« 進化する遺伝子概念 | トップページ | 問いからはじめる教育学 »

2016年7月27日 (水)

私たちはどのように働かされるのか

■ 書籍情報

私たちはどのように働かされるのか   【私たちはどのように働かされるのか】(#2551)

  伊原亮司
  価格: ¥2,376 (税込)
  こぶし書房(2015/2/28)

 本書は、「就職や働き方に関する言説の『混乱状態』に惑わされず、雇用や労働の実態に即して〈働くこと〉を考え直す」ことを目的としたものです。
 第1章「経営書・自己啓発本をつい読みたくなる人たちへ」では、「多くの日本人に愛読されてきたドラッカーの著書の中で、望ましい『働かせ方』に関する議論を紹介し、それらを日本社会の雇用状況と職場環境に照らし合わせて検証する」としています。
 そして、「彼の理論の根底にある社会観・人間観を明らかにし、マネジメントについての定義を確認した上で、それらから導き出される望ましい『働かせ方』を順序立てて示」すとして、
(1)「自由社会」とマネジメントの必要性:ドラッカーの理論の根底にある思想は、「ファシズム全体主義」に対する嫌悪と「自由社会」の擁護である。
(2)マネジメントとは:経済的資源を組織化し、経済の成長を達成して、「人類の福祉」と「社会正義」を守る、強力な原動力である。
(3)経営組織と「働かせ方」:マネジメントの必要性を認識し、マネジメントなしには健全な組織運営は不可能であると理解し、マネジメントは「プロフェッショナルな仕事」でなければならないと強調する一方、組織構造は「分権型」が望ましいと考えた。
(4)技術的な要請:「分権化」、柔軟な作業組織、質の高い労働は、オートメーションによる要請でもある。
の4点を挙げています。 
 そして、ドラッカーが「日本企業の労働者管理と労働観光を高く評価した」として、
(1)日本人の「合意」(コンセンサス)に基づく意思決定
(2)雇用の「保障」と「柔軟性」の両立
(3)「継続的訓練」と「人材育成」
の3点を挙げています。
 著者は、「ドラッカーは、日本の労働者管理を理想的な『働かせ方』として高く評価した。日本企業の現場は権限を移譲され、チーム単位で運営され、労働者の技能を高めていると理解した」が、「同じ『現場労働者』の中にも、格差、分業、棲み分け、差別が存在し、皆が同じように質の高い仕事に従事しているわけではない。さらには、現場と管理部門との間には力関係が存在し、現場の『自律的運営』には大きな限定が付く」と指摘しています。
 また、「ドラッカーの言説及びその読まれ方の変遷をたどると、ドラッカーの理論には変わらぬ魅力があることがわかる。理論の根底には、人間の『多面性』への理解がある。利益一辺倒の経済人モデルには基づかない、『人間中心』の経営学である。そこに多くの日本人を長きにわたって魅了してきた最大の理由があるのではないだろうか」と述べています。
 第2章「職場における『いじめ』」では、「働く者たちは、市場原理という『客観的なルール』にもとづいて競争し、『結果』を出し、勝ち残るようにと煽られている。しかし、働く場では他者との協働がなくなったわけではない。にもかかわらず、個人ベースの結果を強く求められると、労働者たちは『自分の足を引っ張る』同僚に敵意が募る。どこの職場でも労働負荷が高まり、労働者は余裕を失っている。そこかしこで個人間の対立が先鋭化し、『ハラスメント』が起きやすい状態になっているのである」と述べています。
 第3章「労働と『うつ病』」では、「階層が低いほど、労働条件が悪いほど、男性よりも女性のほうが、働くことに関してストレスと感じている」としつつも、「経営合理化があらゆる層に広がっており、単純に、ピラミッド構造の『上』から『下』に行くに従いメンタルヘルスが悪化しているわけではない。また、ストレス要因は多様化しており、階層や職種によってストレス要因が異なる点にも留意が必要」だと述べています。
 第4章「労働と『死』」では、「労働にまつわる死は、歴史の中で変化してきた」として、「物理的に劣悪な労働環境による死傷、組織内の激しい競争塗装後監視の下での働き過ぎによる脳・心臓疾患と突然死、雇用に不安定さと労働の過剰及び過少に耐えられない人たちの精神疾患と自殺である」と述べています。
 そして、「日本企業は、『日本的経営』論の擁護者が想定するような、文字通りに助けあう『生活共同体』ではなかった。職場はあくまで経営側主導で作られたものであり、だからこそ、構成員どうしの監視や牽制を生む場になっていたのである。また、組織の『周縁部』に位置する労働者たちは、『共同体』の構成員とは言いかねる、微妙な立ち位置に置かれていた」と指摘しています。
 第5章「『品質』の作り込みの低下」では、「トヨタの現場で一期間従業員として働いた」参与観察の結果について、「管理者は、正規と非正規の労働者の間の壁を取り払い、労働者内の風通しをよくする。この原理を人間関係にだけでなく、職場の物理的環境にも適用している」とした上で、「トヨタは、『視える化』を通して、労働者の持ち場、仕事ぶりや所作、作業結果を他者の眼差しにさらす。『視える化』が徹底された職場では、管理者の眼差しと織り合わさった『同僚の眼差し』を労働者は意識させられる」と述べています。
 そして、「異常処置に関しては、明確な分業が存在する。専門知識を擁する複雑な処置は専門工が行う。ルーティン化した単純な対応は自分の組の管理者や若手のリーダーが行う。期間従業員を含むその他大勢は、機械に触れることすら許されていない」と述べています。
 また、「トヨタの職場では、人間関係や職場フロアが可視化され、他者の眼差しが行き渡り、その辛抱強さが生み出されてきた」が、「そのような監視システムは、あくまで他者の眼差しを気にすることを前提として成り立つシステムであり、そもそも他者の眼差しや評価をあまり気にしない労働者が増えると、職場の相互監視システムは機能しにくくなり、場合によっては破綻する。それまでの教育システムや企業システムで『矯正』される度合いが低く、またトヨタで長く務めるつもりはない非正規労働者が増えると、その傾向が強まる」と指摘しています。
 第6章「『キャリア』ブームに煽られる人たちへ」では、「大規模組織の歯車にならず、学歴・性別・国籍は関係なくなり、年功的な序列に組み入れられる、仕事は会社にいる時間の長さではなく結果で評価されるようになると、将来の働き方を予見する言説が増えた」結果、「実際に、勤め先を変えたり、働く場や時間を自分で決めたり、自ら起業したりして、組織や規則の束縛から逃れた働き方を謳歌する人が出てきた」として、「組織や秩序に囚われない働き方や労働市場の流動化を勧める言説は、若者、中小企業の労働者、女性など、『企業社会』で『周辺』や『底辺』に位置づけられた人たちを惹きつけたのである」が、「雇用規制の緩和により実際に生じたことは、『企業社会』で『周辺部』に位置づけられた人たちの切り捨てであった」と述べ、「厳しい生き残り競争の現実が顕になると、今度は、’自分だけは’市場を生き抜けるようにと『能力』の形成が煽られるようになるのだ」と指摘しています。
 また、教育社会学者の本田由紀による「ハイパー・メリトクラシー」について、「手続き的な公正さという側面が切り捨てられ、場面場面における個々人の実質的・機能的な有用性に即して個々人を遇するという、『業績主義』が本来持っていた意味が全面に押し出される。こうして選抜の手続きという面が後退したことにより、ハイパー・メリトクラシーがその網に捉えようとする『業績』は、個々人の機能的有用性を構成する諸要素の中で、一定の手続きによって切り取られる限定的な一部分だけでなく、人間存在のより全体、ないし深部にまで及ぶものになる。言葉を換えれば、従来のメリトクラシーの『たてまえ』性ないしイデオロギー性が希薄化して、よりあからさまな機能的要請が突出したものがハイパー・メリトクラシーである」と紹介しています。
 そして、「『能力』論を展開する人たちのほとんどは、『人材』の需要側が負うべき負担や責任は問わずに、それらの要望を汲むことを一途に考えている節がある」として、「雇う側は教育コストの削減という主たる目的は隠したまま、その負担を『社会的責任』、『自己責任』という名目で教育機関や家庭に押し付け、個々人には市場での生き残りを煽っては課している点を見落としてはならない。これは、企業による人材育成費の転嫁である」と指摘しています。
 第7章「『社会貢献』に惹かれる『良い人』たちへ」では、「このような厳しい雇用環境の中で、『組織人』でも『自由人』でもなく、『社会』に貢献する仕事を希望し、自ら起業して社会を変えようとする人たち(社会起業家)が現れた」ことについて、「活動支援を受ける側に関して留意すべきは、経済的な貧困を克服しようとするだけではなく、働く場を確保し、社会での『居場所』を取り戻し、社会的に排除された状態から脱することを目的とした活動であるという点だ」と述べています。
 そして、増加の一途をたどってきたNPOが「ここに来て減少傾向にある」理由として、「維持運営の財政的な厳しさ」を挙げ、「営利を第一の目的にしていない組織であるので、『社会貢献』を謳い、崇高な理念を掲げることはたやすい」が、「その多くは、現実問題として財政難に直面している」と述べています。
 第8章「働くということを自分たちのものに取り戻す」では、「いかなる働き方を選ぶにせよ、“適度な労働”を保つためには、働く者たちの間でそして一人ひとりの中で労働の過剰と過少のバラツキをならし、働く場の秩序を自分たちで再構築することが欠かせない」とした上で、「ほとんどの者にとって、職の確保は切実な問題である。働くことは生きることに直結する。創造的に働きたい・生きたいという気持ちも理解できる。しかし、逆説的であるが、生活水準を維持し、職場生活を守るためには、そして仕事の誇りを失わないためにも、職探し(のアドバイス)や目の前の仕事(を促す言葉)に没入する(乗りかかる)だけではいけない。仕事にコミットすると同時に、職場の内と外に労働や活動を規制する足場を持ち、労働者生活を守る方法をいくつか備え、自らを強く緊迫してきた労働倫理を相対化し、半ば強制された労働―消費中心生活を見直すことが欠かせない」と述べています。
 本書は、数多ある労働やキャリアに関する言説を相対化しようとする一冊です。


■ 個人的な視点から

 この20年くらい「雇用流動化」や「キャリアデザイン」という言葉が注目をあびるなかで、多くの働く人たちが、「働くこと」とは何かについて考えてきたのですが、あれって結局何だったのでしょうか。何か変わったのかな、と。
 第5章の参与観察自体は良い取り組みだとは思いますが、取り立てて目新しい成果はなかったということなんですかね。


■ どんな人にオススメ?

・「はたらくこと」について考えたい人。


« 進化する遺伝子概念 | トップページ | 問いからはじめる教育学 »

キャリアデザイン」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1244312/66435303

この記事へのトラックバック一覧です: 私たちはどのように働かされるのか:

« 進化する遺伝子概念 | トップページ | 問いからはじめる教育学 »

2016年12月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31

最近のトラックバック

無料ブログはココログ