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2015年4月

2015年4月30日 (木)

脳がつくる3D世界:立体視のなぞとしくみ

■ 書籍情報

脳がつくる3D世界:立体視のなぞとしくみ   【脳がつくる3D世界:立体視のなぞとしくみ】(#2384)

  藤田 一郎
  価格: ¥1,728 (税込)
  化学同人(2015/2/20)

 本書は、「普段の生活で目の前の世界が立体に見えることには、とてつもない不思議と深遠な科学的問題がひそんでいる」として、「人を含めてさまざまな動物たちは、自分の体や目や脳がもつ制約の中で、タクミナ手段を使って、周りの物体や獲物までの距離を図り、また物体の立体構造を把握している」仕組みを解説しているものです。
 第1章「一つの目、二つの目、脳」では、「二つの目で物を見る能力(両眼視)の中で、両目を使うことで世界が立体的に見える機能」である「両眼立体視」について、「右目で見る像と左目で見る像の間のずれの量とずれの方向は、見ているものがどんな奥行きにあるかを知る手がかりになる。このずれは、『両眼視差』と呼ばれ、両眼立体視のメカニズムを考える上でもっとも大事な概念である」と述べています。
 そして、「両眼立体視において起きているできごとの本質は、突き詰めれば、左右の目の間での像のずれという『物理量』が検出され、それが奥行き感・立体感という『知覚』へと変換されることである」と述べています。
 第2章「片目だってなかなかやる」では、「左右網膜での像に基づいて脳が算出する両眼視差とは別に、片目の網膜に写っている像の中に、情景の奥行き感をつくりだすための視覚手がかりがあることを意味している。私たちの脳はそれを利用しているのだ。この能力は、『単眼立体視』と呼ばれ、片目の網膜像に内在する奥行き視覚情報は、『単眼奥行き手がかり』と呼ばれる」と述べています。
 そして、「観察者の水平移動によって生じる網膜像の水平方向のずれは『運動視差』と呼ばれ、両眼立体視の時と同じように、単に物体に奥行き順序を知らせるだけでなく、どのくらいの奥行きがあるかに関する定量的な情報を与える」と述べています。
 第3章「二つの目で見る」では、「二つの目で見る世界は片目で見る世界よりも明るく感じられる」として、「心理学的に測定を行うと、20%も明るく見えていることが判明する。さらに、二つの目で見た時のほうが視力も上昇する」と述べています。
 また、「両目が見えれば必ず両眼立体視ができるかというとそうではなく、多くの条件をクリアしていなくてはならない。大事な前提は、左右の目が同じ方向を向き、一点を注視することが可能なことである」と述べています。
 第5章「立体世界を見る脳のしくみ」では、「視神経繊維のほとんどは、間脳の一部である『外側膝状体(LGN)』に到達する。外側膝状体は脳の左右に1つずつある。一つの眼球の網膜内であっても、その一によって視神経繊維の送り先は異なっており、右目の耳側半分の視神経繊維は右側の外側膝状体に向かい、右目の鼻側半分の視神経繊維は、左側の視索に入りそのまま左側の外側膝状体に到達する」として、「視神経交叉において視神経繊維の半分は交叉するが、半分は交叉しない」と述べています。
 そして、「両眼立体視を可能にしている視覚手がかりが両眼視差であり、V1野ニューロンがその情報を検出していることが判明したので、その活動が両眼立体視を直接に支えていると考えるのは自然な予想である」が、「両眼を使うことで奥行きが見えるという心のできごとは、V1野のさらに先の処理を行っている数々の視覚連合野の神経活動が支えている。一つの領野が、両眼立体視のすべての側面を担うのではなく、異なる領野が異なる側面に関わる」と述べています。
 本書は、私たちがあたりまえに使っている両目で立体を見る能力の仕組みを解説している一冊です。


■ 個人的な視点から

 立体的に物を見ることができるということが、かなりすごいことだということがわかります。


■ どんな人にオススメ?

・物事を立体的に見てみたい人。


2015年4月29日 (水)

男色の日本史――なぜ世界有数の同性愛文化が栄えたのか

■ 書籍情報

男色の日本史――なぜ世界有数の同性愛文化が栄えたのか   【男色の日本史――なぜ世界有数の同性愛文化が栄えたのか】(#2383)

  ゲイリー・P・リュープ (著), 松原 國師 (その他), 藤田 真利子 (翻訳)
  価格: ¥3,456 (税込)
  作品社(2014/8/29)

 本書は、「かつて、我が国日本の男性のほとんどが、同性とのセックスを当然のごとく欲していた」という「今では驚くべきその事実を、さまざまな資料を駆使して論証してみせた」ものです。
 著者は、「徳川期の世の中では、男性同性愛がありふれた標準的な営為であり、両性志向がふつうの状態であった」として、「男性の同性愛は、異性愛と相互に補完し合い、両立する関係にあったし、そもそも懸命な日本人は両性愛があたりまえだと心得ていた」と述べています。
 序文「なぜ日本には、古代ギリシャとならぶ同性愛文化が花開いたのか」では、「徳川時代(1603~1868年)の日本社会を研究する者にとって、この2世紀半にわたって全盛期を迎えた、男性同性愛が、少なくとも都市においては非常にありふれた行為だったことは周知の事実である。男性間のセックスは、知識階層に広く容認されていただけでなく、大衆美術や文学では積極的に褒め称えられていた。同性愛行為は、武家屋敷・寺院・歌舞伎小屋とつながりのある男色茶屋などで組織的に行われていた。実際、この行為は、文化の主流をなす特徴となっていたのである」と述べ、「徳川時代を研究する際に、その次代における男性間の性関係の特殊な成り立ちを理解しなければ、社会と文化の多くの側面を把握することはできない」にも関わらず、「同性愛の伝統を本格的に研究した人は、これまでほとんどいなかった」としています。
 第1章「日本の古代~中世における男色の発展」では、他国では、「男性同性愛は、ライバルや敵の文化と関連づけて考えられていた」のに対し、「日本人は、脅威だとはほとんど考えていないばかりか、日本の高い文化のモデルになってきたとみなされる隣国と男色とを関連づけていた」として、「日本の中国に対する敬意の程度は時代によって変化してきたが、その歴史的遺産の大きさに疑問を持たれたことはほとんどない。この遺産の一つとして考えられている男色は、教義や道という洗練されたものだった」と述べています。
 そして、「ほとんどの仏教の宗派は、たいてい性的喜びを否定的に考えていた」にもかかわらず、「同性愛行動は、異性間関係よりも罪深くないと考えられていたようだ」と述べた上で、「同性愛への強い反感がある大陸の仏教経典と、それをもとにした源信の作品があるにもかかわらず、日本の寺院にはどうしてこれほど目立った同性愛文化が出現した」理由として、「日本は他の仏教文化の中心地と離れていたし、9世紀末期に中国との定期的交流をとりやめるという宮廷の決定によって、男性間性行動を非難する文献からの影響が弱まったのかもしれない」としています。。
 また、「14世紀には、日本の武家の屋敷は、男性同性愛行動の中心となっていた。室町時代の将軍たちは、前漢の皇帝たちがしていたように、男性の恋人を囲う傾向があった。彼らの関係は、古代の天皇の習慣というよりは、武士たちの間で発展した新しい軍人の男性同性愛慣行を反映している」と述べています。
 さらに、「前階級社会では、男性間の性的慣習には一般的に2つのタイプがあった」として、
(1)年齢によって構築されたもの:成人男性が被挿入者として自分より若い男性を利用している。
(2)性役割(ジェンダー)によって構築されたもの:同性愛が特定の役割を果たす制度に関わっている。
の2点を挙げ、「どちらの同性愛も、さらに進歩した階級社会に生き残っている」とした上で、「徳川時代以前の日本では、寺院と武士の社会で、年齢によって構築された男性同性愛が盛んだった」と述べ、「若いパートナーを女性化する傾向は、最初に男性同性愛慣行ができた状況に女性がいなかったことの結果に違いない」としています。
 そして、近代初期前夜の日本の「2つの男性同性愛」の特徴として、
(1)主として女性がいなかった結果出現し、
(2)年齢差をもとに構築され、若いパートナーの教育や成熟に役立つとみなされ、
(3)若いパートナーに、女性的あるいは中世的な装いを身につけさせることが多かった。
の3点を挙げ、「このような習慣は、尊敬されるエリートによって行われ、中国の習慣による効果や空海の神話によって正当化されていた」とした上で、「徳川幕府の確率と、それに伴う大きな町や都市の発展によって、3番目の、町人層の男色が出現した」と述べています。
 第2章「日本における都市発展と男色の商業化」では、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の3人が、「武士の大半を支配し、農民との関連を断ち切ろうとしていた」ことによって、「城下町の急速な発展と、活気ある独自の文化を持つ巨大な町人層の出現につながった」と述べ、「この階級は、寺院や武士とはまったく異なる、新しい男色を発展させた。徳川時代の町の商人や職人にとって、男性間のセックスは、以前の男性同性愛に求められていた心の結びつきがまったくない商取引となった」と述べた上で、「ヨーロッパでは、増大する市民階級が、男性同性愛を専制政治や貴族政治の堕落に結びつけて蔑視していたが、日本では、町人が「武士の娯楽」を積極的に受け入れ、参加していた」と述べています。
 そして、「売春は歌舞伎とも密接に関わるようになり、歌舞伎小屋周辺の街区で盛んだった。寺や神社の門前町でも行われた」として、「歌舞伎小屋と男色茶屋は、同じ地区にあることが多かった。茶屋が渡り廊下で直接劇場につながっていることもあった。江戸の中島座は劇場の客に、劇場内にある個室を与えていた。客達はそこにお気に入りの役者を招いていた」と述べています。
 また、有名な蘭学者、植物学者である平賀源内について、「石綿と電気の実験を行ったりした。また、江戸後期の人気作家の一人でもあり、『子供屋』と呼ばれていた男性売春宿の常連客でもあった」と述べています。
 第4章「全盛期を迎えた日本男色文化――徳川時代」では、「歴史の中で、社会、経済、政治、思想が変化するにつれ、男色は宮廷、寺院、封建支配体制といったエリートたちに役立つように形作られてきた。どの場合でも権力を握る男たちはその制度の底辺にいる若者たちに欲望を抱いた。たとえば宮廷や寺院の稚児、戦陣や武家屋敷の下男や従者である」と述べています。
 そして、「性的関係が必ずしも社会的関係と一致しない」として、「被挿入者、あるいは受け身の役割は必ず階級や身分の低いものが受け持つものではなかった。それは一般に、たとえ貴族であっても、若者の役割だとみなされていたのである」と述べています。
 第4章「男色は日本社会にいかに受容されていたか」では、「徳川幕府の非凡さは、武士と町人のエネルギーを体制への反抗からそらすのに快楽を利用することができたという点にも表れている」として、「徳川時代の日本のは極端に抑圧的な社会だった。現状維持を旨とした制限が厳しく、個人の発達が阻まれ、反抗への罪は残酷で、抑止効果があった。だが同時に、都市の暮らしは歓楽街で育まれた『幸福感』に染められていた。体制は、時々ポルノや売春を取り締まることはあったが、『浮世』の魅力に気を紛らしている民は政治的・社会的変化を要求しそうにないという理論に基づいて、商業的な性を容認していたのではないだろうか」と述べています。
 そして、「幕府の最大の懸念は、同性愛への関わりから起きる暴力沙汰、特に武士と奉公人との争いが多すぎるということだった」と述べ、「男色を扱う法律は2つの主な懸念を反映している。すなわり、秩序の維持と身分制度の存続である。男色が『不自然であること』をもとにした反対や、特定の性行為のもつ道徳的意義を懸念する意見がなかったことは注目に値する」としています。
 第5章「日本のジェンダー構造と男色」では、日本男色の特徴として、
(1)歴史上の他の同性愛習慣、とりわけギリシャとその後の地中海地域での習慣と比較すると、「男色」にははっきりとした特殊性がある。男性間関係(売春に関わるものは除く)においては、被挿入者の役割が必ず若い方のパートナーに割り当てられ、出身階級は無視される。この慣習は非常に年の近いパートナー間にも見られ、年齢による序列が極端に重視されていることを反映している。
(2)人々は、本物の女性のような外見と振る舞いのできる女形を賞賛するだけではなく、広い意味での両性具有的な役者や男娼を性の相手として好んだ。
(3)男性が性において「受け身である」ことへの容認。被挿入者の役割が不名誉とされることがまったくない。
の3点を挙げています。
 終章「明治以後の日本社会と男色」では、「現代日本は、徳川時代の都市生活者のような両性愛の社会ではない。現代では、西鶴の登場人物である源五兵衛の言葉『男色、女色のへだてはなきもの』と同じことを言う日本人は殆どいないだろう。日本で一般的な見方は、同性愛行為はノーマルではなく、そういう性向のある人は少なくとも親族や同僚にはたくみに自分の性向を隠すべきだというものである」と述べています。
 そして、「男色は、急速に大衆文化の中央舞台から追われた。同性愛の欲望はもはや、文学や演劇、美術によって褒め称えられることはなくなった。むしろ、過去の『悪習』であり近代西洋の前では国家の恥であるとして反対された」と述べています。
 本書は、世界に類を見ない男色文化を作り上げた日本の歴史を追った一冊です。


■ 個人的な視点から

 ある時期の日本人にとって、「同性愛者は異常」ではなく「同性愛者は当たり前」だったというのは衝撃的です。


■ どんな人にオススメ?

・「同性愛者は異常」だと思っている人。


2015年4月28日 (火)

魔女の世界史 女神信仰からアニメまで

■ 書籍情報

魔女の世界史 女神信仰からアニメまで   【魔女の世界史 女神信仰からアニメまで】(#2382)

  海野 弘
  価格: ¥886 (税込)
  朝日新聞出版(2014/7/11)

 本書は、「かつて魔女はおぞましい、醜悪なイメージとして描かれていた。それはある紋切り型の姿の繰り返しに過ぎなかった。だが〈世紀末〉は、そのおぞましさを描きながらも、誘惑的で、魅惑的な姿として登場してくるのだ」として、「〈世紀末〉を、魔女が見えるようになった時代として捉え、新しい魔女の図像学をたどっていく」ものです。
 著者は、「〈魔女〉を中世的な、固定された古めかしいイメージから解放し、新しい視点から見直せば、現代における新しい〈魔女〉が見えてくるだろう」と述べています。
 第1章「世紀末――魔女の図像学の集成」では、「19世紀末に魔女が見えるものとなった」とする仮説を提示し、「視覚化し、それを複製する技術が発達」して、「写真技術、印刷技術が発明される」と、「19世紀の芸術家たちは悪や闇について語り始める。さらに、隠されていた性についても取り上げ始める。悪や性と結び付けられた〈魔女〉は、絶好のテーマとなったのである」と述べています。
 そして、「魔女の研究は、魔女狩りの時代が去り、魔女が消滅したと思われた19世紀にはじまった」として、
(1)〈魔女〉を、過去の迷信とする近代合理主義の見方:魔女は過去のもので、魔女はいなくなったとする考え
(2)〈魔女〉の中に失われた想像力を求めるロマンティックな見方:魔女は生きているとする考え
の2つの方向性を挙げています。
 また、「19世紀には可憐な少女から、おそろしい怪物にいたるまで、さまざまな魔女たちがあらわれる。彼女たちは〈ファム・ファタル〉〈ベル・ダーム・サン・メルシ〉〈キマイラ〉などといわれた。そのよな運命の女、つれない女は、現代に再び増えているのだろうか。現代の〈ベル・ダーム・サン・メルシ〉をむなしく追い続けるストーカーたちがとめどなく増殖しているようであるから」と述べています。
 第2章「新しい魔女運動」では、1970年代の新魔女運動は、「いきなりはじまったわけではなく」、19世紀末から1970年代までの時期に「準備された」として、
(1)世紀末にはじまり、20世紀に入って大きなうねりとなったフェミニズムの運動
(2)人類学、民俗学の発達に伴う魔女研究の新しい展開
(3)描かれた魔女、描く魔女は、地下に沈められた〈魔女たち〉の記憶を蘇らせ、イメージを送り続けた20世紀のアート
の「3つの糸」を取り上げています。
 また、「1970年代の〈魔女〉はフェミニズム(政治的で、社会に働きかけ、オープンである)と新魔女運動(閉鎖的な信仰グループ)の両極とその中間という3つのグループに大別される。中間グループは学術、芸術を通して両者をつないでいる」と述べています。
 そして、「ネオペイガンによる魔術復活の先駆者」といわれるジェラルド・ガードナーについて、「ガードナーの『今日の魔女術』は、魔女ブームに火をつけた。タブーが解禁され、人々は罪悪感なしに魔女となれるようになったのである」と述べた上で、「1970年代の新魔女運動は、それまで限定され、閉じ込められてきた〈魔女〉のイメージを解禁し、あらゆる空想を乗せて飛ぶ、共通の神話、ユングのいう元型として使えるものとした」と述べています。
 第3章「ゴス――現代の魔女カルチャー」では、「パンクの暴力的、サディスティックな男性的大暴れといったイメージの裏に、安全ピンを身体に刺したりする自虐的、マゾヒスティックな闇があり、女性的なものが潜んでいて、ゴシック・ホラーの世界とつながっていたのである」とした上で、1982年にロンドンにオープンした「バットケイヴ(こうもりの洞穴)・クラブ」で聴かれる「音楽やそのファンを指して、ゴシック・ロックという言葉が使われはじめる。そこにはドレッシーに着飾った人種から、若い学生たち、そしてゲイの人々などが集まった。パンクやグラムのロッカーたち、ヴァンパイアなどの中世趣味、ケルト・ペイガン・エジプト・ギリシア神話趣味からサイボーグやテクノ趣味に至るまでがここでは渦巻いていた。このカオスから〈ゴス〉という雲が湧きでた」と述べています。
 そして、「〈ゴス〉は、1970年代のパンクから出発するが、一旦消えかけて、1990年代後半からインターネットというニューメディアの時代の中で復活するのだ。ネット・ゴスはそれまでとは違う新しい〈ゴス〉ともいえる。〈ポップ・ゴス〉などともいう。〈ゴス〉が一般的に知られるのは21世紀に入ってからなのである」と述べています。
 また、「雲をつかむような〈ゴス〉は風に乗って日本にも達している、そして〈ゴスロリ〉という珍種を生み出した。ゴシック・ロリータというミックスは、あらゆる合成を拒まない〈ゴス〉ではあるが、欧米ではなく日本で誕生したそうである。少女漫画や人形愛が盛んな日本ならではのものかもしれない」として、「ゴシックはパンクに起源を持ち、また新魔女運動と接しているので、女性を中心とするサブカルチャーであり、〈ゴス〉の本流である。しかし、ロリータはナボコフの小説に出てくる蠱惑的な美少女であり、あくまで男たちのまなざしによってつくられたイメージである。〈ゴス〉と少女趣味は正反対のように見える」が、「面白いことに、日本ではゴシックとロリータは融合し、〈ゴスロリ〉が誕生した」と述べています。
 本書は、変幻自在に姿を変えながら現代に生き続ける〈魔女〉の源流を追った一冊です。


■ 個人的な視点から

 人はなぜ魔女に惹かれるのか、とりあえずきゃりーぱみゅぱみゅが好きな人は読んでみてはいかがでしょうか。


■ どんな人にオススメ?

・魔女は箒に乗っていると思っている人。


2015年4月27日 (月)

エボラvs人類 終わりなき戦い

■ 書籍情報

エボラvs人類 終わりなき戦い   【エボラvs人類 終わりなき戦い】(#2381)

  岡田 晴恵
  価格: ¥842 (税込)
  PHP研究所(2014/12/16)

 本書は、「これまでも中央アフリカ中心の風土病として数年おきに流行を起こしていた」エボラ出血熱が、2014年に、「その感染者数、犠牲者数ともにまさに桁違いであり、過去の例とは比較にならない規模」で流行したことについて、「これからを生きる若い人たちに、今後起こりうる感染症の流行を乗り切るすべを考え、身につけるきっかけとなってほしい」という思いで書かれたものです。
 第1章「2014年・世界が震えたアウトブレイク」では、「記録されている限りでは、今回のエボラ出血熱の最初の患者は、2013年12月6日に死亡した、ギニア南東部のゲケドゥという村に住む2歳の男児とミられている」とした上で、「年が明けた1月から3月にかけて、ギニア政府はエボラ出血熱が集団発生している事実を把握」したが、「ときすでに遅く、隣国のリベリア、シエラレオネにも感染者が広がり始めていた」と述べています。
 そして、「2014年10月時点で感染拡大がもっとも深刻な状況にあったリベリアでは、多数の医療従事者が感染してしまい、ほとんどの病院が閉鎖されるという危機的な自体に陥った。エボラ出血熱を発症しても治療を受けられず、隔離もされずに、流行の拡大が事実上の野放し状態となっていた」理由として、「1989年から2003年の14年間に渡った激しい内戦でGDP(国内総生産)の90%を失うなど、リベリアの交配した国内情勢が背景にあった」と述べています。
 また、「今後、懸念されるのは、中東やアジア諸国へのエボラウイルスの拡散である」として、「人口密度の高い混沌とした都市にこのウイルスが侵入すれば、その地で流行を起こすリスクが高まる。医療の整備状況によっては、その血での感染拡大も起こりかねない」と述べています。
 第2章「エボラ出血熱とはいかなる病気なのか」では、「エボラ出血熱とは、ラッサ熱、マールブルグ熱、クリミア・コンゴ出血熱とともに、ウイルス性出血熱と呼ばれる急性感染症の一種であり、エボラウルスの感染によって発症する」としたうえで、「体中から血を吹いて絶命するようなおどろおどろしいイメージをもつ人もいるようだが、実際に出血の症状が見られるのは全患者の70%で、重篤化した場合に限られる」と述べています。
 そして、「重篤化した患者の体液、血液には1mlあたり1億個以上ものエボラウイルスが含まれるので、かなり気をつけているつもりでも、ちょっと触れただけでウイルスを侵入させてしまう可能性がある。感染成立後のエボラウイルスの増殖力は非常に強く、数十個から数百個のウイルスが体内に侵入しただけでもエボラウイルスの増殖力は非常に強く、数十個から数百個のウイルスが体内に侵入しただけでも感染が成立するとされるため、1滴の体液は血液中に含まれる僅かなウイルス量でも感染成立のリスクが伴う」と述べています。
 第3章「人間界にエボラウイルスがやってきた日」では、「1975年6月、スーダン共和国南部のヌザーラという町で、初めてエボラ出血熱の患者が発生した」として、最初のエボラ出血熱の患者が発生したヌザーラの綿工場は、「トタン屋根の下には、夥しい数のコウモリが棲みついて、糞尿を垂れ流し、原綿は部屋中に微細な綿繊維を舞い上げていた」と述べています。
 そして、最初の死亡者から感染した3人のうちの1人である、酒場の経営者の男が、ヌザーラの近郊のマリディという町にある病院を受診し、「男性の体液や血液、排泄物や吐しゃ物に周囲の人間が接触するなどで、病院の関係者や他の入院患者にエボラウイルスの院内感染が起こった。この時、このとき、マリディを中心に病院関係者の3分の1が感染・発症し、うち41人が死亡した。エボラ出血熱は、重症である。最後には出血をともなって、患者の半分が死んでいく奇病の流行は、悪夢のようだった。まだ動ける患者や病院関係者らのほとんどは、病院から逃げ出した。後には、重症の患者だけが残り、もはや医療どころではなくなった。そして、この病院を起点として、エボラ出血熱が地域の村々に拡散してしまった」と述べています。
 また、「カメルーンで捕まえられたコウモリの血液中からは、エボラウイルスに対する抗体が見つかっている」上に、「カメルーンのジャングルに住むピグミー族の人々の15%は、エボラウイルスに対する抗体を持っていることも報告された」と述べています。
 さらに、「2014年のエボラ出血熱の流行においても、エボラ患者と接触した場合の例として、患者の看護、訪問、感染して死亡した者の埋葬などがあり、ハイリスク者として医療従事者、患者家族、友人、呪術医、葬儀業者が挙がっている。別れの儀式として、死者に触れることで葬儀参列者から感染が拡大する事例も多いとされている」と述べています。
 第4章「21世紀に感染症が大流行する理由」では、「森林や密林を人間が開拓することによって、野生動物が生息するエリアに立ち入る機会が増えた。このことにより、野生動物が持っているウイルスなどが人に感染するケースがたびたび発生している」と述べています。
 そして、「新興感染症は、微生物自身の進化や変異といった微生物側の原因によって出現したというより、人間の社会活動、経済活動等の“人の行為”の結果や影響によって発生し、それが、人類に脅威を与えている場合がほとんどである」と述べています。
 第5章「感染症の歴史が人類に教えてくれること」では、「一般的に、人口が急増している国々、特に途上国では、急速な発展とともに人間の居住地域や経済活動のために野生動物に棲むエリアの開発が進んでいる。また増える人口に必要な食を賄うために耕作地に開拓され、また家禽家畜の効率のよい集団飼育場が次々に造られて、それが人の居住地内であったり、もしくは隣接するようにもなった。このような環境は、動物由来のウイルスや細菌等の病原体が人に接触する機会を生みやすい」と述べています。
 また、「現在、日本でのエボラ出血熱対策は、国内に感染者が入国する可能性や検疫強化をどうするかといった問題、あるいは指定医療機関の整備等といった、国内向けの対応を中心に議論されがちである。もちろんその必要性や心情はよくわかるが、今同時に火急になすべきは国際支援である」と述べています。
 さらに、2014年9月17日に設置された「国連エボラ緊急対応ミッション(UNMEER)」の具体的な活動として、
(1)迅速な対応:事務総長特別代表の指揮で、国際的な人材や専門家を総動員し、現地へ派遣する。
(2)パートナーシップ:感染国の政府や機関、アフリカ連合(AU)やECOWASなど地域機関、加盟国、民間部門、市民社会との調整。
(3)専門性の集結:WHOが保健全般に対する戦略立案や助言を行い、他の国連機関はUNMEERの指揮によりそれぞれの専門分野で力を発揮する。UNMEERは個別に支援活動をしている国やNGO(非政府組織)などの国際的なパートナー組織の専門性を活用して、被災エリアにおける支援のギャップを埋めるために、指導的役割を発揮する。
の3点を挙げています。
 第6章「シミュレーション エボラが日本に上陸したら」では、「フィクションタッチでいくつかのシミュレーションを想定し、もしそうした事態が起こったとき、私ならどのように考え、振る舞うだろうかという具体例」を示すとして、
(1)日本初の感染者発生
(2)検疫所への連絡を怠り、一般病院を受診したケース
(3)複数の場所での同時発生
(4)最悪のケースをあえて想定する
の4つのエピソードを挙げています。
 そして、「検疫所に連絡せず、自らの判断で一般病院を受診することは、院内感染を起こす可能性が高い。これは、非常に感染拡大のリスクが大きい。流行国から帰国して、発熱等の症状が出た方は、必ず検疫所へ連絡を入れなければならない。また万一、エボラ出血熱の感染であった場合でも、すぐに最善の治療が公費で受けられる。そして、周囲に感染を広めることなく、この一類感染症を収束させることが何より大切である」と述べています。
 本書は、エボラ出血熱との戦い方を教えてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 外から帰ったときに手袋の外側にふれずに安全に手袋を脱ぐ方法は役に立ちそうですが、役に立つ時が来てほしくないです。


■ どんな人にオススメ?

・自分はエボラなんて関係ないと思っている人。


2015年4月26日 (日)

ぼくと数字のふしぎな世界

■ 書籍情報

ぼくと数字のふしぎな世界   【ぼくと数字のふしぎな世界】(#2380)

  ダニエル・タメット (著), 古屋 美登里 (翻訳)
  価格: ¥2,160 (税込)
  講談社(2014/7/25)

 本書は、「自閉症スペクトラムでサヴァン症候群、しかも共感覚があるという、珍しい脳の持ち主」で、『ぼくには数字が風景に見える』の著者の3冊目に当たる、「人生の中にある数学」にまつわる エッセイ集です。
 第1章「家族の価値」では、「文学作品と同じように、数学的な発送は思いやりの輪を広げてくれ、一元的で偏狭な見方を強いる世界から僕たちを解き放ってくれる。きちんと考えられた数は、僕たちをよりよい人間にしてくれるのだ」と述べています。
 第8章「大きい数」では、「大きい数が大好きで、9歳の甥とそれについて話をするのを楽しんでいた」数学者、エドワード・カスナーが、甥に「1の後ろにゼロが100個ある数」に「グーゴル(googol)」と名付けさせ、さらに「もっと大きな数」として、「1の後にゼロを1グーゴル個つけた整数」である「グーゴルプレックス」を考えだしたと述べています。
 第14章「みごとな数、パイ」では、「エンジニアの目から見れば、πは3と4よりかなり厄介な数とはいえ、3と4という自然数の間にある測定値にすぎない」がが、「数学者はそれとは違い、πに対してもっと親密な気持ちを抱いている」と述べています。
 そして、著者が、2004年3月14日に、「πの数字をたくさん暗誦してヨーロッパ新記録を樹立するため」にオックスフォード大学の科学史博物館でのイベントに挑戦したことに関して、「わずかだけれど『数の芸術家』――台本を記憶して話す俳優のように数を記憶して暗誦する人のこと――がいる」として、「その中心となっているのが日本だ。日本語では、数を文章のように言うことができる」と述べています。
 第15章「アインシュタインの方程式」では、数学者の共通の特質として、「アインシュタインで有名になった、この美への偏愛」を挙げ、「ハンガリーの数学者ポール・エルデシュの言葉には大半の数学者が同意するだろう。『数学は美しい。数学が美しくないとしたら、美しいものなどひとつもない』という言葉に」と述べています。
 第17章「本について」では、「ナボコフは新しく小説を書くとき、最後から書くことが多かった。結末から始まりに向かって書いていくのだ」として、「ナボコフのもっとも有名な(そして悪名高い)小説『ロリータ』(訳注・1955年刊)は、縦3インチ横5インチの大量のインデックス・カードに書き連ねた言葉から生まれた。彼は物語の最後の場面を最初に描いている。このカードには、文章の断片だけではなく構想や他の細かな情報も書き留めてあった」と述べています。
 第18章「素数の詩」では、「詩と素数とに深い関係があることを僕はいつも考えているので、多くの人がその関係を意外に思うことが僕にとっては驚きだ。この関係は、ある意味では完璧だ。詩と素数には共通点がある。両方とも、人生のように、予想することも定義することもできず、多様な意味を含んでいる」と述べています。
 第25章「数学の美」では、「この世界には芸術家が必要だ。言葉や絵画、音や数字の中に、彼らの夜がほんの少し形を変えて染み込んでいる。机に向かった数学者は、これまで見えなかったものを垣間見ようとする。彼は暗闇を光に変えようとしているのだ」と述べています。
 本書は、数と人生について考えた一冊です。


■ 個人的な視点から

 数字に色がついて見えるということはありませんが、音楽のコードには色のイメージがついているような気がします。


■ どんな人にオススメ?

・数字に色がついて見える世界を体験したい人。


2015年4月25日 (土)

火薬のはなし

■ 書籍情報

火薬のはなし   【火薬のはなし】(#2379)

  松永 猛裕
  価格: ¥1,058 (税込)
  講談社(2014/8/21)

 本書は、「火薬という、普段ほとんど見ることのない化学物質をわかりやすく解説」する、「ミリタリー(軍事)技術にいっさい関わっていない人間が書いた、世界的にも珍しい火薬の本」です。
 第1章「火薬の原理」では、普通の化学物質と火薬の違いについて、「空気中の酸素を使わなくても燃えたり、爆発したりするのが火薬」であり、「酸素がなくても……」ということが火薬の一番の特徴だと述べています。
 そして、火薬の反応は基本的には、「空気中の酸素を使わない酸化反応」であり、特徴的な現象として、
(1)爆燃(deflagration)
(2)爆轟(爆ごう、detonation):火薬の燃焼の中で最も速い現象。
の2点を挙げています。
 また、「なぜ、車はニトログリセリンやTNTではなく、ガソリンで走るか?」と言う問いに対し、「空気中の酸素を使って燃やすのであれば、ガソリンやメタンガスはTNTよりも大きいエネルギーを出すことができ」、「燃焼が伝播する速度」が、TNTに比べてとても遅いことから、「安全に利用できる燃料」であると述べています。
 第2章「サイエンスの視点で見た火薬」では、「火薬」は英語では、「Energetic Materials」あるいは「High Energy Density Materials (HEDM)」というと述べています。
 そして、「火薬も単純に燃やすとか、爆発させるとかいう視点ではなく、『エネルギーを貯蔵する物質』と考えると、今後の注目度が増すに違いない」と述べています。
 また、「熱を発生させて高温を生み出すことを目的にしている火薬」である「テルミット(thermite)」について、「電力を使わずに簡単に熱を発生することができるのでいろいろな用途がある」として、鉄道レールを修復・接合する溶接技術を挙げ、「テルミット溶接の利点は、技術が簡単、電力が要らない、作業時間が短いなど」だとして、「まさにハンディな溶鉱炉だ」と述べています。
 さらに、「窒素が主成分のガスを発生させる火薬」である「ガス発生剤(gas generant)」に必要とされる性質として、
・少量の固体から多量の窒素を瞬時に発生できる。
・人体に悪い影響を与えない。
・やけどを避けるため、比較的低温のガスを発生させる。
・車内の温度が嵩くなることがAruga、変質しないこと。
・車の寿命(10年以上)程度では劣化しないこと。
などの点を挙げています。
 第3章「実用化されている火薬」では、黒色火薬の原料である硝酸カリウム(硝石)について、「日本では様々な流儀で、亜硝酸バクテリアを尿などの窒素分に作用させて硝酸カリウムを得ていた」と述べ、「世界遺産で知られる合掌造り集落は硝酸カリウム(当時は塩硝と呼ばれていた)を作る秘密工場だった」としています。
 また、「現在、発破現場で用いられている爆薬で最も多く用いられている」ものとして、「ANFO」について、「ammonium nirate(硝酸アンモニウムの英名) fuel(燃料) oil(油)の頭文字をとったネーミング」だと述べています。
 第4章「花火」では、花火の良さを評価するポイントとして、
(1)座り:できるだけ速度ゼロの最高点で開発(玉が割れること)しているか。
(2)盆:花火玉が開いた状態で、適正な大きさと均一に広がっていること。
(3)肩のはり:きれいに放射状に星が飛んでいるか。
(4)消え口:星の光が消える瞬間。一斉に消えることが良い。
の4点を挙げています。
 そして、花火の事故が現在でも多発している原因として、
(1)本質的に花火に使っている物質は、爆薬と比べても格段に爆発しやすい。
(2)花火製造業者は企業規模が小さいため、一般の科学会社ほどの安全管理はできていない。
(3)花火は一般の方が大勢集まるところで消費される。
の3点を挙げた上で、「花火は日本が世界に誇る文化であり、今後の発展を期するには、安全に取り扱うための技術革新とともに、伝統的な技術にとらわれることなく先端技術を積極的に導入することが必要である」と述べています。
 第5章「火薬のいろいろな使い方」では、「現在、自動車用の安全装置は、花火を除いてもっとも身近な火薬といえるだろう。エアバッグは火薬を使う、一番よく知られた安全装置である」と述べています。
 また、「2種類の金属を爆発力によって高速で衝突させ、金属同士を結合させる加工法」である「爆発圧接(explosive welding)」について、「物性(融点や熱膨張係数、硬度など)に大きな違いがある金属同士を、溶接などで接合するのは難しい」が、「爆発圧着を使えばそれが可能」になり、「材料同士が冷間(常温)で接着されるため、材料同士が熱で変化しないというメリットがある」と述べています。
 さらに、「痛みの王様(king of pain)」と呼ばれる尿路結石の痛みに関して、「結石破砕の技術は、体外から衝撃波を作用させて破砕する技術もあり、現在ではこちらが主流だ」が、「体内で発破する技術と考え方は原理的に変わらない。すなわち、結石は衝撃波で破壊される。また、衝撃波は水から臓器や筋肉に通りやすく、ほとんど体内に悪影響を与えない」と述べています。
 本書は、意外なところで身近に使われている火薬の性質を解説した一冊です。


■ 個人的な視点から

 火薬といえばヒラコーの『ドリフターズ』の中で信長が火薬大好きぶりを発揮していて楽しそうです。


■ どんな人にオススメ?

・火薬や爆発が好きな人(信長とか)。


2015年4月24日 (金)

世界はなぜ月をめざすのか

■ 書籍情報

世界はなぜ月をめざすのか   【世界はなぜ月をめざすのか】(#2378)

  佐伯 和人
  価格: ¥994 (税込)
  講談社(2014/8/21)

 本書は、「いまや世界は『月探査ブーム』を迎えて」おり、「月は宇宙の入口であり、私たちはいま『宇宙大航海時代』の渚」にいるとして、「その『最初の寄港地』である月をどう探査・開発していくのか、日本がいまから行う決断が、今後100年、200年にもわたって、日本の宇宙での立ち位置を決める」と主張しているものです。
 序章「月探査のブーム、ふたたび到来!」では、「アポロ計画が終了してから20年あまり、月が探査されることはまったくありませんでした」が、「旧式は1994年に終わりを告げ、いま世界が打ち上げる月ロケットの数はどんどん増えてきて」いると述べています。
 そして、「現在は、月に行くことによる国威発揚の効果は薄くなって」いるが、「アポロ計画から50年経ち、科学も技術も大きく進歩」した結果、「現代の月探査はアポロ時代よりも、はるかに低コストで大きな成果を上げられるようになってきて」いると述べています。
 第1章「人類の次のフロンティアは月である」では、「月こそ次のフロンティアである」と考える理由として、月にはフロンティアの価値を高める、
(1)大きい:月は惑星に匹敵するほどの大きさを持っている。
(2)近い:光が1秒ほどで到達する距離にあり、常に同じ片面を地球に向けているため、つねに電波による通信を確立した状態を保てる。
(3)分化している:一度ドロドロのマグマに溶けて、核、マントル、知覚など異なる化学組成や物理的性質を持つブロックに別れている。
の3つの特色が揃っていることを挙げています。
 第2章「今夜の月が違って見えるはなし」では、「月に差し込む光の方向と、観測する方向が近いとき、極端に明るくなる現象」である「衝効果(しょうこうか)」が生じる理由として、「月面が、岩石が砕けてできた非常に細かな灰色の粉に覆われていることが深く関係して」いることを挙げています。
 第4章「これだけは知っておきたい『月科学の基礎知識』」では、月の地殻のほとんどを占めている、
(1)カンラン石
(2)斜長石
(3)輝石
(4)チタン鉄鉱
の4つを挙げた上で、これだけは知っておきたい岩石種として、
(1)斜長岩;月の明るい部分
(2)玄武岩:月野くらい部分
の2点を挙げています。
 そして、斜長岩地殻の存在を説明する必要から生まれた「マグマオーシャン(マグマの海)仮説」について解説しています。
 また、「現在、ジャイアントインパクト説は最も多くの研究者の支持を集めて」いるが、「天体衝突のコンピュータシミュレーションによると、最終的に月となる破片は、もっぱら衝突物である地球外天体の構造物になる」ことから、「ジャイアントインパクト説にも、まだよくわかっていないことがある」と述べています。
 第5章「『かぐや』があげた画期的な成果」では、「表と裏が違う構造をもつという月の二分性」について、「巨大衝突によってつくられたのでしょうか、それとも、マグマの水平移動によってつくられたのでしょうか。もしかしたら、両方が関わっているのかもしれませんし、あるいは裏の火山活動まで、すべてをすっきり説明する真実に、私たちが気づいていないだけかもしれません」と述べています。
 第6章「月の『資源』をどう利用するか」では「場所も立派な資源」だとして、「月世界では太陽光が最も有効なエネルギー源」であることから、「日の当たる時間が長い領域」である「高日照率領域」について、日照期間が80%以上ある地域は、たった5箇所しかなく、「それぞれ数百メートル四方くらいの広さしかない」上に、「地球と電波で直接交信できる月の表側に位置する地点は、たった2箇所しか」ないことから、まさに月の「特等地」だと述べています。
 第7章「『月以前』『月以後』のフロンティア」では、「現在のところ、プレートテクトニクスは地球に特有の現象」と考えられ、その理由として、「ジャイアントインパクトによる地球の内部構造の不均質化や、月による潮汐力など――つまりは月の存在が、もしかしたら関わっているのかもしれない」と述べています。
 第8章「今後の月科学の大発見を予想する」では、「ますます深まる月の謎の数々」を大別すると、
(1)月と地球の関係:月がどのようにして誕生したか。
(2)月の分化課程:月の原材料が球体としてまとまったあと、どのように核、マントル、地殻といった層構造に分離していったか。
(3)月をとりまく太陽系の状況:月ができてすぐの頃、すなわち太陽系ができた直後の太陽系の状況が知りたい。
の3つに分類できるとしています。
 本書は、よく知られているはずの月が、まだまだわからないことでいっぱいであることを教えてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 人類にとって有史以前から最も身近な天体であった月についてはまだわからないことだらけのようです。


■ どんな人にオススメ?

・月についてもっと知りたい人。


2015年4月23日 (木)

不安の構造―リスクを管理する方法

■ 書籍情報

不安の構造―リスクを管理する方法   【不安の構造―リスクを管理する方法】(#2377)

  唐木 英明
  価格: ¥972 (税込)
  エネルギーフォーラム(2014/05)

 本書は、「始皇帝の時代から2000年以上が経った現在、私たちの生活は、始皇帝が夢にも見なかったほど豊かで便利で安全なものになっている」理由は、「科学技術の発達の成果であり、『リスク管理』技術の発達のおかげ」だとして、「豊かさを手に入れて、安全が確保されている現代の日本の社会で、人々はなぜ不安に陥るのか」を考えたものです。
 第1章「不安の時代」では、直感的判断の特徴として、
(1)「危険情報」を無視しないこと。
(2)「利益情報」も無視しないこと。
の2点を挙げた上で、「ヒューリスティックの判断には『確証バイアス』という特徴がある」として、「先入観に一致した情報を無意識に選別してこれを信じこみ、一致しない情報は無視する傾向」を指摘しています。
 第2章「科学技術の影」では、「多くの人が科学を信用しているのは、科学が自分の誤りを正す仕組みを持ているから」だと述べ、「検証、すなわち反論ができない仮説は科学として認められない」とした上で、科学の種類として、
(1)正しい科学
(2)未科学:まだ仮説の段階で検証を受けていない。
(3)間違い科学
(4)ニセ科学:科学でないものを科学に見せかけるという詐欺行為
の4種類を挙げています。
 第3章「リスク管理」では、「安全を守るためにリスクを減らす作業」である「リスク管理」について、
(1)リスク評価:何がハザードであるのかを明らかにし、そのハザードによる被害がどの程度か、そしてそのハザードに出会う確率がどの程度かを推定する。
(2)リスク管理:そのハザードに出会う確率を小さくする方策を決定する。
とした上で、「あるリスク管理策を実施すると、別のリスクが大きくなることがあるので、リスク管理には『リスク最適化』と呼ばれる総合的な観点が必須」だと述べています。
 そして、リスク管理の方法として、
(1)リスク保有:特別のリスク管理を行わないこと。
(2)リスク転移:保険への加入など。
(3)リスク回避:リスクのある行動を避ける。
(4)リスク最適化:費用と効果の計算をして、納得できる程度までリスクを減らして、費用を小さくする。
の4点を挙げています。
 また、リスク管理の方法として、
(1)ALAP(As Low As Practicable):リスクを実行可能な限り低く保つ「リスク回避」に近い考え方。
(2)ALARA(As Loaw As Reasonably Achievable):社会的、経済的要因を考慮に入れながら合理的に達成可能な限り低く押さえる「リスク最適化」に近い考え方。
の2点を挙げています。
 第4章「放射能と健康」では、メディアにおいて、「『リスク評価』と『リスク管理』の違いが認識されていない」として、事実は、科学者が行うリスク評価は一致していても、「リスク最適化に基づくリスク管理に対しては倫理的判断の違いなど多様な考え方があり、一致を見ていない」と述べています。
 そして、「大きな事故にもかかわらず食品の安全は守られたのだが、世の中に広がった農作物の『福島離れ』は止まらず、福島の農家は深刻な風評被害を受けている」と述べています。
 また、「『原爆の悲惨さ』は周知のことであり、これに関する学校教育も行われてきた。その一方で、自然界や日常生活の中で出会う放射線やそのリスクに関する科学的な教育は行われず、低線量放射線の影響に関する科学的な知識は与えられなかった。こうして多くの人の間に、『量を問わず放射線は恐ろしい』とい、いわゆる『放射能恐怖症』が広がった」と述べ、「多くの人が持つ『放射能は怖い』という先入観と、その背景にあるLNTモデルへの信仰に近い思い込みが低線量放射線の影響についての科学的な議論を妨げて、多くの議論は恐怖を前提にした感情論になっている」としています。
 第5章「BSE」では、「リスク評価とは、科学以外の要素の介入を拒絶すべき分野である。ここに『科学的根拠』ではなく、『一般の人々が持つ多様な価値観』を持ち込んでリスクを評価し、『消費者寄り』とか『事業者寄り』などの恣意的な評価結果を出したら、中立公正であるべきリスク評価の存在意義は失われることになる。一方、『多様な価値観』はリスク管理策の決定の際に考慮されるべきものである」と述べています。
 第6章「誤解の損害」では、「中国産冷凍ギョウザ事件は中国だから起こったと言う人がいたが、2013年末、アクリフーズ群馬工場で製造した冷凍食品から高濃度の農薬が検出されるという事件が発生した」ことで、「犯罪はどこの国でも起こりうることが改めて証明されたとともに、『食品テロ』の対策が必要であることを、これらの事件は示している」と述べています。
 また、「食品添加物の使用基準を野菜に当てはめると、多くの野菜の食用を禁止しなくてはならなくなる」が、「日本でもEUでも野菜が含む硝酸塩のリスクより野菜を摂取することの利益のほうが大きいとして、野菜の食用禁止は行っていない」として、「野菜が含む硝酸塩よりずっと少ない量がハムなどの食肉製品に入っているからといって、これを嫌うことや、『食品添加物の量はなるべく減らすべきだ』といった意見には、何の科学的な根拠もない」と述べています。
 第9章「リスクコミュニケーション」では、「リスクコミュニケーションが始まってから10年の間に、業界団体も消費者団体も、食品のリスク管理についての知識を持ち、国際的な立場から幅広い見方ができる人材の要請が進むことが期待されたのだが、それはあまり進んでいない」と述べています。
 そして、「放射能の恐怖を煽る人たちの多くは善意や正義感、市民の側に立とうとする価値観などに基づいてそのような活動をしているものと思われるのだが、そのような科学的知識に乏しく、思い込みが激しい人の目には、科学的に正しい情報を発信する専門家が『放射能による健康影響を低く見せようとしている』と映るのであろう」と述べ、「人間の直感的判断の特徴として、信頼が大きな根拠になるのだが、科学的論争で勝てないときには、相手の人格を批判して『不審な人物』と印象づけて、信頼を失わせようとするレッテル貼り作戦は、多くの場面で、ごく一般的に行われている」としています。
 さらに、「意見の違いを調整するための話し合いができない相手がいる」として、「それは、商売のために誤解を振りまく人たち、自分の価値観や組織の拡大のために誤解を振りまく人たちだ。本を書き、講演をすることで誤解を振りまき、賛同者を集め、品物を売り、寄付を集めて大きな利益を得ている人たちだ。このような人たちとは、いくら話し合っても妥協点はない。始皇帝ならこのようなときに焚書坑儒を実行するかもしれないが、現代の社会ではそれは意味がない」と述べています。
 本書は、リスクとの向き合い方を教えてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 確かにリスクと正しく向き合うことは必要ではありますが、誰にでもできることではないように思います。


■ どんな人にオススメ?

・リスクと正しく向き合いたい人。


2015年4月22日 (水)

数学記号の誕生

■ 書籍情報

数学記号の誕生   【数学記号の誕生】(#2376)

  ジョセフ メイザー (著), 松浦 俊輔 (翻訳)
  価格: ¥2,700 (税込)
  河出書房新社(2014/9/17)

 本書は、「古代から近代までの(さらには現代の認知科学にまでいたる)道筋を、数字、記号、認知という3本の筋にまとめ、詳述した」ものです。
 序論では、「12世紀以前には、記号は記号レベルでの演算操作には記号といえるレベルでは使われていなかった――つまり、方程式で純然たる記号操作をするためのものではなかった」だけではなく、「ほとんどの数学の表現は、16世紀になる前は言葉によっていた」と述べ、「本書は今の数学で確立している記号の起源と進化をたどるもので、数を数えるところから始まって、現代数学の主要な演算子までたどる」としています。
 第1章「奇妙な始まり」では、「書く必要が生じたのは、記憶を記録する必要によるのであり、物語ではないのは意外なことではない。最古の文書は、会計、名前、レシピ、旅日記だ」と述べています。
 第2章「古代の数の体系」では、「南メソポタミアの大規模でかつ成長する中心都市は、未曾有の広い社会経済的連結で維持され、史上初めて、交易と労働を管理、組織、勘定する管理職を必要とした。つまり、そこでは記録を取らなければならなかったのだ。勘定の記録が始まったのはそういうところで、粘土に書かれた勘定は、勘定された対象――土地、人、家畜――を表す絵文字と記号が集まったものだった」と述べています。
 そして、「古代のアルファベットはそれぞれの独自性を持った具体的な言語要素の集合だっただけでなく、複数の意味を担える部品でもあった」と述べています。
 第3章「絹の道と王の道」では、「中国数学史の多くの部分が、長年のあいだに、多くは専制君主が命じた焚書によって失われ、破壊された結果、西洋人は数学の起源は西洋が優勢という神話を信じる傾向がある」が、「前漢時代(紀元前206~起源後9)が始まる頃には、中国の数字は、今日使われている漢字とよく似た十進方式として確立していた」と述べています。
 そして、「西洋起源の始まるはるか前から、中国人は、獣骨や竹で作った『ひとつ』から『ここのつ』までの数を表す算木を、十進法位取り表記法であたりまえに使っていた」と述べています。
 第4章「インドからの贈物」では、「すべての数を十手の記号によって、それぞれの記号にその記号の絶対値とともに桁ごとの値を与えて表すという巧みな方法を与えてくれたのはインドである。要領を得た重要なアイデアだが、今ではあまりに易しくなっているので、その本当の価値が見落とされている。しかし非常に単純で、すべての計算を大いに易しくしてくれたおかげで、我々の算術を役に立つ発明の筆頭に置いた」と述べています。
 そして、「10世紀から12世紀のあいだに、算盤は、十のべき乗の位を表す縦棒がついた1枚の羊皮紙か溝のついた計算盤として、西欧で実用的な算数を勉強する主要な方法となった。ジュルベールの産盤による処理は『アルゴリズム』と呼ばれ、羊皮紙と羽ペンを使って模倣されていた」と述べています。
 第5章「ヨーロッパへの到来」では、「意外なことに、私たちが今使っている見事な数の方式がヨーロッパにもたらされてからは、ほんの数世紀しかたっていない。それに関与した最初の人物がレオナルド・ピサーノ・ビゴッロ(1170頃~1250頃)だったかどうかについては議論があるが、この人物は当時の一流数学者の一人で、その名声はウサギの増え方という有名な問題によっており、それに伴うフィボナッチという呼び名のほうが私たちの頭には浮かびやすい」と述べ、「若いころのフィボナッチは父について地中海世界を旅して回り、エジプト、シリア、ギリシア、プロヴァンスで聖職者、学者、商人と出会い、交易で用いられる数の体系を習っていた。ピサに戻って1202年に『リベル・アバチ』(計算の書)という著作を書き、1228年にはそれを改訂した。『リベル・アバチ』は算盤を使わずに計算する方法に関するもので、西洋の商人に、アラビア数字方式で計算するほうが、当時用いられていたローマ方式よりも優れていることを納得させるために書かれた」と述べています。
 そして、「長いあいだ、フィボナッチの『リベル・アバチ』は計算法の包括的な典拠としては唯一知られた本だったので、ヒンドゥー=アラビア数字を西洋にもたらしたのはこの本であるかのように見えることもあるかもしれない」とした上で、「フィボナッチの本は、ヨーロッパ社会のある部分にはアラビア数字をもたらしたらしいが、イタリアを旅行したりそこで商売をしていた人々は、すでにこの数字を知っていた可能性も高い。また、『リベル・アバチ』よりも半世紀も前に、アラビア数字について書かれた本が他にあったのも確かだ」と述べています。
 第8章「アラビアからの贈物」では、「当時、アラビア人は独自の数の方式を持っていなかった。アラビア語もギリシア語も話されていたアラブ世界の地理的領域で使われていたのは、ギリシアのアルファベット順方式か、ギリシア方式を元にしてほとんどアラビア語の数を表す言葉を書いて使う方式だけだった。新しい数字はインド数字と呼ばれることもあれば、アラビア数字と呼ばれることもあった」と述べています。
 第7章「『リベル・アバチ』」では、「9世紀にはインド数字は新しすぎ、また変わってもいたので、修道院や学者どうしの議論から大きく広がることはなかった。なんといっても、ヨーロッパはゼロを伴う数の体型、数をどこまでも書くために使えて同時に何もないことを表す単独の記号については知らなかった」と述べ、「難しかったのは、プレースホルダーと数を区別するところだった。ゼロを何かの量が存在しないことを表す数として認めることは気が遠くなるほど大胆な考え方だったろう」と述べています。
 そして、「新しい数の知らせは、フィボナッチが『リベル・アバチ』を書くより2、3世紀前に、ヨーロッパ中に広まっていたらしい。知らせだけで、その慣習が伝わったわけではなく、したがってそれほど使われてはいない」と述べています。
 第8章「起源への反論」では、「5世紀のあるとき、インド数字がシリア経由の交易路を通ってアレクサンドリアにやってきていた可能性は高い。この数字は、ヨーロッパとの需要なつながりがあったアレクサンドリアから、西に伝わった」と述べた上で、「インド数字の知らせが広まったのは商業と交易の世界の人々によるが、それがあたりまえになる歩みは遅々として進まなかった」として、「今の方式の由来については堅実な研究が数多く出ているが、幅広い学術研究が行われてから100年たっても、その始まりと進展については、ごく概略的な推測しか得られていない」と述べています。
 第9章「記号なし」では、「数学はずっと今のようだったわけではない。その緻密さは、論理の規則によって基本的な仮定に遡れる、形式の整った有限個の命題に依拠していたわけではない。私たちの西洋数学は、バビロニアやエジプトの1000年にわたる計算から、具体的な応用での財産を受け継いでいて、その頃は数学的証明という概念は、はるかに緩く、軽いものだった。納得させることが目標で、厳密であることが目標なのではなかった。緻密さはその後300年をかけて徐々に発達し、エウクレイデスやアレクサンドラの学者が、基本的な仮定に基づく証明という思想を整備した」と述べています。
 そして、「言葉による述べ方の記号による形式は便利な短縮表記にすぎないと誤解すべきではない。確かに短縮表記だが、それだけではなく、自然言語で書かれた言葉に引きずられて曖昧になったり誤解したりせず頭がそこから超え出ていく助けになる。さらには、この記号表記によって、頭は個別の陳述を一般形に引き上げることもできる。デカルトの時代にもなると、方程式はほとんど完全に現代の文字式で書かれていた」と述べています。
 第11章「偉大なる技」では、「最近になるまで、ブラーマグプタは現代的な意味での負の数を使った最初の数学者だと想定されていた。しかし中国では、負の数は西暦の始点の頃から使われていた。それは『九章算術』に現れる。つまり中国人はインド人より400年先んじていたのだ」と述べています。
 第12章「幼い記号」では、「人間の知性を進め、世界に恩恵をもたらすには、小さなことが何度か起きる。1940年代以来の、現代のプログラム可能な計算機革命とともに育ったコンピュータ言語ツールを考えよう。それがどれほど急速に変化して現代のノートパソコンだらけのカフェをもたらしたことか。そうしたノートパソコンのアプリを、汎用のプログラム言語なしで、低水準の機械語あるいはアセンブリ言語だけによって作ることはできただろうか。きっとできるだろう。ただ、その仕事をしなければならない人々には気の毒なことで、どれだけ時間がかかるかも想像がつく。単調さと複雑さは、すでに訓練されている人数よりもたくさんの才能ある人々を必要とする」と述べた上で、「16世紀後期に発達した記号言語がなかったら、今ある現代の数学や物理学はできるだろうか」と述べ、「イタリアは時間を無駄にせず、アラブ人がその技をスペインのもたらした後、ヨーロッパに伝わった代数の種子を育てた」としています。
 そして、「人間はずっと、反復作業のための道具を作り、機械を発明してきた。反復される問のために抽象的な解法も考える。退屈な冗長さのために短縮も工夫する。そのため数学者は、何千何万と繰り返される算術の言葉を書いた後、単語の頭文字を使って単語そのものの代わりにするというアイデアに達した」と述べています。
 第16章「爆発」では、「ルネ・デカルトの『幾何学』が出版されたのは、ヴィエトが亡くなってからわずか34年後のことだった。これには表記法についての新しいアイデアがあった。アルファベットの最初の方の文字は既知の定数用とし、後ろの方(pより後)の文字は、一連の値を取れる変数あるいは未知数用とする」と述べています。
 そして、「幾何学と代数学の一体性は、大発見の一つだった。同時に、事象を支配する法則の構図をもたらし、依存する事象同士のつながりをもたらした。それは後の数学者に、二つの関係する現象において、一方の変化が他方の変化にどう作用するかの数理を描き、明らかにするのに必要な力を与えた」と述べています。
 第17章「記号のカタログ」では、「17世紀には、言葉による数学のほとんどが記号表記へ移行した。いろいろな新表記法が考えられ、使えるものもそうでないものも、実用できでないものも、全く冗談のようなものもあった。それでも進歩は続いた」と述べています。
 第18章「頭の中でのランデブー」では、「18世紀になると、数学の言語は、予備的な講習を相当に受けていないと読めないほど記号化されていた。記号の量が増えていたということではない。量が問題なのではなく、初心者が新しい内容を理解しようとするとき、新しい視覚的な言語を覚えなければならなかったということだ。そのような言語を理解するには、非常に特殊な専門知識が必要になるか、集中して作業する粘りが必要になるか、いずれかだった。言語は視覚的だが意味は隠されていた。記号は楽譜のような文で情報の塊を提供し、その内容は時間と才能がある者、あるいはそうした塊を解きほぐす忍耐力のある者のみにわかった」と述べています。
 第24章「結論」では、「数学で使われる典型的な記号は、演算、グループ化、関係、定数、変数、関数、行列、ベクトル、集合論や論理学、数論、確率論、統計学で使われる記号だ。ここの記号は数学者の創造的思考にあまり作用しないかもしれないが、まとまると、相似、連想、同一、類似、反復されるイメージを通じて強力な接続を得る。潜在意識にある思考を生み出すことさえある」と述べた上で、「数学記号の中には、経験と未知のものとを接続し、意図して類推や類似を通じて意味を伝えることができる隠喩思考を伝えるべく生み出された意図的意匠として始まるものもあれば、同じことを偶然にするものもある」と述べ、「意味することと理解することは、経験を通じて集合的無意識にある連想と類似に深く収まっているのかもしれない。美的に説得力のある記号への文化的傾向は、数学でも、詩や美術でも、私たちの美の感情による評価にはまっていくかもしれない。しかし数学の美しさ――すっきりとした証明、簡潔な提示、巧みさ、複雑なものの単純化、わかりやすい接続――は、大部分、巧妙で整った記号の、わかりやすくする能力によっているのだ」としています。
 本書は、現代に学ぶ者にとってはとっつきにくい数学記号が生まれた背景を伝えてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 学生時代は数学記号なんて見るのも嫌でしたが、数学記号のなかった頃の数学のことを考えるといかに便利なものであるかがわかります。


■ どんな人にオススメ?

・数学記号が嫌いな人。


2015年4月21日 (火)

スケープゴーティング

■ 書籍情報

スケープゴーティング   【スケープゴーティング】(#2375)

  釘原 直樹 (編集)
  価格: ¥2,808 (税込)
  有斐閣(2014/12/17)

 本書は、「災害や事故で大きな被害が出たとき、あるいは不正行為や犯罪が明らかになったとき、マスメディアによる集中豪雨的な報道がなされることがある。そして往々にして、悪者探しが行われ、何が原因であるのかより、誰が悪いのかが追求される」ことについて、「人ば曖昧な状況やフラストレーションに長時間は耐え切れず、早急に責任者を選び罰することによって心の安寧を回復しようとする」行動である「スケープゴーティング」について、「発生条件や対象、心理メカニズム、ターゲットの変遷過程について明らかにする」ものです。
 序章「スケープゴーティングとは」では、スケープゴーティングの定義について、「何らかのネガティブな事象が発生、あるいは発生が予見されている」際に、
(1)事態発生や拡大・悪化に関する因果関係・責任主体が不明確な段階で、それをある対象(場合によっては因果関係の枠外にある対象)に帰属したり、その対象を非難したりする。
(2)責任帰属や非難が一定の集合的広がりをもって行われ、そのような認知や行為が共有化されるプロセスがある。
のような現象が生起する場合と定義しています。
 第1章「スケープゴーティングの心理」では、スケープゴーティングの動機に関する理論として、
(1)精神分析理論:自分の中にある邪悪な思考や感情を抑圧し、またそれを他者に投影することによって、解消しようとする無意識の試み。
(2)欲求不満攻撃理論:攻撃を内的衝動から引き起こされたものではなく、目標追求行動を妨害するような環境(外的条件)に対する反応として捉え、外的条件によって引き起こされた欲求不満はそれを引き起こした対象に攻撃を向けることによって解消される。
の2点を挙げた上で、「違いは欲求不満が内的な精神力動的葛藤から来るものか、あるいは目標追求行動が阻止されることに由来する外的原因から来るものかによる」が、両理論とも、
(1)欲求不満の原因に対する攻撃は禁止されている。
(2)攻撃は、報復の恐れがない他者に置き換えられる。
(3)スケープゴーティングのネガティブなステレオタイプは投影や合理化の結果生じる。
としています。
 また、「災害や事故が発生すると、メディアは一斉に悪者探しをする傾向がある」が、「探し当てた悪者が非難するに値しない場合、あるいはその悪者だけを非難しても欲求不満を解消できない場合、次のターゲットが必要になる。このようにして次々に非難対象が変遷することもある」と述べています。
 第2章「誰がスケープゴートになるのか」では、「出来事そのものより、その出来事を引き起こした人物の特性に関する情報が、その罪の評価に影響する」と述べています。
 第3章「スティグマ化と非難・責任追及」では、「風評被害は風評を前提とする点で、スティグマ化とは異なっているものと見えるが、人々の記憶に残りやすいということや経済的損害につながるという点に着目すると、風評被害はスティグマ化とほぼ同じ現象と理解できる」と述べています。
 第5章「事故報道のスケープゴーティング」では、「スケープゴーティング現象の拡大には、直接的な事故原因の報道だけではなく、このような間接的な原因や対象への非難が大きな役割を果たしていると考えられる。避難される対象数が拡大するのは、事故原因の追求とより広範囲の対象を攻撃することによるカタルシスという両方の機能を併せ持ったスケープゴーティング現象であると考えられる」と述べています。
 第6章「感染症報道でのスケープゴーティング」では、「事件や事故は、自然災害や天災よりも人為性の程度が高く、また事故や事件の報道では、事故・事件が生じた時点が報道のピークであるのに対して、自然災害や天災の場合には発生時点では情報が不明な点が多いために、報道のピークは時間的に後ろにずれると推測される」と述べています。
 第7章「東日本大震災報道でのスケープゴーティング」では、「不謹慎である」と避難されている行為として、
(1)情報発信に関するもの。「軽率な発言」も含まれる。
(2)非常時特有の行為。「被災地見学」や「買い占め」など。
(3)犯罪やそれに類する反社会的行為
(4)情報発信以外の日常的な行為
の4つを挙げています。
 第8章「帰属過程としてのスケープゴーティング」では、「仮想的有能感は、他者を軽視することで自己の有能感を感じるという、屈折した形での有能感である。自尊感情が低く、他者軽視を通した有能感を感じる程度も少ない人たちが、不適切行為者に対する非難、そして自己列車の運転士への原因、責任、非難の帰属が高いという結果であった」と述べています。
 そして、「有能感が低い、あるいは精神的健康が低い状態は、個人にとって心地よいものとはいえない。そうした、不快な状態にある人は、自己の周辺における不祥事に対する非難を強めたり、すでに死亡した事故の中心人物を責めたり、また、周辺的な不祥事を事故原因と結びつけたりすることで、自身の不快を解消しようとしているのかもしれない」と述べています。
 第9章「記憶バイアスとスケープゴーティング」では、「低頻度の出来事も特異性が高く、際立っていると認知されやすいために、利用可能性ヒューリスティックが使用される可能性が高い」として、「一般に、まれな出来事は頻繁に起きることよりも顕在化しやすく、想起が容易である」と述べています。
 本書は、スケープゴーティングが起こる仕組みを解きほぐした一冊です。


■ 個人的な視点から

 誰かを叩きたがる人っていうのはいるわけですが、有能感が低く鬱々としている人にとってネットというのは素晴らしいものであるに違いありません。


■ どんな人にオススメ?

・ネットで誰かを袋叩きにするのが好きな人。


2015年4月20日 (月)

ミッション・トゥ・マーズ 火星移住大作戦

■ 書籍情報

ミッション・トゥ・マーズ 火星移住大作戦   【ミッション・トゥ・マーズ 火星移住大作戦】(#2374)

  バズ・オルドリン
  価格: ¥2,376 (税込)
  エクスナレッジ(2014/6/3)

 本書は、「世界初の月面歩行者の1人」であるバズ・オリドリンが語った「人類の火星進出に関するビジョン」です。
 第1章「大統領専用機からの展望」では、アメリカの宇宙計画の次の目標として、「科学的な観点、技術進歩の観点、意義の観点、そして政治的インスピレーションを与えるという観点から、私としては、火星こそが次の目標になるべきだ」と述べています。
 第2章「決意のとき――統一宇宙ビジョンへの呼びかけ」では、「アメリカが火星に到達できるかどうかは、宇宙活動国としてのアメリカの健全さを試すリトマス試験紙である。遠く離れた火星の砂丘と地球とのあいだを定期的に運航するなら、途中で段階的にユニットを切り離して捨てながら飛行するという、アポロ型のモジュラー式宇宙船を再び採用することは実際的ではない」として、「地球起動と火星軌道のあいだを永続的に往復する循環宇宙船」を提案し、「私の循環航路(サイクラー)システムは、宇宙の大海原のなか予測可能なルートにそって永続的に運航する。サイクラー・システムの実施によって、人間や貨物などを内太陽系と地球との間で運搬できるようになる。しかも、燃料を大幅に節約できる」と述べています。
 そして、「火星への道の最後の一歩としてはやはり、2025年頃、火星の衛星フォボス(直径26.9キロメートル)への着陸を実現したい」として、「フォボスに基地を作れば、そこからロボットを関し・操作して、火星表面にインフラを建設し、最初の人間の到着に備えるのにすこぶる好都合だ」と述べています。
 著者は、「いつの日か、人類は火星で暮らすようになるだろう。2019年は、人類が月面に初めて足を踏み下ろしてから50年の節目の年にあたる。この記念すべき年は、その後20年以内に人類が火星に永住の地を確立するという国家目標を大統領が発表する理想的なタイミングだと、私は長年主張してきた」と述べています。
 第4章「月を巡る私の夢」では、「アポロ11号のミッションで月面を歩行したときのことや、月にいたときの思い出を話してくれと人からよく求められる」として、「地球に帰還してみると、予期せぬ事態になっていた。人類初の月着陸を果たしたというアメリカの成功が、全人類の成功になっていたのだ」と述べています。
 そして、「重複を避け、より効率的で効果的な月探査を行う」ためには、「国際月開発連合(ILDC)のような組織を設立するとよい」と述べ、「月の前哨基地のあるべき姿は、すでに地球の南極に設置されている施設に多くの点で近いものになるだろう」としています。
 第5章「ハルマゲドンへの旅」では、「現実を直視しよう。我々は宇宙の射的場に住んでいる。地球をNEOから守る方法を入念に研究しなければならない」と述べています。
 第6章「火星へみんなで進もう」では、「火星の2つの衛星のうちフォボスは特に、遠隔操作によるロボット偵察を行って、火星の最近に接することなく、火星を詳細に調査する活動の拠点として理想的な位置にある。したがって、火星から持ち込まれた試料をフォボスで処理・検疫・選別してから、地球で首を長くして待っている科学者たちのもとへ送り届けることができる」と述べています。
 第7章「火星を人間の定住地にする」では、「火星に行くというのは、火星に永住することだ」と提言し、「火星への飛行は初めて2つの惑星に暮らす種になるという自信を強めていくミッションなのだ。火星は、一握りの選ばれた人たちのためにあるのではなく、どんどん増加していく人間たちを維持するためにある」と述べ、「確かに遠く離れた火星に足場を築くのは、複雑かつ困難な任務だ。しかし、そこには歴史に残る大きな価値がある」としています。
 第8章「高らかに響く呼び声」では、「火星は、我々の手が届くところにある。そしてその未来は、すでに形成され始めている。アメリカの宇宙起業家たちが、一般市民のための宇宙旅行産業の実現に向け、その道を拓きつつあるのだ」と述べています。
 本書は、宇宙開発史上の巨人が火星に広がる人類の夢を語った一冊です。


■ 個人的な視点から

 さすがはアポロ計画の英雄、トイ・ストーリー! 行けるなら火星に行ってみたいです。


■ どんな人にオススメ?

・火星に行ってみたい人。


2015年4月19日 (日)

誰がタブーをつくるのか?

■ 書籍情報

誰がタブーをつくるのか?   【誰がタブーをつくるのか?】(#2373)

  永江 朗
  価格: ¥1,512 (税込)
  河出書房新社(2014/8/12)

 本書は、「本や雑誌、新聞などを、書いたり編集したり売ったり読んだりする場面をひとつの軸に、『タブー』と『規制』について」考えたものです。
 第1章「出版と報道のタブー」では、皇室タブーについて、「天皇や皇室、皇族について、ある一定の書き方をすると、一部の人たちが激怒する、という形であらわれる」として、『風流夢譚』事件を取り上げ、「皇室に触れると人が殺される。これは出版界を萎縮させるのに十分な事件だった」と述べています。
 また、「噂の真相」を印刷していた印刷会社が、右翼団体から抗議を受けたことについて、「印刷・製本会社と広告クライアントを標的としたことは、出版界全体に対する大きなプレッシャーになった。また、メディアに対する抗議を考えている他の団体や個人にとって、『出版社を直接のターゲットとするのではなく、印刷・製本や流通、広告クライアントをターゲットにして、間接的に圧力をかけたほうが有効なのだ』というヒントを与えた。そしてこの事実は、タブーというものをますます強化させること伴った」と述べています。
 そして、宗教がタブー扱いされる理由として、
(1)反社会的に見えるその行為が、はたしてたんなる犯罪なのか、それとも教義に基づいた宗教的行為なのか判然としないこと。
(2)教団や信者たちの抗議の執拗さ。
の2点を挙げ、(2)について、「たぶんこちらのほうが宗教タブーの本質だとぼくは思う。ようするに面倒なことになるのだ、新興宗教にかかわると」と述べ、「熱心な信者は疲れを知らない。しかも、こうした嫌がらせが信仰の証であると信じている。出版社の側が困ったり怒ったりすると、ますます喜びを感じる。教団にとっては、外部に『敵』をつくることによって、内部の結束を固め、信仰を深めるという効果もある」としています。
 第2章「外側からの規制」では、『チャタレイ夫人の恋人』の発禁処分に関して、「たんに描写が『露骨詳細』だったからではなく、戦傷者の妻が不倫をしたのがいけない、という検察側の倫理観が感じられる」として、「お国のために戦って、名誉の負傷をされた気高き貴族の夫を裏切ったからこそ、検事や警察官僚は怒ったのではないか」と述べています。
 著者は、「表現の自由や言論の自由は大切だけれども、他人の自由とぶつかるときがある。名誉毀損やプライバシー権侵害などがそうだ」と述べ、「一方、名誉毀損やプライバシー侵害などを口実に、(報道によって失われた利益の回復ではなく)言論の封殺を目的として行われるスラップ訴訟もある。安易に表現の自由を規制してしまうと、国民の知る権利が損なわれる」とした上で、「表現の自由、言論の自由は、他人の自由を踏みにじってまで行使されるべきなのか、表現の当事者はよく考えるべきだ。でなければ表現や言論の自由の縮小を担う国家権力につけ込まれ、結果的に表現と言論の自由の制限に手を貸してしまうことになる」と述べています。
 第3章「自分からの規制」では、「法規制はないほうがいい。表現の規制は、他の人の権利を妨げるときだけに限定すべきだ」として、「国家権力は表現に立ち入るべきではない」と述べた上で、「ぼくたちには言論の自由があるなどと思わないほうがいい。完璧な自由なんてない。今あるのは言論の一部の自由と不自由なのだ。その不自由には法規制とタブーがある。そのどちらについてもあってあたりまえの、自明のものとするのではなく、常に『こんな規制やタブーに意味はあるのか』『誰のための、何のための規制やタブーなのか』と疑う必要がある」と述べています。
 本書は、タブーとどのように向き合っていくべきかを語った一冊です。


■ 個人的な視点から

 出版業界は自己規制が多くて大変そうです。「言葉狩り」や圧力のプロの方々はやはり攻めどころというか泣き所をよく知っているなと思います。


■ どんな人にオススメ?

・都合の悪い情報に蓋をしたい人。


2015年4月18日 (土)

人事評価の「曖昧」と「納得」

■ 書籍情報

人事評価の「曖昧」と「納得」   【人事評価の「曖昧」と「納得」】(#2372)

  江夏 幾多郎
  価格: ¥799 (税込)
  NHK出版(2014/11/6)

 本書は、「人事評価が本質的に抱えている構造的な制約」である、「自分(従業員)の評価の背景が『曖昧』にしか伝わってこない」という「組織の事情」ともいうべき難点を重視した中で、「幅広い従業員に評価に納得してもらう」道筋を示そうとするものです。
 著者は、「現状に満足できないが、とりわけ強い不満があるわけでもないという、多くのビジネスパーソンが人事評価において経験しているであろう『宙ぶらりん』な状態をイメージ」し、「こうした人々が、人事評価のおかしさに目を向けつつも、人事評価以外の様々な経験からなる職業生活全般を射程に入れながら、『実は全体としては、そんなに悪い日々を過ごしているわけではないのかもしれない』と思えるようになって」もらうとともに、「こうした状況に直面している評価者や人事担当者が、『人事評価制度の運用を可能な限りよりよくすることは諦めないものの、より視野を広げて他の取り組みも交えることで従業員を支えよう』という思いを新たにし、従業員とのかかわりをさらに築くこと」を目的として挙げています。
 第1章「人事評価の成り立ち」では、「日本企業では、ある年齢グループ内で相対的に優秀でないと判断される人を昇進レースから『ふるい落とす』ための手段として、能力評価を重視して」きたとして、「組織のピラミッドに合った形で年功序列的な人員配置を実現するために、能力評価を併せて導入した可能性もある」と述べています。
 そして、「人事評価上の様々な取り組みは、評価及び処遇における従業員間の格差を適切な形で設けたい、という企業側の問題意識によるもの」であり、「企業経営を円滑に進めるためには、評価の高低にかかわらず、従業員一人ひとりに納得してもらう必要がある」と述べ、「納得」について、「今後の仕事に対する前向きな気持の減退をともなわない、評価や処遇への従業員の反応」と定義しています。
 第2章「曖昧化する人事評価」では、従業員が感じる人事評価の問題点として、
(1)評価の結果そのものへの不満
(2)評価の背景が評価制度の「タテマエ」と異なっていると判断した上で抱かれる不満
(3)評価の背景がよくわからないことへの不満や不安
の3つのタイプを挙げています。
 そして、「人事評価における曖昧さは、良い場合でも従業員を不安に、悪い場合には不満に陥れる傾向にある」として、「曖昧さの原因の多くが、複数の評価者の複数の価値判断を評価に反映させざるをえないという人事評価制度の運用のあり方、ないしは、『原資の総枠をあらかじめ定めてから』といた経営側の大前提に由来するもの」であるため、「こうした構造的要因に対し、個人としての被評価者ないしは評価者は、基本的には無力」だと述べています。
 第3章「曖昧さの中での納得」では、「曖昧にならざるを得ない評価に従業員が納得する道筋」として、
(1)人事評価に関する当初の方針が実現しているのかどうかわからないような、曖昧な事態になっていることについて、それにはそれなりの事情があることを、評価者が置かれた状況を踏まえつつ理解することで、従業員が状況を受け入れられるようになること。
(2)自分自身の状況を振り返って、曖昧な人事評価を受け入れる。
(3)従業員が評価や処遇への疑問や不満を持っている自らを戒め、自分以外の人々によって行われる評価をむしろ「バイアスから解放されているもの」と捉える、ないしはそういう可能性を想定する。
(4)目の前の仕事に没頭する中で、評価や処遇への関心を弱める、あるいはそれを強く持つことをよしとしない。
などの点を挙げ、「企業から与えられる『過程の公正』に頼らず、従業員自身の『ものの見方』の変化により、結果として現れた評価や処遇に納得する」ことは可能だと述べています。
 また、「評価者には、人事評価制度の運用の中で公正さを可能な限り追求することが求められる反面、それが実現される可能性は必ずしも高いものでは」ないことから、「そこには過剰に拘泥せず、管理者としての日常の業務管理の質をさらに高めることに力を注ぐ方が現実的な対応と言える」と述べています。
 第4章「職場や従業員に寄り添う人事評価」では、「『公正な人事評価』を目指すことは当然ですが、それでも発生する想定外の事態に企業組織全体で対応するため、別の役割や目的も織り込んでおくことも必要」だとして、「現場の側が柔軟な運用をしやすいような人事評価制度を提案するためには、まずはこうした『ウラ機能』がいかなるものであるかを確認しておく必要」があるとして、
(1)評価の結果のみならず、それを生むに至る種々のコミュニケーション機会を活かして、従業員を動機づける。
(2)評価制度の運用を通じた動機づけのみならず、評価制度の転用を通じて、職場の課題達成を行う。
の2点を挙げています。
 そして、「企業組織にとってのみならず、従業員個人にとっても、人事評価が必要である理由」として、「人事評価というものは、企業が『適材適所』を実現するためのみならず、人びとが自らの適職を知る、すなわち『これだけできる』『ここならできる』ということを知るための必要な手段」でもあると述べています。
 本書は、人事評価の「納得」を支える隠れた役割に光を当てた一冊です。


■ 個人的な視点から

 人間誰しも、他者から「評価」されるということには抵抗のあることではありますが、組織にとっても個人にとっても重要な事なので理解を深めたいものです。


■ どんな人にオススメ?

・評価に抵抗感のある人。


2015年4月17日 (金)

地球の変動はどこまで宇宙で解明できるか: 太陽活動から読み解く地球の過去・現在・未来

■ 書籍情報

地球の変動はどこまで宇宙で解明できるか: 太陽活動から読み解く地球の過去・現在・未来   【地球の変動はどこまで宇宙で解明できるか: 太陽活動から読み解く地球の過去・現在・未来】(#2371)

  宮原ひろ子
  価格: ¥1,728 (税込)
  化学同人(2014/8/21)

 本書は、「地球の複雑な気候変動や地球史上の未解決の大事件は、どこまで、地球の外=宇宙からの影響で解明できるの」かという問いに答えるため、「地球を取り巻く太陽圏環境やそれを支配する太陽の物理、そして太陽圏を取り巻く宇宙環境の変動の解明」に取り組んでいる「宇宙気候学」について解説しているものです。
 著者は、こうした「地球が宇宙とつながっていて宇宙からの影響を受けているという視点で地球の変動をとらえようとする試みが本格化したのは、ここ十数年のこと」だと述べています。
 第1章「変化する太陽」では、「太陽系の惑星や衛星に存在する物質がバラエティーに富んでいるのは、かつて重たい恒星が存在し、それが死んだときの大爆発で様々な元素がつくられ、そしてそれらが集まって太陽系ができたから」だとして、「宇宙における物質の成分の変化は、恒星の進化と密接に関係して」おり、「地球上に存在する生命ももちろん、恒星の進化によってつくり出された元素が材料となって」いると述べています。
 そして、「17世紀に黒点の観測が始まってすぐの頃、太陽物理学において現在でも解明されていない重大な出来事が起こっていた」として、「70年にわたって黒点が姿を消し」たという「マウンダー極小期」が起きたと述べています。
 また、「太陽フレアなどの太陽表面で起こる現象が宇宙空間を伝わってくることによって、地球周辺の宇宙環境のよし悪しが大きく変わる」ことを「宇宙天気」と呼ぶと述べ、「今後、宇宙利用がますます進んでいくと、社会活動や宇宙活動への宇宙天気の影響はどんどん大きなものへとなっていく」ことから、「あらかじめ被害を小さくできるような対策を立てられるよう、宇宙天気の予報を確立することが重要になって」くるとしています。
 第2章「太陽の真の姿を追う」では、「太陽系の惑星はどれも、太陽圏の磁場に浸かっている状態で、太陽フレアなどが起これば強い磁場の乱れの直撃を受けたりもしますが、一方で、その太陽圏の乱れが宇宙線を遮ってくれてもいて、太陽圏に守られている存在でもある」と述べています。
 そして、「太陽圏はどのようにして地球に飛んでくる宇宙線を遮るの」かについて、「宇宙線はほとんどが荷電粒子ですので磁力線にくるくると巻きつけながら太陽圏の中へ侵入してこようとしますが、太陽風は常に外側に向けて流れていますので、全体としては、入ってきた宇宙線をベルトコンベヤーのように外側へ押し戻すような力が働いて」おり、「エネルギーの高い宇宙線はさらに太陽圏の内側へと侵入して」くるが、その際に、
(1)ドリフト運動:隣り合う磁場に少しだけ強さの違いがあると、荷電粒子は知らず知らずのうちに横方向に移動していってしまう。
(2)メアンダリング運動:カレントシートの上下では、磁力線の向きが逆方向になっているので、荷電粒子は、カレントシートの上下のどちらにあっても、同じ方向に力を受けることになり、時計回りと反時計回りの半円を繰り返し描くような形で、一方向に移動していく。
の「ふたつの特徴的な運動が宇宙線に起こ」ると述べています。
 第3章「太陽活動と気候変動の関係性」では、「さまざまな要因によって生じる気候変動のうち、太陽の影響としてすでに一般的に受け入れられている説」として、「太陽と地球との距離は周期的に変化」しているという「天文学的な要因によって生じる気候の周期的変動」を指す「ミランコビッチ・サイクル」を挙げています。
 そして、「太陽と地球の距離が10万年周期でゆるやかに変わることによってもたらされているのが、氷期と間氷期のリズム」だとして、「9万年ほど氷期が続くと、1万年ほど間氷期が訪れる」という「氷期―間氷期サイクル」を挙げ、「興味深いことに、間氷期に比べて氷期の方が太陽活動の影響が気候変動によりはっきりと表れて」いると述べ、「このことは、太陽活動と気候変動との関係性について何らかの重要な示唆を与える可能性」があるとしています。
 第4章「宇宙はどのようにして地球に影響するのか」では、「現代においては、太陽磁場の反転の影響は、宇宙線の変動パターンが11年ごとにわずかに異なるという程度にしか影響しませんが、マウンダー極小期では宇宙線の22年変動(実際には太陽周期が伸びたために28年周期)の振幅が増幅していたことに」なるとして、「これは、黒点が消失し、太陽表面の磁場の乱れが極端に減ったことで、太陽圏の構造にも影響が出ていたことを意味します」外江bています。
 そして、「宇宙線がどうやら地球の気候に影響している可能性が高そうだということがわかってきて」いるが、「問題は、宇宙線はどうやって地球の気候に影響するのだろうか、という点」だと述べ、「これは未解明な非常に難しい問題ですが、少しずつ研究が進んでおり手がかりは得られつつ」あるとしています。
 第5章「変わるハビタブルゾーン」では、「宇宙気候学の進展によって、ひょっとしたら解けるかもしれない地球史上のパラドックス」として、「太陽の進化を考慮すると、若い太陽が放出していた光の量は、現在の7割程度にしか及ばない計算になってしまう」ため、「生命が誕生したとされる38億年前は、水が液体では存在できなかったという計算になってしまう矛盾して」しまうという「暗い太陽のパラドックス」を挙げ、このパラドックスを解く可能性として、
(1)温室効果ガスが現在よりも多くて、温室効果が強く効いていた。
(2)実は太陽は暗くなかったのかもしれない。
(3)地球の白さ(アルベド)が減少していたことで、より効率的に太陽光を地表で受け取っていた可能性。
の3点を挙げています。
 第6章「未来の太陽と地球」では、「もし太陽活動がこのまま低下を続けると、地球にはどのような影響が生じる」のか、という問題について、
(1)メリットとしては、太陽フレアによって生じる宇宙利用への障害や宇宙天気災害は少なくなるだろう。
(2)銀河宇宙線は長期的に線量が高い状態が続く。
などを挙げ、「今後太陽活動がさらに低下することがあれば、一時的ではありますがさまざまな影響が見られるだろうと考えられ」るが、「温室効果ガスの増加や都市化の影響など、人間活動との影響を切り分けるのは非常に難しい」と述べています。
 本書は、地球を取り巻く宇宙との関係から地球の気候変動を解説した一冊です。


■ 個人的な視点から

 ゴアさんの影響のせいか、気候変動という言葉に何か「起きてはならないこと」であるかのような反応を示す人がいますが、長い単位では地球の気候は変動しまくっているようです。


■ どんな人にオススメ?

・地球の変化を理解したい人。


2015年4月16日 (木)

宇宙飛行士の採用基準 例えばリーダーシップは「測れる」のか

■ 書籍情報

宇宙飛行士の採用基準 例えばリーダーシップは「測れる」のか   【宇宙飛行士の採用基準 例えばリーダーシップは「測れる」のか】(#2370)

  山口 孝夫
  価格: ¥864 (税込)
  KADOKAWA/角川書店(2014/7/9)

 本書は、「JAXAの宇宙飛行士たちはどんな採用基準でその『ライト・スタッフ(正しい資質)』を見出され、『飛べる人材』として育てられ、宇宙へと飛び立っているのか」、そしてJAXAが「宇宙開発の最先端に、いかにして彼ら、飛べる人材を送り込んできたのか」を述べたものです。
 第1章「宇宙を『職場』にする生き方」では、「宇宙飛行士は人類の代表として宇宙へ行くという名誉と誇りのある職業であるとともに、常に危険と隣り合わせの、命がけの職業」だとした上で、「宇宙飛行士になるべく選抜試験に応募し、高い倍率の選考過程を進んでくる人はみな、飛び抜けて優秀な人材」であり、「幼い頃からの宇宙飛行士への憧れを携えてやってくる応募者の中には、将来の国益に大きな貢献をするであろう人、日本の産業を牽引するであろう人が、けっして少なくありません」と述べ、「日本の未来を担い、世界でトップクラスの仕事を成し遂げるような優秀な人材を採用することは、世界や日本の未来への影響と不可分であり、重大な責任が伴」うとしています。
 そして、「宇宙飛行士のプロフェッショナリズム」について、「出口は様々」としながらも、入り口は、「徹底的に技術を磨く」ことだと述べています。
 第2章「計算できない『心』をどう扱うか」では、「人間のパフォーマンスには、周囲の環境や健康状態といった物理的な要因、その時の気分や過去の経験などからくる心理学的な要因などが複合的に作用」しているため、「人間が使うものを設計するとき、人間のことを知らなくてはいいものはできない」と述べています。
 そして、「作業が忙しくなり、ストレスが増大すると、注意力が低下して仕事のエラーが起こり」、「予定通りに作業が完了しないばかりか、さらに重大な問題が起こることも想定」され、「最悪の場合、小さなエラーの積み重ねによって国際宇宙ステーションの緊急事態を招くこと」もあるとして、「宇宙飛行士のストレスをマネジメントすることは、宇宙飛行士の生命そのものに直結している」と述べています。
 また、「宇宙では、宇宙飛行士の恐怖や不安も『個人の問題』で済ますことはできません。国際宇宙ステーションで高い成果を上げ、彼らを地球に無事に還すために、それらをマネジメントする方法を絶えず考え続けるのも、私達の重要な仕事」だと述べています。
 さらに、2003年のスペースシャトル「コロンビア号」の事故に関して、「スケジュールや予算などスペースシャトル計画全体を束ねる管理部門が、専門家の集まりである技術部門を見下すような態度を取った」ことについて、「特に、管理部門の幹部に組織的な上下関係の意識が強く、『下位の者は自分たちの指示に従っていれば良い』といった言動が目立った」として、「NASA内の組織構造は、『権威勾配が異常に大きい』」ことを指摘し、「一般的にはこの勾配が急であるほど、その組織には柔軟性がなく、脆弱性が増える傾向があると言われて」いると述べています。
 また、「上司が注意するときに一番やってはならないこと」として、「あとで言おう」を挙げ、「タイミングを逃して注意してしまうと意味をなさないばかりか、いかに柔らかく言ったとしても、相手を傷つけたり、反感を買ってしまう」と述べています。
 第3章「宇宙飛行士の採用基準」では、「一般的なイメージでは、応募者の中からライト・スタッフ、つまり宇宙飛行士の資質を持つ適格者を私たちが見抜き、『ずばりあなた、採用です』と選び出していると思われているかも」しれないとして、「こうした、一定の評価基準を満たす適格者を集団から選ぶ方法を専門用語で『セレクト・イン(SELECT IN)』」と呼ぶとした上で、実際には、「不的確な人を母集団から排除していく方法である『セレクト・アウト(SELECT OUT)』を採用していると述べています。
 そして、「宇宙飛行士を見ていると、本当のフォロワーというのは本当のリーダー、本当のリーダーというのは本当のフォロワーだということに気づかされ」るとして、「自分が集団に対してできることを正しく把握でき、行動に移すことができる人にとっては、リーダーとフォロワーというものはただの役割の差でしかありません。フォロワーだけで終わる人、リーダーだけで終わる人というのは、実は集団行動における自己管理能力の段階で不十分」だと述べています。
 また、「宇宙飛行士の選抜基準をつくる上で大切なことは、宇宙飛行士の資質つまり『測るべき能力』と『測り方』がきちんと対応していること」だとした上で、「環境面、仕事面、心理・精神面から『測るべき能力』と『測り方』が適切に模索され、評価基準がつくられなければ『適切者』を選び出すことはできません」と述べ、「JAXAの選抜試験では常に、定性的なものを定量化して評価する仕組みを模索して」いるとしています。
 さらに、「私たちは自分たちの目が神様から程遠く不確実なことを知って」いるからこそ、「私たちは人の審美眼を時には正しく信じ、時には正しく疑うことが大切」だと述べています。
 第4章「『飛べる人材』の育て方」では、「心理学的な分析では、『怒られて伸びる』可能性はあまり高くない」として、「怒られるとその場では確かに被訓練者に学習が促されるのですが、長期的な視点で見ると、怒られて学んだことは忘れやすく、身につかないということが訓練の現場ではよく見られます。さらに、学習したことの応用力も低下するようです」と述べ、「心理学的には、信頼関係のある訓練者に、穏やかでストレスがかかっていない状況で教えられるほうが、被訓練者の頭にも入りやすく覚えやすい上に応用が効くとされて」いるとしています。
 そして、宇宙飛行士が訓練で使っている訓練教材や訓練設備の作り方について、入念なチェックを重ねて慎重に作成する理由として、「データが古い情報や間違った手順をトレーニングで身につけてしまうこと」を意味する「ネガティブトレーニング」を防止することを挙げ、「ネガティブトレーニングは、実際のミッションにおいて致命的なミスを誘発しかねないという点から見れば、訓練における最も重大な事故の一つといえるかもしれません」と述べています。
 また、「宇宙飛行士が仕事で失敗しないために身につけている能力の一つ」として、「状況認識(Situational Awareness: SA)」を挙げ、「情報探索・現状理解・将来予測」の3つが合わさったものがSAであり、「この3つのプロセスが相まって働いてこそ、事故が起こらない=失敗しない意思決定をすることができる」と述べています。
 さらに、宇宙飛行士の口癖として、「ビッグ・ピクチャーは何か?」というものを挙げ、「宇宙飛行士は常に、物事の詳細ではなく、まずは全体像を把握するための根幹を知りたいと考える」とした上で、「人が仕事でミスをするときは、不必要な情報が過剰に与えられ、膨大な情報の中で『間違い探し』を強いられていることが多い」と述べ、「『ムダな情報は捨てろ』と言っても怖くてなかなか捨てられない。しかし、捨てる勇気を持っている宇宙飛行士にはムダがありません。だから、コミュニケーションがうまいのです」と述べています。
 著者は、「JAXAの地上職員は、宇宙飛行士と一丸になって、訓練では失敗させ、実際のフライトでは失敗しないように共に命がけでミッションに挑んでいるのです。宇宙飛行士だけには失敗させません。私たちは成功だけでなく、失敗するときも、いつも一緒なのです」と述べています。
 本書は、宇宙飛行士がどうやって選ばれ、育てられているかの一端を窺い知ることができる一冊です。


■ 個人的な視点から

 『宇宙兄弟』の影響で、仕事としての宇宙飛行士についてのリアリティが高まったような気がします。


■ どんな人にオススメ?

・宇宙に就職したい人。


2015年4月15日 (水)

フロントランナー 挑戦する科学者

■ 書籍情報

フロントランナー 挑戦する科学者   【フロントランナー 挑戦する科学者】(#2369)

  日経サイエンス編集部 (編集)
  価格: ¥1,728 (税込)
  日本経済新聞出版社(2014/6/27)

 本書は、月刊科学雑誌『日経サイエンス』に連載している研究者の紹介コーナー「Front Runner 挑む」37人分ををまとめたものです。
 第2章「ミクロ・量子の世界を究める」では、産業技術総合研究所なのスピントロニクス研究センター長の湯浅新治の、「スピントロニクスはまだ歴史が浅く、何が出てくるかわからない。基礎科学の研究対象としてすごく面白い」という言葉を紹介し、「スピンとは電子が持つ微小な磁石としての性質。磁気データ記録など磁気工学は、このスピンのみを利用する技術だ」と述べています。
 また、東京大学大学院工学系研究科教授の香取秀俊の研究に関して、「時間はあらゆる量の中で、最も精密に測定できる量だ。だからあらゆる測定は時間に引き直して測ると精度が上がる」と述べています。
 さらに、物質・材料研究機構グループリーダーの高野義彦が、「最近、短期的な成果を求める風潮が強まっており、『リスキーな研究に挑む若い研究者がいなくなるのでは』と心配する」と語っていることを紹介しています。
 第4章「生き物に魅せられて」では、京都大学フィールド科学教育研究センター瀬戸臨海実験所准教授の久保田信の研究に関して、「多細胞生物の中現在、不老不死が確認されているのはベニクラゲとヤワラクラゲで、後者の不老不死性は久保田が発見した」と述べています。
 また、国立科学博物館動物研究部研究主幹の川田伸一郎が研究しているモグラに関して、「交尾や出産の模様は、自然界においても飼育中の実験室においても、観察報告が世界で一例もない」として、「これほど身近な動物で観察されていないのはモグラだけ」だとしています。
 第6章「次世代医療を担う」では、理化学研究所網膜再生医療研究開発プロジェクトリーダーの高橋政代について、2006年に理研に移籍し、「ほぼ無限に増やせるES細胞(胚性幹細胞)の方が移植には有望」と考え、「笹井らとES細胞から網膜色素上皮細胞や視細胞を分化誘導する方法を開発し、実現に一歩一歩進んでいた」ところで、京都大学の山中伸弥らが開発したiPS細胞に出会い、「山中から『臨床研究をお願いします』と言葉をかけられ」、「5年でやります」と答えて、山中を驚かせたと述べています。
 第7章「難病・感染症を克服する」では、熊本大学教授、米国立癌研究所レトロウイルス感染症部長、国立国際医療研究センター理事・臨床研究センター長の満屋裕明の研究について、「エイズは25年で、『死に至る病』から『持病』のひとつになった」として、状況を変えた25種類の承認された薬のうち、「満屋はうち4つを見出した」と述べています。
 また、国立感染症研究所感染病理部部長の長谷川秀樹が研究しているインフルエンザワクチンについて、「長谷川のワクチンが従来のワクチンと決定的に異なるのは投与法だ。皮下に注射するのではなく、スプレーで鼻の中に噴霧するもので、『経鼻ワクチン』と呼ぶ」として、「中には死滅させたウイルスが入っており、これが粘膜に付着すると、ウイルスに感染した時と同じ免疫反応が起きて、鼻や喉、腸などの粘膜にIgA抗体が分泌される。その後本物のウイルスが鼻や喉にやってくると粘膜のIgAが結合し、感染をブロックする」と述べています。
 第8章「地球を見る・探る」では、東京大学地震研究所高エネルギー素粒子地球部地学研究センター教授の田中宏幸の研究について、「ニュートリノで地球の中を見てみたい」という目標に対して、「遠い銀河などから地球に飛んでくる宇宙ニュートリノを観測するために南極に建設された国際共同施設『アイスキューブ』で、地球内部を調べるプロジェクトが進行中だ」と述べています。
 本書は、科学の最前線で戦う科学者の素顔を追った一冊です。


■ 個人的な視点から

 科学の最先端のいる人達の顔ぶれは一度は見てみたいと思うものです。


■ どんな人にオススメ?

・科学の最先端を覗いてみたい人。


2015年4月14日 (火)

車両を造るという仕事―元営団車両部長が語る地下鉄発達史

■ 書籍情報

車両を造るという仕事―元営団車両部長が語る地下鉄発達史   【車両を造るという仕事―元営団車両部長が語る地下鉄発達史】(#2368)

  里田 啓
  価格: ¥864 (税込)
  交通新聞社(2014/04)

 本書は、「鉄道にめざめた少年時代から、戦火をくぐり抜け苦学を続けた学生時代、戦後の厳しい世情のなか晴れて営団地下鉄(現・東京メトロ)に就職し、新造車両の開発・設計などに従事した『鉄道人生75年』を記した自伝」です。
 序章「鉄道少年だった頃」では、小学校5年生くらいの頃に、「大人になったら鉄道の仕事をしたい」と思い始め、「好きなことをやりたいという子供の精神状態のまま成人した極めて単細胞の人間だったと、今になってつくづく感じている」と述べています。
 第1章「鉄道をめざして」では、「子供の頃から記者や電車が好きで、小学校高学年の頃には、将来、鉄道車両関係の仕事をしたいと思うようになっていた。振り返ってみると、その後、変化も進歩もなく、中学の高学年になっても全く同じ道を歩んでいた」と述べ、その後、中学の友人の兄から、「鉄道に勤めて車両の仕事をやりたいのなら、電気工学科ではなくて機械工学科を受けなさい」との助言を受け、「機械工学科を目指すことに転向した」と述べています。
 第2章「新米車両課員の日々」では、1954年に著者が入団した当時、「時間的にのんびりと仕事をしていた。朝は9時半出勤、夕方4時半には退社していたので、驚いたものだった」が、「それはその年のうちに『9時・5時』の世間並みに改められた」と述べています。
 そして、「とても意外だったのは、設計担当とは言っても、自分の手で設計するのではなく、メーカーからの提案を主体に、自分の判断も加えながら構想や条件をまとめるのが仕事だということだった」と述べています。
 また、初の関西出張の際に、「課長から『酒はいくら飲んでも構わんが、金と女はダメだよ』という注意があった」と述べています。
 第3章「日比谷線3000系の開発」では、1960年代半ばに、「識別を容易にするために路線カラーが決められ、車両もほぼこれに合わせた帯を設けることになった」ことに関して、「銀座線のオレンジは1927(昭和2)年の開業用車両の制作にあたって、ベルリン地下鉄の淡黄色を参考にしたが、戦中・戦後のドサクサで色見本が紛失、記憶で再現したものがやや濃い目になり、さらに色見本を作り直すたびに次第に濃くなってしまった」と述べています。
 また、連絡ミスの失敗談として、日比谷線の3000系の側窓の高さが低くなっていたため、駅の壁の駅名表示の「下のほうの隣の駅名はわかるのだが肝心の当駅名が車体の幕板に隠れて半分見えなくなってしまっていた」と語っています。
 第7章「千代田線6000系の開発」では、6000系の試作車構想を総裁に話した時に、国鉄出身の牛島総裁が、「よかろう、やってみろ」と製作を決定したことについて、「以前から技術的な問題にも前向きだった。その点でも全社一丸となっているように感じていたが、小生の営団在勤中、この気風はこの頃が絶頂だったような気がする」と語っています。
 第8章「初めての海外出張」では、当時は、「課長以下職員一同と、車両部各現業の幹部諸侯、それに奥方とその両親も合わせて何十人という見送り。万歳三唱の声に送られて搭乗口へ進むことになる。当時は家族が見送りに来ないと『あの家はおかしいんじゃないの』という風評が立つような状況だった」と語っています。
 第9章「千代田線直通運転と6000系量産車」では、「6000系設計のアルミ車体やチョッパ制御の導入は、当初、消費電力量の低減による経済性の追求がその目的だった」が、「1973(昭和48)年に起こった第1次石油危機は、省エネルギーという思想を日本全土に定着させ、6000系も省エネルギーという観点からも、一躍脚光を浴びることになる」と述べた上で、会計検査の際に、検査員から「国鉄の車両は従来方式のようですが、営団線内では随分、電気をくうのでしょうね」と質問され、「では、その差額はどうしていますか? 国鉄からもらっていますか」との指摘を受け、「その後の折衝と、会計検査院からも国鉄に直接の指示があって、相互直通の紳士協定ゆえに営団としては不本意ではあったが、毎年、国鉄と、後に小田急から数千万円の払込みを受けることになったそうだ」と述べています。
 第12章「半蔵門線8000系の開発」では、1978(昭和53)年2月28日の夜、「営団時代を通じて一生忘れられない大事故が発生した」として、「突風のため」、東西線の電車が転覆した事故について、「秒速98メートルというものすごい竜巻によるもので、こうした事故に遭遇するのは1000年に1回の確率だとのことだった」と述べています。
 第13章「車両部長の仕事」では、「正月、初出勤の日は、たいていは1月4日になるのだが、朝、出勤すると、まず、役員と部長クラスが役員会議室に集合して総裁のご挨拶。どこでもおなじことだろう。軽く乾杯して部に帰り、すずに車両部の新年会。テーブルの上を年末に片付けておいて、ビール、日本酒と、おつまみが並ぶ。部長としての年頭の挨拶とその年に予定されることの概要を説明、希望と期待を述べるのが習慣だ。これも多分、当時の常識的な日本のしきたりだった」と語っています。
 終章「二兎を追う者」では、「メーカーに行って最初に感じたのは、鉄道車両のような受注産業では、ユーザーが大小のコンセプトと設計方針をしっかりと持って、それを明確に指示してもらわないとメーカーは動けないということだった。それがはっきりしないと製作に取り掛かれないから、ことは重大だ」と述べています。
 本書は、鉄道に魅せられた少年が、鉄道を一生の仕事にした一冊です。


■ 個人的な視点から

 男の子は鉄道好きが多いですが、鉄道に携わる仕事をしたいという夢を本当に叶えられた人は羨ましいです


■ どんな人にオススメ?

・鉄道は男のロマンだと思う人。


2015年4月13日 (月)

科学はなぜ誤解されるのか: わかりにくさの理由を探る

■ 書籍情報

科学はなぜ誤解されるのか: わかりにくさの理由を探る   【科学はなぜ誤解されるのか: わかりにくさの理由を探る】(#2367)

  垂水 雄二
  価格: ¥821 (税込)
  平凡社(2014/5/16)

 本書は、「『進化論』と『利己的な遺伝子』を例にとって、科学的概念をめぐる誤解がどのようにして生まれるか、その背景を明らかにすることで、科学コミュニケーション論への一つのアプローチを示して」いるものです。
 著者は、「学術的な用語や概念の誤った理解や使われ方は、生物学に限らず、現代のあらゆる自然科学にみられる現象である」と述べ、その原因として、
(1)学術用語は新しく造語される場合でも、日常語に限定を付けて転用されることが多く、読者がそれを一般的な意味として受け取れば、そこに誤解が生じる。
(2)読者は結局のところ、与えられた科学的概念や法則のうちで自分に都合のいい部分、都合のいい解釈だけを採用する傾向を持つ。
の2点を挙げています。
 第1章「科学的コミュニケーションを損なう要因」では、「メディアが誤るいくつかのパターン」として、
(1)記者が自分の偏見や思想のために、科学的に許容される以上の意味を読み取って誇張するというパターン。
(2)発表された論文をよく内容がわからないままに過大評価する。
の2点を挙げています。
第2章「騙されやすさは人間の本質――知覚の落とし穴」では、「多くの人は自分が体験したことが事実だと信じていて、科学的な説明によって否定されると、世の中には科学で説明できないことがあるのだと強弁する」が、「科学的に説明可能なことをわざわざ非科学的な理論で説明する必要はない」とした上で、「敵や餌の存在を見つけることが主目的であるため、生物の感覚にはいくつかの特性がある」として、
(1)補正能力:断片情報から全体情報を得たり、環境データを考慮に入れて調整できる。
(2)感覚順応:感覚情報は外界条件の絶対値を告げるよりもむしろ、変化の大きさすなわち変化の加速度を告げる方が重要である。
の2点を挙げています。
 第3章「複雑な現象の理解は簡単ではない」では、「Aという出来事のあとにB。という出来事が一定の割合で起これば、A」とB。のあいだには相関(先後)関係があるといえるが、この相関関係を因果関係とみなして神経回路に組み込む」条件反射について、「進化論的にいえば、この誤謬は生き残るための便法として人間の脳がこしらえ上げたもので、どうやらそういう回路が脳に組み込まれているらしい」と述べています。
 そして、「統計は複雑な確率的事象を分析する上で重要な道具だが、時には直感に反する結論を導くこともある」として、「数字が出てくると、それだけで科学的だと思い込んで信じてしまう人の心の弱みにつけこむ」ことも簡単だと述べた上で、対照実験と同じような考え方の問題として、「背景(バックグラウンド)値の無視にも見られる」と述べ、「2012年の8月に琉球大学の大瀧准教授らが、福島付近のヤマトシジミというチョウに大量の異常(奇形)が見られ、それが放射能の影響ではないかという論文を発表して大きな話題を呼んだ」ことについて、「この論文そのものは、科学論文として重大な欠陥がある」として、著者本人が、2年前に「寒さが原因となる異常が多いこと」について論文を書いていることについて、「北に行くほど変異率が高くなるはずだから、『寒さではなく放射能が原因』という結論を導くのであれば、北方のチョウとの比較をしなければ、対照の意味をなさない。ゆえに結論はともかく論文としては信頼性が乏しいと判定せざるをえない」と指摘しています。
 著者は、「統計は見えないものをわからせてくれる強力な科学的武器ではある反面、数字を出すことによって、さしたる根拠のない推測を、まるで科学的な裏付けのある心理のごとく思わせる力がある」と述べています。
 第4章「誤解されるダーウィン――進化論再入門」では、ダーウィンが『種の起源』を執筆した動機について、「当時の知識人の圧倒的多数が信じていた、『すべての種を髪が一つ一つ別々に創造された』という個別創造説(special creation theory、直訳して特殊創造説とも呼ばれる)に対して、異議申立てをする」ことだったと述べています。
 そして、「種が変化する、進化するという考えは彼の時代に受け入れられたが、肝心の自然淘汰の概念は歪曲された形でしか評価されなかった」として、「環境により適応したものがより多くの子孫を残すという自然淘汰の穏やかな作用は、血まみれの弱肉強食の闘いへと姿を変えてしまった。そして、強いものが弱いものを打ち負かしていいという資本主義・植民地主義擁護の論理へと転換していく」と述べ、ダーウィンの進化論と社会ダーウィン主義との根本的な違いとして、「後者には自然淘汰による形質の分岐、種分化という視点が全く欠落していること」を指摘しています。
 また、「ダーウィン革命」の実態について、
(1)「種が変わる」という認識。
(2)すべての生物が共通の祖先を持つという認識は、人間を自然界における特別な位置から引きずり落とし、人間の祖先は何かという問いを引き起こした。
(3)弱肉強食・最適者生存という矮小化された自然淘汰の原理と、進化は進歩と同義で歴史的な必然であるという認識が、帝国主義や植民地主義、あるいは人種差別や優生学にお墨付きを与えたこと。
の3点を挙げています。
 第5章「『利己的な遺伝子』をめぐる誤解」では、ドーキンスの『利己的な遺伝子』に対する批判として、
(1)「利己的」という言葉の使い方。
(2)生物個体ではなく遺伝子を進化の単位とすること。
の2点を挙げ、「『利己的な』遺伝子という誤解を招きやすい擬人的な表現をあえて使わなければならなかった理由」として、「『遺伝子が利己的だ』と言っているわけではなく、『利己的なのは(個体ではなく)遺伝子なのだ』と言っている」と述べています。
 あとがきでは、「科学的な情報を一般の読者に伝える上で問題になるのは、直感的に理解し難いことをどうわかりやすく伝えるかという点」だとして、「科学啓蒙書の翻訳を主たる仕事」とする中で、「本のできは、なによりもまず原著の質に左右される。先端的な学問の内容をわかりやすく、しかも面白く読ませるのは原著者の能力である」と述べています。
 本書は、科学が理解されにくい原因を整理して論じた一冊です。


■ 個人的な視点から

 多くの人たちが「理科」や「物理」などを学校で学んだ社会では、皆が自分では「科学」のことを解っていると思っていることが面倒なのかもしれません。


■ どんな人にオススメ?

・科学的に物事を考え伝えたい人。


2015年4月12日 (日)

ネットに奪われる子どもたち

■ 書籍情報

ネットに奪われる子どもたち   【ネットに奪われる子どもたち】(#2366)

  清川 輝基, 山田 眞理子, 古野 陽一
  価格: ¥1,728 (税込)
  少年写真新聞社(2014/5/27)

 本書は「ネット社会やスマホの爆発的な普及が子育てのあり方や子供の発達環境をどう変え始めているのかを検証し、その結果子どもたちの育ちにどんな影響が生じるのかを考え」た上で、「ネット依存を含む広義のメディア依存やネット社会のトラブル、落とし穴に子どもや若者が落ち込んだり巻き込まれたりすることをどうすれば防ぐことができるのか、そのための家庭のあり方や社会的対応」について論じたものです。
 第1章「スマホ パンデミック」では、「場所の制約も時間の制約もなくあらゆる場所で、人々は画面の向こうのネットの世界にハマっています。まさに、スマホパンデミックです」とした上で、「ネット社会になって、明らかに私たちの暮らし、時間とお金の使い方」は変わったが、「失ったものや失いつつある世界があるのも忘れてはいけません」としています。
 第2章「スマホ社会で深刻化するメディア依存とネット依存」では、「日本の子どもたちの発達をどう保障するかという立場で、子どもたちのメディアとの関わりを考えるとき、狭い意味のネット依存だけでなく、多様なメディア機器に対してのメディア依存や長時間接触が起きていることを視野に入れて論じる必要」があると述べています。
 そして、メディア依存の状態として、
(1)仮想世界志向
(2)禁断症状
(3)耐性
(4)日常生活の支障
の4点を挙げています。
 また、メディア依存の仕組みとして、
(1)「報酬の回路」:何かの状況に対して取った行動が、「生き残るのに都合の良い結果」だった場合、「うまくいった!」という情報を集めてきて、脳の中心部にある「側坐核」という場所にドーパミンを放出する。
(2)「不安の回路」:なにか恐怖や困難や不安を感じたときに働き、前頭前野にドーパミンが放出され、行動が抑えられる。
の2つの回路を挙げ、「電子ゲームは、この教科学習の仕組不安の仕組みを積極的に利用」し、「この不安―教科学習の仕組みが、自然な状況ではありえない頻度で繰り返され」る結果、「ドーパミンの放出や回路の感度に異常が起き始め」ると述べています。
 さらに、メディア依存、ネット依存の背景として、「多くの場合、子どもたちにとって学校や家庭が楽しく過ごせる居場所となっているかどうかが問題と」なると述べています。
 第3章「広がるスマホ子育て」では、スマホ育児の特徴として、
(1)子どもをおとなしくさせるのに便利なため、安易に使う。
(2)親の視線が子どもに向いておらず、子どもの視線も親に向いていない。
(3)スマホやタブレット端末が子どもの手元や手近な場所にあるため、子どもが勝手に操作するなど、時間や使用内容をコントロールすることはきわめてむずかしい。
の3点を挙げています。
 そして、スマホ育児の落とし穴として、
(1)依存症への落とし穴
(2)事故・育児放棄への落とし穴
(3)愛着形成不全への落とし穴
(4)人間になれない! 発達不全への落とし穴
の4点を挙げています。
 第4章「スマホ社会の子どもたち」では、「スマホ社会では、かつてマニアと呼ばれる人々やケータイを持つ若者の一部が落ち込んでいったネットの闇の深みにその何千倍、何万倍の子ども・若者がハマって行く危険性をはらんで」いると述べています。
 第5章「ネット中毒対策先進国『韓国』に学ぶ」では、「ネット中毒からの脱出を目的に集団の合宿形式で行う治療方法」である「ネット中毒治療キャンプ」などを紹介し、「韓国のネット中毒対策は、健康な生活、自己表現、子どもの自立など『子どもの最善の利益を取り戻す』ことを土台に置いたもの」だと述べています。
 第6章「社会がネットに奪われる前に」では、「スマホやタブレット端末の普及が進む前から、国際調査(IEA2003年)などで日本の子どもたちの電子映像メディア接触時間は世界一長いことが明らかになり、日本の子どもたちの心身の発達の遅れや歪みにつながることが懸念されて」いたとした上で、「スマホやタブレット端末の普及で状態はさらに悪化し始め」たとして、
(1)乳幼児期からの電子映像メディアへの接触がまるで変わり、メディア接触がいわば“無法地帯化”していること。
(2)中高生や大学生のコミュンケーション手段の変化。
(3)子どもたちや若者たちの情報入手の手段がネットの世界だけに単純化されたこと。
の3点を挙げています。
 そして、スマホで育つ子どもの「人体実験」の結果、
(1)子どもの「劣化」が加速
(2)人とつながれない、言葉が出ない
(3)幼児性、短絡的思考の氾濫
(4)親子の愛着形成に強いダメージ
などの変化に対する懸念を示しています。
 第7章「家庭で取り組むメディア依存対策」では、メディア依存に陥りやすい子供の特徴として、
(1)自己表現が苦手
(2)直接的な人とのコミュニケーションが苦手
(3)家族との関係が希薄
(4)自己コントロールの能力が育っていない
の4点を挙げ、「子どものメディア依存を予防したり、改善していく上でこうした基本的な部分の発達を促すことがまず重要なポイント」となると述べています。
 そして、子どもからメディアに関する要求が出たときに、「その機会を子どもの自己表現や自己コントロール力を育てる成長のチャンス」にするためのポイントとして、
(1)「約束」
(2)約束を守るための「イエローカードとチャンスゲーム」
(3)「親の聞く力」
の3点を挙げています。
 第8章「学校・地域ぐるみの制度づくりを」では、「全国各地の中学校・高校で、生徒自身がスマホ・ネット機器との関わり方を考え、自分たちでルールを作る動き」が広がっているが、「生徒同士のルールづくりの範囲のとどまっていると、生徒はルールを守る意識を継続することは難しく、なし崩しにゆるんで」行くと指摘し、「生徒の学習権・生活権の保障の観点を持ち、生徒指導効果が維持される制度化が不可欠」だと述べています。
 本書は、子どもたちへのネットの普及に社会がどう応えるかを考えた一冊です。


■ 個人的な視点から

 昔は子どもとPCとの距離は遠く直感的に操作できるものではありませんでしたが、スマホは幼児でも操作できることのマイナス面があるようです。


■ どんな人にオススメ?

・ネットから子どもを取り戻したい人。


2015年4月11日 (土)

国境の人びと: 再考・島国日本の肖像

■ 書籍情報

国境の人びと: 再考・島国日本の肖像   【国境の人びと: 再考・島国日本の肖像】(#2365)

  山田 吉彦
  価格: ¥1,404 (税込)
  新潮社(2014/8/29)

 本書は、「日本は世界で6番目に広い『海』を持つ国」だとして、「北は択捉島から南は沖ノ鳥島、東は小笠原諸島、西は与那国島と津々浦々の島々」を回り、「国境で生きる人々の生活を紹介する」ものです。
 第1章「『紛争の現場』最前線」では、尖閣諸島について、「最盛時には、99世帯248人が暮らし、魚釣島に古賀村を形成していた」が、1940年に「戦時色が濃くなり離島の生活も穏やかではなくなってきた」ため、「この島を人々は引き払い、無人島となった」と述べています。
 そして、「まず、日本がすぐにしなければいけないことは、島の自然も含む海洋環境の保全と水産資源の維持管理である。そして、尖閣諸島をいかなる国にも軍事拠点にさせないことだ。日本が尖閣諸島を責任を持って管理することが、東シナ海の環境、水産資源を守り、東アジアの平和を維持することにつながるのである」と述べています。
 また、「近年、東シナ海で中国漁船は、トラ網という大型の巻き網を使った漁法で魚を獲っている」ことについて、「おびただしい数の中国漁船が東シナ海で操業を始めたのは、2000年の新日中漁業協定発効後である」と述べています。
 さらに、「歴史的に見ても日本の海洋警戒の役割は漁業者に負うところが大きい」が、「近年、日本の漁業者が急速に減少し、海洋の安全を監視する目が少なくなってしまった」と述べています。
 第2章「離島で生きる知恵」では、「現在、小笠原諸島で一般人が済むのは、父島と母島だけである」として、「この島民たちは、『欧米系島民』『旧島民』『新島民』の3つのグループにコミュニティーがわかれている」と述べ、「小笠原諸島の人口推移は、移民、入植、戦争による疎開、帰還など、時代に翻弄され変化に富んでいる」としています。
 また、与那国島について、「最も近い都市は、石垣市ではなく台湾の花蓮市だ」として、「第二次世界大戦後、与那国島と台湾の間に国境線がひかれるまで、この2つの島の文化は一体であったと言っても過言ではないだろう」と述べ、終戦までは、「与那国島での生活に使う日用品は台湾から運ばれ、子供たちは、教育を受けるために台湾の高校や大学へ行き、大病を患った時には台湾に運ばれ治療を受けた」としています。
 そして、「今、早急にしなければならないことは、日本の海域で外国漁船がどのような漁業をしているのかを正確につかむことである。そのために、国境離島の漁師に協力を仰ぎ、現状報告を集めることが有効だろう。そして、外交筋も含めて総合的な漁場管理の検討をしなければならない」と述べています。
 第3章「忘れ去られし島々」では、「最盛期には、20万人を超えていた奄美群島の人口も、今では12万人ほどに減少した。群島内には大学がないため、高校を卒業した若者の多くは、島を離れ都会で学び、そのまま就職する島では、仕事が少なく若者が帰ってきても職場がないのだ」と述べています。
 また、甑島について、「現在、全国の離島の中でも際立つほど、激しい過疎化、高齢化に襲われている。1950年には、2万5000人弱いた人口が、今では5500人ほどにまで減少した」として、「島では子供の減少が続き、小、中学校の存続も危うくなっている」と述べています。
 また、八重山諸島の竹富島について、「島の小中学校に子供がいるか、いないかは島の存続を左右する大問題であり、仮に子供を集めることができたとしても、県の教育委員会が理解を示し教員が手配されなければ、一旦閉鎖された学校の再開は叶わない。過疎化の進んだ集落の存続には、県の教育委員会の意向が大きく関与するのだ」と述べています。
 第4章「国境の未来像」では、「台湾との友好関係の構築は、観光分野をはじめとした経済交流を促進し、米軍基地に依存しているといわれる沖縄社会の変革の要にもなる」とした上で、「日本の主権の下で、中国、台湾と協力して東シナ海を管理することが理想だ。そのためには尖閣諸島の管理において、思い切った対応も必要だろう」と述べています。
 また、「国後島は日本人に見せるために体裁を整えただけの『虚構の島』だと、私は分析している」と述べています。
 終章「海外から日本の国境を見る」では、「世界的には、日本は国境紛争を抱える国と見られている。ロシアに占領されている北方領土、韓国に侵略されている竹島、この2つの国境問題を抱えている上、さらに中国が尖閣諸島への進出を始め新たに領土が脅かされているからだ」と述べた上で、「国境を守るということは、日本という国の文化、民俗、秩序を守り、人々の平和で安定した暮らしを支えることにほかならない。互いに国家の主権、とりわけ国境を尊重していれば、本来、隣国同士のいさかいは起こらないはずなのである」と述べています。
 著者は、「日本の国境を守るにあたり、隣国を始め諸外国がどう見ているのかも考え、手立てを講じる必要がある。そのため、諸外国に日本の主張を理解させることが重要だ。今の日本に必要なのは、日本の主張を威厳を持って他国に伝え、納得させる外交広報戦略なのである」と述べています。
 本書は、日本の国境の現実を知らせようとする一冊です。


■ 個人的な視点から

 日本では海外に行くときは飛行機が中心なので国境を意識することは少ないですが、一度行ってみたいものです。


■ どんな人にオススメ?

・国境に行ったことのない人。


2015年4月10日 (金)

美味しさの脳科学:においが味わいを決めている

■ 書籍情報

美味しさの脳科学:においが味わいを決めている   【美味しさの脳科学:においが味わいを決めている】(#2364)

  ゴードン・M・シェファード (著), 小松淳子 (翻訳)
  価格: ¥2,646 (税込)
  合同出版(2014/4/30)

 本書は、食物の「風味」自体は、「脳が生み出す創造物」であるとして、「風味の科学的解明を目指す新たな試み」であり、「脳がにおいのイメージを生み出すメカニズムを追い続け」る「ニューロ・ガストロノミー」について説明するものです。
 序文「新しい風味の科学『ニューロ・ガストロノミー』」では、「多くの研究者たちが風味に関する新たな科学的知見を着々と積み上げていながら、互いの分野の成果を殆ど知らずにいる」とした上で、注目した点として、
(1)食べ物や飲み物を噛んだり飲み込んだりしたときに、においが呼気に乗って口の奥から鼻道を遡るから、私たちは風味を感じる。この裏手の経路で運ばれるにおいを「レトロネイザル(後鼻腔)経路のにおい」といい、花から嗅ぐにおいである「オルソネイザル(前鼻腔)経路のにおい」という。
(2)レトロネイザル経路で運ばれるのだから、「風味の主役はにおい」である。
(3)何であれ特定のにおいを嗅ぐと脳活動にある空間パターンが生じる。これらのパターンは「においのパターン」として機能するもので、匂いが違えばイメージも異なる。
(4)感覚器官にある受容体分子や受容細胞の数こそ他のほ乳類にとうてい及ばないかもしれないが、人間の「脳は大きい」ため、小さな脳には手に余る複雑な情報処理を行える。
の4点を挙げ、「今必要なのは、風味解明の起点を脳において、脳が感覚刺激をどのように受け取るかだけでなく、受け取った感覚刺激から『脳がいかにして能動的に風味の感覚を創りだすか』というところまで明らかにすることだ」と述べています。
 第1章「においと風味の研究の革命」では、「においと風味を取るに足りないものとする世間一般の通念は、長きにわたって事実と食い違ってきた」として、「実際には、人間は日常生活の中で匂いと風味に高い価値を見出し、その結果として誕生した経済勢力が人間社会を牽引してきた」と述べています。
 そして、「レトロネイザル経路のにおいは口中で生まれる。体内で生まれる唯一の遠隔性の感覚(味覚や触覚のように知覚対象物と直接接触せずに感知できる感覚)」であり、「同じ口中の他の感覚、主に味覚と触覚の刺激を嫌でも伴う。さらに、食物が口中にあるわけだから、レトロネイザル経路のにおいは咀嚼する時の舌、顎筋、頬の運動とも切り離しては考えられない」ことから、「能動的な感覚」だと述べています。
 第2章「犬と人間の嗅覚を比べる」では、「犬の鼻が主として周囲のにおいを嗅ぎとるのに適しているのに対し、人間のそれはにおいを風味の主要特徴として感じ取るのに何より適している」と述べています。
 そして、「重要なポイントはオルソネイザル嗅覚の退化ではなく、レトロネイザル嗅覚の強化を推し進めた鼻腔と喉の奥との関係にある」と述べ、「人間にとってレトロネイザル嗅覚が重要と考えられる理由」として、
(1)人類の祖先が二足歩行をして行動範囲を広げた結果、主食と、ひいてはレトロネイザル経路で感知するにおいも、多様化していった。
(2)火を手に入れたことで、人間の食物はにおいも味も豊かになった。
(3)発酵食品や発酵飲料が誕生し、食物の多様化がさらに進んだ上に、味、におい、風味が強まった。
の3点を挙げています。
 第3章「口が脳をたぶらかす」では、「口中から放出された分子によるにおいは他の感覚とすっかり溶け合った状態で知覚される」として、「鼻で感知したにおいを口で風味と感じるのは、神経系が持つ『投射性感覚』と呼ばれる特性」であり、「レトロネイザル経路のにおいの場合は、別の部位に投射されるばかりでなく、投射された部位のさまざまな感覚の中に身を潜めてしまう」と述べています。
 そして、「個々の食物にはそれぞれ独特のにおい分子組成があって、それが調理の仕方で変化する。食物そのものに風味があるわけではない。食物は脳が風味を創り出すための原材料なのだ」と述べています。
 第5章「におい分子の受容体」では、「個々の嗅覚受容体が持つ応答スペクトルはかなり広い上に、相互に重複している」とした上で、「色を知覚させる光の波長は一次元で変化するのに対し、におい分子は、先にお話したように、それぞれにあらゆる形で異なる」として、「においの空間のこうした多次元性が、脳内表象に際して特殊な問題の種となる」と述べています。
 第6章「感覚イメージの形成」では、「視細胞の発火強度は隣接する視細胞の活動電位によって左右される。強く発火した細胞はより強く、弱く発火した細胞はより弱く応答する」と述べています。
 そして、「視細胞間の側方抑制的な連絡」が行われるため、「光刺激を受けて強く興奮した境界部の細胞は弱い刺激を受けた細胞に対してより強い抑制作用を示し、弱い刺激を受けた細胞は強く興奮した細胞に対してより弱い抑制作用を及ぼす」と述べ、「このメカニズムを『側方抑制』と呼び、側方抑制が生む作用を、明るい部分と暗い部分の差が境界部で強調されることから、『コントラスト強調』という」としています。
 また、「眼の視細胞群によって形成される脳内イメージは、カメラが低コントラストで捉える画像のような実際の視覚情景に忠実なイメージとは異なる抽象化されたイメージ、それも、視覚情景のエッジ、すなわち輝度が変化する辺縁部が抽象化・強調される一方で、輝度に変化のない視野の残りの部分は抑制された、高コントラストのイメージなのである」と述べています。
 さらに、「この章で考察した原理は、二次元のシート状網膜におけるイメージ表象に始まり、側方抑制、コントラスト強調、中心・周辺拮抗作用、特徴抽出に至るまで、すべてがあらゆる感覚系における脳内イメージ形成に極めて重要な役割を果たす」と述べています。
 第7章「においの空間パターン」では、「においが脳で知覚されるまでの経路は、嗅細胞から出発して、嗅球、嗅皮質、眼窩前頭皮質嗅覚野など、幾つもの脳領域を通過する」とした上で、「嗅球は風味の主要構成要素であるにおいのイメージの形成にきわめて重要な役割を担っている」と述べています。
 第8章「においは顔に似ている」では、「嗅球がにおいのイメージを形成しても、私達はそれを意識しない」理由として、「においのイメージが表彰するのは実際のにおいの世界ではなく、『脳がにおいの世界を表象する仕方』だけだからではないだろうか」と述べています。
 第9章「においのイメージは点描画」では、「嗅球におけるにおいの初期イメージの処理」について、「点描イメージを形成し、局所で処理し、全体的にフォーマットし、記憶に表象し、情動によって強調し、意識的に知覚する」と述べています。
 第10章「イメージの強調」では、「嗅球には2つの処理段階がある」として、
(1)糸球体層で、におい分子を表象するイメージの形成と、イメージ処理の準備としてのSN比改善および側方相互作用がここで行われる。
(2)段落間の連絡役を務める大型の細胞、僧帽細胞と、その小さな相方である房飾細胞は、糸球体内に伸ばした樹状突起の分枝で受容体からの入力を収集して、処理済みのシグナルを長い主樹状突起で第2段階に転送し、さらに長い軸索を介して嗅皮質へと出力する。
の2点を挙げています。
 第11章「嗅皮質への注目」では、「最新の研究で、嗅皮質はヒト脳風味系の要と呼ぶにふさわしい、注目に値する特性を備えていることが明らかになっている」として、「嗅皮質が、におい刺激の特徴抽出段階から知覚されるにおいの質の創出段階へと移行する場所である」と述べ、「嗅球で抽出された臭い刺激のイメージから、嗅皮質は、人間が統合された匂いを知覚するための基盤、『嗅対象』を創り出す」としています。
 そして、嗅皮質の主要な神経細胞である「錐体細胞は言うなれば、大脳皮質の最高経営責任者、CEOだ」として、「このCEO、錐体細胞は、自らの軸索の分枝を介して二通りの行動を取れる」と述べ、
(1)インパルスを送って、社員に発破をかける、つまり、介在ニューロンを興奮させる。
(2)興奮した錐体細胞とその近傍の錐体細胞への興奮性のフィードバックも行う。
の2点を挙げています。
 第12章「嗅覚と風味」では、「嗅対象を、人間にとって意味をなす形で『読み取る』存在」とである「新皮質の出番となる」と述べています。
 そして、嗅皮質が、霊長類と人間の脳の最高中枢とみなされている前頭前野に狙いを定めて出力するため、「嗅覚は他の感覚が持たない特権を幾つか手にしている」として、
(1)前頭前野に直接入力できる。
(2)嗅細胞、僧帽細胞、嗅皮質錐体細胞と、わずか3つのニューロンしか介在しない短経路で前頭前野に到達できる。
(3)嗅覚を知覚する領域が、私達を人間たらしめている脳の心臓部に位置している。
の3点を挙げた上で、「人間の嗅覚路は、受容体の遺伝子数こそ減らしはしたものの、新皮質を頂点とする脳の処理機構によって、『他の動物よりも豊かなにおいと風味の世界をもたらせるようになった』」と述べています。
 また、「味とにおいの多様な組み合わせに眼窩前頭皮質がどう応答するか」について、
(1)眼窩前頭皮質には、におい専用の細胞がある。
(2)大半の細胞は、においの強度の変化には応答しない。
(3)においと味の刺激の両方に応答する細胞がある。これは「感覚融合」と呼ぶことができる。
(4)好ましいにおいと不快なにおいに選択的に応答する細胞がそれぞれ存在する。
(5)この快不快の質自体は、においの報酬価値によって左右される。
の5点を挙げています。
 第13章「味覚と風味」では、「口中の食べ物から立ち上るレトロネイザル経路のにおいが風味の創出に絡むときは、必ず他の感覚と相俟って脳に作用する」として、
(1)嗅覚はオルソネイザル嗅覚とレトロネイザル嗅覚からなる二元性の感覚系であること。
(2)レトロネイザル経路のにおいは決して単独では感知されず、常に口中のほぼすべての感覚と合わさって感じられること。
の2点を挙げています。
 そして、人間の新生児を対象とした実験により、「味覚系は、快い刺激と不快な刺激に対する情動表出を生得的に行う」と述べています。
 第14章「マウス・フィール」では、「唇、口腔、舌にずらりと並んだ感覚受容器は、私たちが口にする食べ物、飲み物の数々の物性、化学特性に対応している。その相互作用によって、私達がマウス・フィールないし口腔感覚と呼ぶ膨大な種類の官能的な質、つまり、食べ物や飲み物の感触、質感、テクスチャーが生まれる」と述べています。
 第15章「視覚と風味」では、「色つきの白ワインを赤ワインと勘違いするような」理由として、
(1)注意の問題
(2)言語の問題
(3)眼窩前頭皮質の嗅覚にかかわる領域は他のさまざまな領域を接続しているが、とりわけ視床との連絡が注目に値する
の3点を挙げています。
 第16章「聴覚と風味」では、「風味の観点から言うと、聴覚系は食べ物、飲み物を摂るときの音を拾うためにデザインされたようなものだ」として、「進化の流れを遡ってみれば、食べ物を噛み切り咀嚼する音は、私達の祖先が野菜の歯ごたえや果物の熟し具合、肉の塊の弾力感を判断するための重要な情報であったに違いない」と述べています。
 第17章「風味を生む筋肉」では、「食物を五感で感知するには、口中で食物を協調的に動かさねばならない」ことは、「人体が行う究極の運動の一つに数えられる」として、
(1)口中で行われる食物の操作は驚くほど多様だ。
(2)舌は食べ物の感覚体験と発語の両方に不可欠だが、舌がにおいの創出と発語に密接に関わっていると言われても、においを表現する言葉がなかなか見つからないことを考えると矛盾しているように思える。
(3)食事な人間社会の要である。
の3点を挙げ、「風味は『能動的』な感覚だ」と述べています。
 第18章「知覚系+行動系=ヒト脳風味系」では、「人間ならではの特徴」として、
(1)人間は、嗅覚受容体の数こそ少ないが、レトロネイザル経路のにおいへの適応は格段に優れている
(2)脳の大きさが桁違いに大きい上に、脳領域の数も、脳領域間の結合も圧倒的に多い
(3)私達には言語がある
の3点を挙げ、「私達の脳の風味系を総合的に見ると、量的に他の動物のそれと異なっているばかりか、質的にも、風味の感覚を生み出し表現できる、新しい能力を備えている」と述べています。
 そして、「感覚統合が起こるのは、同時に提示された2種類以上の刺激に対する一つの能力域の細胞応答が、個々の応答の総和以上のものとなる場合」だとして、この特性を「超相加性(supra-additivity)」と呼んでいます。
 また、「心的イメージは視覚野のような一種類の感覚モダリティーを司る一つの脳領域内に限定されているわけではなく、複数のモダリティーを表彰する幾つもの脳領域に分散している」と述べています。
 第19章「嗜好と渇望」では、「単調な食事を続けた被験者が好物を想像している時には特定の脳領域が賦活したのに、いつもどおりの食事をしていた被験者にはそうした反応が見られなかった」ことの意味として、「すべての領域が薬物渇望によって賦活する脳領域のグループに含まれている」ことから、「自然な報酬と病的な報酬に対する欲求の回路は共通している」と述べています。
 第21章「過食と肥満の原因」では、「ファストフードを食べ過ぎてしまうわけを解明するには、ヒト脳風味系に関する知識が役に立つ」として、
(1)感覚過負荷:ファストフードは風味過剰な分、なかなか満腹中枢が満足しない
(2)ファストフードは多種多様な食物と風味の寄せ集めであること
(3)唇と口腔の皮膚と粘膜にある受容体の長期に渡る過剰刺激
の3点を挙げています。
 第22章「風味の神経経済学」では、「ヒト脳風味系が担っているもっとも重要な究極の役割は、健康によい食物と悪い食物のどちらを食べるべきか、正しい選択を下すことだ。この選択で決定権を握っているのは、近年、ようやく注目されるようになった、脳の意思決定メカニズムである」と述べています。
 第23章「ヒト脳風味系の可塑性」では、「風味系ほど、この可塑性という表現が似つかわしい存在はない」として、
(1)幹細胞からの細胞再生が継続的に行われる領域があること。
(2)それらの細胞の特性と相互作用が経験によって変化する、すなわち経験依存的であること。
の2点を挙げています。
 そして、「学習と記憶の根幹をなす経験依存的な変化、すなわち経験依存的可塑性のメカニズム」について、「発火したニューロンは、シナプス結合している別のニューロンを発火させ、両者の結合が強まると、そのシナプス伝達効率が増強される」と述べ、「長期増強は中枢神経系の各所で認められる」としています。
 第24章「言語とのかかわり」では、「あまたの動物がいる中で、人間だけが風味系を手に入れた理由の一つが言語である」と述べたうえで、「知覚したにおいと風味を言葉で表現するのが実に難しい理由は、『それが脳内で任意の不規則な活動パターン、つまり、本書で言う“においのイメージ”として表象される』からではないか」と述べています。
 第26章「においと風味が人類を進化させた」では、「ヒト風味系は世に認められているよりはるかに大きな役割を人類の進化に担ってきたのではないか」として、その根拠として、
(1)遺伝子の記録
(2)嗅覚と視野の競合
(3)脳の大きさの拡大
(4)食物探索行動への筋骨格系の適応
(5)火の制御と調理法の発達
の5点を挙げています。
 そして、「森の中で暮らすには嗅覚と大きな脳が必要だったのだが、さらに、抜群の視機能も欠かせなかった」として、「鼻を主役と捉えている私達の観点からすれば、こうして、霊長類の行動を制御する新皮質をめぐる嗅覚と視覚の競合が始まった。その競合が霊長類を進化させる推進力の一つになったのである」
 第27章「胎児から老年まで」では、「大半のダイエット論には重要な要素が欠けている。それが風味だ」として、「こうした脳のメカニズムに関する研究が続々と行われるようになって、自分の食するものをコントロールするのが難しい理由の解明が進んでくれればと望むばかりだ」と述べています。
 また、いわゆる老衰(failure to thrive: FTT)治療の要点として、「小児期の食物渇望を復活させて、強いにおいやはっきりとした味、歯ごたえのあるテクスチャー、鮮やかな色彩、快い音楽を駆使して、風味に資する様々な感覚を高めること、そして患者といっしょに食卓を囲んで楽しい会話に花を咲かせること。それが確かな経験則だ」と述べています。
 本書は、ヒトが味を感じる上で不可欠な「風味」の正体を追った一冊です。


■ 個人的な視点から

 風邪で鼻が詰まると味がわからなくなるという人がいますが、自分はそういうことがなかったので、本書を読んでなるほどと思いました。


■ どんな人にオススメ?

・味にこだわりのある人。


2015年4月 9日 (木)

日本人はいつから働きすぎになったのか

■ 書籍情報

日本人はいつから働きすぎになったのか   【日本人はいつから働きすぎになったのか】(#2363)

  礫川 全次
  価格: ¥886 (税込)
  平凡社(2014/8/18)

 本書は、今日の日本の社員・従業員の、「みずから進んで過労死・過労自殺への道を歩み、そうした現状について、何らの抵抗も示さないばかりか、悲痛の声さえ挙げないという精神状況」について、日本人固有の「勤勉性」と位置づけ、「こうした日本人の勤勉性が、いつ、どのようにして誕生したのか、それがどういう系譜をたどって、21世紀の今日にまで至ったのか、などについて検証しながら、日本人の勤勉性の本質」に迫るものです。
 第1章「日本人はいつから勤勉になったのか」では、歴史人口学者の速水融氏が提唱した、「日本人は、江戸時代の中頃から、『勤勉になった』」とする「勤勉革命」について、速水氏が、
(1)日本においては、農業上の「勤勉革命」が産業革命に先行したこと
(2)「一国の国民が勤労的であるか否か}は、歴史の所産であること
(3)今日の日本人に指摘される「働きすぎ」も、そうした歴史の所産であり得ること
などを打ち出していると述べています。
 第2章「二宮尊徳『神話』の虚実」では、「タキギを背負って本を読むという金次郎のイメージ」が、「明治に入ってから『創作』されたもの」だとして、明治24年に幸田露伴によって書かれた『二宮尊徳翁』という少年向けの本の巻頭に、「タキギを背負い、本を読みながら山中をゆく金次郎少年の口絵」が描かれていたと述べ、「薪を背負う金次郎のイメージは(『負薪金次郎』という言葉がある)、二宮尊徳が死んでから35年も経って、新たに創り出されたものだった」としています。
 そして、明治期以降の日本では、「唱歌、逸話(修身の教科書の記述を含む)、『負薪金次郎』の銅像・石像などを通して、つまり主として学校教育を通して、『親孝行で勤勉な金次郎少年』というイメージが作られ、広められていった」と述べています。
 第3章「二宮尊徳は人を勤勉にさせられたか」では、二宮尊徳が、野州(下野国)桜町領で農村再興にあたっていたことについて、「江戸後期の日本には、断固として『勤勉』になることを拒む農民たちが存在していた」と述べています。
 そして、「二宮尊徳は、偉大な『勤勉家』であり、また独自の『勤勉思想』の持ち主であった。にもかかわらず、生前の尊徳は、自らの思想を農民に説き、農民を思想的に教化する道は選ばなかった」として、「二宮尊徳は、人々を思想的・宗教的に教化sるカリスマ的な思想家・宗教者ではなかった。むしろ、『勤勉にして謙虚な農民』を、『権力』によって育成しようとする官僚的な実践家・教育者だったのではないだろうか」と述べています。
 第4章「浄土真宗と『勤労のエートス』」では、「北陸門徒地帯」に住む浄土真宗の門徒である「北陸門徒」について、「信仰によって間引きを忌避していた。その結果、人口過剰となり、無高・水呑の農民が多く、小作・出稼ぎ等によって急迫した生活を送っていた。こうした農民は、封建為政者と真宗寺院の招きによって、関東・東北に移民し、『入百姓』となった。彼らは、刻苦勉励の末に、自営農民として成長し、広い仏間を持った北陸風の家屋を建て、手次寺を中心に信仰を継続した。封建支配者・真宗寺院・真宗門徒の三者は、それぞれ、自己の経済的利害に従って行動し、それなりの成果を得た。しかし、これら入百姓の歴史にとって、その脊柱となるものは真宗門徒の信仰―倫理―エートスであり、西念寺の良水の表現を借りれば、『北陸はおおよそ一宗の徒にして、常に仏法を親しみ深きゆえ、人数も多く家業もはげしき国風』を形成する行動様式であった」と述べています。
 そして、「北陸真宗門徒が、関東・東北の各地に移住し入百姓となったのは、江戸時代中末期のことであった。このことは、当時すでに、北陸門徒の間に、『勤労のエートス』が形成されていたことが前提となる」と述べています。
 また、加賀国石川郡二曲村の任誓(にんせい)が書いたとされる『農民鑑』について、「厳しいまでの信仰と職業精進との結合を図っている」として、「世に定めはなく、人もまた常ではない。だからこそ、骨を砕いて農業に励め」とする言説は、「神の恩寵を信じて、各自の仕事に励め」とするカルヴァニズムの職業観を想起させると述べています。
 著者は、「江戸中期以降、石高制を前提とした封建体制に行き詰まりが生じ(あくまでも、武士階級にとっての行き詰まり)、たとえば『入百姓』などの政策が導入された。『入百姓』の導入に際して、支配層の期待が集まったのは、みずから進んで勤勉に働く真宗門徒であった」と述べた上で、「江戸期における浄土真宗門徒の勤労のエートスは、封建体制を支える役割を担った面もあるが、その一方で、封建体制を突き崩す役割を演じた面もあった」と述べています。
 第5章「吉田松陰と福沢諭吉」では、吉田松陰に関して、「武士階級の間には、伝統的に『勤勉のエートス』とでもいうべき倫理規範(勤勉・禁欲・節倹など)が、受け継がれていた。体制が安定の方向に向かっているとき、あるいは安定しているときであれば、こうしたエートスは、体制を維持強化する方向に作用するであろう」が、「体制批判的なイデオロギーが、『志士』と呼ばれた武士たちの『勤勉のエートス』と結びついた場合には、封建体制を崩壊に導く力となるであろうし、事実、そうなったのである」と述べています。
 第6章「明治時代に日本人は変貌した」では、「江戸時代中後期における日本では、『勤勉でない農民』と『勤勉な農民』とが併存していた。両者の比率を示すことはできないが、全国的に見れば、『勤勉でない農民』のほうが優勢だった」と述べた上で、「明治期のある時期を境にして、この比率は逆転する。そして、明治の末期には、全国的に見ても、『勤勉な農民』が多数派を占めるようになった。農民の大多数が『勤勉』になった結果、明治末期には、必然的に、日本人全体が『勤勉』という特徴を帯びるようになった」と述べています。
 また、「明治の学校教育においては、明治20年代に入って、にわかに『二宮尊徳(金次郎)』が教材として使用される傾向が生じた。しかも、この傾向は、明治30年代に入ると、さらに強まり、ほとんどの修身教科書に『二宮尊徳』が登場するようになった。そればかりでなく、『二宮尊徳』を理想的人間として崇め奉る傾向が強まった」ことについて、「この時代は、急速な近代化の中で、日本という国家について、あるいは日本国民という存在について、アイデンティティの危機が生じていた時期」であり、「急速な近代化の中で、アイデンティティの危機に直面している国民に対して、『修身』という授業で示しうる、具体的かつ『模範的』な人物が求められていた。そこで白羽の矢が立ったのは、二宮尊徳であった」と述べ、「二宮尊徳の思想は、明治20年代以降、明治国家によって再評価され、学校教育を通して、特に『修身』という強化を通して、国民に一定に思想的影響を与え続けることになった」としています。
 さらに、日本人の海外移民に関して、明治19年に在ハワイ総領事・安藤太郎からの報告の中で、「仕事に勉励して雇い主の満足を得ているのは、山口・広島・福岡・熊本の県民」であり、「特に、山口・広島の県民は、潔癖、節倹という点で優れている」のに対し、「労働後、横になって雑談し、トバク・飲酒にふけるという怠惰の徒」もおり、「怠惰・放縦ということで嫌われているのは、千葉・東京・神奈川といった都会に近い地方の県民である」とあるとしています。
 第7章「なぜ日本人は働きすぎるのか」では、「なぜ日本人は、働きすぎてしまうのか」の理由として、
(1)明治の近代化以降、「勤勉」ということが、あまりに強調されてきた。
(2)「勤勉」が強調された結果、「勤勉」と「働きすぎ」が混同され、「働きすぎ」を、「勤勉」の位置態様として、肯定的に捉えるような状況が生じた。
(3)厳しい生存競争に直面している農民や、厳しい労務管理の下にある労働者が、やむなく「働きすぎ」に陥る状況に対し、歯止めになるような方策が存在しなかった。
の3点を挙げています。
 第8章「産業戦士と『最高度の自発性』」では、松下幸之助が、「いわゆる勤勉家というタイプではない」が、「カリスマ性と宗教性、この二つを通して、松下幸之助は、日本の企業文化に多大な影響を及ぼしたのではないだろうか」と述べています。
 第9章「戦後復興から過労死・過労自殺まで」では、「戦争によって、日本人は、多くのものを失った」が、「日本人にとって、最大の武器となったのは、おそらくその勤勉性だった」と述べ、「日本人は、戦争で失ったものを忘れ、問われるべき課題(他国への加害責任、自他の戦争責任など)を封印し、平和で文化的な固化の建設という新たな目標に向かって、再び、持ち前の『勤勉性』を発揮し始めた」と述べています。
 そして、「サラリーマンが5時に退社し、家族と夕食を取るという習慣がなくなったのは、『1950年代半ば』だった」と述べています。
 終章「いかにして『勤勉』を超えるか」では、「プロテスタンティズムが発祥し、『資本主義の精神』が誕生したヨーロッパにおいて、1979年当時、すでに『勤勉』が過去のものとなり、それは『反社会的な行為』とみなされることもあった。その一方、ヨーロッパから資本主義を学び、『資本主義の精神』=『プロテスタント的勤労倫理』を学んだ日本人は、その後ずっと『勤勉』であり続け、その勤勉さは、すでに『働き中毒』と形容しうる段階に達している」と述べています。
 本書は、日本人にとって所与のものとされがちな「勤勉」が、それほど歴史を持ったものではないことを教えてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 二宮尊徳は現代でも人気がありますが、実際に本人に会ってみたらそれほど魅力的な人物でもないのかもしれません。


■ どんな人にオススメ?

・勤勉は日本人の美徳だと思っている人。


2015年4月 8日 (水)

音楽と記憶 認知心理学と情報理論からのアプローチ

■ 書籍情報

音楽と記憶 認知心理学と情報理論からのアプローチ   【音楽と記憶 認知心理学と情報理論からのアプローチ】(#2362)

  ボブ・スナイダー(著), 須藤 貢明, 杵鞭 広美(翻訳)
  価格: ¥ (税込)
  音楽之友社(2003/12)

 本書は、「これまでの音楽理論と、1970年代から心理学界で台頭してきた認知心理学を対応させることを試み、成功させた貴重な著書」であり、「音響刺激の受容に関する心理学的メカニズムと、音楽の聴取の関係を極めて明快に解きほぐす緒を示した音楽心理学の本」です。「これまでの音楽理論は作曲や演奏に関わるものがほとんどでしたが、本書では音楽の認知に関する理論を、科学的パラダイムで展開されている認知心理学や情報理論などと整合させて理論を展開」し、「音楽理論に新しい『地平の存在』を示した、これまでに類を見ない本」です。
 第1章「聴覚的記憶:概観」では、「本書は、記憶と、それがわれわれの世界と音楽経験の知覚に及ぼす作用について示すものである。記憶の体制化と人が物をおぼえる能力の限界が、私たちが音のパターンや時間的な区切りをどのように知覚するかに重大な影響を与える。記憶は、一連の音系列が終了し、次の一連の音系列が始まったことの判断、およびそれぞれの音系列の間の関係の認識に影響を与える。また記憶によって、われわれは一連の音系列を総合的に時系列的に捉えることができるし、次に起こるであろう音を予測することができる」と述べています。
 そして、「記憶の3つの家庭(エコイックメモリー、短期記憶、長期記憶)」が、「音の融合レベル」「メロディとリズムのグルーピング・レベル」「音楽の形式レベル」と呼ぶ「音楽経験の3つの時間的なレベルに関係している」として、「3つの処理過程は、音楽的事象とパターンが起こる3つの基本的な時間尺度を設定する」と述べています。
 第2章「エコイックメモリーと初期処理」では、「エコイックメモリーとは、大量の聴覚情報がごく短い間――通常はおよそ250ミリ秒で、数秒を超えることはないとされる――存在する貯蔵庫である」として、「ここでの情報は、まだそれぞれのカテゴリーに分けられて符号化されておらず、連続的な形で存在すると考えられている」と述べています。
 そして、「エコイックメモリーの機能的特徴は、初期の感覚情報の処理の一側面である。感覚的な印象は短いあいだエコイックメモリーとして存在し、その間に基本的な特徴ごとに符号化され、音と結びつける処理が行われる。近年のいくつかの理論によれば、この段階で、外界とそこにあるものについても、基本的な知覚的表象が形成される」と述べています。
 第3章「グルーピング」では、「グルーピングとは、人間の神経系が、外界の音響的情報を構成単位――要素が関連しあって全体を完全なものとする統一体――に分割するという、自然な傾向のことである」と述べ、「メロディやリズムや形式の体系化にとってのグルーピングは、視覚や空間の体系化にとっての対象物と同じく、境界を持った収束した存在である。初期処理におけるグルーピングの要因は、分割や連続を促進できる――すべての楽音は、先行音との結合を発展させたり、あるいは先行音からその音自身を分かつこともある」と述べています。
 そして、「音響的環境の諸相が十分に変化したとき、境界が創り出される。この境界は、1つのグルーピングの始めと終わりを示し、また知覚の初期過程において検出される最も基本的な種類の特徴的素性を形成する。グルーピングの境界を設定する構造――『クロージャ』と呼ばれることが多い――は、グルーピングを他のグルーピングから切り離し、独立性を持たせる役目をする。クロージャは、完璧なものばかりではない。グルーピングによって、さまざまな程度のクロージャがある」と述べています。
 また、「多くの管弦楽における伝統的なオーケストレーション(楽器構成法)は、基本的に類似性の法則の応用である。互いに関連し、グルーピングしているように聴取されることを目的とした緻密な構造では、同じ楽器を使用するように作曲されている。また、形式な対比は楽器の編成を変えることで示されている」と述べています。
 第4章「短期記憶と作動記録」では、意識を焦点化する部位と短期記憶に入力される情報には、少なくとも2つの側面がある」として、
(1)知覚によるもの
(2)長期記憶によるもの
の2点を挙げ、「新たな知覚情報は、初期の処理過程を経て、長期記憶からの活性化した概念的情報と重ね合わされる」と述べています。
 そして、「短期記憶の容量は限られているため、われわれのコミュニケーションの行動は、完全には連続的ではないが、長さと情報内容がその容量を超えないように調整されたエネルギーの脈動によって実行されている」と述べた上で、「短期記憶の容量は、リハーサルを通して直接的な記憶のなかに維持される項目の数を制限する。リハーサルが行われた項目は、かなり高度な活性化の状態にあり、また、それらの項目とその時間配列は即座に引き出すことができるが、そうした項目のすべてが同時に意識の中に存在することはない」と述べています。
 また、「短期記憶に入った情報はいつまでも持続するということはなく、短期記憶の内容を繰り返して活性を保つリハーサルによって維持されない限り、急速に衰える」と述べ、「リハーサルは、情報を一時的に短期記憶に留めるためだけでなく、その情報をもっと長い間長期記憶に貯蔵するために必要である」としています。
 さらに、「短期記憶は、メロディとリズムのグルーピング・レベル――音楽において、われわれが最も直接的にパターンを認識するレベル――に関連する」として、「このレベルの音は、速すぎないので、個々に捉えることができるし(音の融合レベルで個々の音の振動が捉えられるように)、また、離れすぎていないので、直接的に関連し合い、長期記憶を回想的に活用して音と音の関係を形成できる(形式レベルで各音が行うように)」と述べています。
 第5章「クロージャ」では、「フレーズが規模の大きな音楽進行のパターンに関連しているとき、終わりの境界は、その進行の中で様々な度合いの(停止により近い、あるいはより遠い)集結を設定する。始まりの境界は、先行するものとの差異の程度によって、先行する素材の連続として知覚される場合と、新しいものの始まりとして知覚される場合がある」と述べた上で、「クロージャの最も基本的な形式は、強度の低下であることがわかる。通常、音楽的状況では、緊張はパラメータの高い値に関連し、値が低ければ安らぎに向かう」としています。
 そして、「明瞭なクロージャのパターンを示していない音楽は、非常に思い出しにくいことになる――それぞれの詳細を、体系化した記憶のチャンクの一部としてではなく、単体としておぼえなくてはならないからである。チャンク化の境界がはっきりしないので、パターンをどこで分割し、記憶として保持するのかがわかりにくいのである」と述べています。
 第6章「長期記憶」では、「長期記憶は、反復する刺激が、同時に活性化しているニューロン間の結合の強さが変わるときに形成されると考えられている」と述べた上で、「手がかりによる記憶の引き出し」として、
(1)意識的に記憶を引き出そうとする回想
(2)環境における物事を手がかりとし、連結する他の記憶が自動的に引き出される連想
(3)環境中の事象そのものが自動的に手がかりとして働く再認
の3つのタイプを挙げ、「再任と連想は、常に進行する自然発生的な過程である」と述べています。
 そして、「長期記憶は、音楽経験の3つ目のレベルを形成する」として、「形式レベル」と名づけ、「これは、フレーズより大きいグルーピングやパターンが『音楽形式』の様相を構成するという音楽用語に基づいている」と述べています。
 また、「エピソード記憶は、非常に素早く形成される。時間と場所が、このタイプの記憶が体系化される原則である。これは、少なくとも最初は、エピソード記憶は特定の時間配列、あるいは空間的な配列を持って呼び出されることを意味する。日常の意識的な想起のほとんどがエピソード記憶であり、われわれが『自分たちの記憶』について話すときに指しているのも、この記憶である」と述べた上で、「すべての知識的な記憶の起源は、エピソード記憶にある」と述べています。
 第7章「カテゴリー」では、カテゴリー化について、
(1)特徴をまとめてグループをつくり、それによって対象や事象、特徴を分類する能力
(2)そのうちの一部を等しいとみなし、それらを連合して1つのカテゴリーとし、1つのカテゴリーとしておぼえる能力
と規定した上で、「知覚的カテゴリーの考え方の基本は、何らかの刺激が連続的に与えられてその価に幅があるとき、われわれは、その範囲内での限られた数の離散的なカテゴリーしか知覚しない傾向にあるという考え方である」と述べる一方、「概念的カテゴリーは(長期記憶と関係して)、知覚的カテゴリー化によって設定された知覚的グループを認識し、一般化する処理である」としています。
 また、ニュアンスについて、「音楽的カテゴリーの境界範囲内で起こる変化である」と述べています。
 さらに、「われわれは徐々に、ピッチやリズムといった一般的なカテゴリーのパターンからなる顕在記憶を構築する一方で、それらのカテゴリーのなかの微妙な変化を忘れていく。ただし、この変化は、進行する音楽との情緒的なかかわりに大きく貢献している」と述べています。
 第8章「スキーマ:経験と記憶の枠組み」では、「われわれは、対象や単独の事象をカテゴリー化するだけでなく、物理的状況の全体や楽音の時間配列を一般化し、カテゴリー化する。異なるときに生じた複数の異なる状況に共通の側面があると思われるとき、やがてそうした状況は平均化されて1つの抽象的な記憶の枠組みとなる」と述べています。
 そして、「音楽におけるスキーマは、音の種類と配列についての予測を生成させる――スキーマは記憶の枠組みとして働いて、チャンキングの能力を増大させ、長期記憶のなかに表象を形成するのを助ける」と述べています。
 第11章「メロディ」では、「音程とメロディの進行方向が似ているので、1つの単位とみなされる複数のピッチを持った楽音が、メロディのグルーピングとなる。それらの構成要素のピッチが、ピッチの範囲の中で十分に離れているとき、メロディのグルーピングは分断して、別個の『ストリーム』を形成する。ストリームとは、ピッチの面でも生じる速度の面でも他の音とかけ離れているという理由で他のグルーピングから独立した、ピッチを持つ音が集まったグルーピングである」と述べています。
 そして、「メロディの材料に課せられるすべての制約の中で、調律法は最も変化しにくいものであるらしい。西洋音楽の現在の調律法は、250年以上も前から広い範囲で使用されている」と述べています。
 また、「恩沢の多くは、順次進行とスライドの両方を使用している」として、「スライドは、安定したピッチの間を移動する方法として、あるいは安定したピッチに抑揚を付ける方法として使われることが最も多い」と述べています。
 第12章「リズム」では、「短期記憶の長さは、リズムを定義する上で重要である」理由として、「パターンを形成するためにはリズムの構成する楽音が直接的につながっている必要があると思われるからである」と述べています。
 そして、「アクセントが置かれた音は、リズムのグルーピングやフレーズの形成において、非常に重要である。アクセントは1つの音を他の音から際立たせ、変化を目立たせるので、一般的にクロージャらしさを形成する」と述べ、
(1)現象的アクセント:音がすぐそばの他の音と十分異なることによって、音楽の表面から際立っていると知覚された時に創り出される。
(2)構造的アクセント:リズムのフレーズの重要な地点で知覚される。
(3)拍節的(拍子の)アクセント:音のリズムの流れのなかで、規則的な感覚で現象的アクセントと構造的アクセントが生じたとき、聞き手は表紙と呼ばれる強調、あるいは拍の強さの規則的なパターンを感じ取ることが多い。
の3種類のアクセントを定義しています。
 第13章「形式」では、「高次レベルにおける境界の確立と、より長い時間的尺度に関連する形式レベルの記憶の問題」である、「いかにして記憶のメカニズムが音楽形式を設定するか」について、「たくさんの様々なものが様々な音楽的文脈てパラメータとして機能する」として、
(1)一次的パラメータ:それぞれの値の間の類似性と違いが比較的一定していて、認識可能であるように体系化された音楽的変数。調律法の固定的な比例関係、時間間隔と持続時間の間の固定的な比例関係のように、互いの間に比較的固定した比例関係を持つ。その数は、われわれの神経系と、それが進化して環境中から情報を抽出する方法に限定されるようである。
(2)二次的パラメータ:非常に多くのはっきりと再認可能なカテゴリーへと容易に分類できない楽音の特性。音の大きさやテンポなど。これらのパラメータは「多い」「多くない」「より多く」「より少なく」といった非常に概括的なカテゴリーによってしか再認できない。一次的パラメータのように数は限られておらず、また固定されてもいない。
と述べています。
 そして、「一次的パラメータによるセクションの境界は音程、メロディの輪郭、リズムのパターンの変化など、その時のパターンのタイプの変化を表す」のに対し、「二次的パラメータによるセクションの境界は、全般的な音の大きさ、ピッチ帯域、オーケストレーションの変化など、パラメータの値や帯域における変化である傾向がある」と述べています。
 著者は、「音楽家は、類似性、近接性、連続性など、多数のボトムアップの原理を使用して様々な種類のパターンを際立たせている」として、「これらの原理は、主に初期処理の文脈の中で働き、そのためかなりの程度で生得的な知覚的、認知的メカニズムに助けられている」と述べています。
 本書は、記憶のメカニズムから音楽の仕組みを読み解いた一冊です。


■ 個人的な視点から

 読んだのは音楽之友社から出ていた翻訳版なのですが、アマゾンには原書しか取り扱っていないようです。


■ どんな人にオススメ?

・音楽と記憶の関係に興味がある人。


2015年4月 7日 (火)

ディスレクシア 読み書きのLD 親と専門家のためのガイド

■ 書籍情報

ディスレクシア 読み書きのLD 親と専門家のためのガイド   【ディスレクシア 読み書きのLD 親と専門家のためのガイド】(#2361)

  マーガレット C.スノウリング (著), 宇野 彰, 加藤 醇子, 紅葉 誠一 (翻訳)
  価格: ¥4,536 (税込)
  東京書籍(2008/2/29)

 本書は、「これまで英語圏中心で行われてきたディスレクシアの研究がまとめられている」もので、「発達性ディスレクシアの『教科書』ともいうべき内容が備わって」いるものです。
 第2章「ディスレクシアの定義」では、「特殊な認知パターンによって読みが妨げられているというのが、ディスレクシアの特徴」だとした上で、「読み書き能力の問題だけでディスレクシアととらえるのは間違いだ」として、「特定の発達段階においてどれだけ読みが要求されたか、どのような教育を受けたか、能力をどの程度補償できたかといったことも重要な要因となる」と述べています。
 そして、ディスレクシア研究の主な目的として、
(1)その個人に観察される困難さの様相や、それらの困難さが加齢とともにどのように変化していくかを示すこと。
(2)認知的な基盤を理解すること。
の2点を挙げています。
 第3章「音韻表象仮説」では、「ディスレクシアの人の場合、視覚情報の記憶は通常と変わりないのですが、音声言語に関わるものの場合は記憶量が低下」すると述べています。
 そして、「さまざまな事実はディスレクシアに音韻能力に関して大きな障害があることを示唆して」いるとした上で、「ディスレクシアの中核的音韻障害モデルが特に優れているのは、健常な読みの発達に関する現在の知見にうまく合致するという点」だとしています。
 第4章「読みと綴りの学習」では、「読みを学ぶとは、すでに身についている話し言葉の処理を、書き言葉の処理に統合していくこと」であるが、「読んだことの内容を理解するには、それぞれの文のつながりを把握したり、文脈や一般知識に基づいて意味を推測したりする能力がなくては」ならないため、「読みの学習はそれだけ困難が多く、話し言葉の能力を十分に身につけた児童にとっても大変な作業だ」と述べています。
 第5章「ディスレクシア――書き言葉の障害」では、「中国語のように文字そのものが文字表象になっている言語では、音韻スキルに頼らずに読み書きを覚えることも可能かもしれません」とした上で、「少なくとも英語の場合は、子どもが文字を音声化する能力を発達させる際に、音韻認識が触媒のような作用をしていることは確か」であり、「綴りの能力も同様の影響を受け」ると述べています。
 そして、「ディスレクシア児はおそらく、文字を音声化する能力を発達させる代わりにサイトワードの語彙(視認語彙)を増やすという変則的な方略で読みを学習しているもの」と思われるが、別の解釈として、「音韻的な読みの方略を用いる能力はあるが、非語の異同弁別というこの実験に必要なスピードで行うことはできなかったという見方もできる」と述べています。
 また、「読みに問題がないのに綴りが困難な人々の症例を見ると、読みと綴りが異なる過程のものであること」がわかると述べ、「読みは部分的な手がかりだけでも習得していけるのに対し、綴りは文字体系の正しい知識がなければ上達」しないため、「読みの問題は綴りに比べると、補うことが容易」であり、「読みの障害は意味を頼りに読むといったことで容易に隠れてしまいますが、綴りの方はそうはいきません」としています。
 第7章「音韻障害の重さの程度による仮説」では、「発達性音韻性ディスレクシアの特徴を備えた児童の個別症例研究は、集団の研究から推測された結論を裏付ける結果」となったとして、「音韻障害が子どもの音読スキルの発達を阻害するだけでなく、単語認識の発達のスピードも遅らせる」と述べ、「こうした子どもは文字表象を発達させられず、そのため正確な綴りを身につけることができません。代替方略として、音声的な綴り方略を発達させることも考えられますが、これについても出力表象レベルの問題に短期記憶の障害が加わることで、ある程度制約が出てきます」と述べています。
 第8章「ディスレクシアの生物学的基盤」では、「顕微鏡的分析の結果、ディスレクシアの人の脳に、ニューロンの異所発生(エクトピア)や形成異常(一種の瘢痕)など、いくつかの異常が見つかりました。これらの皮質の病変は、神経回路のパターンの異型をうかがわせるものでした。またこれに関連して側頭平面が対称性を示すという異常も見つかりました。通常は左側頭平面が右側頭平面よりも大きいのですが、ディスレクシアの人では右側が普通より大きく、左側と同じ大きさ(対照的)になっていた」と述べ、「それには遺伝が関わっていると考えられます」と述べています。
 また、「音韻処理障害から来る読みにおける行動的所見は、ディスレクシアの人と読み健常者との脳の左半球における機能の違いによって生まれている可能性が出て」きているとして、「特に、ことばの知覚と発話をつないでいる領域に変異があるよう」だとして、「この部分が、読みの発達において極めて重要な音韻表象をつかさどっているのかもしれません」と述べています。
 さらに、「現在の知見から考えて、ディスレクシアに特徴的な認知上の困難が、脳の左半球がつかさどる音声言語処理のメカニズムにおける遺伝的な違いから生じているということは、ほぼ間違いない」と述べています。
 第11章「習熟と欠陥――補償の役割」では、「文字の音声化スキルの獲得の中核は音韻ではありますが、それが読みの発達に与える影響は他の言語的スキルによって補える」として、「さらに、子どもの読みスキルは学習環境などの外的要因の影響も受けます。中でも母親の教育水準は読みの獲得を予測する重要な環境要因の1つで、子育ての中での教育、また家庭内の言語環境を通じて、子どもたちに影響を与える可能性があります」と述べています。
 そして、「ディスレクシアを考えるときに忘れてならないのは、この障害が読みに直接影響を与えているわけではなく、話し言葉の基盤の発達に影響を与え、それが読みの学習に響いてくるという点」だとして、「同じ理由から、綴りと音の対応が明快な言語とそうでない言語ではディスレクシアの表れ方に差がありますし、ロゴ文字を用いて読むことを学習している子どもでは、読みの障害がほとんど表面化しない場合も考えられます。また、ディスレクシアは話し言葉獲得の早期のスキルに係る障害ですから、早期に介入を行えば、読み書き障害と学業不振の悪循環を未然に食い止められる可能性もあります」と述べています。
 第12章「まとめならびに今後の見通し」では、「今後10年間の動きで大いに期待されるのが、神経科学的な理論の発展」だとして、「これによって、ディスレクシアの分野は大きな成果がもたらされる」とともに、「ディスレクシアの質的側面や発達に関する明確のコンピュータモデルも登場してくる」と述べた上で、「脳のメカニズムに関する神経科学的研究が進めば、脳の他の領域との(神経線維の)連絡が個人によってどのように異なるのかについても、さらに詳しい知見が得られ」、「ディスレクシアの障害だけでなく、数多く報告されている優れた能力についても解明されていく」と述べています。
 本書は、ディスレクシアについて網羅的に最新の知見をカバーした一冊です。

■ 個人的な視点から

 日本でディスレクシアについてまとまった知識を得るのならば読んでみていいと思いますが366ページあってちょっと厚いです。


■ どんな人にオススメ?

・ディスレクシアについてまじめに学びたい人。


2015年4月 6日 (月)

読み書き障害(ディスレクシア)のすべて―頭はいいのに、本が読めない

■ 書籍情報

読み書き障害(ディスレクシア)のすべて―頭はいいのに、本が読めない   【読み書き障害(ディスレクシア)のすべて―頭はいいのに、本が読めない】(#2360)

  サリー シェイウィッツ (著), 藤田 あきよ (翻訳), 加藤 醇子
  価格: ¥ (税込)
  PHP研究所(2006/04)

 本書は、「ディスレクシアという何台を解決するための、科学、許育、社会的施策に関するあらゆる情報」を集めたものです。
 第1章「正しい知識が力を生む」では、「どんな子供でも知らず知らずのうちに読む能力を身につけられるわけではない。まじめないい子であっても、とびきり利発な子であっても、読めないという困難を抱えている少年少女はかなりの数にのぼっている」と述べ、「ディスレクシアに悩む人達は、たとえどんなに聡明で意欲的であっても、読む際に大変な困難を経験する。その原因は、言語を理解したり表現したりする機能をつかさどる脳組織の、まさに中枢部に根ざしている」と述べています。
 第4章「頭がいいのに酔えない人がいるのはなぜ?」では、「ディスレクシアは言語系統の障害であって、知能が低いわけでも視覚的な障害があるわけでもない」として、「ディスレクシアは言語系統全般に渡る障害ではなく、ある特定な構成要素の中の局部的障害、つまり、音韻モジュールphonologic module) の障害であることがわかった」と述べています。
 第5章「誰でも話せるようになるが、誰もが読めるわけではない」では、「読むという行為もまた音韻コードに依存して入るものの、文字を読むためのカギはそれほど明白ではないし、読み手側の努力による部分が大きいのだ」と述べています。
 そして、「読むというプロセスは2つの主要な要素から成る」として、
(1)デコーディング:単語の認識につながるもの
(2)理解:意味に関係する
の2点を挙げ、「言語系統の一番基礎にある音韻モジュールに支障があると、デコーディングすることができない。同時に、語彙、文法、話法、推論など、理解するために必要な、より高レベルの認知能力には問題がない」と述べています。
 第6章「脳の機能を見る」では、「画像を用いた研究によって、ディスレクシアの人の脳の活性化パターンは、読める人と比較すると明確に異なっていることが明らかになった」として、「字の読める人が読むときは、脳の後部と一定のレベルではあるが前頭部が活性化される。対照的にディスレクシアの人では、脳の後部における神経回路の活性化が不活発という障害が見られる。結論としていえば、彼らは単語の分析を文字を音に変換することが最初から困難であり、成長しても、読む速度は遅いままで、すらすらと読めるようにはなれないのである」と述べた上で、「ディスレクシアの子供の場合、脳の活性化は年齢とともに変化する。画像研究により、年長のディスレクシアの子どもは、前頭部の活性化を示し、青年期を迎えることまでには、ブローカ野において過剰な活性化のパターンを示すようになる」として、「読むことが困難である彼らは、脳の前部にある系統を使って、脳後部における神経系統の障害を代償しているようだ」と述べています。
 第10章「学齢前のディスレクシアを診断する」では、「読む能力(正確さ、流暢さ、そして読解力)、綴り、そして言語のテストは、子供のディスレクシアを見抜くのに非常に重要だ。小さな子供には、認知能力のテストも有効だろう。読めないことで目立たなくなりがちな、その子の優れた点を見つけることができるからだ」と述べています。
 第12章「青年期のディスレクシア」では、「ディスレクシアは完治する障害ではない。しかし、ディスレクシアと診断された何百人もの若い男女がその高い知性、並外れた努力、強い意志によって、エールやブラウン、スタンフォードといった一流の大学やプロフェッショナル・スクールに入り、優秀な成績で卒業している」と述べています。
 第15章「上手に読める子に育てる」では、「上手に読むためには流暢さが重要な役割を果たしていること、そして流暢さは簡単かつ効率的に習得できること、この2つを親や教師たちが理解していたら、流暢さが軽視されるわけがない」と述べ、「流暢さを身につけることはデコーディングと理解との間に橋をかけることだ」としています。
 第20章「ディスレクシアの人への支援策――成功への架け橋」では、「支援の中でも一番重要なのは、充分な時間を与えること」だとして、「ディスレクシアの人は目の前にある単語をデコーディングしようとするとき、語彙力や論理的思考といった高度な機能に頼って、補助的な神経回路を使うしかない」と述べています。
 そして、「ディスレクシアの人に向いている仕事」について、「皮肉なことに彼らは、高い思考能力を必要としない、スキルレベルの低い初歩的な仕事や単純な事務作業には向いていない」が、「読むのが遅いからといって理解力がないわけではない」と述べています。
 エピローグでは、「今日、ディスレクシアの子供はだれでも自由にその才能を伸ばし、夢を実現することができるようになった。成功することもわかっている。ディスレクシアは克服できる」と述べています。
 本書は、ディスレクシアに科学的に迫った一冊です。


■ 個人的な視点から

 海外では、有名俳優もディスレクシアであることを告白するなどよく知られていますが、日本では言葉の構造の違いのせいかよく知られていないようです。


■ どんな人にオススメ?

・人が文字を読める仕組みを知りたい人。


2015年4月 5日 (日)

絶対音感神話: 科学で解き明かすほんとうの姿

■ 書籍情報

絶対音感神話: 科学で解き明かすほんとうの姿   【絶対音感神話: 科学で解き明かすほんとうの姿】(#2359)

  宮崎 謙一
  価格: ¥2,052 (税込)
  化学同人(2014/7/10)

 本書は、「絶対音感についての真実を読者にわかってもらうこと」を目的として、絶対音感が「どのような能力なのかを明らかにする」とともに、「絶対音感があまり音楽とはいえない能力」であることを明らかにするものです。
 第1章「絶対音感とは何か――絶対音感の概念をめぐる神話」では、絶対音感とは、「絶対的に(ほかにくらべるものがないほどに)素晴らしいという意味に理解されること」が多いが、絶対音感の「絶対(absolute)」は、「ほかと比較することなしにという操作的な意味を表しているだけであり、それに特別に素晴らしいとか完全なとか言う価値的な意味はない」として、「絶対音感は音楽における音の高さ(『ピッチ』)を知覚する能力」であり、「『絶対音高』という言葉を用いるほうが学術用語としては適切である」と述べています。
 第2章「音楽的ピッチ――音楽を構成する基本要素」では、「処理の複雑さの点では低いレベルの単純な能力である絶対音感が、特別の訓練を受けた少数の人々しか持っていないのに、高いレベルの複雑な能力である相対音感が、音楽経験によって程度の違いはあるものの、ほとんどの人々に見られる」理由として、「人間にとっては絶対音感よりも相対音感のほうが大切だから」だと述べています。
 第3章「絶対音感の事実――実験から明らかになったこと」では、「不正確な絶対音感保有者は、白鍵音は比較的正しく答えることができるが、黒鍵音については間違いが多くなる」理由について、「通常、ピアノのレッスンは白鍵音だけで演奏されるハ長調から始まり、徐々にシャープやフラットが付いた音が加わっていく」ため、絶対音感の定着過程において、「黒鍵の音は遅れて徐々に加わってくるが、その分だけ訓練の総量は少なくなるため、白鍵音の正確さのレベルまでに達しない場合があると考えられる」と述べています。
 第4章「絶対音感をもつ人はどのくらいいるのか」では、「音楽学生の中での性格な絶対音感の割合は、アメリカやヨーロッパの音楽大学では多くても5~10%程度である」のに対して、「日本や中国、そしておそらく韓国でも、その割合は50%くらいもあり、絶対音感をもたない学生のほうがむしろ少数派という顕著な違いがある」ことについて、「絶対音感の獲得につながるようなこどもの頃からの音楽訓練が、日本や中国、韓国などで盛んに行われていること」を挙げています。
 第5章「絶対音感は音楽をするうえで役に立つか――〈絶対音感=音楽的才能〉という神話」では、「聞こえてきた音楽の相対音高を、時間と努力を費やして聞き取ることこそが、音楽を音楽として聴く(音楽的意味をとらえる)ことなのだが、絶対音感があるとそれをしないでも曲を楽譜に書き取ることができてしまう」と述べています。
 また、「絶対音感があると聴音テストではあまり苦労しないで済むかもしれない」が、「調整の枠組みの中でメロディや和製の音の動きを聞き取り、鳴り響く音の調整的な意味を他の音との関係の中で捉える能力を見るのが、その本来の目的」であり、「聴音課題は調性感や和声感、すなわち広い意味での相対音高をとらえる能力(相対音感の能力)を見る課題である。このような能力こそが、音楽においてはきわめて重要な能力だといえる」として、「絶対音感の能力があると、聴音テストでよい成績を取ることができるだろうが、音楽的な耳を持っていることにはならない」と述べています。
 第7章「絶対音感をもつ人の相対音感」では、「音楽にとって、絶対音感はなくてもかまわないものであり、それどころか状況によっては、音楽にとって不都合を生じる可能性さえ考えられる」と述べ、楽譜を見ながらメロディを聴く課題において、「絶対音感がある参加者は、非移調条件での判断は正確だが、移調条件では正答率が目立って低くなっている」として、「絶対音感を持つ参加者にとっては、標準メロディは音符が表す絶対音高に固定的に結びついているので、楽譜と違う調で聞こえる比較メロディを楽譜の標準メロディと直接比較することができないからである」と述べています。
 そして、「日本の音楽学生は、ヨーロッパやアメリカの音楽学生に比べて、絶対音感の点ではきわめて優れている反面、相対音感テストの成績はがっかりするくらい低い」ことについて、「音楽にとって、絶対音感はなくてもよいが、相対音感はないでは済まされないことを考えると、この結果は重大な問題を提起するものと言うことができる」と述べています。
 第8章「絶対音感はどのように生じるのか――遺伝と経験をめぐる神話」では、「訓練によっておとなに絶対音感を獲得させることは期待できないと考えるのが妥当」だとした上で、「絶対音感の学習に臨界期があるという見方」について、「ある行動や能力の発達において、特定の経験が最も顕著な効果を生じる年齢窓(発達上の期間)」を意味する「臨界期(critical period)」について、「臨界期仮説によると、臨界期の時間的制約はかなり厳格で、窓が開いている間は経験の効果はあるが、窓が閉じてしまうと効果はまったくなくなると考えられている」と述べ、「絶対音感の学習にも臨界期があるとする見方によると、それは2歳または3歳ころに開き、6~7歳頃に後じてしまう。臨界期の窓が閉じた後はいくら訓練しても何の効果もない」としています。
 また、「一般的な認知発達は、要素を個別にとらえる絶対的な処理から、全体の枠組みやコンテクストの中で捉える相対的な処理へ移行するという見方」から、「絶対音高を処理する能力は比較的単純な、ある意味では原始的なピッチ処理能力で発達初期からみられるのに対して、相対音高を処理する能力は、より複雑で高度な認知処理を前提とするので、発達が進んでから現れるということになる」と述べています。
 「おわりに」では、「絶対音感は音楽のいろいろな面でツールとして役に立つことはあるが、それらの利点は音楽的な観点から見ると皮相なものにすぎない」と述べ、「絶対音感を獲得させるためのレッスンは、相対音感の発達に拮抗する面がある。これでは音楽的な耳が発達するための基礎となる経験を犠牲にすることになる」としています。
 本書は、誤って信奉されている「神話」の実像に迫った一冊です。


■ 個人的な視点から

 絶対音感がない人は絶対音感を持っている人を羨ましがりがちですが、あればあったで大変なようです。


■ どんな人にオススメ?

・子どもに絶対音感を身につけさせようと思う人。


2015年4月 4日 (土)

イザベラ・バードと日本の旅

■ 書籍情報

イザベラ・バードと日本の旅   【イザベラ・バードと日本の旅】(#2358)

  金坂 清則
  価格: ¥950 (税込)
  平凡社(2014/10/15)

 本書は、イザベラ・バードについて、「彼女とその旅、その果実としての作品・講演・写真、慈善的社会活動・海外伝道支援活動などの事績、大英帝国を支える紳士諸賢のものだった地理学の世界との関わりや膨大な遺産、膨大な著作の目録、さらには、日本の旅の従者兼通訳の伊藤(イト)やその旅で活用したブラントン日本図をはじめとする幾つもの謎について」、著者が、「四半世紀近く科学(科学的に研究)し、明らかにしてきたこと」を踏まえて記したものです。
 第1章「旅と旅行記を正しく理解するために」では、「ある特定の人物に絞り、その旅と旅行記を、学問分野の枠組みを超えて考究し、諸事実を明らかにしていくことによって、従来の理解と異なる解や新しい見解、視点を導く研究の意義は明らか」だとしています。
 第2章「イザベラ・バード 旅の生涯」では、「日本の旅の目的は、西洋に由来するものを受け入れて変容しつつも古来の日本に由来するものがなぜ残存するのか、その実態と理由を、それがよりよく残っていると考えられる『内地(インテリア)』を旅することによって誌し、明らかにすることだった」と述べています。
 そして、「必ずしも健康に恵まれていたわけでもなく、苦難に立ち向かうには歳を取り過ぎていると感じつつ」も、イザベラが1894年1月に朝鮮とロシア領満州(沿海州)と中国に出発したことについて、「日清戦争(1894年7月~95年4月)前の極東が世界で最も注目を集める地域であったと同時に、ロシアとの間にグレート・ゲームを展開していた関係もあって、いっそう英国、英国人としても注視すべき地域だったから」だと述べ、「身の丈150センチの病を抱えた老女、未亡人にして世界的旅行家であるという属性、つまり頑強な男性の対極をなす属性をいわば逆手に取って十二分に活かすことによって成就できた旅」だとしています。
 第3章「1878年の日本の旅の特質」では、「バードの旅は、外国人が自由に旅=移動できる範囲が局限されていた時代にあって、地域的制限を受けない旅だったという点で、きわめて特異なもの」として、「バードは、実質的には外交官と同じような自由度のある旅を行った」と述べています。
 そして、「バードが植物採集をしていたことを裏付ける最重要の証左」として、「Itoという人物を、いわば面接主任だったヘボンの反対にもかかわらず採用した事実」を挙げ、さらに、「典型的な日本人の顔立ちで、150センチと小柄なバードよりもさらに3センチ弱低いという伊藤の特徴が、旅先で目立たず、従者の役割を果たす上で都合が良いことをバードは鋭く見抜いていた」と述べています。
 また、「バードの旅が、岩倉使節団の旅と同様、一言で言えば視察の旅、調査の旅」であり、「そのような旅として『報道』され、日本国民に伝えられていた」と述べた上で、「この旅が、彼女の単なる個人的な旅ではなく、日本のありのままの姿を通してとらえる最高の人=女性として選ばれたバードが、責務を果さんと全力を傾けた旅であるという新説を提示」しています。
 第4章「連携する支援と協力」では、パークス夫妻の支援について、「重要な点は、パークス自らも手紙で示しているように、彼が連携する支援の頂点にいたこと」だと述べています。
 そして、「バードの旅に対する支援は、すでに示唆してきたようにその多様性と構造性」にあるとして、「中でも重要なのはキリスト教伝道活動に関わる組織や人々の支援」だと述べています。
 また、「パークスを頂点とする支援の輪が日本政府にも及んでいた」として、「外国人の内地旅行の件に直接関わる外務省が特別の内地旅行免状を交付するだけでは、バードの旅は、実りあるものになりえなかった」と述べ、「本州に関わる内務省と北海道に関わる開拓使の協力が不可欠で、各内部の組織の末端にまで至る重層的な支援体制が整って初めて実行あるものになった」ことに加え、「その意を汲んださまざまな民間人・庶民の協力があり、その中には子供たちさえいた」と述べ、「バードの旅が、従来当たり前のように考えられ、関心の主因になってきたような女性の単なる一人旅などでは決してなかったことだけは明らか」だとしています。
 本書は、世界的に有名な女性旅行者の旅の真相を追った一冊です。


■ 個人的な視点から

 最近イザベラ・バードの『日本紀行』を元にしたコミックスも出ているそうなのでそちらから読んでみるのもいいかもしれません。


■ どんな人にオススメ?

・江戸時代の旅を追体験したい人。


2015年4月 3日 (金)

日本財政の現代史3 -- 構造改革とその行き詰まり 2001年~

■ 書籍情報

日本財政の現代史3 -- 構造改革とその行き詰まり 2001年~   【日本財政の現代史3 -- 構造改革とその行き詰まり 2001年~】(#2357)

  小西 砂千夫 (編集)
  価格: ¥3,240 (税込)
  有斐閣(2014/5/28)

 本書は、2001年以降の日本財政の歴史を、小泉構造改革や民主党による政権交代などの観点から分析したものです。
 序章「構造改革とその行き詰まりの時代における財政運営」では、「官僚支配打破が声高に叫ばれるが、とくに大きな方向の選択に関する限り、必ずしも官僚がすべての制作をグリップしているとは思えない。方向性を欠いた改革が次々と打ち出され、その後始末のため、多くの官僚が非生産的な事後処理に東奔西走させられている一方で、一部の権力の中枢に近い官僚群は、時の権力者を現実的にまた怜悧に支えている構図が垣間見える。そうすることで目まぐるしい政治パワーの変化に柔軟に対応している」と述べた上で、「現実の財政問題に関与する財政学の研究者は、近代経済学のマクロ・ミクロ経済学の知見だけでは、現実の政策に対して意見を表明するのには限界が有ることを自覚しなければならない」としています。
 第1章「自公連立政権化の財政運営」では、小泉首相が「強い力」をふるうことができた背景として、「選挙制度と政治資金制度改革がもたらした日本政治の『地殻変動』」を挙げ、首相の権力を支えるものとして、
(1)政治家に対する政党候補公認権と、政治資金配分権
(2)法律により首相に付与される権限
(3)世論
の3点を挙げた上で、「2001年体制」の成立について、
(1)小泉首相の個人的な性格から、政治経験がもたらす冷徹な政局観、あるいは「令外の官」である参事官を設けて官邸スタッフを増強する柔軟さ
(2)政策課題を明確に掲げて有権者に訴え、その支持を調達し得たとするアプローチ
の2点を挙げています。
 そして、「現状では有権者の支持を受けるように政策追求をすることは容易ではない」というこんな政治環境をつくりだした一端として、小泉政権期の財政運営手法が生み出した、
(1)増税回避
(2)税収不足に由来する国債残高の累増
(3)「埋蔵債務」の形成
の「3つの鉄鎖」を挙げています。
 そして、「3年後推計額との比較で見る限り、構造改革の成果とは、デフレの恩恵による国債管理政策の成功と、地方への財源保障の弱体化が大きな効果をもった」と述べています。
 第2章「政権交代以後の財政運営」では、「さまざまな評価があろうが、時代に即した政府、財政をつくるために、予算のあり方を変えようと努力したことは認められてしかるべきであろう」と述べた上で、「初期民主党政権の予算編成上の不備は、『メゾレベルの予算編成』に一定の成功を収めた一方で、『マクロレベルの予算編成』を軽視していたところにある」と指摘しています。
 そして、「統治そのものの転換をめざし、政権交代によって非連続的な変化を演出しようとした民主党政権の施策の多くは、政権交代『前』の議論に振り戻されてしまった」として、「政権交代は結果として、自民党と民主党の差を大きく縮め、二大政党制の意義を決定的に失わせてしまった」と述べています。
 第3章「迷走する税制改革」では、「2003年度税制改正の決定過程の大きな特徴は、経済財政諮問会議が税制改革論議に参加したことである」とした上で、「財政収支悪化の回避と短期・中期的な景気対策の両立、そして構造改革路線に合致したあるべき税制改革如何」という課題に対し、経済財政諮問会議は、「改革還元型減税と法人税率の引き下げ」を強く主張したが、「租税政策の決定過程を根本的に変質させるには至らなかった」と述べています。
 著者は、「自民税調が実質的に税制改正を決定する決定過程に対し、鑑定手動の税制改革の実現が期待された。その実行役を担う経済財政諮問会議が改革論議に参加したことで、決定過程のオープン化や透明化、部分的な家庭の変化が見られた。しかしそれは一時的なものにとどまり、決定過程を根本的に変質させるには至らなかった」と述べています。
 第4章「社会保障・税一体改革の実現と国・地方の財源配分」では、「わが国の政府長期債務の規模は、欧州債務危機で揺れた諸国よりも、対GDP比でみて大きい。にもかかわらず、金融市場が信用リスクについて安定的と見ているのは、租税負担率が低く、増税の余地が大きいことが1つの根拠とされる」と述べています。
 そして、福田・麻生政権における社会保障国民会議の特徴として、「制度改革に伴う社会保障関係の歳出や、財政負担を計量的に補足しようとしたこと」を挙げ、「社会保障制度を支えるために必要な消費税率の引き上げ幅がどの程度かを資産」し、「ここに消費税率を引き上げて社会保障を支えるという方向性が示され、小泉構造改革からの方向転換が明らかとなった」と述べています。
 また、菅内閣における「社会保障改革に関する有識者検討会報告」について、「検討期間は比較的短いながら、社会保障制度が不備であることがもたらす問題点と、日本の経済社会が目指すべき社会像、それにつながる社会保障改革の方向性について明確な方針が打ち出されている」と述べた上で、「同報告書における前半の理念論と後半の技術論の不整合こそ、社会保障・税一体改革の根底にある同床異夢ぶりを象徴している」と述べています。
 第5章「公共事業、不信と縮小の時代」では、「小泉政権から安倍(第1次)、福田と2つの政権を経て2008年に道路特定財源の一般財源化が実現することとなった」が、「そのなかには道路建設への留意、および地方自治体等からの道路建設要望への対応などが盛り込まれ、現実的には国・地方あわせて8兆円近い税収を集める揮発油税など旧道路特定財源関連税目を、社会保障等、複数の目的に利用するといった真の意味での一般財源化は限定的な形にとどまった」と述べています。
 第6章「政策金融改革」では、「郵政解散の目玉政策であった郵政民営化は、官から民への資金供給を促すことを政策目的の1つに掲げていた。この点は政策金融改革も同様である」として、「政策金融改革により圧縮される融資残高によって、財投の預託金制度から解放された旧原資」に生み出された余剰資金は、「小泉首相の財政政策が生み出した国債残高の累増をファンディングするための資金へと変貌することが、当初から予定されていた」と述べています。
 第9章「セーフティネットの動揺と社会保障改革」では、「わが国は、社会保険と『民間企業の長期雇用』、『地方に仕事を供給する仕組み』がセーフティネットを担った」が、「その枠組みは1990年代後半に行き詰まる」として、「セーフティネットの再構成を促す声は力をもたず、代わりに、社会保険一元化などの『抜本改革』論が強い影響力をもつようになる」と述べています。
 そして、民主党の政権公約に基づく「高齢者医療制度改革会議」の提言について、
(1)年齢に着目した制度の独立を否定し、加入要件を満たす医療保険に加入するとした。
(2)費用負担について、世代間、世代内、保険者間の負担配分の応能性を強化するとした。
(3)保険財政安定化の仕組みを強化するとした。
(4)医療サービス、保健事業について、年齢に着目した診療報酬の廃止を評価し、75歳以上の健康診査の実施の義務化、特定健診、特定保健指導への新たな制度に適合したインセンティブの導入を提言した。
の4点に要約しています。
 第10章「小泉政権における地方分権改革と地方財政改革」では、「地方自治体の財政需要は、地方交付税により手厚く財源保障されると考えがちであるが、実は制度上そうと放っていない。地方交付税の算定の基礎となる地方財政計画は、個々の地方自治体の必要な財政需要を積み上げる形で算定されているのではなく、時間的・技術的制約から各経費を理論値計算して出されたマクロでの金額が計上されることになる」として、「そのようにして計算されたマクロでの歳出額に対し、見積もられた税収入、国庫補助金および地方債の項目が並ぶ歳入面があり、それらで足りない部分が地方交付税となる」と述べています。
 そして、「地方財政の交付税依存体質を地方自治体の非効率な財政運営の原因であると認識し、地方交付税を抑制することで財政再建のみならず地方分権の推進を行えるという見方が少なからずあったが、それは地方交付税への誤った先入観をもとにつくりあげられた批判である」として、「それらをもとに交付税改革を進めたことが、三位一体改革の躓きの第1の原因ではないか」と述べています。
 第11章「政権交代と地方分権改革」では、「民主党政権において地方分権改革は、『地域主権』として肝いりで進めたにもかかわらず、3つの内閣を経ていく中でその目的は変化し、方向性を見失った。何のためにどのような政策を打ち出すのか、その明確な目的と実現するための体制が必要不可欠であり、民主党政権に欠けていたものと認識できる」と述べています。
 第13章「震災復興と地方自治」では、「『3.11』が我が国の経済・社会に及ぼした影響は甚大なものである」が、「現在、東日本大震災の被災地が直面する問題には、2000年代以降、とくに小泉純一郎政権期の政策が少なからず関係している」として、「きっかけは自然災害であるにせよ、小泉政権期につくられた制度によって、形作られ顕在化した問題群といってよい」と指摘しています。
 そして、「復興交付金についても、復興庁の担当者は各省庁からの出向者であることから、配分についてはもともとも出身官庁の意向が反映される。つまり、復興交付金も含めて、復興予算とはいってもその配分は、従来からの自治体に対する補助金の配分の仕組み、すなわち自治体と事業の所管官庁、及び財政担当官庁の折衝によって決まる仕組みと大差ない方式で決定されている」と述べています。
 第14章「日銀の『非伝統的金融政策』と財政」では、「金融緩和を推進しながらも長期国債の引受けへの積極的な関与をためらった日銀は、多様な金融調節手段を導入することでその補完を図った」として、「日銀による一連の金融政策は、単に金融緩和を狙ったものだけでなく、いかに限られた政策を有効に保ちながら市場に対して金利という規律を維持させ、かつ金融システム不安を顕在化させることなく許容可能な緩和目標を達成するかの試行錯誤の過程であった」と述べています。
 本書は、現在の日本財政が2000年以降たどってきた模索の道をたどった一冊です。


■ 個人的な視点から

 21世紀に入ってからの日本の財政の変化、特に小泉改革について理解する上では必ず読んでおいたほうがいいです。


■ どんな人にオススメ?

・小泉改革の前後で何が変わったかを理解したい人。


2015年4月 2日 (木)

日本財政の現代史2 -- バブルとその崩壊 1986~2000年

■ 書籍情報

日本財政の現代史2 -- バブルとその崩壊 1986~2000年   【日本財政の現代史2 -- バブルとその崩壊 1986~2000年】(#2356)

  諸富 徹 (編集)
  価格: ¥3,240 (税込)
  有斐閣(2014/6/14)

 本書は、日本財政について、「なすべきことがなされなかった理由、経済的に『非合理的』な選択肢が選ばれた理由、ミクロ経済学では説明困難な領域にこそ、財政危機や社会の閉塞感の重要な原因が眠っている」という問題意識から、「日本財政のあゆみをひもとく」ものです。
 序章「バブル生成と崩壊は日本財政にどのよな影響を与えたのか」では、バブル絶頂の1986年からバブル崩壊後の長期低迷を得て小泉純一郎政権が登場する直前の2000年までの期間について、「問題の本質は、膨大な不良債権の処理にあった」が、「それを本気で実行すれば、銀行国有化や破綻処理も辞さないことになり、金融界に激震が走る」ことから、「2000年代の小泉政権の登場まで公的資金注入による本格的な不良債権処理はタブーになってしまう」と述べています。
 そして、「1990年以前は、毎年、財政赤字を計上していたものの、『一般会計歳出』と『一般会計税収』の乖離はそれほど大きくなく、一定の幅を保って推移していた」が、1990年以降、「税収面では、バブル崩壊後の景気低迷に加え、政策減税が税収減少に追い打ちをかけ」、「歳出面では、数字の緊急経済対策に伴う公共事業拡大が、歳出膨張の決定的な要因となった」ため、「歳出と歳入のギャップは1990年代に年々拡大を続け、公債発行残高が未曾有の水準に積み上がっていくことになった」と述べています。
 著者は、「今から振り返ると、1986年から2000年という時期は、日本の政治経済システムが『右肩上がり』の時代から『右肩下がり』の時代に転じたという意味で、改めて大転換の時期だったと実感させられる」と述べています。
 第1章「マクロ財政・金融政策の経済理論と思想」では、1970年代以降の財政政策の展開について、「公共事業の資源配分機能に景気対策としての役割(有効需要創出)と対外政策手段としての役割(内需拡大や輸入促進のための手段)が付加された」結果、財政の「三重化」が生じたとして、「一国単位での最適化をめざして政策立案を行い実行することが徐々に困難になる出発点でもあった」と述べています。
 また、「わが国の内需拡大策にもかかわらず貿易不均衡が解消しないことに業を煮やしたアメリカ」により、1989年から「日米構造協議」(SII)が始まり、「公共投資の内容と量が国内的要請だけではなくアメリカの意向も強く反映され決定されるようになった」結果、「SIIにより日本の議会統制が届かない2国間交渉を通じて重要な意思決定が行われたこと、公共投資の中身よりも量が重視されたこと、公共投資の中身として生活関連社会資本の拡充が志向されたこと」を指摘しています。
 そして、「SIIは日本経済がバブル経済期という特殊な経済環境に置かれていたもとで交渉が始まり、終わった。このタイミングの良さが、高水準の生活関連社会資本投資が国内的に受け入れる土壌を構築した」と述べています。
 著者は、「現在、主要国で行われている量的緩和政策の根源は、日本の1990年代以降の金融政策にもたれかかる財政政策という構図のなかにすべてを見出すことができる」と述べています。
 第2章「予算編成過程の変容」では、「増分主義を支配的原理としたミクロ・バジェッティングのあり方」の問題点として、
(1)前年度予算をベースとする増分主義的予算編成は、それに親和的な利益分配型政治とも相まって、予算配分の構造を固定化し、予算の既得権益化を招き、経済社会の変化に伴う政策プライオリティの変化に柔軟に対応することを妨げる。
(2)増分主義は、財政資源が制約されているという現実を考慮していない。
の2点を挙げています。
 また、「マクロ・バジェッティングの機能はといえば、もっぱら大蔵省主計局が予算編成の出発点として定める概算要求基準(シーリング)がその役割を担ってきた」が
(1)シーリングは、あくまでも次年度の単年度予算を対象としたものであり、マクロ・バジェッティングの本来的課題である中長期的な財政の持続可能性を担保するものではない。
(2)シーリングを設定する主体は、ミクロ・バジェッティングの主要なアクターである大蔵省主計局が担っている。
(3)シーリングが、ミクロ・バジェッティングの増分主義的行動を容認した上で設定されたため、各省庁の予算の増額ないしは減額を一律で提示する形をとった。
(4)シーリングは、一般歳出、当初予算を対象としていたため、特別会計や財政投融資への経費移転や補正予算による対応に対しては無力である。
等の問題点を有していたと述べています。
 第3章「バブル経済下の税制改革」では、「社会保障による再分配機能は1981年以降、ほぼ一貫して高まっているのに対して、税制による再分配機能はバブルが崩壊して以後、年々低下している」と指摘しています。
 第5章「『土建国家』を支える政策金融の終焉」では、「1985年から2000年にかけての財投は多くの論点を抱えながら、劇的な変化を遂げてきた。従来の土建国家としての公共事業はその規模を少しずつ減らしながら、道路や下水道等特定の分野に集中していった。その過程では、地方の人口密度の低い地域での事業が増加することとなった。地域間再分配を含む資源配分機能を果たす一方で、1990年代に地方公共団体への融資が増大すると、インフラ整備は末端まで実施されるようになった」と述べています。
 第7章「再編期の社会保障」では、「高度経済成長期における数量的な前提とその崩壊」として、
(1)高い経済成長率:社会保障制度は、賃金をベースとした社会保険料、あるいは所得ないし消費をベースとした租税を主な財源としているが、高い経済成長のもと、賃金や所得の上昇が持続されると、社会保障制度はより低い負担のもとで設計することが可能となる。
(2)年齢構成:日本の社会保障は、高齢者向けの給付・サービスに重心が置かれているため、人口構成の変動による影響を受けやすい。
の2点を挙げ、「持続する経済成長と若い人口構成をもとに『安価』に拡充・発展を遂げた日本の社会保障制度は、それらの条件の喪失による税収と保険料の停滞と費用の膨張により、その持続可能性が脅かされるようになった」と述べています。
 第8章「集権と分権の狭間」では、「バブル期には地方財源の不足額は徐々に減少しているが、バブル崩壊後これまでにないほどの収支不均衡となり、1999年には財源不足額は14兆円を超えた。そしてその主な措置として交付税特会による借入が用いられたことがわかる」とした上で、交付税特会による借入について、「地方にとっては地方債の発行とは違って個別の自治体における負担としては目に見えない形になっており、自治体が意識しない『隠れ借金』となっている」と指摘しています。
 第9章「付加価値税の導入過程と逆説的性格」では、「高度成長期にVATを導入した国々は低成長期の財源確保を可能にしたため、大きな福祉国家を維持したのに対し、低成長期にVATを導入しようとした国は国民からの激しい抵抗に遭い、小さな福祉国家を保持することになった」と述べています。
 第11章「地方債制度・市場のあり方」では、「財政運営に要する資金は基本的に地方税や補助金制度を通じて調達されるべきで、地方債の発行はあくまで例外と位置づけられている」とした上で、その例外として、「地方自治体の会計を経常会計と資本会計に分け、地方債の発行は後者における資金調達手段としてのみ認める」とする「黄金律(the golden rule)」を挙げています。
 そして、「アメリカでは先進諸国の中でも例外的に、地方政府を対象とした債務調整制度も存在する」と述べ、「地方自治体の財政状態の健全化を図る上で、こうした制度を利用することは、健全化のコストを地方債の保有者が分担することを意味する」ため、「中央政府が支援を行う場合と比べ、政府全体に生じる負担の軽減が期待できる」としています。
 また、「日本の地方債の発行残高は、是退学ベースで195兆円、対GDP比で40%と、欧米諸国と比べても相当に高い水準にある」ことについて、「起債自主権の前提となる財政状態の健全性を維持するための仕組みが適切に機能していないことを示唆している」と述べています。
 さらに、地方債を行動発行する取り組みについて、「日本で花がきにわたり、中央政府は地方債の発行を厳しく統制・監督する一方、その裏返しとして起債に対して責任を共有し、地方自治体の資金調達コストの負担を軽減するために支援を行ってきた」と述べています。
 第12章「日米構造協議と財政赤字の形成」では、日米構造協議において、日本の公共投資拡大が「生産力効果を発揮して、日本企業の国際競争力を増大させるのではないか」と危惧したアメリカ側によって、「輸出の増大につながらない公共投資の拡大に強く固執し、最終報告では公共投資のうち、人々の日常生活に密接に関連した『生活環境・文化機能に係るもの』のワリアイを過去10年間の50%台前半から、計画期間中に60%程度を目処に増加させることとされた」として、具体的には、「上下水道、公園、緑地整備、廃棄物処理施設、住宅、域内の道路、地下鉄、構成福祉施設、文教施設等に係る公共投資」だと述べています。
 そして、「地方債による公共投資の拡大へと地方財政を誘導するために国が用いた政策手段」として、「地方債とそれを補完する地方交付税が主な政策手段であった」として、地方単独事業の「起債充当率を引き上げるとともに、地方債の元利償還額の相当部分を地方交付税の基準財政需要額に組み込むという『交付税措置』が活用されるようになった」と述べています。
 著者は、交付税特別会計借入金増大の要因として、「日米構造協議後の地方自治体による公共投資の積極的な拡大が交付税特別会計の借入金増大をもたらし、それが国の財政赤字の増大につながった側面は否定できない」と指摘しています。
 本書は、バブル期とバブル崩壊後の日本財政の歴史を記した一冊です。


■ 個人的な視点から

 「バブル時代」という言葉が今ではすっかり歴史の言葉になってしまったことがわかります。


■ どんな人にオススメ?

・20世紀終わり頃の財政を知りたい人。


2015年4月 1日 (水)

マジックにだまされるのはなぜか 「注意」の認知心理学

■ 書籍情報

マジックにだまされるのはなぜか 「注意」の認知心理学   【マジックにだまされるのはなぜか 「注意」の認知心理学】(#2355)

  熊田 孝恒
  価格: ¥1,836 (税込)
  化学同人(2012/1/24)

 本書は、「マジックを見る観客を題材にして、人間の認知機能をひも解いてみよう」とするものです。著者は、「認知心理学は人間の認知機能を全般的に研究対象とするが、本書では、そのなかでも『注意』の機能を中心に取り上げる」としています。
 第1章「マジックと人間の認知機能」では、マジックについて、「マジシャンが手技や道具に付随した仕掛けを用い、言語的あるいは非言語的な手がかりによって観客の注意を誘導し、物理学的、生物学的に不可能な事象があたかも生じたように観客に知覚させ、また、それによって観客を驚かせたり楽しませたりする芸能の一種」と定義した上で、「マジックのなかでは、人間の注意を誘導すること、とくに注意を向けてほしくない部分から注意をそらす『ミスディレクション(misdirection)』と呼ばれる技術が最も重要といわれている」と述べています。
 また、我が国のマジシャンの世界において、「サーストンの三原則」と語り継がれているものがあるとして、そのうち、「マジックを演じる前に、現象を説明してはならない」、「同じマジックを二度繰り返して見せてはならない」とする2点について述べたうえで、「マジックは、マジシャンが観客の心の状態を想像し誘導すること、また、観客もマジシャンの行動や言動からその意図を想像し、場合によってはそれに引っかからないようにする、という高度な駆け引きを必要とするエンターテインメントであるといえる」としています。
 第2章「注意が働かないということ――脳損傷にともなう注意の障害」では、「脳の右半球の頭頂葉から側頭葉(後頭部の上の方から耳の上あたり)を脳梗塞などで損傷すると、『半側空間無視』と呼ばれる症状が起きる」と述べ、「半側空間無視患者が単に視野の左側を認識できないのではなく、いま意識している対象の左側に注意を向けることができない」としています。
 そして、カーナスらの仮説として、「進化的に言語を操るようになる前の種の脳(たとえば、サルの脳)では、脳の左右両方の半球の側頭葉にその反対側の視野に注意を向ける役割を担うメカニズムが存在していたと考える。しかし、人間が、進化の過程で言語の機能を獲得すると、脳の左側の側頭葉が言語の理解の役割をもつにいたった。そのために、その部位にあった注意の機能が失われてしまったのだろう」とする仮説を紹介した上で、「左視野の半側空間無視は決して珍しくはないのに対して、右視野の半側空間無視はきわめてまれである」ことについて、「右半球の頭頂葉あるいは側頭葉にある注意中枢は、左右の両方の視野を受け持っているのに対して、左半球のどこかにある注意中枢は、右視野だけを受け持っている」とする説を取り上げています。
 第3章「注意のスポットライト」えは、「反射的な注意の移動」と「持続的な注意の移動」の「二種類の注意システムの連携と役割分担によって、円滑な行動が可能となる」として、「見落としや不注意は、普段は正常に強調して働いている二つの注意システムのバランスが、何らかの原因で崩れた場合に発生する」と述べています。
 また、人間の注意をスポットライトとみなした場合、「注意のスポットライトの範囲を広げるほど、注意の効果自体は弱くなっていく」として、この特性を「ズームレンズ」に例えています。
 また、ポズナーらの研究として、「ある位置に注意のスポットライトを移動するという過程が、少なくともある位置に注意を向ける過程と、今注意を向けている位置から注意を引き離す過程から成り立っていること、また、この二つの過程が脳の異なる部位で担われていることがわかった」と述べています。
 第4章「ミスディレクションと注意のコントロール」では、「観客の注意を特定の場所に誘導するテクニック」を、マジックの世界では「ミスディレクション(誤誘導)」と呼んでいることについて、マジックの解説書では、観客が注意を向けるものとして、
(1)動くもの
(2)マジシャンが見るもの
(3)マジシャンが重要に取り扱うもの
の3点が取り上げられているとして、「観客に注意をされたくなかったら、これらの逆のことをすべし」と書かれていると述べています。
 第5章「視覚探索と注意のスポットライト」では、
(1)特徴探索:一つの視覚的特徴で異なっているような目標の探索
(2)結合探索:2つ以上の特徴が組み合わさった探索
の2つの探索方法について解説しています。
 また、視覚探索に影響する重要な要因として、「直前に見つけた目標と同じ目標は見つけやすい」とする「ポップアウトプライミング」や、「同じ配置が繰り返し表示されると、その配置が目標の位置の手がかりになって、その位置に注意が容易に誘導されるようになる」とする「文脈手がかり効果」などについて解説しています。
 第6章「不注意のメカニズム」では、「視野内をできるだけ効率的にくまなく探索をしようとすれば、以前に一度注意を向けたが何も異常がなかった位置よりも、最近は一度も注意を向けていない位置にまず注意を向けるほうがより有効的に異常事態を発見できる可能性が高い」ため、「直前に注意を向けた位置を抑制することで注意を向けにくくするメカニズム」である「復帰の抑制」について解説しています。
 また、「注意を必要とする課題の遂行をするには、脳内の『資源』を利用しなくてはならないが、資源が余っていると、その使い道に困って関係ない対象にも配られてしまい、結果的に関係ない対象まで処理されることになる」と述べた上で、「注意の資源」という考え方を提案したカーネマンについて、「同時処理の限界を説明するための概念」として「処理資源」という考え方を用いたとし、さらに、「個人の処理資源の総量はその時の覚醒の程度によって増減する」というポイントに言及しています。
 第7章「変化に対する気づき――シーンの認識と注意、意識」では、サッカードが起きているあいだだけ眼の情報処理の感度が急激に減少する」現象である「サッカード抑制」について、「眼が動いているあいだの光景が見えないように、眼からの情報をシャットアウトする機能が脳には備わっている」とした上で、「人が目を動かしているあいだに起きたことは認識されないという現象は、情報の知覚の安定性をもたらすには非常に有効なシステム」だが、少なくともわれわれが見ている情景の3割程度は、直接認識した情報ではなく、脳の中でつくりだされた穴埋めの情報」であると述べています。
 また、高齢者の注意機能の実験に関して、駅構内の案内表示の見にくさやわかりにくさに対する不満が多くあるが、実際には、高齢者は「駅のなかの案内表示をほとんど見ない」ことが明らかになり、おそらく、「徐々に注意機能が低下したために、情報がたくさんあるような環境から、目標とする情報を探そうとしても上手くいかない経験が重なった」ため、「あまり得意ではない視覚探索によって複雑なシーンから案内表示を探すのではなく、わかりやすい実物を探し、また、過去の知識を活用して目標に到達するような方略を採用した」と述べています。
 第8章「マジシャンは観客の行動をどうコントロールするか」では、「マジックは人間の心理や行動のメカニズムを巧みに利用し、観客を楽しませるエンターテインメントとして、心理学や脳科学よりもはるかに長い歴史を持つ。その間に、マジシャンが経験的に蓄積してきた技術には、人間の心理や認知・行動に関する経験的な知識がふんだんに盛り込まれている」と述べています。
 本書は、マジシャンが用いている技術に隠されている心理学的な裏付けを追った一冊です。


■ 個人的な視点から

 「マジック」というと手先の器用さという印象を持ちますが、大事なのは注意をコントロールする会話やしぐさであることがわかります。


■ どんな人にオススメ?

・手品に騙されたくない人。


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