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2015年6月 5日 (金)

東洋天文学史

■ 書籍情報

東洋天文学史   【東洋天文学史】(#2420)

  中村 士
  価格: ¥1,080 (税込)
  丸善出版(2014/10/25)

 本書は、「アジアの天文学史という文脈の中に日本天文学の歴史を位置づけることを目指した」ものです。著者は、「私たちの先祖は、海外の天文学研究の成果を受け入れ、理解するだけでほとんど精一杯だった」ため、「ある新たな天文学の知識や情報が外国から日本に入ってきた際、それがその国ではどのような位置づけにあったのかなどを知る余裕も手段も」なかったと述べています。
 第1章「古代オリエント・ギリシアの天文学」では、「今から1万年ほど前に、ほぼ周期的に訪れる氷河期の最後の時代が終わり、ヒプシサーマル期と名付けられた高温の時代(年間平均気温が現在より2~3℃高かった)が数千年続くようになった」が、「約4000~5000年前になると、気候の寒冷化、乾燥化が始まった」ため、「多くの人々は水を求めて大河のほとり、つまり四大文明の発祥の地域に逃げ込んだ」結果、「増加した人口を背景に、大河の水を利用する大規模な灌漑農業が発達した」と述べています。
 そして、「それとともに、四大古代文明の地で、いずれも申し合わせたように同じ時代、4000~5000年前に天文学が生まれ発達したことも、自然な帰結として説明できる」としています。
 第2章「インドの天文学」では、「この時代のインド天文書は、ギリシアで発達した天文学、あるいはギリシアを通じて伝わったバビロニアの天文学に基づいていた」とした上で、「それらをいったんインド天文学として受容してしまった後は、インド人の保守的な伝統も原因して、インド化された天文学を内部で発展させるだけにとどまった」と述べています。
 そして、「基本的原理や理論はアレキサンドリアのギリシア天文学に基づきながら、古代インドの天文学者は10進数、三角関数と正弦関数を駆使して、インド天文学を作り上げていった」と述べています。
 第3章「中国の天文学」では、太陰太陽暦では、「暦の上の季節と実際の季節とが、1ヶ月以上ずれる場合が起こりうる」ため、「農業において播種、収穫などを適切な時期に行うことができず大問題」であることから、「半月ごとの季節の目印である『二十四節気』が考えだされた」と述べています。
 そして、中国科学院の気象学者だった竺可禎が、「季節の循環にともなって現れるさまざまな自然現象の記録を中国の5000年にわたって系統的に調べあげた」結果、「過去5000年の初めの約2000年間は、年平均気温が現在より約2℃高かった」と結論し、寒冷地では育たない竹類や梅が繁茂し、二期作が行われ、甲骨文字に現れる「象」の形をよく表しており、「現在はインドなどにしかいない熱帯性の野生象が西安付近にまで生息していたことを示唆する」と述べています。
 また、「ヒッパルコスが星の明るさを等級で示したのとは対照的に古代中国の天文学者は星の明るさにはまったく関心がなかったらしく、星図の星はどれも同じような小丸で描かれているに過ぎない」と述べています。
 第4章「韓国、東南アジアの天文学」では、「古代にあっては地理的な近さのために、朝鮮からの渡来人・帰化人が日本文化の向上に大きな役割を果たした。天文学もその例外ではなかった」と述べています。
 第5章「古代・中世の日本天文学」では、「古墳の天井に描かれた星座図を作れたのは、大陸の天文学知識を持った帰化人か渡来人ではなかったか」として、「世界的にみてもきわめて貴重な存在であることは疑いない」と述べています。
 そして、『日本書紀』に記録のある10個の日食と2個の月食について、「最初の5個の日食と月食は、記録が間違ったものもあるが、実際に観測されたものらしい。それに対して、持統天皇の6年間だけで6個の日食が記載されている」が、「実際に起こった日食はなく、この頃から行われるようになった、中国暦法で計算した日食の予報を観測のように装って載せたことがわかる」と述べています。
 第6章「南蛮天文学と鎖国」では、「宣教師が日本に教えた西洋の天文学と宇宙観は、大きな驚きと好奇心を持って受け取られたが、日本の知識階級である儒学者や仏教学者からは強い反発や抵抗を受けた」一方で、「中国天文暦学の専門家でありながら、西洋天文学の説明に対して理性的な対応を見せた人物もいた」として、1562年に京都にいたキリシタン神父がくらいの高い僧正の訪問を受けた際に、その場に居合わせた暦博士の一族の賀茂在昌が、「宣教師の説く日・月食や天体運行の知識に深い感銘を受け、家族ともども洗礼を受けてキリシタンに改宗した」と述べています。
 第7章「科学的天文学の始まり:渋川春海と将軍吉宗」では、「わが国でも授時暦は注目され、渋川春海をはじめ天文学者や和算家の多くは授時暦を学び研究した」として、「授時暦研究者の中には、算聖と称えられた和算家の最高峰、関孝和もいた」と述べ、「彼は、春海が理解できなかった授時暦の理論的部分もマスターしていた。例えば、太陽の黄道上の位置を赤道座標に変換するには球面三角法を使用するが、春海はこの方法がついに理解できなかった」としています。
 そして、渋川春海が作った「貞享暦」について、「日本人が初めて作ったという意味では日本史上画期的な暦だったが、その内容はほとんど授時暦と変わらない。春海が観測によって天文定数の確認を行ったこと、および中国と日本の里差を考慮して状況歴を作った点だけが異なる」が、「それにもかかわらず、貞享暦がわが国における科学的な天文学の第一歩と評価される理由は、測定は観測による具体的証拠と、論理的な推論によって新たな知見を生み出し、かつそれを検証するという、近代の『化学的方法』に沿っていたからである」と述べています。
 また、将軍吉宗について、若い頃から、「経験に基づいた実証的な学問を好んだ。特に、自然科学の全般に強い関心を抱き、数理的な才能を発揮した」として、「吉宗は、将軍に就任した当初から、特に天文暦学には強い関心を抱いていた」と述べ、「吉宗は単なる天文学への好奇心にとどまらず、将軍という最高権力者の立場、つまり、中国伝統の観象授時の立場も忘れずに天文学の役割を認識していた」としています。
 さらに、「吉宗自身が天文学に強い興味を持っていたことは、自ら天文儀器を考案したり、長期にわたって観測を続けたことから明らかである」とした上で、「吉宗は現代の天文学者、科学者に近い存在だった」と思う理由として、「簡天儀や測午表を考案したことに加えて、例えば、望遠鏡の接眼レンズ部に、目標を正確に捉えるための十字線を自ら工夫して入れたこと」を挙げています。
 第8章「西洋天文学の導入と江戸天文学の発展」では、伊能忠敬の内妻のお栄について、師匠の高橋至時から、その才能を羨ましがられ、また、「忠敬の助手として、当然天体観測にも従事した」ことから、「日本の女性天文学者第1号と考えたい」と述べています。
 本書は、わが国と東洋の天文学の歴史を改めて整理した一冊です。


■ 個人的な視点から

 『天地明察』の渋川春海に引かれてついつい手にとってしまいましたが、4~5千年前の世界的な寒冷化・乾燥化をきっかけに四大文明が起こったという話は面白かったです。


■ どんな人にオススメ?

・『天地明察』で暦に興味を持った人。


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