著作権

2016年7月21日 (木)

日本の著作権はなぜもっと厳しくなるのか

■ 書籍情報

日本の著作権はなぜもっと厳しくなるのか   【日本の著作権はなぜもっと厳しくなるのか】(#2545)

  山田 奨治
  価格: ¥1,944 (税込)
  人文書院(2016/4/19)

 本書は、「当初は個人的なものや家庭内での複製が広く許される、おおらかさのある条文だった」著作権法第30条に「つぎつぎと文言が付け加えられ、個人的なものや家庭内での複製であっても許されない場合や条件が増えていった」ことについて、「こうした法改正を、いたい誰がどのようにして進めているのだろうか? そのプロセスは本当に民主的といえるものなのだろうか? 誰かがどこかで話し合って著作権法を変えていることに関心を持たず、国民は法改正の結果をただ受け取るだけでよいのだろうか?」という問題意識にもとづいて2011年に書かれた著者の前著『日本の著作権法はなぜこんなに厳しいのか』以降のできごととして、「立法に携わる国会議員の言動、彼らを動かした人々のこと、そして自国のグローバル企業の利益のために働く米国政府の意向に焦点を当て」て書かれたものです。
 第1章「米国からの注文書」では、著作権法の改正には、「米国政府からの要望も影響を与えているのだ」とした上で、違法ダウンロード違法化・刑事罰化について、「本来ならば専門家を交えた議論を経て著作権法改正で望むべきことを、業界団体のロビイングによる議員立法で著作権法を上書きする法律を別に用意し、それをスピード成立させた手法には問題がある」と述べています。
 そして、「米国のようなフェアユースの法理を持たない日本では、保護期間延長、非親告罪化、法定損害賠償のいずれも、過去の作品の再利用、デジタル・アーカイビング、コンテンツの二次利用のあり方に大きな影響を及ぼす可能性がある」と述べています。
 第2章「米国を夢みた残がい」では、「米国は日本の著作権法を自国基準のものに作り変えようとしてきた」が、「そんな米国が絶対に輸出しようとしない規定がフェアユースだ。ハリウッドの権利者にとってフェアユースは『目の上のたんこぶ』であり、米国のITCHING企業にとっては先進的なコンテンツ・ビジネスに挑戦できる拠り所になっている。だから、どちらの勢力もフェアユースを海外に広げがらないのだろう」と述べています。
 第3章「ロビイングのままに」では、「現時点での違法ダウンロードの概念には、2つのポイントがある」として、
(1)対象が音楽と動画に限られること。
(2)そのダウンロードは違法にアップロードされたものと知りながら行われていなければならない。
の2点を挙げています。
 そして、「音楽の違法ファイルのダウンロードによる実際の被害額は、6683億円の数十分の1くらいと見るのが妥当だろう」と述べています。
 第4章「秘密交渉の惨敗」では、「偽造品の取引の防止に関する協定」(ACTA(Anti-Counterfeiting Trade Agreement アクタ)に関して、「個別の外交交渉によって著作権法が変えられていく実態」について述べるとしています。
 そして、「TPPがあるので、米国は明らかにACTAへの関心を失っている。TPPはACTAよりも高いレベルで知財を保護するからだ」と述べています。
 第5章「秘密交渉リターンズ」では、「著作権のような一国の文化のあり方と深く関わる決め事を、貿易自由化の文脈で、極意一握りの政治家と官僚が秘密裏に交渉することには強い違和感がある。しかも著作権がらみで大筋合意された保護期間延長、非親告罪化、法定損害賠償制度の『三点セット』は、ここ十年余りの国内議論でいずれも導入を否定、ないしは見送ってきたことばかりだ。それを秘密交渉で外国、すなわち米国に約束し、国内法を強引に変えるやり方は、民主的でないと断じざるを得ない」と述べています。
 そして、「FTAの発想は、『強い文化』を持つ国の経済活動にとって有利な方向に、他国の文化活動のルールを変えさせることにある。いわば、文化を経済に従属させる、おかしな発想だ」と述べています。
 附章「ネット権力の『法』」では、「ネットの調査力は、たしかにすごい」が、「もはや強大な権力と化したネット世論が、米国の西部開拓時代さながらに、かれらの『法』を苛烈に執行する現実を感化していて良いのだろうか」と述べています。
 本書は、日本の著作権を誰が変えようとしているかを示した一冊です。


■ 個人的な視点から

 著作権については、かなり無神経な扱われ方をしている一方で、根拠もなく著作権みたいなものを主張しているケースも多く、坂本龍馬の写真だとかトラブルになると面倒だからということで主張が通ってしまうという傾向があるのは問題ではないかと思うのです。


■ どんな人にオススメ?

・著作権は怖いと思う人。


2014年6月 5日 (木)

著作権法がソーシャルメディアを殺す

■ 書籍情報

著作権法がソーシャルメディアを殺す   【著作権法がソーシャルメディアを殺す】(#2328)

  城所岩生
  価格: ¥821 (税込)
  PHP研究所(2013/11/16)

 本書は、「既得権大国の日本」において、「著作権者が著作権法を使って、既存のビジネスモデルを死守しようとしている」として、「現在の著作権法は、新たなビジネスモデルを滄州し、経済社会を発展させるイノベーションとは相容れない性格を持っている」ことを指摘するものです。
 第1章「世界の潮流に逆行する日本の著作権法」では、「ユーザーは著作物の利用主体として、本来、著作権法の目的である文化の発展に寄与する存在であるはずだが、これまで蚊帳の外に置かれてきた」として、違法ダウンロードの刑事罰化について、「ユーザー作成コンテンツがソーシャルメディアを介して流通する時代を迎え、ユーザーのコンテンツ制作力をこれまで以上に重視すべき」「であるとする「ユーザーの権利を尊重する世界の潮流に逆行するもの」だとしています。
 第2章「著作権者の保護に躍起になる人たち」では、「日本版フェアユースが失速した理由は、議員立法ではない通常の内閣提出法案の制定過程にある」として、法改正が、「文化審議会の著作権分科会の答申に基づいて行われる」ことについて、役所が審議会を権利者寄りの「自らの主張を正当化する『隠れ蓑』」にしていると指摘しています。
 第3章「日本発・新サービスはこうして葬られた!」では、アメリカ最高裁が、ソニーのベータマックスに対する訴訟において、「タイムシフティング」であり、フェアユースに当たると判断したことが、「その後、新技術や新サービスに対して、裁判所が好意的な判決を下す先駆けとなった」とする一方で、日本においては、カラオケ店店主の著作権侵害責任を認めた「クラブ・キャッツアイ判決」において、「客に歌唱させているにすぎない店主」に、
(1)客の歌唱を管理している。
(2)営業上の利益増大を意図している。
を条件に、「演奏(歌唱)の主体であるとして侵害責任を負わせた」とする「カラオケ法理」あるいは「利用主体拡張法理」が「新サービスを提供するインターネット関連サービス事業者にも広くて起用されるようになった」ため、「日本では、場を提供しているにすぎないプロバイダを侵害の主体として捉えるカラオケ法理が適用され」てしまうことを指摘しています。
 第4章「日本発・画期的発明はこうして葬られた!」では、「日本では、インターネットというたった一つの技術革新に著作権法が適用できていない」理由として、「複製を前提とするインターネットで複製禁止の原則を貫き通そうとしているところにある」と指摘しています。
 第5章「デジタルネット時代に取り残されるテレビ局」では、「キー局が番組をインターネットで配信し、だれでも視聴できるようになれば、住民は地元放送局の番組を視聴しなくなるおそれが出てくる。視聴者の減少は広告料収入の減少につながり、地方局の経営を圧迫するという懸念」があるとして、「県域免許制度にしがみつく地方局を守るためにネット配信が滞り、利用者がその恩恵に与れないというのは、なんともおかしな話である」と指摘しています。
 そして、アマゾンやグーグルが、「ユーザーがすでに保有している楽曲をクラウドに預けるだけのサービスなので、新たにライセンス契約を結ぶ必要はない」として、音楽クラウドサービスを提供した理由として、「ユーザーごとに割り当てられたケーブルビジョンのハードディスクに、ユーザーの支持に従って番組を録画するのだから著作権を侵害しない」との主張が認められたケーブルビジョン判決があるとしています。
 第7章「いまこそ著作権法改革を急ごう!」では、「TPPは、アメリカン・スタンダートの押し付けだという批判があるが、著作権に関してはアメリカン・スタンダードではない」理由として、「知的財産が重要な輸出品目であるアメリカとしては、他国には知的財産権を強化してほしい」ため、アメリカはフェアユース規定を他国に導入しろと要求していないと述べています。
 本書は、時代に追いつけない著作権法の課題を指摘した一冊です。


■ 個人的な視点から

 日本の著作権法の一番の問題点は、著作権ビジネスの既得権を持っている人だけが著作権法の中身を決めている点にあるということです。まあ何事もお金を持っている人にはかなわないということでしょうか。


■ どんな人にオススメ?

・日本の著作権のどこがおかしいのかを知りたい人。


2014年3月18日 (火)

剽窃の文学史―オリジナリティの近代

■ 書籍情報

剽窃の文学史―オリジナリティの近代   【剽窃の文学史―オリジナリティの近代】(#2306)

  甘露 純規
  価格: ¥3780 (税込)
  森話社(2011/12)

 本書は、明治時代に起きた剽窃事件を題材に、「昔の人びとが剽窃やテクストの差異をどのように考えていたのかを明らかにする」ことを目的としたものです。
 著者は、「明治以前、うまい文章を書くとは他人の文章を自分の文章にたくみに取り込むことであった。そして、他作がたくみに利用されていれば、名文の賞賛を受けることができた」としたうえで、絵「明治より以前の人々は、他人の語句・文章を自作に積極的に利用した。が、『何でもアリ』と考えていたのではなく、その利用については、現代とは異なるルールを持っていた」と述べています。
 第1章「仮名垣魯文剽窃訴訟事件」では、明治8年に仮名垣魯文と永峰秀樹の間に生じた剽窃訴訟事件について、「現段階の調査では、文学者が絡んだ明治の剽窃訴訟事件の中で、もっとも早い例」として取り上げ、「江戸時代では、出版された書物を管理・専売する権利=板株は、書物を著した作者ではなく、版木を彫るなど、出版に必要な経費を負担したことから本屋が持っていた。多くの場合、作者は本屋から僅かな潤筆料を受け取ったあとでは、出版された書物について何ら権利を持たなかったようだ」と述べたうえで、永峰が版権思想に基づき、「借用による類版を、自己の文章=所有物を無断で借用したものであるがゆえに、自己の所有物を奪い不正に名誉を獲得する違法行為として訴え」、剽窃を容易に連想させる「文白波」というフレーズを用いたと述べています。
 そして、「江戸の読書には、読むことと記憶し学ぶことの間に書き抜くという行為が取り入れられていた」として、「江戸の読書人にとって抄録とは、書物を読む際に、その文章を書き写すことでその文章を記憶する行為、テクストの享受と再生産が一体になった行為だったと言える」と述べ、「魯文は『現今支那事情』作成を読書の際に後進の教育のために行った抄録として語ることで、自分の行為を『文白波』と非難する永峰に対して、その行為を江戸時代から行われてきた一つの行為、書物の享受と再生産が一体となった行為として正当化しようとしていた」としています。
 また、「弁解するにあたって問題の文章の価値を否定してみせる魯文は、漢学の作文法に由来する剽窃についての考え方――剽窃観を持っていたと思われる」として、「この作文法にあって剽窃とは、尊敬に値する優れた文章にこそ行われるものだったからだ」と述べ、「このようなろ分の剽窃観は、版権思想に基づく永峰や福沢の剽窃感とは大きく異なるものだった」としています。
 著者は、「魯文の目からすれば、この事件は、永峰が訴えるような、『文白波』という違法行為をめぐる永峯対魯文という作者同士の争いではなく、本屋仲間内で解決可能な、借用による類版をめぐる山城屋対和泉屋という本屋同士の争いという他になかったのだと言える」と述べています。
 第2章「模倣と剽窃の間」では、「種本からの無断借用は、新聞紙の投稿欄という『文壇』に参加し続けようとする限り、ベテラン・新人の区別なく巻き込まれてしまう必要悪であった。そしてこの必要悪は、無断借用から剽窃へとつながっていく枕水漁史の行為が示すように、剽窃を生み出す温床にもなった」と述べたうえで、「この時期の剽窃は、倫理的に問題のある振る舞いとして、技巧的な拙さを批判されることはあっても、現代のように権利の侵害と批判されることはなかった」として、このような考えの土台には、「模倣を作文練習の基本に置く漢学の作文法」を挙げています。
 第3章「明治一〇年代の無断転載」では、「明治初期の新聞では手紙の転載の他に他紙からの記事の転載も情報提供の手段の一つとしてあった」として、このような新聞・雑誌・小冊子を、
(1)新聞の雑報を識字能力の低い人々のためにふりがなつき・挿絵付きで転載した、整版(木版)印刷による小冊子
(2)複数の新聞の論説・雑報・続き物を転載した活版印刷による新聞・雑誌
(3)時間の経過とともに散逸しやすいという、新聞というメディアがもつ短所に関係して、保存に便利なようにテクストを転載した小冊子や雑誌
の3つのタイプに大別しています。
 第4章「饗庭篁村と内田魯庵」では、「篁村は、其磧の文体を模倣しながら、地口や縁語などの言葉遊びを強調する、あるいは其磧の文意を言葉遊びと使って表現するという形で、『当世商人気質』の文体を生み出した。このような篁村の執筆姿勢からは、江戸時代から続く旧来の文学観が見て取れる」と述べています。
 そして、「明治10年代に江戸時代の読本や草双紙の翻刻出版が盛んになった理由」として、「活字印刷技術の発達による情報量の増大と、出版して売るテクストの不足が考えられる」と述べ、また、新聞や雑誌に連載された続き物について、「明治10年代の出版条例では、こうした続き物には版権が認められず、他人の続き物を無断翻刻しても訴えられる心配はなかった」としています。
 著者は、「近松や馬琴の文体の模倣に熱心に取り組む二葉亭四迷や饗庭篁村の姿は、漢学由来の文学観が明治20年代にあって依然として強い力を持っていたことを教えてくれる」が、「福沢諭吉らにより移入されたイギリスの版権思想は、剽窃に対する考え方を変えるものだった」と述べています。
 第5章「博文堂と偽版」では、「明治20年前後の出版会において、博文堂田原庄左エ門ほど偽版に悩まされた本屋はないだろう」としたうえで、「博文堂は自社出版物のオリジナリティを守るために積極的に働いた」ように見えるが、「事態はそう単純ではない」と述べています。
 そして、「戯作でストーリーやプロットを作る際には、『趣向』が重視される。『趣向』とは、人々によって既知の物語に新たな膨らみを持たせることを狙って物語に仕掛けられるものである」と述べ、「こうした趣向は戯作にとどまらず、江戸時代の人々の最大の娯楽である歌舞伎でも頻繁に用いられ、趣向を仕掛ける有名な歌舞伎や浄瑠璃を『世界』と呼んだ。つまり、趣向とは、読者にとって既に馴染みのある物語の場面や登場人物に新たな膨らみを持たせるために、その場面や登場人物に新たな設定を加える事であり、それは既知のストーリーやプロットに対して、多彩なプロットの展開・表現上の諸効果を生むもんだった。加えてそれは、技芸的な巧みさを目指すものであって、美的な調和を目指すものではない」と述べています。
 第6章「東海散士『佳人之奇遇』偽版訴訟事件」では、「明治20年代の偽版訴訟は本屋の利害関係に大きく影響された。同じようなテクストで模擬版として訴えられるものもあれば、作者が騒いでも黙認されるものもあった」としたうえで、「このような偽版訴訟の場で用いられたのが、テクスト全体の内容にオリジナリティを求める美学的な思考だった」と述べています。
 そして、服部撫松が土田泰蔵の名義で著した『通俗佳人之奇遇』について、「『佳人之奇遇』のストーリーや場面・当時人物の設定に趣向を仕掛け、新たなプロットを生み出している」としたうえで、「撫松は趣向により新たなプロットを生み出すだけでなく、『佳人之奇遇』の政治的なテーマも作り替えている」と述べ、散士の眼には、「『通俗佳人之奇遇』は『佳人之奇遇』の名前を冠しながら、趣向を使って自らの物語を二本松藩士のそれに書き換えるだけでなく、政治的な主張をも書き換えてしまう、非常に悪質なものとして写ったに違いない。これが散士が『通俗佳人之奇遇』を自作の通俗本として受け入れることができなかった理由だと考える。政治思想の宣伝を考える作者にとって、自作をこうした形で乗っ取る趣向は、さながらガン細胞のように見えたことだろう」と述べています。
 また、小説の意匠について、徳富蘇峰が、「山・川などの場面や英雄・盗賊などの登場人物を取り合わせ、互いに関係づけて配置すること、こうしたテクストの内容を支えるために、字法・句法・部法などの表現上のテクニックを活用すること」を求めているとして、「小説の意匠とはテクストの内容と形式を貫く、各要素の有機的な結びつきを重視する構想上の工夫であったといえよう」と述べています。
 そして、「文体が異なっていても、全体を通して類似の語句が見つかり、それらが形作る関係が似ていれば、全体の内容が類似した義版と言える」として、「折しも時代は、趣向の工夫に腐心し続けた戯作的な思考の衰退期を、またそれと同時に、新しい文学的思考の創出機を迎えていた。このような時代状況の中で起こったこの訴訟事件は、文学的な思考の転換を表す、きわめて象徴的な事件だった」と述べています。
 第8章「模倣と剽窃の区別」では、幸田露伴の弟子と考えられる新人小説家・藤本夕ひょう(風に炎)の「心中皐月雨」に対する斎藤緑雨の批判について、「緑雨にとって剽窃と模倣は区別されるべきものだが、夕ひょうにしてみれば剽窃と模倣はあくまでも連続したものだったのだろう」として、「緑雨は、模倣と剽窃に共有と専有の区別を対応させ、夕ひょうの行為を専有を侵犯する行為として非難した。この非難を受けて、夕ひょうは一葉の専有とされた表現の中に、一般に流通する語句、共有の要素があると主張する」と述べています。
 そして、明治32年が、「日本にとって大きな節目の年だった」として、ベルヌ条約への加盟にともなって公布された著作権法について、「この著作権法は、それまでの剽窃の位置づけを大きく変えるものだった」と述べています。
 また、「内容・文体と表現の、そして剽窃と模倣の、観念的な区別はトラブルを引き起こしやすい。実態に則した明確な線引ができない以上、ある人間が内容・文体の模倣として許容されると考えても、別の人間から見れば表現の氷雪に見えることが十分ありうるからだ」と述べたうえで、緑雨と夕ひょうの議論が、「この時代に進行した3つの事態を明らかにして」いるとして、
(1)「うもれ木」の評価の変化に見られるように、意匠を重視する思考の広まりにより、先行テクストの場面・登場人物の設定などの内容の模倣が、その価値を否定されるという事態。
(2)文体に個性を見る新たな文体観の広まりにより、先人の文体の模倣が価値を否定され、個性的な文体の獲得が作者に求められるようにあるという事態。
(3)こうした模倣の価値の下落に伴い、模倣と剽窃がそれぞれ許容できるものと違法なものとに割り振られ、両者の連続性が断ち切られるという事態。
の3点を挙げています。
 第9章「翻訳と翻案の区別」では、「明治初期からの版権思想と出版制度は、原作者に無断の翻訳書にも版権を認め、これを保護することで、欧米からの知識の導入を積極的に促すものであり続けた」として、明治20年に公布された版権条例について、「無断翻訳の出版を禁止するものではなく、これまでの出版条例を同様に、積極的に無断翻訳を促す法制度であった」とともに、「ベルヌ条約では翻案は翻訳と区別されていたが、この版権条例ではそれまでの出版条例と同様、翻案については何ら記していない」と指摘しています。
 そして、「当初、翻案は積極的に評価されていた」が、「他国の文学の本格的な研究が求められるようになると、原作との関係を巡って翻案は厳しい非難にさらされるようになる」と述べています。
 著者は、ベルヌ条約加盟に対して、翻案が抜け穴となることができた理由として、
(1)翻訳と翻案が明確に区別されていたこと。
(2)翻案は創作へとつながるもの、つまり「不法複製」ではなく「新著作物」として許容される可能性を持っていたこと。
の2点を挙げています。
 補論「『チーズはどこへ消えた?』盗作訴訟事件」では、「物語の筋立てなどを『表現形式上の本質的な特徴』とする」主張について、「明治時代の意匠を重視する思考を見て取ることができる」と述べ、「趣向と意匠、結局勝利をおさめたのは意匠だった。その後、意匠を重視する思考は、テクストの際についてのルールを形作ることになる」としています。
 本書は、現代に通底する日本の著作権思想の出発点を探った一冊です。


■ 個人的な視点から

 現代においても「盗作」や「パクリ」といった争いは絶えないわけですが、時代時代によって考え方は全く違ったものであり、特に江戸時代以前の「趣向」の考え方は、今の時代にこそ体系的に受け入れられるべきだと考えます。


■ どんな人にオススメ?

・先人に頼らずに「オリジナル」な文化が作れると思っている人。


2014年2月14日 (金)

日本の著作権はなぜこんなに厳しいのか

■ 書籍情報

日本の著作権はなぜこんなに厳しいのか   【日本の著作権はなぜこんなに厳しいのか】(#2279)

  山田 奨治
  価格: ¥2520 (税込)
  人文書院(2011/9/15)

 本書は、「著作権とはそれによって利益を得たい権利者や権利の管理者、法律家や文化庁の官僚だけが制定や改正にかかわることで、著作物のユーザーである大部分の国民は、彼らが決めたことにしたがうだけの存在だと思われている」ことに疑義を唱え、法律改正のプロセスに市民が積極的にかかわることの必要性を訴えるものです。
 第1章「パクリはミカエルの天秤を傾けるか?」では、日本の著作権業界を支配する傾向として、
(1)被害の過大な見積もり
(2)強い保護だけ横並び
の2点を指摘しています。
 第2章「それは権利の侵害です!?」では、日本の映画盗撮防止法の罰則が、海外の同種の法律と比べて際立って厳格であるとして、アメリカでは「初犯で最高3年、再販で最高6年の懲役刑」、香港では「諸藩で最高5000香港ドル(約5万円)の罰金、再販で5万香港ドルの罰金または3ヶ月以下の禁錮刑」であるのに対し、日本では初犯でいきなり「十年以下の懲役もしくは千万円以下の罰金に処し、又はこれを併科する」となっていることを指摘しています。
 また、著作権法の目的は、「文化の発展に寄与すること」であるにもかかわらず、「必ずしもこの目的にそぐわないような使い道」もあるとして、
(1)権利者の意に反する言論をけん制するため
(2)他の法律では対応できない犯罪的な行為を取り締まるため
の2点を指摘しています。
 第3章「法律を変えるひとびと」では、文化庁の文化審議会著作権分科会について、
(1)著作権分科会の委員が特定の団体の「充て職」でよいのか。
(2)おなじ人間が長期にわたって委員の座を占めていることは公正か。
の2点を問題視しています。
 第4章「ダウンロード違法化はどのようにして決まったのか」では、私的録音録画補償金に関して、「記憶にとどめておいていただきたいこと」として、
(1)「私的使用のための複製」は利用者の権利であって、利用者は権利者の「お目こぼし」にあずかっているのではない。
(2)補償金制度はデジタル時代に対応するために、現行著作権法が施行されたから31年後に追加された制度であって、「私的使用のための複製」と補償金は一対のものではない。
(3)「私的使用のための複製」からはずされたことは、家庭内での行為であっても違法になる。もちろん、「私的使用のための複製」に当たらない違法行為は、補償金の対象にはらなない。
の3点を挙げています。
 そして、「私的録音録画補償金制度の抜本的な見直しが、利害関係者の対立によって潰されてゆく中で、ダウンロード違法化が『鬼子』として産み落とされた経緯」を述べたうえで、「ここからみえてくることは、著作権法改正の方向性は、公平中立な委員たちによって決められているのでも、各界からバランスよく委員が選ばれた委員会で議論されているのでもないということだ」と指摘しています。
 第5章「海外の海賊版ソフトを考える」では、「海賊版VCDやDVDによって日本の大衆文化に触れる機会は、2000年代なかばには明らかに減少に転じていた」として、
(1)日本政府からの働きかけによる取り締まりが強くなったこと。
(2)アジアの市民が日本の映像文化に触れる手段が、インターネットからのファイル・ダウンロードへと代わったこと。
の2点を理由として挙げています。
 また、海賊版の判断基準として、
・ディスク上のコードが故意に消されているもの
・発行元の記載がないもの
・テレビからの録画や映画館での盗撮とわかるもの
のいずれかかに引っかかるものであると述べています。
 そして、「海賊版の流通がディスクからネットへと代わったことにより、より多くの映像がより早く広がり、過去の作品もよりかんたんに入手できるようになった」ことで、「海賊版の世界でも日本のコンテンツが他国との競争にさらされるようになっている」と述べ、権利者側も「ファン活動を違法なものとして抑えこむのではなく、逆にその流通力を宣伝の一形態として活用する工夫」が必要だと述べています。
 第6章「著作権秩序はどう構築されるべきか」では、この本の論点として、
(1)じゅうぶんな議論を経ないで法律が作られたり変えられたりすることに、わたしたちはもっと注意を払うべきだ。
(2)海賊版は権利者に経済的な損失を与えるだけのものではなく、文化を異国に伝える強力なインフラとして作用し、時にはその市場創造力によって長期的には権利者に利益をもたらすことも否定しきれない。
(3)知財保護の推進者達は秘密の外交交渉に議論の場を移す戦略を取り始めている。
の3点を挙げています。
 本書は、著作権法が「著作権業界」の関係者のみで決められている実態を鋭く衝いた一冊です。

■ 個人的な視点から

 著作権に関するルールを決めているのが、著作権者側の人間と官僚だというのはなんとも寂しいものです。


■ どんな人にオススメ?

・著作権に関するルールの決め方を知らない人。


2014年2月 5日 (水)

著作権法概説

■ 書籍情報

著作権法概説   【著作権法概説】(#2271)

  半田 正夫
  価格: ¥3990 (税込)
  法学書院第15版 (2013/02)

 本書は、「著作権法の内容を体系的かつ平易に叙述することを目的として著した」ものです。
 第1章「序説」では、「独仏法では両国間で権利構成上多少の相違はあれ、いずれも著作者人格権を著作権概念に包摂してとらえ、著作権が財産権的性質のみを有するものではないことを明らかにしているのに対し、英米法ではこれを著作権概念から除外し、いぜんとして著作権の財産権性を固持している」と述べています。
 また、万国著作権条約について、1989年にアメリカ合衆国がベルヌ条約に加盟したために「この条約の比重は相対的に低下している」とした上で、「本条約は、すべての複製物に(c)表示を付することにより、方式主義国の要件を満たしたものとして扱うことを定め(同条約3条)、方式主義国と無方式主義国それぞれの体制を維持しながら、手続きを簡略にすることによって両者間の架橋を図ったもの」だと述べ、「(c)表示とは、(c)の記号(Copyrightの略符である)、著作権を有する者の氏名及び最初の発行の年の3要素からなって」いると述べています。
 第3章「著作権の主体および客体」では、キャラクターについて、「キャラクター自体は、漫画や小説などの具体的表現から昇華した登場人物の人格ともいうべき抽象的概念であって、具体的表現ではないことから、思想または感情を創作的に表現したものと見ることはできない」と述べています。
 第4章「著作者の権利」では、「著作権法は、改作利用券について、『著作者は、その著作物を翻訳し、編曲し、若しくは変形し、又は脚色し、映画化し、その他翻案する権利を専有する』(27条)という表現」により、
(1)翻訳権
(2)編曲権
(3)変形権
(4)脚色権
(5)映画化権
(6)翻案権
などについて承認していると述べています。
 第5章「著作権の制限」では、平成24年の法改正により、
・付随対象著作物の利用(30条の2):写真の撮影、録音・録画の方法によって著作物を創作する際に、著作者外としなくてもその作品の中に他人の著作物が付随的に取り込まれてしまう場合(映り込み)
・検討の糧における利用(30条の3):適法な著作物の利用を達せしようとする過程において必要と認められる著作物の利用
などについて、使用できるようになったと解説しています。
 本書は、日本の著作権法について、一冊でできるかぎりわかりやすく解説した一冊です。

■ 個人的な視点から

 日本の著作権法については、厳しすぎるという意見もありますが、実情を考えると建前上は厳しいザル法っていうのも恣意的な運用をされそうで怖いものです。


■ どんな人にオススメ?

・著作権の仕組みを知りたい人。


2013年8月 8日 (木)

映像の著作権

■ 書籍情報

映像の著作権   【映像の著作権】(#2196)

  二瓶和紀, 宮田ただし
  価格: ¥2940 (税込)
  太田出版(2012/6/30)

 本書は、「現在の映像をめぐる諸問題」への関心をもってもらうとともに、「現在の法制の基礎となった事情」を解説したものです。
 第3章「映画の著作権の基本のQ&A」では、「過去においては多くの脚本家が映画製作者との関係で、専属契約者として映画会社に従属して仕事をしていたために、脚本家はその地位を高め、権利の確立といった観点から、著作権法改正時には、映画とは独立した著作者として扱われることを強く望んで」いたが、我が国においては、「小説の著作者のように映画の原著作物の著作者として取り扱われること」となったと述べています。
 また、「映画の原著作物である脚本や原作の著作者、映画に複製されている音楽等の著作者」を「クラシカルオーサー」と呼び、「映画の監督や著作権法でいう映画の著作者と目される著作者」を「モダンオーサー」と呼ぶと述べています。
 さらに、「著作者人格権の不行使特約」について、「著作者人格権は譲渡や放棄することができない個々の人格に属するもので、このような契約は無効であるという説がある一方で、現代の著作物の商品的流通を円滑ならしめる社会的要請から、必ずしもこの契約条項は無効ではないとする説」もあるとした上で、「意に反した改変になるかもしれないが、著作物の性質並びにその利用の目的及び態様に照らしやむを得ないと認められる改変」と客観的に判断可能な場合においては「人格権に基づく意義を申し立てないという」限度で、その有効性を認めてはどうかと述べています。
 そして、「ワンチャンス主義」について、「テレビ放送用映画に出演した実演家(俳優等)に対して、当該映画が本来の使用目的である放送終了後、多方面、例えば、DVDに複製され販売されても映画出演を承諾した以上は報酬、あるいは実演に対する対価を支払わなくてよいかという意味」であると述べています。
 本書は、映像の著作権処理において問題となるテーマについて解説した一冊です。


■ 個人的な視点から

 写真以上に権利関係が複雑な映画の世界。著作権関係の法制はあくまでも複数の権利の間の調整をとるものであって、一部の権利を神聖視した結果、誰も幸せにならない、という事態は避けたいものです。


■ どんな人にオススメ?

・映像の世界の権利の仕組みを知りたい人。


2013年8月 7日 (水)

写真著作権

■ 書籍情報

写真著作権   【写真著作権】(#2195)

  公益社団法人 日本写真家協会著作権委員会
  価格: ¥2310 (税込)
  太田出版(2012/4/24)

 本書は、「写真著作権の基本的考え方、クライアントとの契約に際しての注意事項、写真家自身が著作権を守るために気をつけておくことなど、写真を撮る人間が押さえておくべき知識を集約」したものです。
 第1章「写真著作権概論」では、写真の著作権が、19996年の著作権法の改正で、「保護期間が公表後起算から、映画を除く他の著作物と同様、原則として死語起算の取り扱いとなった」ことについて、「これでやっと写真が一人前の著作物となった」と述べています。
 第2章「Q&Aに学ぶ写真著作権」では、「職業写真家に単に日当を支払ったというだけでは、当該著作物は、職務著作とは」言えないとして、「雇い主の当該業務において著作物が発生し雇い主の名で発表されることが想定される場合に、そこに雇用その他の関係でその業務に従事している者の作成した著作物は、職務著作として雇い主が著作者になるという規定」だと述べています。
 そして、広告写真の著作権について、
(1)広告実務上は、「法的に問題ないか」よりも「トラブルにならないか」が優先される。
(2)広告制作への関与者が多く、権利関係が曖昧になりやすい。
(3)広告には著作権以外の様々な権利が複合的に関わっている。
の3点をポイントとして挙げています。
 また、お祭りの写真の肖像権について、「見物人を含めた大勢の人々については、肖像権を放棄している、あるいは肖像を撮影され、公表されても仕方がない、と思っているでしょうし」、「普通のやり方で撮った写真であれば、問題はなく、新聞雑誌等での掲載やネットに掲載してもいいでしょう」とした上で、特にクローズアップされるなど、「社会生活上受忍の限度を超える」と判断されるような場合には「訴えられれば敗訴」すると述べています。
 本書は、撮影した写真を公表したいという人には必読の一冊です。


■ 個人的な視点から

 写真の著作権については、著作権など考えないかのようなずさんな取り扱いがされることもある一方で、羹に懲りて膾を吹くかのように過剰に気を使う人もいて難しいものです。


■ どんな人にオススメ?

・写真の仕事をしたい人。


2013年1月 7日 (月)

Free Culture

■ 書籍情報

Free Culture   【Free Culture】(#2171)

  ローレンス・レッシグ, 山形 浩生, 守岡 桜
  価格: ¥2940 (税込)
  翔泳社(2004/7/23)

 本書は、「各種の著作権強化や知的財産権保護手段がもたらす実際の害を、しつこく描き出し続け」、本書の前半では、あらゆる創作や発明に必要な「過去の成果が、ますます利用しづらくなり、参照することもできなくなりつつある。クリエータが圧迫され、イノベータが弾圧され、一般市民の遵法精神まで破壊される世界だ」と主張し、本書の後半では、その具体的な手法として、「著作権延長法を違憲とする訴訟と、その敗訴に関する分析」、そして、「著作権既製を弱めるための新しい案」を提案しています。
 「はじめに」では、「フローのものとコントロールされたものとの大雑把な仕分けは、今や消えた。それを消すお膳立てをしたのがインターネットで、それを推進したのが大メディアで、いまや法がそれを実現した」と述べています。
 第1部「『海賊行為』」では、「今日、われわれは『海賊行為』に対する別の『戦争』のただ中にいる」として、「法の役割はますます創造性の保護ではなくなり、ますます特定産業を競争から保護することになってしまっている。まさにデジタル技術が凄まじい商業・非商業的創造性を解放できるようになったとき、法はこの創造性に、正気とは思えないほどのややこしい漠然とした規則で負担をかけ、異様に厳しい罰則で脅しをかける」と述べています。
 第1章「クリエータ」では、バスター・キートンの『キートンの蒸気船(蒸気船ビル・ジュニア)』が、『蒸気船ビル』という唄に霊感を受けて作成され、それをそのまんま漫画でパロディ化したのがディズニーの『蒸気船ウィリー』だとして、「この『拝借』はディズニーにとっても業界にとっても、ちっとも珍しいものじゃない。ディズニーはいつも当時の主流の長編映画を真似てばかりいた」と述べています。
 第4章「『海賊たち』」では、「もし『海賊行為』というのが他人の創造的な財産からの価値を、創造者の許可なしに使うということなら――現在それはますますこういうふうに定義されるようになっている――今日著作権に影響を受けている産業は一つ残らず、何らかの海賊行為の産物であり、その利益を被っている」にもかかわらず、「それがこの世代で変わろうとしている」と述べています。
 第10章「『財産』」では、「法の変化と市場の集中、技術変化の影響を足し合わせると、それらはまとめて凄まじい結論を生み出す:歴史上、文化の発展をこれほど少数の人々がここまでコントロールする法的権利を持っていたことは未だかつてないのだ」と述べています。
 第12章「害」では、「アメリカにおけるフェアユースは、想像する権利を守るのに弁護士を雇う権利があるというだけの話だ。そして法律家たちが忘れたくてたまらないことだが、フェアユースのような権利を守るアメリカのシステムは驚くほどお粗末だ」と述べています。
 第13章「エルドレッド」では、「現在の政府制度の腐敗の中心」にあるものとして、「議員が収賄をしている」という意味ではなく、「議会の行動によって利益を受ける人々が、資金を集めてそれを議会に渡すことで、議会の行動を促すような制度になっているということだ」と述べています。
 また、「人間がこれまで生み出した創造的な作品のうち、今でも商業価値を持つものはごくわずかだ」とした上で、「そのわずか一部でさえ、創造的な作品の商業的寿命はきわめて短い」と述べ、「期間延長のもたらす害の中心はここにある:今のテクノロジーでアレキサンドリアの図書館を再構築することもできるのに、法がその邪魔をするのだ」と述べています。
 そして、1999年1月にワシントンDC地区連邦裁判所に訴訟を起こし、著作権延長法が違憲であるとして、
(1)現行期間の延長は憲法の、「有限期間」との要件に反し、
(2)さらなる20年間延長は米国憲法修正第1項に反する
の2点を申し立てたとしています。
 第14章「エルドレッドII」では、『ニューヨークタイムズ』紙に掲載された著者の論説記事として、「作品刊行後50年経ったら、著作権保持者は作品を登録して少額の料金を支払うようにしよう。払ったら、著作権の最長期間に渡り便益が得られる。払わなければ、その著作はパブリックドメインに入る」という内容を解説しています。
 また、「車と同じく、創造的財産の場合にも、誰が作者でその権利が何かを認証する簡単な方法がなければ、それを安心して売買できない。手続きがなければ単純な取引はありえない。代わりに出てくるのは複雑で高価な弁護士付き取引だ」と述べています。
 「結論」では、「政府の役割が『バランスを追求する』ことであるべきだというのがバカげているというのであれば、わたしはバカの側に分類して欲しい」とした上で、「政府高官が真実をしゃべると期待するのは頭がおかしいのかもしれない。政府の政策が、強力な利益団体のお手盛り以上の何かだと信じるのは頭がおかしいのかもしれない」が、「それが頭がおかしいなら、キチガイをもっと増やさなきゃいけない。それもすぐに」と述べています。
 本書は、創造や発明に欠かせない過去の成果への自由なアクセスの重要性を教えてくれる一冊です。

■ 個人的な視点から

 いまや著作権の用心棒か守り神のようになっているディズニーも、もともとは既存の文化からの「パクリ」の組み合わせでできている、というのは何と皮肉なことでしょうか。時代が進んで、「パクリ」をしなくても作品が作れるようになったのか、「パクリ」の方法が巧妙になったのかはわかりません。


■ どんな人にオススメ?

・文化を守るためには著作権を絶対的に守られるべきだと思う人。


2012年12月27日 (木)

著作権を確立した人々―福沢諭吉先生、水野錬太郎博士、プラーゲ博士…

■ 書籍情報

著作権を確立した人々―福沢諭吉先生、水野錬太郎博士、プラーゲ博士…   【著作権を確立した人々―福沢諭吉先生、水野錬太郎博士、プラーゲ博士…】(#2169)

  大家 重夫
  価格: ¥2310 (税込)
  成文堂(2004/04)

 本書は、文部省で著作権行政に長く携わった著者が、著作権、著作権の歴史に関係するエピソード、挿話を集めたものです。
 第1章「著作権紹介者・実践者としての福澤諭吉」では、「福澤の著書訳書は、売れ行きがよく、ベストセラーであるが偽版、海賊版が多く出た」とした上で、近江の膳所藩の藩校師範だった黒田行次郎により、ふりかなを付けたり傍注を付された「西洋事情」が京都府の許可を得て出版されたことについて、福澤が黒田に不正出版であると抗議した顛末について述べられています。
 また、「学問のすゝめ」の出版許可を文部省准刻課が出したことについて、内務省が異議を唱え、「こういう大事なことは、文部省に任しておいては大変だ」ということで、准刻課と衛生課の二課を内務省へ移管することになったと述べています。そして、「内務省への出版事務移管は、政府の一部が、福澤をどう見ていたかを知る上でも興味深い」として、明治の要人は『西洋事情』などの福澤の著作を読んでおり、政府要人に知人も多かったが、「政府の役人にならなかった福澤に対して、政府の一部は、福澤の議論に警戒を怠っていなかった」と述べています。
 第2章「旧著作権法を立案した水野錬太郎」では、「著作権」の用語は水野錬太郎の造語だと広く信じられていたが、「『著作権』の語が初めて出てくるのは、明治17年5月16日付け西郷従道農相務卿から井上馨外務卿あて文書と判明した。その役人は、原文を読み、当てたのであるが、今となっては、その人の名前はわからない」と述べています。
 第4章「日本の文化界に衝撃を与えたプラーゲ博士」では、「昭和3年のベルヌ条約ローマ会議で、日本も音楽の著作権をヨーロッパ諸国と同様に、『完全に』保護することになり、プラーゲ博士は、どういう縁からか、ヨーロッパの著作権団体から依頼され、昭和6年、高校のドイツ語教師業と並行して、著作権の管理業をはじめたのである」と述べ、「プラーゲ博士の告訴により、演奏家、歌手や劇場主、文化人達が、警視庁へ呼び出され、事情を聞かれた」ことから、「わが国の文化界は、狼狽し、一種の恐慌状態、パニック状態に陥った」として、「それまで、懸命に海の向こうの楽曲を演奏し、鑑賞し、また、懸命に外国出版物を翻訳し(相当無断翻訳があったと言われているが)、翻訳劇を上演し、それが文化に貢献と褒められこそすれ、問題になるとは殆どの人々が夢にも思っていなかった」と述べています。
 そして、当時の著作権担当部局である内務省警保局図書課は、対策として、
(1)NHKで音楽を放送する場合に、レコード再生時に作詞作曲・レコード会社の出所を言えば著作権使用料を払う必要をなしとする著作権法改正を行った。
(2)プラーゲ博士の行なっていた著作権管理業を許可制にする「著作権ニ関スル仲介業務ニ関スル法律」を昭和14年に制定し、大日本音楽著作権協会、大日本著作権保護同盟にのみ営業許可を与え、プラーゲ博士の申請を不許可とした。
の措置を取ったと述べ、「JASRACと呼ばれる日本音楽著作権協会は、このように、プラーゲ旋風を契機に結成された団体である」と述べています。
 著者は、「いまの日本には著作権尊重の思想が定着していると思うのだが、そうだとしたら、その7割方は、70年前、昭和初期のプラーゲ博士が強力な著作権管理活動をした賜物だからと考える」としています。
 本書は、著作権の歴史を人物に焦点を当てて語った一冊です。


■ 個人的な視点から

 維新期の偉人として知られている福沢諭吉を、明治政府が警戒の目で見ていたというのは新鮮でした。今では「カスラック」とか一部からボロクソに言われているJASRACもプラーゲ旋風に対する日本の防衛策に端を発していると思うと面白いです。


■ どんな人にオススメ?

・日本の著作権のルーツを知りたい人。


2012年12月26日 (水)

音楽ビジネス著作権入門―はじめて学ぶ人にもわかる権利の仕組み

■ 書籍情報

音楽ビジネス著作権入門―はじめて学ぶ人にもわかる権利の仕組み   【音楽ビジネス著作権入門―はじめて学ぶ人にもわかる権利の仕組み】(#2168)

  佐藤 雅人
  価格: ¥2520 (税込)
  ダイヤモンド社(2008/9/27)

 本書は、「音楽ビジネスに関わる人、あるいはビジネスで音楽を利用する人、これからそういう方面に進みたい人、著作権に興味のある人、そんな人たちに読んでもらうことを想定」したものです。
 第1章「音楽ビジネスの基本は、三者の権利」では、「実演家の権利の中で最も重要なもの」として録音権を挙げた上で、「録音権にかぎらず、著作権は創作や実演などが行われた時点で自然発生」する「無方式主義」について解説しています。
 また、著作権法に、「裁定による著作物の利用」が規定されていることについて、「著作物の利用許諾において、著作権者の意思よりも公益を優先する必要がある場合には、文化庁長官による強制許諾が認められて」いるとして、一度CDとして発売した楽曲について、3年が経過すると、別のアーティストの歌唱でCDが発売されることを拒否できなくなると述べています。
 第3章「原盤の契約で変わるビジネス構造」では、「原盤権」という言葉について、「著作権法にはない業界用語」としながらも、「レコード製作者としてレコードを制作する権利」だと説明しています。
 第4章「音楽の利用に係る権利と許諾」では、「ビートルズの演奏による音源がTV-CMに利用されたこと」は、許諾されたことがないとした上で、「ビートルズ音源以外の既製の音源から許諾を得たり、TV-CMように新しく音源を製作したりしている」と述べています。
 また、「二次的著作物の創作としての編曲の意義」として、
(1)すでに公表されている曲をもとにして
(2)その表現上の本質的な特徴は生かし
(3)たとえば原曲の旋律の変更などにより
(4)原曲にはない新しい世界を表現しながらも
(5)原曲本来の世界を感じさせる
のような別の曲を創作する行為を編曲とすると述べています。
 本書は、音楽ビジネスに基本的に必要な著作権の知識をまとめた一冊です。


■ 個人的な視点から

 ビートルズの音源がCMに許諾されたことがない、という話は初耳でした。ビートルズ以外にも、音源にお金を払いたくない、ということで、往年の名曲を当時の音っぽい雰囲気で新たに録音することもあるみたいです。有名なところでは、ソフトバンクのCMに使われたオリビア・ニュートンジョンの「ザナドゥ」とか。


■ どんな人にオススメ?

・ヒット曲の舞台裏を覗いてみたい人。


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