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2011年5月

2011年5月30日 (月)

IT汚染

■ 書籍情報

IT汚染   【IT汚染】(#2023)

  吉田 文和
  価格: ¥777 (税込)
  岩波書店(2001/7/19)

 本書は、「世界に広がるIT生産と、それが引き起こす環境問題を、IT製品の生産・流通・消費から廃棄に至るまでの一貫したプロセス」のなかでとらえようとしたものです。
 第1章「IT生産と環境問題」では、「ITと環境問題との関係には、正負の両面がある」として、「ITが環境負荷を低める面と、ITが環境負荷を高める面」の二面性を正確に捉えておく必要があるとしています。
 また、半導体の製造で引き起こされる環境問題について、
(1)使用される化学物質の安全性の問題
(2)洗浄に使われる有機溶剤やフロンなどの問題
(3)水利用の問題
(4)半導体産業の廃棄物の問題
の4つに大別しています。
 そして、「高度微細加工のために半導体産業に使用される化学物質は安全性に問題が多く、これによってさまざまな労働安全衛生問題や爆発火災などを引き起こしている。そして半導体をより『クリーン』にするための洗浄に使う有機溶剤やフロンは、土壌・地下水汚染と地球温暖化をもたらしてきた。さらに大量の水利用の問題や半導体産業の廃棄物問題も深刻である」と指摘しています。
 第2章「アジアに広がるIT汚染」では、韓国のハイテクIT産業について、「国の輸出産業の中心をなし、もっとも重視される部門であるにもかかわらず、環境への影響は明らかではない」としながらも、「ハイテクIT産業固有の化学物質の安全管理や土壌・地下水汚染対策は、十分とりくまれていない」と述べています。
 また、タイについて、「日系企業が村を変えた」といわれるように、工業団地がそれまでの農村生活を大きく変えたとして、「工場でストレスの強い仕事を続けているために、工場外でハイリスクの生活スタイルが一部では広がっている」ことを指摘しています。
 著者は、「アジア各国へIT生産が拡大するにともなって、IT生産がもたらす様々な環境問題が広がりつつある」ことを指摘しています。
 第3章「日本のIT汚染」では、「工場跡地や廃棄物処理場跡地などの土壌・地下水汚染」がクローズアップされているにもかかわらず、最大の問題は、「アメリカのスーパーファンド法のような有害廃棄物汚染地の浄化を定めた法体系が、日本の国レベルでは存在していないこと」であると述べています。
 また、千葉県君津市の地下水汚染について、「全国に与えた衝撃は大きく、1989年の水質汚濁防止法一部改正(地下水の規正)のきっかけとなった」として、その浄化対策について、
(1)汚染源を除去するために、廃棄物と汚染地層の掘削除去と、汚染地層を加熱し風で乾かす処理が行われた。
(2)工場内から市街地へ汚染物質が拡散するのを防ぐために、鉄板による締切(地層汚染対策)と汚染地下水が拡散しないように汲み上げるバリア井戸システムが作られ、汚染物質や汚染地下水が地層(帯水層)から強制排出された。
(3)市街地の地下水を含んだ帯水層に拡散してしまった汚染物質を除去するために、公共用井戸水を汲み上げ、下から風を吹き上げて、トリクロロエチレンを揮発させ活性炭に吸着させている。
などの点を挙げています。
 第4章「あふれ出る使用済みコンピュータ」では、「使用済みIT製品の多様な健康・環境問題は、埋め立てと焼却を避け、分別・回収制度を作れば、大幅に減らすことができる」が、「現段階では回収率は3割程度にとどまっている」ことを指摘しています。
 そして、「技術面では、リサイクルできるように製品をあらかじめ設計することで、部品の性能向上に応えられるようにしたり、また有害物質の代替品を開発するといった方向に向かっている」と述べています。
 本書は、クリーンなイメージのあるITがもたらす環境汚染を指摘した一冊です。


■ 個人的な視点から

 私たちはITのおかげで環境負荷が低くなる、という面ばかりを聞かされてきていますが、IT機器を作る過程では環境負荷が高くなる、という話は、燃費のよいエコカーに乗るためにどんどん車を買い換えることが推奨されているのに似たような話に聞こえます。


■ どんな人にオススメ?

・ITは「クリーン」だと思う人。

2011年5月29日 (日)

「理科」で歴史を読みなおす

■ 書籍情報

「理科」で歴史を読みなおす   【「理科」で歴史を読みなおす】(#2022)

  伊達 宗行
  価格: ¥861 (税込)
  筑摩書房(2010/4/7)

 本書は、「理科の思考力で歴史を見よう」とするものです。
 第1章「縄文の空の下で」では、「約20年前に誕生した新人、ホモサピエンスはその後、種としての進化をしていない」として、「古代人を、知力が欠けている野蛮人、と見ると間違いを招く。頭脳は我々と同じなのだ」と述べて今sう。
 そして、「縄文人は35センチメートルを単位とする物差しを使っている」として、「縄文尺があったということは単にその事実に止まらない大きなインパクトがある。それは推定される当時の文化について想像以上の水準を示唆しているからである」と述べています。
 そして、「三内丸山の六本柱に見られる一辺の4.2メートルは、35センチメートルの12倍となっている」ことについて、「これが他の数ではなく、12であることに大きな意味がある。他でもない。古代オリエントをはじめとして知的文化の萌芽とされる地域での数の数え方に十二進法が極めて重要な位置を占めるからである」と述べています。
 著者は、「まだ現代人には見えないが、指導力があり、尊敬される匠達によって技術も宗教も統合的に縄文世界は動いていたことだろう」と述べています。
 第2章「古代文化の形成と科学」では、「弥生人は何者か」という問について、「大陸における中国民族の拡大によって押し出されたノン・チャイインーズであることはたしかであろう。スバリ言えば大陸難民だ」と述べた上で、「弥生中期から後期にかけていっせいに石器がなくなる、つまり石器終末期になることで、これは鉄器時代が完成しているということだ」として、「その頃が、魏志倭人伝に出てくる『倭国大乱』の時代だ」と述べています。
 第3章「現代数詞の成立」では、「万葉集での数遊びで開花した、数とたわむれる、ともいうべき日本人の感性は、注目すべき特性であって、以後のに本社界にいろいろな形で発展していく」と述べています。
 第4章「金銀銅の社会史」では、現在、「天然資源の少ない日本としては」という言葉が使われていることについて、「ほんの二百~三百年前まで、日本は金、銀、銅について世界一の産出国だった」と述べています。
 そして、749年に陸奥で砂金がとれたことについて、「陸奥の砂金発見のショックはあらためて日本全体での砂金探しの勢いを高め、そして取り易いところの資源を取り尽くしたのではなかろうか」として、「西日本の手軽にとれる砂金は10~11世紀頃までにはなくなってしまったように見える」と述べ、「やがて台頭する武士は東国に豊富な砂金を見つけ、それを資金源に発展する」が、「江戸期に入り、この金も枯渇してくる」として、「大まかに言えば金は西日本の五百年、その後の東日本の五百年、後述する黄金のジパング伝説を残してそれぞれの幕を閉じたのである」と述べています。
 また、「日本の金属史でおもしろいのは10~12世紀における銅資源問題である」として、銅材の輸入にあたり、「鉱石素材としてではなく大陸の銅銭を大量に輸入してこれを銅材料」とし、「その購入代金として金、銀が支払われた」と述べ、「こんな取引を平気で行うだけの金銀が当時の日本にあったのだ」としています。
 さらに、新井白石の自叙伝である『折りたく柴の記』に、「日本産の貴金属がいかに海外に流出したのかがのべられている」として、「17世紀後半だけで金が240万両、銀37万貫、銅に至っては約7万トン相当の金属が流出し、その前の50年を入れた約百年間に国内金の4分の1、銀の4分の3が海外に吸い取られたという。一時や銀や銅の輸出は世界でトップだったらしい。日本にこのような顔があったことなど、今日では全く想像もできない話である。鎖国時代、こんなとんでもない交易が長崎を通しておあったのだ。鎖国は日本に情報不足をもたらし、当時の欧州貴金属の相場も知らないでの交易だったから、これらの金属は実質半値以下で持って行かれたようである」と述べています。
 本書は、「暗記科目」と呼ばれる日本史が、どのように動いてきたのかを理科の視点で解明しようとする一冊です。


■ 個人的な視点から

 日本が「黄金の国」というのは、胡散臭い旅行記の記述に過ぎないと思われがちですが、当時の交易の状況から考えるとあながち嘘でもなかったようです。


■ どんな人にオススメ?

・「歴史」は人文系の専売特許だと思っているいhと。

2011年5月28日 (土)

リサイクル幻想

■ 書籍情報

リサイクル幻想   【リサイクル幻想】(#2021)

  武田 邦彦
  価格: ¥693 (税込)
  文藝春秋(2000/10)

 本書は、「工学の立場から、真剣に『環境と資源』に焦点を当てた考察をし、『来るべき循環型社会とは何なのか』を明らかにし、21世紀の日本には『環境問題は大切だが、不景気もイヤだ』というジレンマが存在しないこと」を示そうとするものです。
 第1章「なぜリサイクルが叫ばれるのか」では、「新しい価値観への転換を急いでいたので、私たちの将来を約束するという『目的』を達成するのにリサイクルが現実的に実施しうる『手段』であるか否かは、きちんとは検討されず、手段が素早く目的化し、さらには『循環型社会』の構築へと議論が進んでしまった」と指摘しています。
 そして、「環境問題の浮上やリサイクルの登場は急速で社会の反応も激しかったので、『地球環境は守らなければならない』『一度使った物質をそのまま捨てるのはもったいない』という程度の素朴な希望が、そのまま現実の行動につながったり、解決手段の一つとして短縮されたりしました。『生活者の実感』などの新しい時代感覚も一緒になって、現在の混乱した状態を作り出した」と指摘しています。
 第2章「今のリサイクルは矛盾している」では、「使用したら材料は劣化する」という原則を無視してリサイクルすることを「リサイクルの劣化矛盾」であると述べた上で、「より下位の用途」に使用する「カスケード・リサイクル」について、「環境を守るためのリサイクル」が「リサイクルのためのリサイクル」に転化する典型的な例だとしています。
 そして、「ペットボトルを石油から作り消費者の手元に届けるまでの石油の使用量」が約40グラムであるのに対し、「このボトルをリサイクルしようとすると、かなり理想的にリサイクルが進んでも150グラム以上」だとして、「リサイクルによって、かえって資源が多く使われるという典型的な例」だと述べ、「本来資源を有効に使用し、環境汚染を防止するために行うリサイクルが『すればするほど資源を使い、ゴミを増やす』場合」について、「リサイクルの増幅矛盾」だと指摘し、この原因は、「薄く広がったものは資源として集めることができない」という分離工学の原理によるものであり、「リサイクルしやすい社会システムができあがれば改善される」という「社会システムの問題」でもなければ、「みんなが心を合わせれば解決できる」という「国民の意識の問題」でもないとしています。
 第4章「『分離の科学』から労力を知る」では、「リサイクルや循環型社会を考える上に必要な分離工学の知見」を取り上げ、その理由として、
(1)リサイクルをするとかえって環境を汚すという矛盾が生じるし、循環型社会を作ると大変な苦労が待っていると予想される科学的理由を知るため
(2)そもそも分別・分離とはどういうことなのか、理解や分析が欠かせないため
の2点を挙げています。
 そして、資源の利用という点では、
(1)歴史的に人間は散らばっているものを資源として利用したことがない
(2)割合の少ないものから資源を取り出すには労力がいる
の2つの原則があるとしています。
 第6章「来るべき循環型社会を考える」えでは、「論理的、科学的に整合性を保ちつつ、まじめに真剣に、そして専門家の倫理に悖らないように注意し、『循環』に焦点を当てて、近未来の日本はどうあるべきか」の解答を探ったものとして、
(1)人工鉱山を造る
(2)長寿材料を選び長寿設計をする
(3)日本の気候風土を活用する
(4)「情報」の物質削減効果を利用する
の4点を挙げています。
 本書は、真剣にリサイクルを見つめた一冊です。


■ 個人的な視点から

 リサイクル自体が目的化してしまうと、もはや宗教に近くなるというか、「一生懸命やっている人の気持を考えろ!」とかのお叱りをいただいてしまうのですが、「地球のために」と言ってかえって環境に負荷をかける姿はまさに「お為ごかし」に他ならないと思うのです。エコキャップとか言ってペットボトルの蓋を集めてみたり。


■ どんな人にオススメ?

・ペットボトルの蓋をどうしたら良いか迷う人。

2011年5月27日 (金)

クルマと道路の経済学

■ 書籍情報

クルマと道路の経済学   【クルマと道路の経済学】(#2020)

  柴田 徳衛, 中西 啓之 (編集)
  価格: ¥2100 (税込)
  大月書店(1999/09)

 本書は、「日本ですさまじく普及した自動車、それにともなって著しく膨れ上がった道路投資、これをどう考えるべきなのか、どのようなメカニズムになっているのか、これからどうするべきなのか」を論じたものです。
 第1章「自動車と高速道路事業」では、日本の高速道路を先進国のそれと比較した場合、「必ずしも大きく遅れているわけではないが、その水準はあまり高くはない」理由として
(1)日本の高速道路の歴史は非常に浅い
(2)日本の地形と都市の構造
の2点を挙げています。
 また、自動車と道路のデメリットとして、
(1)公害
(2)自然環境の破壊
(3)交通災害による死亡、傷害
の3点を挙げています。
 第3章「道路建設の財源とマイナス要因」では、建設産業従業員が日本の全雇用労働力の1割を占め、とくに道路建設がその大きな比重をもつことについて、「多数の季節労働力が臨時的に利用されている」ことを指摘し、「現在、零細規模の農村では、農産物価格の低迷、減反などによる現金収入不足に悩み、こうした道路・橋梁の季節的建設・補修事業が重大な関心事となっている」と述べています。
 第4章「道路計画と決定のメカニズム」では、「まず総額ありきで無謀に決められる道路計画は、戦後の道路行政のなかで形作られたものである。それは、ゼネコン、鉄鋼、セメントなどの素材産業、金融機関そして何よりも道路整備を国民の税金で保障させることによって自動車生産を急増させ巨大な産業に成長した自動車メーカーに巨額の利益をもたらした」と述べています。
 また、東京湾横断道路が本格的に事業化されるきっかけとして、1983年の宮中におけるムバラク・エジプト大統領の招宴であったと述べています。
 第5章「日本の建設産業と道路」では、「戦後の混乱と清算の急減の中で数百万人も軒簿に膨れ上がった失業者を吸収するために行われたのが、道路整備事業を中心とする公共土木事業であった」と述べています。
 また、「地方自治体が実施する道路事業では今後、『日本型PFI』と呼ばれる新しい民活方式が取り入れられる可能性が大きい」として、「これが、道路整備及び管理からの公共=官の後退・徹底を進め、住民への公共サービスの低下、有料制による住民負担の拡大をもたらすことは明らかである」と述べています。
 本書は、相乗効果で増え続け、延び続けてきたクルマと道路がどこに行くべきかを考えた一冊です。


■ 個人的な視点から

 何十年か後に1万人に何人かが癌になるような類のリスクに敏感であることは悪いことではないですが、交通災害での死亡や障害のリスクに麻痺してしまうことは怖いことです。


■ どんな人にオススメ?

・クルマがあるのが当たり前と思っている人。

2011年5月26日 (木)

日本の近代化遺産―新しい文化財と地域の活性化

■ 書籍情報

日本の近代化遺産―新しい文化財と地域の活性化   【日本の近代化遺産―新しい文化財と地域の活性化】(#2019)

  伊東 孝
  価格: ¥735 (税込)
  岩波書店(2000/10/20)

 本書は、1993年に重要文化財に新たに設けられた種別である「近代化遺産」について、解説しているものです。
 第1章「日本の近代化遺産と世界遺産」では、1996年に文化財保護法が改正され、重要文化財の定義の中に、「土木構造物」が明文化され、重要文化財の主要な対象となったと述べています。
 第2章「地域環境デザインの思想」では、「近代につくられた土木構造物には、意匠的・デザイン的に工夫の凝らされたものも多く、"装飾橋梁"といえる橋も存在した」として、「その構造物の歴史や場所、当時の社会状況などを考えると、隠された意味が解明できるものも少なくない」と述べています。
 そして、「全国的にみても、東京ほどしっかり橋詰広場が確保されたところはない」としています。
 また、「東京に近代の土木構造物はいろいろあるが、排水塔のように造詣性が高く、象徴性のある土木構造物は少ない」と述べています。
 第3章「都市を支える土木遺産」では、「視覚心理学や景観工学の用語に、『図』と『地』という言葉がある」が、「土木構造物は、どちらかといえば『地』になる施設が多い」と述べています。
 第4章「今に生きる産業遺産」では、「『もの』があることは、人の感動を呼び起こす。『もの』があって、はじめてわかることも多い」として、各地に残る岩永三五郎の遺構が、「三五郎研究と詳細調査の必要性を再確認させるとともに、ゼネラリストとしての三五郎を浮かび上がらせてくれた」としています。
 第5章「市民運動が守る産業土木遺産」では、「旧士幌線のコンクリート・アーチ橋の保存は、近年まれにみるほどうまくいった事例である」として、「保存会の設立後、一年で保存が決まったという時間的な早さ、住民・行政・研究者・民間コンサルタントと四者の連携が上手くいったことなどが挙げられる。所有者である国鉄清算事業団の理解もあった。しかも近代化遺産のあたらしい保存制度ともいえる保存基金条例を制度化し、原始を得たことも大きな成果である」と述べています。
 第6章「地域の活性化資産」では、木造屋根付き橋や沈下橋について取り上げた上で、大分の石造アーチ橋について、総数は500を越えるといわれ、「大分県ほど、石造アーチ橋が多く、しかも昭和の戦前期まで石造アーチ橋を架設していた地域は他にない」と述べています。
 第7章「地域環境と共生する」では、「建物とちがって文化財としての土木構造物の維持管理は、いろいろな問題を抱えている」として、「現役を引退した施設は、文化財として特別に維持管理しなければならない」ことを指摘しています。
 本書は、近代化遺産のおもしろさを伝えてくれる入門書です。


■ 個人的な視点から

 一昔前には、「ただの古い物」に過ぎなかったものが、時をさらに経ることで「遺産」にまでなってしまう。あと50年も経つと、また違ったものが「近代化遺産」になってくるのでしょうか。


■ どんな人にオススメ?

・日本の「近代化」を物で体感してみたい人。

2011年5月25日 (水)

水道の思想―都市と水の文化誌

■ 書籍情報

水道の思想―都市と水の文化誌   【水道の思想―都市と水の文化誌】(#2018)

  鯖田 豊之
  価格: ¥754 (税込)
  中央公論社(1996/04)

 本書は、「日本では、水道の原水を地表水に求めて塩素などの薬品で浄化するのに対して、ヨーロッパでは、地表水を敬遠し、湧水や地下水に頼って薬品使用を避ける傾向がみられる」という水道の思想の違いを、歴史的背景の違いから論じたものです。
 第1章「前近代の水道」では、「古代ローマの没落とともに都市の時代は終わった」として、「再び水道に対する欲求が生まれるのは、農村的世界に都市が復活してからだった」と述べています。
 また、江戸の玉川上水とロンドンのニュー・リヴァーについて、「17世紀の段階で良質水源を遠くに求めようとする執念の現れだった。暗渠の水道ではなかったにせよ、これほどの規模の飲用水専用の人工的水路は他には余りみられなかった」と述べています。
 第2章「きめ細かな水源別対応」では、「19世紀後半の上・下水道論争から100年以上も経過した現在においても、ヨーロッパ諸国の水道関係の法規では『水源の選択』が重要な項目になる」一方で、「日本では1980(明治23)年の『水道条例』、1957(昭和32)年の『水道法』にも『水源の選択』に関する項目は存在しない」ことを指摘しています。
 また、「現在のヨーロッパでは、地下水なかでも被圧地下水が水道水水源の第一選択であるが、19世紀後半には必ずしもそうでなかった」として、「地下水の処理技術が確立されてなかった」ことを理由として挙げています。
 さらに、ロンドンには「浄水時間を短縮しようとする発想」が存在しないとして、「どんなに時間をかけてもなるべく薬品を使用しないで浄水しようとするのが水道の思想になる」と述べています。
 一方で、「日本における地表水浄化の主流が急速砂濾過になってからも、原水の汚染が進行したり、いわゆる富栄養化による異臭、異味がひどくなったりした」ため、「いくら薬品を使用しても、短時間に」とのまさに薬漬けの浄水方法がまかり通った、と指摘しています。
 第3章「人工的地下水づくり」では、「ヨーロッパではとくに第二次大戦後人工的地下水づくりが盛んになった地下水の不足分を人工的地下水で補おうとしてきた」とする一方で、「水道水源を地下水から地表水に切り替える傾向の支配的な日本では、水道水を確保するための人工的地下水づくりの発想は存在しない」と指摘しています。
 本書は、日本の水道の思想の再検証を行った一冊です。


■ 個人的な視点から

 欧米では飲み水はボトル入りのミネラルウォーターが中心で、水道の水は飲まれない、ということを昔はよく聞いたものですが、水道水を飲用することに抵抗が少ない日本とはそのあたりで違いが出てくるのでしょうか。


■ どんな人にオススメ?

・水道水は飲まないという人。

2011年5月24日 (火)

そのブログ!「法律違反」です 知らなかったではすまない知的財産権のルール

■ 書籍情報

そのブログ!「法律違反」です 知らなかったではすまない知的財産権のルール   【そのブログ!「法律違反」です 知らなかったではすまない知的財産権のルール】(#2017)

  早坂 昌彦, 石塚 秀俊, 前岨 博
  価格: ¥735 (税込)
  ソフトバンククリエイティブ(2008/2/16)

 本書は、「できるだけ身近な例を題材にして、『今知っておきたい』知的財産権について、わかりやすく解説」したものです。
 著者は、本書で伝えたいメッセージとして、「インターネットの世界においても、個人も、企業も、『交通ルール』として、知的財産権に関する最低限の正しい知識を持つことが必須」だと述べています。
 第1章「あなたのブログは大丈夫?」では、「撮影の対象が、一般人ではなく有名タレントなどの場合、その顔や氏名などの情報は、商品の宣伝や販売を促進する力をもっている」として、「パブリシティ権」について解説した上で、個人のブログにタレントの写真を貼り付ける行為について、「態様によってはパブリシティ権の侵害にあたるケースも出てくる」と述べています。
 また、「『偶然』そっくりの著作物が創作されたような場合には、それぞれの作品がいつ発表されたか否かにかかわらず、それぞれに著作権が付与される」として、第三者が「盗作だ」と訴えてきた場合には、「自己の著作物であることを知っていて」「そっくりの物を作り出した」ことを、「訴えた側が立証しなければ」ならないとしています。
 第2章「あなたの知らない知財」では、工夫を凝らした料理の盛りつけについて、「確かに著名なシェフが工夫をこらしたものなど、、非常に美しく創作性があり、『表現』されたものかもしれませんが、一般に、『思想又は感情』の表現物とはいえないのではないか」、また、「文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属する」ともいえないのではないかと述べています。
 第4章「ビジネスで、知って得する知的財産権」では、特許電子図書館の特許・実用新案の公開公報のアクセス状況について、上位10社は、韓国、台湾、中国企業であったことから、今後は、競合企業からも、自社の特許の出願内容が閲覧されていることを前提に、特許の出願を検討する必要があると述べています。
 本書は、事例を中心に基礎的な知的財産の知識を教えてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 知財の難しいところは、「よくわからないから止めておいたほうがいい」的な怪しげな解釈がされてしまうところでしょうか。特にパブリシティ権のように法律上の明文規定がないものはその傾向が強いような気がします。


■ どんな人にオススメ?

・「知的財産権」という言葉が何となく怖い人。

2011年5月23日 (月)

官僚 (社会科学の理論とモデル)

■ 書籍情報

官僚 (社会科学の理論とモデル)   【官僚 (社会科学の理論とモデル)】(#2016)

  真渕 勝
  価格: ¥2625 (税込)
  東京大学出版会(2010/07)

 本書は、「官僚や官僚制に関する理論研究は止まってしまっている」という問題意識の下、官僚制の権力基盤である専門知識や、「規則の機能」などの論点について論じたものです。
 序章「官僚批判のなかで」では、「官僚に対する否定的な評価は他国に比較して強いように見受けられる」として、「官僚たちの中には自信喪失に陥っている者も多い」と述べ、官僚に残された選択肢は「辞めるか、死ぬか、諦めるか」しかないとする表現を紹介しています。、
 第1章「官僚の権力」では、「行政機関には大量の現場知が蓄積されている」として、研究者が、行政の「隠れ蓑」との批判を受けながらも審議会の委員を引き受ける理由として、これらのデータを得られることを挙げています。
 また、予算には「ラクダの鼻」と呼ばれる戦術があるとして、調査費名目で少額の予算をつけることについて、ラクダに、鼻先だけテントに入れることを認めると、ずんずんと体全体をテントに入れてくる、という寓話を紹介しています。
 さらに、日本の官僚のタイプとして、
(1)国士型官僚
(2)調整型官僚
(3)吏員型官僚
の3つのタイプを挙げ、「吏員型官僚は、ますます巨大な勢力になっている」と指摘しています。
 第2章「官僚制の合理性」では、現在の「官僚バッシング」の理由として、
(1)「小さな政府」を歓迎する論調
(2)公務員の質が低下したこと
(3)国民の公務員を見る目が厳しくなったこと
(4)マスメディアの質の低下
の4点を挙げ、「一般の国民は、日常生活では、世の中はそう簡単に割り切れるものではないことをよく知っているし、世知にも長けている」にもかかわらず、「不思議なことに、政治の話になると急に幼稚になり、判断力が鈍る傾向にある」と指摘しています。
 第5章「官僚の行動様式」では、エリート官僚の関心が、「地位、威信、パトロネージ、影響、とりわけ仕事のおもしろさや重要性など、『金銭以外の効用』を強調する傾向がある」として、「『手足』や『神経』を使うよりも『頭脳』を使う仕事をしたいという気持ちは、官僚を予算極大化に向かわせるよりも、『組織形整(bureau-shaping)』に向かわせる」と述べています。
 第6章「第一線公務員」では、「第一線公務員が一定量の裁量をもつのは、避けようがない」理由として、「彼らや抽象的な市民を相手にしているのではなく、個別具体的な市民を相手にしているのであり、その人のおかれている状況が千差万別なために、あらかじめ決められた手続や手順に従って行動できないからである」と述べています。
 また、1993年にケースワーカーたちが作った生活保護世帯を侮蔑するような川柳がマスメディアに漏れて大騒ぎになった事件として、
(1)「金がない それがどうした ここくんな」
(2)「救急車 自分で呼べよ ばかやろう」
(3)「訪問日 ケース元気で留守がいい」
(4)「いつまでも入院しててね アル中精神」
(5)「母子家庭 見知らぬ男が留守番す」
等を紹介しています。
 第7章「司法官僚」では、司法官僚の業界用語として、
・「復路フリーパス」
・「復路おまかせパス」
などができるほど、「裁判官にとっても人事異動、したがって昇進は重要なこと」だと述べています。
 また、「出世コースに乗っている裁判官も、そうでない裁判官も、それぞれに孤独である」として、
(1)多忙であるため、趣味を楽しんだり、気分転換をする余裕はほとんどない。
(2)転勤を激しく繰り返すために、気の置けない友人を裁判所内ですら作りにくい。
(3)裁判官は一般社会との関係を遮断することが求められている。
の3点を挙げています。
 本書は、官僚という視点から行政を論じた一冊です


■ 個人的な視点から

 そういえば「官僚制」に関する理論って、いまだに何十年も前の古い研究が引き合いに出されるような気がしていたのですが、専門家の間ではもっと研究が進んでいるもんだと思ってました。


■ どんな人にオススメ?

・「官僚」ってマスコミでしか見かけない人。

2011年5月21日 (土)

リスク学入門 5 科学技術からみたリスク

■ 書籍情報

リスク学入門 5 科学技術からみたリスク   【リスク学入門 5 科学技術からみたリスク】(#2015)

  益永 茂樹 (編集)
  価格: ¥2940 (税込)
  岩波書店(2007/9/4)

 本書は、「地球温暖化、生態への影響、化学物質、食品安全、放射線、産業災害、自然災害などを取り上げ、科学の側面からそれらのリスクの定量化に迫った」ものです。
 著者は、「多くの国で人の平均寿命は延びており、平均的に言えば、われわれは過去より安全な生活を営んでいるはず」であるのに、「リスクが増えているとの印象を持つのは、人が危険情報には恐怖を抱いてすぐ反応するのに対し、安全を伝える情報には注意を払わない傾向があること、さらに、メディアも注目されやすい危険情報の発信には熱心だが、安全性の確認を伝えるのは消極的なことにも原因がある」と述べています。
 第1章「地球温暖化に関するリスク」では、「温室効果ガスの増加による地球の温暖化は、時間軸の問題であるという点で特徴的」だとして、「完全な知識を得てから行動に移ろうというパラダイムは、地球温暖化などの問題では成立しない」と述べています。
 第3章「食品安全のためのリスクアナリシス」では、「食品の安全性」を考える場合に常に心に留めておかなければならないこととして、「食品や物質が摂食者の健康にとって安全かどうかは量の問題である」と述べています。
 また、リスクコミュニケーションを困難にする要因として、「実際のリスクと認知されたリスクのギャップ」を挙げています。
 第4章「低線量放射線のリスク評価とその防護の考え方」では、「低線量の疫学研究」について、「放射線の健康影響としてのがんの発生率あるいは死亡率の増加を観察することは、困難とされている」として、広島・長崎の原爆の生存者の疫学調査から、「100mGy程度以下の線量領域では放射線被曝によってがんの死亡率の増加が観察されないという事実」を挙げています。
 そして、低線量のリスクが監査つんこんなんなりゆうとして、「集団の中のリスクが小さいこと」を挙げています。
 著者は、「リスクを基礎にした安全に対するアプローチは、リスクがあるから安全はないと考えるのではなく、リスクを考えるから安全に近づけると理解すべきであろう」と述べています。
 本書は、リスクと正しく付き合う方法を教えてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 原発事故の影響でリスクへの注目が集まっていますが、よくわからないものを怖がることはリスクとは違うような気がします。


■ どんな人にオススメ?

・リスクとは何かを知りたい人。

2011年5月20日 (金)

歴史のなかの科学コミュニケーション

■ 書籍情報

歴史のなかの科学コミュニケーション   【歴史のなかの科学コミュニケーション】(#2014)

  B.C. ヴィッカリー (著), 村主 朋英 (翻訳)
  価格: ¥3990 (税込)
  勁草書房(2002/12)

 本書は、「科学史とコミュニケーション史の交差部分に位置」し、「物語の重心を科学技術情報の伝達・継承や蓄積・組織化の過程に置き、とりわけそうした過程に能動的に作用する人々や機関・制度に対して強い関心を」向けたものです。
 序説「歴史における科学」では、科学の起源として、
(1)実際的な観察や技法を総合・一般化・抽象化することから形成される
(2)それまでに伝えられてきた神話や思弁的な認識の合理的再構成と具現化にも起源をたどることができる
の2点を挙げています。
 第2章「古典文化(紀元前600~西暦500年)」では、アレクサンドリアのムセイオンについて、「王宮の一角におかれていた。基本的に学術研究機関という性格の施設であり、中世の大学の学寮のように、学者たちが共同生活を営んでいた」と述べた上で、「ムセイオンで行われた研究は、紀元前3世紀における科学と数学の隆盛に大きく貢献する」として、
(1)科学研究に専心するような人々がギリシア世界に現れた
(2)記録された言葉に対して強い関心が向けられた
の2点を挙げています。
 第3章「中世(500年~1450年)」では、アラブ人が広大な地域の支配者となり、その版図に、ギリシア・ペルシア・インドの学術中心地が含まれていたため、「嵐のような領土拡張の時代が終わると、アラブ人はこうした豊穣な文化遺産を吸収していく」と述べています。
 また、「科学文献をアラビア語からラテン語へと翻訳するという大事業」が、12世紀中にほぼ完了したうえで、「西ヨーロッパは、ギリシア科学とアラビア科学の遺産を丸ごと受け継ぎ、徐々にであるが、それを基盤に新たな学術を築いていく」と述べています。
 そして、ボローニャ大学が、
(1)大聖堂付属で自由科の教育を行う学校
(2)ローマの市民法を教えていた市立学校
(3)教会法を教えていた修道院学校
の3つの起源から発展したらしいと述べ、「大学が形成されたことにより、学生の数が増大する。また、ヨーロッパの知性の発達に貢献する学者たちに、生計を立てる手段が提供されるようになる」としています。
 さらに、印刷術の発明が、学術コミュニケーションにもたらした効果として、
(1)著作1点あたりの部数が大きく増加し、また安価になった。
(2)以前の写本による写しと違い、均一な写しが作られるようになったため、標準的なテキストが得られるようになった。
(3)印刷術のおかげで、原図と同一の写しを木版画や銅販画で大量に作って配布することができるようになった。
の3点を挙げ、「印刷術の発明は、図書の供給と需要の双方を急速に増大させた」ため、「種々の理由から、図書のリストの必要性が高まって」いき、「書誌学という新しい学問分野が誕生した」と述べています。
 第4章「科学革命(1450~1700年)では、「学者の数は17世紀を通じて増大し、ロンドン、パリ、ヴェネツィア、ローマ、ハーグ、ベルリンなど、いたるところで定期的な会合が開かれ、議論が行われるようになる」ことで、「印刷機を利用してニューズレターを発行すること」が必要になったと述べています。
 第5章「18世紀」では、「1770年代には、学術雑誌の世界において、重要な進展が見られたとして、「専門的な定期刊行物の出現」を挙げ、18世紀末にかけて、専門化が更に進むと、「学術雑誌は、<一般向け>に訴求する部分」を減じていくとしています。
 また、「科学の発展過程において、概してどの段階でも、新しい専門用語を造語したり、既存の五を当てて用いることが行われてきた」として、「知識がより正確になると、用語の意味をしっかりと確定し、厳しく限定することが必要となる」と述べています。
 第6章「19世紀」では、近代産業の発達によって、「科学者に対して、新しい職業的地位と環境を提供するようになった。産業用の研究・開発に携わる研究施設が出現する」と述べています。
 第7章「20世紀」では、「現代という時代のもつ重要な特徴の一つ」として、「発達の不均衡」を挙げ、国際的な不均衡だけでなく、各国内においても不均衡があると述べています。
 本書は、科学にとって不可欠なコミュニケーションに光を当てた一冊です。


■ 個人的な視点から

 科学の歴史は先端知識をいかにコミュニケーションするか、という歴史であったように思われますが、今日では、わからない人にいかにわからせるか、という点に重きが置かれているような気がします。


■ どんな人にオススメ?

・科学はコミュニケーションとは関係ないと思う人。

2011年5月19日 (木)

「地球温暖化」ってなに?―科学と政治の舞台裏

■ 書籍情報

「地球温暖化」ってなに?―科学と政治の舞台裏   【「地球温暖化」ってなに?―科学と政治の舞台裏】(#2013)

  島村 英紀
  価格: ¥2100 (税込)
  彰国社(2010/07)

 本書は、「地球温暖化問題は、もともとは科学の問題だった。しかし、いまや国際政治にとってのきわめて大きな問題になっていて、この本にあるように各国の思惑が渦巻いている」として、「なぜ、そうなってしまったのだろうか」を考えてもらうための本です。
 第1章「二酸化炭素は『いつも悪者』ではない」では、「現在の地球の気温は、太陽からの熱を受けている一方で、地球から逃げ出そうとする熱を水蒸気や二酸化炭素が閉じこめる、微妙なバランスで成り立っている」と述べています。
 第2章「昔の地球は気温が大きく変化した」では、「地球で二酸化炭素が果たしていることは、赤外線を吸収して、その熱を地表に戻すことだから、その意味では温室のビニールやガラスの役割とは違う」と述べています。
 また、IPCC(国連の下部組織である『気候変動に関する政府間パネル』)が発表している報告に、「曖昧さもあり、ばらつきも多いデータから、都合のいいものだけを引用しているのではないか」という批判があり、中でもマイケル・マンら3人の科学者が過去の気温変化を見積もった「ホッケースティック曲線」を一番有名なものとして挙げています。
 そして、マン以外の結果を見ても、「19世紀以降、急激に世界の気温が上がってきていることは確かなようにも見える」が、「これらの研究のどれもが、マンの結果と同じように、あてにならない要素を含んでいること」を問題として挙げています。
 さらに、「わずかな違いがどこかで拡大されてしまって、今までの安定状態から、別の安定状態に映ってしまうところが、地球の将来にとって大きな不確定要素になっている」として、「地球環境問題を科学的に解明する難しさの一つは、ここにある」と述べています。
 第3章「いま話題になっている地球温暖化とは」では、「現在もっともたしからしいと考えられているのは、いままでの100年間で地球の平均気温が約0.6℃上がってきたこと」だと述べた上で、「海面上昇はいままでも年によって加速したり減速したりしてきている。それゆえ、この最近の加速の原因がなんなのかはわかっていない」と述べています。
 また、今使われているいろいろな気候モデルを使った気候数値シミュレーションについて、「パラメータ化」という共通の限界をもつほか、
(1)水蒸気や雲についての不確定
(2)太陽活動の影響
の二つの不確定要因を挙げ、「いま使われている気候モデルのどれも、まだわかっていない要素を除外して計算をしている」ため、「地球が温暖化するという計算結果が本当に正しいものかどうか、科学としての議論を呼んでいて、反論を排除できていない」と指摘しています。
 第4章「政治と科学者と産業界の三つ巴」では、今の環境問題で叫ばれている命題として、
(1)すでんはじまっている地球温暖化は人間が引き起こしたもので
(2)人間が排出している温室効果ガスが将来の温暖化を更に加速するので
(3)全世界が温室効果ガスの削減に取り組まなければならない
の3点を挙げた上で、「1番目と2番目は科学の問題、そして、3番目は各国の国内政治や国際政治の問題」であり、「この前段と後段の問題が切り離されずにお互いに影響し合いながら進められているのが今の環境問題なのである」と述べています。
 また、「IPCCには当初から根強い批判がある」として、「国連で各国の政治家があらかじめ決めた『温暖化対策を行う』という結論に、科学的根拠を示しながら説明を付けることが、じつは任務なのではないか」という批判を挙げ、「IPCC会議の内情を知る科学者からは、IPCCの会議は実際には温暖化問題の対策会議ではなくて、裕福な国と貧困国の争いの場になっているという批判もある」と述べています。
 そして、「このように二酸化炭素だけを『悪者』にすることで国際政治や国策という大きな歯車が動き出したいま、ある意味では地球温暖化の科学は不要になってしまった。少なくとも『動機付け』は不要で、『監視』や『事後の理屈付け』がこれからは求められているだけなのかもしれない」と述べています。
 第8章「地球との共生」では、「ちょっとしたぜいたくのためにエネルギーを使い、二酸化炭素を吐き出すことをいつまでも続けていいのかどうか、みんなで考えるべきだろう」と述べています。
 本書は、「地球温暖化問題」がどのようにして今の姿になったのかを解説してくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 地球温暖化の話は既に科学の問題では無くなっていると思われますが、そうであってもやはり科学者には出てきて欲しいところです。


■ どんな人にオススメ?

・シロクマが出てくると身構えてしまう人。

2011年5月18日 (水)

タバコの政治学

■ 書籍情報

タバコの政治学   【タバコの政治学】(#2012)

  A.L. フリッチュラー (著), 二宮 陸雄, 今福 素子 (翻訳)
  価格: ¥3570 (税込)
  勁草書房(1995/04)

 本書は、「過去30年以上に亘ってアメリカの行政機関が取り組んできた困難な戦いの足跡を、当時の関係者へのインタビューにより再現した、生々しい記録」です。
 訳者は、「日本のタバコ感覚とタバコ行政は先進諸国の中で少なくとも30年は遅れている」としたうえで、「国はタバコ産業の大株主として君臨するほかに、毎年2兆582億円にのぼるタバコ税収を地方自治体と折半して手中にしている。このようにタバコマフィアと化している国にタバコ規制策を実行させるには、いったいどうすればよいのか」が、本書を訳出した動機だと述べています。
 「はじめに」では、この本が、「政策策定過程に焦点を合わせて、何百万ものアメリカ国民が影響を受けていながら個人的ジレンマを除けばほとんどの人が理解していない一つの公共的論争を掘り下げている」としています。
 第1章「タバコと政策プロセス」では、「タバコの健康警告の導入と規制は、タバコ政治学の著しい変化と明らかな関係がある」とした上で、「タバコのサブシステムは、タバコ栽培者や取引機構やタバコ製造者の有給の代表を含んでいる」として、「タバコ・サブシステムへの挑戦は深刻な困難を伴っていた」と述べています。
 第2章「喫煙と行政」では、「最初に重要な健康研究の結果が公表されたのは1939年であるが、この報告は一般大衆にほとんど顧みなかった」として、「このほとんど注意を引かなかったという事が、将来の健康に対する恐怖に対処する方法をタバコメーカーに教えた」と述べています。
 また、タバコ・ラベル論争について、最も重要な機関は、「14のタバコ製造業者が共同で設立したものであって、タバコ製造会社の社長たちが理事会を構成」し、「各自の市場におけるシェアに応じて財源を拠出」していた「タバコ研究所」だと述べています。
 そして、「タバコ健康論争は、諸行政機関が利益派、それもしばしば極く限定された利益派を代表していることを明白に示している」と述べています。
 第3章「諮問委員会と新しい政策の方向づけ」では、「タバコ健康問題を行動に移させた出来事は、他の消費者問題の場合ほどドラマチックではなかった」が、「官僚と国会議員がそれぞれの立場からこの問題を一般大衆に提示するという方法を採った点で独特なものであった」と述べています。
 第4章「政策策定行政権力の発展」では、「社会の諸問題がより複雑になるにつれて、議会は政策づくりをますます行政機関に依存しがちである」としたうえで、議会の委任に「二つの面がある」として、「『議会』が、憲法上の限界を超えて行政機関にその権限を委譲jしていると今の時点で議論することはほとんど不可能としても、その『行政機関』によるいくつかの特定の行動が行政機関に委譲された権限の範囲を超えているという場合には、議論の余地が残っている」と述べています。
 第5章「行政政策策定のための諸手続き」では、「行政機関による規則策定は、官僚のオフィスで密かに行われるのではなく、公開して行われるべきものである。行政機関が作る規則は、立法機関の立法と同じくらい強力で強制力があり、民主主義においては、市民は自分の生活に影響のある政策の形成に参加する機会を与えられなければならない」と述べています。
 第6章「規則策定公聴会」では、公聴会について、「その問題について公式記録を作り、論争に関わる人々の見解を伝え合う機会を与えるもの」だと述べています。
 第7章「議会の力と行政機関の政策策定」では、「タバコ包装表示広告法の成立はタバコ製造業界とその間連企業側の勝利であった」として、「タバコ製造業界は議会からの何らかの規制立法を必要としていた。そうしなければもっとやっかいな連邦取引委員会規制規則がそのまま居座るからである」と述べ、「タバコ製造業界の最良の戦略は、議会を通過でき、しかもタバコの販売を妨害しないような規制立法を支持することであった」としています。
 そして、「多くの議員の支援に支えられて、タバコ研究所はその手腕によって、連邦取引委員会やその他最終的な政策策定権限をもつ機関が抱いていた疑惑を一層することができた」と述べています。
 第8章「議会と官僚組織―力の均衡」では、「タバコ論争を始めて、それを続けることができたのは、官僚行政機関が政治力と委任権限の両方を手中にしていたからである」と述べています。
 本書は、タバコ論争を舞台に、アメリカの議会と行政の権限を分析した一冊です。


■ 個人的な視点から

 本書が出てから15年以上が経っていますが、我が国の政治システム的には30年の遅れは取り戻せそうにはありません。少なくとも既に喫煙者となってしまった人には。それでも不景気の影響か、タバコの銘柄が削減されるのは喜ばしいことなのか?


■ どんな人にオススメ?

・タバコに男らしさを感じる人。

2011年5月17日 (火)

鳥脳力―小さな頭に秘められた驚異の能力

■ 書籍情報

鳥脳力―小さな頭に秘められた驚異の能力   【鳥脳力―小さな頭に秘められた驚異の能力】(#2011)

  渡辺 茂
  価格: ¥1785 (税込)
  化学同人(2010/4/10)

 本書は、神経解剖学と一体になった鳥脳の解明が行われた結果、「鳥大脳の多くの部分はヒトの大脳と同じに高機能jを営む外套という構造であることがわかった」として、ヒトの親指の先よりも小さい脳が、何をしているのか、訓練次第でどんなことができるのかを紹介するものです。
 第1章「鳥――絶滅しなかった恐竜」では、「鳥は恐竜から進化した動物ではなく、生き残った恐竜」だとした上で、「鳥脳を調べることは恐竜脳を調べることである」と述べています。
 第2章「鳥脳とはなにか」では、体重との比較では、「哺乳類と鳥類がどちらも脊椎動物の中で相対的に大型脳をもつ動物」だとしたうえで、「哺乳類型脳の特徴が大脳皮質にあるとすれば、鳥型大脳の特徴は脳室に向かって外から内側に突出した背側脳室隆起(DVR)といわれる構造」だと述べています。
 第5章「鳥脳のナヴィゲーション・システム」では、鳩が磁気を感知しているとして、その期間には、目にあるという説と上クチバシから鼻腔にあるという説があることを紹介しています。
 エピローグ「鳥脳への挑戦はつづく」では、鳥脳が「意外なほどに人間に類似した機能を示す場合もあれば、kんなこともできないのか、と思うものもある。逆に、よくこんなことができると感心するような機能もある」と述べています。
 本書は、生き残った恐竜の脳の中身を探検した一冊です。


■ 個人的な視点から

 鳥と恐竜が近い関係にあるのは何となく分かっていましたが、鳥の脳を調べることが人間の脳を調べることの近道になることは発見でした。


■ どんな人にオススメ?

・鳥は散歩歩くと忘れると思っている人。

2011年5月11日 (水)

「環境主義」は本当に正しいか?チェコ大統領が温暖化論争に警告する

■ 書籍情報

「環境主義」は本当に正しいか?チェコ大統領が温暖化論争に警告する   【「環境主義」は本当に正しいか?チェコ大統領が温暖化論争に警告する】(#2010)

  ヴァーツラフ・クラウス (著), 若田部昌澄 (監修), 住友進 (翻訳)
  価格: ¥1,575 (税込)
  日経BP社(2010/2/25)

 本書は、経済学者でもあるチェコ共和国の大統領が、地球温暖化問題を、「問題であり、解決しなくてはならない」とする「環境主義」に対する警告として現したものです。
 解説では、本書の特徴として、
(1)古典的自由主義の擁護を前面に出した思想ないしはイデオロギーの側面
(2)経済学の議論を多用しているところ
の2点が挙げられています。
 また、日本の読者に対する貴重な情報として、
(1)ヨーロッパ古典的自由主義の、しかも共産主義と直に闘ってきた旧共産圏の東欧知識人の見方を紹介していること
(2)ジュリアン・サイモン、インドゥル・ゴクラニといった、環境・資源問題についての悲観論に疑問を投げかける研究者の議論を紹介していること
(3)随所に見られる経済学史への造詣
の3点を挙げています。
 イントロダクションでは、「地球温暖化は、真実とプロパガンダの衝突を象徴する、典型的な問題である。ひとつの政治的に公正な真実が決まってしまうと、それに異を唱えるのは生やさしいことではない」と述べています。
 第1章「問題の定義」では、「現在の論争(またはおそらく衝突)のテーマが、環境ではなく、人間の時湯に関することであるのは間違いない」として、「貧しい国は、環境主義者の人質になっている」と述べ、「その最大の犠牲者は、世界の中でも最も貧しい階層の人々だ」と述べています。
 そして、「私には自然科学や科学的エコロジーを批判する意図はさらさらない。環境主義は、実際には、自然科学とは全く無関係なものだ。さらに悪いことに、環境主義は社会科学の領域にまで浸透してしまった。しかし、実際は、社会科学と共通するものはない」と指摘しています。
 また、過去150年間、社会主義者が、「人間を大切にしろ、社会的平等を守れ、社会福祉を充実させろといった、人道的で、思いやりあふれるスローガンを実に効果的に唱えていたが、結局、人間の自由を破壊してしまった。環境主義者も同じように崇高なスローガンの基に、人間より自然にたいするふあんを表明しながら(彼らの『自然を第一に考えよ!』という過激な標語を思い出せばいい)社会主義者と同じ事をやっているのである。どちらにしても、このようなスローガンは本心を包み隠すための隠れ蓑に他ならない。状況は今も昔も変わっていない。どちらも、運動の目標は権力を握ることにしかないのだ。彼らにとって問題なのは、一般大衆に対する『選ばれたもの』(自分のことをそう思っている)の覇権、唯一の適切な(彼ら自身が考える)世界観の押しつけ、世の中の改造なのである」と述べています。
 著者は、これらの理由から、「環境主義を現代という時代の最も重大な、反自由主義的で、大衆迎合主義のイデオロギーと考えている」と述べています。
 第2章「資源、その枯渇性、そして代わりのきかない価格の役割」では、1970年代に『成長の限界』を公表したローマクラブ自身が、「この本の結論が間違っていること」を認め、「このように人々を意図的に誤解させたのは、『公共の不安』を呼び起こすためだった」と白状していることについて、「こうやって、環境主義者が間違いはたいしたことではないと述べているのは、実に象徴的なことだ。この事実を絶対に忘れてはならない」と述べています。
 第3章「富の影響と技術進歩の影響」では、「重大な影響を及ぼすのは技術的進歩である」として、「未来の社会が現在より遙かに豊かになっているのは間違いない。さらに、私たちが現在知っている問題の多くはおそらく解決されていて、それとは逆に多くの未知の、思いもよらない問題が発生していることだろう」と述べています。
 第4章「割引率と時間選好」では、「環境主義者のアプローチ」として、「現在重要なことが、どれだけ遠い未来でも同じように重要であることを前提にしている人間さえいる」ことを指摘し、「社会的割引率は、未来の世代の幸福と現代人の幸福の重要性を比較するための、鍵となるパラメーター(媒介変数)なのだ。割引率をゼロにすると、未来の人間と現在の人間を同じように見てしまうことになる。これはまったく馬鹿げたことだ」と述べています。
 第5章「費用便益分析か、予防原則の絶対主義か?」では、「環境主義者は、予防原則を絶対に誤りのない、当然のものとして利用している。彼らはこの原則を盾に取り、理屈に合わない最大限のリスク回避成功を擁護しようとする」として、「大切なのは、リスクを減らすにしても、度を超してはいけないことだ」と述べています。
 また、「太陽熱と風力も『無尽蔵』にあるから、環境主義者は『お金がかからない』と考えている」が、「多くの理由で莫大な費用がかかることがわかっている」として、その理由の一つとして、必要な土地が無尽蔵にあるわけではないことを挙げています。
 第6章「地球温暖化について実際に起こっていること」では、「従来、一般に考えられていることとは逆に、実は現在、温室効果の重大性に関する科学的合意は存在していない」とするハイデルベルグ・アピールの、「この地球に忍び寄る最大の悪とは、無知と抑圧なのであり、断じて科学、技術、産業ではない。科学、技術、産業は、きちんと管理さえすれば、人類が未来を築き上げるための不可欠な手段となる。まさしくこれらこそ人類が自力で、人口過剰、飢餓、、世界中に蔓延する病気など重大な問題を克服するための手段なのだ」という文章を紹介しています。
 そして、「政治的公正に黙って服従するのではなく、今まで述べた問題を真剣に議論し始めることが大切なのだ」としています。
 第7章「何をすべきか?」では、「誇大妄想強の人間の抱く野心、うぬぼれ、そして謙虚さの欠如の末路は、必ず惨めな結果になってしまうことは、共産主義が証明して見せている」と述べた上で、「環境主義者も結局、共産主義者と同じ末路を迎えることになるだろう」と述べています。
 そして、「最前の方策は、現在のたいへん穏やかな気候変化と共存し、経済的発展を促していくことだ。そうすることで、将来、もっと効果的な技術に投資できるだけの資本が生まれるだろう」として、「要するに、環境保護には『賛成』だが、環境主義には『反対』ということだ」と述べています。
 本書は、「環境保護」という反対しにくいスローガンを掲げて忍び寄る「環境主義」に警鐘を鳴らす一冊です。


■ 個人的な視点から

 日本では、「環境保護」に関わっている人たちと、昔学生運動をやってた人とか市民運動家とかが結構かぶってくるせいか、宗教かイデオロギーの類だと思っていましたが、「地球温暖化問題」を声高に叫んでいる人たちがそう見えてしまうのは日本に限らないことのようです。


■ どんな人にオススメ?

・「環境主義者」に思い当たる人。

2011年5月10日 (火)

戦後マスコミ回遊記

■ 書籍情報

戦後マスコミ回遊記   【戦後マスコミ回遊記】(#2009)

  柴田 秀利
  価格: ¥ (税込)
  中央公論社(1985/12)

 本書は、戦後の読売労働争議を集結させたことをきっかけに、NHKの初の解説者を経て、日本テレビの立ち上げ、原子力発電の導入などに携わってきた著者がその半生を語ったものです。
 著者は、自らを戦後復興に駆り立てたものとして、昭和10年、18歳の時に、「いまから5,6年先に日本は世界大戦に巻き込まれ、全土灰燼に帰する。そのとき汝は起ちあがって、日本の復興と世界平和のために尽くすよう、運命づけられている」というご託宣を受けたことを挙げています。
 「敗戦、即革命の前夜」では、読売争議を収拾するために、吉田内閣の筆頭秘書官で旧知の福田秘書官に、総理からマッカーサーに言ってほしいこととして、
(1)天皇制擁護を確立すること。
(2)占領政策の基本を容共から反共へハッキリと転換させること。
(3)マ元帥の名において馬場社長を呼び戻すこと。
の3点を伝えたことで、逗子に引っ込んでしまった読売新聞の馬場社長を呼び戻すことができたと述べています。
 敗戦謀略の真相では、財閥解体、幹部追放の上の「集中排除法」について、「貧農国化即社会主義国化のねらいは、いよいよ的を射てきた」として、「こういう政策を次々と送り込んでくる源は何者か、その真のねらいがどこにあるか、まずアメリカの世論を沸き立たせて、かかる容共政策が、挙げ句の果てに日本を、そして同時にアメリカをどこへ落とし込もうとしているか、徹底的に究明させる必要があると決意した」と述べています。
 そして、ワシントンに働きかけ、法案を廃案に追い込んだにもかかわらず、「世論も財界も、一向に熱っぽい反応を示さなかった。さぞかし感謝感激の嵐が巻き起こるものと期待したわれわれとしては、思わぬ拍子抜けを食わされた恰好で、苦笑するほかなかった」が、「これでいいんだ、もちろん、これは新聞にも書けない大ニュースだが、これでこそ明日への道が生きるんだ、こうした働きがたとえ書けなくとも、ジャーナリストのうちに秘めた喜びであり、感動というものだ」と自らを慰めたと述べています。
 「NHKのニュース解説者」では、「解説者が一番心がけなくてはならないことは、教壇からの講義にしてはいけない」ことであり、「隣に座っている爺さん婆さんや、大工、左官」にでも話しかけるような、「やさしさ、親しさ、くつろいだ態度の中にどこか品位のある、権威が自らにじみ出るよう心がける」と述べています。
 そして、「最も力点を置いて掘り起こしていたのは、外国新聞の論説や評論であり、その中にこそ、実は珠玉のようなニュースが潜んでいた」と述べた上で、当時発足したばかりのラジオ・プレスが「それらを一番早く拾い出し、提供してくれていた」としています。
 「テレビ時代の創造」では、『テレビと正力』の中で、、「テレビ発足から、成功の目処のつくまで、創意工夫のすべては正力の発案であり、功績であるとし、彼を時代のヒーローに仕立て上げてある」ことを指摘しています。
 また、日本テレビの社名を、米人たちが「ジャパン・T・V・ネットワーク・システム」と読んでいたことにちなみ、「日本テレビ放送網株式会社」と訳し、特に「網」にこだわったと述べています。
 「テレビ免許第一号」では、著者らがNHKと免許獲得合戦を繰り広げていた頃、「テレビはまだ、利権の対象ではなかった」が、1~2年後には、「世の中はまるで逆転してしまった。テレビと電波はたちまち最大の利権と化し、免許獲得戦争に先を争って血迷ったのが、他ならぬこの民間放送と新聞社だった」と述べています。
 そして、電波管理委員会の委員だった坂本龍馬の孫といわれる坂本直道委員の論文について、「単に一企業体としての日本テレビの誕生を決定づけただけのものではない。日本に新しいメディアを生み、テレビ時代を創造する基いをなした歴史的文献だった」として、「あくまでも冷厳な現実認識の上に立った、豊かな自由と民主主義への道を切り開こうとするこの論文は、委員会の意思決定と決断への勇気を鼓舞するもととなった」と述べています。
 「アメリカの借款獲得」では、「わが国初の民間テレビの会社設立にあたって、記憶にとどめておいてほしいこと」として、「新聞界を代表する朝日、読売、毎日の三社が基盤となったこと」を挙げ、「全くの偶然と機縁によって、正力という人間と手を結んだことが、この帰結を生んだ」と述べています。
 「日本反映の奇蹟」では、ジェネラル・ダイナミック社の副社長のヴァーノン・ウェルシュが、「原子力の平和利用の可能性」について解説した中で、「テレビのエレクトロニクス技術をマスターした暁には、原子力技術の6、70パーセントをマスターしたこととなり、原子力の平和利用に入る十分な素地ができあがる」と語ったことを紹介しています。
 そして、街頭テレビのヒット、・それ故にこそ、貧乏国日本で、至難の経営をタッタの7ヶ月目で黒字にしたという事実は、まさに世界記録の樹立と言っても過言ではない」と述べています。
 「原子力時代の幕開き」では、1955年にアメリカからの原子力平和利用使節団が来日したことが、「原爆反対即反米の嵐を鎮静させ、政府、世論を動かして、その滞在中に、濃縮ウラン受け入れの決定にまでこぎ着けさせてしまったことは、まさに予想外の精華だった」と述べています。
 「原子力外交の展開」では、1956年の、著者が勧告し結成させた原子力産業会議初の民間使節団が、「名実ともに日本の財界、産業界を代表するメンバーからなっていた」として、「明日の日本を背負う錚々たる実力派が、男盛り、元気いっぱいで、世界の進運をこの目で見、明日を創造しようという意欲に燃えて、世界視察の旅に出た。おそらくは戦後最大の本格的な産業調査団だった」と述べています。
 そして、「近代の経済社会は、その燃料を持ったものが支配してきた。今でもその資本主義のピラミッドが何本となく世界に君臨している。それが原子力によって取って代わられるとなると、これまでの力の配分に当然変革が起こる」として、「われわれはただその原子力の初の産声を聞き、その生まれたばかりのただならぬ赤児の姿を見に行ったのである」と述べています。
 「要人とのつき合い」では、アイゼンハワー大統領の訪日を止めさせるべく、アメリカのゴルフ場で大統領に面会した著者が、大統領を出迎えに来た陛下に流れ弾が当たれば、日本の左右の激突を招いて国内動乱に陥るおそれがあると進言したところ、大統領の目が軍人の目に戻ってしまい、「情勢が危険だと知った以上退くわけにはいかない」と軍人に立ち返ってしまったと語っています。
 「カラー・テレビのねらい」では、「カラー・テレビを始めたことによる、テレビ自体の人気はもとより、それが生み出し拡大した、精密機械工業、化学工業の全分野が、水をえた魚のように、次々と芽を吹き出し発展しだした」ことこそが、「私の夢想し、期待した以上に大きなインパクトを日本の科学技術、産業界に与えた」と述べています。
 本書は、戦後日本の復興の影の立役者が自ら語った一冊です。


■ 個人的な視点から

 戦後日本で活躍したかもしれない、今となっては「アヤシイ人」というくらいにしか認識されていないのかもしれません。本人が戦後の混乱期を語っているのでどこかに「話半分」という留保を持っておく必要はあるかと思いますが、いずれにしても心踊る一冊です。


■ どんな人にオススメ?

・戦後日本の復興のサブストーリーを楽しみたい人。

2011年5月 9日 (月)

科学は誰のものか―社会の側から問い直す

■ 書籍情報

科学は誰のものか―社会の側から問い直す   【科学は誰のものか―社会の側から問い直す】(#2008)

  平川 秀幸
  価格: ¥777 (税込)
  日本放送出版協会(2010/9/8)

 本書は、「科学技術の専門家ではない人達が、身近な生活の場、あるいは国の政策決定の場などさまざまな場面で科学技術の舵取りに手を出し、口をだすための物の見方や考え方、行動の仕方を探っていくこと」を目的としたものです。
 著者は、「科学技術の進歩さそのまま幸せな未来に続く――そんな明るい希望を素朴に信じられた時代は過去となり、科学技術は『夢と希望』であると同時に(あるいはそれ以上に!)『社会問題』そのものであることを、僕たちは知っている」とした上で、「僕たちば、科学に委ねてよいものとそうでないもの、科学的に考えるべきこととそうでないことをかぎわける嗅覚を取り戻すこと。科学の問いの向こう側を探ること。それが科学技術に限らず、僕達がともに善く生きようとする社会のガバナンスの根本の問題の一つではないか」と問いかけています。
 第1章「輝かしく陰鬱な1970年代という曲がり角」では、「原子力に人々が心踊らせたのは、今や『懐かしい未来』という過去でしかない。『夢と希望の科学技術』から『問題としての科学技術』へと、僕たちにとって科学技術の姿、科学技術をめぐる社会の風景はすっかり変わってしまったのだ」と述べています。
 そして、大阪万博のテーマに「進歩」だけでなく「調和」という言葉をあえて持ち出さなくてはならなかった現実として、
(1)核兵器の存在
(2)公害・環境問題
の2点を挙げています。
 第2章「『統治』から『ガバナンス』へ」では、科学と技術の現代における「目的」の違いとして、「技術(technology)」が、「何らかの実用的な目的のために人工物(機械や物質、システム)を作り出す営み」であるのに対し、「科学(science)」は、「自然法則の『発見』など、この世界の『真理』を『知る』ための営みであり、その成果を産業に応用するなど実用的な目的はもっていないし、実際、大部分の科学研究は実用化には直結しない」と述べています。
 また、「科学と技術の新しい関係。それは、一言で言えば『科学技術の公共ガバナンス』という関わり方のことだ。そしてそれは、科学技術に限らず、現代社会全般における物事の決め方、つまり『政治』のあり方にも共通するもの」だとした上で、「科学技術のガバナンス」とは、「研究や開発の目的を達成し、その成果を社会に普及させるために、様々な障害を克服し、科学技術の発展を導くこと」を意味していると述べた上で、あえて「統治」ではなく「ガバナンス」というカタカナ語を使用する意味として、「誰が社会の舵を取るのか」がポイントであり、「『統治』というとき、そこで想定されている舵取りのアクター(主役)は統治者、すなわち政府」であるのに対し、「ガバナンスは、もっと『水平的』で『分散的』『協働的』な物事の決め方、社会の舵取りの仕方を表している」と述べていmァス。
 そして、「リスクコミュニケーション」という活動が急速に注目されるようになったとして、「リスクについて、行政、専門家、企業、市民など関係者が情報や意見を交換し、その結果を行政の施策の決定や、関係者それぞれの対応に活かし、関係者間の信頼関係を築くことを目的にしたものだ」と述べています。
 著者は、「『不確実性』と『社会の利害関係・価値観との絡み合い』が、科学技術の発展・普及と共に増大してきたこと。現代の科学技術に内在するこの性質こそ、公共的ガバナンスが求められるようになった根本的な理由であり、ガバナンスのなかで僕たちが取り組みを迫られている問題の本質」だと指摘しています。
 第3章「科学は『完全無欠』か」では、「科学は確かな正解を答えてくれる」という「期待」について、「もちろん科学という営みは、正しく確かな答えを探すことが目的であり、期待を持つことそのものは間違っていない」が、あえてこれを「科学の完全無欠幻想」だとして、「この期待は、往々にして科学の『正しさ』や『確かさ』の実態にそぐわない過剰なものになりがち」であると指摘し、ドイツの社会学者オートウィン・レンによる、政策立案者が科学に抱きがちな「幻想」として、
(1)確かさの幻想
(2)擬似確信の幻想
(3)絶対的真理の幻想
(4)応用可能性の幻想
の4点を挙げています。
 そして、「科学に対して、ありもしない100%の正しさや確かさを期待したり要求したりせず、むしろ『科学だけで決定的な役割を果たせることは実はそれほど多くはないのだ』ということを肝に銘じることが大切だ」と述べています。
 また、不確実性ということが意味する「無知」の種類として、
(1)「知られている無知(known unknowns)」:何が知られていないか、どこの部分の知識が不十分であるかが特定されている場合
(2)「知られざる無知(unkown unknowns)」:何が知られていないのかもわかっていない、全くの想定外
の2つのタイプを挙げています。
 著者は、「リアルな科学の知識には様々な制約があり、知識と現実の間には不可避のギャップ=不確実性がいつでも残っている」として、このギャップは、「科学がそのホームグラウンドである実験室の中の『理想系』を離れ、実際の世界の『現実系』の問題を扱うときにはますます大きくなる」と述べています。
 第4章「科学技術と社会のディープな関係」では、「科学技術と社会の影響関係を考える際に大事なのは、相互形成的で相互浸透的な『共生成(co-production)』という見方で捉えることである」として、「一つひとつの科学知識やテクノロジーは、科学技術と社会の『合作』なのであり、それが作られることで社会の側も科学技術の側も変わっていく」と述べています。
 第5章「科学の不確実性とどう付き合うか」では、食品や環境におけるEUなどの規制強化の背景として、「挙証責任の逆転や脱工業的な価値観の台頭、政治プロセスへの市民参加などがあった」が、それらを大きく後押しした理念として、「事前警戒原則(または予防原則:precautionary principle)を挙げ、「重大かつ不可逆的な損害が生じるおそれがある場合には、完全な科学的確実性が欠けていることを理由に、環境破壊を防止する費用対効果の高い予防的措置をとるのを延期すべきではない」とする定義を紹介しています。
 そして、「欧州の組換え作物規制の歴史では、農業と食に関する代替的な価値観と政策、事前警戒原則を選ぶことが、リスク評価における価格の構成をも変えた」として、「そうした科学と社会の共生成こそが、この歴史のエッセンス」だと述べています。
 第6章「知ること、つながること」では、現代の科学技術の実像として、
・「科学なしでは解けないが、科学だけでは解けない問題」の増大。
・現実の世界の問題を扱う科学にはいつも高い不確実性があるということ。
・科学知識の概念やロジックにも、テクノロジーの構成にも、社会が深く浸透しているということ。
・それゆえに、本当に問題となっているのは、科学では答えられない問題、答えてはいけない問題であり、答えを出すのは根本的には僕たちだということ。
などの点を挙げ、「僕たちの力がその舵取りに関わることが必要とされる一番の理由」だと述べています。
 第7章「知を力にするために」では、「専門家顔負けの素人の専門性」で重要なのは、「その中身が、職業的な専門家が持っているものとはある点で決定的に異なっていること」だとして、「ここでいう『素人』とは、例えば自分や仲間の命の危機に直面し、何とかしたいと切実に願う『当事者』であり、当事者ならではの深い経験や知識、洞察を豊かに備えている人たち」だと述べています。
 そして、「『科学が問わない』あるいは『科学が問えない』問いを問うこと、科学者ではないがゆえに湧き上がってくる疑問を口にすること」こそが、「僕たちが科学技術ガバナンスの中で果たせる、そして果たすべき決定的な役割」だと述べています。
 本書は、科学技術にわれわれがいかに関わるべきかを問う一冊です。


■ 個人的な視点から

 福島第一原発の事故以来、「日本の科学技術」に対する信頼が揺らいでる人も少なくないんじゃないかと思いますが、むしろこういう不確実で情報の少ない状況においてこそ「科学」のものの見方を諦めてはいけないと思うのです。


■ どんな人にオススメ?

・科学への信頼が不信に極端に振れてしまっている人。

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