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2014年2月15日 (土)

田沼意次の時代

■ 書籍情報

田沼意次の時代   【田沼意次の時代】(#2280)

  大石 慎三郎
  価格: ¥ (税込)
  岩波書店(2001/6/15)

 本書は、「日本史の三大悪人」の一人であり、「大変賄賂を好み、賄賂によって政治を左右する腐敗した日本史上最悪の政治家」として描かれてきた田沼意次について、その根拠とされる資料に当たり、その時代がどのようなものであったのかを検討したものです。
 プロローグ「郡上一揆と田沼意次の登場」では、郡上八幡藩の一気に絡んで、「老中以下の幕閣が、金森藩政にからんでいたとして処罰された」ことについて、「この一揆は直接税増徴派幕閣を一気に追放してしまったので、幕初以来続いてきた幕府の直接税増徴型政策がここで頓挫して、田沼意次をリーダーとする間接税派の登場の契機ともなっている」と述べています。
 第1章「田沼意次の虚像と実像」では、意次が側用人と老中を兼ねたことについて、足軽の子供の意次が正規の老中になったことは、「このようなことはこれまでには例のないこと」だとして、「同僚はもちろんのこと、権力から外れた普代門閥層から怨まれ、憎まれたのは当然のこと」だと述べています。
 そして、「田沼意次の悪評を記した資料」に関して検討を加えた結果、
(1)これらの資料はすべて田沼意次が失脚した後に書かれたものである。
(2)国史文献としてパスポートを与えられている文献でも、田沼意次の評価に従来使われてきたように使うのは適当でない。
(3)資料としては抜群に信頼度が高いが、その読み方に問題がある。
と述べています。
 第2章「吉宗の退陣と意次の登場」では、「宝暦8年9月3日以降、評定所の審議についての将軍への奏請権は、田沼意次が握っていた」として、「評定所というのは幕政に関する最も重要な事項の審議立案をするところであり、それが将軍の決裁をえれば、はじめて法として成立するところであるから、その奏請権を握った田沼意次の地位はほとんど決定的と言ってよいほど、大きい」と述べています。
 そして、「将軍のもとで三奉行以下を指揮して幕政を総括指導する首脳権力」への昇進コースとして、
(1)I型:奏者番→寺社奉行(兼)→大坂城代→京都所司代→老中
(2)II型:小姓→側衆→側用人(側用取次)
の2つを挙げ、「その権威の発生源が家柄(家格)とそのポストではなくて将軍の信任であるところがI型と決定的にちがっている」としています。
 第3章「田沼意次の政策」では、田沼意知が佐野善左衛門に切りつけられた事件について、「田沼意次とその子意知によって推進されている改革政治が、ある階層(徳川幕府の普代門閥層)にとって、たいへん困ることであるので、佐野善左衛門政言を使嗾して、田沼意知を暗殺させ、田沼政権を倒し、その改革政治を阻止しようとした」と述べています。
 そして、意次が「年貢増徴に抵抗して起こる一揆」がますます激しくなり、「有毛検見法による年貢増徴作が破綻を来し、幕閣内の直接税増徴派が連座して追放される」ことで、「直接税の引き上げはやめて、新たに元禄以来とくに盛んになった商品流通に課税して税の不足分を補うという、いわば間接税の採用」を打ち出したと述べています。
 また、「通貨銀を通貨金に直接的に連動させた『明和五匁銀』」について、「田沼政権は巨大商人資本と結託しているということがよくいわれるが、通貨政策で見る限り、巨大商人の利益を擁護し、それと結託しているのは松平定信ということになる」と述べています。
 さらに、印旛沼の干拓事業について、「蝦夷地調査・同開発計画の場合と較べあわせてみると、田沼意次の政策と関係のあった者は、小者に至るまで徹底的に追放処罰するというのが、松平定信の方針だったようである」と述べています。
 第4章「田沼時代の社会」では、「17世紀の末葉、つまり元禄時代は江戸時代社会の大きな曲がり角であった」と述べ、その理由として、
(1)16世紀中葉以来大発展を続けてきた近世社会生産力(農業生産力)が停滞段階に入ったこと。
(2)農民所得の拡大をてこに起こった庶民の消費性向の向上が、17世紀前半の原型的な幕藩社会の体質を大きく変えていたこと。
(3)領主経済の困窮が顕在化し、もはや放置できないところに来ていたこと。
などの点を挙げ、「そのうえ幕藩体制社会の礎石である石高体制が、それまで米価に追随して変動していた諸色値段が連携を失ったことによってゆらぎはじめたこと、また島原の乱(1638)からでもすでに50年以上もたったため、創業期の苦難と緊張を知らない人々の世代になっていたこと、などなどは問題をいっそう困難にしていた」と述べています。
 エピローグ「『遺書』を通してみた意次の人がら」では、「田沼意次については個的な資料はもちろんのこと、彼を取り巻く根本的資料もほとんどと言ってよいほど、残っていない」としたうえで、意次が、「財政の健全化をはかろうと、年貢の増徴などをしようとするのは、筋違いだ」と断定していることについて、「彼は世子家重の小姓時代に、八代将軍吉宗が幕府財政再建のためにと年貢増徴策を打ち出して、百姓一揆の厳しい反撃を受け、また郡上八幡藩主金森頼錦が出世金をひねりだすため無理な年貢増徴にのりだして、前代未聞の大一揆をひきおこして家を滅ぼしてしまった事情を見聞きしていただけに、この言葉は重みをもった教訓である」と述べています。
 著者は、「彼はすぐれた財務家であるが、誠実一筋の人間であるうえに常々目立たぬよう心がけていた、大変な気配り人間であった」と総括しています。
 本書は、「悪徳政治家」として知られてしまっている政治闘争の敗者の姿を追った一冊です。

■ 個人的な視点から

 賄賂といえば田沼意次、田沼意次といえば賄賂、というのが日本人の大部分かと思いますが、当時の町人からすれば松平定信の方がよっぽど迷惑だったのかもしれません。


■ どんな人にオススメ?

・田沼といえば賄賂だと思っている人。


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