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2014年3月

2014年3月31日 (月)

頭の中は最強の実験室: 学問の常識を揺るがした思考実験

■ 書籍情報

頭の中は最強の実験室: 学問の常識を揺るがした思考実験   【頭の中は最強の実験室: 学問の常識を揺るがした思考実験】(#2314)

  榛葉 豊
  価格: ¥1575 (税込)
  化学同人(2012/8/10)

 本書は、「さまざまな分野で行われる理論構築や仮説検証の手段」として、「文字どおり頭の中の推論だけで実験の代わりをしようとする方法」である「思考実験」を紹介しているものです。
 著者は、思考実験の必要性として、
(1)実際に実験することは技術的に困難であるから
(2)実際に実験でき、すでに証明済みなのに納得しない相手を説き伏せるために
(3)原理的に実験を行うことができないから
(4)実際の実験も行えるが倫理的に問題があって許されないから
(5)ある概念についての考え方を浮き彫りにするために
(6)理論を建設していくための指導原理を探るために
(7)何かがおかしいという状況を作ってみせる
の7点を挙げた上で、思考実験の特徴として、
(1)単純な設定にする。そして難しい推論や計算はしない
(2)極限状態を設定する
(3)パラメーターや設定を自在に変えられる
の3点を挙げています。
 第1章「頭の中だからこそできる!――これぞ真骨頂の思考実験」では、「トロッコ問題」について、功利主義的判断をターゲットとしていると述べています。
 第2章「人間と世界の存在を根底から問う!――哲学・世界観の思考実験」では、サールが提唱した「クオリアの逆転が現実にあったとしても、そのことを実証することはできない」という思考実験を紹介しています。
 また、「機械が知能をもてるかどうか」を判断する「チューリング・テスト」について、その考え方は「関係論的把握の立場に立つ『機能主義』」であると述べています。
 また、ラッセルが示した「世界5分前創造仮説」について、世界が6000年前に創られたとする「創造科学」との類似性を指摘しています。
 第3章「確率と可能性のロジックを探る!――数学・論理の思考実験」では、「モンティホール・ジレンマ」について、ドアを3つから100に増やすことで「ベイズ解」を受け入れやすくなると述べています。
 本書は、思考実験の世界の入口を紹介してくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 思考実験の良いところは何と言ってもお金のかからないことです。
 「自分が赤だと思っているものは他の人には違って見えるかもしれない」というクオリアの逆転問題などは、自分でも子供の頃から不思議に思っていたことなのでこういう形で示してもらえるのは嬉しい限りです。


■ どんな人にオススメ?

・世界を頭の中に再現したい人。


2014年3月27日 (木)

男の凶暴性はどこからきたか

■ 書籍情報

男の凶暴性はどこからきたか   【男の凶暴性はどこからきたか】(#2313)

  リチャード ランガム, デイル ピーターソン (著), 山下 篤子 (翻訳)
  価格: ¥ (税込)
  三田出版会(1998/01)

 本書は、「『男性の暴力的な気質はどこからきたのか』をテーマとして、霊長類学、人類学、考古学、フェミニズムなど、さまざまな角度から考察をくわえたもの」です。
 第1章「失楽園」では、「人間の行動は、ほかの動物の行動とはまったく異質なものだと考えられていた。人間の戦争には殺しがつきものであるから、人間はどこかで自然の法則を破ったのだと推測せざるを得なかった」としたうえで、「オスが結束した社会をもち、オス主導の激しいなわばり争いのシステムがあり、隣接集団に侵入襲撃をしかけ、攻撃しやすい敵をみつけて殺すという動物は2種しかない」として、チンパンジーと人間を挙げています。
 そして、「チンパンジーと人間は外見は違うが、2つの系統には同じ進化の力が作用し続けており、集団間の敵意や個人の暴力のシステムをずっと保ち続け、今もさらに磨きをかけているのではないだろうか。そして、その敵意や暴力は、約500万年前にチンパンジーと人間の共通祖先が乾燥していく東アフリカの森で最後の交尾をした頃からあったのではないだろうか」と述べています。
 第2章「タイム・マシン」では、「人間の社会が、男性が結束した戦争志向の強い社会に進化してきた理由は、チンパンジーの社会がそうなっている理由と同様に、共通祖先の時代かあるいはそれ以前にあると考えられる」と述べています。
 第4章「戦争と人間」では、「チンパンジーと人間にみられる同種間の殺しは、動物の原則から見て驚くべき例外である。われわれがチンパンジーと遺伝子的に近いことを考え合わせると、2つの種に見られる集団間の攻撃は起源が同じなのではないかと思える」と述べたうえで、ベネズエラ南部からブラジル北部にかけてのアマゾン低地の森に暮らすヤノマモ族の社会の事例を挙げ、「戦いをしたがる性向、襲撃部隊の興奮、密やかな襲撃、敵の発見とすばやい勝算のみきわめ、集団による殺しと逃走。これらは人間とチンパンジーの集団間暴力を構成する共通の要素である」としています。
 第6章「気質」では、「父権制の拘束力を弱めたいと願うフェミニストたちは、伝統的に、この制度は文化の産物に違いないという姿勢をとってきた」が、近年になって、「父権制が出現したのは生物としての人間の成り立ちと深い関係があるとみなす考え方」が生まれたと述べています。
 そして、「自尊心やイデオロギー、あるいは信念に邪魔されて、ホモ・サピエンスは単なる霊長類であり、数ある種の一つにすぎないという事実を認められない人がたくさんいる」としたうえで、「大部分の霊長類を除外して、比較の対象を大型類人猿にしぼれば、われわれの暴力のパターンは、ある意味でさほど珍しくはなくなる。対象をしぼっても、同種のおとなの殺しがチンパンジーと人間だけにみられるという点に変わりはない。だがチンパンジーと人間に共通する悪はほかにもある――謀殺、暴行、レイプなどだ」と述べ、オランウータンにレイプが普通に見られることや、ゴリラのオスが頻繁に子殺しをすることを挙げています。
 また、オランウータンにはメスに好まれる大型のオスと、メスと同じくらいの体格の小型のオスの2種類があり、「小型のオスはロングコールをしない。大きな物音もたてない。戦いをする様子もない。そしてメスをレイプする」と述べ、「進化論の見地から見ると、ある行動が反復あるいは持続してみられる場合は、その行動は何らかの点で繁殖に有利なものとして自然選択されてきたと考えられる」として、「レイプは、一部のオスが雌を妊娠させるために取る手段であり、ほかの意味はないということになる」と述べています。
 さらに、チンパンジーの暴行と人間の暴行の共通点として、
(1)両方とも圧倒的にオス(男)のメス(女)に対する暴力である。
(2)両方とも縁故関係の暴力である。
(3)きっかけは表面的なことである場合が多いが、その根底には支配やコントロールの問題がある。
の3点を挙げています。
 そして、ゴリラの子殺しについて、「子殺しがメスをオスのところに引き押せる。子どもを殺されたメスは伴侶のもとを去って殺害者と合流する。そしてそのオスと交尾し、そのオスの子供を生み、残りの生涯をともに過ごす。メスに選択を迫るのは暴力の論理であり、次の子どもに対する脅威だ」と述べています。
 第8章「自由の代償」では、「連合的な結束をし、さまざまな大きさのパーティを形成する種――ここでは『パーティ・ギャング』種と呼ぶ――は、隣接集団のおとなを殺す傾向がある」としたうえで、「なぜ人間の男性には相手を殺すほどの攻撃性が備わっているのか」について、「この悪習はわれわれの種のパーティ・ギャング的な特性に由来している。その特性とは、オス(男性)どうしが連合結束していること、拡張可能ななわばりをオスが支配していること、パーティの規模に多様性があることだ」と述べています。
 第11章「南の森からのメッセージ」では、「ボノボがチンパンジーよりも規模が大きく安定したパーティを作る余裕があるのは、ゴリラのいない世界に生息しているからなのだ」として、「安定したパーティがメスの力を生み出した」と述べています。
 第12章「デーモンを制御する」では、「パトリオティズムとは、人間が得意とし、チンパンジーやボノボも享受している『オスによる集団の防衛』にほかならない」としたうえで、「男性にはたくさんの子をもつという潜在的な報酬がかかっているため、いちかばちかの冒険を好む気質の男性が性選択されやすい」と述べています。
 そして、「男がデーモニックなオスとして進化してきた一方で、女はデーモニックなオス(あるいは紛い物のデーモニックなオス)を配偶者として選ぶように進化してきたのではないか」として、
(1)デーモニックなオスは、ほかのオスの暴力からメスや子を守ってくれる可能性が高い。
(2)デーモニックなオスは繁殖に最も成功するオスであるから、彼らを配偶者に選べばその息子も繁殖に成功する見込みが大きい。
の2点を挙げ、「女性は暴力を望んではいない。女性はデーモニックな男に特有の行動の多くを嫌っている。だが、これと矛盾することだが、男のデーモン性と関連する資質や行動がまとまったもの――巧みな攻撃、支配的な態度や支配力の誇示など――に、決まって魅力を感じる女性は多い。男性も女性も、デーモニックな男が成功し続けるシステムに積極的に加担しているのだ」と述べています。
 第13章「カカマの人形」では、「高度の知能と男のデーモン性が結びついているのは、それぞれ独立した因果の連鎖がたまたまtながった、偶然の悲劇であると思われるが、この2つの関連はそれだけではない。知能の発達によって、優れた記憶力や長期の社会的関係をもたない動物にはありえない、新しい形の攻撃性が生まれたのである」と述べたうえで、「われわれにとっての最大の危険は、デーモニックな男性がわれわれの種を支配していることではない。デーモニックなオスが支配者になっている他の種を見ても、結局のところ自らの手で種を危険に晒すことはしていないからだ。真の危険は、人類がデーモニックな男性と恐ろしいほどの知能を併せ持っていることだ」と述べています。
 本書は、人間の男がもつ暴力性のルーツを辿った一冊です。


■ 個人的な視点から

 暴力的であちこちに子供を作りたがる人は、現代の社会ではかなりろくでもない人と評価されるわけですが、そういう人の方が現実にはモテるということも事実です。
 そんな男に当ってしまった女の人個人にとっては不幸ではありますが、その息子が性質を受け継いでいれば子孫を残しやすいということもあるので、そんな部分で本能的に惹かれるところがあるのかもしれません。


■ どんな人にオススメ?

・凶暴な男が生き残ってきた理由を知りたい人。


2014年3月26日 (水)

人類が消えた世界

■ 書籍情報

人類が消えた世界   【人類が消えた世界】(#2312)

  アラン・ワイズマン (著), 鬼澤忍 (翻訳)
  価格: ¥2100 (税込)
  早川書房(2008/5/9)

 本書は、私たち人類が突如として消えてしまったら地球はどうなってしまうのかを想像したものです。
 第2章「崩壊する家」では、「人類が姿を消した翌日になると、自然が支配権を握り、ただちに家を片付けはじめる――それも、多くの家々を」と述べ、「かつては、最も耐久性があるとわかっていた物質、たとえば花崗岩の塊だけで建物を作っていた。その結果、花崗岩の建物は今なお人々の賞賛を得ている」が、「こんにちでは、粘土、砂、古代の貝殻のカルシウムで出来たペーストの3つを合わせたその混合物が固まって、人口の岩石になる。これがますます、都市型人類(ホモ・サピエンス・アーバヌス)にとって一番手頃な選択肢となっているのだ」としています。
 第3章「人類が消えた街」では、街から人間が消えれば、降水量が50ミリを超えると、「水浸しになった駅から駅へ駆けまわり、ある時はホースを階段の上まで引きずり上げて通り沿いの下水溝に排水し、ある時は地下トンネルをゴムボートで漕ぎ進むものはもういないのだ。人がいなくなれば、電気も来なくなる。ポンプは止まり、二度と動かない」と述べています。
 また、舗装道路についても、マンハッタンでは、「毎年3月、気温は摂氏零度前後を40回くらい行ったり来たりするのが普通」であるため、「凍結と融解が繰り返され、アスファルトやコンクリートにヒビが入る。雪が溶けると、出来たばかりの割れ目に水が染み込む。その水が凍って膨張すると、割れ目が拡がる」として、「あの壮大な都市景観の下に閉じ込められていた水の報復といったところだろう」と述べています。
 そして、「水位の上昇、潮の干満、塩による腐食のせいで、ニューヨークの5つの行政区を取り巻く人工の海岸線は、入江と小さな浜に姿を変えている。セントラル・パークの池や貯水場は、浚渫されないため湿地に生まれ変わった」と述べ、「500年後には、たとえ気候の温暖化が進んでいても、オークやブナのほか、トネリコのような湿気を好む種が繁茂しているはずだ」と述べています。
 第5章「消えた珍獣たち」では、北米大陸において、「約1万3000年前に始まる時間枠に爆発的な絶滅が起こっていた」ことについて、「約4万8000年前のオーストラリアを皮切りに、人間がそれぞれの新大陸に足を踏み入れたとき、遭遇する動物にとって、このチビで二本足の生き物が特に恐ろしい存在だと考える理由はどこにもなかった。考え直した時には手遅れだった」と述べています。
 第6章「アフリカのパラドクス」では、「人類の発祥の地がアフリカだとすれば、ゾウ、キリン、サイ、カバは、いったいなぜアフリカで生き残っているのだろうか」という疑問について、「アフリカでは人間と巨大動物類が歩調を合わせて進化したというところにある。アメリカ、オーストラリア、ポリネシア、カリブの疑うことを知らない草食動物は、人間が不意に現れたとき、それがいかに危険な存在かにまったく気づかなかった。一方アフリカの動物は、人間の姿が増えるのに合わせて適応する機会があった」と述べています。
 第9章「プラスチックは永遠なり」では、「海中のプラスチックは量が増えただけでなく、ますます小さくなり、地球をめぐる海流に乗れるほどの細片になっていた」として、「岸にぶつかる波や潮流によって岩が砂になるような緩慢で機会的な作用が、今やプラスチックにも働いている」と同時に、「どのプラスチックも生分解しそうな兆候は全くなかった。たとえ、どんなに小さな破片になっても」と述べています。
 第11章「農地が消えた世界」では、「未来の植物は、人類のまき散らした金属」とPOP(残留性有機汚染物質)を「今後数千年にわたって循環させ続ける。そのため、そうした物質に耐性のある植物はそれとわかるだろうし、土壌中の金属の味に慣れる植物もあるだろう」が、「それ以外は、鉛、セレン、水銀などに中毒して、人間と同じように命を落とすだろう」と述べています。
 第15章「放射能を帯びた遺産」では、「原子核から放出されるガンマ線に比べれば、きわめて低エネルギーの電磁波」である紫外線が、「突如として、地球に生命が誕生して以来前例がないレベルで存在するようになった。そのレベルはいまだに上昇をつづけている。向こう半世紀で修正できる望みはあるものの、人間が折悪しく消えてしまえば、紫外線が増大した状態ははるかに長くつづくかもしれない」と述べています。
 また、「地球上のあらゆる人間が消えれば、複数の原子炉を有する数カ所の発電所も含め、441ヶ所の原子力発電所はしばらく自動運転するものの、次々とオーバーヒートするだろう。一つの原子炉が停止してもほかの原子炉は運転を続けられるよう、燃料補給のスケジュールは通常ずらされているため、おそらく半分が燃焼し、残り半分が溶融する。どちらにしても、大気中や近隣の水域に膨大な量の放射線が拡散して長期間残存することになる。残存期間は濃縮ウランの場合、地質年代的な長さに及ぶ」と述べています。
 最終章「私たちの地球、私たちの魂」では、「目下まだこの地球で暮らしている私たちにとってもっと重大なのは、科学者の言う一番最近の大絶滅を私たち人類が生き残れるか、いや生き残るだけでなく他の生物も死滅させることなく共存させられるかどうかだ」と述べています。
 本書は、人類が地球に与えている負荷の大きさを教えてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 人類がいきなり全部いなくなることは考えにくいですが、戦争や疫病で半分になったり10分の1になったりすることは十分ありえることです。
 そんななかでこれまでと同じ社会を維持できるのか、原発を始めとするテクノロジーを管理できるのかということはちゃんとしたシミュレーションを見てみたいものです。北斗の拳とかマッドマックスとかありますが。


■ どんな人にオススメ?

・私たちの社会がこれからも続くと思っている人。


2014年3月25日 (火)

太りゆく人類―肥満遺伝子と過食社会

■ 書籍情報

太りゆく人類―肥満遺伝子と過食社会   【太りゆく人類―肥満遺伝子と過食社会】(#2311)

  エレン・ラペル・シェル (著), 栗木 さつき (翻訳)
  価格: ¥ (税込)
  早川書房(2003/8/8)

 本書は、「21世紀に入ってから世界で最も蔓延し、費用のかかる栄養障害となっており、11億の成人に悪影響を及ぼしているうえ」、児童の数も急増している「過体重」について、「肥満は『怠惰』や『大食』という7つの大罪を思い起こさせるし、同情を買いながらも嘲笑され」、「なにより誤解され、最も食い物にされているヒトの健康状態だ」として、「こういった現状を説明しながら、いったいどのように世界が太りつつあるのか、いったい私たちに何ができるのか」を考えようとするものです。
 第1章「肥満大国アメリカ――外科手術に臨むナンシー」では、「胃バイパス手術は、非常に手荒な肥満治療法だ」としたうえで、「胃バイパス手術を受けると体重が激減し、ときには旧友や身内でさえ本人とわからなくなる。この手術は標準より50キロ以上余計な体重があるものにのみ行われる。平均すると、手術を受けた人間は一年半の間に余分な体重の6割ほどを落とす」と述べ、「2000年には、年間4万人のアメリカ人が胃バイパス手術を受けており、その数はたった5年前に受けた人数に比べてほぼ倍増していた」としています。
 そして、「ナンシーと同じように、現在では900万人以上のアメリカ成人が『重症肥満』に相当し、標準より50キロ以上体重が重い。そして1000万人以上が、重症肥満になる境界線ぎりぎりのところにいる」としています。
 第2章「邪悪な人間は太る――肥満と偏見の歴史」では、「「旧石器時代のヴィーナス像は100体ほど発掘されており、考古学者の見解によれば人類の最も初期の芸術品だが、フランスのものも含めて、どのヴィーナス像もグロテスクなまでに太っている」としたうえで、「精巧に掘られたヴィーナス像には、重症の肥満者によくあるひざの異常が見られるものもある」ことから、ヴィーナス像は芸術家の想像の産物ではなく、現実の生活に則したものだったと思われる」と述べています。
 また、「古代オリンピック発祥の地ギリシアでは、自分を太らせるのは異常な性行為と同等の犯罪とみなされていた」としています。
 そして、「多くの人々にたっぷり食べられる余裕が出てくると、恰幅のよさはもはや繁栄のあかしでも美徳のあかしでもなくなった。肥満は罪深さのあらわれであるという妄想は、肥満が金持ちだけのものでなくなると、いっそう強くなった。そのうえ飲酒、ギャンブル、不貞とは違い、肥満は秘密にしておけない。太り過ぎは食欲のまぎれもないあかしであり、信心ぶった人間は肥満を見逃さなかった」と述べたうえで、1997年の調査では、女性の15%、男性の11%が、「望みの体重になれるのなら、引き換えに寿命が5年短くなってもかまわない」と答えたとしています。
 第7章「やせ薬の命にかかわる副作用――フェン・フェン療法の教訓」では、「フェンフルラミン」と「フェンターミン」という2種類の薬を併用する治療法である「フェン・フェン療法」の盛衰は、「まさに新薬の承認過程における落とし穴と限界を暴く物語として、いまでは痛烈な教訓となっている」と述べ、「フェン・フェン療法のおそろしい副作用が判明してから、抗肥満薬産業は大きく後退すると同時に、広報活動の弊害があきらかになった」と述べています。
 そして、「やせ薬には、どこから見てもあいまいな点が多い。まれに起こる遺伝子の欠損であると解明されているレプチンとは異なり、やせ薬は特定の病変の治療を意図してつくられてはいない。それどころか、基本的に健康でうまくいっているシステムを邪魔するようにつくられている」として、「肥満には数多くの原因があり、簡単な治療法はない。ヒトの心理、脳内の化学物質、代謝率などをへたにいじくりまわすと、予想外の結果が生じ、それ自体にまた改善の手を施さなければならなくなる」と述べています。
 第8章「世界に広がる肥満という病――缶詰をあけはじめたコスラエ島民」では、「コカ-コロニゼーション」が、「地域に古くから伝わる習慣と経済を荒廃させ、世界各地に健康状態の悪化を広めた」として、「肥満者と糖尿病患者の割合は世界的に急増したが、特に著しい増大が見られたのは、伝統文化の過渡期にある地域に暮らす人々――ポリネシア人、ネイティブアメリカン、オーストラリア先住民のアボリジニーだった」と述べています。
 また、「どこの社会にも、歴史上『食糧のストレス』にさらされた時期があり、その結果、私たち全員がある種の『倹約遺伝子』のメカニズムを進化させた。なかでも進化の過程で恐ろしい飢饉などに何度も見舞われた人びとが、最も効率的な倹約遺伝子を発達させた」が、「かつては南太平洋の冬眠の命を守り、過酷な先史時代から脈々と土着の文化を守ってきたこの遺伝子が、こんにちでは、島民を若死にさせる原因となっている」と述べ、一方で、「フランスには、南太平洋で吹き荒れる暴風雨のように人口を激減させる決定的な出来事があまり起こらなかったらしく、現在のフランス人は、貧しい時期もあったにせよ、食糧を比較的安定して入手できた人びとの子孫であると推測していいだろう」として、「フランス人やスイス人、そして西ヨーロッパの一部の人間は、太平洋の冬眠に比べて肥満になりにくいのかもしれない」と述べています。
 そして、「肥満、糖尿病、そしてライフスタイルの欧米化による『新世界症候群』は、伝染病ではないが、伝染病と同様に、環境の変化で阻止することができる」として、シンガポールが、「健康的にほっそりしよう」という運動に国を上げて取り組み、給食や体育の授業を管理した結果、児童の肥満が3割ほど減ったことを紹介しています。
 第9章「健康は胎内から――飢餓にさらされた胎児と新生児の将来」では、第二次世界大戦が集結する前年にオランダを襲った飢饉「オランダ飢饉の冬」に生まれた新生児を調査した結果、「妊娠6ヶ月までに飢餓を経験した母親から生まれた子供たちは、成人になると、8割以上が肥満になる傾向があるという、驚くべき事実があきらかになった。同様におどろくべきことに、妊娠7ヶ月以降に支給の中で飢餓を経験した、あるいは生後5ヶ月までに飢餓を経験した人々は、その4割が肥満になりにくい傾向を示した」と述べています。
 そして、「肥満になりやすい素因は『遺伝子に書き込まれている』のかもしれないが、それは消えないわけではない。この傾向は人生の様々な時期において、ある程度まで変えることができる」と述べています。
 第10章「欲望から手の届くところに――食品業界の思惑」では、「先進国では食品が過剰にあふれており、単に栄養価を売り込むだけでは食品のマーケティングにならない」として、「タバコ業界と同様に、食品のマーケティング担当者は食品のイメージを売り、そしてタバコ業界と同様に、消費者が若いうちに顧客に取り込もうとする」と述べています。
 そして、「ファストフードは、多くのレストランの料理と同様に、人が必要としているものに応じているわけではない。『食欲』に応じているのだ」と述べています。
 第11章「正しい選択――肥満の波を押しとどめるには」では、「肥満は『本能が理性に勝利をおさめた』結果が肉体に現れたものである。だからこそ、太るとばつが悪い思いをする」と述べたうえで、「科学は、肥満の蔓延が太りやすさという個人差の問題というよりは社会の圧力の問題であること、その圧力に加担する制度の問題であることを、私たちに教えている。私たちはこの圧力に抵抗できるし、抵抗すべきだ」と述べています。
 本書は、世界中に広がる肥満の背後にある圧力の正体を暴こうとする一冊です。


■ 個人的な視点から

 人類はこれまで幾度と無く飢餓に晒されてきたわけで、その意味では、余剰のカロリーを効率よく体に蓄積できる体質っていうのは飢餓を生き残るためには欠かせないものだったと思うわけです。
 それなら、「いくら食べても太らない」とか言っている体質は早々に淘汰されていてもおかしくないのですが、これまで残っているということは、それはそれでメリットがあるのか、もしかしたら本当に食べなくても生きていける体質なのかもしれません。ダイオウグソクムシとかみたいに。


■ どんな人にオススメ?

・太る体質が何故あるのかを知りたい人。


2014年3月24日 (月)

虹の解体―いかにして科学は驚異への扉を開いたか

■ 書籍情報

虹の解体―いかにして科学は驚異への扉を開いたか   【虹の解体―いかにして科学は驚異への扉を開いたか】(#2310)

  リチャード ドーキンス (著), 福岡 伸一 (翻訳)
  価格: ¥2520 (税込)
  早川書房(2001/03)

 本書は、詩人キーツが、「虹を物理学的に解体し、光のスペクトルとして説明してしまったことによって、虹の詩的側面を残ってしまった」としてニュートンを嫌っていたことに対し、「虹を解体したことによって得られた新しい世界観によってこそ、この地球、この宇宙に対する“センス・オブ・ワンダー”が換気されるのであり、それが本当の『詩性』の源となるべきもの」だと主張しているものです。
 序文では、「超自然現象を信じる心性というのは、詩的な畏敬の念(センス・オブ・ワンダー)が本来内包する感覚を踏みにじるものだといえるだろう。本当の科学がもたらすべきものはこの詩的な畏敬の念(センス・オブ・ワンダー)である」と述べています。
 第1章「日常性に埋没した感性」では、「しばしば狭量な評論家が質問する――科学の役割とはいったい何か」という質問について、同じ質問を受けたマイケル・ファラデーが、「では、生まれたばかりの赤ん坊はいったい何に役だっていますか」と質問し返したという「誰が書いたのかはっきりしない」逸話を紹介しています。
 第2章「客間にさまよいいった場違いな人間」では、「詩人は科学がもたらすインスピレーションにもっと耳を傾けるべきであり、同時に科学者は、詩的なものにより近づくべきである」と述べ、「科学は詩の的であり、無味乾燥、温かみがなく、そこには若き詩人が求めるべきものは何もないとされた」ことが「本当はまったく正反対である」ことを主張することが本書の目的だと述べています。
 第5章「法の世界のバーコード」では、「アメリカの弁護士たちが陪審員候補者を忌避する」理由が、「その人物が十分な科学的教育を受けているから、あるいは、遺伝学の知識を有する、もしくは、確率の考え方を知っているから」であることについて、「正義が行われることよりも、自分が勝利することだけが目的の弁護士」だと批判しています。
 第6章「夢のような空想に ひたすら心を奪われ」では、「占星術は美に対する侮辱である。そのコペルニクス以前に逆行したようなお遊びは天文学を貶めてしまう。まるでベートーヴェンをやかましいCMに使うようなものだ。また占星術は心理学の知見や、人間の性格を踏みにじる」と指摘しています。
 第7章「神秘の解体」では、「本来偶然にすぎないのに、なにか関係があるように見える事象の集合(Population of Events That Would Have Appeared Coincidental)」を意味する「ペトワック(PETWHAC)」という造語を作り、「私たちは、事実はどうであれ、偶然の一致にはなんらかの意味があり、ある種のパターンにそってそれが起こると思いがちである」と述べ、「今日、特に新聞やラジオ、その他の大量報道手段のおかげで私たちの情報収集範囲は広い」にもかかわらず、「人間の脳は自然淘汰によって、小集落の状況下で適応したままである。私たちは脳の設定値がまちがっているので、大したことではない偶然の一致にでも驚いてしまうのである」と述べています。
 第8章「ロマンに満ちた巨大な空虚」では、「量子の不確実性理論やカオス理論が大衆文化に嘆かわしい影響力を振るっている昨今、真にそれらを追求している者はとても苦々しく思っているのが現状である。量子やカオスを持ち出すのは決まって、科学を乱用したり科学の不思議を挑発したりしたがる人たちだ。それは、プロのいかさま師から、気違いじみたニューエイジ信仰者までさまざまである」と嘆いています。
 また、「カンブリア紀の大爆発」という印象的な言い回しが、
(1)カンブリア紀以前、5億年より少し前まではほとんど化石が出ないという事実に基づいた推察について述べているのだと考えられる。
(2)すべての門がたった1000万年の短い期間であるカンブリア紀の間に分岐・発生したという理論である。
の2つの意味で使われるとしたうえで、「たしかにカンブリア紀以前には、多くの門でその化石はまったく見つかっていない」が、「化石化しなかった祖先が存在したに違いなく、化石がないからといって、その動物に祖先がいないということにはならないのである」と述べています。
 第9章「利己的な協力者」では、「『ガイア』という夢のような空想の中では、全世界はひとつの生命体であり、それぞれの種は全体の利益のためにわずかながらの貢献を行っていて、たとえば最近はすべての生命のためを思って大気中の気体の含有量を改善するために働いているらしい」と述べたうえで、その提唱者であるジェームズ・ラブロック自身も、「自説のあまりに極端な受け取り方をしている人々」に当惑しており、「ガイアは既にカルトとなり、ひとつの宗教にもなりそうな勢いだ」と述べています。
 第10章「遺伝子版死者の書」では、「一つの種というのはいわば、経験を蓄積する一つのコンピュータである。それは、何世代にもわたって、種の祖先が生活し繁殖を繰り返してきた世界の統計学的記録からなる。その記録は、DNAの言葉で書かれるが、どれか一つの個体のDNA中にあるというのではなく、全体としての種のDNA中にある。これが私のいう“利己的な協力者”としてのDNAである」と述べています。
 第12章「脳のなかの風船」では、「人間の脳の進化を考えるとき、われわれはなにか爆発的なものを必要とする。それは、クモを擬態するハエではなくむしろ、原子爆弾の連鎖反応やフウチョウの尾の進化に似た、自己増殖的なものである」としたうえで、この考え方が、「チンパンジーと同じ大きさの脳を持ったアフリカの類人猿仲間たちの中でなぜある者が、明らかな理由もないのに、突然他のものを出し抜いて先頭に立ったのか」という謎を説明してくれそうだからだと述べています。
 本書は、科学が世界を解き明かしていく先にあるものを考えようとする一冊です。


■ 個人的な視点から

 センス・オブ・ワンダーこそ人類にとって一番大事なものなのかもしれないですが、いつの頃からか理系と文系に分かれてお互いに無関心になったのではないかと思います。


■ どんな人にオススメ?

・自分は理系or文系と決めつけてしまっている人。


2014年3月21日 (金)

「科学技術大国」中国の真実

■ 書籍情報

「科学技術大国」中国の真実   【「科学技術大国」中国の真実】(#2309)

  伊佐 進一
  価格: ¥ (税込)
  講談社(2010/10/16)

 本書は、「中国の科学技術力というものを知ることによって、中国の将来を推し量」ろうとしたものです。
 序章では、中国の科学技術発展において、遅れた点と、世界の耳目を集める成果が共存する理由について、中国の「格差」の問題と「分野」の問題だと述べ、「中国の抱える二面性とは、日本の価値観から見た二面性であって、中国においては矛盾することなく共存するものである」としています。
 著者は、「中国の増大する人材と投資、そして産業化力という強みと、これまで日本が蓄積してきた科学技術力という強みを融合」させるべきだと述べています。
 第1章「あふれる中国人材」では、「現在見られる華僑、華人の大移動は、いわば、世界を舞台にした中国人材の大循環である。優秀な人材を世界に送り出し、海外の競争的な環境で鍛え、さらに力を付けさせた人材を本国に呼び戻す」と述べたうえで、人材送り出し政策と車の両輪のように実施されている、「海亀政策」と呼ばれる在外中国研究者の帰国優遇政策について、「海外からの帰国者への住居や保険、車の購入費用にいたるまでの経済的優遇措置だけではなく、都市戸籍を与えるといった思い切りのよい措置も含んでいる」としています。
 第2章「カネ余りの研究開発現場」では、中国の豊富な研究開発資金に言及したうえで、「資金を管理・運営する人材がこのペースで補強されているわけではなく、人材の育成と、新たな管理手法の導入が急がれている」と述べるとともに、基礎研究への投資比率が低いことを指摘し、「長期的な観点が必要な、特定の目的や成果の利用を意図しない基礎研究に対しては、圧倒的に投資が不足している」と述べています。
 第3章「宇宙開発大国・中国」では、「中国においては、リスクの高い野心的なプロジェクトを推進し、成功と失敗という両方の体験を蓄積できるが、日本では失敗が許容されにくく、リスクに対して及び腰になってしまうために、資金投入もしりつぼみになっていくという悪循環にある」と述べています。
 そして、中国の宇宙開発が、「国威を発揚するもの」であり、日本人以上に、「強い思い入れがある」としています。
 第4章「猛追する中国のライフサイエンス」では、「中国のライフサイエンスは、若い優秀な人材が集まる新しい研究所を設立し、手厚い補助や、研究所内の自由な雰囲気によって生まれるシナジー効果によって、数々の成果を生み出し始めている」と述べ、「人材、資金、情報、そしてフロンティアという4つの要素に引っ張られて、大きく発展を遂げようとしている」としています。
 第5章「中国の『ハイテク』企業事情」では、「中国企業の研究開発能力、技術力を考えるにあたり、中国の科学技術がたどってきた三段階の発展過程を知っておく必要がある」として、
(1)1980年代の科学技術の日社会主義化の時代
(2)1992年以降、基礎分野を中心に研究を進める公的研究機関や大学の成果を、いかに市場化、産業化し、市場経済の発展に生かしていくかについて模索し始め、研究所や大学の成果を利用した、研究所発、大学発のベンチャー企業の設立が加速化
(3)1998年以降、「科教興国」をスローガンとして、研究所や大学による研究成果を第三者である企業へと移転し、その企業が、市場化、実用化に向けた研究開発を引き継いで行っていくといった技術移転制度の整備
の3点を挙げています。
 そして、「中国の科学技術の発展段階においては、大学や政府系研究機関、国有企業など、すべてが政府の大きな傘の下に所属していたため、各技術がどの組織や個人に帰属しているかという意識が希薄であった。技術は高い自由度を持って機関間で移転されており、知的財産権が誰に所有されているかは重要ではなかった。中国において知的財産の概念の発展が遅れたのは、こうした歴史的経緯によるものである」としています。
 第6章「発展への阻害要因」では、「中国においては、政治的な判断が、科学的、客観的な分析よりも重大な意味を持つことがしばしばある」と述べるとともに、「学術や研究の世界における汚職と不正の横行」を阻害要因として挙げています。
 第7章「巨大市場を開拓せよ」では、「日中の協力といっても、日本と中国は標準に対する戦略が異なることを、まずは理解する必要がある」として、「日本はインターフェースなどといった周辺の技術を標準化したとしても、コア技術をブラックボックス化して残すという形態は崩すべきではない」と述べています。
 終章「科学技術の戦略的互恵関係」では、「大事なことは、たとえマネされ、あるいは盗まれる状況であったとしても、さらに一歩先の技術を生み出し続けるイノベーション能力を有しているかでどうかである」としています。
 本書は、科学技術大国としての中国の姿を予想した一冊です。


■ 個人的な視点から

 チャイナクオリティと揶揄されることも多い中国の科学技術ですが、いまや世界のIT機器を生産しているのはまさしく中国であるわけで、中国の科学技術といかに付き合っていくのかということは世界中が考えなければならない問題なのです。


■ どんな人にオススメ?

・中国は人件費が安いだけだと思っている人。


2014年3月20日 (木)

教育格差の社会学

■ 書籍情報

教育格差の社会学   【教育格差の社会学】(#2308)

  耳塚 寛明
  価格: ¥1995 (税込)
  有斐閣(2014/1/29)

 本書は、「さまざまな教育格差減少のあり方を理解することを超えて、現代社会のゆくえを考える第一歩となること」を目指したものです。
 第1章「学力格差の社会学」では「文部科学省が実施している全国学力・学習状況調査は、学力の地域間格差が格段に小さくなったこと」を示しているが、「読み書く能力は学力へと姿を変え、地域や性別ではなく家庭のもっている文化的環境(文化資本)や経済的豊かさ(経済資本)による学力格差がなお残存し、拡大する兆しを見せる。読み書き能力と同様、学力は地位の差異を固定化する道具としても使われる」と指摘しています。
 そして、「メリトクラシーに照らしたとき、子供の学力格差は、さまざまな格差の中で、“The格差”として注目されるべき重要性をもつ」と述べ、「学力は家庭的背景の代理指標である。学校教育の制度的構造は地域的多様性を持つが、とりわけ大都市圏とその近郊では、家庭の経済的・文化的条件を背景とした高学力者を実質6年一貫の中等教育機関によって庇護し、進路選択と将来の可能性を差異化し、格差を拡大する結果をもたらしている」としています。
 第2章「カリキュラムと学力」では、学校で伝えられる「学校知識」について、「ほかの知識とは異なる独自の特徴がある」として、
(1)学校知識は「すべての者が学ぶべき知識」という規範性を帯びている。
(2)学校知識の習得度合いが選抜や地位配分に用いられる。
(3)学校知識は再文脈化された知識である。
の3点を挙げています。
 そして、「現行の教育課程行政には、教育をめぐる格差をこれまで以上に拡大する危険性が存在する」として、
(1)コンペタンス・モデルを装いつつ、パフォーマンス・モデルへとペダゴジーを転換すると、ルールの変更に気づかない子どもたちが不利益を被るおそれがある。
(2)現行のカリキュラムが目標とする能力は、学校で修得する以前に、家庭的な背景によってかなりの程度規定されてしまっている……「ハイパー・メリトクラシー」。
の2点を懸念しています。
 第3章「教育機会の均等」では、「教育機会と所得階層の結びつきが世代間で再生産されれば、高所得層はますます高学歴、高所得になるのに対して、低所得層はますます低学歴、低所得になるという、教育におけるマタイ効果(富む者はますます富み、貧しきものはますます貧しくなる)によって格差が再生産される危険性がある」と指摘しています。
 第4章「学校から職業への移行」では、「学校から職業への移行における『社会的排除』が誰にどのように生じているか」について、「1990年代には経済危機が日本社会を襲い、とりわけ雇用システムは大きく揺らいだが、その影響を最も受けたのは若い世代であった」として、「若者の学校から職業への以降に生じた90年代の変化は非典型雇用化」というキーワードから把握できると述べ、、排除が非典型雇用者において起こる背景として、日本的雇用刊行を挙げ、「日本的雇用慣行の論理から言えば、非典型雇用者は組織の正式メンバーではない。したがって、非典型雇用者がさまざまな福利厚生から排除されるのは当然ということになる」としてます。
 そして、「1990年代後半以降、高校生の進路には大きな変化がおこた」として、
(1)就職者の急減:高卒就職者は10年足らずのうちに4割から2割に急減した。
(2)高卒無業者の増加:90年代後半以降、高校と企業との関係性はきわめて弱くなり、「一人一社制」、「推薦指定校制」、「実績関係」が及ぶ範囲が狭くなった。
(3)高学歴化
の3点を挙げ、「かつて日本社会は、高等教育に進学しない若者をスムーズに職業へ移行させる数少ない先進諸国として知られていたが、現在では高等教育非進学者の職業への移行が難しい社会になりつつある」と述べています。
 第5章「社会科と逸脱」では、「反社会的行動」について、
(1)反社会的行動:社会や人に対しての攻撃性の強い、国家の法規範に反する犯罪
(2)非社会的行動:逃避的・対抗的犯罪・非行(薬物乱用など)、自殺・家出・不登校・ひきこもり・リストカット・摂食障害など
に大別しています。
 そして、「おとこぼれ」の変容について、
(1)終戦直後の貧困と社会崩壊を原因とするもの
(2)高度経済成長期に詰め込み教育についていけない学業を原因とするもの
(3)学校での関係性の構築を原因とするもの:不登校
(4)社会との関係構築を原因とするもの:ひきこもり
の4つの段階にわけて論じています。
 本書は、家庭と職業をつなぐ教育における格差について論じた一冊です。


■ 個人的な視点から

 学校という“鏡”を通して思い知らされるのは、子供の人生に一番大きな影響を与えているのは家庭だという当たり前の事実であり、塾だと私立校だとかということは二の次であるという事実なのでありました。


■ どんな人にオススメ?

・“教育格差”はお金の格差だと思っている人。


2014年3月19日 (水)

学習する学校――子ども・教員・親・地域で未来の学びを創造する

■ 書籍情報

<strong>■ 書籍情報</strong></p>

<p><a href=学習する学校――子ども・教員・親・地域で未来の学びを創造する   【学習する学校――子ども・教員・親・地域で未来の学びを創造する】(#2307)

  ピーター M センゲ, ネルダ キャンブロン=マッケイブ, ティモシー ルカス, ブライアン スミス, ジャニス ダットン, アート クライナー (著), リヒテルズ 直子 (翻訳)
  価格: ¥5040 (税込)
  英治出版(2014/1/30)

 本書は、「教室・学校・コミュニティという3つのレベルに分けて、そこに関わる子どもと大人の両方を学びの主体と捉え、社会そのものを学び続け発展し続ける『生きたシステム』として根底からつくり変えるビジョン、そのために私たちが容易に関われる数々の実例やエクササイズを提供」しているものです。
 第1章「オリエンテーション」では、組織学習の「5つのディシプリン」について、「今日、人々はどんな職業や階級にあっても、大きな自立性を持って行動し、従うだけでなく率先して動き、相手に不安を覚えさせることなく難しい問いを発し、自らの行動を支配し未来の見通しを形作る習慣的なものの考え方を意識することを求められる」として、
(1)自己マスタリー:自分の今日の生活がもつ今の現実を現実的に評価しながら、自分の個人的なビジョンについて一貫性あるイメージを開発する実践のこと。
(2)共有ビジョン:共通の目的を持つ人々は、生み出したい未来、そうした未来にたどり着くために使いたい戦略、原則、指針となる実践の共通イメージを育てることで、集団や組織の中にコミットメントの感覚を養い育てることを学べる。
(3)メンタル・モデル:態度や認識についての気づき(意識)を高めることに焦点が合わせられる。
(4)チーム学習:「ダイアログ」や「スキルフル・ディスカッション」などのテクニックを使うことで、小さなグループの人々は、エネルギーや行動を共通の目標を達成するために使い、集団的思考のあり方を変質させ、バラバラのメンバーの能力を単に足しあわせた以上の知性と能力を引き出すことができる
(5)システム思考:人々は、相互依存性や変化をより良く理解することを学び、それによって、自分たちの行為によって起こる気血を形作っているもろもろの力に、より効果的に応じられるようになる。
の5点を挙げています。
 そして、「産業化時代の学習」についての考え方として、
(1)子どもは「欠陥品」であり、学校は子どもを「修理」する
(2)学習は頭の中で起きるもので、身体全体で起きるものではない
(3)誰もが同じ方法で学ぶ、または学ばねばならない
(4)学習は教室の中で行われ、世界で行われるものではない
(5)「できる子」と「できない子」がいる
の5点を、「産業化時代の学校」についての考え方として、
(1)学校は管理を維持する専門家によって運営される
(2)知識は本質的にバラバラに分節化される
(3)学校は「真実」を伝達する
(4)学校は個人的なもので、競争が学習を加速する
の4点を挙げています。
 第2章「5つのディシプリン入門」では、
(1)自己マスタリー:人々、すなわち子供や大人を彼らの周りにある今の現実に気づくよう助けながら、彼らが夢をいだき続けられるようサポートする実践である。
(2)共有ビジョン:ビジョンが本当に共有されるには、それが長年にわたり進化しつつ生命力を保ち、行為・学習・振り返りの継続的なサイクルを通じて人々を前に進ませなければならない。
(3)メンタル・モデル:普通は言葉にして表されることがなく、意識の底に潜むため、あまり検証されることがないが、言葉にされなかった前提や態度を表面に出し、人びとがお互いの違いや誤解について防衛的な態度を取らずに話をする役割を持つ。
(4)チーム学習:何らかのチームに属する人を共に考え行動させるために、時間を経て企画した実践に基づくディシプリン。
(5)システム思考:問題や目標を一つ一つ孤立した出来事としてではなく、もっと大きな普通はあまり目に見えない構造の中で、お互いに影響し合う構成要素として見る。
の5点について解説しています。
 第3章「教室のドアを開ける」では、「『すべての子どもは学べる』『すべての人は新しい未来を生み出す能力をもつ』というコンセプトは、人間が関わるあらゆる環境において真実であり続けるし、だれにとっても生きる力の源となりうる。このコンセプトを指針として取り入れることが『学習する教室』を生み出す第一歩だろう」と述べています。
 第5章「実践」では「教育がもつもっとも深い目的」として、「子どもが本当に生み出したいと考えているものを生むにはどうすればよいかを学ぶことを助ける」ことを挙げ、「こうしたことをなぜ大人が教えず、子どもが学ばないか」の理由として、「大半の教員は、創造的なプロセスのスキルを身につける訓練を受けたことがない」ことを挙げています。
 第7章「教室におけるシステム思考」では、「システム思考とは、複雑でダイナミックなシステム、すなわち、私たちの周りにあり、自分自身もその中に組み込まれているシステムの中にある相互作用や関係を理解(ときには予測)するために能力である」と述べ、「子どもがもつシステム知能は、大人の助けがあれば、問題解決モデルへと発展させられる。そうすれば、子どもは情報を集めて分析し、それを使って行為できるようになる。つまり、子どもは反復的なパターンに気づき、本能的に効果のない反応はしなくなり、挙動パターンをもっとよく理解するようになる」としています。
 第8章「学校に入っていく」でひゃ、「組合のリーダー、校長、教職員スタッフ、地元のコミュニティのメンバー、あらゆる立場の教員、そして生徒自身にもそれぞれ言い分」があるが、
(1)もっと効果的でもっと協力的になれる学校制度にしたいという同じ目標をもっている。
(2)皆が孤立していると感じている。
の2点では一致していると述べています。
 そして、「根源的な志」として、「子ども、保護者、教育者、そして地域の共同体が、全体として、自分たちが学校に期待しているものすべてが実現するような制度を目指して働く」ことを挙げています。
 また、学校教育に関する倫理的側面について、
(1)政治的かつ社会的な民主制への文化適応
(2)知識へのアクセス
(3)育みの教育学
(4)責任ある学校の執事性(スチュワードシップ)
の4点を挙げています。
 第13章「コミュニティに入る」では、「『すべてのコミュニティは学ぶことができる』と信じることは、トップダウンではなく、内から外への変化、つまり子どもと一緒に始められる能力開発や、人間社会のあらゆることを変容させる出発点にほかならない」と述べたうえで、「それまでバラバラだった人がシステムのプレーヤーとして新たなコミュニティの中でつながりを持つと、まれに見るようなエネルギーが発生する。ソーシャルワーカー、教員、ビジネス界の有力者、カリキュラム・コーディネーター、病院の管理職者、そして生徒は、自分一人では持てなかった、コミュニティ変革の大きな力をもつようになる」と述べています。
 本書は、学校とコミュニティを「学習する組織」として捉え直し、変革することを目指した一冊です。


■ 個人的な視点から

 子供達が長い時間を過ごす学校こそ、地域に暮らす人々の人生に大きなインパクトを与えるもっとも重要な公共施設であることを再認識すべきだと思います。


■ どんな人にオススメ?

・公立学校はどうにも手がつけられないと思っている人。


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  ピーター M センゲ, ネルダ キャンブロン=マッケイブ, ティモシー ルカス, ブライアン スミス, ジャニス ダットン, アート クライナー (著), リヒテルズ 直子 (翻訳)
  価格: ¥5040 (税込)
  英治出版(2014/1/30)

 本書は、「教室・学校・コミュニティという3つのレベルに分けて、そこに関わる子どもと大人の両方を学びの主体と捉え、社会そのものを学び続け発展し続ける『生きたシステム』として根底からつくり変えるビジョン、そのために私たちが容易に関われる数々の実例やエクササイズを提供」しているものです。
 第1章「オリエンテーション」では、組織学習の「5つのディシプリン」について、「今日、人々はどんな職業や階級にあっても、大きな自立性を持って行動し、従うだけでなく率先して動き、相手に不安を覚えさせることなく難しい問いを発し、自らの行動を支配し未来の見通しを形作る習慣的なものの考え方を意識することを求められる」として、
(1)自己マスタリー:自分の今日の生活がもつ今の現実を現実的に評価しながら、自分の個人的なビジョンについて一貫性あるイメージを開発する実践のこと。
(2)共有ビジョン:共通の目的を持つ人々は、生み出したい未来、そうした未来にたどり着くために使いたい戦略、原則、指針となる実践の共通イメージを育てることで、集団や組織の中にコミットメントの感覚を養い育てることを学べる。
(3)メンタル・モデル:態度や認識についての気づき(意識)を高めることに焦点が合わせられる。
(4)チーム学習:「ダイアログ」や「スキルフル・ディスカッション」などのテクニックを使うことで、小さなグループの人々は、エネルギーや行動を共通の目標を達成するために使い、集団的思考のあり方を変質させ、バラバラのメンバーの能力を単に足しあわせた以上の知性と能力を引き出すことができる
(5)システム思考:人々は、相互依存性や変化をより良く理解することを学び、それによって、自分たちの行為によって起こる気血を形作っているもろもろの力に、より効果的に応じられるようになる。
の5点を挙げています。
 そして、「産業化時代の学習」についての考え方として、
(1)子どもは「欠陥品」であり、学校は子どもを「修理」する
(2)学習は頭の中で起きるもので、身体全体で起きるものではない
(3)誰もが同じ方法で学ぶ、または学ばねばならない
(4)学習は教室の中で行われ、世界で行われるものではない
(5)「できる子」と「できない子」がいる
の5点を、「産業化時代の学校」についての考え方として、
(1)学校は管理を維持する専門家によって運営される
(2)知識は本質的にバラバラに分節化される
(3)学校は「真実」を伝達する
(4)学校は個人的なもので、競争が学習を加速する
の4点を挙げています。
 第2章「5つのディシプリン入門」では、
(1)自己マスタリー:人々、すなわち子供や大人を彼らの周りにある今の現実に気づくよう助けながら、彼らが夢をいだき続けられるようサポートする実践である。
(2)共有ビジョン:ビジョンが本当に共有されるには、それが長年にわたり進化しつつ生命力を保ち、行為・学習・振り返りの継続的なサイクルを通じて人々を前に進ませなければならない。
(3)メンタル・モデル:普通は言葉にして表されることがなく、意識の底に潜むため、あまり検証されることがないが、言葉にされなかった前提や態度を表面に出し、人びとがお互いの違いや誤解について防衛的な態度を取らずに話をする役割を持つ。
(4)チーム学習:何らかのチームに属する人を共に考え行動させるために、時間を経て企画した実践に基づくディシプリン。
(5)システム思考:問題や目標を一つ一つ孤立した出来事としてではなく、もっと大きな普通はあまり目に見えない構造の中で、お互いに影響し合う構成要素として見る。
の5点について解説しています。
 第3章「教室のドアを開ける」では、「『すべての子どもは学べる』『すべての人は新しい未来を生み出す能力をもつ』というコンセプトは、人間が関わるあらゆる環境において真実であり続けるし、だれにとっても生きる力の源となりうる。このコンセプトを指針として取り入れることが『学習する教室』を生み出す第一歩だろう」と述べています。
 第5章「実践」では「教育がもつもっとも深い目的」として、「子どもが本当に生み出したいと考えているものを生むにはどうすればよいかを学ぶことを助ける」ことを挙げ、「こうしたことをなぜ大人が教えず、子どもが学ばないか」の理由として、「大半の教員は、創造的なプロセスのスキルを身につける訓練を受けたことがない」ことを挙げています。
 第7章「教室におけるシステム思考」では、「システム思考とは、複雑でダイナミックなシステム、すなわち、私たちの周りにあり、自分自身もその中に組み込まれているシステムの中にある相互作用や関係を理解(ときには予測)するために能力である」と述べ、「子どもがもつシステム知能は、大人の助けがあれば、問題解決モデルへと発展させられる。そうすれば、子どもは情報を集めて分析し、それを使って行為できるようになる。つまり、子どもは反復的なパターンに気づき、本能的に効果のない反応はしなくなり、挙動パターンをもっとよく理解するようになる」としています。
 第8章「学校に入っていく」でひゃ、「組合のリーダー、校長、教職員スタッフ、地元のコミュニティのメンバー、あらゆる立場の教員、そして生徒自身にもそれぞれ言い分」があるが、
(1)もっと効果的でもっと協力的になれる学校制度にしたいという同じ目標をもっている。
(2)皆が孤立していると感じている。
の2点では一致していると述べています。
 そして、「根源的な志」として、「子ども、保護者、教育者、そして地域の共同体が、全体として、自分たちが学校に期待しているものすべてが実現するような制度を目指して働く」ことを挙げています。
 また、学校教育に関する倫理的側面について、
(1)政治的かつ社会的な民主制への文化適応
(2)知識へのアクセス
(3)育みの教育学
(4)責任ある学校の執事性(スチュワードシップ)
の4点を挙げています。
 第13章「コミュニティに入る」では、「『すべてのコミュニティは学ぶことができる』と信じることは、トップダウンではなく、内から外への変化、つまり子どもと一緒に始められる能力開発や、人間社会のあらゆることを変容させる出発点にほかならない」と述べたうえで、「それまでバラバラだった人がシステムのプレーヤーとして新たなコミュニティの中でつながりを持つと、まれに見るようなエネルギーが発生する。ソーシャルワーカー、教員、ビジネス界の有力者、カリキュラム・コーディネーター、病院の管理職者、そして生徒は、自分一人では持てなかった、コミュニティ変革の大きな力をもつようになる」と述べています。
 本書は、学校とコミュニティを「学習する組織」として捉え直し、変革することを目指した一冊です。


■ 個人的な視点から

 子供達が長い時間を過ごす学校こそ、地域に暮らす人々の人生に大きなインパクトを与えるもっとも重要な公共施設であることを再認識すべきだと思います。


■ どんな人にオススメ?

・公立学校はどうにも手がつけられないと思っている人。


2014年3月18日 (火)

剽窃の文学史―オリジナリティの近代

■ 書籍情報

剽窃の文学史―オリジナリティの近代   【剽窃の文学史―オリジナリティの近代】(#2306)

  甘露 純規
  価格: ¥3780 (税込)
  森話社(2011/12)

 本書は、明治時代に起きた剽窃事件を題材に、「昔の人びとが剽窃やテクストの差異をどのように考えていたのかを明らかにする」ことを目的としたものです。
 著者は、「明治以前、うまい文章を書くとは他人の文章を自分の文章にたくみに取り込むことであった。そして、他作がたくみに利用されていれば、名文の賞賛を受けることができた」としたうえで、絵「明治より以前の人々は、他人の語句・文章を自作に積極的に利用した。が、『何でもアリ』と考えていたのではなく、その利用については、現代とは異なるルールを持っていた」と述べています。
 第1章「仮名垣魯文剽窃訴訟事件」では、明治8年に仮名垣魯文と永峰秀樹の間に生じた剽窃訴訟事件について、「現段階の調査では、文学者が絡んだ明治の剽窃訴訟事件の中で、もっとも早い例」として取り上げ、「江戸時代では、出版された書物を管理・専売する権利=板株は、書物を著した作者ではなく、版木を彫るなど、出版に必要な経費を負担したことから本屋が持っていた。多くの場合、作者は本屋から僅かな潤筆料を受け取ったあとでは、出版された書物について何ら権利を持たなかったようだ」と述べたうえで、永峰が版権思想に基づき、「借用による類版を、自己の文章=所有物を無断で借用したものであるがゆえに、自己の所有物を奪い不正に名誉を獲得する違法行為として訴え」、剽窃を容易に連想させる「文白波」というフレーズを用いたと述べています。
 そして、「江戸の読書には、読むことと記憶し学ぶことの間に書き抜くという行為が取り入れられていた」として、「江戸の読書人にとって抄録とは、書物を読む際に、その文章を書き写すことでその文章を記憶する行為、テクストの享受と再生産が一体になった行為だったと言える」と述べ、「魯文は『現今支那事情』作成を読書の際に後進の教育のために行った抄録として語ることで、自分の行為を『文白波』と非難する永峰に対して、その行為を江戸時代から行われてきた一つの行為、書物の享受と再生産が一体となった行為として正当化しようとしていた」としています。
 また、「弁解するにあたって問題の文章の価値を否定してみせる魯文は、漢学の作文法に由来する剽窃についての考え方――剽窃観を持っていたと思われる」として、「この作文法にあって剽窃とは、尊敬に値する優れた文章にこそ行われるものだったからだ」と述べ、「このようなろ分の剽窃観は、版権思想に基づく永峰や福沢の剽窃感とは大きく異なるものだった」としています。
 著者は、「魯文の目からすれば、この事件は、永峰が訴えるような、『文白波』という違法行為をめぐる永峯対魯文という作者同士の争いではなく、本屋仲間内で解決可能な、借用による類版をめぐる山城屋対和泉屋という本屋同士の争いという他になかったのだと言える」と述べています。
 第2章「模倣と剽窃の間」では、「種本からの無断借用は、新聞紙の投稿欄という『文壇』に参加し続けようとする限り、ベテラン・新人の区別なく巻き込まれてしまう必要悪であった。そしてこの必要悪は、無断借用から剽窃へとつながっていく枕水漁史の行為が示すように、剽窃を生み出す温床にもなった」と述べたうえで、「この時期の剽窃は、倫理的に問題のある振る舞いとして、技巧的な拙さを批判されることはあっても、現代のように権利の侵害と批判されることはなかった」として、このような考えの土台には、「模倣を作文練習の基本に置く漢学の作文法」を挙げています。
 第3章「明治一〇年代の無断転載」では、「明治初期の新聞では手紙の転載の他に他紙からの記事の転載も情報提供の手段の一つとしてあった」として、このような新聞・雑誌・小冊子を、
(1)新聞の雑報を識字能力の低い人々のためにふりがなつき・挿絵付きで転載した、整版(木版)印刷による小冊子
(2)複数の新聞の論説・雑報・続き物を転載した活版印刷による新聞・雑誌
(3)時間の経過とともに散逸しやすいという、新聞というメディアがもつ短所に関係して、保存に便利なようにテクストを転載した小冊子や雑誌
の3つのタイプに大別しています。
 第4章「饗庭篁村と内田魯庵」では、「篁村は、其磧の文体を模倣しながら、地口や縁語などの言葉遊びを強調する、あるいは其磧の文意を言葉遊びと使って表現するという形で、『当世商人気質』の文体を生み出した。このような篁村の執筆姿勢からは、江戸時代から続く旧来の文学観が見て取れる」と述べています。
 そして、「明治10年代に江戸時代の読本や草双紙の翻刻出版が盛んになった理由」として、「活字印刷技術の発達による情報量の増大と、出版して売るテクストの不足が考えられる」と述べ、また、新聞や雑誌に連載された続き物について、「明治10年代の出版条例では、こうした続き物には版権が認められず、他人の続き物を無断翻刻しても訴えられる心配はなかった」としています。
 著者は、「近松や馬琴の文体の模倣に熱心に取り組む二葉亭四迷や饗庭篁村の姿は、漢学由来の文学観が明治20年代にあって依然として強い力を持っていたことを教えてくれる」が、「福沢諭吉らにより移入されたイギリスの版権思想は、剽窃に対する考え方を変えるものだった」と述べています。
 第5章「博文堂と偽版」では、「明治20年前後の出版会において、博文堂田原庄左エ門ほど偽版に悩まされた本屋はないだろう」としたうえで、「博文堂は自社出版物のオリジナリティを守るために積極的に働いた」ように見えるが、「事態はそう単純ではない」と述べています。
 そして、「戯作でストーリーやプロットを作る際には、『趣向』が重視される。『趣向』とは、人々によって既知の物語に新たな膨らみを持たせることを狙って物語に仕掛けられるものである」と述べ、「こうした趣向は戯作にとどまらず、江戸時代の人々の最大の娯楽である歌舞伎でも頻繁に用いられ、趣向を仕掛ける有名な歌舞伎や浄瑠璃を『世界』と呼んだ。つまり、趣向とは、読者にとって既に馴染みのある物語の場面や登場人物に新たな膨らみを持たせるために、その場面や登場人物に新たな設定を加える事であり、それは既知のストーリーやプロットに対して、多彩なプロットの展開・表現上の諸効果を生むもんだった。加えてそれは、技芸的な巧みさを目指すものであって、美的な調和を目指すものではない」と述べています。
 第6章「東海散士『佳人之奇遇』偽版訴訟事件」では、「明治20年代の偽版訴訟は本屋の利害関係に大きく影響された。同じようなテクストで模擬版として訴えられるものもあれば、作者が騒いでも黙認されるものもあった」としたうえで、「このような偽版訴訟の場で用いられたのが、テクスト全体の内容にオリジナリティを求める美学的な思考だった」と述べています。
 そして、服部撫松が土田泰蔵の名義で著した『通俗佳人之奇遇』について、「『佳人之奇遇』のストーリーや場面・当時人物の設定に趣向を仕掛け、新たなプロットを生み出している」としたうえで、「撫松は趣向により新たなプロットを生み出すだけでなく、『佳人之奇遇』の政治的なテーマも作り替えている」と述べ、散士の眼には、「『通俗佳人之奇遇』は『佳人之奇遇』の名前を冠しながら、趣向を使って自らの物語を二本松藩士のそれに書き換えるだけでなく、政治的な主張をも書き換えてしまう、非常に悪質なものとして写ったに違いない。これが散士が『通俗佳人之奇遇』を自作の通俗本として受け入れることができなかった理由だと考える。政治思想の宣伝を考える作者にとって、自作をこうした形で乗っ取る趣向は、さながらガン細胞のように見えたことだろう」と述べています。
 また、小説の意匠について、徳富蘇峰が、「山・川などの場面や英雄・盗賊などの登場人物を取り合わせ、互いに関係づけて配置すること、こうしたテクストの内容を支えるために、字法・句法・部法などの表現上のテクニックを活用すること」を求めているとして、「小説の意匠とはテクストの内容と形式を貫く、各要素の有機的な結びつきを重視する構想上の工夫であったといえよう」と述べています。
 そして、「文体が異なっていても、全体を通して類似の語句が見つかり、それらが形作る関係が似ていれば、全体の内容が類似した義版と言える」として、「折しも時代は、趣向の工夫に腐心し続けた戯作的な思考の衰退期を、またそれと同時に、新しい文学的思考の創出機を迎えていた。このような時代状況の中で起こったこの訴訟事件は、文学的な思考の転換を表す、きわめて象徴的な事件だった」と述べています。
 第8章「模倣と剽窃の区別」では、幸田露伴の弟子と考えられる新人小説家・藤本夕ひょう(風に炎)の「心中皐月雨」に対する斎藤緑雨の批判について、「緑雨にとって剽窃と模倣は区別されるべきものだが、夕ひょうにしてみれば剽窃と模倣はあくまでも連続したものだったのだろう」として、「緑雨は、模倣と剽窃に共有と専有の区別を対応させ、夕ひょうの行為を専有を侵犯する行為として非難した。この非難を受けて、夕ひょうは一葉の専有とされた表現の中に、一般に流通する語句、共有の要素があると主張する」と述べています。
 そして、明治32年が、「日本にとって大きな節目の年だった」として、ベルヌ条約への加盟にともなって公布された著作権法について、「この著作権法は、それまでの剽窃の位置づけを大きく変えるものだった」と述べています。
 また、「内容・文体と表現の、そして剽窃と模倣の、観念的な区別はトラブルを引き起こしやすい。実態に則した明確な線引ができない以上、ある人間が内容・文体の模倣として許容されると考えても、別の人間から見れば表現の氷雪に見えることが十分ありうるからだ」と述べたうえで、緑雨と夕ひょうの議論が、「この時代に進行した3つの事態を明らかにして」いるとして、
(1)「うもれ木」の評価の変化に見られるように、意匠を重視する思考の広まりにより、先行テクストの場面・登場人物の設定などの内容の模倣が、その価値を否定されるという事態。
(2)文体に個性を見る新たな文体観の広まりにより、先人の文体の模倣が価値を否定され、個性的な文体の獲得が作者に求められるようにあるという事態。
(3)こうした模倣の価値の下落に伴い、模倣と剽窃がそれぞれ許容できるものと違法なものとに割り振られ、両者の連続性が断ち切られるという事態。
の3点を挙げています。
 第9章「翻訳と翻案の区別」では、「明治初期からの版権思想と出版制度は、原作者に無断の翻訳書にも版権を認め、これを保護することで、欧米からの知識の導入を積極的に促すものであり続けた」として、明治20年に公布された版権条例について、「無断翻訳の出版を禁止するものではなく、これまでの出版条例を同様に、積極的に無断翻訳を促す法制度であった」とともに、「ベルヌ条約では翻案は翻訳と区別されていたが、この版権条例ではそれまでの出版条例と同様、翻案については何ら記していない」と指摘しています。
 そして、「当初、翻案は積極的に評価されていた」が、「他国の文学の本格的な研究が求められるようになると、原作との関係を巡って翻案は厳しい非難にさらされるようになる」と述べています。
 著者は、ベルヌ条約加盟に対して、翻案が抜け穴となることができた理由として、
(1)翻訳と翻案が明確に区別されていたこと。
(2)翻案は創作へとつながるもの、つまり「不法複製」ではなく「新著作物」として許容される可能性を持っていたこと。
の2点を挙げています。
 補論「『チーズはどこへ消えた?』盗作訴訟事件」では、「物語の筋立てなどを『表現形式上の本質的な特徴』とする」主張について、「明治時代の意匠を重視する思考を見て取ることができる」と述べ、「趣向と意匠、結局勝利をおさめたのは意匠だった。その後、意匠を重視する思考は、テクストの際についてのルールを形作ることになる」としています。
 本書は、現代に通底する日本の著作権思想の出発点を探った一冊です。


■ 個人的な視点から

 現代においても「盗作」や「パクリ」といった争いは絶えないわけですが、時代時代によって考え方は全く違ったものであり、特に江戸時代以前の「趣向」の考え方は、今の時代にこそ体系的に受け入れられるべきだと考えます。


■ どんな人にオススメ?

・先人に頼らずに「オリジナル」な文化が作れると思っている人。


2014年3月17日 (月)

あくびはどうして伝染するのか 人間のおかしな行動を科学する

■ 書籍情報

あくびはどうして伝染するのか 人間のおかしな行動を科学する   【あくびはどうして伝染するのか 人間のおかしな行動を科学する】(#2305)

  ロバート・R・プロヴァイン
  価格: ¥2520 (税込)
  青土社(2013/10/24)

 本書は、「これまで過小評価されていたが、実は有益な情報に富み、時に恥ずべき人間の行動を分析し、さらに賞賛するもの」です。
 著者は、「生き物は生物学的に見て決まり文句のコレクションのようなものだ。だから私たちは一つの生物を理解するために別の生物を用いることができる。このことが比較分析の理論的な基礎になっている」と述べています。
 そして、本書が扱う「スモール・サイエンス」について、「途方も無い道具や莫大な予算を必要としないから『スモール』なのであって、とるに足らないからではない」としています。
 第1章「あくび」では、「あくびは非常に影響力が強いため、それを考えるだけでもあくびが引き起こされる」としたうえで、「あくびは人から人への行動の連鎖として拡がる。この何も考えないつながりにはもっとも原始的な種類の社会的行動が関係している」と述べ、「神経科学者たちは模倣、直感、共感、言語、心の理論(他の人々も自分と同じような心を持つという認識)などを含む多くの行動にミラーニューロンの役割を置き、『壊れたミラー』が自閉症の社会的欠陥に関与する可能性を示唆する」としています。
 そして、「血液中あるいは脳において二酸化炭素濃度が高くなる、あるいは酸素が欠乏するとあくびが出るという伝統的だが裏付けのない議事事実は頻繁に繰り返されているうちにやがて一人歩きするようになり、今でも一般メディアや医科大学の講義で取り上げられている」が、「呼吸とあくびにはどちらも呼吸活動が関係して神経的運動プログラムによって生じるが、そのプログラムはそれぞれ別のもので、別々の調節が可能だ」と述べています。
 著者は、「あくびとそれに関連する伸びは私たちの生理機能を刺激してこれらの移行を促進する大規模な神経と筋肉の、そして呼吸の動作だ。人間では、これらの変化が伝染して集団に及ぶ」と述べています。
 第2章「笑うこと」では、「笑い(不随意的行為)に要する反応時間が『ハハハ』と発生する(自発的行為)よりも長いことは、笑いが話すのではないこと、そして異なる神経行動的メカニズムが関係していることを表す」としたうえで、「人間の笑いの進化における最初のステップは身体的な遊びに伴うハアハアというあえぎ声だ。次にこの音の儀式化が起こり、その中でそれを生み出した動作の音声のシンボルとしてあえぎ声が出現した。それに続いてもとのあえぎ声の人間的抽象化であるハハハが生じる。儀式化された遊びの音声は『私は遊んでいるのであって、あなたを攻撃しているのではない』という信号だ」と述べています。
 第4章「感情的に流す涙」では「感情的な涙は人間独自の比較的新しい進化的革新で、その期限に関する新しい生物学的足跡を残してきた可能性がある」として、「人間の涙器系を涙を流さない類人猿の親戚たちのものと比較すること」により、「NGF(神経成長因子)」が関係した、「感情的な涙を流すようになった道筋が解明されるかもしれない」と述べたうえで、「NGFは涙に含まれる治癒物質であると共に、発達や進化する間に感情的涙に必要な神経回路の形成に中心的な役割を果たすニューロトロフィン神経栄養因子である可能性も考えられる」としています。
 第5章「白目」では、「美しさの基準は文化や歴史によって異なるが、若さと健康は必ずと言ってよいほど人気がある」として、「澄んで輝く瞳は健康と美を表す普遍的でごまかしにくいしるしになっている」と指摘しています。
 第7章「くしゃみ」では、成人の約4分の1が、「明るい光に反応してくしゃみをする傾向で、遺伝する」反射である「光くしゃみ反射」を起こすと述べています。
 第8章「しゃっくり」では、「しゃっくりは一生におけるどの時期よりも誕生前に頻繁に起こる」と述べたうえで、「しゃっくりは誕生後の人間の生命において、特に明らかな機能は持たない。しゃっくりの機能は一般的に発達的なものあるいは進化の痕跡と考えられており、出生前あるいは系統発生的太古の機能であろうことが推測される」と述べています。
 第10章「くすぐり」では、「自分をくすぐることはできない」という基本的な観察は、「社会的遊びの神経学的プログラム、自己と他者の神経学的計算、自閉症に考えられる欠陥、ロボットに人間性をプログラムして性能を向上させる方法に関する洞察へとつながる」と述べています。
 本書は、人間の体に起こる諸現象をまじめに考察した一冊です。


■ 個人的な視点から

 人間はあくびをしている人を見ている時だけでなく、あくびについて考えるだけでもあくびが出るらしいと書かれていたために、読んでいる間に何度となくあくびが出ました。決してつまらない本だということではありません。


■ どんな人にオススメ?

・人間が何で意味のない行動をするのかを知りたい人。


2014年3月15日 (土)

男はなぜ暴力をふるうのか―進化から見たレイプ・殺人・戦争

■ 書籍情報

男はなぜ暴力をふるうのか―進化から見たレイプ・殺人・戦争   【男はなぜ暴力をふるうのか―進化から見たレイプ・殺人・戦争】(#2304)

  マイケル・P. ギグリエリ (著), 松浦 俊輔 (翻訳)
  価格: ¥ (税込)
  朝日新聞社(2002/10)

 本書は、「類人猿学者でヴェトナム戦争にも参加した兵士の経験もある著者による、男が(女に比べて圧倒的に)かくも暴力的であるという現実の進化論的起源を探る、野心的な試みの本」です。
 「はじめに」では、本書の目的は、「男の暴力の誘因が男の心にどれほど深く根付いているものか――そしてなぜその誘因がそこにあるのか――を、性格に解き明かすこと」だとしています。
 第1章「生まれつき悪いのか」では、「本書の基本的前提は、人間は、生物学的な視点、置かれた環境、双方によって理解可能」だと述べたうえで、「政治的に正当とはとうてい言えないが、性淘汰は、たとえどんな手段を使ってでも多くの子を残す雄の遺伝子に、有利に働く」として、
(1)色男戦略:雌に対する雄の魅力を増強する。
(2)マッチョ戦略:きわだった大きさ、強さ、早さ、武器、闘う気力、知性、ずるさ、戦略的判断力、さらには雄の親類と協力して共に闘う傾向までも強化していく。
の2つの戦略を取り上げています。
 そして、「男と女は生まれながらに、生物学的性(セックス)も社会的性(ジェンダー)――人間の心とアイデンティティの最も基本的な決定要素――も違うようにできているし、親の養育を通じて、あらゆる形態の繁殖競争で他の同性に勝てるように適応して、適切で競争力のある性別役割分担を文化から学ぶよう、本能ができてもいる。男の暴力は、この過程のなかで、氏、生物学的性、育ち、社会的性などによって形成される繁殖戦略として現れてくるのである」と述べています。
 第2章「人形遣い」では、「われわれがいくら自分たちは知性をもった生物であると思っていても、みな、やはり本能や感情、熱くなったり冷めたりする情熱、愛と憎しみ、恐れと友愛をもった生物――ジャングルの掟に従う生物である」と述べたうえで、「性的指向や性的な感情も含むセクシュアリティ(性的特質)が、視床下部の形態という明確に測定できる性差によって定められているらしい」と述べています。
 第3章「われわれはどんな生き物か」では、「人間であるためには、生き延び、資源を利用し、交尾し、他人に意思伝達するために行動を形成する重要な戦略としての文化――社会的に伝達される考え方――に依存した、自己認識のできる個体でなければならない」と述べています。
 そして、「大きな脳、暴力的ではあるが協力的な男の社会組織、DNAによる繁殖戦略の組み合わせが、人類の人類らしいところを必然的にしたのだ」と述べています。
 第4章「レイプ」では、「レイプ犯が自分の身が傷つくのを避けたがる願望の背景を見ると、彼らが本当に求めているものがよく理解できる」として、「犯人に直面した時、殺されたり、けがをさせられたりすることを第一に心配した被害者は、レイプを成功させてしまった」のに対し、「まずレイプされたくないと考えた場合はレイプを免れた」と述べ、「レイプ犯は普通、脅かしたり押さえつけたり、女性とセックスするために必要なだけの武器や暴力を使い、傷を負わせることよりも、セックスすることを強く求めている」と述べています。
 第5章「殺人」では、「ほとんどの殺人犯が、入手できる最高の武器を使い、さらに、その多くが殺人を意図してこうした武器を使用する。面白いことに、大半の殺人犯は、犠牲者となるはずの相手がこれと同じ武器を持っていることを恐れてもいる」と述べ、「殺人犯はしばしば、自分が負傷したり殺されたりする危険が高くなる場合は、殺人をやめるだけの合理性や冷静さを備えている(すなわち、非合理的に『かっとなって』殺人を犯すことはないのがふつうである)」としています。
 そして、「なぜ男が女よりもはるかに殺人を犯すことが多いのか」について、殺人は、
(1)繁殖に有利になる個人的利益を拡大するため
(2)すでに獲得した大きな利益を保持するため
に、「男を殺しへ駆り立てるように設計されて、性淘汰によって男の心根の中にコード化されて備わっている本能である」と述べています。
 第6章「戦争」では、「戦争は、まさに、男たちの繁殖のための、のるかそるかの賭けである戦争という生命を左右する危険に見合う、一番価値のある目的は、女たちであり、あるいは、より多くの女たちとその子孫を惹きつけたり、支えたりできる資源である」と述べています。
 第7章「誰? 俺のことか?」では、アメリカにおける男の暴力を防止する方法として、「圧倒的大多数のアメリカ市民一人ひとりが、まとまって強調すると決め、現在は取られていない2つの対策を取ること」だとして、
(1)大人自らが攻撃的な暴力は間違いだと示しながら、すべての子供達に1歳の頃から、自分を抑え、規律を守り、自分で責任を取ることを教えること。
(2)凶悪な暴力――レイプ、殺人、侵略戦争、大量虐殺、テロ行為――を行っても「割にあわない」ばかりでなく、辛い刑が待つだけだという状況を、協力して作り出すこと。
の2点を挙げています。
 本書は、男の暴力の根源を求めた「意欲的」な一冊です。


■ 個人的な視点から

 本書に流れている何とも同調しづらいマッチョ感には抵抗はあるのですが、これはこれで一つの世界の見方なのかもしれません。


■ どんな人にオススメ?

・暴力を「悪」という言葉でそれ以上考えない人。


2014年3月14日 (金)

権力移行―何が政治を安定させるのか

■ 書籍情報

権力移行―何が政治を安定させるのか   【権力移行―何が政治を安定させるのか】(#2303)

  牧原 出
  価格: ¥1050 (税込)
  NHK出版(2013/6/25)

 本書は、「戦後日本の歴史をさかのぼって、その政権継承と政権移行を丁寧に見て」いくとともに、アメリカやイギリスのように政権交代が繰り返し生ずる国で重ねられてきた制度改革から学ぶことを目的としたものです。
 「はじめに」では、「自民党結党後、権力の裁定様式の変遷から見れば、政権継承は当初、総裁公選を前提としながら、長老による後継総裁の指名という仕組みを底流としていた」が、「次第に総裁公選での圧勝、衆議院総選挙での勝利という、国民の間接・直接の指示による総裁の後任指名という形」にかわり、「最終的には、国民が政権を選択する『政権交代』へと変容する」と述べています。
 第1章「自由民主党『長期政権』の確立」では、「自民党の血糖は、財界の要望もあって革新勢力の結集に対抗して保守陣営が合同することをその目的としていた」が、「発足時には、合理的に政策を形成し、実行する仕組みを作り上げることもまた重要な課題であった」と述べています。
 そして、1974年の参議院選挙で、田中を中心とした金券選挙に対する不信感から自民党が敗北すると、「総裁選挙を可能なかぎり行わせないように行動」し、「話し合いでの後任総裁決定の際に、中心的役割を果たすことができる」長老政治家が登場したと述べています。
 また、「『長老』集団による内閣への統制が消滅した1990年代以降は、改革の主体は若手政治家となり、その目的な党改革ではなく、『政治改革』としての選挙制度改革」となり、「その結果、自民党は政権担当能力ある唯一の政党としての役割を終えることを余儀なくされていった」と述べています。
 第2章「政治改革と『改革の時代』」では、冷戦終結後、先進諸国で大きな制度変更が続いたのと同様に、日本でも「次々と改革課題が押し寄せ、その結果として、一連の改革過程で唱えられた言葉を用いれば、『この国のかたち』が大きく変わっていった」として、
(1)従来型:密室の中で利害関係者のバランスがたえず考慮されて、しかるべき結論が導かれた。
(2)1990年代型:統治機構の諸機関が分権化・規制緩和の趨勢の中で全面的に改革された。
(3)構造改革:経済制度の改革が中心に据えられ、「改革の加速」が重視された。
という三種類の改革が続いた後、2009年に政権交代が実現したと述べています。
 第3章「小泉内閣はいかに『官邸主導』を作り上げたか」では、「従来の自民党政権では、省庁官僚が政調会部会と不即不離の関係に立ちつつ大臣を半ば支え、半ば統御していた」が、「『官邸主導』では逆に、首相と大臣がチームを組織し、与党と省庁官僚とを統御していく」と述べています。
 そして、「2001年以前は省庁官僚にとり、政治家と直接接触して合意を取る過程、すなわち『根回し』の過程こそが、主たる業務内容であった」が、「諮問会議の活性化は、こういった『根回し』に要するコストの大部分を、首相と大臣・民間議員と直接議論を交わす場に集約したと考えるべきだ」と述べています。
 さらに、官邸主導が実現した条件として、
(1)諮問機関が首相の関心圏内にあることで、その求心力が規定されたこと。
(2)諮問会議は、予算編成との関わりで手続きを制度化させてきた。
(3)大臣と諮問会議の事務局である政策統括官下の部局の処理能力が高くなければ、小泉内閣時代のように多種多様な案件を集中的に処理することは困難である。
(4)小泉内閣では施策とともに政策責任も諮問会議なかんずく竹中大臣が集中的に担ったが、この責任集中体制に伴うリスクを負うだけのステーツマンシップが経済財政担当相にあるかどうか、またそれに必要な政策能力を備えているかどうか。
(5)民間議員が提出したペーパーが議事を方向づけた諮問会議では、民間議員の人選もまたきわめて重要な意味を持つ。
の5点を挙げています。
 第4章「官僚制の変容」では、「今なお進行中の政策決定過程の変化を捉えるためには、ネットワーク組織として、歴史的に形成され、容易には変化しない官僚制の基層をなすものを抽出しなければならない」として、
(1)内務行政型:内務省を中心とした中央省庁都府県の間のネットワーク
(2)大蔵・財務省主導型:財政政策を通じた大蔵省と各省との間のネットワーク
(3)経済産業政策型:1930年代の岸信介率いる商工省を中心とした総動員体制の中の経済省庁間ネットワーク
の3つの起源を持つネットワークを区分し、それぞれ、
(1)組織的には省間の縦割りを温存しつつ、職員の自治体への出向の際に相互の連携を可能としている。
(2)財務官僚が、予算の編成と支出を通じて各省をコントロールしており、中央省庁の予算・会計事務を担当する官僚間の同質性が特徴。
(3)経済省庁のみならず官と民との相互交流を含み、通常のルーティンの政策過程では影響力を発揮することは少ないが、変動期において、新しい改革のアイディアを持ち込むことで、既存の制度を変革し得たときに大きな影響力を発揮する。
と述べています。
 第5章「公務員制度改革はなぜ停滞するのか」では、公務員制度改革について、
(1)内閣機能の強化の延長から、人事院の縮小、内閣による各省監部人事の一元管理である。
(2)公務員の抜擢と口角の自由度を高める改革である。
(3)公務員バッシングに対応した規律の強化である。
の3点を挙げています。
 第6章「進化する政権交代」では、政権交代を政治システムの下に組み入れているアメリカやイギリスなどでは、「新政権を円滑に発足させるために、政権移行の過程がルール化されている」うえに、「選挙のたびに再検討され、必要に応じて改正されてきた」と述べています。
 そして、政権交代を進化させるための制度設計を構想し続けることが必要として、
(1)野党時代に、与党法案の修正に尽力するよりは与党になった時に備えて実行可能な政策を構想すべきである。
(2)政権獲得前の野党と官僚との接触ルールを整備しなければならない。
(3)マニフェストを掲げ、その中でさしあたり着手可能な案件を絞り込むべきである。
(4)省庁再編は慎重に行うべきである。
の4つの提言を行っています。
 本書は、戦後の日本の政治史をさかのぼって、政権移行の意義と課題を抽出した一冊です。


■ 個人的な視点から

 いろいろと評価はありますが、個人的には自民党からの「権力移行」は歴史上の必要性または必然性があったのではないかとと思います。やはり、民主制にとって政権交代はそれが潜在的な可能性にとどまっていたとしても必要なものですし、権力移行が選択肢にない民主制はやはり歪なものなのではないかと思うのです。


■ どんな人にオススメ?

・ショーとしての政治を楽しんでいる人。


2014年3月13日 (木)

資本主義が嫌いな人のための経済学

■ 書籍情報

資本主義が嫌いな人のための経済学   【資本主義が嫌いな人のための経済学】(#2302)

  ジョセフ・ヒース (著), 栗原 百代 (翻訳)
  価格: ¥2940 (税込)
  エヌティティ出版(2012/2/9)

 本書は、世間の経済学への理解、経済学的な思考法には、右派(リバタリアン、保守)と左派(リベラル、革新)ともに誤りが多いとして、「右派の謬見」と「左派の誤信」の二部構成により、「そうした経済学的な問題について考えるときに陥りがちな誤解を説いて、資本主義と正しく付き合っていくための経済学入門として書かれたもの」です。
 プロローグでは、「SF作家がそろいもそろって、1970年代末まで予想しそこねていたこと」として、
(1)IT(情報技術)が日常生活に与える影響の大きさ。機械技術の発展こそが人間社会を変化させる最大の要因と考えられていた。
(2)市場が消えていくものと想定されたこと。
の2点を挙げたうえで、「社会」について考えるときに必ず念頭に置くべきポイントとして、
(1)人はバカではない
(2)均衡の重要性
(3)すべては他のすべてに依存する
(4)帳尻を合わせるべきものがある
の4点を挙げています。
 そして、本書が、「いずれも簡単なモデルにもとづく、ごく基本的な主張であり、教養のある人はだれでも避けられるはずの間違いを示している」と述べています。
 第1章「資本主義は自然」では、「福祉国家の成功と失敗は、右派にも左派にも苦汁をなめさせた。かつて彼らを左右に分かったイデオロギーの核心を捨てさせたのだ」として、「左派はコミュニズムを、右派はリバタリアニズムを諦めた」と述べています。
 そして、「リバタリアニズムの魅力を検討するうえで、19世紀に出現した2つのきわめて強力なイメージに考慮することが重要である」として、
(1)自然を最適化のシステムとみなすこと。
(2)資本主義を最適化のシステムと見ること。
の2点を挙げ、「この2つの考えの接点はハーバート・スペンサーの『適者生存』という表現に完璧に要約されている」と述べています。
 また、「市場経済を動かすためには3つの基本的な協力のシステムが機能しなければならない」として、
(1)所有:所有の安定
(2)交換:同意にもとづく移譲
(3)契約:約束の履行
の3点を挙げ、「フリーライダー問題は明らかに、この3つとも損なっている」と述べています。
 第2章「インセンティブは重要だ」では、「経済学者は概してこのインセンティブという言葉をとても広く解釈して、およそどんなことでもインセンティブと考えるところから始める。しかし特定の行動について説明する段になると、インセンティブの概念を外的条件要因(たいていは、お金)に限定してしまう」と指摘しています。
 そして、経済学者のインセンティブ熱を、
(1)インセンティブだけが重要なのではない。
(2)インセンティブは往々にして途方もなく複雑なものである。
の2点を理解することで冷まさなければならないとしています。
 著者は、「人間心理はひどく複雑だ」として、「経済学者のトレードマークともいえる、人間の合理性やインセンティブへの反応についての仮定は、甚だ単純化しすぎたものである」と指摘しています。
 第3章「摩擦のない平面の誤謬」では、「特定の科学的理論に用いられるモデルを指して『非現実的だ!』というだけでは反論になっていない」として、「現実の世界のある面を単純化して表すモデルを開発する目的は、全体を構成要素に分けて、つねにすべてのことを検討するのでなく、観察された特定の現象の原因となっている力だけを切り離して論じられるようにすること」だと述べています。
 第4章「税は高すぎる」では、「政府は富の消費者のように扱われ、民間部門は生産者のようにみなされる」ことについて、「完全に混乱している」として、実際は、「国民が富を生み、国民が富を消費する。国家や市場などの制度は何も生産も消費もしない。これらが構成するメカニズムを通して国民が富の生産と消費を整えるのだ」と述べています。
 そして、「『公共財』と『公共部門』はいかにもそれらしく部分的に一致しているのに、政府がその支給に携わっているのは、公共財というより経済学者ならばクラブ財と呼ぶものだ」と述べています。
 第5章「すべてにおいて競争力がない」では、「経済のすべての競争力がない状態などありえない。たとえあるとしても、たいしたことではない。なぜなら基本的に貿易は競争関係ではないから。競争には勝者と敗者がある。これに対し、貿易というのは協力関係だ」と述べています。
 そして、人が自由貿易協定に反対する理由の1つとして、「貧民労働の誤謬のバリエーションとして、繰り返し出現してきたもの」だと述べ、「外国から製品を輸入するとき、街角の店で買い物するときと同じように貨幣で支払いをしていると、つい考えがちである」が、「この国の通貨はしょせんこの国のものだから、外国人には価値がないことを覚えておくことが大切だ」と述べています。
 著者は、「生産性は重要だ」が、「重要なのは、ある特定の国民経済内の相対的な生産性だけ」だと述べています。
 第6章「自己責任」では、「右と左を分かつもの、右派の政治イデオロギーを優位たらしめるものとは、自己責任の正しさを信じていることだ」と述べたうえで、「『自己責任』の要求とは、つまりモラルハザードへの対応としての自己保険の要求である」としています。
 第7章「公正価格という誤謬」では、「左派または人類の味方とすら自認する御仁にとって、豊かな工業化社会で食住をあがなえない人がいるのは許しがたいことだ」が、「ここで2つの大きく異る見方がある」として、「問題はこれらが高すぎるか、お金が足りない人がいるかのどちらかだ」と述べ、
(1)価格を変えること
(2)国民の収入を補うこと
の2つの解決法があるにもかかわらず、「なぜか2番目の選択肢は見過ごされる傾向がある」ため、「公正価格の誤謬」とでも呼ぶべき論考パターン、すなわち、「再分配の様式に生じる不公正の直接の原因は価格だからと、給付金の効果を無視するもの」ができあがると指摘しています。
 第8章「『サイコパス的』利潤追求」では、「利潤が資本主義経済で演じる役割を考える前に、時間をとって説明したい広く蔓延した誤りが2つある」として、
(1)「営利」と「私利」との単純な混同によるもの
(2)「社会」が企業に利潤の最大化を白紙委任しているという、広く流布している印象
の2点を挙げています。
 そして、「利潤の道徳的地位をめぐる論争でもう一つ不毛なあいまいさの原因」として、「金儲け」と「利潤を上げる」ことの混同を指摘しています。
 また、「人が営利追求に引っかかる主な理由」として、
(1)営利を私利と同一視して、そのために政府のような非営利の組織のほうがともかくも利他的に振る舞うと思い込んでいること。
(2)一般的な企業とは特殊な協同組合にすぎないこと、協同組合はすべて所有者のためにあることを理解していないこと。
の2点を挙げています。
 第9章「資本主義は消えゆく運命」では、「左派のほとんどが景気後退とは何か、どうして起こるのかをいまだに理解していない」結果として、「資本主義はやがて滅びると左派はなおも信じている――実証的にも理論的にも何の証拠のないのに」ことは、「ほとんど過剰生産の誤謬に由来する」と指摘しています。
 また、「問題点は明白にもかかわらず、マルクスの恐慌論はいまだに左派には人気絶大である」理由は、「マルクスのこの理論が、景気循環のみならず」、「資本主義システムは、需要を刺激し、過剰生産で引き起こされる不足を埋めるために、新しいニーズを生み出しつづけることが必要だ」とする『消費主義(コンシューマリズム)』という現象の説明にもなると多くの人が考えているからだ」と述べ、ここには、
(1)失業した労働者が以前よりものを買わなくなると、商品が売れなくなるという考え。
(2)「所有欲」と「支払手段」との概念の混同。
の2つのあからさまな誤りがあると指摘しています。
 第10章「同一賃金」では、「資本主義で悩ましいことの一つに、労働報酬がその人が受けるに価するものと無関係に見える」ことを挙げ、「総合的な問題は、市場経済における賃金は他の価格と同様に、報酬というだけでなくインセンティブでもあることだ」と述べています。
 そして、「分配率は重要だが、それほどではない。本当に重要なのは労働生産性の平均水準である」と述べています。
 第11章「富の共有」では、「今日の金持ちは、とっくの昔に死んだ実業界の大立者の怠け者の孫というより、週80時間労働と目の玉の飛び出るようなサラリーで今の地位に上り詰めた、非常に活動的な敏腕家のようだ」と述べたうえで、「貧困者はただ金銭の不足だけで苦しんでいるのではない。手持ちの金を使うときに非常に悪い選択をする傾向もあるのだ」と述べ、「貧困産業」」と呼ばれるビジネスモデルが、「貧困者というより、どうしても衝動を抑えられない人たちを相手にしている」ことを指摘しています。
 そして、「人のこらえ性のなさを表すのにもってこい」の経済学のツールとして、「人は一般に将来より現在の満足を選好するという事実を説明するために導入されている」、「割引関数」を挙げ、「人の未来に対する態度にはひずみがある」として、「きわめて近い未来の遅延はとても大きく、まだまだ先の未来の遅延は不釣り合いに重要度が低くなる」とする「双曲割引」について解説しています。
 さらに、「貧困者の思慮のなさ」が貧困者の苦境を自ら招いたとする主張に対し、「左派の多くは、そういう現象を否定して、思慮のなさに見えることは貧困者の下した選択というより、もっぱら陥った状況の産物なのだと言い張る。ここに希望的観測が含まれている」と指摘しています。
 著者は、右派の常套手段である「表向きは選択の自由を擁護しながら、裏では思い罰を用意しておく」ことは「実際には死者を鞭打つことと大差がない」として、「極端な双曲割引関数を持つ人達に必要なのは、有効なセルフコントロール作戦を容易にするためのインセンティブの再構築である」と述べています。
 エピローグでは、「私は資本主義を嫌う人に、もっと真剣に経済学を受け止めるよう促してきたが、それは経済学が貧困、不平等、社会的疎外などの問題に簡単な答えを与えてくれるからではない。全く逆である。経済学の研究は、善意の人たちが提案した簡単な解決法の多くがあまり成功する見込がないと証明することで、しばしば事態を紛糾させるばかりだ」と述べています。
 本書は、世の中に出回っている「経済学」的な政策の矛盾点を指摘した一冊です。


■ 個人的な視点から

 右翼にせよ左翼にせよ、世界の見方っていうのは、「彼らにとって世界がどう見えるか」っていうこと以上に、「世界をどういう風に見たいのか」っていう願望以上のものではないのかもしれないとも思うのです。
 そしてその見え方のバイアスを少しでも較正していく上でも、バイアスをさらに強めていく上でも、どちらにも経済学は役に立つのかもしれません。


■ どんな人にオススメ?

・世界を希望する通りに見てみたい人。


2014年3月12日 (水)

経済史の構造と変化

■ 書籍情報

経済史の構造と変化   【経済史の構造と変化】(#2301)

  ダグラス・C・ノース
  価格: ¥2520 (税込)
  日経BP社(2013/2/21)

 本書は、「所有権と制度の役割に焦点を当ててヨーロッパとアメリカの経済発展に新たな光を当てた」ことでノーベル経済学賞を受賞した著者が、16世紀以降、経済成長に成功した国家(オランダ、イギリス)と失敗した国家(フランス、スペイン)が存在する理由として、
(1)国家は構成員の所有権を保護するサービスを提供し、その対価として収入(税収)を得る。
(2)国家は収入の最大化を目的とし、構成員が作る様々なグループに異なる所有権を設定することができる。
(3)国家は他の国家ないしその国家内の潜在的支配者との競争に直面している。
の3つの仮定に基づく「国家の理論」を導入することによって説明を試みたものです。
 序文では、本書の狙いは、「経済史を分析する新しい枠組みを提示すること」だと述べています。
 第1章「問題提起」では、経済史の役割として、「経済の構造を実力(パフォーマンス)を時間の流れの中で説明すること」だと述べたうえで、本書で論じる重要なポイントとして、
(1)経済システムの構造を明確にしなければ、経済パフォーマンスの変化を意味のあるかたちで考察することはできない。
(2)一部の変化は新古典派モデルの分析通りに、限界原理で起きる。
の2点を挙げています。
 第2章「経済の構造――序論」では、本書の主張として、
(1)歴史上、人口と資源の比率が激変し、連続性を断たれた時期が二度あった。本書ではそれを第一次経済革命と第二次経済革命と呼ぶ。
(2)2つの革命の間には、マルサスの人口圧の時代があった。生理的・社会的メカニズムで人口圧を克服した時代もあれば、経済制度の効率性の変化で生活資源が変わり、人口圧を克服した時代もある。
の2点を挙げています。
 そして、「経済パフォーマンスを決めるのは――また知識・技術の蓄積ペースを決めるのは、政治経済機構の構造だ。人びとが生み出す協力・競争の形態と、そうした人間の活動を組織するルールの執行システムこそが、経済史の根底にあるといえる」と述べています。
 第3章「新古典派流の国家理論」では、国家を、「暴力に比較優位を持ち、構成員に課税できる力で境界線が決まる一定の地域にまたがる組織」と定義したうえで、「所有権の本質は排除権であり、暴力に比較優位をもつ組織は、所有権を規定し守らせることができる」と述べています。
 また、経済史の基本となる国家の側面として、
(1)国家には非効率な所有権を生み出し、結果的に経済成長を維持できない傾向が幅広くみられる。
(2)すべての国家に内在する不安定性が、経済変動をまねき、最終的には経済が衰退する。
の2点を挙げ、支配者が一人の単純なモデルについて検討しています。
 そして、「非効率な所有権の蔓延」の理由として、「支配者(もしくは支配階級)の独占利益を最大化する所有権構造は、基本的には経済成長を促す所有権構造と対立する。この理論の変形の一つがマルクスの生産様式の矛盾――所有構造と、技術革新に伴う洗剤利益の実現が両立しない状況――という概念である」と述べています。
 第4章「歴史上の経済機構――分析の枠組み」では、「経済組織・機構を分析的に説明するには、国家の理論とともに取引コストの理論が必要」となる理由として、「どこに行ってもモノが不足し、したがって至るところで競争が起きている世界では、他の条件が同じであれば、相対的に非効率な機構が消え、効率的な機構が残るからだ」と述べ、「国家の理論と取引コストの理論の双方を勘案したモデルが必要だ」としています。
 そして、「第三者である国家は、法と法の執行という非人格的な体系をつくりあげることで、取引コストを下げることができる」としています。
 また、「国家は支配者・支配集団の利益を最大化するルールを規定し、その制約の下で取引コストを下げるルールを編み出す」として、奴隷制度などの非自発的な機構も生まれ、ソ連の集団農場のような「相対的に非効率な機構」も生き残ると述べています。
 第5章「イデオロギーとフリーライダー問題」では、イデオロギーを、「個人や集団の行動パターンを論理的に説明しようとする知的な努力」だとしたうえで、イデオロギーが経済学や経済史に及ぼす影響について、
(1)イデオロギーという概念を導入しても、競合する仮説による反証が可能という意味で経済史を科学的なものにすることは可能だ。
(2)フリーライダー問題を解決するには、実証的なイデオロギーの理論を打ち立てる必要があるが、同時に、市場原理に基づかない資源配分を説明する理論をさらに発展させる必要もある。
と述べています。
 第6章「経済史の構造と変化」では、「マルクス主義の枠組みは、長期的な変化を扱った理論の中で一番説得力がある」理由として、「効率的な経済機構で所有権が重要な役割を果たしていること、また、既存の所有権と新技術の生産力の間に緊張が生じることをマルクスが重視した」ことは大きな貢献だと述べたうえで、マルクス主義の限界として、
(1)技術変化のペースを説明する理論がないこと。
(2)技術を重視するあまり、変化を生み出す他の要因を無視していること。
の2点を指摘しています。
 第7章「第一次経済革命」では、「狩猟から農業への意向を説明しうる変化」として、
(1)狩猟の労働生産性低下
(2)農業の労働生産性上昇
(3)労働人口の持続的な拡大
の3点を挙げ、「この3つの要因が単独もしくは同時に働くことで、狩猟から農業への移行が進んだ可能性がある」と述べています。
 第8章「第一次経済革命――機構への影響」では、「古代文明の経済構造を根底から左右する――したがって、経済のパフォーマンスを根底から左右する――最大の要因となったのが、政治・経済組織内と政治経済組織間の「暴力を行使できる力(バイオレンス・ポテンシャル)」の分配だ」と述べています。
 また、古代経済史の土台にある最も基礎的な要素として、人口の増加を挙げ、「人口の増大は、今も昔も諸刃の剣だ、国家内・国家間の争い、政情不安、国家の衰退の大きな原因になると同時に、社会が新しい政治・経済機構を生み出す契機にもなる」と述べています。
 第9章「古代文明の経済変化と衰退」では、「ローマ帝国は衰退したというより、単に存在意義がなくなったといたほうがいい。軍事上の優位が消滅するとともに、従来の大規模な国家形態では所有権の保護と執行が難しくなった」として、「西欧ではその後1000年近くにわたって、小規模な政治・経済機構の時代が続くことになる」と述べています。
 第10章「封建制の発達と崩壊」では、「封建制の構造は、どちらかと言えば、ゆっくりと姿を表した。分権的な政治組織、階層的な主従関係、荘園という相対的に自給自足的な側面が強い経済構造。経済活動が再開し、地域や遠隔地の交易が活発になり、街が発達した。都市の職人の生産が増え、貨幣経済が普及した」として、「政治組織は次第に大きくなり、君主と構成員集団の交渉力に応じて、様々な土地・労働力・資本の所有権が登場するようになった」と述べています。
 また、封建制度の発達と崩壊に関連する構造転換の説明として、人口の変動と戦争が鍵を握るとして、
・戦争:政治組織の規模と構造を決めるうえで決定的な要因となった。
・人口の増加:土地と労働力の相対価格の変動を通じて、経済機構と所有権構造に決定的な影響を及ぼした。
と述べています。
 第11章「近世ヨーロッパの構造と変化」では、「海外進出は、長い目で見ると、西欧に世界経済を取り込むという流れをもたらしたが、短期的には市場の拡大で収益機会が増え、それを実現するために政治に構造転換の圧力がかかった」として、これにより実現した構造転換が、18世紀以降の経済成長の土台となったと述べています。
 また、「イギリスとオランダは人口よりも速いペースで経済が成長し、マルサスの危機を逃れた」と述べ、17世紀のヨーロッパ信仰国家の間で経済成長に差が出た理由として、「成功した2つの国では、導入された所有権が生産要素の効率的な活用を促すインセンティブとなり、発明やイノベーションに資源が投入された。経済がうまくいかなかった国では、税負担の絶対水準と歳入確保の手段が、正反対の個人行動を促すインセンティブとなった」と述べています。
 第12章「産業革命再考」では、1750年から1830年に始まったとされる持続的な経済成長によって起きた変化について、
(1)人口が前例のないペースで増加した。
(2)欧米は過去に例のない生活水準を実現した。
(3)欧米では経済活動の中心が農業でなくなり、工業・サービスが農業に変わる重要産業となった。
(4)結果として、欧米は都市社会となった。
(5)絶え間ない技術変化が当たり前になった。
の5点を挙げたうえで、「産業革命とはイノベーションのペースの加速であり、イノベーション自体は従来考えられている年代(1750-1830年)よりはるかに早い時期に始まった」と指摘しています。
 そして、「従来の産業革命論の多くは重点の置き方が間違っている。技術変化が工場制の導入につながったと論じているが、実際は作業上の集約で監督・分業体制が強化され、従来よりも投入の貢献度を正確に測定できるようになり、それが技術の変化につながった。取引コストと技術はもちろん密接に関係している。分業が進んだ結果、組織・機構のイノベーションが起き、それが技術変化を促した。さらに、そうした新しい技術の潜在力を引き出すため、一段の組織のイノベーションが必要になった」と述べています。」」
 第13章「第二次経済革命とその帰結」では、「第二次経済革命の第一のステップは、科学の発展だった。現在、科学知識の登場を納得の行くかたちで説明する理論は存在しない。教会による世界観の独占が崩れたことが、科学の発展と関係しているのは間違いない」と述べたうえで、第二のステップとして、「産業革命期の発明家の知的交流」を挙げ、「そうした交流によって、基礎知識を増やせば社会的に(潜在的には私的にも)高い収益率を得られるという意識が広がり、基礎研究への公的・私的支出が拡大した」と述べています。
 第15章「制度変化の理論と西洋経済史」では、「制度は人が交流する枠組みを規定する。社会、特に経済システムの骨組みとなる協力・競争の関係を規定するのが制度だ」と述べたうえで、「制度度は、主体(プリンシパル)の富や効用を最大化する目的で個人の行動を成約するルール、コンプライアンス手続き(ルールを守らせる手続き)、道徳・倫理規範の集合体だ。政治制度や経済制度の場合は、特化(暴力への特化を含む)によって生じた取引上の強みを活かして、富や効用を最大化する」と述べています。
 そして、「政治・経済システムは、互いに特定の関係をもつ複数の制度の複合体から成っている。そうしたシステムの中で組織・機構の土台の部分で成約するのが、機構ルールだ。機構ルールの狙いは、所有権と強制力という下部構造を規定して、支配者の効用を最大化することにある。具体的には(1)富と所得の分配パターンを規定する(2)競合する国家が存在する領域では、保護のシステムを規定する(3)経済分野の取引コストを削減する運用ルールのシステムの土台を作る――という目的に沿って構築される」と述べています。
 本書は、経済史における国家の役割を新しい視点から分析した一冊です。


■ 個人的な視点から

 取引コストという概念は、便利で理解しやすい一方で、いろいろな説明に都合よく使われすぎるんじゃないかという印象はあるものの、世界を摩擦や空気抵抗を無視して考えてはいけないことを教えてくれるという意味で重要なものです。


■ どんな人にオススメ?

・制度がどのように生まれてきたかを知りたい人。


2014年3月11日 (火)

世界を変えた火薬の歴史

■ 書籍情報

世界を変えた火薬の歴史   【世界を変えた火薬の歴史】(#2300)

  クライヴ ポンティング (著), 伊藤 綺 (翻訳)
  価格: ¥2940 (税込)
  原書房(2013/4/24)

 本書は、
・中国で約400年間、重要な軍事機密として門外不出とされた火薬の製法が、どのようなルートを経て世界各地に伝播し、戦争携帯とそれまでの国家間の力関係を一変させたか。
・火薬がどのようにして、多数の少国家に分裂していたヨーロッパを少数の強国へと統合し、ついで国家の中央集権化を加速させ、その社会構造を変貌させていったか。
・火薬がいかにしてヨーロッパ人による海外進出を促し、世界中に勢力範囲を拡大させることになったか。
・火薬を利用した兵器が、最初は中国で、続いてイスラム世界、ヨーロッパでどのように進化・発展を遂げていったか。
という火薬にまつわる物語を、中国、ヨーロッパ、中東、日本を含めた多数の文献から引用して紹介しているものです。
 プロローグでは、「長年にわたってヨーロッパ人は自分たちが火薬を発明したと主張してきたが、真の起源は中国にあることが20世紀半ばになってようやく認められた」と述べています。
 第1章「火の薬」では、「不老不死をもたらしそうな混合物の調査を行う」なかで、「考えうる限りあらゆる奇妙で驚くべき混合物を試しているうち、まったくの偶然に、人類史上初の爆発物――火薬を発見した」として、木炭、硫黄、硝石の混合物が発見されたと述べ、火薬の最初期の形態が登場したのは紀元800年頃だったとしています。
 そして、「発見から一世紀経たないうちに、火薬は中国で様々な兵器に利用されていた」と述べています。
 第2章「火薬の誕生」では、「火の薬」が発見されたとき、「中国には西洋よりはるかに進んだ、科学的かつ実際的な発明品の長い伝統」があり、「人口約6500万の中国には地球上の4分の1以上の人間が住み、群を抜いて巨大で、また非常に統率された国家だった」と述べています。
 そして、「ヨーロッパのいわゆる『産業革命』は1800年ころから始まるが、中国ではそれより数百年早く同様の段階に達しており、創意に富んだ、豊かでダイナミックな世界を築いていた」として、「高度な中国経済とその高水準の技術的・科学的進歩を背景に、『火の薬』が火薬に変わり、世界初の火薬兵器が開発された」と述べています。
 第3章「発火装置と爆弾」では、「火薬は最初に開発されたとき、爆発物としては利用できなかった」が、「1350年ころには、発火装置と爆弾の開発の主要な時代は終」わり、「中国人が大規模な爆発を生み出す硝石含有率の高い火薬の製法を完成させると、金属製の外殻をもつ爆弾が可能になった」と述べています。
 第4章「ロケットと砲」では、「噴火器」を砲に変えるためには、
(1)火薬の爆発に耐えうる、砲をつくるのに適した素材を開発する必要があった。
(2)適した設計を考案すること。
の2つの大きな段階を経なければならなかったと述べています。
 そして、真の方が最初に開発された年代については、「中国人が少なくともヨーロッパ人より200年早く砲を使っていたことが明らかになった」と述べ、「ヨーロッパがまだ火薬兵器をもつ前の1300年ころには、中国は火薬の威力を利用したあらゆる型の兵器を開発していた」としています。
 第5章「西方へ伝播した中国の発明」では、「1220年代から、フランシスコ会士が大草原地帯を超え通商路を通って、東方のモンゴルの首都カラコルムに派遣された。こうした接触によって、火薬の知識が初めて西洋にもたらされた」と述べています。
 第6章「火薬とイスラム帝国」では、「イスラム世界では、ふたつの新たな『火薬帝国』――オスマン帝国とムガル帝国――が15世紀と16世紀初頭に出現した」」と述べています。
 第7章「ヨーロッパに伝わった火薬」では、「1300年のヨーロッパは大西洋から太平洋にまで拡がる広大なユーラシア大陸の中で最も遅れた地域だった」としたうえで、14世紀後半の火薬兵器の主な役割は、「ヨーロッパの既存の科学技術の限界によって決まった」として、「鋳鉄はいっさいつくることができず(中国では2000年前からつくられていた)、錬鉄に頼るしかなかった」ために、「砲身をひとつなぎでつくれなかった」ので、「硝石含有率の高い火薬が生み出す圧力には耐えられなかった」と述べています。
 第8章「火薬の製造」では、ヨーロッパの気候が火薬の製造と使用を難しくしていた理由として、
(1)おしなべて低温だと、硝石が土壌に大量に生成されないこと。
(2)湿度の高い大気のせいで、火薬が、とりわけ硝石が、水分を吸収して使い物にならなくなること。
の2点を挙げたうえで、「火薬の需要が高まるにつれ」、「火薬と火薬兵器は、ヨーロッパを悩ませていたはてしない戦争で国家が生き残るための要だったため、硝石の生産も等しく重要だった。各国政府はあちこちに手を回してこの不可欠な製品の供給を確保し、さらに硝石を国内生産する効率的な方法を求めて、数多くの実験が行われた」と述べています。
 第9章「新たな火薬兵器」では、「新式の攻城砲は、攻撃側と防衛側との均衡を根本的に変えることになった。包囲戦はそれまで、防衛側が兵糧攻めにされて降伏するか、疫病が蔓延するか、もしくは反逆者に裏切られるかした時のみ成功していた。それがいまでは、包囲戦は大砲の砲撃によって数日で決着がついた」と述べています。
 また、「1420年代の兵士は、1620年代の戦場を見てもそれとわからなかっただろう」として、「マスケット銃が主力歩兵武器になっており、それを用いるために全く新しい戦術と軍事組織が発達していた。効果的なや砲もまた発達しており、包囲攻撃では少数の巨大兵器がより有効で小型な兵器に取って代わられていった」と述べています。
 第10章「火薬はいかにして近代ヨーロッパをつくったか」では、「ほぼ絶え間ない戦争と、新型の火薬兵器、とりわけ歩兵武器(火縄銃とマスケット銃)の増大する威力は、ヨーロッパの軍隊に甚大な影響をおよぼした。軍隊の規模も急速に拡大していった」ために、「軍事費は国家の歳入のほぼすべて(ときにはそれをはるかに上まわった)を占めるようになった」と述べています。
 そして、「中世ヨーロッパでは、地方貴族は堅牢な居城で私軍に守られ安全に暮らし、そうしたければ君主に公然と反抗していた」が、「火薬兵器がこの均衡を変えることになった」として、「火薬兵器は高価な上、専門の製造工場を必要としたため、一領主や一男爵が弓や槍や剣のように地元ではおいそれと作ることはできなかった。火薬はまた居城をもはや必要のないものにしていた。城壁は、最初期の火薬兵器でも数日で破壊することができたからだ」と述べ、「支配者はしだいに権力の中心から政敵を排除していき、自分の領内だけでほぼ独占的に力を行使するようになった」としています。
 また、「税収を増やし、新型火薬兵器を装備した陸海軍を運営しなければならないということは、支配者がさらにいっそう効率的な官僚組織をもたなければならないということ」でもあり、「新型兵器がもたらす圧力がきっかけとなって、近代国家官僚制への転換が始まった」t述べています。
 さらに、「火薬兵器の大規模使用によってもたらされた圧力を受けて出現したヨーロッパ国家のプロセスは、きわめて費用のかかる強制的なプロセスだった」ために、「諸国家は土地、資源、権力、威信を求めて大陸全域(後には世界の他の地域)にわたるほぼ絶え間ない戦争に参加しなければならなかった」と述べています。
 著者は、「火薬がヨーロッパに大きな影響をおよぼすことになったのは、ヨーロッパの政治制度が不安定だったため」だとして、「ヨーロッパだけが不安定だったのは、王朝間の野望、宗教上の対立、それに地域全体を支配できる国家がなかったことなどが複雑に絡まり合って、致命的な状況を招いたからである。その結果が何世紀にもおよぶ戦争であり、空前の規模の死と破壊だった」と述べています。
 第13章「東洋の新たな火薬兵器」では、「日本における火器産業は15世紀末、中国の兵器に関する情報がこの古くから孤立した国に伝わってくるようになった頃に始まった」として、「技術者の能力に加え、金属加工産業が直ちに鉄砲製造に順応したことが決定的だった。16世紀後半には、世界のどこよりも速やかかつ全面的に火薬兵器を取り入れた。その結果、地方大名が権力を巡って争ったほぼ一世紀にわたる内乱と事実上の無政府状態が終わり、日本は直ちに再統一されることになった」と述べています。
 また、織田信長の鉄砲隊の運用について、「マスケット銃兵を列に並べて再装填の時間を与えるというこの戦術は、ヨーロッパ人が取り入れる約20年前に日本で取り入れられた」と述べています。
 さらに、「1840-1842年の『アヘン戦争』の状況は、火薬の歴史が一巡して元に戻ったことを示している」として、「ヨーロッパの『蛮族』は産業革命書記に発達した製造業に支えられ、過去300年にわたるほぼ絶え間ないヨーロッパでの戦争中に開発された火薬兵器を利用できた。この科学技術上の利点が、世界の他の地域との関係の象徴される残忍性や冷酷さと結びついて、数の上での劣勢を物ともせず、世界最大かつ最多の人口を誇る国家に自分の考えを押し付け、貿易上の優位を手に入れたのである」と述べています。
 本書は、約1200年前に誕生した火薬がどのように国家の形を変え、世界の形を変えていったかを教えてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 世界の歴史を変えたというか今の世界の形を作ったのは火薬の伝播の仕方だったわけで、火縄銃はもちろん技術としてのインパクトはあるわけですが、それ以上に火薬を手に入れるためにいかに手段を選ばなかったかが歴史を作ってきたとも言えそうです。


■ どんな人にオススメ?

・世界の歴史が何で動いていたかを知りたい人。


2014年3月 8日 (土)

名前の暗号

■ 書籍情報

名前の暗号   【名前の暗号】(#2299)

  山口 謠司
  価格: ¥777 (税込)
  新潮社(2013/7/13)

 本書は、「漢字には、原義から派生したり、意味が付加されたりした『暗号』が隠されている」として、名前のランキングに用いられている感じに隠された原義を解説しているものです。
 第1章「伝統的な名前の付け方」では、よく名前のサンプルで使用されている「太郎」と「花子」について、「太郎」は、漢語では「年長のオヤジ」を意味し、「花子」は「乞食」を意味していると述べています。
 また、江戸時代まで多く使われた「◯左衛門」や「◯右衛門」について、本来は、「奈良時代の律令制のもとに置かれた『衛門府』という宮中を警護する武官の官職名」であったが、「鎌倉時代、武家が実質上の政権を握ると感触としての名称が有名無実化し、さらに戦国時代になると武士は勝手に自ら『左衛門』『右衛門』を称する」ようになり、江戸時代には庶民もこれを真似て名前をつけるようになったと述べています。
 さらに、女性の名前に付けられる「◯子」が、「皇族、公家ではずっと奈良時代から女性に付けられている名前」であり、明治期の東京在住の家族の子女には「◯子」が使われるようになり、明治後期から大正にかけて一般にも広がっていったと解説しています。
 第2章「男性の名前に潜む暗号」では、「秀」野路について、1949年に日本人として初めてノーベル賞を受賞した湯川秀樹や評論家の小林秀雄の影響などを挙げています。
 また、「夫」について、「鬟を結った人、あるいは冠を被った人を描いた象形文字」であり、「成人した男子、また自分より世代が一段上である男子を意味する」と述べています。
 さらに、「彦」について、「『顔』の原型で、『彫りの深いくっきりした顔立ち』を表した。それが、のち、人より才徳が優れた人という意味を持つことになる」と述べています。
 第3章「女性の名前に潜む暗号」では、「由」について、「猶」と同じ発音であることから「なお……のごとし」と読むとして、「由美」とは、「なお美のごとし」と読み、「美と同じ」という意味だと述べています。
 第4章「変わった名前」では、最近「キラキラネーム」と呼ばれる変わった名前が多いと言われることについて、昔にもこういう名前があったとして、織田信長が息子に奇妙、茶筅、三七、次、坊、大洞、小洞、酌、人、良好、緑という幼名をつけていたことや、森鴎外が、ドイツで自分の名前「林太郎」が発音されにくいことから、於菟(Otto)、茉莉(Marie)、杏奴(Anne)、不律(Fritz)、類(Louis)といったドイツでポピュラーな名前をつけていることを紹介しています。
 本書は、名前に込められた漢字の意味を教えてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 21世紀に入ってからネット上ではキラキラネームとかDQNネームとか盛り上がっている子供の奇っ怪なネーミング問題ですが、実務上は小学校や幼稚園の先生も漢字で書かれたら絶対に読めないような名前が多すぎて読みがな必須なんじゃないかと思います。


■ どんな人にオススメ?

・子供の同級生の名前が読めなくて途方に暮れている人。


2014年3月 7日 (金)

電力システム改革をどう進めるか

■ 書籍情報

電力システム改革をどう進めるか   【電力システム改革をどう進めるか】(#2298)

  八田 達夫
  価格: ¥1,260 (税込)
  日本経済新聞出版社(2012/12/20)

 本書は、東日本大震災によって明らかになった、日本の電力体制が抱える問題点である、
(1)需給逼迫時に需要を抑制する価格機能がないこと。
(2)電力会社以外の発電所からの電力供給が小さいこと。
(3)原子力発電所の莫大な事故費用に対応する保険料相当の額を発電費用に加算すると、原発は他の電源に比べてかなり高いことが明らかになったこと。
について、「経済学的な観点から分析し、解決策を提示すること」を目的としたものです。
 第1章「電力自由化とは何か――送電線の開放」では、電力の財としての特色として、
・在庫が持てないこと
・在庫不足が許されないこと
を挙げ、「時々刻々と全体の需給を一致させなければならないこと」だと述べています。
 そして、「現在では、発送電一貫体制の根拠である『規模の経済』は、送電線においてのみ発生し、発電所にはほとんどない」として、
(1)最近ではガスタービンを用いた発電など小規模な施設で、低いコストで生産できるようになった。
(2)コンピュータの発達により、電力会社以外の発電会社が発電しても全体の同時同量を達成することが容易になった。
の2点を挙げています。
 また、「複数の電力供給会社に規制された送電料金の下で送電線を公平に開放すること」である「送電線の開放」あるいは「電力の自由化」について、
(1)競争によって発電コストが下がる。
(2)ピーク時の高い電力料金によって需要量が押されられるため、過大な施設は不要になる。
の2点を挙げ、電気料金を引き下げると述べています。
 また、送電線の開放について、
(1)ISO方式:電力会社の発電部門と送電部門は一体にして残したまま給電指令所(Independent System Operator)のみを別会社に分離する。
(2)TSO方式:電力会社を、発電会社と、送電部門と給電指令所を併せ持つ会社(Transmission System Operator)とに分割する方法。
の2つの方式を挙げ、TSOの分離を発送電分離と言い、さらに、およびISOの分離を含めて発送電一貫体制の電力会社を何らかのかたちで分離することを構造分離あるいはアンバンドリングと呼ぶとしています。
 第2章「中立的な開放の要件――リアルタイム価格による生産」では、「送電線を公開するにあたっては利用者に公平に公開することが競争の促進に不可欠である」として、
(1)送電線の利用制度がすべての利用者に対して中立的であり、
(2)特定の利用者が優越的な地位を乱用するインセンティブを与えないよう
に制度設計をしなければならないとしています。
 第3章「停電を防ぐにはどうすればよいか」では、「今後を計画停電のような事態を防ぐためには、需給逼迫時に電力価格が上がる仕組みを作らなければならない」として、中立性確保の改革がなされたうえで、
(1)前日計画値の選択的届出制を始める。
(2)前日に給電指令所に届け出た計画値と実績値との差分を、給電指令所がリアルタイム価格で清算する制度を始める。
の改革が必要であるとしています。
 第4章「新規参入の促進と前日スポット市場の活性化」では、「前日スポット価格は、ピーク時に高く、オフピーク時に低い」ことで、「無駄な発電所建設と送電線の建設を抑制する」と述べています。
 第5章「送電線使用の効率化」では、地点別送電料金制がもたらす地産地消の便益として、
(1)送電線を流れる電力量が減り、送電ロスが減る。長期的には送電線の建設を削減できる。
(2)首都圏では自家発電が促進されると、東日本大震災時のような発電所の事故による大規模な停電を回避することができる可能性が高まる。
(3)東京での自家発電に補助金が与えられるようになると、通常では採算に合わない新エネルギーが東京ではペイする可能性が高まる。
の3点を挙げています。
 第6章「中立的な調整電力の調達」では、「追加発電入札において、応札したすべての発電所に追加発電してもらっても、電力不足を賄うには足りない場合」に備えて、「大口の需要者に、いくら払えばどれだけの量を5分前の通知によって節電してくれるかを前もって入札してもらっておく」入札である「ネガワット節電入札」について解説しています。
 第7章「望ましいエネルギー・ミックス――温暖化対策と原子力」では、「CO2の排出抑制のために一定の金額を使うのならば、日本で使うより燃焼効率が悪い中国などの途上国で技術援助するほうがはるかに費用対効果が高い温暖化対策になる」と述べています。
 また、「今後、日本の産業再生のためにという名目で、原発コストに保険料を含めず、安い電源に見せかけて原発を稼働することは、保険にかかる費用を将来世代に先送りにすることだ」と指摘しています。
 本書は、市場の力を使った電力の供給体制の姿を模索した一冊です。


■ 個人的な視点から

 東日本大震災と福島原発の事故以来、電力会社を巡る議論はやたらに教条的というか感情的なものになりがちなんですが、そんな議論のずっと前からまじめに電力会社の解体方法を考え続けてきた人の説明はやはりストレートにわかりやすいのではないかと思います。


■ どんな人にオススメ?

・将来の電力の形(原発反対とかそういうのだけじゃなくてね)を本当に考えたい人。


2014年3月 6日 (木)

フィクションの中の記憶喪失

■ 書籍情報

フィクションの中の記憶喪失   【フィクションの中の記憶喪失】(#2297)

  小田中 章浩
  価格: ¥2,205 (税込)
  世界思想社(2013/9/20)

 本書は、「小説や映画、演劇のような虚構の世界において、記憶喪失という現象がどのように描かれてきたのか」を論じたものです。
 著者は、「記憶喪失が物語のテーマになっているにせよ、物語の構成要素にとどまっているにせよ、それは物語がつくられた時代や文化的な背景によってさまざまに変形される」として、「こうした変形の中の興味深いものについて見ていくのが本書の狙いである」としています。
 第1章「モチーフの誕生」では、「19世紀の作家たちの主な関心は人間の記憶が失われることよりも、むしろそれまで一貫したものと考えられてきた人間の人格がまったく別の面を持ちうるという二重性の方に向けられていた」と述べています。
 そして、解離性健忘と呼ばれる「登場人物が自己または精神的ショックによって過去の記憶の一部またはすべてをしない、何らかのきっかけによって思い出すというモチーフ」が広がるきっかけは、第一次大戦で知られるようになったシェルショックという現象と関係していると述べています。
 また、「アメリカのサイレント映画では早くから記憶喪失をモチーフに取り入れた作品が作られている」として、「伝統的な演劇における『人物の取り違え』や『変装』というプロットを導き出すためにこのモチーフが使われている」と指摘しています。
 第2章「モチーフの発展」では、映画『独裁者』と『心の旅路』について、「どちらも現実に対するアナザー・ワールド(もう一つの世界)の必要背を観客に訴えかけている」として、「映画が公開された時点ではすでに失われていた世界の永続性を求めてやまない」と述べています。
 そして、「主人公からある期間の場所と空間の経験を奪い取りながら、同時にそこに関わらせるという物語を作り出すうえで記憶喪失というモチーフは有効である」と述べています。
 第3章「現代におけるモチーフの展開」では、日本において、ジュブナイル小説やライトノベルと呼ばれる分野において、「少女と記憶喪失との結びつき」という特徴を挙げ、「少女は、ある世界と別の世界を結びつけるメディア」として機能していると述べています。
 第4章「機能的考察」では、「記憶喪失がかかわる物語は、本質的にミステリーとしての性質を持つ」として、「記憶を失った人間にとっての(そしてそれを見守る読者=観客にとっての)最大の関心事は、彼または彼女が誰であるかという謎であり、さらに記憶が失われていた間に何をしていたかということだからである」と述べています。
 また、「多くのSFやファンタジーにおいて、記憶喪失というモチーフは主人公が未知の世界に旅立つきっかけとして用いられている」と述べています。
 本書は、フィクションの世界ではもはや「お約束」となった記憶喪失というモチーフが、どのようにして「お約束」になり得たのかを追った一冊です。


■ 個人的な視点から

 記憶喪失って昔の漫画ではずいぶん使われたモチーフで、行き詰まったキャラクターが失踪→記憶喪失で発見されるっていう展開はよく見かけたような気がします。


■ どんな人にオススメ?

・記憶を失ってしまいたい人。


2014年3月 5日 (水)

若手知事・市長が政治を変える: 未来政治塾講義I

■ 書籍情報

若手知事・市長が政治を変える: 未来政治塾講義I   【若手知事・市長が政治を変える: 未来政治塾講義I】(#2296)

  嘉田 由紀子, 未来政治塾
  価格: ¥1,890 (税込)
  学芸出版社(2013/5/18)

 本書は、滋賀県の嘉田由紀子知事が、「さまざまな地域や職種、背景を持つ人たちが政治や行政を学び、選挙のしくみを知ることで、政治の世界への新規参入を促す場をつくりたい」という思いで開講した「未来政治塾」の講義録です。
 塾の主催者である嘉田氏は、7年間の知事経験を元に、政治家に必要な条件として、
(1)多様性:子ども、女性や若者、サラリーマンなどの多様な参加が必要。
(2)将来性:年齢が若ければ、その結果を見届け、責任を持ちやすい。
(3)コミットメント(覚悟):負担の配分には大変な抵抗と壁が立ちはだかっている。
の3点を挙げています。
 そして、自身が「つくらない」ことを主張して知事になったことは、「それまでの高度経済成長型から低成長型、成熟社会へと、滋賀県民の方々の目線が変化したことを示しているのでは」ないかと述べています。
 大阪府箕面市の倉田哲郎市長は、地方公務員に欠落していると感じるものとして、「説明能力」を挙げ、小さい組織の中で、「問われる・説明するという機会が減っていくので説明能力はどんどん落ちる一方」だと指摘しています。
 千葉市の熊谷俊人市長は、NTTコミュニケーションの上司の紹介で、NTTコミュニケーションの出身の田嶋要衆議院議員に会い、「そんなに政治が好きだったら、市議会議員の公募に応募すれば?」と誘われたことが政治家になったきっかけだったと語っています。
 そして、市議会議員になって、「子どもは家庭で見るべきであって、保育所に預けるべきではない。だから税金を保育所に投入するのは間違っている」といった「社会の一般的な感覚からは限りなくズレて」いる市議会での議論を目の当たりにしたことで、「この議論を公にしたい」と思うようになったと語っています。
 さらに、政令市最悪の財政状況に陥っていた原因が、戦後一貫して千葉市では助役が後継者として市長に当選していたことを挙げ、「役所出身の人間は自分で選挙ができず、『やってもらう選挙』」になってしまうため、「やってもらった以上、諸団体に甘いことを約束しなければ生きていけない」ので、バラマキが行われると指摘しています。
 兵庫県尼崎市の稲村和美市長は、「45万都市の市長で自分ほど生活感あふれる庶民派もいないだろう」として、「夏休みは冷蔵庫の中を見ながら娘のお弁当を作り、娘を送り出してから、私は自転車で市役所に出勤しています」と語っています。
 埼玉県和光市の松本武洋市長は、市長に就任して一週間後に、大手自動車メーカーが予定納税していた4億3千万円を返さなければならない事態に陥ったことについて、これまで財政に恵まれてきた和光市の財政改革のチャンスになると考え、予算計上している事業の見直しや、経常経費の削減、入札差金を残すなどの「やりくり作戦」と合わせて公表したと語っています。
 三重県の鈴木英敬知事は、学生時代に通産省の職員から「行政改革とボンカレーの関係を述べよ」というお題を出され、正月だからおせち料理しか出せませんというのは供給者側の論理だが、「おせちもいいけど、カレーもね」というCMには、カレーを食べたい需要者のために、いつでもカレーを食べられるように提供するというのが行政改革だ、と説明されたことがきっかけで通産省に入ったと語っています。
 また、通産省入省後に立ち上げた「スーパー公務員養成塾」では、「実名を出して仲間と一緒にいろんなメディアの取材を受けていた私は異色の存在だった」と語っています。
 そして、通産省をやめて出馬した衆院選で大敗を喫したことが、「人生最大の岐路だった」として、「この落選した期間というのが、私にとって初めてと言っていい大きな挫折で、その後の自分の考え方やものの見方に多大なる影響を与えて」いると語っています。
 本書は、30年後も生きているから30年後に責任をもつことができる若い政治家の考え方を教えてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 面識のある方が何人もお話されているので、読んでいても親近感を感じました。やっぱり世の中は狭いですね。それだけ歳を取ったということかもしれませんが。


■ どんな人にオススメ?

・30年後には現世にいない政治家を信用出来ない人。


2014年3月 4日 (火)

ウナギの博物誌: 謎多き生物の生態から文化まで

■ 書籍情報

ウナギの博物誌: 謎多き生物の生態から文化まで   【ウナギの博物誌: 謎多き生物の生態から文化まで】(#2295)

  黒木 真理
  価格: ¥1,890 (税込)
  化学同人(2012/11/2)

 本書は、「私たちがウナギとどのようにつきあってきたか、今日までのウナギと人の長く深いつながりについて、さまざまな切り口から見て」いるものです。
 序章「ウナギ博物学のすすめ」では、「日本国内において、ひとつの魚種のみを取り扱って営んでいる料理屋がこれほど多く、かつ伝統的に引き継がれているのは、おそらくこのウナギの蒲焼屋だけ」だと述べています。
 第1章「ウナギの故郷を求めて」では、2009年5月22日、新月の2日前の未明に、西マリアナ海嶺南端部の海山域でニホンウナギの受精卵を31個採取することに成功したことについて、「親ウナギが産卵海域に形成される塩分フロントを目安に産卵地点を決めるというフロント仮説を立証する発見」になったと述べています。
 そして、ウナギの産卵場調査の歴史を、「より小さいレプトセファルスを探し求めて、ついに卵にたどり着いた100年」だと述べています。
 第2章「大回遊の立役者、レプトセファルス」では、「小さな頭(=大きな体)と前傾する牙状歯を持つレプトセファルスの特異な形態について、
・鰓は未発達だから頭は小さくてよい
・平たくて大きな体は沈みにくくするためと体表からの酸素摂取を有利にするためで、皮膚呼吸は鰓でのガス交換より低コスト
・未分化な血球しか持たないので循環系コストも低い
・生きた組織は体表面に薄く分布しているので体の中心部に酸素を送る必要がない
・体中心部のゼラチン様物質(ムコ多糖類)は体の比重を軽くしている
と述べています。
 第4章「汽水域に生息するウナギと人」では、「ウナギは塩分の吸収・排出機能を調節することによって、淡水にも、汽水にも、海水にも生息することが可能であり、沿岸域から河川の上流域まで、幅広い範囲を生息域として利用」していると述べています。
 そして、「ウナギは一度に一種類の餌のみを食べる傾向が強い」としたうえで、淡水域の頭の幅の広い「カニクイ」と、汽水域の頭の小さい「クチボソ」と形が異なり理由として、「カニクイよりもクチボソのほうが美味しいという認識は、江戸時代以降、現代にまで引き継がれている」と述べ、「ウナギは頭の長さに対して、頭の幅のほうが早く成長し、年齢を重ねるに従って、頭の幅が太くなって」いき、「淡水域のウナギは高齢で頭が大きく、汽水域のウナギは若齢で頭が小さい」と述べています。
 第5章「ウナギ もうひとつの旅路」では、「世界と日本のウナギの消費量は、1980年代初めから90年代後半にかけての15年ほどの間に、ほぼ2倍に増加して」いる理由として、「台湾で日本向のウナギの養殖事業が本格化し、輸入物の活鰻や加工品が急増したこと」や、「中国の業者が、日本で試みられてうまくいかなかったヨーロッパウナギやアメリカウナギの養殖技術の確立に成功し、大量の外来種のウナギが日本の市場に流入してきた」を挙げています。
 そして、「厳密な資源管理と持続可能な利用が求められる時代に突入した以上、ウナギ消費の姿も大きな変更を迫られること」になったとして、「『薄利多売』を基礎としたウナギビジネスモデルの転換が業界にとっても、私たち一般の消費者にとっても喫緊の課題」だと述べています。
 第7章「カムバック・イール:鰻川計画」では、冬しか接岸しないと言われてきたシラスウナギが6月に接岸していることについて、「もしかしたら、漁期の後で接岸した群が河川で成長して産卵することで、ニホンウナギの個体群は支えられているのかもしれません」と述べています。
 第8章「江戸の文化に息づく鰻」では、江戸時代には「江戸前」という言葉は、「江戸の前面の海川で採れた魚」という意味であり、その代表格は鰻だったとして、なかでも、神田川や深川で取れる鰻は上質とされていたと述べています。
 第9章「蒲焼き誕生の秘密」では、元々の鰻の蒲焼きは、ぶつ切りの鰻を駆使に刺して焼いたものでそのかたちが「蒲の穂」に似ていることから「蒲焼き」と名付けられたという説を紹介したうえで、割いて開く蒲焼きが江戸に広まったのは江戸中期以降ではないかと述べています。
 本書は、日本人に愛されるウナギを様々な面から見た一冊です。


■ 個人的な視点から

 いっときスーパーで安いうなぎが出回った時にはウナトロそうめんにして食べたりしましたが、最近はスーパーでもそれなりのお値段がするようになりました。このくらいの値段で十分なんじゃないかとも思います。


■ どんな人にオススメ?

・鰻ってやっぱり贅沢だよなと思う人。


2014年3月 3日 (月)

ポラロイド伝説 無謀なほどの独創性で世界を魅了する

■ 書籍情報

ポラロイド伝説 無謀なほどの独創性で世界を魅了する   【ポラロイド伝説 無謀なほどの独創性で世界を魅了する】(#2294)

  クリストファー ボナノス (著), 千葉 敏生 (翻訳)
  価格: ¥1,890 (税込)
  実務教育出版(2013/8/28)

 本書は、「インスタント写真という分野をどこからともなく発明し、20億ドル規模のビジネスへと変え、業界を支配」し、「ほとんど最後の最後まで、ライバル企業を寄せつけず、その地位を脅かされることもなかった」ポラロイド社について、その誕生から破綻までを追ったものです。
 第1章「光とビジョン」では、「1940年代後半にインスタント写真を発売したポラロイド社は、後にシリコンバレ^でおなじみとなる道をたどった」として、「天才的な技術を持つ創業者が突拍子もないアイデアを思いつき、同じ志を持つ仲間を見つけ、アイデアを発展させる。驚くほど徹夜を繰り返し、製品そのものと同じくらい問題解決にも情熱を注ぐ。お次はベンチャーキャピタルと緻密なマーケティングだ。みんなが儲かる。でも、目的は設けじゃない。それからしばらくは、無限にも思える可能性が広がる。すると、MBAが土足で踏み込んできて、なにもかも台無しにしたりする。または、気づいた頃には、創業者たちは事業家としてにっちもさっちもいかなくなっている。そいて、物語はドサリと急に幕を下ろすのだ」と述べ、ポラロイド社がアップル・コンピュータと比較されるとして、「先見的でカリスマ性のある社内の天才発明家のもとで、規模や資産を急激に拡大していった」ポラロイドの伝説の中心には、エドウィン・ハーバート・ランドがいたと述べています。
 そして、「ランドは内向的な性格だったが、アイデアについては自信満々だったようだ」として、「彼は身だしなみに気を遣っていて、抜群に顔立ちがよく、ニューイングランド風の心地よいバリトンの声を持っていた。科学だけでなく、芸術、文学にも精通していた。彼は教養人で、歳を取るにつれて一層教養を深めていった。そして、彼の好奇心はポラロイド社の精神にまで浸透していった」と述べ、ランドが子供の頃、物理光学のテキストを手に入れ、特に偏光について夢中になり、1926年にハーバード大学に進学した1年後、「彼は堅苦しい授業と不真面目な旧友に耐え切れなくなり、一時的に休学すると、ニューヨークへ引っ越した。彼はそこで小さな部屋を借り、研究所へと変えた」として、「ランドの知的人生の最初の20年間を決定づけ、彼の会社やキャリアを築いたのは、写真というよりもむしろ偏光板だった。インスタント写真はその後で浮かんだアイデアだった」と述べています。
 第2章「開発」では、第二次世界大戦による軍需品の生産により、「戦争の前、ポラロイドは中小企業であり、唯一の安定した収入源はサングラス・ビジネスだった」が、「8年間で、年間売上高は76万1000ドルから1600万ドル以上へと成長」し、「会社は最高で1200人近い従業員を抱え、収入の87%を軍事契約に頼っていた」と述べたうえで、「本当の物語はここから始まる」として、ランドが「嘘みたいな実話」と呼んでいる、「みんなを惹きつけてやまないポラロイドの壮大な創設悲話」、すなわち、家族でサンタフェに休暇に出かけたランドが3歳の娘の写真をとったときに、「どうしてすぐに見れないの?」と訊かれた、という逸話を紹介しています。
 第3章「今すぐに見る」では、1947年の米国光学会の科学会議でランドがインスタント・カメラを公表した翌朝、「自分の顔を掲げるランドの写真がニューヨーク・タイムズ紙にでかでかと載り、好意的な社説が掲載された。国中の新聞がこの話を取り上げた。翌月曜日、この写真はライフ誌で『今週の一枚』に選ばれた」と述べています。
 第4章「スウィンガーに会おう」では、ポラロイドの職場環境について、「ポラロイドには使うお金が潤沢にあった。ランドの写真システムは技術的に特殊で、必要な特許はすべてがっちりと保護されていた」ために、「面白いことをする予算がタップリとあった」と述べ、ランドが「ひとりの男が2年間、じっと座って考えることが求められる環境を作った」と語っていることを紹介し、ある部門には「雑多研究(ミセレニア・リサーチ)」という正式名称がつき、「予算も決しておまけみたいなものではなかった」と述べています。
 そして、「やりがいのある労働生活を通じて人びとを一人前の人間にするという考え方は、ランドのキャリ全体で何度も現れている」と述べています。
 第6章「フェードイン、フェードアウト」では、1970年代後半、「世界的な技術の変遷が起こり始めていた」として、ベータマックスの記録先が磁気テープだったと述べ、「写真、映画、音楽、テキストがデータの列となり、紙の上にもアセテートの上にも物理的に存在しなくなるという考えに至るまでには、大きな飛躍が必要だった」としています。
 第7章「『私たちの知性』」では、「表面的に見ればポラロイドとイーストマン・コダックは市場シェアを巡って競争していたが、最初から双方に利益をもたらすかなり穏やかな戦いだった」とした上で、1968年に、ルイス・アイラースがコダックの新CEOに就任すると、「両者の話し合いは冷え切った」として、アイラースが、「自社の工場で敵同然の会社を支援する訳にはいかない」として、「コダックが独自のインスタント写真製品を販売することを認めない限り、ポラロイドに新しいフィルムのネガは供給しないと宣言」し、ポラロイドとの契約を打ち切り、1976年に4月にコダック独自のカメラ「EK4」「EK6」を発表したことについて、「6日後、弁護士たちが臨戦態勢に入った。ポラロイドは12件の特許を侵害しているとしてイーストマン・コダックを提訴した」と述べています。
 また、コダックが、ランドが若いころに法定で証言するのがイヤで特許訴訟は起こさなかったとする噂を聞きつけたのかもしれないと述べ、「もしそうだとしたら、コダックは彼を完全に誤解していた」として、ランドが、「私たちは誰からも盗んでいない。世界にずいぶんと貢献してきた。私たちが生き続けられるのは、ほかでもなく私たちの知性のおかげだ。私たちの知性が生き続けられるのは、他でもなく私たちの特許のおかげだ」とかたったとしています。
 そして、1986年の判決について、「大きな衝撃が待っていた」として、ポラロイドの特許のうち7件の侵害が認められ、コダックがインスタント・カメラとフィルムを販売することを一切禁じたと述べ、「ポラロイドの弁護団は、コダックの製品が差止められる可能性は低いと踏んでいた」が、以外なことに「本当に差止めが実現した」として、「このハンケtで、コダックには再設計する猶予も、解決策を考える猶予も与えられなかった。これほど巨大な事業が一人の裁判官の手で中止されるのは初めてだった」と述べています。
 さらに、1990年の判決でポラロイドが得た賠償額は9億945万7567ドルで、「この額は特許侵害の賠償額としては史上最大」であり、これ以降も「ひとつの特許をめぐる裁判官の命令で、これほど巨額の賠償金を支払ったものは、今持って存在しない」と述べています。
 第8章「闇へ」では、「衰退はほとんど気づかないうちに始まっていた」として、1978年に2万人いた従業員は1991年には約5千人で安定し、「このころ、約10億ドルに及ぶコダックの賠償金がポラロイドの銀行口座に振り込まれた」にもかかわらず、「10年後にポラロイドは破綻した」と述べ、デジタル・カメラは「明白な理由のひとつ」だが、「それは物語の最後の一片にすぎない」として、大きな論点となるのは、「ポロライドはエドウィン・ランドなしではやっていけなかったのか」ということだとしています。
 そして、「ランドが会社を離れた瞬間、研究所が暴走し始めたわけでもなければ、偉大なイノベーション・システムを弱らせる数字屋ばかりが幹部になったわけでもない。無能な人間もいかさま師もいなかった。20年かけてゆっくりと気球から空気が漏れだし、地上に落下した。気づいてみれば、だれも気球を再び浮かび上がらせる方法がわからなくなっていたのだ」と述べています。
 また、ポラロイドが、1980年代半ばには、「フィリップスとのジョイント・ベンチャーで、1.2メガピクセルの画像を生成できるデジタル・センサーを製造する寸前まで行き、それを実現するデータ圧縮アルゴリズムも抱えていた」として、「ポラロイドはまたもや消費者の度肝を抜くものを生み出していた」にも関わらず、「デジタルに移行すれば、会社のその他のすべての技術が時代遅れになるそれがみんなを怖気づかせた」と述べています。
 さらに、「全員が見落としていたのは、デジタル革命が写真の性質そのものを変えつつあるという点だった」として、「写真の誕生以来、写真はずっと物理的なものだった」ゆえに、ポラロイドが「すべての道はプリントに通ず」というモットーに従っていたと述べています。
 本書は、世界を熱狂させたシステムの誕生から破滅までを描いた一冊です。

■ 個人的な視点から

 ポラロイドといえば世界中でインスタント写真の代名詞なわけですが、デジカメの普及以来見かけなくなりました。日本国内に関しては、ポラロイドの立ち位置に取って代わったのは「写メ」なんじゃないかと思います。記念の写真を焼き増しして配ることも減りましたよね。
 そう言えば「焼き増し」のことを「焼き回し」って言う人が結構な割合でいるんですが、あれって写真をみんなに回すからなんでしょうか?


■ どんな人にオススメ?

・チェキって懐かしい人。


2014年3月 1日 (土)

地図はどのようにして作られるのか

■ 書籍情報

地図はどのようにして作られるのか   【地図はどのようにして作られるのか】(#2293)

  山岡 光治
  価格: ¥1785 (税込)
  ベレ出版(2013/10/10)

 本書は、「科学技術を駆使して、国土の姿を克明に記録した」地図である「地形図」について、「どのようなもので、どのようにして作られてきたのか」、そして「いまどこへ進もうとしているのか」について紹介しているものです。
 第1章「地図を解剖する」では、「検索サイトで見れている空中写真の多くは、専門用語ではオルソ画像(Odtho photograph/ ortho image)と呼ばれるもので、生の空中写真」ではなく、「空中写真を地図に近づける処理をしたもの」だと述べています。
 また、(中縮尺)地図について、「広い意味での地図記号と文字という2つの部品だけでできていて、部品は、『図式』(現在は『取得基準』)と呼ばれる仕様に従って組み立てられている」としています。
 第2章「地球の壁を写し取る」では、「楕円あるいは球面上の図形を平面に展開するための図法」として、
(1)正距:対応する地図上において、地球上の2地点間の距離が正しく比例して実現される。
(2)正積:地球上のどの部分についても、その面積比率が地図上に正しく表現される。
(3)正角:地球上と地図上との対応する点の周りの狭い範囲で、任意の2つの方向線が作る地上の角と、対応する地図上の角が等しいこと。
の3つについて解説しています。
 また、伊能忠敬の地図について、「忠敬の測量の内容は、従前から各地で行われていた『国絵図』の作成で使用された測量技術と大差のないもの」だが、「誤差の拡大を防ぐ工夫をしたこと、随所で天文測量をしたことに特徴があり出来上がった地図の相違は明らか」だとしています。
 そして、伊能図以来の日本の地図が「地球に正しく貼り付けられるか、すなわち正しい位置情報を持っているか」について、
(1)伊能図について、緯度は天文観測によったものでそれなりの信頼性があるが、経度観測には成功しなかったので、その点では信頼できるものではない。
(2)準拠楕円体がベッセル楕円体であった時代の日本の地図は、ごく厳密には地球上の正しい位置に貼り付けられていない。
(3)21世紀の宇宙測地の時代になると、地球の形は地球重心を原点とする回転楕円体として、ごく正確に求められるようになった。
と整理しています。
 また、測量方法が三角測量からGNSS(Global Navigation Satelite System)(GPS)測量になったことで、「従来の三角点に求められていた『基本測量、公共測量および各種測量の基板となる』という役割は、GNSS衛星と電子基準点に取って代わられ」たため、「国土地理院は整備済みの約10万点の三角点のうち、骨格的だとして定めた2,400点と電子基準点1,200点だけを維持管理する方針に変更しようとして」いると述べています。
 さらに、地図作成の現在の工程について、
(1)標定点の設置
(2)対空標識の設置
(3)空中写真の撮影
(4)現地調査
(5)空中三角測量
(6)(デジタル)図化・編集
(7)公開データ作成・提供
のように整理しています。
 著者は、「地図作成は、技術者が空中写真を利用して常に上からの視点で作業に当た」るが、「地図利用者の視点は、常に風景に対し一貫して横からの視点」だとして、「技術者が唯一地図利用者と同じ横からの視点で作業にあたる」現地調査においては、「地図技術者は、がんじがらめの作成規則などにとらわれないで、利用者目線になって地図に表現すべきことがらを調査し、わかりやすい地図表現にする努力が必要」だと述べています。
 本書は、地図を作る作業というものがどのようなのものなのかを教えてくれる一冊です。

■ 個人的な視点から

 自分で地図を描けるわけではないのですが、地図帳とか見てるのって楽しいですよね。自分が行ったことのある土地の地図も楽しいですが、行ったことのない土地の地図を見て想像をふくらませるのも楽しいです。
 最近はストリートビューで街の様子もわかるのですが、自分が通ったことのある景色を見るとその時聴いていた音楽も一緒に思い出してしまうのは不思議なものです。


■ どんな人にオススメ?

・普段地図を作る人のことを意識していない人。


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