経営

2016年7月22日 (金)

はじめての流通

■ 書籍情報

はじめての流通   【はじめての流通】(#2546)

  崔 容熏, 原 頼利, 東 伸一
  価格: ¥2,052 (税込)
  有斐閣(2014/10/20)

 本書は、流通をはじめて学ぶ「大学の1~2年生(あるいは流通のことを勉強したことがない一般読者)」向けの教科書として企画されたものです。
 著者は、「商品流通の仕組みは、技術や法律・制度などの外部環境、商品、生産者、消費者、そして多くの流通業者が織りなす1つの『システム』として形作られ、維持・発展するとともに、時代や地域によって変化してきます」と述べています。
 第1章「流通の役割とはなんだろうか」では、「商品がその生産者から消費者や産業使用者に至るまでの経路、つまり流通チャネル(distribution channel)は、商品ごとに異なり」、
(1)直接流通:生産者が消費者などに直接販売する
(2)間接流通:何人かの商業者が加わる
の2つがあるとしています。
 そして、「流通における所有権、カネ、モノ、情報の流れは、流通を担う機関が遂行する様々な活動によって生じます」として、その機能を、
(1)所有権移転機能
(2)金融・危険負担機能
(3)物流機能
(4)情報伝達機能
の4つに分類して解説しています。
 第2章「商品を買う場を提供する」では、「『零細・過多・生業性』は、日本の社会・文化的背景から生じた小売流通の構造的な特徴」だとして、「日本では、専業主婦の構成比が高い、生鮮志向が強い、住宅が狭小で飲食料品の保管スペースが不足している、などの社会的特徴から買い物頻度は必然的に高くなり、自宅付近に多くの小売店が分散立地している必要があった」とともに、「初期費用が比較的少ない小売業」は戦後期に多くの人たちが開業する産業分野でもあったと述べています。
 そして、チェーンストアの狙いの1つとして、「仕入れと販売の分離」を挙げ、「商品の仕入を本部に一元化することで、商品の仕入れ数量と販売数量を大規模化し、取引相手となる消費財メーカー(生産者)の自チェーンに対する販売依存度を高めるように行動」することで、「購買支配力(buying power)と呼ばれる取引上のパワーを獲得することになり、メーカーに対して自社に有利な取引条件や物流条件を求めること」ができると述べています。
 第3章「商品を買う場の形」では、ホームセンターが、「第2次大戦で大きな空襲被害を受けたイギリスの復興運動において提唱された"Do It Yourself(DIY)"――自宅の内外装の修繕や補修、改良は自分の手で行う――の考えに沿って誕生しました」と述べています。
 第4章「プライベート・ブランドの意味を考える」では、プライベート・ブランドについて、「小売業者や卸売業者などの流通業者が自主企画をし、商標権を所有した上で自社店舗を中心に販売する専用商品を通商する概念」であり、アメリカではプライベート・レーベル、ヨーロッパではオウン・ブランドという表現が使われるとした上で、「ユニクロやZARAのように、近年アパレル業界でSPA(specialty store retailer of label apparel)と呼ばれる企業の躍進が目立っている」が、「PBのアパレル商品の専門小売店」という意味だと述べています。
 そして、小売業者がPBを積極的に導入する理由として、「PBが小売業者間の競争における差別的優位性を確保するための有効な手段になるという点」を挙げ、メーカーに対する交渉力について、「自分の目的を達成していくために、相手にどれだけ頼っているのかを表す概念」である「依存度(dependency)」について解説しています。
 一方で、メーカーがPBを受託する背景として、「PBをめぐるメーカー固有の複雑な事情」を挙げ、メーカーにとってのメリットとしては、
(1)生産設備を有効に活用できるチャンスになる
(2)小売業者との関係改善が図れる
(3)販売リスクがない
の3点がある一方、リスクとしては、
(1)自社製品とのカニバリゼーションの問題を引き起こす可能性がある
(2)他の小売業者からの反発
(3)NB製品の開発の力を損なう危険性
の3点を挙げています。
 第6章「メーカーはいかに製品を売り込むのか」では、マーケティング・マネジメントの対象として、4Pと呼ばれう、製品(product)、価格(price)、販売促進(promotion)、流通(place)の4点を挙げ、この4つの要素のまとまりを「マーケティング・ミックス」と呼ぶとしています。
 第7章「情報技術はいかに流通を変えるのか」では、「川下の小売業者から川上の供給業者まで複数の組織を通じて情報が伝達される場合」において、「消費者需要の変動が川上に行くほど増幅して伝わってしまうという現象」である「ブルウィップ効果(bullwhip effect)」について解説しています。
 第10章「サービスと流通を考える」ではサービスの一般的、基本的な特徴として、
・無形性
・不可分性(同時性)
・消滅性
・変動性
の4点について解説しています。
 第11章「ビジネスの現場でのやりとりをとらえる」では、「産業財メーカーが直接流通か間接流通かの選択を迫られる状況」について、「取引費用論(transaction cost theory)」を用いて解説しています。
 本書は、はじめて流通業について学んでみたい人に向けて解説した一冊です。


■ 個人的な視点から

 流通に関して、現状のしくみを解説する本はたくさんありましたが、きちんと理論的に解説してくれる入門書はありがたいと思います。おおっぴらにではないにしても理論的支柱として経済学が入っているのは頼もしいところです。


■ どんな人にオススメ?

・流通の仕組みを押さえておきたい人。


2016年1月 4日 (月)

地図と鉄道省文書で読む私鉄の歩み:関東(3)京成・京急・相鉄

■ 書籍情報

地図と鉄道省文書で読む私鉄の歩み:関東(3)京成・京急・相鉄   【地図と鉄道省文書で読む私鉄の歩み:関東(3)京成・京急・相鉄】(#2497)

  今尾 恵介
  価格: ¥1,944 (税込)
  白水社(2015/8/18)

 本書は、国立公文書館に収蔵されている「鉄道や軌道の許認可に関する戦前の公文書」である「鉄道省(鉄道院)文書」から関東の私鉄の「黎明期から現在に至るまでの総体的な歩み」を浮かび上がらせようとしたものです。
 第1部「京成電鉄」、「成田山新勝寺を目指す軌道」では、明治36年の成田といえば、「新勝寺の純然たる門前町」で、「1313世帯4892人という小さな町に過ぎなかった」上に、「東京から京成が敷いた線路は千葉を通らないルートで、特に船橋の先は広漠たる下総台地の雑木林と印旛沼の周囲に広がる田んぼといった閑散たる沿線」で、「そこに延々60キロメートルに及ぶ線路を敷設しようというのは、現代的な感覚では理解しにくい」と述べる一方で、「江戸期の『観光』といえば神社仏閣巡りが中心であった歴史が基層としてあり、その後に登場した近代的交通機関の鉄道・起動が人の流れの多い経路に沿って敷設された明治期の状況を考えれば、東京都成田の間に鉄道や軌道が敷設されるのは当然の流れであった」と述べています。
 そして、「もともと馬車鉄道またはそれに準ずる存在を対象に明治23年(1890)に施行された『軌道条例』では、軌道は原則として道路に敷設することになっており、道路上を通行することが不都合な場合のみ専用軌道(新設軌道)を敷設する建前となっていた」と述べています。
 「まずは近場の帝釈天で稼ぎつつ線路延伸」では、当時の総武本線が、「片道ほぼ一時間おきに列車を運転していたが、市川~船橋間に途中駅が下総中山駅ひとつだけであったのに対し、京成の市川(現国府台)~船橋間には市川新田(現市川真間)、菅野、八幡(現京成八幡の東寄り)、中山(現京成中山)、葛飾(現京成西船)と5か所も設けられていた。しかも日中は16分間隔という頻繁運転が行われていたので、資料は見当たらなかったが、総武本線の乗客をだいぶごっそりさらっていったのは間違いなさそうだ」と述べています。
 「先行した千葉線の開業」では、船橋開業後、「いよいよ次は成田を目指して延伸したいところであるが」、「建設費を捻出するためにはむしろ県都・千葉を目指すのが得策ということで、船橋開業の前年にあたる大正4年(1915)2月18日、船橋から千葉に至る軌道特許の出願を行なった」が、「千葉への支線敷設の特許出願」は、「国鉄と平行線であること」を理由に却下されてしまうものの、「発展する沿道では京成の沿線を待望する声が大きく」、大正6年12月には、「千葉県会議長を筆頭に、千葉町長、幕張町長、津田沼町長、検見川町長、千葉郡会議員、各町会議員など合計82名が連署」した嘆願書が、寺内正毅首相と内務大臣・後藤新平宛に提出されたと述べています。
 そして、「公共交通機関の柱である鉄道・軌道が特定の区間にダブって敷設されるのは無駄、という考え方が従来の監督官庁である鉄道院と内務省にはあったが、京浜間や阪神間にはすでに京浜電気鉄道(現京急)や阪神電気鉄道が明治期に開業して利便性の高い交通を実現させており、千葉レベルの『小都市』への軌道であっても、平行線排除を墨守するのは時代にそぐわなくなってきたのだろう」として、京成電気軌道の船橋~千葉間の軌道敷設特許が大正7年12月28日に与えられたと述べています。
 また、「千葉開業の少し前の大正10年(1921)7月には谷津海岸で『夏の楽園』が開園、これが後に常設の谷津遊園に発展していく」として、「『余暇』を急速に身近なものとして捉え始めた市民の足・京成電気軌道は、従来の神社仏閣だけでない観光に敏感に対応した」と述べています。
 「成田開業と谷津の観光開発」では、京成電気軌道が、大正14年(1925)6月6日に谷津海岸一体の27万坪(約89ヘクタール)の広大な土地を買収し、このうち9万坪(約30ヘクタール)に谷津遊園地を開園したと述べています。
 そして、昭和5年(1930)4月24日に成田停留場までが開業し、「スピードと列車の本数の点で国鉄に対して大きく優位に立った」として、押上~成田間の55.7キロメートルを1時間で結び、押上~千葉間は休校で45分で結んでおり、現在の51分よりも速いと述べています。
 「都心乗り入れルートの模索」では、「京成電気軌道は震災の4ヶ月ほど前の大正12年(1923)4月28日以来、計6回にも及ぶ都心乗り入れの特許申請を行なったとされるが、まったく埒が明かない中でやむにやまれず『政界工作』を行なった」として、「京成から16万円(現代なら3億円程度)が東京市会議員や衆議院議員に流れたことが発覚」したいわゆる「京成電車疑獄事件」について述べています。
 一方で、昭和7年7月1日に国鉄の御茶ノ水~両国間が開業し、同10年には千葉までの電化も完成し、「御茶ノ水~千葉間が50分で結ばれ、しかも頻繁に運転されるようになったため、京成には大きな打撃を与えた」として、「その昔、京成にあらかた客を奪われた鉄道省の『逆襲』がいよいよ現実のものとなりつつあった」と述べています。
 第2部「京浜急行電鉄」、「関東初の電車――大師電気鉄道」では、「東京(新橋)~横浜間は日本で最初に官営鉄道が開業したところで、国内では最も交通が頻繁な区間であるため、電気鉄道というものが世に知られてから、京浜間にこれを敷設しようとする軌道敷設特許の出願が相次いでいた」として、「最初にこの区間に敷設された私鉄が京急の前身の京浜電気鉄道」であり、「このルーツが大師電気鉄道である」と述べています。
 「都市間電車(インタアーバン)への変貌」では、「関東初の電車として川崎~大師間でスタートした対し電気鉄道は、その名の通りの参詣客輸送が主目的であったが、会社は京浜間の都市間電気鉄道、いわゆるインタアーバン(interurban rail system)を目指していた」と述べた上で、「軌道条例はそもそも市内交通を担当する輸送力の小さな低速の馬車鉄道や路面電車を想定したものであって、京浜間のような中距離を専用軌道で通すのは筋が違う」という「当時の内務省の公式見解であった」が、「急速な電車の近代化に直面していた内務省の考え方は揺れていたようで、明治38年(1905)に開業した阪神電気鉄道が阪神間の大半を専用軌道で突っ走る軌道特許を求めた際に、内務省の初代技監・古市公威は『線路のどこかが道路についていればいい』と、きわめて柔軟に対応している」と述べています。
 「横浜中心部へどう乗り入れるか」では、「日中10分間隔という電車の頻繁運転、それに加えてきめ細かく設けられた停留場を沿線住民は歓迎」した結果、「品川~神奈川間の官営鉄道の乗客数が京浜全通の直前と比べて開業翌年にあたる明治39年(1906)9月には実に63%の減少」と推計されており、「駅が少なく、たまにしか来ない『汽車』の惨憺たる敗北を示している」と述べています。
 「参拝電車から空港アクセス線へ」では、「敗戦から5週間ほど経った9月21日に連合軍総司令部(GHQ)は、飛行場の近くにあった穴守稲荷とその門前町など、海老取川より東側の住民に対して『48時間以内の退去』を求めた」とした上で、「穴守稲荷の門前にある大鳥居を撤去するのは難しかった。ロープを掛けて引き倒そうとしたところロープが切れ、死傷者が出たのである。その後も作業をしようとすると工事関係者の事故や発病が続いたことから、これは『お稲荷さんの祟り』と恐れられ、結局はこの鳥居だけが残されることになった」と述べています。
 第3部「相模鉄道」、「細道を行く『田舎軌道』構想」では、「全国の幹線鉄道から外れた地域では、その鉄道と『おらが町・村』を結ぶ軽便な企画の軌道を敷設し、地域の振興を図ろうとする素封家たちが多数に及んでいた」と述べ、「この軌道計画を立ち上げたのが、相模鉄道の前身に当たる神中軌道株式会社」であり、その由来は、「おそらく神奈川県の中央部を通ることからであろう」と紹介しています。
 「戦時の輸送力増強と海軍施設」では、「相模原方面では昭和10年頃から密かに『軍都計画』が進められており、現相模原市域の村長らがこの頃に集められ、郡部から広大な土地を収容する話がもたらされていた。この軍都計画は現相模原市を中心として陸海軍の施設を大々的に整備するもので、北側には陸軍、南側の現座間・大和・綾瀬市に加えて横浜市の一部にかけてのエリアに海軍がそれぞれの施設を建設することになったのである」と述べています。
 本書は、私鉄の成り立ちを通じて、明治から昭和にかけての首都圏の成り立ちが伝わってくる一冊です。


■ 個人的な視点から

 現代に暮らす私達は、鉄道を「昔から当たり前にそこにあるもの」として捉えがちですが、その成り立ちを知ることで、どうして今の状態になったのかを理解することができ、将来の姿を考えられるようになるのではないかと思います。


■ どんな人にオススメ?

・鉄道がなぜそこにあるのかを知りたい人。


2015年7月10日 (金)

鉄道をつくる人たち―安全と進化を支える製造・建設現場を訪ねる

■ 書籍情報

鉄道をつくる人たち―安全と進化を支える製造・建設現場を訪ねる   【鉄道をつくる人たち―安全と進化を支える製造・建設現場を訪ねる】(#2455)

  川辺 謙一
  価格: ¥864 (税込)
  交通新聞社(2013/02)

 本書は、「鉄道を利用する立場からは知り得ない」、「知られざる『鉄道の仕事』の現場」を紹介するものです。
 第1章「日本最大の分岐器をつくる」では、「日本の空の玄関口である成田国際空港の近くには、日本最大の分岐器がある」として、成田スカイアクセス線を走る「スカイライナー」の「時速160キロ運転と、単線区間の存在が、日本最大の分岐器を必要とした要因になった」と述べ、「分岐側のレールのカーブを通常よりもゆるくしたため、時速160キロで通過しても、乗客が不快に感じる横方向の力(超過遠心力)が、他の分岐器と同程度に抑えられている」としています。
 第2章「地下鉄をつくる」では、「地下鉄は、大都市の地下を走るジェットコースターだ。地中を通るトンネルの中を、多くの人を乗せた列車が勢いよく走っている。トンネルの行く手を阻むのは、地中に埋められた数々の埋設物。上下水道管やガス管、電力や通信のケーブル、それらライフラインをまとめた共同溝、道路や鉄道、地下河川のトンネルなどが、立体的に絡み合う。そんな混雑した地下空間を、地下鉄のトンネルが貫く」と述べています。
 そして、有楽町線と副都心線のルートが重複する小竹向原~千川間の約410メートルの改良工事について、「距離は端から端まで5分ほどで歩けるほど短いが、開削工法とシールド工法の両方を使ってトンネルをつくるので、新線建設に似ている」と述べています。
 また、「地下鉄工事では、地面を掘るときにかならずこの埋設物保護を行うそうだが、その作業が地下鉄工事の難関の一つ」だとして、「近年は、都市景観をよくしたり、安全性を向上させるため、道路の電柱を撤去して、電力や通信のケーブルを地下に埋める事業が進められているので、道路の下にある埋設物が増えている」と述べています。
 第3章「電車の窓ガラスをつくる」では、「電車の窓ガラスは、住宅などの建物や、乗用車やバスなどの乗り物で使われる窓ガラスと見た目は同じ透明な板だが、電車用ならではの工夫もある」とした上で、「電車の窓に使われている複層ガラスは、強化ガラスを2枚、または強化ガラスと合わせガラスを組み合わせたもの」だと述べ、強化ガラスは、「ガラスの強度を向上させ、割れないようにしたガラス」とよく誤解されるとしています。
 そして、「電車の窓ガラスは、われわれのように電車を利用する立場から見ると、昔からあまり変わらないように見えるが、確実に進化している。とくに日本では、特殊な環境やニーズに対応する必要があったため、独自の進化を遂げてきた」と述べています。
 第4章「電車のパンタグラフをつくる」では、「パンタグラフから出る音を小さくするのが求められるのは、沿線に伝わる騒音を小さくするため」だとして、「とくに新幹線では、かつて騒音が訴訟問題に発展したことがあるため、騒音に関するきびしい環境基準が設けられている」と述べています。
 そして、「日本のパンタグラフは、世界に広がっているヨーロッパのパンタグラフから見ると少し変わっている」として、「現在は、ヨーロパのパンタグラフが実質的な世界標準となっているので、日本で使っているパンタグラフをそのまま海外に売り込むことが難しい」と述べています。
 また、ヨーロッパで多く採用されている、「すり板が破損した時、またはすり板が限度を超えてすり減った時に、自動的にパンタグラフを下げる装置」である「オート・ドロップ・デバイス(ADD)」が日本で採用されていない理由として、「ヨーロッパでは、故障することを前提にして、部品の品質を考える」が、「列車のダイヤが過密で、車両故障によるダイヤの乱れが許されないので部品の故障はあってはならないと考えるから」だと述べています。
 本書は、普段利用者の目に触れることのない「鉄道をつくる人たち」を紹介した一冊です。


■ 個人的な視点から

 運行されている鉄道の姿や廃線跡が好きな人など鉄道マニアにも色々いますが、鉄道を作っている現場というのはなかなかお目にかかれる機会も少なくタモリ倶楽部でも大人気(「おとなげ」ではない)です。


■ どんな人にオススメ?

・鉄道が生まれる姿を見たい人。


2015年6月18日 (木)

電力という商品

■ 書籍情報

電力という商品   【電力という商品】(#2433)

  浜松 照秀
  価格: ¥972 (税込)
  エネルギーフォーラム(2014/10)

 本書は、「わが国のエネルギー利用を世界に先駆けて究極のものにしつつ、日本の電力システム技術を世界の手本にして、国際展開を図ろうと提案するもの」です。著者は、そのためには、
・「電力という商品」の理解がキーになること
・その邪魔になるのが社会全体の勘違いや理解不足であること
を主張しています。
 第1章「電力という商品をどう理解するか」では、「電力とは、文字通り『電気という力のエネルギー』である」として、「発電とは資源がもつエネルギーを可能な限り電力に変えるか、発電能力を残して有用な熱(温度)をつくるか、2つの道」があると述べています。
 そして、「電力が科学・技術へ依拠する強さ」には、
(1)水力など各種の再生可能エネルギー、原子力、各種燃料の火力といった様々なエネルギー資源がミックスされ、電力供給のための発電や送配電の工学・技術がシステムに組み込まれること。
(2)エネルギー商品としての電力の価値、利用方法、国のインフラとしての安全保障、などを議論する科学技術や政策。
の2つの意味があると述べています。
 また、「電力は電気であると同時に『力のエネルギー』であることを、事業者も監督する行政側も国民も知っておくべき」であり、需要側が求めるエネルギーには、
(1)ハイテク用電気・動力つまり力のエネルギー
(2)熱(温度)エネルギー(主に民生用に多い体温に近い・低い温度、産業用に多い高温、冷凍温度など)
の2つがあるとしています。
 さらに、「エネルギー利用では、電力ネットワークによる高効率電力とそのヒートポンプ利用にまさるものではない」として、「ヒートポンプシステムは、環境エネルギーを大量に利用でき、原子力や水力、石炭火力、再生可能エネルギーなど様々な(需要地では使いにくい)エネルギー資源が『熱』のエネルギー源になり、しかも効率が高い」と述べています。
 第2章「エネルギーチェーンを受給全体で最適化せよ」では、「社会全体が『エネルギー利用のあり方』を勘違いされているようです」として、
(1)社会全体の「エネルギー利用のあり方の勘違い」
(2)学理を極める学者の中にも根拠もなく「今後は分散型発電de-centralized systemの時代」という方がいる
の2点を挙げています。
 そして、「消費者がほしいのは、電気でも、ガスでも、石油・石炭でもない、力のエネルギー(動力・電気)であり、様々な温度の熱エネルギー」であることから、「エネルギーチェーンの終点は『最終エネルギー便益』であるべき」だと述べています。
 また、「戦前は発電効率が低く、発電効率を高くするのは容易ではないので、欧州(ドイツは日本の教科書でした)では熱併給発電(今のコージェネレーション=CHP)にすると熱と電気を合わせた総合効率が上がる(条件次第)ということで、発電所排熱を地域暖房に使って」きたが、「日本のような温暖な地域では当てはまることはまず」ないと述べています。
 第3章「電力事業のビジネス原理(電気代半減)創始」では、エジソンの秘書だったサミュエル・インスルについて、「米国では著名で、今日のアメリカを創った男とも言われて」おり、「シカゴの電力事業の経営者として需給双方をウィンウィンの関係にしたビジネス原理を発明、『技術と経営の統合』を」実現したと述べています。
 そして、「シカゴの一電力事業者に入ったインスルは、電力ネットワークの効果を取り入れて電力価格を半減させるほどに極めて安価にし、金持ちだけの電力供給(マイクログリッド=エジソンシステム)から大衆に向けた電力ネットワーク」にしたとして、「小規模な電灯会社群が自由に価格競争をし、インスルが『技術と経営を統合』して圧倒的に安価な電力を供給した」と述べています。
 また、「分散型にすれば既存の電力会社の世話にならなくても済み、分散型が良い」というメディアの開設について、「少なくとも膨大な環境熱エネルギーを使わないという考えが勘違い」であり、「もう一度『燃料のエネルギーしか使わない分散型システムとは何か』を問う必要」があると指摘しています。
 第4章「国力に貢献するエネルギー・電力事業」では、「日本は現在、これまで築いてきた電力ネットワークのビジネス原理から脱皮しようとして」いるが、「その脱皮の方法が問題」だとして、電力事業は「物質を売るビジネス」ではなく、「力のエネルギー」を売るのであり、「国・地域に不可欠な公益事業」であることから、「単純なモノを売るビジネスではないことを知った上で方向・姿を決めねばなりません」と主張しています。
 本書は、あたりまえに供給されてきた「電気」の本来の姿を改めて考えさせる一冊です。


■ 個人的な視点から

 震災以来、電力については色々な人とが色々な立場から発言するようになりましたが、現実の社会を支えているインフラであるにもかかわらず、夢と希望と政治的主張と妄想が入り混じったような発言も多く聞こえるようになったので「商品」として電力を見直すことも原点回帰の一つの方法ではないかと思います。


■ どんな人にオススメ?

・電気なんかなかった江戸時代に戻ろうとか言ってる人。


2015年5月20日 (水)

マーケティング・インタビューのプロ モデレーター 聞き出す技術

■ 書籍情報

マーケティング・インタビューのプロ モデレーター 聞き出す技術   【マーケティング・インタビューのプロ モデレーター 聞き出す技術】(#2404)

  早尾 恭子
  価格: ¥1,620 (税込)
  すばる舎(2014/5/20)

 本書は、「商品開発などを目的とした調査で、一般の方々の生の声を聞き出す」仕事である「モデレーター」について、「相手に気持ちよくしゃべらせ、言葉を引っ張りだす」プロによる、「人の話を聞き出す技術」をまとめたものです。
 第1章「売れるヒント発見は聞き方しだい――『聞き出す』ことの重要性――」では、「聞き出す」ことを、
(1)相手の話がよく聞けるようになる
(2)質問がうまくなる
(3)相手の話を深堀りできる
(4)話が盛り上がる
(5)新しい情報などを発見できる
の5点に分解しています。
 そして「モデレーター」の役割は、「中庸」「緩和」「適度」という立ち位置にあると述べています。
 また、「話を聞き出すというのは、問われた相手が無意識に蓋をしている部分に働きかけ、『自分ってこういうふうに考えていたんだ』という発見をしてもらうこと」だと述べています。
 第2章「人の話を先入観で聞いていませんか?――『聞ける』マインドの育て方――」では、「聞き出す技術」の基本テクニックとして、
(1)話し始めは、「バクっと」大きな網を投げる
(2)相手が話し出したら、一区切りつくまで、黙って待つ:
(3)「これだ!」というキーワードが出たら、まずはオウム返し
(4)話があちこちしたら、「材料探しタイム」だと思えばいい
(5)相手がノッてきたら、「お囃子」に徹する
の5点を挙げています。
 第3章「相手のホンネ・ニーズを逃さずキャッチする――分析しながら聞く技術――」では、「調査の『目的と課題』に対してどんな知見が得られたのか、データをまとめていくことで報告書に落としこんでいく」と述べています。
 そして、分析のポイントとして、
(1)機能的価値
(2)情緒的価値
の2点を挙げた上で、「まだ明確に表には出てきていないけれど、その人の中に潜んでいる感覚値」について、「体内情報」と名づけていると述べています。
 第4章「さらに詳しく。相手の話を深堀りするには?――質問のプロセスとコツ――」では、「聞き出す」とは、
(1)話を聞く
(2)情報を整理・分析
(3)質問をする

(4)また話を聞く
(5)また情報を整理・分析
(6)質問をする
の3つのプロセスの繰り返しであると述べています。
 第5章「一瞬で誰もが話したくなる空気を作る――これがプロの現場テクニック――」では、「私たちモデレーターは、本当は答えを求めているわけではないのです。特にグループインタビューでは、一般生活者が集まったときに起こる『そうそう』『私も』『え、そうなの?』というやりとりから得られる発見こそが重要」だと述べています。
 第6章「提案できる人、伝えられる人になる――発見を価値創造へつなげるために――」では、「30秒の間隔」を体に刻みこむ理由として、
(1)人の話を聞ける時間には限界があり、それは30秒であること。
(2)ワンセンテンスで的確にコメントするため。
の2点を挙げています。
 本書は、「モデレーター」の技術をわかりやすく解説した一冊です。


■ 個人的な視点から

 人からお話を引き出す仕事の中でもマーケティングのインタビューは楽しそうです。こういう技術が使えるようになるといいですね。


■ どんな人にオススメ?

・人から話を聞きたい人。


2015年4月14日 (火)

車両を造るという仕事―元営団車両部長が語る地下鉄発達史

■ 書籍情報

車両を造るという仕事―元営団車両部長が語る地下鉄発達史   【車両を造るという仕事―元営団車両部長が語る地下鉄発達史】(#2368)

  里田 啓
  価格: ¥864 (税込)
  交通新聞社(2014/04)

 本書は、「鉄道にめざめた少年時代から、戦火をくぐり抜け苦学を続けた学生時代、戦後の厳しい世情のなか晴れて営団地下鉄(現・東京メトロ)に就職し、新造車両の開発・設計などに従事した『鉄道人生75年』を記した自伝」です。
 序章「鉄道少年だった頃」では、小学校5年生くらいの頃に、「大人になったら鉄道の仕事をしたい」と思い始め、「好きなことをやりたいという子供の精神状態のまま成人した極めて単細胞の人間だったと、今になってつくづく感じている」と述べています。
 第1章「鉄道をめざして」では、「子供の頃から記者や電車が好きで、小学校高学年の頃には、将来、鉄道車両関係の仕事をしたいと思うようになっていた。振り返ってみると、その後、変化も進歩もなく、中学の高学年になっても全く同じ道を歩んでいた」と述べ、その後、中学の友人の兄から、「鉄道に勤めて車両の仕事をやりたいのなら、電気工学科ではなくて機械工学科を受けなさい」との助言を受け、「機械工学科を目指すことに転向した」と述べています。
 第2章「新米車両課員の日々」では、1954年に著者が入団した当時、「時間的にのんびりと仕事をしていた。朝は9時半出勤、夕方4時半には退社していたので、驚いたものだった」が、「それはその年のうちに『9時・5時』の世間並みに改められた」と述べています。
 そして、「とても意外だったのは、設計担当とは言っても、自分の手で設計するのではなく、メーカーからの提案を主体に、自分の判断も加えながら構想や条件をまとめるのが仕事だということだった」と述べています。
 また、初の関西出張の際に、「課長から『酒はいくら飲んでも構わんが、金と女はダメだよ』という注意があった」と述べています。
 第3章「日比谷線3000系の開発」では、1960年代半ばに、「識別を容易にするために路線カラーが決められ、車両もほぼこれに合わせた帯を設けることになった」ことに関して、「銀座線のオレンジは1927(昭和2)年の開業用車両の制作にあたって、ベルリン地下鉄の淡黄色を参考にしたが、戦中・戦後のドサクサで色見本が紛失、記憶で再現したものがやや濃い目になり、さらに色見本を作り直すたびに次第に濃くなってしまった」と述べています。
 また、連絡ミスの失敗談として、日比谷線の3000系の側窓の高さが低くなっていたため、駅の壁の駅名表示の「下のほうの隣の駅名はわかるのだが肝心の当駅名が車体の幕板に隠れて半分見えなくなってしまっていた」と語っています。
 第7章「千代田線6000系の開発」では、6000系の試作車構想を総裁に話した時に、国鉄出身の牛島総裁が、「よかろう、やってみろ」と製作を決定したことについて、「以前から技術的な問題にも前向きだった。その点でも全社一丸となっているように感じていたが、小生の営団在勤中、この気風はこの頃が絶頂だったような気がする」と語っています。
 第8章「初めての海外出張」では、当時は、「課長以下職員一同と、車両部各現業の幹部諸侯、それに奥方とその両親も合わせて何十人という見送り。万歳三唱の声に送られて搭乗口へ進むことになる。当時は家族が見送りに来ないと『あの家はおかしいんじゃないの』という風評が立つような状況だった」と語っています。
 第9章「千代田線直通運転と6000系量産車」では、「6000系設計のアルミ車体やチョッパ制御の導入は、当初、消費電力量の低減による経済性の追求がその目的だった」が、「1973(昭和48)年に起こった第1次石油危機は、省エネルギーという思想を日本全土に定着させ、6000系も省エネルギーという観点からも、一躍脚光を浴びることになる」と述べた上で、会計検査の際に、検査員から「国鉄の車両は従来方式のようですが、営団線内では随分、電気をくうのでしょうね」と質問され、「では、その差額はどうしていますか? 国鉄からもらっていますか」との指摘を受け、「その後の折衝と、会計検査院からも国鉄に直接の指示があって、相互直通の紳士協定ゆえに営団としては不本意ではあったが、毎年、国鉄と、後に小田急から数千万円の払込みを受けることになったそうだ」と述べています。
 第12章「半蔵門線8000系の開発」では、1978(昭和53)年2月28日の夜、「営団時代を通じて一生忘れられない大事故が発生した」として、「突風のため」、東西線の電車が転覆した事故について、「秒速98メートルというものすごい竜巻によるもので、こうした事故に遭遇するのは1000年に1回の確率だとのことだった」と述べています。
 第13章「車両部長の仕事」では、「正月、初出勤の日は、たいていは1月4日になるのだが、朝、出勤すると、まず、役員と部長クラスが役員会議室に集合して総裁のご挨拶。どこでもおなじことだろう。軽く乾杯して部に帰り、すずに車両部の新年会。テーブルの上を年末に片付けておいて、ビール、日本酒と、おつまみが並ぶ。部長としての年頭の挨拶とその年に予定されることの概要を説明、希望と期待を述べるのが習慣だ。これも多分、当時の常識的な日本のしきたりだった」と語っています。
 終章「二兎を追う者」では、「メーカーに行って最初に感じたのは、鉄道車両のような受注産業では、ユーザーが大小のコンセプトと設計方針をしっかりと持って、それを明確に指示してもらわないとメーカーは動けないということだった。それがはっきりしないと製作に取り掛かれないから、ことは重大だ」と述べています。
 本書は、鉄道に魅せられた少年が、鉄道を一生の仕事にした一冊です。


■ 個人的な視点から

 男の子は鉄道好きが多いですが、鉄道に携わる仕事をしたいという夢を本当に叶えられた人は羨ましいです


■ どんな人にオススメ?

・鉄道は男のロマンだと思う人。


2014年4月 2日 (水)

コンテンツと国家戦略 ソフトパワーと日本再興

■ 書籍情報

コンテンツと国家戦略 ソフトパワーと日本再興   【コンテンツと国家戦略 ソフトパワーと日本再興】(#2316)

  中村 伊知哉
  価格: ¥1,470 (税込)
  KADOKAWA/角川書店(2013/12/7)

 本書は、2003年に内閣につくられた「知的財産戦略本部」の下にある「コンテンツ強化専門調査会」の会長である著者が、会議における「委員のコメントを拾い上げ、政策をつくりだす現場の雰囲気、我々の危機感や焦燥感」を伝えようとしているものです。
 第1章「100年続けるべきコンテンツ政策」では、「知的財産推進計画2013」のコンテンツ部門の議論が、
(1)デジタル化・ネットワーク化(基盤整備)
(2)ソフトパワー(海外展開)
の2本を柱とすることで議論が進み、
(1)政策転換:一般の利用者が作成するコンテンツ、公共・教育、ビッグデータに力を入れる。
(2)優先順位の向上:「資源配分の重点化と政策資源の充実」の明記。
(3)推進体制の整備:「政府の一体的な取り組み、総合的な推進体制」を記述。
の3点の大きな方向付けが行われることとなったと述べています。
 第2章「新たなる可能性と課題」では、「ポップカルチャーは、デジタル技術の力によって、一部のプロフェッショナルが創作し、大衆が受け取るという一方通行の形から、大衆が自ら創作し、表現し、発信し、共有するものをも付け加えた双方向の有機体へと変貌しつつある」と述べています。
 また、「デジタル教科書」について、「そもそも、デジタル教科書は日本には存在しない。学校教育法、教科書発行法、著作権法の3法上、教科書は『図書』と定義されており、紙でないと認められないのだ。いくらデジタルが頑張っても教科書にはなれない」と述べています。
 第3章「著作権新時代の幕開け」では、「アメリカの大手IT企業の人たちと話をすると、日本の人たちはあまり来なくなったけれども、K-POPのヒロたちは、笑ってしまうぐらい、なんでもOKで売り込みに来る」、「著作権などはまったく気にせず、とにかく配信してくれ、と」と述べています。
 第4章「クラウド時代のビジネスの行方」では、「アナログダラー、デジタルセント」という言葉について、「アナログ時代はドル単位で商売していたのに、デジタル時代はセント単位で商売しなければいけない」という説明を紹介しています。
 本書は、日本のコンテンツ政策の行く末を語った一冊です。

■ 個人的な視点から

 日本で「クールジャパン」うんぬんをあれこれ話し合っている間に世界はそんなことを置き去りにしてきそうなのが怖いです。


■ どんな人にオススメ?

・日本はクールだと思っている人。


2014年3月21日 (金)

「科学技術大国」中国の真実

■ 書籍情報

「科学技術大国」中国の真実   【「科学技術大国」中国の真実】(#2309)

  伊佐 進一
  価格: ¥ (税込)
  講談社(2010/10/16)

 本書は、「中国の科学技術力というものを知ることによって、中国の将来を推し量」ろうとしたものです。
 序章では、中国の科学技術発展において、遅れた点と、世界の耳目を集める成果が共存する理由について、中国の「格差」の問題と「分野」の問題だと述べ、「中国の抱える二面性とは、日本の価値観から見た二面性であって、中国においては矛盾することなく共存するものである」としています。
 著者は、「中国の増大する人材と投資、そして産業化力という強みと、これまで日本が蓄積してきた科学技術力という強みを融合」させるべきだと述べています。
 第1章「あふれる中国人材」では、「現在見られる華僑、華人の大移動は、いわば、世界を舞台にした中国人材の大循環である。優秀な人材を世界に送り出し、海外の競争的な環境で鍛え、さらに力を付けさせた人材を本国に呼び戻す」と述べたうえで、人材送り出し政策と車の両輪のように実施されている、「海亀政策」と呼ばれる在外中国研究者の帰国優遇政策について、「海外からの帰国者への住居や保険、車の購入費用にいたるまでの経済的優遇措置だけではなく、都市戸籍を与えるといった思い切りのよい措置も含んでいる」としています。
 第2章「カネ余りの研究開発現場」では、中国の豊富な研究開発資金に言及したうえで、「資金を管理・運営する人材がこのペースで補強されているわけではなく、人材の育成と、新たな管理手法の導入が急がれている」と述べるとともに、基礎研究への投資比率が低いことを指摘し、「長期的な観点が必要な、特定の目的や成果の利用を意図しない基礎研究に対しては、圧倒的に投資が不足している」と述べています。
 第3章「宇宙開発大国・中国」では、「中国においては、リスクの高い野心的なプロジェクトを推進し、成功と失敗という両方の体験を蓄積できるが、日本では失敗が許容されにくく、リスクに対して及び腰になってしまうために、資金投入もしりつぼみになっていくという悪循環にある」と述べています。
 そして、中国の宇宙開発が、「国威を発揚するもの」であり、日本人以上に、「強い思い入れがある」としています。
 第4章「猛追する中国のライフサイエンス」では、「中国のライフサイエンスは、若い優秀な人材が集まる新しい研究所を設立し、手厚い補助や、研究所内の自由な雰囲気によって生まれるシナジー効果によって、数々の成果を生み出し始めている」と述べ、「人材、資金、情報、そしてフロンティアという4つの要素に引っ張られて、大きく発展を遂げようとしている」としています。
 第5章「中国の『ハイテク』企業事情」では、「中国企業の研究開発能力、技術力を考えるにあたり、中国の科学技術がたどってきた三段階の発展過程を知っておく必要がある」として、
(1)1980年代の科学技術の日社会主義化の時代
(2)1992年以降、基礎分野を中心に研究を進める公的研究機関や大学の成果を、いかに市場化、産業化し、市場経済の発展に生かしていくかについて模索し始め、研究所や大学の成果を利用した、研究所発、大学発のベンチャー企業の設立が加速化
(3)1998年以降、「科教興国」をスローガンとして、研究所や大学による研究成果を第三者である企業へと移転し、その企業が、市場化、実用化に向けた研究開発を引き継いで行っていくといった技術移転制度の整備
の3点を挙げています。
 そして、「中国の科学技術の発展段階においては、大学や政府系研究機関、国有企業など、すべてが政府の大きな傘の下に所属していたため、各技術がどの組織や個人に帰属しているかという意識が希薄であった。技術は高い自由度を持って機関間で移転されており、知的財産権が誰に所有されているかは重要ではなかった。中国において知的財産の概念の発展が遅れたのは、こうした歴史的経緯によるものである」としています。
 第6章「発展への阻害要因」では、「中国においては、政治的な判断が、科学的、客観的な分析よりも重大な意味を持つことがしばしばある」と述べるとともに、「学術や研究の世界における汚職と不正の横行」を阻害要因として挙げています。
 第7章「巨大市場を開拓せよ」では、「日中の協力といっても、日本と中国は標準に対する戦略が異なることを、まずは理解する必要がある」として、「日本はインターフェースなどといった周辺の技術を標準化したとしても、コア技術をブラックボックス化して残すという形態は崩すべきではない」と述べています。
 終章「科学技術の戦略的互恵関係」では、「大事なことは、たとえマネされ、あるいは盗まれる状況であったとしても、さらに一歩先の技術を生み出し続けるイノベーション能力を有しているかでどうかである」としています。
 本書は、科学技術大国としての中国の姿を予想した一冊です。


■ 個人的な視点から

 チャイナクオリティと揶揄されることも多い中国の科学技術ですが、いまや世界のIT機器を生産しているのはまさしく中国であるわけで、中国の科学技術といかに付き合っていくのかということは世界中が考えなければならない問題なのです。


■ どんな人にオススメ?

・中国は人件費が安いだけだと思っている人。


2014年3月 3日 (月)

ポラロイド伝説 無謀なほどの独創性で世界を魅了する

■ 書籍情報

ポラロイド伝説 無謀なほどの独創性で世界を魅了する   【ポラロイド伝説 無謀なほどの独創性で世界を魅了する】(#2294)

  クリストファー ボナノス (著), 千葉 敏生 (翻訳)
  価格: ¥1,890 (税込)
  実務教育出版(2013/8/28)

 本書は、「インスタント写真という分野をどこからともなく発明し、20億ドル規模のビジネスへと変え、業界を支配」し、「ほとんど最後の最後まで、ライバル企業を寄せつけず、その地位を脅かされることもなかった」ポラロイド社について、その誕生から破綻までを追ったものです。
 第1章「光とビジョン」では、「1940年代後半にインスタント写真を発売したポラロイド社は、後にシリコンバレ^でおなじみとなる道をたどった」として、「天才的な技術を持つ創業者が突拍子もないアイデアを思いつき、同じ志を持つ仲間を見つけ、アイデアを発展させる。驚くほど徹夜を繰り返し、製品そのものと同じくらい問題解決にも情熱を注ぐ。お次はベンチャーキャピタルと緻密なマーケティングだ。みんなが儲かる。でも、目的は設けじゃない。それからしばらくは、無限にも思える可能性が広がる。すると、MBAが土足で踏み込んできて、なにもかも台無しにしたりする。または、気づいた頃には、創業者たちは事業家としてにっちもさっちもいかなくなっている。そいて、物語はドサリと急に幕を下ろすのだ」と述べ、ポラロイド社がアップル・コンピュータと比較されるとして、「先見的でカリスマ性のある社内の天才発明家のもとで、規模や資産を急激に拡大していった」ポラロイドの伝説の中心には、エドウィン・ハーバート・ランドがいたと述べています。
 そして、「ランドは内向的な性格だったが、アイデアについては自信満々だったようだ」として、「彼は身だしなみに気を遣っていて、抜群に顔立ちがよく、ニューイングランド風の心地よいバリトンの声を持っていた。科学だけでなく、芸術、文学にも精通していた。彼は教養人で、歳を取るにつれて一層教養を深めていった。そして、彼の好奇心はポラロイド社の精神にまで浸透していった」と述べ、ランドが子供の頃、物理光学のテキストを手に入れ、特に偏光について夢中になり、1926年にハーバード大学に進学した1年後、「彼は堅苦しい授業と不真面目な旧友に耐え切れなくなり、一時的に休学すると、ニューヨークへ引っ越した。彼はそこで小さな部屋を借り、研究所へと変えた」として、「ランドの知的人生の最初の20年間を決定づけ、彼の会社やキャリアを築いたのは、写真というよりもむしろ偏光板だった。インスタント写真はその後で浮かんだアイデアだった」と述べています。
 第2章「開発」では、第二次世界大戦による軍需品の生産により、「戦争の前、ポラロイドは中小企業であり、唯一の安定した収入源はサングラス・ビジネスだった」が、「8年間で、年間売上高は76万1000ドルから1600万ドル以上へと成長」し、「会社は最高で1200人近い従業員を抱え、収入の87%を軍事契約に頼っていた」と述べたうえで、「本当の物語はここから始まる」として、ランドが「嘘みたいな実話」と呼んでいる、「みんなを惹きつけてやまないポラロイドの壮大な創設悲話」、すなわち、家族でサンタフェに休暇に出かけたランドが3歳の娘の写真をとったときに、「どうしてすぐに見れないの?」と訊かれた、という逸話を紹介しています。
 第3章「今すぐに見る」では、1947年の米国光学会の科学会議でランドがインスタント・カメラを公表した翌朝、「自分の顔を掲げるランドの写真がニューヨーク・タイムズ紙にでかでかと載り、好意的な社説が掲載された。国中の新聞がこの話を取り上げた。翌月曜日、この写真はライフ誌で『今週の一枚』に選ばれた」と述べています。
 第4章「スウィンガーに会おう」では、ポラロイドの職場環境について、「ポラロイドには使うお金が潤沢にあった。ランドの写真システムは技術的に特殊で、必要な特許はすべてがっちりと保護されていた」ために、「面白いことをする予算がタップリとあった」と述べ、ランドが「ひとりの男が2年間、じっと座って考えることが求められる環境を作った」と語っていることを紹介し、ある部門には「雑多研究(ミセレニア・リサーチ)」という正式名称がつき、「予算も決しておまけみたいなものではなかった」と述べています。
 そして、「やりがいのある労働生活を通じて人びとを一人前の人間にするという考え方は、ランドのキャリ全体で何度も現れている」と述べています。
 第6章「フェードイン、フェードアウト」では、1970年代後半、「世界的な技術の変遷が起こり始めていた」として、ベータマックスの記録先が磁気テープだったと述べ、「写真、映画、音楽、テキストがデータの列となり、紙の上にもアセテートの上にも物理的に存在しなくなるという考えに至るまでには、大きな飛躍が必要だった」としています。
 第7章「『私たちの知性』」では、「表面的に見ればポラロイドとイーストマン・コダックは市場シェアを巡って競争していたが、最初から双方に利益をもたらすかなり穏やかな戦いだった」とした上で、1968年に、ルイス・アイラースがコダックの新CEOに就任すると、「両者の話し合いは冷え切った」として、アイラースが、「自社の工場で敵同然の会社を支援する訳にはいかない」として、「コダックが独自のインスタント写真製品を販売することを認めない限り、ポラロイドに新しいフィルムのネガは供給しないと宣言」し、ポラロイドとの契約を打ち切り、1976年に4月にコダック独自のカメラ「EK4」「EK6」を発表したことについて、「6日後、弁護士たちが臨戦態勢に入った。ポラロイドは12件の特許を侵害しているとしてイーストマン・コダックを提訴した」と述べています。
 また、コダックが、ランドが若いころに法定で証言するのがイヤで特許訴訟は起こさなかったとする噂を聞きつけたのかもしれないと述べ、「もしそうだとしたら、コダックは彼を完全に誤解していた」として、ランドが、「私たちは誰からも盗んでいない。世界にずいぶんと貢献してきた。私たちが生き続けられるのは、ほかでもなく私たちの知性のおかげだ。私たちの知性が生き続けられるのは、他でもなく私たちの特許のおかげだ」とかたったとしています。
 そして、1986年の判決について、「大きな衝撃が待っていた」として、ポラロイドの特許のうち7件の侵害が認められ、コダックがインスタント・カメラとフィルムを販売することを一切禁じたと述べ、「ポラロイドの弁護団は、コダックの製品が差止められる可能性は低いと踏んでいた」が、以外なことに「本当に差止めが実現した」として、「このハンケtで、コダックには再設計する猶予も、解決策を考える猶予も与えられなかった。これほど巨大な事業が一人の裁判官の手で中止されるのは初めてだった」と述べています。
 さらに、1990年の判決でポラロイドが得た賠償額は9億945万7567ドルで、「この額は特許侵害の賠償額としては史上最大」であり、これ以降も「ひとつの特許をめぐる裁判官の命令で、これほど巨額の賠償金を支払ったものは、今持って存在しない」と述べています。
 第8章「闇へ」では、「衰退はほとんど気づかないうちに始まっていた」として、1978年に2万人いた従業員は1991年には約5千人で安定し、「このころ、約10億ドルに及ぶコダックの賠償金がポラロイドの銀行口座に振り込まれた」にもかかわらず、「10年後にポラロイドは破綻した」と述べ、デジタル・カメラは「明白な理由のひとつ」だが、「それは物語の最後の一片にすぎない」として、大きな論点となるのは、「ポロライドはエドウィン・ランドなしではやっていけなかったのか」ということだとしています。
 そして、「ランドが会社を離れた瞬間、研究所が暴走し始めたわけでもなければ、偉大なイノベーション・システムを弱らせる数字屋ばかりが幹部になったわけでもない。無能な人間もいかさま師もいなかった。20年かけてゆっくりと気球から空気が漏れだし、地上に落下した。気づいてみれば、だれも気球を再び浮かび上がらせる方法がわからなくなっていたのだ」と述べています。
 また、ポラロイドが、1980年代半ばには、「フィリップスとのジョイント・ベンチャーで、1.2メガピクセルの画像を生成できるデジタル・センサーを製造する寸前まで行き、それを実現するデータ圧縮アルゴリズムも抱えていた」として、「ポラロイドはまたもや消費者の度肝を抜くものを生み出していた」にも関わらず、「デジタルに移行すれば、会社のその他のすべての技術が時代遅れになるそれがみんなを怖気づかせた」と述べています。
 さらに、「全員が見落としていたのは、デジタル革命が写真の性質そのものを変えつつあるという点だった」として、「写真の誕生以来、写真はずっと物理的なものだった」ゆえに、ポラロイドが「すべての道はプリントに通ず」というモットーに従っていたと述べています。
 本書は、世界を熱狂させたシステムの誕生から破滅までを描いた一冊です。

■ 個人的な視点から

 ポラロイドといえば世界中でインスタント写真の代名詞なわけですが、デジカメの普及以来見かけなくなりました。日本国内に関しては、ポラロイドの立ち位置に取って代わったのは「写メ」なんじゃないかと思います。記念の写真を焼き増しして配ることも減りましたよね。
 そう言えば「焼き増し」のことを「焼き回し」って言う人が結構な割合でいるんですが、あれって写真をみんなに回すからなんでしょうか?


■ どんな人にオススメ?

・チェキって懐かしい人。


2014年2月 8日 (土)

図説 日本のメディア

■ 書籍情報

図説 日本のメディア   【図説 日本のメディア】(#2274)

  藤竹 暁
  価格: ¥1260 (税込)
  NHK出版(2012/9/26)

 本書は、「日本のメディアの現状を把握する上で必要な問題点を、第2次世界大戦後67年にわたる変化を視野に入れて、数量的データによってきちんと説明し、読者に日本のメディアを考える材料を提供」しようとするなどのものです。
 著者は、「マスメディアに依存しているだけでは、正しい情報を、適切な形で入手することは難しい」として、「人間が自由に生きていゆくためには、必要な情報を適切に処理し、多角的な視点で判断しなければならない」と述べています。
 第1章「新聞」では、大阪で誕生した「朝日新聞」と「毎日新聞」が、在京の新聞が深刻な被害を被った「関東大震災をきっかけに全国紙の地位を確立した」と述べた上で、「明治から昭和初期にかけては大小の新聞が林立し、37年末時点の日刊紙発行社は全国で1208社あった。それが、太平洋戦争下の1942年に、情報統制と資材の節減を目的に、新聞事業令による新聞統合が実施され、新聞社数は全国紙を1県1紙の計55社に減った」として、「現在の全国紙5紙と地方紙の1県1紙という全国地図は、歴史的には、関東大震災と太平洋戦争が契機となって形作られた」と述べています。
 そして、「日本の新聞は戦後長い間、1世帯あたりの発行部数が1部以上という高い普及率を誇ってきた。新聞の宅配によるところが大きいが、この数字も下落に歯止めがかからない」と述べています。
 第2章「放送」では、「現在、民放のネットワークは主に在京社をキー・ステーションとしてテレビ、ラジオとも5系列存在する」とした上で、「テレビにはこれ以外に3大広域圏内の圏域テレビで組織する『全国独立放送協議会』がある」としています。
 第3章「出版」では、「寡占状態にある販売会社のプラス面」として、トーハン・日販に委託すれば、「出版物が全国に配送される」ことを挙げた上で、「販売会社は出版社から委託された出版物を配送するが、出版物の特性である多品種少量生産品で扱い量が膨大であるため、出版物の配送が適時、適正、適量で書店に回らない」という「配本の偏在」の問題を指摘しています。
 第4章「映像・音楽」では、「音楽産業は、主要な収入源だったCDなどのパッケージの売上低下に伴い、新な収益構造を持つビジネスモデルの構築を迫られている」として、「水平的分業の下、異なる業種の企業がそれぞれ分担していた昨日を、今日では、一つの企業が自社内で完結させようとする試みが顕在化している。実際、レコード会社がアーティストのすべての活動に関与し、ライブコンサートや出版、関連グッズ販売など、多角的にビジネスを展開すべく、アーティストと包括的な『360度契約』を結ぶビジネスモデルが注目を集めつつある」と述べています。
 第5章「インターネット」では、「SNSやTwitterなどは日常的なコミュニケーション手段としても利用価値が高いが、緊急時の連絡手段としても有効であることが東日本大震災の際に明らかになった」と述べています。
 第6章「広告」では、「ネット広告が存在感を増すにつれ、『数字』がより厳しく問われるようになってきた。特に、制作費がかかるテレビや新聞は関係者が多く、独創的なアイデアは支持されにくい」と述べています。
 また、「マスコミ広告への依存に危機感をもたらした」インターネット広告、モバイル広告について、「総合広告会社も新しいメディアの登場に注目したが、マスコミ広告と比べて多種多様なため、取り扱いの効率の悪さから、メディアレップ(2次代理店)という業態の広告営業が医者を介して広告の買い付けを行なっているのが現状である」と述べています。
 第7章「情報の取得・利用」では、「テレビは、接している人の多さ(約90%)とその接している人の時間(行為者平均時間)の長さ(4時間近い)の両面で、他のメディアを圧倒している」とした上で、「1995年から2010年の変化を見ると、最も目立つのは、新聞の行為者率の現象とインターネットの行為者率の増加である」と述べています。
 本書は、日本のメディアの現状を包括的に知ることができる一冊です。

■ 個人的な視点から

 ジリ貧オワコンと言われて久しいマスメディアではありますが、外国と比較すると、これほど多くの人が宅配で新聞を読んでいる国は少ない(多くは新聞配達所で捨てられているとしても)上に、国民の何割もがテレビを見ている国は少ない(「世帯視聴率」であって家族全員がテレビの前に陣取っているわけではないにしても)わけであります。
 これからもマスメディアは日本の報道の中心を担っていくのは間違いないと考えてよいでしょう。


■ どんな人にオススメ?

・いまどきマスメディアなんて信用するまともな人はいないと思っている人。


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