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2011年6月

2011年6月30日 (木)

子どものケータイ-危険な解放区

■ 書籍情報

子どものケータイ-危険な解放区   【子どものケータイ-危険な解放区】(#2038)

  下田 博次
  価格: ¥756 (税込)
  集英社(2010/7/16)

 本書は、「この10年、子供は『親や教師などから邪魔されることなく、危ない楽しみを追求できる思春期メディア』の味を知ってしまった」として、「現実を冷静に直視、理解し、大人として子どものケータイ利用のリスク評価とリスク回避の戦略」を持つため、この10年に起きたいわゆる「子どもの携帯電話問題」を改めて整理、俯瞰したものです。
 第1章「子どもの携帯電話問題一〇年の経緯」では、「思春期の高校生たちの出会い願望の答えて携帯電話に搭載されたインターネット機能を、子育て教育上の視点から、つまり青少年の健全育成という視点から批判的に理解しようと努力してきたのは、わたしの経験から言えばIT教育学者や文部科学省の官僚より、警察関係であった」と述べたうえで、「問題は、思春期の子どもに悪用防止策も考えず有害な情報の受発信が自在にできる、つまり容易に悪用ができるメディアを売りつけていることではないのか」と指摘しています。
 第2章「パーソナルメディアの時代へ」では、「若者向け携帯電話(携帯インターネット)市場の離陸は、広告業界が作り出したこのポケベルCMの『ベル友』ブームが地ならしとなっていたのだ」と述べています。
 そして、「着信メロディ商品も含めて各種のケータイ関連商品をはやらせたのは、女子高生であった。彼女らのそうした遊び心に企業が眼をつけ、さらに流行商品が生まれていく。ケータイ産業は、日本の思春期の子どもが作り出した巨大市場というべきかもしれない」と述べています。
 「思春期メディアの誕生」では、「過去10年間に液晶の小さなサイバー画面空間に作り出されたネットの遊び場(わたしはグレーゾーンと位置づける)の種類を、自意識や性意識の高まり、自立と犯行、連帯意識と仲間づくりといった思春期特有の心理ニーズを基」に、
(1)自己顕示欲を満たす遊び場――モデルサイト、プロフ、小説・動画投稿サイトなど。
(2)心の癒しや寂しさを満たす遊び場――アイドルサイト、メル友募集サイトなど。
(3)友情、恋愛感情を満たす遊び場――プリクラサイト、恋愛サイト、学校裏サイトなど。
(4)仲間づくり、反抗心を満たす遊び場――学校裏サイト、大型掲示板、SNSなど。
(5)スリルと破壊欲求を満たす遊び場――ゲームサイト、とりわけRPGや戦闘ゲームなど。
(6)物欲、金銭欲を満たす遊び場――写真掲示板、懸賞サイト、オークションサイトなど。
の6つに分類しています。
 第4章「携帯サブカルチャー」では、「いわゆる『ナンパ』行為の敷居が下がり、参加者も広がった」として、「おとなしい子でも積極的に自分から誘うことができ、相手も選ぶことができるのは、匿名性を保障するインターネット特有のコミュニケーション機能を利用できるからである」と述べ、「現代の子どもにとっての携帯電話は、おとぎ話に出てくる、あの天狗の隠れ蓑のようなものではないのか」と述べています。
 そして、「子どもにとって携帯電話というメディアの最大の魅力は、おそらく『保護者、親からの解放を実現する力』、さらに言えば『教師の権力の及ばない空間づくり』ではないか」と述べています。
 著者は、「この10年間に、出会い系サイトから援助交際という名のコギャル売春が広がり、その出会い系サイト利用のエンコーを舞台にした子供向けケータイわいせつ小説が生まれた。さらには、そのケータイ小説『Deep Love』からケータイ小説サイト商売が現れ、そこを舞台にギャルゲーサークルが大流行、というようにコギャルのケータイカルチャーの発展があった」と述べています。
 第5章「犯罪、非行・逸脱のニューウェーブ」では、「子供たちが熱中するケータイというメディアは、子育ての長い歴史の中で、思春期の子どもに親や大人が『あなたにはこんなものはまだ見せられない』とか『こどもは、そんなことをしてはいけない』と禁じていた事柄をすべて無効にする力、つまり思春期のタブーを破り捨てる力を秘めているのだ。それを知っているから子どもはおもしろがる」と述べています。
 第6章「慌てる国と携帯電話業界」では、「インターネット接続形携帯電話が発売され中高生に急激に普及を果たした5年の間、文部科学省を含む日本の教育関係者は、携帯インターネットを使った援助交際などの非行・犯罪にはさほどの危機感を示さなかった」とした上で、「子育て教育の面から言えば、現状のネット遊び場は、子どもの時間を利益に変えるようなビジネスモデルの横行が問題とされるようになった」と指摘しています。
 第7章「子どものケータイ利用問題が拡大した理由」では、「学校関係者は、思春期にパーソナルメディアを好き勝手に使い、自己中心的な、あるいは反社会的なネット利用を当たり前に思っている世代が親になってきたことに、警戒心を強めている」と述べています。
 そして、「この10年間に起きたモバイル・インターネットケータイ)利用による青少年の様々なトラブル、事件を通覧すると、失敗の共通性が浮かび上がり、そこから『便利なメディアを安易に使うと逆効果をもたらす』という教訓も見えてくる」と述べています。
 第8章「子どものケータイ問題、どうなる、どうする」では、「地域でペアレンタルコントロール能力を身につけたインターネット時代の賢い保護者、大人を早急に増やさなくてはいけない。地域や学校区でネットママやパパが活躍すれば、学校区での保護者への啓発がしやすくなる」と述べています。
 本書は、子どものネット利用問題の10年間を振り返った一冊です。


■ 個人的な視点から

 この本を読んだら子どもからケータイをすぐにでも取り上げたくなってしまう人も少なくないと思うのですが、そういう使命感で書かれたものなのかもしれません。


■ どんな人にオススメ?

・ケータイは怖いと思う人。

2011年6月29日 (水)

日本の広報・PR100年―満鉄からCSRまで

■ 書籍情報

日本の広報・PR100年―満鉄からCSRまで   【日本の広報・PR100年―満鉄からCSRまで】(#2037)

  猪狩 誠也
  価格: ¥3150 (税込)
  同友館(2011/04)

 本書は、「日本の〈広報〉、〈PR〉の歴史をたどることによって、その言葉の持っている意味を探り直してみたい」という問題意識によって書かれたものです。
 序章「広報・PR―言葉と意味と歴史と」では、「PRの期限には、ジェファソンのように、情報が与えられれば自らの知性で健全な判断ができるという人間観と、サミュエル・アダムスのように、人間は理性よりも感情で動くものだという人間観の両面が現れていて、この両面は今日にいたるまで〈PR〉のいわば"コインの表と裏"として現れてくるのである」と述べ、「人間、集団を情報によって自分の利益になるような方向に向けようとすることがプロパガンダであり、相互の利益になるようにその関係を保つことがPRであり、広報である」としています。
 第1章「広報の誕生――近代化の中で」では、第一次大戦へのアメリカ参戦にあたり、「国民の参戦へのコンセンサスを作るため」に設置された「クリール委員会」について、「あらゆるコミュニケーション手段を活用し、学者、画家、彫刻家、デザイナー、イラストレーター、漫画家たちを総動員し、萌芽期の映画産業も参加において参戦意識を煽った」と述べ、「出色は地域の弁護士、実業家などのオピニオンリーダーたちを『フォー・ミニットメン(4分間の男)』と名付けた演説者に仕立て上げたっころ見だった」として、「いわばプロパガンダ技術を見事に取り揃えたのがこの組織だった」としています。
 また、満鉄が1923年に日本企業で最初に広報組織を設けたことについて、「弘報」の名を冠しているとした上で、「満鉄弘報の誕生と発展には3人のキーマンが存在している」として、
・初代総裁の後藤新平
・「弘報係」を創設した高柳保太郎
・そのとき満鉄副総裁として後押しし、後の総裁時代も重要視し続けた外務官僚・松岡洋右
の3人の名を挙げています。
 そして、「満州において様々なメディアの統制がかなり行き渡っていたこと」について、「ある意味で、満州で実験を行い、成功した方法を日本に持ってきた感がある」としています。
 第2章「広報・PRの導入――太平洋戦争敗戦から高度成長時代まで―」では、「1947年12月はじめ、富山県渉外課長の樋上亮一は突然知事室に呼ばれ、高辻武邦副知事からPRオフィス設置の検討を命じられた」ことについて、「GHQの出先機関である富山県軍政部に呼ばれ、県庁内にPRオフィス(PRO)をっすみやかに設置する用途のサゼッション(示唆)を受けて帰ってきたところだった」と述べた上で、「富山県は48年1月に『公聴室』を設置し、樋上は課長級の公聴室主任としてて探りながら行政工法の第一線での活動を始めた。後に樋上は人事院で広報を担当し、また上智大学で教鞭をとるなど、行政PRのリーダーとして活躍することになる」と述べています。
 また、「GHQは、PRを日本に根づかせるために様々な支援を行なっている」として、「都道府県のPRオフィス設置に当たっては、早くも47年7月に千葉県の鴨川で『東日本各軍政部各都道府県報道主管課長研修会』という会議が開かれたという記録がある」と述べています。
 第3章「大衆消費社会の到来――マーケティング広報全盛の時代」では、「松下電器産業がPR本部を設置したのは57年11月だった」とした上で、「57年ころの東京における有識者の松下電器のイメージは、関西の二流メーカー、他社の模倣をするマネシタデンキ、下請けいじめをして急成長をしている、販売と宣伝がうまい会社、というものだったという」と述べています。
 第4章「社会性を問われた企業」では、「70年代は60年代のマーケティング型の広報部門の設立に対比して消費者対応型の第二の広報ブームが起きたと言える」とした上で、「公害、欠陥商品、悪徳商法など燃え上がる消費者運動の矢面に立たされ、ページ数が増えた新聞、雑誌、さらにテレビの取材攻勢にさらされた企業広報は四面楚歌といっていい状態であった」として、「社会的な事件への対応はトップから広報マンにいたるまでいかにも未熟だった」と述べています。
 また、埼玉県の革新県政について「畑県政では、各部局に27名の広聴広報主幹を任命、毎月1回復知事主宰の広聴広報委員会を開催するなど、公聴広報活動に力を入れた。庁内広報についても庁内広報紙『けんちょう』の創設、職員との対話集会、月1回の知事の庁内放送などを開始した。さらに、博報堂から出向を受け入れ職員の広聴広報スキルの向上を図るなど、畑県政では積極的に広聴広報を展開した」と述べています。
 第5章「成熟社会への企業広報」では、三重県知事の北川正恭について、「IT時代の到来を踏まえ、その基本的性格であるリアルタイム(同時)性とインタラクティブ(双方向)性を生かし、県民を巻き込んだ地域経営のあり方を模索しようとするものだった。そのためには徹底した情報公開が出発点になる」と述べ、「このような徹底的な情報公開は県職員に戸惑いと反発を呼び起こした。そのために北川が最初に取り組んだのが庁内広報である。それも広報ツールに頼らず、直接対話の方法をとった」として、「知事在任中の8年間で1万2000時間を超えた」と述べています。
 そして、「北川県政の特徴は、企業経営発送の行政への適用であり、顧客志向、成果志向、市場メカニズムの活用、権限委譲・分権化といった特徴を持つ。このような統治の方式はNPM(ニューパブリック・マネジメント)と呼ばれるが、当時相次いで各県に誕生した改革派知事の賛同を呼び、各県に波及していった」と述べています。
 本書は、日本の広報とPRの変遷を追った一冊です。


■ 個人的な視点から

 日本の「広報」のルーツが満鉄だったりGHQだったりという辺りに、歴史好きな人は結構興味を持たれるのではないかと思います。


■ どんな人にオススメ?

・「広報」の微妙な立ち位置が気になる人。

2011年6月28日 (火)

南の島の日本人―もうひとつの戦後史

■ 書籍情報

南の島の日本人―もうひとつの戦後史   【南の島の日本人―もうひとつの戦後史】(#2036)

  小林 泉
  価格: ¥1680 (税込)
  産経新聞出版(2010/07)

 本書は、ミクロネシア連邦チューク(旧称トラック)州の伝統的大酋長であったススム・アイザワ氏と、ミクロネシア連邦の初代大統領だったトシヲ・ナカヤマ氏の2人を通して、かつての日本が統治していたミクロネシア日系人の歴史を追ったものです。
 第1章「ススムとトシヲの物語」では、「どちらかと言えばスポーツ万能で肉体派のススムが勉学のために本土にわたり、一方で学究肌のトシヲには教育の場が与えられなかった。なんとも、皮肉なめぐり合わせなのだろう」と述べた上で、「英語を身につけた出来のよい若者を政府職員に登用して、行政経験を積ませる」という将来ミクロネシアをまるごと取り込もうとするアメリカの戦略によって、トシヲが1953年に中学教師から引き抜かれて政府職員になったと述べています。
 そして、年をが地区議会をふりだしに、上院議員選挙にも難なく当選し、3期目には議長に選出。このころから、「トシヲは将来の大統領だ」との呼び声が高くなり、トラック選挙区では、「トシヲには敵わないから」と対立候補が出ないほどの人気者だったが、「シャイで内気な感じ」という第一印象を持たれ、「アクの強い政治家タイプにはとても見えない。深淵を貫き通してアメリカに日間に挑むしんの強さを持ちながらも、物腰は柔らかく周辺の意見をじっくり聞く。ミクロネシアやポリネシア世界では、コンセンサス型のリーダーシップがもんじられるのだが、トシヲはまさにこうしたタイプの指導者だったと言えるだろう」と述べています。
 また、太平洋諸島地域の酋長という存在について,「収穫物の再配分を取り仕切る差配者だったり儀式の中心となる司宰者の役割を担うという共通性がある」として、「王様のような絶対権力者ではない」と述べ、ススムが「トラック諸島の大酋長」になったのは、「世襲的な伝統制度に乗ったからではなく、自らの行動と生き方が人々の支持を受け、自ずと大酋長と呼ばれるにふさわしい人物になったと理解するのが正しいだろう」と述べています。
 第2章「日本人たちのミクロネシア」では、ミクロネシアにおける先覚的日本人として、土佐のいごっそう森小弁を取り上げ、「ミクロネシア日本人の初期段階、つまり日本統治が始まる以前に渡航した日本人たちは、少なからず酋長の娘を娶っている」理由として、「結婚により、身内となって酋長の勢力圏に所属すればまずは身の安全が確保されるし、地元への同化により商売もやりやすくなるという二重のメリットが生じる」ことを挙げています。
 また、第二次大戦後にミクロネシアに進駐した米軍が、「まず島から日本をすべて払拭し、日本人全員を退去させる方針だった」ことから、「親子が引き裂かれる戦後の悲劇が生じる」と述べ、「幾人もの父親が、子供たちと帰島するとの約束を交わして別れを告げた。そしてどの父親も、子供たちや妻との再開を信じていたに違いなかった。だが、庄太郎や正実のように、その約束を果たせた者は、むしろ少なかった。敗戦直後の日本には、引揚者それぞれに自らの想像を超えた様々な現実が待ち受けており、その後の人生の予定を狂わせていったからである」と述べています。
 そして、「日系人の中からこれまでに6人もの大統領が誕生した事実に象徴されるように、新しくできた国々での日系人の活躍はめざましく、彼らの存在そのものが、私たちが忘れかけていた日本とミクロネシアの歴史的な関係性を覚醒させてくれる」としながらも、「ミクロネシアの日系人と言うけれども、その出現の経緯からすれば、彼らは皆棄民ではないか」という「突然込み上げてくる恥ずかしさに襲われた」と述べています。
 本書は、歴史の表舞台に現れない家族と民族の歴史を語った一冊です。


■ 個人的な視点から

 南の島に日本語の単語がいくつも残っているという話はよく聞きますが、母系社会ゆえに日系人が多く残っているというのは不思議な感じがしました。


■ どんな人にオススメ?

・南の島に暮らしたいと思っている人。

2011年6月27日 (月)

政権交代期の日本経済

■ 書籍情報

政権交代期の日本経済   【政権交代期の日本経済】(#2035)

  白川 一郎
  価格: ¥882 (税込)
  中央公論新社(2010/07)

 本書は、「日本経済の停滞の背景に、政治の貧困があることは間違いない」という問題意識から、「そうした政治と経済の関係をやや長期の視点から、具体的なデータを使って分析を行ったもの」です。
 第1章「いずこへ日本経済」では、「経済社会もいろいろの出来事が起こっているが、結局その背後にある経済のメカニズムで動いているのではないか、という思いが日増しに強くなっていた」と述べた上で、2008年9月のリーマン・ショックについて、「日本経済が先進諸国で最大の被害国となった理由」として、
(1)日本経済はリーマンショック以前から、すでに不況に入り始めていた
(2)政策対応の遅れ
(3)当時の麻生首相の失言が自体をさらに悪化させてしまったのではないかと考えられる。
の3点を挙げています。
 第2章「政権交代で何が変わるのか」では、民主党への政権交代によって大きく変わった点として、
(1)旧大蔵省からの予算権限の剥奪
(2)公共投資一辺倒から国民生活重視へ予算の中身が大きく変わるだろうということ
の2点を挙げ、「2009年9月、国民はひとつの選択をしたことになる。ある意味で、これは分かりやすい構図になっている。これまで公共投資に流れていた税金が、そこから引き上げられ義務教育を受けている子弟を抱える家庭や社会的弱者に流れるということになる」として、「国民から徴収した税の配分が大きく変わっていくことになる」と述べています。
 また、自治体の改革が行政改革の本丸である理由として、
(1)自治体財政の改革
(2)自治体のガバナンスの低さ
の2点を挙げ、(2)については、「どこの県とは言わないが、知事が一言発言すれば、法律に抵触していようがいまいが、知事の意向に添えるよう県庁職員が走りまわるなどという馬鹿げたことが現実に行われている。こういう例だと、法律違反ではなく県の職員が知事の意向を忖度して勝手にやった行動だから一層質が悪い」と指摘しています。
 第3章「政権交代の裏側で何が起こっていたか」では、「過去50年にわたって、日本の政治権力を維持してきた自民党の敗北は、日本の政治史においても画期的な出来事であった。こうした出来事の背後には、必ず経済の動きの変化がある」とした上で、2009年に自民党政権が崩壊した背景にある経済的変動として、「1990年におけるバブル崩壊」を挙げ、「安定した経済成長の持続こそが、自民党政権が継続した基盤だったのである。ゴルディロックス・エコノミー(Goldilocks Economy)という言葉がある。物価が熱すぎず、また冷た過ぎもしないほどよい状態で、成長が続いている経済のことである。見本経済の安定した成長が維持したこの時代こそ、自民党にとってのゴルディロックス・エコノミーだったと言えるのではないか」と述べています。
 そして、問われなければならないのは、「自民党がどうして2009年に敗れたか」ではなく、「90年代から2009年までどうして自民党が政権を維持し得たのか」ということになると指摘しています。
 第4章「官僚に依存した自民党政治」では、「政治主導の行政に立ちふさがっている壁の一つが、それぞれの役所が独立した地位を占めている、という点である」とした上で、「日本では大蔵省を頂点とする官僚ヒエラルキーが構成されてきたこと」をあわせて指摘しています。
 第5章「マドリング・スルーの時代が続く若年雇用」では、「若年雇用問題というのは単純に景気が良くなれば解消するというたぐいの問題ではない」として、「背後に構造的な問題をはらんでいるだけに、その解消には時間のかかる政策対応が要請されている」と述べています。
 本書は、日本の政治の問題の背後にある経済のメカニズムを解説した一冊です。


■ 個人的な視点から

 結構大きなテーマを薄い本でざっくりと書いているせいか、読後感としてはエコノミストと呼ばれる人たちの講演を聞いたあとのような感じです。


■ どんな人にオススメ?

・経済と政治の話を聞きたい人。

2011年6月26日 (日)

欲しがらない若者たち

■ 書籍情報

欲しがらない若者たち   【欲しがらない若者たち】(#2034)

  山岡 拓
  価格: ¥893 (税込)
  日本経済新聞出版社(2009/12/9)

 本書は、日本経済新聞社編集局産業地域研究所が実施した消費者向けアンケート調査の結果や若者へのインタビューなどをもとに、若年層の意識や行動、消費動向の変化とその背景を探っていくものです。その切り口は、「車に乗らない。ブランド服も欲しくない。スポーツしない。酒は飲まない。旅行しない。恋愛には淡泊。貯金だけが増えていく」というものであるとしています。
 第1章「車離れに観る若者たちの価値観」では、現代の日本において、消費者がモノを買う理由として、
(1)単純に、生きて暮らしを維持していくのに必要なものを手に入れるため。
(2)より便利な生活をするため。
(3)他人との違いを示すため。
の3点を上げた上で、「現代の若者は後のふたつ、『便利さ』と『差異表示』の両方に対して『もういいよ』と思い始めている」と述べています。
 そして、車離れについて、「大きく低下しているのは車の必要性ではなく、消費財としての魅力である。つまり、『差異表示記号としての車の役割の低下』をひとつの要因としてあげることができそうだ」としています。
 また、日産自動車のマーケティング担当者の言葉として、「若年層はもはや『走り』にすら興味を持たない。性能やスペックを追求する車マニアは、今の若者から見ればただの"イタい"人」だと述べています。
 第2章「若年男子は酒よりスイーツへ」では、「従来型の飲酒文化に馴染まないまま大人になり、社会へ出る若者が増加している」として、「急速に進む若者の酒離れについては、複数の大手酒類メーカーが口を揃えて『通過儀礼(イニシエーション)の消失』を指摘している」と述べています。
 第3章「後退する『ハレの消費』と『巣ごもり』傾向」では、かつて、「なぜスポーツマンの価値はそれほど高かったのだろうか。その理由は極めてシンプルだ」として、「かつて、スポーツは余暇とお金がある人だけが楽しめる贅沢な消費財であった」ことを挙げ、「今の若者は、差異を見せつけるための『威張り』や『モテ』のためにお金を使わず、労力もかけようとしていない。純粋にその競技の面白さに魅せられた層以外は、プレーをする側の消費からは離脱しているようだ」と述べています。
 第5章「恋愛市場の危機」では、「多様なイメージを並べて複数回答で選んでもらった結果、若い層ほど異性との交際に否定的な見方が強まる傾向が鮮明になった」と述べ、「否定的な項目では、軒並み今の20代のほうが高くなった」として、
・「趣味や個人的な楽しみの時間が減る」は上の年代の約2倍
・「お金がかかる」も10ポイント以上高い
・「異性との親密な交際は面倒、煩わしい」は上の年代の3倍近くに達した
などを挙げています。
 著者は、「オスの孔雀が尾羽を広げるように、おしゃれなデートカーを誇らしげに彼女に見せて歓心を買おうとしたかつての男性像はもはや存在しないのだ」として、「もはや男性も、そして女性も、相手のために着飾ることをしなくなっている」と指摘してます。
 第7章「『平成成人』はクールな調整型」では、「室内での時間の使い方も上の年代とは違ってきている』として、「AVや情報機器と向き合う時間を見ると、20代よりTV視聴が減り、ネットの閲覧などに費やす時間が増えたことが分かる」として、「ドワンゴ」取締役の夏野剛氏が、「彼らはテレビ番組を見るよりも、全くオリジナルのコンテンツをパソコンで楽しむ方が好きだ。特にニコニコ動画は、動画に対するコメントを書き込むことができ、他の人のコメントも動画と一緒に見ることができる。他の閲覧者と一緒にライブの臨場感を味わえる」と語っていることを紹介しています。
 本書は、上の世代が踊らされてきた、車、スポーツ、恋愛、テレビという虚業に今さら踊らされる人はいないということを再確認させてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 「高い四駆を買ってブランド物の服を着て冬はスキーに行きクリスマスにはシティホテルに泊まる」ことにお金をつぎ込む人たちを笑うってどこかで聞いたことがあると思ったら『気まぐれコンセプト』ではないかと。やっとホイチョイの感覚に世の中が追いついたのかもしれません。


■ どんな人にオススメ?

・いまだに頭の中が「私をスキーに連れてって」な人。


2011年6月25日 (土)

日本の鉄道創世記---幕末明治の鉄道発達史

■ 書籍情報

日本の鉄道創世記---幕末明治の鉄道発達史   【日本の鉄道創世記---幕末明治の鉄道発達史】(#2033)

  中西 隆紀
  価格: ¥2100 (税込)
  河出書房新社(2010/6/9)

 本書は、「港」をキーワードに日本の鉄道史の謎を渡航としたものです。
 第3章「長崎海軍伝習所と幕府の海軍」では、幕府海軍の最初にして最後の国産軍艦である「千代田形」について、「この国産軍艦『千代田形』をつくった小野友五郎と肥後浜五郎が、後に明治最初期の鉄道建設にたずさわる『二人の五郎』でもある」と述べています。
 第4章「ミニチュア機関車模型からの出発」では、「国禁を犯してでも国外渡航を企てようとした男達が、薩摩藩と長州藩にいた」として、「ことに鉄道という観点で注目されるのは、薩摩藩よりも長州藩の視察組である。この長州の5人のうち4人が、後に政界ばかりか鉄道創業に深く関わることになる。後に憲法草案を練りあげて総理大臣となる伊藤俊輔(伊藤博文)、後の工部省少輔山尾庸三、後の大蔵省大輔井上聞多(井上馨)、そして鉄道界のトップとして長く鉄道に心血を注ぐことになる野村弥吉(井上勝)である」と述べています。
 第5章「汽笛一声――海上を走る最初の蒸気機関車」では、海中に築堤するという決定の裏には、「幕末に経験した土木技術の裏付けがあった」として、幕末に建設された江戸湾の「台場」の建設技術を挙げています。
 第8章「国内最大の株式会社『日本鉄道』の誕生」では、日本鉄道の予定線路について、「本州東半分の幹線と九州が範囲という大計画だった。その広範囲のゆえに、『日本鉄道』という企業名が決定した」とした上で、日本鉄道の場合、「土地収用も政府が代行してくれるということになった。しかも官有地は無料で、民有地は政府が買い上げた後に払い下げてくれるという、まるで赤ん坊を絹地で懐に抱くような手厚い支援が施された」と述べています。
 そして、「株式会社『日本鉄道』の設立は、政府にとっては悲願の関東・東北路線建設を進める国家事業で、華族にとっては死活をかけた経済問題だったのである」と述べています。
 本書は、日本の鉄道草創期の様々な思惑と人間模様とを同時に伝えてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 鉄道好きと歴史好きというのも二大オタクジャンルの花形と見るか、「二重苦」と見るかは人によって判断が分かれるところかと思いますが、これはこれで楽しそうです。


■ どんな人にオススメ?

・鉄道と歴史が好きな人。

2011年6月24日 (金)

ツイッターノミクス TwitterNomics

■ 書籍情報

ツイッターノミクス TwitterNomics   【ツイッターノミクス TwitterNomics】(#2032)

  タラ・ハント, 津田 大介(解説), 村井 章子 (翻訳)
  価格: ¥1650 (税込)
  文藝春秋(2010/3/11)

 本書は、「ツイッターに代表されるようなウェブ2.0によって花開いた様々なツール――ブログやSNS、ウィキ、ポッドキャスト、ソーシャル・ブックマーク――等によって、僕たちの住む世界のルールがどう変わったかを、その先進国アメリカの事例をもとに、分かりやすく書いた解説書」です。
 第1章「ウッフィーって何?」では、「ソーシャル・キャピタリストとは、大勢の人と信頼関係でつながり、コミュニティを形成し、ウッフィーを増やす人」だとした上で、「ウッフィーは、その人に対する評価の証と考えればいい。人に喜ばれるようなことをしたり、手助けをしたりすれば、あるいは大勢の人から尊敬され評価されれば、ウッフィーは増える。逆なら、減る。ウッフィーの重みは、人とのつながりやコミュニティとのかかわりに左右される」と述べ、ウッフィーを増やす方法として、
(1)好かれること
(2)つながること
(3)一目置かれること
の3点を挙げています。
 そして、「ギフト経済」について、「与えれば与えるほどウッフィーが増える。ここが、市場経済と大きく違うところだ」と述べています。
 著者は、「ウッフィーとは、信頼、評判、尊敬、影響力、人脈、行為などなどの積み重ねの中から生まれるものである。ウッフィーを増やすのに資本金や規模は関係ない。ホームワーカーも、小さなお店の店主も、アーティストも、NPOも、ソーシャル・ネットワークを使ってウッフィーを増やし、ビジネスを広げている」と述べています。
 第2章「Twitterはテレビ広告よりも時には効く」では、「広告攻めに会い、すっかり疑い深くなり、辟易した消費者は、広告やセールスに耳をふさぎ、重要なメッセージさえ聞こうとしない」とした上で、「消費者が広告にそっぽを向く最大の理由は、別にある。みんな、知っている人、信頼できる人の言うことしか聞かないということだ」と述べています。
 そして、ウッフィー・リッチになるための原則として、
(1)大声でわめくのはやめ、まずは聞くことから始める。
(2)コミュニティの一員になり、顧客と信頼関係を築く。
(3)わくわくするような体験を想像し、注目を集める。
(4)無秩序もよしとし、計画や管理にこだわらない。
(5)高い目標を見つける。
の5点を挙げています。
 第3章「デルは、商品に対する不満も公開した」では、「大声でわめくのをやめるとは、すなわち、オープンな対話に比重を移すことである」として、「デルの場合には、製品やサービスに対する意見や要望を求め、真剣に耳を傾け、できるだけすみやかに対応すること、オンライン・コミュニティに研究開発計画を小兵することなどを実行している」と述べています。
 第4章「ウェブ上で顧客を増やす八つの秘訣」では、「ひとりの顧客を喜ばせたらもう一人をがっかりさせかねないようなとき、できるだけ多くの顧客に満足してもらうには、どうしたら良いだろうか」という問題について、
(1)製品やサービスは、できるだけ幅広い層を対象に設計する。
(2)コメントには必ず返事をする。否定的な返事でもよい。
(3)批判を個人攻撃と受け止めない。相手は、わざわざ時間を割いて改善すべき点を指摘してくれたのである。
(4)有益な指摘やアイデアには公に感謝する。本人にとっては嬉しく、他のメンバーにとっては励みになる。
(5)新機能や変更は必ず事前に知らせ、フィードバックを求める。
(6)フィードバックを活かしてこまめに改善する。それによって、常に顧客の声を聞く姿勢が伝わる。
(7)フィードバックを待つのではなく、こちらから探しに行く。コメントやメールが来なくても、顧客は100%満足しているわけではない。
(8)どんなに愛されている会社や製品でも、あら探しをする人は必ずいると覚悟する。
の8つのアドバイスをしています。
 第5章「ただ一人の顧客を想定する」では、「多種多様な顧客グループがそれぞれに個性豊かなコミュニティを形成するとき、一体どうやってコミュニケーションをとればいいだろうか」という問題について、「いきなり大きな手段をコミュニケーションを取ろうとするのは無理がある。それよりも、ある一人の顧客を考えるほうがいい」と述べ、「大切なのは、『ターゲット顧客』を想定して売り込みの対象にするのではなく、本物の顧客とつながりを持つことだ」としています。
 第8章「アップルはなぜ人をわくわくさせるのか」では、「わくわくするような体験を想像して積極的に注目を集める」タメのヒントとして、
(1)ディテールで差をつける。細部へのこだわりや気配りが特別な感じを演出し、満足感を高める。
(2)ワンランク上を目指す。顧客の期待やベストプラクティスを越えるような満足感を目指す。
(3)感情に訴える。製品やサービスへの愛着は、コミュニティを生み出す力になる。
(4)楽しさの要素を盛り込む。思わず笑ってしまうような体験を想像する。
(5)あたりまえのものをファッショナブルにする。全然おしゃれじゃないものでも、クールにすることは可能だ。
(6)「フロー体験」を設計する。みんなが病みつきになるような仕掛けを用意する。
(7)パーソナライゼーションの余地を残す。誰でも「自分だけの特別なもの」が大好きだ。
(8)実験精神で挑む。新しいことを試し、顧客を巻き込む。
(9)シンプルにする。使いやすいものほど愛される。
(10)お客様をまずハッピーにするビジネスモデルを構築する。顧客が自分の力を発揮できるようにすること、達成感を味わえるようにすること、人間関係をゆたかにすることを考える。
(11)媒介役であるソーシャル・キャタリストを作る。製品やサービスが生み出す体験を通じて人々を結びつける。
の11点を挙げています。
 第11章「ツイッターノミクスのルール」では、「毎日のように登場する新しいツールは、ただの便利な道具ではなく、人と人をつなげる働きをする。知っている人同士をより強く結びつけるだけでなく、どこかにいるまだ知らない仲間を見つけ出すこともできる。こうしてつながりが生まれるところに、ウッフィーも生まれるのである」と述べています。
 本書は、人のつながりが価値を生む社会の仕組みを解説した一冊です。


■ 個人的な視点から

 分量は多いけど内容は比較的ライトというか、いわゆるビジネス書とエッセイを足したような感じだと思うと気楽に読めます。「~ノミクス」は「ウィキノミクス」への便乗という感じか。ちょっと前だったら『最新・ツイッターマーケティングのすべてがわかる』とかのタイトルが付いたのかもしれません。


■ どんな人にオススメ?

・ツイッター時代のマーケティングを理解したい人。

2011年6月23日 (木)

ヒトの誕生―二つの運動革命が生んだ

■ 書籍情報

ヒトの誕生―二つの運動革命が生んだ   【ヒトの誕生―二つの運動革命が生んだ】(#2031)

  葉山 杉夫
  価格: ¥693 (税込)
  PHP研究所(1999/05)

 本書は、ヒトが、「現在の我々に見られる姿、つまり人の人たる基本的デザインとその機能を獲得」した、2つの大きな運動革命について解説したものです。
 第1章「霊長類へ、三十八億年の旅」では、「もとをたどっていけばわれわれヒト(ホモ・サピエンス・サピエンス)のルーツは少なくとも13回の絶滅という地球規模のクライシス、つまり、壊滅的な悲運死を幸運にも回避して生き延びてきた奇跡的な生物である」と述べ、「このクライシスの直後に動物は、多様性を増大させて、進化を加速させる」としています。
 そして、5億5千年前に姿を表した最初の脊索動物であるピカイアについて、「カンブリア紀にピカイアが生き残れなかったら、われわれヒトも今ここに存在しない」と述べています。
 第2章「樹上で起きた第一回運動革命」では、地上生活から樹上生活への移動に伴う一番の変化として、「生活空間が二次元から樹上の三次元になること」を挙げ、「このことが体の基本的デザインに画期的な変化をもたらすことになる。サル類は三次元不連続空間に適応するために体制の画期的な再編成をしていったのだ」と述べています。
 そして、「実施系(運動期間)である手と受容系(感覚器官)である視覚、平衡器と指令系(神経系)である小脳とが三位一体となって樹状三次元での生活を可能にした」と述べています。
 第3章「ヒトが誕生した第二回運動革命」では、イブ・コパンが唱える「イースト・サイド・ストーリー」について、「餌を求めたはじめは川辺林や乾燥疎開林に、そしてついにサバンナに出ていったサル類の中に、日本の足で歩き始めたものがいた。われわれのルーツ、初期人類(ヒト科)である」として、これが「第二回運動革命」だと述べています。
 そして、「二足歩行が確立すると、手(上肢)は、歩行から解放されて自由になり、この時点で上肢の機能は二足歩行への副機能となり、上肢の手は、主機能たる道具製作使用器官となる。つまり主機能の交代である。これぞまさしく"ヒトの誕生"である」と述べています。
 第4章「二足歩行から始まった脳の巨大化」では、「サル類(類人猿)をヒトを画然と分けてしまったのは『歩き方』なのか、発達した『脳』なのか」という問について、「1950年代までは脳と考えられていたのだ」と述べた上で、「手の神経の体性感覚野の伝達系から情報が脊椎を通じて脳に送られると、瞬時に脳が反応して運動指令を出す。手がフリーになるということは、手を使うたびにこのやりとりを大脳としていることになる。これを毎日行えば、当然、脳の活性化につながる。脳が毎日学習しているようなもので、必然的に脳が発達することになるのだ」と述べています。
 第5章「ヒトはなぜ話すのか」では、「ヒトの首(頭部と頚部とを合わせた部分)の大きな特徴は、喉頭が下降していることである」として、「この喉頭の下降が、ヒトがことばを話すためのハードウェアの原点でもある」と述べています。
 そして、「声門上部の喉頭から口腔や鼻腔を通り、口唇の一部の赤唇(口紅をつけるところ)までを音道という」として、「咽頭が縦に長く広がったために音波を修飾する広い音道が形成された。これが構音器官である。これは、直立二足歩行生活による体制の"大革命"という言葉しか当てはまらないほど画期的な再編成であった」と述べています。
 第6章「ミッシング・リンクを求めて」では、1974年にエチオピアのはダールでアメリカの人類学者、ドナルド・ジョハンソンらが発見した440万年前のラミダス原人の化石について、ジョハンソンらがその日の喜びから、浴びるほどビールを飲み、ビートルズの『ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイヤモンド』を最大の音量で繰り返し鳴り響かせて、新発見の化石を「ルーシー」と呼ぶことと決めたと述べています。
 第7章「アウト・オブ・アフリカ』では、「われわれ現代人(現生人類)の期限は、大きく二つの説に分かれている」として、多地域並行進化説とアフリカ単一起源説を挙げたうえで、ミトコンドリアDNAを分析した結果、「約20万年前におそらくアフリカで生きていたと思われるひとりの女性から派生したものである」とする「ミトコンドリア・イヴ仮説」が提唱されたことを取り上げ、「この理論によると、最初の現代型ホモ・サピエンスの一群は、まもなくアフリカから中東に拡散し、(ヨーロッパの)古いネアンデルタール人および北京原人と入れ替わった――おそらく、徹底的に殺戮した。交雑はしなかった」としています。
 エピローグ「ヒトはなぜ生まれたか」では、「機能形態学的にもヒトという種(スピーシーズ)が分かれば分かるほど奇跡的かつ得意な存在とした思えなくなってくる」と述べた上で、「分子進化時計をしっかりと見つめながらの形態学的なアプローチこそ、ヒトの進化過程のさらなる解読を可能にする」と述べています。
 本書は、ヒトがどのようにして人になったのかを解説してくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 人類学をめぐる急速な進歩を考えると、10年以上前のこの本の内容は既に覆されている部分も多いのかもしれませんが、それにしても楽しく読めました。


■ どんな人にオススメ?

・人類はどこから来たのかを知りたい人。

2011年6月22日 (水)

食の街道を行く

■ 書籍情報

食の街道を行く   【食の街道を行く】(#2030)

  向笠 千恵子
  価格: ¥861 (税込)
  平凡社(2010/7/16)

 本書は、「食の流れを線や面として捉えられないだろうか」という問題意識から、「食べ物の名がついた街道」に着目し、「食の流れを空間的にも時間的にもトータルに把握」することを目的としたものです。
 「鯖街道――小浜から京都まで、ひと塩した鯖を背負って駆け抜けた道」では、「鯖がごく新鮮なうちに塩を振っておけば、『生き腐れ』のファクターが抑えられ、むしろ旨味成分のほうが強調される。そのへんかの時間が、若狭~京都間を担ぎ屋が走るタイムとピタリと一致するのだ」と述べています。
 「ぶり街道――山国の正月の年取り魚=塩ぶりがたどった峠道」では、富山湾の氷見港から飛騨まで、「鮮魚のままでは運べないから、塩をして保存度を高めた。これがぶり街道の主役『塩ぶり』である。富山から高山まで約22里(88キロ)をボッカは60キロもの塩ぶりを背負い、3日がかりで歩いた」と述べています。
 「鮑の道」では、「山国では海産物はとてつもない貴重品だったから、鮑という名前だけを知っていて、見ることも味わうこともなかった人ば大部分だったはず」とした上で、「それを解決したのは唯一、甲斐の国だけ。鮑に熱を通して保存性を高めるとともに、生の貝にまさる美味に親しんだのである。この『煮貝』が運ばれた鮑の道は、海の幸が山の名物に変身していく街道であり、食の街道の中でも高級感では髄一である」と述べています。
 「さつま芋の道――『九里四里うまい』は川越と江戸の距離……」では、「九里四里うまい十三里」というフレーズについて、「九里四里とは『栗より』のダジャレ。『十三里』は江戸~川越間の距離のことという。でも、出来すぎている……と、わたしは長年もやもやしていた」と述べています。
 また、「日本一の焼き芋」で知られる栗源について、「栗源の土は川越と同じだから、幻の金時芋つまり紅赤に最適」だとしています。
 本書は、日本各地の食の流れを追った一冊です。


■ 個人的な視点から

 「エッセイスト」という職業自体がなんだかお気楽そうな印象を与える上に、「食のエッセイスト」って全国の美味しい物を食べ歩いててなんだか楽しそう。お金持ちの道楽という先入観を持ってしまうのは『美味しんぼ』の読み過ぎのせいでしょうか。


■ どんな人にオススメ?

・食を巡る旅をしたい人。

2011年6月21日 (火)

これでいいのか千葉県東葛エリア

■ 書籍情報

これでいいのか千葉県東葛エリア   【これでいいのか千葉県東葛エリア】(#2029)

  小森 雅人, 川野輪 真彦, 藤江 孝次
  価格: ¥1365 (税込)
  マイクロマガジン社(2010/7/23)

 本書は、千葉県の「東葛エリア」と称する地域について、「独自の調査とデータ分析から浮き彫りにし、その結果に共感したり、反発していただくこと」を目的としたものです。
 第1章「東葛エリアと千葉都民って何なのよ」では、「東葛エリアが葛南エリアに遅れをとっていることは明白」としたうえで、千葉都民の定義として、
・千葉県に在住し、寝ること以外は東京都で過ごす
・東京都に通勤や通学をしている
・千葉県民としての意識が低い
・地域に対する愛情が薄い
・新興住宅地やベッドタウンに移住してきた新住民
の5点を上げています。
 また、治安が悪いという印象に関して、東葛エリアと葛南エリアの犯罪認知件数を比較し、1位から4位までを葛南エリアが独占しているという「ハッキリした結果」が出たとした上で、その要因として、希望の大きい繁華街や風俗街があることや公営ギャンブル城が多いことを上げています。
 また、「若者の街」と呼ばれる柏について、「裏柏(ウラカシ)」と呼ばれる個人ショップ群を取り上げ、ファッション関係店舗数では、吉祥寺よりも多いことを指摘しています。
 本書は、巨大な人口を擁しながらもアイデンティティ的には微妙な「東葛」をイロモノ的に見えながらも結構真面目に分析した一冊です。


■ 個人的な視点から

 多くの千葉県民にとって、「葛南」は東京への通過点であるのに対し、「東葛」には行ったこともなければよく知らない、という地域なのではないかと思われます。


■ どんな人にオススメ?

・「東葛」をよく知らない人。

2011年6月20日 (月)

希望難民ご一行様 ピースボートと「承認の共同体」幻想

■ 書籍情報

希望難民ご一行様 ピースボートと「承認の共同体」幻想   【希望難民ご一行様 ピースボートと「承認の共同体」幻想】(#2028)

  古市 憲寿, 本田 由紀
  価格: ¥903 (税込)
  光文社(2010/8/17)

 本書は、ピースボートに乗船する若者達について、「彼らがどのようにピースボートに興味を持ち、船内でどのような活動をし、そして帰国後どうなったかまでの過程を追った」ものです。
 著者は、「今の日本社会において『若者たちをあきらめさせる』ことが必要なのではないかという問題意識が本書にあるとしており、「あきらめさせてくれない社会」を構造を問題にしているとしています。
 第1章「壊れた日本、希望は共同体?」では、「若者の貧困」や「格差問題」を論じるときには、
(1)経済的な問題・・・「貧しさ」」の問題
(2)承認の問題・・・「寂しさ」の問題
の2つのレイヤーに分けると考えやすいと述べた上で、「承認の共同体」において、「『共同性』が『目的性』を『冷却』させてしまうのではないか」というのが本書の仮説であるとしています。
 第2章「旅の終焉と新しい団体旅行」では、若者の旅離れについて、「『お金』や『時間』というのは二次的な理由に過ぎず、むしろその背後に想定される別の因子が若者の旅離れを引き起こしている」として、「『旅』というもの自体が今、消滅しかかっているのかもしれない」と述べています。
 そして、「新・団体旅行」について、
(1)ただ観光地に行って満足するような物見遊山的な旅行ではないこと
(2)通俗的に理解されている「自分探し」であると同時に、「承認の共同体」へのコミットメントでもあること
の2つの特徴を挙げています。
 第3章「ピースボートの秘密」では、1983年に始まったピースボートが、現在では1000人規模の世界一周クルーズを一年に3会実施するまで事業拡大したことについて、「同時に政治的理念の実現という『目的性』=『政治性』を漂白する歴史でもあった」としています。
 また、ボランティアスタッフの活動拠点となる「ピースセンター」、通称「ピーセン」について、彼らにとって、「貢献」すべき団体であり、「大切ですてきな場所」であるとしています。
 第4章「自分探しの幽霊船に乗る若者たち」では、ピースボートに乗船する若者の属性が、
(1)学生
(2)過酷な労働を強いられていた正社員
(3)正社員を含む周辺的労働者
(4)資格所有者
の4つに大別し、「待遇や収入など労働条件が相対的に良くない若者も多く乗船している」としています。
 そして、ピースボートに乗る若者たちが直面しているのは、「閉塞感」や「空虚感」といった「現代的不幸」であるとしたうえで、「もはや現代においては『域づらさ』の処方箋としての『承認の共同体』さえも、『商品化』されていると指摘しています。
 第5章「ルポ・ピースボート」では、若者を、
・セカイ型
・文化祭型
・自分探し型
・観光型
という4つのタイプに分け、実際にクルーズ中に何が起こったのかを見ていくとしています。
 そして、若者たちの語りから見えるるものとして、「ピースボートが決して人生を変えるような劇的な体験ではなかった」としています。
 第6章「あきらめの舟」では、「ピースボートという『承認の共同体』は、社会運動や政治運動への接続性を担保するどころか、若者たちの希望や熱気を『共同性』によって放棄させる機能を持つと言える」としています。
 第7章「だからあなたはあきらめて」では、「セカイ型」と「文化祭型」の若者がたどり着いたのは、「『目的性』がなく『共同性』だけのぬくぬくした温かい居場所だった」として、「希望難民たちは『現代的不幸』に対しムラムラして(衝動や感情が抑えきれないこと)ピースボートに乗り込み、目的性を冷却させた結果、『村々する若者たち』になったのだ」と述べています。
 本書は、希望難民たちが辿った船旅を追跡した一冊です。


■ 個人的な視点から

 「ピースボート」と聞くと、「どうせ左翼かぶれの若者が乗っている船だろう」くらいの先入観しかない人が多いと思うのですが、事態はそれ以上に時代を反映していることに驚きました。


■ どんな人にオススメ?

・世界一周に夢を持っている人。

2011年6月 9日 (木)

世論の曲解 なぜ自民党は大敗したのか

■ 書籍情報

世論の曲解 なぜ自民党は大敗したのか   【世論の曲解 なぜ自民党は大敗したのか】(#2027)

  菅原 琢
  価格: ¥861 (税込)
  光文社(2009/12/16)

 本書は、「自民党の政治家達が、新聞の番記者達が、現状や出来事の因果関係を見誤り、間違った進路に梶を切り、誤った報道を繰り返した」背景に、「ひとは、自分の考え方や事前に有している印象や情報にしたがって、物事を解釈しがち」だという「確証バイアス」があるとして、「ほぼ時系列にしたがって、05年から09年の日本政治上の出来事、現象を計量的に分析」したものです。
 著者は、「自民党は、都市部の支持獲得という的確な処方箋を捨ててしまい、党首人気という根拠のない民間療法のようなものに頼り、病気を悪化させてしまった」として、「小泉政権の下で獲得した若年層・中年層を中心とする有権者の支持を、自民党の政治家達は簡単に手放してしまった。小泉政権に対する有権者の評価の中身を大きく誤解し、政治を迷走させた。世論調査や選挙結果などの意味、有権者の政治意識と行動を理解できず、数々の失敗を重ねた。表面的な『人気』だのみの行動に終始して、自らのリーダーもまともに選出できず、そして自らの政治的な死を招いた」と指摘しています。
 第1章「寝た子を起こした?」では、2005年の郵政選挙について、「この05年総選挙こそ、その後の政治的混乱を生み出したもの」であり、「この選挙を読み解けば、その後の政治状況を考察する上での重要な知見を獲得することができるはずである」と述べています。
 そして、「苦手としていた選挙区で集中的に得票をのばし、民主党に競り負けていた選挙区をひっくり返した結果、自民党は大幅な議席増となった」として、「もともと野党に投票していたような都市部有権者を中心とした構造改革賛成派を惹きつけることによって、自民党は得票をのばしたのである」と述べています。
 コラム「新しい投票者と新しい選択肢」では、「30代首長流行の根底にあるのは、単純な有権者の意識の変化ではない」として、
(1)投票者層の拡大
(2)日本政治の構造変化
の2点を挙げ、「保守系現職首長を支援している支持基盤は、高齢化と産業の衰退という長期的要因で弱化している」ため、「ひとたび有力な対抗馬が出現すると、組織の足腰が弱っているために上手く戦えない。一方で、それまで低投票率に『貢献』していたような中・低関心層は、結果が見えないマッチアップに惹きつけられて投票に参加し、多くが対抗馬に入れる。勝ち馬が勝ち馬でなくなったときの票の剥がれ方は実にダイナミックである」と述べています。
 第2章「逆小泉効果神話」では、07年参院選での自民党の大敗について、「自民党が大敗したのは1人区のみ」であることを指摘し、「小泉構造改革路線によって、地方、農村が衰退している」ため、「かつて自民党を支持していたこれらの地域の有権者が、いまや自民党から離れて民主党を支持するようになっており、それが如実に現れたのが07年参院選の1人区だと解釈されている」ことに疑義を示しています。
 そして、「07年参院選の自民党の大敗は、野党間協力や優良候補者の擁立など、野党側の1人区の選挙戦略が上手くいったことによって生じたものであって、言葉としては『自民党が負けた』というより、『野党が大勝した』というほうがふさわしい現象であった」と述べています。
 第3章「逆コースをたどる自民党」では、「小泉政権へのマイナスの評価、『負の遺産』によって支持者が自民党から離反したというストーリーは描けない。小泉の評価が高いままで、自民党や安倍の評価が落ちていることからすれば、むしろ、小泉の示した方向性、政策路線を踏襲しなかったために、自民党から離反したのだと解釈した方が自然だということになる」と述べています。
 第4章「『麻生人気』の謎」では、「麻生人気」と呼ばれる現象について、
(1)麻生は国民的人気があったわけではない
(2)一部報道を除き、麻生の人気は「ネット」「若者」等の限定を付されている
(3)そのネットや若者に限定しても、麻生人気は存在しないか、極限定的なものである。
と指摘しています。
 第5章「作られた人気」では、「世論調査では、どのような選択肢を置くかによって回答の分布が変化する」とした上で、「麻生人気」について、「どれも不味い料理を出す店に入ってしまい、おなかが空いているので仕方なく『みんなが選んでいるみたいだから』と選んだ料理が、その店の『人気メニューランキング1位!』と紹介されているようなものである」と述べています。
 第6章「世論とネット『世論』」では、「ネット情報に過度に依存し、偏った情報を摂取する有権者像は見えてこない」として、「ネットコミュニティが常に偏っているわけではないことも含め、偏ってネット言論の社会への影響を危惧するとすれば、それは大げさだといえそうである」と述べています。
 第7章「『振り子』は戻らない」では、「09年総選挙で自民党が失っている票は、05年総選挙で新たに獲得した票よりも大きく、厚いと思われていた地盤を突き崩すものであった。次期参院選や総選挙で自民党が勝つためには、民主党に逃げ始めた農村の『与党』支持票と、小泉を支持していたような都市の票を、一緒に、一挙に獲得する必要がある。『振り子』型章も取ってきただけでは、強力な与党民主党には勝てない」と指摘しています。
 終章「自民党大敗の教訓」では、「現象を各種専門用語や無党派に丸投げせず、政治と距離のある普通の人々を想定して世論を理解する」ことが、「この時代の世論を理解する一歩となるであろう」と述べています。
 本書は、永田町に通い詰めていれば見えるというものではなくなった「世論」を正しく見ることの大切さを説いた一冊です。


■ 個人的な視点から

 著者が学生時代に携わった『選挙ポスターの研究』は読み応えがある上に着眼点が面白かったです。こういう切れ味のいい本を書いてくれるのは嬉しいことです。


■ どんな人にオススメ?

・「構造改革の負の遺産」という言葉を信じちゃいそうな人。

2011年6月 8日 (水)

日本政治論

■ 書籍情報

日本政治論   【日本政治論】(#2026)

  五十嵐 暁郎
  価格: ¥2940 (税込)
  岩波書店(2010/9/30)

 本書は、「視野を政党政治や官僚制に限定せず、日本社会全体に拡げ、転換期の日本政治を分析するとともに、そうした領域における政治が政党政治や官僚制に及ぼす影響も含めて、現代の日本社会全体における政治の構造とダイナミズムを明らかにしよう」としたものです。
 序章「転換期の日本政治と2つの要因」では、日本政治が、様々な点で転換期にある要因として、
・グローバリゼーションの影響
・脱工業化社会における人々の意識の変化
の2点を挙げています。
 第1章「現代日本政治の軌跡」では、第二次世界大戦後から今日までの日本政治の展開を、
(1)ハイ・ポリティクス:イデオロギー的対立が軸
(2)インタレスト・ポリティクス:利益の獲得
(3)ライブリー・ポリティクス:個々人の精神的な価値の充足を求めて
(4)グローバリゼーション・ポリティクス:グローバリゼーションに伴う課題への対応と解決方法
の4段階に分けて論じています。
 第2章「揺らぐ官僚制支配」では、「官僚制と業界・団体は利益の共同体を作り上げるとともに、この『秩序』を乱す新規参入者は官僚制が有する許認可権を利用して排除することもできる。官僚制と既存の業界・団体による『心地よい』独占状態が、こうして維持されるのである」と述べています。
 第3章「議会政治は機能しているか」では、「自民党長期政権崩壊の遠因は、冷戦の終焉や脱工業化時代の到来、それらによる有権者の意識の変化にあった。そうだとするならば、新しい政党政治は55年体制の時代とは異なる政策や争点によって自民党に対峙しなければならなかった」として、「冷戦の終焉などの時代背景の変化が、保守と革新という戦後政治におけるイデオロギー的な対立構図を最終的に消し去った」と述べています。
 第4章「変化する人々の意識」では、「民主主義国家の主権者でありながら、政治への働きかけがどれだけ有効であるかについて国民の間では懐疑的な態度が支配的になっている。政治不信が拡がっているのである」と述べています。
 第5章「変容する有権者の選択」では、「組織に依存する政党の盛衰は、政策やイデオロギーによるのではなく社会構造の変動の結果でしかない」として、公明党と共産党が、「急激な都市化によって劣悪な生活環境の下に置かれた有権者の日常生活を法律や税金などの専門知識によって支援しながら、2つの政党は党勢を拡大していった」と述べています。
 また、「無党派層はやがて、単純な政治的無関心層ではなく、むしろ政治的な関心が強く、その時その時の選挙に際して、自分の一票を意図的に駆使しようとする、ある意味で成熟した有権者層であることが明らかになってきた」と述べています。
 第7章「ジェンダーと日本政治」では、近年、女性が政治への進出を果たすようになった要因として、
(1)学歴・職歴の上昇
(2)地域における市民運動
(3)国際女性年世界会議の影響
(4)政党の選挙対策とクォータ制の可能性
(5)「女性による政治」に対する有権者の期待
の5点を挙げ、「女性の政治進出について問われるのは、女性が政治的決定の場に参加することによって何が変わるのか、ということである」と指摘しています。
 第8章「政治と経済の距離」では、日本の経済計画が、
(1)「望ましい経済社会発展の方向」を示すこと(展望)
(2)その実現のために政府が取るべき政策の方向を示すこと
(3)国民や企業に活動の指針を示すこと
の3つの性格を持っているとされるが、1990年代以後の「構造改革」論の特徴として、「バブル経済崩壊のショックから、ひたすら日本経済の『再生』や『再活性化』が説かれていること」を挙げ、「そこには、社会のあるべき姿についての洞察や思想が見られなくなっている」ことてを指摘しています。
 本書は、日本政治をざっくりと概観した一冊です。


■ 個人的な視点から

 本書のお勧めできるポイントは、普通の政治学の教科書だと、本書で言う第二次世界大戦後の4段階のどこかに注目するスタンスのものが多いのに対して、どこにも与しない中立的なスタンスで書いていることでしょうか。


■ どんな人にオススメ?

・政治学の教科書は苦手な人。

2011年6月 7日 (火)

ガリレオの振り子―時間のリズムから物質の生成へ

■ 書籍情報

ガリレオの振り子―時間のリズムから物質の生成へ   【ガリレオの振り子―時間のリズムから物質の生成へ】(#2025)

  ロジャー ニュートン (著), 豊田 彰 (翻訳)
  価格: ¥2835 (税込)
  法政大学出版局(2010/10)

 本書は、「時間のリズム、そのリズムがガリレオの振り子によりついに制御されるようになった次第、振り子の振動がわれわれのリズム感覚に与えた衝撃、そしてこういう振動がその後、他の多くの自然現象でも姿を現すことがわかってきた次第」について論じたものです。
 第1章「生物が記録する時間」では、「生物的な仕組みは現代の時計のように正確に、また安定して働くわけではないが、時間とそのリズムの感覚は、人間の身体の機能に組み込まれている」として、脈を打つ心臓や、「24時間周期を記録し、外部刺激がない場合にもこれを維持」する内部時計などを挙げています。
 また、そのリズムを決める「生物時計の進み方」と、「ある任意の瞬間におけるこのリズムの位相」とを「はっきり区別しなければならない」と述べています。
 第2章「カレンダー」では、「文明が発生する頃までには時の流れという概念は十分、定着していたようである」とする理由として、
(1)ある場所から別の場所に旅行する時間の長さというような、ある過程の継続期間を測定すること
(2)何らかの記念すべき出来事が起きたのがどれだけ以前のことであったのかを勘定すること
(3)自らの生活や他人との関係を調整するために今という時、そして未来の今という時を指定すること
の3点を挙げています。
 第3章「初期の時計」では、「宗教的あるいは神官的な見地からすれば、日、月、年といった期間は天空によって、それゆえに神々によって定められたものであった」が、「これをさらに細分することは、人間の手によらねばならず、したがって胡散臭いことであった」と述べています。
 第4章「振り子時計」では、「ガリレオの最初の重要な科学的発見は、理想的にいえば軽い紐につるされた重いおもりからなる単振り子の性質であった」として、「この振り子が余り大きく揺れない限り、その周期(ひと揺れするのに要する時間)は振動の振幅(おもりが描くこの長さ)にはよらないということである」と述べています。
 そして、「ガリレオが時計の調節に振り子を用いることを提案したとき、念頭にあったのは、公開中の船の経度測定という、ほかならぬこの喫緊の必要性であった」と述べています。
 第5章「その後の時計」では、「厄介な長い振り子――これは、おもりで駆動される時計と同じように、直立した状態でしか作動しなかったので、輸送や携帯が容易ではなかった――に取って代わって持ち運べるようになるものが、とうとう17世紀の後半」に、ロバート・フックとクリスティアン・ホイヘンスによって発明されたとして、今日「ヘアスピリング」と呼ばれる「ひげゼンマイ」の発明を紹介しています。
 そして、「ピサの聖堂で揺れるランプにガリレオが夢中になったという言い伝えからは、ずいぶん遠いところまで来てしまった」が、「商業活動及び科学研究の双方を含めた現代生活の多くの面で極めて重要なすべての計時装置は、その心臓部に、ガリレオの振り子とその振動を支配しているのと同一の科学的原理を利用しているのである」と述べています。
 第6章「アイザック・ニュートン」では、「時間への制限関数的な依存性というのは、自然界に見いだされるほとんどすべての小振動を記述する、極めて広範に観測される現象なのである」として、「これらのもっとも重要な特徴」は、「各瞬間における加速度が変位の倍数に負号を付けたものに等しいこと、そしてこの倍数が振動数の二乗、すなわち(2πf)^2に比例するということである」と述べています。
 第8章「量子」では、「量子力学と呼ばれる壮大な新理論は、1925年にシュレーディンガーとハイゼンベルクがほぼ同時に導入した、一見したところ全く異なった2つの理論をディラックが統合したものであった。この2つはそれぞれ波動力学及び行列力学と呼ばれていたが、数学的に等価であることが明らかにされたのだった」と述べています。
 著者は、「揺れ動く振り子に道案内されて、長い、曲折に富んだ道を辿ってきた」として、「ガリレオにとっては、自分が若い頃にその等時性を発見した調和振動子が、世界のうちでもっとも基本的ですべてを包括する物理系に、そしてわれわれが自然を理解するための決定的に重要な建築用ブロックになろうなどとは、思いもよらなかったことであろう」と述べています。


■ 個人的な視点から

 ガリレオは地動説をめぐる裁判の方が有名ですが、ガリレオの振り子の発見から量子力学までを辿る本書の旅は心地良いものでした。


■ どんな人にオススメ?

・ガリレオといえば「それでも地球は回っている」を思い出す人。

2011年6月 6日 (月)

中国ニセモノ商品

■ 書籍情報

中国ニセモノ商品   【中国ニセモノ商品】(#2024)

  馬場 錬成
  価格: ¥798 (税込)
  中央公論新社(2004/06)

 本書は、日本企業が年間二兆円以上の被害を受けていると言われる中国のニセモノ製造会社を調べたものです。
 著者は、ニセモノを増長させた背景として、
(1)製造技術の進歩
(2)中国の地方保護主義が根強くあり、結果的にニセモノ退治が消極的になっていること
の2点を挙げています。
 第1章「ニセモノ製品あふれる巨大市場」では、「多くの中国人が持っているに本製品に対する高品質イメージを、ニセモノ製造業者が悪用する」ために、数年前から「他種類のニセモノ製品が、中国市場に出回るように」なったとしています。
 そして、ニセモノの態様も、「他社のブランド(商標)を勝手に使ったり、『SQNY』『HITACCHI』『PARESONIC』『HONGDA』など、よくよく見ないと見逃してしまうような類似商標を使う単純な方法から、最近は、特許権、意匠権侵害などニセモノの態様も高度化してきている」としています。
 また、ニセモノに対する中国当局の解釈について、「ジャーマオ」と呼ばれる「商標も意匠も特許も侵害して本物そっくりに作ったデッドコピー」と、自社の商標をつけたコピー商品である「倣冒(ファンマオ)」のうち、「中国当局が取り締まりや権利保護に精を出しているのは、ジャーマオであり、ファンマオについては優先度を落としている」と感じると御部低ます。
 第2章「中国初のニセモノ製品が世界市場へ」では、「日本目カーの製品をそっくり真似して作っても自社商標をつけている場合は、ファンマオ(倣冒)と呼んで、中国では問題にしていない」と述べています。
 また、品質について、「製品のばらつきはあるものの、かなり技術で追いついてきた」と述べています。
 第3章「『メイド・イン・ジャパン』は最良のブランド」では、中国でのニセモノに悩まされている企業には、「ニセモノ対策をやっても無駄ではないか」あるいは、「費用ばかりかかって定量的効果が出ていない」という声があると述べています。
 第4章「ニセモノ製造企業との闘い」では、「中国では地方産業を保護するために、ニセモノ企業に対して行政などは甘く処罰する風潮がある」が、2002年にヤマハが全面勝訴となった判決を受けて、「今後は裁判所に訴えて闘うことが期待できるようになった」としています。
 また中国のニセモノ摘発機関として、工商行政管理局と品質技術監督局があるが、摘発依頼に応じるかどうかは、「役所に報酬を支払うかどうかにかかってくる」と述べています。
 第6章「中国のCDは90%以上が海賊版」では、中国で海賊版の生産者を撲滅できない理由として、
(1)海賊版は市場に出てくるのが早いこと
(2)海賊版は著作権料も踏み倒し、税金も支払わないから価格を安く設定できること
(3)中国特有の地方保護主義
の3点を挙げています。
 第7章「ニセモノ製品の歴史は繰り返す」では、「なぜ短期間にこれほどまでに中国でニセモノ製造ができるようになったのか」について、「IT(情報技術)ツールによる技術革新が広がり、製造技術が真似しやすくなった」ことを挙げています。
 本書は、見過ごすことができない一大産業となった中国のニセモノ製造を解説した一冊です。


■ 個人的な視点から

 日本企業の製品の多くが、中国の工場で作られていることを考えると、中国製のニセモノだからといって必ずしも品質は悪くない、というとことに問題の根の深さがあるような気がします。


■ どんな人にオススメ?

・中国製のニセモノは単なる模造品だと思っている人。

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