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2014年2月19日 (水)

江戸の風評被害

■ 書籍情報

江戸の風評被害   【江戸の風評被害】(#2284)

  鈴木 浩三
  価格: ¥1785 (税込)
  筑摩書房(2013/5/13)

 本書は「幕府の御触書や町触(町人に局限された幕府の公示法令)など、当時の公的な記録に残された事象を中心」に、江戸時代の風評被害(事実と異なる情報が(人々に)拡がることによって経済的被害が発生すること)を解説しているものです。
 第1章「蕎麦を食べると当たって死ぬ——食品をめぐる風評被害」では、文化10年(1813)4月ころから、江戸市中に「蕎麦を食べると当たって死ぬ」という風評が広がり、「蕎麦を食べる者が激減し、蕎麦屋の休業が続出する深刻な状況になった」際に、「この事態を憂慮した江戸町人の自治的組織のトップである町年寄は、6月になると、この風評の打ち消しと取り締まりに乗り出している」と述べ、「蕎麦が一般に普及していた割には、蕎麦に対する人々の知識が少ない、つまり情報量が少ないことが風聞の第一の背景であったといえる」としています。
 そして、「町年寄、名主、家主集団は相当に広い範囲の自治的能力をもった公法人あるいは公共団体として機能していた。つまり、町年寄・名主・家主から構成される自治的組織は、官でも民でもなく、町人をはじめとする都市居住者にとっての公共性や公益を実現するものだった。それ故、幕府はこれらの自治的組織の意思を尊重し、諸政策の実施に最大限に活用した」と述べ、約260年にわたって、「きわめて限られた要員」によって江戸の都市行政や経済政策が担われてきた効率性の理由は、「なによりも町年寄などを使った間接統治システムの成功にあった」としています。
 著者は、「生老病死に関係する事象(対象)があり、かつ、その事象に関する情報が十分に人々に行き渡っていない場合(条件)において、人々の不安が掻き立てられた結果、、『蕎麦中毒死』の風説が発生して拡散していった」と述べています。
 第2章「水道に毒が入れられた!」では、天明6年(1786)9月に、江戸で「上水に毒物が投入された!」という浮説(噂)がながれたことについて、十代性軍家治の薨去が発表された直後であり、浅間山の大噴火の3年後、天明飢饉の最中といった「世上が騒然とした時代背景の中で出てきた浮説であることに注目する必要がある」と述べ、この時期がクーデターに近い形で田沼意次から松平定信に老中首座が代わった時期であることから、「古今・洋の東西を問わず、そうした政治状況には謀略やデマが付き物である。そう考えると、確証はないが、田沼政権の追い落としの一環として反田沼派によって計画的・意図的にこの浮説が流されたことも否定できない」としています。
 また、18世紀中頃の「享保改革」によって米の生産量が増えたことで米価が下がり、「年貢収入に依存した幕府財政や武士の生活はさらに苦しくなっていった」ことから、「幕府は年貢収入に基礎を置く財政運営から、商品流通に財源を求めるようになった」として、この時期に、「田沼意次が老中首座として権力を握り、積極的な経済政策を展開した」と述べ、「こうした市場経済の発達に則した経済政策は、自休自足を原則とする農村を経済基盤とする、封建領主層の経済的困窮に拍車をかける面が大きかった」として、特に、天明5年と6年の御用金令は、「大坂の商業資本から徴収した御用金をそのまま大坂の町人に貸し付け、これを大坂の町人が諸大名に利付きで融資した」ことから、「大名の返済が滞れば幕府の代官がその田畑を差し押さえて、そこから収入する年貢を大坂町人に支払うこと」になり、「これは領地支配権を将軍が大名に委任するという幕藩体制の原則に関わることであり、実質的には借金のかたに幕府が諸大名の領地を取り上げることに通じていた」と述べています。
 そして、田沼の失脚は、「定信を代表とする譜代門閥層による一種の『クーデター』と位置づけ」られ、「商業資本が武家階級よりも圧倒的に優位な経済的地位を占めるようになったことへの反動でもあった」と述べています。
 第3章「大地震と風評」では、「諸大名は各自の江戸屋敷に居留守を置くとともに、江戸城内に家臣を派遣して、将軍後継や幕閣の動向、幕政の動静、他の大名家の動向などに絶えず注意をはらい、情報収集に努めていた」として、「居留守は、現在で言えば全国の大名家の『外交官兼東京事務所長』にも相当し、その交際の上手下手は、大名家の運命さえも左右した」と述べています。
 第4章「貨幣改鋳と浮説・虚説——お金をめぐる風評被害」では、「経済分野の浮説・虚説によって生じる損害は、江戸時代を象徴する風評被害であった」として、「通貨や米などの市場の中で生まれた浮説は、それぞれの相場に影響を与えて、直接的には取引市場への参加者=町人が被害を受けたのであるが、金・銀・銭の花柄相場や米相場が乱高下すれば、その影響は年貢収入を貨幣に替えなくてはならなかった幕府自身や幕臣、諸大名などにも及んだ」としています。
 そして、「現在の感覚からすれば、金・銀・銭の順で価値が高いと思われがちだが、当時はそれぞれが対等な本位貨幣として使われていた」として、世界でも非常に珍しい「三貨制」について解説したうえで、「宝暦期以後になると、江戸周辺を含むと動く全体の経済が発達」し、「江戸地廻り経済」と呼ばれたと述べています。
 著者は、「浮説や虚説が人々=市場関係者の中から湧き出してくるという点からすれば、それらは金融や米を含む諸物の市場の思惑や意思でもあった。そして、市場の思惑や意志に沿った形で発生した浮説が、新たな浮説を再生産させながら拡大する場面も見られた。その意味で、浮説や虚説は、市場機能の発露の一つの形態であったともいえる」としています。
 第7章「神社仏閣と『風評利益』」では、「善男善女からプラスの評価を獲得して、参詣人をできるだけ集めれば、寄進やお賽銭、祈祷料、御札やお守りの販売といった“宗教法人”そのものの業務と直結した収入を見込める」上に、「見世物や人出を当て込んで境内や門前に出店する諸商人に至るまで、広範な経済効果をもたらした」として、「当時の寺社の多くは、人々の信仰の対象であると同時に、巨大なエンターテインメント業という側面を持っていたため、人寄せの工夫、つまりマーケティング活動を繰り広げていたのである」としています。
 そして、立花家の太郎稲荷や有馬家の水天宮など、「逼迫する大名家の財政を補うための努力という側面が大きい」成功例の「柳の下の泥鰌」を狙い、上総国の久留里三万石の譜代大名であった黒田家が、地中から掘り出されたと称する不動尊像を祀り、宣伝チラシを配って集客するが、寺社奉行脇坂中務大輔安董の手入れを受けてしまった顛末を解説し、「この事件は、全くのインチキであっても、それをもっともらしく見せる仕掛けや、宣伝工作、口コミの利用といった事前の準備をうまく運べば、参詣人を集められたことを示している」と述べています。
 また、「神社仏閣の人気を高めるためには、従来のような秘仏や秘宝の公開と並んで、その神社仏閣にまつわるストーリー性が重要になっていた」としています。
 第8章「開帳とビジネス」では、「宝暦頃になると、幕府が祭礼を景気刺激策と考えていたことを示す触書も出てくる」として、「寺社参詣や開帳が盛んだった江戸時代の背景には、そうした幕府のスタンスも作用していたのかもしれない。幕府は浮説・虚説やそれらに伴う風評被害に悩まされ続けていたのであったが、その一方では、『風評利益』の受益者であったという二面性があったわけである」と述べています。
 本書は、江戸から現代まで変わらない風評発生の背景をたどった一冊です。

■ 個人的な視点から

 風評被害も出どころを追っていくとやはり経済的な損得があるというのは今も昔も変わらないものなのかと思いました。


■ どんな人にオススメ?

・風評被害はネットのせいだと思う人。


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