教育

2016年7月28日 (木)

問いからはじめる教育学

■ 書籍情報

問いからはじめる教育学   【問いからはじめる教育学】(#2552)

  勝野 正章, 庄井 良信
  価格: ¥1,944 (税込)
  有斐閣(2015/2/25)

 本書は、「人が成長・発達し、変化していく過程やその意味を個人に即して詳らかにしようとすることもあれば、その子の育ちを遊び仲間やクラスメートなどの集団の中に位置づけてみたり、さらに視野を広げて経済や政治との考えてみることもできる、とてもエキサイティングな学問」である「教育学」の入門書です。
 第1章「よい教育ってどんな教育?」では、「教育学では、暗黙のうちに疑うことなく身体化してしまっている自分の知識を問い直しながら再構築すること」を、「学びほぐし」(un-learning)と「学び直し」(re-learning)と呼ぶとして、「このプロセスを他社と共有することを通して、私たちの経験は深く省察」され、「教育的思慮深さ」が磨かれると述べています。
 そして、「教育という営みの原点には、人間の命のケアと育みがあり、そこに文化・教養へのいざないという景気が胚胎している」とした上で、「教育は、一人ひとりの命のケアと育みにかかわる営みであると同時に、ある文化を持った社会やコミュニティの存続や発展にかかわる営み」でもあると述べ、「ある社会・文化状況のなかで、そこにある姿とそこであるべき姿との『間』を問わざるをえないのが教育学」であることから「教育学には、いつも価値をめぐるポリティクスが埋め込まれて」いるとしています。
 第2章「教育を社会の視点から考えてみよう」では、「教育の社会的機能に注目した代表人物」として、フランスの社会学者デュルケームを挙げ、「デュルケームにとって教育とは、まず何よりも社会の必要に応えるものであり、将来、生活することが予定されている社会環境に子どもを順応させることを目的とするもの」だったとして、「このような教育の社会的機能を、一般に、社会化(socialization)」と呼ぶとしています。
 第3章「子どもという存在/人間という存在」では、「子ども時代という概念は、近代以降に創造された世代概念だという見方」もできるとして、「このような社会環境が生まれることによって、子ども時代に、子どもらしく生きるということに積極的な価値が見出され、その育ちの時期に相応しいケアと発達援助とは何か、という教育学的な問いが生まれるようになった」と述べています。
 そして、日常用語としての「育ち」について、
(1)成長(growth):内発的で生物学的な変化。連続的で量的な変化を意味する。
(2)発達(development):外発的で社会・文化に媒介された変化。非連続的で質的な変化を意味する。
の2点を包摂する言葉であると述べています。
 また、ヴィゴツキーの「発達の最近接領域(zone of proximal development:ZDP)」について、「人間の成熟した機能だけでなく、成熟しつつある機能に、つまり、すでに育っている部分だけでなく、いま、まさに育とうとしている部分にこそ着目すべき」だとしていると述べています。
 第4章「教え方は試行錯誤されてきた」では、コメニウスによる、「教師が教えたいことをしっかりともち、子どもが、楽しく、手応えを持って学べるような教育方法」につちえ、「合文化の原則」の最も基本的な様式だとする一方、「子どもの自然(本性)を理解し、そのかけがえのない人生に寄り添い、新たな文化の想像を希求する教育方法の原則」を「合自然の原則」というとしています。
 そして、「デューイが子どもの生活経験に根ざしたカリキュラムの構築を追求」し、クルプスカヤが「生活と教育の結合」という原則にたった「総合技術教育」を探求したのも、「社会に参入・参加しつつ成長する『生活者としての子ども』を教育することを大切にしようとしたから」だと述べています。
 第5章「教育を受ける権利」では、「教育を受ける権利は、人種、心情、性別、社会的身分、経済的地位、門地(家柄)、障がいなど、いかなる理由であっても差別されては」ならないとする「教育の機会均等の原則」について述べた上で、1994年にスペインで開催されたユネスコの「特別ニーズ教育世界会議」で採択された「サラマンカ宣言」について、「心身の障がいに限定するのではなく、社会、経済、文化、言語などの面でハンディキャップを負っている子どもたちが教育から排除されることを許さず、それぞれの特別な教育的ニーズに答えていくべきことが、インクルーシブ(包摂的)教育の実現という理念として」唱えられたとしています。
 第6章「子どもの学びを支える仕組み」では、「多くの国々ではかつて複線型学校体系となって」おり、「戦前の日本でも、旧制高等学校や大学まで進学する子どもだけが小学校から旧制中学校へ進学し、それ以外の子どもにとってはせいぜい高等小学校が最終学校というように、下級学校と上級学校の接続は部分的かつ閉鎖的なもの」である上、「性による差別もあり、女子には高等教育を受ける道が閉ざされて」いたと述べています。
 そして、「学校が評価により、保護者や地域住民に対して、教育活動について説明するだけでなく、保護者や地域住民が直接的に学校の運営や教育活動に参加する仕組みも整えられて」北として、「2000年度から保護者や地域住民が学校評議員となり、校長の求めに応じて学校運営に関する意見を述べることができるように」なった他、「2004年度からは、地域運営学校(コミュニティ・スクール)に指定された学校に保護者や地域住民から構成される学校運営協議会が置かれ、この学校運営協議会に学校運営の方針や教職員人事についての一定の権限が与えられて」いると述べています。
 第7章「子どもたちのための学校ってどんな学校?」では、「日本の学校は、戦後教育改革によって、道徳や価値観を一方的に教え込む教化(インドクトリネーション)ではなく、『人格の完成』」が目的とされたと述べてます。
 そして、「高校や大学など上級学校への進学率が短期間に上昇した」理由として、「学校が人材の社会的配分装置としての役割を果たしていたことと関係して」いるとして、学校の修了証書が、「その所有者が保持している能力の種類や程度を証明するもの」であるだけでなく、「所有者を様々な職業や社会的地位に振り分ける役割を果たして」いると述べています。
 第10章「どんなふうに子どもに接したらよいのか?」では、「1960年代の高度成長の時代になると、日本の多くの学校教育の現場は、激しい能力主義(メリトクラシー)が支配する競争社会へと変貌」し、「子どもの学びにおける他者との競争的環境がさらに助長され、自分という存在に自信をもって学べる子どもが、ますます少なくなって」いき、「学校の部活動や地域のスポーツ活動などでも、勝利至上主義による能力主義の風潮が強まり」、「急速な都市化が進むなかで、かつてはおおらかに見守り、支えあってきた家庭や地域の教育力も低下し続け」た結果、「学業成績の良い悪いにかかわらず、学校で何をやろうとしても自信がもてない子どもや、自尊感情を深く傷つけられ、著しい不安や緊張を強いられる子どもが急増」したと述べています。
 そして、「自己指導能力の形成」について、
・自己存在感を与えること
・共感的人間関係を育成すること
・自己決定の場を与え自己の可能性の開発を援助すること
などが例示され、「社会的自立の心棒となる『自己指導能力』は、社会参加の主人公(主権者)になるために必要ないくつかの要素によって構成されて」いるとして、「子どもが困ったり、不安になったりしたときに、自分には『心の浮き輪』や『帰るおひざ』(信頼できる他者)があると感じられること」である「安心と安全」の感覚を土台に、「自分が自分らしくあっても大丈夫だと実感できる自己感覚としての自己肯定感」が育ち、「自分の経験を振り返り、自分の言葉でじっくり考えられる『自己省察』の力や、自分の心と体に相談して決められる『自己決定』の力」が育つとしています。
 第12章「学校を卒業したら学ばなくてもよいのか?」では、「人間はどう学習しているのか、何をどう教えるのがよいかに関する体系的知識や科学」である「ペダゴジー」(pedagogy)について、「特に大人の学習に関する科学をアンドラゴジー(andragogy)」と呼ぶと述べています。
 本書は、誰もが必ず経験してきた「教育」を支えている学術的背景について知ることができる一冊です。


■ 個人的な視点から

 誰もが教育を受けていながら、その教育がどのような考えに基づいているのかは意外と知らいないものです。「◯◯教育法」みたいない突飛な思想やバズワードは耳にすることが多いですが、教育学を体系的に理解しておくことは、自分や家族の教育を考える上で重要なことです。


■ どんな人にオススメ?

・教育を受けたことがある人。


2016年7月10日 (日)

たった一つを変えるだけ: クラスも教師も自立する「質問づくり」

■ 書籍情報

たった一つを変えるだけ: クラスも教師も自立する「質問づくり」   【たった一つを変えるだけ: クラスも教師も自立する「質問づくり」】(#2534)

  ダン ロスステイン (著), ルース サンタナ (著), 吉田 新一郎 (翻訳)
  価格: ¥2,592 (税込)
  新評論(2015/9/4)

 本書は、
(1)すべての生徒は、自分で質問がつくれるようになる方法を学ぶべきであること。
(2)すべての教師は、生徒の質問づくりを授業の一環として教えられるようにすること。
の2点を提示しているものです。
 「はじめに」では、「自らの質問をつくり出すという方法を学ぶことで、生徒たちは自律的で主体的な学び手/考え手になる機会が提供された」と述べた上で、質問づくりの段階として、
(1)「質問の焦点」は教師によって考えられ、生徒たちがつくり出す質問の出発点となる。
(2)単純な4つのルールが紹介される。
(3)生徒たちが質問をつくり出す。
(4)生徒たちが「閉じた質問」と「開いた質問」を書き換える。
(5)生徒たちが優先順位の高い質問を選択する。
(6)優先順位の高い質問を使って、教師と生徒が次にすることを計画する。
(7)ここまでしたことを生徒たちが振り返る――学んだことは何か? どのようにして学んだか? 学んだことをどのように応用できそうか? など。
の7点を挙げています。
 第1章「質問づくりの全体像」では、「生徒たちにとってとても貴重なスキル」として、
(1)発散思考:多様なアイディアを考え出し、幅広く創造的に考えられる能力。
(2)収束思考:答えや結論に向けて、情報やアイディアを分析したり、統合したりする能力。
(3)メタ認知思考:自分が考えたことや学んだことについて振り返る能力。
の3点を挙げ、生徒たちが質問づくりの各段階を踏むことでこれらの思考力を練習することになると述べています。
 そして、質問の第2段階において、「生徒たちが自分たちで質問をつくるための枠組みないし手順」として、
(1)できるだけたくさんの質問を出す。
(2)(それらの質問について)話し合ったり、評価したり、答えを行ったりはしない。
(3)発言のとおりに質問を書き出す。
(4)肯定文として出されたものは疑問形に転換する。
の4点を挙げています。
 第2章「教師が『質問の焦点』を決める」では、「これまでのように、教師は『発問』をするのではなく、『質問の焦点』を示す」ことになるとして、「生徒たちが質問をつくり出すための引き金。生徒たちがそれをきっかけに考えて質問をつくり出せるものであれば、短い文章、あるいは写真や短い動画や表・図などの視聴覚教材など何でもかまわない。質問の焦点は、生徒たちの思考を喚起するために、従来使っていた教師からの発問の反対側に位置づけられるものである」と定義しています。
 そして、「効果的な質問の焦点を考える際の指針」として、
(1)明確な焦点をもっている
(2)質問ではない
(3)刺激によって新しい思考を誘発する
(4)教師の好みや偏見は表さない
の4点を挙げています。
 第5章「質問を書き換える」では、教師の役割として、「閉じた質問と開いた質問の定義を紹介し、それらについての話し合いを進め、一つの質問を別の質問に書き換えるときにサポートをすること」だとして、
(1)閉じた質問と開いた質問の定義を紹介します。
(2)自分たちがつくり出した質問のリストを見て、閉じた質問には△を、開いた質問には◯を、2~3分でつけるように指示します。
(3)閉じた質問と開いた質問の長所と短所についての話し合いを進行します。
(4)一つの質問を他の質問に書き換えるように指示します。
の4つの手順を示しています。
 そして、「生徒たちに習得して欲しいもっとも重要なポイント」として、「質問のつくり方と言い回し(表現法・言葉遣い)が、受け取りたいと思う情報の質を決定づける」ことだと述べています。
 第6章「質問に優先順位をつける」では、「優先順位をつける力で特徴づけられる意思決定に寄与する脳の部分は、青年期になっても発達していないことがわかって」いるとして、「生涯にわたって使い続けるスキルとして、生徒たちに脳のこの部分を発達させるチャンスをもっと提供するべき」だと述べています。
 そして、優先順位を決定するプロセスとして、
(1)優先順位をつけるための指示を与える
(2)優先順位の高い質問を選ぶ
(3)選んだ質問の理由を述べられるようにする
(4)グループ活動の成果を全体に報告する
の4つの段階を示しています。
 第7章「質問を使って何をするか考える」では、「すでに生徒たちに質問づくりをさせることに自信のある」教師の事例として、
(1)数学者のように考える
(2)生徒たちの質問が探求学習を推し進める
(3)生徒自らの質問が「スイッチを入れる」
の3つの例を挙げています。
 第8章「学んだことについて振り返る」では、「生徒たちが行ったことや学んだことを考えるため」には、
(1)自分たちが新しく知ったこと(知識)
(2)感じたこと(感情)
(3)できるようになったこと(行動)
について、「自らの言葉で語れるチャンスが必要」とした上で、具体的に使える質問として、
(1)知識レベルの変化を問う質問
 ・あなたは何を学びましたか?
 ・自分で質問できるように学ぶことはなぜ大切なのですか?
 ・学んでいる内容について何を学びましたか?
 ・どのように学んだのですか?
(2)感情レベルの影響について問う質問
 ・質問をする際はどんな感じがしましたか?
 ・自分たちが行ったことのなかで、よかったことは何ですか?
(3)行動レベルの変化を問う質問
 ・質問できるようになったわけですが、それを今後どのように使いますか?
などの質問を挙げています。
 第10章「生徒もクラスも変化する」では、「質問づくりを使うことで起きた変化は極めて顕著なもの」だとして、
(1)内容に関するより良い理解などの知識面。
(2)自信、主体性、より熱心な取り組みなどの態度面。
(3)生涯にわたって使える思考力を身につけたことなどの技能面。
の3つに分類しています。
 「おわりに」では、本書の結論として、
(1)どの学校のどのクラスでも、すべての生徒に質問ができるように教えることで、教育を改善することは今日からでもできる。
(2)生徒たちに質問ができるように教える教師は、より高い満足とより良い結果が得られる。
(3)自ら質問することをすべての生徒に教えることで、広い見識を持った市民と、市民中心で、力強く、より活気のある民主的な社会をつくり出すことができる。
の3点を挙げた上で、「私たちの民主的な社会においてさえ、市民が主体的に考え、自らの質問をする力を発達させているとはとても思えません」として、「オープンであるにもかかわらず綿密に構成されている質問づくりは、生徒たちに常に民主主義の習慣を練習させ、スキルを磨く機会を提供して」いると述べています。
 本書は、教育の場にかぎらず、民主主義社会における重要なスキルである「質問づくり」の重要性を述べた一冊です。


■ 個人的な視点から

 良い議論のスタートは良い質問にあり、良い企画のスタートも良い問題意識にあるわけで、質問こそがすべてなのかもしれません。
 そういえば自衛隊の作戦本部を見学したら「EEI」という言葉に出会ったのですが、「Essential Element of Information」という意味だそうで、意思決定する上で必要な「~とは」を決めることが良質な意思決定に必要だということのようです。


■ どんな人にオススメ?

・質問する力を身につけさせたい人。


2016年1月27日 (水)

すべての若者が生きられる未来を――家族・教育・仕事からの排除に抗して

■ 書籍情報

すべての若者が生きられる未来を――家族・教育・仕事からの排除に抗して   【すべての若者が生きられる未来を――家族・教育・仕事からの排除に抗して】(#2520)

  本 みち子 (編集)
  価格: ¥1,728 (税込)
  岩波書店(2015/9/18)

 本書は、「20年以上前には校内暴力や暴走族や深夜徘徊する若者たちの姿が、若者問題の定番だったが、その後の光景は様変わりした。くらしの先行きが見えず、相談する友人や知人がいない、社会的に孤立した若者たちが非常に多くなった」ことについて、「成人期への移行に伴うリスクの時代」であるとして、「学校教育における不登校や中退、複雑な家族関係、心身の不調やハンディキャップ、希薄な友人関係、仕事を通した社会関係の不在という点で共通」した若者たちを対象に、「若者移行政策の定立」をめざすものです。
 序章「移行期の若者たちのいま」では、「成人期への移行の時期には特有の課題がある」として、
(1)安定した職業生活の基礎固めをすること
(2)親の家を出て、独立した生活基盤を築くこと
(3)社会のフルメンバーとしての権利を獲得し、義務を果たすことができるようになること
(4)社会関係を作り社会的役割を取得試写会に参画すること
の4点を挙げています。
 そして、「困難な若者たちをめぐる現代社会のリスク」として、
(1)リスクの多様化:安定した雇用と家族を前提に機能していた社会保障システムが機能しなくなった。
(2)リスクの階層化:リスクに対処する力は社会階層によって歴然とした差がある。
(3)リスクの普遍化:生活の安定を担保していた完全雇用と、稼ぎ手としての男性世帯主がいる核家族という構造が不安定になった。
の3点を挙げています。
 また、「日本で『成人期への移行』に対する社会的関心が高まった」原因として、
(1)若年雇用問題の発生
(2)非婚化による急激な出生率の低下
の2点を挙げています。
 第1章「教育のなかの困難」では、
(1)日本的雇用の人材戦略と組織編成原理を概観し、それに乗れない(就職できない=移行が困難な)人たちの排除の諸相を見る。
(2)学校教育に内包される排除の要因を「自己責任」「地域による格差」「カリキュラム」「社会経済海藻と家庭の文化」に注目して見ていく。
(3)教育、とくに学校教育に含まれる困難、中でも「中退」に象徴されるリスクについて考える。
(4)「困難を抱える個人を、情報を途切れさすことなく地域につなぎ見守り支援し続ける」学校を基点とするケアの発想に立つ包括的支援システムの構築と運用を社会的排除に抗する実践例として紹介する。
としています。
 そして、「日本的高卒修飾システム」について、「『推薦指定校制』『一人一社制』に基づき、高校と企業との継続的・安定的関係である『実績関係』の中で生徒が就職を決定していく仕組み」だとした上で、その特徴である、
(1)高校と企業との「実績関係」
(2)就職についての進路指導の対応
(3)「よい成績→よい就職先」というメリトクラティックな(業績主義的な)原理に基づく進路の水路づけ
の3点をもち機能していたとしています。
 また、「日本では専門高校でさえ移行を支えるカリキュラムとは言えないのだから、普通科の非進学校や進学中心でない総合高校は、カリキュラムには『移行』の発想が見られない」として、「生徒指導をきびしくすれば学校生活からの排除につながり、職業生活のエートスも専門的知識・技能もカリキュラムから見て得られるとは言えないので以降からも排除され、二重の意味での排除に至る」と指摘しています。
 第2章「学校から仕事への移行を支える」では、「若者を立ちすくませている心理的状況」として、
(1)コミュニケーションが築けず孤立している。
(2)評価的まなざしに縛られている。
(3)自信(自己肯定感情)が持てない。
(4)何かをやりたいという意欲が弱い。
の4点を挙げた上で、「若者の立ちすくみの背景には、仕事に就くこともなく無為な時間を送っている者は甘えているという社会一般の認識がある」と述べています。
 そして、戦後日本でほぼ初の若年就労政策である「若者自立・挑戦プラン」について、「企業の採用行動や政府の労働力政策といった社会の側の構造的要因を問うことが弱く、若者の側の意識や意欲といった主体的要因へ働きかけるという構図であり、そのことの問題性を突く議論は多く出されてきている。その上、この『生きる力』とか『人間力』といったものが、『コミュニケーション力』とか『協調力』といったようにきわめて抽象的であり、さわにはそれを実現する手段を具体的に提供することができているわけでもない」として、「結局は『自分で考えて自分で決めろ』というように、若者自身に投げ出すことに終わっている」と指摘しています。
 また、「労働市場へと移行していくのが困難な若者層への『中間的な働き場』が必要になってきている」として、「一般就労でも福祉的就労でもない『中間的労働市場』を提供する『社会的企業』」が、「若者に対する仕事への移行支援策の一つとして期待される」と述べています。
 さらに、「若者支援機関を訪れる若者たちの多くは、個人化した競争的関係のなかで教育課程から排除され、他社からの共感的承認を得ることもできぬまま自尊感情を著しく損傷し、仕事の世界に入っていく自身も意欲も持ち得ず立ちすくんでいる。若者支援とは、まずなによりも若者たちが承認欲求を充足しながら働く自信と意欲を醸成することのできる学び直しの機会を提供するものでなくてはならない」と述べています。
 第3章「若者支援の変遷と日本社会が直面する課題」では、「女子は家庭でも労働市場でも、あらゆる被害者になりやすい」として、「ネグレクト、非暴力・性被害、家族やバイト先からの搾取など、非常にリスクの高い彼女たちはいつの間にか目の前から消えていた。貧困と暴力がつながっていること、進路への絶望感を抱いていること、家族関係のしがらみから逃れることの困難さに衝撃を受けた。『就労支援』『相談支援』の限界を実感した経験だった」と述べ、「15歳にして将来を諦めている彼女たちには、『経済的自立は叶う、夢は実現できるんだ』と信じられる仕事との出会いが必要になる。そして若い彼女たちががんばり続けるには、『保護者が見守ってくれなくとも、地域の信頼できる大人が自分には付いていてくれる』という安心感と帰れる場所も必要だ」と述べています。
 また、男子の就労阻害に関して、「現場の実感としては、『発達障がい』が就労の阻害要因になっていることを年々感じている」として、「彼らは学齢期には変わり者、もしくは極端に大人しい子ではあるが、成績は良いし反社会的行動も起こさないからと見過ごされ、就労現場で初めて『仕事ができない人』として解雇されたり、適応障がいを起こしてメンタルダウンしてしまうケースも多い」と述べ、「学齢期にそのリスクが発見され、本人や家族が理解し、ソーシャルスキル・トレーニング(SST)などの適切な支援があれば、社会に出てからも本人の自覚と周囲の理解を得て、比較的うまくいくことが期待できる。また、本人の能力の凸凹に合わせて職場環境を整えられればもっと多くの人が継続就労できるだろう」としています。
 そして、「広がる貧困と子どもを襲う生活困窮、そして進路を断たれ連鎖する貧困に対して、今最も必要な施策」として、
(1)学校でリスクをキャッチし、
(2)外部機関・人材と役割分担を意識しつつ、
(3)地域で有機的・継続的に連携しサポートすること
の3点を挙げています。
 第4章「就労困難な若者の実像」では、「困難を抱えている若者にとって、合宿型・生活支援型のプログラムは有効な手段である」理由として、「当事者を包括的に見ることが可能であること」を挙げています。
 第5章「若者を支える自治体の挑戦」では、「こども青少年局が発足する以前の横浜市の青少年行政」が、「基本的に『青少年健全育成』と言われる薬物や深夜徘徊、不純異性交遊などの非行防止のための啓発活動と、地域での青少年交流・体験活動の促進など社会教育的アプローチが主なもの」だったが、横浜市が「こども青少年局」という新しい組織を設置した際の基本方針は、
(1)青少年行政の対象を主に十代の思春期をターゲットにしたものから、「青年期から成人期への移行」に焦点を当て15歳~34歳まで年齢層を広げる。
(2)これまでの健全育成や社会教育的アプローチに加えて、福祉・医療的なケアや就労相談や職業訓練など社会・経済的な自立支援の取り組みを行うことで包括的な若者施策を展開する。
の2点であったとしています。
 また、「中間的就労の主たる対象となる生活困窮者の中でも、『健常者』と『障害者』の境界域にいる人たちは、障害者のように企業の法定の雇用義務が無いだけに、かえって一般企業では就労が困難な状況にある」として、「このような境界域にいる人たちが、仕事を得て経済的に自立することを支援するためには、地域単位で、たとえ困難を抱えていても働くことのできる新たな労働市場を形成していく必要がある」と述べ、「中間労働市場」と呼んでいます。
 第7章「若者政策における所得保障と雇用サービスの国際比較」では、「若者が抱えるリスクへの対応策を所得保障と雇用サービスの2つの視点から検討する」とした上で、「仕事の従事していない失業者あるいは非労働力にとって、無業者に対する所得補償制度は自らの生活を維持する上で重要な役割を担っている」として、その給付方法として、
(1)失業保険(雇用保険)による給付
(2)失業保険の受給期間終了後や失業保険未加入者を対象とする失業扶助
(3)十分な資力のないものに対する社会扶助
の3点を挙げています。
 本書は、若者の「生きづらさ」を本人のやる気や責任だけに帰すことなく考えることができる一冊です。


■ 個人的な視点から

 昔は、若い頃に多少「ヤンチャ」(この表現を自分に対して免罪符代わりに使う人間は大嫌いですが)をしていても、「引退」して真面目に働く気になればなんとか食っていけるだけの社会的キャパがあったので、若気の至りに走る人もいたんじゃないかと思います。
 実際のところ、「改心」したところで一生ついてまわるもので、特に現在はそれがよく見えるようになったのかもしれません。
 まあ、中高年の雇用と老後を守るために若者の食い扶持を簒奪した結果であって、若者自身の責任ではないのですが。


■ どんな人にオススメ?

・最近の若者は不甲斐ないと思う人。


2015年9月12日 (土)

格差社会の中の高校生: 家族・学校・進路選択

■ 書籍情報

格差社会の中の高校生: 家族・学校・進路選択   【格差社会の中の高校生: 家族・学校・進路選択】(#2493)

  中澤 渉, 藤原 翔
  価格: ¥3,456 (税込)
  勁草書房(2015/9/12)

 本書は、「2010年代を生きる高校生の進路選択を中心に、それを取り巻く学校生活や親子(特に母子)関係の実態を明らかにするもの」です。
 序章「高校生の進路選択へのアプローチ」では、トロウによる高等教育進学率の変化である、
(1)エリート段階(15%未満)
(2)マス段階(15~50%)
(3)ユニバーサル段階(50%以上)
の3つの発達段階のうち、「2000年代半ばから、日本の大学・短大進学はユニバーサル段階に移行した」と述べています。
 そして、本書の目的として、「現代の高校生はどのように学校生活を送り、将来の職業や生活を考え、そして卒業後の進路を選択するのだろうか。高学歴化した社会と格差社会の中を生きる高校生の進路選択の実態と、そこへの親の関わりを明らかにする」と述べています。
 第1章「進学率の上昇は進路希望の社会経済的格差を縮小させたのか」では、「進学率が上昇し、ますます多くの人々がより多くの教育を受けるようになってきたものの、社会経済的背景による教育達成の差は依然として残り続ける」と述べた上で、「2000年代初頭から2010年代初頭にかけて生じた進学率の上昇の中で、高校生の通う高校の選抜性や高校生の進路希望に対する成績と社会経済的背景の影響がどのように変化したのかを明らかにする」としています。
 そして、「高校偏差値に対する社会経済的背景や中学時の成績の影響」について、
(1)親学歴、世帯収入、中学時成績は高校偏差値に影響を与えること。
(2)その影響力は2002年と2012年の間に変化していないこと。
(3)社会経済的格差について、第1次効果よりも第2次効果の割合がやや大きいこと。
の3点を挙げています。
 また、進路希望に対する家族、成績、学校の影響について、
(1)親学歴、世帯収入、中学3年次成績、学校タイプは影響を与えること。
(2)その影響力は2002年と2012年の間でほとんど変化していないこと。
(3)一方で2002年には見られた高校2年時の成績の影響は2012年に見られなくなったこと。
(4)社会経済的背景の影響に関する第1次効果と第2次効果の割合は、総合的に見ればほぼ同程度であること。
の4点を挙げています。
 著者は、「2002年から2012年の間で進学率が上昇したが、それは進路希望の社会経済的格差の拡大や縮小を導くことはなく、格差の構造は維持されている」と述べています。
 第2章「『学校不適応』層の大学進学」では、「学校適応的な高校生ほど大学進学を希望するという一次元的なパターンを見直し、『学校不適応』な大学進学層の存在を確認したうえで、高校生と母親の主観的・客観的側面から、近年の進学同行の特徴を考える」としています。
 そして、「近年の動向」として、
(1)高校生と教師及び両者の関係が変化した可能性。教師の指導観においても、生徒の順応性を重視した親身な指導へと変化した。
(2)大学進学率の上昇。
の2点に注目しています。
 著者は、「学校不適応」な大学進学タイプである「曖昧な大学進学層」の登場の背景として、「高卒就職が困難な社会状況、学校での進路指導など、さまざまな面があると考えられるが、彼・彼女らこそが高等教育の拡大を担っているのかもしれない」と述べています。
 第3章「大学・短大の専門分野はどのように決まるのか」では、社会階層が進路希望におよぼす影響について、
(1)専門職の出身者には理工や保健を選ぶものが多いこと。
(2)社会と保健の選択率が世帯収入の高低と結びついていること。
(3)父親と同じ学科・専攻で専門教育を受けたいと思う高校生が少なくないこと。
の3点を挙げ、「高等教育の学科・専攻の決定は出身階層の影響を受けており、自由な選択の結果ではない」と結論づけています。
 第4章「誰が推薦入試を利用するか」では、「高校生の進学理由に注目し、大学への進学の際、どのような生徒が推薦入試を利用しているのかを検討」し、「一般入試を利用する生徒より、推薦入試を利用する生徒は、あまり『高い学歴の方が就職に有利』といった学歴による効用を進学理由としておらず、『将来の生活や進路を考える時間がほしい』というようなモラトリアム的な進学理由を持つ傾向にあった」と述べています。
 第8章「母子間の価値観の伝達」では、世代間の性別役割分業意識の関連が不平等に対して意味するものとして、
(1)母親の意識の伝統性は、男子の場合においてのみ子どもの規範の伝統性を強める。
(2)男女どちらにおいても母親の性別役割分業意識の伝統性が、子どもの意識の伝統性を強める。
(3)他の変数との有意な関連が殆ど見られなかった。
の3点を挙げています。
 第9章「母親の就業経歴と高校生のライフコース展望」では「就業を継続している母親を持つ高校生は、男子ならば将来の配偶者のライフコースについて、女子ならば自分自身のライフコースについて、母親と同じように就業継続を希望しやすい」ことが明らかになったとしています。
 本書は、親との関係から21世紀の高校生の進路と就業意識を追った一冊です。


■ 個人的な視点から

 その昔は、高校に進学できるか、大学に進学できるかこそが経済的格差の現れだったわけですが、高校全入、大学全入の時代になったからといって経済的格差が解決されるはずもなく、表面的なタテの学歴は同じ高卒、大卒でもヨコの学歴として依然大きな格差が残っているって当たり前の話のように聞こえます。返せるあてのない(安定的な収入への道が期待できない)高い学費を奨学金を借りてまかなっておいて、返す段の閻魔顔でゴネるのはいかがなものかと思います。

■ どんな人にオススメ?

・格差がある社会が許せない人。


2015年6月27日 (土)

残念な教員 学校教育の失敗学

■ 書籍情報

<strong>残念な教員 学校教育の失敗学</strong>   【残念な教員 学校教育の失敗学】(#2442)

  林 純次
  価格: ¥864 (税込)
  光文社(2015/2/17)

 本書は、「プロフェッショナルとして生徒の成長という『結果』を重んじるスタンスで教育活動を行っている」著者hが、「プロフェッショナルと呼べる教師が増え、日本中の生徒が大きく成長できること」を願って書かれたものです。
 第1章「教育現場の実情」では、教育現場に存在する「残念な教員」について、その理由は「生徒を成長させない」という意味においてだとして、「“残念な教員”らの言動は法的には処罰できないので、教育会が自ら解決していかなければいけない問題である」と述べています。
 そして、「自分の仕事に関連する本を、月に2冊すら読まない人間が約8割もいる」として、「その8割の教員は今すぐ教員免許を破り捨てるべきである。なぜなら、我々教育者は学び続けることを課せられた職業人だからである」と述べてた上で、「学べない」とは、「本来社会人としてすでに持っているべき成長の方法が身についていない」ことを意味し、「新聞を読み、読書をする教員でも、『学べない』ために、平等性や科学性、正確性などを一切無視した発言を平気ですることがある」と述べています。
 第2章「教師の技術」では、「授業が荒れるのは、教員が生徒の自己実現欲求や所属欲求に向き合わず、的確なコミュニケーションがとれていないからだ」と指摘しています。
 そして、「教員の多くは説明・解説の練習もせずに教壇に立っている」と指摘しています。
 また、授業で生徒が感じる三大ストレスとして、「見えない・聞こえない・わからない」の3点を挙げ、「教科書に書かれている内容の劣化版イミテーションを黒板に再現することを授業だと考えている教員が多数存在する」として、「この教員による出来の悪い書写行為で貴重な10第の時間を浪費している生徒を見ると、憐れでならない。真面目な生徒であればあるほど、きちんとその板書をノートに映し続け、受動的になっていく。さらに学力の高くない生徒は、教員が間違えて板書したものをそのまま書き写していたりする」と述べています。
 さらに、プリントへのコメントについては、「多く書けば書くほど、受け手側はショックを受け」、「それぞれのアドバイスが生徒のなかで相対化されてしまい、何が重要なのか優先順位がツケられない」ことから、「返却する際のアドバイスは多くても2つに絞るようにしている」、「それ以上は書いても意味がない」と述べています。
 第5章「授業について」では、予見可能性が低い「応答型」の授業を可能にするには、「深い教材研究と膨大な教養、常識が不可欠」であり、「新人や未熟練教員にはこれらが決定的に足りない」ために、「多くの場合で生徒が集中力を失い、それがクラス全体に伝播していき、閾値を超えると教室が荒れる」にもかかわらず、「大多数の教員が持つ“いい授業のイメージ”は応答型なので、いきなりそれに挑戦しようとする」と指摘し、「まずは分相応の実践を行い、徐々に応答部分を増やしていくのが賢明」だと述べています。
 第6章「教員が技術を身につける順序」では、「生徒が学習面で学校から離れていく勢いは止まらない」理由として、
(1)多くの学校には、指示文書にかぎらず、良い技術を共有化するシステムや文化がない。
(2)塾や予備校などの外部教育機関は、“指示”以外の部分でも高い指導力を持っている。
(3)学校という教育現場が持つ根源的な要素“プロフェッショナリズムの欠如”
の3点を挙げています。
 そして、「“生徒心理理解”は、重要かつ必要な技術ではあるが、じつは習得に時間がかかるレベルの高い技術」だとして、「まだ習得していない技術や苦手な技術を使わない、あるいは使用頻度を減らした授業設定をすればいい」として、「教員は、教育の目的達成のためにいかなるルートを通ってもいい」とする「羅生門(的)アプローチ」を紹介しています。
 本書は、プロフェッショナルとしての教員の仕事を論じた一冊です。


■ 個人的な視点から

 通常、保護者は自分の子供のクラスしか見学することがないためか、若い先生の授業を比較しながら見てみると、人によって授業技術の差が大きいことを誰も指摘しないことに驚きます。
 授業参観のときにはぜひ自分の子供のクラス以外の先生の授業技術を見比べてみることをおすすめします。


■ どんな人にオススメ?

・教師なんてだれにでも務まると思っている人。


2015年6月16日 (火)

専門家として教師を育てる――教師教育改革のグランドデザイン

■ 書籍情報

専門家として教師を育てる――教師教育改革のグランドデザイン   【専門家として教師を育てる――教師教育改革のグランドデザイン】(#2431)

  佐藤 学
  価格: ¥1,944 (税込)
  岩波書店(2015/3/27)

 本書は、「日本の教師の学歴水準は途上国並みであり世界で最低レベルである」ことなどの「教師の危機」について、「教師教育(研修)の高度化と専門職化の著しい遅れ」をその本質として指摘し、「教師が専門家として育つ筋道を叙述し、21世紀に対応した教師政策と教師教育改革のグランドデザインを提示」するものです。
 第1章「改革の緊急性」では、日本の教師が、
(1)高い教育水準
(2)高い給与と競争率
(3)校内研修を基盤とする専門家文化の伝統
の3つの条件によって「世界最高水準の優秀さを誇っていた」とした上で、「世界各国において教師教育の高度化と専門職かが急速に進展とした背景」として、
(1)社会構造の急激な変化への対応
(2)地方分権化と規制緩和による学校行政の転換
(3)子どもの生育環境の変化
の3点を挙げています。
 そして。「21世紀型の学校教育の特徴」として、
(1)学びにおける「質と平等の同時追求」
(2)プログラム型のカリキュラムからプロジェクト型のカリキュラムへの移行
(3)一斉授業から共同的学びを中心とする授業への転換
(4)「教える専門家」から「学びの専門家」としての教師の役割転換
(5)教師の専門家共同体としての学校概念の形成
の5点を挙げています。
 第2章「改革の桎梏」では、戦後の教師教育制度について、
(1)大学における教員養成
(2)開放制
(3)免許状主義
の3つの枠組みを示した上で、文部省が1970年代以降、教師教育の高度化と専門職化の政策化を試みながらも失敗した原因として、
(1)政府においては大蔵省及び都道府県自治体が、教師の高度化と専門職かを積極的に推進しなかったこと。
(2)日本の教師教育を担っている大学の約8割は私立大学であるため、教師教育は大学内(受験生獲得と教員雇用)と大学外(教師需要)の両方の市場競争の中におかれ、どのような改革を実施しようとしても、大学間の利害の対立を生み出してしまうこと。
の2点を挙げています。
 第3章「教える専門家から学びの専門家へ」では、「教師教育の改革において、最も困難なことは、教師の仕事が誰にでも務まる容易な仕事(easy work)として誤解されていることにある」とした上で、「21世紀において教師の専門家像が『教える専門家』から『学びの専門家』へとシフトしていること」について、
(1)知識基礎社会と生涯学習社会の到来によって、学校教育システムが教師の授業を中心とするシステムから、子どもの学びを中心とするシステムへと変化してきたこと。
(2)教師の教育と学びが養成教育の段階から現職教育の段階へと延長し、教師教育それ自体が、現職教育を中心とする生涯学習へと発展したこと。
の2点を意味していると述べています。
 第4章「教師教育改革の課題と政策」では、「教師教育の改革は、1980年代以降、世界のほぼすべての国において教育改革の中心であった」として、それらの改革の共通点は、「教師教育改革のグローバル・スタンダードを形成してきた」と述べ、
(1)教師教育、養成教育、導入教育、現職教育の継続性と一貫性の確立。
(2)教職専門性基準(professional standards)の確立。
(3)「反省的教師(refrective teacher)」という専門家像の形成。
(4)授業実践における教科内容の知識(Pedagogical Content Knowledge)の重視。
(5)教育実習から実践研究・臨床経験への転換。
(6)学習科学・認知科学による教師の専門的知識の基礎づけ。
(7)「資質(trait)アプローチ」から「知識(knowledgee)アプローチ」への転換。
の7点を挙げています。
 第5章「専門家教育としての教師教育」では、「教師は、職人性と専門職性を兼ね備えた専門家として教育されなければならない」とした上で、その「職人性」について、「優れた先達をモデルとする長期にわたる徒弟的な学び(aprenticeship)によって習得されるものであり、専門家共同体の専門家文化(professional culture)として形成され、共有され、伝承され」る、「高度な技法」(artistry)を挙げるとともに、「専門職性」については、
(1)実践的知識と実践的見識
(2)ケース・メソッド
(3)知識基礎とは何か
の3つの問題領域で研究がなされ議論されてきたとしています。
 第6章「教師教育のカリキュラム改革」では、「21世紀という時代にふさわしい教育の専門家として教師が教育されるためには、どのような教師教育カリキュラム(養成と研修)が準備されるべき」かという問いに対し、
(1)教師の専門家像の検討
(2)「免許状主義」によるカリキュラムから「教職専門性基準」によるカリキュラムへの移行の展望
(3)教師教育カリキュラムの構造と継続性の検討
の3つの問題が検討されなければならないとしています。
 そして、「専門家教育の中核」として、「『理論と実践の統合』による『省察(refrection)』と『判断(judgement)』の教育」を挙げ、「専門家教育における理論と実践」が、
(1)理論の実践化(theory into practice)
(2)実践の理論化(theory through practice)
(3)実践の中の理論(theory in practice)
の3つの関係を持っているとしています。
 また、実践的知識の特徴として、
(1)個人的知識
(2)経験的知識
(3)状況的知識
(4)事例知識
(5)暗黙知
の5点を挙げています。
 第7章「授業研究の改革」では、「授業研究は、グローバリゼーションを背景とする『21世紀型の学校』を求める教育改革の進展と、教育学研究における行動科学から認知科学・学習科学への転換を背景として、この30年間、根本的とも言える変貌を遂げてきた」とした上で、「アカデミズムにおける授業研究のパラダイム転換は、教師の現職研修における授業研究の革新を導いている」として、「学びの共同体の学校改革における授業研究」をその点英として挙げています。
 そして、「共同的学びを巡って混乱がある」ため、「日本の学校における協力的学びと共同的学び(cooperative learning, collaborative learning)の導入は、韓国と並んで、世界で最も低い状況にある」と述べ、「最大の混乱は、異なる原理と方式によるグループ学習が混同して認識されていることにある」としています。
 また、「授業研究における教師の学びは、『学びのデザイン』『授業実践』『学びのリフレクション』という3つの活動が循環し続ける学びであり、この循環を継続することによって、教師は専門家としての成長を遂行している」と述べています。
 第8章「教師が学び育ち合う学校」では、「教師の学び成長する場は、その教師の教室を中心として同心円的構造を示している」とした上で、「過去30年間を振り返ると、この同心円的構造の外側は充実してきたものの、中心にある学校内において教師が学び成長する機能は形骸化し、空洞化してきたのではないだろうか」と述べ、「教師の専門家としての学びと成長にとって何よりも重要な事は、教師は一人では学び成長しないということである」として、「他の専門家と同様、教師が学び成長するためには専門家の学びの共同体(professional learning community)が不可欠である」としています。
 そして、学区の校内研修において改革すべき課題を解決するためには、
(1)校内研修を学校経営の中心に据えること。
(2)校内研修の内容を「教師の教え方」の研修から「学びのデザインとリフレクション」の研修へと転換すること
の2点が必要だとしています。
 第9章「大学と大学院の改革」では、「教師教育の高度化と専門職かを推進するため」に、大学と大学院が推進すべき改革の課題として、
(1)教師教育の標準レベルを学部レベルから大学院レベルに高度化すること。
(2)大学・大学院の教師教育を専門家教育にふさわりいものへと再構成すること。
(3)国立の教育系大学と教員養成学部の将来像を描き出すこと。
(4)一般大学における教師教育の質を向上させること。
(5)教師教育における免許状主義と単位主義を克服すること。
(6)教職大学院のあり方を再検討し、専門家教育の大学院に改革すること。
(7)研究大学の教育学部と教員養成系大学・教育学部の壁を克服すること。
(8)多様な大学が連携する「地域教員養成機構(仮称)」を構築すること。
(9)多元的な教師教育機関の共存システムを構築すること。
(10)大学・大学院と学校とのパートナーシップを構築すること。
(11)大学・大学院と教育委員会との協働を実現すること。
(12)養成教育・導入教育・現職教育の継続性と一貫性を実現すること。
の12点を挙げています。
 そして、「教師教育の高度化の必要性は文部省や大学では認識されてきたが、都道府県教育委員会には理解されてこなかった」ことについて、「教師が国家(あるいは州)公務員である諸外国では考えられない障碍である」と述べています。
 第10章「新たな挑戦への提言」では、教員の採用について、「現在、最も懸念されているのが、東京、大阪、京都、横浜、川崎、神戸などの大都市の教師の大量採用による教師の質の低下である」と述べています。
 そして、「教師教育の改革において留意しておきたいのは、教師教育の高度化が教師の専門家としての地位の向上につながるわけではないことである」として、「教師の専門家としての待遇を改善するために、新たな人材確保法を制定することを提言」しています。
 本書は、諸外国に後れを取った日本の教師教育の「復活」の道筋を示した一冊です。


■ 個人的な視点から

 大昔には「でもしか先生」という言葉もあったそうですが、20世紀の終わり頃には教員採用試験は狭き門となり何年も正式採用されないという時代が続いていました。
 ここのところ、団塊の世代以降の教員の大量退職にともなって若い教員が大量に採用されていますが、指導者となる中堅級の教員が不足していて、若い教員がなかなか育たないという課題もあるようです。


■ どんな人にオススメ?

・教師にでもなってみるかと思う人。


2015年5月25日 (月)

デジタル教育宣言 スマホで遊ぶ子ども、学ぶ子どもの未来

■ 書籍情報

デジタル教育宣言 スマホで遊ぶ子ども、学ぶ子どもの未来   【デジタル教育宣言 スマホで遊ぶ子ども、学ぶ子どもの未来】(#2409)

  石戸 奈々子
  価格: ¥1,512 (税込)
  KADOKAWA/中経出版(2014/12/9)

 本書は、「楽しく、つながって、便利になる」というメリットを持つ「デジタルを活用した学び」を通して、「詰め込み・暗記型」の教育から、「思考や創造、表現を重視」する教育への変化について語った一冊です。
 序章「子どもに『デジタルなおもちゃ』は必要なの?」では、スマートフォンやタブレットを、
・親子コミュニケーションのツールとして使うこと。
・創造・表現ツールとして使うこと。
・親子で使い方のルールを守りながら使うこと。
・外遊び、お絵かき、ねんど遊びなどさまざまな遊び・学びとのバランスをとりながら使うこと。
を推奨しています。
 そして、「学びの環境に適宜デジタルテクノロジーを用いる」ことのメリットとして、
(1)たのしい:理科や算数を映像でわかりやすく。学んだ内容をプレゼンする。
(2)つながる:教室・校庭・家庭でも先生・生徒がつながって、教えあい、学び合うことができる。
(3)べんり:個人の学習進度に合わせた学習が可能になる。
の3点を挙げています。
 第1章「デジタル時代の『ものづくり』」では、「情報があふれる社会では、たとえ多くの知識を得たとしても、それはすぐに陳腐化して」しまうため、「異なる文化、異なる価値観からつくられる世界規模の共同体の中」で、「あふれる情報の中から必要な情報を選択し、再構成して新しい価値を生みだす力」が求められれると述べています。
 そして、著者が設立したNPO法人「CANVAS」において、「これからのデジタル時代の子どもたちに必要な、『主体的で協働的で創造的な学びの場』をつくることに取り組んで」おり、「子どもたちの創作ワークショップを開発し、それらを普及させるため、国内外の科学館や教育工学系の研究者、アーティストや自治体、企業らが集うプラットフォームとして2002年末から活動を続けて」いると述べています。
 第2章「プログラミングが想像力と創造力を伸ばす」では、「MITメディアラボが開発した、子供向けプログラミング言語」である「スクラッチ」について、「キーボードからの文字入力を行うことなく、マウス操作でブロックをつなぐこととで積み木のようにプログラムを作成することができる」と述べた上で、「スクラッチのような新しい技術が生まれたことで、プログラミングは子どもたちのとって、とても身近なものになってきました。子どもたちは今までにはない、新しい表現手段を、プログラミングを通じて手に入れることができます」として、重要なことは、「プログラミング『を』学ぶことではなく、プログラミング『で』学ぶこと」であり、「コンピュータには決して代替できない『想像力とコミュニケーション力』」を身につける上で、「プログラミングは非常に有効な方法」だと述べています。
 そして、「プログラミングでは、課題を分析し、細分化し、順序立てて解を導き、コンピューターに対して過不足ない明確な表現で指示を出」すことから、「このようなプログラマーの思考法が、日常生活、趣味、ビジネス、まちづくりなどの他の分野での問題解決に有効である」とする「コンピューテーショナル・シンキング」について紹介し、「プログラミングを学ぶことにより、論理的に考え問題を解決する力が高まることが期待されて」いると述べています。
 また、スクラッチの開発者であるMITラボのミッチェル・レジニック教授の言葉として、「コードが書けるということは、文章を書くことと同じようなもの」であり、「文章が書けるからといってプロのライターになれるわけ」ではないが、「文章を書くことで、自分を表現し、それを世界中の人と共有することができる」こと、「創造的に考えることができる、新しい解決策を生みだすことができる。これ以上に大事なものはありません。その手段の一つがプログラミングなのです」と紹介しています。
 第3章「わずか数年後、あなたの町の学校はこう変わっている」では、教育の情報化のメリットとして、
(1)コンテンツやアプリケーションがデジタル化することのメリット:わかりやすくなる、楽しくなる、繰り返せる、創作・表現がしやすい
(2)情報端末とネットワークがもたらすメリット:共有できる、世界の知識が得られる、世界中の人達とコミュニケーションできる、どこでも学べる、個別に対応できる
ことなどを挙げています。
 そして、江戸時代の寺子屋の特徴として、
(1)個別学習であったこと
(2)生きる力を育んていたこと
(3)子どもたち同士の教えあい、学び合いが存在していたこと
の3点を挙げ、「工業社会から情報社会に切り替わるいま」こそ、「かつて寺子屋が実施していたような、個別学習で、年齢や習熟度に合わせた学びこそが求められている」と述べています。
 本書は、新しい学びの形を模索した一冊です。


■ 個人的な視点から

 「教育とコンピュータ」の話は、過去から幾つもの論争になっていて、お互いに揚げ足を取り合うような論争には関わりたくないのですが、プログラミングに関しては無視できないものになると思います。
 今まではプログラミングは職業教育のカテゴリーで議論されることが多かったと思いますが、娘について入ったサイバーエージェントのプログラミングキャンプを見ていると、「プログラムを学ぶ」のではなく「プログラムで学ぶ」という意味が分かったような気がします。


■ どんな人にオススメ?

・コンピュータを学ぶものだと思ってしまう人。


2015年4月12日 (日)

ネットに奪われる子どもたち

■ 書籍情報

ネットに奪われる子どもたち   【ネットに奪われる子どもたち】(#2366)

  清川 輝基, 山田 眞理子, 古野 陽一
  価格: ¥1,728 (税込)
  少年写真新聞社(2014/5/27)

 本書は「ネット社会やスマホの爆発的な普及が子育てのあり方や子供の発達環境をどう変え始めているのかを検証し、その結果子どもたちの育ちにどんな影響が生じるのかを考え」た上で、「ネット依存を含む広義のメディア依存やネット社会のトラブル、落とし穴に子どもや若者が落ち込んだり巻き込まれたりすることをどうすれば防ぐことができるのか、そのための家庭のあり方や社会的対応」について論じたものです。
 第1章「スマホ パンデミック」では、「場所の制約も時間の制約もなくあらゆる場所で、人々は画面の向こうのネットの世界にハマっています。まさに、スマホパンデミックです」とした上で、「ネット社会になって、明らかに私たちの暮らし、時間とお金の使い方」は変わったが、「失ったものや失いつつある世界があるのも忘れてはいけません」としています。
 第2章「スマホ社会で深刻化するメディア依存とネット依存」では、「日本の子どもたちの発達をどう保障するかという立場で、子どもたちのメディアとの関わりを考えるとき、狭い意味のネット依存だけでなく、多様なメディア機器に対してのメディア依存や長時間接触が起きていることを視野に入れて論じる必要」があると述べています。
 そして、メディア依存の状態として、
(1)仮想世界志向
(2)禁断症状
(3)耐性
(4)日常生活の支障
の4点を挙げています。
 また、メディア依存の仕組みとして、
(1)「報酬の回路」:何かの状況に対して取った行動が、「生き残るのに都合の良い結果」だった場合、「うまくいった!」という情報を集めてきて、脳の中心部にある「側坐核」という場所にドーパミンを放出する。
(2)「不安の回路」:なにか恐怖や困難や不安を感じたときに働き、前頭前野にドーパミンが放出され、行動が抑えられる。
の2つの回路を挙げ、「電子ゲームは、この教科学習の仕組不安の仕組みを積極的に利用」し、「この不安―教科学習の仕組みが、自然な状況ではありえない頻度で繰り返され」る結果、「ドーパミンの放出や回路の感度に異常が起き始め」ると述べています。
 さらに、メディア依存、ネット依存の背景として、「多くの場合、子どもたちにとって学校や家庭が楽しく過ごせる居場所となっているかどうかが問題と」なると述べています。
 第3章「広がるスマホ子育て」では、スマホ育児の特徴として、
(1)子どもをおとなしくさせるのに便利なため、安易に使う。
(2)親の視線が子どもに向いておらず、子どもの視線も親に向いていない。
(3)スマホやタブレット端末が子どもの手元や手近な場所にあるため、子どもが勝手に操作するなど、時間や使用内容をコントロールすることはきわめてむずかしい。
の3点を挙げています。
 そして、スマホ育児の落とし穴として、
(1)依存症への落とし穴
(2)事故・育児放棄への落とし穴
(3)愛着形成不全への落とし穴
(4)人間になれない! 発達不全への落とし穴
の4点を挙げています。
 第4章「スマホ社会の子どもたち」では、「スマホ社会では、かつてマニアと呼ばれる人々やケータイを持つ若者の一部が落ち込んでいったネットの闇の深みにその何千倍、何万倍の子ども・若者がハマって行く危険性をはらんで」いると述べています。
 第5章「ネット中毒対策先進国『韓国』に学ぶ」では、「ネット中毒からの脱出を目的に集団の合宿形式で行う治療方法」である「ネット中毒治療キャンプ」などを紹介し、「韓国のネット中毒対策は、健康な生活、自己表現、子どもの自立など『子どもの最善の利益を取り戻す』ことを土台に置いたもの」だと述べています。
 第6章「社会がネットに奪われる前に」では、「スマホやタブレット端末の普及が進む前から、国際調査(IEA2003年)などで日本の子どもたちの電子映像メディア接触時間は世界一長いことが明らかになり、日本の子どもたちの心身の発達の遅れや歪みにつながることが懸念されて」いたとした上で、「スマホやタブレット端末の普及で状態はさらに悪化し始め」たとして、
(1)乳幼児期からの電子映像メディアへの接触がまるで変わり、メディア接触がいわば“無法地帯化”していること。
(2)中高生や大学生のコミュンケーション手段の変化。
(3)子どもたちや若者たちの情報入手の手段がネットの世界だけに単純化されたこと。
の3点を挙げています。
 そして、スマホで育つ子どもの「人体実験」の結果、
(1)子どもの「劣化」が加速
(2)人とつながれない、言葉が出ない
(3)幼児性、短絡的思考の氾濫
(4)親子の愛着形成に強いダメージ
などの変化に対する懸念を示しています。
 第7章「家庭で取り組むメディア依存対策」では、メディア依存に陥りやすい子供の特徴として、
(1)自己表現が苦手
(2)直接的な人とのコミュニケーションが苦手
(3)家族との関係が希薄
(4)自己コントロールの能力が育っていない
の4点を挙げ、「子どものメディア依存を予防したり、改善していく上でこうした基本的な部分の発達を促すことがまず重要なポイント」となると述べています。
 そして、子どもからメディアに関する要求が出たときに、「その機会を子どもの自己表現や自己コントロール力を育てる成長のチャンス」にするためのポイントとして、
(1)「約束」
(2)約束を守るための「イエローカードとチャンスゲーム」
(3)「親の聞く力」
の3点を挙げています。
 第8章「学校・地域ぐるみの制度づくりを」では、「全国各地の中学校・高校で、生徒自身がスマホ・ネット機器との関わり方を考え、自分たちでルールを作る動き」が広がっているが、「生徒同士のルールづくりの範囲のとどまっていると、生徒はルールを守る意識を継続することは難しく、なし崩しにゆるんで」行くと指摘し、「生徒の学習権・生活権の保障の観点を持ち、生徒指導効果が維持される制度化が不可欠」だと述べています。
 本書は、子どもたちへのネットの普及に社会がどう応えるかを考えた一冊です。


■ 個人的な視点から

 昔は子どもとPCとの距離は遠く直感的に操作できるものではありませんでしたが、スマホは幼児でも操作できることのマイナス面があるようです。


■ どんな人にオススメ?

・ネットから子どもを取り戻したい人。


2014年12月25日 (木)

学校は誰のものか──学習者主権をめざして

■ 書籍情報

学校は誰のものか──学習者主権をめざして   【学校は誰のものか──学習者主権をめざして】(#2347)

  戸田 忠雄
  価格: ¥ (税込)
  講談社(2007/9/19)

 本書は、「教育の主導権は自分たちにある」、「教師のために学校はある」と思っている教師の「天動説」に対し、学習者を出発点とした、「地動説」の立場から教育会を論じたものです。著者は、「長年、教会(学校)の司祭(教師)を務めており、司祭どころか主教(校長)も経験し天動説のまっただ中にいて教会の内部構造も司祭のメンタリティも知悉している」としています。
 第1章「学校というムラ社会」では、「教師にとって教室は、愛の共同体(家庭)でもなければ法治国家(社会)でもなく、あえて言えば教師が支配する擬似ムラ的な空間である。教師はムラ長、子どもはムラ人であり、両者は一体となって『よい学級づくり』『学級の和』を重視する」とした上で、学校版ムラ社会の「三種の神器」として、
(1)先生の言いつけ
(2)学校の決まり
(3)みんなと同じ
の3点を挙げ、「学校ムラでは先生は絶対であるべきで、子どもや親も無条件で尊敬し服従しないと教育はできない」と述べています。
 そして、「PTAや学校評議員会などに実効性がないのは、校長との『なかよしクラブ』になり慣れ合ってしまうから」、PTAに「学校の方針・管理・運営や人事に干渉しない」という「規定があっても矛盾を感じないことによる」と述べています。
 第2章「教師聖職観の呪縛」では、「これまでに教育について書かれたものは、教職経験者によるものが圧倒的に多い」ことから、「どうしても『教える側』からの発言が多く、それらはたいてい『教える側』の立場や利害を無意識に代弁している。教育書の多くは公正中立を装っていても、この種のバイアスがかかっていると思ったほうがよい」としています。
 第3章「校長のガバナンス」では、「なにごとによらず事なかれ主義で、裏で無原則に組合分会と取引したり、より名門の学校への異動を画策したり、定年まぢかな校長は退職日が来るのを指折り数え顰蹙を買ったり……。ようするに教委と組合の間で右顧左眄する」としています。
 また、研修制度について、教員組合が、「教員組合主催の『教研集会』は、教師の自主的・民主的な研修であるから、これへの参加も『研修』として認めるべきだ」と要求し圧力をかけてきたとした上で、教研集会への参加を、「公務出張ではないが、授業日でも年次有給休暇なら認める」という線で落ち着いたが、「年次有給休暇届けを出していくが、問題なく帰ってきたらこの年休届けを破って出勤扱いとする」という「破り年休」という悪名高い労使慣行が、「組合研修だけではなく、デモや座り込みやビラ撒きなど組合活動への動員などにも、広く『活用』されるようになった」と指摘しています。
 第4章「教育委員会の闇」では、「基本的には、文科省→都道府県教委→(市町村教委)→学校と上意下達のシステムであり階層秩序になっている。この上意下達のシステムの中で、校長たちは萎縮する」とした上で、「教員人事権を都道府県教委に握られている市町村教委ができるのは、教員の管理と施設設備の営繕ぐらいで、元志木市長の穂坂邦夫氏によれば、両者の関係は『都道府県教委は教員を市町村に派遣する人材派遣会社。市町村教委は校舎などの営繕をする施設管理会社』みたいなものだという」と述べています。
 そして、「戦後史の1ページを飾るほど、日教組など教員組合が最も強力に反対闘争を行い、けっきょく骨抜きに成功したのが、勤評反対闘争(勤務評定反対闘争)と学テ反対闘争(学力テスト反対闘争)」だったとして、「全国的な統一問題で悉皆テストをやれば、児童生徒の成績が一目瞭然になるが、それだけではない。実は教師側の教育成果も、学校別・教師別に確実に一目瞭然となる。教員の勤務評定と全国学力テストはメダルの表裏一体の関係になっている。だから、教師側は絶対反対なのである」と述べています。
 また、「所得格差による学力格差が生じないように、公立学校の質を高め学力レベルを向上させるような取り組みに反対するものは、結果として公私の格差を是認するものであり、それは教育の格差是正に水を差す格差是認論者だ」と述べています。
 第5章「これが究極の処方箋だ!」では、「学習者側の匿名性を完全に保障したうえで、学習者が『この先生の授業はどうか』とか『教育指導や生活指導はどうか』と5段階で評価する」教員評価制度を提案するとともに、「学校利用券(教育バウチャー)制」について、「学習者に学校利用権という補助をつけることは、学習者を教育主権者として扱う思想の表れである」として、利用券配布のメリットとして、
(1)学習者が行きたい学校を選ぶことができる。
(2)学校側が大いに慌てる。
(3)子ども自身に帰責できないさまざまなハンディに利用権を手厚く配布することも可能。
(4)不登校生向けの私立のサポート校や単位制などの高い受験料の負担を軽減できる。
などの点を挙げています。
 本書は、学校が学習者ではなく教師のものであることを指摘した一冊です。


■ 個人的な視点から

 戦後の長い間、当たり前に必要なことを当たり前にやってこなかった結果、現在のいびつな形に着地してしまっているという指摘はかなり正しいのではないかと思います。


■ どんな人にオススメ?

・学校は児童・生徒のためのものだと思っていた人。


2014年7月15日 (火)

運動部活動の戦後と現在: なぜスポーツは学校教育に結び付けられるのか

■ 書籍情報

運動部活動の戦後と現在: なぜスポーツは学校教育に結び付けられるのか   【運動部活動の戦後と現在: なぜスポーツは学校教育に結び付けられるのか】(#2339)

  中澤 篤史
  価格: ¥4,968 (税込)
  青弓社(2014/3/26)

 本書は、「運動部活動の戦後と現在を描き、なぜスポーツは学校教育に結び付けられるのかを考える」として、「体育学・教育学をベースに社会学/歴史学の方法論も用いながら、運動部活動の戦後の拡大過程と現在の維持過程を分析し、それを通じてスポーツと学校教育の日本特殊的関係の構築プロセスを探求する」ものです。
 著者は、「カリキュラムに含まれない課外活動であるにもかかわらず、運動部活動は行われてきた。生徒や教師が必ずしも好き好んで参加しているわけではないにもかかわらず」、「運動部活動は過剰なほど大規模に成長し続けてきた」と指摘しています。
 序章「なぜスポーツは学校教育に結び付けられるのか」では、「運動部活動は、教育制度という面でみると、課外活動という曖昧で周辺的な位置にある」ため、「顧問配置や超過勤務や手当の問題などが解決されないままに残されていて、学校や教師にとっては教育問題でもあり続けた」にもかかわらず、「現在まで大規模なままで維持されているのはなぜなのか」として、「このスポーツと学校教育の日本特殊的関係の構築プロセスを、日本の大規模な運動部活動の拡大・維持過程の解明を通して考察する」と述べています。
 そして、「なぜスポーツは学校教育に結び付けられるのかという問いを解くための補助線として、理念としての〈子どもの自主性〉に注目する」に注目し、「こうした理念としての〈子どもの自主性〉を媒介として、日本の学校教育はスポーツを取り込もうとしてきた、と仮説的に考える」と述べています。
 第1章「運動部活動を分析するための方法論」では、「少なくとも現在の運動部活動を成立させている中心的な原動力は、生徒の意思ではなく、学校と教師のかかわりである」とした上で、「青少年のスポーツの中心が運動部活動にあり、かつ、それが大規模に成立している日本は、国際的に特殊である」と述べています。
 また、日本教職員組合が、「1970年代から、教員手当を要求しながら、運動部活動は学校と教師が担うべき活動ではなく社会体育に属する活動であり、地域社会へと移行すべきだとの見解を示してきた」結果、「教員特殊業務手当」が設けられるなど、「運動部活動への従事に対する保障が部分的に整えられた」が、「こうした保障自体が、教師が運動部活動に従事し続けてきた現状を後追いする暫定的な措置に過ぎなかった」と述べています。
 第2章「戦後運動部活動の実態・政策・議論」では、戦前において、「各学校で運動部活動が設置されていても、そこに加入し実際に活動していた生徒の割合が多かったわけではなかった。また、中等教育機関への進学率そのものが低かった」ため、「戦前の運動部活動の広がりは、大規模化した戦後に比べるとやはり限定的だった」と述べています。
 そして、「終戦直後から1950年代前半で、すでに加入率は一定規模に達しており、地域住民に加えて一部の教師が部分的にかかわっていた。だが50年代後半から60年代前半にかけて、特に女子の加入率が減少したことで、運動部活動の規模は縮小した。60年代以降、加入率は一転して増加傾向を示し、その規模は拡大していった。それに合わせて、地域住民のかかわりは減り、教師のかかわりが増えていき、その教師のかかわり方も、顧問教師が指導から引率まで引き受けるという、現在と同じ教師のかかわり方が70年代後半には一般化した」と述べています。
 第2章「戦後運動部活動の実態・政策・議論」では、1970年代から80年代前半において、「スポーツを大衆化させるために、学校と教師が運動部活動に関わることが求められた」なかで、「運動部活動は拡大し、教師のかかわりも大きくなってきた。必修クラブ活動がスポーツに触れる機会を増やし、その延長として運動部活動を位置づける学校も出てきた」ことで、「運動部活動の加入率は増加していった。と同時に、教師が何らかの部の顧問に就くことが通例となってきた」と述べています。
 そして、教員手当問題や顧問教師の責任範囲の問題の中で、「運動部活動の社会体育化を模索する政策」につながり、「部分的あるいは全面的に運動部活動を社会体育化するケース」もでてきたが、「1978年に日本学校安全会の災害共済給付制度が大幅に改善された」ことで、「より充実した日本学校安全会の災害給付制度を受けるためには、教師が指導する運動部活動に戻る必要があった。こうした保障の手厚さの違いが一つの背景となり、社会体育化されつつあった運動部活動は、再び学校へ戻っていった」と述べています。
 また、「運動部活動の拡大とは、つまり、非行生徒をその生徒自身が好きなスポーツで更生させる、という実践が広がり、学校教育の隅々にまで及んでいった」うえに、「その実践は、対象を非行生徒から一般生徒へ広げ、目標も非行の更生からより広範囲な生徒指導へと広げていった。こうした実践の広がりによって、運動部活動は生徒指導の手段という、現在に続く運動部活動の捉え方が確立していった」として、「運動部活動が大規模化していく中で、学校と教師は、生徒自身の意思とは別に、教育的に必要な生徒指導のために、生徒に運動部活動の加入を推奨し、あるいは強制していくようになった。その結果、運動部活動は、強制的で管理主義的な性格を強めていった」と述べています。
 第3章「戦後運動部活動と日本教職員組合」では、「負担を被りながらも教師が運動部活動を手放さなかった歴史的背景」について述べるとした上で、1969年・70年の学習指導要領改訂により、「授業として全生徒を対象に実施する『必修クラブ活動』が特別活動内に設置された」ことについて、「日教組の理想とする民主教育の実現を阻害する」として、激しく批判したと述べ、「こうした必修クラブ活動の否定運動の流れのなかで、強制ではなく生徒が自ら参加し、教育課程外でありながら教師がかかわる、従来の運動部活動が再評価された」としています。
 また、「日教組にとって、社会体育は権力側が用意する『軍国主義の毒』であり、社会体育化とは『憲法改悪軍国主義化へと進むこと』であった。すなわち、日教組の見立てでは、学校外の社会は改革すべき日民主的な空間であり、そうした社会を改革する拠点が民主的な学校であり、その担い手が民主的な教師であった。こうした見立てからすると、社会体育化に賛成することは、教師にとって『教育的な責任を放棄した形』になってしまう。だから、『クラブ活動は学校教育のなかで行われてこそ意味がある』と、あくまで学校を拠点に教師の手によって運動部活動を編成しなければならないと考えられた」と述べています。
 第6章「運動部活動改革と学校-保護者関係」では、フィールドワークを行った「ヒガシ中」(仮称)において、「サッカー部で2年間にわたって進行した運動部活動改革の一連のプロセスを、〈要望〉と〈支援〉という保護者のかかわり方の影響に注目しながら分析する」としています。
 そして、運動部活動を肯定する理由として保護者が第1に上げたこととして、「子どもたちのためになる」として、「人間関係」「友人関係」「上下関係」「先生とのつながり」「成長できるところ」「コミュニケーション」「時間の使い方」「からだを動かす(こと)」「勝つ喜び」などを挙げたと述べています。
 そして、「部活動を存続することに対する保護者の要求や期待は大きかった」ため、「ヒガシ中は、運動部活動改革の方向性や内容を決定するとき、そうした保護者の要求や期待を強く意識せざるをえなかった」と述べた上で、「保護者のかかわりが『子どものため』であれば、学校はそれを受け止めざるを得ない」が、「保護者自身にとってさえうまく説明できない信念から生じる〈要望〉を理性的な対話によって退け、保護者から合意を得ることは、学校にとって困難を極める作業となる。そのあいまいさと非合理性のために、保護者のかかわりは学校側からすれば非常に制御しづらいものとなってしまう。そのために、学校は保護者を過剰に意識することになると考えられる」と述べ、「学校と保護者の間でやりとりされている『子どものため』の中身のすべてが、〈子どもの自主性〉の理念というわけではない」ことを「見逃してはらなない」と指摘しています。
 第7章「運動部活動に積極的な顧問教師」では、部活動に積極的な教師にとって、「生徒指導によって競技力が向上し、その結果勝利が得られ、さらにその勝利が新たな生徒指導に役立つと考えていた」と述べています。
 第8章「運動部活動に消極的な顧問教師」では、「教師は、できるだけ生徒の希望や願いに応えたいという態度を出発点にしながら、運動部活動を通じた教師-生徒関係が教育実践に有効であるとも認識していた」と述べた上で、「ヒガシ中学校の明文化された組織のあり方から見れば、教育目標を受けて校務分掌が設置され、担当者が取りまとめとなって、種々の運動部活動学校教育活動として位置づけられているわけである」として、「こうした教育目標や校務分掌上の位置づけによって、運動部活動を維持すること、そのために教師が顧問に就くことが、学校全体としてゆるやかに正当化されてきた」と述べています。
 終章「スポーツと学校教育」では、「運動部活動は、各時代の学校教育の背景のなかで、つまり民主主義のなかで確立し、平等主義のなかで拡張し、管理主義のなかでさらに拡張してきた」結果、「教師の負担は大きく膨らんでいき、日教組によって教育問題としても扱われた」一方で、「日教組によって民主主義の実現を追求するために、消極的ながら必要とされてきた」と述べています。
 そして、学校と教師のかかわりについて、「運動部活動は、まさに教育のために積極的に強く肯定されてきたのであり、それが教育とみなされるからこそ、消極的ながら完全に否定できなかった」と述べています。
 著者は、「スポーツと学校教育は、戦後日本社会という文脈で、〈子どもの自主性〉が価値づけられ、広がっていったことで、日本特殊的に結びついた。そして、その〈子どもの自主性〉を反省的に意味づけ直しながら、今もなお、スポーツと学校教育は結び付けられ続けている」と述べています。
 本書は、運動部活動と学校との微妙な緊張関係のなかで成り立っている関係を丁寧に追った一冊です。


■ 個人的な視点から

 中高生にとっては「あって当たり前のもの」と考えられがちな部活動も、立ち位置的には微妙なところにいるというのが面白いです。PTAにも共通する点ですが、現在になって考えると「何でこんな制度になっているのか?」と思うようなグレーゾーンの仕組みの背景には、終戦後の「民主化」がキーワードになっているようです。


■ どんな人にオススメ?

・部活動はあってあたりまえだと思っている人。


より以前の記事一覧

2016年12月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31

最近のトラックバック

無料ブログはココログ