  原 克
  価格: ¥3255 (税込)
  角川学芸出版(2010/6/25)

 本書は、「『サイボーグ的なるもの』を生み出してきた、つまりは今日一般的なものとなっている身体表象を生み出してきた、高周波電流神話の仕組みを明らかにすること」を目的としたものです。
 第1章「いかさまと科学――19世紀の電気と身体表象」では、『トム・ソーヤーの冒険』の一節として、「世間には『特許医薬品(パテント・メディシン)』とか、『新発明の治療法』などにすぐにとびつく連中が居る。伯母さんもその一人だった。いかがわしい健康法が撒き散らす『恐るべき無知』は、伯母さんにとってはことごとく『福音』であった。彼女は、いかさま雑誌と、いかさま売薬を取りそろえ、『死神の武装をして、青白い馬にまたがり、「うしろに地獄をしたがえて」歩きまわっていた』。自分が、万病に経験あらたかな薬の神の化身であることを、少しも疑わなかった」を引用し、「科学の進歩とは脱迷信あるいは脱宗教のことである」が、「同時に、科学情報それ自体が『現代の神話』や『現代の迷信』として作用してしまう」ことを指摘しています。
 そして、都市の環境整備がなされてゆく一方で、「人間という小さな身体を、より直接的に体質改善しよう、病気になったら、より直接的に治療しよう」という試みがなされていたと述べています。
 また、「どんな種類の医薬品であっても、薬効を謳うその『語り口』には、ひとつのパターンがある」として、「だれもが知っているつもりでも、その実、誰もその内実を性格には説明できないというような『疎遠な権威』を剽窃する」事だと述べ、19世紀に、「近代工業化の時代、とりわけそのイメージ発信力の大きさ、そのイメージ感染力の強さ、その影響範囲の広さという点で、一頭地ぬきんでた『疎遠な権威』」として、「電気」という偶像を挙げています。
 第2章「高周波シンドローム――20世紀型身体表象への胎動」では、「高周波電流が持っている、見世物にふさわしい特性」として、「巨大な放電火花(ストリーマ)」を挙げ、「高周波電流が20世紀の科学神話だとすれば、それを神話たらしめた科学特性の一つは、間違いなく、この放電火花という図像だった」と述べています。
 そして、「20世紀、電気治療の時代、全米を巻き込んで、大規模に高周波電流神話をまき散らした事件」として、「エイブラムス事件」を挙げ、その医療機器が「あっという間に普及した」理由として、「どこかロマン主義的な香りが漂っている」という「広く世間に訴えるところがあった」ことを挙げています。
 著者は、「およし人々が新しいものを受け入れてゆくのは、決して、新しいものの中に完全なる新規性を認めるからではない。新しいものの中に、親しく見知っている古いものの陰影を嗅ぎとるからこそ、新しいものに手を伸ばすのだ」と述べています。
 第3章「気分はサイボーグ――生体電気信号の神話圏」では、「その時代ごとに、一般の人々がごく平均的に思い描く身体表象というものは存在する。それは、ときに、往時最先端の専門的知見によって補完されつつも、ときに、伝統的で紋切り型の身体観の母斑を負っていた」として、「その身体表象が成立してくる基盤として共通しているのは、やはり『相似性』あるいは『相同性』という表象要素であった」と述べています。
 そして、「形態的相似性であれ、機能的相同性であれ、モデルを使った比喩表現」が、常に「表象的貧困化の危険性を孕んでいる」ことを指摘しています。
 本書は、21世紀の私たちにとっても決して笑うことができない身体観の貧困さを気づかせてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 今だからこそ、百年前の健康機器の広告を見ると笑ってしまいます。ちょっと前でも「ぶら下がり健康器」とか「ルームランナー」とか「サウナスーツ」とかがありました。現代の「部分痩せ」、「ヒアルロン酸」、「マイナスイオン」、「骨盤ダイエット」あたりは百年と言わず5年くらいで笑えそうです。もちろん今でも笑われているのですが。


■ どんな人にオススメ?

・コラーゲン鍋でツヤツヤになろうとしている人(なれません)。

2011年1月13日 (木)

大正期の家族問題―自由と抑圧に生きた人びと

■ 書籍情報

大正期の家族問題―自由と抑圧に生きた人びと   【大正期の家族問題―自由と抑圧に生きた人びと】(#1953)

  湯沢 雍彦
  価格: ¥3675 (税込)
  ミネルヴァ書房(2010/05)

 本書は、「大正期の家族は、増してきた自由と、反対に強められた抑圧の狭間の中で、様々な矛盾を抱えて揺れ動いていた」として、「最近の日本では、『昔の家族は良かった』という論調が盛んだが、それははかない幻想に過ぎ」ず、それはなぜっだったのかを、「多方面から実態を検討してその矛盾に迫」ることを目的としたものです。
 「序文にかえて」では、大正2年の内務省で、時の内務大臣、原敬の指示により、イギリス・アメリカ・ロシア・フランス・ドイツの先進国に日本を加えた「各国国力比較表」が作成された際に、殆どの項目は再開であったが、離婚率が高いことと非嫡出子が生まれる割合が高いことだけは世界一だったというエピソードを紹介し、「『教育勅語』で『兄弟ニ友ニ夫婦相和シ』と教えてこられた日本国民の家庭は、そのような理想とはかけ離れ、かなり混乱していた」として、「この逸話は、当時の家族問題をよく象徴している」と述べています。
 第1章「きびしい時代背景と変わり目」では、大正時代が「デモクラシーの時代」と呼ばれるにかかわらず、「家族関係の民主化は遠く遅れていた。明治民法が確立して『家』を中心とした家族制度と世間に伝わる因習的なしきたりが根強く残り、自由な発想と行動は大きく縛られていた。特に女性は、生まれてから死ぬまで『三界に家なし』といわれ、デモクラシーとは程遠い世界にいたから、惨めなものであった」と述べています。
 第2章「自由恋愛事件の頻発」では、「大正時代の新聞報道でまず目につくことは、心中とくに異性心中もしくは情死の事件報道が多いことである」と述べ、「心中そのものは本当に増えてきたかは謎」ではあるが、「作家・芸能人などの有名人と、家族やその身内など社会的地位の高い男女の事件が多かった」ことについて、「これらの人々が、広がったデモクラシーの空気の中で自由な恋愛を謳歌し、その実現をはかろうとしたものの、家族制度と社会道徳の壁はなお厚く、結局箸に走るほかなかったという事情がある」と述べています。
 第3章「新聞家庭相談の流行」では、新聞に掲載された家庭相談について、「身の上の過半は家庭相談なのであった」と述べ、「幼少期から子どもの『許婚者(イイナヅケ)』を親が決めておくという習慣が、大正初期にも立派に残っていた」ことについて、「それにしても、親は小さい時からなんと強く子を縛っていたことだろう。戦後の憲法が『婚姻は両性の合意のみに基づいて成立する』と言わなければならなかった理由がわかる」としています。
 第4章「下層家族の生活」では、「いつの時代にも下層に位置する生活者がいるものだが、とりわけ大正時代にはその割合が多い時代だった」として、大都市で、「月々一定の賃金をもらえる月給取り」が増えたが、「とくに増えたのは下請けの会社員や下級官吏であって、その生活の苦しさは肉体労働者や細民のそれと比べても劣るものではなかった」と述べています。
 また、新潟県の農村青年が『東京朝日新聞』に投稿した「嫁が欲しい」という当初を紹介し、「農村の嫁飢饉問題」は、「戦後の高度経済成長期である昭和40年代から50年代にかけて賑やかに騒がれた話題であったが、実は大正中期にすでに始まっていた」として、「農村困窮家族での秩序崩壊は、もう始まっていたのである」と述べています。
 第5章「農家と新中間層にみる女性の暮らし」では、大正9年当時、「男は25歳までに、女は21歳までに結婚するのが普通の姿で、それに遅れた者でも50歳までには男の97.8%、女の98.2%は一度は結婚の経験を持っていた。いわば『国民皆婚』の社会だった」と述べています。
 また、都市を中心に、「医師・弁護士・学者・技師・芸術家・新聞記者・上級公務員などの知識人が文化を創り、意見を述べる『新中間層』をつくるようになってきた」として、新中間層の大部分を占める「大都市に住んで休日以外決められたところへ出勤して、月末には一定の給料を受け取る『サラリーマン=給料生活者』」の配偶者は「主婦」と呼ばれ、「有閑夫人や女房とは区別された」と述べています。
 第6章「柳原白蓮事件をめぐる波紋」では、歌人柳原白蓮が新聞紙上で夫に「絶縁状」を突きつけた事件について、「上級華族出身・有名歌人・非常な美人・親の欲得・押し付けた結婚・成り上がりの大金持ち・多数の女関係・豪奢な暮らし・形だけの結婚・妻と社会主義者との家出、妻からの離縁状など様々な要因が積み重なった、まさに大正自由主義を象徴するかのような大きな出来事であった」と述べています。
 第7章「家族紛争と法との食い違い」では、「大正年間に上級裁判所まで継続した夫婦間の事件」について、「その半分は婚約・内縁を巡る事件」であり、裁判所で「婚約」事件と名付けられたケースは、「世間一般でいう結婚の約束ではなくて、性関係や同棲があるものの婚姻届ではない、すなわち内縁に近い関係のケースを指している場合が多い」と述べています。
 また、大正時代が私生子がとても多い社会だったとして、「大雑把に言えば、大正時代の少年少女の10人に1人は私生子だった」と述べています。
 第8章「国勢調査が示す家族像」では、大正9年の調査では、1人世帯を加えた家族外生活者が総人口の12.5%いたことについて、平成17年国勢調査の12.6%とほとんど同じだと述べています。
 また、「老人の立場から見れば、子や孫と同居する直系家族になりやすかったが、子どもの立場からみると」、長男とその妻となる女性以外は核家族になるしかなかったと述べています。
 さらに、飛騨の白川村の大家族について、「分家の禁止と他領流出の禁止という社会的条件と、生糸産業の国際的生業に伴う家族養蚕生産力の増加という経済的条件が、白川村の大家族を現出したのであり、養蚕業の衰退と共に世帯人口は減少してしまった」と述べた上で、成人男子に独身者が多い理由として、「家長(戸主)および嫡男のみが正式結婚できるが、同居する傍系親族にはそれを認めない。原則としては、生涯異性を持たず生家に全く依存し、労働力としての奉仕に終始する」という習慣があったことを指摘し、「白川村や五箇村は大家族の暖かさを偲ばせて、一見ロマンチックな郷愁を誘う存在ではあるが、傍系親族に生まれたものにとっては、どちらも異性関係の存在や祭祀との同居を禁止されるなど、普通の人間性を否定された厳しい社会だった」と述べています。
 第9章「新しい家族間のめばえ」では、「第一次世界大戦後のロシア革命や自由主義の導入など世界の動きから刺激を受けた」、「児童中心主義」が台頭したと述べ、その教育運動を支えるものの代表として、児童雑誌『赤い鳥』を挙げるとともに、「大正後半を彩った『童謡』の盛行は、大正文化全体の中でも一番の収穫と言えるものだった」と述べています。
 第10章「大衆文化と家族の格差」では、長野県諏訪郡の農村で大正時代後半に青年時代を過ごした老人に対し、「若いときに何が楽しみでしたか」と聞いたところ、一番多い答えは「何も楽しみはなかった」だったと述べています。
 終章「自由と抑圧のなかで」では、大正時代を、
(1)自由な空気の到来
(2)抑圧・圧政の時代
(3)階層格差の問題
の3つの柱にくくることが大切だと述べています。
 本書は、現代の日本の家族の姿の原型の一つである家族の姿、社会の姿を見せてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 「母親は専業主婦で家にいるのが一番」と信じこんで、それを日本古来の家庭の形、と思っちゃってる人も少なくないのですが、言わば「大正時代のセレブ」であり、高度成長期には農村から都会に出てきた人の憧れだったわけです。いわゆる「団地妻」ですね。
 もしかすると一昔前の「トレンディドラマ」の生活が何十年か後、日本の生活レベルが下がった将来になって「古きよき日本」として憧れの対象になってしまうのかも。


■ どんな人にオススメ?

・見たこともない「古きよき日本」を振り回しちゃう人。

2011年1月12日 (水)

知っておきたい「日の丸」の話―国旗の常識・日本と世界

■ 書籍情報

知っておきたい「日の丸」の話―国旗の常識・日本と世界   【知っておきたい「日の丸」の話―国旗の常識・日本と世界】(#1952)

  吹浦 忠正
  価格: ¥830 (税込)
  学研パブリッシング(2010/01)

 本書は、東京五輪の組織委員会に採用されたことを契機に、「四十数種の国旗刊行物を出版・製作し、その後の日本で開催された世界的な行事には国旗部門で必ず参画」してきた著者が、「『日の丸』をはじめ、国旗という文化遺産を通じ、人と国の来し方行く末について」考えるものです。
 第1章「旗の起源と『日の丸』の黎明」では、高松塚古墳とキトラ古墳の壁画に描かれている日、月像について、「はたして『日の丸』の起源と見て良いかはさらに研究を重ねた上に結論をだすべき」ものであるが、「明らかに一対の記章として、用いられてものということはできるのではないか」と述べています。
 第2章「武家社会での『日の丸』」では、現存する「日の丸」として最古と言われる、奈良県五條市西吉野町賀名生和田の堀家に伝わる「日の丸」日打て、元弘年間に後醍醐天皇が笠置山に行幸したときに「錦の御旗」として下賜されたものと伝えられているとしています。
 第3章「幕末国旗事情――外国国旗の研究」では、「日の丸」を公式に採用したのは徳川幕府であり、島津斉彬が今日の「日の丸」の原型を提案してきたと述べています。
 第4章「明治以降の『日の丸』」では、明治政府が国旗を菊の御紋にしなかった理由として、
(1)国家としての継承を主眼としたため、対外関係に関わる諸制度の変更を極限し、摩擦回避を図った。
(2)諸外国が国際的には新興勢力である日本の国旗として、ようやく「日の丸」を認知し始めたばかりであった。
(3)日本の国号や太陽信仰に結びついている「日の丸」以外のデザインが思い浮かばなかった。
の3点を挙げています。
 また、著者が、昭和37年に「財団法人オリンピック東京大会組織委員会事務局競技部競技部式典化付国旗担当専門職員」という辞令をもらい、「日の丸」の国旗を作成する際に一番困ったのが、「見本をどこに持って行って了承を得たらいいのかわからない」事だったと述べています。
 第5章「国旗と教育」では、「1990年代の初め、世界が冷静構造の軛から脱却した頃から、『日の丸』は日本国民の間に、急速、かつ自然に迎えられるようになったように思う」と述べています。
 第6章「国旗は変わる」では、「『日の丸』が明治維新や敗戦でも変わらなかったのいうのは国旗としては奇跡のようなものだ」として、「この端が烏賊に定着していたかのなによりの証拠であろう」と述べています。
 そして、「頻繁に変更になると言っていいほど、国旗はよく変わるのだ。それだけに世界情勢から目を離せない」と述べています。
 本書は、当たり前に見える国旗が当たり前でないことを教えてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 「日の丸」はとかくイデオロギーの匂いをつけて語りたがる人が多いですが、日の丸そのものの歴史はそういうのを抜きに面白かったです。


■ どんな人にオススメ?

・「日の丸=軍国主義」という連想しかできない人。

2011年1月11日 (火)

経済学は温暖化を解決できるか

■ 書籍情報

経済学は温暖化を解決できるか   【経済学は温暖化を解決できるか】(#1951)

  山本 隆三
  価格: ¥756 (税込)
  平凡社(2009/11)

 本書は、「温暖化問題を解決するための経済的手法である排出権取引制度、環境税などの概要と理論を理解すること」を目的としたものです。
 第1章「温暖化問題の短い歴史と現状」では、京都議定書が、「温室効果ガスの排出量の基準年を原則90年にし、2008年から2012年の5カ年間の温室効果ガスの排出量を制限すること」と述べたうえで、「温暖化問題が難しいのは、過去の責任と将来の責任を考える必要があるから」だとして、「過去に二酸化炭素の大半を輩出し、今の温暖化の原因を作った」先進国と、「今後、二酸化炭素の排出が多くなり、温暖化を促進させる」途上国のバランスをどう取るのかが課題であると述べています。
 第2章「温暖化問題の『不確実性』を考える」では、「温室効果ガスは温暖化の原因ではない」と主張する人達を「懐疑派」」とレッテルづけた上で、「実証不可能なことが多く、不確実なことが多いため、温暖化問題に関して、様々な意見が表明される」が、「経済学的にみると、温暖化対策は必要ないとの主張にはかなり疑問が」あると述べています。
 そして、「多くの不確実要素があり、将来の予測が難しい温暖化の問題では、『保険』を掛けざるを得ません」として、「ひょうっとすると何も起こらないかもしれないから、対策を取る必要がないとは言えません」と述べています。
 また、2002年にデンマークの政治学者ビョルン・ロンボルグが、経済学者を集め、「世界の様々な課題に優先順位」をつけさせた結果、「温暖化対策は、議論された10の政策のうち、優先順位は足会でした。最優先事項はエイズ対策でした」と述べています。
 第3章「米国とEUの温暖化問題への取り組み」では、米国が石炭関連の技術開発に力をいれている理由として、「石炭による発電を続けることが前提にある」ことを指摘し、「米国は環境政策を利用して産業振興、農業支援まで行い、その上外交にまで利用しているようにも思えます」と述べています。
 第4章「日本の温暖化問題への取り組み」では、日本の温暖化たいさうkに対する海外からの批判として、「削減を行うのであれば、まだエネルギー効率が悪く、削減費用が安い途上国で行うほうが、地球規模の問題であり、どこで削減を行っても結果に差がない以上、費用対効果を考えると望ましい」と考えられることから、「国内だけで削減を進めるという日本政府の政策は途上国の期待を裏切るもの」であり、「日本は国際協力をする気がない、とんでもない国だ」というものだったと述べています。
 第5章「温室効果ガス削減の経済学」では、排出権取引制度以外の温室効果ガスの削減方法として、「規制」と「環境税」を挙げ、経済学の視点から、これらの手法を概観するとしています。
 そして、「規制により社会的利益を最大にするような削減を実行することは困難であり、現実的にも実行は難しい」とした上で、経済的手法として市場を活用する税について、「環境税の場合には、例えばエネルギー効率を改善すれば、税額が少なくなる効果があり、技術開発を促進する可能性」があると述べています。
 第6章「経済的手法は温暖化問題に有効か」では、「環境政策を評価するための規準を学び、その評価軸に基づき排出権取引と環境税の有効性を分析」すると述べ、その評価軸として、
(1)削減と技術開発の確実性
(2)当事者に対する公平性
(3)費用対効果
の3点を挙げ、「規制、あるいは排出権取引制度との比較では、公平性が確保でき、また国民生活への影響などを事前に予測できる点から、環境税のほうが政策手段としては優れている」と述べています。
 本書は、環境政策に対するアプローチ方法を教えてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 温暖化をネタに商売するのは別にいいのですが、「地球温暖化」教に感化されちゃった信徒の皆さんには困ったものです。リサイクルのために一生懸命ペットボトル飲料を買った上に、その蓋を集めてトラックで運び集めちゃうとかの話を聞くと、のび太が節約のために一生懸命ティッシュで鼻をかんだ話を思い出します。


■ どんな人にオススメ?

・温暖化商法を学びたい人。

2011年1月10日 (月)

メディアスポーツ解体―"見えない権力"をあぶり出す

■ 書籍情報

メディアスポーツ解体―   【メディアスポーツ解体―"見えない権力"をあぶり出す】(#1950)

  森田 浩之
  価格: ¥1019 (税込)
  日本放送出版協会(2009/12)

 本書は、「メディアスポーツの〈見えない権力〉をあぶり出そうという試み」であり、「国旗を激しく振るようなもの」だけでなく、「もっと静かな『ナショナル』な空気を、メディアスポーツが醸し出すプロセスを検証」するものです。
 第2章「ナショナルなもの」では、ベネディクト・アンダーソンが、国民を「想像の共同体」と説明づけたものを、「メディアと国民の関係を考えるときに最も役立ちそうなものの一つである」と述べています。
 そして、「日本のスポーツ報道に頻繁に使われる言葉の中で、ナショナルなアイデンティティーとの親和性が高いものの一つ」として、「世界」を挙げ、「メディアスポーツは国民をつくり、『われわれらしさ』をことばの上でつくり上げている」と述べ、「その手法は静かで周到であり、多くの場合にはメディアの側も意識しないようなものだ」としています。
 第3章「ナラティブ/物語」では、報知新聞社長の竹内四郎が昭和30年ころに新入社員に訓示した、「おまえたちにスポーツの専門家を期待しない。社会部の記者になれ。人間のことを書くのだ」という言葉を挙げた上で、スポーツは、
(1)ゲームとしてのスポーツ:身体的技能を駆使して争う
(2)共同体としてのスポーツ:ゲームを遂行している個人やその集団の仕組み
の2つの側面からアプローチできると述べています。
 そして、現在につながるテレビスポーツのフォーマットを創り上げた人物として、米ABCテレビのプロデューサーだったルーン・アーリッジの名を挙げ、アーリッジが、「それまでアメリカでは終末にしか放映されていなかったスポーツ番組を、平日のプライムタイムに進出」させた際に何よりも「スポーツ放送における物語とヒーローの役割」を重要視していたとして、「アップ・クロース・アンド・パーソナル」と呼ぶ手法を局内に徹底させたと述べています。
 また、アーリッジの手法をさらに推し進めた、1996年のアトランタオリンピックを放送した米NBCテレビについて、「ステレオタイプ化された人物像やお決まりのストーリーライン、サスペンス、挫折、決意、そして成功。ソープオペラの要素がふんだんに盛り込まれたNBCの物語は、あまりに意識的に伝えられたものだ」としています。
 第4章「ジェンダー」では、メディアの女性アスリートの描き方について、
(1)女性アスリートの「幼児化」「性愛化」
(2)女性アスリートとその業績の「周縁化」
(3)女性アスリートとその業績の「矮小化」
の3点を主な批判としてあげた上で、メディアに大きく取り上げがちな女性の競技の傾向として、
(1)個人競技である
(2)相手との直接の身体接触がない
(3)自分のポイントがそのまま相手のマイナスになる競技が少ない
など、女の子の遊びに見られる「競争よりも協調」という「女性の社会的行動に望まれる特徴の表れとみることもできる」「女性に適した」競技であることを指摘しています。
 また、「なでしこジャパン」の宮本ともみの記事が、「宮本のアスリートとしての実績を見事なまでに矮小化している」として、
(1)アスリートではなく「女性」として描く
(2)「妻」「主婦」というプライベートな領域で描く
(3)周囲の支えを強調する
の3点を指摘し、「メディアスポーツは基本的に『男の子の国』である」と述べています。
 第5章「神話・ステレオタイプ」では、2009年のサッカー日本代表を報じる記事について、測定不能な要素である「組織力」を挙げ、「日本代表は組織力が強み」という言い方には、「日本のワールドカップ初勝利を報じる記事には〈組織力〉ということばがあったほうが収まりがいい」という「無意識の作為が働いたように思えて仕方ない」と述べ、「〈組織で戦う能力〉の高さは日本人選手の特質にとどまらず、日本人一般の〈国民性〉であり、サッカーに〈生かさない手はない〉国民の長所だと、記事ははっきり主張している」ことを指摘しています。
 そして、ここには「人種」という軸が見えるとして、「『運動能力』を黒人一般についてほめる言い方の背後には、それに対置するかたちで『知的能力は低い』という前提があることが多い」と述べ、スチュアート・ホールのいう「推論的人種差別」の状況を指摘したうえで、日本対ガーナ戦のテレビ実況の分析から、
(1)「身体能力vs.組織力」というテーマが予め設定される。
(2)「身体能力」の意味が曖昧である。
(3)身体能力は「肌で感じる物」とされる。
(4)ガーナの表象にかすかなゆらぎが見られた。
の4点を指摘し、実況アナや解説者は「私たちに語るべき重要なことを選択し、緊張感を高め、世界を理解するための魅力ある物語を提供する」という役割を課せられていると指摘しています。
 本書は、スポーツがメディアでどのような役割を担っているかを教えてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 個人的にはスポーツライターの書く文章が苦手です。最近は一般紙のスポーツ面も「ナンバー」みたいな文章だらけになっているのに辟易しています。とは言え、速報性が求められるスポーツ報道においては、あらかじめテンプレートは決まっていてそこに結果を流しこんでいくので仕方ないのでしょう。最近はそのテンプレートがナンバー風のものになっているということで。
 一方で、テレビのスポーツ中継といえば、昔は休日の午後に点けっ放しにしておくものというイメージだったのですが、最近はどの種目もプロレス中継みたいにアップが多くなった気がしていたのはこういう理由があったんですね。


■ どんな人にオススメ?

・スポーツを斜め上から見たい人。

2011年1月 9日 (日)

行動ゲーム理論入門

■ 書籍情報

行動ゲーム理論入門   【行動ゲーム理論入門】(#1949)

  川越 敏司
  価格: ¥2625 (税込)
  エヌティティ出版(2010/3/17)

 本書は、「実験室内に慎重に再現された経済環境において経済理論やゲーム理論の仮説を実験的に検証する」行動ゲーム理論について解説するものです。行動ゲーム理論では、「限定合理性の理論や学習理論、公平性や互恵性の理論など、様々な立場からそれぞれの理論が提唱されている。そして、それぞれの理論の優劣をめぐって、実験室やフィールドでの実験を通じた各理論のさらなる改良・修正が進んでいる」としています。
 第0章「行動ゲーム理論の概要」では、ゲーム理論が、人間行動の特徴付けとして、
(1)利己的で合理的
(2)利己的で限定合理的
(3)利他的で合理的
(4)利他的で限定合理的
の4つのタイプを想定しているとした上で、行動ゲーム理論は、(2)と(3)のタイプとなると述べています。
 第1章「決定不能性」では、「ゲームの均衡解が存在するにもかかわらず、均衡解を具体的に求めることができない」という「決定不能性」の問題について論じています。
 そして、「ゲーム理論で考えている解(均衡)には、数学や計算機科学の視点から見て、原理的に計算不可能なものが存在する。均衡が存在するにもかかわらず、それを具体的に求めることができないという非決定性が存在する。このような非決定性に直面したとき、プレーヤーの行動はもはや合理的なものではありえない。このことから、ゲームのプレーヤーの行動は、計算の限界という制約条件の下で考えるべきだという考えが自然に生じてくる。均衡が存在しても、その下での最適な行動を計算して求めることができないのだから、ある程度成績の良い行動で満足するしかない。これが、ハーバート・サイモンが唱えた限定合理性である(満足化原理と呼ばれている)」と述べています。
 第2章「混合戦略」では、「実験研究では、果たして混合戦略の近郊について、プレーヤーの戦略洗濯頻度が混合戦略で予測される確率と等しいかどうか、また、ゲームを繰り返しプレーしたとき、毎回の選択が統計的に独立になされているかという点をめぐって、様々な条件や設定の下で検討が繰り返されてきた」とした上で、1点目については、「全体的に見れば、混合戦略で指定される確率と概ね等しくなる」としつつも、2点目については、「繰り返しプレーしたときのプレーヤーの選択は、統計的に独立ではなく、全開までの自分や相手の選択にある程度依存して、系統相関することが示されてきた」と述べています。
 第3章「学習理論」では、「戦略の数が多く、その結果生じうるゲームの結果が無数にある複雑なゲームの場合、全ての均衡を探し求めることは非常に至難の業である」が、「人間の直感の働きには不思議なところがある。どういうプロセスかは自覚しないままで、とにかくある結果が見えてしまうことがある」と述べ、「均衡を計算して求めるのは原理的には可能であるが、実際的には膨大な時間がかかって困難であるという非決定性の問題があるときに、どのようにして均衡に到達すれば良いのか、そのプロセスを与える」ものとして「学習理論」について解説しています。
 第4章「予測と推論」では、「いま実験経済学と行動経済学との間の論争の主戦場は、プレーヤーが学習初期の段階で見せる均衡からの逸脱をどのような理論で説明するかに移ってきている」とした上で、実験経済学の主要な理論として、「各プレーヤーは利己的な動機付けて行動するが、相手プレーヤーの合理性に関しては完全にはわからず、ある種の推論をする」と考え、「この予測の下で最適な戦略を選ぶもの」と考える「レベルK理論」を上げるとともに、行動経済学の主要な理論として、「心理学的ゲーム理論(psychological game theory)」を挙げています。
 第5章「ロジット均衡」では、ロジット均衡を、「伝統的ゲーム理論と限定合理性の理論のどちらが優れているかという非決定性の問題を解消するような、悩める者のための限定合理性理論(bounded rationality for the perplexed)」であると述べ、「行動ゲーム理論におけるデファクト・スタンダードな理論になりつつある。数値計算に頼らざるをえない場合が多いので、その計算が若干面倒な部分があるが、非常にフレキシブルなので、かなり広い範囲のゲームに適用されている」と述べています。
 第6章「コーディネーションとコミュニケーション」では、「複数のナッシュ均衡が存在するとき、そのどれを選ぶべきかという非決定性の問題」に関して、コーディネーション問題とコミュニケーションについて論じています。
 そして、「均衡選択理論では、複数のナッシュ均衡が存在するときに、そのどれを選ぶべきか、あるいはどれが選ばれやすいかに関する基準を設ける」として、代表的な基準として、
・パレート支配基準
・リスク支配基準(ゼルテンとハーサニーが考案したもの)
の2点を挙げています。
 第7章「メカニズム・デザイン論」では、「プレーヤー間の行動を調整し、社会全体にとって望ましい結果に誘導するような制度(メカニズムと呼ばれる)を設計するに当たって、メカニズム・デザイン論ではインセンティブ両立性という条件について考える」と述べ、インセンティブ両立性を、「自分のタイプを偽るような行為が、どのプレーヤーにとっても特にならないようなプランが設計できたとき、メカニズムはインセンティブ両立性を満たしていると言われる」と述べています。
 第8章「社会的学習と制度変化」では、「社会的学習においてよく観察される慣習の性質」の特徴として、ショッターとソファーが挙げた、
(1)慣習の断続化(punctuated equilibria)
(2)社会化(socialization)
(3)慣性(inertia)
の3点を紹介しています。
 エピローグでは、「人間行動を抽象的な理論によって研究するゲーム理論という『書物による研究』から、実験室、そしてフィールドへと広がっていく実験研究を通じて発展してきた行動ゲーム理論が目指すのは、意思決定の際に『わたし自身の内』にある脳内で何が起こっているかだけではなく、『世界という大きな書物の内に』書かれた人間の相互作用の歴史発展と、その痕跡とも言うべき社会の制度やルールの理解でもある」と述べています。
 本書は、人間行動の理解という経済学の本質的な問題に挑む新しいアプローチを解説した一冊です。


■ 個人的な視点から

 ゲーム理論と心理学は同じ人間を扱っていてもかなり離れた分野ではあるのですが、離れた分野だからこそ結びつけたときに得るものも大きいのかもしれません。要注目です。


■ どんな人にオススメ?

・ゲーム理論か心理学に関心がある人。

2011年1月 8日 (土)

インターネットと法 第4版

■ 書籍情報

インターネットと法 第4版   【インターネットと法 第4版】(#1948)

  高橋 和之, 松井 茂記, 鈴木 秀美 (編集)
  価格: ¥2835 (税込)
  有斐閣(2010/1/30)

 本書は、「インターネットを巡る法律問題の専門書としてではなく、あくまで一般的な概説書として基本的な知識を提供する」ことを目的としたものです。
 序章では、「インターネットの急速な普及に対し、法制度の対応はなお大きく立ち遅れていると言わざるをえない」とした上で、「インターネットを包括的に起立した一般法は存在せず、業界団体であるテレコムサービス教会が作成したガイドラインなどにより自主規制が大きな役割を果たしてきた」と述べています。
 第1章「インターネット上の表現行為と表現の自由」では、「インターネット上の表現行為がどのような法律問題を提起するかを概観し、そしてインターネット上の表現の規制を憲法21条の表現の自由保障に照らしてどう評価すべきかを検討」しています。
 そして、「インターネット上での情報の送信・受信行為自体は『通信』としての性格を持っているが、その行為が持つ意味は、コミュニケーションが閉ざされているか、開かれているかで、通信としての意味を持ったり、表現としての意味を持ったりすることになる」として、「憲法が想定していた通信地表現の峻別をもはや放棄すべきか、それともなんとかそれを維持すべきかの選択を迫られる」と述べています。
 第2章「インターネット上の名誉毀損と表現の自由」では、「表現の自由が保護する価値としては様々なものを挙げうるが、通常もっとも重要なものとして指摘されるのは、自己実現と自己統治の価値である」とした上で、自己統治との関係について、「社会的存在としての個人が社会の権力=政治権力を自ら行使するというデモクラシーの理念を表すものである」と述べています。
 また、プロバイダー責任制限法について、「名誉毀損における違法性阻却事由の立証責任に関して曖昧さを残し、解釈に委ねているが、この点は抽象的に論じて結論を出すのは控えるべきで、具体的ケースの公平な解釈を図る過程を通じて判例法理を確立していくことが望まれよう」と述べています。
 第3章「インターネットとわいせつ罪」では、刑法1条の規定日打て、「刑法の場所的適用範囲について基本原則を明らかにしたものであり、いわゆる属地主義の原則に立つことを明示している」とした上で、「日本国内から海外のサーバーにわいせつ画像をアップロードし、日本国内に居るものがこれにアクセスし、その画像をディスプレー上に表示し、またはプリントアウトした場合、犯罪地は国内ということができるか」について、「この場合には、実行行為の一部が国内で行われており、結果をも国内で発生しているので、一応、日本刑法が適用できるものと思われる」と述べています。
 第4章「インターネット上の有害情報と青少年保護」では、「憲法21条によって保障された表現の自由も、公共の福祉(憲法12上、13条)のための制約に服する」として、表現の自由規制について、
(1)検閲・事前抑制
(2)漠然不明確または過度に広範な規制
(3)表現内容規制
(4)表現内容中立規制
の4点に大別しています。
 第5章「電子商取引の法律問題」では、「電子商取引とは何かを正面から定義する法律はない」とした上で、「インターネットなどの電子的手段を用いて契約の申込の誘引、申し込みなどの意思表示、契約の成立から履行に至る過程の全部または一部が行われる取引を電子商取引」と定義しています。
 そして、「電子商取引の特性は、電子データの複製や改変が容易であるという性質から派生するものが大半である」として、「金銭価値の蓄積、伝達という用途を例にとれば、偽造防止の技術が駆使されている現在の紙幣と比較して、電子データは見劣りする」と述べています。
 第7章「電子取引と刑法」では、「「およそ刑罰による規制は、最後の手段(ultima ratio)であって、社会の変化に応じた処罰規定を新設する際にも、できる限り慎重な態度が求められる」として、「現行法の適用範囲を明らかにした上で、旧来の罰則では対応できない場合、ネットワークの特性に応じた新たな犯罪構成要件を設ける必要がある」と述べています。
 第8章「インターネットと知的財産法」では、「著作権法が、公衆からの求めに応じた送信を、受信者自身が行う送信ではなく、公衆への送信の一形態と捉えているのは、これが著作物の利用の観点からは放送・有線放送と本質的に異ならないことに基づくものである」と述べています。
 本書は、インターネットをテーマにしつつも、オーソドックスな憲法の入門書としても楽しめる一冊です。


■ 個人的な視点から

 憲法を一から勉強するのはけっこう骨が折れるのですが、インターネットという特定の分野に憲法がどう関わるか、という視点から見ていくと入って行きやすいかもしれません。


■ どんな人にオススメ?

・憲法を身近に実感したい人。

2011年1月 7日 (金)

天下りの真実

■ 書籍情報

天下りの真実   【天下りの真実】(#1947)

  市村 浩一郎
  価格: ¥1890 (税込)
  PHP研究所(2010/4/16)

 本書は、「公務員という入口と、公益法人をはじめとする外郭団体という出口を結ぶものは、天下りという人の流れであり、随意契約(あらかじめ相手を特定する契約)や補助金という名目のおびただしいお金の流れだ」として、こうした状況を止めるために、「まずはその実態を把握し、こうした官僚組織と民法が作り出してきた"官製土壌"とでもいうべき荒れた大事を耕し、力強い、健全な非営利組織(NPO)が生まれ、育ち、息づくようにしなければならない」という思いから著されたものです。
 第1章「天下りの真実」では、民党の衆議院議員の福島伸享氏が通産省入省1年目の時に、担当する社団法人に対して調査研究を委託させていながら、「その社団法人は、実はノンキャリア組の天下り先」であったため、「独自の調査・研究はど、できるはずも」なく、「入省1年目のキャリアが担当となり、自分たちが業務委託費を出している先の仕事を逆に年度末に、いわば『ボランティア』で請け負」っていた事実を指摘し、「1年生が、役所のOBを養っているという構図がそこにある。その受け皿として、公益法人などが利用されているわけだ」と述べています。
 また、天下りの弊害として、
(1)税金の無駄遣いを生む
(2)官民の癒着や利権の温床かを促進する
(3)天下り先のプロパー社員のやる気を阻害し、組織のモラルを低下させる
(4)政策が歪む
の4点を挙げています。
 そして、「課長から指定職である審議官へとステージを上がる段階で、1回目の振り分け」が行われ、「その時先に漏れた人間たちが、まず天下る」としたうえで、その際に、「秘書、個室、車という3点セットと1400万円以上の年収が必要になる」理由として、「肩たたきをスムーズに行うため」だと述べています。
 第2章「公務員制度改革の真実」では、民主党衆議院議員の後藤祐一氏の指摘として、「公務員が現場で携わるべき仕事が専門化している」点を挙げ、「現場で必要なのはいわゆるキャリアや事務官ではなく、むしろ金融のプロや、弁護士など法律のプロといった、さまざまなプロフェッショナルなのだ」と述べています。
 また、同じく民主党衆議院議員の玉木雄一郎氏の指摘として、「官僚主導から政治主導へ、さらに中央集権から地域主権へという転換を図るために、官僚大移動を行えばいい」と述べ、「地方の行政組織や国会(立法府)の事務方への登用」だとしています。
 阻止t,絵「日本に公務員は多い」が、「ほんとうのプロはあまりに少ない」として、「公務員とは、身分なのか、それとも職務内容なのか」を改めて当必要があると述べています。
 第3章「公益法人と官製土壌の真実」では、「外郭団体とは、現状は言わば官公庁の植民地のような物」であり、「天下りの最大の温床」だとして、「それを根絶するためには、官庁が許可をして設立された公益法人や役所の子会社と言える特殊法人などを大胆に整理していくことが重要だ」と述べています。
 本書は、天下りという現象を切り口として、日本の官庁に切り込んだ一冊です。


■ 個人的な視点から

 たまたまではあるのですが、本書に登場した元官僚の一期目の議員さん達が知っている人ばかりだったのは問題意識の持ち方が皆さん共通しているからかもしれません。


■ どんな人にオススメ?

・天下りは氷山の上の水面から顔を出している部分でしかないことを知りたい人。

2011年1月 6日 (木)

書物の変―グーグルベルグの時代

■ 書籍情報

書物の変―グーグルベルグの時代   【書物の変―グーグルベルグの時代】(#1946)

  港 千尋
  価格: ¥2520 (税込)
  せりか書房(2010/02)

 本書は、「書物におとずれた変化を見つめつつ、歴史・都市・芸術といったテーマを扱ったエッセイ」です。
 著者は、「今おきている変化は、著者や著作権者だけでなく、『書物』と総称されるすべての印刷物にとって、その生産から分配まで、完成品としての書物だけでなく、それが出来上がり共有されるプロセスに影響を及ぼす」として、「書物の生産と書物の消費に関わる、あらゆる人間と人間の集団にとって影響を及ぼさずには置かないという点で、『大変』であるとの認識が、政府による意見書や司法による介入という事態を生んでいるのだろう」と述べています。
 第1部「書物の過去と未来」では、古代中国やメソポタミアの卜占について、「『書』という安定的なメディアとして残される『記憶』は、単に過去の出来事を残すためだけではなく、未来に起こりうることを知り、そのための判断に役立てたいという、『予兆』のためでもあった」と述べています。
 そして、「メディアの中で本ほど、安定しているものは少ない。基本的な形態を変化させる余地が無いという意味で、完成している」と述べたうえで、本が、「それを手にした人間に何らかの運動を起こすもの」であることを「他の芸術よりも敏感に察知して、本の構造を様々な方向へ拡張してきた」者として「メディア・アート」を紹介しています。
 第2部「歴史の痕跡」では、「先史時代芸術に現れる幾何学的模様は、6つの内在光パターンにまとめることができる」として、
(1)グリッド
(2)平行線
(3)ドット
(4)ジグザグ
(5)巣状曲線
(6)細かい網の目
の6点を挙げ、「視角野の神経細胞がもともと持っている構造に、何らかの原因によって自己組織化が起こり、それがイメージとして経験される際のパターンが内在光であり、それは同じ脳の構造を持っている限りにおいて、文化や個人の経験を越えた普遍性を持っている」と述べています。
 本書は、書物を出発点に現代に想いを巡らせた一冊です。


■ 個人的な視点から

 芥川龍之介が「歯車」の中で取り上げたと言われるこの「内在光」ですが、「閃輝暗点」と呼ばれる症状で、光が消えた後に偏頭痛を伴うこともあるそうです。自動車の運転中とかに症状が出るととっても危ないです。
 古代の人達はこの光を一体なんだと思ってみていたのかが気になります。


■ どんな人にオススメ?

・本自体が好きな人。

2011年1月 5日 (水)

マインドマップ デザイン思考の仕事術

■ 書籍情報

マインドマップ デザイン思考の仕事術   【マインドマップ デザイン思考の仕事術】(#1945)

  松岡 克政, 木全 賢
  価格: ¥840 (税込)
  PHP研究所(2010/3/16)

 本書は、一般向けに「デザイン思考」と「ビジネスシーンで使える、きれいなマインドマップのかき方」を伝えようとするものです。
 著者は、本書のテーマとして、
・きれいなマインドマップのかき方を伝えること
・ビジネスの現場でのマインドマップの可能性を知らせること
・デザイン思考の方法論を実践すること
・ひらめきの現場を垣間見せること
の4点を挙げています。
 第1「デザイン思考とマインドマップ」では、「デザイン思考の方法論を実践して創造的解決を生み出すため」には、
(1)経験の拡大
(2)プロトタイプ志向
(3)コラボレーション
の3つの心構えが必要であるとしています。
 また、マインドマップの開発者であるトニー・ブザンが、人間の脳の原則として、
(1)相乗性(脳は情報を掛け合わせる)
(2)成功志向(脳は成功に向けて働く)
(3)模倣性(脳は完璧に模倣する能力がある)
(4)完全性(脳は完全性を求める)
(5)知識志向(脳は常に新しい知識と情報を求める)
(6)事実志向(脳は真実を追求する)
(7)根気よさ(脳は粘り強い)
の7点を挙げていることを紹介しています。
 第2章「マインドマップのバージョンアップを目指す」では、「ユーザーの横で観察するだけではなく、ユーザーと同じ立場に立って、観察者自信の生きた経験を通して重要なことを感じる力のことであり、観察者自信が自らの経験を拡大させるつもりでフィールドワークに臨むこと」である「経験の拡大」について解説した上で、ユーザーの潜在的ニーズは、「意識しなくても、きれいに仕上がる簡単なかき方」であるとしています。
 第3章「事例で学ぶデザイナーマインドマップ」では、この章で伝えたいこととして、
(1)デザイン思考の方法論「評価」を紙面上で再現して、「きれいに仕上がる簡単なかき方」の要素を抽出する過程を見ていただくこと
(2)ひらめきの瞬間を追体験していただくこと
の2点を挙げています。
 第4章「綺麗に仕上げる簡単なかき方」では、「マインドマップをきれいに仕上げたいのは、アイデアをじっくり練りたいときや不安を解消したいとき」だとして、そのような場合には、「マインドマップ作成時間の3分の1程度」をセントラル・イメージの作成に費やすべきだとしています。
 第6章「マインドマップが仕事を楽しくする」では、「きれいなマインドマップは、一人で使っても、チームで使っても周りを巻き込んで」いくことが、「きれいなマインドマップがもっている不思議な魅力」だと述べ、「きれいなマインドマップが持っているまわりを巻き込む力が、チームの連帯感を育み、他部門との会議での調整能力を協力にサポートしてくれる」としています。
 そして、「デザイン思考を身に付け、マインドマップを活用すれば、チームに連帯感が生まれ、まわりを巻き込めるようになり、仕事が楽しく」なると述べています。
 本書は、ビジネスの場で使えるマインドマップを追求した一冊です。


■ 個人的な視点から

 マインドマップは自分でもアイデアをまとめるときに使ったりしているのですが、実はいろいろ細かいルールがあるみたいです。個人的にはデザインとかには無縁というか苦手なので、なんだか遠い世界のような気がしてしまいました。


■ どんな人にオススメ?

・マインドマップをデザインしたい人。

2011年1月 4日 (火)

高校野球「裏」ビジネス

■ 書籍情報

高校野球「裏」ビジネス   【高校野球「裏」ビジネス】(#1944)

  軍司 貞則
  価格: ¥756 (税込)
  筑摩書房(2008/03)

 本書は、「西武裏金事件に端を発し、特待生制度問題にまで発展した」高校野球の「裏」の面を、指導者や強豪校のホンネをインタビューするなどして、「"国民的スポーツ"の闇」を暴いたものです。
 第1章「闇の世界への招待」では、有力な投手の獲得について、「深読みすれば、他校へ持っていかれれば敵になり、自チームが負けることにもつながる」として、「いいピッチャーをたくさん獲ることは、最悪の場合、活躍しなくても敵になって脅威にもならない。これだけでもメリットなのだ」と述べています。
 また、「中学生(ボーイズを含めて)を誘うときの二大条件」として、
・「甲子園の砂」:甲子園に出場した選手が持って帰った砂を、その学校がほしいと思っている選手にプレゼントする。
・「甲子園からの電話」:甲子園球場の現場から、強豪校の監督自らがターゲットの選手の家に、携帯から電話をする。
を挙げています。
 また、今回の「特待生問題」でもさかんにでてきた「ブローカー」について、
(1)高校のOBで、暇がある人がボーイズやリトルシニアを回って選手を見つけ母校に入れる。
(2)OBではないが、時間のある人に高校が頼む。
(3)部長や監督と大学の同期とか後輩で社会人野球までやった人が選手を獲りに回る。
(4)それ以外
の4つのパターンを紹介しています。
 第2章「ボーイズリーグ」では、「高校野球そのもの、あるいは特待生問題を論じるに当たって"ボーイズ"は避けて通ることのできない"入口"」だが、「東日本の野球関係者やメディアは、それをよく分かっていない」ことを指摘しています。
 第3章「ボーイズリーグの魅力とは」では、「有名進学校へ進みたい子どもの親が学習塾へ"投資"するのと同じように、野球でもプロが教える"野球塾"が"投資"の対象になった」として、「大阪(関西圏)の人にとって、野球はある面で投資なのだろう。親が子どもへ期待をかけた投資なのだ。投資に対して"モト"を取る一つの手段が"野球留学"」であろう。自分の子どもを高く、有利な条件で、東北、北陸、四国、九州などの高校へ売ることは正当なビジネスと考えているのではないか」と述べています。
 第4章「学校経営に野球は必要か」では、茨城県立明野高校を3年で再生した山野校長が野球の持つ求心力を実感した経験として、定時制高校の野球部を担当したときに、施設で育った子供達が、夏の高校野球県予選にこだわっていた理由が、「新聞に自分の名前が載るので、もしかしたら、父親か母親が会いに来てくれるかも知れないと、待ち続けている」ことだったことを知ったというエピソードを紹介し、「山野孝雄の学校経営、学校運営の中で高校野球は絶対に必要である、という信念はこうした体験によって築きあげられたものである」と述べています。
 第7章「自民党の高校野球特待生問題小委員会」では、「この会議の前後、重大なことが水面下で話し合われた」として、「もし、日本高野連がかたくなな姿勢を改めないなら、私立学校を中心に『第二甲子園』を作る」という構想が検討されたことを紹介しています。
 第8章「高校野球は、これからどうなるか」では、「野球の世界で"ボール"は、政治の世界での"絵画"と同じ性格をもっている」として、「1ダース単位のボールで値段がつく」ため、「野球の世界で"ボール"は"お金"なのだ」と述べ、「ボールを含めてキックバックがチームの監督や、関係者に行く」ことを指摘しています。
 本書は、高校野球の裏側に迫った一冊です。


■ 個人的な視点から

 アメリカの黒人の子どもが、勉強して出世することよりもプロスポーツ選手になろうとする話を聞いたことがありますが、似たような意味合いで大阪の野球少年の親にとってのボーイズリーグへの投資があるのかもしれません。


■ どんな人にオススメ?

・高校野球は今でもドカベンみたいな世界だと思っている人。

2011年1月 3日 (月)

サムライとヤクザ―「男」の来た道

■ 書籍情報

サムライとヤクザ―「男」の来た道   【サムライとヤクザ―「男」の来た道】(#1943)

  氏家 幹人
  価格: ¥819 (税込)
  筑摩書房(2007/09)

 本書は、「任侠の精神も武士道も本質的には閉鎖的集団の中の内輪の倫理であり美学に過ぎない」という観点から、サムライとヤクザの関係を跡付けたものです。
 第1章「男とはなにか」では、「我々が『男』の本家本元としてあざやかにイメージするのは、学生でも会社員でももちろん公務員でもなく、なによりヤクザ、任侠の世界の男たちではないだろうか」とした飢えで、江戸初期の文献に現れる「男道」の語は、18世紀に入ると「武士の間で用いられなくなる」と述べています。
 第2章「逸平と金平」では、「所持する刀に『生過二十五』の文字を彫り、その刀で盛んに辻斬りを行った」という逸話で知られる大島逸平や、愛用の槍に「潔く討ち死にしたい」という武士の気概をこめた二種の歌を刻んだ友田金平について、「かぶき者の首領と剛勇の武士は、すくなくとも非常の死を待望した一点において、情念を共有していた」と述べています。
 また、「かぶき精神」で知られる前田慶次郎を上げ「血なまぐさい放埓と奇抜な行動によってめいっぱい存在を誇示した男たちに、武士も庶民もなかった。戦乱の時代を体験した民衆は、精神的にも物理的にもまだ十分武装解除されず、一方武士たちの胸には、激しい闘争心と強烈な自己顕示の情念が滾っていた」と述べています。
 第3章「任侠の精神」では、「江戸末期には、江戸の侠客たちの任侠精神もずいぶんと風化し、言葉だけのものと化していたらしい」とした上で、「強気をくじき弱きを助ける(という)修正。復讐に重きを置き、博打を愛し、そして権力者の手下と非合法な反抗者という二つの顔を併せ持つ点においても」、「中国遊侠の心意と行動パターンの多くは、わが国のそれと相通じる」と述べています。
 第4章「男の色」では、「本書で言う『男』の世界では、古来、同性愛的習俗が色濃く観察される」として、永井荷風の作品から、「おかまは武士道の弊の一端なり」という一文を取り上げた上で、高等師範学校付属学校尋常中学科の慣習として、「声変わりすると年少の生徒を性的にもてあそぶ『男色の権利』を獲得し、その祝福に胴上げされる」というエピソードや、『木犀の花』という作品において、「新校長に『嘉納先生という柔術家』が熊本の高等中学校長から転任してきたのを機に、中学校では毎日学科終了後1時間、柔術の稽古が行われるようになり、それから生徒の間で男色の風が広がり始めた」とするエピソードなどを紹介しています。
 また、「男色の習俗は武士だけでなく、かぶき者や男だてなど武士以上に好戦的で自身の戦闘能力の誇示に懸命だった『男』たちの間でも、顕著だった」として、「権力者も庶民もふつうに男色。なかでも武士の場合は特別で、前述のように、それは単なる性的享楽ではなく、戦士の教育と絆づくりに深く関与していた」と述べています。
 さらに、自傷の習俗にも触れ、「戦国から江戸前期にかけて、武士や男伊達の間で流行した男色には、性愛や戦士の習俗という要素に加えて、自らの四肢を血に染め傷痕の数を競う奇妙な自傷の情念が伴っていた」と指摘した上で、「このような血なまぐさい男色の習俗がいつまでも続いたわけではない」として、「もはや優秀な戦士を常時必要としなくなった泰平の世の風潮が、流血を伴う性愛を恋の舞台から引き摺り下ろした」として、18世紀における「男色から女色へ」の性愛の趨勢を指摘しています。
 第5章「新しい男たち」では、「17世紀のかぶき者や男だてを継承する新しい『男』たち」として、「ロクシャク(陸尺または六尺)」と呼ばれた駕籠かきの男たちを挙げ、「傍若無人の武闘性と奉公先(所属)を超えた仲間同士の連帯」を指摘しています。
 そして、「江戸の大名や旗本は、武闘的集団を過信として内に抱えるのではなく、渡り奉公人の陸尺や徒歩の『男』たちをお供として外に(周縁に)ぶら下げることで、日々失われゆく武威を取り繕うとしていたとも解釈できるだろう」と述べています。
 第6章「されど武士の一分」では、「18世紀にはいると非武闘化はさらに進み、闘わない(あるいは満足に闘えない)武士が一般化した」ため、「そんな状況を嘆き、武士の非『男』化に微力ながら歯止めをかけようとする武士も少なくなかった」として、儒者で兵学者、国学者としても知られる松宮観山が著した『武備目睫(ぶびまつげ)』について、「泰平ボケした武士のための非常時マニュアル」として、「戦士の気性を忘れ、武闘能力を顕著に低下させながら、にもかかわらず面目を取り繕わねばならない当時の武士の生態が、あざやかに浮かび上がる」と述べています。
 そして、「18世紀半ばの現実は、法の遵守と平和の維持を求め、武士の心得の第一は闘争を引き起こさず紛争に巻き込まれないことだった」として、「ここに述べられているマニュアルのほとんどが、"武士たるものは、たとえ心身ともに戦士の資格を失いつつあっても、武士の対面だけは守らなければならない"という姑息な原則の上に立っている」と指摘しています。
 第7章「悪の華」では、鼠小僧次郎吉について、「渡り奉公の『男』たちが主流となり、警備が行き届かなくなった大名旗本屋敷の『穴』を存分に利用して武家屋敷荒らしを繰り返した」と述べた上で、「博徒無頼の徒を取り締まる側のインテリ幕臣たちが発した意外な驚嘆や賛辞」の背景には、「どうしようもないほど『男』を衰微させていた旗本御家人に対する、ため息まじりの諦めもあったに違いない」と述べています。
 第8章「戦士失格」では、「ほとんどの幕臣は、幕末の緊迫した状況の下でも勇猛な戦士に豹変しなかった」結果、「幕府は、江戸の博徒や大名屋敷に雇われていた陸尺(駕籠かき)を歩兵として採用したため、「幕府兵の死体を調べると、進退に派手な彫り物を施した者がいたし、ランドセル(背嚢)に博打のさいころを入れていた者もいた」が、「そんな彼らが、ひとたび実践となると、銃を手にラッパの音に敏速かつ性格に反応し、見事な戦いぶりだった」と述べています。
 また、アメリカ連邦政府の検察官が、「ヤクザはあたかも自分たちが誇り高き武士道精神の継承者であるかのようにふるまい、不思議なことに日本の一般大衆もそれを認めている風がある」という印象を抱いたと述べています。
 第9章「ノーブレス・オブ・オブリージュ、ヤクザ」では、極道ぞろいのヤクザの世界における「仁義」の目的について、「仁義も親分(組長)と子分(組員)の身分差を確認し、子が親を裏切らないようにするために不可欠なもの」だとして、「仁義(任侠道)は、倫理的規範や美学という以上に、現実に組員を統率するために『掟』としての役割を果たしている」と述べています。
 そして、「多分に虚像である新渡戸の武士道が、何故か世界に誇るべき日本精神として知識人の間で受容されたように」、「必ずしも事実に基づいていると言いがたい任侠精神の幻想もまた、この国の人々の間に深く浸透してきた」と述べています。
 本書は、サムライとヤクザがともに神聖視する「男」の虚像を暴いた一冊です。


■ 個人的な視点から

 するってえと「歴女」っていうのは、BLとものすごく相性がいいってことなんでしょうか。時代を超えてそういう匂いを嗅ぎつけてしまうのかもしれません。任侠BLというのもジャンル的にはあるようなんですが、それは「任女」? それとも「ヤク女」?と呼べばいいのか?
 やたらに「男らしさ」にこだわる人も多いこんな世の中ではありますが、その根底には同性愛的な志向が隠れているかと思うと妙に納得しちゃえるのかもしれません。


■ どんな人にオススメ?

・「男らしい」とか「男の世界」が好きな人。

2011年1月 2日 (日)

話は5行でまとめなさい―書く・話す・要約する すべてに使える必勝のストラクチャー

■ 書籍情報

話は5行でまとめなさい―書く・話す・要約する すべてに使える必勝のストラクチャー   【話は5行でまとめなさい―書く・話す・要約する すべてに使える必勝のストラクチャー】(#1942)

  横江 公美
  価格: ¥1365 (税込)
  ビジネス社(2009/9/17)

 本書は、「基本構造を知ると、あれあれ、というまに、簡単に、言いたいことが伝わる文章が書けて」しまうとして、言いたいことが伝わる文章の書き方を説明しているものです。
 第1章「基本の5行を書く」では、「文章もサンドイッチと同じで3層構造」だとして、
(1)はじめに
(2)本文
(3)おわりに
の3点を挙げています。
 第2章「5段落エッセイはわかりやすい」では、自分が加工とする文章のモデルを用意した上で、「導入部」「本文」「結論」に分け、本文部分がどのように構成されているかを見つけるとする手順を紹介しています。
 第3章「脳内熟成を導く5段階エッセイ・トレーニング」では、5行エッセイも書けないのは、「リサーチが楽しくなって、文章が書きたくなる状態」である「脳内熟成」の段階に至っていないからだとして、リサーチの方法について解説しています。
 第4章「書き出しは、『仮』で書く」では、書き始めは、「ようやくと魅力の2つを兼ね備えなければならない」とめ「とにかく難しい」として、「なかなか書けないときに、書き始めるコツ」は「あきらめ」であり、「最後に完成させることにする」と述べています。
 第5章「『1人ディベート』で論理を構築する」では、「基本型に、もう1つのエッセンスをプラスするだけで、文章の質が上がります」として、「自分の言いたいことについての反論」を自ら挙げる「批判的検討」について解説し、「プチ反論には、『賢そうに見えて、かつ批判をかわす』、という一石二鳥の効果がある」としています。
 第6章「ストーリーを入れる」では、「"私"を入れることは、一種の勝負です。しかも、書くのも本当に難しい。効果も高いが、リスクも高い。成功すれば効果は高いので、"程良い私"を使った物語づくりに挑戦してください」と述べています。
 第7章「文章の最終チェック」では、文章の流れに不安を感じる場合に、「文章をもとに、パワー・ポイントでプレゼン資料をつくって」みることを進めています。
 本書は、言いたいことを伝える文章を書きたい人におすすめの一冊です。


■ 個人的な視点から

 文章術の本は多数ありますが、とにかくいい見本を見つけて同じように書いてみる、という「型の学び方」こそが本書の本質のような気がします。そうすると文章だけじゃなく仕事術だったり、交渉術だったり、絵の描き方だったり、曲の作り方だったり色々と応用が効きそうです。


■ どんな人にオススメ?

・「型」をきちんと身につける方法を学びたい人。

2011年1月 1日 (土)

鉄道と日本軍

■ 書籍情報

鉄道と日本軍   【鉄道と日本軍】(#1941)

  竹内 正浩
  価格: ¥819 (税込)
  筑摩書房(2010/9/8)

 本書は、「鉄道事業は、明治以降、戦前・戦後を通じて、最大の国家プロジェクトだった。なおかつ鉄道は、対外膨張から、敗戦・復興・高度成長とめまぐるしく変転した日本の、近代という時代を象徴するものでもあった」として、「明治以降の国策・国防という面」から、「軍事を含めた国策に着目し、日本の近代の一面を浮き彫りに」しようとするものです。
 第1部「西南の役と鉄道」では、「ペリー艦隊が電信機と共に蒸気機関車の模型を持参していたことは象徴的である」として、「鉄道システムは19世紀の先進文明の象徴であり、機関車というハード面から運行システムといったソフト面まで、一体で売り込むことのできる旨みのあるプラントであった」と述べています。
 また、「西南の役は、ただの局地戦ではなかった」として、「全国各地の不平士族の動向を監視しつつ、当時の陸海軍と警察のほとんど全精力を動員した総力戦の様相を呈していた」と述べ、「運ばれたのは人員だけではなかった。兵器や軍需物資も定期貨物列車や臨時列車で運ばれて言ったのだ。西南の役における迅速な兵員・物資輸送に鉄道が果たした役割は、決して小さくはなかった」と述べています。
 第2部「日清戦争と鉄道」では、陸軍大学教官として明治18年に来日したドイツ陸軍のメッケル少佐が、それまでの帝国陸軍の海岸防御方法である、「国土の重要地点に砲台を多数建設して、海岸に攻め寄せる敵艦を撃滅する固定防御法」に関して、「敵上陸という有事に際しては、迅速に部隊を上陸地点に移動、集中させた部隊で上陸軍を撃破する方が効率的な防衛策と主張」し、「その後の国土防衛策は大きく変容していく」と述べています。
 そして、参謀本部が、鉄道の改築建議書を鉄道局に諮問したにもかかわらず、「軍部の要求に沿った線路選定、軌間の変更、複線化、停車場の改築・車両の改造は、いずれも膨大な費用を要するため、不可能」と鉄道局が答申したことについて、参謀本部が、明治21年に、「それまでの要塞偏重の思想から、鉄道を活用した兵力の集中移動による敵撃破へと重心を移す」ことを盛り込んだ『鉄道論』を刊行し、世論喚起を試みたとしています。
 第3部「日露戦争と鉄道」では、日清戦争後に生まれた鉄道大隊について、日清戦争において、荷駄や荷馬車だのみの貧弱な補給体制に苦しんだ陸軍が、「鉄道の軍事輸送の必要性を痛感」したと述べています。
 また、宣戦布告4日後の明治37年2月14日には、「鉄道軍事供用令に基づき、東海道線は、軍事輸送のため、『特別運行』とよばれる戦時運行体制に移行した」と述べ、「幹線の主要停車場には、効率的に兵馬・物資を輸送するための設備・制度」として、「停車場司令部」などが設置されたことを述べ、一方で、「一般旅客や民感輸送は極端に圧迫」され、東海道線では、「新橋-神戸間を16往復とし、一般旅客向けはわずか2往復で26時間運転だった。すべて各駅停車である」と述べています。
 本書は、日本の近代化の中心であった軍事と鉄道がどのような関わりを持ってきたのかを解説した一冊です。


■ 個人的な視点から

 技術系のオタクでも双璧をなすミリタリーオタと鉄道オタの幸せな結婚ということで明治大正という時代は興味深いのではないかと思います。結構掛け持ちをしている人は多いのではないかと思いますが、こうやって体系的にまとめられる人は少ないのでしょう。


■ どんな人にオススメ?

・重要な軍事政策としての鉄道を語りたい人。

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