日本人

2016年7月12日 (火)

日本の若者はなぜ希望を持てないのか: 日本と主要6ヵ国の国際比較

■ 書籍情報

日本の若者はなぜ希望を持てないのか: 日本と主要6ヵ国の国際比較   【日本の若者はなぜ希望を持てないのか: 日本と主要6ヵ国の国際比較】(#2536)

  鈴木賢志
  価格: ¥1,620 (税込)
  草思社(2015/11/18)

 本書は、「日本および6つの国(アメリカ、イギリス、スウェーデン、フランス、ドイツ、韓国)における13歳から29歳までの若者を対象に、共通の質問項目を用いて行われた国際世論調査」において、「4割近くの若者が『どちらかといえば希望がない』もしくは『希望がない』と回答している」状況について、「日本と諸外国の希望の差は一体どこから生まれるのだろうか」という問いから出発したものです。
 第1章「希望のメカニズム」では、「希望」には、「総合的希望」と「個別的希望」の2種類があるとした上で、「本書では、日本の若者がどのような形で総合的希望、つまり将来についての明るい希望を感じているのかについて分析することにより、日本社会における様々な問題が、若者たちにどのような影響を与えているのかを探っていく。さらに、そうした総合的希望の感じ方が日本と諸外国との間でどのように異なるのかを明らかにすることで、それらの国々のように、日本でも多くの若者が自分の将来に希望を持つようになるには、私たちが何をすべきかについて考察する」と述べています。
 そして、「日本において13~17歳と18~24歳の間で発生している『希望の落差』の大きさ」について気になるとした上で、「幸福感と総合的希望は大方で一致するが、そうでない部分があること、そして日本では、古市が指摘するような『現在は満足しているが将来に希望のない若者』が目立つのに対して、アメリカやスウェーデンでは『現在は満足していないが将来に希望のある若者』が多いことが明らかになった」と述べています。
 また、「日本において、自分の将来が心配なわけではないのに将来に明るい希望を持てないという若者の割合が24%にも達している」ことについて、「多くの日本の若者が希望を持てないのは、将来に不安があるからだ、と簡単にまとめてしまうことはできない」と述べています。
 第2章「経済状況と希望」では、「わが国の貧困率が高いのは、高齢化の進展や、それを含めた単身者世帯の増加といった人口学的な要因によるところが大きい」が、「子どものいる世帯においても、所得格差はじわじわと拡大している」と述べた上で、「日本のように、現在のお金に対する不安が将来の希望を大きく押し下げているというのは、けっして望ましい状況ではない」と述べています。
 そして、「多くの日本の若者は、自分の経済常用に不安があっても、それを社会における貧富の差とは別次元の問題として認識している」理由として、
(1)日本の絶対的な生活水準は高い。
(2)格差が表面化しにくい。
(3)日本人の間には根強い中流意識が存在する。
の3つの点を挙げています。
 また、「日本では、自分の努力には期待をかけているが、自分の才能にはそれほど期待をかけていない(希望度がマイナスにはなっていないので、全くかけていないというわけではない)」と述べています。
 第3章「家族・人間関係と希望」では、「親の愛情に満足していると回答している13~17歳の未婚の若者の割合が7カ国の中で最も低いのは日本である」とした上で、「父親もしくは母親が『自分のことをよく理解してくれる』と思っている若者は、そうでない若者と比べて将来に希望を持っている可能性がとても高い」と述べています。
 そして、「結婚しているか否か、また恋人がいるか否かで希望の持ち方に差があるか」について、「明らかなのは『恋人がいない』という人々の希望度が、他の人々よりも明らかに低い」ことについて、「将来に希望を持っている人の方が魅力的に映るので、結婚していたり恋人がいたりする確率が高いという、逆の因果関係が成立している可能性もある」と述べています。
 第4章「学歴と希望」では、「日本の方が若者の希望度が全体に低いというのはあるが、それにしても学校を中退・休学した人の希望の低さは極端である。やり直しが聞かないために一度失敗すると将来への希望が失せてしまう日本の姿が、ここにもよく現れている」と述べています。
 そして、「日本の多くの若者は、大学を知能や技能の習得の場とはとらえていない。にも関わらず、はじめに触れたように、日本の大学卒業者の割合は先進国の中で決して低くない。つまり、大学で何を習得したかは問われなくても、大学を卒業している方が、メリットがあるということだ」と述べた上で、「日本における大学進学の効果は、男性よりも女性のほうが高い」と述べています。
 第5章「仕事と希望」では、「フルタイムにせよパートタイムにせよ、働いている若者の中で希望を持っている者の割合」よりも、専業主婦の中で「希望を持っている者の割合のほうが高い」ことについて、
(1)金銭的な不安が解消もしくは軽減されたという可能性が考えられるが、必ずしもそうではない。
(2)結婚の効果(結婚・事実婚をしている若者は、そうでない若者よりも希望を持っている可能性が高い)。
等の点を検討しています。
 第6章「社会との関わりと希望」では、「彼らは新聞やテレビ以外の手段で、かなり多くの情報に接しているし、社会や政治に対する関心も持っている」が、「彼らにとって決定的に深刻な問題は、そうした情報や関心を政治的に読み解く能力、いわば政治的リテラシーが欠けていることなのだ」と述べています。
 そして、「日本では、自分の参加によって社会が少しでも変えられると思っている若者と、そうは思っていない若者との間で、希望の持ち方に大きなギャップがある」ことから、「若者の政治的リテラシーを向上させて、自分の参加が社会を変えていけるのだと思えるようにし、その無力感を解消することは、彼らの社会への関心の高まりに応えることでもあるし、また彼らの将来についての希望を高めることにもなるはずである」と述べています。
 また、「大多数の日本の若者は、日本人であることに誇りを持っている」とした上で、「自国で誇れる点として、過半数の若者が選んでいる『治安のよさ』や『歴史や文化遺産』については、それを選んでいる若者の方がそうでない若者よりも希望度が10ポイント以上高い」と述べています。
 終章「若者の希望は社会に何をもたらすのか」では、「若者は将来に希望がある方が、結婚や子づくりに対して積極的である」ことから、「極端なことを言えば、より多くの若者が希望を持つようにすることは、少子化対策にもなり得る」と述べています。
 そして、「希望が若者の社会意識にもたらす効果」として、「自国への奉仕意識」を挙げ、「政治に対する関心と同様に、将来に希望を持っているからこそ、今の社会を良くして将来につなげていきたいという意識が高まると見てよいだろう」と述べています。
 著者は、「将来について希望を持っている若者は、やる気とチャレンジ精神を持ち、結婚して子どもを多く持とうと考え、高等教育機関で積極的に学び、自分の興味と能力に基いて仕事を選び、政治に関心を持ち、積極的に自国の役に立とうと考える傾向があることがわかった」として、「そのどれもが、今の日本にとって必要とされていることである」と述べています。
 本書は、若者の希望に焦点を当てて、現代の日本社会を分析した一冊です。


■ 個人的な視点から

 日本の若者が他国に比べて希望を持っていないとか野心がないとか向上心がないとかいう話は昔から何度となく耳にしてきたのですが、一つには今よりも生活水準が向上すると考えるのが難しいからという理由もありますが、何より、なにかバチが当たったわけでもないのに、大量に長生きする団塊の世代をこれから養わなければならないと考えるだけで気が重くなってしまうものと思われます。


■ どんな人にオススメ?

・若者に希望を持たせたい人。


2016年7月 9日 (土)

日本の少子化 百年の迷走: 人口をめぐる「静かなる戦争」

■ 書籍情報

日本の少子化 百年の迷走: 人口をめぐる「静かなる戦争」   【日本の少子化 百年の迷走: 人口をめぐる「静かなる戦争」】(#2533)

  河合 雅司
  価格: ¥1,512 (税込)
  新潮社(2015/12/22)

 本書は「戦前から戦後にかけての日本史を、『人口』の視点で新たに捉え直してみることで、なぜ、日本は戦争に突き進んでいくことになったのかを検証し、国際紛争の背景に必ずや『人口戦』が存在することを確認しよう」とするとともに、「現在の深刻な日本の少子化の根本原因を探ること」を目的としたものです。
 第1章「人口過剰論の擡頭」では、1872(明治5)年の3481万人が、わずか半世紀後の1920(大正9)年には5596万人を記録し、1935(昭和10)年には6925万人と「明治初期の2倍に膨れ上がった」として、「明治に始まった資本主義社会が、大正期にかけて急速に発展したことが理由であった」と述べています。
 そして、1927(昭和2)年に設置された人口と食糧の関係にかかわる調査機関「人口食糧問題調査会」の初会合において、田中義一首相が、「人口過剰の解決に意気込みを示すどころか、人口増加を奨励した」理由として、「ロシア革命などに刺激を受けて労働争議や小作紛争という形で広がりを見せていた社会主義運動を軍首脳部が危険視していたことの現れであった」と述べています。
 また、「産児制限がメジャーな存在となり、多くの日本人が知るようになったのは、1922(大正11)年のマーガレット・サンガーの来日がきっかけであった」が、「日本政府は危険思想を持ち込もうとしているとみて快く思っていなかった」と述べています。
 さらに、「日米開戦の10年以上も前に日本が戦争に踏み切ることを予言していた人物がいる」として、米国マイアミ大学人口研究所のW.S.タムソン博士が提示した「日本が取り得る4つの選択肢」として、
(1)生活程度の引下げ
(2)産児制限の普及
(3)国内移民と土地の一掃の集約的利用
(4)新領土の獲得
の4点を挙げています。
 第2章「『産めよ殖やせよ』への転換」では、日中戦争勃発後、政府は、「大東亜共栄圏の確立を目指す日本にとって、人口増強問題は国家の緊要事である」として、「陸軍省の強い要請で厚生省が設置」され、「人口増加政策とともに、医療の普及など衛生面を含めた国民の健康管理、体力向上をさせるための役割」を担い、「人口増加政策の中心的役割を果たしたのは附属機関として設置された人口問題研究所」であり、「国民動員政策を立案するため、国を挙げて基本的調査・研究が進められることになった」と述べています。
 そして、「産めよ殖やせよ」という言葉は、1939(昭和14)年に厚生省の民族衛生研究会がまとめた「結婚十訓」に見ることができる「産めよ育てよ国の為」という標語が転じたものであり、「厚生省の優勢結婚相談所をはじめ各地に結婚相談所ができるなど、国をあげて結婚を奨励する機運が広がっていた」と述べています。
 また、1941(昭和16)年には、「人口増加策のベースとなる政策集」である「人口政策確立要綱」が閣議決定され、具体的な数値目標として、「昭和三十五年総人口一億」が掲げられたことで、「産めよ殖やせよ」の機運が日本中に広がったして、「政府は厚生省人口局を実働部隊としてさまざまな手段を検討し、官民一丸となって出生数増大と適齢結婚の奨励策に突き進んでいった」と述べています。
 さらに、「人口政策確立要綱は、現在の社会保障政策の出発点としても大きな役割を果たしている」として、「家族の医療費、教育費などの負担軽減を目的とした家族手当制度や、保健所を中心とする保健指導の確立、健康保険制度の拡充供花予防医学の研究普及など」が見つかる他、「妊娠を届けさせ、定期検診を義務付け」ることで「死亡減少の実現」を目指した「妊産婦手帳」について、「『母子健康手帳』と呼び名を変えたが、いま何気なく使っている手帳は国家総力戦の一翼を担った戦争の遺物でもあるのだ」と述べています。
 そして、「政府や軍部が、戦火の拡大に伴う出生率の低下を極度に恐れたのには、明確な理由があった」として、「出生率の低いフランスが、人口増加に邁進したナチスドイツに敗れた」という「ヨーロッパ諸国における『人口戦』を目の当たりにしていた」ことを挙げ、「目の前に差し迫った課題である人口過剰の解消と、将来的な人口減少懸念とを同時に解決しなければならないところにこの時代の人口政策の難しさがあった」と述べています。
 第3章「敗戦後も続いていた“日米戦争”」でが、「日本の敗戦は、人口過剰の解決策を海外に求めた戦前の人口政策の破綻でもあった。日本の人口問題は振り出しに戻るどころか、より深刻な状況へと突き落とされたのである」とした上で、GHWが「占領下の日本の人口課題を的確に分析」し、日本の人口過剰問題に踏み込んだ理由として、「このまま放置すれば日本は共産国化するか、もしくは破れかぶれとなって再び海外に活路を見出しかねないとの警戒感があった」と述べています。
 そして、「日本の少子化の進み方は速すぎる」理由として、「産児制限」を「合法化し、国策として日本中に普及、浸透させた」ことを挙げ、「現在に至る日本の少子化は“政策”として引き起こされた『人災』であった」と指摘し、「人工妊娠中絶や避妊によって人為的に人間の生殖を管理するのだから、これほど直接的な出生数の削減手段はない」と述べています。
 また、「GHQがにらんだ通り、産児制限は出生数を減らすのに大きな役割を果すことになった。優生保護法を改正して『経済的理由』を加えたことが、劇的に人工妊娠中絶を増やしたのだ。第一次ベビーブームは、優生保護法施行の翌年の1949(昭和24)年をもって見事なまでにピタリと終焉した」と述べています。
 第4章「『家族計画』という少子化推進策」では、「国策として産児制限が進められるようになる」なかで、「政府は『家族計画』という言葉を普及させた」とした上で、「企業が家族計画運動に積極的に取り組んだ大きな狙いは、労務管理にあった。従業員の家庭が避妊の実行によって子供を計画的に出産するようになれば、家庭での負担が減って夫は仕事に専念できる。そうなれば、職場での事故も減り、巡り巡って生産性も向上し、会社は医療費や家族手当などの負担軽減にもつながる――という発想であった」と述べています。
 第5章「少子化進めたオウンゴール」では、「ベビーブームの到来は問題の所在を見えづらくした」結果、「人口過剰論が再び首をもたげ始めた」として、「日本政府は少子化を懸念していたはずなのに、まったく反対の道を歩み始めた」と述べ、「日本の出生数低下を加速させた理由がもう一つ」あり、「それは日本人自身によるオウンゴールともいえるものだ」として、「政府は自ら少子化を目指して大号令をかける“自爆”を起こした」と指摘しています。
 そして、「薄らぎ始めた『産めよ殖やせよ』へのアレルギーを再びクローズアップさせ、時計の針を逆方向に進めようとする動き」として、民主党政権による「少子化対策」の「全名否定」について、「日本は再び新たな『失政』の危機にさらされることになった」と述べています。
 第6章「ようやく動き出した人口政策」では、「日本の難しさは、出生数の減少、高齢者数の増加、勤労世代の減少というそれぞれ対策を異にする過大に同時に立ち向かわなければならず、その結果として人口減少編対応もしなければならないところにある」と述べています。
 終章「『静かなる戦争』を顧みる」では、「人口こそが世界史を動かしてきた」として、「ある国の急速な人口膨張は関係諸国には脅威として映る。不足する食糧や生活物資を確保しようとする動きは軋轢を生み、経済的な影響を及ぼす。人口増加スピードに社会体制が追いつかないことが貧困や格差を生じさせ、政治的混乱を招く。困窮した人々が他国に安住の地を求めて逃れ始めると周辺諸国は恐怖心に包まれ、しばしば紛争や戦争へとつながる。それは現在でも見られる光景だ」と述べています。
 本書は、日本の少子高齢化という現象を「人口戦」という観点から位置づけた一冊です。


■ 個人的な視点から

 「人口戦」という観点から歴史を読み解いていくというやり方は面白かったです。
 さて、日本では当たり前のように定着している「母子手帳」も戦時中の人口増強政策に端を発しているとは知りませんでした。今では日本発の「母子手帳」が世界でも使われていることが美談とされていますが、その背景に「人口戦」があるかもしれないと考えると面白いです。


■ どんな人にオススメ?

・最近少子化が問題になったと思っている人。


2016年7月 5日 (火)

横山源之助伝―下層社会からの叫び声

■ 書籍情報

横山源之助伝―下層社会からの叫び声   【横山源之助伝―下層社会からの叫び声】(#2529)

  立花 雄一
  価格: ¥4,860 (税込)
  日本経済評論社新版 (2015/10)

 本書は、「世に埋もれた、日本最初の労働運動者であり、底辺記録文学の樹立者である、横山源之助の生涯と業績」の記録です。横山源之助は、「『日本之下層社会』という一書によって、日本における近代創生期の、変革期のなまなましい冷酷な進行ぶりを、犠牲者のがわの下層民、下層労働者のがわから、広範にそして克明に記録した」としています。
 著者は、横山源之助に魅せられた理由として、
(1)特異な底辺性をもつこと。
(2)多くの業績を残しながら、ほとんど埋もれ、無視されていること。
の2点を挙げています。
 第1章「米騒動の浜辺で」では、「横山源之助はおのれの出生を語るにあたり、実父を生まれ故郷の網元とまで明かしていながら、ついにその名を口にしなかった」ことについて、「強烈ではあるがどこか孤独な、温かさをもちながら非妥協的な、そしてどことなく虚無的な感じをさせる横山源之助の生きざまは彼の不幸な出生に負うところが大きい」と述べています。
 そして、左官職人の倅でありながら、富山県ではじめて開校された中学に第一期生として入学した横山源之助が、数えで16歳の2月、「二人の友人とともに、とつぜん、東京へ出奔してしまう」と述べています。
 第2章「二葉亭四迷の門へ」では、法律家になることを夢見て、英吉利法律学校(後ち東京法学院今の中央大学)に入学するも、卒業期を迎える明治20年代は、「法律書生がそろそろ過剰化しはじめていた」時期であり、加えて、養家横山家の没落もあり、「社会からはみ出した失業書生が誕生し、横山源之助の放浪時代がはじまる」と述べています。
 そして、「政治万能時代に上京し、司法の座にいどんだ横山源之助であった。この国の権力機構はすでに完成期に入りつつあった。閉じられた門からしめだされ、余剰化した貧乏書生のひとりとして苦しみつつ、やがて権力機構のあり方を疑い、それに対立し挑戦していく青年がここに誕生するのである」として、「その頃まったく縁のなかった文学――二葉亭四迷の『浮雲』に共鳴したのも、権力機構の内側からはじき出され、余計者的境涯に煩悶する主人公文三のそれがあたかも横山自身のそれにどこか似ていたからに違いない」と述べています。
 また、「松原岩五郎の貧民窟ルポがきっかけとなって始まる、横山源之助のルポルタージュ発見の開眼がやがて明治30年代に始まるわが国の労働運動の前期活動となったのである」と述べています。
 第3章「下層社会ルポ作家としての出発」では、「横山源之助は学界のひとであったことはない。膨大な研究や作品が残されながら、学者ではなかった。一市井の文筆家、ある時は売文家に過ぎなかった。ここに横山源之助の障害の特異さがある」と述べています。
 そして、「毎日新聞社時代の数年間は、横山源之助の生涯中、もっともかがやかしいとき」であったが、「毎日新聞社としっくりいかなかったであろうことは想像に難くない」と述べています。
 また、樋口一葉に宛てた手紙から、「一葉という薄幸らしき、美人の、女流文学者に触れあうや、たちまち発する妖気にあてられたようである」として、「一葉との交渉が深まっている頃、やがて『日本之下層社会』の主要部を占めることになる大調査」をつぎつぎに構想していたが、「横山は一葉に対しては、どことなくしおらしげであり、人間の弱みをさらけだしている。苦労を二人でわけあっているつもりなのかもしれない。しかし歯車はどことなくかみあっていない」と述べています。
 そして、「半井桃水との失恋後の一葉に、もっとも熱をあげたのは斎藤緑雨(正直正太夫)と横山源之助であったろうか」として、「一葉をめぐってある、斎藤緑雨と横山源之助のたてひきはなかなかおもしろい。一種の三角関係にあったといえる。実はいずれも一葉から軽くいなされていたのだが」と述べ、「緑雨は一葉の文学を研究するのが目的で、一様のもとを訪れていた。源之助は下層社会文学への可能性を一様に託す宿望をもってか、あるいは下層社会、貧民救助、経論の同行者としてか。緑雨と源之助は一時一葉に特殊な感情をもって接していた。そういう二人が、一葉から、作品集編纂を遺言としてたくされるようなとくべつな『知己』としてうけいれられていたとしてもふしぎではなかったのであろう」としています。
 さらに、横山源之助の三大調査について、「第一次桐生・足利調査のときは、女衒的な人買い組織にとらえられ、格子なき牢獄のなかに鎖された無告の工女たちの実態が鋭く摘発され」、「第二次農民事情調査では、原始的資本の蓄積の犠牲となって、土地を奪われ、果ては流離せねばならない農民や、小作人へ転落していく実態が――、さいごの第三次阪神地方調査の成果は前二回の調査行のそれにおとらぬものであった」として、「三大調査を完了した、帰京後の横山源之助は二つの面で特徴づけることができる」として、
(1)日本の下層全階層をほぼ網羅する研究がようやく射程内に入ったこと。
(2)日本にはじめて登場する労働運動の開幕に接触し始めていくこと。
の2点を挙げています。
 また、「『日本之下層社会』は客観性・科学性という観点を主眼にして編まれた」として、「横山ははじめ文学的社会ルポから出発し、後しだいに科学敵観点をつよめていった」、「ルポルタージュという実証的な創作行為が文学的記録性よりも科学的記録性へと転化し、科学が優位にたったときに成立したのが『日本之下層社会』であった」と述べた上で、「『日本之下層社会』の出現――それは一言でいえば、日本の産業革命期にいどんだ最初の俯瞰図であったといえるだろう」として、「『日本之下層社会』のなかに、われわれは傑出した特質をいくつもつかみだすことができる。その科学性と綜合性において。時代感覚・状況感覚の鋭さにおいて。そして警世経論観のつよさにおいても。さらに階級観の高まりと人間愛の深さにおいて。真実を描き出す文学性において、等」と述べています。
 第4章「開幕期労働運動と横山源之助」では、「横山源之助の名は、労働運動史上、ほとんど忘れられている。あるいはほとんど無視されているといいなおしてもいい」が、「実は高野房太郎、片山潜にもおとらぬ先駆者であったようなのである」とした上で、「横山源之助が日本の労働運動、社会主義運動の主流に関係したのは、開幕期である」が、それ以後、「労働運動、社会主義運動の主流から離れ、傍流へまわっている」と述べています。
 そして、「労働運動の指導をかっていた知的集団側では、社会主義がすでに暗黙の諒解になっていた。社会主義は、この段階の日本では、まだ傷ついていない、新しい思想の衣装であったのである。横山源之助の社会主義も、知的集団側の新思想を代弁する意味を持って登場した。まだ汚れていない、新思想であった」と述べています。
 第5章「帰郷時代」では、「明治32(1899)年夏、開幕した労働運動隆盛のさなか、『日本之下層社会』『内地雑居後之日本』刊行直後、横山源之助は突如帰郷した」として、「労働運動に血道をあげ、他誌への執筆、おのれの著書への執筆があった。『毎日』の仕事はなおざりにされた。社会改良路線をいく毎日新聞社がいかに寛容であったとしても、『平らか』でなかったであろう。そしてついに横山は過労にたおれたのである。かくして毎日新聞社を引責辞任することになった」と述べています。
 第6章「労働運動への復帰」では、横山が運動に復帰した理由として、「『一書生』としてでなく、こんどこそ実際運動――労働者解放運動の渦中に身を投じるためであった。ところが、労働運動―労働者解放―弱者救済を総体に見ていた横山にとって、おのれの視野のなかにある労働者や職人層や人力車夫等は、一部インテリの突出した社会主義からはあまりにも後方にあったのである」と述べ、「横山の後半生は、歴史の主流をはなれた、歴史の傍流者の、漂流者にも似たそれであった」としています。
 そして、「横山源之助が大日本労働団体聯合本部、ならびに大井憲太郎と行をともにした期間は、聯合本部の創設が企画された明治34(1901)年9月頃から36(1903)年前半頃までであったとおもわれる。この期間、大日本労働団体聯合本部は右派労働運動機関として存在したのだ」と述べています。
 第7章「後半生の横山源之助」では、明治36(1903)年に、「横山源之助は本格的に文筆生活にはいっている。以来、一管の筆に生活を託すのである」と述べた上で、「この頃、横山源之助の身辺が容易でなかったことは事実だ」として、富山県魚津の養父母や親族10人が横山を頼って上京し、さらに横山源之助と松島やいとの間に、一女梢が生まれ、「労働運動から、文筆家へ戻ったのはそのため」であり、「否応なく、しだいに売文におちるしかなかったのだ」と述べています。
 そして、「横山源之助は大正4(1915)年6月3日世を去った」として、その晩年には、「内妻やいとの間に二子をなしながら、尾崎恒子との関係を持続」したことについて、「横山源之助は自分の暗い出生を悲憤していたという。網元の落とし子としてうまれ、母と自分をすてた父親を憎み、すてられた母に同情していた――。晩年、どうしてやいに寛大になりきれなかったのであろうか。より深い、この世のしがらみのなにかをにくむ、ジレンマがあったのであろうか」と述べ、「横山源之助の歿後、一家は離散している。娘梢は横山の遺言によって、尾崎恒子の養女に。博太郎は異父母のいる東京育成園にひきとられた。二人の母やいは天神町の育英舎へ。このように遺族は散り散りに生き別れにならなければならなかった。赤貧のなかに逝った横山を象徴しているかのようだ」と述べています。
 第8章「後期作品管見」では、「『日本之下層社会』完成直後の明治33年中小都市、中産階級研究への関心が、そして明治35年植民問題への関心が、それぞれ現れ、明治37、8年頃になると、人物評論、中小都市(宿場)、植民事情、富豪研究、明治裏面史もの等が混在する」と述べています。
 そして、「横山の人物評論の面白さ、特色は、社会の下積みの、陽のあたらぬところにいる名人(職人)を掘り起こし、人物評の照射を加えていること、あるいは政、財界にあって敗れたひとびと、あるいはその裏面にあるひとびと等、いわばその世界での表街道にはいない、社会の裏面のひとびとをとらえているところにある」と述べています。
 本書は、忘れられていた明治の下層社会を切り取っていた文筆家、労働運動家を掘り起こした一冊です。


■ 個人的な視点から

 『日本之下層社会』は今読んでも驚きと発見に満ちた必読書なわけですが、その作者の生涯を追った本書はやはり面白いわけです。
 そして、社会的に素晴らしい意見を表明している人だからといって、本人の人格が高潔で素晴らしいというわけではないというところもまた面白いのです。


■ どんな人にオススメ?

・社会の底辺は誰が見ているのかを知りたい人。


2016年1月26日 (火)

幕末の奇跡 《「黒船」を造ったサムライたち》

■ 書籍情報

幕末の奇跡 《「黒船」を造ったサムライたち》   【幕末の奇跡 《「黒船」を造ったサムライたち》】(#2519)

  松尾 龍之介
  価格: ¥2,376 (税込)
  弦書房(2015/6/24)

 本書は、「幕末という時間を『蒸気船を知った日本人が、自らの力でそれをつくりあげるまでの期間』と定義することも可能」であり、「日本が幕末を迎えた頃、ヨーロッパでは『海軍のルネサンス』が始まろうとしており、帆船から蒸気船へ、外輪からスクリューへ、木造船から鉄船へというような質的な大改革が行われ、日本は幸いにもこの時代の新しいうねりに乗るのに何とか間に合った」として、「明治十年代までは、日本の各分野で数多くの海軍伝習所出身の人々が日本を支え、その後幕末から明治に生まれた若い世代へとその技術が受け渡された」と述べ、「そんな長崎海軍伝習所に関わった人々の中から14名を選び出し、それぞれの生き方やエピソードに焦点を当ててみた」ものです。
 第1章「幕府とオランダ」では、阿部正弘について、「開国の扉を開くと同時に、近世の幕藩体制の崩壊にも手を貸したことになる。しかし、それを考慮に入れても、老中首座にあった彼が最初に日本の近代化へ舵を切ったことは特筆に値する。そして彼が1857年、数えの39歳で急死しなければ、幕末の歴史はまったく違った様相を見せたのは明らかである」と述べています。
 また、オランダ海軍のヘルハルドゥス=ファビウス中佐について、「長崎奉行大沢豊後守乗哲と水野筑後守忠徳の両名が出島に来て、幕府がこれまでの方針を改め、ヨーロッパ式の海軍を創設する意志があることを表明し、彼に意見を求めた」際に、ファビウスが作製した「幕府の海軍創立に関する専門的な意見書」が、「その後の海軍、ひいては日本の将来を決定づけたと言っても過言ではない}として、
(1)日本の地理的条件はイギリスと似ており、今こそ西洋式海軍を創立する絶好のチャンスである。
(2)軍艦は蒸気船の時代になったが、これからはスクリュー式の時代なので外輪式の蒸気船はつくらないほうが良い。
(3)戦隊は木造でも良いが、世界の大勢は鉄船の方向に向かっている。
(4)将来造船も手掛けるなら、修船所としてのドックや、造機工場が必要であること。
(5)士官・下士官・兵の乗組員の養成には学校(伝習所)が必要である。
(6)伝習所は、蒸気船の運行法、大砲の操法と製造法、蒸気機関の取り扱い方と製造法について教育する。そのため伝習生は少なくとも数学・天文学・物理学・化学並びに、測量術・期間術・造船術・砲術その他を学ぶ・
(7)この教育を受けるには、日本人はオランダ語を学び、予習させておくのが良い。
(8)以上に関してオランダの援助を受けるには、前提条件として日蘭両国間に条約を締結しておくのが必要である。
の8点を挙げ、「実は最後の項目にある日本との条約の締結(日蘭条約)こそがオランダ側の交換条件だった」と述べています。
 第2章「生涯の宿敵」では、「木村喜毅は幕末に海軍建設計画を参画し、幕府海軍に最も力を注いだ人物であったが、幕府瓦解の直前に自ら身を引き、明治になっても無位無官で通した。そのために海軍創立者は勝麟太郎とみられるようになったが、実は彼こそが海軍創立の心の立役者であった」と述べています。
 また、小野友五郎について、「1868年、産業革命を経験しなかった日本で、日本人だけの手になる蒸気船が竣工した」ことは、「幕末史のなかでほとんど無視されているが、日本が誇るべきことではないだろうか」と述べた上で、明治維新後、小野が東京・京都間鉄道線路の調査にあたり、「再三の実地踏査を行なった上で、東海道幹線説を上申」し、明治19年に東海道線が採用されたことや、東京・青森間のルートについても踏査・測量し、「それは現在のものとほぼ変わっていない」ことなどを挙げ、「日本のインフラの最重要部は小野が決めたことになる」と述べています。
 第3章「江戸から脱走した幕臣」では、松本良順について、海軍伝習所では、ユトレヒト陸軍軍医学校で学んだポンペ=ファン=メーアデルフォールトに学び、「ポンペの教育は西洋医学を総合的に教えるもので、それは日本人にとって初めての経験だった」として、「ポンペはそれまで日本人に混同されていた基礎医学と臨床医学とを区別して、学科のすべてを順を追って系統的に教えてくれた」と述べ、「ポンペの講義はそれまで困難を極めていた医術を、平明な言葉や図解を用いて単刀直入に解説し、辞書さえ不要と思われるほどやさしく説いたというのである」と述べています。
 また、長崎伝習所を突然閉鎖した井伊直弼が、「医学生一人くらい自分が忘れていたことにすれば何の問題もない。留学費その他一切今まで通りにせよ」と、松本の伝習を続けたことについて、松本は「井伊はまことに大老の器」と感激したと述べています。
 そして、池田屋事件や禁門の変で名を挙げた新選組隊長近藤勇が江戸に下った際に松本を訪ねたことについて、「勇は松本がポンペから直接医学を学んだ高名な医師であることを知り、自分が接したことのない外国人並びに海外事情について教えを乞いにやってきたのであった」として、松本が、「外国の学問、ことに天文地理・物理・化学・医学などが精密にして高度であること、陸海軍の兵力が格段の強力なことなど諄々に説いて聞かせた後、浪人たちの異人切りなどは思慮に欠最低の行為であることを諭した」ところ、「勇は大いに喜び、『今日までわだかまっていた疑問がたちどころに氷解した。貴殿がいずれ上洛したときにはまた会おう』と再開を約して去っていった」と述べ、1865年の長州征伐の際に、西本願寺の新選組屯所を訪れた際に、「松本はそのあまりに劣悪な環境と、病気になった隊士の数の多さに驚」き、「ポンペがつくった養生所の理念に従って、病室のようなものを設置させ、薬を調合し往診して治療を施した」と述べています。
 さらに、1866年、将軍家茂が危篤に陥った際に、奥医師として枕元に控えた松本が、20日間ほど交代を許されず、「自らの意識がもうろうとして、明暗も分かたぬようになった」ことから、「事情を将軍に告げ少しの休息をこうたところ」、「吾は汝を離したくはない。汝が吾の布団に入って一緒に眠れば良い」といわれ、将軍と同衾したエピソードが紹介されています。
 第5章「オランダ通詞の幕末」では、西吉十郎について、「西洋には『裁判』というものがあり、人々は公平な裁きが受けられる」と知った西が、「それを日本に持ち込むことができたら」という夢をもち、のちに、「英語のできた彼は海外の法律に学び、それを日本の法律へ受容してゆく過程で大いに役に立ったものと思われる」として、「現在の最高裁判所に当たる大審院の院長、すなわち司法官として頂点を極めた」と述べています。
 第6章「幕臣という呪縛」では、榎本武揚について、「箱館戦争の最後の段階で政府軍は五稜郭の榎本に降伏を勧めた。それを断った榎本は、帰っていく使者の手にオランダで購入した『海律全書』を贈った。それは海の国際法を説いたもので、これからの日本に必要な洋書で消失するには忍びなかったからである」と述べています。
 また、「幕末三傑」の一人に数えられる水野忠徳について、「彼は出自の良さではなく、野心を抱きつつ実力と努力を重ねることで出世したタイプである」として、強情な性格により、周囲から疎まれ左遷された先の、今で言う「陸軍」や「警察」の現場での働きが認められ、浦賀奉行を命じられるという「大変な出世」を成し遂げたと述べています。
 また、1858年に、井伊大老の下で日米修好通商条約が調印されると、日本で最初の外国奉行(外交官僚)を命じられるが、「井伊大老は彼らを好んで買ったわけではなく、自分の周囲に外交に明るいものがいなかったから残留させただけである」と述べています。
 さらに、水野が「窓際族」に転落された際にも、「井伊大老の幕閣たちは外交に疎く素人ばかりだったので、外国人との重要な会議の際にはその都度水野が呼びだされ、屏風の陰から助言を与えている」ことから「屏風水野」という異名をとったと述べています。
 最終章「製糸業から外国航路まで」では、「幕末に蓄積された人材や高度な知識は、一部は榎本艦隊へ、一部は駿府へと分かれたが、最終的にはいずれも明治政府に引き継がれている。幕府と新政府は、戊辰戦争によって断絶したわけでなく、継続していたのである」と述べています。
 本書は、幕末の多くの人材を輩出した長崎海軍伝習所に関わった面々に光を当てた一冊です。


■ 個人的な視点から

 幕末ファンの多い中、派手な「維新の志士」たちが注目されますが、明治の日本を実務面で支えたのは、日の当たらない幕臣や下級藩士であり、そういった人材の蓄積こそが日本の本当の力だったのかもしれません。


■ どんな人にオススメ?

・維新の志士にはそろそろ飽きてきた人。


2016年1月23日 (土)

ネット右翼の終わり──ヘイトスピーチはなぜ無くならないのか

■ 書籍情報

ネット右翼の終わり──ヘイトスピーチはなぜ無くならないのか   【ネット右翼の終わり──ヘイトスピーチはなぜ無くならないのか】(#2516)

  古谷経衡
  価格: ¥1,620 (税込)
  晶文社(2015/7/10)

 本書は、「昨今『ヘイトスピーチ問題』などとして話題になっている、ネット上での差別的言説(ヘイトスピーチ)の大本を形成しているいわゆる『インターネット右翼(ネット右翼)』とはどのような人々であるか、その概要を解説する」とともに、「『ヘイトスピートを行うもの』と『保守主義者』が『本来』まったく別個のものであることを網羅的に説明するもの」です。
 著者は、「保守政権下で、その政権と思想的近似性があると考えられているネット右翼や保守界隈の勢いはどうなのかというと、実はかなり停滞状況にあり、実際にはじわり衰微している有様である」理由として、「第二次安倍政権が日本憲政史上、まれに見る強烈な保守政権であることは論を俟たないが、であるが故にその支持者であり後輩に控えていたネット右翼、保守陣営の中で、『敵失』による分裂と四散が表面化したのだ」と述べています。
 第1章「ネット右翼とはなにか? 保守とはなにか?」では、「フジサンケイグループ」について、「日本において戦後唯一の純然たるコンサバティブメディア(保守メディア)」として誕生した」として、「鹿内信隆時代に確立した『産経・正論路線(産経新聞と月刊誌正論)』の両輪の組み合わせこそ戦後保守論壇のプロトタイプである」と述べた上で、「『保守』の構造的特性とは、外部から孤立して自閉した空間の中に存在し、それは巨大資本のなかで庇護されてきた、ということだ」と述べています。
 また、「ネット右翼の三必須、七原則」として、
・必須1:嫌韓、嫌中の感情が旺盛であること
・必須2:1に関連して、在日コリアンに対し極めて強いネガティブな感情を有していること
・必須3:1,2に関連して既存の大手マスメディア(テレビ・新聞)が韓国・中国・在日コリアンに融和的であるとし、これらのメディアに対し激しい嫌悪感、敵愾心を抱いていること(ただしこれらの新聞の中には、産経新聞は含まない)
・4:先の日本の戦争(十五年戦争)を肯定的に捉え、いわゆる「東京裁判史観」を否定していること
・5:4に関連して、首相や大臣など、公人らの靖国神社公式参拝を支持し、容認していること
・6:外交・安全保障政策について「タカ派」的価値観を有していること(憲法9条の改正を含む)
・7:6に関連して、「タカ派」「保守色」が強い安倍晋三政権(第一次、第二次)を支持していること(また同時に、とりわけ2009年以降は、民主党政権に強い敵愾心を有しており、とりわけ2014年以降は「次世代の党」への指示が強烈なこと)
の7点を挙げています。
 第2章「ネット右翼 その発生と誕生」では、「2002年にインターネットに流れ込んだ」、「『韓国への不満』を基礎とした『メディアへの不信』を抱いた層こそが、『ネット右翼』のそもそもの起源であり、スターとである」として、この時期の「ネット右翼」を「前期ネット右翼」と呼称するとして、2001年8月に起こった「フジテレビ抗議デモ」では、「『嫌韓』を標榜しながらも、そのデモ隊が向かった先は韓国大使館ではなく民放テレビ局でアタという理由は、この『前期ネット右翼』が基本的に『アンチ・既存の大手マスメディア』という激烈な潮流から生まれた存在であるという背景を踏まえれば、その行動動機が自然と納得できる」と述べています。
 また、2007年以降、「チャンネル桜が『風穴』を開けた保守イデオロギーの強い影響に晒された」、「後期ネット右翼」について、当時の保守派にとっては、「ネットを駆使し、まして保守的な言動を取り交わしているネットの人々は、“まばゆい光に見えた”」として、「このまばゆい光という表現には明らかに『希望』のニュアンスが入り込んでいる」と指摘した上で、「『保守』の最大の読み誤りは、自らの『保守』的理論体系が、そのまますべて、その下流に位置する『ネット右翼』に到達している、と思い込んだその現状認識にこそあった」と述べています。
 第3章「『狭義のネット右翼』への分岐と『ヘッドライン寄生』」では、「『保守』が発した言葉は、そのまますべて下流に存在する『ネット右翼』が、肥料・養分として存分に吸収しているのではなく、実際にはほとんどザル、馬の耳に念仏のように流してしまっている層と、ほぼ額面通りしっかりと養分にしている層、この二種類へと分岐する」と指摘しています。
 そして、「狭義のネット右翼」の「実態であり正体」として、「『保守』から流される知識体系をその下流にある『狭義のネット右翼』が、『ヘッドライン寄生』して、そのタイトルと目次だけを寄生的に引用している」と述べています。
 第4章「『狭義のネット右翼』の実相」では、「『狭義のネット右翼』に特徴的な社会的特性」として、「大都市部に住む中年世代の中産階級」であり、「比較的安定的な勤務体系が生み出す時間的ゆとりと、経済的余裕。この2つがあればこそ『狭義のネット右翼』の活動は維持されている」と述べた上で、彼らが、愛国心に「覚醒める」という表現を「明らかに好んで使っている」ことについて、「ネット右翼」に特有に存在する世界観である「マトリックス史観」と名づけ、「大きな悪意によって真実が遮蔽されており、その悪意の謀略から覚醒めること」に力点を置いているという点で酷似しているだけでなく、映画『マトリックス』の主人公が、「30代そこそこ一流の大企業に勤務するホワイトカラーである」点も「ネット右翼」の性別、年齢、社会的地位などとおどろくほどそっくりであると指摘しています。
 そして、「『狭義のネット右翼』が依拠している『ネットで知った歴史の真実』『ネットで知った日本社会の真実』というものは、このように公教育の中で、特に政治経済の授業や近現代史のそれの中でなおざりにされてきた、そのニッチな間隙を突いたものがほとんどなのである」と指摘しています。
 第5章「土着化する保守王権」では、「本来、『狭義のネット右翼』とは独立した上位に体系的な知識を持っているはずの『保守王権』が、その下流域の『狭義のネット右翼』と時として一体となって、デマを拡散していく主因になっているというこの昨今の状況」を、「王権の劣化という意味で、『保守王権の土着化』と呼ぶ」と述べています。
 本書は、人によって違うものを指すであろう「ネット右翼」について、その誕生から思想的背景などをまとめた一冊です。


■ 個人的な視点から

 一般に「ネトウヨ」という言葉が使われる場合には、高学歴で教養と常識があり進歩的な左翼の方々が、学もなく定職もなくネットに引きこもるダメな若者を「ネトウヨ」とレッテル貼りしているイメージがありますが、実際には「2ちゃんねる」に書き込んでる人たちがオッサンであるのと同じように、いい年をして仕事もしているオッサンが多いようです。とはいえ、左翼の方々の「われこそはインテリ」というアイデンティティは簡単には崩れそうにありません。


■ どんな人にオススメ?

・ネトウヨとは何かを知りたい人。


2016年1月14日 (木)

平成の家族と食

■ 書籍情報

平成の家族と食   【平成の家族と食】(#2507)

  野田 潤 (著), 畠山 洋輔 (著), 品田 知美 (編集)
  価格: ¥1,836 (税込)
  晶文社(2015/12/21)

 本書は、「女性を対象として食生活の考えや行動について調査する目的」で、「味の素株式会社広報部が1978年より数年おきに実施している」全国規模の社会調査である「Ajinomoto Monitoring Consumer調査」という「質の高い貴重な量的データ」をもとに、「自分たちがとらわれているかもしれない食と家族に関する常識を、いま一度疑ってみたい」という目的意識から編纂されたものです。
 序章「家族と食をめぐって」では、「一汁三菜という形式が人々の食卓に浸透した歴史は浅く短い」として、「昭和の初めから終戦までの約20年ほどを通じて、日常的な和食の形式は一汁一菜であった」との指摘を紹介しています。
 また、「実は日本の伝統的な食事回数が3食であったとも言えないらしい」として、江戸時代の武士が1日あたり玄米5合を2回に分けて食べていたことや、激しい運動する農民などが、定食の間に間食をはさみ4回位食べることも普通であったと述べています。
 そして、「食は多様な視座から語られながらも、食卓を共有する家族はいつもその議論の傍らに添え置かれてきた」として、「平成時代の食の現在を、計量的なデータから捉えると同時に、比較社会学的に歴史的変遷という文脈に置きながら解釈していく」と述べています。
 基礎編「平成の食卓から見える現実(リアル)」では、「歴史的に見ると、日本人すべてが常に白米食だったわけではなく、地域差と階層差と時代差が非常に大きい」とした上で、「主食と汁物と飲物においては、現在も伝統的な品目が圧倒的に好まれていることを考慮すれば、日本人の食卓は一概に『和食離れ』が進んでいるとも言い切れず、むしろ『ご飯・味噌汁』のラインをゆるく守りながらの多様化と再編成が進んでいる、というところが正確かもしれない」と述べています。
 また、「コンビニエンスストアの利用頻度が年収と関連している」として、「ほとんど使わない」または「全く使わない」ひとは400万円未満と1000万円以上に多いと述べています。
 そして、「現代日本の夫たちは、全体的に日々の食事づくりを実践する機会が極めて乏しい」と述べ、「成人前の子の炊事能力には男女差がないのに、結婚後の食事づくりは圧倒的に女性に求められるというのが、現代日本の状況ともいえる」としています。
 さらに、「食品・原材料の産地は3・11後に気にするようになっておらず、逆に気にしない方向に変化していた」と述べています。
 分析編「家族と食からみえる平成の社会」では、「近代社会では、『情緒的な強い絆で結びついていること』が、家族の理想とされるようになった。身分や上下関係ではない純粋な親しみの感情が、社会レベルで家族に期待されるというのは、実は前近代にはなかった現象である」とした上で、「日本でちゃぶ台を囲んでの食事が銘々膳よりも多くなったのは、大正末期のこと」だと述べています。
 また、「社会学的な先行研究からは、子どもの年齢が低いほど、父母と関係が良好なほど夕食の教職頻度が多いという指摘がある」とした上で、「子どものいる核家族では、全員がそろって共食する家族が1988年から2012年にかけて、ほぼ半減した」が、「妻が無職であることは、『家族が食卓にそろう団らん生活』の成就を意味せず、逆説的にフルタイム職についていることが、共食の機会を多くしている」ことから、「女性が社会進出をしたから家族の団らんが失われて食卓を囲まなくなったのではないか」というイメージは「間違っている」と指摘しています。
 本書は、平成の家族と食の姿を切り取った一冊です。


■ 個人的な視点から

 日本の食卓の風景は昔とそれほど変わっていないような気がしていて変化になかなか気づかないのは、進学や就職、結婚など個人としての生活の変化の大きさの中で見失ってしまうからなのではないかと思います。


■ どんな人にオススメ?

・四半世紀の食の変化を追いたい人。


2016年1月13日 (水)

将門伝説の歴史

■ 書籍情報

将門伝説の歴史   【将門伝説の歴史】(#2506)

  樋口 州男
  価格: ¥1,836 (税込)
  吉川弘文館(2015/7/21)

 本書は、「平安時代中期(10世紀前半)、下総北部を本拠地として勢力を張り、坂東諸国の国司を追放して自ら新皇と称し、坂東の地に王城(都)までも建設しようとしたが、一族の平貞盛や下野の豪族藤原秀郷らに攻められ、敗死した武将」である平将門について、「将門伝説が生み出され語られた時代、およびそれぞれの地域に焦点をあてて、この将門伝説の世界の一端に触れようとするもの」です。
 第1部「平将門の乱と『将門記』」では、『将門記』における「八幡大菩薩と菅原道真の霊魂が将門への皇位授与者として現れてくる」という記述について、「明治期に将門弁護の立場から、これを娼妓を招いて開いた宴席での茶番狂言・余興にすぎないと論じた」織田完之の『平将門故蹟考』をはじめ、「早くからさまざまな意見が出されている」とのべています。
 また、「将門滅亡後における、その残党追求は厳しいものがあった」が、「追及の手を逃れた人々もいた」として、「こうした生存者への関心が、やがた落人や将門子孫にまつわる話へと発展していった」と述べています。
 そして、「房総三国を荒廃させた忠常の乱に際し、乱鎮圧の92年前に起こった将門の乱を題材にして戦争の愚かさを訴えた『将門記』に共感した加筆者(「里の無名」)が、これからも続くであろう険悪な世相の中で、戦いの無意味さを訴えたものこそ、この『或る本に云はく』の以下の加筆箇所ではないか」と述べています。
 第2部「伝説の中の将門」では、『将門記』には、「乱後、あいついで語られるようになっていく、多数の将門にまつわる伝説の芽がいくつも見出だせる」とした上で、「東国における『将門びいき』の伝説成立の要因を探ろうとする時、京都から下ってきた巨利をむさぼる国司に対し、敢然と立ち向かっていった将門の行動へ寄せる東国の人々の共感こそ、その最大のものとなってくる」と述べています。
 また、「治承・寿永の内乱のさい、千葉氏が妙見神を氏神として信仰していることについて、その由来を尋ねる源頼朝に対し、千葉常胤――頼朝にしたがって鎌倉幕府草創に貢献した、下総を拠点とする東国御家人の有力者――が、妙見神はもともと将門の守護神であったが、のちに千葉氏の祖良文のもとに移ってきたのだと答えた」ことについて、「千葉氏は、甥の将門をわざわざ伯父の良文の養子とすることによって、強引に――しかも良文は『将門記』などのその名が見えないものの、将門の乱では鎮圧者の側に加わっていたことが明らかにされている」――その家系に取り込んでいると述べています。
 そして、「今日、都内3か所に分かれている将門首塚・神田明神・日輪寺(芝崎道場)は、いずれも、中世の柴崎村における将門の亡霊譚に由来すること、言いかえれば、芝崎村は中世以降における江戸の将門伝説の出発点とも言える地だった」と述べています。
 第3部「近世文芸の中の将門伝説」では、曲亭(滝沢)馬琴について、「各作品において伝奇性に富む内容を保ちながらも、一方で徹底した考証家として定評のある馬琴らしく、『事実(まこと)』=史実と『虚事(そらごと)』=俗説とを明確に区別すべきであるとの立場から、厳しい将門伝説批判を展開した読本『昔語質屋庫(むかしがたりしちやのくら)』」の解説をしています。
 また、江戸幕府の崩壊によって、「江戸の惣鎮守神田明神・御霊神将門がうけた打撃は実に厳しいものがあった」とした上で、「教部省・東京府の許可により、将門霊神が神田神社本殿から境内の大国主神社へ仮遷座されたのは明治7年8月、さらに氏子からの寄付によって落成した摂社将門神社へ遷座されたのは明治11年11月のことであった」と述べ、祭神改変後の最初の神田祭においては、氏子をはじめとする地元の人々の反発・動揺があり、この混乱を、「明治政府もそのままにしておくことはできなかった」として、「祭礼日直後の9月19日における明治天皇の神田神社行幸」が執り行われたと述べています。
 そして、「将門を皇位をうかがった国史上唯一の叛臣(朝敵)とする見方が、歴史教育の場などを中心に広く展開される中にあって、明治40年前後の頃から、その雪冤運動、すなわち将門=叛臣論が冤罪であることを明らかにし、将門の潔白を示そうとすることに奔走した人物がいた」として、明治38年刊行の真福寺本『将門記』の注釈書『国宝将門記伝』や、「当時の大蔵省構内にあった古塚=伝将門墳墓の由来を説き、関東各地の将門ゆかりの遺跡・伝説を調査・記録した明治40年刊行の『平将門故蹟考』の著者織田完之」について取り上げています。
 さらに、織田の多大な事績のうち特筆すべき者として、「結局、成し遂げることはできなかったが、利根川下流右岸、千葉県北部の印旛沼開発事業に対する尽力」を挙げ、「挫折したとはいえ、この印旛沼地方との出会いは後述するように、その後、織田と将門を結ぶ大きな要因となっていく」として、「若き日に尊攘運動と深い関わりを持ったがゆえの明治新政府への複雑な思い、農政官吏としての実践的な活動からうかがわれる農漁民へのあたたかい目、さらに関東近県における調査・出張先での将門伝説との出会いなど」をあげています。
 本書は、将門伝説をめぐる様々な考察を論証した一冊です。


■ 個人的な視点から

 関東地方には将門にちなんだ地名や寺社仏閣がいっぱいあるので住んでる人は基礎知識として知っておいて損はないと思います。


■ どんな人にオススメ?

・将門をただの反逆者だと思っている人。


2016年1月 9日 (土)

若者の戦後史: 軍国少年からロスジェネまで

■ 書籍情報

若者の戦後史: 軍国少年からロスジェネまで   【若者の戦後史: 軍国少年からロスジェネまで】(#2502)

  片瀬 一男
  価格: ¥3,240 (税込)
  ミネルヴァ書房(2015/9/30)

 本書は、「若者の戦後史を『社会階層と社会移動全国調査』(SSM調査)のデータを用いて実証的に論究する」ものです。
 序章「若者をめぐる言説と研究の変遷」では、ホネットによる「人間は一般の3つの領域で承認を求める」として、
(1)情緒的気づかい:親密な人間関係例えば愛情(男女関係、家族など)や友情の領域
(2)認知的尊重:法的圏域での個人の平等な法的権利が求められる領域
(3)社会的価値評価:労働の領域における「個人的業績」に対する社会的評価
の3点を挙げています。
 第1章「軍国少年たちの戦前・戦後」では、「1975年SSM調査における職業アスピレーションの設問に『職業軍人』と答えた者、すなわち義務教育終了時点で軍人志望であった者について、その出身背景を探る。次いで、彼らの戦前・戦後における教育・職業達成とともに、高度経済成長期の只中であった1975年時点の社会意識の特徴を検討した」としています。
 そして、「立身出世主義は、陸軍士官学校生が戦時体制の担い手層として参戦していった際のある種の『自発性』の源泉であった」とした上で、「軍人志望者の戦後は、大企業や地方の官公庁の管理職を中心とした社会の中上層を占めていた」として、「戦前には上昇意欲の強い、比較的能力ある少年」であった可能性を確認することができたとしています。
 また、「彼らは貧しい出身背景から少年兵を志願し、戦後はおそらくは軍隊経験で得た技能なり知識を元に職業世界に参入し、その地位達成意欲の強さをバネに日本の高度経済成長を下支えしてきた人々であったと考えられる」と述べています。
 第2章「集団就職者の高度成長期」では、「『集団就職』すなわち『広域的職業紹介制度と計画的輸送制度』の統合によって成立した『新規学卒者の制度化された大規模な労働移動』は、すでに戦時期の計画経済下にその萌芽があり、それが高度経済成長期に『ローカル労働市場の広域的労働市場への制度的統合』として再編成された」としています。
 そして、「1960年の東京SSM調査データを分析することで、東京という都市が東京出身者と地方からの流入者の階層分化を伴いつつ成立した」として、「1950年台は戦間期に進学率が停滞していた農民層や都市自営業層でも進学率が上昇し始めたが、農村部では高校までが限度であったのに対して、都市自営業層では大学・短大と、都市部の高学歴化が先行していた。その結果、戦後世代では上層雇用労働者の過半数を東京出身者で充足でき、高学歴化が進まなかった農村部からの流入者は下層雇用労働者になった」と述べています。
 また、「高度経済成長期に、集団就職した若者」には、「自営業への憧憬が強かったとされる」が、「集団就職者のなかで『自分の店』をもった者はほとんどいなかった」として、「実際には『自分の店』をもてたのは、転職を否定してきた職人型労働者ではなく、転職によって『腕を磨く』ことを思考していた技能型労働者であった」と述べています。
 第3章「モラトリアム人間の就職事情」では、「『モラトリアム人間の時代』は、1960年代前半に大学進学期を迎えた『団塊の世代』のために大学入学定員が増員された結果、大学進学率が急増していった一方で、70年代の高度経済成長の終焉に伴う不景気によって、大卒者の就職難をもたらしていた時期であった」として、「1970年代の若者について展開された『モラトリアム人間論』は、この時期の大学生に貼られた精神分析の『ラベル』出会った可能性も高い」と指摘しています。
 第4章「新人類の情報格差(デジタルデバイド)」では、「情報新人類」と呼ばれる世代にも、「情報コンシャス層」と「非コンシャス層」の間の「情報格差」が存在し、「『情報コンシャス層』は出身階層という点でも上層出身者が多かった。そして、客体化された文化資本や身体化された文化資本にも恵まれていた。その結果、学歴が高く、職業も専門職、大企業ホワイトカラーが多くなっていた。これに対して、『非コンシャス層』は、経済的・文化的にも下層出身者が多く、学歴や職業的地位も低かった」と述べています。
 第5章「もう一つのロスジェネ」では、現代の日本社会では、「成人期初期の発達課題の達成がきわめて困難になっている」として、「とくに1990年代初期のバブル経済崩壊後の長期不況、さらに2008年の世界同時不況による『就職氷河期』の再来によって、将来に展望を持てない無業者や、非正規雇用のため非婚を強いられる若者が増える一方で、絞り込まれた正規雇用者には過労死や過労自殺にもつながりかねない長時間労働が常態化している」と指摘しています。
 そして、「『ロスジェネ(失われた世代)』という語は、これまで『安定した仕事』を奪われた無業や非正規雇用の若者を指す言葉として使われることが多かったが、その対極には長期雇用の代償として、私的な時間や親密な『愛』を奪われた『もう一つのロスジェネ』たちがいることを忘れてはならない」と述べています。
 第6章「若者文化の行方」で、内閣府の「国民生活に関する世論調査」によれば、「1970年代から80年代にかけては、若年層の満足度が最も低く、年齢が上がるにつれて満足度が高まっていたが、2000年代後半に入ると、20歳代で最も満足度が高く、40歳から50歳にかけて低下し、60歳代以降になると再び満足度が上昇するというV字型の満足度のグラフになる」として、「現代の若者(男性)は、長時間労働によってワークライフバランスを失い、動物化した私生活のなかで孤立しながらも、生活満足度を高めている」と述べています。
 そして、「若者のコンサマトリー化」として、「何らかの目的達成のために禁欲的に努力するより、『今、ここ』の『小さな』世界の幸福で充足することを重視する生き方」だと述べるとともに、「仲間集団における相対的剥奪」について、もともとアメリカ軍兵士の研究から提起した概念だとして、「昇進率の低い集団(憲兵隊)の方が、昇進率の高い集団(航空隊)よりも、昇進機会に関する不満が低い」現象について、「昇進率が高い集団にいると昇進への期待が過大になって、昇進率に厳しい評価を下すために不満を持つ、というメカニズムによって説明された」と述べています。
 本書は、戦後の若者を語った言説について、SSM調査による裏付けを試みた一冊です。


■ 個人的な視点から

 「戦後」が遠くなるにつれ、戦後と若者をテーマとした本が何冊も出ていますが、もしかすると現代においては、文化の中心、消費の中心としての「若者」に注目するということ自体が意味を失ってきているのかもしれません。


■ どんな人にオススメ?

・「若者」を見かけなくなったと思っている人。


2016年1月 8日 (金)

鉄道への夢が日本人を作った 資本主義・民主主義・ナショナリズム

■ 書籍情報

鉄道への夢が日本人を作った 資本主義・民主主義・ナショナリズム   【鉄道への夢が日本人を作った 資本主義・民主主義・ナショナリズム】(#2501)

  張彧暋 (著), 山岡由美 (翻訳)
  価格: ¥1,728 (税込)
  朝日新聞出版(2015/10/9)

 本書は、「『集合的・文化的な「制度」』であり、鉄道をめぐる言説、行為、想像の集まり」である「鉄道信仰」という「制度」を通じて、「『日本』が形成された歴史を描くこと」を主題としたものです。
 序章「鉄道という夢と謎――日本の読者に向けて」では、「本書は歴史社会学からの視点、ないし歴史人類学の手法で鉄道を調べることで近代日本の世界観の成立を明らかにしようとしたものだ」と述べた上で、「この本で最も申し上げたいこと」として、「鉄道の機能への期待と信念は、もともと『でっちあげ』、偶然に誕生した、単なる作り話に近い迷信でしかなかった」が、「さまざまな人が、色々な思惑、別々の理由で、鉄道は重要だと言い続け、実際、鉄道が役に立つかどうかはわからないものの、建設が進められ、実際にレールが敷かれていようがいなかろうが、だんだん『鉄道建設』は一種の『信仰』になっていった」と述べています。
 そして、本書は、「近代日本において、『鉄道信仰』の正体はどんなものか、集合的・文化的な『制度』として捉える。鉄道は文明近代化の機種と言われてきたが、本書は鉄道を単なる経済インフラでもなく、近代国家の装置だけでもなく、ある種の集合的な『夢』として捉える。鉄道(あるいはその建設計画)は、誰によって、どんな理由でつくられ、『でっちあげ』られてきたか、『制度化』の過程を解き明かす。この鉄道への信念と夢は、どうやって強化され、社会の他の制度にどのような影響があるのか、そしてこのような信念はどんな効果があったのか、歴史・文化社会学の観点で検証してみた。日本の『近代』への期待と不安の中で、『鉄道』への信念と効果が固まっていき、『日本』ないし『日本人』はつくられた」と述べています。
 第1章「資本主義の誕生と鉄道の敷設(1868-1906年)」では、「鉄道は文明を体現する偶像として扱われるようになった。そして鉄道の魔力は政治の新時代を象徴するものとなり、時代と鉄道は同一視されるに至った」と述べた上で、「1870年代から80年代にかけての鉄道敷設事業には、新たに登場した資本家と政府との関係が大きく影響している。明治政府は資本家の資源を鉄道事業に誘導する目的で彼らと手を結んだ」と述べています。
 そして、「大型金融取引の仕組みがようやくつくられ、資本が鉄道事業に流れていくようになった」として、「政治的な影響力を拡大した明治政府は、金融業者という社会の新しい成員を監督下において協力関係を結び、資金集めの新しい道具を与えることによって鉄道を敷設させた」と述べています。
 第2章「近代国家と民主主義と鉄道(1880-1936年)」では、「近代国家の力を理解するには、地方の社会がどのように近代国家へ組み込まれ、国(ネイション)の名のもとに統合されていったかを考えねばならない」として、「鉄道事業によって地方が刺激され、誘致のために意見書を書くという行動様式が各地に共通して見られるようになった。それが近代的な意味での国を具体的なものにしていった」と述べています。
 そして、「地元の政治家を後ろ盾に鉄道の敷設を求めることが各地で一般化し、庶民はそれによって国政に参加できるようになったのだ」として、「鉄道誘致活動は、庶民による政治参加を形にしたものなのかもしれない」と述べています。
 また、「大正デモクラシーにおける地方の鉄道敷設問題を利益誘導型政治という観点だけから捉えると、この問題が重要な国政課題に変わり、選挙という全く新しい政治的行為によって争点として認められるに至った複雑な過程を説明できなくなる」として、「鉄道は役立つという揺るぎない信念と、国家の資源を地方に誘導するという政治家の約束に対する期待。両者は互いに作用しあっていた」と述べています。
 さらに、「1920年代から30年代はじめの日本」には
(1)経済不況と緊縮財政
(2)二大政党制
という二つの特徴が見られ、「地方に鉄道を敷設すべきか否かという議論は、政治を離れて再び金融をめぐる問題になったのだ」と述べています。
 第3章「国民意識と鉄道(1890-1937年)」では、「皇室の権威と支配を根づかせるのに、鉄道はどのように利用されたのか」について、「1900年代に全国津々浦々を鉄道で回り、各地の国民にあった明治天皇と嘉仁親王(のちの大正天皇)は、最初の『日本人』と言うことができるだろう」と述べています。
 そして、原武史の『可視化された帝国』が提示している論点として、
(1)近代に入って政治的権威や制度に大きな変化が生じたにもかかわらず、日本では視覚的支配が統制のメカニズムとして依然重要な位置を占めていた。
(2)視覚的支配のなかに見られる神秘政略は物神崇拝に支えられていた。
の2点を挙げ、「問題は、江戸期における視覚的支配が後の時代にどの程度温存され、どんな形につくり直されたのかということ」だと述べています。
 また、皇太子嘉仁による1900年代の鉄道旅行について、「皇太子時代に鉄道で全国を回ったことと、それが及ぼした社会的影響」として、「明治天皇の名代として、1900年代に皇太子が旅をしたことは庶民の間に国民意識を呼び覚まし、強めていった」と述べています。
 第4章「結論――国民の夢を乗せて、列車は走る」では、「日本の近代化はナショナリズムの3つの原理を真似損ねたといってもよいであろう」として、「制度の原理を無理解、または勘違いし、鏡像化された近代性が展開したのであった」と指摘しています。
 本書は、鉄道に象徴される日本の近代化を鉄道から読み解いた一冊です。


■ 個人的な視点から

 鉄道の敷設による日本社会の変化をどのように読み解いていくか、大きく国の形が変わっていく過程にどこまで鉄道の貢献を認めるかは多くの異論があろうかと思いますが、社会の変容と鉄道の敷設がシンクロしていたことは間違いないことではないかと思います。


■ どんな人にオススメ?

・鉄道にロマンを感じてしまう人。


2015年8月 6日 (木)

移民たちの「満州」: 満蒙開拓団の虚と実

■ 書籍情報

移民たちの「満州」: 満蒙開拓団の虚と実   【移民たちの「満州」: 満蒙開拓団の虚と実】(#2482)

  二松 啓紀
  価格: ¥907 (税込)
  平凡社(2015/7/17)

 本書は、「満州」について、「出征兵士ではない、となり近所の人達や学校の同級生たちが日本海をわたり、異国の地で予想もしなかった戦争に巻き込まれる」という「隣人たちの戦争体験」として語ったものです。
 第1章「満州国の誕生と大量移民の幕開け」では、「『満州』とよばれた中国東北地方に在住した日本人は約23万人、全人口3000万人に対して1%弱だった」と述べています。
 そして、満州の匪賊は、盗賊とは異なり、「いわば私設の用心棒」だったが、「満州事変以降、土地を奪われた中国人農民が匪賊化した他、日本人に反抗しただけで中国人農民を匪賊と断定した」と述べています。
 第2章「日中戦争と満州移民」では、「戦争は、満州移民を進める上で決定的なマイナス因子だった」として、
(1)農村の若年層が大量に出征する。
(2)戦争は特需をもたらし、産業界も労働力を必要とする。
の2点をあげる一方、満州移民推進派も、
(1)満蒙開拓青少年義勇軍
(2)分村移民
という周到な準備をしていたと述べています。
 第3章「模範村『大日向村』の誕生」では、「満州移民は移民史からみた場合、きわめて異質な存在だ。低賃金で働く底辺の労働者ではなく、最初から支配層としての地位が保証されていた」と述べた上で、満州移民を語る上で欠かせない存在である長野県南佐久郡の大日向村について、農村文学で知られる和田傳の小説『大日向村」を挙げ、「当時の知識層は農村問題に心を寄席、何らかの解決策を見出そうと努力を重ねてきた」が、「そんな時、突如として現れたのが、満州移民だった」と述べています。
 そして、『大日向村』がベストセラーになり映画化される一方で、現実の大日向村では、軍需景気に伴う鉱山景気で、「損害からの移民を受け入れる村になっていた」と述べています。
 第4章「形骸化する満蒙開拓事業」では、「分村移民は国や道府県を上げた官製移民になっていたが、満州移民を『落伍者』とする考え方が一般に根強くあり、移民を推進する上で一つの妨げになっていた」と述べています。
 そして、「軍需景気が地方の隅々まで浸透し、貧困対策としての満州移民は完全に時期を逸していたと述べています。
 第5章「戦争末期の満州と満蒙開拓団」では、「ソ連参戦と満州不法海の結末を知る現代のわれわれから見れば、なぜ戦争末期に満蒙開拓団を送出したのか、死に追いやるような酷い行いをしたのかと、素朴な疑問が生じる」が、「当時の人達の感覚からすれば、渡満は一つの選択肢」であり、「空襲で家屋を失った戦災者たちが、戦火を逃れたい一心から満蒙開拓団として日本海を渡る例もあった」と述べています。
 第6章「日本人の大量難民と収容所」では、「1945年11月ころになると、日本人難民の状況が明らかになった。在満日本人約160万人のうち、難民は40万人余。1ヶ月あたり5万トンの船舶量を使ったとしても、すべての帰国完了までに約4年は必要だと予測された」と述べ、「日本人女性に残された道は、中国人の妻になって生き延びるか、収容所で餓死を待つかの二つだった」としています。
 第7章「引揚げと戦後開拓」では、「敗戦後、日本人の引揚げ事業は東西冷戦が色濃く反映した」として、「アメリカを中心とする西側の占領地域では船舶があるかぎり、すみやかに帰国が進められた」一方で、「日本の敗戦とソ連の占領を経て東西勢力が入り乱れた満州では、中国国民党と中国共産党との対立から、都市や地域によって支配者が異なる状況が生じた」ため、「随所に検問所が設けられ、人や物資の流れが厳しく制限された」と述べています。
 そして、「引揚者たちにとって、京都は耐えがたい街だった。戦禍のかけらすらない。日常が流れ、笑顔さえある」と述べています。
 また、戦後開拓事業の開拓者たちが、「もう一度満州に行きたい」と語っていることについて、「意外な気もするが、敗戦後の混乱さえなければ満州の生活が良かったとする声は大日向の人たちにかぎらず、圧倒的に多い」と述べています。
 第8章「18歳のシベリア抑留」では、「満州体験者には2つの収容所がある」として、
(1)女性や子どもを中心とした日本人難民収容所
(2)シベリアの強制収容所
の2点を挙げ、「スターリンは大量の日本人男性を拘束し、無償の労働力として自国の戦後復興に役立てる計画だった」として、「日本の緻密な軍組織を最大限に活用した、国際法を無視した史上最大の拉致事件だった」と述べています。
 終章「消えない『満州』の残像」では、「多くの場合、日本人が満州へ渡れば、貧しさから開放され、誰もが手軽に豊かさを手にすることができた。その豊かさは、他者の犠牲によって成り立つフィクションの世界だった」と述べ、「満蒙開拓団は、紛れもなく地方が直接加担した“戦争”だった」と述べています。
 本書は、当人たちの口から語られることの少ない身近だった戦争を語った一冊です。


■ 個人的な視点から

 こういった過去の信頼と実績のお仕事ぶりを見てしまうと、現在進められている「田舎暮らし」キャンペーンもさもありなんというか、やっぱりそうなんだろうなと思ってしまい、こんなことならまだ東京で消耗してしまおうかと思ってます。もちろん好きで行く人は止めませんが。


■ どんな人にオススメ?

・どこかに新天地があるに違いないと思ってしまう人。


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