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2014年2月26日 (水)

世界史の中の近代日韓関係

■ 書籍情報

世界史の中の近代日韓関係   【世界史の中の近代日韓関係】(#2290)

  長田 彰文
  価格: ¥2520 (税込)
  慶應義塾大学出版会(2013/7/21)

 本書は、「19世紀半ばから1945年までの朝鮮(韓国)を巡る国際関係の展開を日本との関係を中心にして詳細に」みようとしたものです。
 第1章「朝鮮の開国と当時の国際情勢」では、1871年の廃藩置県によって、「対馬の宋氏の対朝鮮外交権を接収し、対朝鮮外交の一元化を完成させた」が、「大院君のもとで『衛正斥邪』が行われていた朝鮮側」はこれを認めなかったとした上で、1873年11月に、閔妃による追い落としにより大院君が隠遁したため、「閔妃は大院君への反発から、それまでの政策の転換を図り、明治政府を対日交渉の相手として認めた」と述べています。
 そして、1875年12月9日に駐日米公使のビンガムが、二十数年前のペリー艦隊の日本来航時のやり取りなどが記された『日本遠征記』を日本側に手渡し、「かつてペリーが日本に対して行ったことを今度は攻守ところを代えて日本が朝鮮に対して行うにあたっての『手順』を示していた」と述べ、「日本は、この頃において欧米との間の不平等条約の改正が不調に終わっていた一方、その不平等条約を朝鮮には押し付けるという『抑圧の移譲』を行っていた」としています。
 第2章「日清・日露戦争と朝鮮(韓国)」では、1895年、外交に関して素人でありながら、藩閥政府において薩摩に対するバランスとして駐朝日本行使に着任した長州出身の三浦梧楼が、本国から具体的な訓令を与えられていないことを、「自らにフリー・ハンドが与えられたものと解釈した」ことから、日本からの軍事指導を受けていた訓練隊解散の動きがあったことなどの黒幕と考えた閔妃の殺害を決心し、「10月7日夜に大院君を強要して擁立し、日本軍や壮士、訓練隊はよく10月8日未明、応急の景福宮を襲撃して、侍衛隊があえなく退散する中で侍女たちを次々に殺害し、その中で閔妃と思われる女性の遺体を焼却した」が、その場面を米国の軍事教官であったダイや駐朝米国公使館書記官であったアレン、ロシア人魏志のサバティンらに目撃されたために、「日本側は、事件を訓練隊の仕業と見せかけることができなかった」と述べています。
 そして、高宗がロシアからの支持を前提に近代化に乗り出し、1897年8月14日に年号を「光武」と改称し、「10月12日には皇帝即位式を行い、国王を皇帝、王太子を皇太子と改称し、国号も『大韓帝国』と改称し、ここに自らの意思を持って中国との宗属関係を否定した」が、「韓国政府は『親露派』、『親日派』、『親米派』などに分かれて、おのおの各国が背後にいるという形で角逐を展開し、またその中で賄賂などの不正も横行した」と述べています。
 また、1898年、「独立協会の影響力の拡大が自分たちを脅かすことを恐れた親露派政府は、独立協会は高宗の大権を奪おうとしていると高宗に讒言」し、そのために独立協会は解散・検挙されたことについて、「ここに韓国政府は『韓国の自立のための改革の最後の機会』を自らの手で潰す格好となったが、独立協会の人々の中からのちの愛国啓蒙運動や独立運動の担い手が多数出ることになり、独立協会は、朝鮮(韓国)のブルジョワ民族主義の出発点となった」と述べています。
 そして、1899年8月17日に議定・公布された大韓帝国国制について、「そこにおいては皇帝の絶対的と言ってもいい大権が認められた。それは大日本帝国憲法における天皇の大権をもしのぐものであり、しかも日本の場合はそのような建前とは別に実質的には権力の分立がなされていたのに対して、韓国においてはそれが建前以上のものであったため、特定の派(親露派から親日派)、特定の国(ロシアから日本)が高宗を、押さえればそれで決着してしまうという図式ができてしまい、したがって争いが起きるという状況が展開した」と述べています。
 また、1905年、「日本海(韓国・朝鮮においては東海)に位置する竹島(韓国・朝鮮においては独島)をそのように名づけた上で無主の地であるとして島根県隠岐島司の管轄に編入」したことについて、「時期的にみると、日本が日露戦争において戦局を有利に進め、韓国を軍事的に押さえて、前述のように日韓議定書、第一次日韓協約を結び、韓国を外交的にも実質的に相当に押さえていたという状況であり、韓国がそのような状況下で竹島の日本への編入に異議を唱えるということは事実上、不可能ではあったことは、指摘しておきたい」と述べています。
 第3章「韓国における日本の支配権の確立と列国」では、「安重根による伊藤の暗殺は、日本人の中にある韓国(人)に対する蔑視とその一方での脅威を増幅させる一方、それまでの日本の宣伝もあって欧米諸国には『日本の偉大な政治家の死』『韓国のために働いた恩人を韓国人自らが屠った』などと映り、日本は、韓国の併合に着手するにあたって欧米の同情心を利用したともいえる」と述べた上で、立憲政友会の原敬が、韓国併合の報せを耳にして、「熟柿が自然に落ちるまで待つべきであるのに急ぎ過ぎであること、これは山県などが功名心から急いだ結果であること、急ぎすぎた日本の韓国併合が『後の面倒』となるのではないかなどの感想を日記に記し、彼自身は日本の韓国併合自体には反対ではなかったものの、危惧の念を抱いた」と述べています。
 第4章「日本の朝鮮統治の開始と国際関係」では、「民族自決主義の朝鮮に対する影響力を過小評価するのは適当ではない一方で、朝鮮人が朝鮮内外の情勢の展開に乗じて三・一運動を起こしたというのが真相であり、三・一運動の原因を探るときに国際情勢における民族自決主義以外の諸要因、そして何よりも『武断統治』の実態をさしおいて民族自決主義だけを強調するのは適当ではない」と述べています。
 そして、1919年8月に朝鮮入りした斉藤実が、「朝鮮における『武断統治』に代わる新たな統治を行う」として、「文化政治」渡渉する改革を行う一方で、「斉藤が朝鮮に赴任した目的が治安の回復および独立運動の再発防止でもあった以上、朝鮮統治において『文化政治』とか『一視同仁』といった言葉だけでは説明のつかない側面ももっていた」として、警察官の増員などを挙げています。
 第5章「国際情勢の緊迫と朝鮮の『大陸兵站基地』化」では、スターリンが、「ソ連領沿海州地域に住んでいた朝鮮人を『日本人』かつ『日本のスパイ』と考えて、『満洲国』との国境などにおいて軍事的に対峙していた日本と内通するおそれがあるとの理由で、1935年前後を中心にして沿海州地域の朝鮮人17万人余りを『日本との内通の恐れがない』ソ連領中央アジア地域に強制移住させた」ことについて、「中央アジア地域への移住を余儀なくされた朝鮮人たちは、図らずも新天地となった場所にあった広大な荒れ地を開梱したりして生活基盤を徐々に整えていき、現在では『高麗人』という名で中央アジア各国の国民中の一民族として生活している」と述べています。
 また、1918年8月から1922年まで、最多時で万人以上の日本兵をシベリアに投入した際にの、「日本兵のロシア人女性への暴行による現地における日本に対する反感の増大及び日本兵の間での性病の蔓延による戦力の低下」を「教訓」として、「日本軍は、中国人の対日憎悪の防止及び性病の蔓延による戦力の低下の回避のため、日本軍の駐屯・移動の際に行動を共にして日本兵の性的相手をする女性たちを多数必要とした。そして、そのような女性としては、現地または日本において男性の相手となることを生業とする女性たちも調達されたが、それだけでは必要数を充足できなかった。そのため、目をつけられたのが、日本の植民地、特に朝鮮における若い女性たちであった」と述べ、「若い朝鮮人女性の調達にあたっては、『いい働き口があるから』などと誘いをかける方法、または有無を言わせない強制力をもって連れて行く方法などがとられたが、彼女たちの調達に直接あたったのは、朝鮮総督府及び日本人・朝鮮人の民間斡旋業者であった。ただ、現地に到着した後の彼女たちの健康管理には軍があたっていたことだけを見ても、『従軍慰安婦』と軍は無関係であったとはいえなかった」としています。
 第6章「日本の朝鮮統治の終焉と朝鮮の南北分断」では、1941年12月10日、大韓民国臨時政府が中国の対日宣戦布告を受けて、「主席の金九および外務部長の趙素昴の名前で『対日宣戦声明書』を出し、対日戦線を布告して、連合国とともに参戦することによって国際的に朝鮮の独立の保障を受けようとした。しかし、『声明書』は日本側には通達されてはおらず、また連合国、特に米国は、戦争終結後に朝鮮問題に関して自らの手を縛ることになるとして、臨時政府による対日宣戦布告を認めず、したがって連合国の中の一国にもなることができなかった。そのことは、大戦中からその集結にかけての挑戦問題をめぐる事態の推移、さらに下って戦後の対日講和会議であるサンフランシスコ平和会議において大韓民国の参加が認められなかったこと、さらに1951年から1965年まで続くことになる日韓交渉においても『交戦国』としての地位を求める大韓民国の主張に対して日本軍が最後まで認めようとはしなかったことなど、不利に作用することになったのである」と述べています。
 また、「FDR政権時に彼が頼み込む形で決まったソ連の対日参戦は、唯一の敵国が日本となる中でFDR政権時のように米国にとって絶対に必要というものではなくなり、むしろ逆に戦後にソ連が日本に関して発言権をもつことにつながるため、避けるのが望ましくなっていった。そして、反共反ソという立場からソ連には強い立場を取る一方で日本にはFDR政権時のように無条件降伏を求めるなど強硬な姿勢はとらず、むしろ戦後の反共反ソ政策の展開において日本を利用するために日本を温存することをトルーマンに進めたのがグルーであった」と述べています。
 そして、「朝鮮総督府の官僚たちは8月15日の『玉音放送』後、総督府庁舎の各階の窓から需要書類を投げ下ろし、中庭でそれらに油をかけて焼却し、当日の抜けるような青空の下で無数の灰が粉雪のように舞い、黒煙が立ち上り、それが十数日間続いたとのことであった。こうして、大量の朝鮮総督府文書が焼却され、その中には例えば『従軍慰安婦』に関するものも含まれていたと推定される」と述べています。
 さらに、朝鮮総督府が、「ソ連軍のソウルへの侵攻と占領を恐れる一方で、米国本国において米ソ両国による朝鮮半島の分割占領方針およびソウルは米工側にはいことが決定していたことは知らなかったことから、米軍による占領がむしろ望ましいと考えて、8月31日、沖縄にいた米第24軍と最初の無線連絡をとった。それ以降、朝鮮総督府は、英語に通じていた総督府の官僚・小田安馬が中心となって作成した朝鮮の状況を記した英文の報告書を断続的に沖縄の米軍に送付したが、その内容は、朝鮮人を誹謗中傷し、朝鮮人は朝鮮上陸後の米軍のいかなる措置をも妨害するに違いない無法な暴徒であることを印象づけようというものであった」と述べています。
 「おわりに」では、「米国側、特に国務省や大統領であるFDR自身は朝鮮および朝鮮人を日本から解放させることは日本の軍国主義を撲滅する上からも望み、カイロ宣言に『朝鮮の解放』の文句を盛り込むことに賛成したが、日本から解放させたあとの朝鮮人が独立して国家を維持していく能力に対しては懐疑的・否定的な見方をしていた」と述べた上で、「米国は、日本から切り離したあとの朝鮮を自国が全面的に引き受けるのは朝鮮における利害関係からも『オーバー・コミットメント』であり、好まないこと、しかし朝鮮人が独立してやっていけるとは到底思われないこと、そのような朝鮮は解放後、かつてのように東アジアにおいて『紛糾の種』とならないようにしなければならないことなどの判断から、国際連盟に代わって設立予定の新国際組織、その中での主要国が朝鮮を信託統治することが最善であるという考えをかためていった」と述べています。
 また、「朝鮮においては、日本との修交の前に西洋ないし日本に倣った近代化を図ることによって独立を維持していこうという動きが既にあったが、それに反してなおも西洋式・日本式の近代化にはいたらずに独立を維持していこうという動きもあった。そして、1870年代から1880年代初めにおいては、閔妃勢力が前者の立場、彼女の舅である大院君の勢力が後者の立場をそれぞれとっていたが、1882年の壬午軍乱から2年後の甲申政変を経て、清国に救われた格好となった閔妃勢力は後者の立場、大院君勢力は日本に擁立されることによって必然的に前者の立場を取るようになった」と述べています。
 そして、1941年の太平洋戦争突入により、「朝鮮はそれ以降、日本による収奪、カイロ宣言で朝鮮に関して言及されたところの『奴隷状態』ともいえる状況に追い込まれた。朝鮮は、日本が食糧の配給制度も滞るようになり、相次ぐ空襲を受けて破壊状態に追い込まれたのとは違い、空襲自体はそれほどなく、食糧事情も日本ほど悪化しはしなかった。『奴隷状態』とは、物理的な側面以上に『内鮮一体』や『皇民化政策』によって朝鮮人としての民族性の喪失、抹殺へとつながりつつあったという精神的な側面のほうが強かった」と述べています。
 本書は、現在の朝鮮半島問題を考える上でも必要となる明治〜大正〜昭和にかけての日韓関係をまとめた一冊です。

■ 個人的な視点から

 最近は週刊誌も「嫌韓ブーム」になっているらしくそういった特集が増えているようですが、日韓併合以前の朝鮮半島の状況を知らないままではお互い朝鮮半島の問題は語れないということかと思います。


■ どんな人にオススメ?

・最近朝鮮半島の話題が多いと感じている人。


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