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2012年7月

2012年7月13日 (金)

カエルの声はなぜ青いのか? 共感覚が教えてくれること

■ 書籍情報

カエルの声はなぜ青いのか? 共感覚が教えてくれること   【カエルの声はなぜ青いのか? 共感覚が教えてくれること】(#2155)

  ジェイミー・ウォード (著), 長尾力 (翻訳)
  価格: ¥2310 (税込)
  青土社(2011/12/22)

 本書は、共感覚についての「『現時点での研究状況を、できるだけ広範に吟味』しながら、共感覚の本質に迫るべく、過去7年間の成果を濃縮することで産み落とされた」ものです。
 第1章「多芸多『彩』なアルビノ」では、「本書を通じ、脳全体が、感覚体験をどのように生み出しているかについての重要な結論を示すつもりだ」と述べています。
 そして、「共感覚者が感じる色は、非常に精確で、時間によって変化することは稀のようだ」と述べています。
 また、目が損傷を受けた場合に、「通常は視覚情報処理を行なっている領野は、聴覚と触覚に『乗っ取られてしまう』」と述べています。
 著者は、「ほぼ50年間に渡り、科学が共感覚を、おおむね切り捨てていたとはいえ、この間に、視覚と色彩についての理解には重大な進展が見られた。他の感覚世界が存在するという発想は、この間も命脈を保っていた」と述べています。
 第2章「諸感覚の力」では、「他感覚知覚は、実験室でのみ研究対象になるような抽象概念ではない。多感覚知覚とは、現実に購入したり、消費したりする物品すべてに関わる特質であり、優れたマーケティングであれば今も、多感覚情報処理に関する科学的知見をフル活用しているのだ」と述べています。
 第3章「もう一つの現実」では、「共感覚をもう一つの現実と考えている。それは、世界へ向けて切られたもう一つの『感覚の窓』であり、思考に彩を添える(思考に味を感じるなどする)方法でもある」と述べています。
 そして、「音楽やその他の音に視覚イメージを感じ取ってしまうタイプの共感覚者は、既に見た幻覚世界に、かなり近い存在だ。彼らの経験は、音楽に合わせて舞う運動や、激しく揺れ動く色、形、質感から構成されており、時には、雨の中を歩いているような感覚を誘発しつつ迫ってくる三次元の霧に包まれることもある」と述べています。
 第4章「額の中のスクリーン」では、「共感覚は、幻肢体験を緩和させるはたらきをしうるし、場合によっては、痛みに対する簡単な癒しとなることすらあるらしい」と述べています。
 そして、「共感覚者はしばしば、数字が空間内に配置された状態にあるのを経験する。全体の12%がこのタイプの共感覚者なのだ」と述べた上で、「数字の場合と同じように、ヒトは誰でも、時間を空間化して捉えているという事実を裏付ける証拠が幾つか上がっている」としています。
 また、「多くの自閉症者が、数字のパターンや順序に引きつけられるが、その内の約10%は、記憶、計算、デッサンについて驚異的な能力を持っている」とした上で、「共感覚は、世界について考えるためだけに存在する、純粋な感覚体験とは思えなくなってくる。つまり、共感覚は、数字や時間を理解したり、言語を操ったり、物事を記憶したりするのに重宝するだけの存在にはとどまらないはずなのだ」と述べています。
 第5章「諸感覚の彼方へ」では、「共感覚には、特にこれといった働きもなく、進化もして来なかった可能性がある。なぜなら、共感覚には初めから『優位性』が与えられていたからだ」とした上で、共感覚が記憶力に有利に働く理由として、「物事を記憶する場合、言葉をはじめ、感覚、空間にまつわる様々なコードを使ったほうが、単一のコードだけに頼るよりも有利だから」だと述べています。
 本書は、共感覚者が感じている世界の一端を解説しようとした一冊です。


■ 個人的な視点から

 「共感覚」というとなにか特殊な出来事のようではありますが、私たち自身も、音楽や味、様々な記憶を他の知覚と結びつけて記憶しているわけです。昔読んだ本を読めば、読んだ時に乗っていた列車の車窓の風景を一緒に思い出したり、音楽を聴けばその時に食べた料理の味を一緒に思い出したりします。そう考えると、我々にとってバラバラなものだと考えられている様々な感覚の境目というのは実は低いのではないかとも思います。


■ どんな人にオススメ?

・共感覚は一部の人だけのものだと思っている人。


2012年7月12日 (木)

日本遊戯史―古代から現代までの遊びと社会

■ 書籍情報

日本遊戯史―古代から現代までの遊びと社会   【日本遊戯史―古代から現代までの遊びと社会】(#2154)

  増川 宏一
  価格: ¥3360 (税込)
  平凡社(2012/2/10)

 本書は、「遊びは生産活動でないがゆえに、生活の中で大切な役割を担っているにもかかわらず、長い間なおざりにされてきた。自然な行為であるため、学術研究の対象にされなかった」として、「日本の遊び全般について見渡した」ものです。
 第1章「遊びの伝来と定着」では、「壮大な平安京は威容を誇る建物や設備は完成したが、そこに住む人々は決して従順でなく、常に支配層を困惑させていた。双六賭博に興じる人たち、僧や官吏も勝負事を楽しみ、時には集団で反抗する民衆も見られた」と述べた上で、「聖武天皇の宮廷では北方アジア型の双六と南方アジア型の双六の両方が遊ばれていた」として、「正倉院に所蔵されている遊戯具から当時の天皇をはじめ皇族、貴族、高級官僚たちが興じていた遊びを知ることができる」と述べています。
 そして、「天皇制の確立とともに宮廷での遊戯は儀式化され、一般の人々の遊びとは大きく乖離するようになった」と述べています。
 また、「今日の日本で最も広く普及している盤上遊戯の将棋は、双六、囲碁、弾碁より数世紀遅れて伝来した」として、日本へは、「ガンジス川下流地方から東南アジアを経て、多分中国南岸を経由していいわゆる『海のシルクロード』によって伝えられたのであろう」と述べています。
 第2章「中世の遊び」では、中世社会を揺るがした「猛悪の輩である悪党の張本人達は四一半を打っていた」として、「4か1の目が出た時には、胴元が掛金の半分を取る」とされていて、「想像以上の早さで全国に拡まった」と述べています。
 また、『看聞御記』に記されている「ごく限られた階層の遊び」からは、「明確に日本独特の遊びが完成していたことを示している」として、
(1)香、茶、酒などの品種や産地を当てる遊びで、嗅覚や味覚を比べ合う優雅で繊細な勝負
(2)文学的知識や教養を比べ合う遊びで、一定の教育を受けた者達の間でのみ通用する遊びで、感性や表現方法に共通点がないと成立しない
の2点を挙げています。
 そして、「様々な記録や物証から15世紀、16世紀は、従来考えられていた以上に碁や将棋の普及した時代であった」と述べたうえで、「中世末期に日本の遊戯史上画期的な出来事があった」として、「カルタの伝来」を挙げ、「カルタは従来になかった紙の札を使う遊びで、数を操作する新しい型の遊戯法なので、たちまち日本人を魅了した」と述べています。
 著者は、「17世紀は、新しい遊びが広がり始め、従来からの遊びも内容が変化するなどの兆しが現れた時代であった」とともに、「各階層の人々が、より豊かに暮らすことを求めて、絶えず遊びを作り出す努力が次第に結実した時代であった」と述べています。
 第3章「華麗な遊びの世界」では、「17世紀以降、最も大きな変化があった遊びはごと将棋である。より正確には碁や将棋を取り巻く環境が変わった」として、「徳川幕府が、たとえ8人でも俸禄と扶持を支給したことは、碁や将棋の一大転換点となった」、「世界でも類を見ない碁や将棋の家が作られたことは、遊戯の世界で画期的な出来事出会った。同時に『家』を存続させ、家禄を受け継ぐことが代々の当主の勤めとなった」と述べ、「俸禄受領に伴う、碁家、将棋家の社会的発言力の向上と地位保全は、17世紀から18世紀にかけての囲碁と将棋という遊びの認識の向上とも言えるだろう」としています。
 また、「江戸期に広く普及して、ついには驚嘆すべき芸術作品となった絵双六も、封建制度の下ではさまざまな制約があった」と述べています。
 そして、江戸期の遊びの共通項として、
(1)政治的安定により交通路も整備されたので人々の移動が活?になった。このため不特定多数を対象とした遊びが盛んになった。
(2)遊びの階層による区別がなくなり、以前は公家の遊びとされたものが、武士や町民、農漁民にも広まった。
(3)木版印刷技術の進歩が新しい遊びをつくり出し広めた。
(4)江戸期の人々の持つ感性、とりわけ、粋、洒脱、機智、滑稽などの鋭い感覚が遊びに投影された。
(5)幕藩体制そのものが、賭ける遊びを助長した。
の5点を挙げています。
 第4章『遊びの近代と現代」では、明治初年の遊びについて、各府県の禁令から、
(1)江戸期の遊びがそのまま継承されていて、政治体制が変わっても遊戯が直ちに変化しない。
(2)天保の改革で禁止されたはずの富くじ及び富くじ類似行為が、各府県内で広く行われていた。
(3)闘犬、闘鶏が繰り返し広範な地域で行われていた。
のように判断できると述べています。
 そして、「トランプの輸入解禁が理由になったのか、ほぼ同じ頃に花札、かぶ札、めくり札も解禁になった」として、「公然と花札類を販売しても良い状況になったので、かるた類は一挙に広まった」と述べた上で、「政府はかるたを常に敵視していた。為政者は遊戯具の消滅を目指していたと断定しても過言ではない」と述べています。
 また、「麻雀が爆発的に流行したのは、関東大震災直後からである」とした上で、第二次第戦後、「遊びに飢えていた人々は、まず瞬時の楽しみを求めた。一攫千金の機会があるかもしれないという時代になったこと、運試しの即決の遊びに合致したのはさいころであった。街頭や闇市で戦後早くに遊ばれたのは、俗称『チンチロリン』という賽遊びであった」と述べています。
 終章「遊戯史研究」では、「古代より遊びは日常のごくありふれた行為として、その起源を調べたり変遷を考えたりすることに、興味や関心が持たれることはなかった」と述べた上で、「遊戯しの何よりもの欠陥は、遊戯の歴史研究は長期にわたって存在しなかったことである。最大の隘路は研究の蓄積が皆無だったことである」と述べています。
 本書は、日本の遊びを体系的に説明してくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 日本人と遊び、特に賭け事の付き合いがいかに長くて深いのかを教えてくれるという意味で、今でもどんな田舎の駅前にもあるパチンコ屋の隆盛が、後の歴史書でいかに語られるかが興味深いところです。


■ どんな人にオススメ?

・日本人と遊びの付き合い方を知りたい人。


2012年7月11日 (水)

太古からの9+2構造――繊毛のふしぎ

■ 書籍情報

太古からの9+2構造――繊毛のふしぎ   【太古からの9+2構造――繊毛のふしぎ】(#2153)

  神谷 律
  価格: ¥1,260 (税込)
  岩波書店(2012/2/9)

 本書は、鞭毛の内部にある「2本の細い管(微小管)を9本の管が円筒状に囲んだ奇妙な構造」について、「長さは生物の種類や生えている器官によって異なるが、直径はほとんど同じ。そんな特殊な構造が多くの生物で共通して見られるということは、これらの生物の共通祖先が同じものを持っていて、進化の歴史を通して保存されてきたと考えなくては、説明がつかない」と解説しているものです。
 第2章「鞭毛の起源をめぐって」では、真核生物の最初期の進化について、イギリスの進化学者トーマス・カバリエ=スミスが提唱した、「真核生物の祖先は、まず鞭毛を1本だけ持つ生物ユニコント(グループはユニコンタと呼ばれる)と2本持つ生物バイコント(バイコンタ)の2つのグループに別れ、その後それぞれがさまざまな多細胞生物を生み出していった」とする説について紹介した上で、「鞭毛との関連で重要なことは、真核生物の共通の祖先が9+2型の鞭毛を持っていて、それがユニコンタとバイコンタの両方に受け継がれていったこと、言い換えれば、鞭毛を持たない生物種は、もし過去に存在したとしても、後の生物集団の中に残れなかったということである」と述べています。
 第3章「9+2構造」では、「自然界で見られる鞭毛繊毛は大多数が9+2型である」が、「多くの場合、その基本形に多少の変化が見られる」とした上で、「9+2パターンで並んだ微小管のうち、周囲の9本を周辺微小管、中心の2本を中心対微小管と呼ぶ。微小管はチューブリンで形成される直径25ナノメートル(1ナノメートルは1000分の1マイクロメートル)の管で、すべての真核生物の細胞中にあって、細胞骨格として機能している」と述べています。
 第4章「中心子のマジックナンバー『9』」では、「繊毛軸糸の周辺微小管の数が決まって9本なのは、根元にある基部体の構造に理由がある。繊毛の基部体は、長さ役0.4マイクロメートルの三連(トリプレット)微小管9組が、直径0.025マイクロメートル(25ナノメートル)程度の円筒形に並んだもので、繊毛はそれらの9本の微小管から伸びるので9本の微小管を持つことになる」と述べています。
 第5章「繊毛はどうやって作られるのか」では、「IFT粒子と呼ばれているタンパク質複合体」について、「鞭毛繊毛がダイナミックな構造であるとすると、IFTで運ばれるタンパク質の量を行きと帰りで調節するメカニズムがあって、それが長さを調節している可能性が考えられる」として、「鞭毛繊毛の長さは、微小管の形成と解体に関与する因子とタンパク質リン酸化反応が関与した、複雑なしくみで調節されているものと推測される」と述べています。
 第6章「驚くべき運動のしくみ」では、繊毛の運動機構の研究における最大の問題として、「微小管の滑り運動はどのように軸糸の屈曲に変わり、波動が発生するのだろうか」という問題を挙げた上で、第7章「目的にかなった運動調節」では、「鞭毛繊毛の運動は、ほとんど例外なくカルシウムイオンとcAMPによって調節されている」ことが明らかだと述べています。
 第8章「繊毛運動による体作り」では、「繊毛はヒトの体が正しく作られる複雑な仕組みの中で、予想もしなかったような重要な機能を果たしている」として、「気管の繊毛に異常が疑われる男性患者4人を調べた結果」について、「彼らは慢性の副鼻腔炎(蓄膿症)と気管支拡張症の症状があり、肺炎になりやすく、かつ不妊でもあった」と述べ、彼らの気管の繊毛と精子の鞭毛を調べたところ、「その両方でダイニン外腕と内腕が失われていた」上に、「4人のうち3人で内蔵の左右が逆になっていた」と述べています。
 そして、「流れが遺伝子の発現を左に限定する仕組みについては、2つの考えがある」として、
(1)水流がノードの左側の繊毛に力を加えることによるという考え
(2)水流が何らかの因子を左側に運ぶことによるという考え
の2点を挙げた上で、「初期胚の繊毛が作る流れによって体の左右が決まるしくみは、多くの脊椎動物に共通していると考えられる」と述べています。
 第9章「繊毛は細胞のアンテナ」では、「一時繊毛のはたらきは発生初期胚に関して多くの研究が行われているが、成体の細胞も大多数が一次繊毛を持っている。それぞれの一次繊毛は各種器官の形成や機能に重要なはたらきをしているに違いない」と述べています。
 本書は、人間には関係ないように見えてしまう繊毛や鞭毛が、人間の体の形成に大きな役割を担っていることを教えてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 ゾウリムシとか精子についているあれを想像すると、人間の体の中に鞭毛が有るというのには違和感を感じるのですが、細胞の動きの中で基本中の基本だけにやっぱり重要なようです。


■ どんな人にオススメ?

・鞭毛なんて顕微鏡の中の話だと思っている人。


2012年7月 9日 (月)

日本人の知らない環境問題 「地球にやさしい」では世界は救えない

■ 書籍情報

日本人の知らない環境問題 「地球にやさしい」では世界は救えない   【日本人の知らない環境問題 「地球にやさしい」では世界は救えない】(#2152)

  大賀 敏子
  価格: ¥767 (税込)
  ソフトバンククリエイティブ(2012/5/18)

 本書は、「環境問題は環境を守ること」だと考える一般的な日本人に対して、「環境問題は開発問題だ」とする世界の常識、そしてそれが「ビジネス・チャンスの宝庫」であることを述べたものです。著者は、「途上国では環境問題は、経済成長と貧困撲滅、生活の向上、社会の開発に言い換えること」ができると述べています。
 第1章「知らなかったでは済まされない環境問題」では、「途上国の様子を知れば、まさに『環境問題は命の問題だ』という実情が見えてくる」と述べた上で、1987年に取りまとめられた「環境と開発に関する世界委員会」の報告書『われら共有の未来』について、「持続可能な開発とは『将来の世代のニーズを満たす能力を損なうことなく、今日の世代のニーズを満たすような開発』と説明している」として、「持続可能な開発」の2つのキーコンセプトとして、
(1)世界の貧しい人々の必要不可欠なニーズ
(2)現在と将来のニーズを満たしていくために資源を利用したり環境負荷を加えたりする場合、地球の収容能力の範囲内に抑えるべきこと
の2点を挙げています。
 そして、「持続可能な開発」について、「経済・社会・環境の三要素を含み、単に環境を指すよりはるかに広い概念を示す」として、リオ+20で議題の一つとなっている「持続可能な開発ゴール」(SDG: Sustainable Development Goals)について、「これらの三要素をバランスよく満たす世界の構築を目指すもの」だとしています。
 第2章「世界が環境問題に取り組んだ40年の歩み」では、「環境をめぐる国際議論は、いつも南北の対立を浮き彫りにしてきた」とした上で、
・1992年6月、リオで開催された「環境と開発に関する国連会議」(地球サミット)
・1994年3月に発効した気候変動枠組条約
・2010年10月、名古屋で生まれた生物多様性条約の議定書である「ナゴヤ・プロトコール(名古屋議定書)」
などを紹介しています。
 第3章「緊急の環境問題、簡単にはできない国際合意」では、2011年5月にニューヨークで開かれた第19回持続可能な開発委員会(CSD19)が、最終日の翌朝9時までかかっても合意に至らなかった例を挙げ、「満場一致が模索されるのは平和の反映といえるかもしれない」が、「意思決定に時間がかかったり、決定した内容が弱く、あいまいになってしまったりする」と述べています。
 第5章「日本人と開発と環境」では、「政府や国連の枠組みを離れ、開発のためにユニークな取組をしている個性豊かな2人の日本人」として、ナイロビ郊外の孤児院「希望の家(マトマイニ・チルドレン・ホーム)」の院長の菊本照子さんと、ケニア有数の食品加工会社「ケニア・ナッツ」を作った佐藤芳之さんを紹介しています。
 そして、「経済成長をとげながら資源効率を上げ、社会開発を進め福祉を向上させながら、同時に環境保全も図るという、広い意味でのグリーン・エコノミーの考えは、世界のあちこちで確実に人々の関心にのぼってきている」と述べています。
 本書は、世界で環境問題がどのような存在であるかを教えてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 日本で「環境活動家」というと、やたらとデモとかに参加したり、1ヶ月の電気料金が500円だったりの人を想像してしまいますが、そういう世捨て人は放っておくとしても、環境の問題はいかに環境に負荷をかけずに開発するか、という問題になってしまうのだと思います。


■ どんな人にオススメ?

・「環境問題」というとデモのことだと思う人。


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