« 2013年11月 | トップページ | 2014年1月 »

2013年12月

2013年12月31日 (火)

鏡のなかのアインシュタイン―つくられる科学のイメージ

a■ 書籍情報

鏡のなかのアインシュタイン―つくられる科学のイメージ   【鏡のなかのアインシュタイン―つくられる科学のイメージ】(#2240)

  井山 弘幸
  価格: ¥ (税込)
  化学同人(1998/03)

 本書は、「一生に一度も科学者と会わない人でも、科学や科学者のイメージをその人なりに形成している」として、「われわれはどのようにして科学に関する心象を形成するのか。どのようなことを手がかりにして、科学の姿を想像するのだろうか」を考えようと、「「ジャーナリストたちの伝える科学、文学者や評論家の語る科学、小説や戯曲などの架空の物語に登場する科学、そして少々難しくなるが、哲学者や思想家が捉えた科学の像」を追ったものです。
 第1部「ジャーナリストの見たサイエンス・イメージ」では、荒俣宏について、「19世紀以降科学が職業として確立し、稼げる仕事になって以来久しく忘れられていたアマチュア精神を彼は発掘した」と述べています。
 また、C.W.ニコルの『風を見た少年』の一節が、「科学活動の所産がどのようなものとして象徴化されやすいかをわれわれに教えてくれる」として、
(1)金属でできていて、
(2)電気じかけの機械であり、
(3)絶大なパワーを持つ反面、
(4)人間に災いをもたらしうる脅威の存在となっている
の4点を指摘しています。
 第2部「小説家の見たサイエンス・イメージ」では、トウェインの『アーサー王宮廷のヤンキー』について、「1300年前の世界に、19世紀以降人類が手に入れた最新の科学知識を導入した場合、果たして当時の人々はそれを理解できるであろうか」という思考実験であり、「奇跡と見紛うような科学の成果は、ことごとく当時の文脈、つまり魔術の文脈で解釈されていた」と述べています。
 第3部「文学者の見たサイエンス・イメージ」では、イプセンの戯曲『民衆の敵』について、「自分が伝える科学の福音を信じない大衆を痛罵し科学者選民思想ともエリート主義とも取れる尊大な発言をさせているところを見ると、イプセンはこの時代から台頭し始めた科学者に対して、一抹の不安を抱いていたのかもしれない」と述べています。
 第4部「思想家の見たサイエンス・イメージ」では、「神学者テイヤールにとって、科学は二つの顔をもっている。一つは究極の実材を目指してがむしゃらに分析を押し進める修験者のように厳かな顔、もう一つは世界に完全に内在する法則性のうちに真理を眺め、その心理をつかむことができるのは俺一人だと考えるファウスト博士の傲慢な顔である」と述べています。
 第5部「多様な科学の心象風景」では、科学のイメージの特徴として、
(1)価値中立的イメージ
(2)好ましい正のイメージ
(3)忌まわしい負のイメージ
(4)子供と大人が同居したイメージ
の4群を挙げた上で、「科学者でないふつうの人間にとって、科学はこれらの多くの虚像が雑然と合わさった印象を与えている」と述べています。
 本書は、科学がどのように見られているかを考えさせてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 科学者というとまず思い浮かべる顔の一つが舌を出したアインシュタインだったりするわけですが、そう言えば、アインシュタイン以降で科学者のイメージを代表する人っていましたっけ?


■ どんな人にオススメ?

・科学者に先入観を持ってしまう人。


2013年12月30日 (月)

もしイヌに風船をつないだら…?好奇心大満足!! 科学が答える75の疑問

a■ 書籍情報

もしイヌに風船をつないだら…?好奇心大満足!! 科学が答える75の疑問   【もしイヌに風船をつないだら…?好奇心大満足!! 科学が答える75の疑問】(#2239)

  マーシャル・ブレイン, ハウ・スタッフ・ワークス (著), 伊藤 伸子 (翻訳)
  価格: ¥1,575 (税込)
  化学同人(2005/8/18)

 本書は、あらゆる物事に「仕組み」から分け入ってやさしく解説するウェブサイト「ハウ・スタッフ・ワークス」のフォーラムの一つ「What If」フォーラムに寄せられた疑問をまとめたものです。
 第1章「空と宇宙編」では、「もしパラシュートなしで飛行機から落ちたらどうなる?」という疑問に対して、「取るべき行動は、水域を探すこと』だとして、「十分な水深、そう、3.6メートルぐらいの深さがあれば助かるはずである」と述べています。
 第4章「体と心編」では、「もし頭を思いっきりぶつけたらどうなる?」という疑問に関して、記憶喪失の型には、
(1)逆行性健忘:しまいこんでいた記憶を呼び起こすことができないが、吸う秒前の出来事は思い出せる。
(2)前向性健忘:記憶喪失発症後の出来事を記憶にとどめることができない。
の2つの方があると述べた上で、「おもいっきり頭をぶつければ記憶を失うことがある」が、「もう一発頭に食らわすのは、ただ単に頭に傷を増やすだけで、同考えても症状は悪化する」と述べています。
 第5章「ちょっとした疑問編」では、「もしヘリウム風船百五十個を、体重わずか4536グラム(10ポンド)のジャックラッセルテリアにくくりつけただ、どうなる? 空中に浮かぶのだろうか?」という疑問について、「空中に浮かび上がらせたいならば、少なくともさらに174個の風船が必要となる」と述べています。
 第6章「サバイバル編」では、「もしはからずもスタンガンで誰かを感電させてしまったらどうなる? 撃たれた人はどうなる?」では、スタンガンの基本的な考えは、電気を介している情報伝達系を中断させることにあるとして、「電圧は高いが、エネルギー強度はそれほどではない」ため、「長時間使わない限り、人体に損傷を与えるほど強くない」と述べています。
 第8章「やってはいけないこと編」では、「もし指の関節を四六時中、ポキポキ鳴らしていたらどうなる?」という疑問に関して、「あのポキっという音は、関節に存在する体液中の記法が割れるときに発生している音」だと述べています。
 本書は、日ごろ疑問に思っている小さな「なぜ」に大まじめに答えた一冊です。


■ 個人的な視点から

 何事も疑問を抱くというのは大事なことではありますが、だからと言ってそれを実際に試してみるかどうかは話が別ではないかと思います。


■ どんな人にオススメ?

・疑問に思うと気になって仕方がない人。


2013年12月29日 (日)

鳥はなぜ集まる?―群れの行動生態学

a■ 書籍情報

鳥はなぜ集まる?―群れの行動生態学   【鳥はなぜ集まる?―群れの行動生態学】(#2238)

  上田 恵介
  価格: ¥ (税込)
  東京化学同人(1990/01)

 本書は、「群れを成している鳥との出会いは、いつもドキドキするような興奮を私に与えて」くれるという著者が、「いつ、どこで、どんな鳥が、そして何のために群れを作っているのか」を探ろうとしたものです。
 第2章「ねぐらはエサの情報センター」では、鳥が作るねぐらの意味について、
(1)多数の鳥が集まることによって、寒さで失われる熱エネルギーを節約しているのではないか。
(2)捕食者に対する適応として形成されるのではないか。
などの仮説を紹介した上で、「ねぐらを利用する個体間の情報交換の機能」があると述べています。
 第8章「群れは利己性の産物」では、「弱いものが捕食者から身を守るための一つの手段として群れ生活が進化して」きたとした上で、「“利己的”な個体は中心部を占めようとして、密なボールを形作る」と述べています。
 第9章「警戒声は誰のため?」では、「警戒声の波形が似ているのは、鳥たちが好んで他種のものまねをしている」のではなく、「鳥たちの警戒声はどの鳥のものでも、それがどこから発せられたのか、なかなか突き止めにくい音声構造を持っている」と述べています。
 第10章「小鳥は昼間に仇討ち」では、「鳥たちが昼間、フクロウ(やタカなどの潜在的捕食者)のとまっている所にやってきて、まわりで騒ぎ立てる行動」である「モビング」に関して、「カモがキツネに対してモビングする習性を利用した『赤犬猟』」を紹介しています。
 そして、モビングに関する仮説として、
(1)ヒナを黙らせる
(2)利己的な群れ
(3)捕食者を混乱させる
(4)捕食者を追い払う
(5)出鼻をくじく
(6)血縁選択説
(7)スーパーマン仮説
(8)文化伝達説
(9)危険な場所を知らせる
の9点を挙げています。
 第15章「群れの中でもだましあい」では、「カラ類はエサ場に自分より優位な鳥(アトリ、スズメ、カシラダカなど)がいると、(にせの)警戒声をはします。すると他の鳥たちはてっきり捕食者がやってきたと思って、一斉に逃げていきます」と述べています。
 第16章「おわりに」では、「個体は自己の遺伝子の継承ということに関して利己的なものだというのが社会生物学の前提」だが、「これはある個体が常にどんな場面でも“利己主義”を発揮して、わがままに振る舞うことを意味しているのでは」なく、「動物社会の法則が、そのまま人間社会の道徳や規範に当てはまるというもの」ではないとして、「利己的な個体=人間社会における利己主義者」、「成功者=最適者」という誤解がまかり通ってしまうことを心配すると述べています。
 本書は、鳥の群れが作られる意味を解説した一冊です。


■ 個人的な視点から

 何でかわからないですが鳥ってすぐ群れたがりますよね。駅前の街路樹にとまっているムクドリが昔から怖くて仕方ありません。

■ どんな人にオススメ?

・鳥がどうして蒸れるのか、もとい群れるのかを知りたい人。鶏は蒸しても美味しいです。


2013年12月28日 (土)

ぼくたちのアニメ史

■ 書籍情報

ぼくたちのアニメ史   【ぼくたちのアニメ史】(#2237)

  辻 真先
  価格: ¥819 (税込)
  岩波書店(2008/2/20)

 本書は、TVアニメ黎明期を知る著者が、当時の裏話やその後のアニメの歴史を語ったものです。
 第2章「十万馬力のショックが電波を走る」では、スポンサーから「商売敵の番組に書くなんてけしからん」と叱られた著者が、「作品ごとにペンネームを替えた」結果、「自分でも何を何本書いたか覚えてない」と述べた上で、TBSの『エイトマン』脚本チームの溜まり場「マンガルーム」の日々を、「シビアであったが、おそろしく充実していた。なにしろ後のSFの巨匠たちに雁行してシナリオを書いたのだから。宙に虹をかける噴水のようなアイディア合戦に、連日目をパチクリしながら通っていた」と語っています。
 第3章「豪快か蛮勇か東京ムービーがゆく」では、「テレビアニメが“テレビ”アニメであるためにはまず電波に乗らねばならず、偉い人のご無理を聞く必要もあって、そこまで書かねばアニメ史の一部をなさないというシビアな実情」と述べています。
 第5章「3つのブームがアニメを導く先は」では、『宇宙戦艦ヤマト』のプロデューサー西崎義展が企画した『海のトリトン』について、「演出者の富野喜幸のカラーが強く、のちの『ガンダム』に至って爆発する若い視聴者向けの熱気が、もうこの頃から蓄積されていたようだった」と述べています。
 また、『機動戦士ガンダム』シリーズについて、「世界観を共有しながら、その度に人物と設定を一新しており、スタッフも新に登用するため、ファーストガンダムの縮小再生産に陥らないこと」を特色として挙げています。
 そして、『新世紀エヴァンゲリオン』について、「大学の講義で『よくわかるが面白くない作品より、分からないが面白い作品のほうがずっといい』と繰り返している僕は、あえて肯定する」と述べています。
 第7章「宮崎トトロと大友アキラの進む道」では、「どんなに優れた作品でも、金を出す客に見られてナンボ、である。試写室に万雷の拍手が鳴り響いたって制作プロダクションには一円も配収は回ってこない。それが劇場アニメの現実なのだから」と述べています。
 本書は、日本のテレビアニメがどうしてここまで来てしまったのか、その雰囲気を伝えてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 2013年に作られたアニメ206作品を5分にまとめたという動画があるのですが、今現在でアニメ業界に携わっている人たちでどれくらいまで増えちゃったのでしょうか。
 言ってみれば粗製乱造なんでしょうけど、こういう時代を経ることで次の才能とかが出てくるような気もします。
http://www.youtube.com/watch?v=bZ1DlJxsUg8


■ どんな人にオススメ?

・アニメもなんだかんだで50年以上見続けている人。


2013年12月27日 (金)

チンパンジーはなぜヒトにならなかったのか 99パーセント遺伝子が一致するのに似ても似つかぬ兄弟

■ 書籍情報

チンパンジーはなぜヒトにならなかったのか 99パーセント遺伝子が一致するのに似ても似つかぬ兄弟   【チンパンジーはなぜヒトにならなかったのか 99パーセント遺伝子が一致するのに似ても似つかぬ兄弟】(#2236)

  ジョン・コーエン (著), 大野 晶子 (翻訳)
  価格: ¥2940 (税込)
  講談社(2012/9/21)

 本書は、「人間とチンパンジーを隔てるものは、いったいなんなのか?」という疑問を追求したものです。
 第1章「進化のツリー」では、「たった1パーセントの遺伝子のちがいで、これほど多くのちがいが生み出せるものだろうか?」という問題について、「ヒトとチンパンジーが主としてはじめて分岐し、それから何百年かがたったとき、再び交雑するようになった」という「複合種分化」と呼ばれるシナリオによって、「チンパンジーX染色体がヒトに入り込み、ヒトX染色体の分子時計をリセットしてチンパンジーの分子時計に合わせたため、両者のX染色体だけが遺伝的に近くなったのではないか」とする説を紹介しています。
 第2章「種と種をつなぐもの」では、「雑種は、種と種のあいだを遺伝子が行き来するためにかけられた橋のような存在なのである」と述べています。
 第7章「心のギャップ」では、京都大学霊長類研究所の松沢哲郎が、「ヒトとチンパンジーの共通祖先も優れた瞬間記憶力に恵まれていたものの、ヒトは複雑な言語で互いに意思の疎通ができるようになると、その能力を失ってしまったのだと論じた」と述べています。
 第8章「頭と頭をつき合わせて」では、「人間の脳の進化とその成長スピードについて語ろうとするなら、最終的には、研究者がたびたび提案するような断片的な見解以上の、全体的なアプローチが必要となるだろう。人間は二足歩行するがゆえに女性の骨盤がチンパンジーより狭くなり、そのために大きな頭の赤ん坊を安全に産むことができない。そこから、人間はチンパンジーと比べて子育て期間が長くなった。男と女のパートナーシップと親戚縁者の存在が、それに貢献している」と述べています。
 第9章「歩いて進め」では、「180万年ほど前、ホモ・エレクトゥスが出現した。彼らは日本の足で歩けただけでなく、チンパンジーをはじめとする全類人猿とヒトをさらに隔てる技能を持ち合わせていた。四本足での疾走は無理でも、長距離を走ることができるようになったのだ」と述べ、「人類は、並外れて体温調節が得意である」ために、「日中の暑いさなかにそれができるのは、人間だけだ」としています。
 そして、「私たち人間は、チンパンジーとの共通祖先から進化するにしたがって、より多くの汗腺を発達させ、体毛のほとんどを失い、皮膚の色を多様化させていったのである。そうした変化のおかげで、体温調節機能が劇的に変化し、長距離を走ることができるようになった」としています。
 本書は、ヒトとチンパンジーを隔てる違いに焦点を当てた一冊です。


■ 個人的な視点から

 遺伝子の99%が同じだとしても、そもそも遺伝子のなかには使われていない部分がずいぶんあるらしいので、ヒトが何かの間違いでチンパンジーになってしまう心配はどうやらなさそうです。


■ どんな人にオススメ?

・ヒトが持っている心や体の由来を調べたい人。


2013年12月26日 (木)

Googleの72時間 東日本大震災と情報、インターネット

■ 書籍情報

Googleの72時間 東日本大震災と情報、インターネット   【Googleの72時間 東日本大震災と情報、インターネット】(#2235)

  林 信行, 山路 達也
  価格: ¥1470 (税込)
  角川書店(2013/4/10)

 本書は、「おもにGoogleの活動にフォーカスして、災害対応サービスがいかに生み出され、利用されたか(あるいは利用されなかったか)を描いた」ものです。
 第1章「3.11でGoogleは何をしたのか」では、「米国の本社には、世界中のどこで大規模災害が起きても対応する、常設のクライシスレスポンスチームがある」として、まずは安否情報確認サービスの「パーソナルファインダー」を指導が依頼されたと述べています。
 そして、災害対応が、
(1)差し迫った危機への対応
(2)緊急の状態から平常への復帰
(3)再建と災害体験の反映
の3つの段階に分けられると述べています。
 第2章「災害対応サービスが生まれるまで」では、「コミュニケーションやプロセスの面では課題もあったとはいえ、パーソナルファインダーはITが人々をつなぐことを示す好例となった。知名度の高い組織がプラットフォームさえ提供すれば、人々は自発的に支援活動を進めていくことができる」と述べています。
 そして、「今回の震災では、我々が今日慣れ親しんでいるテレビ放送に加え、おそらく日本の歴史においても初めてである、新しい形でのテレビ番組の配信が行われた」として、「YouTubeやニコニコ動画、Ustreamといったインターネットサービスによるテレビ番組の配信」を挙げ、「本来なら時間の掛かる社内での承認プロセスを緊急時ということで簡略化し、誰かが責任をとって出来る限りの法的リスクを回避しながらサービスを始める」という、「3月11日は法律ありきではなく、まず何が重要かを基準にして英断が数多く行われたのだと思う」と述べています。
 また、「被災地の人々は、食料や給水、ガソリンなどについての信頼できる情報を喉から手が出るほど欲していた」が、TwitterやFacebookでは情報を断片的にしか入手できないという不便があることから、Googleは「被災地生活救援サイト」を立ち上げたと述べています。
 第3章「非常時に発揮されたGoogleの企業力」では、「震災後、しばらくの間、通常業務を止めてクライシスレスポンスの活動に当たる社員もいたが、Google社内ではそれを当然のこととして受け入れ、咎める様子も」なかったのは、「Googleでは、どんな業務をどんなやり方でいつ遂行するかは社員任せで基本的に自由となっているからだ」と述べ、「Googleは膨大な手間とコストを掛けてトップクラスの才能を集め、その能力を最大限に活かせるよう彼らを信頼し、主体性を尊重することで、モチベーションと会社への忠誠心を維持する企業文化を育んできたのではないか」としています。
 第4章「震災で学んだITのこれからの課題」では、「今後、災害が起こればITがさらに活用されるようになるのは間違いないだろうが、同時に災害時のデジタルデバイドはいっそう深刻になっていく可能性もある」と指摘し、「東日本大震災の被災地では、こうした問題に取り組んでいたボランティアの方々がおり、このケーススタディは将来の災害対応を考える上で、大いに参考になりそうだ」と述べています。


■ 個人的な視点から

 非常時に自分の裁量で必要なリソースを動かすことができる体制というのは、個々人にとってものすごく「有能感」を高められる機会になるわけで、「高いノルマを達成できるやりがい」とか「お客様に感謝されるやりがい」とかいったようなブラック企業的な「やりがい」とは本質的に異なっている気がします。


■ どんな人にオススメ?

・有能感も達成感も「やりがい」でくくってしまう人。


2013年12月25日 (水)

杏仁豆腐はキョウニンドウフが正しい! - 大人が読み間違うと恥ずかしい漢字

■ 書籍情報

杏仁豆腐はキョウニンドウフが正しい! - 大人が読み間違うと恥ずかしい漢字   【杏仁豆腐はキョウニンドウフが正しい! - 大人が読み間違うと恥ずかしい漢字】(#2234)

  根本 浩
  価格: ¥819 (税込)
  中央公論新社(2012/9/6)

 本書は、「大人が読み間違ってはならない漢字」、「読み間違えると、社会では命取りになりかねない漢字」を取り上げたものです。
 第1章「これを読み間違えたら周りからひかれる必須漢字」では、「一入(ひとしお)」を、「イチイリ」や「イチニュウ」と間違えた時の恥ずかしさは相当なものだと述べています。
 第2章「読めればちょっと知的にうつる漢字」では、「有職(ゆうそく)」について、「ものしり」「学者」という意味だと述べています。
 また、「幼気(いたいけ)」を「なんとなく『おさなげ』で読んでしまう人もいる」と指摘しています。
 第4章「読めれば尊敬されるあなたの宣伝効果がある漢字」では、「剽軽(ひょうきん)」の読みが難しい理由として、「『軽』を『かる』か『けい』と読む習慣がわれわれに染み付いて、『きん』と充てるのが難しいからだろう」と述べています。
 本書は、大人なら間違えたくない漢字から、初めて読み方を知るような言葉まで多くの気づきを与えてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 最近では手書きで漢字を書くのは自分の住所と名前くらいなせいで、めっきり漢字が書けなくなりました。じゃあ読む方は大丈夫なのかと聞かれればそれも甚だ怪しい物が多く、パソコンで入力していて「なぜか変換できない……」状態になってしまう漢字も少なくないわけです。「手書き入力」とか「部首入力」とかいう入力方法はそういう時のためにあるんだと思ってます。
 まあGoogleIMEはそのへんが行き届いていて、「がいしゅつ」も「→既出」、「ふいんき」も「→雰囲気」、「すくつ」も「→巣窟」、「げいいん」も「→原因」、「たいくかん」も「→体育館」、「しゅみれーしょん」も「→シミュレーション」にと変換候補を出してくれて非常に助かってます。


■ どんな人にオススメ?

・なぜか変換できない人。


2013年12月24日 (火)

明治の政治家と信仰: クリスチャン民権家の肖像

■ 書籍情報

明治の政治家と信仰: クリスチャン民権家の肖像   【明治の政治家と信仰: クリスチャン民権家の肖像】(#2233)

  小川原 正道
  価格: ¥1785 (税込)
  吉川弘文館(2013/2/20)

 本書は、「政治家にとって信仰とは何なのか」について、「身をもってそのテーマに取り組んだ5人の日本人政治家を取り上げ、明治日本におけるキリスト教信仰と政治思想との関わりについて、探求したもの」です。
 「『立志社』から衆議院議長・同志社社長へ 片岡健吉」では、「民権運動家として、また政治家として、かつキリスト者として生きた片岡にとって、その信仰と政治はいかなる関係を有していたのか」という問題について、「転機となったのは、浦上キリシタン流配事件(キリシタンの故郷である長崎県の浦上で多くのクリスチャンがいることが表面化し、各地に流されて離教を求められた事件)と欧米視察であった」と述べています。
 そして、「片岡の理解する『武士道』がキリスト教と通じるという理解が深まる過程こそが、同時に、彼自身のアイデンティティーがクリスチャンのそれへと転化していく過程でもあった」と述べています。
 「『賊軍』から青山学院長へ 本多庸一」では、本多が「武士道は基督教に酷似す」という文章を残していることに着目し、「その行動の是非はともかく、『政治家』を捨てながらも『政治』を捨てず、『武士』を捨てながらも『武士道』を捨てなかった、この稀有な『政治的』『武士的』キリスト者の足跡を、あらためて民権運動史、キリスト教史の上に刻印すべきであろう」と述べています。
 「『豪農』から草の根民権家へ 加藤勝弥」では、「加藤にとって政治は信仰のためのものであり、『基督信者として国家に尽くすの精神』を発揮する舞台が政界であった」と述べています。
 「『挙兵』から救世軍へ 村松愛蔵」では、「青年時代、最終的には政府転覆計画に到達するまでに自由民権運動に挺身し、立憲政体の成立に情熱を傾けた村松が、なぜ、一疑獄事件を契機として政界と一切手を切り、救世軍の活動に専念するに至ったのか」と述べた上で、「村松愛蔵は、キリスト教に触れながらも、当初は信仰的確信が持てず、また政治活動への抵触を恐れて、それを表に出そうとはしなかった」が、「日糖事件での入獄による霊的体験によって劇的変化を遂げ、加藤に見られたような信仰と政治活動との優先順位という問題を飛び越して、政治活動を捨てて宗教活動に専念することとなった」と述べています。
 本書は、社会が激変した明治期の政治家が持っていた信仰と政治思想との関わりについて掘り下げた一冊です。


■ 個人的な視点から

 武士道とキリスト教が似ているかどうかについてはいろいろな意見があると思うのですが、政治家になれる人っていうのは「思い込む力」が強い人に違いないと思わざるをえないわけです。


■ どんな人にオススメ?

・明治の政治家を支えた信念を知りたい人。


2013年12月23日 (月)

政党支持の理論

■ 書籍情報

政党支持の理論   【政党支持の理論】(#2232)

  谷口 将紀
  価格: ¥4830 (税込)
  岩波書店(2012/12/27)

 本書は、「世論調査で『どの政党を支持していますか』と聞くのはもう止めよう」と主張するものです。
 第1章「政党支持概念の多義性」では、本書において、「政党を指示することの意味を直接有権者に問いかける方法を採りつつ、選択肢の設定に際しては態度に関する社会心理学の古典的理論に配慮しながら、全国・全世代の有権者を母集団とした本格調査によって、人々の政党支持理解の多様性を実証的に明らかにする」としています。
 そして、世論調査における回答パターンから、人々の政党支持概念理解が、
(1)投票以上のコミットメントを必要とする行動
(2)現在の態度
(3)中長期的な態度
という3次元から構成されていると述べています。
 第2章「戦後世論調査における政党支持概念」では、「日本で戦後本格化した社会調査の歴史のなかで、政党支持概念がどのように理解され、計測されてきたか」について、
(1)第1段階(主に1940年代後半):投票(意図)政党として政党支持を捉えていた時期
(2)第2段階(主に1950年代):投票などの政治的行動から切り離された、政治的態度としての政党支持を措定し始めた時期
(3)第3段階(1960年代以降):米・ミシガン学派の政党帰属意識を、政党支持概念の一要素に含めて理解するようになった時期
の3段階を経て、その意味内容を拡大してきたと述べています。
 第4章「投票意図政党」では、「投票意図政党として党派性を計測する場合、実際の投票行動に対する説明力は高くなり、その投票行動が相対的に流動性の高いぶん、投票意図政党も時間の経過とともに変化しやすい、という特徴を持っている。反面、投票意図政党で計測した無党派層とは、投票したい政党がない人(投票したくない人を含む)と定義されることになるから、これまでの無党派層イメージからすると抵抗感があるかもしれない」と述べています。
 第6章「長期的党派性」では、「長期的党派性は従来型の政党支持よりも概念定義を明らかにしながら、それでいて従来型指標に少なくとも見劣りしないだけの汎用性(偏在性・安定性・規定性・代表性)を持っている」と述べています。
 第7章「政党認知と党派性」では、世論調査データから、
(1)民主党スキーマ:「新政権アンビバレント」[若く新しい][公約違反
(2)自民党スキーマ:「長期政権」「利権・官僚支配」「守旧派」
のそれぞれ3種が析出されたとした上で、「自民党に関する『長期政権』スキーマのような、評価はともかく自明の事柄に関わるものについては、政治家と有権者で認識枠組みが共有されている」一方で、民主党の「党内対立」スキーマや自民党の「自由闊達」スキーマなどの所謂「永田町の常識」的な認識枠組みについては、うまく有権者に伝わっていないか、有識者の関心とずれていると述べています。
 第8章「無党派層概念の再検討」では、「政党支持という言葉が投票意図を始めとする多様な意味合いを含んでいるのとは対照的に、無党派層と棄権者を直結する議論は少ない」と述べています。
 「おわりに」では、「政党支持」がこれまで万能薬のように重宝されてきたのは、同概念が特定政党に対する認知・感情・投票、あるいは寄付や入党などより深いコミットメントを伴う行動、さらには一過性の態度から長期間にわたって安定的なものまで、人によって様々な意味を読み込める、プラスチックワードだったから」だと指摘しています。
 本書は、安易に使われがちな「政党支持」という言葉が持つ意味を深く探求した一冊です。


■ 個人的な視点から

 日本では「◯◯党員です」という感じで自己紹介している人は少なくて、せいぜい住宅地の自宅の塀に政党のポスターを貼ってあるくらいで、それもたいていはK党かK党のポスターだったりしていろいろ大変なんだなあと思うくらいなのですが、メディアの電話アンケートで「◯◯党を支持します」という回答が何十パーセントもあるのが不思議に思っていました。


■ どんな人にオススメ?

・世の中に政党支持者が多いことを不思議に思っていた人。


2013年12月22日 (日)

江戸幕府と国防

■ 書籍情報

江戸幕府と国防   【江戸幕府と国防】(#2231)

  松尾 晋一
  価格: ¥1575 (税込)
  講談社(2013/2/13)

 本書は、「17世紀前半から19世紀前半における幕府対外政策のなかでも異国船対策」に着目したものです。
 著者は、幕府が「貿易改革への反作用(抜荷)を有事と捉えて武力を行使するに至った」が、「こうした事例も、一種の『外圧』に含めて幕府対外政策を捉え直す必要がある」として、「たんに方針を示しただけにとどまらず、実際に武力行使して成果を上げたという事実は、幕藩勢力が弱体化・形骸化していなかったことを、ある意味においては証明している」と述べるとともに、「幕府には外交政策において譲れぬ一線があったのであり、その一線を相手が超えた場合には、武力行使やむなしという政治姿勢が根底に流れていた」としています。
 そして、「つねに対外関係や外交問題の表舞台となった長崎では、こうした幕府主導で構築された軍事システムが、幕末まで維持されていた」としています。
 第1章「異国船来航への備え」では、「おそらく幕府は、従来ポルトガルとの交渉地であった長崎にポルトガル船が来校する可能性が高いと判断し、[長崎警備]体制の構築を急務の課題としたのであろう」が、「にもかかわらず、想定していたようなポルトガルの報復に対処することのできる十分な軍事的備えを、実際には実現できていなかった」と述べています。
 また、家光は、キリスト教の脅威について、「軍事力で領土を獲得する動きは見せず、知略を用いて唐人を信者にして日本の社会に影響を与えることだ」と理解していたと述べています。
 第2章「異国船問題と幕府外交姿勢の硬直化」では、家光政権が、「対外的には外交交渉を行う余地を残して柔軟な政治性を見せ、対内的には正保4年のポルトガル船来航を経て、すぐには過剰な兵力動員に繋がらないですむような体制をつくりあげた」と述べています。
 第3章「新な異国船問題と幕府の論理」では、「大陸沿岸での海賊の増加→清朝の対策→日本への影響という連鎖で唐人・唐船への警戒度が上昇してきたことから、幕府は『唐船』に対する強行制作に踏み切った」背景として、「環シナ海経済圏における日中貿易の低迷と、それに伴う商人・水手の困窮問題があった」と述べています。
 また、幕府が「唐船」への武力行使を当初大名家に委任しようとしたが、効果が上がらなかったことから、「幕府官吏である長崎奉行・長崎目付けを介して『唐船』問題を解決する体制をとった。つまり、個別領主権によって取り締まっていた問題を、幕府による政治支配体制の秩序の中で取り扱う問題へと位置づけ直したのである」と述べています。
 第4章「危機意識の高まりと有事対応の変化」では、文化年間のロシアとの紛争について、「近世日本の対外関係の転換点であり、幕藩制国家滅亡の危機を予感させるほどの衝撃があった。そして、この過程で、鎖国を祖法とする観念と政策が整備され、対外的危機意識と攘夷観などが醸成されることになった」と述べています。
 また、港町長崎の危機管理について、文化5年のフェートン号事件の前後で大きく変わった点として、
(1)不審な異国船が来航した場合、長崎港にその船を入れないための対策を講じた。
(2)住民レベルまでを視野に入れて治安を安定させる手はずが考えられた。
の2点を挙げています。
 エピローグでは、「日本を取り巻く国際環境の変化に幕府は振り回されたが、にもかかわらず、それまでの様々な経験と実績を生かし、守るべきものを曲げることなく、次々に現れる異国船問題を高度な政治判断によって解決していった」と述べています。
 本書は、江戸幕府の対外政策を見直す視点を与えてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 江戸幕府の鎖国政策については、幕末ロマンの大好きな現代の日本人にとっては打破すべき旧弊の象徴のようなイメージが強いわけですが、徳川300年の間の鎖国政策の実際を見ると、高度な政治判断と有能な幕臣の手腕が発揮されたことがわかります。


■ どんな人にオススメ?

・日本の夜明けは近いぜよって言いながら西の空を眺めてしまう人。


2013年12月20日 (金)

二重らせん

■ 書籍情報

二重らせん   【二重らせん】(#2230)

  ジェームス.D・ワトソン (著), 江上 不二夫, 中村 桂子 (翻訳)
  価格: ¥945 (税込)
  講談社(2012/11/21)

 本書は、DNAの二重らせん構造を発見したワトソンが、その解明までの経緯を自ら著したものです。訳者は、「著者ワトソンの社会観、科学観、人物観、それらはしばしば異様に感じられ、それが彼の文章でなまなましく描かれているとき、ときには反発を感じ、ときには不快にさえも感ずるのであるが、それのもつ不思議な魅力の惹きつけられて、一気に読み終えると、あとには爽快な感激が残る」と述べています。
 二重らせん構造発見に重大な役割を果たした女性科学者、ロザリンド・フランクリンについては、「注意力と冷静さが要求される結晶学の、長年に渡る訓練は、彼女の人となりにはっきり影響を残していた。彼女は、せっかくケンブリッジの厳格な教育を受けたのに、それを誤用するようなばかなマネはしたくなかった。彼女にとって、DNAの構造は、純粋に結晶学的手段で攻める以外、解決する道はないことは、自明の理であった」と述べています。
 また、研究のライバルであるピーター・ポーリングが、とうとうDNAの構造をつかんだというニュースに際しては、当初こそ狼狽したものの、その構造の誤りを見つけるや、「まだ勝負はついていないことがわかった」として「だんだん落ち着きを取り戻した」と語っています。
 そして、同じケンブリッジの物理学者モーリス・ウィルキンスが、助手を使ってひそかにロージィの研究成果であるX線の結果を複写させた写真を見たことでDNAの螺旋構造を確信し、有名な二本鎖を使った模型を着想したと述べています。
 さらに、ワトソンたちのモデルについて、「ロージィがあっさりと受け入れたのには私も最初はびっくりした。実は、私は、自身で作り上げた『反らせん』というワナのとりこになっている彼女のことだから、その鋭く頑固な頭で、二重らせんの正確さに何か不信をいだかせるような結果を、どこかからほじくり出してはきまいかと心配していたのだ。ところが、他の人々と同様、彼女もこの塩基対にはすっかり心を奪われ、これほど美しい構造が本物でないはずはないとすなおに認めたのである」と語っています。
 本書は、科学の発見をめぐる競争に参加している科学者達自身の赤裸々な心理を率直に語った一冊です。


■ 個人的な視点から

 DNAの二重らせん構造発見の貢献者でありながら、実験にともなって大量のX線を浴びたために若くして亡くなったと言われているロザリンド・フランクリン。本書では性格の悪い「悪役」的な扱われ方をしていますが、まさに「死人に口無し」といったところです。後には彼女を擁護した『ロザリンド・フランクリンとDNA―ぬすまれた栄光』で反論がぶつけられています。


■ どんな人にオススメ?

・科学の最前線の生々しい人間関係に触れてみたい人。


2013年12月19日 (木)

大気の海―なぜ風は吹き、生命が地球に満ちたのか

■ 書籍情報

大気の海―なぜ風は吹き、生命が地球に満ちたのか   【大気の海―なぜ風は吹き、生命が地球に満ちたのか】(#2229)

  ガブリエル ウォーカー (著), 渡会 圭子 (翻訳)
  価格: ¥2100 (税込)
  早川書房(2008/01)

 本書は、「大気にまつわる偉大な発見についての解説と、それを成し遂げた偉人たちの人間ドラマが組み合わされた」ものです。
 プロローグでは、「私たちは大気を当たり前のものと考えがちだ」が、「私達の周りの空気は、宇宙でも稀有な、驚くべき物質なのである。その青く薄い層一つのおかげで、私達の地球は不毛な岩の塊から、生命に満ちた世界へと変貌した。それは死をもたらす宇宙の環境から、地球のか弱い人間を守ってくれる唯一の層なのだ」と述べています。
 第1章「頭上に広がる海」では、ガリレオが空気の重さを量っていたことについて、「ガリレオは大気に押す力がないと信じていた。これは偉大なる人間が間違えた、数少ない例の一つである」と述べた上で、ガリレオの説が間違っていると考えたトリチェリが大気の重さを実証したが、「ガリレオの率直さが招いた結果を見ていたトリチェリは慎重な姿勢を貫き、実験結果を発表することはなかった」と述べ、親しい友人に当てた手紙の中で、「私たちは大気の海の底に沈んでいるのだ」という「壮麗なイメージ」で表しているとしています。
 第2章「生命の霊薬」では、ラボアジェが「呼吸とは燃焼のプロセスであり、とても長い時間がかかるとはいえ、炭素の燃焼と類似している」と確信したことについて、「炎は酸素を使ってろうそくや材木からエネルギーを生じさせている。それと同じように、人が呼吸をするときは、食物を燃やしているという彼の考えは正しかった」と述べています。
 第3章「食物とぬくもりと」では、19世紀のロンドン王立研究所教授だったティンダルが、「大気は地球を包む毛布であり、その中の成分の比率の変化により、地球が冷たくなったり暖かくなったりすると推論した」ことについて、そのきっかけは、フランスの科学者のフーリエの数十年前の発見だったと述べています。
 そして、「二酸化炭素はつまり、重要であると同時に危険な空気中の元素なのだ。食物とぬくもりのために、私達はどうしてもそれを必要としている。しかし使うときは危険を覚悟しなければならない。酸素、窒素、そして空気の濃度とともに、二酸化炭素も、私達の地球を単なる岩のかたまりから、生物が棲む息づく世界へと変えることに手を貸した」と述べています。
 第4章「風に吹かれて」では、コロンブスが発見した「常に吹き続けている東風」について、「そのおかげで到達した新大陸に、勝るとも劣らぬ重要な発見である」、「とても安定していて止むことがなく、貿易船が安全に公開できるため、のちに“貿易風”と呼ばれることになる」と述べたうえで、「コロンブスの時代には、彼が遭遇した風がどれほど重要なものかを、誰も理解してはいなかった。それが地球を包むように存在していることに船乗りたちが気づくのも、まだしばらく先の話であり、それが存在する理由について、不確かながらも議論が出てくるのは、さらに先のこととなる」と述べています。
 そして、「海から水を吸収するとき、空気はエネルギーを使って水の分子を壊してバラバラの気体にする。分子が再び結合して、雨粒になる時に放出されたエネルギーが風の源となる。熱と水は密接に結びついていて、地球を回る風が、そのどちらも配分している」ことについて、「地球の巨大な風系では、この離れ業が何十億年も続き、様々に違った気候パターンを生み出している。風は温度や、使える水の量の僅かな変化に合わせて姿を変えながら世界を作ってきた」と述べています。
 第5章「すべて(ホール)の物語」では、19世紀末のダブリンの科学者であるハートリーが、「地表から30キロメートルほど上空から、オゾンが保護層を作っている。それは宇宙の攻撃から地上の生物すべてを守る、3つある救いの層の第一」であることについて、その実験結果の論文の中で、
(1)オゾンは高高度の大気においては通常の成分である。
(2)高いところの大気には、地表近くの大気よりも多くのオゾンが含まれる。
(3)大気中には大量のオゾンが含まれているので、太陽光線スペクトルの紫外線の到達を制限することは可能である。
の3点を説明していると述べています。
 そして、1920年代のアメリカで、ゼネラル・モーターズの研究者だったミジリーが、「とても便利で、大きな力を持つ材料だったが、最終的にはとても危険なものになった」発明をしているとして、冷蔵庫のための、「燃えにくく毒性のない冷却材」として発明したフロンが、「容器で喜びに満ちた彼は、世界を進歩させるためのたゆまぬ努力の中で、これまで地上に存在したどんな生物より、大きな損害を地球の大気に与えることになるものを、たまたま生み出してしまったのだ」と述べています。
 第6章「空の鏡』では、「電離層はオゾン層の兄であり、きわめて危険な光線を吸収する。この層がなければ、地球に生物は存在しないだろう。電離層の存在を最初に指摘した人物は、もともとそんなところに、そんなものがあるとはまったく考えていなかった。ただ心の底から、それが自分を助けてくれることを願っていた」と述べています。
 第7章「最後のフロンティア」では、物理学者として教育を受け、戦時中は海軍士官だったヴァン・アレンが、
「戦争で獲得したドイツのV2ロケットで実験を行う機会を得たことで、空へと目が無くようになった。それ以降、彼の関心はもっぱら地球の大気の一番外側に向けられた。彼はその濃度の薄い層に何があるのを知りたかった」と述べています。
 そして、1917年に亡くなったノルウェーの科学者、ビルケランドの死後、「何十年も、彼の理論は忘れられ」、「電離層が発見され、これこそビルケランドが発見した、上空を疾走する電流の通り道であることが明らかになった時でさえ、彼の主張を受け入れる人はほとんどいなかった。ようやく立証されたのは、1960年代に入ってからである。そのときはすでに宇宙時代に突入し、ビルケランドがモデを作り、観察したが、決して触れることができない世界を、衛星が突き抜けた。衛星によって、宇宙には放射線があることが判明した。そしてやがてビルケけランドが常に正しかったこと判明するのだ」と述べています。
 また、1958年に、ヴァン・アレンが、「自分たちが発見した放射線はドーナツ型の巨大な雲状にまとまっていて、その中心の穴に地球が嵌めこまれたようになっている。それは粒子放射線――つまり帯電した電子――であり、それが地球をぐるりと取り巻いている」ことについて、これを「帯』に例えたことで、“ヴァン・アレン帯”という言葉が生まれたと述べています。
 本書は、大気をめぐる様々な先人の発見を物語にした一冊です。


■ 個人的な視点から

 ガリレオの弟子であるトリチェリの言葉「私たちは大気の海の底に沈んでいるのだ」というイメージが本書のタイトルになっているわけですが、中世のイタリアの町並みが深い海の底に沈んでいるようなイメージが浮かびました。


■ どんな人にオススメ?

・体を包み込んでいる毛布の存在に気づかない人。


2013年12月18日 (水)

人類の足跡10万年全史

■ 書籍情報

人類の足跡10万年全史   【人類の足跡10万年全史】(#2228)

  スティーヴン オッペンハイマー (著), 仲村 明子 (翻訳)
  価格: ¥2520 (税込)
  草思社(2007/8/31)

 本書は、アフリカで生まれた人類が、「驚くべき速度で世界各地へ広がっていった」ことについて、「いったいいかにして、どの道を通って、われわれは今ここにいるのか? その足あとはいかなる形でわれわれに受け継がれているのか?」を、遺伝子と化石記録と気候学から追ったものです。
 プロローグでは、「DNA分析によって、現生人類の地域的な生物学的歴史への理解は驚異的な進歩を遂げた」とした上で、古人類学においても、
(1)過去200万年の間に繰り返し行われた出アフリカに関する、年代や地理的な範囲の解明が行われた。
(2)高速コンピュータの出現により、頭蓋の形の比較分析がより科学的な基盤に基づいて行われるようになり、その結果、世界に散らばる先史時代の集団のかなめとなる頭蓋を、人類の遺伝子系統樹上の近接する大枝に、そして彼らの現代の子孫をその小枝に、置くことができるようになった。
という重要な目覚ましい発展があったと述べています。
 そして、「私たちの種ホモ・サピエンスは17万年前、最も厳しい氷期に、総人口が1万にまで落ち込んで人類が絶滅しかけたあとに誕生した」と述べています。
 第1章「出アフリカ」では、「現生人類が受け継いでいる遺伝子は、19万年前頃生きていた2000~1万人のアフリカ人を核とする集団に由来するものだろう」と述べています。
 そして、「現生人類は12万年前に、開いていた北の門を通って初めてアフリカを離れた」が、「この最初の進出は失敗に終わっている。二度目の進出は成功し、既に先人によって踏みならされていた道を通って、アジアを南や東に向かう道を進んでいった。ヨーロッパは5万年前までは迂回され、無視されていた」と述べています。
 第3章「二種類のヨーロッパ人」では、「現生人類による初めてのヨーロッパ植民に関して言えば、実際に、彼らがもたらした新しい文化的様式に対応する少なくとも二つの異なる移住があったことを、遺伝的証拠が示している」と述べた上で、「遺伝子と人類の時間の旅は、二つの驚くべき結論を示唆している」として、
(1)ヨーロッパ人の遺伝的故郷は5万年以上前の南アジアのパキスタン/湾岸地域だったということ。
(2)ヨーロッパの祖先たちは少なくとも2つの遠く離れたルートから、最終的には同じ、寒冷だが豊かな庭に入ってきたこと。
の2点を挙げています。
 第4章「アジア、オーストラへの最初の一歩」では、「成功した南からの出アフリカの最初の故郷である南アジア地域では、その拡大の遺伝的な源が、インド洋沿岸のいわゆる先住民の中だけではなく、現代の多くの集団の中にも存在している。これらの源のなかには、やがて内陸の広大なユーラシア大陸に進んでいくための、西端にある遺伝子のベースキャンプも突き止められる。小休止の後、この集団はヨーロッパ、コーカサス、中央アジアへと出発した。海岸採集コースの先頭集団は、出アフリカ集団に残された原初の遺伝的多様性を驚くほどの割合で保持しながら、かなり早くインド洋沿岸を回っていった。実際、非常に早かったので、彼らのいとこが初めてヨーロッパに着く前にインドネシアへ回り、近辺のオセアニアに入り、オーストラリアまで到着していた」と述べています。
 第5章「アジア人の起源を求めて」では、「少なくとも二つの進化的選択の力が共に働き、肌の色を緯度によって変えていく。太陽が促進する肌と髪の色の変化は、多くの世代をかけて進化していく」と述べています。
 また、「出アフリカ時代からの最大の変化は、アフリカ人を含む世界のすべての民族で、大きさと頑強さが縮小してきたこと」だとして、「長期に渡る変化には遺伝的な部分もあるだろうが、最も急激な身体の縮小は過去1万年の間に起こっており、逆説的だが、遺伝定期というより栄養的なことから起こったと思われる」と述べています。
 そして、「モンゴロイドは主に南から由来し、一方中央アジアの人々は主に西アジアの集団からやってきたが、中央アジアと北東アジアにおいて、さらに東アジアと東南アジアからの集団が加わった」と述べています。
 著者は、「ここまでは、いかに、早期の海岸採集民がインド-太平洋沿岸をめぐる旅の様々な時点で次々に分裂して、4万年前にはアジアとオーストラリアの大半を植民していたかについて述べてきた。最初の内陸への分枝はインドから北へ行き、中央アジアのステップの上部旧石器分化の狩猟民をもたらし、また後の分枝は東南アジアの大河をさかのぼり、やがて現在私たちがモンゴロイドと呼ぶ集団になった」と述べています。
 第6章「大氷結」では、「旧石器時代の時計が2万年前に近づくと、地球の自転軸の変化と公転軌道の変化が強く作用した。太陽系の3つの大きな周期が合に入り、そのことによって夏の間北半球に届く太陽熱が最小になった。気候は寒冷化し、3万~5万年前の間の特徴であった短く温かい期間、つまり亜間氷期の繰り返しは止まってしまった」として、「考古学者はこの大氷結の最盛期を氷河時代ではなく、最終最大氷期[Last Glacial Maximum]、LGMと呼ぶ」と述べています。
 そして、LGM前後の時期は、住める土地が縮小して人類が避難地を求めていたばかりではなかった。逆説的に、凍結によって閉ざされた土地以上に、海水面の低下によって植民できる土地が大きく開けたのだ」と述べています。
 また、「遺伝的な証拠が裏付けているのは、東アジア系統が南の東南アジアで拡大し、それは1万8000年前(LGM)に始まって今日までつづいている」と述べています。
 エピローグでは、「過去250万年に渡る人類の物語は、長い空白の時期の間に、時々技術の大きな飛躍や世界探検が入る、というものだ」と述べています。
 本書は、現生人類がどのように世界に広がったのかを教えてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 人類の旅がどこから始まったのかははっきりしているようなので、問題はいつ、どのルートで移動したのか、ということになるわけです。私たちのDNAはたしかにその旅の痕跡を「記憶」しているんですね。


■ どんな人にオススメ?

・自分の先祖が体験した旅に思いを馳せたい人。


2013年12月17日 (火)

動的平衡 生命はなぜそこに宿るのか

■ 書籍情報

動的平衡 生命はなぜそこに宿るのか   【動的平衡 生命はなぜそこに宿るのか】(#2227)

  福岡 伸一
  価格: ¥1600 (税込)
  木楽舎(2009/2/17)

 本書は、「生命、自然、環境――そこで生起する、すべての現象の核心を解くキーワード」である「動的平衡」(dynamic equilibtium)をキーワードに生命に関する諸問題を解説したものです。
 「プロローグ――生命現象とは何か」では、「なぜ、バイオテクノロジーはうまくいかないのか」という問題について、「端的に言えば、バイオつまり生命現象が、本来的にテクノロジーの対象となりがたいものだからである。工学的な操作、産業上の企画、効率よい再現性。そのようなものになじまないものとして、生命があるからだ」と述べています。
 第1章「脳にかけられた『バイアス』」では、「生命現象が絶え間ない分子の交換の上に成り立っていること、つまり動的な分子の平衡状態の上に生物が存在しうること」を20年ほど前にシェーンハイマーという科学者が明らかにしたとして、「シェーンハイマーは食べ物に含まれる分子が瞬く間に身体の構成成分となり、また次の瞬間にはそれは身体の外へ抜け出していくことを見出し、そのような分子の流れこそが生きていることだと明らかにした」と述べています。
 また、「タンパク質の代謝回転が遅くなり、その結果、一年の感じ方は徐々に長くなっていく。にもかかわらず、実際の物理的な時間はいつでも同じスピードで過ぎていく」ため、「実際の時間の経過に、自分の姓名の回転速度がついていけていない」ことが、「年をとると一年が早く過ぎる」原因だと述べています。
 第2章「汝とは『汝の食べた物』である」では、「私たちの身体は、たとえどんな細部であっても、それを構成するものは元をたどると食べ物に由来する元素なのだ」として、「合成と分解との平衡状態を保つことによってのみ、生命は環境に適応するよう自分自身の状態を調節することができる」と述べ、「食べ物とはエネルギー源と言うよりはむしろ情報源なのである」としています。
 第5章「生命は時計仕掛けか?」では、「すべての細胞は同じ設計図をもつことになり、この時点で、それぞれの細胞はどんな細胞にもなりうる万能性(多機能性)を持って」おり、「それぞれの細胞は将来、何になるかを知っているわけではなく、また知らないままにあらかじめ運命づけられているわけでもない」と述べた上で、「各細胞は周囲の『空気を読んで』、そのうえで何になるべきか分化の道を選んでいる」と述べています。
 第6章「ヒトと病原体の戦い」では、「カニバリズム(人肉食)がほとんどの民族でタブーとされてきたのは、私たちを病原体から守る働きのある『種の壁』を無視する行為だからであるという視点から見ることができる」と述べています。
 第8章「生命は分子の『淀み』」では、「生命とは何か?」という問に対して、「生命は動的な平衡状態にあるシステムである」とした上で、「可変的でサスティナブルを特徴とする生命というシステムは、その物質的構造基盤、つまり構成分子そのものに依存しているのではなく、その流れがもたらす『効果』である」と指摘しています。
 そして、「『生きている』とは『動的な平衡』によって『エントロピー増大の法則』と折り合いをつけているということである。換言すれば、時間の流れにいたずらに抗するのではなく、それを受け入れながら、共存する方法を採用している」と述べています。
 本書は、生命があくまでも流れの中にのみ存在する「淀み」であることをわかり易く解説した一冊です。


■ 個人的な視点から

 藤子・F・不二雄の短編で「宇宙からのおとし玉」というのがあるのですが、その中で、幼なじみの女の子が変わってしまったことを嘆く主人公に、人間の細胞なんて数ヶ月で入れ替わってしまうんだってツッコミを入れる宇宙人のことを思い出しました。
 そう言えば同じ短編シリーズの「光陰」では、歳を取ると月日の流れが速く感じられるっていう話もありましたが、これもタンパク質の代謝速度で説明できるのかもしれません。


■ どんな人にオススメ?

・最近、月日が経つのが速く感じられる人。


2013年12月16日 (月)

日本人の姓・苗字・名前: 人名に刻まれた歴史

■ 書籍情報

日本人の姓・苗字・名前: 人名に刻まれた歴史   【日本人の姓・苗字・名前: 人名に刻まれた歴史】(#2226)

  大藤 修
  価格: ¥1890 (税込)
  吉川弘文館(2012/9/20)

 本書は、人名を題材にした日本の通史であり、「『姓』『苗字』『氏』と『名前』の歴史を、国際関係を視野に入れてたどりながら、『日本』『日本人』と呼ばれる存在の歴史を探り、それぞれの時代の国家・社会と文化、ジェンダーの特質や、『民族(エスニックグループ)』『民族性(エスニシティ)』をめぐる問題、等などについて考えてみること」を主題としています。
 「人名に刻まれた歴史、人名で刻む歴史」では、「人名には、その人物が属していた社会集団、地域、民族、国家などの歴史が刻まれている。また、人名自体にも歴史があり、それぞれの時代の国家との関係、国際関係、身分関係、君臣関係、先祖との関係、族縁関係、家族関係、人と自然の関係など様々な関係性や、文化、宗教、ジェンダー等などの特性が反映しており、当時の人々の願望もこめられている」と述べています。
 そして、「個人名に付す氏は何らかの系譜や社会集団の標識であるが、日本社会にあってはこれに相当するものに、前近代には『姓』と『苗字(名字』の2つがあった。近代には一本化されて法律上は『氏』となり、社会生活では姓とも苗字とも称されているが、両者は本来、歴史的な由来を異にする別物であり、社会的機能も異なっていた」と述べています。
 「中国の『姓』制度の成立と東アジアへの伝播」では、「姓は父系で継承される父系血統の標識である。共通の先祖から分かれ出た同姓の父系血統の枝々のすべてを総括して一つの『宗』と言い、その血統に属する人々の集団を『宗族』と呼ぶ。女性の宗への帰属は二面的であり、自然的な意味においては父の宗に属し、結婚後も父の姓を改めることはなかったが、社会的な意味においては婚姻によって夫の宗に属した」と述べています。
 「『家』の成立と『名字(苗字)』の発生」では、「家の成立に伴い、家名として『名字』が発生した。のちに『苗字』とも記されるようになるが、もともとは『名字』であった。名字の起源については、『字』(通称)から発達した発達したとする説と、開発地に名前を付して所有関係を明示した『名』の制度に由来するという説とがある」としています。
 「苗字の由来」では、「苗字の大部分は居所や所領の地名にちなむ。武家の場合は、所領の地名を名乗ることが、その地の支配者=領主であることを示した。地名意外にも、地方行政制度、土地制度、官司・官職名、宅地の位置・方角・地形、あるいは天文・事物・動植物などにちなむものもあり、由来は多様である。その結果、極めて多種多様な苗字が発生することになった」と述べています。
 「苗字の展開と姓」では、「今日に残る苗字の中には関東出自の武士に連なるものが多く見られる」が、「まず、源頼朝の御家人となった関東の武士が諸国の守護・地頭に任ぜられ、各地に移住した。その後、北条氏が勢力を拡大するなかで、その家臣が地方に所領を与えられて移住した。北条氏に圧迫されて地方に下る武士もいた。蒙古襲来の際には、西国に所領を有する者の下向が命ぜられた。こうした契機で、関東武士の苗字が全国各地に伝播することになったわけである」と述べています。
 また、「近世後期になると、北関東や南関東では飢饉などで農村人口が激減し、農村復興のために人口の過剰であった北陸地方から移民を招き寄せている。移民の大部分は真宗門徒であった」として、真宗では家族数の調節のための堕胎や間引きが禁じられていたため人口が過剰であったと述べています。
 そして、「かつては、近世の庶民は苗字を持っていなかった、という俗説が歴史学界でも通用していた」が、「村落共同体内部には独自の身分・権利関係が存在し、共同体の内部世界において私的にであれ苗字を名乗ることは、身分関係と絡まって一種の特権となっていた。その権利を免許する権限を握っていたのは、共同体の支配層である」と述べています。
 「名前の変遷」では、嵯峨天皇期(809~23年)が、「日本の名前市場の転換期」であり、「名前についても唐風化を進めた」結果、「『童名(わらわな)』(幼名)と『諱=実名(じつみょう)』(成人名)を区別し、実名に嘉字(縁起のよい、あるいはよい意味の漢字)を使用し、『系字』を導入した」と述べています。
 「ライフサイクルと名前」では、「武士は、『……右衛門』『……左衛門』とか、『……兵衛』とかいう通称を名乗っているものが多いが、これは、武官とした左右衛門府、左右兵衛府に勤務したり、その武官職を買ったりして通称としたのが始まりで、やがて勤務や買官の実態がなくても、それを通称として名乗るようになったからである」と述べた上で、「中世後期には村落にも官職名が普及」し、「近世には庶民においても、官職名が一般するところとなった」と述べています。
 「近代的『氏名』の創出と『国民』編成」では、「明治3年(1870)11月、新政府は、国名並びに旧官名を通商に使用することを禁止する太政官布告を出した」とした上で、「華族・士族は実名を持っていたので、それを名乗れば禁令に抵触しなくてすんだのに比べ、庶民の多くは通称のみであったので影響が大きかった」と述べています。
 また、明治8年の平民苗字必称令の布告に伴い、石川県が「婦人は他家に嫁いだ後も終生生家の苗字を称すべきか、それとも夫の家の苗字を唱えるべきか」と伺いを立てたことに対し、太政官は、「婦女は他家に嫁いでも『所生ノ氏』を称し、夫の家を相続した場合に限って『夫家ノ氏』を称すべし」と指令したと述べた上で、民法の編纂事業の過程では、「『所生ノ氏』から夫婦を単位とする『家族』を示す『夫ノ氏』へ、そして戸主権のもとに家族が統括される『家』制度を示す『家ノ氏』へと、構想を変容させていっている」としています。
 「氏と名前のゆくえ」では、「『夫婦別氏』反対論には、それを認めると家族の絆が弱まり、伝統的な『家族』制度が崩壊する、というものが多い。しかし、その場合に想定している『家族』制度なるものは、先述したように、明治になって『家』制度と同義のものとして創出されたに過ぎず、決して古くからの伝統ではない。『夫婦同氏』にしても、それが日本で初めて法制化されたのは、明治31年(1898)公布・施行の明治民法においてであり、それ以前には政府も、夫の家に入った女性は『所生の氏』を称することを原則としていた」と述べています。
 本書は、日本の名前が持つ歴史的な意味を解説した一冊です。


■ 個人的な視点から

 ということは、「ドラえもん」は実態がないのに官位を詐称していたということですね。
 という話はさておき、夫婦別姓にすると日本の伝統ある家族制度が壊れるとか言ってる人は、たかだか百年余りの歴史しか持っていない家制度をなんだと思ってるのでしょうか。


■ どんな人にオススメ?

・日本人にとっての名前の意味を知りたい人。


2013年12月15日 (日)

レッドマーケット 人体部品産業の真実

■ 書籍情報

レッドマーケット 人体部品産業の真実   【レッドマーケット 人体部品産業の真実】(#2225)

  スコット・カーニー (著), 二宮 千寿子 (翻訳)
  価格: ¥1785 (税込)
  講談社(2012/4/6)

 本書は、「インド各地、ヨーロッパ、アフリカ、それにアメリカを旅し、合法にあるいは非合法に人体の一部を売買する産業を見て回」ったものです。著者は、「人の体を売買するマーケット」に共通する点を見ていけば、「人体の組織を扱う経済における、問題点の解決策が見つかるかもしれない」と述べています。
 イントロダクション「『人間』か『肉』か」では、「車の修理工が摩耗したパーツを新品と交換し、油の切れたエンジンにオイルを注して蘇らせるのと同じように、外科医も人体の壊れた部品を新しいものと取り替えて、人の命を伸ばすことができる。年を追うごとに技術的な障壁は低くなり、出の料金も安くなっている。だが、質のいい人体の中古部品が山ほどあるわけではない」として、「人体の部品の需要を満たすには、生きている人間、もしくは亡くなったばかりの人に原材料を求めざるを得ない」と述べた上で、「人の身体は、無菌服をまとった作業員が工場で組み立てて新しく創りだす製品ではない。むしろスクラップのマーケットにおける中古車のように、収穫されるものなのだ」と述べています。
 そして、「レッドマーケットは、人の身体をめぐる社会的なタブーと、より長く幸せな人生を送りたいという個人の欲求が衝突した時に生まれる、矛盾の産物である」と述べています。
 第1章「蹂躙される遺体」では、「死んだ彼女は、死に顔をテレビ局に売り飛ばしたレポーターや彼女を切り刻んだ医師たち、彼女の全体を引き取りたいと願う両親など、権利を主張する人々に、放送して分け与えられる物体となった」と述べています。
 第2章「骨工場」では、「1800年代を通じて、医学部の新入生たちは手を汚すことを厭わなかったが、学ぶための素材である死体は十分ではなかった」として、「研究室で、彼らは盗んだ死体を細かく切り刻んで学習しながら、互いの絆を深めたのだ」、「死体を盗むこと自体は、通過儀礼でもあった」、「彼らにとって、人体を解剖用メスで切り開いて入念に調べることの利点に比べたら、墓を暴くことのリスクは取るに足らなかった」と述べています。
 そして、「警察当局は、医療関係者による墓泥棒の罪は必要悪として目をつむった。生きている人間を健康に保つために、医師には死体が必要だったからだ。墓泥棒が逮捕されることは滅多になく、金目当てで盗む卑しい者だけが逮捕された。彼らを雇った医学校や見返りなしに墓を暴いた医学生には、お咎めはなかった」と述べています。
 第3章「臓器売買の供給チェーン」では、「中国政府が臓器の採取を目的に法輪功のメンバーを逮捕したとまでは、誰も言わない。それでも彼らを処分する上で、これはこの上なく便利で、利益をもたらした方法のように見える。危険な反体制派が処刑されると同時に、彼らの臓器は病院や外科医に結構な収入を提供したからだ。そしておそらく、中国の多くの要人たちが臓器を受け取ったと思われる」と述べています。
 第6章「政府公認の代理母産業」では、「人体の組織を扱うあらゆるマーケットと同じく、代理出産のマーケットでも、利他主義と人道的な寄付行為による面と、医療サイドが追求する収益性の面の、両者が絡みあう」と述べた上で、「新生児をめぐるレッドマーケットは、怪しげな養子縁組の取引、卵子の提供、それに代理出産という、3つの分野にまたがっている。この3つのビジネスはすべて、子供を産んで幸せな家庭を築きたいという人間の最も基本的な願望によって、一つに結び付けられている。子の親になろうとする顧客は、往々にして、供給チェーンの複雑さに気づかないまま、はからずも危険な領域に足を踏み入れる」と述べています。
 第9章「永遠の命を求めて」では、「すべてのレッドマーケットの核にあるのは、他の人間から採取された小さな部分が、どういう形にせよ、それを受け取る人間の暮らしをよくしてくれるだろうという、ほんの僅かな希望だ。それが実現することもある。しかし供給の問題は、あたかも簡単に克服できる技術上の問題であるかのように振舞って、忍耐強く背後に控えている」と述べています。
 おわりに「ロレッタ・ハーデスティに寄せて」では、「人体の組織をモノ扱いすることは、現代医学の最大の欠陥の一つである。今世紀では、供給チェーンのすべての段階で、組織を提供した人間の素性を明らかにし、組織をモノでなく、再び人間として扱うことを目指すべきだろう」として、「それを実現するには、私たちが人間の身体を使い、再利用するときの考え方を大きく変えることが必要になる」と述べています。
 本書は、医療のバックステージに隠れた、人間の身体がモノとして流通する市場を見せてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 アジアの移植臓器のマーケットの話は噂で聞いたことありましたが、医者の養成のために、まずは墓を暴くところから医学生はやらなければならなかったっていう話が衝撃でした。


■ どんな人にオススメ?

・臓器がお金に変わることを知っている人。


2013年12月14日 (土)

人が死なない防災

■ 書籍情報

人が死なない防災   【人が死なない防災】(#2224)

  片田 敏孝
  価格: ¥798 (税込)
  集英社(2012/3/16)

 本書は、「東日本大震災を経て、今の日本の防災に求められていることは、人が死なない防災を推進することであり、それこそが防災のファーストプライオリティ」であるとの考えに立ち、「釜石の防災教育とその背後にある問題意識を紹介」するものです。
 第1章「人が死なない防災」では、「防災」とは、「これくらいまでの規模の災害からは守ろうよ」という「防御の目標を置く」だとした上で、「災害というものは、防災の基準のレベルを超えてくるから災害になる」と述べています。
 そして、太郎や釜石など東日本大震災で被災した地域は、「想定外」や「想定が甘かった」から被害を受けたわけではなく、「想定にとらわれすぎた」のだとしています。
 また、災害への対応の仕方は、「大いなる自然の営みに畏敬の念をもち、行政に委ねることなく、自らのいのちを守ることに主体的たれ」ということに尽きると述べています。
 さらに釜石の子供達に教えていた「避難の三原則」として、
(1)想定にとらわれるな(ハザードマップを信じるな)
(2)いかなる状況下においても最善を尽くせ
(3)率先避難者たれ
の3点を挙げています。
 コラム「東日本大震災では、なぜこれだけ多くの犠牲者が出たのか」では、その要因として、
(1)想定に縛られていたため、十分な避難をしなかった。
(2)身体的理由から避難することができなかった。
(3)状況的に避難することができなかった。
の3点を挙げています。
 第3章「なぜ、人は避難しないのか?」では、情報伝達システムが整っている我々はインド洋津波の被災地のようにはならないという論調に対して、
(1)いつも情報が届くとは限らない
(2)情報が届いても住民は逃げない
の2点を指摘しています。
 本書は、「災害ごときで人が死なない」社会を目指した一冊です。


■ 個人的な視点から

 パニック映画では一番最初に避難を始める人は大抵犠牲になってしまいます(まるで金田一少年やコナンで「俺はもうこんなところにはいられない、帰るぞ!」と制止を振り切って出て行った人が殺されてしまうのがお約束になっているように)。もちろん最初に避難した人が生き残って最後まで現場にとどまった人が死んでしまうんじゃドラマにならないんですが、率先避難者のイメージが悪くなるのは残念です。


■ どんな人にオススメ?

・真っ先に逃げるのは恥ずかしいと思っている人。


2013年12月13日 (金)

「女子」の時代!

■ 書籍情報

「女子」の時代!   【「女子」の時代!】(#2223)

  馬場 伸彦, 池田 太臣
  価格: ¥1,680 (税込)
  青弓社(2012/4/25)

 本書は、「2000年代以降の日本で『女子』はなぜこれほどまでに人々に広まったのか。また、この『女子』は、これまで語られてきた女性性とはどのように異なり、その性格の独自性はどこにあるのか」という問題関心に基づいて、「現代社会を軽やかに跳躍する『女子』の実態に多角的に」迫ったものです。
 著者は、「『◯◯女子』と命名された『女子』とは、対象として眼指される客体ではなく、当事者である『女性』自身が自称として語ったいわばグループ名なのであり、あるいは女性雑誌などが女性読者の共感を獲得するために付与したキャッチフレーズなのである」と述べています。
 第1章「『女子』の意味作用」では、「『女子』の今日的用法は、日本社会がこの言葉に長年与えてきた意味を自分なりに読み替え、近年の文化理論の用語を借りるなら、軽やかに『横領(approprination)』したものといえよう」と述べています。
 第2章「卒業のない女子校」では、「『女子』という言葉の裏側には、何歳になっても主役を降りたくない、脇役に回りたくない、という女性たちの願望が存在する。妻でもなく母でもなく、一人の『女子』として一生を生きていくという『四十代女子』の決意は、主役人生をまっとうすることの表明である」とした上で、「そもそもファッション誌の世界は女子だけの国、卒業のない女子校なのだ」と述べています。
 第5章「オタクならざる『オタク女子』の登場」では、「オタクイメージの中核」として、
(1)“役に立たない”あるいは“価値の無い”情報の収集に熱中していること
(2)非社交性
の2点を挙げた上で、「『オタク』とは、“イマジナリーな未成熟さ”を好む人たちのことを指す。その意味でも、単なる『アニメやマンガ、ゲームのファン』とは違うのである」と述べています。
 そして、「男性の『鉄』にとって鉄道はコンテンツであるのに対し、『鉄子』にとってはメディアの側面が強い」ことを指摘しています。
 本書は、「女子」とは何か、を様々な観点から切り込んだ一冊です。


■ 個人的な視点から

 「女子」という言葉は「女の子」を縮めたという意味ではないようなのですが、「四十代女子」とかやっぱり意味がわかりません。


■ どんな人にオススメ?

・そのうち「還暦女子」が登場すると思っている人。


2013年12月12日 (木)

ウイルスと地球生命

■ 書籍情報

ウイルスと地球生命   【ウイルスと地球生命】(#2222)

  山内 一也
  価格: ¥1,260 (税込)
  岩波書店(2012/4/14)

 本書は、「地球上で最大の多様性をもつ最も数の多い生命体」という観点からウイルスの世界を眺めたものです。
 序章「あなたはウイルスに守られて生まれてきた」では、「ウイルスにより人や羊の胎児が出産まで守られている」という報告について、「母親の免疫反応で拒絶されるはず」である胎児の保護に重要なはたらきを担っている「合胞体栄養細胞」が妊娠とともに形成される機構は「長い間謎」であったが、人内在性レトロウイルスの被膜にあるシンシチンと呼ばれるエンベロープ・タンパク質の作用によって作られることが明らかにされたと述べています。
 第2章「ウイルスは生きているか?」では、生物の命を支えるために必要な代謝とエネルギーの2つの機能を欠いたウイルスは「生きた代謝系に寄生する単なる寄生物」ということもできるが、「植物の種子は、生きていない状態で生命の能力を保っている」ことから、「ウイルスは種子に似た存在かもしれない」と述べています。
 第5章「病原体だけではないウイルスの意外な役割」では、「生物の進化は突然変異と自然選択により段階的に起きていると説明されてきた」が、それだけでは「突然新しい種が生まれてくる不連続性の説明は難しい」ことからいろいろな議論が行われてきており、「そのなかで、ウイルスの共生が進化の原動力になってきたという見解が生まれてきた」と述べ、「進化でのウイルスの役割を考えた場合に注目されるのは、霊長類が進化してくる過程でトランスポゾンに大きな変動が見られることである」としています。
 第7章「広大なウイルスの世界」では、「海に存在するウイルスの総量を推算した例」として、「海洋全体では10の31乗個のウイルスが存在することになる」と述べ、「海洋には、まさに天文学的な量のウイルスが存在している」と述べています。
 本書は、地球上で最も数が多い生物としてのウイルスの側面に着目した一冊です。


■ 個人的な視点から

 生物の進化にとってウイルスが重要な役割を果たしていると聞くと驚く人も多いと思うのですが、なにしろ地球上で最も総量の多い「生物」であるならかかわらずに生きていくことこそ難しいのだと思います。


■ どんな人にオススメ?

・ウイルスって病気の原因くらいにしか思っていない人。


2013年12月11日 (水)

銀行員のキミョーな世界 - なぜ行内事情を押しつけるのか?

■ 書籍情報

銀行員のキミョーな世界 - なぜ行内事情を押しつけるのか?   【銀行員のキミョーな世界 - なぜ行内事情を押しつけるのか?】(#2221)

  津田 倫男
  価格: ¥819 (税込)
  中央公論新社(2012/3/9)

 本書は、「等身大の銀行員、理想の銀行マン」について思いを膨らませてもらうことを目的としたものです。
 第1章「〈給与・待遇〉銀行員は本当に恵まれているか?」では、銀行勤務が「セブン・イレブン」と言われて長い勤務時間が知られているとした上で、大手銀行の実質時給が約4000円でトヨタやパナソニックとほぼ同じであり、地銀ではそれが3000円ほどになり、第二地銀は1500円から2000円ということになると述べています。
 また、プライベートな部分を犠牲にしているにもかかわらず、「多くの行員が幸せな結婚をし、それなりの家庭を築ける」理由として、
(1)給与の高さ
(2)行内結婚の多さ
の2点を挙げています。
 第3章「〈カルチャー〉銀行ムラの論理」では、「銀行員が最も怖がるもの」として、「焦げ付き」を挙げ、「一つの焦げ付きは100の新規ローン獲得でも挽回できない」と述べています。
 また、「銀行は銀行員にも不信の目を向ける」として、銀行員が必ず取らなければならない一週間ほどの休暇について、「行員の福利厚生やワークライフバランスのために制度化されているのではなく、不正防止・発見のためのもの」で、「行員が休んでいる間に他の行員がその人の仕事ぶりをチェックする」ものであると解説しています。
 第4章「〈採用〉銀行はこんな人材を欲しがっている」では、「言われたことを期待以上にこなす」ための第一歩として、「上司の言いたいことを、できるだけ完全に近い形で理解する」ことを挙げ、「指示されたら復唱する、違う言い方で確認をとる、などは初歩の初歩だ。上司の人となりがわからないと指示も性格には伝わらない」として、「普通のサラリーマンでもこうした処世術は必要だろうが、銀行員の場合にはその何倍もの慎重さが要るのである」と述べています。
 第5章「〈昇進〉銀行はこうして人を育て、選抜する」では、「銀行員の将来は3つの関門で遮られている」として、
(1)入行時
(2)1店目
(3)2店目
の3点を挙げ、「正直なところ、入行時に密かに『幹部候補生』『将来の見究め対象』『定数確保要員』の選別がなされている」とした上で、「若手行員の評価は2点目の勤務が終了した段階でほぼ決まっている」と述べています。
 また、「顧客であれ、上司であれ『起こられそうになったら逃げない』ことが肝要だ。彼らがとんでもなく理不尽でない限り、そこには必ず学びの機会がある」と述べています。
 本書は、内情が見えにくい銀行員の世界を垣間見ることができる一冊です。


■ 個人的な視点から

 ドラマ「半沢直樹」のヒットで注目を集め、就職ランキングも上昇しそうな銀行業界。入行時~2年の間に幹部候補の見定めが実は終わっているというのは、実は多くの「終身雇用」型組織に共通しているのかもしれません。


■ どんな人にオススメ?

・窓口にいる人しか銀行員を知らない人。


2013年12月10日 (火)

バイオパンク―DIY科学者たちのDNAハック!

■ 書籍情報

バイオパンク―DIY科学者たちのDNAハック!   【バイオパンク―DIY科学者たちのDNAハック!】(#2220)

  マーカス・ウォールセン (著), 矢野 真千子 (翻訳)
  価格: ¥1,890 (税込)
  NHK出版(2012/2/21)

 本書は、「大学や起業といった組織に属さないアウトサイダー科学者達が繰り広げる、生命科学の最前線レポート」です。著者は、「バイオテクノロジーが生み出すものにも便益と弊害がある。遺伝子工学を民主化することへの最大の疑問は、そのツールとノウハウをより多くの人の手に渡した時、便益と弊害のバランスがどう傾くかだ」と述べています。
 第2章「アウトサイダーのイノベーション」では、既成組織に属さないバイオ科学者のいる場所について、「バイオテクノロジーの可能性を、厳格な既製組織で大きなイノベーションが生まれるのを待つよりも早く、実用レベルでちょこちょこ広げていくことだ」と述べています。
 第6章「価格を下げてハードルを下げる」では、「DIYのサブカルチャーでは、どんな分野であれ、材料や道具のコスト、作業量をハックすることが、つねに優先順位のトップにある」として、「バイオテクノロジーを自分でやろうとしても、装置や道具が個人で買える範囲をはるかに超えるというのがこれまでの常識だった。だが最近は、イーベイやクレイグズリストで中古品が値引き販売されるようになってきた」と述べています。
 第7章「遺伝子組み換え作物はだれのため?」では、「インドのグジャラート州の貧農達が、突拍子もないバイオハッキングをして、遺伝子組み換え作物を巡る議論を全く新しい方角に導く」として、モンサント社が開発した「禁制品の遺伝子組み換え種子」が州内に広がっていったと述べ、「農民は種子を、企業の支配からも政府の統制からも解放する過程で、遺伝子組み換え作物を巡る議論の両サイドから自分たちを解放した」としています。
 第8章「遺伝子の所有権はだれのもの?」では、組み換えDNAの研究者であるボイヤーが起業したジェネンテック社が株式公開によってボイヤーを大金持ちにしたこと、スタンフォード大学とカリフォルニア大学サンフランシスコ校が組み換えDNA技術の特許を取得し、この特許は25年間に合計2億5500万ドルのライセンス料収入をもたらし、バイオテクノロジー業界の基盤となったことを述べた上で、「バイオパンクたちはこのビジネスモデルに納得がいかない。金儲けの部分はとりあえず別にして――彼らにとって金銭的利益はそれほど関心がない――効果な材料や設備、化学試薬がバイオテクノロジーを大組織だけの独占領域にしている上、その独占対象が知見にまで広がっている点が問題だ」と述べています。
 第11章「生命の言語を読む」では、「先端科学も殺人事件捜査もかつては一般市民が入り込める分野ではなかった。それを、DNAは日常レベルにしてしまった。膨大な費用と10年の歳月をかけたヒトゲノム・プロジェクトは、10年もしないうちに安くて速いシーケンサー(配列決定装置)を生み出し、個人のDNAはやすい中古車1台分くらいの値段で読めるようになった」と述べています。
 第13章「バイオテロ」では、「テロとバイオテクノロジーを結びつける議論のキーワードは『二重用途』だ。有益な用途のために設計されたバイオテクノロジーでも、その気になれば有害な兵器に転用できる」として、「だれもがシンプルで安価なツールと簡素化された技術を使えるということは、悪用しようとする人間にとっても使えるということだ」と述べています。
 一方で、「バイオテロをするのに遺伝子工学は必要ない」上に、「テロリストの手に渡ったら危険なものを合成生物学で作成することは、世界一の天才科学者でさえ(いまのところ)不可能だ」と述べています。
 本書は、バイオテクノロジーの新しい潮流をレポートした一冊です。


■ 個人的な視点から

 巨大な研究設備が必要だった生物科学の分野もコンピュータの高速化と機器の量産化によって個人ベースでも参入できるようになったという話。まさしくクリステンセンのいう「破壊的イノベーション」の一分野ではないかと思います。


■ どんな人にオススメ?

・バイオ技術は巨大な研究施設だけで起こっていると思う人。


2013年12月 9日 (月)

稲の大東亜共栄圏: 帝国日本の〈緑の革命〉

■ 書籍情報

稲の大東亜共栄圏: 帝国日本の〈緑の革命〉   【稲の大東亜共栄圏: 帝国日本の〈緑の革命〉】(#2219)

  藤原 辰史
  価格: ¥1,785 (税込)
  吉川弘文館(2012/8/21)

 本書は、「20世紀前半の日本とその植民地における品種改良の歴史」を記したものです。
 「稲も亦大和民族なり」では、「モンサント社のような『種子を通じた支配構造』を歴史的に追っていくと、かつての日本が、東アジアの小帝国として植民地を統治するなかで、品種改良がきわめて重要な役割を果たしていたことを無視できなくなる」と述べています。
 「諸技術の司令塔としての育種」では、「農業機械のように修理費用もかからず、水利事業ほどの大規模な工事を必要とするわけでもない品種改良技術が、あらゆる農業技術の先遣隊、あるいは、後からやってくる諸技術の司令塔として機能する」と述べています。
 「〈富国〉と農民」では、「一連の植民地産米増殖計画のさきがけが、『北海道産米増殖計画』であったことは決して偶然ではない。挑戦が良産米のフロンティアであり、台湾がジャポニカ米の南のフロンティアであったように、北海道はその冷涼な気候から、稲作一般の北のフロンティアであった。そこに、日本の育種技術が存分に腕を磨いていく実験場が用意されたのである」と伸べています。
 「技術者と農村のギャップ」では、「帝国日本の植民地である台湾と朝鮮において、日本内陣の育成した水稲の『優良品種』の果たした役割は大きい」として、
(1)植民地における米の生産基盤を安定させたこと。
(2)高品質で同質の米を日本市場に大量に供給したこと。
の2点を挙げ、「『優良品種』を生み出す農事試験場とその研究者達にかけられた期待は大きかった」として、「地方の風土に最も適切な品種を開発」スルという点で、「台湾はこれに成功した」として、〈台中65号〉に代表される「蓬莱米」をあげる一方で、「朝鮮総督府の農事試験場は、〈台中65号〉に匹敵する人工交配品種を敗戦まで開発することができなかった」と述べています。
 「蓬莱米とは何か」では、「台湾は気候風土に恵まれているにもかかわらず、ひしゅうが未だ整備されていないために、収穫量が少なく、また品種の質も悪い」という課題に対する、最も大規模なプロジェクトとして嘉南の灌漑工事を挙げ、1920年から1930年にかけて総工費5413万9678円の工事費を投じ、八田與一によって設計され、彼の下で工事が進められたと述べています。
 「蓬莱米から『緑の革命』へ」では、IRRI(国際稲研究所)が蓬莱米の育成に成功した育種技師磯永吉を招聘しようとしたことが、「磯永吉から緑の革命への技術史的連続性を、緑の革命の側から裏づける事実である」としつつも、「磯永吉が断ったことは看過できない」と述べ、「磯が、国際稲研究所の緑の革命が現場から遊離している点を批判した、という可能性は十分にありえるだろう」と述べています。
 「日本植民地育種の遺産」では、「帝国日本の品種改良から『緑の革命』へという系譜は、種子を通じても確実につながっている。ここに育種技師の寺尾が『大東亜共栄圏』に見た夢は、形と場所と担い手を変えて実現したのである」と述べています。
 本書は、日本が米の品種改良にかけてきた努力の背景とその結末を読み解いた一冊です。


■ 個人的な視点から

 満鉄の初代総裁後藤新平の「文装的武備」という言葉にもありますが、植民地経営には活用されていない資源(土地・気候・水利など)をいかに有効に活用するか、という課題が重要であり、八田與一の水利事業等と同様に、米の品種改良も注目されるべきではないかと思います。


■ どんな人にオススメ?

・米の品種改良の重要性を知りたい人。


2013年12月 8日 (日)

再生 銚子市立病院

■ 書籍情報

再生 銚子市立病院   【再生 銚子市立病院】(#2218)

  橋口佐紀子
  価格: ¥1,260 (税込)
  日労研(2012/3/20)

 本書は、2008年9月に運営を休止し、1年7ヶ月後の2010年5月に再開した銚子市立病院について、「診療再開を果たし、病院としての機能を拡大しつつある最中の職員たちの姿を描い」たものです。
 「物置小屋から始まった日々」では、「再開を待ち望まれていたはずなのに、患者さんが集まらない。それだけ『一度閉院してしまった』という事実は、再開後も、重く重くのしかかって」いたと述べています。
 また、「がんが見つかる割合が高い気がする」、「健診のシステムがしっかりしていないんじゃないかな」という内視鏡専門医の印象を紹介しています。
 「仲間が増え始めた」では、院長兼理事長の白濱龍興院長の経歴について、
・自衛隊中央病院の病院長を務めた。
・防衛庁の陸上幕僚監部衛生部でナンバー2の企画室長として、PKO活動の開始、阪神・淡路大震災、地下鉄サリン事件などの対応を自衛隊の中枢で取り仕切っていた。
などの経歴を紹介しています。
 「転機のとき」では、白濱院長と千葉大学医学部で同期だった千葉大学大学院名誉教授の落合武徳先生が、「いままで大学で医療をやっていたお返し」、「社会に対するお返し」という気持ちから顧問として就任することになった経緯を紹介しています。
 地域の医療を支えることの大切さと、それに従事する人たちの気持ちが詰まった一冊です。


■ 個人的な視点から

 銚子市立病院は九十九里地域にドミノ倒し状に波及した意思不足の問題の一環ではあるのですが、それ以上に何かあると対立が起こるこの地域の政治問題に挙がってしまったことが一番の不幸ではないかと思います。


■ どんな人にオススメ?

・病院があるのがあたりまえだと思っている人。


2013年12月 7日 (土)

〈身売り〉の日本史: 人身売買から年季奉公へ

■ 書籍情報

〈身売り〉の日本史: 人身売買から年季奉公へ   【〈身売り〉の日本史: 人身売買から年季奉公へ】(#2217)

  下重 清
  価格: ¥1,890 (税込)
  吉川弘文館(2012/3/21)

 本書は、「歴史の中の身売りとはどのようなものであったのか、さまざまな史料をもとに解き明かして」いるものです。
 「作品に見える身売り」では、「13~14世紀の人商い人をモチーフとする作品には共通した特徴がみてとれる」として、
(1)人商い人は買い取った人を東国・「奥」地方へ陸路で連れて行く。
(2)人の調達(供給)場所は京の都が中心で、場合によってはさらに西国まで足を伸ばすことがあった。
(3)基本的に買取る対象は子どもか若者で、男女を問わない。
(4)かどわかされて人商い人の手に渡るケースが多く、身売りする側に孝養という身売り目的のある場合もあった。
の4点を挙げています。
 「戦場での『人取り』」では、戦場において、「抵抗する民衆も敵対する勢力として『人取り』の被害にあった。また、雑兵たちにしてみれば、生け捕りした敵方の捕虜・人質を身寄りのものに身請けさせることで、現地で現金を手にすることができた」と述べています。
 「『乱坊』『人取り』の輸出」では、秀吉の朝鮮出兵に伴って「人取り」された朝鮮の人々が、「ほとんど朝鮮で身請けされることなく、日本から付いてきた人商い人に買い取られ、引き上げる日本軍の船に乗せられた」として、日本に連れてこられた朝鮮の人々のその後として、
(1)多くの被虜人たちは、日本人の主人に召し使われることで一生を終えたであろう。
(2)人買い商人の手を経て転売されて、日本国内はおろか、海外へ売られていったという生涯もあったはずである。
(3)帰国して朝鮮で暮らすという結末。
の3つを挙げています。
 「浸透する奉公人契約」では、江戸時代に、「人主・請け人が作成し雇い主に渡される手形・証文」である「請け状」の内容として、
(1)奉公人の身元の保証。
(2)奉公契約の内容の確認。
(3)宗旨寺請け文言
(4)奉公人が公儀の法令や奉公先での家宝・仕来りを順守することの宣言。
(5)請け人・人主の担保文言。
の5点を挙げています。
 そして、「17世紀後半には、足軽・中間など軽き武家奉公人をはじめ町方・農村・漁村・鉱山における私的な雇用関係はもちろんのこと、職人の徒弟関係、あるいは労働とは言いがたい遊郭の遊女屋宿場の飯盛女(食売女とも書く)、年季契約とは縁遠そうな養子縁組にも奉公人契約が導入されてくる」と述べています。
 「身売り意識の改革」では、「おおよそ17世紀末には、幼年者を借金の形に入れる行為や代官・給人が未進方に百姓男女を人質に取る行為、あるいは男性を譜代下人として売買することがほとんど見られなくなる。とくに男性を売ろうにも買ってくれる先(需要)がない。こうして、身売りの対象から男性が外されていく」と述べ、「身売りは女性が遊女・飯盛下女奉公に出ることだけを意味するようになった。年季奉公人契約を装っているが、内実は、年貢未進や借金を弁済する手っ取り早い手段として、女性が『イエ』や親・夫の犠牲となって売女産業に売られていくことそのものである」と述べています。
 本書は、日本の歴史における「身売り」がどのように変わってきたのかを解説した一冊です。


■ 個人的な視点から

 現代の日本で「身売り」という言葉が使われる場合には、女性が風俗産業に売られていくことを指しますが、昔は男女問わず労働力として子供が売られていたという時代背景がわからないと「山椒大夫」を読んでもピンと来ないということになろうかと思います。
 また、戦国時代に朝鮮出兵に伴う「人取り」の話も、当時の戦場での身請け人身売買の慣習を知らないと背景がわからないのではないかと思います。


■ どんな人にオススメ?

・戦場を人を殺すだけの場所だと思っている人。


2013年12月 6日 (金)

生命進化8つの謎

■ 書籍情報

生命進化8つの謎   【生命進化8つの謎】(#2216)

  ジョン・メイナード スミス, エオルシュ サトマーリ (著), 長野 敬 (翻訳)
  価格: ¥ (税込)
  朝日新聞社(2001/11)

 本書は、「進化の物語とは違う見方に立って、進化のいろいろな階層で繰り返して認められる基本パターンを論じよう」としたものであり、「進化における複雑さの増大は、一連の大きな〈進化的な移行〉の結果として達成されてきた。移行には、情報が蓄えられ、伝えられてゆく方法の変化が関係している」と述べています。
 第1章「生命と情報」では、「生命の起原の問題とは、『増殖』と『変異』と『遺伝』をもった存在が原始地球の化学的な環境を出発点として、最初にどのように生じてきたかという問題となる。これら3つの特性が与えられれば、生物に予期される他の特性は進化してくることができるだろう」と述べています。
 第2章「主要な移行」では、「情報が貯蔵され伝達され翻訳される方法における少数の大きな変化」である「主要な移行」として、
(1)複製する分子→区画に囲われた分子の集団。
(2)独立の複製体→染色体。
(3)遺伝子及び酵素としてのRNA→DNAとタンパク質。
(4)原核細胞→真核細胞。
(5)無性的なクローン→有性生物の集団。
(6)原生生物→動物、植物、菌類。
(7)孤独性の個体→コロニー。
(8)霊長類の社会→人類の社会と言語の起原。
の8点を挙げています。
 そして、移行について強調しておくべき特徴として、
(1)自然選択による進化はあらかじめ先を予見するものではないということ。
(2)移行は一度起きてしまうと逆行させるのが困難だということ。
の2点を挙げています。
 第3章「化学から遺伝へ」では、「現在の生物で重要な化合物の多くも含めて、広い範囲の有機化合物が生物無しで合成されることには困難は見られない。しかし行われる反応には特異性が欠けているし、特定の化学結合でつながったポリマー(タンパク質、核酸)がどうやってできるかは、特に理解が困難である」と述べています。
 第6章「真核細胞の起原」では、「真核生物の起原」は一連の複数の出来事だったとして、
(1)堅固な細胞壁が失われて、固形の粒子を接触する新しい方法が得られたこと。
(2)細胞内部の細胞骨格と新しい運動方法の起原。
(3)核膜も含めて細胞内部の新しい膜系が生じてきたこと。
(4)転写と翻訳が空間的に分離されたこと。
(5)いくつもの複製起点を持つ棒状の染色体が進化してきて、ゲノムの大きさについて制約が取り除かれたこと。
(6)細胞のオルガネラの起原、とりわけミトコンドリアと、藻類や植物では色素体の起原
の6点を挙げています。
 第7章「性の起原」では、「われわれが問題とするのは性が生じた理由、そしてなぜそれがいま広く普及しているのかという理由」だとした上で、「性が集団に利益をもたらす」方法として、
(1)有性の集団は変化する環境に対してより速やかに進化できる。
(2)性は集団内の有害な突然変異による負荷を減らすことができる。
の2点を挙げています。
 また、性の分化の歴史として、
(1)+と-という2つの交配型の進化があり、その推進力となったのは、細胞内のオルガネラを一方の親からだけ伝える必要性だった。
(2)運動する配偶子と食物を蓄える配偶子をそれぞれ生ずるという、雌雄の区別の進化があった。
(3)ある系統では両性の間に二次的な差が進化してきた。これを進める原動力は、一部は雄の間での競合、また一部は子育てにあたっての分業だった。
の3つの段階を挙げています。
 第11章「動物の社会」では、「真社会性の動物」の定義として、
(1)生殖に関する分業。すなわち一部の個体だけが生殖すること。
(2)コロニー内部で世代が重なり合っていること。
(3)育児個体が共同して子の養育を世話すること。
の3点を挙げた上で、「遺伝的類縁度は孤独性から社会性の子育てに移行する時決定的な役割を演じている」として、ハミルトンが提案した「包括適応度」について解説しています。
 本書は、生命がどのように進化してきたのか、という過程における8つの大きなブレイクスルーを解説した一冊です。


■ 個人的な視点から

 遺伝子について理解しようとすればするほど、人間を始めとする動物は情報を運び伝播する機械のように見えてしまうのは気のせいでしょうか。


■ どんな人にオススメ?

・人間は遺伝子を運ぶ機会であることを受け入れられる人。


2013年12月 5日 (木)

がんばれカミナリ竜〈下〉進化生物学と去りゆく生きものたち

■ 書籍情報

がんばれカミナリ竜〈下〉進化生物学と去りゆく生きものたち   【がんばれカミナリ竜〈下〉進化生物学と去りゆく生きものたち】(#2215)

  スティーヴン・ジェイ グールド (著), 広野 喜幸, 松本 文雄, 石橋 百枝 (翻訳)
  価格: ¥ (税込)
  早川書房(1995/11)

 第17章「光れ、大きなヒカリムシ」では、「幼虫」と「成虫」という言葉について、「リンネのつけた名には、語源からして既に、人間の一生を昆虫の成長に当てはめる伝統的な解釈が含まれている」として、「昆虫の幼虫は、さまざまな先入観にじゃまされて、軽く見られる運命にあるようだ。つけられた名の語源に含まれる先入観、考え方に潜む先入観、さらには視野の狭さのゆえに」と述べています。
 そして、「われわれが通常抱いている偏見を捨てて、幼虫と成虫をそれぞれ摂食と生殖のための対等で独立した装置と考えるような別の見方に到達できれば、多くの難問がただちに解決される」と述べ、「不当にも人間の発達と同一視して(これは社会的に好まれているけれども)、幼虫を準備的な段階だの、未発達だの、あるいは不完全だのと言ってないがしろにしてはならないということである」としています。
 第18章「カモノハシであるとは」では、「カモノハシは、人間がうぬぼれという弱さゆえに抱きがちな誤った予想に常にさらされてきた」とした上で、「カモノハシの前哺乳類的な特徴は、劣っているとか非効率であることの烙印ではなく、むしろ興味深い別のメッセージを伝えている。前哺乳類的な特徴は、単項目の祖先が胎盤を持つ哺乳類へとつながる系統から早い段階で枝分かれしたことを示している。この系統は爬虫類的特徴を一挙には失わず、進化の趨勢に特有の、ゆっくり少しずつといった具合にそうした特徴をなくしていった」と述べ、「原始性神話とは反対に、カモノハシの真の姿は、独自の風変わりな生活様式にきわめて巧妙に適合した生き物なのである」としています。
 第24章「アントワーヌ・ラヴォアジェの受難(パッション)」では、「ガリレオとラヴォアジェの共通点は両者の明晰さだけにあるのではない、二人は知識人の生涯にいかにも結びつきそうな伝説を、つまり、国家権力と摩擦を引き起こす孤独な革命的天才という伝説をまさに地で行った人物であり、その双璧をなしているのである」と述べた上で、ラヴォアジェの功績として、「元素と化合物の本性のちがいをはっきりと区別した点にあった」としています。
 第28章「ウィリアム・ジェニングズ・ブライアン最後の戦い」では、法廷での「創造科学」をめぐる闘争をアメリカ史にもたらしたウィリアム・ジェニングズ・ブライアンについて、「なぜ、あのアメリカ人民党の最も偉大な改革者だった彼が、晩年、大保守反動家となったのか」というパラドックスを解きたくなったと述べた上で、ブライアンの進化論へのアプローチについて、
(1)進化の事実とその機構に関するダーウィンの説明を混同するというよくある間違い。
(2)自然淘汰説を、闘争し敵を殲滅することで生き残ろうとする好戦的な理論というふうに誤って解釈した。
(3)ダーウィニズムはこのような残忍な闘争に道徳上の高い価値を置いていると議論し、論理的な誤りをおかした。
の3点を誤りと指摘しています。
 そして、第一次世界大戦時の「二つの出来事が熱狂的な行動へと駆り立てることになった」として、
(1)ドイツの知識人と軍事指導者の大半が、闘争に関するダーウィンの考え方を援用して、戦争と支配を正当化してきた事実をブライアンが知ったこと。
(2)ドイツの軍国主義に直面した時にモラルの低下をきたす原因となる可能性がある国内の懐疑主義の成長を恐れるようになったこと。
の2点を挙げる一方で、「ダーウィニズムは人々から、戦争や支配、国内の搾取を擁護する存在として思い描かれていると述べた点は正しかった」として、「ブライアンの解決法は間違っていたが、彼は現況はつきとめていたのだ!」と述べています。
 本書は、進化をモチーフに展開された上質のエッセーが詰まった一冊です。


■ 個人的な視点から

 学術的な争点をわかり易い言葉で門外漢に説明できる能力は、科学者が本来持っているべき能力だと思うのですが、現実にはなかなか難しいようです。


■ どんな人にオススメ?

・現在当たり前と思われている科学を疑うことが出来る人。


2013年12月 4日 (水)

がんばれカミナリ竜〈上〉進化生物学と去りゆく生きものたち

■ 書籍情報

がんばれカミナリ竜〈上〉進化生物学と去りゆく生きものたち   【がんばれカミナリ竜〈上〉進化生物学と去りゆく生きものたち】(#2214)

  スティーヴン・ジェイ グールド (著), 広野 喜幸, 松本 文雄, 石橋 百枝 (翻訳)
  価格: ¥ (税込)
  早川書房(1995/11)

 本書は、『ナチュラル・ヒストリー』誌に「この生命観」として連載された著者のエッセーの第5集です。著者はこの分野がフランスでは「啓蒙書」と呼ばれるのに対し、アメリカでは「通俗書(ポップ・ライティング)」と呼ばれることについて、「ポップ・ライティングが低俗書やまがいものと等しくみなされることを深く憂える」理由として、
(1)そうしたレッテルが職業上の足かせとなって、この開かれたスタイルに手を染めてみたいと思っているかもしれない科学者達に、二の足を踏ませてしまいかねないこと。
(2)そうした見方は、知的刺激を求めている何百万ものアメリカ人の知性を支援せずに、こばかにしていること。
の2点を挙げています。
 第1章「ジョージ・カニングの左の尻と種の起源」では、「いかなるつながりも確実ではない」が、「歴史は、当初は取るに足りないように見えた小さな気まぐれや状況から生じた動きが、大きなおどろくべきものとなり、その後予想もしなかった眼を見張るような結果へと落ち込んでいくという特色を示す。これが歴史の主たる魅力であり、事件の連鎖は、事実が生じた後にはじめてその意味が分かる。しかし、時のテープを再生してもおなじことは二度と起こらないだろう」と述べています。
 第4章「テクノロジーにおけるパンダの親指」では、「QWERTY独占の謎」を、
(1)なぜ、いちばん最初にQWERTYが登場したのか。
(2)なぜ、すぐれた競合機種を物ともせず、QWERTYが生き残ったのか。
の2つに分けた上で、(1)については、「QWERTYはタイピングの速度を落とし、キーの動作停止を避けるために現れた」と述べ、(2)については、「偶然」と「現にそうであることの強み」という「歴史の記述によく使われる2つの言葉」を挙げ、「複雑なシステムにとって、均衡状態こそが標準である。変化というものは、引き起こされてしまえば、急速であり、エピソード的である」と述べています。
 第5章「がんばれブロントサウルス」では、名称の安定性が問題となるケースとして、「単一の種に2つ以上の名前が与えられている場合」を挙げ、リンネ以来の分類学の原則として、
(1)適切さ
(2)先取権
(3)強権発動
の3つを挙げています。
 そして、「ブロントサウルス対アパトサウルスは、古脊椎動物学の歴史の中で最も世に知られた確執、コープトマーシュの反目がそのまま現在にもたらされた結果である」と述べています。
 第7章「キーウィの卵と自由の鐘について」では、「キーウィはあきらかに、からだの大きさに比べた卵の大きさの比率が全長類中最大である」とした上で、「たいていの文献は、現在の使用と歴史的起源を同一視する誤りに陥って、体の大きさにふさわしい大きさの卵を産んでいたキーウィの祖先が、どのようにして積極的に卵を大きくしてきたのかを説明する方向で問題を定式化してきた」が、「キーウィは大型の鳥の矮小形子孫だからで、それもただ進化の過程でスケーリングのごく普通の原理に従った結果にすぎない」と述べ、こうした考え方は、「こうした大きな卵は現在何かしら役に立っていて、自然淘汰がそれを選び出したから」という「進化の紋切り型の説明とははっきり異なる」と指摘しています。
 第12章「論理の鎖vs親指の鎖」では、「動物磁気」説という奇想天外な説とその時期の健康への影響で有名になったメスマーを取り上げ、1784年にルイ16世が動物磁気説を調査する王立調査委員会を発足させたことについて、「かつて、歴史上、これほどまでに聡明な集団が、実験科学的方法に基づく合理的調査のために招集されたことがあっただろうか」と述べ、委員会に、ベンジャミン・フランクリンとアントワーヌ・ラヴォアジュが参加したとしています。
 そして、委員会が、「すでに立証済みの実験技術を適用し、結果的にはメスマーの正体を暴きだした。まず複雑な状況を簡略化し、考えられる原因を性格に叙述する。対照実験をくりかえし、候補にあげられた原因をひとつずつ検証し、分けていく」として、その結果、委員会は、「磁化の技術というのは想像力を徐々に増大させていく技法である」と結論づけたと述べ、その原因として、
(1)確率を考慮した論理展開にわれわれの脳は向いていないように見える。
(2)抽象的な論理展開の能力があろうとなかろうと、我々は常に希望の囚人なのである。多くの人にとって、人生が絶望と残酷に満ちたものである限り、我々は安心を約束する非合理主義の餌食になる。
という人の心と精神にひそむ2つの傾向を挙げているとしています。


■ 個人的な視点から

 「科学」という言葉が本来的にはそれなりの厳密性を伴っているはずにもかかわらず、むしろ胡散臭い使われ方をされてしまうというのは随分昔からそうなのかもしれません。


■ どんな人にオススメ?

・科学を正しく理解したい人。


2013年12月 3日 (火)

八匹の子豚―種の絶滅と進化をめぐる省察 (下)

■ 書籍情報

八匹の子豚―種の絶滅と進化をめぐる省察 (下)   【八匹の子豚―種の絶滅と進化をめぐる省察 (下)】(#2213)

  スティーヴン・ジェイ・グールド (著), 渡辺 政隆 (翻訳)
  価格: ¥ (税込)
  早川書房(1996/09)

 第19章「一万回の親切」では、「大量の証拠が揃っている時代の大半に関しては、大したことは何も起こっていない」が、「ほとんど記録が残っていない、地質学的に見れば瞬時に等しい期間に、すべてのことが起こっている」というパラドックスについて述べた上で、「人間はとても攻撃的で、しかもそれは生まれつきのことだという印象を持っている人が大半」である理由として、「引き起こされる結果の非対称性」を挙げ、「残念なことに、1回の暴力は、1万回の親切を帳消しにしうる」と述べ、「われわれは、結果と頻度を混同することで、攻撃よりも親切のほうが圧倒的に多いという事実を簡単に忘れてしまう」としています。
 第20章「類人猿帝国の衰亡」では、「進化の梯子という言い方は、進化のトポロジーを表現するメタファーとしては間違っている。灌木こそが正しいメタファーである。この正しいメタファーが、祖先グループに当たる生物(例えば類人猿)がその子孫(例えば人間)と一緒に生存していられるのはなぜかという、根強くはびこる愚問を解消してくれる」と述べています。
 第21章「運命の女神と進歩の楔」では、「生命の長い歴史の中での進歩と予測性をめぐるダーウィンの型通りの見解を形成したのは、自然淘汰という概念そのものよりもむしろこの、正しく評価されていない重要な概念である。だからこそ私は、楔というメタファーへのダーウィンのこだわりに的を絞るのだ」と述べています。
 第22章「タイヤからサンダルへ」では、「もともとの趣旨とはこっけいなくらい異なる目的へのリサイクルというテーマは、生命の歴史では主流であるばかりか、前章で半分書き残した議論を完結させるものでもある」として、「私は、コインの裏表やサイコロの出目で種の運命が決まってしまうというふうに、大量絶滅が完全にランダムに仕事をするとは思っていない。生存者は、おそらく理由があって勝ち残るのだろうが、実はここが問題である」として、「大量絶滅という尋常ならざる事件では生存のための規則が変わるし、激変を生き抜く上で役立つ種の形質が平常時の成功の源とは限らないからだ。大量絶滅をくぐり抜けるには、特別な意味で、幸運の活躍が必要かもしれない。ここでいう特別な意味とは、平常時の弾き出しにおいてひとつの機能を果たすために進化した形質が、別の理由と幸運から、時たま起きる激変が課す異なる規則の下で決定的な恩恵をもたらすに違いない、という意味である」と述べています。
 さらに、「逆説的とも思える発言をしたい」として、「奇抜で予想外の機能の移行(タイヤからサンダルへ)という運命の輪は、じつはあらゆる尺度でわれわれが進歩と呼ぶものの主要な源であると、私は主張したい」と述べ、「長期にわたる成功には、フェイントと横への動きが必要である。斜行するたびに、新たな向上と、新しい経路が利用できなくては実現しようのない進歩が可能となるのだ。進化の経路は障害走路であって高速道路ではない」としています。
 第24章「ハルキゲニアの逆転」では、「ハルシネーション(幻覚)が生んだ動物」を意味するハルキゲニアについて、「ハルキゲニアの逆転は、物語を完結させた上にお墨付きを与えた」として、「現存するデザインを備えた多細胞せ動物を地球上に初めて送り出したカンブリア紀の爆発のまさに直後に、解剖学的多様性が最大に達し、その実験が試みられた大変な時期があった。その時期、有爪類は、海生生物として成功していた多様な種類を抱えた」と述べています。
 第29章「期待の盾と現実」では、「ケファラスピスは、その名が示すとおり、頭部を骨質の熱い装甲ですっぽり覆われていた」として、「ケファラスピスの化石のほとんどは頭部装甲だけである」ことから「多くの三葉虫(化石節足動物)の頭部の端のようにも見える」と述べた上で、「世界観は社会的な解釈であり、事実探求のしかたを方向づける。しかし、事実は見つけられ、知識は、途切れがちではあるにしても前進する。事実と理論はより合わされ、偉大な科学者はみな、事実と理論の相互作用を理解している」と述べています。
 第31章「進化の歩兵」では、「これまで何百万個ものタマキビが調べられているが、左巻きの貝殻はひとつも見つかっていない。もし私が、明朝のノブスカ海岸での散歩の途中で左巻きの貝殻を一個見つけようものなら、一世紀にわたって立派に育まれてきた、そんなものは存在しないという証拠は、一瞬にして瓦解してしまう」と本文の中で記した後に、後記の中で「怪力サムソンのように概念体系を叩き潰す『醜くていやらしい些細な事実』ほど本書のフィナーレにふさわしく、じつに喜ばしいものはない」として、大英博物館の軟体動物部のキュレイターが厖大なコレクションの中から左巻きのタマキビを発見するというオチを持ってきています。
 本書は、エッセイの形で記述された進化の入門書です。


■ 個人的な視点から

 グールドの話で面白いのはやはりカンブリア大爆発の話なのですが、中でもハルキゲニアの話はぜひ一度は読んでおく価値ありだと思います。


■ どんな人にオススメ?

・進化論に関する常識をアップデートしたい人。


2013年12月 2日 (月)

八匹の子豚―種の絶滅と進化をめぐる省察 (上)

■ 書籍情報

八匹の子豚―種の絶滅と進化をめぐる省察 (上)   【八匹の子豚―種の絶滅と進化をめぐる省察 (上)】(#2212)

  スティーヴン・ジェイ・グールド (著), 渡辺 政隆 (翻訳)
  価格: ¥ (税込)
  早川書房(1996/09)

 本書は、「35億年間に及ぶ生命進化の歴史との対決」を扱った著者の6冊目のエッセイ集です。著者は、本書のエッセイを、「瑣末な事例や出来事から説き起こして一般的な大問題に説き至るというやり方、一見無関係な物事を奇抜な方法で結びつけるというやり方」という著者独特のエッセイ構築法に従っているとしています。
 第2章「黄金率――環境危機を考える適切な尺度」では、「今日の絶滅に何らかの意味があるにしたところで、地質学的な時間尺度での回復力とそれとは無関係である。われわれがグレアムアカリスを守るのは、おそらくわれわれ人類は生息していない遠い将来の地球の安定性を危惧するからではない。現在の生活の見栄えと居心地の良さ、そしてこの地球を共有している種の生活がそうした安定性に依存しているからこそ、われわれは生物集団や環境を保存しようとしているのである」と述べた上で、「全ての種は(地質学的な尺度でいえば)いずれ死滅するのだから、アカリスは(われわれの目の届く尺度で)死ぬにまかせようという主張は、人間にとって死は避けがたいことなのだから、たやすく治療できる子供の病気でも治療せずにほうっておこうと主張するに等しいことなのである」としています。
 第4章「八匹の子豚」では、「四足類の原型において一番なじみ深い特徴は、なんといっても五指性だろう」として、本書のタイトルの由来となっているマザーグースの「五匹の子豚」について触れた上で、シャビンとアルベルチが、「四足類の足の複雑な発生を、3つの基本的な過程の相互作用の結果として記述しようとした。分岐(一つの系列が二つに別れる)と分節(単一の系列の要素の数を増やす)と圧縮(要素と要素の結合)という3つの過程である」と述べ、このモデルこそが、「さまざまな数の指を生じさせた初期の不安定状態が、やがて5本という安定状態に落ち着いた単純明快なしくみを与えてくれる」としています。
 第6章「顎にまつわる耳寄りな話」では、「個々の器官はただ一つの機能を有する(しかもそれを完璧にこなす)だけだったとしたら、進化が複雑で精巧な構造を生み出すことはなかっただろうし、世界はバクテリアによって支配されていたことだろう。複雑な構造を持つ生物は、ずさんさ、多様と、重複のおかげで存在するのである。それまで鰓のつっかえ棒だった舌顎軟骨は、次に、顎と神経頭蓋を支えるための進化を遂げた。ところがその骨は、たまたま内耳の耳殻の真横に位置している。そして骨は、骨が進化したそもそもの理由との関連で、相当の効率で音を伝達する。つまり舌顎軟骨は、つっかえ棒が主たる機能ではあるものの、それ以外の用途も獲得していたのである」と述べています。
 そして、「耳をめぐる物語は、古生物学と機能的な証拠と発生学のデータという、3つの基盤でガッチリと固められている。裏付けの確かさと内容の見事さという点でも、この物語は、脊椎動物の進化で起こったあらゆる変化のうちで最高位に押し上げられる」と述べています。
 第11章「エドモンド・ハリー再読」では、ハリーが、「地球の年齢は従来の解釈よりも古いと主張し、聖書が課していた制限枠を拡大した」ことについて、「自分には除去できないバイアスが、地球の年齢を実際よりも古く見せる」という、「自分の仮説には有利だが、回避しなければならないバイアス」を記述していると述べています。
 そして、「ハリーが実際に追求したことをきちんと理解すると、彼が失敗した理由もはっきりと理解できる。彼は、歴史を合理的に研究する化学を確立しようとしていたのだ」として、「ハリーは、聖書直解主義の束縛を断ち切ったかもしれない」が、「彼は時間が実際には厖大であることを、露とも予想していなかった」と述べています。
 著者は、「人を評価するときは、その人たちには知りようがなかったり評価のしようがなかった後世の基準ではなく、その人たち自身の判断基準を知ってほしい」と述べています。


■ 個人的な視点から

 進化論や遺伝子の話は比較的色々なバックグラウンドを持った人がコラムを書くことが多い分野のようですが、ガチガチの古生物学者がきちんと書いてくれるコラムは貴重なのではないかと思います。


■ どんな人にオススメ?

・進化に関して思いを巡らせたい人。


2013年12月 1日 (日)

メディアは大震災・原発事故をどう語ったか─報道・ネット・ドキュメンタリーを検証する

■ 書籍情報

メディアは大震災・原発事故をどう語ったか─報道・ネット・ドキュメンタリーを検証する   【メディアは大震災・原発事故をどう語ったか─報道・ネット・ドキュメンタリーを検証する】(#2211)

  遠藤 薫
  価格: ¥2625 (税込)
  東京電機大学出版局(2012/3/10)

 本書は、「東日本大震災でメディアは何をどのように語ったか」をテーマとしたものです。
 第1章「地震発生、そのときメディアは」では、3.11お9.11の共通項として、「まさにはじめから、カタストロフがメディアの眼前で、メディアとともに展開していったという点」を挙げています。
 そして、大震災が、「現実のすさまじさとともに、メディアに対する社会認識に大きな転換を迫るものでもあった」として、新聞の縮刷版や記録写真集が出版されたことについて、「『新聞』は、単に『新しいこと』を伝えるだけでなく、人びとの思いを記憶するための媒体でもあった」と述べるとともに、石巻日日新聞が輪転機が被災したために、手書きの壁新聞を貼りだしたことや、東海新報が1960年チリ地震の教訓を生かして高台に移転したために当日から号外を発行したことなどを紹介しています。
 また、今回の地震で明らかになった問題点として、
(1)緊急時の対応体制が、必ずしも十分でないこと。
(2)首都圏と被災地、また被災地内でも、緊急度や何が緊急課題であるかが大きく異なっていたこと。
(3)新聞の役割とは何かを改めて考える必要があること。
の3点を挙げています。
 第2章「新しい情報回路」では、NHKのTwitterアカウントNHK_PRが「矢継ぎ早に、様々な情報、伝言板、消防庁など関連機関のサイトURLやツイッターアカウントを発信していった」ことや、ユーザーによる放送のYoustream再配信を「私の独断なので、あとで責任は取ります」と拡散させたことなどを紹介し、その後Youstreamやニコニコ動画とともにNHK地震もネット配信を行ったことに、「ある意味、これまでマスメディアとネットメディアとのあいだを遮断してきた『ベルリンの壁』が崩れた瞬間だったかもしれない」と述べています。
 また、「一般ユーザーからも多くの記録すべき目撃動画が寄せられた」として、「動画サイトは『ユーザーによる報道』のひとつのかたちを見せてくれた」と述べています。
 著者は、「東日本大震災は、『メディア』の重要性を再認識させ、また、新しいメディア環境に人びとが刮目した事件であった。また同時に、メディア社会と呼ばれる今日、緊急時に起こるデマや風評などの問題が改めてクローズアップされもした」としています。
 第3章「その映像を撮ったのは誰か」では、釜石の「宝来館」が繰り返し多くのテレビ局で取り上げられたことについて、「〈宝来館〉の多義性に注目したい」として、「〈宝来館〉という自体の中には、様々な要素が混交しており、それゆえに、要素の組み合わせ方によって、柔軟に異なる文脈の中に位置づけることができる」と述べています。
 第4章「原発リスクと報道」では、「日本社会が、東日本大震災から生じた原発事故に対して強い無力感を感じてしまう」理由として、政府・東京電力のリスク…コミュニケーションの失敗を挙げ、「原発に対する処置は、素人目にも、場当たり的で、効果が薄いように見えた」ことから、「単に原発事故に対する恐怖というだけ」ではなく、「日本という国に対する信用不安、いいかえれば日本のアイデンティティ不安を引き起こした」と指摘しています。
 また、「天譴」という言葉が、「近世以前の日本社会では、災害は施政者に対する天からの警告だと理解されていた」のに対し、関東大震災以降の「天譴論」が、「天災によってあらわになった社会システムの不具合の原因を、ミクロレベルの問題に押し付け、大衆の振る舞いのせいにすることで、真の問題から目をそらすことになりかねない」と指摘しています。
 第6章「福島第一原発事故で社会は変わるのか?」では、ニューヨーク大学のスミス教授とフローレス教授の言葉として、「2年という時間枠で見た場合、平均すると民主国家の39%で反政府抗議行動が起きている。この比率は、大規模な地震が起きると2倍に跳ね上がる。平均すると、通常2年間で民主国家の約40%で政治指導者が交代している。これに対して、1976年から2007年の地震が起きた後の2年間に政権が交代した比率は実に91%に達する」と述べています。
 本書は、震災をきっかけにあらわになった日本のメディアが持つ課題を指摘した一冊です。


■ 個人的な視点から

 災害が起こると、現代文明のなかで自然を畏れることを忘れてしまった現代人に対する「天罰」が下ったんだ、という言説が流れたりします(宗教関係とかからも)が、元々は天災は施政者に対する警告という意味だったんですね。その本来の意味のせいなのかはともかく、政権も変わりましたが、これはまあ「天災」の部分については運が悪かったという面もあるのでしょう。「人災」の部分については自業自得なわけですが。


■ どんな人にオススメ?

・メディアを通して震災と原発を見てきた人。


« 2013年11月 | トップページ | 2014年1月 »

2016年12月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31

最近のトラックバック

無料ブログはココログ