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2015年6月30日 (火)

恐怖の法則: 予防原則を超えて

■ 書籍情報

恐怖の法則: 予防原則を超えて   【恐怖の法則: 予防原則を超えて】(#2445)

  キャス サンスティーン (著), 角松 生史, 内野 美穂 (翻訳), & 1 その他
  価格: ¥3,564 (税込)
  勁草書房(2015/2/7)

 本書は、「恐怖、民主制、合理性、そして法について」述べたものです。著者は、「人々は時に恐るべきでない問に恐れ、恐るべきときに恐れを知らない。民主制国家においては、法は人々の恐怖に応答する。その結果、法は不適切なあるいは危険ですらある方向へ導かれてしまう」と述べています。
 そして、「民主主義政府は、いかにして人々の恐怖に応答すべきだろうか。恐怖と、法や政策とはどのような関係にあるのか」という問題について、
(1)よく機能する政府は熟議民主主義を目指さなければならない。
(2)よく機能する民主制は、しばしば完全には理論化されていない合意の達成を求める。よく機能している社会とは、合意が必要なときには人々の合意を可能にし、合意が不可能なときには人々の合意が必要でないようにする社会だ。
の2つの理念を心に留めておくことで、「最も適切にアプローチすることができるだろう」と述べています。
 また、「恐怖」を、「なんらかの意味で私たちが危険な状況にあるという判断に依存するもの」だとした上で、「予防原則」の根源には、「潜在的な危害が認められる場合、たとえ因果関係が明確でなくとも、現実となるかどうかわからなくても、規制主体は防御するための対策をとるべきである」という考え方があると述べ、予防原則が注目され続けるに値する理由として、
(1)予防原則は危険・恐怖・安全に関する激しく実際的な議論の基盤となる。
(2)予防原則は、リスクと不確実性の下での個人や社会の意思決定に関して理論上魅力的な多くの論点を提起する。
の2点を挙げています。
 第1章「予防とその機能不全」では、世界中で、「疑わしき場合は予防原則に従え」という、「リスク規制に対する単純な発想に対する関心が広がっている」とした上で、予防原則は、「様々な理解の連続体」であり、「解釈の一方の極端は、分別のある人間であれば誰も反対しないであろう弱いバージョン」であり、「もう一方の極端は、規制政策の根本的な再考を求める強いバージョンである」と述べています。
 そして、「人間の行動の有力な説明であるところのプロスペクト理論は、発生確率の低い重大な危害を避けようとする人々の気持ちを強調する」として、「人々の意見を反映する民主主義社会では、深刻な危害をもたらしうる低確率のリスクについて回避的な姿勢を採用するだろう」と述べ、「その結果は、予防原則によって示されるものと同じ方向になるだろう」としつつも、「プロスペクト理論によってもリスク回避によっても、強い形態の予防原則に対する擁護論とはなりえない」と指摘しています。
 また、「現時点でのわたしの主張は、予防原則とは荒っぽいものであり、望ましい目標を達成するための手段としては歪んだものだということ、そして、予防原則の意義を突き詰めてみれば機能不全に陥り、全く役に立たないというものである」と述べています。
 第2章「予防原則の背景」では、「予防原則の適用の前提となるような特定の種類の目隠しをどう説明するのか」という問いに対して、「行動経済学と認知心理学の理解によっていられるだろう」と述べ、
(1)想起可能性ヒューリスティックによって、何らかのリスクが、実際にそうであるよりもはるかに実現しやすいかのように考えてしまう。
(2)確率無視によって、実際にはほとんど起こりえないものであっても、起こりうる最悪のケースに目を向けてしまう。
(3)損失回避性によって、現状と比較して損失が出ることに対して回避的になる。人々は、新たにもたらされるリスクや現存するリスクの増加によるいかなる損失にもきわめて敏感だが、規制の結果として捨てられた便益にはほとんど関心がない。
(4)慈しみ深き自然への信頼によって、人為的な決定や過程に対して特に疑念を抱いてしまう。
(5)システムの無視によって、リスクはシステムに内包されたものであるという見方や、システムに介入することがそれ自体リスクを発生させてしまうといった見方ができなくなる。
の5点を挙げています。
 そして、「予防原則が役立つように思われるのは、分析者が『ターゲット』となるリスクに焦点を当てる一方で、予防志向的であることがシステム全体にもたらすところのリスク関連的影響には焦点をあてない、あるいは、リスク削減そのもののリスク関連的帰結すら軽視するからであることがしばしばである」と述べ、「リスクが必然的にシステムの一部であることを一度認識すると、予防原則はほとんど役に立たなくなるのである」としています。
 また、「最悪のシナリオを特定してそれに対処することが最良の策であることもある」が、「このような応答によって予防原則を正当化しようとすることは、3つの問題を抱えている」として、
(1)予防原則はマキシミン原則ではないこと。
(2)このような形で予防原則を正当化すると、合理的な優先順位設定を妨げることになるかもしれない。
(3)今は不確実性の領域にある危険でも、リスクの領域に移動することがしばしばあるということ。
の3点を挙げています。
 第3章「最悪のシナリオ」では、「多くの分野で人々が確率の変化についてあまり考えないこと、感情が意思決定に大きな影響をおよぼすことを疑う人はいない」とした上で、
(1)特に感情が激しく関わっているとき、確率の違いが行動に影響する程度は、本来そうあるべき程度よりもはるかに小さい。
(2)人々が政府の介入を要求するときも、それは確率無視に大きく影響されるため、規制主体は、結局広範な規制に乗り出すことになる。
の2点を挙げ、「政治に参加する者たちは、それぞれの立場から『最悪のケース』に注目し、確率無視を進んで悪用する」と指摘しています。
 そして、「危害のリスクの場合、災害の鮮明なイメージや具体的な映像が、さまざまな点についての思考を『押しのけて』姉妹売る。そしてその押しのけられる思考の中には、災害が発生する確率は本当は小さいという[本来]重要な点についての思考が含まれている」と述べています。
 また、「社会レベルでいえば、制度によって、確率無視への脆弱性を増大させたり減少させるような多くの相違がもたらされうる。熟議民主主義は、人びとの短期的な恐怖に対して一定の免疫を有しているような制度を作りだろうと試みるだろう」と述べています。
 第4章「野火のように広がる恐怖」では、「利用可能性と顕著性は、社会的なバンドワゴンやカスケードを通して広がっていくことがある。一見典型的であるかのような逸話や心をつかむ実例が、これらの過程の中で人から人へと急速に伝播していく」として、「ワシントンでのスナイパーの攻撃、ラブ・キャナル事件の恐怖、狂牛病論争、その他多くの社会的過程において、このような過程が大きな役割を果たし、恐怖を生み出し、そして時には新法をも生むことになった」と指摘しています。
 そして、社会的リスクの領域では、「顕著性がある出来事は、想起しやすいため、人々に影響を与えやすく、また繰り返し伝えられやすい。それによってますます多くの人々にとって想起しやすくなり、カスケード効果をもたらすことになる」という「想起可能性カスケード」が、「多くの社会的信念の原因となっている」と述べています。
 また、「同じような意見を持つ人々が互いに熟議しあうと、概して彼らは、議論を始めた時点よりもずっと極端な観点を受け容れてしまうことになる」という「集団極化」という過程について例を挙げています。
 第5章「予防原則の再構築と恐怖の管理」では、「予防原則がめざす目標は有益なのだから、それら目標を正しく理解すれば、予防原則の中心的な発想の再構築に道筋をつけることができる」として、
(1)カタストロフィ的リスク
(2)不可逆の損害
(3)カタストロフィの恐れはないが際立って懸念すべき理由があるリスク
の「3つの次元に沿って再構築がなされる」と述べています。
 そして、「確率を割り当てることができない壊滅的なリスクに市民が直面したとき、反カタストロフィ原則を適用することは、彼らにとって理にかなっている」とした上で、「生活の上でも法律の上でも、反カタストロフィ原則にはそれなりの役割がある」が、重要な留保として、
(1)反カタストロフィ原則はあらゆる社会的リスクに対して注意深くあらねばならない。
(2)反カタストロフィ原則の使用にあたっては、費用対効果の考え方に敏感でなければならない。
(3)分配の問題への考慮は重要だ。
(4)費用それ自体も重要である。
の4点を挙げています。
 また、「不可逆性を強調することには深刻な問題がある」として、「その基本的な発想自体が多義的」であることを指摘しています。
 さらに、「リスクの確率、リスクの規模、そして規制手法の一覧を理解することは、良い選択肢を特定することに多いに役立つ」として、「そのような選択肢の全てについて、既存のエビデンスと、当該リスクが現実化した際の規模に相応するような安全マージンが選ばれるだろう」と述べつつも、「選択された手段がもたらすリスクや費用についても知らなければならない」として、「現実に問題になるのは、安全マージンを設定するかどうかではなく、安全マージンをどの程度にするか、どのリスクに対してマージンを適用するかである」と述べています。
 著者は、「特定のリスクに対する予防原則の適用が、4つの重要な要素から説明できる」として、
(1)規制的対応のきっかけとなるような不確実性の程度
(2)そのような対応を正等化するような、予想される損害規模
(3)予防原則の適用の際に選ばれる手段(情報公開の要求、技術的な要求、全面禁止といった手段)
(4)疑わしい場合における安全マージンの適用
の4点を挙げています。
 第7章「民主主義、権利、分配」では、「費用便益分析の最も重要な点は、何が実際に問題となっているかについてより具体的な感覚をもたらすことで、過剰な恐怖や不十分な恐怖に対する対応となることである」と述べています。
 第8章「リバタリアン・パターナリズム」では、「貯蓄の問題が示すように、法律上のルールであれ組織のルールであれ、その設計上の特徴が、人びとの選択に対しておどろくほど強い影響を与える」として、「それらのルールは、影響を受ける人々の厚生を改善するという明確な目標を持って選択されるべきだ、というのがリバタリアン・パターナリズムの主張だ」と述べています。
 第9章「恐怖と自由」では、「わたしの目標は、恐怖に怯える人々が、一種の予防原則を発動して市民的自由の不当な侵害をもたらすことになるメカニズムの一端を明らかにすることにあった」とした上で、「想起可能性ヒューリスティックや確率無視は、人々がリスクを実際のものよりもかなり大きいものとして取り扱うように仕向け、相当な損害をもたらす一方でほとんど利益をもたらさないようなリスク軽減方策を受け入れさせてしまう。政府の規制による負担に直面するのが多数派ではなく少数派である場合、不当な行動がなされるリスクはかなり増加する」と述べた上で、対応の可能性として、
(1)裁判所は、明白な法律上の授権なしに執行府が市民的自由を侵害することを認めてはならない。
(2)裁判所は、すべてあるいはほとんどの者に適用されるような自由の侵害に対しては、[政府の判断を]比較的尊重すべきであるが、容易に特定可能な少数派の自由を政府が制限するときは、より一層疑ってかかるべきである。
(3)裁判所は、自由と安全を個別事例において比較衡量することは避けるべきである。恐怖が過剰だというリスクがあることに適応しうるような、一種のセカンド・オーダーの衡量を反映した原則を裁判所は発展させるべきである。
の3点を挙げています。
 本書は、民主主義社会において、「政府が市民の恐怖に盲従したり、一般的な予防思想が有益な指針を提供しうるかのように偽ったり」するための方策を考えた一冊です。


■ 個人的な視点から

 どんなに頭では科学的に考えることが必要だとわかっていても、人は恐怖に直面するとそれに心を囚われてしまうのかもしれません。


■ どんな人にオススメ?

・自分は恐怖に屈しないと思っている人。


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