2016年1月15日 (金)

なぜ人類のIQは上がり続けているのか? --人種、性別、老化と知能指数

■ 書籍情報

なぜ人類のIQは上がり続けているのか? --人種、性別、老化と知能指数   【なぜ人類のIQは上がり続けているのか? --人種、性別、老化と知能指数】(#2508)

  ジェームズ・R・フリン (著), 水田賢政 (翻訳)
  価格: ¥2,700 (税込)
  太田出版(2015/5/28)

 本書は、「知能指数(IQ)のスコアが、過去100年にわたって上昇を続けている」という「フリン効果」と呼ばれる現象について、「私たちは、経済発展にともなって増加する諸問題をはじめ、今日の複雑な世界に対処する知的能力を進化させてきた」として、「時代や場所が人の知性にどんな影響を与えているのかを解き明かして」いくものです。
 第2章「知能指数と知能」では、「20世紀のあいだに人の知能は高まってきたか」という問いについては議論の余地があるとした上で、
(1)IQの上昇パターンを調べ
(2)その歴史的・社会的な意味を考え、
(3)そこから生まれる知能についての新たなアプローチを示し、
(4)IQの上昇傾向を理解することは、IQ上昇を知能の上昇か否かに分けるよりも重要だと強く訴えたい。
としています。
 そして、知能検査の下位検査の中には、「ある下位検査の成績をもとに、ほかの下位検査で好成績をあげそうな人をどれだけ正確に予測できるか」を表す数値である「g負荷量」の高いものもあれば低いものもあるとしています。
 また、「あくまでも私の予想だが、人々が『科学的見方』を身につけるなどして(これについては後述する)、社会が発展すると、分類――〈類似〉下位検査で測定できる――の能力は高まっても、日常の語彙力や一般的な知識量はあまり変わらないということなのかもしれない」と述べています。
 さらに、「IQの著しい上昇は、私達が祖先よりも知能が高いということなのか?」という問いに対して、「祖先よりも多様な認知的課題を負わされる時代に私たちは生きており、そうした諸々の問題に対処できるように、新たな認知能力や脳の領域を進化させてきたのか」という意味ならそうだ、と述べています。
 第3章「途上国」では、「ほとんどの途上国のIQは現在の標準にもとづいて計算した1900年当時のアメリカの平均よりも高い」と述べています。
 第4章「死刑、記憶喪失、政治」では、「アメリカの最高裁判所は、知能検査でIQ70(人口の下位2.27%)以下の人の死刑を免除している」ことについて、「知能検査を受けるだけで、人を天才とか、正常とか、知的障碍に分類できると考えるのは以ての外だ。分類するなら標準化された検査を使う。これが鉄則だ。そして誤った結果にならないように定期的に標準化作業をする」と述べています。
 第5章「若さと老い」では、「1972から2006年にかけて、アメリカ成人の表現語彙力は8.00ポイント上がったのに対し、理解語彙力は2.25ポイントしか上がっていない」と述べています。
 そして、「環境と生理というふたつの原因は両立する。高齢になって訓練が減ることとメンテナンスが減ることの両方が影響するのかもしれない。ただ、環境説のほうが理論上は証明しやすい」と述べた上で、「老化は脳に重大な影響をおよぼす。ニューロンが柔軟性を失い、その修復と発達を促すドーパミンの効果が下がる。くわえて、ニューロン間の情報通信システムの効率も落ちる」と述べています。
 第8章「進化と謎」では、「高等教育の普及と、複雑な認知能力を要する仕事が増えたことで、1950年以降、アメリカ成人の日常的な語彙力は劇的に上がってきた」が、「〈単語〉下位検査の傾向をWISCとWAISで比べると、成人の表現語彙力の伸びは児童に比べて標準偏差の0.90倍弱大きい」として、「大人は子供を育てて社会に適応させていくのだから、本当なら子供の表現語彙力も大人と同じだけ上がっていかなければおかしい」と指摘しています。
 また、「gを認知能力全般の指標ととらえることは、弊害が大きい」として、
(1)gを利用するにしても、社会的な考え方を忘れてしまってはならない。
(2)時代による認知能力の変化の歴史を理解する上で、gはまったくあてにならない。
の2点をあげています。
 本書は、知能指数と人類をめぐる進化の歴史をたどった一冊です。


■ 個人的な視点から

 IQというと何か絶対的な指標か何かのようにとらえられがちですが、あくまでも社会の要請で検査している一側面でしかないわけですよね。


■ どんな人にオススメ?

・知能指数が高いと思っている人。


2015年6月13日 (土)

月の錯視: なぜ大きく見えるのか

■ 書籍情報

月の錯視: なぜ大きく見えるのか   【月の錯視: なぜ大きく見えるのか】(#2428)

  ヘレン ロス, コーネリス プラグ (著), 東山 篤規 (翻訳)
  価格: ¥3,996 (税込)
  勁草書房(2014/8/31)

 本書は、「地平線の近くにある月が大きく見え、空高くのぼった月が小さく見える現象」である「月の錯視」について、「複数の要因が色々な程度で貢献する」として、「さまざまな成分――そのうちもっとも重要なものが月と観察者の間に介在する知性の視覚――の相対的貢献を定量化すること」を目的としたものです。
 第1章「天体錯視」では、「水平方向の月が大きく見えることは、ふつうは月の錯視と呼ばれる。これは20世紀に一般化された呼称である。それは、ときには地平線錯視と呼ばれてきたが、これは、明らかに適切でない。よく似た錯視が太陽についても観察され、それは順当に太陽の錯視と呼ばれる」と述べています。
 そして、「月の錯視の広範な文献は、何世紀にもわたって、いくつもの言語にわたって散在している。これは歴史的に興味深い特異な例である」とした上で「このような歴史的に不正確なものが、この本によって正されることをわれわれは願っている」と述べています。
 また、「地平線上にある太陽や月の見かけの拡大は、約2倍、ときにはそれ以上に推定されることが多い」としつつ、「太陽と月が2倍以上に推定されるのに対して、星のあいだの距離の推定が、それよりも小さいのはなぜだろうか」として、「天球上の同時に見えるに距離の比較は、かなり単純な知覚的課題であるが、水平方向にある太陽や月の拡大の推定は、記憶を伴うので、もっと複雑である」と述べています。
 第2章「月と太陽の実際の大きさ」では、「太陽と月はともに、地球から見ると約0.5度の角度的大きさをもつ。一年のあいだに地球から月まで距離は変化し、月の角度的大きさは11%まで変動する」と述べています。
 第3章「知覚された大きさ」では、「大きさ―距離の普遍性の評価はむずかしい」理由として、「ほとんどの研究者が、知覚された大きさという一つの測度しか採らず、しかも、それが角度的大きさと直線的大きさのどちらなのかを明確にしてこなかったからである」と述べ、「直線的大きさと角度的大きさの両方の判断が得られたとき、この仮説の伝統的な形式は、厳格な幾何学的な方法では成り立たない」と述べています。
 そして、「知覚された大きさに関数古典的な2仮説は、生得論者と経験論者のあいだの論争とよばれてきたものにほぼ相当する。つまり、生得論者は角度的大きさの仮説をとり、経験論者は直線的大きさの仮説をとる」として、「生得論者の説明は、データ駆動あるいはボトムアップの要因を強調する」のに対し、「経験論者の説明は、概念駆動あるいはトップダウンの要因を強調する」と述べています。
 第4章「月の錯視の測定」では、「月の錯視の初期の測定は、しばしば知覚された直線的大きさが測定されると研究者が主張したにもかかわらず、月の知覚された角度的大きさを、観察者の近くにある視標の角度的大きさに照合させることからなっていた。この測定では、たいてい、上った月には小さな角度的拡大しか得られないが、水平方向の月の相対的な角度的拡大は3倍以上になる」と述べています。
 第5章「大気の屈折」では、「大気の屈折は、これまでのところ、説明としてきわめて将来性があるわけではないことがわかったが、いくつか別の側面は言及に値する」として、「太陽という円盤の不規則なゆがみ」に関して、「このゆがみは、太陽が上ったり沈んだりするときに、太陽の光線が通過することになる、温度差のある階層化された空気の層によって生じる」と述べています。
 第6章「空気遠近」では、「空気遠近、すなわち大気を通して対象を観察したとき、その輝度対比と色対比が減少することを大勢の初期の著者たちが書き留めている」とした上で、「深い霧は天体錯視に寄与し得ない。なぜなら霧によって、太陽や月の絶対的輝度が減少するために、小さく見えるからである」と述べています。
 第9章「近くにありながら遠い」では、「知覚された距離に及ぼす経験の効果にもとづいた月の錯視の説明は、立証するのが難しい。それには、水平面あるいは垂直面において近い距離や遠い距離を習慣的に経験してきた、異なる被験者群による大きさと距離の判断を比較する必要があるだろう。そのような群を見つけることは難しい。というのは、ほとんどの人びとは、頭上と足元にある対象が、地平線の近くにある対象よりも近接している環境で暮らしているからである」と述べています。
 第13章「結論と謎」では、「本書の過程において、われわれは月の錯視についておおくの理論を論評し、おおくの観察と実験を記述してきた。単一の理論が浮かび上がって勝利をえることにはならなかったが、いくつかの説明は除外された」として、月の錯視の理論について、
(1)網膜像の大きさが、外的物理的理由によって変化する。
(2)網膜像の大きさが、生理光学に結びついた理由によって、目の内部において変化する。
(3)知覚的な大きさが、脳の中の尺度を構成する機構によって変化する。
の3つに分類し、それぞれ否定しています。
 そして、「月の錯視は、天文学、光学、物理学、心理学、哲学といった科学の広大なスペクトルを跨ぐいくつかの知覚現象のひとつである。その説明は、科学的説明の歴史とくに知覚心理学の歴史を例証しているが、その歴史を詳細にたどっているわけではない。なぜなら、錯視は『素人』によって再発見あるいは再説明され続けてきたからである」と述べています。
 著者は、「月の錯視の大きさを測定すると、水平方向の月の拡大は、上った月と比較して、典型的には約50%、ときにはそれ以上になる。それはいくつかの要因の総計として説明できる。その中でもっとも重要なものは、視覚的地勢あるいは全体的な視覚的光景に広がる相対的大きさの効果である」と述べています。
 本書は、「月の錯視」を題材として知覚心理学の歴史をたどった一冊です。


■ 個人的な視点から

 月は昔から人間にとって身近な天体だったわけですが、太陽と違いじっくり観察することが出来るだけに想像力も働いたのではないかと思います。


■ どんな人にオススメ?

・満月に見入ってしまう人。


2015年6月 6日 (土)

野蛮な進化心理学―殺人とセックスが解き明かす人間行動の謎

■ 書籍情報

野蛮な進化心理学―殺人とセックスが解き明かす人間行動の謎   【野蛮な進化心理学―殺人とセックスが解き明かす人間行動の謎】(#2421)

  ダグラス・ケンリック (著), 山形浩生, 森本正史 (翻訳)
  価格: ¥2,592 (税込)
  白揚社(2014/7/18)

 本書は、「人間のいろいろな行動、特に性差の背後には、進化に裏打ちされた、生殖と子育てを有利にするという利己的遺伝子の戦略が働いている」と主張しているものです。
 はじめに「あなたとわたしとダーウィンと、おまけにドクター・スース」では、「本書では、進化生物学(進化心理学)と認知科学(認知心理学)の最新の成果を紹介して」、「私たち人には共通の本性がある」ことを示すとした上で、これらと複雑系理論(力学系理論)とを組み合わせれば、「人類の一員であることの意味について、全く新しい理解が得られることだろう」と述べています。
 そして、本書は、「私たちが抱く一番大きな問題」である、「人生の意味とは何かという疑問」について論じたものであり、鍵となる要素として、
(1)単純で利己的なルール
(2)単純なルールだからといって私たちが単純だということにはならない
(3)単純だからといって不合理だということにはならない
(4)利己的なルールだからといって利己的な人間が生まれるわけではない
(5)単純なルールは社会の複雑性へと展開する
の5点を挙げています。
 第3章「殺人妄想」では、「地位に関する動機も、ロマンスに関する動機も、男性を直接的な攻撃に駆り立てる。だが男性は、暴力そのものが女性からセクシーに見えるわけではないことを知っているようだ。したがって、交配相手を求める男性は、女性の前では自分を抑えようとするが、見物人が男ばかりだと、とくに攻撃性を誇示しようとする」と述べています。
 第4章「偏見はなぜ生まれるのか?」では、「外集団均質化」という心理バイアスについて、「私たちの大多数は他集団のメンバーの識別よりも、自分が所属する集団のメンバーの識別にずっと長けている」と述べた上で、「進化心理学が遺伝子決定主義だという批判については、明らかに間違っている」として、「進化の過程で得られた心理的メカニズムは、環境の様々な変化に対応するように自然選択によってデザインされたもので、したがって進化心理学は、本質的に適応機構のスイッチをオン・オフするさまざまな環境要因を見つけ出すものだ」と述べています。
 第5章「心はぬりえ帳」では、「年齢の好みにように見えるものも、突き詰めれば年齢そのものが問題になっているわけではない」として、「女性は子供に身体的な資源を注ぎ込むため、男性は生殖能力と健康に結びつく特徴を求める。一方、男性は子供に間接的に資源を与えるので、女性はそれらの資源獲得能力に結びつく特徴を求める。そして、男性の資源獲得能力と女性の生殖能力は年齢と関係はしているが、年齢そのものが原動力なのではない」と述べています。
 そして、オーストラリア原住民であるティウィ族について、若い男はすべて年上の寡婦と結婚し、若い女性はすべて年老いた家長たちが独占する社会であり、家長たちの独占を侵害しようとした若い男性は、村の中心部に立たされ、命中するまで槍を投げつけられるというものであると述べています。
 第6章「ひとつの身体、いくつもの心」では、「もしかしたら、脳の中にはしっかりと統一された単一の自己が存在している、と考えることさえ間違いなのかもしれない」として、「むしろ、人の頭の中には緩やかに結びついた複数の下位自己(サブセルフ)があって、そのそれぞれが、神経のハードウェアとソフトウェアの独自の組み合わせによってコントロールされている、と想像したほうが理にかなっているようだ」と述べています。
 第7章「マズローと新しいピラミッド」では、「マズローのピラミッドの一番の問題は、人間の一生において繁殖が持つ中心的な重要性を彼が理解していなかった点にあるように思える」として、著者たちが作り上げたピラミッドとして、
・子育て
・配偶者の維持
・配偶者の獲得
・地位・承認
・提携
・自己防衛
・差し迫った生理的欲求
の7段階を挙げ、これらのピラミッドの重要な違いとして、
(1)頂点という聖域から「自己実現」が追放されている。
(2)ピラミッドの上部が、繁殖に関連する3つの新しい動機で占められている。
(3)ある動機を他の動機の上に積み上げる代わりに、互いを重ね合わせたこと。
の3点を挙げています。
 そして、「交配という動機は、人間の性質に見られる多くのポジティブな要素――音楽や詩をつくったり、慈善活動に参加したり、次の世代のために世界をよくすること――の背後にある究極の原動力だ」と述べています。
 第8章「記憶はどうやってつくられるのか」では、「両親との関係や学業については、男性も女性も、したこと(実際にしたが、しなければよかったと思っていること)よりも、何もしなかったこと(するべきだったのに、しなかったこと)のほうを2倍も後悔していた」が、恋愛関係については、「女性は男性に比べて、したこと(ママの警告を無視して、自分勝手なろくでなしと関係をもったなど)について後悔する傾向があったのに対し、男性の後悔の大半は、行動を起こさなかったこと(麗しき乙女ともっと親密な関係を持たなかったなど)に向けられていた」と述べています。
 第9章「クジャクとポルシェとパブロ・ピカソ」では、「収入が結婚相手としての望ましさに影響を与えるのは、ほとんどの場合、貧困層から中流下層にかけての範囲」だとして、「男性は中流所得層に入ってしまえば、結婚相手として富裕層の男性とほぼ同等の魅力を持つようになり、しかも富裕層の人々よりも、夜には家に帰って育児の手伝いをする可能性が高い」と述べています。
 第10章「信仰の心理学」では、「アメリカの宗教右派とリベラル左派の争いの多くは、高尚な哲学的理念の相違ではなく、高貴さからは程遠いもっと単純なことに端を発しているのではないか」として、「2つの陣営は根本的に違う交配戦略を展開しているのであり、彼らが互いに反発しあうのは、ある交配戦略を選ぶことは、他の戦略を取る人々を積極的に妨害することにつながるからだ」と述べた上で、「結婚前のセックスを罪悪と見る規範は、人々を早婚へと向かわせる。また中絶と避妊を罪悪とすることで、子作りを促される」として、「これらによって宗教右派に属する一般的な人物像が、リベラル左派のそれに比べ学歴が低い理由の説明ができる」とする一方、典型的なリベラル左派は、「少なくとも大学を卒業するまでは結婚や出産をせず」、「長期間にわたってお預けをくらい、性的衝動に抗い続けるのはなかなかきつい」ため、「彼らは、婚前交渉を禁じる規則を押し付け、避妊のためのあらゆる手段に制限をかけようとする宗教右派を嫌うようになる」と述べています。
 第11章「経済学と深い合理性」では、「行動経済学者たちは、ヒューリスティックに基づいた意思決定に伴う『だいたいでよし』とするバイアスに注目しているが、私も人間がしばしば間に合わせの意思決定を行うことは否定しない。しかし、台頭しつつある進化論的な考え方はむしろ、ゲルト・ギーゲレンツァーとピーター・トッドらが推し進めてきた」、「人間は単純なヒューリスティックを自分が驚くほど懸命になるような形で利用する」という立場に整合していると述べ、「人間の一見不合理に思える選択の多くが、実は私たちが深い合理性と呼んでいるもののあらわれではないかという議論を発展させてきた」と述べています。
 そして、「生活史」という観点を使うと、「『合理性』に対する理解を、目先の個人的な報酬から、遺伝子というずっと長期的な視点へと向けられる」として、「深い合理性の論理に基づけば、交配や自己防衛といった生物がもつ基本的な動機は、行動経済学が説明する『時間割引』や『確立割引』といった従来のバイアスをすべて劇的に変えてしまうことになる」上に、「こうした基本動機は、贅沢品と必需品に対する人々の見方も変え、その変わり方は男女によって非常に異なることがわかっている」と述べています。
 著者は、「進化心理学と行動心理学の統合は、経済合理性に対する全く新しい考え方へと私たちを導くものだ」として、行動経済学者たちが、「予想どおりに不合理」と指摘していることはおそらく正しいだろうが、「人間のバイアスは、もっと深いところを見れば、機能面で関連した非常に重要な動機の影響を反映したものなのだ。さらに、人々が単純な意味での『利己的』な選択ができないのは、もっと深いところにある合理性の強い影響を受けているからだ。どうやら私たちが行う選択の多くは、すぐ目の前にある個人的な報酬を最大化するのではなく、長期的に見た遺伝的な成功を最大化しようとしているようなのだ」と述べています。
 本書は、一見不合理に見える人間がもつ「深い合理性」の由来を追った一冊です。


■ 個人的な視点から

 暴力とセックスと進化論という組み合わせの本は昔からいくつも出ていてそれなりに面白いものではありますが、取り扱う分野が幅広いせいか紹介する学説のバランスがやや悪いものになりがちであったり、また若干論理が飛躍しがちしがちな印象を受けてしまいます。まあ、読み物とする分には面白いですが。


■ どんな人にオススメ?

・人間が行動する理由を知りたい人。


2015年4月30日 (木)

脳がつくる3D世界:立体視のなぞとしくみ

■ 書籍情報

脳がつくる3D世界:立体視のなぞとしくみ   【脳がつくる3D世界:立体視のなぞとしくみ】(#2384)

  藤田 一郎
  価格: ¥1,728 (税込)
  化学同人(2015/2/20)

 本書は、「普段の生活で目の前の世界が立体に見えることには、とてつもない不思議と深遠な科学的問題がひそんでいる」として、「人を含めてさまざまな動物たちは、自分の体や目や脳がもつ制約の中で、タクミナ手段を使って、周りの物体や獲物までの距離を図り、また物体の立体構造を把握している」仕組みを解説しているものです。
 第1章「一つの目、二つの目、脳」では、「二つの目で物を見る能力(両眼視)の中で、両目を使うことで世界が立体的に見える機能」である「両眼立体視」について、「右目で見る像と左目で見る像の間のずれの量とずれの方向は、見ているものがどんな奥行きにあるかを知る手がかりになる。このずれは、『両眼視差』と呼ばれ、両眼立体視のメカニズムを考える上でもっとも大事な概念である」と述べています。
 そして、「両眼立体視において起きているできごとの本質は、突き詰めれば、左右の目の間での像のずれという『物理量』が検出され、それが奥行き感・立体感という『知覚』へと変換されることである」と述べています。
 第2章「片目だってなかなかやる」では、「左右網膜での像に基づいて脳が算出する両眼視差とは別に、片目の網膜に写っている像の中に、情景の奥行き感をつくりだすための視覚手がかりがあることを意味している。私たちの脳はそれを利用しているのだ。この能力は、『単眼立体視』と呼ばれ、片目の網膜像に内在する奥行き視覚情報は、『単眼奥行き手がかり』と呼ばれる」と述べています。
 そして、「観察者の水平移動によって生じる網膜像の水平方向のずれは『運動視差』と呼ばれ、両眼立体視の時と同じように、単に物体に奥行き順序を知らせるだけでなく、どのくらいの奥行きがあるかに関する定量的な情報を与える」と述べています。
 第3章「二つの目で見る」では、「二つの目で見る世界は片目で見る世界よりも明るく感じられる」として、「心理学的に測定を行うと、20%も明るく見えていることが判明する。さらに、二つの目で見た時のほうが視力も上昇する」と述べています。
 また、「両目が見えれば必ず両眼立体視ができるかというとそうではなく、多くの条件をクリアしていなくてはならない。大事な前提は、左右の目が同じ方向を向き、一点を注視することが可能なことである」と述べています。
 第5章「立体世界を見る脳のしくみ」では、「視神経繊維のほとんどは、間脳の一部である『外側膝状体(LGN)』に到達する。外側膝状体は脳の左右に1つずつある。一つの眼球の網膜内であっても、その一によって視神経繊維の送り先は異なっており、右目の耳側半分の視神経繊維は右側の外側膝状体に向かい、右目の鼻側半分の視神経繊維は、左側の視索に入りそのまま左側の外側膝状体に到達する」として、「視神経交叉において視神経繊維の半分は交叉するが、半分は交叉しない」と述べています。
 そして、「両眼立体視を可能にしている視覚手がかりが両眼視差であり、V1野ニューロンがその情報を検出していることが判明したので、その活動が両眼立体視を直接に支えていると考えるのは自然な予想である」が、「両眼を使うことで奥行きが見えるという心のできごとは、V1野のさらに先の処理を行っている数々の視覚連合野の神経活動が支えている。一つの領野が、両眼立体視のすべての側面を担うのではなく、異なる領野が異なる側面に関わる」と述べています。
 本書は、私たちがあたりまえに使っている両目で立体を見る能力の仕組みを解説している一冊です。


■ 個人的な視点から

 立体的に物を見ることができるということが、かなりすごいことだということがわかります。


■ どんな人にオススメ?

・物事を立体的に見てみたい人。


2015年4月26日 (日)

ぼくと数字のふしぎな世界

■ 書籍情報

ぼくと数字のふしぎな世界   【ぼくと数字のふしぎな世界】(#2380)

  ダニエル・タメット (著), 古屋 美登里 (翻訳)
  価格: ¥2,160 (税込)
  講談社(2014/7/25)

 本書は、「自閉症スペクトラムでサヴァン症候群、しかも共感覚があるという、珍しい脳の持ち主」で、『ぼくには数字が風景に見える』の著者の3冊目に当たる、「人生の中にある数学」にまつわる エッセイ集です。
 第1章「家族の価値」では、「文学作品と同じように、数学的な発送は思いやりの輪を広げてくれ、一元的で偏狭な見方を強いる世界から僕たちを解き放ってくれる。きちんと考えられた数は、僕たちをよりよい人間にしてくれるのだ」と述べています。
 第8章「大きい数」では、「大きい数が大好きで、9歳の甥とそれについて話をするのを楽しんでいた」数学者、エドワード・カスナーが、甥に「1の後ろにゼロが100個ある数」に「グーゴル(googol)」と名付けさせ、さらに「もっと大きな数」として、「1の後にゼロを1グーゴル個つけた整数」である「グーゴルプレックス」を考えだしたと述べています。
 第14章「みごとな数、パイ」では、「エンジニアの目から見れば、πは3と4よりかなり厄介な数とはいえ、3と4という自然数の間にある測定値にすぎない」がが、「数学者はそれとは違い、πに対してもっと親密な気持ちを抱いている」と述べています。
 そして、著者が、2004年3月14日に、「πの数字をたくさん暗誦してヨーロッパ新記録を樹立するため」にオックスフォード大学の科学史博物館でのイベントに挑戦したことに関して、「わずかだけれど『数の芸術家』――台本を記憶して話す俳優のように数を記憶して暗誦する人のこと――がいる」として、「その中心となっているのが日本だ。日本語では、数を文章のように言うことができる」と述べています。
 第15章「アインシュタインの方程式」では、数学者の共通の特質として、「アインシュタインで有名になった、この美への偏愛」を挙げ、「ハンガリーの数学者ポール・エルデシュの言葉には大半の数学者が同意するだろう。『数学は美しい。数学が美しくないとしたら、美しいものなどひとつもない』という言葉に」と述べています。
 第17章「本について」では、「ナボコフは新しく小説を書くとき、最後から書くことが多かった。結末から始まりに向かって書いていくのだ」として、「ナボコフのもっとも有名な(そして悪名高い)小説『ロリータ』(訳注・1955年刊)は、縦3インチ横5インチの大量のインデックス・カードに書き連ねた言葉から生まれた。彼は物語の最後の場面を最初に描いている。このカードには、文章の断片だけではなく構想や他の細かな情報も書き留めてあった」と述べています。
 第18章「素数の詩」では、「詩と素数とに深い関係があることを僕はいつも考えているので、多くの人がその関係を意外に思うことが僕にとっては驚きだ。この関係は、ある意味では完璧だ。詩と素数には共通点がある。両方とも、人生のように、予想することも定義することもできず、多様な意味を含んでいる」と述べています。
 第25章「数学の美」では、「この世界には芸術家が必要だ。言葉や絵画、音や数字の中に、彼らの夜がほんの少し形を変えて染み込んでいる。机に向かった数学者は、これまで見えなかったものを垣間見ようとする。彼は暗闇を光に変えようとしているのだ」と述べています。
 本書は、数と人生について考えた一冊です。


■ 個人的な視点から

 数字に色がついて見えるということはありませんが、音楽のコードには色のイメージがついているような気がします。


■ どんな人にオススメ?

・数字に色がついて見える世界を体験したい人。


2015年4月10日 (金)

美味しさの脳科学:においが味わいを決めている

■ 書籍情報

美味しさの脳科学:においが味わいを決めている   【美味しさの脳科学:においが味わいを決めている】(#2364)

  ゴードン・M・シェファード (著), 小松淳子 (翻訳)
  価格: ¥2,646 (税込)
  合同出版(2014/4/30)

 本書は、食物の「風味」自体は、「脳が生み出す創造物」であるとして、「風味の科学的解明を目指す新たな試み」であり、「脳がにおいのイメージを生み出すメカニズムを追い続け」る「ニューロ・ガストロノミー」について説明するものです。
 序文「新しい風味の科学『ニューロ・ガストロノミー』」では、「多くの研究者たちが風味に関する新たな科学的知見を着々と積み上げていながら、互いの分野の成果を殆ど知らずにいる」とした上で、注目した点として、
(1)食べ物や飲み物を噛んだり飲み込んだりしたときに、においが呼気に乗って口の奥から鼻道を遡るから、私たちは風味を感じる。この裏手の経路で運ばれるにおいを「レトロネイザル(後鼻腔)経路のにおい」といい、花から嗅ぐにおいである「オルソネイザル(前鼻腔)経路のにおい」という。
(2)レトロネイザル経路で運ばれるのだから、「風味の主役はにおい」である。
(3)何であれ特定のにおいを嗅ぐと脳活動にある空間パターンが生じる。これらのパターンは「においのパターン」として機能するもので、匂いが違えばイメージも異なる。
(4)感覚器官にある受容体分子や受容細胞の数こそ他のほ乳類にとうてい及ばないかもしれないが、人間の「脳は大きい」ため、小さな脳には手に余る複雑な情報処理を行える。
の4点を挙げ、「今必要なのは、風味解明の起点を脳において、脳が感覚刺激をどのように受け取るかだけでなく、受け取った感覚刺激から『脳がいかにして能動的に風味の感覚を創りだすか』というところまで明らかにすることだ」と述べています。
 第1章「においと風味の研究の革命」では、「においと風味を取るに足りないものとする世間一般の通念は、長きにわたって事実と食い違ってきた」として、「実際には、人間は日常生活の中で匂いと風味に高い価値を見出し、その結果として誕生した経済勢力が人間社会を牽引してきた」と述べています。
 そして、「レトロネイザル経路のにおいは口中で生まれる。体内で生まれる唯一の遠隔性の感覚(味覚や触覚のように知覚対象物と直接接触せずに感知できる感覚)」であり、「同じ口中の他の感覚、主に味覚と触覚の刺激を嫌でも伴う。さらに、食物が口中にあるわけだから、レトロネイザル経路のにおいは咀嚼する時の舌、顎筋、頬の運動とも切り離しては考えられない」ことから、「能動的な感覚」だと述べています。
 第2章「犬と人間の嗅覚を比べる」では、「犬の鼻が主として周囲のにおいを嗅ぎとるのに適しているのに対し、人間のそれはにおいを風味の主要特徴として感じ取るのに何より適している」と述べています。
 そして、「重要なポイントはオルソネイザル嗅覚の退化ではなく、レトロネイザル嗅覚の強化を推し進めた鼻腔と喉の奥との関係にある」と述べ、「人間にとってレトロネイザル嗅覚が重要と考えられる理由」として、
(1)人類の祖先が二足歩行をして行動範囲を広げた結果、主食と、ひいてはレトロネイザル経路で感知するにおいも、多様化していった。
(2)火を手に入れたことで、人間の食物はにおいも味も豊かになった。
(3)発酵食品や発酵飲料が誕生し、食物の多様化がさらに進んだ上に、味、におい、風味が強まった。
の3点を挙げています。
 第3章「口が脳をたぶらかす」では、「口中から放出された分子によるにおいは他の感覚とすっかり溶け合った状態で知覚される」として、「鼻で感知したにおいを口で風味と感じるのは、神経系が持つ『投射性感覚』と呼ばれる特性」であり、「レトロネイザル経路のにおいの場合は、別の部位に投射されるばかりでなく、投射された部位のさまざまな感覚の中に身を潜めてしまう」と述べています。
 そして、「個々の食物にはそれぞれ独特のにおい分子組成があって、それが調理の仕方で変化する。食物そのものに風味があるわけではない。食物は脳が風味を創り出すための原材料なのだ」と述べています。
 第5章「におい分子の受容体」では、「個々の嗅覚受容体が持つ応答スペクトルはかなり広い上に、相互に重複している」とした上で、「色を知覚させる光の波長は一次元で変化するのに対し、におい分子は、先にお話したように、それぞれにあらゆる形で異なる」として、「においの空間のこうした多次元性が、脳内表象に際して特殊な問題の種となる」と述べています。
 第6章「感覚イメージの形成」では、「視細胞の発火強度は隣接する視細胞の活動電位によって左右される。強く発火した細胞はより強く、弱く発火した細胞はより弱く応答する」と述べています。
 そして、「視細胞間の側方抑制的な連絡」が行われるため、「光刺激を受けて強く興奮した境界部の細胞は弱い刺激を受けた細胞に対してより強い抑制作用を示し、弱い刺激を受けた細胞は強く興奮した細胞に対してより弱い抑制作用を及ぼす」と述べ、「このメカニズムを『側方抑制』と呼び、側方抑制が生む作用を、明るい部分と暗い部分の差が境界部で強調されることから、『コントラスト強調』という」としています。
 また、「眼の視細胞群によって形成される脳内イメージは、カメラが低コントラストで捉える画像のような実際の視覚情景に忠実なイメージとは異なる抽象化されたイメージ、それも、視覚情景のエッジ、すなわち輝度が変化する辺縁部が抽象化・強調される一方で、輝度に変化のない視野の残りの部分は抑制された、高コントラストのイメージなのである」と述べています。
 さらに、「この章で考察した原理は、二次元のシート状網膜におけるイメージ表象に始まり、側方抑制、コントラスト強調、中心・周辺拮抗作用、特徴抽出に至るまで、すべてがあらゆる感覚系における脳内イメージ形成に極めて重要な役割を果たす」と述べています。
 第7章「においの空間パターン」では、「においが脳で知覚されるまでの経路は、嗅細胞から出発して、嗅球、嗅皮質、眼窩前頭皮質嗅覚野など、幾つもの脳領域を通過する」とした上で、「嗅球は風味の主要構成要素であるにおいのイメージの形成にきわめて重要な役割を担っている」と述べています。
 第8章「においは顔に似ている」では、「嗅球がにおいのイメージを形成しても、私達はそれを意識しない」理由として、「においのイメージが表彰するのは実際のにおいの世界ではなく、『脳がにおいの世界を表象する仕方』だけだからではないだろうか」と述べています。
 第9章「においのイメージは点描画」では、「嗅球におけるにおいの初期イメージの処理」について、「点描イメージを形成し、局所で処理し、全体的にフォーマットし、記憶に表象し、情動によって強調し、意識的に知覚する」と述べています。
 第10章「イメージの強調」では、「嗅球には2つの処理段階がある」として、
(1)糸球体層で、におい分子を表象するイメージの形成と、イメージ処理の準備としてのSN比改善および側方相互作用がここで行われる。
(2)段落間の連絡役を務める大型の細胞、僧帽細胞と、その小さな相方である房飾細胞は、糸球体内に伸ばした樹状突起の分枝で受容体からの入力を収集して、処理済みのシグナルを長い主樹状突起で第2段階に転送し、さらに長い軸索を介して嗅皮質へと出力する。
の2点を挙げています。
 第11章「嗅皮質への注目」では、「最新の研究で、嗅皮質はヒト脳風味系の要と呼ぶにふさわしい、注目に値する特性を備えていることが明らかになっている」として、「嗅皮質が、におい刺激の特徴抽出段階から知覚されるにおいの質の創出段階へと移行する場所である」と述べ、「嗅球で抽出された臭い刺激のイメージから、嗅皮質は、人間が統合された匂いを知覚するための基盤、『嗅対象』を創り出す」としています。
 そして、嗅皮質の主要な神経細胞である「錐体細胞は言うなれば、大脳皮質の最高経営責任者、CEOだ」として、「このCEO、錐体細胞は、自らの軸索の分枝を介して二通りの行動を取れる」と述べ、
(1)インパルスを送って、社員に発破をかける、つまり、介在ニューロンを興奮させる。
(2)興奮した錐体細胞とその近傍の錐体細胞への興奮性のフィードバックも行う。
の2点を挙げています。
 第12章「嗅覚と風味」では、「嗅対象を、人間にとって意味をなす形で『読み取る』存在」とである「新皮質の出番となる」と述べています。
 そして、嗅皮質が、霊長類と人間の脳の最高中枢とみなされている前頭前野に狙いを定めて出力するため、「嗅覚は他の感覚が持たない特権を幾つか手にしている」として、
(1)前頭前野に直接入力できる。
(2)嗅細胞、僧帽細胞、嗅皮質錐体細胞と、わずか3つのニューロンしか介在しない短経路で前頭前野に到達できる。
(3)嗅覚を知覚する領域が、私達を人間たらしめている脳の心臓部に位置している。
の3点を挙げた上で、「人間の嗅覚路は、受容体の遺伝子数こそ減らしはしたものの、新皮質を頂点とする脳の処理機構によって、『他の動物よりも豊かなにおいと風味の世界をもたらせるようになった』」と述べています。
 また、「味とにおいの多様な組み合わせに眼窩前頭皮質がどう応答するか」について、
(1)眼窩前頭皮質には、におい専用の細胞がある。
(2)大半の細胞は、においの強度の変化には応答しない。
(3)においと味の刺激の両方に応答する細胞がある。これは「感覚融合」と呼ぶことができる。
(4)好ましいにおいと不快なにおいに選択的に応答する細胞がそれぞれ存在する。
(5)この快不快の質自体は、においの報酬価値によって左右される。
の5点を挙げています。
 第13章「味覚と風味」では、「口中の食べ物から立ち上るレトロネイザル経路のにおいが風味の創出に絡むときは、必ず他の感覚と相俟って脳に作用する」として、
(1)嗅覚はオルソネイザル嗅覚とレトロネイザル嗅覚からなる二元性の感覚系であること。
(2)レトロネイザル経路のにおいは決して単独では感知されず、常に口中のほぼすべての感覚と合わさって感じられること。
の2点を挙げています。
 そして、人間の新生児を対象とした実験により、「味覚系は、快い刺激と不快な刺激に対する情動表出を生得的に行う」と述べています。
 第14章「マウス・フィール」では、「唇、口腔、舌にずらりと並んだ感覚受容器は、私たちが口にする食べ物、飲み物の数々の物性、化学特性に対応している。その相互作用によって、私達がマウス・フィールないし口腔感覚と呼ぶ膨大な種類の官能的な質、つまり、食べ物や飲み物の感触、質感、テクスチャーが生まれる」と述べています。
 第15章「視覚と風味」では、「色つきの白ワインを赤ワインと勘違いするような」理由として、
(1)注意の問題
(2)言語の問題
(3)眼窩前頭皮質の嗅覚にかかわる領域は他のさまざまな領域を接続しているが、とりわけ視床との連絡が注目に値する
の3点を挙げています。
 第16章「聴覚と風味」では、「風味の観点から言うと、聴覚系は食べ物、飲み物を摂るときの音を拾うためにデザインされたようなものだ」として、「進化の流れを遡ってみれば、食べ物を噛み切り咀嚼する音は、私達の祖先が野菜の歯ごたえや果物の熟し具合、肉の塊の弾力感を判断するための重要な情報であったに違いない」と述べています。
 第17章「風味を生む筋肉」では、「食物を五感で感知するには、口中で食物を協調的に動かさねばならない」ことは、「人体が行う究極の運動の一つに数えられる」として、
(1)口中で行われる食物の操作は驚くほど多様だ。
(2)舌は食べ物の感覚体験と発語の両方に不可欠だが、舌がにおいの創出と発語に密接に関わっていると言われても、においを表現する言葉がなかなか見つからないことを考えると矛盾しているように思える。
(3)食事な人間社会の要である。
の3点を挙げ、「風味は『能動的』な感覚だ」と述べています。
 第18章「知覚系+行動系=ヒト脳風味系」では、「人間ならではの特徴」として、
(1)人間は、嗅覚受容体の数こそ少ないが、レトロネイザル経路のにおいへの適応は格段に優れている
(2)脳の大きさが桁違いに大きい上に、脳領域の数も、脳領域間の結合も圧倒的に多い
(3)私達には言語がある
の3点を挙げ、「私達の脳の風味系を総合的に見ると、量的に他の動物のそれと異なっているばかりか、質的にも、風味の感覚を生み出し表現できる、新しい能力を備えている」と述べています。
 そして、「感覚統合が起こるのは、同時に提示された2種類以上の刺激に対する一つの能力域の細胞応答が、個々の応答の総和以上のものとなる場合」だとして、この特性を「超相加性(supra-additivity)」と呼んでいます。
 また、「心的イメージは視覚野のような一種類の感覚モダリティーを司る一つの脳領域内に限定されているわけではなく、複数のモダリティーを表彰する幾つもの脳領域に分散している」と述べています。
 第19章「嗜好と渇望」では、「単調な食事を続けた被験者が好物を想像している時には特定の脳領域が賦活したのに、いつもどおりの食事をしていた被験者にはそうした反応が見られなかった」ことの意味として、「すべての領域が薬物渇望によって賦活する脳領域のグループに含まれている」ことから、「自然な報酬と病的な報酬に対する欲求の回路は共通している」と述べています。
 第21章「過食と肥満の原因」では、「ファストフードを食べ過ぎてしまうわけを解明するには、ヒト脳風味系に関する知識が役に立つ」として、
(1)感覚過負荷:ファストフードは風味過剰な分、なかなか満腹中枢が満足しない
(2)ファストフードは多種多様な食物と風味の寄せ集めであること
(3)唇と口腔の皮膚と粘膜にある受容体の長期に渡る過剰刺激
の3点を挙げています。
 第22章「風味の神経経済学」では、「ヒト脳風味系が担っているもっとも重要な究極の役割は、健康によい食物と悪い食物のどちらを食べるべきか、正しい選択を下すことだ。この選択で決定権を握っているのは、近年、ようやく注目されるようになった、脳の意思決定メカニズムである」と述べています。
 第23章「ヒト脳風味系の可塑性」では、「風味系ほど、この可塑性という表現が似つかわしい存在はない」として、
(1)幹細胞からの細胞再生が継続的に行われる領域があること。
(2)それらの細胞の特性と相互作用が経験によって変化する、すなわち経験依存的であること。
の2点を挙げています。
 そして、「学習と記憶の根幹をなす経験依存的な変化、すなわち経験依存的可塑性のメカニズム」について、「発火したニューロンは、シナプス結合している別のニューロンを発火させ、両者の結合が強まると、そのシナプス伝達効率が増強される」と述べ、「長期増強は中枢神経系の各所で認められる」としています。
 第24章「言語とのかかわり」では、「あまたの動物がいる中で、人間だけが風味系を手に入れた理由の一つが言語である」と述べたうえで、「知覚したにおいと風味を言葉で表現するのが実に難しい理由は、『それが脳内で任意の不規則な活動パターン、つまり、本書で言う“においのイメージ”として表象される』からではないか」と述べています。
 第26章「においと風味が人類を進化させた」では、「ヒト風味系は世に認められているよりはるかに大きな役割を人類の進化に担ってきたのではないか」として、その根拠として、
(1)遺伝子の記録
(2)嗅覚と視野の競合
(3)脳の大きさの拡大
(4)食物探索行動への筋骨格系の適応
(5)火の制御と調理法の発達
の5点を挙げています。
 そして、「森の中で暮らすには嗅覚と大きな脳が必要だったのだが、さらに、抜群の視機能も欠かせなかった」として、「鼻を主役と捉えている私達の観点からすれば、こうして、霊長類の行動を制御する新皮質をめぐる嗅覚と視覚の競合が始まった。その競合が霊長類を進化させる推進力の一つになったのである」
 第27章「胎児から老年まで」では、「大半のダイエット論には重要な要素が欠けている。それが風味だ」として、「こうした脳のメカニズムに関する研究が続々と行われるようになって、自分の食するものをコントロールするのが難しい理由の解明が進んでくれればと望むばかりだ」と述べています。
 また、いわゆる老衰(failure to thrive: FTT)治療の要点として、「小児期の食物渇望を復活させて、強いにおいやはっきりとした味、歯ごたえのあるテクスチャー、鮮やかな色彩、快い音楽を駆使して、風味に資する様々な感覚を高めること、そして患者といっしょに食卓を囲んで楽しい会話に花を咲かせること。それが確かな経験則だ」と述べています。
 本書は、ヒトが味を感じる上で不可欠な「風味」の正体を追った一冊です。


■ 個人的な視点から

 風邪で鼻が詰まると味がわからなくなるという人がいますが、自分はそういうことがなかったので、本書を読んでなるほどと思いました。


■ どんな人にオススメ?

・味にこだわりのある人。


2015年4月 8日 (水)

音楽と記憶 認知心理学と情報理論からのアプローチ

■ 書籍情報

音楽と記憶 認知心理学と情報理論からのアプローチ   【音楽と記憶 認知心理学と情報理論からのアプローチ】(#2362)

  ボブ・スナイダー(著), 須藤 貢明, 杵鞭 広美(翻訳)
  価格: ¥ (税込)
  音楽之友社(2003/12)

 本書は、「これまでの音楽理論と、1970年代から心理学界で台頭してきた認知心理学を対応させることを試み、成功させた貴重な著書」であり、「音響刺激の受容に関する心理学的メカニズムと、音楽の聴取の関係を極めて明快に解きほぐす緒を示した音楽心理学の本」です。「これまでの音楽理論は作曲や演奏に関わるものがほとんどでしたが、本書では音楽の認知に関する理論を、科学的パラダイムで展開されている認知心理学や情報理論などと整合させて理論を展開」し、「音楽理論に新しい『地平の存在』を示した、これまでに類を見ない本」です。
 第1章「聴覚的記憶:概観」では、「本書は、記憶と、それがわれわれの世界と音楽経験の知覚に及ぼす作用について示すものである。記憶の体制化と人が物をおぼえる能力の限界が、私たちが音のパターンや時間的な区切りをどのように知覚するかに重大な影響を与える。記憶は、一連の音系列が終了し、次の一連の音系列が始まったことの判断、およびそれぞれの音系列の間の関係の認識に影響を与える。また記憶によって、われわれは一連の音系列を総合的に時系列的に捉えることができるし、次に起こるであろう音を予測することができる」と述べています。
 そして、「記憶の3つの家庭(エコイックメモリー、短期記憶、長期記憶)」が、「音の融合レベル」「メロディとリズムのグルーピング・レベル」「音楽の形式レベル」と呼ぶ「音楽経験の3つの時間的なレベルに関係している」として、「3つの処理過程は、音楽的事象とパターンが起こる3つの基本的な時間尺度を設定する」と述べています。
 第2章「エコイックメモリーと初期処理」では、「エコイックメモリーとは、大量の聴覚情報がごく短い間――通常はおよそ250ミリ秒で、数秒を超えることはないとされる――存在する貯蔵庫である」として、「ここでの情報は、まだそれぞれのカテゴリーに分けられて符号化されておらず、連続的な形で存在すると考えられている」と述べています。
 そして、「エコイックメモリーの機能的特徴は、初期の感覚情報の処理の一側面である。感覚的な印象は短いあいだエコイックメモリーとして存在し、その間に基本的な特徴ごとに符号化され、音と結びつける処理が行われる。近年のいくつかの理論によれば、この段階で、外界とそこにあるものについても、基本的な知覚的表象が形成される」と述べています。
 第3章「グルーピング」では、「グルーピングとは、人間の神経系が、外界の音響的情報を構成単位――要素が関連しあって全体を完全なものとする統一体――に分割するという、自然な傾向のことである」と述べ、「メロディやリズムや形式の体系化にとってのグルーピングは、視覚や空間の体系化にとっての対象物と同じく、境界を持った収束した存在である。初期処理におけるグルーピングの要因は、分割や連続を促進できる――すべての楽音は、先行音との結合を発展させたり、あるいは先行音からその音自身を分かつこともある」と述べています。
 そして、「音響的環境の諸相が十分に変化したとき、境界が創り出される。この境界は、1つのグルーピングの始めと終わりを示し、また知覚の初期過程において検出される最も基本的な種類の特徴的素性を形成する。グルーピングの境界を設定する構造――『クロージャ』と呼ばれることが多い――は、グルーピングを他のグルーピングから切り離し、独立性を持たせる役目をする。クロージャは、完璧なものばかりではない。グルーピングによって、さまざまな程度のクロージャがある」と述べています。
 また、「多くの管弦楽における伝統的なオーケストレーション(楽器構成法)は、基本的に類似性の法則の応用である。互いに関連し、グルーピングしているように聴取されることを目的とした緻密な構造では、同じ楽器を使用するように作曲されている。また、形式な対比は楽器の編成を変えることで示されている」と述べています。
 第4章「短期記憶と作動記録」では、意識を焦点化する部位と短期記憶に入力される情報には、少なくとも2つの側面がある」として、
(1)知覚によるもの
(2)長期記憶によるもの
の2点を挙げ、「新たな知覚情報は、初期の処理過程を経て、長期記憶からの活性化した概念的情報と重ね合わされる」と述べています。
 そして、「短期記憶の容量は限られているため、われわれのコミュニケーションの行動は、完全には連続的ではないが、長さと情報内容がその容量を超えないように調整されたエネルギーの脈動によって実行されている」と述べた上で、「短期記憶の容量は、リハーサルを通して直接的な記憶のなかに維持される項目の数を制限する。リハーサルが行われた項目は、かなり高度な活性化の状態にあり、また、それらの項目とその時間配列は即座に引き出すことができるが、そうした項目のすべてが同時に意識の中に存在することはない」と述べています。
 また、「短期記憶に入った情報はいつまでも持続するということはなく、短期記憶の内容を繰り返して活性を保つリハーサルによって維持されない限り、急速に衰える」と述べ、「リハーサルは、情報を一時的に短期記憶に留めるためだけでなく、その情報をもっと長い間長期記憶に貯蔵するために必要である」としています。
 さらに、「短期記憶は、メロディとリズムのグルーピング・レベル――音楽において、われわれが最も直接的にパターンを認識するレベル――に関連する」として、「このレベルの音は、速すぎないので、個々に捉えることができるし(音の融合レベルで個々の音の振動が捉えられるように)、また、離れすぎていないので、直接的に関連し合い、長期記憶を回想的に活用して音と音の関係を形成できる(形式レベルで各音が行うように)」と述べています。
 第5章「クロージャ」では、「フレーズが規模の大きな音楽進行のパターンに関連しているとき、終わりの境界は、その進行の中で様々な度合いの(停止により近い、あるいはより遠い)集結を設定する。始まりの境界は、先行するものとの差異の程度によって、先行する素材の連続として知覚される場合と、新しいものの始まりとして知覚される場合がある」と述べた上で、「クロージャの最も基本的な形式は、強度の低下であることがわかる。通常、音楽的状況では、緊張はパラメータの高い値に関連し、値が低ければ安らぎに向かう」としています。
 そして、「明瞭なクロージャのパターンを示していない音楽は、非常に思い出しにくいことになる――それぞれの詳細を、体系化した記憶のチャンクの一部としてではなく、単体としておぼえなくてはならないからである。チャンク化の境界がはっきりしないので、パターンをどこで分割し、記憶として保持するのかがわかりにくいのである」と述べています。
 第6章「長期記憶」では、「長期記憶は、反復する刺激が、同時に活性化しているニューロン間の結合の強さが変わるときに形成されると考えられている」と述べた上で、「手がかりによる記憶の引き出し」として、
(1)意識的に記憶を引き出そうとする回想
(2)環境における物事を手がかりとし、連結する他の記憶が自動的に引き出される連想
(3)環境中の事象そのものが自動的に手がかりとして働く再認
の3つのタイプを挙げ、「再任と連想は、常に進行する自然発生的な過程である」と述べています。
 そして、「長期記憶は、音楽経験の3つ目のレベルを形成する」として、「形式レベル」と名づけ、「これは、フレーズより大きいグルーピングやパターンが『音楽形式』の様相を構成するという音楽用語に基づいている」と述べています。
 また、「エピソード記憶は、非常に素早く形成される。時間と場所が、このタイプの記憶が体系化される原則である。これは、少なくとも最初は、エピソード記憶は特定の時間配列、あるいは空間的な配列を持って呼び出されることを意味する。日常の意識的な想起のほとんどがエピソード記憶であり、われわれが『自分たちの記憶』について話すときに指しているのも、この記憶である」と述べた上で、「すべての知識的な記憶の起源は、エピソード記憶にある」と述べています。
 第7章「カテゴリー」では、カテゴリー化について、
(1)特徴をまとめてグループをつくり、それによって対象や事象、特徴を分類する能力
(2)そのうちの一部を等しいとみなし、それらを連合して1つのカテゴリーとし、1つのカテゴリーとしておぼえる能力
と規定した上で、「知覚的カテゴリーの考え方の基本は、何らかの刺激が連続的に与えられてその価に幅があるとき、われわれは、その範囲内での限られた数の離散的なカテゴリーしか知覚しない傾向にあるという考え方である」と述べる一方、「概念的カテゴリーは(長期記憶と関係して)、知覚的カテゴリー化によって設定された知覚的グループを認識し、一般化する処理である」としています。
 また、ニュアンスについて、「音楽的カテゴリーの境界範囲内で起こる変化である」と述べています。
 さらに、「われわれは徐々に、ピッチやリズムといった一般的なカテゴリーのパターンからなる顕在記憶を構築する一方で、それらのカテゴリーのなかの微妙な変化を忘れていく。ただし、この変化は、進行する音楽との情緒的なかかわりに大きく貢献している」と述べています。
 第8章「スキーマ:経験と記憶の枠組み」では、「われわれは、対象や単独の事象をカテゴリー化するだけでなく、物理的状況の全体や楽音の時間配列を一般化し、カテゴリー化する。異なるときに生じた複数の異なる状況に共通の側面があると思われるとき、やがてそうした状況は平均化されて1つの抽象的な記憶の枠組みとなる」と述べています。
 そして、「音楽におけるスキーマは、音の種類と配列についての予測を生成させる――スキーマは記憶の枠組みとして働いて、チャンキングの能力を増大させ、長期記憶のなかに表象を形成するのを助ける」と述べています。
 第11章「メロディ」では、「音程とメロディの進行方向が似ているので、1つの単位とみなされる複数のピッチを持った楽音が、メロディのグルーピングとなる。それらの構成要素のピッチが、ピッチの範囲の中で十分に離れているとき、メロディのグルーピングは分断して、別個の『ストリーム』を形成する。ストリームとは、ピッチの面でも生じる速度の面でも他の音とかけ離れているという理由で他のグルーピングから独立した、ピッチを持つ音が集まったグルーピングである」と述べています。
 そして、「メロディの材料に課せられるすべての制約の中で、調律法は最も変化しにくいものであるらしい。西洋音楽の現在の調律法は、250年以上も前から広い範囲で使用されている」と述べています。
 また、「恩沢の多くは、順次進行とスライドの両方を使用している」として、「スライドは、安定したピッチの間を移動する方法として、あるいは安定したピッチに抑揚を付ける方法として使われることが最も多い」と述べています。
 第12章「リズム」では、「短期記憶の長さは、リズムを定義する上で重要である」理由として、「パターンを形成するためにはリズムの構成する楽音が直接的につながっている必要があると思われるからである」と述べています。
 そして、「アクセントが置かれた音は、リズムのグルーピングやフレーズの形成において、非常に重要である。アクセントは1つの音を他の音から際立たせ、変化を目立たせるので、一般的にクロージャらしさを形成する」と述べ、
(1)現象的アクセント:音がすぐそばの他の音と十分異なることによって、音楽の表面から際立っていると知覚された時に創り出される。
(2)構造的アクセント:リズムのフレーズの重要な地点で知覚される。
(3)拍節的(拍子の)アクセント:音のリズムの流れのなかで、規則的な感覚で現象的アクセントと構造的アクセントが生じたとき、聞き手は表紙と呼ばれる強調、あるいは拍の強さの規則的なパターンを感じ取ることが多い。
の3種類のアクセントを定義しています。
 第13章「形式」では、「高次レベルにおける境界の確立と、より長い時間的尺度に関連する形式レベルの記憶の問題」である、「いかにして記憶のメカニズムが音楽形式を設定するか」について、「たくさんの様々なものが様々な音楽的文脈てパラメータとして機能する」として、
(1)一次的パラメータ:それぞれの値の間の類似性と違いが比較的一定していて、認識可能であるように体系化された音楽的変数。調律法の固定的な比例関係、時間間隔と持続時間の間の固定的な比例関係のように、互いの間に比較的固定した比例関係を持つ。その数は、われわれの神経系と、それが進化して環境中から情報を抽出する方法に限定されるようである。
(2)二次的パラメータ:非常に多くのはっきりと再認可能なカテゴリーへと容易に分類できない楽音の特性。音の大きさやテンポなど。これらのパラメータは「多い」「多くない」「より多く」「より少なく」といった非常に概括的なカテゴリーによってしか再認できない。一次的パラメータのように数は限られておらず、また固定されてもいない。
と述べています。
 そして、「一次的パラメータによるセクションの境界は音程、メロディの輪郭、リズムのパターンの変化など、その時のパターンのタイプの変化を表す」のに対し、「二次的パラメータによるセクションの境界は、全般的な音の大きさ、ピッチ帯域、オーケストレーションの変化など、パラメータの値や帯域における変化である傾向がある」と述べています。
 著者は、「音楽家は、類似性、近接性、連続性など、多数のボトムアップの原理を使用して様々な種類のパターンを際立たせている」として、「これらの原理は、主に初期処理の文脈の中で働き、そのためかなりの程度で生得的な知覚的、認知的メカニズムに助けられている」と述べています。
 本書は、記憶のメカニズムから音楽の仕組みを読み解いた一冊です。


■ 個人的な視点から

 読んだのは音楽之友社から出ていた翻訳版なのですが、アマゾンには原書しか取り扱っていないようです。


■ どんな人にオススメ?

・音楽と記憶の関係に興味がある人。


2015年4月 7日 (火)

ディスレクシア 読み書きのLD 親と専門家のためのガイド

■ 書籍情報

ディスレクシア 読み書きのLD 親と専門家のためのガイド   【ディスレクシア 読み書きのLD 親と専門家のためのガイド】(#2361)

  マーガレット C.スノウリング (著), 宇野 彰, 加藤 醇子, 紅葉 誠一 (翻訳)
  価格: ¥4,536 (税込)
  東京書籍(2008/2/29)

 本書は、「これまで英語圏中心で行われてきたディスレクシアの研究がまとめられている」もので、「発達性ディスレクシアの『教科書』ともいうべき内容が備わって」いるものです。
 第2章「ディスレクシアの定義」では、「特殊な認知パターンによって読みが妨げられているというのが、ディスレクシアの特徴」だとした上で、「読み書き能力の問題だけでディスレクシアととらえるのは間違いだ」として、「特定の発達段階においてどれだけ読みが要求されたか、どのような教育を受けたか、能力をどの程度補償できたかといったことも重要な要因となる」と述べています。
 そして、ディスレクシア研究の主な目的として、
(1)その個人に観察される困難さの様相や、それらの困難さが加齢とともにどのように変化していくかを示すこと。
(2)認知的な基盤を理解すること。
の2点を挙げています。
 第3章「音韻表象仮説」では、「ディスレクシアの人の場合、視覚情報の記憶は通常と変わりないのですが、音声言語に関わるものの場合は記憶量が低下」すると述べています。
 そして、「さまざまな事実はディスレクシアに音韻能力に関して大きな障害があることを示唆して」いるとした上で、「ディスレクシアの中核的音韻障害モデルが特に優れているのは、健常な読みの発達に関する現在の知見にうまく合致するという点」だとしています。
 第4章「読みと綴りの学習」では、「読みを学ぶとは、すでに身についている話し言葉の処理を、書き言葉の処理に統合していくこと」であるが、「読んだことの内容を理解するには、それぞれの文のつながりを把握したり、文脈や一般知識に基づいて意味を推測したりする能力がなくては」ならないため、「読みの学習はそれだけ困難が多く、話し言葉の能力を十分に身につけた児童にとっても大変な作業だ」と述べています。
 第5章「ディスレクシア――書き言葉の障害」では、「中国語のように文字そのものが文字表象になっている言語では、音韻スキルに頼らずに読み書きを覚えることも可能かもしれません」とした上で、「少なくとも英語の場合は、子どもが文字を音声化する能力を発達させる際に、音韻認識が触媒のような作用をしていることは確か」であり、「綴りの能力も同様の影響を受け」ると述べています。
 そして、「ディスレクシア児はおそらく、文字を音声化する能力を発達させる代わりにサイトワードの語彙(視認語彙)を増やすという変則的な方略で読みを学習しているもの」と思われるが、別の解釈として、「音韻的な読みの方略を用いる能力はあるが、非語の異同弁別というこの実験に必要なスピードで行うことはできなかったという見方もできる」と述べています。
 また、「読みに問題がないのに綴りが困難な人々の症例を見ると、読みと綴りが異なる過程のものであること」がわかると述べ、「読みは部分的な手がかりだけでも習得していけるのに対し、綴りは文字体系の正しい知識がなければ上達」しないため、「読みの問題は綴りに比べると、補うことが容易」であり、「読みの障害は意味を頼りに読むといったことで容易に隠れてしまいますが、綴りの方はそうはいきません」としています。
 第7章「音韻障害の重さの程度による仮説」では、「発達性音韻性ディスレクシアの特徴を備えた児童の個別症例研究は、集団の研究から推測された結論を裏付ける結果」となったとして、「音韻障害が子どもの音読スキルの発達を阻害するだけでなく、単語認識の発達のスピードも遅らせる」と述べ、「こうした子どもは文字表象を発達させられず、そのため正確な綴りを身につけることができません。代替方略として、音声的な綴り方略を発達させることも考えられますが、これについても出力表象レベルの問題に短期記憶の障害が加わることで、ある程度制約が出てきます」と述べています。
 第8章「ディスレクシアの生物学的基盤」では、「顕微鏡的分析の結果、ディスレクシアの人の脳に、ニューロンの異所発生(エクトピア)や形成異常(一種の瘢痕)など、いくつかの異常が見つかりました。これらの皮質の病変は、神経回路のパターンの異型をうかがわせるものでした。またこれに関連して側頭平面が対称性を示すという異常も見つかりました。通常は左側頭平面が右側頭平面よりも大きいのですが、ディスレクシアの人では右側が普通より大きく、左側と同じ大きさ(対照的)になっていた」と述べ、「それには遺伝が関わっていると考えられます」と述べています。
 また、「音韻処理障害から来る読みにおける行動的所見は、ディスレクシアの人と読み健常者との脳の左半球における機能の違いによって生まれている可能性が出て」きているとして、「特に、ことばの知覚と発話をつないでいる領域に変異があるよう」だとして、「この部分が、読みの発達において極めて重要な音韻表象をつかさどっているのかもしれません」と述べています。
 さらに、「現在の知見から考えて、ディスレクシアに特徴的な認知上の困難が、脳の左半球がつかさどる音声言語処理のメカニズムにおける遺伝的な違いから生じているということは、ほぼ間違いない」と述べています。
 第11章「習熟と欠陥――補償の役割」では、「文字の音声化スキルの獲得の中核は音韻ではありますが、それが読みの発達に与える影響は他の言語的スキルによって補える」として、「さらに、子どもの読みスキルは学習環境などの外的要因の影響も受けます。中でも母親の教育水準は読みの獲得を予測する重要な環境要因の1つで、子育ての中での教育、また家庭内の言語環境を通じて、子どもたちに影響を与える可能性があります」と述べています。
 そして、「ディスレクシアを考えるときに忘れてならないのは、この障害が読みに直接影響を与えているわけではなく、話し言葉の基盤の発達に影響を与え、それが読みの学習に響いてくるという点」だとして、「同じ理由から、綴りと音の対応が明快な言語とそうでない言語ではディスレクシアの表れ方に差がありますし、ロゴ文字を用いて読むことを学習している子どもでは、読みの障害がほとんど表面化しない場合も考えられます。また、ディスレクシアは話し言葉獲得の早期のスキルに係る障害ですから、早期に介入を行えば、読み書き障害と学業不振の悪循環を未然に食い止められる可能性もあります」と述べています。
 第12章「まとめならびに今後の見通し」では、「今後10年間の動きで大いに期待されるのが、神経科学的な理論の発展」だとして、「これによって、ディスレクシアの分野は大きな成果がもたらされる」とともに、「ディスレクシアの質的側面や発達に関する明確のコンピュータモデルも登場してくる」と述べた上で、「脳のメカニズムに関する神経科学的研究が進めば、脳の他の領域との(神経線維の)連絡が個人によってどのように異なるのかについても、さらに詳しい知見が得られ」、「ディスレクシアの障害だけでなく、数多く報告されている優れた能力についても解明されていく」と述べています。
 本書は、ディスレクシアについて網羅的に最新の知見をカバーした一冊です。

■ 個人的な視点から

 日本でディスレクシアについてまとまった知識を得るのならば読んでみていいと思いますが366ページあってちょっと厚いです。


■ どんな人にオススメ?

・ディスレクシアについてまじめに学びたい人。


2015年4月 6日 (月)

読み書き障害(ディスレクシア)のすべて―頭はいいのに、本が読めない

■ 書籍情報

読み書き障害(ディスレクシア)のすべて―頭はいいのに、本が読めない   【読み書き障害(ディスレクシア)のすべて―頭はいいのに、本が読めない】(#2360)

  サリー シェイウィッツ (著), 藤田 あきよ (翻訳), 加藤 醇子
  価格: ¥ (税込)
  PHP研究所(2006/04)

 本書は、「ディスレクシアという何台を解決するための、科学、許育、社会的施策に関するあらゆる情報」を集めたものです。
 第1章「正しい知識が力を生む」では、「どんな子供でも知らず知らずのうちに読む能力を身につけられるわけではない。まじめないい子であっても、とびきり利発な子であっても、読めないという困難を抱えている少年少女はかなりの数にのぼっている」と述べ、「ディスレクシアに悩む人達は、たとえどんなに聡明で意欲的であっても、読む際に大変な困難を経験する。その原因は、言語を理解したり表現したりする機能をつかさどる脳組織の、まさに中枢部に根ざしている」と述べています。
 第4章「頭がいいのに酔えない人がいるのはなぜ?」では、「ディスレクシアは言語系統の障害であって、知能が低いわけでも視覚的な障害があるわけでもない」として、「ディスレクシアは言語系統全般に渡る障害ではなく、ある特定な構成要素の中の局部的障害、つまり、音韻モジュールphonologic module) の障害であることがわかった」と述べています。
 第5章「誰でも話せるようになるが、誰もが読めるわけではない」では、「読むという行為もまた音韻コードに依存して入るものの、文字を読むためのカギはそれほど明白ではないし、読み手側の努力による部分が大きいのだ」と述べています。
 そして、「読むというプロセスは2つの主要な要素から成る」として、
(1)デコーディング:単語の認識につながるもの
(2)理解:意味に関係する
の2点を挙げ、「言語系統の一番基礎にある音韻モジュールに支障があると、デコーディングすることができない。同時に、語彙、文法、話法、推論など、理解するために必要な、より高レベルの認知能力には問題がない」と述べています。
 第6章「脳の機能を見る」では、「画像を用いた研究によって、ディスレクシアの人の脳の活性化パターンは、読める人と比較すると明確に異なっていることが明らかになった」として、「字の読める人が読むときは、脳の後部と一定のレベルではあるが前頭部が活性化される。対照的にディスレクシアの人では、脳の後部における神経回路の活性化が不活発という障害が見られる。結論としていえば、彼らは単語の分析を文字を音に変換することが最初から困難であり、成長しても、読む速度は遅いままで、すらすらと読めるようにはなれないのである」と述べた上で、「ディスレクシアの子供の場合、脳の活性化は年齢とともに変化する。画像研究により、年長のディスレクシアの子どもは、前頭部の活性化を示し、青年期を迎えることまでには、ブローカ野において過剰な活性化のパターンを示すようになる」として、「読むことが困難である彼らは、脳の前部にある系統を使って、脳後部における神経系統の障害を代償しているようだ」と述べています。
 第10章「学齢前のディスレクシアを診断する」では、「読む能力(正確さ、流暢さ、そして読解力)、綴り、そして言語のテストは、子供のディスレクシアを見抜くのに非常に重要だ。小さな子供には、認知能力のテストも有効だろう。読めないことで目立たなくなりがちな、その子の優れた点を見つけることができるからだ」と述べています。
 第12章「青年期のディスレクシア」では、「ディスレクシアは完治する障害ではない。しかし、ディスレクシアと診断された何百人もの若い男女がその高い知性、並外れた努力、強い意志によって、エールやブラウン、スタンフォードといった一流の大学やプロフェッショナル・スクールに入り、優秀な成績で卒業している」と述べています。
 第15章「上手に読める子に育てる」では、「上手に読むためには流暢さが重要な役割を果たしていること、そして流暢さは簡単かつ効率的に習得できること、この2つを親や教師たちが理解していたら、流暢さが軽視されるわけがない」と述べ、「流暢さを身につけることはデコーディングと理解との間に橋をかけることだ」としています。
 第20章「ディスレクシアの人への支援策――成功への架け橋」では、「支援の中でも一番重要なのは、充分な時間を与えること」だとして、「ディスレクシアの人は目の前にある単語をデコーディングしようとするとき、語彙力や論理的思考といった高度な機能に頼って、補助的な神経回路を使うしかない」と述べています。
 そして、「ディスレクシアの人に向いている仕事」について、「皮肉なことに彼らは、高い思考能力を必要としない、スキルレベルの低い初歩的な仕事や単純な事務作業には向いていない」が、「読むのが遅いからといって理解力がないわけではない」と述べています。
 エピローグでは、「今日、ディスレクシアの子供はだれでも自由にその才能を伸ばし、夢を実現することができるようになった。成功することもわかっている。ディスレクシアは克服できる」と述べています。
 本書は、ディスレクシアに科学的に迫った一冊です。


■ 個人的な視点から

 海外では、有名俳優もディスレクシアであることを告白するなどよく知られていますが、日本では言葉の構造の違いのせいかよく知られていないようです。


■ どんな人にオススメ?

・人が文字を読める仕組みを知りたい人。


2015年4月 1日 (水)

マジックにだまされるのはなぜか 「注意」の認知心理学

■ 書籍情報

マジックにだまされるのはなぜか 「注意」の認知心理学   【マジックにだまされるのはなぜか 「注意」の認知心理学】(#2355)

  熊田 孝恒
  価格: ¥1,836 (税込)
  化学同人(2012/1/24)

 本書は、「マジックを見る観客を題材にして、人間の認知機能をひも解いてみよう」とするものです。著者は、「認知心理学は人間の認知機能を全般的に研究対象とするが、本書では、そのなかでも『注意』の機能を中心に取り上げる」としています。
 第1章「マジックと人間の認知機能」では、マジックについて、「マジシャンが手技や道具に付随した仕掛けを用い、言語的あるいは非言語的な手がかりによって観客の注意を誘導し、物理学的、生物学的に不可能な事象があたかも生じたように観客に知覚させ、また、それによって観客を驚かせたり楽しませたりする芸能の一種」と定義した上で、「マジックのなかでは、人間の注意を誘導すること、とくに注意を向けてほしくない部分から注意をそらす『ミスディレクション(misdirection)』と呼ばれる技術が最も重要といわれている」と述べています。
 また、我が国のマジシャンの世界において、「サーストンの三原則」と語り継がれているものがあるとして、そのうち、「マジックを演じる前に、現象を説明してはならない」、「同じマジックを二度繰り返して見せてはならない」とする2点について述べたうえで、「マジックは、マジシャンが観客の心の状態を想像し誘導すること、また、観客もマジシャンの行動や言動からその意図を想像し、場合によってはそれに引っかからないようにする、という高度な駆け引きを必要とするエンターテインメントであるといえる」としています。
 第2章「注意が働かないということ――脳損傷にともなう注意の障害」では、「脳の右半球の頭頂葉から側頭葉(後頭部の上の方から耳の上あたり)を脳梗塞などで損傷すると、『半側空間無視』と呼ばれる症状が起きる」と述べ、「半側空間無視患者が単に視野の左側を認識できないのではなく、いま意識している対象の左側に注意を向けることができない」としています。
 そして、カーナスらの仮説として、「進化的に言語を操るようになる前の種の脳(たとえば、サルの脳)では、脳の左右両方の半球の側頭葉にその反対側の視野に注意を向ける役割を担うメカニズムが存在していたと考える。しかし、人間が、進化の過程で言語の機能を獲得すると、脳の左側の側頭葉が言語の理解の役割をもつにいたった。そのために、その部位にあった注意の機能が失われてしまったのだろう」とする仮説を紹介した上で、「左視野の半側空間無視は決して珍しくはないのに対して、右視野の半側空間無視はきわめてまれである」ことについて、「右半球の頭頂葉あるいは側頭葉にある注意中枢は、左右の両方の視野を受け持っているのに対して、左半球のどこかにある注意中枢は、右視野だけを受け持っている」とする説を取り上げています。
 第3章「注意のスポットライト」えは、「反射的な注意の移動」と「持続的な注意の移動」の「二種類の注意システムの連携と役割分担によって、円滑な行動が可能となる」として、「見落としや不注意は、普段は正常に強調して働いている二つの注意システムのバランスが、何らかの原因で崩れた場合に発生する」と述べています。
 また、人間の注意をスポットライトとみなした場合、「注意のスポットライトの範囲を広げるほど、注意の効果自体は弱くなっていく」として、この特性を「ズームレンズ」に例えています。
 また、ポズナーらの研究として、「ある位置に注意のスポットライトを移動するという過程が、少なくともある位置に注意を向ける過程と、今注意を向けている位置から注意を引き離す過程から成り立っていること、また、この二つの過程が脳の異なる部位で担われていることがわかった」と述べています。
 第4章「ミスディレクションと注意のコントロール」では、「観客の注意を特定の場所に誘導するテクニック」を、マジックの世界では「ミスディレクション(誤誘導)」と呼んでいることについて、マジックの解説書では、観客が注意を向けるものとして、
(1)動くもの
(2)マジシャンが見るもの
(3)マジシャンが重要に取り扱うもの
の3点が取り上げられているとして、「観客に注意をされたくなかったら、これらの逆のことをすべし」と書かれていると述べています。
 第5章「視覚探索と注意のスポットライト」では、
(1)特徴探索:一つの視覚的特徴で異なっているような目標の探索
(2)結合探索:2つ以上の特徴が組み合わさった探索
の2つの探索方法について解説しています。
 また、視覚探索に影響する重要な要因として、「直前に見つけた目標と同じ目標は見つけやすい」とする「ポップアウトプライミング」や、「同じ配置が繰り返し表示されると、その配置が目標の位置の手がかりになって、その位置に注意が容易に誘導されるようになる」とする「文脈手がかり効果」などについて解説しています。
 第6章「不注意のメカニズム」では、「視野内をできるだけ効率的にくまなく探索をしようとすれば、以前に一度注意を向けたが何も異常がなかった位置よりも、最近は一度も注意を向けていない位置にまず注意を向けるほうがより有効的に異常事態を発見できる可能性が高い」ため、「直前に注意を向けた位置を抑制することで注意を向けにくくするメカニズム」である「復帰の抑制」について解説しています。
 また、「注意を必要とする課題の遂行をするには、脳内の『資源』を利用しなくてはならないが、資源が余っていると、その使い道に困って関係ない対象にも配られてしまい、結果的に関係ない対象まで処理されることになる」と述べた上で、「注意の資源」という考え方を提案したカーネマンについて、「同時処理の限界を説明するための概念」として「処理資源」という考え方を用いたとし、さらに、「個人の処理資源の総量はその時の覚醒の程度によって増減する」というポイントに言及しています。
 第7章「変化に対する気づき――シーンの認識と注意、意識」では、サッカードが起きているあいだだけ眼の情報処理の感度が急激に減少する」現象である「サッカード抑制」について、「眼が動いているあいだの光景が見えないように、眼からの情報をシャットアウトする機能が脳には備わっている」とした上で、「人が目を動かしているあいだに起きたことは認識されないという現象は、情報の知覚の安定性をもたらすには非常に有効なシステム」だが、少なくともわれわれが見ている情景の3割程度は、直接認識した情報ではなく、脳の中でつくりだされた穴埋めの情報」であると述べています。
 また、高齢者の注意機能の実験に関して、駅構内の案内表示の見にくさやわかりにくさに対する不満が多くあるが、実際には、高齢者は「駅のなかの案内表示をほとんど見ない」ことが明らかになり、おそらく、「徐々に注意機能が低下したために、情報がたくさんあるような環境から、目標とする情報を探そうとしても上手くいかない経験が重なった」ため、「あまり得意ではない視覚探索によって複雑なシーンから案内表示を探すのではなく、わかりやすい実物を探し、また、過去の知識を活用して目標に到達するような方略を採用した」と述べています。
 第8章「マジシャンは観客の行動をどうコントロールするか」では、「マジックは人間の心理や行動のメカニズムを巧みに利用し、観客を楽しませるエンターテインメントとして、心理学や脳科学よりもはるかに長い歴史を持つ。その間に、マジシャンが経験的に蓄積してきた技術には、人間の心理や認知・行動に関する経験的な知識がふんだんに盛り込まれている」と述べています。
 本書は、マジシャンが用いている技術に隠されている心理学的な裏付けを追った一冊です。


■ 個人的な視点から

 「マジック」というと手先の器用さという印象を持ちますが、大事なのは注意をコントロールする会話やしぐさであることがわかります。


■ どんな人にオススメ?

・手品に騙されたくない人。


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