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2013年11月

2013年11月30日 (土)

松丸本舗主義 奇蹟の本屋、3年間の挑戦。

■ 書籍情報

松丸本舗主義 奇蹟の本屋、3年間の挑戦。   【松丸本舗主義 奇蹟の本屋、3年間の挑戦。】(#2210)

  松岡 正剛
  価格: ¥1890 (税込)
  青幻舎(2012/10/5)

 本書は、2009年10月から2011年9月までの3年間、丸の内の丸善4階に出現した書店の中の書店「松丸本舗」の壮大な実験を解読したものです。
 この店の構想は、著者が2000年から始めたブック・ナビゲーション・サイト「松岡正剛の千夜千冊」を書き進める中で、「自分が取り組んでいるこの果てしなさそうな書籍の世界は、どこかに狭い入り口がいくつかあって、そこからいくつもの放射線やジグザグ回路のようなものが広がっているのではないか、それは砂漠の中に忽然とできあがっていくオアシス都市のようなものではないか、自分はその道を行ったり来たりしながら辿っているのではないか」と感じたことから描かれたマップ「図書街」を基にしています。この、「いろいろな形の本棚がビルや商店街や住居群のように並び立つ巨大な書籍都市」の模型を見た丸善の「ダケヤマさん」(嶽山義治氏)が「これ、いけますわ。これやわ。丸善につくりたい」と即決したことから、丸の内丸善という4階フロアの一郭に「書店の中の書店」である「松丸本舗」が出現することになったと述べられています。
 著者は、「松丸本舗は『編集工学』(editorial engineering)という方法が初めて本屋さんという現場にあてはめられる最初の試み」であることから、「この基礎を今後のためにも編集工学的な下敷きとしてしっかりつくっておきたかった」と述べています。
 また、店舗設計は、「基本となる本棚(書棚・書架)をどういうものにするか」からスタートするにあたり、「本棚は無個性になるか、逆にできるだけ個性をもつべきだ」、「本棚はさまざまな主語と述語をもった世界再生装置なのである」とする著者の思想が反映され、「ひとつひとつの棚にキャラクターをもたせたい」として、「前後二重に本が置ける」深い奥行きを持ち、「棚板が仕切り板より前に出て、棚板が自立棚をまたいで左右に、またジグザグにつながっていくように」したうえに、
・SHOBAKKO(書箱):本棚の途中に引き違いの格子戸がついた戸袋型の戸棚、「本が隠れる棚」。
・MOKOSHI(裳腰):引き出しテーブル
という2つの特色を加えたとしています。
 さらに、特別仕立てとして、
(1)「売らない棚」:ガラスケースに特別の豪華本がショーイングできる棚
(2)「橋本(はしほん)」:入り口ファサード部分から外にはみ出したスペースに、来店者が腰の高さでいろいろな本に出会えるようにした。
(3)「本相(ほんそう)」:張り紙やピンナップができるコルク壁。
の特色をつけています。
 著者は、「読書がすこぶる知的な行為であることも無論少なくないが、そうでないときも少なくない」として、「読書という行為は気分転換であったり、退屈しのぎであったり、空想を許容するリラクゼーションでもある」ことから、「読書こそ編集的なエンジニアリングの対象になるべきだったのである。もっと読書の現場や読書のプロセスを調べるべきなのである」と述べています。
 さらに、「松丸本舗主義を奏でるための旋法」として、
(1)「本棚を読む」という方針を貫いた。
(2)「本」と「人」と「場」を近づけた。
(3)「本のある空間」を革新した。
(4)「本を贈りあう文化」を発芽させた。
(5)「読者モデル」をスタートさせた。
(6)「ブックウェア」を創唱した。
(7)「本と読書とコミュニケーションの方法」を重ねていった。
(8)「共読の可能性」を提示した。
(9)「ハイブリッド・リーディング」の戦端を開いた。
の9つからなる「松丸本舗の九条の旋法」を掲げ、「以上の9つの特色が松丸本舗主義のメルクマールになっている」と述べています。
 本書は、本との新しい「交際」の方法を提示した壮大な実験を読み解いた一冊です。

■ 個人的な視点から

 この松丸本舗がオープンした2009年に、たまたま人と待ち合わせで松丸本舗側のカフェにいた時に、著者の松岡正剛氏をお見かけして不躾ながらミーハー心が高じてご挨拶をさせていただきました。松岡氏の「千夜千冊」に憧れて「百屋百冊」を始めた身としては嬉しい限りで緊張して何をお話したのかあまりよく覚えていないのですが、とにかく想像通りの「粋な男」という印象が強烈でした。ありがとうございました。


■ どんな人にオススメ?

・Amazonがあればリアル本屋は必要ないと思っている人。


2013年11月29日 (金)

「お墓」の誕生―死者祭祀の民俗誌

■ 書籍情報

「お墓」の誕生―死者祭祀の民俗誌   【「お墓」の誕生―死者祭祀の民俗誌】(#2209)

  岩田 重則
  価格: ¥756 (税込)
  岩波書店(2006/11/21)

 本書は、「お墓」が持っている、「それなりの意味や展開過程」を解説した一冊です。
 第1章「お盆の儀礼から何が見えるか」では、富士川中流域、静岡県から山梨県にかけての地域において、「『迎え火』『送り火』と認識されながら、現実には、お盆の期間中毎日家の入り口と『お墓』とで火がたかれている集落が多い」ことを取り上げ、「多様な現実の民俗事象と乖離したところで、『迎え火』『送り火』という認識が画一的に存在している」として、「日本社会の一般的常識として通用し、画一的な文化現象としてわたしたちをとりまいている」と述べています。
 そして、「お盆をめぐる現実の民俗事象を細部に至るまで観察した時、お盆には先祖祭祀であると一般的常識として理解されてきたこととは異なる部分があることが明らかであった」と述べています。
 第2章「葬送儀礼と墓」では、「霊肉分離の観念」が、「霊肉分離が促進されるべき観念として存在しているのか、それとも、それが忌避されるべき観念として存在しているのか、その志向の問題」だと述べ、「民俗学の定説では、この課題は前者を軸に説明されてきた」とした上で、現実の葬送儀礼及び墓制を観察すると、「それはまったく逆」で、「霊肉分離の観念は見られるのだが、葬送儀礼には、むしろそうならないようにするための志向が強い。霊魂と肉体との分離が起こるがゆえに、霊肉一致を目指すような儀礼が行われている」と指摘しています。
 また、「先祖代々墓の原型は、遺体を祭祀する墓ではなく、その家あるいは同族団のための供養塔であったのではないか」と述べるとともに、「石塔の本格的浸透は、近世後期以降である」として、「石塔とは、現在をも含む近現代に浸透しつつある、現在進行形の社会現象であると理解する方が適切である」と述べています。
 著者は、「遺体とそれに伴う死霊は、墓から拡散し露出されるべきではなかったのである。遺体埋葬地点にとどめられるために祀られているのであり、それらとの出会いが歓迎されるために祀られているのではなかった」と述べています。
 第3章「『お墓』の誕生」では、「中世の墓は、遺体埋葬にせよ遺骨埋葬にせよ、遺体埋葬地点あるいは遺骨埋葬地点上に盛り土がなされる型式を取りながら」も、「石塔は建立されていなかった」と述べています。
 そして、「近世の寺檀制度、仏教の『葬式仏教』としての浸透の中で、徐々に石塔建立型となっていく」と述べています。
 第4章「夭折者の墓と『お墓』」では、嬰児遺体の埋葬地点で注意しなければならない点として、床下・軒下・土間といった屋内であることを挙げ、「現代人の感覚からすれば明らかに奇妙である」と述べています。
 また、「子供の墓には、仏教以前、石塔が建立されるようになる前の、日本の墓制が残存していたと考えることができそう」だと述べています。
 本書は、当たり前に思っていた現代の「お墓」がどのように成立してきたかを考えた一冊です。


■ 個人的な視点から

 「お墓」と言うと「墓石」のことをイメージする人が日本では多いわけですが、なんで今のようなお墓の形になったのかを考えることが、日本人の死生観を考えることにつながる気がします。


■ どんな人にオススメ?

・お墓は怖いものだと思う人。


2013年11月28日 (木)

トップアスリートの動きは何が違うのか: スポーツ科学でわかる一流選手の秘密

■ 書籍情報

トップアスリートの動きは何が違うのか: スポーツ科学でわかる一流選手の秘密   【トップアスリートの動きは何が違うのか: スポーツ科学でわかる一流選手の秘密】(#2208)

  山田 憲政
  価格: ¥1785 (税込)
  化学同人(2011/12/2)

 本書は、「スポーツと物理学、数学、そしてコンピュータ・プログラミング」を結びつけた研究を紹介するものです。著者は、「合理的な動きについて知っていれば、運動障害に悩まされる機会を少なく出来るのではないだろうか」と述べています。
 第1章「いかにして動きに迫るか」では、1878年にアメリカの写真家・マイブリッジによって疾走中のウマが撮影されたことについて、「絵画の世界では、マイブリッジ前とマイブリッジ後という語があるくらいで、マイブリッジ後とはカメラを用いて動きを正確に確認して描くという意味を含んでいる」と述べています。
 そして、「これまでは現象を可視化することだけで大きな意義があったのが、次の段階として数理的モデルを用いてその背景に潜むメカニズムの解明が求められるようになった」と述べています。
 第2章「動きの化学――全力疾走の解析」では、「全力疾走中の膝伸展においては、筋力によらない、二重振り子の原理に基づくトルクが働いていることが確かめられた」と述べています。
 第3章「ハンマーをいかに加速させるか――二重振り子とハンマー投」では、「ハンマー投の技術においても加速器で二重振り子の原理が用いられている」とした上で、「ブランコの長さを変えて加速させる技術がハンマーを回転させる技術にも用いられている」と述べています。
 第3章「投球動作――二重振り子の三次元空間への拡張」では、「正確なボールの軌道は最終的にはそれを発生させる身体の動きの正確性にかかってくるが、できるだけ正確に身体の動きをコントロールするには、関節の可動範囲を多少犠牲にするほうが良いことが、運動の制御の研究から明らかにされている」と述べています。
 第6章「衝突の科学――スポーツにおける瞬間の技術を捉える」では、「一流のアスリートには一連の運動がリズムとして構造化されて知覚されている場合がある」として、「その自己の感覚が特定の音楽(為末選手の場合はドリフターズの音楽)を用いることで他者に伝わる情報となっている」と述べています。
 第7章「運動観察の科学」では、「ミラーニューロンの発見以来、動きを見ることと同時に自分の身体の動きを脳でシミュレーションしていることもわかってきた。つまり、脳内部では見るときに仮想的な運動(内的身体運動)が起きていると考えられる」として、「他者を観察するときにあたかも自己が運動しているように見ることで発生する運動観」である「運動共感」が指導者には必要であるとも言われていると述べています。
 本書は、スポーツの動きを、数的に解析する取り組みを紹介した一冊です。


■ 個人的な視点から

 スポーツって本来的には科学とものすごく相性がいいはずなんですが、日本ではむしろ「運動部」と「科学」って対極にあるものくらいに認識されているのが不思議なところです。やっぱり「部活」神話のせいなのかもしれません。


■ どんな人にオススメ?

・理屈じゃないんだッて思う人。


2013年11月27日 (水)

エネルギーの科学史

■ 書籍情報

エネルギーの科学史   【エネルギーの科学史】(#2207)

  小山 慶太
  価格: ¥1365 (税込)
  河出書房新社(2012/10/11)

 本書は、「熱、電気、そして原子力の発見は、人類のエネルギー観をどのように変えたのか」という「19世紀から現代に至るエネルギー開発と活用の歴史」を歴代の科学者を軸にたどったものです。
 「はじめに」では、「自然を理解し、宇宙を認識するという科学の営みは、煎じ詰めれば、エネルギーの正体とそれによって生起する諸現象の解明に尽きる」と述べています。
 序章「エネルギーの歴史の分水嶺」では、「19世紀はエネルギーの研究がかつてない勢いと幅広さで著しく進歩し、古典物理学の枠内ではという但し書きはつくものの、一つの完成を見た時代であった」として、「その総括的な成果は19世紀半ばになされた熱力学の確立である」と述べています。
 そして、「19世紀末から20世紀初めにかけ、かつてなかったほど大きな『パラダイム・チェンジ』が物理学の世界を襲った」として、「古典物理学の基本法則も原理も、それらに培われた常識、観念も通用しない未開の地が、一気に広がったのである」と述べています。
 第1章「蒸気機関と熱エネルギー」では、1724年にオランダのブールハーヴェが唱えた「カロリック」(熱素)と呼ぶ「重さのない物質(流体)であるとする説」を取り上げ、「これによると、熱膨張とは物質の中に多量のカロリックが流れ込み、物質を構成する粒子と粒子の間隔を押し広げるので、その体積が増加する現象として説明された」と述べています。
 第2章「電磁気学の確立と電気エネルギー」では、1791年にガルヴァーニが発表した「筋肉運動に対する電気作用について」と題する論文について、「電気の発生源はカエルの体内にあり、それが神経を伝わって筋肉に流れ、その刺激で足の痙攣が生じるという見解が述べられている」ことを紹介しています。
 そして、「19世紀末になされた電気の担い手の発見はその正体が明らかにされただけでなく、物理学が原子の中へと足を踏み入れるきっかけの一つとなった」としています。
 第3章「放射能と原子核――新しいエネルギー」では、1895年にレントゲンが黒い紙ですっぽりと被った放電管のスイッチを入れたところ、「2メートルほど離れたところにたまたま置いてあった蛍光物質(白金シアン化バリウム)を塗った紙が蛍光を発して輝きだした」ことから、「放電管から何か未知の放射線が発生している」と考えたと述べています。
 また、「太陽光線の作用によってウラン化合物からX線が発生すれば、それは黒い厚紙を透過して写真乾板を黒く感光するはずだ」と考えたベクレルが、天気が悪かったために、しかたなく、「ウラン化合物を黒い厚紙にくるんだ写真乾板の上に載せたまま、実験室の引き出しの中にしまいこんだ」ことで、「ウラン化合物はエネルギーの供給を受けなくても自前でベクレルが発見した放射能を発する能力を持っていた」ことがわかったと述べています。
 さらに、「核の構成要素としての中性子が発見されたからたった2年のうちに、それを軸として、核物理学の研究は急ピッチで進められていた。そして、核エネルギーの歴史に刻まれることになる1938年を迎えるのである」と述べています。
 第4章「核エネルギーの解放」では、「1939年まで、アインシュタインにとって核エネルギーの利用は『屏風の虎』であった。外に出てくれば確かにE=mc^2が示す通りのエネルギーで暴れまわったのであろうが、追い出す手立てなどないと思われていたわけである」と述べています。
 第5章「ミクロの世界を操るエネルギー」では、「水素爆弾のように超高温に達した軽い元素の核を閉じ込めることなく、発生したエネルギーを瞬間的に全て使い切るのであれば、人工的に核融合を起こし”ミニ太陽”を輝かせることは可能である」が、「発電を目的とした核融合炉ではそうはいかない。暴走を許すのではなく、制御する必要があるからである」と述べています。
 第6章「宇宙と暗黒エネルギー」では、「宇宙が誕生したし直後、宇宙空間には素粒子と相互作用して、動きを鈍らせる『ヒッグス場』の“海”が広がっていたと考えられている。ヒッグス場につかまった素粒子はその結果、質量を持ち、速度が光速よりも遅くなったのである。E=mc^2で与えられる万物の質量の起源はここに遡る」と述べた上で、「宇宙の膨張が減速せず加速しているという事実は、真空中に空間そのものを押し広げている未知のエネルギー(暗黒エネルギー)が均一に充満している可能性を示唆している」としています。
 本書は、エネルギーの利用のしかたを考える上で知らない訳にはいかないエネルギー獲得の歴史をまとめた一冊です。


■ 個人的な視点から

 「エネルギー」ってなんだかよくわからない実態のないものと捉えられがちなのか、「パワーを貰いました」とか「エネルギーを貰いました」とかいった使われ方をすることも多いわけですが、本人がそれで納得しているならそれはそれで仕方ないのかもしれません。


■ どんな人にオススメ?

・エネルギーの正体を追い求めたい人。


2013年11月26日 (火)

現場事故を防ぐ「不注意の心理学」: なぜ起きる うっかりミスや勘違い

■ 書籍情報

現場事故を防ぐ「不注意の心理学」: なぜ起きる うっかりミスや勘違い   【現場事故を防ぐ「不注意の心理学」: なぜ起きる うっかりミスや勘違い】(#2206)

  山下 富美代
  価格: ¥1260 (税込)
  日刊建設工業新聞社(2012/3/7)

 本書は、「人によってエラーを起こす程度やまたそれが事故につながりやすい場合とそうでない場合など個人差がある」として、「このような個人差や背景要因について焦点を当て、現場の事故防止という観点から注意の心理学的メカニズムを中心に述べ」たものです。
 著者は、「注意の特性についてよく理解すれば、自ずと不注意についても明らかになる」として、注意の特性として、
(1)注意の選択:注意の対象の選択から外れたものに対しては不注意となる。
(2)注意の集中:新しい事柄や自分にとって興味のあること、やりがいのある仕事に対しては注意が集中し、心身の活動水準も高まる。
(3)注意の範囲:瞬間的に注意が行き届く範囲は数で言えば7個前後だと言われている。
の3点を挙げています。
 第1章「ヒューマンエラーと注意の関係」では、「注意とは、車のエンジンの始動にガソリンが必要なように、人間が何らかの活動をするために必要な心的エネルギー(処理資源)といえる」と述べています。
 また、認知科学者・認知工学者のノーマンが、エラーを、
(1)スリップ:ある目標のもとに行動を起こそうと意図するが、何らかの妨害にであって本来の意図とは異なるものになってしまうこと。
(2)ミステイク:何かをしようとするときに、その状況にはマッチしない不適切な方法を使おうとする結果起こるエラー。
の2つに分けていることを紹介しています。
 第2章「現場の力を支える注意力」では、「人が認知活動を行う上手、外界の情報をどのように取り入れ、どう諸理するか、その仕方には個人個人の特徴がある時間的にもまた比較的安定している」と述べています。
 第3章「注意力アップで現場力を強化する」では、駅乗務員の指差し呼称について、「指を出す、電車の進行方向に体を向ける、声を出すという行為を通して、自分の頭の中に内在しているものを外に出す、つまり外化することで意識できる効果がある」と述べています。
 第4章「注意環境を創り出す」では、ヒューマンエラーの要因として、
(1)病理的要因(Pathologicalo Factor)
(2)生理的要因(Physiological Factor)
(3)身体的要因(Physical Factor)
(4)薬剤的要因(Pharmaceutical Factor)
(5)心理的要因(Psychological Factor)
(6)社会・心理的要因(Psychosocial Factor)
の6点を挙げ、「ヒューマンエラーの6P」としています。
 本書は、人がどのように不注意になってしまうのかを認知的な観点から解説した一冊です。


■ 個人的な視点から

 日頃から公私にわたって失敗の多い身としては身につまされるところも多いわけですが、「エラー」と「ミス」って違うものだって知りませんでした。「反省します」っていう言葉を「今度は気をつけます」くらいの意味でしか使っていない人も少なくない中、なんで失敗したのかを正しく理解することは再発防止には欠かせません。


■ どんな人にオススメ?

・失敗の多い人生を送っている人。


2013年11月25日 (月)

日本のナショナリズム

■ 書籍情報

日本のナショナリズム   【日本のナショナリズム】(#2205)

  松本 健一
  価格: ¥714 (税込)
  筑摩書房(2010/5/8)

 本書は、「戦前日本のナショナリズムが迷走し、暴走した原因を追求する」とともに、「ナショナリズムを超えた東アジアの未来像を展望」したものです。
 第1章「日本国家の未来像」では、1989年に「ベルリンの壁」が崩された以後の日本を、「第三の開国」と呼ぶとして、そのテーマは、「東西冷戦構造が崩れたあとで、小泉純一郎内閣のようにアメリカの一極行動主義(ユニラテラリズム)に身を寄せるのなく、日本が自ら歴史の未来図を描きつつ、この腐敗した官僚独裁を打ち倒してゆくこと」だと述べています。
 第2章「日本ナショナリズムの曲がり角」では、「大東亜戦争には二重の性格があった」として、
(1)米英に対する帝国主義「間」戦争としての性格
(2)アジアに対する帝国主義「的」な戦争、つまり侵略戦争という性格
の2点を挙げています。
 第3章「リアリズムとロマン主義のあいだで」では、「よく見る人、見ておこなう人、そしておこなうときには果決するという政治的な人間、この三種類の人間が、開国のような変革期、常ならざる時には必要になる」とした上で、
政党政治家の斎藤隆夫について、「昭和戦前期にあっては、どちらかと言うと予言的な思想家に入る」と述べ、「斎藤隆夫の生涯からは、日本近代史の5つのイシューが浮き上がってくる」として、
(1)政党政治がどのように成立したのか。
(2)政党政治がどう解体していったのか。
(3)憲法とは何なのか、日本における明治憲法の欠陥は何なのか、という憲法論。
(4)憲法論の中での天皇制の扱い方。
(5)齋藤の日中戦争批判の問題。
の5点を挙げています。
 そして、「齋藤のリアリズムでは、たとえば天皇制は大きな力をもって現実にあるものだから、日本の立憲政治の中ではそれを使っていくしかない」、「近代の国民国家は植民地を手に入れるという戦略をとって帝国主義戦争をおこなってきたのだから、われわれは侵略戦争をやっているんだ、聖戦という美名に隠れて国民の犠牲を見ないのは虚偽だと、はっきり言った」と述べています。
 第4章「日本のナショナリズムとは何か」では、「ナショナリズムは近代的なネーション・ステートの形成に関わる思想だが、パトリオティズムは『祖国愛』と訳されるばあいと『郷土愛』と訳されるばあいとがある」としたうえで、「日本では、パトリオットを『愛国者』とだけ訳したら誤りだろう」として、「本来的には、わが郷土を愛するものという『郷土愛』の意味合いを込めて訳さねばならない」と述べています。
 そして、「近代的イデオロギーとであるナショナリズムを超えて、つまり国民国家の枠を超えて、東アジアで環境、資源、エネルギー、食料、人口の都市集中といった21世紀の共通の問題を解決していくオーガニゼーションをつくらねばならない。それによってナショナリズム的な、お互いの国益、国権を主張するだけではない機関を設置していかねばならない」と述べています。
 本書は、日本にとってのナショナリズムとは何かを考えた一冊です。


■ 個人的な視点から

 歴史上では「国民国家」という存在はごく一時期から登場した流行ものでしかないように思えますが、そのための演出に「日本古来の~」「伝統の~」なんて言葉を使ってしまったために、そういう演出を真に受けてしまった人たちが多くて困ったものです。


■ どんな人にオススメ?

・日本の将来を憂えたりしちゃう人。


2013年11月24日 (日)

ブラインド・ウォッチメイカー―自然淘汰は偶然か?〈下〉

■ 書籍情報

ブラインド・ウォッチメイカー―自然淘汰は偶然か?〈下〉   【ブラインド・ウォッチメイカー―自然淘汰は偶然か?〈下〉】(#2204)

  リチャード・ドーキンス (著), 中嶋 康裕, 遠藤 知二, 遠藤 彰, 疋田 努 (翻訳)
  価格: ¥ (税込)
  早川書房(1993/10)

 第7章「建設的な進化」では、「いくつかの方法によって、突然変異と自然淘汰は力を合わせて、長い地質学的時間のうちに取り除きよりも付け加えとかかわりの深い複雑なものをつくりあげることができる」として、「複雑なものの構築」の主要な方法として、
(1)共適応した遺伝子型
(2)軍拡競争
の2点を挙げ、「この2つは表面的にはかなり違って見えるが、『共進化』と『互いの環境としての遺伝子』という項目のもとに結びついている」と述べています。
 そして、「自然淘汰では、つねに遺伝子は自らのいる環境のなかで繁栄する能力をめぐって淘汰される」とした上で、「一つ一つの遺伝子の観点からすれば、おそらく環境のうちで最も重要な部分は、各遺伝子が出会う他のあらゆる遺伝子である」と述べ、「一つ一つの遺伝子は、体の中で出会う可能性の高い他の遺伝子の集団とうまく共同する能力をめぐって淘汰されるのである」としています。
 また、「生物界でも長い非対称軍拡競争の最終産物を扱っているばあいには、つねに複雑で洗練されたデザインが見出されると考えてもいいだろう。そうした軍拡競争では一方の進化が、同程度の成功を収めた他方の(競争者ではなく)対抗兵器による微に入り細に入った一対一対応をつねに取らせてきたはずである」と述べています。
 第8章「爆発と螺旋」では、「性淘汰に可能なアナロジーとして、弱いアナロジーと強いアナロジーという二つのレベルを区別することが役に立つ」として、「弱いアナロジー」とは、「進化のある段階の最終産物が次の段階のためのお膳立てをするといった進化過程は、どのようなものであれ前進的である可能性があり、ときには爆発的でもあろう」とする一方で、「強いアナロジー」として、「ポピュラーであること自体がポピュラリティーをもたらす」というレコードや出版業界や女性のファッションなどの「正のフィードバック」の例を挙げています。
 第9章「区切り説に見切りをつける」は、「真の跳躍説は、すでに議論し尽くしたように、もはや末路に追い込まれている。真の跳躍論者は現代の生物学者の中には存在しない」と述べています。
 第10章「真実の生命の樹はひとつ」では、進化論が説明する事柄の領域として、「多様性という現象、つまり世界中に分布するさまざまなタイプの動物や植物の方とかそれらの動植物のあいだでの諸形質の分布といった現象」である分類学について解説しています。
 第11章「ライバルたちの末路」では、「ラマルク主義に対するわれわれの論駁はかなり強烈である」として、
(1)その鍵となる仮定、獲得形質の遺伝という仮定は、われわれの調べてきたあらゆる生命形態について誤りのように思える。
(2)前成的な(「設計図」)胚発生ではなく、後成的な(「料理法」)胚発生にのっとっている生命形態であれば、それはたまたま誤っているだけでなく、誤りでなくてはならない。そしてわれわれの調べてきた生命形態は、すべて後成的な胚発生をする種類に属している。
(3)たとえラマルク説の仮定が正しかったとしても、この説は地球上だけでなく宇宙のどこででも、重大な適応的複雑さの進化を2つのまったく別個の理由から原理的に説明できない。
の3点を指摘しています。
 本書は、生命を進化させてきた「盲目の時計職人」の作動原理を解説した一冊です。


■ 個人的な視点から

 進化論の話はなぜか「弱肉強食」なんていう一面的な見方で見られがちです。どちらかが「強者」でどちらか一方が「弱者」かという以外のものの見方を身に付けることができれば生物の世界を豊かに見ることができるのではないかと思います。


■ どんな人にオススメ?

・「強者」と「弱者」にこだわりがちな人。


2013年11月23日 (土)

ブラインド・ウォッチメイカー―自然淘汰は偶然か?〈上〉

■ 書籍情報

ブラインド・ウォッチメイカー―自然淘汰は偶然か?〈上〉   【ブラインド・ウォッチメイカー―自然淘汰は偶然か?〈上〉】(#2203)

  リチャード・ドーキンス (著), 中嶋 康裕, 遠藤 知二, 遠藤 彰, 疋田 努 (翻訳)
  価格: ¥ (税込)
  早川書房(1993/10)

 本書は、「複雑なデザインがどうしてつくられたのか」という「最も深遠な問題」への「華麗で美しい回答について、かくも多くの人たちが知らないらしいこと、さらに、信じられないことに、多くの場合そもそもそこに問題があったことすらじつは知らないように思えることに、呆気にとられた」として、「生物の複雑さに目を向けたことのない人たちに、これこそが謎なのだということをいくらかでも伝える」ことを目的に書かれたものです。
 著者は、「ダーウィン主義を攻撃する人たちの大多数は、ダーウィン主義にはでたらめの偶然以外にはなにもないという誤った考えに、ほとんど見るに耐えないほどの熱心さで飛びつきたがる傾向がある」とした上で、「ダーウィン主義を受け入れ難くしていると思われる」素因として、
(1)ダーウィン主義が「偶然」についての理論であるという、根強い神話
(2)われわれの脳が、進化的変化を特徴づけているのとはまるきり異なったタイムスケールで起きるできごとを扱うようにできていること
(3)われわれが創造的なデザイナーとして多大な成功を収めていること
の3点を挙げています。
 第1章「とても起こりそうもないことを説明する」では、「自然界の唯一の時計職人は、極めて特別な働き方ではあるものの、盲目の物理的な諸力なのだ」としたうえで、「複雑なものの出現を、より単純なものから、つまり偶然によっても存在するにいたるくらい単純な資源物体からの、漸進的かつ累積的に一歩一歩(ステップバイステップ)段階を踏んで変形してきた結果として説明する」と述べています。
 第2章「すばらしいデザイン」では、「自然淘汰は盲目の時計職人(ブラインド・ウォッチ・メイカー)である。盲目であるというのは、それが見通しをもたず、結果についての目論見を持たず、目指す目的がないからだ。しかしそれでも、現在みることのできる自然淘汰の結果は、まるで腕のいい時計職人によってデザインされたかのような外観、デザインとプランを持つかのような錯覚で、圧倒的な印象をわれわれに与えている」と述べています。
 そして、「こんなに複雑な器官がどのようにして進化し得ただろうか?」という「ダーウィンがこの上ない完全さと複雑さを持つ器官と呼んだものについて、われわれが誰しもつい感じてしまいそうになるこの直感的な猜疑の底には二重の基盤が潜んでいる」として、
(1)進化的変化が起こるのに使える時間が途方もなく長いので、われわれはそれを直感的に把握できないこと。
(2)確率論を直感的に適用してしまうこと。
の2点を挙げています。
 第3章「小さな変化を累積する」では、一段回淘汰と累積淘汰の本質的な違いとして、「一段階淘汰では、石でもなんでも淘汰されたり選別されたりする実体は、一回選り分けられ、そしてそれっきりである。他方、累積淘汰では、その実体は『繁殖(再生産)』する」、「その実態は継続して何『世代』にもわたる選別淘汰にさらされる」と述べています。
 第4章「動物空間を駆け抜ける」では、大規模な収斂の例が、「二つもしくはそれ以上の大陸が互いに長期間隔離されており、一連の並行した『商売』がそれぞれの大陸にいる系統的に無関係な動物によって採用されるときに生ずる」と述べています。
 第5章「力と公文書」では、「生きるものすべての中核に存在するのは、炎でも、熱い息吹でも、『生気』でもない。それは情報であり、言葉であり、指令である」として、「先進的な情報技術には、多数の記憶座を持つ何らかの記憶媒体が欠かせない」、「遺伝子の情報技術はデジタルである」と述べています。
 そして、「すべての生きた細胞は、バクテリアの一細胞でさえ、巨大な化学工場だと考えられる」としています。
 さらに、「もしついについには生命を宿す機会を秘めているものとすれば、原始の地球のような死の惑星が備えているべき生命の要素」とは、「ある特性、つまり自己複製という特性なのである。これこそ累積淘汰の基本要素なのである」と述べています。
 また、「遺伝子の変化が自分の複製される可能性に対して及ぼすどんな効果も、自然淘汰にとっては格好の獲物である。すべてはまったく単純で、楽しくなるほど自動的で、意図的ではない」としています。


■ 個人的な視点から

 学校で習った範囲では、「情報」と「生物」は、一見すぐには結びつきにくいですが、遺伝子ってまさに情報そのものなわけです。そういうふうに異なった分野を俯瞰して見ることができる視点を手に入れられるとバラバラに見える分野を頭のなかで整理しやすいのではないかと思います。


■ どんな人にオススメ?

・生物とDVDの間の共通点に気づきたい人。


2013年11月22日 (金)

陸軍登戸研究所と謀略戦: 科学者たちの戦争

■ 書籍情報

陸軍登戸研究所と謀略戦: 科学者たちの戦争   【陸軍登戸研究所と謀略戦: 科学者たちの戦争】(#2202)

  渡辺 賢二
  価格: ¥1785 (税込)
  吉川弘文館(2012/1/20)

 本書は、当時の最新の科学技術を駆使した、風船爆弾・スパイ用兵器・偽造紙幣などを通じて、戦争と科学の関係を描いたものです。
 「『謀略の丘』で考える」では、2010年に明治大学生田キャンパス内にオープンした明治大学平和教育登戸研究所資料館について、「科学が戦争に動員されていく際の怖さ、裏面しとしての秘密線から見えてくる戦争の実相などが資料を通して語りかけ、こうした史実を通して学ぶことができる価値は大きい」と述べています。
 「登戸研究所の実態」では、陸軍登戸研究所の特徴として、「陸軍内部においてもこの研究所は特殊な研究所であるということ」だとして、
・秘密戦用の特殊資材の研究や製造を担当しているので、研究体制も少人数によるプロジェクトをとっていた。
・研究項目も秘匿名を使用し、他者がわからないようにしていた。
・入所する者の採用も憲兵隊の調査によって行うなど、機密保持がなされていた。
などの点を挙げています。
 「第一科の活動内容」では、1940年から43年までは主として電波兵器の開発に力点を置いていたが、それ以降は、主として風船爆弾関係に力点を写したと述べるとともに、一貫して、特務機関員が使う無線機・盗聴器などを研究・開発していたと述べています。
 そして、風船爆弾作戦のねらいは、「アメリカ本土を直接攻撃して脅威を与えること」であったが、「参謀本部は、一方では細菌兵器の開発をしつつも、実際にそれを打ち上げてしまうと徹底的なアメリカの攻撃を受け、『国体護持』の条件による和平ができなくなる」ことを恐れ、「『細菌兵器がある』と見せかけつつ、焼夷弾による風船爆弾を打ち上げることになった」と述べています。
 「第二科の活動内容」では、「当初、電波兵器を研究・開発していた」が、「日中戦争の長期化に伴い、秘密戦・謀略戦で要員が使用する機材の研究・開発が中心となっていった」と述べています。
 「第三科の活動内容」では、「彼らがここで行なっていたのは、中国の法幣(正式な紙幣)の偽造であった」として、「米英の支援を受けて1935年に確立したばかりの国民政府の法幣制度を偽造紙幣によって混乱させ、あわせて軍需物資を購入しようというものであった」と述べています。
 「敗戦と登戸研究所」では、「8月15日から証拠を焼却するなど徹底的な証拠隠滅が図られた」として、「登戸研究所の科学者・技術者の研究内容は隠蔽されることとなった」としたうで、アメリカ軍が日本軍の細菌戦研究実態の調査として、
(1)生物戦に関する日本軍の意図と能力。
(2)現在または近い将来における武器としての生物兵器の能力を見積もる際に応用。
の2つの目的から、「アメリカ軍の細菌兵器開発に役立つ資料の提供を求めて」いたと述べています。
 そして、「1950年(昭和25)年に始まった朝鮮戦争は、アメリカの世界戦略を大きく変えた」として、「細菌兵器に遅れを取っていたアメリカ軍は、その研究・開発・製造を七三一舞台関係者などに依拠することになる」として、「戦犯免責を受けた細菌戦関係者が公然と公職に復帰して活動を始めることになる」と述べるとともに、「アメリカ軍は、秘密・諜報戦のうち、とりわけ印刷関係と傍聴・諜報関係者に注目したと思われる」と述べ、「登戸研究所の秘密戦・謀略戦御研究は、直接的にアメリカ軍に継承された」としています。
 本書は、日本軍の軍事技術がどのように開発され、どのようにアメリカ軍に継承されたかを教えてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 戦後、軍事技術にロマンを感じる人達はオタク扱いされてきていますが、やっぱり軍事技術と軍服は男の子のロマンを刺激するものなのです。だってそういう目的とか動機でつくられているわけですから。


■ どんな人にオススメ?

・軍事技術にロマンを感じる人。


2013年11月21日 (木)

新幹線とリニア 半世紀の挑戦 世界に冠たる「安全神話」はどう構築されたか

■ 書籍情報

新幹線とリニア 半世紀の挑戦 世界に冠たる「安全神話」はどう構築されたか   【新幹線とリニア 半世紀の挑戦 世界に冠たる「安全神話」はどう構築されたか】(#2201)

  村串栄一
  価格: ¥1575 (税込)
  光文社(2012/1/18)

 本書は、「日本新幹線の安全設計や中国高速鉄道の拙速開発の背景、激化する世界の高速鉄道スピード競争、超電導リニア開発史」などに触れ、「安全思想」をキーワードに高速鉄道運営を語ったものです。
 第1章「日本高速鉄道の実相を探る」では、「1957年頃から国鉄内部で抜本的対策の必要性が語られ始め、バイパス路線として第二東海道本線の建設論議が盛んに買わされるようになった」として、
(1)既存路線を複々線化する。
(2)別ルートで狭軌新線を作る。
(3)別ルートで広軌新線を建設する。
の3案を挙げた上で、「第二東海道本線構想にあたって、弾丸列車の夢を諦めきれない鉄道関係者がたくさんいた」と述べ、戦前の弾丸列車構想の遺産である用地やトンネルと活用すれば、「別新線、広軌、200キロ運転も夢ではないと広軌新幹線方式推進者らは考えた」と述べています。
 第2章「想定外に備えた安全思想」では、2004年の新潟県中越地震において、上越新幹線が脱線した事故について、「新幹線史上初の脱線事故」が起きたが、「一人の死傷者もなく停車させたことは信頼を増幅させたはずである」と述べています。
 第3章「中国・温州事故の悲惨」では、「鉄道省は現在も独立王国的存在だ。政府の統制を免れながら、やりたい放題が許せてきた。信じがたいが、警察、検察、裁判組織などを独自に持ち、鉄道事故や組織内事件の処理に関して他を寄せ付けない機構を保有している」と述べた上で、「独立王国・鉄道省の存在を苦々しく思ってきた中央政府は温州事故を奇貨として抑えこみにかかった」と述べています。
 本書は、日本や世界の高速鉄道の置かれた状況を解説してくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 新幹線に代表される高速鉄道はやっぱり男のロマンなわけですが、LCCとか高速バスとか安く移動できればいいというニーズも一方ではあるので全国に張り巡らせるのは難しい気がします。


■ どんな人にオススメ?

・新幹線にロマンを感じる人。


2013年11月20日 (水)

法と経済で読みとく 雇用の世界-- 働くことの不安と楽しみ

■ 書籍情報

法と経済で読みとく 雇用の世界-- 働くことの不安と楽しみ   【法と経済で読みとく 雇用の世界-- 働くことの不安と楽しみ】(#2200)

  大内 伸哉, 川口 大司
  価格: ¥1995 (税込)
  有斐閣(2012/3/3)

 本書は、法学と経済学という「違う思考パターンをもつ者が、一緒になって雇用の世界を描くとどうなるかということのチャレンジしたもの」です。
 序章「法学と経済学の協働は可能か――自由と公正のあいだで」では、「経済学の側では、私人間の自由な取引が必ずしも効率的な資源配分をもたらすとは限らない状況を正面から分析する分析道具がこの30~40年の間に開発されてきた」とした上で、「労働法学は、高度経済成長期以降、実現していたと言われる完全雇用の状況を前提にして、雇用関係にある労働者の保護を念頭において、なかでも正社員を労働者の典型モデルとした法的ルールを構築してきた」と述べています。
 第1章「入社する前にクビだなんて――採用内定取消と解雇規制」では、経営上の必要性を理由とする解雇である整理解雇について、
(1)人員削減の必要性
(2)解雇回避努力
(3)被解雇者選定の相当性
(4)労働者側との協議の相当性
の4つの要素に基づき有効性の判断が行われるとされているとしています。
 第2章「パート勤めの苦しみと喜び――最低賃金と貧困対策」では、経済学者の中には最低賃金規制について批判的な見方をするものが多いとして、その理由として、「個人の自由の尊重と社会全体の調和という両立しがたい2つの目標は、価格が自由に決められる市場取引によってこそ実現可能であるという考え方に基本的な信頼を寄せているからである」と述べています。一方で、法学においては、「賃金は労働者の生活を安定させるものでなければならないという視点がある」と述べています。
 第4章「これが格差だ――非正社員」では、「日本では伝統的に若年者の技能訓練は民間企業が担ってきたわけだが、近年その機能が弱まりつつあることが知られている。無業の者は職場の提供する技能訓練を受けられないし、非正社員が技能訓練を受ける機会は正社員に比べると少ないので、若年無業者の増加や雇用の非正社員化は彼ら、彼女らの技能訓練の機械を減少させていることになる」と述べています。
 第5章「勝ち残るのは誰だ?――採用とマッチング」では、「『情報の非対称性』は、とりわけ企業にとってマイナスに働く可能性が高い」として、「労働者側は、就職した後に、思っていた企業ではなかったと考えたときに辞職するのは(法的にも)自由である(民法627乗)が、企業側は解雇が制限されているため、こうした形で契約のリセットをすることはできない。そうなると、企業としては、職歴等のアピール度のある外形的な情報の乏しい若者の採用をためらわざるをえないのである」と述べています。
 第7章「残業はサービスしない――労働時間」では、「時間当たり賃金が上がると、豊かになって労働時間が減るという所得効果と、稼げるようになるので労働時間が増えるという代替効果、という相反する2つの効果」があるが、「日本と始めとする多くの国々のデータを見ると、時間当たり賃金の長期的な上昇と労働時間の下落が示されているので、時間当たり賃金が上がり豊かになるから労働時間が短くなるという所得効果がより強く働いていることがわかる」と述べています。
 第8章「つぐない――男女間の賃金・待遇格差」では、「女性の時間当たり賃金率の平均は男性の時間当たり賃金率の平均のおおよそ67%である」として、「この33%の賃金格差は、先進各国のなかでも大きなものになっている」と述べています。
 終章「労働市場、政府の役割、そして、労働の法と経済学」では、「現実に生起する労働問題を学問的に考えていく際には、労働市場というものを中心に据えて、その機能のメリットやデメリットを検討していくことが、どうしても必要となる」と述べています。
 本書は、労働法と経済学という2つの目を通して日本の労働法制を考えた一冊です。


■ 個人的な視点から

 法と経済学というツールは、世の中を見るための視点として持っておいて損はありません。残念ながらこれで戦うとなるとまだまだ弱い気がします。


■ どんな人にオススメ?

・法と経済学の両方を使えるようになりたい人。


2013年11月19日 (火)

つながりすぎた世界

■ 書籍情報

つながりすぎた世界   【つながりすぎた世界】(#2199)

  ウィリアム・H・ダビドウ (著), 酒井 泰介 (翻訳)
  価格: ¥1890 (税込)
  ダイヤモンド社(2012/4/20)

 本書は、「繋がりすぎた世界がどんなふるまいをするのか、それがどんなふうに自己増殖し、予測不可能で、事故が起こりやすく、感染しやすくなっていくかを示すこと」を目的としたものです。著者は、「物議を醸す風刺画がインターネットを介して燎原の火のように広まったこと」を「過剰結合(オーバーコネクティビティ)」と呼ぶ現象の極端な例として、「過剰結合とは、あるシステムの内外で結びつきが高まりすぎたあげく、少なくとも一部にほころびが生じた状態を指す」と述べています。そして、本書において、「私達の社会がつながり過ぎていること、その結果どのようなことが起きるのかをつまびらかにする。また、この過剰結合の影響をどう和らげ、あるいは避ければよいのか、その方策を示す。どのように政策立案のしかたを変えればよいのかを検討し、政府、経済、社会制度のあり方を再設計することに目を向ける」としています。
 第2章「過剰結合と生のフィードバック」では、急激に結びつきが増すと、
(1)急激な変化が起きる
(2)慣習が急激な変化に対応しきれないと、大規模な文化的遅滞が発生する
の2つのことが起こりうるとした上で、結びつきの程度について、
(1)過少結合状態:周囲の環境が変わっていてもそれに気づくことはなく、内側からの変化は起こらないか、あっても非常に緩慢である。
(2)結合状態:環境の緩やかな変化の企業、経済体制、政府などがついていけている状態。
(3)高度結合状態:すべてがうまく行っているかに見える重要な状態。
(4)過剰結合状態:社会制度が急激に変わりすぎて環境が変化についていけない状態。あるいは逆に、環境の急変によって発生した文化的遅滞を社会がコントロールしきれない状態もここに含まれる。
の4つの段階を示しています。
 第3章「過剰結合――私たちを育み、くじくもの」では、「マイクロソフト、イーベイ、フェイスブック、ツイッター」など、「これらの企業の台頭も、『ネットワーク効果』と呼ばれる正のフィードバックの賜物だ」とした上で、「今日の過剰結合社会では、正のフィードバックによって次々に専門化が進み、それがやがて脆弱性をもたらす」と述べています。
 第4章「増え続ける事故と思考感染」では、「経済や思考や電子的な感染」に注目したいとしたうえで、「インターネットは自らを偉大な存在にせしめた。そうすることによって、この過剰結合状態に陥った世界の触媒になり得たのである」と述べています。
 第6章「インターネットの死角」では、「インターネットは情報を効率化する蒸気機関車だ。その積荷は株式の売り買い、Eメール、動画、小売など実に多様だが、こうしたデータがTCP/IPを使った高速で低コストなデータ・コミュニケーションによってやり取りされている」と述べています。
 第7章「アイスランドの金融危機〈1〉――漁業から金融へ」では、アイスランドは1994年に過剰結合状態に陥ったとして、「アイスランドの経済改革は、インターネットが世界的に普及していく過程とみごとに符合していた」と述べています。
 そして、「インターネットによって急速につながりの度合いを深める動きに、規制が追いついていなかった」として、「こうなると正のフィードバックは暴走しかねない」と述べています。
 第8章「アイスランドの金融危機〈2〉――ネット銀行」では、「アイスランドの国民は、自国の銀行がなぜここまで急拡大したのかも、クローナ通貨がいつ急落してもおかしくないほど脆弱であるかということも理解していなかった」と述べた上で、「経済危機はすぐさま一般のアイスランド国民の暮らしにも波紋を広げた」と述べています。
 そして、「アイスランドが過剰結合にいたる過程は、規制がなかったことと、何世紀も金融関係者たちを悩ませてきた危険な政策の産物だった」と述べています。
 第9章「正のフィードバックと金融バブル」では、「いま、私たちはインターネットの副作用を初めて経験しつつある」と述べた上で、「ドットコム・バブルの根底にあるのは、インターネットとその力への陶酔だ」としています。
 第11章「変わりゆく産業の姿」では、「基本的にインターネットがやっていることは、『動きの早い企業と反応が遅い環境とを結びつける』ということだ」と述べています。
 第12章「盗まれるプライバシー」では、「インターネットは私達の言動のおよそすべてのことに影響を及ぼし、生活のあらゆる面に関わっている。そのメリットを生かしつつ、危険性にも注意を払わなければいけない。何より大切なことは、考えうる結果を予期し、脅威に備え、正のフィードバックから何かメリットが得られそうなら思い切ってそれを利用することだ」と述べています。
 第15章「ではどうする?〈1〉――ブレーキをかける」では、「過剰結合のリスクを理解したいま、私達がやらなければならないこと」として、
(1)正のフィードバックの水準を下げ、それが引き起こす事故を減らし、思考感染を緩和し、予期せぬ結果を全体的に減らす。
(2)より強固なシステムを設計し、事故が起きにくくする。
(3)すでに存在する結びつきの強さを自覚し、既存の制度を改革してより効率的かつ適応度の高いものにする。
の3点を挙げています。
 本書は、つながり過ぎた社会をどのように制御していくかを説いた一冊です。


■ 個人的な視点から

・本書のキーの概念になっている「正のフィードバック」と「カスケード」について理解できればまあ十分な感じの本です。


■ どんな人にオススメ?

・つながりすぎるのにつかれた人。


2013年11月18日 (月)

制度と進化のミクロ経済学

■ 書籍情報

制度と進化のミクロ経済学   【制度と進化のミクロ経済学】(#2198)

  サミュエル・ボウルズ (著), 塩沢 由典, 磯谷 明徳, 植村 博恭 (翻訳)
  価格: ¥7140 (税込)
  エヌティティ出版(2013/7/11)

 本書は、著者がマサチューセッツ大学で教えていた博士課程向けの「ミクロ経済理論の新しい展開」と「制度経済学、行動経済学、進化経済学」に関する2つの授業をもとにしたものです。
 プロローグ「経済学と国ぐにと人びとの富」では、本書が、「個人の行動と経済制度とがいかに相互作用して全体的な結果を生み出すのか、個人の行動と経済制度が時代とともにいかに変化するのかについての理論を提起する」と述べたうえで、「財と同じように、制度も希少であると想定される」として、
(1)社会的相互作用の非契約的性格
(2)適応的で他者考慮的な行動
(3)一般化された収穫逓増
の基本的前提の概略を示しています。
 第1章「社会的相互作用と制度設計」では、「人びとが自由に自分たちの行動を選びながら、誰もが選ぼうとはしない結末に陥らないためには、社会の相互作用はいかに構造化されなければならないか」という問題について、「古典的立憲的難題」と命名しています。
 そして、「誰もが選ばないであろう結果」とは、「2人ないしもっと多数の人々の非協力相互作用においてパレート最適でない結果へ導くときに起こる」とされる「調整の失敗」であるとしています。
 また、「制度とは、私がこの問題を使う限りにおいて、法、非公式規則、慣習的取り決めなど、集団のメンバー間の社会的相互作用に永続的な構造を与えるものをいう」と述べています。
 第2章「自生的秩序:経済生活の自己組織化」では、「進化的モデルは、現実の歴史過程を明らかにするのか、また、もし制度が自然発生的に進化してきたというのならば、制度は、人間の行動を調整するという仕事をどのくらいうまく行うだろうか」について、「私的所有権が自然発生的に、すなわち国家や他の第三者による定義や強制なしに、進化してきた可能性があることを示している。しかし、実際にそうだったのか、この疑問は解決からほど遠い」としています。
 第3章「選好と行動」では、「経済学や社会科学一般のための、より適切な行動論的基礎を追求する。そのために最近の研究を用いる。それにより、標準的アプローチの再定式化が提起される。その定式化では、人びとが何をするのかを説明すのに、個人の選好、信念、制約という伝統的枠組みの中心的な役割を保持するが、他方で、3つの点で伝統的モデルを修正している」として、
(1)多くの行動は社会的選好と名付けられるものによって最もよく説明できる。
(2)個人はルールに従う適応的主体だということ
(3)われわれの選好は、状況特殊的かつ内生的である。
の3点を挙げています。
 そして、「信念と選好とは、実行可能な行為の集合、及び行為がもたらす結果の集合とともに、個人の行為に対する説明を提供する」と述べています。
 第4章「調整の失敗と制度的対応」では、「調整問題は至る所にある」として、「漁業資源の枯渇問題は、そのインセンティブの形式的な構造という点で、他の問題、すなわち高速道路やインターネットが渋滞すること、軍備競争、仕事仲間にただ乗りすること、顕示的消費、国家間の財政競争、あるいは、隣人のテレビの音量を下げるように他の誰かに言わせることなどと大きな違いはない」と述べた上で、「共有地の利用を規制する3つの基本アプローチ」として、
(1)私有化
(2)政府など外部者による共有地の規制
(3)漁師たち自身の間に見られたような地域的な相互作用を通した規制
の3点を挙げています。
 そして、問題の解決策として、「問題を非協力ゲームから協力ゲームに転換させること」を挙げ、
(1)自分以外のすべての人について拘束的な参加制約を条件として、個人の効用を最大化するように、制度的な仕組みを変えること。
(2)基礎となる相互作用を、他者の行為が価格ベクトルを通してのみ各個人に影響をおよぼすようにすること。
(3)社会的選好が完備契約に取って代わることが出来るような相互作用を構造化すること。
の3つの一般的な方法を挙げています。
 第5章「協力の利益を分ける:交渉とレント・シーキング」では、「交渉がもたらす非効率性の3つの源泉」として、
(1)交渉の決裂によって相互に利益が得られる機会を見送ることになること。
(2)レント・シーキング活動によって生産的な使用から非生産的な使用へと資源を振り向けること。
(3)個人の分前を高めようとする経済活動に従事することによる資源配分の歪み。
の3点を挙げた上で、「生産的資源をどう配分するかが交渉結果に影響を及ぼすとともに、配分が契約を条件としない時にはいつでも交渉の非効率が生ずる」と述べています。
 第6章「ユートピア資本主義:分権的調整」では、「コースの定理」について、「市場が不完全で、従って非市場的な相互作用が生ずるところでさえ、影響を受ける人びとが、非市場的な相互作用を生み出す行為を統治する権利をめぐって効率的に交渉できるかぎり、効率的な配分がなされるだろう」とするものだと述べています。
 第7章「交換:契約、規範、パワー」では、「不完備契約を伴う市場での取引業者は完備契約市場での取引業者とは異なる行動を示すだろう」として、「どのようなタイプの契約が用いられるかが経済的相互作用の構造に影響を及ぼす反対に、相互作用のあり方は行動の均衡分布に影響を及ぼす。この理由によって、契約のタイプと取引者の行動には相互作用が働いている」と述べています。
 また、モデルから示唆される結論として、
(1)契約が不完備であるところでは、取引者が「インサイダー」に有利な差別化をする場合や他の狭い範囲の業務に従事する場合に、交換はしばしば促進される。
(2)交換に関わる規範は、現存する契約の分布や制度的環境の他の側面の影響の下で進化する。
(3)契約の請求内容に外生的(第三者的)な強制がないところでは、取引当事者の一方による権力の行使によって交換が促される場合がある。
(4)市場構造が規範の進化に及ぼす効果とともに、交換過程におけるパワーの行使が問題となる。
の4点を挙げています。
 第8章「雇用、失業、そして賃金」では、著者が特定の種類の労働市場モデルに焦点を当てる理由として、「条件付き更新に基づく労働規律モデルが、経済がいかに機能するかについて議論の余地のない多くの事実と整合することにある」として、
(1)ほとんどの職務にかなりの額の雇用レントが存在する。
(2)実質賃金は雇用水準に順応して変化する傾向がある。
(3)雇用者は非雇用者の努力水準を監視することにかなりの人的資源及び他の資源を割いていることがある。
(4)労働努力はかなり可変的である。それは、契約の条件にはほとんど成り得ない。
の4点を挙げています。
 第9章「信用市場と富の制約、及び資源配分の非効率性」では、「富の制約が高い質のプロジェクトの実行を阻むので、富の分配は資源配分の効率性に強い影響を与える」ことは、「厚生経済学の基本定理とコースの定理の論理と反対の結果である」と述べています。
 第10章「資本主義経済の諸制度」では、「特化と規模の経済の利益を前提すれば、経済活動は必然的に個人的というより社会的であり、生産と交換を統御する制度的な仕組みの諸類型は、参加者間の利害対立を統御するものが不完備契約であるという事実を反映している。不完備契約と利害対立の結合は、取引において誰がパワーを行使するのかに依存して結果が決まってくるという効果を生み出す。残余支配権とは、契約に明記されていないものを決定する権限を意味する。パワーは一般に残余支配権を持つ人々によって行使される」と述べています。
 そして、「資本主義経済において、支配権が企業で労働する人びとに割り当てられるのではなく、むしろ企業に資本を供給する人たち、あるいは彼らの代表者に割り当てられるのが一般的であるのはなぜかという問題」に答えるアプローチとして、
(1)リスク回避的な労働者にとって一種の保険である賃金雇用:共同生産の過程から生ずる所得は確率的に変化し、このリスクを担う費用は、資本の供給者にとってよりも労働の供給者にとってのほうが大きい。
(2)労働努力のモニタリング問題:支配権と残余請求権の割り当ては、生産がチームによって行われるという特質と残余請求権者に労働努力をモニターさせることの利益とによって説明される。
(3)取引特殊的資産によるホールドアップ問題:取引特殊的な投資の価値を保護することに最も大きな利害をもつ当事者に支配権が割り当てられるべきとする。
(4)労働供給者が直面する信用制約:被雇用者によって統制される企業に供給される資本の費用は、他の点では同じであるが、資本供給者によって統制される企業の資本費用を上回る。
の4点を挙げています。
 著者は、「選好と制度とは、互いの発展に影響を及ぼしつつ共進化する」と述べています。
 第13章「制度と選好の共進化」では、「競合的な諸組織との戦争に勝利することによって国民国家は進化した。戦争に勝つ能力は、兵士や他の軍事的資源を動員する特異な能力に依存していた。この能力は、商業発展の度合い、信用の利用可能性、納税義務の遵守の度合い、戦争において支配者に従おうとする意思に依存していた。さらにそれらは、個人の行動を誘導する規範の普及によって育まれたのであった。この規範は、(少なくとも初期においては)個人的に利益があるわけではなかったが、上気の諸理由によって戦争において自集団が成功するのに貢献した。これら規範の中でとりわけ重要だったのは、自発的に納税義務を遵守すること、支配者や国家のために戦争において進んで危険を負おうとすること、及び財産権を尊重することであった」と述べています。
 著者は、「人類に目立った傾向である、集団に利益をもたらす活動へと向かう性向は、資源の分け合いや社会の分断化を実行する人間共通の制度と共進化してきたと思われる。もしそうならば、このアプローチは、なぜ人間が共通の目的を共有し、それに向かって進んで協力したがるか、同時にまた国家とか民族と呼ばれる抽象的存在のために殺したり殺されたりする準備ができているのか、を理解するのに貢献するだろう」と述べています。
 第14章「経済的統治:市場、国家、共同体」では、「市場の第1の魅力的な特色は、このように、それ自体多数の人々の相互作用から帰結する日協力的な相互作用の結果として与えられる」として、「市場競争は人びとが保有する私的情報で経済的に意味のあるものを、市場への参加者が社会に公開することを誘導する方法である」と述べるとともに、「残余請求権と支配権とが緊密に整合されているところでは、市場競争は、分権化された、比較的腐敗に強い規律あるメカニズムをもたらす。そこで適さないものは罰せられ、高い成果を上げたものは報いられる。市場は、生物学者が選択圧と呼ぶものを高める1つの道である」と述べています。
 そして、「市場と対照的に、国家は、非協力的な相互作用が効率的でありえない状況において人びとを協力的に相互作用させるよう誘導し、時に強制することによって調整の失敗を緩和する。政府の比較優位は、規則を作り出すことにある。国家のみが私的行為者たちの相互作用を統御するゲームの規則を作り、それをすべての人が遵守するように強制できる」と述べた上で、国家がもつ統治構造としての弱点として、
(1)国家の役人たちが生産者や消費者によって保有されている私的情報へ近づけないこと。
(2)(民主的な政体を想定したとしても)投票者や市民は国家の役人たちが保有している私的情報へ近づけない。
(3)多数の人々を拘束する決定を下すに際し、理想的な仕組みが存在しないこと。
の3点を挙げています。
 さらに、「共同体は、国家や市場がうまく対処できない問題をときに解決する。ことに社会的相互作用や取引される財・サービスの本性が完備な契約を排除している場面ではそうである」として、「国家や市場とは対照的に、共同体はさまざまな誘因を有効に育て利用している。それは人びとが共同の活動を調整するのに伝統的に展開してきたもの――信頼、連帯、互恵、評判、個人の誇り、尊敬、仕返し、懲罰などである」と述べた上で、「共同体を特徴づける個人的で永続的な接触関係は、共同体が比較的小さなん規模のものであることを要請する。従って、仲間内での関係処理に向けられた選好は、より広い取引範囲での公益から得られる利益を獲得できないという点で、しばしばその能力には限界がある。そのうえ、共同体には比較的均質的になるという傾向があり、そのことが、異なる熟練や投入物の違いのような、強い補完性をもつ経済的多様性から得られる便益を獲得することを不可能にしている」と指摘しています。
 本書は、制度がどのように生まれどんな役割を果たしているかを経済学的に解説した一冊です。


■ 個人的な視点から

 ここ数十年の経済学のツールの発達は制度の分析に有用なものが多いとはいえ、国家―市場―共同体とかのざっくりとしたくくりの教科書に使うにはまだまだ心もとない部分が多いような気がします。

■ どんな人にオススメ?

・制度の話をざっくりと経済学的に掴んでおきたい人。


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